レーニンが1915年11月に雑誌か新聞に寄せた論文「革命の二つの方向について」(レーニン10巻選集第6巻(大月書店、1971)p.172-3)は、フランス一七八九年革命に次のように言及している。
①プレハーノフは、マルクスの「フランスの一七八九年の革命は、上向線をたどったが一八四八年の革命は下向線をたどった」との文を引用する。前者では権力が「より穏健な政党からより左翼的な政党へと」、すなわち「立憲派―ジロンド派―ジャコバン派」へと移行した。後者では逆だ(「プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世」)。これらの事例からするプレハーノフの現在のロシアに関する推論は誤っている。
②「マルクスは、一七八九年にはフランスでは農民と結合し、一八四八年には小ブルジョア民主主義派がプロレタリアートを裏切ったと書いている」。
③「一七八九年の上向線は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。
プレハーノフによるロシア(1915年時点)への推論を批判してはいるが、マルクスが示したという「革命の二つの方向」、一七八九年の「上向線」と、一八四八年の「下向線」という理解そのものには、レーニンも反対していないことは明らかだ。成功(上向)と失敗(下向)の各事例の階級・階層関係の分析がプレハーノフとは異なるようだ。
さて、上の②をプレハーノフは知っていたのに無視しているとレーニンは批判しているが(p.172)。上の②とこの批判を含まない、これらに続く文章が、平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)に引用されている(平野編p.115)。
「一七八九年のフランスでは、絶対主義と貴族を打倒することが問題であった。ブルジョアジーは、……農民との同盟に応じた。この同盟が革命の完全な勝利を保証したのである。一八四八年には、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒することが問題であった。フロレタリアートは、小ブルジョアジーを自分のほうに引きつけることに成功しなかった。そして小ブルジョアジーの裏切りが革命を敗北させたのである」。
このあとに、上記の(レーニン選集第6巻の)③がつづく。
但し、平野編著は、上の①・②を割愛しているからだろう、そのまま引用するだけではなく、〔〕内に平野による「注」または「補足」を挿入している。したがって、上の③は次のようになっている。
③「一七八九年の上向線〔立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。
レーニン自身による上の①を参照すると、ここでの〔〕内への挿入内容が平野による独自の解釈などではなく、レーニンの理解と矛盾していないことは明瞭だろう。
つまり、こういうことだ。レーニンは、<絶対主義→ブルジョア民主主義>というフランス革命の「勝利」の最後の頂点に「ジャコバン派(党)」を位置づけている。
レーニンにおいて、ジャコバン独裁・1793年の時期が肯定的に評価されていることは明らかだ。あらためて記しておくが、そのようなジャコバン独裁期に制定された(だが施行されなかった)、「人民(プープル)主権」原理に立つ1793年憲法を熱心に研究して1989年に著書を刊行したのが、辻村みよ子(現東北大学教授)だ。
なお、レーニンが執筆したもののすべてに目を通すことは不可能で、平野編著も決して網羅的ではないようだ。河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によるとレーニンは1915年に「偉大なブルジョア革命家」として「ロベスピエール」(ジャコバン派)に言及したらしいのだが、該当部分をレーニンの著書や上の平野編著の中に見出すことはできなかった。
レーニン(またはマルクス)がフランス・ジャコバン独裁をどう評価していたかの探索(?)は、とりあえずはこれで終えておく。