田中は、山折や佐伯の議論は<「近代」主義者の見解>、あるいは<社会主義者ではなく「近代」主義の立場に立った近代リベラル立場のものだ>とほぼ断定している。田中によると、ここで「近代リベラル」とは「権力や権威から自由な立場に立とうとする、相対的な態度」のことらしい。
八木秀次が憲法学者・佐藤幸治を「近代主義」者と称していた又は評していた記憶はあるが、私自身はこの「近代主義」なるものの意味はよく分からない。<近代リベラル>も同様だ。大まかには、社会主義者・マルクス主義者(明確なシンパを含む)ではないが、<明確な?>「保守主義」者でもない、という意味なのだろうか。
上の点はともかく、佐伯啓思については、「日本」や「愛国」を論じながら、「天皇」や「神道」あるいは日本化された仏教への言及がはなはだ少ない、という感想をもち、その旨この欄で記したこともある(但し、正確な内容は思い出せない)。戦前の浪漫主義・西田幾多郎哲学等よりも、日本に固有の天皇や神道(・日本化された仏教)に、その歴史も含めて立ち入らないことには「日本」も「愛国」も語り得ないのではないか、という考えは今でも変わりはない。
あらためて佐伯啓思の新潮45昨年4月号の論考を瞥見してみると、田中英道が問題視しているごとくであるように、<国民の意思によって天皇制を廃止することも可能だ>旨の指摘・叙述が複数回あって、強調されている。また、「天皇制」という概念用法はともかく、天皇位が「世襲」のものであることは、いわば<世襲の象徴天皇制>は憲法で定められており、国民の意思により変更可能であっても憲法改正によらざるをえないこと、その他の皇位継承のあり方を含む諸論点は国民代表議会による法律で改廃が可能であることが明瞭には区別されず、ともに「国民の意思」による改廃可能性が語られていることも気になる。
もっとも、憲法1条は皇位が「主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記しているので、現憲法を無視しないかぎりは(無効とみない限りは)、佐伯啓思の理解が誤っているわけではない。憲法学者もおそらくすべてがそう解釈しているだろうし、かつ親コミュニズムの学者たちは(日本共産党のように現時点において明確に主張しないものの)将来における天皇制度廃止(憲法14条違反??)を展望しているだろうし、立花隆もまた憲法改正による「天皇制」廃止の可能性を憲法1条を根拠として強調していた。
佐伯啓思は日本の「天皇制」という政治制度は「おそらく世界に例をみない」と述べつつ、だからといって素晴らしいとも廃止すべきだと言うのではなく、この独自性をわれわれは知っておく必要がある」とのみ述べる(前掲p.332)。この辺りも、佐伯自身の中には「天皇制」尊重主義?はなく、距離を置いた、<相対>主義?だとの印象を与える原因があるかもしれない。
もっとも、田中英道のように簡単に切って捨ててしまうのも問題があるだろう。佐伯啓思は、日本の天皇制度の特質の三つ、第一に、世襲制、第二、政治権力からの距離(祭祀執行者)、第三、「聖性」のうち、戦後は第三の、「聖性」を公式には喪失している、とする。佐伯による日本の天皇制度の歴史の理解は戦後の歴史教科書による、ひょっとすれば、陳腐で<左翼>的に誤っている可能性がなくはないとも感じるのだが、専門的知識の乏しい私はさておくとして、上の指摘はほぼ妥当なものではないだろうか。<祭祀執行>(むろん神道による)についても戦後憲法のもとでは天皇(又は天皇家)の「私的」行為としてしか位置づけられていないという問題点があることも、そのままではないが佐伯は触れている。
そして、結論的には佐伯は、国民が<祭祀王としての天皇をフィクションとして承認する>か否かに天皇制度の将来はかかっている旨述べる。「王」という語の使い方は別として、この主張も、私には違和感がない。
上のことを国民が承認するとすれば、現在の憲法上の天皇条項の内容や政教分離に関する条項の改正、すなわち、佐伯は明言していないが、憲法改正が必要になる。そして、そのようにすべきだと-神道祭祀を公的に位置づけ、政教分離原則の明瞭な例外(またはこの原則がそもそも妥当しないこと)を認めるべきだと-私は考える。
元に戻れば、少しすでに触れたように、田中英道のように簡単に切って捨ててしまうのはいかがなものか、という気がする。すべてではないにせよ、<保守派>の議論には憲法・法律・行政制度等々についての知識・素養を欠く、もっぱら原理的・精神的な(あるいは文学論的な?)が議論もある(それらだけでは現実的には役に立たない)と感じることもあるところであり、田中英道の本が-まだ一部しか読んでいない-そのような欠点をもつものでないことを願っている。