朝日新聞社説が前回の3④で示すこと(複数)が何故「荒っぽいナショナリズム」の動向なのか、近時(2008.12上旬)の中国の領海侵犯にしても、それへの「感情的反発」は「健全」そのものではないか、と思うが、さておく。
佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)に関する前回のつづき。
3 ⑤「ある場合には」ナショナリズムは「自己陶酔と他者の排除」を伴う「荒っぽい」ものに先鋭化しうる。それは日本だけの問題ではない。ナショナリズムは、アメリカ、中国、台湾、フランス、イギリス、クロアチア、セルビア、イスラエル、アイルランドではより強い。これらの国々のナショナリズムは「健全」なのか「危険」なのか。中国、フランス、アイルランド、ロシアのそれはどちらか、朝日新聞の「社説はどう答えるのだろうか」。外国のナショナリズムは「健全」で日本のそれは「危険」だとでも言うのか(p.63-64)。
⑥ どの国にもナショナリズムはあり、それが「自己陶酔と他者の排除」となるか否かは「あくまで状況の中で」決まることで予め「健全」なそれと「危険」なそれとが存在するわけではない。
「現実政治と結びついたナショナリズムが常に陶酔的で排他的となると考える」のは「あまりに短絡すぎる」。この「短絡」は、「ナショナリズム」を常に「インターナショナリズム(国際協調)」と対立させて理解する思考だ(p.64-65)。
つぎに節名が「なぜ議論を深めようとしないのか」へと移る。これまでに増して、引用部分を多くする。
4 ①朝日新聞社説が挙げる「荒っぽいナショナリズム」の台頭の事例は私(佐伯)にはそう思えないが、それはともかく、朝日新聞社説には「特徴的な思考パターン」がある。それは、「日本における『荒っぽいナショナリズム』の台頭の危険というテーゼが、より本質的な議論を一切回避したまま提起されている」ことだ(p.65)。
②1.「中国への感情的批判を危険視する前に」、「なぜ中国がこのような挑発的行動に出るかを論じないのか?」
2.「日米安保体制への批判を危険視する前に」、「なぜ安保体制という特異な関係性のもとに日本が置かれてきた歴史を検討しないのか?」
3.小林よしのり・戦争論を「無条件で危険視する前に、なぜ小林よしのりが…を書くに至ったのかを問題にしないのか?」
4.「『国旗・国歌法案』を批判する前に」、「国旗や国歌とは何かをなぜ論じようとしないのか?」
5.森首相の「教育勅語評価発言や『神の国』発言を論難する前に、なぜ彼がそのような発言を行ったのか」、なぜ「教育勅語」や「神の国」が「今頃になって想起されるに至ったのかを論じようとしないのか?」。さらにいえば、「教育勅語の内容の何が一体問題なのか、日本はどのような意味で『神の国』ではないのか」に関する議論をなぜ深めようとしないのか(p.65-66)。
③問題は社説のスペースの広さではなく「その姿勢」だ。ここに、朝日新聞に限らない「今日の日本のナショナリズム批判の大きな問題」がある。朝日新聞社説が典型を示す「議論の布置、問題の設定の仕方」、そこに「今日の日本の(反)ナショナリズム論の貧困」を見る。
「ナショナリズムの復興を批判することが戦後体制を守る基本的な課題」だとすると「進歩主義的サヨク」のかかる立論は当然かも。だが、「それでは問題の所在にはいつまでたっても踏み込めないし、不毛な議論が続くだけ」だ。なぜ小林よしのりが支持されるか、なぜ「神の国」発言が出たか、なぜ教育改革・教育基本法見直しが課題となったか、「そこにどういう事情と時代的意味があるのか」、これを論じないと「単なるイデオロギー批判が続くだけ」だ(p.66-67)。
④朝日新聞社説は「根本にかかわる問いを一切封印した上で、ナショナリズムの危険性を説く」。「端的にいえば、自国の歴史や固有のあり方にこだわることは他国への配慮を怠ることになる」と言わんばかり。これが「ナショナリズム批判」が「露呈」しているものだ。どの事例にせよ、「しばしば提出されるのは、それが『他国への配慮』、とりわけ『アジア諸国への配慮』をないがしろにするという批判」だ。
1.中国の領海侵犯は不問に。「問題は、…批判が中国に対する友好的配慮を崩してしまうこと」だ。
2.「新しい教科書」が国民の関心を呼んでいることは不問に。「問題は、それが中国や韓国を刺激すること」だ。等々。
「要するに現下の状況のもとで他国へ配慮すること、それこそが彼らの考えるインターナショナリズムであり、この配慮に対する障害は『危険なナショナリズム』とされる」(p.67)。
なかなかの論旨又は分析ではないか。つづきは、次回に。
佐伯啓思
「市民革命」はあるが「国民革命」は聞いたことがないことを「市民」概念を愛好する理由の一つとするような朝日新聞・若宮啓文の本と文章に触れたのは、朝日新聞を批判する、あるいは朝日新聞をはじめとする<進歩的>マスコミの論調を批判的に分析する佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)のとりあえずは一部を紹介的にメモしておきたいためだった。
佐伯啓思の論旨は前の論述を前提に後に累々と続いていくので途中から紹介的引用をするのでは正確に理解したことにはならない。だが、最初から言及するのはやめてあえて中途からにする。「今日のナショナリズムの『歪み』」との節名のp.57以降だ。次のように論じられる。
1 ①「本来性」というフィクションの大地に根ざした「国家意識」が必要だ。しかし、日本の現今のそれは「ほど遠い」もので、「国家」をめぐる言説は「奇妙にねじ曲げられている」(p.57)。
②いくつかの運動や議論が日本の「ナショナリズム」の代表として「しばしば進歩派の攻撃にさらされる」が、私(佐伯)には攻撃される「ナショナリズム」は理解しやすい。「全面的に賛同」はしないが、言いたいことはよく分かる。それは「決して復古的意図やまして戦争賛美」ではなく、「戦後の、そして現在の日本を問題視し批判」している。それは端的には、今日に「支配的な影響」をもつ「進歩主義的言説に対する強い疑念」だ。その意味で、彼らの「ナショナリズム」は分かりやすく「歪んでいない」(p.57-58)。
③問題は、明言されない「伏在したナショナリズム」の方にある。今日の「ナショナリズム」の問題は、一見「反ナショナリズム」・「反国家」心情にもとづく言説の形をとる、「国家意識」の「歪み」にこそある(p.58)。
④なぜ「歪み」が生じているかに、「戦後日本の言説空間の特異性」がある。この「特異性の構造」を分析することは、現代日本の「国家意識」の「歪み」・「ねじれ」を理解するためには重要だ(p.58)。
⑤90年代の日本の全般的「失調」のもとは、「きわめて不透明で歪んだ国家意識」に求められるのでないか(p.58)。
⑥90年代の日本の「危機」は「グローバル化や情報化」に対応できなかった日本の「守旧的体質」に原因があるというのが「定説」だが、「問題の根ははるかに深い」。究極的には「戦後の歪んだ国家意識」にこそ今日の「危機」の源泉があった。「国家意識」の「歪み」をいくつかの局面で見てみる(p.58-59)。
次に、節名が「オリンピック・ナショナリズム」に変わる。
2 ①シドニー五輪を前に2000.09.14朝日新聞社説は、「国家」意識に縛られずに「あなた」自身のために参加せよと説いた。だがここ十数年、日本選手が「過剰な」期待を背負っているとの印象はなく、むしろ選手の「私」意識の強さ、「国の代表」意識の希薄さが論議されたくらいだった(p.59-60)。
②五輪は「形を変えた国家間競争」で、「国家や地域」の威信がかけられていることを前提に「国家間協調」が謳われる。「個人間の競争と同時に国家間のルール化された競争」があるのであり、「国家間協調」が可能になるのも、そもそも個人が「少なくとも部分的には」「国家を背負っている」からだ(p.60)。
③上を書いたのは「ナショナリズム」と「国際協調(インターナショナリズム)」とは「決して対立するものではない」ことを確認するためだ(p.61)。
④にもかかわらず、「個人の競争」・「インターナショナリズム」はよいが(「善」だが)、「国家間競争」・「ナショナリズム」は「危険」だという「二者択一」の議論がある。朝日新聞の社説にも「その傾きが見て取れる」(p.61)。
次に、「『荒っぽい』ナショナリズム」との節名に変わって、引き続いて朝日新聞社説への論及がなされる。
3 ①朝日新聞2000.09.24社説は再び「ナショナリズム」を取り上げ、自国の選手が勝利して「君が代が流れ、日の丸が上が」るのを見て誇らしいのは「ごく自然な感情の発露というべきだ」と書いた(p.62)。
②先の論調からの後退とも見えるが、同社説はこう続ける。「抑制のきいた健全なナショナリズム」はよいが、「居丈高な自己主張」の「ナショナリズム」ほど「危なっかしい」ものはない、と。つまり、「健全なナショナリズム」と「危なっかしいナショナリズム」の区別がある、という(p.62-63)。
③上に続けて朝日新聞上記社説は、日本が「危なっかしい」又は「荒っぽい」「ナショナリズム」に席巻されようとしているとの危惧を示す。五輪で示されるようないわば「遊びごと」の「ナショナリズム」はよいが、「本物の(現実の)ナショナリズム」は危険とする。「何とも妙な、そして煮えきらない主張」だ(p.63)。
④「荒っぽいナショナリズム」として具体的には、1.中国の調査船・軍艦の日本水域への侵入への「感情的な反発」、2.日米安保にかかる「思いやり予算の削減要求」、3.小林よしのり・戦争論への「若者の共感」、4.「国旗・国歌法」の制定、5.森喜朗首相(当時)の教育勅語評価、5.石原慎太郎都知事の「三国人」発言、等が挙げられている。そして、これらの動向は「固有の伝統への回帰」を訴えるあまり、「自己陶酔と他者の排除」を伴うから危険だ、とする(p.63)。
3の途中だがここで区切る。朝日新聞・若宮啓文はこの佐伯啓思の著をまったく知らずに(手にとって読んだこともなく)、「ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではないのだ」と幼稚に宣言したものと思われる。
このあと、朝日新聞の論調に対する批判または批判的分析がつづく。たぶん、次回に。
一 宮沢俊義・新版補訂憲法入門(勁草、1993、初版1950)における<ごった煮「民主主義」観>についてはすでに書いた。
宮沢俊義・憲法と天皇-憲法二十年・上-(東京大学出版会、1969)にはこんな一文もある-「平等主義は、いうまでもなく、民主主義のコロラリイである」(p.40)。
宮沢において「民主主義」とは、肯定的に評価されるべきすべての価値・主義が何でも飛び出してくる玉手箱のようだ。上のような文を書いて、恥ずかしくなかったのだろうか。
最も気の毒なのは、こんな概念・論理関係の曖昧な人物を師と仰ぎ、<尊敬>しなければならなかった東京大学の憲法学の後裔たちかもしれない。
二 平等といえば、宮沢俊義・憲法講話(岩波新書、1967)は、ルソー・人間不平等起源論の基本的内容を紹介したのち、こんなことを書いている(以下、p.73)。
自然状態での人間の平等という主張は大昔には実際にそうだったという意味ではない。「この社会に現に存する不平等は、自然のものではなく、すべて人が作ったものであるから、必要があれば、人が変えることのできるものだ」、との意味だ。
ルソーに好意的な点も含めて、マルクス主義者ではなくともさすがに昭和戦後の<進歩的>知識人の一員らしい文章だろうか。
だが、ルソーの原意の詮索はさておき、「この社会に現に存する不平等は、自然のものではなく、すべて人が作ったものである」との上の前提的叙述は正しくはないのではないか。
体力・知力・種々の能力、さらには容貌等も含めて(容貌はもちろん他の要素も客観的な優劣を決めがたいとしても)、「不平等」は「すべて人が作ったものである」という認識は決定的に誤っているだろう。個々の人間は体力・知力・種々の能力、容貌等について、<生まれながらに>平等であるはずがなく、これらの「すべて」について、後天的に人為的な差違を作られた、などと言える筈がない。
これらの「すべて」が<生まれながらに>平等な人間ばかりの社会は奇妙で、気持ちが悪いに違いない。オーウェルの描いた1984年の社会管理者にとっては好都合かもしれないが。
ひょっとして宮沢は、「この社会に現に存する不平等」という語で<社会的>不平等を意味させているのかもしれない。だが、その場合であっても、体力・知力・種々の能力、容貌等についての<生まれながらの>不平等に起因するとしか考えられない<社会的>不平等=異なる社会的取り扱いもあるわけで、「すべて」の<社会的>不平等の解消が望ましく、かつそれは可能だ旨の叙述は、あまりに単純素朴すぎると思われる。
東京大学教授が、「この社会に現に存する不平等」=<社会的>不平等は「すべて人が作ったものである」ので「必要があれば、人が変えることのできる」と単純(ほとんど=幼稚)に書いてよかったのだろうか。
いつか触れたように、平等と「自由」の間には、今日的でもある困難な問題がある。単純素朴に<平等化>を説けたのは戦後の一時期か、純粋な平等主義者、すなわち観念上の存在としての共産主義者に限られるだろう。
東京大学出身で現京都大学教授の佐伯啓思が引用すると些かの反発も生じないとは言えないだろうが、佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)p.23は、オークショットの保守主義論に言及して、オークショットの「保守的であるとは」のあとの文を、次のように紹介している。
「自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きて行くことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しようとしないことである」。
むろん一概に「自己のめぐりあわせに対して淡々と」すべきだとは思えない(理不尽な差別的取扱いや不当な批判・非難もありうる)。怒り、闘うべき場合もあるだろう。だが、第一次的又は基本的な考え様として、「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しようとしないこと」は大切であり、宮沢と比べて、リアルな認識を背景としているように思える。
戦後の<平等化>思想、そして<平等>教育は、「自己の身に相応しく生き」ようとしない、あるいは「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを追求しよう」とする大量の人々を生んだ、と考えられる。
その結果は何だったのだろう。横並びを善とし、<より上>の人々を妬み、誹る心理の蔓延ではなかったか。政治家・上級官僚は当然にその対象になる。朝日新聞、TBSをはじめとするマスメディアもまた、そのような嫉妬の感情を煽り、記者自身がそのような感情にもとづいて記事を書き、キャスターやコメンテイターがテレビで喋る。
あるいはまた、具体的な他の誰の<責任>でもなく、場合によっては本人の<責任>かもしれない状況について、<生まれながらの、平等に生きる権利>がある筈ではないのか!、それが保障されていないのは国家・政治・社会が悪い!、と思いこみ、鬱屈した生活を送ったり、鬱憤を晴らすために他人を殺傷したりする者が少なからず出現するに至っている。
「誰でもよかった」などと言って一般国民・市井の人に刃を向ける者が現れたりしているのは、究極的には悪しき<平等主義>・<平等教育>に原因があるのではないか(つい最近の厚生省元事務次官事件ではなくもっと前の秋葉原事件等を想定して書いている)。
平等、平等、競争しなくてもみな同じ、という学校教育からこそ、あるいはそれを含む<戦後民主主義>の風潮の中からこそ、現実の社会には生じる、あるいは存在する<不平等>=<格差>に対する、不相応の又は過度の又は方向違いの<不平・不満>が結果として多く生まれ出ているのではないか。一億総嫉妬社会(妬み=ねたみ、嫉み=そねみ)の出現だ。
一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)も佐伯の本の中でじくりと味わうべきものの一つだろう。
全体の詳細な紹介、要約的言及の余裕はない。
p.23からの数頁は「保守的であること」との見出しが付いている。そして、「保守的である」という気持ちのもち様、態度についての興味深い叙述があり、こうした「態度の背景」には、「人間の理性的能力への過信に対する防御」、「理性万能主義(設計主義)への深い疑問」等がある、とする。
今回紹介したいのはその次の辺りの文章だ。佐伯啓思は言う(p.25)。
・「保守主義が明瞭に対立するのは社会主義にせよ、ファシズムにせよ、社会全体を管理できるとする全体主義に他ならない」。
・「理念としていえば民主主義などよりも保守主義の方が全体主義に対立する」。
・上のことは、「保守主義の生みの親とも目されるエドモンド・バーク」がその「保守的思考」を、「ジャコバン独裁をもたらすことになるフランス革命批判から生み出した」ことからも「すぐにわかるだろう」。
二 宮沢俊義をはじめとする戦後・進歩的知識人のみならず日本国民の多くにも、先の大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いであり、理論的・価値的にも優れた?前者が勝利した、という認識又は理解が、空気の如く蔓延した(蔓延しつづけている?)ようでもある。
だが、既述の如くソ連を「民主主義」陣営の一者と位置づけることは、<人民民主主義>という概念などによってかつては誤魔化すことができたかもしれないが、いまや殆ど笑い話に近いほどに、正しくはない。
また、ヒトラー独裁・ドイツファシズムが<ワイマール民主主義>の中から<合法的に>出現したことをどう説明するか、という問題もある。なお、<日本軍国主義>体制も(そのようなものがあるとして)法的には合憲的・合法的に成立したといわざるをえないだろう。
つまり、<民主主義対ファシズム>の闘いだったと先の大戦を把握することは歴史の基本を捏造するものだ。従ってまた、今日までずっと<軍国主義・ファシズムの復活を阻止するために、民主主義を守り・徹底する>という目的を掲げてきている又は何となくそういう図式・イメージをもっている者たちもまた、歴史の基本的なところの理解を誤って国家・社会の動向を観察していることになる。
「左翼」にとっては、とくに日本共産党員をはじめとするコミュニストにとっては、上の佐伯の叙述のように「社会主義」と「ファシズム」を「全体主義」という概念で包括するのは我慢できないことだろうが、社会「全体」の管理可能性を信じる点で、両者にはやはり共通性がある。
また、この「全体主義」に対立するのはむしろ「個人主義」又は「自由主義」と言うべきであり、「民主主義」は別の次元の主義・理念だろう。
そしてまた、フランス革命期における<急進的な(又は直接的)民主主義>(ルソー的「人民主権」論の現実化=「ジャコバン独裁」)を警戒したのは、叙上のように、イギリスの「保守主義」者・バークだった。
佐伯啓思があえて言及しているように、今日において民主主義、さらにはコミュニズム(社会主義・共産主義)を論じる場合において、フランス革命期の「ジャコバン独裁」(ロベスピエールらによる)をどう評価し、どう理解しておくべきかは、不可欠の論点なのだ、と思う。「人民主権」(プープル主権)論の評価についても同じことがいえる。
フランス革命や「ジャコバン独裁」・「人民(プープル)主権」論に言及してきたし、これからも言及するだろう理由は、まさに上のことにある。
佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)p.172-3によると、戦後日本に「保守という思想」がありうるのか、ということから考察する必要がある(それは成立し難いということを(多分に)含意させているようだ)。
その理由の第一は、佐伯によると以下のことにある。
「いわゆる保守派」はアメリカの保守思想を手本にしたため、「本当の意味でのヨーロッパの保守主義(とくにイギリスの保守主義)」が日本にうまく「根づかなかった」。
ヨーロッパ思想も導入されたが、「ほとんどは、いわゆる左翼進歩主義的」なものだった。すなわち、「戦後の思想のスター」は、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ウェーバー、ロック、ミル、ハーバーマス、アドルノ、サルトル、「フランス現代思想系の人たち」〔デリダやフーコーらか?-秋月〕だった。一方、エドマンド・バーク、コーク、ブラックストーン、ヒューム、カーライル、バジョット、オークショットらは紹介されなかったか、殆ど無視された。
前回に続いて、かかるリストアップ、とくに後者の<保守主義>又は<反・左翼>の人名のそれ、をしておきたい気持ちも強くて、紹介した。「イギリスの保守主義」とは、ときに「スコットランド(学派)の保守主義」と称されるものを重要なものとして含んでいるだろう。ともあれ、日本の研究者による外国の思想(家)の紹介や分析が、公平・中立あるいは客観的に行われているわけでは全くない、ということは明らかだ。
日本の思想・政治・文化等の状況に応じて、指導教授や<仲間たち(同業者)>の意向・動向をも気にしつつ、研究者個人がどう「価値」判断するかを直接には契機として、<外国研究>は行われているわけだ。このことは、思想・哲学に限らず、人文・社会系の全ての学問分野にあてはまるものと思われる。
上に関する理由の第二として、佐伯は丸山真男に次のように論及する。
「保守」はその国の「歴史や伝統」から出発するが、戦後日本はGHQのもとで「日本の伝統」という「因習的で封建的な」ものを「ほとんど切り捨て」た。東京大学の憲法学者・宮沢俊義も「八月革命説」を唱え、丸山真男は「革命」の起きた八・一五という原点に立ち戻れと繰り返し説いた。となると、「革命」により「生まれ変わった」日本には、「伝統や慣習」を大切になどとの発想がでてくる筈はない。
以上で要約的紹介の今回分は終わりだが、かかる、丸山真男を典型とする、戦前日本の、そしてまた日本の「歴史や伝統」の(少なくともタテマエとしての)全否定が、「本当の」<保守思想>成立を困難にした、というわけだ。そのような風潮に、所謂<進歩的知識人・文化人>は乗っかり、又はそれを拡大した、ということになる。その影響は今日まで根強く残っているものと思われる。(「外」の力によってであれ)望ましい「革命」があったとするなら、神道や日本化された仏教という<歴史的・伝統的な>ものに関する知識やそれらへの関心が大きく低下したのもしごく当然のことだ。
「八月革命説」と昭和天皇の現憲法公布文(「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」)はどういう関係に立つのか(立たないのか)、および丸山真男の議論の具体的内容については、いずれまた言及することがあるだろう。
<異形の国家>・共産党独裁の中国は、まずは尖閣諸島を皮切りに沖縄諸島から始めて、日本列島全域を支配することを狙っているものと思われる。太平洋(の軍事管理)を米国と中国で東西に二分しようと中国要人が米国人に発言したとかの報道(氏名・役職等の詳細を確認しないままで記憶で書いている)も、上のことが全くの杞憂でないことを裏付ける。
となると、日本は中華人民共和国日本州となり日本人は日本「人」ではなく日本(大和?、倭?)「族」と称されるのだろう。中国の一部とされなくとも旧ソ連と旧東欧との関係の如く、中国の<傀儡>政権(日本共産党が存続していれば参加?)のある実質的な<属国>になる可能性もある。
そうなれば、―最近、伊勢神宮等の神社・神道のことについて書く機会が増えたが―伊勢の神宮を含めた、神社という「日本的な」ものは、―チベットの仏教施設がそうなっていると報道されているように―すべて又は殆ど破壊され、解体されてしまう可能性もある。日本全国から、根こそぎ、「神社」(お宮さん)が破壊され、なくなってしまった日本という地域は、もはや「日本」ではないだろう。同様のことは日本仏教・寺院についても言える。
上のことが全く杞憂とは言えないのは、1945年の占領開始の頃に、主だったいくつかの神社を除く多数の神社はすべて潰される(物理的にも破壊される、又は自ら破壊しなければならない)のではないかとの危惧と<覚悟>を神社関係者はもった、ということを最近何かで読んだことでも分かる。幸い、GHQは、神社・神道があったからこそ戦争が開始された、とは理解しなかったので<助かった>ようなのだが。
ところで、櫻井よしこは、福田首相が「念頭に置くべき」なのは、「異民族も含めた中国の人々、そして国際社会に向かって、いかなる普遍的価値観に基づいた言葉を発することができるか」という点だ、とも主張している。
ここでの「普遍的価値観」とは生命を含む<人権>の尊重、信教の「自由」の保障を含んでいるだろう(民族の自決権は?)。
かかる「普遍的価値観」はアメリカのそれであり、<左翼>価値観だとして日本の保守派がそれを主張するのは<奇妙な光景だ>と言ったのが佐伯啓思だった。前回言及した、佐伯啓思・学問の力(NTT出版)でも同旨のことが述べられているようだ(p.164~)。だが、アメリカの独立と統一(連邦化)を支えた思想がフランス革命の際の「左翼的革命思想に近い」(p.164)と言えるのかなお吟味が必要だと感じるし、それよりも、戦略的に(本当に「普遍的」かは厳密には怪しいだろうことは認めるが)「普遍的価値観」なるものに基づき中国(・胡錦涛)に対して発言することは当然でありかつすべきことで、少なくとも批判・揶揄されることではあるまい、と考えるが、いかがなものだろう。
第一章・学問はなぜ閉塞状況に、は1「専門主義」と「ポスト・モダン」という不幸と2教養主義の残照に分けられ、前者の1がp.51まで。その後は第二章・体験的学問論―全共闘と教養主義が1全共闘世代と戦後民主主義、2原風景を求める教養の2つを含み、第三章・「知ること」と「わかること」には1センス・美意識・感受性、2「頭がよい」とはどういうことか、の2つがあり、第四章の1は「リベラリズムの破綻」と「保守主義の困難」。これの中途まで読了したことになる。
さまざまな感想が生じるが、書ききれないだろう。①西尾幹二の少年時代の本、西尾・わたしの昭和史・少年篇1~2(新潮選書、いずれも1998)を読んでも感じたが、佐伯啓思が少年あるいは(当然に新制の)中学生・高校生時代にすでに早熟で外国の思想・古典ものを読んでいたなど、早くから感受性豊かでとても「頭がよい」人はいるものだとあらためて感心する。
②「全共闘世代」に関する叙述はかなり理解でき同感もできるが、一部は首を傾げる。そもそも一部の世代を「全共闘世代」と称してよいかどうか疑問だし、私は「全共闘」なるものに佐伯ほどには<意味>を認めていない。むしろ<「団塊」世代>に関する叙述の方に共感できる所が多い。
③いつぞや佐伯啓思の現代文明論上・下(PHP新書)を読んでいた頃、丸山真男と違って日本の思想(家)への言及がないとか記したことがあったが、日本の思想(家)への言及もあり「日本的なもの」(「原風景」にも近い)への肯定的な論及もある。佐伯・日本の愛国心(NTT出版、2008)でもかなり出てくる日本の思想(家)・「日本的なもの」に関する素地は、2006年のこの本の時期にはとっくにあったわけだ。
④瑣末だが、印象に残る言葉も多い。例えば-「われわれは文化の語法の中で生きている」(p.140)、「文化とは共有された思い込みにほかな」らない(p.141)、「思考は感受性を通して原風景から発して、また最後には原風景へと回帰してゆくもの」だ(p.144)。
⑤佐伯啓思が五つの赤い風船、カルメン・マキ、吉田拓郎、朱里エイコ、石川さゆり、井沢八郎、太田裕美等に言及しているのは同世代人として愉しいが(p.104~、p.118)、この辺りだと、私にも類似の文章は書けそうだ。文字どおり瑣末だろうが、<地方から都会へ>という時代を象徴した一つの歌は井沢八郎「ああ上野駅」(1964年)かもしれない(p.118)。だが、この歌のとき(東京五輪の年)にはそのような時代は既に始まっていて、守屋浩「僕は泣いちっち」(1959年)、同「長いお下げ髪」(1962)などはそうした時代の開始を反映している。前者は東京へ行った<彼女>を地方の青年が想う歌で(「僕の恋人、東京へ行っちっち。僕の気持ちを知りながら」)、後者は東京(都会?)へ来た青年が地方に残った(幼い頃に「あぜ道帰りいじめた」・「鎮守の森で泣かせた」ことのあった)娘を思い出して嘆く歌だ(「これが恋ならば、僕は寂しいよ」)。余計ながら、こんな歌にも、言及しておいてほしかったね。
「昭和の日」はただ何となく過ごしてしまった。平成も20年めになるが、自分はやはり<昭和(戦後生まれ)世代>だとの自覚しかもてないだろう。
フーコーに関して書いたあと、たまたまp.30余までで読みかけだった佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)の続きを見ていると、フーコーが出てきたので驚いた。
佐伯著も参考にして前回書いたことを多少は修正する必要はあるだろうが、それでも基本的には的外れのことを書いていない、と感じた。
佐伯の上の本は、学問の<専門化>によってその「力」が落ちていること、知識人と「専門家」の違い、後者が前者ぶることの(滑稽さを含む)危険性等を述べたあと、この<専門主義>とともに、今日の(日本の)学問<態度>の特徴は<ポスト・モダン>からも出ている、とする。
そして<ポスト・モダン>について、初めて知ることの多い知見を得たが、要約的な紹介も避ける。知っている人物名が出てくる箇所を中心に、以下に思い切った要約しておく。
・中沢新一は「われわれは芸人だ」と言った(p.38)。<ポスト・モダン>は表面的には「思想」又は「大きな物語」を否定・放棄し、「真理」もないものとし、「知の芸能化」・「知のパフォーマンス」化を進める。そこでの評価基準は「真理」との近さ等ではなく<面白い-つまらない>というものになる。
・<ポスト・モダン>も、しかし「隠された思想」をもつが、その自覚がないために「不健全で変則的」な「思想」になっている。彼らが肯定的に評価するのは「解放」・「平等」・「多様性」・「自由」・「個人」、批判するのは「規律」・「道徳」・「国家」(p.40)。
・<ポスト・モダニスト>は前近代・近代・近代以降と近代を基軸に歴史を捉える、「近代に満足できない近代主義者」。そして、「歴史の進歩」を無条件に信じるのが「左翼」だとすれば、<ポスト・モダン>は「基本的には左翼思想」だ(p.40-41)。
・従って、90年代には「わりと平板な左翼へと回帰していった」。柄谷行人しかり、浅田彰しかり。また、デリダ主義者・高橋哲哉は「きわめてオーソドックスな左翼進歩主義」を唱えている(p.41)。
こうした<ポスト・モダン>との関連で、佐伯はとくにフーコーに言及している。これまた大胆に要約すると、以下のとおり。
・ミシェル・フーコーは<ポスト・モダン>の代表とも言われるが、70年代には構造主義者(本質的に「近代」的)として日本に紹介された。その後のフーコーはまず、「構造主義からポスト構造主義、つまりポスト・モダンへと橋渡しをした思想家」になった。だが、彼も「大きな物語」を捨て切れなかった(p.44-47)。
・後期のフーコーは「言説作用」もすでに他者を支配したいという「権力」だとした。しかし、これでは言語を用いざるをえない人間は「どこにも抜け道がなくなって」しまう。また、最晩年のフーコーは「古代ギリシャ」に戻り「身体的な動きや技法」に生きる意味を見出そうとした。しかし、これでは「思想としてのポスト・モダンは論理的に行き詰まる」(p.50)。
・フーコーの「偉大さ」は、「ポスト・モダンを突き詰めると、そもそも思想的営為は成り立たないということを、身をもって証明したことにある」。「ほとんどの社会学者」はそうは言わず、フーコーによって「何か新しい思想が始まった」と考えている。しかし、「何が始まったのか、よく分からない、むしろ何かが終わった」のだ。
以上。以下は、私なりのコメント・感想だ。
①前回に言及していないが(そして桜井哲夫の本やフーコーの邦訳本で確認しないで書くが)、フーコーの「権力」概念は独特で(佐伯は「言説」作用を採り上げているが)、学校・企業はもちろんあらゆる社会的<しくみ>・<制度>、あらゆる人間「関係」の中にも「権力」関係を見出す。概念は自由に使ってもよいのだが、しかし、「権力」=悪という前提がおかれているとすると、これでは人間は自殺するか、(同性愛でも何でもよいが)刹那的享楽を生きがいにして(表明的にのみ「自由に」)生きるしかなくなるのではないか、との感想めいたものをもった。佐伯啓思は、上記のとおり、これでは「どこにも抜け道がなくなって」しまうと明記して同旨のことを述べてくれている。
なお、佐伯がフーコーを「偉大」と形容する箇所があるが、これは諧謔・皮肉あるいは反語だろう。文字通りの意味だとしても、佐伯がフーコーを<尊敬>・<尊重>しているわけではないことは明らかだ。
②佐伯のいう「ほとんどの社会学者」の一人と思われる桜井哲夫は、フーコーの「分析用具」を「改変」して日本の現実や歴史の「分析」や「書き換え」る「知的努力」の意味を説いているが、上の佐伯による評価からしても、こうした「知的努力」の傾注は徒労に終わり、桜井の人生も無駄になるに違いない。日本の現実や歴史に関する「大きな物語」が構成される筈はなく、せいぜい断片的な、かつ<面白おかしい>指摘ができる程度だろう。
③前回に、フーコーは<つねに新しい>というだけでは、そこから生じる可能性が人間・社会・歴史にとって<よい>ものであることを保障しない、と批判したのだったが、<ポスト・モダン>に関する佐伯の説明・分析によると、(些か単純化して書くが)この主義者は、<よい-悪い>という価値観を否定し<面白い-つまらない>という基準を採用するのだから、桜井が<新しい>ものはすべて積極的に肯定されるというニュアンスで書いているのも、なるほど、と思った。彼および彼らにとって、人間・社会・歴史にとって<よい>か否かなどは関心の対象ではない、あるいは、そんな当否はそもそも分からない、のだ。<新奇な>もの(とくに従前の一般的理解・社会通念を否定・破壊するもの)はそれだけで有意味性をもつのだ、と考えられていると思われる。したがって、そもそもの前提が異なる批判の仕方を前回はしたことになりそうだ。
④前回も今回も、産経新聞に少なくとも二度、奇妙な内容の論稿を載せていた武田徹を思い出していた(佐伯著には残念ながら今のところ武田徹の名前はないが)。「フーコーの言説を引用できる」として肯定的に評価するかの如き発言を載せる本もあったからだ。だが、こうして異なる二人の本(の一部)を通じてフーコーの概略を知ってみると、(武田がフーコーにのみ影響を受けているわけでは全くないにしても)武田徹もやはり<奇矯な>・「左翼」の、新奇・珍奇な指摘・主張をすることで自己満足するような<ポスト・モダン>のジャーナリストだろう、と納得できる気がした。佐伯は、<ポスト・モダン>は「隠された思想」を公言できないために「技術主義」(IT革命等の情報技術の展開に<ポスト・モダン>の意味を求める)へと逃げ込んでいる旨の指摘も行っているが(p.42)、武田徹には、この「技術主義」の匂いも十分にある。いずれにせよ、変わら(れ)ないとすれば、可哀想なことだ。
諸君!5月号(文藝春秋)の佐伯啓思「アメリカ文明の落日と…」の中で興味深かった一つは-著者・佐伯にはきっと些細なことだろうが-、p.29で、<「保守論壇」は「親米保守」と「反米保守」に分かれたとされるが、「思想的に」いえば「親米保守」との立場は「ありえない」と思える。但し、「反米保守」といえども「具体的な現実政策」で日米安保を解消して「独自の防衛と経済圏」を作れと主張してはいない。>と述べていることだ。
興味深いのは、①自らを<反米保守>と位置づけるニュアンスを示しつつ、日米安保条約廃棄等を主張しているわけでもない、と釈明?していること、②「思想的」に論じる場合と、「具体的な現実政策」論とを区別していると見られること、だ。
さて、この計19頁の論稿(佐伯の文章は難渋ではないので小一時間で読めた)で、最も違和感をもったのは次の文だ。
「世界大戦や冷戦をリードした『圧制』に対する『自由・民主主義』の戦いという解釈図式はもはや意味をもたなくなってしまった」(p.44)。
ここでの「圧制」は<社会主義(・共産主義・スターリニズム)>を含むものであることは間違いなく、佐伯啓思・日本の愛国主義(NTT出版、2008)の中でも、(すでにこの欄で言及したことはあるのだが)上と同趣旨又は類似のことが書かれている。
<「社会主義が基本的に崩壊」して「もっとも左」になったのはアメリカだった。「マルクス主義が失権」した後、最も「左」はヘーゲルとなり、ヘーゲルらの「進歩史観に最も忠実なのはネオコンのアメリカという事態」になった。>(p.243)
違和感をもち、疑問も感じるのは、日本の周辺にある中国(中華人民共和国)・北朝鮮という国々の存在を佐伯はどう理解し、どう対処すべきと考えているのか、だ。中国・北朝鮮はアメリカと比べて「より左」ではないのか?
私とて「自由・民主主義」至上主義をとりはせず、むしろそのイデオロギー性あるいは問題性を意識しており、またアメリカあるいは「グローバリズム」を全面的に信頼・支持しているわけでは全くなく、アメリカは「日本」の破壊・消失の布石を打っていた国だ等々の批判をしたい。だが、現在のアメリカは現在の中国・北朝鮮に比べればまだマシなのではないか?
そして、中国・北朝鮮に対してはまだ「自由・民主主義」を掲げることは意味があり、「『圧制』に対する『自由・民主主義』の戦いという解釈図式はもはや意味をもたなくなってしまった」と断じるのは早すぎるのではないだろうか。
さらに、「社会主義が基本的に崩壊」し「マルクス主義が失権」したと言うが、中国・北朝鮮にはまだ国家権力を掌握するほどに残存しているのではないか(ついでに、日本共産党はまだ日本政治において完全には無視できない力を維持しているのではないか)。
日本共産党がかつてのソ連について後出しジャンケン的に<「真の社会主義」国ではなかった>と主張したように、中国や北朝鮮は「真の社会主義」国ではない(ついでに日本共産党はもはや「真の社会主義」政党ではない)と言うこともできるかもしれない。その場合には<一党独裁国家>でも<儒教的疑似マルクス主義国家>でもよいのだが、ともあれ、日本やアメリカとは異質な国家原理・国家構成をもつ国が現在もなお存在しており、日本はそれらの周辺諸国を無視することなどできないのではないか。
「思想的」にはマルクス(・レーニン)主義(あるいは日本共産党のいう「科学的社会主義」)はとっくに敗北し、終焉を迎えているとしても、「現実的」にはまだ<生きている>のであり、その「現実」と日本は闘う必要が、あるいはその「現実」に適切に対処する必要が、(依然として)あるのではないか。
「アメリカ文明の落日」を語ることが重要でないとは思わないし、一人の研究者あるいは(佐伯啓思クラスになると)一人の思想家・知識人にあらゆる問題・論点について包括的に述べることを求めるのは酷なのかもしれない。だが、それでも私は、少なくとも「現実的には」、「アメリカ文明」の限界・終焉を語り、アメリカン・ニヒリズムとの闘いの必要という「現代文明の置かれた状況」を「認識する」ことよりも(佐伯はp.42でこれが「決定的に重要」だとする)、<マルクス主義(・レーニン)主義>・<社会主義(・共産主義)>との闘いは国内的にも外交的・国際的にもまだ重要なものとして残っており、むしろこちらの方が焦眉の課題・論点ではないか、と感じている。
付記すれば、正面から<マルクス主義(・レーニン)主義>・<社会主義(・共産主義)>を標榜していればまだ分かりやすいのだが、<隠れマルクス主義>あるいは<マルクス主義の変異種>が、反権力主義・左派フェミニズム・地球「市民」主義・ニヒリズムを基礎とするアナーキズム的気分等々として残っており(フーコーもこれらの中にたぶん含まれる)、これら亜マルクス主義・準マルクス主義との「思想的」な闘いも重要だ、というのが私の認識だ。
まさか佐伯は「ネオ・コン」(=「新・保守主義」)が(かりに「西欧近代」という<同じ根>をもつとしても)、亜マルクス主義・準マルクス主義だと理解し、批判しているわけではないだろう(なお、佐伯が上掲著書で「ネオ・コン」(新保守)を「左翼」と性格づけているのは、私も含めた一般の読者には理解し辛いところがあるだろう)。
本当は、佐伯の著書や論稿のうち、大いに役に立った優れた分析とか賛同できる点とかを紹介的にメモしておきたいのだが、依然として、時間的余裕がなさすぎる。
某の連載があることを理由に諸君!(文藝春秋)の購入をやめていたが、佐伯啓思の最新の文章が読みたくなって、20日ほど遅れて同・5月号を買った。
佐伯啓思「アメリカ文明の落日と『世界史の哲学』の構築」(p.26~44)。新聞のコラムと比較するのは無理があろうが、朝日新聞の若宮啓文の駄文を読んだあとでは、知的刺激を感じる、豪奢な食事の如き論稿だ。
佐伯啓思・日本の愛国主義(NTT出版、2008)についてと同様に、筆者(佐伯)の主題とは異なる(佐伯にとっては)瑣末であろう事項・問題についての叙述を要約的に記しておく。すなわち、「社会主義」あるいは「共産主義」について。
・<「冷戦の主役である社会主義という実験」も「西欧近代主義の極限的な形態」だった。20世紀初頭の「西欧知識人たち」は「新たな価値創造」に賭けるとすれば、「ファシズムかボルシェビズムかという選択に迫られた」。>
・<「社会主義という人間理性の極端なまでの過信」と「歴史を導く正義という理念への過剰な期待」は、「あまりに独断的な価値創出」で、「世俗化された疑似宗教というべきもの」だった。>
・<20世紀「西欧社会」の「ニヒリズム的状況」を「不透明に覆い隠した」のは、「ナチズムとスターリニズムの蛮行」だった。「ナチスによるユダヤ人虐殺とスターリンによるおそるべき粛清、さらに共産主義による驚くべき虐殺」は、「自由・民主主義、ヒューマニズム、人権などの近代主義の理想をもう一度、呼び覚ますに十分」だった。>(以上、p.38)
「社会主義」・「共産主義」に言及があるのはこの部分だけだと思われる。そして、以上の諸点に反対はしないし、逆に基本的にはそのとおりだろうと相槌を打つ。
但し、上の最後の文は、そのために「自由・民主主義」あるいはアメリカの「歴史観」や「価値観」が検討されずに「聖域」化された、という論旨につながっていき、全体としてアメリカニズム(「アメリカ文明」)の問題点・限界を指摘することが主題になっている(その帰結として、最後に「日本の精神」の再発見の必要を説いているが)。
そして、(上のカッコ内を除いて)どこか違う、「思想的」にはともかく「現実的」には、日本の現在の焦眉の論点ではないのではないか、という感想をもってしまった。別の機会に少しはより詳しく書こう。
この本の読書ばかりしている訳ではないので(仕事もある)、最初の方はもう忘れかけている。丸山真男に対する厳しいかつ明晰な批判は別の機会に触れよう。
4/07に鷲田小彌太・「戦後思想」まるごと総決算(彩流社、2005)というのを買って第一部の3の最後、p.64まで(4の「天皇制、あるいはその政治と倫理」の前まで)一気に読んだ。佐伯著とともに戦後(思想)史を(も)扱う点で共通する部分があるが、鷲田著は直球一本の短い・断定的文章が連続している感じで、佐伯の文章、論理展開が直球・カーブ・シンカーあり、たまには捕手との相談あり、たまにはマウンドでの沈思黙考あり、という印象であるのと比べると、失礼ながら(比較する相手が悪いのか)相当に<粗い>。鷲田小彌太は決して嫌いな書き手ではないが。
さて、佐伯啓思の上の本のほとんどは何と無く納得して読めるが、一点だけ気になることがある。それは、瑣末なことでもなさそうだ。
p.19にこうある。「冷戦の崩壊は、社会主義に対して蜃気楼のような漠然たる希望を託した左翼の幻想を一晩で吹き飛ばした」。<左翼の幻想>はまだ残っていないかと問いたくなるが、この文はとりあえずまぁよいとしておこう。
p.80の次の文章(要約)はどうだろうか。
<「アメリカの歴史観」には「典型的な啓蒙主義的理念」、「西欧近代の進歩主義を代表する理念」がある。これは「左翼的思想」と言ってよく、少なくとも「無条件の進歩を疑うという西欧保守主義とは全く異なった思想」だ。そして、ソ連崩壊後はこの「左翼的思想」を掲げた国はアメリカになった。その「左翼的国家」との同盟に「国益を全面的に委ねる」日本の「保守派」は日米間で「価値を共有する」とまでいうが、これでは「何が保守なのか」分からなくなってしまう。>
上の文章は気になりつつも読み続けていたら、p.239辺り以下(~p.243)にもこういう文章(要約)があった。
<アメリカの「ネオコンの価値観」は「自由・民主主義」・「市場経済」・「隠されたユダヤ・キリスト教」。これらを日本人は「共有」していない。日本はアメリカの「啓蒙主義的なメシアニズムという進歩的歴史観」を「信奉」してもいない。にもかかわらず、小泉・安倍両首相は「価値観を共有している」ことを根拠として「日米関係」の「緊密化」を唱え、「保守主義者」がアメリカ的歴史観を支持するとは「何とも奇妙な光景」だ。アメリカ的歴史観は「東京裁判」に現れているが、その「東京裁判史観」を否定してきた「保守派」が「安易に、日米は価値観を共有している、などというべきではない」。>
なかなか興味深い論点が提示されている。佐伯啓思が<グローバリズム>追従を批判する、<反米・非米>の保守主義者であることをここで問題視するつもりはない。かかる批判(矛盾・逆説の指摘)は<親米>保守派に向けられているのだろう(そういえば八木秀次は<親米>保守派を「現実的」保守とか称していた)。
だが、日米間の<価値の共有>をこうまであっさりと切って捨ててしまうのはいかがなものか。
佐伯啓思について気になるのは、ソ連崩壊によって社会主義・マルクス主義は「崩壊」してしまった、という強固な認識に立っているように見えることだ。p.243には、「マルクスが失権した後」、最「左」は「ヘーゲル」になり、この「ヘーゲルとコジェーブの進歩史観にもっとも忠実なのがネオコンのアメリカという事態」になった、とある。かかる「左」=「進歩主義」(のはずのもの)を日本の<左派>が批判し、<保守>が支持している、という「奇妙な光景」がある、というわけだ。
いくどか書いたことがあるが、アジアには中国・北朝鮮という「社会主義」(←マルクス主義)を標榜する国々があり、「冷戦」は終わっていない。ソ連・東欧「社会主義」の崩壊により終焉したのは欧州(又は欧米)内での「冷戦」だ。日本には「日本共産党」という社会主義・共産主義社会を目指すことを綱領に明記する政党が国会内に議席を占め、佐伯啓思が所属する大学にも京都府委員会直属の日本共産党の「大学支部」がちゃんと?まだ残っている筈だ。
日本は近隣に中国・北朝鮮という国々を置いて生きていかなければならない。その際に、中国・北朝鮮と欧米と、<価値観>が(相対的に)より近いのはどちらなのだろうか。
むろん、佐伯が強調するように、アメリカ(や欧州)と日本は「価値観」が全く同じではなく、全く同じにすることもできない、ということはよく分かる。平均的日本人以上に、その点は私も強く感じるに至っている。アメリカ産の<戦後民主主義の虚妄に賭ける>とか書いたらしい丸山真男はバカに違いない、と考えている。
だが、日本の政治家が近隣の「社会主義」国家(<侵略>国家・<拉致>国家だ)の存在を意識し、とくに<正規の軍隊>を持てないという憲法上の制約の中で、(中国・北朝鮮と比べての)アメリカとの<価値観の近さ>を強調し、<価値観外交>を展開する、あるいはインド等をも含めた<自由の弧>構想を描く(麻生太郎元外相)ということが、なぜ上のように厳しく批判されなければならないのか。
政治・外交は戦略であり方便だ。全く同じ価値を共有していなくとも、アメリカと100%完全に異質の文化・価値を持っているわけでもなかろう。その場合に、中国・北朝鮮に対抗するために<価値観の共通性>を(むろん厳密な学者の議論としては問題があるかもしれないが)強調して、何が悪いのか。
<戦後レジーム>の問題性・限界を意識していた筈の安倍晋三が、日本(人)はアメリカとべったり全く同じ価値観をもつ国(人)だなどと考えていたとは思われない。麻生太郎も同様。
佐伯啓思の論理それ自体はよく理解できる(つもりだ)。西欧近代(進歩主義)の一方の鬼子のソ連が消滅して、もう一方の鬼子のアメリカが(かつてはソ連に隠れて分からなかった)進歩主義=「左翼」国家として登場している、という。
上のこと自体はかりにそれでよいとして、しかし、佐伯啓思の眼(頭)には、アジアに厳然として残る「社会主義」国家、マルクス主義の思想潮流はどの程度の大きさをもって映っているのだろうか。<西欧近代>又は<自由・民主主義>の限界の露出のみが現代の(国家および思想の)状況だとは思われない。まだマルクス主義・「社会主義」との闘いは続いている。マルクス主義者・「社会主義」者は、<親>・<シンパ=共感者>も含めて、しぶとくまだ生き残っている、と私は考えている。彼らのいう<自由・民主主義>の欺瞞を暴くことも、また中国・北朝鮮における<自由・民主主義>の欠如を衝くことも、戦略的には何ら責められないのではないか。
<西欧近代>に淵源をもつ本来は非日本的な<自由・民主主義>価値観の欺罔を批判することも大切だろうが、やはり<西欧近代>に発する<社会主義>的価値観と闘うことも依然として重要ではないか。究極的には、日本も属する<自由主義>を採るか、中国・北朝鮮が立脚する<社会主義(共産主義)>を採るか、であり、この対立は、反米か親米かよりもより重要な、より大きな矛盾なのではないか。
とこう書いている私は「進歩主義」に毒されているだろうか。そうとは自覚していない。問題は、上の方で引用した言葉を使えば、ソ連の崩壊は「左翼の幻想を一晩で吹き飛ばした」と簡単に言い切れるかどうか、だ。この点の認識の違いが、佐伯啓思の一部の論理に違和感を覚えた理由だろう。
追-二カ所、校正ミスを発見している。
①p.138-「共産主義ルネサンス」→正しくは「共和主義ルネサンス」。②p.170後から5行め-「傷づけられた」→正しくは「傷つけられた」。
「あえて一言でレッテルをはれば、大澤さんはポストモダン派左翼、ぼくは保守反動ということになっています」。
大澤某のことは全く知らないが、佐伯が自らを「保守反動ということになっています」と(本気かどうかは別として)語っているのを読んで、微苦笑をした。そのあとで、心の中でハッハッハと笑ってしまった。今のところ私は佐伯啓思の愛読者なので、私も「保守反動」なのだ、きっと(ワッハッハ)。
以上だけだと短かすぎるので、その後の大澤真幸発言だけ要約しておく。
<保守主義・リベラリズムの対立において、佐伯さんは、「リベラリズムがヘゲモニーを握っているという状況認識」を前提にし、「真の保守主義」が必要とし、「伝統であるとか保守の重要性に気づいている論者のほうから抜けていこう」とする。私は、現代日本の論壇では明確な「保守主義」でなくとも「保守的論調」がアピールしていると見ており、「保守が論壇でヘゲモニーを握ろうとしている」今こそ、「いままでのリペラルとは違うほんとうのリベラルが必要」と考え、「ポストモダンに批判的ではあるけれども、その方向性をもっと突き詰めたときに出口がある」と思っている。対立を「別のように眺め、別の方向を目指している」。「右から抜けるか左から抜けるかというシンメトリーがある」。(p.128~p.130)
「真の保守主義」か「ほんとうのリベラル」か!?
<ポストモダン>思想なるものに疎いこともあって論評しにくいが(<新奇だが、何となくいかがわしく珍奇だ>との予断をもっている)、上のまとめ方(二分)でいうと佐伯啓思の状況認識の方に私は親近的だ。もっとも、<保守主義>・<リベラリズム(リベラル)>の両概念の意味が(上の部分だけでは)正確には分からないので、これについて両人に一致があるのかも含めて、きちんと読まなければならないだろう。
今日、明日から読み始める気はないが。
この問題はむろん、改正教育基本法が「我が国と郷土を愛する」態度の涵養を教育目標として掲げたことに関係している。
朝日新聞社説は、やはりおかしい。というのは、簡単にいって<愛国心>教育を「特定の価値観」というのなら、朝日新聞もそれに反対する<特定の価値観>をもっている筈だろう。何度も言及するが、先日までの論説主幹・若宮啓文は<ナショナリズムに反対>という<特定の価値観>をもっていることを公言していたのだ。
自らは「特定の価値観」をもち、それに基づいて社説や記事等を書きながら、「特定の価値観」(の「画一的…押しつけ」)に反対するのは論理一貫しているだろうか。何らかの「特定の価値観」に反対しているだけで、自らが支持する「特定の価値観」についてならば、<積極的に教育することが大切だ>などと平然とのたまうのが朝日新聞ではないか(「ご都合主義」、ダブル・スタンダード)。
上の点を、前回に言及した、佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)は明瞭かつ見事に述べて、「愛国心教育」を批判する「左翼・進歩派」の論拠のなさを衝いている。以下のとおり。
「左翼・進歩派」の批判の主眼(第一)は<「心」を教育できないし、すべきでもない>ということにあるが、この批判は「あまり意味がない」。①「改正基本法が唱えている」のは<「心」の教育>ではなく、<「国や郷土を思う心の大切さ」を教えること>だ。②<「左翼・進歩派」も「自由や民主主義の精神」の涵養は教育の役割と主張してきた。まさに「自由や民主主義を大切に思う心」を教育せよ、と言ってきたのだ。「…心」は教育できない、というのでは「筋が通らない」。(p.112-3)
「左翼・進歩派」の主張の第二は<「愛国心を上から押し付ける」のは間違い、ということだ。だが、彼らも「自由・民主主義・平和主義といった普遍的価値の押し付け」は「正しい」と考えてきたのではないか。だとすると「愛国心という価値の押し付け」間違い論が成立するのは「それほど容易ではない」。(p.114-5)
上の朝日新聞社説でも「特定の価値観を画一的に押しつけるようにな」ることに反対していた。上の二点はいずれも、この社説に対する批判・反駁にもなっているだろう。
こんな論理的な分析も、朝日新聞の社説執筆者は理解できないのかもしれない。「国家」というものを無視したい、又は悪者視したい彼らにとって、「愛国心」やその教育に対して、理屈抜きで、感覚的に嫌悪を覚えているだけの可能性もある。<論理的思考の停止>状態にあるのだ。
あるいは、「自由・民主主義・平和主義」と「愛国(または愛郷)主義」とは異質で同列に論じられない、とでも主張するだろうか。だが、「愛国(または愛郷)主義」を異質だと感じるその感覚こそが、「特定の価値観」にもとづいていることを知らなければならない。
佐伯啓思・日本の愛国心-序論的考察(NTT出版、2008.03)をたぶん4/01から読み始めて、p.152まで、数回に分けて一気に読んだ。「あとがき」も読了しているので、すでに半分近い。
佐伯の本には読み残しが多いが、「愛国心」は今日的テーマでもあり、最新の彼の本でもあるので、これを次に片付ける。
内容をフォローしないが、1.「ナショナリズム」、「国民」および「愛国心」に関する概念の分析は、シェーマ的すぎると感じるほどに、かつ唖然とするほどに、見事という他はない(p.92、93、p.107参照)。
朝日新聞コラムニストの若宮啓文は「ナショナリズム」概念について、きちんと何かを理解した上で<ジャーナリズムはナショナリズムの道具ではない>と書いたのだろうか。佐伯著をじっくり読んで理解できる能力が若宮啓文にあるかどうか。
2.佐伯は日本人の固有名詞を出して批判することが全くか殆どなかったように思うが、この本の第一章のうち30頁くらいは明確に丸山真男の名を出してのその論理・概念・理論の批判だ。その内容にも納得がいく。
あらためてこんな学者=丸山真男に「呪縛」された「知識人」たちを罪深いと感じるし、こんな学者の全集や書簡集等が今だに刊行されていることを異様だとも思う。
3.ホッブズ、ルソー、フランス革命、アメリカ革命等に関する話が(私には再び)出てくる。何度も読んだような、しかし新しい別のことも教えてくれているようだ。
余裕があればいつか、内容の一部を紹介・要約する。疑問点もある。
最終章(第七章)は「アメリカ文明の終着点」で、筆者はアメリカ文明への「警戒」、自由主義・民主主義・グローバリズム・情報革命への「懐疑」を呼びかけ、ニヒリズムを基調とする「現代文明というものの本質」を「認識」することから始める他はない、とこの書物全体を結んでいる(p.238)。
あまり夢の湧いてこない、建設的・積極的とは必ずしも言えない終わり方だ。もっとも、佐伯啓思は、この半年間には「義」というものについて書いたり、同・日本の愛国心(NTT出版、2008.03)を出版したりしているので、それらでは少しは「明るい」話を読めるのかもしれない。
西部邁と佐伯啓思の2名は隔月刊の雑誌・表現者(イプシロン出版企画)の「顧問」のようで、かつこの雑誌の編集部(株・西部邁事務所)は「親米保守が分裂病…」と述べており(17号編集後記)、この雑誌は<反・親米保守>の基本的立場のようだ。
佐伯啓思のアメリカニズム・グローバリズム批判等からして、佐伯が単純な<親米保守>でないことは分かるが、では<親中国>か<親米>かと問われるとまさか前者だとは答えないだろう。
中国「文明」に日本が席巻・蹂躙されてはならないのと同様にアメリカ「文明」のよくできた子供になっても困る、ということならば、自信をもって支持できるのだが。
元に戻って、佐伯啓思・<現代文明論・下>は「西欧近代」の帰結の「歴史的で文明論的な見取り図」(p.5)を叙述するもので、たぶん種々の疑問・批判もあるのだろうが、「視覚」・「見通し(概観)」という点でおおいに参考になった。<現代文明論・上>と同様に、ときどき、一部でも要約的に引用・紹介したい。
さっそくだが、「大衆民主主義」の「危うさ」と「恐ろし」さに関して、次のような文章がある(「」の引用以外は要約)。
・「大衆民主主義」とは「大衆の意見がそのまま政治に反映されるべき」との「政治システム」だとすると、大衆が「政治の主役」で「世界(社会)は大衆によって動かされる」ことを意味する。これは「政治を動かす者は、優れた指導者」、「知識や判断力をもったエリート層」だとした一九世紀ヨーロッパと基本的に異なる。「大衆社会は政治の基本的なあり方を変え」た。かつまた、「集団としての大衆」が「それなりの合理性や判断力とはまったく違った次元」で動くとすれば「恐ろしいことだ」。大衆の描く「世界(社会)」とは「みずからの欲望や野望や情念やら偏見やらを動員して、みずからに都合よく定義した」ものなのだ。(p.152-3)
・それなりの「能力や見識や、さらには時間」をもつ人でないと「政治にかかわる」のは無理だ。だが「大衆」は、「平凡で平均的な者の、平均的な感覚や思いつき」、「平凡な人間」の「凡庸な考え」が「政治を動かす」あるいは「政治の場に反映されるべき」と考えている。「政治的権利」をもつ者は「その権利に値するだけの優れた人間」との「自覚と努力」が必要だった筈だが、現今の「大衆」はそうではない。「大衆の本来のあり方」に反逆しているのであり、これ=「大衆の本質に対する反逆」こそが、オルテガのいう<大衆の反逆>だ。(p.158-161)。
以上。
・フランス革命の同時代の英国人、「保守主義の生みの親」とされるエドマンド・バークは1790年の著で、国家権力・「政府」は「社会契約などという合理主義でつくり出すことはできない」と述べ、フランス国王・王妃殺害の前、むろん「ジャコバン独裁」とその崩壊の前に、フランス革命は「大混乱に陥るだろうと予測した」。(p.162-3)
・バークによれば、フランス革命の「誤り」は「抽象的で普遍的な」「人間の権利」を掲げた点にある。「人間が生まれながらに自然に普遍的にもっている」人権などは「存在しない」、存在するのは抽象的な「人間の権利」ではなく、「イギリス人の権利」や「フランス人の権利」であり、これらは英国やフランスの「歴史伝統と切り離すことはできない」として、まさにフランス「人権宣言が出された直後に『人権』観念を批判した」。(p.166)
・バークによれば、「緩やかな特権の中にこそ、統治の知恵や社会の秩序をつくる秘訣がある」。彼は、「特権、伝統、偏見」、これらの「合理的でないもの」には「先人の経験が蓄積されている」ので、「合理的でない」という理由で「破壊、排除すべきではない」。それを敢行したフランス革命は「大混乱と残虐に陥るだろう」と述べた。(p.167-8)
今回は以上。
「合理的でないもの」として、世襲を当然視する日本の「天皇」制度がある。これを「破壊、排除すべきではない」、と援用したくなった。
それよりも、<ヨーロッパ近代>といっても決して唯一の大きなかつ「普遍的な」思想潮流があったわけではない、ということを、あらためて想起する。
しかるに、日本国憲法はこう書いていることに注意しておいてよい。
前文「……<前略>。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
第97条「……基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、…、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
もちろん、客観的に「普遍の原理」にもとづいているのではなく(正確には、そんなものはなかったと思われる)、<制定者が「普遍的」だと主観的には理解した>原理が採用されている、と理解しなければならない。「生まれながらの」(生来の)とか「自然的な」自由・権利という表現の仕方も、一種のイデオロギーだろう。
話題を変える。月刊WiLL5月号の山際澄夫論稿(前回に触れた)の中に、「(朝日新聞にそういうことを求めるのは)八百屋で魚を求める類であろうか」との表現がある(p.213)。
上掲誌上の潮匡人「小沢民主党の暴走が止まらない!」を読んでいたら、(民主党のガセネタ騒動の後に生じたことは)「木の葉が沈み、石が浮くような話ではないか」との表現があった。
さすがに文筆家は(全員ではないにせよ)巧い表現、修辞方法を知っている、と妙な点に(も)感心した。潮匡人は兵頭二十八よりも信頼できるが、本来の内容には立ち入らない。民主党や現在の政治状況について書いているとキリがないし、虚しくなりそうだから。
佐伯啓思・<現代文明論・下>-20世紀とは何だったのか・「西欧近代」の帰結(PHP新書、2004)をp.149(第五章の途中)くらいまで読んだ(半分を超えた)。
第二章はニーチェ、第三章はハイデガー、第四章はファシズム、第五章は「大衆社会」が主テーマ。論旨は連続して展開していっているが、省略。
前回書いたことにかかわり、「大衆社会」における、又は大衆民主主義のもとでの「世論」なるものを佐伯が次のように表現・説明しているので書き記しておく。
「世論」とは「国民の意思」=「民意」と言い換えてもよいだろう。昨年の参院選後に<ミンイ、ミンイ>と叫んでいた者たちに読んで貰いたい。佐伯の本を聖典の如く扱っているわけでは全くないが。
①「世論」は、「人々の個性的な判断や討議の結果というよりも、もともとはひとつの情報源から発したものが多量に複製された結果というべきもの」(p.140-1)。
②「世論」は、「人々のさまざまな独自の意見の結集ではなく、人々がお互いに相手を模倣しているうちに、ひとつの平均的な意見に収斂してしまったものにすぎない」(追-「発信源になるものは多くの場合、新聞やラジオといったメディアでしょう」)(p.145)。
③「世論」は、「人間がある集団のなかで、その集団に合わせるために、その集団の平均的見方で物事を考えているだけだ」(p.148)。
以上。なお、佐伯は、これらを現代日本を念頭に置いて書いてはいない。20世紀に入って生成した「大衆社会」(大衆民主主義)の時代における「世論」について一般論として(欧米の議論を参照しつつ)書いている。だが、むろん、現代日本もまた「大衆民主主義社会」だ。
佐伯啓思・<現代文明論・上>(PHP新書、2003)からの要約的引用のつづき。
・フランスにはアメリカと違い「きわめて貧しい」「市民階級」があり、「貧民市民層」の支配層(王・宮廷貴族・官僚・僧侶)への「恨み」・「怒り」=「ルサンチマンに彩られた自己意識、…被害者意識」がフランス革命を導いた「人々の心理」だった。革命は「権力の創出」(アメリカ)ではなく、「権力の破壊」に向けられた。(p.156-7)
・フランスでの「人民主権、…民主主義は、まずは反権力闘争として提示された」。フランス革命が生んだ「近代民主主義」は古典古代の如き「有徳の市民による政治参加」ではなく、「恨みと怒りに突き動かされた無産階級の、財産階級への闘争だった」。この意味で、「近代民主主義は、本質的に反権力的で、つねに権力を破壊しようとの衝動を伴っている」。(p.157)
・ロベスピエールはルソーを通して古代「共和主義」に共鳴して「徳の共和国」を作ろうとしたが、その「徳」は「貧者への同情に変形され」、その結果、フランス革命の「徳の共和国」は「徳のテロル」に変わった。(p.160)
・「ルソーの民主主義論」の二側面のうち「古典古代的な共和主義」・「市民的美徳」の再構成は「アメリカに受け継がれた」。また、アメリカ独立革命の指導者たちは「ルソー的な直接民主主義を完全に放棄」し、「連邦制という新たなシステム」を創出した。(p.161)
・もう一つの側面=「社会契約論を徹底した根源的な人民主権」は、「フランス革命に受け継がれた」。「古典的な共和主義や古典的市民の観念を失った近代民主主義は、フランス革命において凄惨な帰結をもたら」した。(p.162)
以上。
佐伯啓思に社会主義ないしマルクス主義に関する叙述は少ないと思っているが、佐伯啓思・「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理(講談社現代新書、1993)の第一章(計25頁)が「社会主義はなぜ崩壊したのか」で、読んだ形跡があった(一昨年か昨年)。但し、主として社会主義「経済」を問題にしており、マルクス主義全体を対象にしているのではないようだ(なお、この本はこの第一章しか目を通していないと見られる)。
既述のとおり、佐伯・<現代文明論・上>(PHP新書、2003)には、引用して書き残しておきたい文章が多い。以下は、その一部。断片的に。要約も適宜行う。
・ルソー主義者は現実の政治の場でも「主権」=「一般意思」は貫徹されるべきで、「統治者」は「主権者」そのものの必要があると読んだ。「その帰結はというと、全体主義へと陥った」。(p.136)
・ルソーの「市民」とは、「私心」を捨てて「公共的なもの」を考える、「市民的美徳」をもつ「徳の高い公共心に富んだ」、「古典古代」的「市民」で、「共和主義」ともおおよそ重なる(p.140-2)。しかし、「近代民主主義」はルソーが復活を意図した「共和主義が、実際には大きな変質を受けて誕生した」。ルソーにおいて「古典的な市民による共和主義が、人民主権の民主主義を支えていたはず」だったが、実際には、「近代民主主義」における「市民」とは、「単なる個人の集まりで、自分の利益、権利にもっぱら関心をもつような個人」だった。そして、かかる「近代的市民」が「近代民主主義」の主役になった。(p.146-7)
・「民主主義を徹底して…人民主権を実現しようとすると、無理にでも民衆の一致した意思をつくり出す」必要があり、そのために「一般意思」という「フィクションを民主主義は必要とする」。「このフィクションが…『国民主権』や『国民の意思』という概念」だ。かかる「国民の意思」を「仮構せざるをえないところに近代民主主義の逆説がある」。(p.147-8)
・上の「考え方を徹底すると」、自分が「国民の意思」を表現しているとする「究極の代表者」=「独裁者」が現れる。「一種の全体主義の登場」だ。もっとも、「全体主義」は「目に見えない」「国民の意思」によって動かされることもある。「世論万能の政治」は「変形された全体主義」だ。「ルソーの考えたような民主主義を徹底すれば、ほぼ間違いなく全体主義へと行き着いてしまう」。(p.148)
・「民主主義のなかには、あらかじめ何か全体主義的なものが含まれてしまっている」。「ルソーが示したものは、よくいわれるように、近代的民主主義の理論的な基礎」のみでなく、「同時に…全体主義的なものに変形されてしまう危険性でもあった」。(p.149)
・「われわれ」〔現代の日本人〕の考える「自由」は「公的なものと対立するもので、もっぱら『私』のみにかかわる」。一方、「アメリカの独立の指導者」たちにとって、「自由」とは、「もっと積極的に、人々との共同作業を行い、共同で何かをつくり出してゆく活動」にこそあった。「そのなかで、自己の能力を発揮し、他者から敬意を得る、こうした意味での自己実現こそが自由だということ」だった。(p.155-6)
つづき、又は別の箇所への言及は別の機会に。
昨夜、佐伯啓思・人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考(PHP新書、2003)を最後まで一気に読了。面白かった。(前夜読んだ範囲内では)ウェーバー、フロイト、フーコー、ニーチェ等を登場させてこのように「西欧近代」という「物語」(p.265)を「描き出」せる人は日本にはなかなか存在しないのではないか。
部分的にでも引用したい文章は多くありすぎる。別の機会におりに触れて、適当に使ってみよう。
ニーチェ死去のちょうど1900年辺りを区切りにしているためか、ロシア革命への言及はない。この本の続編にあたる同・20世紀とは何だったのか-「西欧近代」の帰結<現代文明論・下>(PHP新書、2004)の目次を見たかぎりでも、ロシア革命への論及は少ない。
それにマルクスらの『共産党宣言』は1848年刊だから、「西欧近代」再考の前著でマルクス主義・社会主義(「空想的社会主義」も場合によっては含めて)叙述してもよかった筈だが、言及がいっさいない。
このことは、佐伯がマルクス主義を<相手にしていない>、マルクス主義に<関心自体をよせていない>(つまり、これらに値するものとは考えていない)ということを意味するのだろうか。
この点、マルクス主義やロシア革命との関係で各思想家(哲学者)を位置づけていたと見られる中川八洋とは異なるようだ。
だが、マルクス主義(→ロシア革命)もまた「西欧近代」の所産(それが「鬼殆」・「鬼子」であろうとも)だとすれば、少しは言及があってもよかったように思える。このブログ欄が、明確に反コミュニズム(共産主義>日本共産党)を謳っている(つもり)だからかもしれないが。
さて、次は上記の<現代文明論・下>にしようか。中途で停止中の佐伯・隠された思考(筑摩)にしようか。それとも、しばらく忘れている阪本昌成・法の支配(勁草)にしようか。自由な時間が欲しい。
先週のいつ頃からだったか、二夜ほどで、佐伯啓思・人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考<現代文明論・上>(PHP新書、2003)の最初からp.168までを一気に読んだ。
広いスパンだけに、むつかしくはない。だが、これは大学の全学共通科目(私の時代では「教養」科目)の講義を元にしてできた本のようで、当該科目を受講できた学生たちが羨ましい。自分も20歳前後にこんな内容の講義を(まじめに)聴いていれば、人生が変わったかも、と思ったりする。
とりあえず、二点が印象に残る。
第一に、何をもって、またいつ頃からを「近代」というかは問題だが、佐伯によると、中世=封建時代からただちに近代=自由・民主主義の時代に<発展>したわけではなく(ルネッサンス・「絶対王政」の時期が挟まる)、些か安易に一文だけ抜き出せば、「宗教改革という名のキリスト教の原理主義的回帰から、宗教から自立した近代的国家が成立し、世俗の領域が確立した」(p.81)。あえてさらに短縮すれば、宗教(神)から自立した世俗的国家・社会の成立こそが「近代」なのだ。
これはむろん<ヨーロッパ(西欧)近代>のことで、かつ西欧でもフランス、イギリス、ドイツで異なる歴史的展開があったのだとすれば、<(ヨーロッパ)近代>の萌芽・成立・その後の「変化」を日本に当てはめるのは、キリスト教という宗教と<世俗>世界の対立・抗争に類似のものを日本は持たないことだけでも、もともと(よほどひどく単純化・抽象化しないかぎりは)不可能なことだろう。<進んでいる・遅れている>を論じても、-欧州「進歩」思想に全面的に同調しないかぎりは-無意味なのではないか。
第二は、前回書いたことにかかわり、前回にすでに意識はしていたことなのだが、ルソーについてだ。
ルソーについては前回も触れたが、中川八洋や阪本昌成の著書を参照しつつ、何度かその思想の中身に言及してきた。
かつて自分がこの欄に書き記したことをほぼ失念しているが、佐伯啓思もほぼ同旨のことを(も)述べているように思う。以下、適当に要約的に引用する。
①万人が争う「自然状態」をなくして「自己の保存」(個人の生命・財産の安全確保)のために<契約>して「国家」ができるとするホッブズの矛盾・弱点-個人・市民と主権者・国家が乖離し後者が前者を抑圧するという可能性-を「論理的に解決」する考え方を示したのがルソーだ(p.115-6、p.119)。
②「近代」社会の合理性・理性主義を肯定し、「自由や平等に向けた社会改革」を支持するのが「啓蒙思想」だとすると、ルソーは(啓蒙主義者・啓蒙思想家としばしば称されるが)「啓蒙主義に対する敵対者」だった(p.119)。
③ルソーを啓蒙主義者の代表者にしたのは彼の著書『社会契約論』だが、この本の理解は容易でない。
1.ホッブズと同様、「生命・財産の安全を確保するための契約」を結ぶ。但し、ホッブズの「契約」だと市民は国家・主権者に「結局、…服従」してしまうので、人間が「本来自然状態でもっていた基本的な自由」を失わず、「自分が何者かに決して従属しない」契約にする必要がある(とルソーは説く)。
2.どうすればよいのか。「唯一の答えは、すべての人が主権者になるような契約」を行うことだ。これは、換言すると、「すべての者が従属者」でもある、ということ。この部分のルソーの叙述はわかりにくい。
3.このわかりにくさの解消のために持ち出した「非常に重要な概念」が「一般意思」(p.121-3)。
④1.「一般意思」とは「すべての人が共通にもっているような意思(あるいは利害・関心)」。かかる「意思」を軸にして全ての人が結合でき、一つの「共同社会」ができる。この共同体は「すべての人が共通にもっている利害や関心を実現し、またそれを焦点にすることで形成される」。
2.とすると、「共同体の意思」と「一人ひとりの人間」の「意思」は「同じはず」。「一般意思」による「共同体」形成により「個人の意思、利益、関心と社会の意思、利益、関心とは完全に一致する」。
3.人はたしかに「共同体にすべて委ねてしまう」が、共同体に「従属」しはせず、むしろ「委ねる」ことにより自分の意思・利益を「いっそう有効に実現」できる。
くり返せば、人がその生命・身体・全ての力を「共同体に委ね」、身体・全ての力を「共同のものとして、一般意思の最高の指導のもとに置く」。「自分自身を共同体に委ねてしまうことによって、逆に共同体の全体の力を、自分自身のものとして受け取ることができる」(p.123-4)。
以上が、人は「自らが主権者であり、また服従者だ」ということの意味。
⑤1.「一般意思」とは、個人の個々の関心の調整で生じるのではない、「もっと崇高」で「もっと根源的なもの」。
もっとも基本的なものは「共同防衛」、「共同で自分たちの生命・財産を防衛すること」。
2.共同防衛が「一般意思」ならば、人は「一度、全面的に一般意思に服」する必要がある。ルソーいわく、「共同体の構成員は…自己を共同体に与える。…彼自身と…彼のすべての力を、現にあるがままの状態で与える」。
3.(佐伯は言う)「これはたいへんな話です」。「一般意思の実現のためには共同体に命を預けなければならない」。
ルソーいわく、<統治者が国家のために死ねと言えば、市民は死ななければならない>。
4.(佐伯は言う)上の2.3.のような面は「従来の政治思想史のなかでは…故意に触れられずにき」た。だが、かかる重要な点を欠いては、ルソーの社会契約論、つまり、「人々が契約によって社会状態に入り、なおかつ主権を維持するという論理は生まれえない」(p.125-8)。
(以下にこそ本当は引用したかった部分が続くのだが、長くなりそうなので(すでに長いので)、結論的な叙述のみ引用しておく。)
⑥1.「一般意思」は事実上「人民(又は国民)の意思」に置換される。「『人民の意思』を名乗った者はすべてが許されます。彼に反対する者は『人民の敵』となるわけで、『人民の敵』という名のもとに反対者はすべて抹殺されてしまう」。「代表者に敵対する者は一般意思に対する裏切り者」で「共同社会に対する裏切り者」となる。「これは、独裁政治であり全体主義です」。
2.「つまり、ルソーの論理を具体的なかたちで突き詰め現実化すると、まず間違いなく独裁政治、全体主義へと行き着かざるをえない。根源的民主主義は、それを現実化しようとすると、全体主義へと帰着してしまう」。
3.「現にそれをやったのがフランス革命でした。フランス革命は。…ルソーの考え方をモデルにして行われた…。ルソーの最大の賛美者であり、徹底したロベスピエールは、まさに、自らが『人民の意思』を代表すると考え、人民の敵…といわれる者をすべて抹殺していく。いわゆるジャコバン独裁、恐怖政治に陥る」(p.134-5)。
とりあえず以上。ルソーはフランス革命そして「近代」や「民主主義」の父などというよりも、ファシズムや社会主義(・共産主義)を用意した理論・思想を自らのうちに胚胎させていたのではなかろうか。
ルソーがいなければマルクスも(そしてマルクスがいなければレーニンも)いなかった。中川八洋も同旨のことを繰り返し述べていたように記憶する。
このように見ると、フランス革命を「学んだ」ポル・ポトらが「社会主義」の名のもとで自国民の大量虐殺を行ったのも何ら不思議ではない。と述べて、前回からのつなぎの意味も込めておく。
全て又は殆どではないが、佐伯啓思の本を読んでいて、感じることがある。
第一は、佐伯の仕事全体からすれば些細なことで欠点とも言えないのだろうが、欧米の「思想(家)」には造詣が深くとも、日本人の政治・社会・経済思想(家)-漱石でも鴎外でもよいが-については言及が少ないことだ。無いものネダりになるのだろうが、この点、「日本」政治思想史を専門としていたらしい丸山真男とは異なる。
だが、丸山真男よりも劣るという評価をする気は全くない。丸山真男には岩波書店から安江良介を発行者とする「全集」(別巻を含めて計17巻)があり、さらに書簡集まで同書店から出ているようだが、いつかも書いたように、そこまでの内容・質の学者又は思想家だったとは思えない(<進歩的知識人>の、客観的には又は結果的には浅薄で時流に乗った文章の記録にはなる)。
むしろいずれ将来、佐伯啓思については既刊行の著書も全て再録した「全集」をどこかの出版社が出してほしいものだ。それに値する、現在の「思想家」ではないか。
第二に、佐伯はしばしば<冷戦の終了(冷戦体制の崩壊)>という旨の表現を簡単に使っている。しかし、<冷戦終了>(フクシマの「歴史の終わり」)もまた欧米的発想の観念で、<冷戦が終了した>と言えるのはソビエト連邦が傍らにあった欧州についてである、そして、アジア、とくに東アジアではまだ<冷戦は続いている>、のではなかろうか。
欧州を祖地と感じる国民が多いと思われるアメリカにとってはソ連崩壊は自らのことでもあったが、北朝鮮・中国については、どこか<遠い>地域の問題という感覚が(ソ連の場合に比べてより強く)あるのではないか。
北朝鮮・中国(中華人民共和国)が近隣にある日本はまだ、これらの国との<冷戦>をまだ続けている、と認識すべきだろう。そして、<冷戦>からホットな戦争になる可能性は厳として残っていると考えられる。
<冷戦終了>=ソ連崩壊・解体(+東欧の「自由化」等)によって<社会主義>・<コミュニズム(共産主義)>あるいは<マルクス主義>というイデオロギーは大きな打撃を被った筈で、このことの影響・インパクトを軽視し、又は巧妙に誤魔化している<親社会主義>の(又は、だった)学者・文化人への批判を、おそらく佐伯もするだろう。ましてや、ソ連は「(真の)社会主義国」でなかったと言い始めた日本共産党に対しては<噴飯もの>と感じているだろうと推測はする。但し、北朝鮮・中国問題への関心が現実的重要性からするとやや少ないように感じられるのは残念ではある(これも無いものネダりかもしれないが)。
ところで、樋口陽一・「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房、2006)は1689(英国・権利章典)、1789(フランス革命)、1889(明治憲法施行)の各年に次ぐ4つめの89年の1989年も重要なことがあった、として次のように述べている。
「…旧ソ連・東欧諸国での一党支配の解体です」(p.29)。
ここの部分は多くの論者によるとソ連等の<社会主義国の崩壊(解体)>と表現されるのではないかと思うが、樋口は「一党支配」と言い換えている。だが、「『権力の民主的集中を掲げて対抗してきた旧ソ連・東欧諸国での一党支配の解体」という表現は、本質を、あるいはその重要性を少なからず隠蔽していると感じられる。その意味で、<政治的>に配慮された表現を採用している、と思われるのだが、<深読み>かどうか。
全読了した佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)の最後から二つめの項目(「保守主義にとってなぜ国家なのか」)の基本的主題は「国家」だが、その中で、「保守主義」と「進歩主義」の差違が対比されて述べられている。要約的になるが、以下のごとし(p.263-266)。「保守主義」を<保守>、「進歩主義」を<進歩>と略記する。
なお、これら二概念を「政治的」に「通俗化」しないで理解すべき、と佐伯は念を押している。
1.<進歩>とは「歴史を、人間および人間社会の進歩として見ることができるとする発想」。歴史・文明の「進歩の観念」を生み出したヨーロッパ「啓蒙主義」に由来するので、この主義者の多くは「西欧の近代」を参照し、「範型を求める」。
<保守>とは、「進歩する歴史の観念を拒否」する、あるいは「人間の理性に対してそれほど強固な信頼をおかない」。そり代わりに「歴史」=「人間の経験の堆積」の中の「比較的変わらないもの、絶えず維持されるもの、繰り返し現れるもの」に学び、「信をおこう」とする。
2.<進歩>は「未来を構想する」。<保守>は「過去に思いをよせる」。前者は「未来にユートピアを想定し」、後者は「過去に、あらかじめ失われたユートピアを設定」する、と言えるかも。
3.カントに対してヘルダーやヴィーコーが、フランス革命に対してバークが異議を唱えたように、<保守>は<進歩>に対する批判として、とくに「啓蒙主義」(>「普遍主義」・「理性主義」)批判として出現した。
<保守>にとって重要なのは、第一に、「普遍史」ではなく「各国史」・「各国の国民性ないし国民精神のありか」。第二に、古代→封建→近代という「発展」と「歴史」を捉えない。<進歩>においては「進歩する歴史」ならば、<保守>においては「重層する歴史」。「歴史」の底には「微動だにしない層」や「比較的変化のない層」があるとともに「表層」では「さまざまな変化」が生じている、という「歴史観」だ。
4.両者の対立は、「普遍主義」と「個別主義」、「理性主義」と「経験主義」の各対立とも言える。
以上は、反復するが、佐伯の論じたい主題そのものではない。しかし、なかなか参考になる整理・分析の仕方ではないか。
若いとき、私は明らかに「進歩主義」者、そして「合理(理性)主義」者だったと回想できる。しかし、今では、上のように説明される二主義のうち、「保守主義」に強く傾いている。
加齢のせいもある。加齢とは、つまりある程度長く「生きてきた」ということとは、世の中は「建前」・「理念」や「綺麗事」だけで動いていない、社会に関しても人間に関しても(ついでに医学にかかわる「人体」の諸現象についても)「人知」の及ばない(その意味で「偶然的」な)、あるいは「人知」(=理性)ではどうしようもできない、どう説明もできない(その意味で「宿命的」・「運命的」な)事柄がある、ということが(若いときに比べて)より理解できるようになった、ということを(も)意味しているだろう。かかる理解は、<近代的「個人」>の「理性」というよりも、過去からの「歴史」の堆積の中にある「慣行」・「伝統」にもとづいて社会や人間は動く場合が少なくない(そしてその方が「理性」による「変革」にもとづくよりも首尾良いことが少なくない)、ということを認めることにつながるだろう。このような認識は、佐伯啓思が意味させる「保守主義」に親近的だと思われる。
付記する。佐伯は「進歩主義」は政治的な「左翼」と同義ではないと強調しつつ、別の箇所では日本について次のようなことも言っている(p.269-p.270)。
1.「社会主義の崩壊」により「左翼進歩的陣営」も崩壊したと見るのは「まちがっている」。<歴史の進歩主義>はなお根強く、「これほどまでに、進歩主義が社会の全面を覆った時代はめずらしい」。
2.<歴史の進歩主義>の中には、①「薄められた『サヨク』としての進歩主義」の他に②「いわば旧保守派の進歩主義という奇妙なもの」もある。これらはA「グローバルなリベラル・デモクラシー」とB「グローバルなキャピタリズム」の勝利を全面的に認める、という「進歩主義」だ。一方の極にはa「市民主義や朝日新聞」が在り、他極にはb「経団連や日経新聞」が在る。aは「人権+デモクラシー」で、bは「経済的自由主義+デモクラシー」だ。そしてともに「ヨーロッパの啓蒙主義」が生んだ、これの「ある種の後継者」だ。
そして言う-3.「いまや圧倒的に苦境に立たされているのは保守主義なのである」。
上の2.には具体的には異論があるかもしれない。但し、読売新聞が決して「保守的」ではなく、朝日・日経とANY連合を組んだことも(かなり飛躍するようでもあるが)理解できそうな気がする。
あとの一般的な1.と3.はこの指摘のとおりではなかろうか(10年前の本の指摘だが現在でも)。「進歩主義」による皮相な諸現象についての言及も佐伯の本には多いのだが、いちいち紹介する時間的余裕がない。
ようやく一つの区切りがついた。再びこの本に言及し、又は引用する機会がきっとあるだろう。
佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社)を読んでいる。掲載してメモ化しておきたい整理が一点出てきたが、その前に、「ナショナリズム」に関する論述を要約して記す。
朝日新聞・若宮啓文は<ジャーナリズムはナショナリズムの道具じゃないんだ>と言い放った。「ナショナリズム」の箇所に「左翼リベラリズム」・「進歩主義」・「地球市民主義」等のいずれを挿入してもよい筈なのだが、彼はなぜか、「ナショナリズム」だけを持ち出して、その<道具じゃないんだ>と書いたのだ。この若宮啓文は佐伯著をじっくりと読むがよい。
佐伯は上の本のp.275-6で、次のように述べる。
1.「国家」とは「ひとつの主権をもつ政治社会」という一つの事実をいう。「ナショナリズム」と呼ばれるものは(「国家主義」ではなく)「国民主義」で、「国民形成についてのイデオロギーや神話を含み」もつ。国民は「言語、文化、価値観を共有した集団」だというのは「神話」で、ルナンが言う如く、「国民」を作り上げるのは「国民であろうとする」「日々の国民投票」だ。それ以上の「国民」観念はフィクションだが、「国民国家」成立のためには何らかのフィクションが必要だった。
2.「国民」は自生的には形成されず、「主権国家」の形成とともに又はその後で作られたフィクションだ。だが、どのようにしてこのフィクションが作られるかは「国と歴史状況によって」大きく異なる。「同質性」と「多様性」のいずれを強調するかも「状況によって異なっている」。だから、「かりに『国民』というフィクションを固定化したものとして強調するナショナリズムが危険かどうかも、実は、状況によって異なっている」。「ナショナリズム一般が常に危険極まりないなどということは言えないはず」だ。
前段に少しわかりにくい箇所はあるが、「ナショナリズム」に関する至極常識的な論述ではないか。
朝日新聞・若宮啓文は、「ナショナリズム」に「国家」の蔭を見て、「戦後日本の知識人の良心と見なされた」「反国家主義」(p.258)の立場又は「隠された」イデオロギーにもとづいて上のような反「ナショナリズム」の言辞を吐いたのだろう。佐伯啓思が指摘するとおり、「反国家主義」・「反権力主義」は<戦後民主主義>思潮の重要な内容だった。
同・自由とは何か(講談社現代新書)と同様にやはり面白い。読書停止?中の同・隠された思考(筑摩、1985)よりも読み易く、問題意識がより現実関係的だ。但し、筆者は隠された思考の方に、時間と思索をより大きく傾注しただろう。
紹介したい文章(主張、分析、指摘等々)は多すぎる。
p.212以下は第Ⅱ章の3・「『歴史の終わり』への懐疑」で、F・フクシマのソ連崩壊による「歴史の終わり」論を批判して、そこでの「歴史」とはヨーロッパ近代の「リベラル・デモクラシー」のことで、それは20世紀末にではなく「実際には19世紀で終わっていた」(p.219)と佐伯が主張しているのが目を惹いた。
その論旨の紹介は厭うが、その前の2・「進歩主義の崩壊」からの叙述も含めて、意味は理解できる。
一部引用する。①欧州思想界の主流派?の「進歩主義」(→戦後日本の「進歩的」知識人)に対して、19世紀のニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキー、20世紀のベルグソン、シュペングラー、ホイジンガー、オルテガ、ハイデッガーらは「近代を特権化しようとする啓蒙以来のヨーロッパ思想、合理と理性への強い信頼に支えられたヨーロッパ思想がもはやたちゆかないというペシミズムの中で思想を繰り広げ」た。「もはや進歩などという観念は維持できるものではなくなっていた」(p.219~220)。
②「歴史の進歩の観念」=「個人の自由と民主主義からなる近代市民社会を無条件で肯定する思考」は「実際には…二十世紀には神通力を失っていた」。「近代、進歩、市民社会、といった一連の歴史的観念は、一度は破産している」(p.222-223)。
これらのあと、(戦後)日本の<進歩主義>又は「進歩的」知識人に対する<批判>らしきものがある。
③欧州の「進歩」観念を「安易」に日本に「置き換えた」ため、「進歩の意味は、…検証されたり、…論議の対象となることなく、進歩派という特権的知識人集団の知的影響力の中に回収されてしまった」。「進歩は、…進歩的知識人の頭の中にあるとされた。彼らが進歩だとするものが進歩なのであり、これは多くの場合、ヨーロッパ思想の中から適当に切り取られたもの」だった(p.224)。
④「普遍的理念としての進歩の観念(近代社会、市民社会、自由、民主主義、個人主義、人権など)は、戦後のわが国では、ただ進歩派知識人という社会集団の頭を占拠したにすぎない」(p.225)。
このあとの展開は省略。
「進歩的知識人の頭の中」だけ、というのはやや誇張と思われる。「進歩的知識人の頭の中」だけならいいが、書物や教育を通じて、「進歩的知識人」が撒き散らす概念や論理は<空気の如く>日本を支配してきたし、現在でもなお有力なままではないか、と思われるからだ(この旨を佐伯自身もこの本か別の著に書いていた筈だ)。
但し、別の所(p.200)で「大塚久雄、丸山真男、川島武宜」の三人で代表させている戦後日本の<進歩的>知識人たちが、欧州<近代>を丸ごと、歴史的・総合的に<学んだ>のではなく、ルソー、ケルゼンらの<主流派>の思想、現実ないし制度へと採用されたことが多かったような「通説的」?思想のみを「適当に」摘み食いしてきた(そして日本に<輸入>してきた)という指摘はおそらく適切だろうと思われる。
上の本に併行して、樋口陽一・「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房、2006)を先週に読み始め、2/3以上になるp.114まで一気に読んだ(最後まであと40頁)。とくにむつかしくはない。「まっとうな」憲法論議の役にどれほど立つのかという疑問はあるが、いろいろと思考はし、問題設定もしている(但し、本の長さ・性格のためかほとんど具体的な回答は示されていない)ということは分かる。
<個人主義>(個人の尊重)との関係で佐伯と樋口の両者の本に同じ回に言及したことがあった。
上で<ヨーロッパ近代>や「進歩的知識人」に関する佐伯の叙述の一部を引用した動機の一つは、次の樋口の、上の本の冒頭の文章を読んだからでもある。
<自己決定原則は「自分は自分自身でありたい」との「人間像」を前提に成立していたはず。実際には、「教会やお寺」・「地元の有力者」・「世間の風向き」などの他の「だれかに決めてもらった」方が「気楽だ」という人の方が「多かったでしょう」。しかし、「そんなことではいけない」というのが「近代という社会のあり方を準備した啓蒙思想以来の、約束ごとだったはず」だ。この「約束ごと」に対する「公然とした挑戦が…思想の世界でも」説かれはじめた、「『近代を疑う』という傾向」だ。>(p.10)。
樋口陽一は丸山真男らの先代「進歩的知識人」たちを嗣ぐ、重要な「進歩的知識人」なのだろう。上の文のように、「近代」の「約束ごと」を墨守すべきことを説き、「『近代を疑う』という傾向」に批判的に言及している。
樋口のいう「近代」とは<ヨーロッパ近代>であり、かつ欧州ですら-佐伯啓思によると-19世紀末には激しい批判にさらされていたものだ。樋口はまるで人類に「普遍的な」<進歩的>思想の如く見なしている。
樋口に限らず多数の憲法学者もきっと同様なのだろう。特定の<考え方>への「思い込み」があり、特定の<考え方>に「取り憑かれて」いる気がする。
日本国憲法がそのルーツを<ヨーロッパ近代>に持ち、「人類」に普遍的な旨の宣明(前文、97条)もあるとあっては憲法学者としてはやむをえないことなのかもしれない。しかし、憲法学者だから日本国憲法が示している(とされる)価値をそのまま<自分自身のものにする>必要は全くなく、むしろそれは学問的態度とは言えないのではないか。憲法学者は、日本国憲法自体を<客観的に・歴史的に>把握すべきではないのか。<よりよい憲法を>という発想あるいは研究態度が殆どないかに見える多くの憲法学者たちは、やはり少しおかしいのではないか。
筆が滑りかけたが、単純に上の二著のみで比較できないにせよ、参照・言及している外国の思想家等の数は樋口よりも佐伯啓思の方がはるかに多く、思索はより深い。憲法規範学に特有の問題があるかもしれないことについては別の機会に(も)触れる。
佐伯啓思・自由とは何か(講談社新書)からの確認的メモのつづき。
「リベラリズム」は「自由主義」と言い換えてもよいが、前回紹介の「自由」や「現代のリベラリズム」は、佐伯が自ら述べるように、「拘束」・「抑圧」からの解放という「近代の入り口」での「自由」とはかなり性格を異にしている。かつ、あくまで「今日の代表的な立場」における「自由」観で、「アメリカ的」又は「アングロサクソン的」と限定をつけてもよい、とも言う(p.160)。
また、佐伯によると、「拘束」・「抑圧」からの自由がおおよそ実現し、「自由」の内実が「多様な主観的価値の共存のための条件」になってしまった結果、「自由」には「それほどの切迫さも切実さも」なくなった(p.161)。
上にも見られるように、佐伯は「現代のリベラリズム」を説明・分析しているだけで、それを自らの価値として主張しているわけではない。<価値相対主義>(「価値」に関する「主観主義」)についても、「価値」による行動は社会的「妥当性」を要求するので、「価値」は本質的に個人の「主観を超えた次元」にある(「嗜好」や「趣味」とは異なる)、と疑問視する。かかる立場からすると、例えば<援助交際>は「特定の行為に示された価値の問題」、「本質的に社会的な問題」、「社会的普遍化、妥当性要求をはらんだ問題」で、「主観の問題」ではなく、「それは個人の自由であり、自己責任だ」で済ますことはできない(p.162-163)。
もともと予定していなかった部分の要約はこれくらいにする。確認的にメモしておきたかったのは以下だ。佐伯は、「市場経済」(「市場競争」)について四つのタイプの議論があり、それぞれに対応して、「四つのリベラリズム」がある、とする(p.187以下)。この部分はなかなか参考になる。
第一、「市場中心主義」。共通の透明なルールのもとで人々が「自己利益を最大化」せんとするのは当然で、たとえ報酬格差が数百倍に開こうと受け容れるべきだ。
第二、「能力主義」。人の「能力や努力」に対して報酬を付与するのは市場競争でも同じ。但し、例えば「莫大な遺産」による「不労所得」は市場の結果であっても修正されるべき。「投機的利益」への課税等も同旨。「古典的な」「プロテスタント風の倫理精神」やロックの「財産保有と労働」に基づく市場を擁護する。
第三、「福祉主義」。市場競争により勝者・敗者が発生するが、敗者は「たまたま市場経済のなかでうまくいかなかっただけ」で、それで「彼の人格や生活のすべて」を左右すべきでない。競争が「結果としてもたらす不平等」を、敗者=弱者に対する福祉給付・所得再配分によって政府が是正すべき。敗者も「そこそこ幸福な人生を送る権利」をもつ。
第四、「是正主義」。勝者・敗者という「不平等」は多くの場合は「ある種の人々が構造的に不利な立場」にあることから生じるので、彼らの救済には事後的な福祉給付では不適切で、「初期条件をできるだけ平等化」すべき。アファーマティブ・アクション、自立支援プログラム等によって。
こうした分類を前提にすると、佐伯によると、第一の論者としてはミルトン・フリードマン、ハイエク、第二はロバート・ノージック(第一に近いかもとの注記あり)、第三は「いうまでもなく」ジョン・ロールズ、第四はロナルド・ドゥウォーキン、アマルティア・センを想起できる。
さらに佐伯はこう述べる。第一、第二は「個人主義的な側面を濃厚に持った自由主義」で、とくに第一は、しばしば「リバータリアニズム」と呼ばれる。これらは「最小国家観、夜警国家観」に立ち、国家は「特定の価値を含まない」(→中立的国家)。
第三、第四は「どちらかといえば」、「平等性に傾いた平等主義的な自由主義」で、「狭い意味」ではこれらをとくに「リベラリズム」と呼ぶことが多い。これらは「介入主義的国家」観に立つともいえるが、介入は基本的には「個人の権利を保障するための平等化政策」で、それ以上のことを目指さない(→やはり中立的国家)。
説明は続く。第一において、市場競争への「参加の権利」の付与が重要で、結果は特に問題視しない。第二も同じだが、「人の能力の帰結としての財産への権限」を決定的に重要視する。「能力と努力が権利を生み出す」のだ。
第三では、福祉給付により実現される「人間として最低限の生活をなすという権利」が唱えられる。第四は弱者・構造的被差別者にも「平等な機会へアクセスする権利」が保障されるべきだとする。
以上の論述を前提にして佐伯啓思自身による議論が続いていくが省略する。
上にみたように、「リベラリズム」とはさしあたりは広義に、市場経済=資本主義(=広義の「自由主義」)に立つ、非・反社会主義(・共産主義)とほとんど同義に用いられているようだ(なお、佐伯は「コミュニズム」あるいは「マルクス主義」を殆ど無視している。議論の俎上に乗せる意味自体を否定しているように見える)。その上で、上記の如く「狭い意味」での、<社会民主主義>にかなり近いかもしれない「リベラリズム」概念も用いられている。
さて、かりに上記の如き整理が適切だとして、われわれはいずれの立場・考え方を支持すべきか? こうした基底的?レベルでの思考と選択をひとまずは誰でもしておくべきではなかろうか。こうした思考と選択は、「人間」観や「人生」観にもかかわる、けっこう現実的で、その意味では<生臭い>、重要な問題だと思える。
二つ記したいが、まず、「自由」が依って立つ「基本的な柱」は彼によると次の三点だ(p.151以下)。
第一は、「価値についての主観主義」あるいは「価値の相対主義」。これは近代「合理主義」の帰結。すなわち、論理整合性・事実との符合によって「合理的に判断」できる命題とかかる「検証」のできない命題に分ける、その上で、「実証的に検討できる客観的な事実命題」とそれができない「価値命題」を峻別する。そして、「価値」判断は人により異なる「主観的」なもので、「客観的で普遍的な」ものは存在しない(←「実証主義」)、という考え方。
ロールズにおける「正義」は、「価値」あるいは「善」の内実いかんにではなく、いかなる「価値」・「善」を選択する「自由」は保障されるべき、ということにある(「善に対する正義の優位」、「善に対する権利の優位」)。
第二は、「中立的国家」。つまり「価値の領域に対しては国家は介入しない」ということ。自由・民主主義等の近代的「価値」を掲げ、人々の「生命・財産の尊重」を決定的価値とする「近代国家」が「価値中立的」ではあり得ないが、「正義」(>「自由への平等な権利」)ではなく多様な「善」について国家は「中立的」とされる。さらに、種々の「政策」選択をする国家は決して「価値中立的」ではないが、「政策」決定の最終的判断者は「国民」であり、国家は特定の「政策」=「価値」=「善」を予め想定して掲げたりはしない、ということを意味するとされる。
第三は、「自発的交換」。つまり、「個人の社会的活動は、基本的に個人と個人の間の自発的な相互作用としてなされるべき」、という考え方(秋月注-「自発的」とは、個人の「自由意思」にもとづく、と換言してよいだろう)。これを典型的に実現するのが「市場経済」だ(秋月注-ある個人と他の個人との間の「自由意思」の合致=契約にもとづく相互の権利・義務の形成・変動、と言っても大きくは離れていないだろう)。
以上、要点のみ。佐伯は、これら三点が、やや表現を変えて、「現代のリベラリズム」の「柱」だ、とも述べ、次のようにまとめている(p.159-160)。
「現代のリベラリズムの立場は、基本的に個人の価値の多様性を認め、それを尊重する、そのためには、『自由への平等な権利』という正義の原則がまずは確立していなければならない、そのもとで、国家は中立性を守るべきであり、また諸個人の主要な社会的行為は個人の自発的な交換としてなされるべきだというのである」。
もう一つは次回に。
佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書)を全読了。
最終章的または小括的な「おわりに」にも印象的な文章がある。一部についてのみかなり引用するのはバランスを欠くが、通覧してみる。
①<「自由」の意味は「抑圧や圧制」からどう「渇望し…実現」するかではなく、逆に「自由」の「現代的ありよう」が…「さまざまな問題を生み出してしまっている」。>(p.270)
②<「自由」を「至高の価値」としてそれを成立させている「何か」に不分明ならば、「誤ったイデオロギー」になる。「何か」を見ないと「個人の自立」・「選択の自由」・「諸個人の多様性」等は「混乱」の原因になる。>(同上)
③オルテガは、<我々は「多様な価値の間で選択を余儀なくされている、つまり自由へ向けて強制されている」旨論じた。カストリアディスは<「現代資本主義」の下で「自由」は「個人的な«享楽»を最大限」にするための「補助道具」になっている、と主張した。これらは「決して見当はずれではない」。(p.271-272)
④<「自由」(「個人の価値選択の主観性や多様性」→「選択の自由や自立的な幸福追求」)を保障するのは「市場経済」・「中立的国家」・「人間の基本的な権利の保障」という制度をもつ広義での「市場社会」だが、そこで生じているのは、「それぞれの」「享楽」(「富」・「消費物資」・「刹那の快楽」等)を「最大限手に入れようとするいわば『欲望資本主義』だ」。ここでの「それぞれの」は「個人の主体性」を前提にしている。>(p.272-273)
⑤<「消費物資や富に自己を預け、自己満足の基準を市場の評価に依存した」「自由」、「メディアやメディア的装置にしたがって自分を著名人にしたり、著名人に近づくことで富を得るチャンスを拡大する自由」は、いかに「個人主義」的選択に基づくと言っても「自立」しておらず、「本来の意味で個人主義的でもない」。>(p.273)
⑥<「個人の主体的な自立や自由な選択という概念によって『自由』を論じることができるのか」。(p.274)換言すれば、「現代の個人の自由」とは「先進国の市場経済というある特定の体制」の下でしか成立不可能なもので、「市場や金銭的評価や富と結びついた名声やメディアが生み出す有名性といった特有の現象に随伴」してしか発現できないのでないか。「個人の自立」などは「最初からあり得ず」、「個人の自立した選択」とは「市場経済に依存した見せかけの自立」にすぎないのではないか。「この種の疑問はしごくもっともだ」。>(p.275)
⑦<かかる議論・疑問自体が「個人の主体性、その多様性、自由な選択」等の「現代の自由の観念」によって生じている。「個人の自立」は「市場経済体制」ではあり得ないと言っても、その「市場経済体制」を拡大してきたのは「個人の主体性、多様性、自由な選択」という「自由」の観念だ。「自由な選択」がせいぜい「享楽の最大化」だとしても、そのような状況を生み出したのは「現代の『自由』の観念」で、ここに「現代」の「自由のパラドックス」がある。>(p.275-276)
⑧<「自由のパラドックス」は、「自由」を「個人の主体性、主観性、多様性」といった観念で特徴づけたことに「理由」がある。「現代の自由」とは「端的」には「個人の選択の自由」だが、かかる特徴づけ・定式化が「あまりに偏狭」だから、つまり「自由」に「実際上、意味を与えている条件、それを支えている条件に目を向けていない」ために「自由のパラドックス」が生じた。>(p.276-277)
⑨<そこで、「個人の平等な選択の自由」の背後に「もっと重要な『何か』があるのではないか」と「多層的」に「考察」する必要がある。例えば「自由」と対立的に捉えられがちな「規範」の両者は、後者が「道徳的ニュアンス」・「正義」という観念・「価値」を前提にしているかぎり、切り離すことはできない。>(p.276)
⑩<「もっと重要な『何か』」の第一の次元は「善」だろう。「善」とみなすか否かは「共同体」の評価だ。「ある程度共有された価値を持った共同社会がなければ、事実上『自由な選択』などというものはない」。>(p.278-279)
「もっと重要な」ものは、「多様なレベルの共同体の規範を超えたいっそう超越的な規範への自発的な従属」だ。これをかりに「義」と呼んだ(カントにおける「定言命法」、天、道、儒教上の五倫、仏教上の六度)。(p.279)
樋口陽一・憲法/第三版p.44(創文社、2007)にはこんな文章がある。「本書は、近代立憲主義にとって、権利保障と権力分立のさらに核心にあるのが個人の解放という究極的価値である、ということを何より重視する見地に立っている」。
この憲法概説書の中では詳しい方の本は2007年刊。上に見てきた佐伯啓思の本は2004年刊。「個人の解放という究極的価値である、ということを何より重視する」と有力な憲法学者がなお書いている以前に、佐伯は現代の「個人の平等な選択の自由」のパラドクスとその原因、「個人の平等な選択の自由」の背後にあるはずの<もっと重要な「何か」>を論じていたのだ。
佐伯が特段に優れているというよりも、憲法学者のあまりの<時代錯誤的な遅れ>こそが指摘されるべきだろう。こうした違いは、憲法学が法学の一種として主として<規範>を対象とする(かつ主として<規範解釈>をする)という特質をもつことだけからは説明できないだろう。憲法思想(論)もまた社会思想・政治思想をふまえ、少なくとも参照する必要があるのではないか。問題は、<個人に平等に享受されるべき「自由」>という憲法論(解釈論を含む)上の基礎的・骨格的概念にかかわっているのだから。
佐伯啓思・隠された思考-市場経済のメタフィジックス(筑摩)の第二章のⅡ・「<遊び>としての交換」(p.79~95)は、先週末に読んだ。市場での<交換>と「遊び」<「ゲーム」、歴史・人間の奥底にある<交換>=<相互(関係)性>等々。
同・自由とは何か(講談社新書)の第六章はp.263まで読んで、全読了まであと20頁。「自由」の再定義を試み、かつそれが通常の用法と違うので「義」という語で呼びたくなる、と書いている辺りまで。
詳しい紹介はしないが、この本は面白く(イラク問題、援助交際、子供殺し事件等々にも言及がある)、座右に置いておきたい。面白く読めるのは、この本の内容は、コミュニズムはもちろん朝日新聞が代表するような<リベラル左派>に対する批判、<個人の「自由」(の尊重・尊厳)>を最高価値とでも理解しているようにも見える日本の憲法学の大勢への批判、に実質的、客観的にはなっていると思えるからでもある。
数多いる憲法学者の中で阪本昌成は思考が広くかつ深いと思うが、経済学畑出身の佐伯啓思の思索はさらに広く深いのではなかろうか。
広く社会を対象とする学問も、「人間」そのものを適切に(現実的にかつ生き生きと)洞察しないと、言語遊び、観念遊戯、概念・論理の瑣末な分析や整理に終わってしまいかねない、という感慨が、佐伯啓思らの文章を読んで、生じている。
区切りをつけておこうと、佐伯啓思・上掲書を第4章・援助交際と現代リベラリズム、第5章・リベラリズムの語られない前提、第3章・ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」の順で昨夜一気に読んだ(p.101~p.222)。あと、第6章のみが残っている。
面白い。<戦後民主主義の虚妄>を佐伯は衝いたようだが、たしかに<戦後民主主義>が前提とする個人的「自由」の脆うさ・生気のなさの不可避性が理解できる気がする。現代日本について感じる「骨格」のなさや「規範意識」の欠如についても。
引用しながらの紹介は避ける。<戦後民主主義>を<右から>の攻撃から「保守」しようという<情緒>で凝り固まっている人々は、佐伯の「自由」(・リベラリズム)論に関心はもてず、あるいはそもそも理解できないのではないかと思われる。
佐伯啓思・隠された思考(筑摩、1985)の第一章のⅣ「経済と<持続するもの>」と第二章・ルードゥスとしての経済―公正経済についてのⅠ「公正のプロブレーマ」を読んだ(p.58~p.79)。
この部分に限らないが、佐伯の最初の単著かもしれず(35-36歳)、表現・叙述方法も含めて、力が入っていることは分かる。
論旨を追うことはしない。印象的な文章は数多い。
・<ウェブリンにおいて、現代資本主義の特徴たる「金銭的見栄」の背後には「制作者本能」が、「営利の精神」の背後には「産業の精神」が潜んでいる。>(p.63)
・<ウェブリンは、「現代の大衆消費社会」は「記号の理性」を超え、「ハイパー・リアリティ」の抽象性の中に「蜃気楼のように浮かんで」いて「制作者本能」も「産業の精神」も死滅していると見えるが、「野蛮侵略文化」→「現代の金銭的文化」の中で「汚染され奇形化され、あるいは隠され」ても、それらは「文化の奥深く沈潜し持続している」、と主張する。>
・<ウェブリンの在来経済学批判は「差異化するもの」と「持続するもの」の二元的対立を前提とする。社会科学の「最も基本的に二元論」。>(p.64。以上、第一章Ⅳ)
・<「公正や正義」は人がもつ「観念や感情」に根差し、科学はそれらを「素通りし」、「人間的なもの」に「わずらわしさ」を感じるので、社会科学が「公正や正義」を欠落させるのはある意味では当然だ。>(p.68) ・<「市場社会」に「倫理などという野暮ったい観念」に何かを提供する場があるのかとの「合理主義者」の言い分にも尤もな所はある。>(p.69)
・<上のことは市場社会(論)への「倫理的堡塁を準拠点」にした「外在的」批判につながる。「分配の公正」・「経済的安定の確保」は究極的には「生存の安定」という「倫理的観点」を認めるか否かに依るからだ。>(p.69)
・<だが、「市場経済」への「はるかに根底的な批判」は、「市場的生活」・「市場的精神」自体に(内在的に)向けられるのではないか。>(p.69)
・<プラトンを参照すれば、「金銭」への愛が「知」や「勝利」への愛と混同されてはならぬ。「金銭的関心が知識や政治の領分を…闊歩し始めれば、正義は快楽と同一視され、社会の秩序は…瓦解する」から。>(p.69-70)
・<社会・人間関係の中に「何か崇高な理想的なもの」があるとの「ロマンティック」な又は「神秘的」思考こそが、「近代合理主義」を「単なる市場主義」や「快楽主義」から救う良心で、「自由主義を生気あるものとする気付薬」でもあったはず。>(p.70)
・「いかなる自由主義者といえども、選択の自由の世界だけに生きているわけではない」。「われわれの生は不可逆性の上に、つまり過去の選択の上に乗っているのであり、選択は、常に、選択しえないものに基づく選択である以外にない」。(p.71)
以上、この程度で(つづきは次回に補充)。上の最後の指摘は、単純な「個人主義」・<「個人的自由」尊重主義>への基本的な批判でもあるのではないか。
ソシュール、パース、ウィトゲンシュタインが出てきて、読みやすくはないが、最後の方に印象に残る表現が続いている。適宜、一部引用する。
・<語り得ないことが「言語」の背後にあり、それによってこそ「言語(記号)世界」は「生きた」意味をもつ。さもなくば、「薄っぺらな記号が漂うだけの世界は…まがいもののアナーキー」で、「記号表現と記号内容の関係をズラすという意図的な工作」はいずれ「単なる騒音を生み出す」。「言葉は、背後に沈黙の影を引きずっているときにだけ生きたものになる」。>(p.56)
・<語り得ないことは「潜在的記憶」として「時間の底をゆっくりと流れてゆく」。「伝統とか慣習」は過去・死者たちが沈黙から発する声でかつ「生き続けた物語」だが、「巨大な偏見の塊」であるものの「深遠宏大な叡智を内包した偏見」(バーク)でもある。「歴史」は「死者と生者の交わり」。伝統・慣習の中の「共同体的」「暗黙知」は、「真理を含んだ偏見」、「事実と形而上学の混融」、「科学と神話のアマルガム」だ。>(p.56-p.57)
・「真理は常に偏見に縁どられ、その中に包み込まれている。だからといって偏見を切りきざめば、真理も傷つけられる」だろう。(p.57)
・<人は「伝統や慣習」に「真の神話を、形而上学を」見出そうとしてきた。これらを「自己のものとして解釈」することで、人は「時間と共にあり、持続の中に自己を象徴的に定位できる」。「自己同一性」の確保とは、「記号世界」と「沈黙世界」の、つまり「顕在化した生と沈潜した生」の、あるいは「生と死」、「瞬時性(状況)と連続性(歴史)」の間の架橋が「過不足ない均衡を保つ」ということだ。>(p.57)
・「人間の事象」には一方で「記号表現の過剰」があり、他方で「記号表現は記号内容に対し過少でもあるというべきだろう」。(p.57)
・<「記号の表現系列と内容系列」が、「過剰と過少」が均衡を保つ「不動の…地平」が作る「安定的な象徴秩序」が反復され「記憶の中に受け継がれる限り、人は、生の現実性が実働性と重なり合う、確かなものという手ごたえ」を決して「忘れ去り」はしないだろう。>(p.58)
以上。<保守>主義の基礎が結果的には述べられているような気もする。少なくとも、マルクス主義者(コミュニスト・共産主義者)が思考もせず、関心も持たないテーマだろう。マルクス主義者はマルクス主義の「言葉」・概念の<呪術>を真理又は「社会科学」と<錯覚>して<取り憑かれている>、可哀想な、単細胞の人々だからだ。
概念・言葉・論理を操作したことがあるために少しは理解容易になっているとは思うが、難渋なところはあるがほぼ理解でき、面白く、刺激的だ。
論旨の紹介は半分程度の書き写しになりそうなので避ける。以下、趣味的な一部引用と感想等。
①「現代とは途方もない豊かさの中にひたすら破滅への白昼夢を見る永遠の砂漠だ、と…はいう」。/「この世紀末風のアンニュイはわれわれの胃の腑を満たすというよりそれを麻痺させ、だらしない欲望の無限階段を一段ずつ上げてゆく」。(p.18)
こんな文章は、本来は経済学専攻の者のものとは思われないほど<文学的>で、小説(観念小説?)で使えそうだ。
②「記号の差違が作る関係性と非記号的な実体性、出来事の瞬時性と存在の持続性、その交差平面に象徴的ともいうべきリアリティが存在する」。(p.26)
こんな難解そうな文章が混じっている。ソシュールが出てきそうと感じていたら、あとでやはり登場してきた。
③<「記号の本質」は「記号機能」=記号の「表現系列」と「内容系列」を結合させ「相同性」を作る点にあるとすれば、「現代社会の特質は、表現と内容の解釈可能なある安定した領域の限界を突破するほど、その機能を極限化しつつある」ことにある。>(p.28-29)
上に同じ。
④セミオクラシー=「あらゆるものを記号とみなす思考」(p.30)。セミオクラシー=「隠され、背後に退いたものを無視し「圧縮」することによって、顕在化した現象の世界でたわむれる、屈折した実証精神」(p.39)
定義らしきものを探してみた。なお、「Ⅱ」の最後で佐伯は「そもそもセミオクラシーということがありうるのだろうか」と問うてもいる。未読の「Ⅲ」以降でさらに展開があるのだろう。
以上は、要旨、つまり佐伯の言いたいことの抜粋でもなんでもない。
ふと感じるに、この本の作業は、政治実践上の主義としての<保守と進歩>とか<右と左>には直接には何の関係もなさそうに見える。
私は<ウヨ>とか<保守>とか評する人はいるだろうが、私の関心の基本的出発点は、決して長くはない人生、人間・社会・国家についてもっときちんとした知識・認識を得たうえで(あるいは、きちんと考えたうえで)死にたい、ということにある。
<現実>にも口を挟んではいるのだが、例えば、朝日新聞の虚報・捏造、報道機関性を超えたその「政治(謀略)機関」性を批判することは、<右・左>や<保守・進歩>とは関係がない。あるのは、事実か虚偽か、論理一貫か論旨混乱か、真っ当か「歪んでいる」か、という違いだけだろう。
マルクス主義・日本共産党に対する態度も同じ。可笑しいことは可笑しい、嘘はウソだ、誤りは誤りだ、と言っているにすぎない。
佐伯啓思の本を読んでいると、何故か心が落ちつく。
佐伯啓思・隠された思考-市場経済のメタフィジックス(筑摩書房)の序章「<演技する知識>と<解釈する知識>」、p.3~p.17を昨夜(2/15)読んだ。1985年6月刊の、佐伯が35歳か36歳のときの著。この年齢にも驚くが、序章だけでもすでに相当に(私には)刺激的だ。事実・認識・真実・科学・解釈・学問等々、すべての<知的営為>に関係している。
佐伯の述べたい本筋では全くないが(本筋の紹介は省く)、次の文章が目に留まった。
「明確な自己意識つまり自我の成立こそ理性であるとした近代精神は、それ自体が近代の産物であるというところまで洞察することはできなかった」(p.15)。
思い出したのは、個人の尊重こそが日本国憲法の三原理をさらに束ねる基本的・究極的理念であると述べた(らしい)憲法学者・樋口陽一とその言葉に感銘を受けた旨述べていた井上ひさしだ。
個人の尊重の前提には<近代的自我の確立した>自律的・自立的個人という像があると思われる。樋口陽一(そして井上ひさし)の<思考>は<近代>レベルのもので、<近代>内部にとどまっている。それはむろん、日本国憲法自体の限界なのかもしれない。
だが、既述の反復かもしれないが、戦後当初ならばともかく近年になってもなお<個人の尊重>(「個人主義」の擁護にほぼ等しいだろう)を強調するとは、憲法学者(の少なくとも有力な傾向)の時代錯誤ぶりを示しているようだ。講座派(日本共産党系)マルクス主義のごとく、あるいはせいぜい<近代>合理主義者(近代主義者)のごとく、日本と日本人はまだ<近代>化していない、ということを主張したいのだろうか。
佐伯のいう「近代」とは<ヨーロッパ近代>に他ならないだろう。<ヨーロッパ近代>の精神を学び・習得したつもりの、自律的・自立的個人であるつもりの樋口陽一らは、<遅れた>日本人大衆に向かって(傲慢不遜にも!)説教したいのだろうか。
個人の(尊厳の)尊重なるものの強調によって、物事が、<現代>社会が動くはずはない。逆に、<共同体>的なもの(当然に「家族」・「地域」等を含む)の崩壊・破壊・消失に導く政治的主張になってしまうことを樋口陽一らは思い知っていただきたい。
エンゲルス『家族、私有財産及び国家の起源』は「家族」・「私有財産」・「国家」の崩壊・消滅を想定(・<予言>)するものだった。樋口陽一らがこれを信じるマルクス主義者(コミュニスト=日本共産党的にいうと<科学的社会主義教>信者)だとすれば、もはや言うコトバはない(つける薬はない)。ルソーのいう国家=一般意思に全的に服従することで「自由」になるという<アトム的個人>を樋口陽一らが「個人」として想定しているならば、今ごろになってもまだ何と馬鹿で危険なことを、と嗤う他はない。
佐伯啓思が多くの憲法学者の思考の及ばない範囲・レベルの思考を30歳代からしていたことは明らかなようだ。
たぶん2/07夜に、佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)を全読了。同・現代日本のイデオロギーは未読の部分がまだある。
2/09夜に福田恆存・同評論集第八巻(麗澤大学出版会、2007)の一部を読む。
既読の月刊正論3月号(産経)の新保祐司「伝統を大切にするという事」は、保守とは、たんに「守る」のではなくつねに「伝統を新鮮にし、蘇らせ」る営為だ(p.99)、旨の主張をしているようだ。反対はしないが、しかし、現在の日本と日本人にとっての「伝統」とはそもそも何なのか。この点を明瞭にしてもらわないと隔靴掻痒の感あり(この人の他の文章は読んだことがない)。
戦後60年余、現在70歳(1937~38年生)未満の者は、ほとんど又は全く、戦後教育しか受けず、戦後の空気しか吸っていない。<戦後民主主義>もまた(あるいはこれこそが)、<保守>すべき日本の<伝統>と考えている(又は感じている)人々が既に多数いるのではないか。
産経発行・月刊正論3月号(2008.02)の佐伯啓思「『偽』の国から『義』の国へ」のうち共感できる又は参考になる叙述は以下。
1 ・明瞭な「偽」ではない「虚」というものもある。世界的金融市場でのある種の投機的活動は後者にあたる。
・経済だけでなく、政治の世界でも「虚」が闊歩しており、典型は昨年の参院選挙だった。「長期的な展望にたったスケールの大きな争点」、つまり「本来の争点」としては「憲法改正、教育改革、日米関係や対アジア関係」、あるいは「戦後レジームからの脱却」をめぐる問題、これらが大きすぎればせいぜい「小泉改革」=「構造改革」の評価、が論点とされるべきだった。だが、争点は民主党がもち出し、自民党が「その戦略に乗せられ」、「大方のジャーナリズム、マスメディアがその方向へと世論を誘導した」、「消えた年金」と「政治とカネ」に縮減された。
・「『戦後レジーム』の見直しという『真』の争点ではなく、『消えた年金』という『虚』の問題を政権選択の争点にした」という意味で、2007参院選は「いわば壮大な『虚』」だった。「地方の病弊と格差」が選挙を左右したのは事実だが、これは「小泉改革」=「構造改革」の評価を問うことを意味するはずなのに、「自民も民主もマスメディアも」この争点を問題にする姿勢を示さなかった。自民党は「改革の継続」を訴えすらした。/「改革」の意味は不明瞭だった。自民党は「改革」と連呼すれば勝てると錯覚していたのか。ここにも「実」のない「虚」の言葉があった。
・政治の「虚」化は、2005衆院選でも見られた。
2 ・教科書通りの合理的な民主政が「合理的な政治体制」を生むとは限らない。十数年来の日本の政治がその例。「『民意』を反映するはずの透明な民主政治が、著しく政治を不安定化し、一種の人気投票に変貌していった」。
・小泉純一郎の政治手法は「ポピュリズム=大衆迎合政治」とは少し違う、「デマゴーグ政治=大衆煽動政治」というべき。内閣直属の民間人専門家集団の活用は、「『民意』を反映するという名目で直接民主制的な要素をたぶんに持ち込んだ」。/「党主導の派閥政治」から「『民意』の反映という劇場型政治」へと大きく変化した。その際、「テレビやマスメディアの情報が、政治を動かす…決定的な力を持つようになる」。
・テレビは、決して物事のありのままを映像化しない、本質的に「虚」のメディアで、「その映像的効果そのものが、不可避的に作り出されたもの」だ。そして、「テレビに大きく依存した政治(テレ・ポリティックス)は、ますます政治を『虚』のものとして」いき、この「虚」を通じて「世論」=「民意」も作られる。<「民意」を反映した民主政>という口実の完成だ。
・「民意」自体が一つの「虚」だ。テレビの影響力を批判しているのではなく、それは「現代政治の条件」に組み込まれていることを「深く自覚」すべきと言っている。
・「テレ・ポリティックス」による「世論形成」に「政策」は左右されるので、「選挙」を前にした政治家はこの「『虚』の構造に巻き込まれざるを得ない」。政治家は「自分自身の確固とした見解」を持ってはならず、「思考停止」に陥って、「民意を尊重する」、「民意に従う」と言わざるをえない。
・「民意」という「虚」→政治家の政策・公約形成=「民意」の表明→「民意」による現実の政治、という「循環構造」の中で、「民意」は「実体をもたずに」「『偽装』されてしまう」。
・日本は「虚」と「偽」の国家になった。
以上(p.80~p.86)で、とりあえず終える。産経新聞の一部記者に見られた単純・素朴な<民主主義・民意>論とは大違い。
佐伯はこのあと、別の論稿でも書いていることだが、<戦後日本>そのものに大きな「虚」と「偽」があることを述べている。
勝手に書けば、占領(主権喪失又は主権制限)下での「新」憲法の制定、その憲法上の「陸海空軍その他の戦力」の不保持の明記と「自衛隊」(という実力・武力組織)のれっきとした存在……。基本的なところにすでに日本国家には「虚」と「偽」がある。これでは、誠実・真摯に物事を考える人々にとってますます「広く深くニヒリズムに覆われた時代」(佐伯・正論p.91。佐伯の文脈とは違う)になってしまうのもやむを得ないのではないか。
2/06早々に、1/16に200,000到達以来21日めで、アクセス数が210,000を超えた。
またかかる<個人>の位置づけは、当然に<国家>という「共同体」と対峙する(場合によっては<対決する>)<国家から自由>な<個人>というものを想定し、前提にしているだろう。
かかる<個人>のイメージははたして適切なのだろうか。
佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)には引用・紹介したい部分が多すぎるのだが、ずばり「「個人」と「共同体」は対立しない」との見出しから始まる部分(p.95-)を以下に要約して、紹介してみる。
「個人」・「個的なもの」は農村、家族、国家といった「共同体」と対立するもので相容れない、という理解は近代諸科学から「社会主義運動までを貫くモチーフ」だった。その背景の一つにはマックス・ウェーバーの「薄められたマルクス主義」としての<近代化論>があった。「共同体からの個人の解放が自我の確立である、というような思考様式」が教条化し、「呪術的」な権威をもった(p.95-96)。
だが、かかる思考様式は「もはやほとんど有効性を失っている」。次の「二重の意味」においてだ。
第一に、家族・村落共同体からの「個人」の解放は進展しすぎているほどで、一方、「自我の確立した主体的個人」が出現してはおらず、「「近代的自我」なるものは衰弱している」。そもそも、一切の「共同体」から解放された「個」というのは「あまりに強引なフィクション」だ(p.96-97)。
「共同体」の解体によって「個」は「一切の価値体系や規範のルールから切り離される」。そのことに「近代」人は「自由の意味」を見い出し、「近代化」とは「個人の自由の拡大」だと考えた(p.97)。
しかし、「価値や規範・ルールから切り離された個人」なるものは「不便でかついびつなもの」に帰結する。大勢の「個人」の自由の衝突・確執を調整する、「共有されうる価値の再確認」が必要で、これは「共同体」の再確認を意味する。「個人の自由」とは「その自由の範囲や様式を定める共有された価値、規範」を前提とするのだ。この「価値、規範」を誰かが強引に決めないとすれば、それは「歴史的に生成する」ほかはなく、まさに「共同体」の形成だ(p.97)。
「家父長的、封建的社会」ならば個人と共同体は対立しうるが、現代日本では、「共同体」と「個人的自由」を対立させることは「さして意味をもたない」(p.97-98)。
現代日本での「個人の自立」という「不安定な持ち場」からの「共同体」批判は、「個人」自体をいっそう「不安定」にし、それを「空中分解」させるだろう。「個人性」は「共同性」を「離れてはありえない」のだ(p.98)。
第二に、現代社会では「共同性」は解体されておらず、逆に個人は無意識に「共同性の罠の中に捕らわれて」いきつつある。「個の確立」の主題化、意見・思想の方向性の形成自体が「ある種の共同性」を前提とし、それを作出している。「個の確立」という記号による主題化が「メディア的媒体を通す限り、ある種の共同体がいやおうなく、…作動する」(p.98)。
現代社会とは「メディアによる共同化作用が絶え間なく生じている社会」だ。共同体の解体・個人の主体化という議論自体が「メディアを媒介に主題化」されると、「この議論をめぐる共同化された言説空間」ができてしまう。
なぜなら、一つに、議論自体の成立が、日本語という表現手段による、「日本社会の歴史的、文化的文脈」の共有を必要とする。ここでは、議論できるグループ・階層という「共同体」が実際には想定されているのだ。
さらに、かかる主題化自体が「共同化」作用をもつ。「何の相互につながりもない人が共通の主題のもとで一定の思考の規範を共有する」に至るから。人々はかくして、「私」の、ではなく、「われわれ」の「共同体からの解放」を問題にしだすのだ(以上、p.99)。
メディアが議論をマーケットの極限まで拡散すれば、「われわれ」とは「国民」に他ならなくなる。ここで、「国民」という「共同体」の「不可避性」という新たな問題に到達する。
以上のように、「個人の確立」が「戦後日本社会の課題」だとの「表現そのもの」が、「日本という共同体の文脈を前提に提起されている」のだ(以上、p.100)。
このあと、佐伯の論述は「メディア的環境とそれが拡散する市場世界が生み出す新たな共同体」(p.101)から、さらに「国家」という「共同体」へと進み(p.111~)、「国家」と「個人」の単純な対立視を批判し(p.111の「国家とは…、『わたし』と『他者』がおりなす応答の慣習化された体系」だとの定義からすれば、「個人」は国家の一部または国家を前提にしてこそ存在しうるものだ)、「国家への深いシニシズムや「反国家主義」が横行」(p.122)していることの分析・批判等がなされているが、紹介はこの程度にとどめる。
樋口陽一や井上ひさしの「個人」観又はそれに関する議論と十分に噛み合ってはいないだろう。だが、佐伯啓思の議論を読んでいると、樋口陽一や井上ひさし、そして多くの憲法学者が想定しているようにも思われる、「個人」・「社会」・「国家」観が―専門分野の違いに帰することはできないと見られるほど―いかに単純・素朴(そして幼稚)であるかが分かるように感じる。
多くの憲法学者は文献を通じて<頭の中>でだけ、単純なイメージを<妄想>しているのではないか。自分自身を含む<現実>・<実態>をふまえて、かつより緻密な理論を展開してもらいものだ。
なお、立ち入らないが、佐伯啓思の議論の中に<マスメディア>が「共同体」にとっての重要な要素として登場してきているのは興味深い。<マスメディア>論にも関心を持ち続ける。
佐伯46歳の年の本だが、岩波は、あるいは企画者・編集者は、佐伯啓思が2007年に産経「正論大賞」を受賞するような執筆者(研究者)だとその<思想傾向>を理解していたならば、佐伯を執筆者には選ばなかったように思える。
偏見の可能性を一切否定はしないが、岩波は(そして朝日新聞も)そのような(「思想」傾向による)「パージ」くらいは平気でやっている出版社(新聞社)だと思っている。
上の本の計200頁のうちp.60くらいまでしか読んでいないのだが、「はじめに」のp.2-p.4にこんな文章がある。やや印象的なので、メモしておく。
「事実を評価する」ために不可欠な「理念」は「思想とか、観念、そうしたものをゆわえたりほどいたりする思索」によって作られるが、「思索をするなどという手間のかかることを軽蔑し、思想という重苦しいおまけに青臭い主観に縁取られたものを排除してきたのが、この二〇ほどのわれわれの同時代であった」。その結果、「われわれは、ただ事実の前にひざを屈し、とまどうだけ」だ。ニーチェは「人間は評価する動物だ」と述べたが、現代人は「人間をやめようとしているのかもしれない」。
「思想はイデオロギーと地続き」で、社会主義・共産主義という「イデオロギーから解放」されたわれわれは「イデオロギーの時代は終わった」と「晴れ晴れと」言いたくなるやもしれぬが、それにしても現代を「マーケット・エコノミーとリベラル・デモクラシー」〔市場経済と自由・民主主義〕の時代というだけでは「心情に響かないし」、「この言葉で指し示される現実」の方に「問題が多すぎる」。
「イデオロギーの終焉」でなく「イデオロギーの衰弱」の方が現代に似つかわしい。それが「思想や人間の思索の習慣そのもの」を「脆弱でつかの間のもの」にしていくとしたら、「やはり危険な事態と言わざるをえない」。
以上。現在の日本の政治は、あるいは<生活>重視うんぬんと恥ずかし気もなく主張している各政党は、あるいは現在の日本国民の大多数は、「思索」し「思想」をもち、不健全ではない明確な<イデオロギー>をもっているだろうか、それをめぐる議論を真摯にしているだろうか。そうでないとすれば、上の佐伯の十数年前の文章は2008年にもあてはまっていて、日本は依然として「危険な事態」にあるだろう。
昨日書き損じたことだが、佐伯啓思は、こうも語っている(産経12/18)。西部邁によって「精神の空洞化というニヒリズムに対抗するには『保守の思想』しかない」ことを教えられ、「保守思想」を武器にして「荒野のような現代社会」への思想的批判をする「蛮勇」を与えられた、と。
こう特定されるほど、西部邁が佐伯啓思に影響を与えているとは知らなかった。そういえば、アメリカに対する見方が西部と佐伯には類似性があるかなと思ったりする。
かつての<左翼闘士>という偏見が私にはあるのだろう、西部邁を積極的には読もうとしなかったが、最近このブログで取り上げたように、西部邁はなかなかに鋭いし、論理秀逸、語彙豊富だ。
西部邁の本・論文ももっと読むことにしよう。知的に刺激的な文章・内容を書ける人はたいして多くはないのだから。
以上、前回の追記。
「保守思想」とは「その国の精神的伝統を救い出し、ニヒリズムに浸される現代社会と戦うための精神の態度」。
「「保守」を名乗ること自体がアカデミズムの異端者となることであり、無視されるか批判されるかを覚悟することでした。しかし、社会主義の崩壊…の中で真に求められるのは、その国のありように即した「保守思想」しかない、ということは明白になって」きた。
異論はない。政治的<ニヒリズム>あるいは一種のアナーキー的雰囲気が日本に漂っていることは私も感じる。ただ、日本の「精神的伝統」、あるいは日本という「国のありよう」とは、具体的には何か、という問題は――これを佐伯が意識していないとは無論考えていないが―残る。日本の歴史的伝統・文化というものも漠然とは理解できるが(「天皇」制度も関係する)、はたして、多くの「保守」思想・主義への賛同者に一致があるのかどうか。
繰り返すが、<「保守」を名乗ること自体がアカデミズムの異端者となることであり、無視されるか批判されるかを覚悟することでした>。
こういう事態・学問的風土が戦後ずっと存在し、形成されてきた、というのは怖ろしい、戦慄すべきことだ。
少なくとも政治学、歴史学、教育学、法学(とくに憲法学)といった学問分野は今でも、かかる異様な状態にあるのだろう。そのような<恐怖体制>を敷いてきた、戦後の学者たち(中心はマルクス主義者=コミュニストだったことは疑いえない)を、各分野について、個々の個人名を明示しつつ、総括的に糾弾する時期が早晩くることを強く期待している。
佐伯はまた書く。「私は、ほとんど学者や研究者とのつきあいはありませんが…」。
<群れる>ことが好きな学者連中も多いと思われるのに、珍しいタイプだ。たしかに、佐伯は、他の<保守>論壇の人に比べて、何らかの会・団体、あるいは何らかの「運動」に参加又は関与することは少ないか全くない、という印象はある。
これも善し悪しは一概に言えず、あるいは個性によることで、積極的に参加又は関与することを批判することもできない。
いずれにせよ、佐伯が、個性的な、独特の論理・視覚・思考型をもった優れた論客の一人であることに、私も反対しない。1949年生まれのこの方の、今後の一層の活躍を期待する。
ところで、産経正論大賞受賞者となると、「正論」欄執筆者でもすでにそうなのだろうが、「産経文化人」とのレッテルを貼られそうだ。どのようにレッテルづけされようと本人たちは気にしなくてよいし、気にもしていないだろうが、このブログサイト上で「産経文化人」を<右から>批判するグループ又は人々がいることに初めて気づいた。
後者の人々は、憲法学者の中の異端的<右派>の八木秀次、百地章らも<さらに右からの>攻撃の対象としているようだ。
そのような「産経文化人」攻撃、「保守的」憲法学者攻撃をして生きて「楽しいですか?」と、いつかもっと詳しく書いてみたい。
以上、佐伯受賞に関しての若干の感想程度。
(一時期以降、すべて「氏」等の敬称を省略することとした。「氏」と付けたい(付けるべき)人、付けたくない人、両方が存在し、かつどちらにしようか迷ったりすることもあったので、簡明さ・単純さを優先することにした。他意はない。)
産経7/14の佐伯啓思の「正論」によれば、「本来は、今回の参院選の中心的な争点は、安倍政権が推し進めている「戦後レジームの見直し」にあった。具体的には、すでに着手した教育行政の見直しや、イラク、北朝鮮をめぐる日本の対応、そして憲法改正にあった」。「当然のことながら、「宙に浮いた年金」は、…参院選の行方を左右するテーマではありえない」。しかし、「「宙に浮いた年金」の争点化によって、憲法改正をふくむ「戦後レジームの見直し」という真の論争点が隠蔽(いんぺい)されてしまうのは「代表者によって国の根本問題を論議する」という参議院の理念からしても問題がある」。
そのとおり。だが、氏は次のようにも言う。「自己責任や市場主義による成長優先政策か、社会の共同生活の枠組みの安定か、という対立がある。「年金」不安はそのことを背景としている。しかし、与党も野党も問題の設定に失敗してしまった」。
後者の対立又は争点は多くの人びとには全く又は殆ど意識されていないのではないか。あるいは、国民もマスコミもほとんど「社会の共同生活の枠組みの安定」を選択しているかの如くだ。政党がかかる争点を掲げ、かつ前者を主張し後者を軽視すれば必ずや惨敗するように見える。
その意味で、佐伯啓思は、紙幅の制限の中で、やや難解な論点に言及してしまった感もある。
司馬遼太郎がその晩年、土地の投機的取引あるいは土地の「商品」化を憂慮し、強い警告を発していたことはよく知られている。
昨年に読んだ本なので言及したことはなかったが、いずれも1997年刊の佐伯啓思・現代民主主義の病理(NHKブックス)、同・「市民」とは誰か-戦後民主主義を問い直す(PHP新書)は「戦後」・「民主主義」を考えさせてくれる知的刺激に満ちた本だった。その佐伯啓思が、やや古いが産経新聞4/10の「正論」欄で、土地等の「土地の度を過ごした市場化」等を批判又は警戒している。
私はいまだによく分かっていないのだが、小泉「構造改革」とは厳密には何を意味したのだろう。今でも自民党は「改革の続行」とか主張しているが、靖国や慰安婦問題等とは無関係の経済・社会分野での「改革」とはいかなる意味と目的をもつ「改革」なのだろう。
佐伯は、都市圏の特定地域で「不動産バブル」が今起きているのは「構造改革の帰結だとは断じないが、そのひとつの産物ではあろう」としつつ、「資本」・「労働」・「土地」は「もともと通常の商品のように市場化できるものではな」く、規制と管理がなされてきたが、その規制がとり外され、これらの「市場を著しく不安定化し、また格差をうみだすこととなる」と言う。
また、もともと「パトリ」とは「祖先伝来の土地」を意味するローマ起源の言葉で、パトリオット(愛国者)の「愛国心」は「自分の住んでいる場所への愛着から始まる」とし、土地は公共性と愛着・記憶の基礎なのに、「度を過ごした市場化、ましてや投機的利益を生み出すための土地バブル」は「「パトリの破壊」、「亡国」への愚行以外の何ものでもない」と結んでいる。
土地バブル(「泡」)とその霧散によって、平均的国民にとっての土地・住宅取得の困難化、金融機関に残った厖大な不良債権、国税の投入による救済、金融機関の統廃合等々、日本の関係者は1985年以降の経緯から貴重な教訓を得た筈なのだが、似たようなことを繰り返すようであれば、日本人(国家・行政の関係者を含む)はあまり「賢くない」と評されても仕方がないだろう。
それにしても、農地売買に(とくに市街化区域以外では)強い規制がかかったりしているとしても、現行制度は(恐らく憲法も)、たしか1990年に土地基本法という法律ができて土地に関する「公共」性等が語られてはいるが、「土地」もまた私的所有権の対象であり、自由な処分(売買)が可能であることを前提としている。私もまた「度を過ごした市場化」には反対であり、例えば、佐伯が言及しているわけではないが、大都市圏内の都心部の「商業地域」の高い容積率を利用した高層マンションの林立(という程ではないかもしれないが)には-その前提には当然に従前の、長年かもしれない所有者との「土地」取引がある-、本来の都市計画構想や都市景観等、総じて所謂「街づくり」の観点からの問題があると思うのだが、土地の全面的国公有化があり得ない以上、完全な(無規制の)「市場化」との間のどこかに、適切な「解」を求めなければならない。
土地(取引・利用)の規制の問題に限らないが、いつか簡単に触れたように、許容される、又は要請される、公権力による「自由」の統制・「自由」への介入の程度・態様の問題は、「自由主義」国家の<永遠の>課題・論点なのだろう。ここでの「自由」とは個人・法人という主体の区別を問わないし、<政治的・精神的>自由と<経済的>自由の両者を、相対的に上の「程度」の差異が語られうるとしても、ともに含む。
えらく一般的な話になっているのだが、本来は、上の基本的問題を意識しての政策的議論が、国会で、議員たちによって<建設的に>なされるべきなのだ。だが、そうした議論の共通の土俵を築けない、日本共産党、社会民主党という政党や民主党の一部の議員の存在は、不毛な、あるいは「神学的」とも称されてきた議論を生じさせており、大多数の日本国民にとっては不幸なことだ。
軍事・安全保障政策での与野党の基本的一致を(独・仏・英国のように)前提として、具体的な政策論議を、具体的な法制度的議論を、本当はしてほしいものだ。
少し離れるが、議席数では自民党の1/10に満たない小政党がテレビの討論会等で自民党や民主党と対等の人数を与えられ(つまり各党一人ずつ)、堂々と(生意気に?)喋っているのを観ているとき、形式的平等は小政党に有利で不合理だと思うとともに、基本的な所では咬み合わない非生産的な議論をしている、と感じることがある。何とかならないものか(考え方が違っても「建設的」・「生産的」議論の可能な政党ばかりになるのが解決策なのだが…)。
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