Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第8章の試訳のつづき。第14節へ。
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第14節・ドイツとソヴィエトの軍事協力の開始。
(01) Rapallo 条約は、二つの国の軍事的協力関係を促進した。
1922年7月29日、ソヴィエト軍事革命評議会メンバーのA. P. Rozengolts とSeeckt 将軍の代表者たちとの間で、協定が締結された(今のところ文書の所在が分からない)。
内戦中はトロツキーの副官だったE. M. Sklianskii が率いたソヴィエト使節団が、1923年1月にベルリンに到着した。
使節団は、3億金マルクで兵器を購入する、ドイツの信用借款で支払われる、と提示した。しかし、ドイツ側は、製造能力が自分たちの需要に合わないという理由で、拒んだ。(注270)
ロシア側は、ロシア領域内でヴェルサイユ条約により禁止されている兵器の製造をドイツが行ない、ドイツが財源を負担し、管理する、ということに同意した。
また、ドイツの軍事要員がロシアで訓練されることにも、同意した。(注271)
ドイツ側は、代わりに、ソヴィエトの将校たちを教育することを引き受けた。(注272)
その翌年、ドイツ帝国軍は7500万金マルクをこの目的のために予算計上し、モスクワに支部を開設した。(注273)
両国の代表団は、ポーランドに対する、さらには連合諸国に対してすらの、共同軍事作戦について、秘密裡に議論した。(注274)
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(02) ソヴィエト経済の未成熟さと非効率さのために、ドイツ側にとっては、兵器生産は失望に近いものだった。
この軍事的協力関係による両当事者の主要な利益は、来たる世界戦争用に設計された先進兵器の試験と訓練から生まれるものだった。//
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(03) 1924年までに、ドイツのいくつかの主要な兵器製造会社がロシアでの権利を得た。
ドイツの三つの軍事施設の存在が、ソヴィエト・ロシアで確認されていた。一つは、Junker 航空機製造のためにFili に、もう一つは辛子ガスや無色有毒ガスの生産のためにSamara 地方に、三つめは戦車製造のためにKazan に。(注275)
民間人のふりをしたドイツの将校たちが、戦闘訓練のためにロシアへと旅行した。(注276)
1924年初めから、ドイツの操縦士たちがLipetsk で訓練を受け、オランダで秘密に購入したFokker 戦闘機を飛ばした。そこで120人の操縦士と450人の航空機人員が教育を受けた。
彼らは、ヒトラーの空軍の中核を形成した。(注277)
「特別集団 R」の一人だった将軍Helm Speidel によれば、Lipetsk での訓練は、将来のナツィス空軍の精神的基盤」を作った。(注278)
ロシアで得た経験は、連合諸国に対する10年の有利さをドイツ空軍に与えた、と言われている。(注279)
ロシアの操縦士と地上人員もまた、Lipetsk 基地で訓練を受けた。//
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(04) ドイツの将校たちも、Kazan とSamara で、戦車と化学兵器の経験を積んだ。
ソヴィエト・ロシアで生産された知られていない数の兵器は、こっそりとドイツへ輸出された。
1926年、ドイツの平和主義たちは、ソヴィエト・ロシアで生産された30万発の砲弾を積み込まれた三隻のソヴィエト船をStettin 港で発見することになる。
これを発見して、社会主義指導者のPhilipp Scheidemann は、両国間の軍事協力関係を暴露し、ドイツの労働者に対してソヴィエトの武器を用いようとしていると政府を責め立てることができた。(*)
しかし、禁止されている装備をロシアで大規模に生産しようというドイツの期待は、失望に終わった。
毒ガスの生産は、困難になった。
より大きい問題すらが、Fill の航空機製造工場を苦しめた。ロシア人が発注どおりの仕事をできなかったので、ドイツ国防軍はそれを閉鎖した。(注280)
潜水艦計画は、設計図から次に進むことは決してなかったようだ。//
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(脚注*) F. L. Carsten in Survey, No. 44-45 (1962), p.121; Freund, Unholy Alliance, p.211; Müller, Das Tor, p.146. 前もって警戒していたようで、ソヴィエトのプレスは同日の12月16日に、ソヴィエト連邦にドイツの軍事施設があることを認めたが、防衛的なものだと説明した。Pravda, NO. 291/3, p.520 (1926.12.16), p.1. これは、ワイマール・ドイツとの軍事協力にソヴィエト・プレスが言及した唯一のものだと見られる。
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(05) ソヴィエトの将校たちは、1925年の初めに、さまざまに装って、ある者はブルガリア人だと偽って、ドイツ国防軍の演習を観察した。
他の者たちは、参謀本部で教えられる秘密課程に参加すべくドイツへと派遣されていた。その参謀たちは、Model、Brauchitsch、Keitel、Guderin といった将軍たちとともに、初代のナツィ防衛大臣のWerner von Blomberg 陸軍元帥を含む、将来のヒトラーの将軍たちだった。
生徒の中にはTukhachevskii とIakir もいた、と言われている。
「ロシア人はこの課程のあいだに、全ての指令、戦術や作戦の研究書、募兵や訓練の方法、そして違法な再軍備の組織上の計画すら、を見て学習することができた。
彼らに秘匿されたものは何もなかったように思える。」(注281)
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(06) 明らかなことだが、このような規模での協力関係が、気づかれないままで進行することはなかった。
実際に、ポーランドとフランスの情報機関はそれを知っていて、Scheidemann が暴露した後で、公に知られることになった。
しかし、連合諸国は何らかの理由で、警戒しなかった。
連合諸国は、それを止めようとは何らしなかった。そして、続く年月の間に、両国の技術的協力関係は、遮られることなく継続した。//
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(07) このようにして、ソヴィエト・ロシアは再生するドイツ軍が基盤を築くのを助けた。このドイツ軍を、ヒトラーが自分のために使うことになる。
急降下爆撃、自動車兵器、陸空軍の連結作戦、これらの戦術は、ソヴィエトの領土内で最初に試された。そして、ヒトラーの〈電撃作戦(Blitzkrieg)〉の基礎となった。
赤軍の側について言うと、この協力関係のおかげで、第二次大戦中に連合国軍よりも十分に、ドイツの攻撃に対応することができた。//
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(08) ソヴィエト・ロシアとの協力にかかわったドイツの将軍たちは、第二次大戦を準備していた。これは、ヴェルサイユ条約を廃棄し、第一次大戦で失った大陸での覇権をドイツに与えることになる。
ドイツの将軍たちは明らかに、ロシアが将来の敵対国になると予期していれば、彼らの軍事機密にロシアを関与させはしなかっただろう。
かくして、1939年のナツィ・ソヴィエト協定の原型が、1920年代に、すなわちレーニンがまだ生きていて責任を担っていたときに、生まれた。この1939年協定は、ドイツがモスクワの好意的中立のもとでヨーロッパの大部分を占領する、第二次大戦を勃発させることになる。//
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後注。
(270) Müller, Das Tor, p.105-6.
(271) Kochan, Russia and the Weimar Republik, p.60-61; Fischer, Stalin, p.515-p.536; Raphael R. Abramovitch, The Soviet Revolution (1962), p.247-p.258.
(272) Freund, Unholy Alliance, p.125.
(273) Hans W. Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.573-6.
(274) Müller, Das Tor, p.113-4.
(275) Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.578; Müller, Das Tor, p.144-5.
(276) Freund, Unholy Alliance, p.207-8.
(277) Ibid., p.209.
(278) Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953.1), p.28.
(279) Freund, Unholy Alliance, p.209.
(280) Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistskii mech kovalsia v SSSR (1992), p.20-23.
(281) Freund, Unholy Alliance, p.210; Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953), p.35.
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第14節、終わり。第8章全体も、終わり。
第8章の試訳のつづき。第14節へ。
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第14節・ドイツとソヴィエトの軍事協力の開始。
(01) Rapallo 条約は、二つの国の軍事的協力関係を促進した。
1922年7月29日、ソヴィエト軍事革命評議会メンバーのA. P. Rozengolts とSeeckt 将軍の代表者たちとの間で、協定が締結された(今のところ文書の所在が分からない)。
内戦中はトロツキーの副官だったE. M. Sklianskii が率いたソヴィエト使節団が、1923年1月にベルリンに到着した。
使節団は、3億金マルクで兵器を購入する、ドイツの信用借款で支払われる、と提示した。しかし、ドイツ側は、製造能力が自分たちの需要に合わないという理由で、拒んだ。(注270)
ロシア側は、ロシア領域内でヴェルサイユ条約により禁止されている兵器の製造をドイツが行ない、ドイツが財源を負担し、管理する、ということに同意した。
また、ドイツの軍事要員がロシアで訓練されることにも、同意した。(注271)
ドイツ側は、代わりに、ソヴィエトの将校たちを教育することを引き受けた。(注272)
その翌年、ドイツ帝国軍は7500万金マルクをこの目的のために予算計上し、モスクワに支部を開設した。(注273)
両国の代表団は、ポーランドに対する、さらには連合諸国に対してすらの、共同軍事作戦について、秘密裡に議論した。(注274)
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(02) ソヴィエト経済の未成熟さと非効率さのために、ドイツ側にとっては、兵器生産は失望に近いものだった。
この軍事的協力関係による両当事者の主要な利益は、来たる世界戦争用に設計された先進兵器の試験と訓練から生まれるものだった。//
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(03) 1924年までに、ドイツのいくつかの主要な兵器製造会社がロシアでの権利を得た。
ドイツの三つの軍事施設の存在が、ソヴィエト・ロシアで確認されていた。一つは、Junker 航空機製造のためにFili に、もう一つは辛子ガスや無色有毒ガスの生産のためにSamara 地方に、三つめは戦車製造のためにKazan に。(注275)
民間人のふりをしたドイツの将校たちが、戦闘訓練のためにロシアへと旅行した。(注276)
1924年初めから、ドイツの操縦士たちがLipetsk で訓練を受け、オランダで秘密に購入したFokker 戦闘機を飛ばした。そこで120人の操縦士と450人の航空機人員が教育を受けた。
彼らは、ヒトラーの空軍の中核を形成した。(注277)
「特別集団 R」の一人だった将軍Helm Speidel によれば、Lipetsk での訓練は、将来のナツィス空軍の精神的基盤」を作った。(注278)
ロシアで得た経験は、連合諸国に対する10年の有利さをドイツ空軍に与えた、と言われている。(注279)
ロシアの操縦士と地上人員もまた、Lipetsk 基地で訓練を受けた。//
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(04) ドイツの将校たちも、Kazan とSamara で、戦車と化学兵器の経験を積んだ。
ソヴィエト・ロシアで生産された知られていない数の兵器は、こっそりとドイツへ輸出された。
1926年、ドイツの平和主義たちは、ソヴィエト・ロシアで生産された30万発の砲弾を積み込まれた三隻のソヴィエト船をStettin 港で発見することになる。
これを発見して、社会主義指導者のPhilipp Scheidemann は、両国間の軍事協力関係を暴露し、ドイツの労働者に対してソヴィエトの武器を用いようとしていると政府を責め立てることができた。(*)
しかし、禁止されている装備をロシアで大規模に生産しようというドイツの期待は、失望に終わった。
毒ガスの生産は、困難になった。
より大きい問題すらが、Fill の航空機製造工場を苦しめた。ロシア人が発注どおりの仕事をできなかったので、ドイツ国防軍はそれを閉鎖した。(注280)
潜水艦計画は、設計図から次に進むことは決してなかったようだ。//
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(脚注*) F. L. Carsten in Survey, No. 44-45 (1962), p.121; Freund, Unholy Alliance, p.211; Müller, Das Tor, p.146. 前もって警戒していたようで、ソヴィエトのプレスは同日の12月16日に、ソヴィエト連邦にドイツの軍事施設があることを認めたが、防衛的なものだと説明した。Pravda, NO. 291/3, p.520 (1926.12.16), p.1. これは、ワイマール・ドイツとの軍事協力にソヴィエト・プレスが言及した唯一のものだと見られる。
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(05) ソヴィエトの将校たちは、1925年の初めに、さまざまに装って、ある者はブルガリア人だと偽って、ドイツ国防軍の演習を観察した。
他の者たちは、参謀本部で教えられる秘密課程に参加すべくドイツへと派遣されていた。その参謀たちは、Model、Brauchitsch、Keitel、Guderin といった将軍たちとともに、初代のナツィ防衛大臣のWerner von Blomberg 陸軍元帥を含む、将来のヒトラーの将軍たちだった。
生徒の中にはTukhachevskii とIakir もいた、と言われている。
「ロシア人はこの課程のあいだに、全ての指令、戦術や作戦の研究書、募兵や訓練の方法、そして違法な再軍備の組織上の計画すら、を見て学習することができた。
彼らに秘匿されたものは何もなかったように思える。」(注281)
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(06) 明らかなことだが、このような規模での協力関係が、気づかれないままで進行することはなかった。
実際に、ポーランドとフランスの情報機関はそれを知っていて、Scheidemann が暴露した後で、公に知られることになった。
しかし、連合諸国は何らかの理由で、警戒しなかった。
連合諸国は、それを止めようとは何らしなかった。そして、続く年月の間に、両国の技術的協力関係は、遮られることなく継続した。//
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(07) このようにして、ソヴィエト・ロシアは再生するドイツ軍が基盤を築くのを助けた。このドイツ軍を、ヒトラーが自分のために使うことになる。
急降下爆撃、自動車兵器、陸空軍の連結作戦、これらの戦術は、ソヴィエトの領土内で最初に試された。そして、ヒトラーの〈電撃作戦(Blitzkrieg)〉の基礎となった。
赤軍の側について言うと、この協力関係のおかげで、第二次大戦中に連合国軍よりも十分に、ドイツの攻撃に対応することができた。//
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(08) ソヴィエト・ロシアとの協力にかかわったドイツの将軍たちは、第二次大戦を準備していた。これは、ヴェルサイユ条約を廃棄し、第一次大戦で失った大陸での覇権をドイツに与えることになる。
ドイツの将軍たちは明らかに、ロシアが将来の敵対国になると予期していれば、彼らの軍事機密にロシアを関与させはしなかっただろう。
かくして、1939年のナツィ・ソヴィエト協定の原型が、1920年代に、すなわちレーニンがまだ生きていて責任を担っていたときに、生まれた。この1939年協定は、ドイツがモスクワの好意的中立のもとでヨーロッパの大部分を占領する、第二次大戦を勃発させることになる。//
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後注。
(270) Müller, Das Tor, p.105-6.
(271) Kochan, Russia and the Weimar Republik, p.60-61; Fischer, Stalin, p.515-p.536; Raphael R. Abramovitch, The Soviet Revolution (1962), p.247-p.258.
(272) Freund, Unholy Alliance, p.125.
(273) Hans W. Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.573-6.
(274) Müller, Das Tor, p.113-4.
(275) Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.578; Müller, Das Tor, p.144-5.
(276) Freund, Unholy Alliance, p.207-8.
(277) Ibid., p.209.
(278) Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953.1), p.28.
(279) Freund, Unholy Alliance, p.209.
(280) Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistskii mech kovalsia v SSSR (1992), p.20-23.
(281) Freund, Unholy Alliance, p.210; Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953), p.35.
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第14節、終わり。第8章全体も、終わり。