一 池田信夫・平和の遺伝子—日本を衰退させる「空気」の正体(白水社、2024年12月)。
この書物が究極的には「日本」または「日本人」に関するものであることは、上の副題からも、「はじめに」からも明らかだ。そのかぎりで、視点はナショナルなもので、「国家」または「民族」を超えたグローバルなものではない(日本で日本語で出版される人文系・社会系の書物はほとんど同様なので、この点を批判しているのではない)。
だが、「日本」・「日本人」とはいったい、何を指すのだろうか。
現在にいう「日本」や「日本人」は、いったいいつ頃に成立または生成したものだろうか。
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二 西尾幹二・国民の歴史(1999、全集第18巻)の馬鹿馬鹿しくも単純な前提理解の一つは、呼称は別として「日本」というまとまりが最古からあり、現在の「日本人」の祖先は<縄文人>だ、と考えていることだ。
たぶん1990年代には、日本人の起源に関するいわゆる<二重構造モデル>は、すでに知られ、通説的にすらなっていたのではないだろうか。なお、高橋祥子・ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか(Discover21、2017)には、同旨の「日本人の二重構造説」という語が出てくる。
西尾幹二の無知と自らはそれを意識しない傲慢さは、「縄文人」の後裔が(多少の交雑または混血を認めつつ基本的には)現在の「日本人」だと「思い込む」。
そして、もともと(「文学」系の)この人物には、日本人を含む「現生人類」=ホモ・サピエンスがいつ頃にどこで発生したのか、という関心はない。もちろん、「現生人類」に至る、植物等も含めての「生物」または「生命体」の発生起源の問題にも関心はない。
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L・コワコフスキは、<マルクスは全ての問題の原因を資本主義に求め、ある程度は我々が「人間」であるということ自体に根源があることを見逃した>、という旨を書いたことがあった。
西尾幹二・ヨーロッパの個人主義(1969、全集第01巻)の「まえがき」は、この書は「現代の神話である社会科学的知性に対する一私人の挑戦である」と結んでいる。
「社会科学的知性」に対してすら「挑戦」したいのだから、「自然科学的知性」がこの人物において占める位置の悲惨な些少さも理解できるだろう。ヒト・人間が「生物」であることを、そして一個体が誕生すれば絶対的に「死ぬ」ことを、この人物は自己の問題としては意識していなかったのではないか。
西尾は2019年に、「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマだ」、「科学は敵だ」と明言しているから(月刊WiLL2019年4月号)、1969年のまだ若いときの「気分」を維持し続けていたようだ。
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三 現生人類(新人)の前には「(新人/)旧人/原人/猿人」という(「猿」から分かれた)「人類」がいた。
その前をたどれば、「真核生物」の誕生から、さらに「生命体」の発生にまで目を向ける必要がある。そうなると、地球の誕生、銀河系宇宙の誕生にまで遡ってしまう。
そこまで「途方もない」時間の過去まで意識するのはいささか負担が重いので、現生人類・ホモサピエンスの発生くらいから始めよう。
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四 上の点に関心をもつのは、私自身が、いつの時点にか地球上に誕生した生物種(〜・綱・目・科・属・「種」の意味でも同じ)の末裔に他ならない、という絶対的な事実に由来する。
それに比べれば二次的だが、「日本人」がヒト=ホモ・サピエンスの一部であるならば、「日本人」の祖先をさらにたどることにもなる。
細かな時代や年代に拘泥してもほとんど意味はないし、文献によっても違いはある。
大まかに「約数十万年前」としておけば間違いないだろう。
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上掲の池田信夫・平和の遺伝子(2024)には、つぎの語句がある。
「ホモ・サピエンスの30万年の歴史の中でも…」、
「人類(ホモ・サピエンス)の歴史を約30万年と考えると…」、
「ホモ・サピエンスは30万前から…」
篠田謙一・人類の起源(中公新書、2022)には、「最古のホモ・サピエンスが登場したのは、…今のところ30万年〜20万年…とされています」との一文がある。
出口治明・全世界史/上巻(新潮文庫、2018)の「前史」には、つぎの旨の文章がある。「現生人類が登場し」たのは、「いまから約20万年前のことです」。
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地球上のどこで「登場」したのか、というと、圧倒的にアフリカだったとされている(「東アフリカ」と限定されていた時代もあった)。
これに対して、「猿人/原人/旧人」を経て地球上のいくつかの地域で「新人」=ホモ・サピエンスが発生し、各地域の現代人はそれぞれの「ホモ・サピエンス」の子孫だ、との説が論理的にあり得るし、実際にも一部で主張されているらしい。
この対立らしきものが興味深いのは、現代「日本人」の祖先はアフリカにいたのか、アフリカに産まれた現生人類は日本人の祖先ではなく、「日本」あるいは「東アジア」(・「アジア」)に誕生した現生人類こそが祖先か、という問題が生じるからだ。
但し、前者の<アフリカ単一起源説>が「ほぼ定説」らしい。
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アフリカと言っても、三種類くらいのホモ・サピエンスが確認できるらしい。その点はともあれ、現在のように世界の各地域にヒト・人間が生存しているということは、「出アフリカ」があったこと、つまり、アフリカで誕生した現生人類がアフリカを出て、おそらくは現在のエジプトからイスラエル辺りを経て(アラビア半島南西部を海上で通過した可能性はある)、アジアとヨーロッパの東西に進出してしていった、ということを示している。
その一部の集団が(「個人」もあり得るだろうか)、東アジアあるいは「日本列島」にまでたどり着いた。しかし、その頃、東アジアや今の「日本列島」の地勢、地形はどのようになっていたのだろう。
「日本列島」に該当する島々は(琉球列島や北海道を含めてよい)、その頃にすでに存在していたのだろうか。
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つづく。
この書物が究極的には「日本」または「日本人」に関するものであることは、上の副題からも、「はじめに」からも明らかだ。そのかぎりで、視点はナショナルなもので、「国家」または「民族」を超えたグローバルなものではない(日本で日本語で出版される人文系・社会系の書物はほとんど同様なので、この点を批判しているのではない)。
だが、「日本」・「日本人」とはいったい、何を指すのだろうか。
現在にいう「日本」や「日本人」は、いったいいつ頃に成立または生成したものだろうか。
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二 西尾幹二・国民の歴史(1999、全集第18巻)の馬鹿馬鹿しくも単純な前提理解の一つは、呼称は別として「日本」というまとまりが最古からあり、現在の「日本人」の祖先は<縄文人>だ、と考えていることだ。
たぶん1990年代には、日本人の起源に関するいわゆる<二重構造モデル>は、すでに知られ、通説的にすらなっていたのではないだろうか。なお、高橋祥子・ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか(Discover21、2017)には、同旨の「日本人の二重構造説」という語が出てくる。
西尾幹二の無知と自らはそれを意識しない傲慢さは、「縄文人」の後裔が(多少の交雑または混血を認めつつ基本的には)現在の「日本人」だと「思い込む」。
そして、もともと(「文学」系の)この人物には、日本人を含む「現生人類」=ホモ・サピエンスがいつ頃にどこで発生したのか、という関心はない。もちろん、「現生人類」に至る、植物等も含めての「生物」または「生命体」の発生起源の問題にも関心はない。
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L・コワコフスキは、<マルクスは全ての問題の原因を資本主義に求め、ある程度は我々が「人間」であるということ自体に根源があることを見逃した>、という旨を書いたことがあった。
西尾幹二・ヨーロッパの個人主義(1969、全集第01巻)の「まえがき」は、この書は「現代の神話である社会科学的知性に対する一私人の挑戦である」と結んでいる。
「社会科学的知性」に対してすら「挑戦」したいのだから、「自然科学的知性」がこの人物において占める位置の悲惨な些少さも理解できるだろう。ヒト・人間が「生物」であることを、そして一個体が誕生すれば絶対的に「死ぬ」ことを、この人物は自己の問題としては意識していなかったのではないか。
西尾は2019年に、「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマだ」、「科学は敵だ」と明言しているから(月刊WiLL2019年4月号)、1969年のまだ若いときの「気分」を維持し続けていたようだ。
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三 現生人類(新人)の前には「(新人/)旧人/原人/猿人」という(「猿」から分かれた)「人類」がいた。
その前をたどれば、「真核生物」の誕生から、さらに「生命体」の発生にまで目を向ける必要がある。そうなると、地球の誕生、銀河系宇宙の誕生にまで遡ってしまう。
そこまで「途方もない」時間の過去まで意識するのはいささか負担が重いので、現生人類・ホモサピエンスの発生くらいから始めよう。
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四 上の点に関心をもつのは、私自身が、いつの時点にか地球上に誕生した生物種(〜・綱・目・科・属・「種」の意味でも同じ)の末裔に他ならない、という絶対的な事実に由来する。
それに比べれば二次的だが、「日本人」がヒト=ホモ・サピエンスの一部であるならば、「日本人」の祖先をさらにたどることにもなる。
細かな時代や年代に拘泥してもほとんど意味はないし、文献によっても違いはある。
大まかに「約数十万年前」としておけば間違いないだろう。
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上掲の池田信夫・平和の遺伝子(2024)には、つぎの語句がある。
「ホモ・サピエンスの30万年の歴史の中でも…」、
「人類(ホモ・サピエンス)の歴史を約30万年と考えると…」、
「ホモ・サピエンスは30万前から…」
篠田謙一・人類の起源(中公新書、2022)には、「最古のホモ・サピエンスが登場したのは、…今のところ30万年〜20万年…とされています」との一文がある。
出口治明・全世界史/上巻(新潮文庫、2018)の「前史」には、つぎの旨の文章がある。「現生人類が登場し」たのは、「いまから約20万年前のことです」。
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地球上のどこで「登場」したのか、というと、圧倒的にアフリカだったとされている(「東アフリカ」と限定されていた時代もあった)。
これに対して、「猿人/原人/旧人」を経て地球上のいくつかの地域で「新人」=ホモ・サピエンスが発生し、各地域の現代人はそれぞれの「ホモ・サピエンス」の子孫だ、との説が論理的にあり得るし、実際にも一部で主張されているらしい。
この対立らしきものが興味深いのは、現代「日本人」の祖先はアフリカにいたのか、アフリカに産まれた現生人類は日本人の祖先ではなく、「日本」あるいは「東アジア」(・「アジア」)に誕生した現生人類こそが祖先か、という問題が生じるからだ。
但し、前者の<アフリカ単一起源説>が「ほぼ定説」らしい。
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アフリカと言っても、三種類くらいのホモ・サピエンスが確認できるらしい。その点はともあれ、現在のように世界の各地域にヒト・人間が生存しているということは、「出アフリカ」があったこと、つまり、アフリカで誕生した現生人類がアフリカを出て、おそらくは現在のエジプトからイスラエル辺りを経て(アラビア半島南西部を海上で通過した可能性はある)、アジアとヨーロッパの東西に進出してしていった、ということを示している。
その一部の集団が(「個人」もあり得るだろうか)、東アジアあるいは「日本列島」にまでたどり着いた。しかし、その頃、東アジアや今の「日本列島」の地勢、地形はどのようになっていたのだろう。
「日本列島」に該当する島々は(琉球列島や北海道を含めてよい)、その頃にすでに存在していたのだろうか。
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つづく。



























































