L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
第三巻の試訳のつづき。
第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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第5節・論評(Commentary)② 。
(5-2)人間の思考は、プラトンによる知識と意見の区別、epsteme とdoxa の区別のおかげで恣意的判断には従わない知識の領域を拡大することができ、科学を生み、発展させた。
もちろん、この区別は、思考、感情および欲求が高次の「統合」へと融合する、究極的で全包括的な統合体を形成する余地を残したわけではなかった。
このような願望の達成は、全体主義的神話が思考に対する優位を要求するときにのみ可能になる。-この全体主義的神話とは、より深い直観にもとづくために、自己正当化する必要がなく、精神的および知的な生活の全体に対する司令権を獲得する、そのような神話だ。
むろん、これが可能になるためには、全ての論理的で経験的な規準は無意味なものだと宣告されなければならない。そしてこれこそが、マルクーゼがしようとしたことだ。
彼が追求したのは、技術的進歩のごとき瑣末な目的を軽蔑し、一つでかつ全包括的であることに利点のある、統合された知識の一体だ。
しかし、思考が論理による外部的強制を免れることが許容されるときにのみ、このような知識は可能になり得る。
さらに、人間各人の「本質的」直観は他者のそれと異なる可能性があるので、社会の精神的な統合は、論理や事実以外の別のものにもとづいて構築されなければならない。
そこにあるのは、思考の規準以外による、かつ社会的抑圧の形態をとる何らかの強制であるに違いない。
言い換えると、マルクーゼのシステムが依存するのは、警察による僭政による、論理の僭政の置き換えだ。
このことは、全ての歴史上の経験が確証している。すなわち、特定の世界観を社会全体に受容させるには一つの方法しか存在しない。一方では、その思考の作動規準が知られて承認されているかぎりで、理性的思考の権威を押しつけるには多様な方法があるのだけれども。
エロスとロゴスのマルクーゼ的統合は、力(force)によって確立されて統治される全体主義国家の形態でのみ実現することができる。
彼が擁護する自由は、非自由(non-freedom)だ。
かりに「真の」自由が選択の自由を意味しておらず特定の対象を選択することにあるのだとすれば、かりに言論の自由が人々が好むことを語ることができることを意味しておらず正しい(right)ことを語らなければならないことを意味するとすれば、そして、マルクーゼと彼の支持者たちだけに人々が何を選択し、何を語る必要があるのかを決定する権利があるとすれば、「自由」は単直に、その正常な意味とは反対のものになってしまう。
このような意味で、ここでの「自由な」社会は、よりよく知る者の指令を受ける以外には、人々から目的や思想を選択する自由を剥奪する社会だ。//
(6)つぎのことは、とくに記しておかなければならない。マルクーゼの要求はソヴィエト全体主義的共産主義がかつて行った以上に、理論と実践のいずれについても、はるかに大きいものだった。
スターリニズムの最悪の時代ですら、一般的な教条化と知識のイデオロギーへの隷属があったにもかかわらず、ある領域はそれ自体で中立的で論理的かつ経験的な法則にのみ従う、ということが承認されていた。数学、物理学および若干の期間を除いて技術について、このことが言えた。
マルクーゼは、これに対して、規範的本質は全ての領域を支配しなければならない、新しい「ものだ」ということ以外には我々は何も知らない新しい技術と新しい質的な科学が存在となければならない、と強く主張する。
これら新しいものは、経験と「数学化」という偏見から自由でなければならない-つまり、数学、物理その他の科学に関する知識が何らなくとも獲得できる-。そして、我々の現在の知識を絶対的に超越しなければならない。//
(7)マルクーゼが渇望し、産業社会が破壊したと彼が想像しているこのような統合は、かつて実際には存在しなかった。例えば、Malinowski の著作で我々が知るように原始社会ですら、技術的秩序と神話を明瞭に区別していた。
魔術と神話は決して、技術や理性的努力に取って代わらなかった。これらは、人類が技術的統制を及ぼさない領域で補充するだけだった。
マルクーゼについて先駆者だと唯一言えるのは、中世の神性主義者(theocrat)であり、科学を排除し、科学から自立性を剥奪しようとした初期の宗教改革者(Reformation)だ、ということだ。//
(8)もちろん、科学も技術も、目的と価値の階層制に関するいかなる基礎も提示しない。
手段の反対物である目的それ自体は、科学的方法によって特定することができない。
科学はただ、我々が目標を達成する方法とそれを達成したときに、またはそれに一定の行動が続いたときに、生起するだろうものは何かを語ることができるだけだ。
ここにある空隙を、「本質的」直観で埋めることはできない。//
(9)マルクーゼは、科学と技術に対する侮蔑意識を、物質的福祉に関する全ての問題は解決されて必需用品は豊富に溢れているがゆえに、より高次の価値を追求しなければならないという信念と結合する。すなわち、量を増加させることは、たんに資本主義の利益に貢献するだけなのだ。資本主義は、虚偽の需要を増やし、虚偽の意識を注入することによって生き延びる。
マルクーゼはこの点で、典型的に、食糧、衣服、電気等々を得ることに何も困難を感じる必要がなかった者たちの心性(mentality)をもつ者だ。これらの生活必需品は既製のものとして調達可能だったのだから。
このことは、物質的および経済的生産とは何の関係もなかった者たちの間で、彼の哲学が人気があったことの説明になる。
快適な中産階級出身の学生たちは、生産に関する技術や組織が精神的地平に入ってこないルンペン・プロレタリアートと共通性がある。豊富であれ不足であれ、消費用品は彼らにとって、奪うためにあるのだ。
技術と組織に対する敵意は、活動に関する標準的規則に従う、または積極的努力、知的な紀律および事実や論理の規準に対する謙虚な態度が必要な、そのような全ての形態の知識に対する嫌悪感と一体のものだった。
骨の折れる仕事を回避し、我々の現在の文明を超越しかつ知識と感情とを統合するグローバル革命に関するスローガンを唱えるのは、はるかに簡単なことだ。//
(10)マルクーゼはもちろん、個人がそれぞれ履行する機能にすぎなくなってしまう生活に対して功利主義的に接近していることから帰結しているのだが、現代の技術と精神的疲弊が破壊的効果をもつことについて、日常的に絶えず繰り返して、不満を述べていた。
これはしかし、彼に独自の考えではなく、永遠に自明のことだ。
しかしながら、重要なのは、技術の破壊的効果に対しては、技術自体をさらに発展させることよってのみ闘うことができる、ということだ。
人類は、技術的進歩の好ましくない帰結を稀少化するために、「不毛な」論理や社会的計画化の方法の助けを借りて、科学的に仕事を履行しなければならない。
この目的のためには、生活をより耐えられるものにし、社会改革に関する理性的考察をより容易にする、そのような価値観を確立し、促進しなければならない。社会改革とは、寛容、民主主義および言論の自由の価値の実現だ。
マルクーゼの基本綱領は、これとは正反対だ。すなわち、科学と技術を従属させる全体主義的神話の名のもとに民主主義的諸制度と寛容を破壊すること(実際に適用することだけではなく、理論的側面でも)。ここでの科学と技術の従属とは、経験論と実証主義に反対する哲学者たちの排他的財産である、漠然とした「本質的」直観への隷従化のことだ。//
(11)マルクスの標語である「社会主義か野蛮か」を「社会主義=野蛮」という範型に置き換える、ということほど明確な例証はほとんどあり得ないだろう。
そしてまた、我々の時代に、マルクーゼほどに完璧に反啓蒙主義(obscurantism)のイデオロギストだと称するに値する哲学者は、おそらく存在しない。
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第5節、終わり。マルクーゼに関する第11章も終わり。
=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
第三巻の試訳のつづき。
第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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第5節・論評(Commentary)② 。
(5-2)人間の思考は、プラトンによる知識と意見の区別、epsteme とdoxa の区別のおかげで恣意的判断には従わない知識の領域を拡大することができ、科学を生み、発展させた。
もちろん、この区別は、思考、感情および欲求が高次の「統合」へと融合する、究極的で全包括的な統合体を形成する余地を残したわけではなかった。
このような願望の達成は、全体主義的神話が思考に対する優位を要求するときにのみ可能になる。-この全体主義的神話とは、より深い直観にもとづくために、自己正当化する必要がなく、精神的および知的な生活の全体に対する司令権を獲得する、そのような神話だ。
むろん、これが可能になるためには、全ての論理的で経験的な規準は無意味なものだと宣告されなければならない。そしてこれこそが、マルクーゼがしようとしたことだ。
彼が追求したのは、技術的進歩のごとき瑣末な目的を軽蔑し、一つでかつ全包括的であることに利点のある、統合された知識の一体だ。
しかし、思考が論理による外部的強制を免れることが許容されるときにのみ、このような知識は可能になり得る。
さらに、人間各人の「本質的」直観は他者のそれと異なる可能性があるので、社会の精神的な統合は、論理や事実以外の別のものにもとづいて構築されなければならない。
そこにあるのは、思考の規準以外による、かつ社会的抑圧の形態をとる何らかの強制であるに違いない。
言い換えると、マルクーゼのシステムが依存するのは、警察による僭政による、論理の僭政の置き換えだ。
このことは、全ての歴史上の経験が確証している。すなわち、特定の世界観を社会全体に受容させるには一つの方法しか存在しない。一方では、その思考の作動規準が知られて承認されているかぎりで、理性的思考の権威を押しつけるには多様な方法があるのだけれども。
エロスとロゴスのマルクーゼ的統合は、力(force)によって確立されて統治される全体主義国家の形態でのみ実現することができる。
彼が擁護する自由は、非自由(non-freedom)だ。
かりに「真の」自由が選択の自由を意味しておらず特定の対象を選択することにあるのだとすれば、かりに言論の自由が人々が好むことを語ることができることを意味しておらず正しい(right)ことを語らなければならないことを意味するとすれば、そして、マルクーゼと彼の支持者たちだけに人々が何を選択し、何を語る必要があるのかを決定する権利があるとすれば、「自由」は単直に、その正常な意味とは反対のものになってしまう。
このような意味で、ここでの「自由な」社会は、よりよく知る者の指令を受ける以外には、人々から目的や思想を選択する自由を剥奪する社会だ。//
(6)つぎのことは、とくに記しておかなければならない。マルクーゼの要求はソヴィエト全体主義的共産主義がかつて行った以上に、理論と実践のいずれについても、はるかに大きいものだった。
スターリニズムの最悪の時代ですら、一般的な教条化と知識のイデオロギーへの隷属があったにもかかわらず、ある領域はそれ自体で中立的で論理的かつ経験的な法則にのみ従う、ということが承認されていた。数学、物理学および若干の期間を除いて技術について、このことが言えた。
マルクーゼは、これに対して、規範的本質は全ての領域を支配しなければならない、新しい「ものだ」ということ以外には我々は何も知らない新しい技術と新しい質的な科学が存在となければならない、と強く主張する。
これら新しいものは、経験と「数学化」という偏見から自由でなければならない-つまり、数学、物理その他の科学に関する知識が何らなくとも獲得できる-。そして、我々の現在の知識を絶対的に超越しなければならない。//
(7)マルクーゼが渇望し、産業社会が破壊したと彼が想像しているこのような統合は、かつて実際には存在しなかった。例えば、Malinowski の著作で我々が知るように原始社会ですら、技術的秩序と神話を明瞭に区別していた。
魔術と神話は決して、技術や理性的努力に取って代わらなかった。これらは、人類が技術的統制を及ぼさない領域で補充するだけだった。
マルクーゼについて先駆者だと唯一言えるのは、中世の神性主義者(theocrat)であり、科学を排除し、科学から自立性を剥奪しようとした初期の宗教改革者(Reformation)だ、ということだ。//
(8)もちろん、科学も技術も、目的と価値の階層制に関するいかなる基礎も提示しない。
手段の反対物である目的それ自体は、科学的方法によって特定することができない。
科学はただ、我々が目標を達成する方法とそれを達成したときに、またはそれに一定の行動が続いたときに、生起するだろうものは何かを語ることができるだけだ。
ここにある空隙を、「本質的」直観で埋めることはできない。//
(9)マルクーゼは、科学と技術に対する侮蔑意識を、物質的福祉に関する全ての問題は解決されて必需用品は豊富に溢れているがゆえに、より高次の価値を追求しなければならないという信念と結合する。すなわち、量を増加させることは、たんに資本主義の利益に貢献するだけなのだ。資本主義は、虚偽の需要を増やし、虚偽の意識を注入することによって生き延びる。
マルクーゼはこの点で、典型的に、食糧、衣服、電気等々を得ることに何も困難を感じる必要がなかった者たちの心性(mentality)をもつ者だ。これらの生活必需品は既製のものとして調達可能だったのだから。
このことは、物質的および経済的生産とは何の関係もなかった者たちの間で、彼の哲学が人気があったことの説明になる。
快適な中産階級出身の学生たちは、生産に関する技術や組織が精神的地平に入ってこないルンペン・プロレタリアートと共通性がある。豊富であれ不足であれ、消費用品は彼らにとって、奪うためにあるのだ。
技術と組織に対する敵意は、活動に関する標準的規則に従う、または積極的努力、知的な紀律および事実や論理の規準に対する謙虚な態度が必要な、そのような全ての形態の知識に対する嫌悪感と一体のものだった。
骨の折れる仕事を回避し、我々の現在の文明を超越しかつ知識と感情とを統合するグローバル革命に関するスローガンを唱えるのは、はるかに簡単なことだ。//
(10)マルクーゼはもちろん、個人がそれぞれ履行する機能にすぎなくなってしまう生活に対して功利主義的に接近していることから帰結しているのだが、現代の技術と精神的疲弊が破壊的効果をもつことについて、日常的に絶えず繰り返して、不満を述べていた。
これはしかし、彼に独自の考えではなく、永遠に自明のことだ。
しかしながら、重要なのは、技術の破壊的効果に対しては、技術自体をさらに発展させることよってのみ闘うことができる、ということだ。
人類は、技術的進歩の好ましくない帰結を稀少化するために、「不毛な」論理や社会的計画化の方法の助けを借りて、科学的に仕事を履行しなければならない。
この目的のためには、生活をより耐えられるものにし、社会改革に関する理性的考察をより容易にする、そのような価値観を確立し、促進しなければならない。社会改革とは、寛容、民主主義および言論の自由の価値の実現だ。
マルクーゼの基本綱領は、これとは正反対だ。すなわち、科学と技術を従属させる全体主義的神話の名のもとに民主主義的諸制度と寛容を破壊すること(実際に適用することだけではなく、理論的側面でも)。ここでの科学と技術の従属とは、経験論と実証主義に反対する哲学者たちの排他的財産である、漠然とした「本質的」直観への隷従化のことだ。//
(11)マルクスの標語である「社会主義か野蛮か」を「社会主義=野蛮」という範型に置き換える、ということほど明確な例証はほとんどあり得ないだろう。
そしてまた、我々の時代に、マルクーゼほどに完璧に反啓蒙主義(obscurantism)のイデオロギストだと称するに値する哲学者は、おそらく存在しない。
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第5節、終わり。マルクーゼに関する第11章も終わり。