秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日本戦前史

2038/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨21。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。
 聖徳太子関連は次回の22以降とする。
 江崎道朗は、日本の戦前史を扱う中で、北一輝に論及する。
 その場合に、参照・参考文献として少なくとも明示的に示しているのは、以下だけだ。
 渡辺京二・北一輝(朝日新聞社、1985 /ちくま学芸文庫、2007)。
 この渡辺京二はたぶん戦後に日本共産党に入党し、宮本・不破体制発足以前に離党してはいるようだ。戦前からイギリス共産党員だったCh. ヒルがハンガリー「動乱」の後で離党したのと同じ頃に。この、日本共産党員だった、ということはここでは問題にしないことにしよう。あるいは、全く問題がないのかもしれない。
 江崎はまた、明治の日本はエリートと庶民に二分されていた(これはある程度は、又はある意味では、明治以前も、戦後日本でも言えると思われるのだが)、と単純にかつ仰々しく述べる中でなぜかその論拠としている外国人の文献とその内容等についても、この渡辺京二のつぎの書物を重要なかつ唯一の参照・参考文献としている可能性が高い。
 渡辺京二・幻影の明治-名もなき人びとの肖像(平凡社、1998)。
 この点も、深くは立ち入らないことにしよう。
 参考・参照文献の使い方や処理の仕方の幼稚さ・単純さあるいは間違いはレーニン・コミンテルン等に関する叙述でしばしば見られたことで、日本に関する叙述でも、そのまま継承していることは確実だろう。そもそもは、参考にして「勉強」している文献がきわめて少ないというほぼ絶対的な欠点もあるのだが。
 可能なかぎり網羅的にとは決して思わずに、自分で適当にいくつか(または一つだけ)選択した、彼にとって<理解しやすい>文献にもとづいて(直接引用したり要約したりして)、最初から設定されている自分の<図式>に合わせてこれまた適当に散りばめていく、そして、複数の論点を扱うために対応する諸文献の間での矛盾・一貫性の欠如が生じても、何ら気にしない。または、気づかない。
 このような、大学生の一・二年生によく見られるような<レポート>であって、いくら書物の体裁をとっていても、いくら「活字」で埋まっていても、一定の簡単かつ幼稚な<図式>以外には、実質的な、この人自身の詳細な主張・見解の提示などはほとんどない、というのが、江崎道朗が執筆・刊行している書物だ。
 学界・アカデミズム内であれば、すぐに「アウト」だ。すぐさま排除され、もはや存在することができない。そもそもが、加わることができるレベルにない。しかし、なぜか、日本の出版産業界と月刊正論(産経)・文章情報産業界では、存在し、「生きて」いけるようだ。
 「オビ」に名を出して称賛した中西輝政にはすでに触れたが、好意的書評者となっていた「京都大学名誉教授」竹内洋のいいかげんさにも、別途触れる。
 さて、長々と書くのも勿体ない。
 江崎道朗は北一輝について、上の渡辺著のほかには、私でも所持するつぎの諸文献を、いっさい参照していないようであることを、まずは指摘しておく。北一輝に関係する「内容的」な問題には、別の回で触れる。
 ***
 G・M・ウィルソン/岡本幸治訳・北一輝と日本の近代(勁草書房、1971)。
 松本清張・北一輝論(講談社文庫、1979)。
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ書房、1996)。
 松本健一・北一輝論(講談社学術文庫、1996/原書、1972)。
 松本健一・評伝北一輝/Ⅰ~Ⅵ(中公文庫、2014/原書・岩波書店2004)。
 所持はしていないが、他にもあるだろう。
 松本清張のものを見ても迷路に入って混乱するばかりだが、岡本幸治著・本文計360頁を見ると、北一輝の思想と行動は、江崎道朗が渡辺京二の本に即して描くような単純なものではなかったことが、よく分かる。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

2035/明治維新と日本共産党に関する小考。

 いろいろな「考え」・「思い」がふと生まれることがある。例えば、以下。
  西洋の力の背後に「キリスト教」を見て、明治政権は「天皇・神道」を対応する宗教として中軸に据えようとしたとの説明・論がある。
 しかし、キリスト教という「宗教」の世俗化またはそれと国家の分離のためにフランス革命があり、さらには「無神論」によるロシア革命までの動向があったとすると、西洋または欧米が世俗的にはすでに「キリスト教」という宗教から離れていた時代に、日本・明治政権は実質的に「神道」という宗教に依存しようとした。これは大いなる勘違い、ボタンのかけ間違いだったのではないか。
 しかし、神道または「神武創業・開闢」の原理の内容が実際には<空虚>であったため、実質的には自由に、欧米の近代「科学・技術」を何でも自由に「輸入して」、「文明開化」を推進することができた。
 しかしまた、天皇・神道原理からは具体的な近代的「政治」の原理は出てこなかったのだった。
  日本共産党が「天皇制打倒」を主綱領の一つにしたのは、ロシア革命での(正確には二月革命での)ロシア帝制「打倒」につづいて「社会主義」へと向かったという、ロシアの経験・成功体験にもとづくロシア共産党、そしてコミンテルンの方針にもとづく。
 (日本共産党の戦前の綱領類を誰が(どの日本人が)執筆したかを探ろうとする者がいるようだが、実質的にロシア語の翻訳の文章であるに決まっている。)
 上のことが実質的に、天皇制打倒=反封建(または反絶対主義)民主主義革命と社会主義革命という「連続」・「二段階」革命の基本方針となった。
 ロシアがソヴィエト連邦となった後のスターリンの時代だと、直接的な「一段階」の「社会主義」革命の方針が押しつけられた可能性がある。
 しかし、その時代、日本共産党はすでに実質的には存在せず(何人かのみが獄中にあり)、基本戦略を議論したり、受容する力が全くなかった。
 そのおかげで、戦後に復活した日本共産党は、若干の曲折はあったが、「民主主義」→「社会主義」という「二段階」革命路線を容易に採用することができた。
 かつそのおかげで、「社会主義」で一致しなくても「民主主義」という一点で引きつけて(党員の他に)少なくとも支持者をある程度は獲得することができ、国会内に議席を有する「公党」として生き続けることができている。
 前者一本だったとすると、とっくに消失しているだろう。あとは「社会主義」革命だけだったはずのイタリアの共産党はすでになく、フランスの共産党もなきに等しい。
  歴史というのは、「皮肉」なものだ。以上、思いつきまたは「妄論」の二つ。

1662/藤岡信勝・汚辱の近現代史(1996.10)。

 藤岡信勝・汚辱の近現代史(徳間書店、1996.10)。
 この本の一部、「自由主義史観とは何か-自虐的な歴史観の呪縛を解く」原/諸君!1996年4月号。
 この本自体は、<つくる会>発足直前に出版されている。この会とも関連してよく読まれたかもしれない(読んだ自信はないが、かつて読んだかもしれない)。
 計わずか11頁。半分ほどは、教科書を問題にする中で、明治維新、ロシア革命、「冷戦」に触れつつ日本共産党の歴史観・コミンテルンの歴史観を叙述する。そして言う。
 「アメリカの国家利益を反映する『東京裁判史観』と、ソ連の国家利益に由来する『コミンテルン史観』が『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し、それが戦後歴史教育の原型を形づくった」。p.77。
 間違っているとは思えない。
 むしろ、つぎの点で優れている。
 戦後歴史教育の原型、つまり戦後の支配的歴史観を<東京裁判史観+コミンテルン史観>と明記していること、つまり、前者に限っていないことだ。
 「諸悪の根源は東京裁判史観だ」と何気なく、あるいは衒いもなく言ってのけた人もいた。
 慣れ親しんだかもしれないが、この欄で既述のとおり、こういう表現の仕方は、占領・東京裁判にのみ焦点を当て、実際上単独占領であったことからアメリカの戦後すぐの歴史観のみを悪玉に据える悪弊がある。
 つまりは、より遡って、少なくとも<連合国史観>とでも言うべきであり、ソ連・スターリン体制がもった歴史観も含めるべきなのだ。
 アメリカに対する<ルサンチマン>(・怨念)だけを基礎にしてはいけない。
 その観点からして、東京裁判史観とは別に<コミンテルン史観>を挙げているのは適確だと思える。
 <東京裁判史観+コミンテルン史観>とは何か。
 藤岡信勝から離れて言うが、先の大戦(第二次大戦)を、基本的には、<民主主義対ファシズム>の闘いとして捉える歴史観だ。
 そして、ここでの<民主主義>の側にソ連・共産主義もまた含めるところが、この考え方のミソだ。
 つまりは秋月瑛二のいう、諸相・諸層等の対立・矛盾の第一の段階の、克服されるべき<民主主義対ファシズム>という対立軸で世界・社会・国家を把握しようとする過った<歴史観>・<世界観>だ。
 これこそが、フランソワ・フュレやE・ノルテも指弾し続けた、<容コミュニズム>の歴史観だ。
 これの克服で終わり、というわけではないが、この次元・層でのみ思考している日本国民・論者等々は数多い。<民主主義>を謳う日本共産党も、巧妙にこれを利用している
 <東京裁判史観>とだけ称するのは、この点を隠蔽する弊害があるだろう。
 そのような<保守>論者は、民主主義に隠れた共産主義を助けている可能性がある。
 離れたが、つぎに、「自由主義史観」という概念について。
 いつかこれが「反共産主義」史観という意味なら結構なことだと書いたが、正確には同じではないようだ。しかし、大きく異なっているわけでもないだろう。藤岡信勝いわく。
 ①「健康なナショナリズム」、②「リアリズム」、③「イデオロギーからの自由」、④「官僚主義批判」。
 ④が出てくるのは、よく分からない。スターリン官僚主義、あるいは日本共産党官僚主義の批判なのか。
 しかし、残りは、とくに歴史教科書や歴史教育という観点からすると当然のことだ。当然ではないから困るのだが。 
 第一。①にかかわる明治維新の捉え方は種々でありうる。
 しかし、「江戸時代を暗黒・悲惨」ともっぱら否定的に見てはいけない、「一般化して言えば、歴史について発展段階説的な先験的立場をとらない」、と書くのは、至極まっとうだ。
 当然に、とくに後者は、マルクス主義史観あるいは「日本共産党」の基礎的歴史観の排除を意味する。
 第二。先の戦争の「原因」について、こう言い切っているのが注目される。
 「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定論』もともに一面的である」。p.79。
 ここで「悪かった」か「悪くなかった」かという言葉遣いに、私はとくに最近は否定的だ。
 正邪・善悪の価値判断を持ち込んではいけない。
 しかし、趣旨は、理解できる。
戦争に「敗北」して、少しも問題はなかった、とは言い難いだろう。やはり「敗北」であり「失敗」したのだという現実は、そのまま受容する他はないのではないか。
 共産主義者が誘導したとか、F・ルーズベルトは「容共」で周辺にソ連のスパイや共産主義者がいた、という話も興味深いが、しかし、そのような<策略>に「敗北した」ことの釈明にはならないのではないか。「負けて」しまったのだ。
 いや「敗北」したのではない、アジア解放につながり、実質的には「勝利」した、とかの歴史観もあるのだろう。
 ここで「敗北」とか「勝利」自体の意味が問題になるのかもしれない。
 しかし、こういう主張をしている人たちがしばしば唾棄するようでもある「戦後」は、あるいは「日本国憲法」は、あるいは出発点かもしれない「東京裁判」そのものが、軍事的「敗北」と「軍事占領」(つまりは究極的には、実力・軍事力・暴力による支配だ)の結果として発生している。
 この<事実>は消去しようがない。
 こう大きく二点を挙げたが、すでにここに、藤岡信勝と今日の「日本会議」派または櫻井よしこらとの違いが明らかなようだ。
 つまり、「日本会議」派はおそらく、また櫻井よしこは確実に、明治維新を(そして天皇中心政治を)「素晴らしかった」として旧幕府に冷ややかであり、2007年の<大東亜戦争>をタイトルに掲げる椛島有三著にも見られるように、日本の先の大戦への関与について、可能なかぎり<釈明>し、日本を<悪く>は評価しないようにしている。
 少なくとも1996年著に限っての藤岡信勝「史観」と「日本会議・史観」は両立し得ないだろう。共産党所属の経歴の有無などは関係がない。
 しかし、歴史教育または歴史教科書レベルではなお融和できるのではないか、という問題は残る。「日本会議」派がコミンテルン史観・共産党史観を排除しているならば、いわゆる<自虐史観>反対のレベルでは一致できただろう。
 だからこそ、「日本会議」派は(あるいはごく限っても八木秀次は?)、たぶん2005年くらいまでは、「つくる会」騒動を起こすつもりはなかったかに見える。
 少し余計なことも書いた。もっと書きたくなるが、さて措く。

1569/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究②。

 「一九七〇年にかけては、ひょっとすると、僕も、ペンを捨てて武士の道に帰らなければならないかもしれません。/
 東京の話題といふと大学問題ばかりで、ほかのことは何一つありません。たのしい時代は永遠にすぎさりました。しかし、たのしくない時代も、亦、それなりにたのしいものですね。」
 三島由紀夫全集第38巻443-4頁(新潮社、2004)、1969年2月2日/D・キーンへの書簡より。
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 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この本を手にして捲ってみて、すぐに気づくのは、活字の文字が大きいことだ。
 小学校高学年生の教科書よりも、大きな字ではないか。
 たまたま手近にあった、外形がほとんど同じ(たぶんB5版)のつぎの二つと、一頁あたりの行数、縦の文字数を比べてみた。
 各著の中でとくに大きくも細かくもない、つまり各著では標準の行数・縦文字数だと思われる、(頁数印刷の)100頁めのところで計算してみる。
 ①椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
  横14行、縦36字。14×36=504文字(一頁に印刷可能)。
 ②母利美和・井伊直弼/幕末維新の個性6(吉川弘文館、2006.05)。
  横16行、縦45字。16×45=720文字(一頁に印刷可能)。
 ③西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
  横18行、縦43字。18×43=774文字(一頁に印刷可能)。
 やはり、違いは歴然としている。
 ①椛島著は、②母利著の5/7以下、③西尾著の2/3以下しか、文字数がない(つまり活字が大きい)。
 したがって最終頁は、①p.219、②p.244、③p.315、なのだが、①椛島著は③西尾著と同じ組み方をすると、計140頁くらいにしかならないと思われる。
 ①椛島著は、②母利著と同じ組み方をしても、計153頁くらいだ。
 要するに、一見はふつうの書物のようにも感じるが、実際は、長さだけでいうと、140~150頁の本だ。
 つぎに、体裁的にも異様に感じるのは、<主要参考資料一覧>としてp.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さだ。
 数えてみると、A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34で、うち全て英語の原書が11(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。
 もともとこの一覧を含めて219頁の本で、上記のように、実際には140-150頁の本だと見てよい。
 この長さの本にしては、この「参考資料」の件数は、つまり合計133(冊+件)は、異様に多すぎるのではないだろうか。
 しかも、「主要」なものに限っている、とされる!。   
 「主要」なものだけで、極論すれば、一頁あたり一冊の専門?書または一件の専門?論文が使われている。
 常識的には、こんなことはありえない。これほど多数の「主要」参考文献を用いれば、書物自体の長さ、大きさがもっとはるかに長く大きいものになつているだろう。
 また、本文の内容を読んでも、これだけ多数の文献を駆使した、かつ綿密な、密度の濃いものになっているとも感じられない。
 したがっておそらく、<主要参考資料一覧>というのは、この書物を書くために実際に(基礎的であれ直接にであれ)用いたものではなく、多くは、著者・椛島有三が「気に入っている」または読者に「推薦したい」書物等の<一覧>なのだと思われる。
 繰り返すが、もともとでも219頁の本に、計133冊・件という「参考資料」の数は多すぎる。しかもそのうち、単行本和書85、同翻訳書23、洋書11、という数字なのだ。
 これらをよほどうまく「参考」にして吸収したうえで、かつ要領よくまとめないと、219頁(実際は140-150頁)の書物にはならない。それだけの吸収と概括が本文にあるようには、日本史・戦前史の素人である私には思えない。なお、個別の章等のあとには、「参考文献」の提示はない。まとめて最後に、<一覧>が示されている。
 さて、<保守>論者の諸文献を少しは読んで、かつ所持もしている秋月瑛二の目から見ると、この<主要参考資料>の掲載の仕方・内容は、あくまで主観的にだが、きわめて異様だ。
 つづく。

1367/資料・史料-2015.12日韓「慰安婦問題」合意の一部の日本語文と<英訳公文>。

 2015.12.28日韓「慰安婦」問題合意の1(日本側)の(1)序文とアは、以下のとおりだった。
 「(1)岸田外務大臣による発表は,以下のとおり。
 日韓間の慰安婦問題については、これまで,両国局長協議等において、集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき、日本政府として、以下を申し述べる。」
 「ア 慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から,日本政府は責任を痛感している
 安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。
 以上の部分の英訳公文は、以下のとおり。「ア」は「(i) 」になっている。<出所はすべて、(日本)外務省HP>

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  (1) Foreign Minister Kishida announced as follows.
 The Government of Japan and the Government of the Republic of Korea (ROK) have intensively discussed the issue of comfort women between Japan and the ROK at bilateral meetings including the Director-General consultations. Based on the result of such discussions, I, on behalf of the Government of Japan, state the following:
   (i) The issue of comfort women, with an involvement of the Japanese military authorities at that time, was a grave affront to the honor and dignity of large numbers of women, and the Government of Japan is painfully aware of responsibilities from this perspective. As Prime Minister of Japan, Prime Minister Abe expresses anew his most sincere apologies and remorse to all the women who underwent immeasurable and painful experiences and suffered incurable physical and psychological wounds as comfort women.
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1366/資料・史料-安倍晋三首相/戦後70年談話<英訳公文>。

 原文(日本語文)は、この欄の2016.06.15付にある。以下の出所-官邸HP。
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Statement by Prime Minister Shinzo Abe
 Friday, August 14, 2015


 Cabinet Decision
 On the 70th anniversary of the end of the war, we must calmly reflect upon the road to war, the path we have taken since it ended, and the era of the 20th century. We must learn from the lessons of history the wisdom for our future.
 More than one hundred years ago, vast colonies possessed mainly by the Western powers stretched out across the world. With their overwhelming supremacy in technology, waves of colonial rule surged toward Asia in the 19th century. There is no doubt that the resultant sense of crisis drove Japan forward to achieve modernization. Japan built a constitutional government earlier than any other nation in Asia. The country preserved its independence throughout. The Japan-Russia War gave encouragement to many people under colonial rule from Asia to Africa.
 After World War I, which embroiled the world, the movement for self-determination gained momentum and put brakes on colonization that had been underway. It was a horrible war that claimed as many as ten million lives. With a strong desire for peace stirred in them, people founded the League of Nations and brought forth the General Treaty for Renunciation of War. There emerged in the international community a new tide of outlawing war itself.
 At the beginning, Japan, too, kept steps with other nations. However, with the Great Depression setting in and the Western countries launching economic blocs by involving colonial economies, Japan's economy suffered a major blow. In such circumstances, Japan's sense of isolation deepened and it attempted to overcome its diplomatic and economic deadlock through the use of force. Its domestic political system could not serve as a brake to stop such attempts. In this way, Japan lost sight of the overall trends in the world.
 With the Manchurian Incident, followed by the withdrawal from the League of Nations, Japan gradually transformed itself into a challenger to the new international order that the international community sought to establish after tremendous sacrifices. Japan took the wrong course and advanced along the road to war.
 
And, seventy years ago, Japan was defeated.

 On the 70th anniversary of the end of the war, I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences.
 More than three million of our compatriots lost their lives during the war: on the battlefields worrying about the future of their homeland and wishing for the happiness of their families; in remote foreign countries after the war, in extreme cold or heat, suffering from starvation and disease. The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, the air raids on Tokyo and other cities, and the ground battles in Okinawa, among others, took a heavy toll among ordinary citizens without mercy.
 Also in countries that fought against Japan, countless lives were lost among young people with promising futures. In China, Southeast Asia, the Pacific islands and elsewhere that became the battlefields, numerous innocent citizens suffered and fell victim to battles as well as hardships such as severe deprivation of food. We must never forget that there were women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured.
 Upon the innocent people did our country inflict immeasurable damage and suffering. History is harsh. What is done cannot be undone. Each and every one of them had his or her life, dream, and beloved family. When I squarely contemplate this obvious fact, even now, I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief.
 The peace we enjoy today exists only upon such precious sacrifices. And therein lies the origin of postwar Japan.
 We must never again repeat the devastation of war.
 Incident, aggression, war -- we shall never again resort to any form of the threat or use of force as a means of settling international disputes.We shall abandon colonial rule forever and respect the right of self-determination of all peoples throughout the world.
 With deep repentance for the war, Japan made that pledge. Upon it, we have created a free and democratic country, abided by the rule of law, and consistently upheld that pledge never to wage a war again. While taking silent pride in the path we have walked as a peace-loving nation for as long as seventy years, we remain determined never to deviate from this steadfast course.
 Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war. In order to manifest such feelings through concrete actions, we have engraved in our hearts the histories of suffering of the people in Asia as our neighbours: those in Southeast Asian countries such as Indonesia and the Philippines, and Taiwan, the Republic of Korea and China, among others; and we have consistently devoted ourselves to the peace and prosperity of the region since the end of the war.
 Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future.
 However, no matter what kind of efforts we may make, the sorrows of those who lost their family members and the painful memories of those who underwent immense sufferings by the destruction of war will never be healed.
  Thus, we must take to heart the following.
 The fact that more than six million Japanese repatriates managed to come home safely after the war from various parts of the Asia-Pacific and became the driving force behind Japan’s postwar reconstruction; the fact that nearly three thousand Japanese children left behind in China were able to grow up there and set foot on the soil of their homeland again; and the fact that former POWs of the United States, the United Kingdom, the Netherlands, Australia and other nations have visited Japan for many years to continue praying for the souls of the war dead on both sides.
 How much emotional struggle must have existed and what great efforts must have been necessary for the Chinese people who underwent all the sufferings of the war and for the former POWs who experienced unbearable sufferings caused by the Japanese military in order for them to be so tolerant nevertheless?
 That is what we must turn our thoughts to reflect upon.
 Thanks to such manifestation of tolerance, Japan was able to return to the international community in the postwar era. Taking this opportunity of the 70th anniversary of the end of the war, Japan would like to express its heartfelt gratitude to all the nations and all the people who made every effort for reconciliation.
  In Japan, the postwar generations now exceed eighty per cent of its population. We must not let our children, grandchildren, and even further generations to come, who have nothing to do with that war, be predestined to apologize. Still, even so, we Japanese, across generations, must squarely face the history of the past. We have the responsibility to inherit the past, in all humbleness, and pass it on to the future.
 Our parents’ and grandparents’ generations were able to survive in a devastated land in sheer poverty after the war. The future they brought about is the one our current generation inherited and the one we will hand down to the next generation. Together with the tireless efforts of our predecessors, this has only been possible through the goodwill and assistance extended to us that transcended hatred by a truly large number of countries, such as the United States, Australia, and European nations, which Japan had fiercely fought against as enemies.
 We must pass this down from generation to generation into the future. We have the great responsibility to take the lessons of history deeply into our hearts, to carve out a better future, and to make all possible efforts for the peace and prosperity of Asia and the world.
 We will engrave in our hearts the past, when Japan attempted to break its deadlock with force. Upon this reflection, Japan will continue to firmly uphold the principle that any disputes must be settled peacefully and diplomatically based on the respect for the rule of law and not through the use of force, and to reach out to other countries in the world to do the same. As the only country to have ever suffered the devastation of atomic bombings during war, Japan will fulfil its responsibility in the international community, aiming at the non-proliferation and ultimate abolition of nuclear weapons.
 We will engrave in our hearts the past, when the dignity and honour of many women were severely injured during wars in the 20th century. Upon this reflection, Japan wishes to be a country always at the side of such women’s injured hearts. Japan will lead the world in making the 21st century an era in which women’s human rights are not infringed upon.
 We will engrave in our hearts the past, when forming economic blocs made the seeds of conflict thrive. Upon this reflection, Japan will continue to develop a free, fair and open international economic system that will not be influenced by the arbitrary intentions of any nation. We will strengthen assistance for developing countries, and lead the world toward further prosperity. Prosperity is the very foundation for peace. Japan will make even greater efforts to fight against poverty, which also serves as a hotbed of violence, and to provide opportunities for medical services, education, and self-reliance to all the people in the world.
 We will engrave in our hearts the past, when Japan ended up becoming a challenger to the international order. Upon this reflection, Japan will firmly uphold basic values such as freedom, democracy, and human rights as unyielding values and, by working hand in hand with countries that share such values, hoist the flag of “Proactive Contribution to Peace,” and contribute to the peace and prosperity of the world more than ever before.
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1345/資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(2)。

 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (2)
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 〔09〕
 かくの如き形勢より推して考うるに、「ソ」連は、やがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ侯。(即ち共産党の公認、「ドゴール」政府、「バドリオ」政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び、防共協定の廃止等)
 〔10〕
 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之侯。
 即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵慨心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座侯。
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に御座候。
 〔11〕
 少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存侯。
 皇族方の中にも、 此の主張に耳を傾けられるる方あり、と仄聞致し侯。
 職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産主義主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て、 彼等を引きずらんとしつつあるものに御座侯。
 抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是ら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。
 満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。
 支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯。
 〔12〕
 是ら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、 意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存侯。
 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到違したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座侯。
 不肖は、此の間三度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんがため、出来得るだけ是ら革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座侯。
 〔13〕
 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢を加えつつありと存侯。
 かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目釣を達せんとする共産主義分子なりと睨み居り候。
 一方に於て徹底的米英撃滅を唱う反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座侯。
 軍部の一部はいかなる犠牲を払いても「ソ」連と手を握るべしとさえ論ずる者もあり、又延安との提携を考え居る者もありとのごとに御座侯。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべき凡ゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならばこの形勢は急速に進展致すべくと存侯。
 〔14〕
 戦局の前途につき、何か一縷でも打開の望みありと云うならば、格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之れ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存侯。
 随って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信致し侯。
 〔15〕
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。
 彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗致すべき者と存ぜられ侯。
 もしこの一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有り侯。
 従って、戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座侯。
 此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むべく候。
 蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるが故に、其の本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものとなりと存侯。
 〔16〕
 尚、これは少々希望的観測かは知れず侯えども、もし是ら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気は緩和するに非ざるか。
 元来米英及び重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改らぱ、彼等としても戦争の継続につき考慮する様になりはせずやと思われ侯。
 〔17〕
 それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提、先決条件と存すれば、非常の御勇断をこそ願わしく奉り存侯。
 以上。
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 以上

1344/資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(1)。

 いわゆる<近衛上奏文>は秦郁彦も重きを置いておらず、「陰謀史観」を示す一つとして取り扱われている。
 しかし、数十年後には、異なる評価がなされることもありうるのではないか。
 もちろん、近衛文麿自身に変化がありえただろうことを意識しなければならないと思われる。
 以下、読みやすくするために、一文ごとに改行した。
 また、本来の改行場所との間の一段落を、山口富永・近衛上奏文と皇道派-告発・コミンテルンの戦争責任-(2010、国民新聞社)所収の資料を参考にして、〔01〕、〔02〕のような頭書を付した。
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 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (1)
 〔01〕
 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯。
 以下此の前提の下に申述べ侯、
 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て、敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存ず。
 国体護持の建前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座侯。
 〔02〕
 つらつら思うに、我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。
 即ち国外に於ては、「ソ」連の異常なる進出に御座侯。
 我国民は「ソ」連の意図は的確に把握し居らず、 かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる見方と存侯。
 「ソ」連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座侯。
 〔03〕
 ソ連は欧州に於て其の局辺諸国には「ソヴィエート」的政権を、爾余の諸国には少くとも親「ソ」容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之侯。
 〔04〕
 「ユーゴー」の「チトー」政権は、その最も典型的な具体表現に御座侯。
 波蘭〔ポーランド〕に対しては、 予め「ソ」連内に準備せる波蘭愛国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申し侯が、羅馬尼〔ルーマニア〕、勃牙利〔ブルガリア〕、芬蘭〔フィンランド〕に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつ「ヒットラー」支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエート」政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致し侯。
 〔05〕
  「イラン」に対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致し侯。
 端西〔スウェーデン〕が「ソ」連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は端西政権を以て、親枢軸的なりとて一蹴し、之がため外相の辞職を余儀なくせしめ侯。
 〔06〕
 占頷下の仏蘭西〔フランス〕、白耳義〔ベルギー〕、和蘭〔オランダ〕に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる斗争が続けられ、且つ是ら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり。
 而して是ら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座侯。
 独逸〔ドイツ〕に対しては波蘭に於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ侯。
 〔07〕
 「ソ」連はかくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の足場を取るも、事実に於ては、極度の内政干渉をなし、国内政治を親「ソ」的方向に引きずらんと致し居り候。
 〔08〕
 「ソ」連の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安には「モスコー」より来れる岡野〔野坂参三〕を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。
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 <つづく>

1268/先の戦争へのコミュニズムの影響ー藤岡信勝・中西輝政らによる。

 〇 栗田健男中将はなぜレイテ海戦の際に「反転」したのか、といった戦記ものあるいは個々の戦術ものには、ほとんど関心を持たないできた。それは戦後生まれのものにとって敗戦は既定の事実で今さら敗戦の戦術的・技術的原因を探ることがほとんど無意味と思われたことや、占領期についてでも複雑なのに、もっと複雑そうな戦時中の細かな歴史について勉強しておくことの時間的な余裕はないと感じられたことによる。
 但し、1930年代には日本共産党はとっくに壊滅していて一部の者が獄中で念仏のごとく「反戦」を唱えていたかもしれないこと程度で、戦争は日本共産党とは対極にある<右翼的・反共的>グループが継続したというイメージが強かったところ、日本国家あるいは日本の軍部・政治家等に対するコミュニズムやコミンテルンの影響やアメリカのルーズベルト政権自体の<容共左翼>性の指摘があることを知って、にわかに先の戦争と「共産主義(コミュニズム)」の関係についての関心が高まってきた、という経緯が私にはある。
 それは、アトランダムに言えば、先の戦争は<民主主義対全体主義・ファシズム>の戦争だったなどと単純には言えないだろうこと、ソ連や大戦の結果生まれた中国共産党主導の新中国は「民主主義」陣営であるはずはなく<左翼全体主義>の国家ではないか、なぜアメリカはそのようなソ連と手を組んだのか、アメリカは<共産中国>を新たに生み出す結果をもたらした(そしてそれは今日でも大きな悪い影響・問題を生じさせている)戦争をなぜしたのか、なぜアメリカは(中国ではなく)日本を執拗に敵視したのか、といった認識や疑問と関係してくる。
 〇 隔月刊・歴史通2015年1月号(ワック)のいくつかに少しばかり言及する。
 藤岡信勝「戦後レジームの自壊が始まった」の中で藤岡が1995年の「自由主義史観研究会」立ち上げの頃は「私も日本が満州から北支に進出したことは咎められるべきだと思っていました」と率直に「告白」しているのが興味深い(p.41)。その時期からまだ20年ほどしか経っていない。藤岡は、しかしもちろん?、「中国側の絶え間ない挑発に日本は対応していたに過ぎず、侵略行為とは言い難い」、「日本は挑発行為に乗せられて戦争の道に走っていったと見るべき」だ等の今日の認識を示している(同上)。
 「中国側の絶え間ない挑発」は日本の<南侵>を誘導する中国共産党、その背後のコミンテルンの戦略をおそらく意味しているのだろう。l
 岡部伸「近代日本を暗黒に染めた黒幕」はカナダ人のハーバート・ノーマンを扱うもので、「日本を貶めた最大の敵ではなかったか」との基本的主張・認識があり、戦前の日本を「封建的要素が残った、いびつな近代社会」と理解する、講座派的な日本「暗黒史観」の持ち主で、戦後当初には日本共産党を「民主主義」勢力とみなした、等々を叙述している(p.70-)。ハーバート・ノーマンを自殺に追い込んだ?アメリカの戦後のマッカーシズムの評価やノーマンと都留重人、尾崎秀実やゾルゲとの関係など、すでにある程度は知っているが、もっと詳細かつ明確な研究成果を読みたいものだ(この最後の部分は岡部の一文を批判するものではない)。
 中西輝政と北村稔の対談「日米・日中/戦争の真犯人」も興味深い(p.94-)。
 北村稔は彼の「学生時代、日本史研究と東洋史研究の分野ではマルクス主義の影響がものすごく強かった」と述べているが(p.103)、とくに日本近現代史の分野では、今日までその現象は続いているのではないだろうか(従って、私は、高校教育における「日本史」必修化には、教科書の書き手からするその内容と、教える教師の、推測される「左翼」=親マルクス主義的傾向のゆえに、現時点では簡単に賛成はできない)。
 中西輝政は例のごとく?、真珠湾攻撃に関するルーズヴェルト陰謀説に近い議論は「日本の国際政治や歴史の学会ではほとんど相手に」されなかったと、<左翼アカデミズム>の支配の一端を語っている(p.104)。
 中西はまた、今後の研究・検証が必要なテーマをいくつか挙げている。例えば、①永田鉄山らの「華北分離」・<南侵>路線の背景-背後にコミンテルンの工作か。②「国民政府を相手にせず」声明(第一次近衛声明)の背景-尾崎秀実が糸を引いていたか等。③海軍の戦争推進・拡大方針の批判的検証。④近衛の「東亜新秩序建設」声明(第二次声明)の背景。
 〇 上に最後に述べた諸点とコミンテルンまたはそのスパイ(・エージェント)の関係はまだ明確には分かっていない、ということなのだろう。
 もっとも、精読したわけではまだないが、すでにある程度の自信をもって確言している論者もいる。
 中川八洋・近衛文麿とルーズベルト―大東亜戦争の真実(PHP、1995)、同・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010)だ。ハル・ノート(日本に開戦させるための強硬な最後通牒?)についても、<保守派>あるいは「自由主義史観」では通説的かもしれない理解とは異なる評価を下しているようだ。
 かなり飛躍するかもしれないが、憲法改正論の具体的内容と同様に、<保守派>あるいは<産経史観>?の論者においても、先の大戦の具体的な認識や評価は一様ではないと見られる。簡単には表現し難いが、欧米「帝国主義」からアジアを解放するための戦争だったという評価と、共産主義者・コミンテルンに誘引されてずるずると嵌まり、拡大してしまった戦争という評価では、大きく異なると感じざるをえない。
 西尾幹二が続けている、戦後にGHQにより「焚書」された戦前・戦中の日本人の諸文献の研究・解明によって、上のような論点はどの程度明らかになるのだろうか(すべて所持しているが、わずかしか熟読していない)。
 戦前・戦中に共産主義者・コミンテルン(・工作員等々)が日本に対してはたした役割、行った悪業にだけは関心をもって、諸文献・論考等を読んでいくことにする。 

1197/六年半前と「慰安婦」問題は変わらず、むしろ悪化した。これでよいのか。

 この欄への書き込みを始めたのは2007年3/20で、第一次安倍晋三内閣のときだった。当初は毎日、しかも一日に3-6回もエントリーしているのは、別のブログサイトを二つ経てここに落ち着いたからで、それらに既に書いていたものをほとんど再掲したのただった。

 当時から6年半近く経過し、内閣は再び安倍晋三のもとにある。かつて安倍内閣という時代背景があったからこそ何かをブログとして書こうと思い立ったと思われるので、途中の空白を経て第二次安倍内閣が成立しているとは不思議な気もする。
 不思議に思わなくもないのは、定期購読する新聞や雑誌に変更はあっても、政治的立場、政治的感覚は、主観的には、6年半前とまったく変わっていない、ということだ。

 当時に書いたものを見てみると、2007年3/21に、「憲法改正の発議要件を2/3から1/2に変えるだけの案はどうか」という提案をしている(5回めのエントリー)。たまたま谷垣禎一総裁時代に作成された現在の自民党改憲案と同じであるのは面白い。但し、この案には、政治状況によっては、天皇条項の廃棄(「天皇制打倒」)も各議院議員の過半数で発議されてしまう、という危険性があることにも留意しておくべきだろう。

 同年3/25、16回めに、「米国下院慰安婦問題対日非難・首相謝罪要求決議を回避する方法はないのか!」と題して書き、同年4/12、63回めでは、「米国下院慰安婦決議案問題につき、日本は今どうすべきなのか?」と再び問題にしている。

 上の後者では、岡崎久彦や「決議案対策としての河野談話否定・批判は『戦術として賢明ではない』」等との古森義久の見解を紹介したあとで、「河野非難は先の楽しみにして、当面は『臥薪嘗胆』路線で行くしかないのだろうか。私自身はまだスッキリしていないが。」と書いている。
 この決議案は採択され、河野談話は否定されておらず、慰安婦問題という「歴史」問題は、まだ残ったままだ。残るだけではなく、さらに悪化している、とも言える。そして、「私自身はまだスッキリしていない」。今年の橋下徹発言とそれをめぐるあれこれの「騒ぎ」のような現象は、今後も間違いなく生じるだろう。

 急ぎ、慌てる必要はないとしても、自民党、安倍晋三内閣はこのまま放置したままではいけないのではないか。
 「歴史認識」問題を犠牲にしても憲法改正(九条改正)を優先すべきとの中西輝政意見もあるが、「歴史認識」問題には「慰安婦」にかかるものも含まれるのだろう。

 これを含む「歴史認識」問題について国民の過半数が一致する必要はなく、例えば<日本は侵略戦争という悪いことをした>と思っている国民も改憲に賛成の票を投じないと、憲法改正は実現できないだろう。

 しかし、河野談話や村山談話をそのまま生かしていれば、第二次安倍内閣は<固い保守層>の支持を失うに違いない。今のままで放置して、「臥薪嘗胆」路線で行くことが賢明だとは考えない。憲法改正を追求するとともに、河野談話・村山談話等についても何らかの「前進」措置を執ることが必要だと思われる。

1193/歴史戦争・歴史認識・歴史問題-中西輝政論考の一部。

 中西輝政のものを読んでいたら、引用して紹介したい部分が随所にある。すべてをという手間をかける暇はないので、一部のみを、資料的にでも引用しておく。

 〇阿比留瑠比との対談「米中韓『歴史リンケ-ジ』の何故?」歴史通7月号(ワック)p.36、p.41

 「いまやマルクス主義や共産主義を真面目に信じている人はいなくなりましたが、敗北した戦後左翼の人々の社会に対する怨念、破壊衝動は残っています。日本国内で長い間社会主義に憧れてきた人たちは、突然社会主義が崩壊してしまったのを見て、日本を攻撃するタ-ゲットを『侵略戦争』すなわち、歴史認識問題へと移しました」。「国際的なリアリズムを踏まえたうえで、歴史問題を考えなければいけません。全ての元凶はどこにあるのか。それは憲法九条です憲法九条さえ改正できれば、歴史問題を持ち出されても対応できるでしょう。憲法改正、歴史談話、靖国参拝の三つで賢く敵を押し返さねばなりません」。

 基本的趣旨に賛成だから引用した。以下はとるに足らないコメント-1.「マルクス主義や共産主義を真面目に信じている人はいなくな」ったのかどうか。生活のため又は惰性ではない日本共産党員もいるのでは。2.「戦後左翼」は「敗北」したと思っているだろうか。3.「突然社会主義が崩壊してしまった」のはソ連・東欧で、中国・北朝鮮はなお「社会主義」国の一つではあるまいか、他の要素・側面が混じっているとしても。4.「憲法九条」は「憲法九条2項」としてほしい。

1191/憲法改正のために「歴史認識」問題を棚上げする勇気-中西輝政論考。

 昨日、中西輝政が<憲法改正(とくに9条2項)を最優先し、そのためには「歴史認識」問題を犠牲にしてもよい>、というきわめて重要な(そして私は賛同する)主張・提言をしていたと書いたが、雑誌数冊をめくっているうちに、この主張・提言のある文章を見つけた。
 月刊ボイス7月号(PHP)、中西「憲法改正で歴史問題を終結させよ-アジアの勢力均衡と平和を取り戻す最後の時が来た」だ。

 その末尾、p.57には-本来は前提的叙述にも言及しないと真意を的確には把握できないのだが、それには目を瞑ると-、こうある。
 「具体的には、いっさいの抵抗を排して憲法九条の改正に邁進することである。その手段として、九六条の改正に着手することも選択肢の一つであり、他方もし九条改正の妨げとなるならば、『歴史認識』問題をも当面、棚上げにする勇気をもたなければならない。」

 このあと続けて簡単に、「日本が九条改正を成就した日には、対日歴史圧力は劇的に低下するからである」という理由が書かれている。
 「歴史認識」問題について中国や韓国(そして米国?)に勝利してこそ憲法9条2項削除(「国防軍」の設置)も可能になるのではないかという意見の持ち主も多いかもしれない。
 しかし、中西輝政の結論的指摘は、私が感じていたことと紛れもなく一致している。中西と同じでではないだろうが、私が思い浮かべていたことは以下のようなことだった。
 国会(両議院)の発議要件がどうなろうと、有権者国民の「過半数」の支持がないと憲法改正は成就しない。しかして、産経新聞社の月刊正論をはじめとする(?)<保守派>が提起している「歴史認識」問題のすべて又はほとんどについて、国民の過半数が月刊正論等の<保守派>と同じ認識に立つことはありうるのだろうか。ありうるとしても、それはいつのことになるなのだろうか。
 田母神俊雄の<日本は侵略国家ではない>との主張・「歴史認識」が、問題になった当時、国民の過半数の支持を受けたとは言い難いだろう。当時の防衛大臣は現在の自民党幹事長・石波茂だったが、自民党の閣僚や国会議員すら明確に田母神を支持・擁護することが全くかほとんどなかったと記憶する。
 先の戦争にかかる基本的評価には分裂があり、2割ずつほどの明確に対立する層のほかに、6割ほどの国民は関心がないか、または歴史教科書で学んだ(人によっては「左翼」教師によって刷り込まれた)日本は悪いことをしたという<自虐>意識を「何となく」身につけている、と私には思える。
 昭和天皇も「不幸な」時代という言葉を使われた中で、さらには<村山談話>がまだ否定されていない中で、いくら産経新聞社や月刊正論が頑張ろうと、
国民の過半数が<日本は侵略国家ではない>という「歴史認識」に容易に達するだろうか。
 上は基本的な歴史問題だが、<南京大虐殺>にせよ<首切り競争>にせよ、あるいは<沖縄住民集団自決>にせよ、さらには<朝鮮併合(「植民地化」?)>問題にせよ、これらを含む具体的な「歴史認識」問題について、国民の過半数は<保守派>のそれを支持しているのだろうか、あるいは近い将来に支持するに至るのだろうか。

 朝日新聞、岩波書店、日本共産党等々の「左翼」の残存状況では、これは容易ではないだろうというのが、筆者の見通しだ。いつぞや書いたが、「seko」というハンドルネイムの女性らしき人物が「在日」と見られる人物に対して、「本当にすみませんでした」という謝りの言葉を発しているのを読んだことがある。産経新聞や月刊正論の影響力など全体からすれば<微々たる>ものだ、というくらいの厳しい見方をしておいた方がよいだろう。

 そうだとすると、憲法改正をするためには、日本はかつて<侵略>をした、<南京大虐殺>という悪いことをした、と(何となくであれ)考えている国民にも、憲法改正、とくに9条2項削除を支持してもらう必要があることになる。
 そういう観点からすると、<保守派>内部に、あるいは<非左翼>内部に対立・分裂を持ち込んでいては憲法改正が成就するはずはないのであり、「歴史認識」に違いはあっても、さらについでに言えば<女性宮家>問題を含む<皇室の将来のあり方>についての考えについて対立があっても、憲法改正という目標に向かっては、「団結」する必要があるのだ。「左翼」用語を使えば、いわば<憲法改正・統一戦線>を作らなければならない。
 日本共産党はずいぶんと前から「九条の会」を作り、又はそれに浸入して、憲法9条の改正にかかる「決戦」に備えている。実質的・機能的には日本共産党に呼応しているマスメディアも多い。
 そうした中では<保守派>にも「戦略・戦術」が必要なのであり、残念ながら「戦略・戦術」を考慮して出版し、そのための執筆者を探すというブレイン的な人物が岩波書店の周辺にはいそうな気がするのに対して、<保守派>の中の「戦略」家はきわめて乏しいのではないか。中西輝政は-安倍晋三と面と向かえる行動力も含めて-貴重な、「戦略」的発想のできる人物だと思われる。

 かつて皇室問題、より正確には雅子皇太子妃問題に関する中西輝政の発言を批判し、国家基本問題研究所の理事を辞めたらどうかと書いたこともあるのだが(なお、むろん私の書き込みなどとは無関係に、中西はのちに同理事でなくなっている)、中西は、相対的・総合的には、今日の日本では相当にレベルの高い<保守派>論客だと思われる。

1055/中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。 

 月刊正論12月号(産経)の中西輝政「大東亜戦争の読み方と民族の記憶・上」より。
 ・「歴史は本来、つねに書き換えられねばならない。なぜなら、歴史の本質とは、いかにすぐれた歴史書であっても、それが書かれた時代的制約を逃れることはできないものだからである」。(p.142)

 ・「もしも日本の内政がしっかりしていて、政府と軍部、陸軍と海軍の意思疎通や合意がしっかりとできていれば、あるいはアメリカに〔反日主義者だった〕ルーズベルト大統領が誕生していなかったら、さらには〔ゾルゲ、尾崎秀実等々による〕各種の対日工作が、天皇陛下にまで誤った情報が吹きこまれるほど日本の中枢を完全に巻き込んで成功裏に進んでいなかったら、事態は大きく異なっていただろう。このうちどれか一つの要因でも欠けていれば、おそらく日米開戦はなかったと思われる。日米開戦は、それほど『例外中の例外』の出来事だった」。(p.152)

 ・但し、「日米開戦は、……マクロ・ヒストリーの視点からは、やはり『宿命の出来事』だったと言うしかない」。(p.153)

0909/資料・史料-「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者。

 史料-2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者

 

 日本側署名者 ※は発起人

 荒井献(東京大学名誉教授・聖書学)、荒井信一※ (茨城大学名誉教授・日本の戦争責任資料センター共同代表)、井口和起※(京都府立大学名誉教授・日本史)、石坂浩一※ (立教大学准教授・韓国社会論)、石田雄(東京大学名誉教授・政治学)、石山久男(歴史教育者協議会会員)、李順愛(早稲田大学講師・女性学)、出水薫(九州大学教授・韓国政治)、李成市※(早稲田大学教授・朝鮮史)、李鍾元※(立教大学教授・国際政治)、板垣雄(東京大学名誉教授・イスラム学)、井筒和幸(映画監督)、井出孫六(作家)、伊藤成彦(中央大学名誉教授・社会思想)、井上勝生※(北海道大学名誉教授・日本史)、今津弘(元朝日新聞論説副主幹)、上杉聡(大阪市立大学教授)、上田正昭(京都大学名誉教授・日本史)、内田雅敏(弁護士)、内海愛子※(早稲田大学大学院客員教授・日本―アジア関係史)、大江健三郎(作家)、太田修※(同志社大学教授・朝鮮史)、岡本厚※( 雑誌『世界』編集長)、沖浦和光(桃山学院大学名誉教授)、小田川興※(元朝日新聞編集委員)、糟谷憲一※(一橋大学教授・朝鮮史)、鹿野政直※(早稲田大学名誉教授・日本史)、加納実紀代(敬和学園大学教授・女性史)、川村湊(文芸評論家・法政大学教授)、姜尚中(東京大学教授・政治学)、姜徳相(滋賀県立大学名誉教授・朝鮮史)、木田献一(山梨英和学院大学院長・キリスト教学)、木畑洋一(成城大学教授・国際関係史)、君島和彦(ソウル大学教授・日本史)、金石範(作家)、金文子(歴史家)、小谷汪之(首都大学・東京教授・インド史)、小林知子(福岡教育大学准教授・在日朝鮮人史)、小森陽一※(東京大学教授・日本文学)、坂本義和※(東京大学名誉教授・国際政治)、笹川紀勝(明治大学教授・国際法)、佐高信(雑誌『週刊金曜日』発行人)、沢地久枝(ノンフィクション作家)、重藤都(東京日朝女性の集い世話人)、清水澄子(日朝国交正常化連絡会代表委員・元参議院議員)、東海林勤※(日本キリスト教団牧師)、進藤栄一(筑波大学名誉教授・東アジア共同体学会会長)、末本雛子(日朝友好促進京都婦人会議代表)、鈴木道彦(独協大学名誉教授・フランス文学)、鈴木伶子(平和を実現するキリスト者ネット代表)、関田寛雄(青山学院大学名誉教授・日本キリスト教団牧師)、徐京植(作家・東京経済大学教授)、高木健一(弁護士)、高崎宗司※(津田塾大学教授・日本史)、高橋哲哉(東京大学教授・哲学)、田中宏(一橋大学名誉教授・戦後補償問題)、俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)、趙景達※(千葉大学教授・朝鮮史)、鶴見俊輔(哲学者)、外村大(東京大学准教授・朝鮮史)、仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授)、中塚明※(奈良女子大名誉教授・日朝関係史)、中野聡(一橋大学教授・歴史学研究会事務局長)、中村政則※(一橋大学名誉教授・日本史)、中山弘正(明治学院大学名誉教授・経済学)、永久睦子( I女性会議・大阪会員)、成田龍一(日本女子大学教授・日本史)、朴一(大阪市立大学教授・経済学)、林雄介(明星大学教授・朝鮮史)、原寿雄(ジャーナリスト)、針生一郎(美術評論家)、樋口雄一(高麗博物館館長)、飛田雄一(神戸学生青年センター館長)、平川均(名古屋大学教授・経済学)、深水正勝(カトリック司祭)、藤沢房俊(東京経済大学教授・イタリア近代史)、藤永壮(大阪産業大学教授・朝鮮史)、福山真劫(フォーラム平和・人権・環境代表)、古田武(高麗野遊会実行委員会代表)、布袋敏博(早稲田大学教授・朝鮮文学)、前田憲二(映画監督・NPO法人ハヌルハウス代表理事)、松尾尊兊※(京都大学名誉教授・日本史)、水野直樹※(京都大学人文科学研究所教授・朝鮮史)、三谷太一郎(政治学者)、南塚信吾(法政大学教授・世界史研究所所長)、宮崎勇(経済学者・元経済企画庁長官)、宮嶋博史※(成均館大学教授・朝鮮史)、宮田毬栄(文筆家)、宮地正人(東京大学名誉教授・日本史)、宮田節子※(歴史学者・元朝鮮史研究会会長)、文京洙(立命館大学教授・政治学)、百瀬宏(津田塾大学名誉教授・国際関係学)、山口啓二(歴史研究者・元日朝協会会長)、山崎朋子(女性史研究家)、山田昭次※(立教大学名誉教授・日本史)、山室英男※(元NHK解説委員長)、梁石日(作家)、油井大三郎(東京女子大学教授・アメリカ史)、吉岡達也(ピースボート共同代表)、吉沢文寿(新潟国際情報大学准教授・朝鮮史)、吉野誠(東海大学教授・朝鮮史)、吉松繁 (王子北教会牧師)、吉見義明(中央大学教授・日本史)、李進煕(和光大学名誉教授・朝鮮史)、和田春樹※(東京大学名誉教授)/ 総 105人

0908/資料・史料-2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明。

 史料/「韓国併合」100年日韓知識人共同声明(全文)


 「韓国併合」100年日韓知識人共同声明
 2010年5月10日 東京・ソウル


 「1910年8月29日、日本帝国は大韓帝国をこの地上から抹殺し、朝鮮半島をみずからの領土に併合することを宣言した。そのときからちょうど100年となる2010年を迎え、私たちは、韓国併合の過程がいかなるものであったか、「韓国併合条約」をどのように考えるべきかについて、日韓両国の政府と国民が共同の認識を確認することが重要であると考える。この問題こそが両民族の間の歴史問題の核心であり、われわれの和解と協力のための基本である。
 今日まで両国の歴史家は、日本による韓国併合が長期にわたる日本の侵略、数次にわたる日本軍の占領、王后の殺害と国王・政府要人への脅迫、そして朝鮮の人々の抵抗の圧殺の結果実現されたものであることを明らかにしている。
 近代日本国家は1875年江華島に軍艦を送り込み、砲台を攻撃、占領するなどの軍事作戦を行った。翌年、日本側は、特使を派遣し、不平等条約をおしつけ、開国させた。1894年朝鮮に大規模な農民の蜂起がおこり、清国軍が出兵すると、日本は大軍を派遣して、ソウルを制圧した。そして王宮を占領して、国王王后をとりことしたあとで、清国軍を攻撃し、日清戦争を開始した。他方で朝鮮の農民軍を武力で鎮圧した。日清戦争の勝利で、日本は清国の勢力を朝鮮から一掃することに成功したが、三国干渉をうけ、獲得した遼東半島を還付させられるにいたった。この結果、獲得した朝鮮での地位も失うと心配した日本は王后閔氏の殺害を実行し、国王に恐怖を与えんとした。国王高宗がロシア公使館に保護をもとめるにいたり、日本はロシアとの協定によって、態勢を挽回することをよぎなくされた。
 しかし、義和団事件とロシアの満州占領ののち、1903年には日本は韓国全土を自らの保護国とすることを認めるようにロシアに求めるにいたった。ロシアがこれを峻拒すると、日本は戦争を決意し、1904年戦時中立宣言をした大韓帝国に大軍を侵入させ、ソウルを占領した。その占領軍の圧力のもと、2月23日韓国保護国化の第一歩となる日韓議定書の調印を強制した。はじまった日露戦争は日本の優勢勝ちにおわり、日本はポーツマス講和において、ロシアに朝鮮での自らの支配を認めさせた。伊藤博文はただちにソウルに乗り込み、日本軍の力を背景に、威嚇と懐柔をおりまぜながら、1905年11月18日、外交権を剥奪する第二次日韓協約を結ばせた。義兵運動が各地におこる中、皇帝高宗はこの協約が無効であるとの訴えを列国に送った。1907年ハーグ平和会議に密使を送ったことで、伊藤統監は高宗の責任を問い、ついに軍隊解散、高宗退位を実現させた。7月24日第三次日韓協約により日本は韓国内政の監督権をも掌握した。このような日本の支配の強化に対して、義兵運動が高まったが、日本は軍隊、憲兵、警察の力で弾圧し、1910年の韓国併合に進んだのである。
 以上のとおり、韓国併合は、この国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして、実現された、文字通りの帝国主義の行為であり、不義不正の行為である
 日本国家の韓国併合の宣言は1910年8月22日の併合条約に基づいていると説明されている。この条約の前文には、日本と韓国の皇帝が日本と韓国の親密な関係を願い、相互の幸福と東洋の平和の永久確保のために、「韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カザル」、併合するのが最善だと確信して、本条約を結ぶにいたったと述べられている。そして第一条に、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且ツ永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」と記され、第二条に「日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス」と記されている。
 ここにおいて、力によって民族の意志を踏みにじった併合の歴史的真実は、平等な両者の自発的な合意によって、韓国皇帝が日本に国権の譲与を申し出て、日本の天皇がそれをうけとって、韓国併合に同意したという神話によって覆い隠されている。前文も偽りであり、条約本文も偽りである。条約締結の手続き、形式にも重大な欠点と欠陥が見いだされる。
 かくして韓国併合にいたる過程が不義不当であると同様に、韓国併合条約も不義不当である。
 日本帝国がその侵略戦争のはてに敗北した1945年、朝鮮は植民地支配から解放された。解放された朝鮮半島の南側に生まれた大韓民国と日本は、1965年に国交を樹立した。そのさい結ばれた日韓基本条約の第二条において、1910年8月22日及びそれ以前に締結されたすべての条約および協定はalready null and voidであると宣言された。しかし、この条項の解釈が日韓両政府間で分かれた。
 日本政府は、併合条約等は「対等の立場で、また自由意思で結ばれた」ものであり、締結時より効力を発生し、有効であったが、1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈した。これに対し、韓国政府は、「過去日本の侵略主義の所産」の不義不当な条約は当初より不法無効であると解釈したのである。
 併合の歴史について今日明らかにされた事実と歪みなき認識に立って振り返れば、もはや日本側の解釈を維持することはできない。 併合条約は元来不義不当なものであったという意味において、当初よりnull and voidであるとする韓国側の解釈が共通に受け入れられるべきである
 現在にいたるまで、日本でも緩慢ながら、植民地支配に関する認識は前進してきた。新しい認識は、1990年代に入って、河野官房長官談話(1993年)、村山総理談話(1995年)、日韓共同宣言(1998年)、日朝平壌宣言(2002年)などにあらわれている。とくに1995年8月15日村山総理談話において、日本政府は「植民地支配」がもたらした「多大の損害と苦痛」に対して、「痛切な反省の意」、「心からのおわびの気持ち」を表明した。
 なお、村山首相は1995年10月13日衆議院予算委員会で「韓国併合条約」について「双方の立場が平等であったというふうには考えておりません」と答弁し、野坂官房長官も同日の記者会見で「日韓併合条約は…極めて強制的なものだった」と認めている。村山首相は11月14日、金泳三大統領への親書で、併合条約とこれに先立つ日韓協約について、「民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いをいれない」と強調した。
 そこでつくられた基礎が、その後のさまざまな試練と検証をへて、今日日本政府が公式的に、併合と併合条約について判断を示し、日韓基本条約第二条の解釈を修正することを可能にしている。米国議会も、ハワイ併合の前提をなしたハワイ王国転覆の行為を100年目にあたる1993年に「不法な illegal 行為」であったと認め、謝罪する決議を採択した。近年「人道に反する罪」や「植民地犯罪」に関する国際法学界でのさまざまな努力も進められている。いまや、日本でも新しい正義感の風を受けて、侵略と併合、植民地支配の歴史を根本的に反省する時がきているのである。
 韓国併合100年にあたり、われわれはこのような共通の歴史認識を有する。この共通の歴史認識に立って、日本と韓国のあいだにある、歴史に由来する多くの問題を問い直し、共同の努力によって解決していくことができるだろう。和解のためのプロセスが一層自覚的に進められなければならない。
 共通の歴史認識をさらに強固なものにするために、過去100年以上にわたる日本と朝鮮半島との歴史的関係に関わる資料は、隠すことなく公開されねばならない。とりわけ、植民地支配の時期に記録文書の作成を独占していた日本政府当局は、歴史資料を積極的に収集し公開する義務を負っている。
 罪の許しは乞わねばならず、許しはあたえられねばならない。苦痛は癒され、損害は償われなければならない。関東大震災のさいになされた朝鮮人住民の大量殺害をはじめとするすべての理不尽なる行為は振り返られなければならない。日本軍「慰安婦」問題はいまだ解決されたとはいえない状態にある。韓国政府が取り組みを開始した強制動員労働者・軍人軍属に対する慰労と医療支援の措置に、日本政府と企業、国民は積極的な努力で応えることが望まれる。
 対立する問題は、過去を省察し、未来を見据えることで、先のばしすることなく解決をはからねばならない。朝鮮半島の北側にあるもうひとつの国、朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交正常化も、この併合100年という年に進められなければならない。このようにすることによって、韓国と日本の間に、真の和解と友好に基づいた新しい100年を切り開くことができる。私たちは、この趣意を韓日両国の政府と国民に広く知らせ、これを厳粛に受け止めることを訴える。」

 (下線は引用・掲載者)

0758/左翼人士-沖縄「集団自決」問題アピール賛同者2007.11。

 ネット上の情報による。
 「沖縄戦の事実を歪める教科書検定の撤回を求める歴史研究者・教育者のアピール」は「沖縄戦における強制集団死、いわゆる『集団自決』」を記述した日本史教科書へ検定意見が付されたことに抗議するもの。大江健三郎・沖縄ノート(岩波)の側に立つ人々だと思われる。
 <歴史学研究会>のサイトにあるので、この団体も「左翼」だろう。呼びかけ人の中に、高嶋伸欣小牧薫のほか、浜林正夫広川禎秀の名もある。賛同者には、犬丸義一、大江志乃夫、山尾幸久らの名が。ほとんどが日本史(とくに近現代史)の研究者又は教員だと思われるが、渡辺治という憲法学者(一橋大学)らしき名もある。2007年11月7日現在。計700名くらいの名はすみやかに集められる<体制>ができていることが注目される。
 <呼びかけ人>
 安仁屋政昭 荒井信一 猪飼隆明 石山久男 伊藤康子 宇佐美ミサ子 大日方純夫 小牧薫 木畑洋一 木村茂光 鈴木良 高嶋伸欣 田港朝昭 中塚明 中野聡 長野ひろ子 永原和子 西川正雄 浜林正夫 広川禎秀 服藤早苗 藤井讓治 峰岸純夫 宮地正人 山口剛史 山田邦明 米田佐代子

 <賛同者>(646名:五十音順)
 青木茂 青木哲夫 青木利夫 青山幹哉 明石岩雄 秋葉淳 秋山晋吾 秋山哲雄 浅井義弘 浅井良夫 浅川保 浅田進史 東幸代 東幹夫 足立恭子 阿部広力 阿部小涼 阿部優子 網中昭世 雨宮昭一 荒井明夫 荒井竜一 荒川美智代 新井勝紘 有澤秀重 有光友學 飯田進五十嵐滝 伊川健二 池享 池内敏 池田洋子 井ヶ田良治 石井寛治 石井建夫 石垣真仁 石川清 石川照子 石崎昇子 石原剛 伊集院立 一色哲 井出浩一郎 伊藤定良 伊藤武夫 伊藤敏雄 伊東七美男 伊藤成彦 伊藤正子 伊藤裕子 稻垣敏子 犬丸義一 井上勝生 井上隆義 井内誠司 今井昭彦 今井駿 今井省三 今井晋哉 今泉裕美子 今枝春菜 井本三夫 入間田宣夫 岩田健 岩附宏行 岩根承成 岩本由輝 宇江城昌子 上杉佐代子 上杉忍 上田佐紀子 上田穰一 上野継義 上間陽子 上村喜久子 上村順造 魚次龍雄 牛田守彦 内田眞 宇野勝子 馬田綾子梅垣千尋 梅田欽治 梅田美和子 梅田康夫 浦沢朱実 浦谷孝次郎 榎原雅治 江村栄一 江里晃 遠藤基郎 遠藤芳信 及川英二郎 及川琢英 近江吉明 大石直正 大石文子 大江志乃夫 大岡聡 大門正克 大川啓 大川安子 大串潤児 大澤正昭 大杉由香 大田史郎 大塚英二 大坪庄吾 大津留厚 大藤修 大野一夫 大野節子 大橋幸泰 大原洋子 大平聡 大平正則 岡田一郎 岡田泰介 岡部廣治 岡村正純 小川隆司 小川信雄 小川美沙子 荻野富士夫 奥平一 奥村哲 奥村吉美 尾﨑芳治 小沢弘明 落合延孝 小野一之 小野将 小野英夫 小野正雄 小野沢あかね 小野寺真人 小浜健児大日方克己 影本一朗 笠原十九司 春日豊 糟谷憲一 加瀬和俊 勝方=稲福恵子勝田俊輔 勝野公明 桂島宣弘 加藤公一 加藤幸三郎 加藤千香子 加藤雅一 金子美晴 金丸裕一 狩野久 樺井義孝 上川通夫 神谷智 川野まな 川合康河上茂 川口悠子 川手圭一 川戸貴史 河西秀哉 川原茂雄 河原よしみ 菅野成寛 菅野文夫 菊池一隆 菊地照夫 菊地宏義 きくちゆみ 鬼嶋淳 北上憲明 北爪眞佐夫 木谷勤 木戸衛一 貴堂嘉之 君島和彦 木村卓滋 木村直也 木村英亮 木村誠 木村由美子 吉良芳恵 金城篤 楠木武 楠瀬勝 工藤則光 久場暢子 久保田和彦 久保田貢 熊谷賢 熊谷祐信 蔵持重裕 栗田伸子 栗田禎子 栗原哲也 黒川みどり 黒瀬郁二 黒田加奈子 桑原育朗 小出隆司 河内山朝子 肥沼孝治 小久保嘉紀 小澤浩 小島晃 小嶋茂稔 小杉雅彦 小菅信子 小谷汪之 小玉道明 後藤雄介 小林知子 小松克己 小松裕 小松清生 小南浩一 子安潤 小山帥人 今野日出晴 金野文彦 斉藤一清 齊藤茂 斉藤孝 斉藤貞二 齊藤俊江 斉藤利男 齋藤年美 斎藤夏来  佐賀朝 阪井芳貴 酒井芳司 坂上康博 榊良 坂口勉 逆井孝仁 坂下史子 坂本昇 崎山直樹 佐々木啓 佐々木有美 佐藤治郎 佐藤千代子 佐藤伸雄 佐藤政憲 澤﨑信一 志賀功 志賀節子 志沢允子 篠永宣孝 芝野由和 島川雅史 島田克彦 島田次郎 島袋善弘 島袋文子清水克行 清水崇仁 清水竹人 清水透 清水法夫 清水憲一 清水正義 庄司香 庄司啓一 白井洋子 白川哲夫 白倉汎子 白土芳人 新行紀一新藤通弘 神野清一 末中哲夫 杉本弘幸 杉山茂 鈴木織恵 鈴木さよ子 鈴木隆史 鈴木哲雄 砂田恵理 加関口明 関原正裕 瀬畑源 副島昭一 曽根勇二 大地実大道魯参 平良宗潤 平良多賀子 高岡裕之 高木仁生 高島千代 高田公子 高田幸男 高野信次 高野信治 高橋明 高橋修 高橋公明 高橋慎一朗 高橋秀実 高橋浩明 髙橋昌明 髙橋勝 高橋守 髙麻敏子 髙麻宣男 瀧井敏彦 滝沢芳昭 田口勝一郎 武井隆明 竹内光浩 武廣亮平 竹間芳明 田﨑公司 田嶋信雄 夛田眞敏 橘晃弘 田所顕平 田名真之 田名裕治 棚井行隆 田中克範 田中はるみ 田中大喜 田中比呂志 田中義彦 棚橋正明 棚原和宏 田場暁生 玉井憲二 玉井力 玉田厚 俵義文 丹賢一 丹下栄 中條献 千代崎未央 塚田勲 津多則光 土橋博子 土橋裕幸 堤啓次郎 鶴田啓 手塚尚手塚優紀子 寺尾光身 寺田光雄 土居原和子 東海林次男 戸田聡 外岡慎一郎 戸ノ下達也 戸邉秀明 富田理恵 富永信哉 豊見山和行 富山順子 鳥居明子 内藤雅雄 中井正幸 中尾長久 永岡浩一 長岡真吾 中小路純 長島淳子 長島光二 中島醸 中嶋久人 中島寛子 長島弘 長田彰文 永田太 中田宗紀 中塚次郎 中西綾子 仲西和枝 仲西孝之 長沼宗昭 永原陽子 永岑三千輝 中村哲 中村友一 中村平治 中村雅子 中村政則 中村元彦 仲森明正 中山清 中山千賀子 中山英男 長山雅一 名嘉山リサ 仁木宏 西晃 西川純子 錦織照 西口芳美 西島太郎 西成田豊 西村汎子 西村元子 西村嘉髙 二谷貞夫 新田康二 貫井正之 布川弘 沼田稔 根津朝彦 能川泰治 野口華世 野口美代子 野澤健 野田泰三野村修身 野本京子 萩森繁樹 萩原淳也 橋口定志 橋本雄 長谷川伸三 長谷川貴彦畑惠子 秦惟人 幡鎌一弘 馬場正彦 浜忠雄 早川紀代林彰 林幸司 林毅 林博史 林正敏 林美和 早瀬満夫 原朗 原田敬一 原田正俊 半沢里史 阪東宏 坂野鉄也 樋口映美 彦坂諦 ハーバート・P・ビックス 秀嶋泰治 秀村選三 日隈正守 日比野恵子 比屋根哲 平井敦子 平井美津子 平島正司 平瀬武一 平野千果子 平野洋 広瀬隆久 広瀬玲子 弘田五郎 笛田良一 深澤安博 深谷克己 福田和久 福田浩治 福田秀志 福林徹 譜久村裕司 藤岡寛己 藤木久志 藤澤建二 藤田明良 藤田覚 藤田達生 藤波潔 藤野正治 藤本茂生 藤本清二郎 藤原立子 古川雅基 別所興一 別府有光 別府健 本庄豊 保谷徹 外園豊基 星乃治彦 堀サチ子 堀新 堀井弘一郎 本田衡規 前川亨 前川玲子 前田一郎 前田金五郎 前田徳弘 前嵩西一馬 真栄平房昭 真喜屋美樹 増田俊信 町田哲 松浦真衣子 松尾寿 松尾良隆 松澤徹 松島周一 松薗斉 松永友有 松沼美穂 松野周治 松村幸一 松村高夫 松本通孝 丸浜昭 丸山理 丸山信二 丸山豊 三浦俊明 三澤純 水田大紀 水谷明子 溝部敦子 光成準治 三橋広夫 皆川雅樹 峰元賢一 三原容子三宅明正 宮田伊知郎 宮瀧交二 宮原武夫 宮本謙介 宮本徹 宮本直哉 三輪泰史 村形明子 村上祐 村上博章 村上史郎 村田勝幸 村田まり子 村山一兵 毛里興三郎 毛利勇二 茂木敏夫 本川幹男 森健一 森安彦 森川静子 森田香司 森谷公俊 守屋友江 屋嘉比収 柳沼寛 矢口祐人 矢澤康祐 八代拓 安川寿之輔 安田歩 安田常雄 安田敏朗 安野正明 安原功 安丸良夫 柳沢遊 柳澤幾美 柳沢悠 柳原敏昭 矢部久美子 山尾幸久 山上俊夫 山川宗秀 山口由等 山崎治 山崎淳子 山﨑四朗 山崎直子 山下有美 山田渉 山田昭次 山田裕 山田麗子 山中哲夫 山梨喜正 山根清志山上正太郎 山道佳子 山本かえ子 山本和重 山本公徳 山本直美 山本尚 山本美知子山本義彦 山領健二 湯浅治久 油井大三郎 横原由紀夫 横山鈴子 横山英信 横山陽子 吉井敏幸 吉田晶 吉田庄一 吉田永宏 吉田裕 吉田ふみお吉野典子 吉水公一 米田俊彦 米山宏史 若尾政希 若松正志 若山順子 和田光司 渡邊勲 渡辺治 渡辺浩一 渡辺信一郎 渡辺尚志 渡辺英夫 割田聖史 (氏名非公表23名)

0582/板倉由明は田中正明を全否定したわけではない。西尾幹二・GHQ焚書図書開封(徳間)を半分読了。

 前回のつづき又は補足-田中正明の『松井石根大将の陣中日記』を批判した板倉由明は1999年に逝去し、遺作として、そして研究の集大成として同年12月に『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会)を出版した。
 だが、その著の中には田中正明を批判した『歴史と人物』誌上の論文を収録せず、かつその名を巻末の「主な著作・評論」のリストにすら記載していない。
 小林よしのりもある程度のことは書いているが(パール真論)、推察するに、自分の学問的研究(田中正明の著の批判)が朝日新聞と本多勝一に「政治的に」利用されてしまったことへの後悔又は本多勝一等に対する憤懣があったからではないだろうか。
 小林によると「改竄の事実を指摘した板倉由明でさえ、田中正明の全ての言説を信用できないと言っていたわけではない」(p.212)。
 大部数を誇る全国紙を使って自分たちの考えと異なる史実を指摘し主張している本を<抹殺>しようとしたのだから、朝日新聞とは怖ろしい新聞(社)だ。
 だが、小林よしのりによると、「学界・マスコミ」では今だに「軍国日本を糾弾する論文を書けば、論壇の寵児になれる」体制が続いている(p.213)。そして、中島岳志の「パール判決書をねじ曲げたペテン本」が出る事態に至る。そしてこの本は、朝日新聞と毎日新聞から「賞」まで与えられた。怖ろしい、怖ろしい。
 有名な江藤淳・閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本(文藝春秋、1989)と櫻井よしこ・「眞相箱」の呪縛を解く(小学館文庫、2002)は所持しながらも意識的に未読で、<最後に>残しておこうというくらいの気持ちだった。
 だが、被占領期のGHQの言論統制について、西尾幹二・GHQ焚書図書開封(徳間書店、2008.06)を半分くらい読んでしまった。購入して目を通していたらいつのまにか…、という感じ。
 この西尾幹二の本を読んでも思うが、先の大戦、日本の対中戦争や対米(・対英)戦争に関する正確な事実の把握(とそれにもとづく評価)は、数十年先には、遅くとも50年先にはきっと、現在のそれとは異なっているだろう(と信じたい)。
 松井石根とは-知っている人に書く必要もないが-東京裁判多数意見によりA級戦犯として死刑となった者のうち、ただ一人、<侵略戦争の共同謀議>によってではなく南京「大虐殺」の責任者として処刑された人物だ。南京「大虐殺」が幻又は虚妄であったなら、紛れもなく、この松井石根は、無実の罪で、冤罪によって、死んだ(=殺された)ことになる。もともと「裁判」などではなく<戦争の続きの>一つの<政治ショー>だった、と言ってしまえばそれまでなのだが。
 アメリカの公文書を使っている西尾幹二とは別に、中西輝政らもソ連共産党・コミンテルン関係の文書を使って、かつての共産主義者の<謀略>ぶりを明らかにしている。
 毛沢東・中国共産党の戦前の文書はどの程度残っているだろうか。残っていれば、いずれ公表され、分析・解明されるだろう。
 いずれにせよ、中国や(GHQや)日本の戦後「左翼」の日本<軍国主義>批判という<歴史認識>を決定的なもの又は大勢は揺るがないものと理解する必要は全くない。まだ、早すぎる。それが事実的基礎を大きく損なったものであることが判明し、現在とは大きく異なる<歴史観>でもって日本の過去をみつめることができる日(私の死後でもよい)の来ることを期待し、信じたいものだ。

0581/戒能通孝と朝日新聞・本多勝一-日本無罪論と南京「大虐殺」否定論にかかわって。

 小林よしのり・パール真論(小学館、2008)は読み終えていない。だが、すでにいろいろと知らなかったことを書いてくれている。
 1 日本の被占領が終わった日・1952年4月28日に、バール判事・田中正明編・日本無罪論-真理の裁き-が出版されたが、翌5月28日の読売新聞紙上の書評欄で、戒能通孝は、この出版を「誠に奇怪とし、遺憾とする」、「この題名」では「絶対に通用させたくない」と書き、さらに「本書のようなインチキな題名」の本が一掃されるのを「心から切望したい」とまで述べた(p.190)。
 「この題名」とは<日本無罪論>というタイトルを指す。
 小林は、この題名がパールの意向に添ったものであったことを論証的に叙述している。
 あの戦争についての<日本有罪>論が当時の知識人をいかに強く取り憑いていたかの証拠の一つでもあろう。
 戒能通孝は、記憶のかぎりでは(あの)岩波新書で入会権について書いていた。
 ちなみに、戒能通厚(1939~。東京大学→名古屋大学→早稲田大学)は通孝の実子で、この人は元民主主義科学者協会法律部会々長(理事長?)だったらしい。親子そろっての日本共産党員かと思われる。
 2 朝日新聞の(あの)本多勝一は、1972年に、既連載の「中国の旅」を単行本化した。同年に田中正明は、「日本無罪」を題名の一部とする、編書を含めて三冊目の本を出版した。小林よしのりによると、「日本人が自ら東京裁判史観を再強化」しようとする本多勝一の本のキャンペーンを「黙視するに忍びなかったからに違いない」(p.205-6)。
 メモしておきたいのは以下。
 田中正明は1985年に、『松井石根大将の陣中日誌』を出版した。小林によると、陣中日誌を公表して南京「大虐殺」の虚妄を示す決定的な史料にしたかったようだ。
 この田中書に対して、板倉由明が『歴史と人物』という雑誌上で一部の「改竄」を指摘した。不注意(誤読)の他に、主観的には善意の、意図的「改竄」(原文の修正)もあったらしい。
 板倉由明は田中正明個人に対しては「悪意も敵意もなかった」。歴史家としての客観的で正当な指摘も多かったのだろうと思われる。
 ところが、この板倉由明論文が載る雑誌の発売日の前日11/24に、朝日新聞は、「『南京虐殺』史料に改ざん」という見出しの「8段抜きの大々的な記事」を載せ、翌11/25には「『南京虐殺』ひたすら隠す」という見出しの「7段の大きな記事」を載せた。執筆した記者は、本多勝一。南京「大虐殺」否定論に立つ田中正明の本を徹底的に叩くものだった。
 小林よしのりは言う-「朝日新聞が2日連続でこれだけ多くのスペースを割いて、たった一冊の本を批判した例など前代未聞」だった(p.209)。
 朝日新聞および本多勝一は田中正明の基本的な主張に反論できず、板倉由明論文を利用して「田中個人の信頼性をなくそうという意趣返し」をやった(p.209)。
 小林よしのりのこれ以上の叙述の引用等は省略するが、朝日新聞はこの当時とっくに異様な<左翼謀略政治団体>だったわけだ。
 <売国奴>という言葉は好きではない。だが、一人だけ、本多勝一にだけは使ってもよい、と思っている。

0549/相変わらず<異様な>朝日新聞6/13社説-バウネット期待権・最高裁判決。

 被取材者の「期待権」の有無等を争点とする最高裁判決が6/12に出て、当該権利の侵害を主張してNHKに損害賠償を請求していた団体側が敗訴した(確定)。
 産経新聞6/13社説は言う-「この問題では、訴訟とは別に、朝日新聞とNHKの報道のあり方が問われた。/問題の番組は平成13年1月30日にNHK教育テレビで放送され、昭和天皇を『強姦と性奴隷制』の責任で弁護人なしに裁いた民間法廷を取り上げた内容だった。〔二段落省略〕/朝日は記事の真実性を立証できず、「取材不足」を認めたが、訂正・謝罪をしていない。/NHKも、番組の内容が公共放送の教育番組として適切だったか否かの検証を行っていない。/朝日とNHKは最高裁判決を機に、もう一度、自らの記事・番組を謙虚に振り返るべきだ」。
 しごく当然の指摘で、朝日新聞をもっと批判してもよいし、北朝鮮の組織員が検事役を務めていた等の「民間法廷」の実態をもっと記述してもよかっただろう。配分された紙幅・字数に余裕がなかったのだろうが。
 一方の朝日新聞の6/13社説。相変わらずヒドい、かつ<卑劣な>ものだ。
 第一に、原告のことを「取材に協力した市民団体」とだけしか記していない。正確には「『戦争と女性への暴力』日本ネットワ-ク」で、略称「バウネット」。第一審提訴時点での代表は松井やより(耶依)で、元朝日新聞記者(故人)。この団体主催の集会に関する番組を放送したNHKに対して安倍晋三と中川昭一が<圧力>をかけたとして、4年も経ってから政治家批判記事を朝日新聞に書いた二人のうち一人は本田雅和で、この松井やよりを尊敬していたらしく、松井の個人的なことも紙面に載せたりしていた。「訴訟とは別に」問われた朝日新聞の「報道のあり方」の重要な一つは、この記者と取材対象(団体代表者)の間の<距離>の異常な近さだった。
 第二に、原告ら主催の集会の内容について、朝日新聞は直接には説明しておらず、「旧日本軍の慰安婦問題を取り上げたNHK教育テレビの番組」と、番組内容に触れる中で間接的に触れるにすぎない。昭和天皇を「性奴隷」の犯罪者として裁こうとする(そして「有罪」とした)異常な(むしろ「狂った」)集会だったのだ。
 上の二点のように、朝日新聞は自分に都合が悪くなりそうな部分を意識的に省略している。
 第三に、「勝訴したからといって、NHKは手放しで喜ぶわけにはいくまい」と書いて、広くはない紙面の中で異様に長くかつての高裁判決に言及して(「安倍晋三」の名も出している)、「政治家」の影響に注意せよとの旨を述べている。
 「勝訴したからといって、NHKは手放しで喜ぶわけにはいくまい」というのはそのとおりだと思うが、NHKが反省すべきなのは、北朝鮮も関与した<左翼>団体による<昭和天皇有罪・女性国際法廷>の集会の内容をほとんどそのまま放映するような番組製作とそれを促進したディレクターを放映直前まで放置してしまったことだ。朝日新聞社説は全く見当違いのことを主張している。
 第四。朝日社説は最後にNHKについてこう書いた。-「NHKは予算案の承認権を国会に握られており、政治家から圧力を受けやすい。そうであるからこそ、NHKは常に政治から距離を置き、圧力をはねかえす覚悟が求められている。/裁判が決着したのを機に、NHKは政治との距離の取り方について検証し、視聴者に示してはどうか。/『どのような放送をするかは放送局の自律的判断』という最高裁判決はNHKに重い宿題を負わせたといえる」。
 よくぞまぁ他人事のようにヌケヌケと語れるものだ。自社について、次のように書いてもらいたい。
 <朝日新聞(社)は幹部・論説委員等を<旧マルクス主義者又は左翼>に握られており、<左翼>から圧力を受けやすく、また自らが<左翼>団体そのものになる可能性がつねにある。そうであるからこそ、朝日新聞(社)は常に<左翼>的「市民団体」から距離を置き、圧力をはねかえす覚悟が求められている。/裁判が決着したのを機に、朝日新聞(社)は<左翼>的「市民団体」を含む<左翼>との距離の取り方について検証し、読者に示してはどうか。/『どのような報道をするかは報道機関の自律的判断』という旨の最高裁判決は朝日新聞(社)に重い宿題を負わせたといえる。
 以上、とくに珍しくもない、相変わらず<異様な>朝日新聞社説について。

0518/文芸評論家らしい山崎行太郎を嗤う-曽野綾子・「集団自決」の真実(ワック)。

 山崎行太郎のブログサイトを再度訪問したいとは思わないので、5/16付のこの欄から、山崎の5/12付ブログ発言の一部を再引用する。
 「曽野氏が、判決直前まで、保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していたことは、もはや、誰でも知っていることであって、この『罪の巨魁』発言に頬かむりして、…その問題の著書『ある神話の背景』を発売し続けるということは、出版ジャーナリズムの原理原則から見ても、許されることではないだろう」。そして、山崎は、<曽野綾子誤読事件>という別の名称を考案?していた。
 曽野綾子が「保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していた」とはいったい何を指しているのか?
 少なくとも、曽野綾子・沖縄戦・渡嘉敷島/「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった(ワック、2006.05)の内容の一部を含めているように推察される。
 ようやくこの本を見つけ出して確認してみた。斜め読みをして「巨魁」・「巨塊」に関係する部分を見つけた(p.295-6)。第一に、曽野綾子は正確に「巨塊」と、大江健三郎の文章を引用している。「…〔前略-秋月〕そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで……(後略)〔原文ママ〕」と引用している(曽野・p.296)。
 第二に、曽野は大江の上の文章を引用したあと、「このような断定は私にはできぬ強いものである。『巨きい罪の巨塊』という最大級の告発の形を使うことは…不可能である」と述べ、その「二つの理由」を記している。
 どうやら、「最大級の告発の形」と書いていることが、「巨きい罪の巨塊」を<巨きい数の死体>と正しく理解していない(誤読している)証拠だと山崎は主張したいように見える。だが、さほどに明瞭な表現を曽野はしているわけではない。
 また、かりに山崎の主張に当たっている所があるとしても、5/16付のこの欄で書いたように、「曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解するのが常識的な読み方だ。私もそう読む」(なお、上記のように、「曽野のように元隊長の<罪の大きさ(巨大さ)>と理解する」という部分は曽野において必ずしも明瞭ではなく、私が単純化しすぎている可能性がある)。また、既述のように、「巨きい罪の巨塊」という一種の語義反復は日本語としてありうる。大江はこれを『文法的』誤りだったと恥じる気になり、〔後になってから〕無理やり後半分は『死体』のことだとこじつけたのではないか」、と考えられる。
 上の段落の第二文・第三文を除いたことの趣旨は、5/16付でも言及した、徳永信一「改めて問う大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」月刊正論4月号(産経新聞社)でも明確に語られている。-山崎行太郎の論文(私・秋月は未読)を読んで調べてみたが、「そもそも曽野氏が『罪の巨塊』を『罪の巨魁』と読み違えたとの論証はどこにもありません」、「曽野氏の文章において『巨塊』を『巨魁』と混同した箇所はどこにもみあたりません」(p.218)。
 そして徳永信一(対大江等損害賠償請求訴訟原告代理人弁護士の一人)が言うように、曽野の本の一部を渡部昇一が誤読又は「単なる引用ミス」した理由を探るならば、曽野の誤読に原因があるのでは全くなく、「難解さで鳴らす大江氏の悪文に原因がある」(p.218)と言うべきだろう。
 なお、おそらく誤読というよりも「単なる引用ミス」をしているのは、曽野綾子ではなく、曽野の上の本の「解説」を同じ本の末尾に書いている石川水穂(産経新聞論説委員)だ。同書p.332には、大江は「あまりに巨きい罪の巨魁」などと指弾していた、という文がある。店頭でも確認したが、2007年11月第6刷でもそのままだ。出版元・ワックは今からでも訂正したらどうか。
 元に戻ると、山崎行太郎とやらのいう<曽野綾子誤読事件>とはいったい何なのか? 曽野綾子が「保守系メディアにおいて、さかんに『罪の巨魁』発言を繰り返していた」とはいったい何を指しているのか?
 山崎は大江健三郎を「護り」たいと思うがために、原告・元隊長らを傷つけることとなる言動をしていることは明らかだが、名誉毀損・誹謗中傷の対象をさらに拡げるべきではない。といっても、<奇矯な>人には真っ当な言い分は理解できないかもしれない。

0486/曽野綾子と沖縄集団自決にかかる大阪地裁2008.03.28判決。

 曽野綾子は、数年前に司法制度改革審議会かその部会の委員をしていて、欠席がちであり、また頓珍漢な発言をしていたとの話がある(厳密さ=正確さの保障はないが)。「司法」制度に関する専門的概念・議論の仕方に疎かったためだろう、きっと。
 月刊WiLL6月号(ワック)の曽野綾子の連載エッセイも、危なかしいところがある。対大江・岩波名誉毀損損害賠償請求訴訟(沖縄集団自決「命令」訴訟)は民事訴訟だが、刑事事件についての「疑わしきは罰せず」は「裁判」一般に通じるものだと誤解しているようだ(p.123)。また、上の訴訟にかかる先日の大阪地裁判決(2008.03.28、裁判長・深見敏正)によって〔元隊長につき〕「疑わしくても状況と心証によっては、黒とみなしていいのだという判例ができた」、「容疑者」を「犯人」と言い切ってよい、ということになった(p.125。p.126にも同旨がある)、と書くが必ずしも正確ではない。
 被告は元隊長等ではなく大江健三郎と岩波書店で、元隊長等の行為が直接に裁かれているわけではない。大江や岩波が元隊長等の特定の行為=自決「命令」があったと信頼し、かつ反証もでてきたのにその後訂正しなかったことに<不法行為>性はあるか(ないか)が争点だ。
 と書きつつ、曽野綾子を誹り批判するのが、この稿の意図ではない。
 曽野は判決が「自決命令…を直ちに真実であると断定できないとしても、…真実であると信じるについて相当の理由があった」と述べた部分に注目しており(p.122-3)、これは的確だ(だが、かかる論法・理屈づけは一般論としては法的にはありうるものと思われる)。
 問題は、「真実であると信じるについて相当の理由があった」と認定したことについての裁判所(裁判官)の証拠資料の採択・心証形成の具体的過程の適正さで、今後の上級審でもこの点が問われるだろう。
 また、私も大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)から大江による元隊長の「内心」の創作=捏造部分をこの欄で引用したことがあるが、曽野も「心理」の「推測」部分を引用し、こう書く。
 「裁判官はこれは個人攻撃ではないというが、全くつきあいのない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、その憎悪を膨らまされ、世間に公表され、アイヒマンだとさえ言われたら、たまったものではない。それは個人攻撃以外のなにものでもないと私は思う」。
 曽野がこう書くのもよく分かる(大江に勝手なことを書かれた当人又は遺族の憤りはいかばかりだろうとも思う)。そして、先日の大阪地裁の裁判官には元隊長等の人間の<感情>・<名誉>をきちんと忖度できる<人間性>があるのだろうか、とすら感じる(大江にはもはやない)。また、大江・岩波という<名声>にある程度<屈服>してしまっているのではないか、と疑いたくもなる。
 だが、大江の創作=捏造も(「命令」のあったことが)「真実であると信じるについて相当の理由があった」のだとすると、それを前提としての(判決のいう)「意見ないし論評の域」の範囲内のものになってしまうのだ。
 すでに私は「法的にはやむをえないのかもしれないが」とか書いた。私とて特定の個人名を挙げてこの欄で批判したりしており、中には、「バカ」とかの言葉を使ったこともあっただろう。こうした批判・論評が許されないと(程度問題ではあるが)意見・論評・表現の「自由」があることにはならない。したがって、ギリギリの所で大阪地裁判決の言うことも理解できないことはない。
 しかし、それはあくまで「真実であると信じるについて相当の理由があった」ことを前提としてのことで、この前提が崩れると、大江健三郎等による名誉毀損の程度(→賠償責任の程度)は上に言及の創作=捏造部分の存在によって決定的に大きくなるだろう。
 ともあれ、当面は控訴審のまともな裁判官による判断に期待するほかはない。
 なお、曽野綾子・…「集団自決」の真実(ワック)は所持しており、随分前に(発刊直後?)少なくとも概略は読んでいる。

0439/再び沖縄集団自決「命令」訴訟・大阪地裁判決について。

 産経新聞に沖縄集団自決「命令」にかかる大阪地裁3月28日判決「要旨」が載っている(裁判長は深見敏正)。新聞記者(司法記者)が<判決の要旨>をまとめる能力をもつ筈がないので、最年少の担当裁判官が原文でも書いて裁判所・法廷(三名の合議体)の名で配布したものと思われる。以下の感想をもった。
 1.「要旨」文だけでは、証拠の取捨選択の具体的な理由は不明だ。①「自決命令」説を捏造とは判断できない理由として援護法制定の前からの文献があることを述べているが、そのことは理由になるのか。古ければ古いほど信憑性は高いとでも言うのか。むろん一般論としても、そうとは言えない。
 ②また、<新事実>(照屋昇雄発言、宮村幸延書面、母親の発言の記録書)は不採用、又は捏造の根拠にならない、としているようだが、それらの根拠はほとんど解らない。「その経歴に照らし…」とか「戦時中在村していなかったことや作成経緯に照らして…」とか書かれてはいる。
 かりにその辺りを不採用の理由としているというなら、沖縄タイムズ・鉄の暴風や米軍報告書の「作成経緯」や執筆者の「経歴」を(そしてこれら二文献が出された<時代の雰囲気>を)も同等に考慮しなければならないのではないか。
 本件訴訟の裁判官による証拠の採用・不採用に、裁判官の<心性>の歪み・偏向がないのかどうか、気になる。
 2.①「要旨」文は「集団自決については日本軍が深くかかわったものと認められ」ると結論し、その理由を長々と書いている。だが、前回記したように、この部分は、本件訴訟とは直接には関係がない。原告の一人及びその父親が「集団自決<命令>」を発した事実があったか否かが争点であり、軍の<関与>(あるいは広義の?「強制」性)の有無は争点ではない。せいぜい、当時(米軍沖縄上陸頃)の<空気>・雰囲気に関する問題で、相当に間接的な<状況証拠>的なものにすぎないだろう。
 にもかかわらず、何故こんなに長々と書いているのか。被告たちの論法に影響されているのではないか。被告らにとっては、<命令>の存否から<軍の関与(広義の「強制」性)>へと争点をずらした方が有利な(=負けにくい)のだ。
 ②<要旨>文は、上のことと、関係各島では原告らを「頂点とする上意下達の組織」だったことを結びつけて、原告らが「集団自決」に「関与したことは十分に推認できる」と書いている。
 上記と同じく、これも争点とは直接には関係のない点に触れている。「関与」と「命令」は全く異なる。「関与」が「推認」できることは「命令」を原告(とその父親)が発した根拠には全くならない。こんなことは、素人にも分かる常識的なことではないか。裁判官はいったい何故、いったい何のために、こんなことを判断し、書いているのか。
 この訴訟は、当時(米軍沖縄上陸頃)の<時代>あるいは<日本軍>を裁く事件ではない。岩波書店と大江健三郎が刊行・執筆した本が原告らの名誉を侵害して不法行為となるか(+出版差止めされるべきか)が争点となっている、その意味では主観的(個人的)な事件なのだ(むろん「公益」と無関係と主張しているわけではなく、<要旨>文が大江本は「公益を図る目的」をもつと認定していることにまで-「法的」問題としては-異を唱えるつもりはない)。
 3.「要旨」文は「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」と明記している。また別の箇所では「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と明記している。
 この部分は今回の判決の中で特に注意・注目されてよいところだろう。つまり、裁判所もまた、<自決命令が発せられた>=原告らが「命令」を発した、とは全く認定していないのだ。
 にもかかわらず被告が負けなかったのは、「命令」の存在という事実の「信用性」が争点になっているからだ(このこと自体はやむを得ないだろう)。また、「命令」が存在した事実が認定されないと岩波・大江側が負けてしまう、そういう性格の訴訟ではなかったからだ。つまり、立証責任が原告側にあったからこそ、岩波・大江側は「救われた」、と言える。
 訴訟法的にはこのように言えるだろうが、裁判所(大阪地裁)が<自決命令が発せられた>=原告らが「命令」を発した、と認定しなかった、ということの<政治的>意味は小さくない、と思われる。
 すなわち、岩波・大江健三郎が従来どおり出版を続けていくとするなら、それは、裁判所も「認定することには躊躇を禁じ得ない」、「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と明記したような<事実>を前提にした個人罵倒本を今後も継続して発行していく、ということを意味する。岩波と大江健三郎の「良心」がまさしく問われるべきだ。そんなあやふやな<事実>を前提にして、特定個人を<悪人>扱いしてよいのか、ナチスドイツのアイヒマンと同一視するような文章を残したままでよいのか。
 岩波と大江健三郎には「良心」はないのか、誓って疚(やま)しいところはない、と自信をもって言えるのか、と問いたい
 4.「要旨」文のかぎりでは、上の3で触れた部分に比べて、被告らが事実だったと「信じるについても相当の理由があった」と述べている部分は短く、かつ「相当の理由があった」と認定する根拠はよく分からない。たんに「その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから…」と書いているにすぎない。
 問題は、なぜ、いかなる理由・根拠で、「その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる」のか、にある。
 この辺りが裁判官の心証形成の中核部分にかかわる。なぜ、上のように言えるのか。それは良識・常識・「理性」に照らして、「合理的」な結論(「評価」)なのだろうか。
 裁判官たちが特定の歴史観・何らかの予断をもっていれば、上のような「評価」は簡単に生じるだろう(逆のことも言える)。そのような推測をさせないためにも、判決理由の全文の中にはより詳細な理由づけ(心証形成の過程)が明らかにされているのを期待したいが、正確な全文を読んでも殆ど変わらないだろうような気もする。
 ともあれ、結論が先にあったのではないか、との邪推が出てきても不思議ではない判決だ(そう断言しているわけではない)。「要旨」文には、重要な点の根拠・理由が詳細・十分には(説得的には)書かれていない。原告側が不満をもつのは当然だろう。控訴して、なお争うべきだ。
 重要とも思われる点に言及し忘れたので追記する。「要旨」文は最後に、大江本には「赤松大尉に関するかなり強い表現」があるとしつつ、「『沖縄ノート』の主題等に照らして」、「意見」・「論評の域を逸脱」したものとは認められない、と書いている。
 結論的には(法的には)このとおりなのかもしれないが、「『沖縄ノート』の主題等に照らして」とあるのは気になる。この法廷の裁判官たちは『沖縄ノート』という書物の存在意義を肯定的に評価することから出発してしまっているのではないか。かりにそうだとすれば、判決を出す裁判官の「まっとうな」道からは逸脱しているように思える。被告の一人・大江健三郎がノーベル賞受賞者であることに無意識にせよ影響されているとすれば、ますます同じことが言える。
 なお、産経新聞の別の面によると、大江側弁護団はこの訴訟を「『集団自決が日本軍の強制ではない』と歴史を塗り替える目的で起こされた裁判」だとして原告側を非難した、という。
 『集団自決が日本軍の(広義にせよ)強制ではない』か否かは本件訴訟の争点ではない。上のような言い方自体の中にすでに<論点のスリカエ>がある。上記のように。本件訴訟は本来は<主観的(個人的)>なものだ、それをあえて「日本軍」の問題という<歴史問題>化し、「政治」問題化しているのは、原告らよりもむしろ、(「真実」が暴露されてしまうのを戦々恐々と懼れている)被告側なのではないか。

0274/朝日新聞社説-「突出した情緒論で終始」・「事実無根に近い」。

 産経7/06「正論」欄の秦郁彦「沖縄集団自決をめぐる理と情」は、新聞の中でもとくに朝日新聞を批判している。
 秦は南京事件については4万人説論者で、「なかった」派ではない。
 秦は書く-沖縄県住民集団自決問題につきさすがに社説となると各紙は冷静になるが、「朝日だけは突出した情緒論で終始している。……と書いているが、いずれも事実無根に近い」。
 そして、研究者の中にも、集団自決や慰安婦強制連行の証拠文書が発見されないのは終戦時に焼却されたからだとか、命令はなくとも「天皇制や軍国主義教育」が原因だと「強弁する」者が少なくないが、朝日社説の結びの文章も「同類項なのだろうか」と締め括っている。
 朝日新聞の本質をよく知っている者にとっては珍しくもない話題だが、朝日新聞が「突出した情緒論で終始」する社説は勿論記事を書き、「事実無根に近い」内容の社説は勿論記事を書く新聞社であることを、あらためて確認しておきたい。

0248/米国下院対日非難決議採択へ-朝日新聞よ喜べ。

 米国下院外交委は26日、慰安婦問題に関する対日非難決議案を原案を一部修正のうえ、39対2(欠席9)の賛成多数で可決し、下院本会議に上程のうえ採択されるのは確実だ、という。
 日本政府・外務省は、中国(・韓国)との情報戦争に負けた。中国・韓国は下院決議を「錦の御旗」にして、今後も日本対して精神的圧力を加えてくるだろう。
 朝日新聞等もまた、日本国内にあって、この決議を喜んでいるだろう。日本国内で<慰安婦>問題を<従軍慰安婦>問題化し、韓国人を配偶者とする記者をも動員したりして<日本非難>に邁進した<功績>は、ただ一つだけ挙げるとかれば、朝日新聞社に帰することになるだろう。朝日は米国の助けを借りて過去の日本を叩くがよい。あるいは過去の日本を引き摺っているとする安倍首相の政治生命を性懲りもなく狙い続けるがよい。
 米国と米国民は、良識ある日本国民との間に―どの程度の大きさで今後どう変化するかは知れないが―亀裂が走ったことを知るべきだ。

0226/朝日新聞の「戦後」責任-「南京大虐殺は存在せず」。

 片岡正巳(1930-)・朝日新聞の「戦後」責任(展転社、1998)という本がある。タイトル通りの内容だが、16の章のうち第15章は「グロテスクな従軍慰安婦報道」で(p.287-)、「トリッキーな記事で火をつける」、「威力を発揮した「軍の関与」報道」、「「通牒案」の意味を逆立ちさせて煽る」、「詐話師の話を持ち上げた論説委員」、「政治的になされた強制の認定」、「実態を歪める偽善のキャンペーン」が各節の見出しだ。
 同書はあとがきで言う―「朝日は、戦後50有余年の歩みの中の非は非と率直に認めて、身を飾った「左翼」の古い衣を脱ぐがよい己を無謬と思い込む傲慢のプライドを捨てるがよい」。その通りだが、朝日が<ハイ、わかりました>と答える筈はないだろう。
 慰安婦問題で知られておくべき一つは、朝鮮半島出身の女性よりも日本(いわゆる内地の)女性の方が多かったのに、訴訟や運動で日本政府の責任を追及している人たちの中に日本人女性はいない、ということだ。日本人女性のした「慰安婦」の選択が政府の責任とは考えていない、と理解するのが常識的だろう。但し、秦郁彦・慰安婦と戦場の性(新潮社)p.222によると、日本人原告がいないことについて、上野千鶴子は「日本のフェミニズムの非力さの証し」と書いているらしい。
 ということは、上野さんに尋ねてみたい。韓国のフェミニズムは日本のそれより強力なのですか? 韓国は日本よりも男尊女卑だとも聞いたことがあるが?
 西尾幹二責任編集・新地球日本史2(扶桑社、2005)という本もあり、その中の第5章は東中野修道執筆の「南京大虐殺は存在せず」。20頁で簡潔にまとめられていて(前提資料もかなり新しい)、各節の見出しは順に「世界を駆けめぐった米紙の特ダネ」、「米国人特派員は目撃していなかった」、「毛沢東は「虐殺」を否定していた」、「人口と同じ人数が殺害された?」、「告発の書は中国国民党の宣伝本だった」、「極秘文書にも「虐殺」の記述はない」。
 <南京事件>の被害者数には、39万、30万、20万、10万、4万(各説又は各主張あり)等の説がある。1000人あるいは2-300人でも「虐殺」だろうが、しかし、それすらなかったのではないか、とする説も存在している。争点は秦郁彦氏の4万人説を支えていると思われるベイツ証言の信憑性、(戦闘による、又は兵士に対する殺人は合法なので)国際法上違法と言えるような「捕虜」の扱いがあったか否かだろう。例えば捕虜として連行中に逃亡しようとした者を射殺するのは適法か、といった問題に行き着くのではないか、と素人ながら感じている(兵服を脱いで一般市民に紛れ込んでも戦意がある限りは殺人も違法ではない)。とすると、一番最後の「(大)虐殺はなかった」説も十分に成り立つ可能性があるだろう。
 それに南京「事件」の決定的な原因は、蒋介石等の国民党政府(軍)首脳部が南京市に戦闘員を残したまま南京から「逃亡」したことにある、と私は理解している。全兵士に南京残留を禁止していたらこの「事件」は生じていなかった。

0205/小説は歴史的事実の、さらには裁判上の事実認定の根拠資料になるか。

 請求は棄却しつつも<しゃべりすぎ>で南京虐殺を事実と認めた東京地裁平成11年09月22日判決については、3/25に「伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか」というタイトルで2回に分けて、その事実認定の仕方を批判・疑問視した。
 さらにもう一点追記する。
 この判決は、判決理由中の「第三・当裁判所の判断」の最初の「一・本件に関する基本的な事実関係について」の中で、こう書いている。
 1.「上海から南京までは約三〇〇キロメートルあり、蒋介石が徹底抗戦を指令したため、日本軍の上海攻略は一九三七年一一月五日の杭州湾上陸(火野葦平の「土と兵隊」はその際の従軍記である。)によりようやく一段落し、…」。
 2.「「南京虐殺」というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである。…なお、一九三八年一月五日に南京に着いた石川達三が描いた「生きている兵隊」は、反軍反戦小説というわけではないのに、南京の右当時における日本軍兵士の様子をよく示している(もとより、殺害等の量まで推測させるものではない。)と考えられ、それが虚構であるとは到底考えられないところである(なお、右は、同年二月一七日に配本された「中央公論」三月号に多くの伏字付きで掲載されたものであるが、翌日発売禁止とされ、石川は「新聞紙法違反」で起訴され、禁固四月、執行猶予三年の判決を受けた。中央公論新社の中公文庫「生きている兵隊」末尾の半藤一利解説参照)」。
 この二箇所は要するに、作家の書いた小説をもとに、又は参考にして事実認定又は「基本的な事実関係」をしたことを明記している。
 だが、常識的に考えて、小説が歴史の叙述のための史料として用いられるのは、さらには訴訟における事実認定の資料として用いられるのは、極めて奇妙であり、杜撰ではないだろうか。
 小説はあくまで創作物・捏造物であり、いかに本当らしく又は真実・事実らしく描写がされていても、それは作家の筆力によるのであり、事実を探究するノンフィクションとは決定的に性格が異なる、と考える。
 むろん、ノンフィクションに近い、事実を素材又は背景にして叙述する小説もあるだろうが、あくまで小説(=創作物・捏造物)であって又は事実の描写に変わるわけではない。
 裁判官たちが小説を読んで「心証形成」のための参考にすることは実際にはありうるだろう。しかし、そのことを上のように公然と判決理由中で書いてしまってはいけないのではないか。
 日本の裁判官たちの全員に尋ねてみたいが、一般論として、「虚構であるとは到底考えられない」小説であれば、事実認定のための証拠資料として使えるのか。
 次に、具体的に例えば石川達三の小説が「虚構であるとは到底考えられない」か否かに、そもそも論及するのは<異様>なのではないか。
 私は石川達三の小説は「虚構である」に決まっている、と考える。なぜなら、ルポでもノンフィクションもなく「小説」として発表されているからだ。
 日本の裁判官たちへの質問はもうやめる。
伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官が石川達三の小説が「虚構であるとは到底考えられない」とまで書いたのは、殆ど狂気じみている。余程この作品に「感化」されたのか。
 
翌日発売禁止…「新聞紙法違反」で起訴…、禁固四月、執行猶予三年の判決を受けた」ともわざわざ書いている。こうした措置を受けたことを、石川達三の小説が「虚構」ではない理由として語っているようでもある。しかし、<真実らしく>読まれることの可能性を怖れても当時の当局の措置は採られ得たのであり、こうした経緯があったからといって、それが石川達三の小説が「虚構」ではないことを保証することになるわけでは全くない。
 改めて「一・本件に関する基本的な事実関係について」を読み直しても、この裁判官たちは、歴史について得た知識を、とりわけ原告たちのを配慮して歴史を学んだ成果を長々と<ご披露>している印象だ。その中に、上の引用の部分もある。
 小説を裁判における事実認定の資料としてまでなされる歴史叙述とは一体何なのか。
 この判決は「帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」と断言し、日本は「真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」と贖罪意識も明言し、そして「相互の国民感情ないし民族感情の宥和を図る」必要性まで明言した。
 司法権の担い手のかかる基本的な<政治・外交>的姿勢から、小説まで援用されて、過去の事実が認定されたのではたまったものではない。
 もう一度書いておこう。「伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか」。

0202/稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書)は未読だが。

 稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書、2007.04)は出版されるとすみやかに購入したが、きちんとは読んではいない。というのは、きちんと読まなくとも、<百人斬り問題>・<南京事件>については殆ど知識がある、と思っているからだ。所謂<百人斬り報道名誉毀損訴訟>については櫻井よしこ・週刊新潮5/17号も扱っており、原告側訴訟代理人・稲田朋美にも触れている。
 月刊・正論7月号(産経新聞社)の目次にはテーマも氏名も出ていないが、<Book Lesson>というコーナーで、著者・稲田が4頁ほど喋っている。昨年12月に<百人斬り名誉毀損訴訟>の最高裁判決が出て原告敗訴で法的には確定したが、これについては3月中に言及した。

 また、驚くべきことに<南京虐殺はあった>旨の事実認定をしつつ損害賠償請求権なしとして棄却した判決について、たしか同じ日に、その裁判官名を挙げて批判・疑問視する長い文も書いたところだ。
 上の月刊・正論7月号の稲田氏の言葉で関心を惹いたのは、「戦後補償裁判では、請求が棄却される。それは当然ですが、判決理由のなかで個別の事実認定は全部認定されてしまっている。…これは訟務検事が法理論による請求棄却だけを求めて個別の事実認定を全く争わないからです」という部分だ。
 今年4月27日の最高裁判決(西松建設強制労働事件等)もそうだと思うのだが、事実認定は基本的に高裁までで終わりなので、高裁までの事実認定に最高裁すら依拠せざるをえない。そこで、まるで最高裁が積極的に「強制連行」等の事実を認定したかの如き印象を少なくとも一部には与えているようだ。今回は省略するが、高裁(原審)の事実認定によりかかって、井上薫・元裁判官のいう「司法のしゃべりすぎ」を最高裁すら行っているのではないか、と思える最高裁判決もある。
 稲田の指摘のとおり、由々しき自体だ。「この国には国家や日本人の名誉を守るという考えが欠落している」。
 私よりも若い、かつ早稲田大学法学部出身のわりにはよくも<単純平和左翼>の弁護士にならなかったものだと感心する稲田朋美だが、弁護士として、自民党衆議院議員としてますますの活躍を期待しておきたい。

0172/日露戦争とレーニンとスターリン-林達夫の一文。

 歴史のイフに言及した5/6の17時台のエントリーの中で「最後に、…日露戦争の勝利は、ロシア帝国の弱体化を早め、ロシア革命=社会主義国ロシア→ソ連の成立に寄与したのではないか。/日露戦争にロシアが勝利していてもロシア革命は起こった可能性は無論あるが、その時機を少しは早めたのではないだろうか。日露戦争は祖国防衛戦争だったと司馬と同じように私は理解しているが、それがレーニンらを客観的には助けたのだとかりにすると、身体がむず痒い感触も伴う。」と書いた。
 この問題に関係することが、林達夫・共産主義的人間(中公クラシックス、2005)の中の「『旅順陥落』-わが読書の思い出」に出てくる。  「旅順陥落」とはあのレーニンが日露戦争について書いた本だが、少し理解し難いものの、要するにレーニンは、日露戦争の日本の勝利を、「日本ブルジョワジー」の勝利ではあるが歴史に「進歩主義的」な役割を果たしたとして肯定的に評価しているらしい。レーニンは書いた。-「恥ずべき敗北を喫したのは、ロシア人民ではなくして、この専制主義である。旅順の降伏はツァーリズムのそれの序曲に外ならぬ」(p.333。  こう指摘され、ロシア革命を少なくとも早めたのだとすると「身体がむず痒い感触も伴う」。  ところが、二次大戦後に林達夫が読んだ雑誌の中に、ソ連の対日参戦後にスターリンが将兵に発したメッセージ全文が載っていて、それは<満州に進出したソ連赤軍将兵はかつてその父兄が受けた屈辱を雪いで仇をとった>という旨の「祝福」の文章だった、という。
 時代が異なるとはいえ、日露戦争の評価がレーニンとスターリンで正反対だ。
 林達夫は、スターリンの言葉を本心からのものと思うのは「阿呆」で、「清濁併せ呑む共産主義者の政治的逞しさ」か「同じく清濁併せ呑むソヴェート人民の政治的痴鈍」のいずれかだとし、どちらかというと、「マルクス・レーニン主義的啓蒙によってもなかなか犯し難い」ロシア庶民の気風を背景にした後者だろうという判断を示している。
 言ってみれば、スターリンは、当面の闘いの意義を見つけ、勝利するためには日露戦争敗北という屈辱の「仇」をとる、というマルクス・レーニン主義とは無関係な(と思われる)心情に訴える必要があった、ということになるのだろう。
 とすると、こちらのスターリンの方の理解もあまり楽しいものではない。
 ところで、林のこの小文は某雑誌1950年7月号に掲載され、のちに書名にもなった「共産主義的人間」は某雑誌1951年4月号に掲載されている。
 日本共産党が分裂し半分は地下に潜っていた頃だが、まだまだ<理論的>には共産主義又はマルクス・レーニン主義の影響力は強く残り、維持されていたように思われる。そんな時代の中では、とくに上の後者は、「共産主義的人間」を冷静に見てきちんと批判的に分析している。林達夫の本は、現在よりも後世にもっと読まれるようになるのではないか(現在はまだ、客観的にはマルクス主義の影響を受けた者の数が多すぎると思う)。

0145/産経5/14には石川水穂「河野談話の検証が必要だ」もある。

 産経5/14には、石川水穂の「河野談話の検証が必要だ」が載っている。岡崎久彦は、この石川の考えを「無用」として否定するのか、それとも国内問題としてはこの石川の考えの正当性を肯定するのか、いずれかの紙面又は誌面で明瞭に答えていただきたいものだ。
 石川水穂は慰安婦問題米国下院決議案には「多くの事実誤認の内容が含まれる」とし、河野談話についても「極めて問題の多い政府見解である」と明言している。
 資料記録的意味で記しておくが、1997年3月に当時の官房副長官・石原信雄は、政府収集資料の中には「軍や警察による強制連行を示す証拠」はなかったこと、河野談話はその直前に「韓国政府の要請で行った…元慰安婦16人からの聞き取り調査のみに基づいて強制連行を認めた」ことを明らかにし、その後の国会質疑等で「聞き取り調査」の「裏付け」はなされていないことも判明した。
 ここで問題をかき混ぜた、あるいは戦線を拡大したのが、朝日新聞だった。
 朝日新聞は1997年3/31社説「歴史から目をそらすまい」で、「日本軍が直接に強制連行をしたか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向」を批判し、「資料や証言を見れば、慰安婦の募集や移送、管理などを通じて、全体として強制と呼ぶべき実態があったのは明らかである」とした。
 「日本軍が直接に強制連行をした」という自らのいう「狭い視点」からさんざん報道しておきながら、信憑性が極めて低いと判るや、「狭い視点で問題をとらえよう」としてはいけない、と言い出したのだから、その神経の傲慢さ・杜撰さは尋常ではない
 それに、「慰安婦の募集や移送、管理など」に日本軍が関与していたとしても、そのことをもって「全体として強制と呼ぶべき実態があった」
と表現するのは、日本語の用法として誤っている。どうしても「強制」という語を残したかったのだろう。再述するが、慰安婦の募集や移送、管理など」に日本軍が関与していたことのどこに「全体として強制」という概念があてはまる現象があるのか。朝日は自らの主張のためならば、通常の日本語の意味・論理すら無視しているのだ。
 石川は、韓国人元慰安婦からの聞き取り調査の中身は今も公表されていないとして、学問的検証の必要を説く。当然の主張だと思う。こういう作業もまた、岡崎久彦によれば「無用」で、「常識」に任せよ、ということなのだろうか?

0144/産経5/14・岡崎久彦論稿を読んで-慰安婦問題。

 昨日5/13の午後10時台に、米国下院慰安婦日本非難決議案にかかる「安倍首相等の日本政府の言動は岡崎久彦の助言が大きいのではないかと勝手に推測しているが、果たして首尾よくいったのかどうか」と書いたばかりだが、今日5/14の産経の「正論」欄で、その岡崎久彦が、要するに<首尾よくいった>旨を書いている。
 決議案に関する彼の結論はこうだ。「議会の決議案審議の結果如何に関わらず、この問題は今後の日米問題から遠ざかっている」。
 つまり、決議案が採択されようとされまいと、もはや今後の日米問題にはほとんど?関係がない、ということのようだ。「ほとんど?」と?を付けたのは「遠ざかっている」ということは再び「近づいてくる」可能性を否定していないと思ったからだが、この点は以下では措く。
 彼によると、「全米の有権者の3分の1に近いといわれるエバンジェリカル(福音伝道派)が絶対的に主張する人権問題」であり「慰安婦制度そのものが悪」なので、どう釈明しても無意味。安倍首相の「20世紀は人権を無視した時代であり、日本にも責任がある。同情の意と謝罪の念を表明する」との発言は「特に良かった」。
 さらに彼は書く。「謝罪は旧日本軍、ひいては国家としての日本の名誉を傷つけるものとして釈然としない人々は、強制の有無を問題にして事実を徹底調査して問題の黒白を付けることを主張している」が、「無用のこと」で、「常識で考えれば良い」。「慰安婦制度が女性の尊厳を傷つける人権違反の行為であったことに謝罪するのが正しいというのが昨今の道徳的基準」だ。
 さて、岡崎久彦を私は信頼していないわけではないし、アメリカ有力筋にコネクション又は情報源を持ってもいるのだろう。だが、テレビでたぶん先月にも聞いたが、そもそも「全米の有権者の3分の1に近いといわれるエバンジェリカル(福音伝道派)が絶対的に主張する人権問題」で…という論拠は適切なのか、気になるところだ。 
 それはともかくとして、「議会の決議案審議の結果如何に関わらず、この問題は今後の日米問題から遠ざかっている」という判断が適切だとすれば結構なことだ。だが岡崎は「今後の日米問題」としか書いていない。
 米国で日本首相がすでに「謝罪」しており、かりに下院で日本非難決議が採択されることとなっても、今後の中国や韓国(・北朝鮮)の間での問題は全くないと言い切れるのだろうか。
 「20世紀に人権を無視」したとは全く考えていない、被害国のつもりのこれらの国は、安倍首相も謝罪した(米国下院も日本の責任を認めた)ではないか、ということで、例えば、何がしかの経済的代償(・協力)を政治的・外交的に求めてくることは十分に考えられる。また、「慰安所」を作ったことはないとするこれらの国(欧米諸国が問題なのではない)は、日本に対して、道徳的・精神的に<優位>な立場を決定的に占めてしまうことになりそうな気がする。
 岡崎久彦は対米問題のみを重視しすぎてはいないか。中国の仕掛けている<情報>戦争という見方を岡崎は否定しているようだが、その根拠ははっきりしない。「
エバンジェリカル(福音伝道派)」うんぬんと中国の仕掛けている情報戦争という見方は決して排斥し合わない。
 「反日」勢力にとっての道具を安倍首相はすでに渡し、米下院も与えようとしている危惧は全く杞憂のものとは言えないだろう。
 米国人には「河野談話の何たるかを知らない」かもしれない。だが、中国政府、韓国政府等は正確に文字通りに理解しているだろう。<河野談話の継承>とは、彼らとの関係で、歴史の捏造をそのまま承認した、ということにはならないのだろうか。
 当然ながら、中国・韓国・北朝鮮に「常識」が通用するはずはない。私はなお「釈然としない」し、正確な歴史認識を持っておくことが「無用」のこととは思えない。
 岡崎久彦の主張を全面的に批判するわけではない。対米関係では何とか<やりすごせた>とすれば結構なことだ(だが下院決議の帰趨は未だ解らない)。だが、とりわけ東アジア諸国に対して、正しい歴史をきちんと主張し、虚偽の歴史認識を是正させる課題はまだまだ残っている、と感じる。一段落ついた、というのは大間違いではないか。

0122/日清戦争又は日ロ戦争に日本が敗北していたらどうなったか。

 歴史のイフを語ってはいけないとの言辞を読んだことがあるが、織田信長が本能寺で死んでいなかったらとか、坂本龍馬が明治維新期に生きていたらとかは、興味あるテーマだ。
 日清戦争に日本が負けていたらどうなっていただろう。日本が勝利したからこそ、(李氏)朝鮮国は中国の服属国ではなく、中国(清)と対等の国家になった。ソウルには今でもこれを記念した「独立門」というのがあるらしい。そして、(李氏)朝鮮国は名も改め、大韓帝国になった筈だ。
 とすると、日本が負けていれば、(李氏)朝鮮国に対する中国(清)の影響力はますます大きくなり、服属の度は強まり、「独立」などはできなかったことになる。そして、当時の清はすでに弱体化していたので、遅かれ早かれ、清とロシアの間で朝鮮半島をめぐる争いが生じていたように思われる。
 次に、日清戦争には日本が勝利したが日露戦争には敗北していたらどうなっていただろう
 手元で確認できないが、司馬遼太郎は「坂の上の雲」に関連して、小説自体の中にではなく別の文章の中で、<朝鮮半島はロシアのものになっていた>と明記していた筈だ。もともとが朝鮮半島をめぐっての戦争だったのだから、朝鮮半島全体がロシアの一部になること、又はロシアの傀儡といってよい政権がロシアの介入のもとで成立したことは十分に考えられる。
 当時は朝鮮半島をめぐって、日本、中国(清)、ロシアが対立していたのであり、日本が二つの戦争に勝利せず、大韓帝国を併合さえしなければ、朝鮮(あるいは大韓帝国)は自主的・自立的に発展を遂げることができた、というのは、とんでもない<妄想>だろう。ましてや、世界一の経済大国になっていただろうなどとの想像は噴飯ものだ(izanamiとかいう人は迂闊にも先日見た際にこう想像していた。他の全てがそうかもしれないが、真面目に書いているとすれば本当に気の毒な人だ。虚偽だと解っていてツッパッて書いているとすれば、これまた本当に気の毒な人だ。ご同情申し上げる)。
 以上のような問いに、原田敬一の日清戦争・日露戦争(岩波新書)が答えてくれている筈はない。この本はそうした問いを発してすらいない。
 だが、当時の東アジアの状況を見れば、日本だけを「悪玉」視して済む筈がない。日本がロシアに負けていれば、日本は朝鮮半島に続くロシアの実質的一部化(社会主義化!)の恐怖に怯えなければならなかった筈だ。
 最後に、言及されているのを読んだことがないテーマがある。すなわち、日露戦争の勝利は、ロシア帝国の弱体化を早め、ロシア革命=社会主義国ロシア→ソ連の成立に寄与したのではないか
 日露戦争にロシアが勝利していてもロシア革命は起こった可能性は無論あるが、その時機を少しは早めたのではないだろうか。日露戦争は祖国防衛戦争だったと司馬と同じように私は理解しているが、それがレーニンらを客観的には助けたのだとかりにすると、身体がむず痒い感触も伴う。

0103/米国下院慰安婦決議案はどうなるのか?

 昨28日は再独立(主権回復)55周年の日だった。今日29日は「昭和の日」。昭和が始まってから今年は82年めの筈だ。
 「敗戦」から62年近く、占領終了から丁度55年も経つのに、外交や政治はまだ「敗戦」前や占領期のことを引き摺っている。占領期に生まれて何もできなかった者としては、同朋先輩たちに、何故もっときちんとケリをつけておいてくれなかったのか、と愚痴を言いたい気分もある。
 さて、安倍首相は米国を離れたようだが、米国下院の例の慰安婦決議案はどうなるのだろう。
 産経の阿比留瑠比の4/28のブログによれば、米国下院議長になっている米国民主党のナンシー・ペローシ(ペロシ)は、安倍首相の米上下両院の幹部議員らとの会談の際に、「日本が地球温暖化問題に関し、中国やインドとの協力を行うためのイニシアチブを発揮していることに敬意を表したい。上下両院の指導部が超党派で一堂に会して他国の首相に会うのは、非常に稀なことだ。これは、安倍首相に対する敬意の表れであり、また日米関係をらに強化したいという強い思いの表れだと思う」と述べたようだ。
 こうした機会に慰安婦問題を話題にする(できる)筈はないと思うが、民主党全体が、あるいは下院トップの彼女自身がとくに「反日」ということではないのだろう。と、どうなるか分からないが、多少は安心しておきたい。
 なお、産経の古森義久の今年1/23のブログ(「アメリカの女性議長は「反中」なのか。ペロシ議員にみる対中語録」)は彼女のことを話題にしており、コメント等が34も寄せられている。

0101/4/28未明、日米両首脳に「慰安婦」問題を質したのは誰か。

 安倍首相「慰安婦の方々にとって非常に困難な状況の中、辛酸をなめられたことに対し、人間として首相として心から同情している。そういう状況に置かれたことに申し訳ない思いだ」。
 ブッシュ大統領「首相の謝罪を受け入れる。大変思いやりのある率直な声明だ。過去からの教訓を得て国を導くのがわれわれの仕事だ」。
 こういう言葉を含む日米首脳共同記者会見を4/28の未明に私も初めの1/4くらいからテレビで観たが、上の問題について質問し、回答を引き出したのは、日本人の記者だった。
 現在と今後の日米関係にとって、「慰安婦」問題はいかほどの重要性があるのか。質問をした日本人の所属を知りたい。かつて日本の新閣僚全員に「靖国へ参拝するか」と質問し続けて顰蹙を買ったとされる某新聞社だろうか、あるいは共同通信社だろうか。
 限られた時間と項目の中で、安倍首相にとってはイヤな筈の質問をし、米国大統領の安倍回答への感想・意見を質すとは、「尋常な」日本人とは思えないのだが。

0071/産経4/14・秦郁彦コラム-ノーベル文学賞作家・大江健三郎の「醜悪な心事」。

 産経新聞4/14コラム「正論」の秦郁彦「沖縄戦の集団自決と大江氏裁判」は内容的にきわめて適切なもので、秦郁彦と掲載新聞・産経に敬意を表する。
 私もこの件についてはこのブログの3/30の20時台でまず言及した。そして、大江がたんに沖縄タイムズ社刊の本を信じて虚偽を事実と思い込んだというのではなく、沖縄ノート(岩波新書)で、事実であったことには微塵の疑いも抱かず、それを前提として、渡嘉敷島元守備隊長(赤松嘉次氏)の沖縄再訪時の心情を想像=創作=「捏造」する長々とした叙述をしていることの方が許せない、と感じた。
 秦郁彦は、大阪地裁への訴訟提起を受けたとき「ついでに、沈黙を守ればよいのにと思わぬでもなかった。/だが、くだんの『沖縄ノート』を読んで、その思いは砕かれた。大江氏は両守備隊長を集団自決の命令者だという前提で、「ペテン」「屠殺(とさつ)者」「戦争犯罪人」呼ばわりしたうえ、「ユダヤ人大量殺戮(さつりく)で知られるナチスのアイヒマンと同じく拉致されて沖縄法廷で裁かれて然るべき」と「最大限の侮蔑を含む人格非難」(訴状)をくり返していたからである」と書く。私も全く同様の思いだった。≪稀に見る人権侵害的記述≫との見出しは完璧に正しい。
 しかも、私も既述のように大江と岩波書店は1970年以来、上の新書を売り続けているのだ。秦はこう書く。-「他の孫引き本がほとんど絶版となっているのに、この本は昭和45年の初版から修正なしに50刷を重ね、現在も売られているのは信じがたい事実だった。/こうした稀(まれ)にみる人権侵害的記述を有名文学者だからという理由で、許容する余地はないと私は感じている」。
 よくぞ書いてくれた。大江には有名作家、ノーベル賞受賞作家という慢心・「思い上がり」があるのではないか。それに加えて、原告たちは(簡単に表現すれば)<右翼・反動派だ>といった「政治的」感覚の偏向があるのだろう(後者は岩波書店にも共通する)。
 必ずしも詳細には知らないが赤松氏、梅沢裕氏は「すぐれた人間性」をもつ方々らしい。それに対して、と秦は書く。-「「現存する日本人ノーベル文学賞作家」の醜悪な心事はきわだつ」。
 大江健三郎よ、自信と良心があるなら、すみやかに法廷の証言台に立て。
 秦氏の文によると2005.08.16に大江は法廷で証言したい旨述べたようだが、原告が要求しているにもかかわらず、まだ実現していないのだ。

0069/産経4/13-ゾルゲの指示で、尾崎秀実の助けも借りて情報収集したコミンテルン参加中国人。

 4/11の22時台に中西輝政の叙述に依拠してコミンテルンの宣伝工作に言及したが、産経4/13に、次のような、上海・前田徹特派員の記事がある。産経購読者には不要だろうが、紹介しておく。
 中国の著名経済学者・中国国際文化書院々長の某の大半が散逸していた自伝が見つかり、次のことが明らかになった。この人(陳幹笙)は1926年にコミンテルン(国際共産主義運動)に加わり、上海で「工作員として活動を始め、表向き…国民政府所属社会科学院で学者として従事する一方、対国民政府対策と同時にゾルゲと共に対日工作に関与」した。上海にいたアグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合った。「ゾルゲはスメドレーを通じて陳氏に日本で活動するよう指示」したので、彼は妻と共に来日し、日本で情報収集にあたったが、「その際、当時、朝日新聞記者だった尾崎秀実の支援を受けていた」。1935年04月にモスクワからの某と日本で密会する予定だったが、その某が上海でスバイ容疑で逮捕されたことを知って離日し、スメドラーらに匿われた後モスクワへ脱出し、さらに米国で、表向き「太平洋問題調査会(IPR)」の仕事をしつつ「海外中国人向け雑誌の抗日宣伝活動に傾注した」。
 この種の情報収集や宣伝工作は今日でも行われているに違いない。海上自衛隊員の中国人配偶者の中に、その類の任務をもつ者がいても不思議ではない。

0068/産経・古森義久記事4/13-吉田清治本の内容を事実としていた米国下院調査会報告書。

 昨日に続いて産経4/13の古森義久記事によれば、「米国議会下院が慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を審議する際に資料とした同議会調査会の報告書」の中には、詐話師・吉田清治の、本人ものちに虚偽と認めた「慰安婦」の「強制徴用」が事実であるとする内容が含まれていた、という。議員たちは、虚偽の「「吉田証言」を中心にすえた報告書を参考資料として使ってきたことになる」。
 非常に重要な情報だ。少なくとも、「強制徴用」を自ら行ったとする日本人の証言が大ウソであることを、関係議員たちに今からでも情報提供すべきだろう(自ら虚偽と認めていることについては、秦郁彦・慰安婦と戦場の性(新潮選書、1999)p.229-248参照)。
 それにしても、日本の米国担当外務省官僚や在米日本大使館職員はいったい何をしているのだろう。米下院議員にどんな資料が配付されたのかも把握していないのか。中国、朝鮮あるいは戦争関係問題については、宮沢(加藤・河野)→細川→村山→橋本と続いた政権のおかげで、すっかり「弱腰」、「骨抜き」になっているのではないかと懸念される。

0063/米国下院慰安婦決議案問題につき、日本は今どうすべきなのか?

 4/11の22時台のエントリーでも言及したように、現在(そしてこれまでも)米国を中心とする世界世論に向けての中国(中華人民共和国)からの「情報戦争」を仕掛けられているのだ、と思う。
 文藝春秋5月号で産経の古森義久は、慰安婦問題での日本糾弾は、「日本が国家として弱ければ弱ければよい、あるいはアメリカとの同盟のきずなが弱くなればなるほどよい、と考える勢力の戦略意図」が浮かび上がってこざるをえず、「日本を道義的、外交的、政治的に弱い立場に抑えつけておくことが国益に合致する国」とは中国しかない旨を述べている。
 上のことはもはや常識的なことだろうが、古森論稿は若干の重要なことを指摘している。
 安倍首相が国会で狭義の強制性否定・決議あっても謝罪不要を述べたあと米国のメディアで安倍批判が集中したらしいが(嚆矢は朝日新聞の好きなニューヨークタイムズだったと思う)、批判にはいくつかの特徴がある、と言う。1.慰安婦決議案・公聴会については報道しなかったのに安倍発言があるやかつての慰安婦問題批判ではなく安倍批判を主眼として報道・見解表明したこと、2.慰安婦問題にかかるこれまでの日本政府の対応については何ら見解を述べていないこと、3.日本軍の「強制」につき具体的根拠を示そうとしないこと、だ。
 どなたのブログだったか忘れたが、たけしのTVタックルのたぶん最新回の映像がyoutubeとやらで流れるのを見たが、岡崎久彦が、「売春」関連問題には米国の宗教事情もあってなかなか許すということにはなり難い旨を喋っていた(保存しておらず、正確には憶えていない)。
 昨日言及のVoice5月号(PHP)の対談で、伊藤貴が米国務省のアジア政策担当者は伝統的に民主党員が多い、中国人には「相手を取り込む」巧さがあり米国は中国のプロパガンダ工作に対して甘い旨述べると、中西輝政は、米国の学者やメディアに「親中国」という舵とりの感覚が出てきたのはクリントン政権の二期目くらいからだとし、米国人に一番不可解なのは東アジアなので「専門家」の声が大きくなると反応している。続けて、伊藤は「アメリカの対中認識は「たぶらかされている」」、某大学教授は国務省アジア担当官僚は「北朝鮮の核保有を認め、日本にだけはもたせなければいいという方向に向かっている」と言った、とする。
 歯がゆいことだが、古森が指摘するような米国のメディアの状況には背景があるようで、期待しても無理かもしれない。
 慰安婦決議問題につき、日本はどうすべきか。私は河野談話を訂正し「従軍」慰安婦「強制」連行の事実なしの正論で断固貫くべし、そうでないと将来にまた禍根を残すと考えていて書きもしたが、上で言及の番組の中での岡崎久彦は、当面じっと忍従・臥薪嘗胆?との見解のようだった。
 古森もこう書く。-「やがては河野談話の大幅修正も必要となるだろう」、但し、決議案対策としての河野談話否定・批判は「戦術として賢明ではない」、当面は所謂慰安婦問題は「日本政府のこれまでの対応や対策により、解決のための最大限の努力は謝罪も含めて、すでになされている」という「対応をとるべきである」。
 アメリカのメディアの状況を含めて総合的判断としては、これでやむをえないのだろうか。
 安倍首相も、当初の強気の姿勢を改め、安倍談話を「継承する」とのみ発言することにしているようだ。
 こうした姿勢変更には閣僚等よりも、彼のブレインたちと巷間噂されている者の中では、岡崎久彦の「助言」が大きいのではないかと推測するが、どうだろう。
 ともあれ、安倍首相が上のような姿勢で、古森も上のようなことを書いているとあっては、河野非難は先の楽しみにして、当面は「臥薪嘗胆」路線で行くしかないのたろうか。私自身はまだスッキリしていないが。
 なお、産経新聞4/12は、古森義久記事として、米国の議会調査局は慰安婦決議案に関する議員向け調査報告書の中で、日本軍・政府は全体として「軍による女性の強制徴用」という政策をとっていなかった、と認める見解を示した、と伝えている(何故かイザには掲載がないようだ)。これが、少しは方向が変わる契機になればいいのだが。(古森はワシントンで、日本の外務省・大使館の役人たちよりも遙かに日本に役立つことをしているようだ)。

0030/サピオ4/11号の井沢元彦コラムはさすがに鋭い。本田雅和記者の暗躍を阻止せよ。

 サピオ4/11号(小学館)で井沢元彦が慰安婦問題に関して朝日新聞を批判している。「朝日新聞の大誤報が米国の「慰安婦決議」のもとになったのをご存じですか」とのタイトルだが、さすがに井沢は、経緯も論点もきちんと判っていて、言いたいことを書いてくれている。2点、関心を惹いたことがある。
 一つは、朝日の早野透が「朝日新聞コラムニスト」という肩書で日刊スポーツ3/11付に書いた内容と、それへの井沢による批判だ。日刊スポーツの当該コラムは知らなかったが、朝日本紙と同様に卑劣この上ない。安倍首相を「安倍」と呼び捨てにしつつ、「安倍は河野談話を継承するというなら、「強制性はなかった」などと四の五の言うべきでない。日本政府の二枚舌になってしまう。一国も早く発言を撤回すべきだろう」などとよくも言えたものだ(発言とは、狭義の強制性否定と決議採択あっても謝罪しないの2つを指すようだ)。
 朝日本紙の星浩のコラムと同様に、まさしく「朝日新聞の大誤報が米国の「慰安婦決議」のもとになった」ことに一切触れず、頬被りしてダンマリを決めこんで、安倍首相を批判できる材料を探し出して、口先だけ恰好よいことを喋っているのだ。何度も言うが、朝日新聞は日本で最も卑劣・愚劣な新聞だ。
 二つは、では日本政府はどうすればよいかに関して、「河野談話は一新聞社をリーダーとする異常なキャンペーンで醸成された空気によって拙速に出されたもので、…極めてお気の毒に思うが、日本が強制連行したという事実は今のところ確認できないので修正する」とでも政府は言うへきだ、と提案している。
 河野談話は国会決議ではなく、内閣又は内閣総理大臣の判断で修正も取消しもできる。同じ日本政府のかつてとった措置の拙劣さを自認することにはなり、河野洋平らの抵抗はあるだろうが、現実性がどの程度あるかは分からないものの、こうした内容を基本とする明確でかつ丁寧な説明をする新しい談話を出すべきだろう。
 むろん混乱が予想される。朝日新聞は狂ったように騒ぐだろう。だが、現状のままで推移するよりははるかに良い。朝日新聞の虚報をきっかけにした歴史の改竄によって日本国家が国際的に名誉を侵害されることを断固として回避すべきだ。
 それにしても、井沢も指摘するように、2005年01月の本田雅和らによる「政治家(安倍晋三現首相と中川昭一現自民党政調会長)のNHKへの圧力があった」との虚報・捏造を訂正もせず謝罪もしない神経は並大抵のものではない。
 また、井沢の舌鋒も論理もなかなかのものだ。2005年01月政治家圧力虚報問題と関係記者の責任を曖昧に(=うやむやに)したまま、つまり自分自身の問題は批判的に点検することなく、「政府批判や官僚批判を堂々と書けるのか?」
 なお、このコラムによると、本田雅和はアスパラガスから抜け出して北海道夕張勤務の記者に復活する、そしてこの人事は「ほとぼりがさめて」の栄転なのだとか。彼はいつかまた何かで、「左巻き」の事件を起こすだろう。

0029/日本軍による沖縄戦・集団自決命令はなかった-教科書検定意見つく。

 NHKのスクープなのかどうか、3/30の今夜7時のニュースで、終戦前の沖縄戦の時期の沖縄の若干の小島における<軍による一般住民への集団自決命令>が発せられた旨の記述が検定の結果として教科書から消えることになった、と報道された。
 戦後当初の関係住民の証言を素材にして沖縄の新聞社発行の沖縄戦史がこの<軍の集団自決命令>を事実として書き、それを信じた大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書、1970)がずっと売られ続け、命令を出したとされる軍人の遺族等が訴訟を起こしている。大江と出版元の岩波を被告とするいわゆる沖縄自決命令損害賠償請求訴訟で、現在大阪地裁で審理中だ。
 これに関して、昨年から今年にかけて、私は以下のようなことを綴った。
 大江は、沖縄タイムズ社の本に書いてあったから信用したというだけでは、沖縄ノート(1970)の記述を30年以上訂正しなかった過失を否定するのに十分ではないことは明らかだろう。ノーベル賞作家は、あるいは誰についても言えるが、原告の政治的背景をアレコレ言う前に(大江・朝日新聞2005.08.16)、真の「事実」は何だったかに関心をもつべきだ。大江等を擁護するサイトの意見も読んでみたが、事実よりも「自由主義史観」者たちに負けるなとの感情過多の印象が強かった。
 2005年10/28に大阪地裁法廷で朗読された訴状要旨の最後は次のとおりだ(徳永信一・正論06年09月号による)。-「以上のとおり、被告大江健三郎が著した『沖縄ノート』を含む被告岩波書店発行の書籍は、沖縄戦のさなか、慶良間列島において行われた住民の集団自決が、原告梅澤裕元少佐あるいは原告赤松秀一の兄である亡き赤松嘉次元大尉の命令によるものだという虚偽の事実を摘示することにより原告らの名誉を含む人格権を侵害したものである。よつて、原告らは、被害の回復と拡大を防止するため、それらの出版停止、謝罪広告及び慰藉料の支払いを求めるものである」。
 原告側に有利な発言および証言をする人物も近日登場したようだ(これの影響が今回の検定方針には大きかったと推測される)。
 週刊新潮1/04・1/11合併号を買い櫻井よしこのコラムを読んで驚いたのは、この訴訟の原告は命令したとされる軍人の遺族とばかり思いこんでいたところ、座間味島にかかる一人は、命令したとされるその人本人であり、90歳で存命で、櫻井が今年逢って取材している、ということだった。
 原告が虚偽としている大江・沖縄ノート(岩波新書)の関係部分を探して読んでみた。例えばp.169-170、p.210-5が該当するとみられる。興味深いのは、前者ではすでに集団自決命令が事実であることを前提にしており、つまり事実か否かを多少は検証する姿勢を全く示しておらず、後者では(上の存命の人とは別の)渡嘉敷島にかかる軍人の(沖縄を再訪する際の)気持ちを、彼が書いた又は語った一つの実在資料も示さず、「想像」・「推測」していることだ。「創作」を業とする作家は、事実(又はそう信じたもの)から何でも「空想」する秀れた能力をもつようだ。当然に、「創作」とは、じつは「捏造」でもあるのだ。大江・沖縄ノートp.208のその内容を引用すると、長いが、次のとおりだ。
 新聞は「「命令」された集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が…渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた」と記した。大江は続けてその元守備隊長の気持ち・感情を「推測」する。
 「おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ」、「いかにおぞましく怖しい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減していく、…その人間が可能なかぎり早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいと願っている場合にはことさらである。かれは他人に嘘ををついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく」(p.208-9)。
 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいと願う。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいて…過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、…本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。…1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」(p.210)。
 「かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。…とかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう」(p.210-1)。
 「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、…およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の…再現の現場に立ち入っているのである」(p.211-2)。
 以上は全て、大江の「推測」又は「想像」だ。ここで使われている語を借用すれば「夢想」・「幻想」でもある。
 このような「推測」・「想像」は、「若い将校」の「集団自決の命令」が現実にあったという事実の上でこそ辛うじて成立している。その上でこそようやく読解又は論評できる性格のものだ。だが、前提たる上の事実が虚偽だったら、つまり全く存在しないものだったら、大江の長々とした文は一体何なのか。前提を完全に欠く、それこそ「夢想」・「幻想」にすぎなくなる。また勿論、虚偽の事実に基づいて「若い将校」=赤松嘉次(当時大尉、25歳)の人格を酷評し揶揄する「犯罪的」な性格のものだ。大江は赤松につき「イスラエル法廷におけるアイヒマン、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」とも書いた(p.213)。
 1992年刊行の曽野綾子・ある神話の風景(PHP文庫、初出は1970年代)の改訂新版である同・沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実-日本軍の住民自決命令はなかった!(ワック、2006)の冒頭で、曽野氏は「私は、直接の体験から「赤松氏が、自決命令を出した」と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」と言うより他はない」と書き(p.7)、大江・沖縄ノートを「軍隊の本質を理解しない場合にのみ可能」(p.280)、大江による「慶良間の集団自決の責任者も、…あまりに巨きい罪の巨塊のまえで…」というような「断定は私にはできぬ強いもの」だ等と批判する(p.295-6)。そして曽野の「私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである」という言葉は極めて良識的であり、「人間的」だ。
 大江健三郎とは、いったい何者なのだろう、とこれまでも浮かんだことがある想いが疼く。1974年頃にはすでに日本軍による住民集団自決命令の事実には疑問が出ていたにもかかわらず、(岩波書店とともに)沖縄ノートを現在も売り続けており、人々に読ませている。沖縄タイムズ等の報道を根拠にして「日本軍ならやったに違いない」と偏見をももって思い込み、その強い「感情」をもって、命令したとされる人物の感情につき、「夢想」・「幻想」又は「妄想」を膨らませのではないか。とすれば、大江こそが「自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきた」のではないか
 大江の文を読んでいると、失礼な表現だとは思うが、「偏執」的「狂気」すら感じざるを得ない。また、やや反復になるが、作家という職業の人は、現実と非現実との境界をたやすく飛び越え、また再び戻れる人種で、かつ現実と非現実の区別すら曖昧になってしまうことのある人種なのではないか、と感じる。
 元に戻ると、NHKニュースは歴史研究者のコメントとしては、「命令はあった」、「今回の検定は事実を歪曲するもの」とするもののみを放映した。住民から疑問や落胆の声のみが上がっているようなコメントも含めて、NHKのかかる報道の仕方は、公平さを明らかに欠いていて、大いに問題だと考える。

0024/歴史の国際的捏造、日本国家に対する最大級の侮辱、朝日新聞・中国共産党の高笑いを許すな。

 在米日本大使館の北野充広報担当駐米公使は、(1)旧日本軍の関与の下で女性の名誉と尊厳を傷つけたと認める、(2)同問題でおわびと反省を表明した河野談話を継承する、安倍晋三首相もこの方針を維持する、と説明して、慰安婦問題と北朝鮮の日本人拉致問題を同一次元で論じているとして日本非難の社説を掲載した米ワシントン・ポスト紙に反論したという。
 馬鹿なことをしている。前々から感じていたことだが、安倍首相の意向と、<とにかくとりあえず穏便に>という(いつもながらの?)日本外務省の方針とは食い違っているのではないか。すでに十分に謝罪しているから決議しないでくれというのは、愚の骨頂だ。情けなくなる。
 朝日新聞は、3/27星浩コラム等々、慰安婦「問題」の経緯も争点も、そして米国下院の決議案に賛成か反対かも曖昧にしている。おそらくは決議案採択をきっと朝日は歓迎するつもりなのだろう。その点、読売新聞は、同日3/27朝刊に「基礎からわかる「慰安婦問題」」とのほぼ一つの面を使った適切な解説記事を載せており、朝日と比べて圧倒的に誠実であり、姿勢が明瞭だ。
 あらためて上の読売の記事中の米下院決議案の外務省仮訳を見ると、責任を公式に認めて謝罪せよと要求したあと、「日本国政府による強制的売春である「慰安婦」制度は、その残忍さと規模において、輪姦、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないもので…20世紀最大の人身売買事業の一つであった」と述べ、「(日本国政府)が日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買は決してなかったとのいかなる主張に対しても明確かつ公に反論すべきであることを決議する」と結んでいる。
 米国下院は、そしてアメリカ人は、こんな下品な言葉が出てくる決議を公式にしようとしているのか侮蔑したい気分にもなるし、月刊WiLL5月号の堤堯・久保紘之対談の一部のように、かつての米軍兵士は戦地や占領下日本で「特殊慰安施設」に「関与」しなかったのか、と糾したくもなる。
 だが、問題は、この案の背後にいる主として反日中国系団体・中国政府(中国共産党)による歴史の偽造を、日本人が、日本政府が黙視してよいか否かだ。中国が仕掛けている「情報戦争」、「国際世論誘導戦争」の一環と見なしておく必要がある。
 繰り返す必要はないだろうが、私自身の言葉で書いておくと、上の決議内容は、事実ではない。日本国政府はを「人身売買事業」をしていない。「日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買」もなかった。
 よくありそうな誤解は、軍が慰安所や慰安婦募集事業者に何らかの形で「関与」したことをもって、軍又は政府の「関与」を肯定し、やはり悪いことをしたのではないか、というものだ。例えば「inkyoさん」は3/27に次のように書く。
http://inkyo.iza.ne.jp/blog/entry/140920/
 「安倍さんは、《「心の傷を負い、大変な苦労をされた方々に心からおわびを申し上げている」》と詫びながら、軍の関与を否定している。当時の政府が慰安所の設置や募集に関し一切関与していないのであれば、狭義の関与は否定できるかもしれないが、軍人の規律を守り防諜防止等の観点から、日本政府が慰安所の設置等に関与しているのであれば、広義・狭義の理屈は理解されない。それより、慰安所を設置しないと軍の規律が守れないとするなら、日本人としてその方が恥ずかしい。たとえ、戦時下で異常な心理状態になるとしても。
 私もまた、「当時の政府が慰安所の設置や募集に関し一切関与していない」とは思わない。また、「慰安所の設置等に関与している」こともあっただろうと思う。慰安所の存在を当然に知っていただろうし、衛生面での配慮等々もしただろう。慰安所経営者に対して注意・警告又は場合によっては要望をしたこともあっただろう。
 だが問題は、上のような事実の存否及び当否にあるのではない。上のような「関与」と決議案にいう「人身売買事業」あるいは慰安婦の「強制連行」とは全く別のものだ。問題は、日本政府又は軍が、慰安婦にすべく女性を「強制連行」したのかどうか、そうした意味での「強制」的契機を含む「人身売買事業」をしたのか否か、なのだ。通常の理解力があれば、「広義・狭義の理屈」は分かるはずなのであり、これをおそらく意識的に曖昧にしているのが朝日新聞であり、広義のものがあれば狭義のものもあったに違いないとの(じつは根拠のない)前提で書かれているのが米国下院決議案だ。
 「inkyoさん」は「慰安所を設置しないと軍の規律が守れないとするなら、日本人としてその方が恥ずかしい」と書くが、慰安所・慰安婦の存在自体が「悪い」ことだったかどうかは、戦地という場所的特性や「公娼制度」が存在した時代だったこともふまえて、別に議論すべきものだ。この点につき詳しいのは、秦郁彦・慰安婦と戦場の性(新潮選書、1999)だろう。「inkyoさん」は何歳の方か知らないが、こうした本を読んで「勉強」してみたらどうか。
 同じ読売3/27によると、下村官房副長官が「強制連行について軍の関与はなかった」と述べたことに対して、民主党の鳩山由紀夫は「歴史をもっと勉強してほしい」等と述べて批判した、という。「歴史をもっと勉強」する必要があるのは、鳩山由紀夫自身だ。民主党の中にも、松原仁(いまは無所属だが、西村真悟)等、歴史が分かっている議員もいるだろう。思わぬ形で、鳩山由紀夫の無知さ・不勉強ぶりを知った。

0022/すべては原告団リーダーの娘婿の朝日・植村隆の記事から始まった。そんな経緯無視の卑劣な朝日・星浩。

 月刊WiLL5月号が慰安婦問題の特集を組んでいる。暫くぶりに読みごたえがある。まず、西岡力「すべては朝日新聞の捏造からが始まった」がよい。経緯をきちんとまとめてくれている。
 1982年まで、慰安婦「問題」はなかった。1982年の朝日による侵略→進出への教科書書換えとの誤報が一つのきっかけになった。韓国が、歴史問題を利用して、日本批判をし援助・協力をさせることができる、と学んでしまった。翌年に強制連行に携わったとの詐話師・吉田清治の本が出たがすぐには大きな話題にならなかった。最初から信憑性に疑問があったのだ。
 1990年に某日本人女性が韓国で、原告となって日本国相手に訴訟を起こそうと強制連行された人・慰安婦に呼びかけるビラを撒いた。これに現在でも運動団体にいる、軍関係者に強制連行されたのではなく「身売り」された某韓国人女性が反応して登場してきたのだが、その点(慰安婦になった経緯)を曖昧にしたまま、従軍慰安婦(氏名を書きたくないが、やむをえない。金学順氏)が名乗り出たと報道したのが、1991.08.11の朝日の植村隆だった。現在の米国下院で生じていることも、すべてはこの朝日・植村隆の記事から始まった。
 朝日・植村隆は金学順らが実際に提訴すると、彼女らを応援するためのキャンペーンを展開した。1992.01.11には慰安所への軍の関与を示す資料発見と1面で大々的に報じたが、その資料とは、吉見義明中央大学教授が発見した、業者が軍の名を騙って強制連行するな、という旨の悪徳業者を取り締まる方向での文書だった。朝日は卑劣にもこれを慰安婦に軍が関係しているというイメージを作るために用いたのだ。
 なぜ当時の自民党の政治家は朝日新聞の雰囲気作りに欺されたのだろう。1992.01.13に宮沢内閣の初代官房長官・加藤紘一が「お詫びと反省」を発表して謝罪し、同年01.17に訪韓した宮沢喜一首相は韓国・盧泰愚大統領に直接に何度も謝った。吉田清治の本の内容が事実ではないことは判明していた。また、その後韓国の大学教授による40名を対象とする調査で、とりあえず信憑性ある証言を得られたのは19名、そのうち「強制」されたと述べたのは4名だったが、4名のうち2名は戦地以外の釜山と富山で「強制」されたとの証言で最終的には信用できず、残る2名(うち1名が金学順氏)は訴訟の原告となったが、その訴状には軍により「強制連行」されたではなく「身売り」されたと書かれていた。日本政府の調査(聞き取り)でも軍による「強制連行」の事実は証明されなかった。
 にもかかわらず日本政府は謝罪し続けた。現在問題にされている「河野談話」(河野洋平は宮沢内閣の二代目の官房長官)は1993.08.04に出た。それは、軍(国・公権力)による強制はなくとも「本人の意思に反して」だったことに「強制」性があるという、「強制」性の意味を元来の意味とは(所謂狭義から広義へと)すり代えるものだった。「本人の意思に反して」慰安婦になったことについて、国がそれを「強制」したわけではないのに、なぜ国が謝罪するのか。朝日の「すり代え」が河野談話に影響を与えたのだろう。
 概ね上のような経緯を西岡力氏は書いているが(一部私自身の記述がある)、同氏は金学順氏につき「思い出したくない自分の履歴を公開し、日本の反日運動家に利用され、批判され、それによって証言を変えるとウソをついているんじゃないか、と言われる。二重、三重に名誉を傷つけられ、引きずり回された」のではないか、と言う。そして、朝日についてこう書く-「弱者の立場に立つと言いながら、弱者を貶めているのです。女性の人権を守ろうというのではなく、朝日新聞は単に日本が悪ければいいのです」。
 もう一度書いておく。朝日新聞は「女性の人権を守ろうというのではなく」、「単に日本が悪ければいいのです」。
 なお、別の本で読んだ記憶があるが、朝日の植村隆は、金学順を含む原告団組織・太平洋戦争犠牲者遺族会のリーダー的な某氏の娘と結婚している、ということを西岡も明記している。つまりは、義理の母親が原告団のリーダー格だったからこそ(情報を早く知るとともに)当該訴訟の原告に有利になるような記事を書き続けたのだ。このような家族関係があってはとても公正な報道記事にならない。朝日が日本相手の訴訟の原告団の「機関紙」になってしまったのも当然だったとも言える。むろん朝日を擁護しているのではない。そんな個人的利害関係をもつ人物に記事を書かせた朝日新聞社こそが、もはや「ふつうの」新聞社ではなく、「運動団体」になっていることの証左の一つだ。
 そんな朝日の影響を受けた、朝日にだけは好かれたいのかもしれない加藤紘一や河野洋平が行ったことは、正気の沙汰とは思えない。きちんと事実を確認しもせず、謝罪する必要はないのに国を代表して謝罪してしまった。そして、彼らの大きなミスが14-15年後の現在にまで尾を引き、現政府と日本人を、要するに日本という国家全体を苦しめている。日本の名誉が不当に、虚偽の事実によって汚される瀬戸際にある。
 以上のような経緯からすると、3/27の朝日朝刊の編集委員・星浩の「政態拝見」コラムは噴飯ものだし、自社こそが「問題」を発生させた元凶であることに全く言及しない、極めて卑劣なものだ。朝日に都合のよい、この「問題」をめぐる経緯の解釈しか示していない。しかも、社会主義国・ベトナムの政府要人が昨年秋の河野洋平の彼国での演説を高く評価していた、という日本共産党の志位委員長から聞いた話からコラムを書き始めるとは、星浩なる男の社会主義・共産党に対する抵抗感のなさ・無防備さを露骨に明らかにしている。
 朝日の星浩よ、見出しの如く、一度、自社や自分自身の「歴史・戦争…」に関する「見識を問おう」としてみたらどうか。

0020/伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか-2。

 東京地裁平成11.09.22判決は、これまた不要で、かつよくもまた大胆にと思うのだが、次のようにも述べていた。―「本件当時我が国が中国においてした各種軍事行動は、以下で述べる昭和6年(…)の満州事変、昭和7年の第一次上海事変、同年の満州国の独立宣言、昭和8年の国際連盟脱退、昭和11年(…)の2.26事件等々を経て、我が国の軍部がその支配体制を確立し、昭和12年以降、しばしば交替する内閣の閣内不一致や、時に下克上的な軍部等に引き回されるまま、近代における欧米列強を模倣し、ないし欧米列強に対抗しつつ中国大陸における我が国の権益を確保拡大しようとして、中国内部の政治的軍事的極めて複雑な混乱に乗じて、その当時においてすら見るべき大義名分なく、かつ十分な将来的展望もないまま、独断的かつ場当たり的に展開拡大推進されたもので、中国及び中国国民に対する弁解の余地のない帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為にほかならず、この「日中戦争」において、中国国民が大局的には一致して抗日戦線を敷き、戦争状態が膠着化し、我が国の占領侵略行為及びこれに派生する各種の非人道的な行為が長期間にわたって続くことになり、これによって多数の中国国民に甚大な戦争被害を及ぼしたことは、疑う余地がない歴史的事実というべきであり、この点について、我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきであること、国家間ないし民族間における現在及び将来にわたる友好関係と平和を維持発展させるにつき、国民感情ないし民族感情の宥和が基本となることは明らかというべきであって、我が国と中国との場合においても、右日中戦争等の被害者というべき中国ないし中国国民のみならず、加害者というべき我が国ないし日本国民にとっても極めて不幸な歴史が存することからして、日中間の現在及び将来にわたる友好関係と平和を維持発展させるに際して、相互の国民感情ないし民族感情の宥和を図るべく、我が国が更に最大限の配慮をすべきことはいうまでもないところである」。のちにも「我が国が朝鮮半島、満州、中国に進出し、ついにはあからさまな侵略行為、侵略戦争にまで及んだ」、「期待と信頼を裏切り、中国に対して侵略行為を継続したことはおよそ正当化できない」という文もあり、「将来にわたる両国民間の友誼と国家間の平和と友好関係」の樹立の必要も説いている。
 この判決は「帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」と断言し、日本は「真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」と贖罪意識も明言する。この判決が「政治的・外交的」性格をもつことは疑いえない。しかるに、判決を書く裁判官は政治家又は外交官になってよいのか
 以上までに引用したのは歴史学・政治学の概説書でもなければ一部は戦後50年村山富市社会党内閣の談話でもない。裁判にかかる判決理由中の文章だ。
 あえて原告にリップ・サービスをするつもりなら、原告らの被害が日本軍によることを認定するだけでもよかった。しかしこの判決は南京「虐殺」の事実まで認定した。これは前者にとって絶対不可欠でなかった。また、南京「虐殺」の事実のみならず、1931年以降の日本軍の行動を「帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」と言い切った。こう言う必要性は南京「虐殺」の事実認定にとっても絶対不可欠でなかった。何故ここまで立ち入ったのか。それは、裁判官が「我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」との(認識というよりも)価値判断に立ち、「相互の国民感情ないし民族感情の宥和を図る」ために、自らが政治家・外交官のつもりで判決を書く必要があると「錯覚」した、又は「倒錯した感情」に陥っているためだと思われる。
 しかして、最後に、この判決の語る「認識」や「価値判断」は適切なものだろうか。これらを語る必要は全くないのに触れているのはこの判決の致命的欠陥だが、そこでの「認識」・「価値判断」が誤っているとすれば、少なくとも常識的な認識として誰もが一致していることでは決してないとすれば、その欠陥は犯罪的ですらあるだろう。そして、判決のいう「日中戦争」の認識にせよ南京「虐殺」の真偽にせよ、日本の誰もが一致する常識的なものとは全く言えない。判決はこれと矛盾する「認識」があることを恐らく知りつつ意識的に完全に排除している。その際、「『南京虐殺』自体がなかったかのようにいうのは…、断定し得る証明がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべき」との開き直りすら見せて、事実上「虐殺」がなかったことの証明を要求し、それができていないから「あった」のだとの強引な(裁判官と思えない)論法をとっているし、南京事件が「政治的意図をもって、…誇大に喧伝された」側面があったとしてもそれは「当時我が国は『世界の孤児』であり、真実の友邦はなく、ほとんどの国から警戒され、敵対されていた」からだと述べて、責任が日本にあるとすら示唆する。問題は日本が信頼されていたか否かではなく「当時から世界に喧伝されていた」内容が真実か否かの筈だ。
 この判決の裁判官はその贖罪意識・日中友好意識から、いちおうは「一般的な歴史図書」に依ってとしつつ(明記されているのは正村公宏・世界史の中の日本近代史中村隆英・昭和史I中央公論新社・世界の歴史30NHK・映像の世紀等) 、原告ら及び支援団体が「気に入る」ような歴史認識をあえて述べたのではなかろうか。
 かりにそうだとすれば、伊藤、本多、林の三裁判官は憲法が保障する裁判官の独立を自ら放棄している。あるいは憲法と法律にのみ拘束され良心に従う(憲法76条3項)という場合の「良心」を、失礼ながら自ら「歪めて」いる。
 所謂東京裁判のウェッブ判事は歴史に対して傲慢だったと思うが、所詮は連合国の官僚で実質的にはマッカーサーの部下だった。独立性が保障された彼らはなぜこれほどに歴史に対して傲慢なのか。「日中戦争」の性格を、南京「虐殺」の事実を何故あれほどに簡単に述べてしまえるのか
 もともと彼らが明記する参考文献は旧すぎる。彼らはこの判決前に出版されていた東中野修道・「南京虐殺」の徹底検証(展転社、1998)も、南京「虐殺」説批判に130頁以上を割いている小室直樹=渡部昇一・封印の昭和史(徳間書店、1995)も、判決直前の藤岡=東中野・「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究(祥伝社、99.09)も、読んでいないだろう。前者には和書だけで100以上の「参考文献」が列挙されているが、多様な歴史上の議論を知りうるほんの数冊でも、彼らは読んでいないに違いない。そして、大学生でも書けるような戦前・戦時史の「レポート」文を判決理由中に載せたのだ。
 既に書いたように、裁判官は戦後教育の最優等生たちだ。そして「歴史認識」もまた基本的には戦後教育のそれを受容している。「何となく左翼」は裁判所の中にも浸透している。ここでも鬱然たる想いを覚える。藤岡信勝・前掲書p.337-8によれば、この判決につき産経新聞論説委員石川水穂は的確に、「裁判官といえども、歴史を裁くことはできない。…軽率な事実認定を行った判決は必ずや、後世の裁きを受けるであろう」と書いた。
 彼らは上掲の本や判決後に出た北村稔・「南京事件」の探究(文春新書、2001)やマオ(上・下)(講談社、2005)、松尾一郎・プロパガンダ戦「南京事件」(光人社、2004)、東中野修道他・南京事件「証拠写真」を検証する(草思社、2005)、東中野修道・南京事件-国民党極秘文書から読み解く(草思社、2006)等々を読んで少しは恥ずかしくなっただろうか。少しは恥ずかしくなったとすれば、まだ少しは合理的な人間としての「良心」が残っている、と言えるのだが。
 くどいが、追記する。再引用すると、東京地裁判決は「南京虐殺は日本軍及び日本兵の残虐さを示す象徴として当時から世界に喧伝されていた(…政治的意図をもって、その当時及び我が国の敗戦直後誇大に喧伝されたという側面があるかもしれないが、そうであるからといって、『南京虐殺』自体がなかったかのようにいうのは、…結局、現時点において正確な調査や判定をすることが難しいことに乗じて、断定し得る証明がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべきであろう。)」と述べた。
 「当時から世界に喧伝」されていたことを事実認定の補強証拠として使い、かつその「喧伝」が「誇大」だったとしても事実を否定し得ない、と論じているのだ。だが、当時の「喧伝」が「誇大」どころか全くの虚偽だったら、中国国民党(及び同党に潜入の中国共産党)の工作員だった外国人が国民党の意を受け金も貰って世界に発した全くのガセだったらどうなるのか。伊藤剛、本多知成、林潤の三人は、その可能性を完全に否定するのか。(了)

0019/伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか-1。

 司法試験合格者は司法試験の受験科目のみ集中的に勉強したはずだ。とすれば、その他の一般的知識につき欠けることがあってもむしろ当然だ。このことは、法学部出身の(ふつうの)弁護士についても、さらに裁判官についても言えそうに思われる。つまり彼らは、司法試験科目を中心とした法律(・憲法)の専門家だが、例えば日本の歴史・伝統・文化について、「昭和戦争」について、無論総じての話だが、平均的な人以上には詳しくは知らない筈だ。しかし、彼らは日本の戦後教育の「優等生」ではある。そして、専門家の部分以外の分野については、高校・大学で又は社会一般・マスコミから「一般教養」を身につけている。その「一般教養」がじつはマルクス主義又は「左翼」思想から派生しているとすれば一体どうなるのか。これは現実的な問題だ、と思っている。
 南京事件・同「大虐殺」という語をタイトルに含まなくともこれに言及している本は多い。藤岡信勝・「自虐史観」の病理(文春文庫、2000。初出1997)もそうだが、その中に愕然とすることが書かれている。直接には事件の具体的内容に関係のない筈の、一判決についてだ。東京地裁平成11.09.22判決で、南京事件の被害者・遺族(と称する)中国人が日本(国・政府)を被告に国家賠償請求した事件にかかるものだが、個人が外国政府に対して直接に戦争被害にかかる損害賠償請求をする権利はない、とした。棄却の結論(判決主文)を導くためにはこれで十分と思われるが、何とこの判決は「南京「虐殺」はあった」旨をも述べている、という。ネット上で何とかこの判決を探してみた。確かに次のように「事実認定」している。長いが引用する。
 「日本軍の上海攻略は1937年11月05日の杭州湾上陸(…)によりようやく一段落し、同月中旬上海を制圧したが、日本軍及び日本兵はその戦闘により多大の損傷を受けた上で、心身ともに消耗、疲弊した兵士らの士気低下、軍紀弛緩等が問題となっていたまま、11月20日南京追撃が指令され、正式な命令のないまま強行された南京攻略は、日本国民の期待とあいまって、12月01日正式に決定された。南京の特別市の全面積は東京都、神奈川県及び埼玉県を併せた広さで、11月末から事実上開始された進軍から南京陥落後約6週間までの間に、数万人ないし30万人の中国国民が殺害された。いわゆる「南京虐殺」の内容(組織的なものか、上層部の関与の程度)、規模(「南京」という空間や、虐殺がされたという期間を何処までとするか、戦闘中の惨殺、戦闘過程における民家の焼き払い、民間人殺害の人数、便衣兵の人数、捕虜の人数、婦女に対する強姦虐殺の人数)等につき、厳密に確定することができないが、仮にその規模が10万人以下であり(あるいは、「虐殺」というべき事例が1万、2万であって)、組織的なものではなく「通例の戦争犯罪」の範囲内であり、例えばヒトラーないしナチスの組織的なユダヤ民族殲滅行為(ホロコースト)と対比すべきものではないとしても、「南京虐殺」というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである」。
 結論が如上のとおりである限り全く不要な叙述で、井上薫のいう「司法のしゃべりすぎ」(新潮新書、2005参照)の典型例だ。かつ「歴史認識」に関係するためにさらに悪質だ。「『南京虐殺』というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである」との判断まで示したこの判決を書いたのは、伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官だ(伊藤が裁判長)。
 この人たちは歴史家のつもりなのか。「『南京虐殺』というべき行為があったことはほぼ間違いのないところ」などと普通の人でも簡単には書けない。国家行為の一つの判決に書けるとはどういう神経・精神構造の持ち主だろう。
 上に引用の文章の直後にはこう続けている。「南京虐殺は日本軍及び日本兵の残虐さを示す象徴として当時から世界に喧伝されていた(…少なくともその当時我が国は「世界の孤児」であり、真実の友邦はなく、ほとんどの国から警戒され、敵対されていたものである。そのような状況からして、政治的意図をもって、その当時及び我が国の敗戦直後誇大に喧伝されたという側面があるかもしれないが、そうであるからといって、「南京虐殺」自体がなかったかのようにいうのは、正確な調査をしようとせず、「南京」の面積と当時の人口が小さいとし、結局、現時点において正確な調査や判定をすることが難しいことに乗じて、断定し得る証明がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべきであろう。)」。
 先に引用の部分と併せて、この長い叙述は一体何だろう。「原告Aがその被害者であることも明らかである」と書いた直後に「…当時から世界に喧伝されていた」と述べるが、この後者は被害=損害発生の事実認定のための理由づけのつもりなのだろうか。さらにその後の()内は一体何だろう。「断定し得る証明がない以上事実そのものがなかった」という主張を「正当でない」と非難しているが、これは裁判官が吐くべき言葉だろうか。不法行為・損害賠償請求訴訟において原告に加害行為の事実の立証責任があるのは常識的だが、あえて逆のことを述べている。この判決は「本件に関する基本的な事実関係」につき「認識するところ」を「当裁判所の限られた知見及び能力の範囲内」で「一般的な歴史書物」等に依って「最小限度で言及」すると前の方で述べているので、歴史の「基本的な事実関係」については法的な立証責任の問題と無関係に「認識」しているのだろう。だが、かかる方法は歴史認識について適切なのか。また、既述のように、そのような「認識」を「示す」必要性はそもそもなかったのだ。
 中国人は戦争(日本軍人による)被害につき日本国に対して損害賠償請求権を持たないと述べるだけで訴訟の処理としては十分だ。日本軍人による損害がかりにあってもとか、戦争損害の有無にかかわらずとかを付加し、その余の諸点を論じるまでもなく、と書けば十分だ。にもかかわらず、何故この判決は(引用しないが)14世紀からの!中国・日本の歴史を長々と書くのか。上海攻略後、「日本軍及び日本兵は、…心身ともに消耗、疲弊した兵士らの士気低下、軍紀弛緩等が問題となっていたまま」などとさも<見ていたかの如く>書けるのか、つまりは「認識」できるのか。この判決は、従って三裁判官の神経は、常軌を逸している、と思う。なぜこうなったのか。三裁判官の基本的な対中「戦争」観・贖罪意識によるのではないか。(つづく)

0018/一審-土肥章大、田中寿生、古市文孝、二審-石川善則、井上繁規、河野泰義。

 百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件で最高裁でも原告敗訴だったことはネット情報で知ったが、月刊WiLL3月号でも稲田朋美自民党議員・弁護士がこれに触れている。たしかに高裁判決が「本件日日記事…の内容を信じることはできない…、…戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的」と述べつつ、「全くの虚偽であると認めることはできない」と結論づけるのは矛盾しているように見える。だが同氏も言うように、裁判所は、「全くの虚偽」と心証形成させるだけの厳しい立証を原告に課したのだろう。
 ネット上で一審・二審判決の全文が読めるが、先月に、煩わしくも理解しようと努めてみた。問題は「次の諸点に照らせば」と判決が言う「次の諸点」で、その中には「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる」、「少なくとも野田少尉は、本件日日記事の報道後、「百人斬り競争」を認める旨の発言を行っていたことが窺われる」などがある。
 これらを一読して感じたのは、一審・二審の裁判官は、「時代の空気」の差異を知らず、現在と当時の「歴史的状況の違い」を無視しているのでないか、ということだ。日日(現在の毎日)の他に朝日も、当時は戦意高揚の記事を書き、戦争を煽っていた。そのような雰囲気の中で両少尉が当時ならば自らを「軟弱兵」視させるような「真実」を当時に語れるだろうか。
 一審の裁判官は土肥章大、田中寿生、古市文孝、二審のそれは石川善則、井上繁規、河野泰義で、各々最初に記載の者が裁判長だ。関心をもつのは、この6名は何新聞を購読し、あの戦争に関する知識がどの程度あり、いかなる「歴史認識」をもっているか、だ。本多勝一・朝日と同じ<日本は悪いことをした>史観なら、こうした判決にもなるだろう。法律的議論を超えているつもりはない。心証形成の自由の中で微妙にであれ「歴史認識」が影響を与えなかったのか、という疑問が生じるのだ。
 周知のとおり、「百人斬り競争」の咎で向井敏明・野田毅両少尉(当時)はB・C級戦犯として南京郊外でまともな裁判もなく処刑死した。東京日日(現毎日)の報道記事が殆ど唯一の証拠だった。処刑直前の、無実を訴えつつ死の覚悟・肉親との別れれの言葉を綴る獄中日誌を読むと、遺族ならずとも表現し難い怒りの如き感情が湧いてくる。この件は東京裁判等とともに一般には忘れられていたが、これを掘り起こし死者に鞭打ったのが、朝日の本多勝一だった。彼は1971年の中国の旅(朝日文庫、現在でも売っている)で、当地の中国人の「証言」をそのまま書き写した。日本刀での「百人斬り競争」の不可能を山本七平氏が私の中の日本軍(のち文春文庫化)で書いたり、本多の本は「南京大虐殺」に触れるものであったため、鈴木明氏の「まぼろし」とする本も出たりした(現在、ワック文庫化)が、本多の本により苦痛と悲しみをさらに受けたのは向井・野田両氏の遺族だった。両氏の大きな写真が現在、南京の抗日(南京大虐殺)記念館に貼られているという。
 「百人斬り謝罪請求」訴訟の一審・二審判決は本多の書いたことが真実だと認定したわけでは全くない。ただ、例えば「真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しない」と言うにすぎない。朝日の組織とその「権威」に屈したわけではないだろうが、判決は「全くの虚偽」とまでは認定しなかったわけだ。とすると、ただちには「全くの虚偽」と見抜かれない文書や証人を意識的に「でっちあげて」おけば、訴訟と学問的歴史研究は同一でないとは思うが、人の名誉毀損も歴史の改竄も「完全な反証」のできないかぎり可能となる。それでいいのか、大いに疑問だ。

0016/米国下院慰安婦問題対日非難・首相謝罪要求決議を回避する方法はないのか!

 自民党による再調査等は結構なことだ。だが、それで間に合うのか。
 週刊新潮3/29号の連載コラムで櫻井よしこは、前号に続いてなおも米国下院慰安婦決議案問題を扱っている。大きくは報道されなかったが、数日前の読売か産経によれば、同決議の本会議採択は5月にずれる見込みらしい。安倍訪米の後になるのはよいが、訪米中の安倍首相に厄介な関連質問が押し寄せる可能性もある。
 櫻井は言う-「米国の良識ある人々の反応を見て、中国を筆頭とする国々の反日情報戦略がここまで功を奏するに至ったことに嘆息せざるを得ない」。ホンダ議員の選挙区に本部がある「世界抗日戦争史実維護連合会には、中国共産党政府の資金が注入されていると考えるべきであり、一連の展開は…長年の、そして数多くの反日活動の一環だと断じざるを得ない」。「決議案は中韓両国による反日連合勢力の結実で、その中に米国が取り込まれつつある」。「これだけ広く浸透した汚名をそそぐには、個々の政治家や少数の言論人の力だけでは不足」だ。「拉致問題で行ったのと同じ手法で安倍首相の下に力を結集し、対策本部を設置する」しかなく、「5年でも10年でも」、「くじけず、誇り高く、事実を語り、世界を説得する心構えを新たにせよ」。
 基本的には彼女の主張のとおりだと思う。しかし、下院本会議で決議されてしまったら、どういう事態になるかと想像すると怖ろしい。5年も10年もじっくりと努力していけるのだろうか。
 当面中韓や米国の一部議員・マスコミを刺激するかもしれないが、河野洋平こそが、かつての事実を(事実確認をきちんとすることなく詫びてしまったこと、強制的「性奴隷」化等の事実は存在しなかったことを)全世界に向けて表明すべきだ。宮沢喜一も当時の首相としての政治責任を全世界に明らかにすべきだ。むろん当面は混乱する。しかし、決議がとおり、米国議会で、<従軍慰安婦強制連行>が歴史的事実と認定されることによる未来永劫に残る禍根に比べれば、ずつとマシだ。

0011/日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。

 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。  レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。

-0025/沖縄集団自決冤罪訴訟・大江健三郎など。

 2005年10月28日に大阪地裁法廷で朗読された沖縄集団自決冤罪訴訟の訴状要旨の最後は次のとおり(徳永信一・正論2006年09月号による)。
 「以上のとおり、被告大江健三郎が著した『沖縄ノート』を含む被告岩波書店発行の書籍は、沖縄戦のさなか、慶良間列島において行われた住民の集団自決が、原告梅澤裕元少佐あるいは原告赤松秀一の兄である亡き赤松嘉次元大尉の命令によるものだという虚偽の事実を摘示することにより原告らの名誉を含む人格権を侵害したものである。よつて、原告らは、被害の回復と拡大を防止するため、それらの出版停止、謝罪広告及び慰藉料の支払いを求めるものである」。
 原告側に有利な発言をする人物も近日登場したようである。
 すでに各所で言及されているが、小泉靖国参拝にかかる世論調査報道は各紙とも賛成・よかったが反対・よくなかったを上回っていたところ、なぜか最も遅かった朝日でも前者優勢と出た。49%対37%だ。0815前には昭和天皇発言にかかる富田メモ報道もあってか反対の方が多かった、「それなのに」と朝日中枢部はガックリしているだろう。が、朝日はメゲない。「小泉首相の<8・15参拝>は<よかった>49%、<するべきではなかった>37%で肯定的な見方が多いが、次の首相の靖国参拝となると一転、反対が増える。…7月調査の60%より少ないものの引き続き多数で…」(23日)。なんと、現首相については副文・従属節の中で触れ、主文・主節で次期首相については<反対が多いんだよ>と書いて、重点を自社に不利な前者にではなく後者に置いているのだ。さすがに「築地をどり」名取りは長年の経験によって多少のことでは悲観と失望を白状しないシタタカさを会得している。
 これまた旧聞だが、8月3日に韓国民族派極左政権の韓明淑首相は、<アジアには今でも日本により強制動員された「めぐみさん」が多数いる>と日本の記者に発言。事実かどうか極めて怪しい「強制連行」と北朝鮮の拉致を同一視することに唖然とするし、こんな人が首相とは韓国政府の性格とレベルを示している。だが、日本のマスコミはこの発言を「妄言」として何故抗議し、取消すまで紙面で頑張らなかったのか。朝日新聞は自国の過去・現在の非をあげつらうなら、なぜこの韓発言にも食いつかないのか。近隣諸国条項は日本の大半のマスコミにもあるようで、情けないこと著しい。

-0024/大江健三郎は「事実」と「情念」・面子のどちらを選ぶ?

 拉致被害家族会等(増元氏等)との意見交換会を突然に中国当局が中止した。北京まで(おそらく家族会等の負担で)来させておいて、今更北朝鮮に配慮とは失礼だ。こういう国なのだが、これを伝えたNHKの午後9時からのニュースの男性アナは<日中の微妙な国家関係が影響かも>旨を最後にコメント。何を中国に遠慮しているのか。約束違反・予定背馳そのものに日本政府に責任があるのか。朝日某ほどは目立たないが、NHKも奇妙な所がある。
 春頃日付が変わった後のニュース解説をつけっ放しでPCに向かっていると、<国民投票は憲法を変えることを国民が阻止する最後の砦になる側面もある>と聞こえてきた。国民の意思で憲法改正する最終的手続たる側面、には何故言及しないのかと、そのとき不審に思ったものだ。
 大江健三郎につき、谷沢永一・こんな日本に誰がした(1995、クレスト社)があり少し読んだ。表紙にもある「戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状」との副題はスゴい。この本は20万部売れたらしい。
 大江は谷沢永一・悪魔の思想-「進歩的文化人」という名の国賊12人(1996、クレスト社)の対象の一人でもあるが、「悪魔の思想」とはこれまた勇気凛々のタイトルだ。類書に日本を貶める人々、日本を蝕む人々(各PHP)等もあるが、これらに比して谷沢のは鼎談でなく断片的でもない。
 大江につき今最も関心があるのは、第一審・大阪地裁段階のいわゆる沖縄自決命令訴訟の行方だ。大江と岩波が被告だが、沖縄タイムズ社の本に書いてあったから信用したというだけでは、沖縄ノート(1970、岩波新書)の記述を30年以上訂正しなかった過失を否定するのに十分ではないことは明らかだろう。ノーベル賞作家は、あるいは誰でも、原告の政治的背景をアレコレ言う(大江・朝日新聞2005.08.16)前に、真の「事実」は何だったかに関心をもつべきだ。
 曽野綾子・沖縄戦・渡嘉敷島-「集団自決」の真実(ワック、2006)も参照。上の岩波新書は持っていたはずだが所在不明で購入要かも。大江等擁護の意見も読んでみたが、事実よりも「自由主義史観」者たちに負けるなとの感情過多の印象だ。
 いわゆる百人斬り名誉毀損訴訟も気になる。稲田朋美月刊・WiLL8月号参照。南京事件、本多勝一等にも関係するが、下級審で勝てず最高裁に上告中。
ギャラリー
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