秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア・ソ連史

2601/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.493〜。
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 第一節・革命の原因②。
 (08) 農奴制の伝統と農村ロシアの社会制度—共有の家族資産とほとんど一般的な共同体による土地保有の制度—は、農民層が近代的市民性のために必要な性質を発展させるのを妨げた。
 農奴制は奴隷制ではなかったけれども、農奴は奴隷と同じく法的権利をもたず、ゆえに法の感覚がなかった点では共通していた。
 ロシアの指導的な古典的古代の歴史家で1917年の目撃者だったMichael Rostovtseff は、こう結論づけた。農奴制は、自由を全く知らず、そのことで農奴が真の市民たる性質を獲得するのが妨げられたという点では、奴隷制よりも悪かった、と。彼の見解では、これは、ボルシェヴィズムの主要な教条だった。(注4)
 農奴にとっては、権威とはまさにその性質からして恣意的だ。そして、それから自衛するために彼らは、法的権利や道徳上の権利への訴えに頼らないで、策略に依拠した。
 彼らは、原理にもとづいて政府を理解することができなかった。彼らにとっての生活は、ホッブズの全てに対する全ての者の戦いだった。
 このような姿勢は、専制主義(despotism)を助長した。内的な紀律と法への敬意が不在であれば、外部から課されるべき秩序が必要になるからだ。
 専制主義が作動するのを止めたとき、無政府状態が発生した。
 そして、いったん無政府主義が行路を進み始めるや、それは不可避的に、新しい専制主義を生み出すことになった。//
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 (09) 農民層は、ある一点でのみ、革命的だった。すなわち、農民層は、土地の私的所有を承認しなかった。
 彼らは革命の前夜に国の耕作地の10分の9を保有していたけれども、地主、商人、共同体に属さない農民がもつ残りの10パーセントを強く欲しがった。
 経済的な議論も法的なそれも、彼らの意思を変えなかった。彼らは、その土地に対して神から付与された権利をもつ、いつかは自分たちのものになる、と感じていた。
 そして、自分たちという言葉で意味させたのは、構成員に公正に土地を分与する共同体だった。
 ヨーロッパ・ロシアで共同体による土地保有が優勢だったのは、農奴制の遺産であるとともに、ロシア社会の歴史の基礎的な事実だった。
 これが意味したのは、法の感覚が微小にしか育たなかったことのほか、農民もまた個人的な私的財産をほとんど尊重しない、ということだった。
 急進的知識人たちは、農民層を現状に対抗させようとする彼らの目的のために、こうした傾向をいずれも利用した。(*)//
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 (脚注*) 1880年代に革命家の経歴を開始し、レーニンの独裁を目撃したVera Zasulich は、1918年に、ボルシェヴィズムを支持する社会主義者の責任は財産を奪おうと労働者—農民層をこれに加えることができよう—を扇動したが、市民の義務については何も教えなかったことにある、ということを承認した。NV, No. 74/98 (1918.4.16), p.3.
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 (10) ロシアの工業労働者たちが潜在的に不安定だったのは、革命的イデオロギーを吸収したがゆえにではなかった。—そうしたのは彼らのうちごく少数で、その者たちですら革命的諸政党の指導的地位からは排除された。
 そうではなく、彼らのほとんどは一世代前に、またはせいぜい二世代前に、農村から移り住み、表面的にだけ都市化していたので、彼らは工場へと農村的態度を持ち込み、ごく僅かにだけ工業の環境に適応していたからだ。
 彼らは社会主義者でななく、サンディカリスト(syndicalist)だった。彼らの村落が全ての土地について権利を与えられたように、彼らも工場について権利がある、と考えた。
 彼らが政治に関心をもったのは、農民層と同じような程度でだった。この意味でも、彼らは、原始的な、イデオロギー性のない無政府主義の影響下にあった。
 さらに、ロシアの工業労働者は、数の上で取るに足らず、革命で大きな役割を果たさなかった。せいぜい300万人の労働者では(彼らの多くは季節雇用の農民でもあった)、全国民の僅か2パーセントを代表しているにすぎなかった。
 教授たちに指導された大学卒業生の多数は、西側、とくにアメリカ合衆国でと同様にロシアでも、革命以前のロシアの労働者に急進主義の証拠があったことを探し出そうとして、せっせと歴史的資料を調べた。
 その結果として学術書ができたが、ほとんどが無意味な出来事や統計資料で充たされた。そして、歴史はつねに興味深いが、歴史書は空虚でも退屈でもあり得るということを、あらためて証明した。//
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 (11) 革命が起きた主要で、議論の余地はあるが決定的な要因は、知識人層(the intelligentsia)だった。ロシアの知識人たちは、他のどこよりも大きな影響力をもっていた。
 帝制時代の公務員の独特な「階位」制度は外部者を管理部門から排除した。最高の教育を受けた者を遠ざけ、西ヨーロッパでは構想されたが実行されなかった、社会改革のための空想的計画を、その者たちが受け入れやすいようにした。  
 代表的〔準議会〕制度と自由なプレスが1906年までなかったことで、教育の普及と結びついて、文化的エリートにはもの言わぬ民衆に代わって発言する権利がある、という主張をすることが可能になった。
 知識人が「大衆」の意見を実際に反映していた、とする証拠資料は存在していない。反対に、証拠が示しているのは、革命の前も後も、農民と労働者たちは知識人に対して強い不信の念をもっていた、ということだ。
 このことは、1917年とそれに続く数年で明確になった。 
 しかし、民衆の本当の意思はそれを表現する回路がなかったので、ともかくも1906年に短命の立憲的秩序が導入されるまでは、知識人たちは民衆の代弁者であるとの虚像を作ることができた。//
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 (12) 政治機構を正当化するものが存在しない他諸国のように、ロシアの知識人は自分たちで一つの階層を構成した。そして、思想が彼らに一体性と団結を与えたので、彼らは、極端な知的偏狭さを身に付けた。
 人間は環境により塑形される物質的実在にすぎないという、またその帰結として環境の変化は不可避的に人間の本性を変化させるという、啓蒙主義の考え方を採用して、知識人たちは、「革命」はある政府を別の政府に変えることではなく、比較にならないほどに大がかりなものだ、と見た。人間の新しい種を生み出すという目的をもつ、人間の環境の全体的な大変造なのだ。—むろんロシアでのことだが、他のどこでも同じだ。
 現状の不公平さを強調するのは、民衆の支持を獲得する手段にすぎなかった。こうした不公平さをどんなに是正しても、急進的な知識人たちはその革命的熱意の放棄を説得されなかっただろう。
 このような信念は、多様な左翼党派を結合させた。アナキスト、社会主義革命家〔エスエル〕、メンシェヴィキ、そしてボルシェヴィキ。 
 科学的用語を使っても、彼らの見解は矛盾する根拠に気づいておらず、そのゆえに宗教的信仰にきわめて近いものだった。//
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 (13) 知識人層は、我々は権力を渇望する知識人と形容したのだが、既存の秩序に全的かつ非妥協的に敵対した。
 自殺をするなら別として、ツァーリ体制が行うことができたもので、彼らを満足させるものは一つもなかっただろう。
 彼らは、民衆の条件を改良するためにではなく、民衆への支配を獲得して、民衆を自分たちのイメージに作り変えるために革命家になった。
 だが、帝制に立ち向かったにせよ、のちにレーニンが持ち込んだような手段を使う以外には、挑戦し、攻撃する方法をもっていなかった。
 諸改革は、1860年代のであれ1905-6年のであれ、急進派の欲求を強めただけで、革命的な過度の行動へといっそう彼らを刺激した。//
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 (14) 農民の要求に苦しめられ、急進的知識人層から直接の攻撃を享けて、崩壊を避けるためには帝制には一つの手段しかなかった。それは、社会の保守的要素と権力を分有し、権威の基盤を拡張することだった。
 歴史の先例が示すのは、成功した民主政体はもともとは権力分有を上位階層に限っていた、それがやがてその他の国民の圧力を受けるに至り、その結果として上位階層の特権がふつうの権利になった、ということだ。 
 数の上では急進派よりもはるかに多い保守層を巻き込むことは、政策決定と行政の両面で、政府と社会の間に有機的紐帯のようなものを作り出すだろう。そして、大変動の事態のときには帝制への支持を保障し、同時に、急進派を孤立させるだろう。
 帝制に対して、このような行路の選択が、何人かの先見の明のある官僚や私人から強く勧められた。
 大改革のあった、1860年代にこれが採用されるべきだっただろう。だが現実には、そうされなかった。
 ついに1905年に、民衆全体に広がる反乱によって議会制の導入を余儀なくされたとき、君主制の側はもうこの選択肢を利用しなかった。合同したリベラル派と急進派の反対勢力が、民主主義的参政権に近いものを認めるよう強いたからだ。
 この結果として、議会(ドゥーマ、Duma)での保守派は、戦闘的な知識人と無政府主義の農民に覆い隠されてしまった。//
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 (15) 第一次世界大戦は全ての交戦諸国に甚大な負担を課した。その負担は、愛国主義の名のもとでの政府と市民層の緊密な協力によってのみ克服することができた。
 ロシアでは、このような協力関係は一度も実体化されなかった。
 軍事的失敗によって元々の愛国的熱狂が消散し、国が消耗戦争を遂行しなければならなくなったとき、ツァーリ体制は民衆の支持を動員することができないことを知った。
 崇敬者ですら、それの挫折の時点で君主制は漂浪していることに同意した。//
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 (16) 政治権力を支持者たちと分有するのをツァーリ体制は拒否し、そしてそれを強いられたときには不承々々かつ欺瞞的にそうした。その動機は、複雑だった。
 心の奥底で王室、官僚機構、職業的将校たちに浸透していたのは、ロシアはツァーリの私的領有物だと見る因習的考え方だった。
 18-19世紀のモスクワ公国の推移の中で伝統的制度は次第に廃止されていったけれども、精神性は生き残った。
 そして、官僚層のみならず、農民層もまた伝来的な語句でもって思考して、強くて不可分の権威の存在を信じ、土地は帝制の財産だと見なした。
 ニコライ二世は、その継承者として専制を維持することを当然視した。無制限の権威は彼にとって受託した権能であって、弱める権利があるはずのない財産権と同等のものだった。
 彼は、皇位を守るために1905年に国民が選出した議員たちと権威を分かち合うのを同意したことについて、罪の感覚を拭い去ることができなかった。//
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 (17) ツァーリとその補佐者たちはまた、社会の少数部分とすら権限を分有するのは官僚制機構を混乱させ、民衆がさらなる参加を要求することになるだろうと怖れた。
 上の後者の場合、主要な受益者は、ツァーリとその補佐者たちが全くの無能だと考えている知識人層になるだろう。
 加えて、このような譲歩を農民たちが誤解して、暴動に進むという懸念もあった。
 また最後に、ツァーリに対してのみ責任を負い、その裁量によって国の行政を行ない、そこから多数の利益を得ている官僚機構が改革に反対している、ということもあった。//
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 (18) このような要因は君主の側が政府への発言権を保守派に付与することを拒んだことの説明にはなるが、正当化はしない。それが直面した問題の多様さや複雑さによって、いずれにせよ官僚機構が多くの効果的な権限を奪われたとしても、そうだ。 
 19世紀の後半に資本主義的諸制度が出現して、国の資源の統制権の多くは私人の手に移った。これは、家父長的財産制の残余を破壊した。//
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 (19) 要するに、帝制の崩壊は不可避ではなかったが、それは、ツァーリ体制が国の経済的文化的成長に適応するのを妨げた文化的および政治的欠陥が、そして第一次大戦により生まれた圧力のもとでは致命的な欠陥が、根深いところにあったことによる、と言えそうだ。
 このような適応の可能性が存在したとしても、政府を転覆させてロシアを世界革命の跳躍台として用いようと決意する戦闘的知識人層の活動によって、挫折しただろう。 
 ツァーリ体制の崩壊の原因となったのはこうした性格の文化的、政治的欠陥だったのであり、「抑圧」や「窮乏」ではなかった。
 我々はここで、原因はこの国の過去に遠く遡る民族的悲劇を論述している。
 経済的、社会的苦難は、1917年以前にあった革命の脅威に大きく寄与したのではなかった。
 「大衆」が—現実的にであれ夢想的にであれ—どのような不満を抱いていても、彼らは革命を必要としなかったし、革命を望みもしなかった。
 革命に関心を寄せた唯一のグループは、知識人層だった。
 言うところの民衆の不満や階級の対立の強調は、現実にある事実にではなく、イデオロギー上の先入観に由来した。すなわち、政治的進展はつねにかつどこでも社会経済的対立によって駆り立てられている、それは現実に人間の運命を動かしている潮流の表面にある「水泡」にすぎない、という信用の措けないないイデオロギーにだ。//
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 後注
 (04) Michael Rostovtseff in NV, No. 109/133 (1918.7.5), p.2.
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 結章・第一節、終わり

2600/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。
 この最後の章はこの欄に試訳を全て掲載したと思っていたが、間違いで、掲載済みは<第六節・レーニニズムとスターリニズム>だけだった。
 →2018/11/08(1490再掲)→2017/04/09(1490・日本共産党の大ウソ33)
 最初の第一節から試訳を掲載する。第六節も含める。「結章」という趣旨の言葉は使われていない。
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 結章/ロシア革命に関する省察。
 第一節・革命の原因①。
 (01) 1917年のロシア革命は一つの事件ではなく、一つの過程ですらなかった。そうではなく、多かれ少なかれ同時期に起きた、だが異なる、ある程度は矛盾する目標をもつ関係行動者たちを巻き込んだ、一続きの破壊的で暴力的な行動だった。
 ロシア革命は、ロシア社会の最も保守的な要素の反乱として始まった。その保守的要素は、王室のRasputinとの親交関係や戦争遂行の不手際にうんざりしていた。
 反乱は、保守派から、君主制が残れば革命が不可避になるという怖れから君主制に反対していたリベラル派へと、広がった。
 君主制に対する攻撃は、もともとは、広く信じられているように厭戦気分からでななく、戦争をより効果的に遂行させようという望みから、行なわれた。革命を起こすためではなく、革命を防ぐためだった。
 1917年2月、ペテログラード守備連隊が群衆市民に発砲するのを拒んだとき、将軍たちは、議会〔または準議会)の政治家たちの同意を得て、騒乱が前線にまで波及するのを阻止しようと、皇帝ニコライ二世に退位を承服させた。
 軍事的な勝利のために行なわれた退位は、ロシアが国家であることを示す殿堂全体を引き倒した。//
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 (02) 元来は社会的不満分子も急進的知識人たちもこうした出来事に重要な役割を何ら果たさなかったけれども、いずれも、今まであった帝制の権威が崩壊する最前部へと移っていた。
 1917年の春と夏、農民たちは共同体に属さない資産の奪取と自分たちへの配分を始めた。
 次に、反乱は前線の兵団へと広がり、彼らは戦利品の分け前を奪い合って脱走した。また、工業企業体の指揮権を握った労働者へと、自治の拡大を望む民族少数派へと広がった。
 各グループは、それぞれの目標を追求した。しかし、国の社会的経済的構造に対する攻撃が積み重なることによって、1917年の秋までに、ロシアにアナーキー(無政府)の状態が生まれた。//
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 (03) 1917年の諸事件が明らかにしたのは、広大な領域と強い権力があるにもかかわらず、ロシア帝国は脆弱な人為的構造物であり、支配者と被支配者を結びつける有機的紐帯によってではなく、官僚制、警察および軍隊が提供する機械的な連結関係によって一つにまとまっている、ということだった。
 ロシアの1億5000万の住民は、強い経済的利害によっても、民族的一体性(national identity)によっても、結びついていなかった。
 大部分は自然経済である国の数世紀にわたる専制的支配は、強い水平的紐帯が形成されるのを妨げた。帝国ロシアは、ほとんど布地のない縦糸だった。
 このことを、ロシアの指導的な歴史家であり政治家であるPaul Miliukov は、当時に指摘していた。
 「ロシア革命の特殊な性格を理解するためには、我々自身がロシアの歴史の全過程を通じて形成した特有の性質に、注意を向けなければならない。
 私には、これら全ての特質は一つに収斂している、と思える。
 ロシアの社会構造を他の文明諸国のそれと区分けする根本的差異は、社会を構成する諸要素の強い結合または接合の弱さまたは欠如だ。
 ロシアの社会集団の統合の欠如は、文化生活の全ての諸側面に観察することができる。政治的、社会的、心理的、そして民族的諸側面。/
 政治的観点からは、ロシアの国家制度はそれが支配している民衆一般との結合と融合を欠いていた。…
 こうした様相の帰結として、東ヨーロッパの国家制度は、不可避的に西側のそれとは異なる一定の形態を採用した。
 東側の国家には、有機的な進化の過程を経て内部から発生する時間的余裕がなかった。
 それは、外部から東ヨーロッパへともたらされたのだ。」(注1)/
 こうした要因を考慮すると、革命はつねに社会的(「階級的」)不満から生じる、というマルクス主義の考え方を支持することはできない、ということが明確になる。
 どこでもそうであるように、そのような不満は帝国ロシアにも存在した。しかし、体制の崩壊とその結果としての混乱を生み出した決定的で直接的な要因は、圧倒的に政治的なものだった。//
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 (04) 革命は不可避だったか?
 何事も全て起きるべくして起きる、と考えるのは自然だ。そして、この幼稚な信念を似非科学的な論拠でもって合理化する、そのような歴史家がいる。過去を予言すると主張するがごとくに適確に未来を予言できるならば、そのような者はいっそう確信をもつだろう。
 お馴染みの法的格言を言い換えると、心理学的には、起きたこと自体が歴史的正当化の十分の九を提供する、と語り得るかもしれない。
 E・バーク(Edmund Burke) は、フランス革命を疑問視したことで、狂人だと当時は広く見なされた。70年のちにも、Matthew Arnord によると、バークの考え方はなおも「時代遅れで、ゆえに事象によって克服される」と考えられていた。—歴史的事象に関するこのような合理性への、そのゆえに不可避性への信仰は、きわめて根深い。
 歴史的事象が壮大で重要であればあるほど、それだけ、その帰結は疑問視するのが不可能な事物の自然な秩序の一部であるように、ますます思えてくる。//
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 (05) 最も語り得ることは、ロシアでの革命の蓋然性はなかった、といよりもあった、ということだ。これにはいくつかの理由がある。
 もちろん、おそらく最も重要なのは、不可侵の権威によって支配されることに慣れていた—まさに、この不可侵性のうちに正統性の標識を見ていた—民衆から見て、帝制の威厳が着実に衰退していたことだった。
 軍事的勝利と拡張の一世紀半のち、19世紀半ばから1917年まで、ロシアは、連続する屈辱を外国によって経験してきた。自分の領域内での敗北であるクリミア戦争、トルコに対する勝利の戦果のベルリン会議での喪失、日本との戦争での大失敗、そして、第一次大戦でのドイツへの大敗。(注2) 
 このように連続して敗北すれば、どんな政府であっても評価を落とすだろう。ロシアでは、致命的だった。
 ツァーリ体制の恥辱と同時期に併せて発生したのは革命運動で、過酷な弾圧に訴えたにもかかわらず、体制は鎮圧することができなかった。
 社会と権力を分け合うという1905年の気乗り薄い譲歩によっては、ツァーリ体制は反対派の人気を博することもなく、民衆全体から見てその威厳を高めもしなかった。一般民衆は、支配者はどのようにして政府機構に関する公的議論の場で嘲弄されるがままに放っておけるのか、理解することができなかっただろう。
 T'ienming、あるいは天命(Mandate of Heaven)という孔子の原理は、その元来の意味では道理ある行動をする支配者の権威と結びついているが、ロシアでは、力強い行動に由来した。弱い支配者、「敗北者」はそれを失うのだ。
 ロシアの国家の主を道徳性や大衆性を基準にして判断することほど、誤解を招くものはないだろう。重要なのは、皇帝が味方や敵に恐怖を掻き立てることにあった。—イワン四世に似て、ニコライ二世は「畏怖すべき」との異名に値した。
 ニコライ二世は、憎悪されたためではなく、軽蔑されたがゆえに退位した。//
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 (06) 革命が起きた要因の中には、政治的構造に一度も統合されなかった、ロシアの農民層の心性(mentality)があった。
 農民たちはロシア住民の80パーセントを占めた。
 彼らは、消極的な性質で変化の邪魔者のごとく、国家の問題に関係する行動にほとんど積極的には関与しなかった。しかし、同時に現状(status quo)に対する永続的な脅威でもあり、きわめて不安定な要素だった。
 ロシアの農民は旧体制のもとで「抑圧された」と言われるのは通例のことだが、いったい誰が彼らを抑圧していたのかはさっぱり明瞭でない。
 農民たちは、革命の直前には、十分な市民的権利、法的権利を享有していた。完全にか共同体としてかのいずれかで、彼らは国の農地の10分の9と、同じ割合の家畜を所有していた。
 西ヨーロッパやアメリカの標準からすると貧しかったが、父親の世代よりは豊かで、おそらくは農奴だった可能性が高い祖父の世代よりは自由だった。
 農民たちは、仲間たちから割り当てられた分与農地を耕作しながら、アイルランド、スペインまたはイタリアの小作農民たちよりは、確実により大きな保障を享けていた。//
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 (07) ロシアの農民に関する問題は、抑圧ではなく孤立だった。
 彼らは国の政治的、経済的、文化的生活から隔絶しており、そのゆえに、ピョートル大帝がロシアの西欧化の路線を設定したとき以降の変化の影響を受けなかった。
 当時の多数の者たちは、農民層はモスクワ公国時代の文化に浸ったままだ、と観察した。
 彼らは文化的には、イギリスのアフリカ植民地の元々の住民たちがヴィクトリア朝の英国と共通性がある以上には、ロシアの支配エリートや知識人と共通性がなかった。
 ロシアの農民の大部分は、農奴に出自があった。君主制が大地主と官僚層の気紛れに任せて以降、彼らは臣民ですらなかった。
 結果として、農村の住民にとっては、解放の後でも、国家は税を徴収し兵を募るがその代わりには何もしない、異質で悪意のある実力体だった。
 農民たちは、望んだ土地を受け取るのを期待した遠く離れたツァーリに対する漠然とした傾倒を除けば、愛国心を持たず、政府への執着もなかった。
 農民たちは本能的に無政府主義的で、national な生活に統合されることはなく、急進的反対派からと同様に保守的権益層からも疎遠だった。
 彼らは、都市や髭を生やしていない男たちを見下した。Marquis de Custine は、早くも1839年に、ロシアではいずれ髭のある者による剃った者に対する反乱が起きるだろう、ということを耳にした。(注3)
 疎遠にされ、潜在的には爆発的なこの農民大衆の存在は、政府を動けなくした。政府は、農民たちは怖れるがゆえに従順だと考え、いかなる政治的譲歩も弱さと反逆だと解釈するようになった。//
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 後注
 (01) Paul Miliukov, Russia To-day and To-morrow (1922), p.8-9.
 (02) この点につき、Willoam C. Fuller, Jr., Strategy and Power in Russia, 1600-1914 (1992) を見よ。
 (03) Marquis[A. de]Custine. Russia (1984), p.455.
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 第一節①、終わり。②へと、つづく。

2599/R・パイプス1994年著第9章第九節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。最後の第九節
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 第九節・レーニンの死。
 (01) レーニンは、1924年1月21日月曜日の夕方に死んだ。
 家族や付添いの医師たち以外では、彼の最後の瞬間の唯一の目撃者は、ブハーリンだった。(*)
 一報が届くや否や、ジノヴィエフ、スターリン、カーメネフ、Kalinin は動力付雪上そりでGorki へと急いだ。指導部の残りの者たちは、列車で続いた。
 死んだ指導者のベッド脇で祈祷を行なったスターリンは、レーニンの頭を持ち上げ、自分の胸に寄せて、接吻をした。(注219)
 翌日、Dzerzhinskii は、レーニンの死に関する短い文章の原稿を書いた。GPU が大量逮捕をせざるを得なくなることがないように、「パニック」にならないよう民衆に警告するものだった。(注220)
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 (脚注*) Bukharin in Pravda, No. 17/2, 948 (1925.1.21), p.2. ブハーリンは、1937年2月に監獄からの生命を乞うスターリン宛ての手紙で、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と書いた。NYT, 1992.1.15, p.A11.
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 (02) レーニンが死んだ日、トロツキーは、保養地のSukhumi への途中で、Tiflis に着いた。
 彼はその翌日に、スターリンからの暗号電報で、それを知った。(注221)
 電信でのトロツキーの質問に対して、スターリンは、葬礼は土曜日(1月26日)に行われると知らせ、そのために戻ってくる時間はないだろう、政治局は予定通りSukhumi へ行くのが最善だと考える、と追記した。(注222)
 判明したように、葬礼は日曜日に行なわれた。
 トロツキーはのちに、自分を葬礼に出席させないよう意図的に間違った情報を与えた、とスターリンを攻撃した。
 この追及は、厳密な検討に耐えられるものではない。
 レーニンは月曜日に死に、トロツキーは火曜日の朝にその報せを受けた。
 モスクワからTiflis まで、彼は三日を要していた。
 彼がただちに帰還していれば、遅くとも金曜日にはモスクワに到着していただろう。かりに葬礼が土曜日に行なわれていても、彼は十分に出席できた。(+)
 それどころか、理由について何ら説明しなかったが、彼はスターリンの助言に従って、Sukhumi まで行った。
 レーニンの遺体が古参党員に付き添われて冬のモスクワに横たわっていたあいだ、トロツキーは、黒海の太陽を浴びていた。
 彼の不在は、大きな驚きと落胆をもって受け止められた。//
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 (脚注+) レーニンの葬儀を日曜日に延期するとの決定は、金曜日の1月25日に最初に発表された(Lenin, Khronika, XII, p.673)。したがって、土曜日に葬礼は執行されるとの電報でもって、スターリンは、トロツキーがのちに主張するように(Moia zhizn', II, p.249-250)意図的に彼を騙していた、のではなかった。
 Deutscher は、彼の英雄に好意的である特徴的な例だが、スターリンはトロツキーに葬礼は「翌日に」行なわれると知らせた、と主張する(Prophet Unarmed, p.133)。だが、スターリンの第二の電信は、葬礼は土曜日に、つまり「翌」日ではなく四日後に行なわれるだろうと述べていた。
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 (03) レーニンの遺体はどのように扱われたのか?(注223)
 これまで公にされていないが、彼の遺言で、レーニンは、ペテログラードの彼の母親の傍に埋葬されるという望みを表明していた。
 これは妻のKrupskaia も望んだことだった。
 彼女は、Pravda への手紙で、レーニン個人崇拝には強く反対していた。—記念碑も、式典も、そして暗黙にだが聖廟も、望まなかった。(注224) 
 しかし、党の支配者たちには、異なる考えがあった。
 政治局は、レーニンの死の数ヶ月前に、彼の遺体を防腐処理することを議論していた。
 この方針にとくに賛成したのは、スターリンとKalinin だった。彼らは、亡き指導者が「ロシア様式」で埋葬されるのを望んだ。
 聖人の遺体は腐敗しないという、正教に起源のある一般民衆の信仰に対応して、レーニンの肉体は永遠に展示される必要があった。
 彼らの共通の敵であるトロツキーを別として、彼らの誰も広くは知られていなかった。
 スターリンは官僚機構内の乱闘によってこの時点までに独裁的権力を獲得していたが、国内での知名度はほとんどなかった。
 死者は沈黙しているが姿は実在しているので、レーニンは、適切に保存されるならば、彼が創設した信条に正当性を与え、十月革命と後継者による支配の連続性を示すことになるだろう。
 レーニンの遺体を防腐処理して赤の広場の霊廟に展示するという決定が、ブハーリンとカーメネフの反対を遮って、採択された。//
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 (04) レーニンの遺体はDom Soiuyov の円柱ホールに横たえられていた。数万人がそれを見た。
 1月26日〔1924年〕、スターリンは弔辞を述べ、彼が神学校で学んだ宗教的抑揚を用いて、党の名のもとでレーニンの命令を実践すると「誓約」した。(注225)
 1月27日の日曜日、遺体は一時的な木製霊廟に運ばれた。(**)
 不幸なことに、春が到来する三月までに、遺体は変質し始めた。(注226)
 何がなされるべきだったか?
 葬礼の責任者だったKrasin は、再生を信じて、遺体を氷凍させることを提案した。そして、このための特別の装置がドイツから輸入された。だが、この考えは実行できないものとして中止を余儀なくされた。
 何事にも通じているのが仕事だったDzerzhinskii は、V. P. Vorobev という名のKharkov の解剖学者が生体組織の新しい保存方法を開発していたことを知った。
 指導部は長い討議のあとで、このVorobev にレーニンの防腐処理を委ねることを決めた。 
 彼が率いるグループは、不朽化(Immortalization)委員会と名付けられた。//
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 (脚注**) レーニンの脳は切除され、V. I. Lenin 研究所へと移された。そこの科学者たちは、彼の「天才性」の秘密を発見し、「人類の進化の高次の段階」を示すと証明することを任務として割り当てられていた。
 のちに、スターリンと他の若干の共産主義著名人の脳が、収集物に加わった。レーニンの心臓は、V. I. Lenin 博物館に預託された。AiF, No. 43/576 (1991.11), p.1.
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 (05) Vorobev は補助者とともに三ヶ月間、細胞と組織内の水を自分が案出した化学的流動体に変える仕事に従事した。
 この合成物は、通常の温度と湿度では気化せず、細菌や真菌類を破壊し、発酵もしない、と言われていた。 
 防腐処理は7月後半に完了し、遺体は翌8月に新しい木製霊廟に展示された。
 これは1930年に、石製の聖廟に変えられた。除幕式を行なったのはスターリンで、やがて国家後援の崇敬対象物となった
 1939年、スターリンは、22人の科学者を遺物を監視する研究室に配置した。注意深くしていても、遺物は安定したままではなかったからだ。
 外面上の腐敗や変化が進まないように、最も先進的な方法が採用された。//
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 (06) かくして、5年前には神を冒涜し、嘲弄する運動をして正教の遺物をニセモノとして晒したボルシェヴィキは、彼ら自身の神聖な遺物を創り上げた。
 くずと骨にすぎない教会の聖人たちとは違って、彼らの神は、科学の時代にふさわしく、アルコール、グリセリン、フォルマリンで成り立っていた。
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 後注
 (219) V. Bonch-Bruevich in KN, No. 1 (1925), p.186-191.
 (220) RTsKhIDNI, F. 75, op. 3, delo 287.
 (221) Text in Volkpgonov, Trotskii, II, p.42.
 (222) Trotsky, Stalin, p.381-2.
 (223) これにつき、Nina Tumarkin, Lenin Lives! (1983), Ch. 6を見よ。
 (224) Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.1.
 (225) Stakin, Sochineniia, VIm p.46-p.51. 原文は、Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.6.
 (226) 以下の叙述が基礎にしているのは、Iurii Lopukhn in Glasnost' (1991.10.18), p.6、およびTumarkin, Lenin Lives!, p.182-9.
 ——
 第九節、そして第9章全体が、終わり。

2598/R・パイプス1994年著第9章第八節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第八節・トロツキーの敗退③。
 (11) 1923年12月、トロツキーはついに党内階層から離れ、「新路線」と称されるPravda 上の論文で、自分の事案を公にした。
 彼はこの論文で、民主主義の理想に燃える若い党員層と、凝固した古参党員を対比させた。
 それが強調した結論は、「党はその諸機構に従属しなければならない」だった。(注215)
 スターリンは、こう回答した。
 「ボルシェヴィズムは、党を党諸機構に対峙させるのを受け入れることができない」。(注216)//
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 (12) トロツキーも賛成して第10回党大会〔1921年3月〕で採択された党規約によれば、今や、彼が行なっていることは、とくにグループ46と協議していることは、争う余地なく、「分派主義」だった。
 この罪責は、トロツキーの二通の手紙が—偶然にか意図的にか—公に漏出した内容によって生じた。
 1924年1月に開催された党会議には、したがって、トロツキーと「トロツキー主義」を「小ブルジョア」的逸脱と非難する十分な権利があった。(注217)//
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 (13) トロツキーの舞台は終わっていた。残りは拍子抜けするものだった。
 党多数派に対して、彼は防御しなかったからだ。1924年に彼自身がこう認めることになったように。
 「我々の誰一人として、党に逆らうのを望まないし、誰一人として正当に党に逆らうことはできない。
 結局のところ、我々の党はつねに正しいのだ。」(注218)
 1925年1月、トロツキーは戦争人民委員の辞任を強いられることになる。
 続いたのは党からの除名と追放で、後者はまず中央アジアへ、ついで国外へだった。
 そして最後には、暗殺された。
 ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンその他の黙認でもってスターリンが取り仕切ったトロツキーを排除する諸行為は、党員層の支持を受けて実行された。党員層は、利己的な策略者から党の統一を守るためにそれらは役立つと考えた。//
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 (14) 敗北者が、勝利者よりも道徳的に優れていると見なされるがゆえに、後世の人々の同情を引きつける、という事例が、歴史上には多数存在する。
 トロツキーにこのような同情を掻き集めるのは、困難だ。
 確かに、彼はスターリンやその同盟者たちよりも教養があり、知的にはより興味深く、個人的にはより勇敢で、仲間の共産党員たちとの対応はより高潔だった。
 しかし、レーニンがそうであるように、彼が持つこのような美徳は、もっぱら党内部でのみ示された。
 外部者や民主主義の拡大を追求した内部者との関係では、トロツキーはレーニンやスターリンと同一だった。
 彼は、自らを破滅させる武器を作るのを助けた。
 心から同意しつつ、レーニン独裁への反対者たちが味わったのと同じ運命に陥った。
 カデット〔立憲民主党〕、社会主義革命党(エスエル)、メンシェヴィキ、赤軍で戦おうとしなかった帝制時代の将校たち、労働者反対派、Kronstadt の海兵たち、Tambov の農民たち、〔ロシア正教〕聖職者たち、と同じ運命にだ。
 トロツキーは、自分自身が脅威にさらされたときにのみ、全体主義の危険を呼び醒まそうとした。
 党内民主主義への彼の突然の転向は、原理を擁護したのではなく、自己保身の手段だった。//
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 (15) トロツキーは、自分をジャッカルの群れに襲われた誇りある虎だと叙述するのを好んだ。
 そして、スターリンはより怪物的だと示そうとした。レーニンのボルシェヴィズムの理想的範型を救済したいロシアや外国の者たちにとっては、このイメージはより説得的だと感じられた。
 しかし、記録が示しているのは、当時のトロツキーもまた、ジャッカルの群れの中の一頭だった、ということだ。
 彼の敗北には、この点を高貴にするものは何もなかった。
 トロツキーは、政治的権力を目ざす下劣な闘争で自分の首を絞めたがゆえに、敗北した。//
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 後注
 (215) Pravda, No. 281 (1923.12.11), p.4.
 (216) I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.16.
 (217) Kommunisticheskaia Partiia Sovetskogo Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh …7th ed., I (1953), p.778-785.
 (218) Trinadtsatyi S"ezd RKP(b) (1963), p.158.
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 第八節、終わり。最後の第九節の目次上の表題は、<レーニンの死>。

2597/R・パイプス1994年著第9章第八節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第八節・トロツキーの敗退②。
 (08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
 (ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
 突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
 この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
 彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
 彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
 「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
 政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
 自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
 彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
 「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
 党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
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 (09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
 新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
 しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
 長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
 「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
 国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
 中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
 しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
 同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
 同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
 同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
 彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
 同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
 しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
 彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
 彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
 彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
 同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
 この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
 この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
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 (10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
 歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
 また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
 政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
 スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
 のちに、こう説明することになるように。
 「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
 隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
 いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
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 (脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
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 後注
 (205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
 (206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
 (207) Ibid., p.170.
 (208) Ibid., p.173.
 (209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
 (210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
 (211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
 (212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
 (213) Ibid., p.188-9.
 (214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
 ——
 ③へと、つづく。

2596/R・パイプス1994年著第9章第八節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機の試訳のつづき。第八節へ。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退①。
 (01) レーニンが舞台から退いても、スターリンはまだトロツキーに勝たなければならなかった。トロツキーは、ジョージア問題の処理についてスターリンを非難するようレーニンに指示されていた。
 トロツキーがレーニンから託された責任を回避したので、スターリンのこの責務は意外にも緩やかなものになった。
 トロツキーは、レーニンからの任務を実行しないで、ジョージア人を見棄てた。一人の秘書が電話で3月5日のレーニンの手紙を読んだとき、体調が悪いと言って、中央委員会総会でジョージア人のために発言することをそっけなく拒んだ。ほとんど動けない、と主張した。
 しかし、少しだけ躊躇してこう追加した。自分は今や完全にジョージア人反対派の側に立つようになった、と。(注190)
 そう言ってすら、トロツキーは、第12回党大会の開会を延期するとのスターリンの自己のための決定を支持した。(注191)
 彼は大会の直前に、スターリンの書記長への再任を支持する、Dzerzhinskii とOrdzhonikidze の追放に反対する、とカーメネフに保障した。(注192)
 彼は、伝統的にレーニンが行なってきた中央委員会報告を行なってほしいとの、仲間に組み込もうとしてのスターリンの提示を断わった。
 彼は、書記長であるスターリンの方が適格だと思った。 
 スターリンは穏やかに固持して、報告する栄誉はジノヴィエフに移った。彼は、レーニンの地位は望めば自分のものになると信じて、うかうかと前へと進み出た。(注193)//
 ----
 (02) トロツキーとスターリンの経歴上この重大な分岐点でのトロツキーの行動は、現代人および歴史家のいずれをも不可解にさせてきた。
 トロツキー自身は、満足できる説明をいっさい行わなかった。
 多様な解釈が示されてきた。トロツキーはスターリンを過小評価した。あるいは反対に、書記長の地位は固く揺るぎないので挑戦しても失敗すると考えた。闘って確実に党を分裂させるという意欲がなかった。(注194)
 トロツキー信奉者の何人かは、彼は政治的内紛を自分の威厳よりも重視せず、個人的な政治的策謀をする考えが全くなかった、と主張する。(注195)
 彼の伝記作家のIsaac Deutscher は、トロツキーの消極性を彼の「度量」と「英雄的性格」に起因させた。この点でDeutscher は、トロツキーは「歴史上きわめて稀な人物」だと主張する。(注196)//
 ----
 (03) トロツキーの行動は、探り出すのが困難な多数の絶望的要因によるものだったように思われる。
 彼は疑いなく、自分はレーニンの指揮権を継承する資格が最もある、と考えていた。
 だが、彼に立ち向かう険しい障害があることに十分に気づいていた。  
 彼には党指導部に支持者がなかった。指導層はスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの周りに群がっていた。
 よそよそしい個性とボルシェヴィキでなかった過去を理由として、党員のあいだで人気がなかった。
 彼を妨げたもう一つの要因—その性質からして評価し難いけれども確実に重みがあった—は、彼がユダヤ人であることだった。
 この点は、1990年に1923年10月の中央委員会総会に関する詳細が公刊されたことによって浮かび上がってきた。この総会でトロツキーは、代理職へのレーニンの提示を拒否したことに対する批判から防衛した。 
 彼は言った。ユダヤ人出自は自分には何ら意味がないが、政治的には大きな意味がある、と。
 レーニンが提示した高位の職に就くことで、自分は「この国はユダヤ人に支配されているという根拠を、敵に与える」だろう。
 レーニンはこの論拠を「ナンセンス」として却下した。だが、「彼の心の奥深くで、彼は私に同意していた」。(注197)//
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 (04) トロツキーはこのように考えて、1922-23年に大いに矛盾する行動をした。多数派から独立して行動しようと努め、同時に、致命的な「分派主義」との汚辱を避けるべく多数派に協力した。
 結局は、政治闘争に敗北したばかりか、もっと勇気のある立場をとっていたならば得ただろう道徳的敬意をも失った。//
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 (05) トロツキーの黙認によって、スターリンの破滅の舞台になる可能性があった第12回党大会は、彼の勝利で終わった。
 3月16日、スターリンは自信を滲み出して、Tiflis にいるOrdzhonîkidzeに電話して、「いろいろあったけれども」、大会はトランスコーカサス委員会の行為を承認するだろう、と伝えた。(注198) 
 彼は正しかったことが判明した。
 大会で彼は、より民主主義的な手続を40万人の党に導入すれば、党は「帝国主義の狼たち」の継続的な脅威のもとにあるときに行動することができない「おしゃべりクラブ」に変質する理由を、辛抱強く説明した。(注199)
 スターリンは、新しい人員でもって中央委員会を拡大することの有用性について、レーニンに同意した。一方で、構造の変化や人物の交替についての彼の提案は無視した。
 民族問題に関するレーニンの覚書は代議員たちには配布されたが、公表されなかった。(*)
 この問題に関する報告の中で、スターリンは、賢くも中庸の方向を歩んだ。ジョージア人反対派と緩やかな同盟を擁護するレーニンの議論を帳消しにした。一方で、無謀にも、レーニンが彼を追及した「大ロシア民族排外主義」を非難すらした。(注200)
 詳細な記録によれば、彼の組織に関する報告が終了すると、代議員たちは「大きい、長い拍手」でスターリンを讃えた。(+)
 (党大会でのレーニンの演説は、通常は「大きい拍手」とだけ書かれた。)
 トロツキーは、ソヴィエト工業の将来について報告するにとどめた。—これはこの大会での彼の唯一の登場で、たんなる「拍手」を受けた。
 スターリンは容易に、書記長の地位を再確認された。//
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 (脚注*) 1923年4月16日、Fotieva は彼女自身の責任で、民族問題に関するレーニンの小論の複写物をスターリンに送った。スターリンは、こういう仕方で「自分がかかわる」(〈vmeshivatsia〉)のをしたくないという理由で、受け取るのを拒んだ。そして、その複写物は中央委員会に送付された。
 スターリンは、その夜にFotievaから、レーニンの妹の手紙の趣旨をつぎのように引用する手紙を確保した。妹の手紙によると、レーニンはそれを公表せよとの指示を出さなかった、彼女自身も公表するにはまだ適さないと考える。
 スターリンは、Fotieva の手紙を受け取って、中央委員会に対して、レーニンのこのような重要な言明を秘密にしたままだったとしてトロツキーを責める文書を送った。その文書はこう結んでいた。
 「私は、同志レーニンの(民族問題に関する)論文はプレスで公表されるべきだ、と信じる。
 同志Fotieva の手紙によって、同志レーニンがまだ全部を見直していないので公表することはできない、と分かったのは、ただ残念なことだ。」
 公表される代わりに、レーニンの小論は「彼らの情報として」代議員たちに配布された。
 この問題の関係文書は、RTsKhIDNI, F.5, op.2, delo 34 に保管されており、IzvTsK, NO.9 (1990.9), p.153-161 に 再現されている。
 ----  
 (脚注+) Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.62. このような栄誉を受けた他の唯一の報告者は、ジノヴィエフだった(同上、p.47)。—これは、ジノヴィエフがレーニンの後継者だと予想(tout)されていた、さらなる証拠だ。
 ----
 (06) トロツキーの融和的姿勢は、彼のためにはほとんど役立たなかった。
 彼は回想録に、レーニンが無力のあいだにスターリンの仲間たちは彼を除く全ての政治局委員が関与する陰謀を行なっていた、彼らは決定を行なう前に討議し、揃って行動した、と書いている。
 任命される資格を得るために、党員は唯一の基準を充たす必要があった。すなわち、自分(トロツキー)に対する憎悪だ。(注201)
 40名で成る新しい中央委員会で、トロツキーが自分の支持者に含めることができたのは、3人にすぎなかった。(注202)//
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 (07) 情勢は自分に圧倒的に不利で、失うものは何もないと意識して、トロツキーは敵に媚びるのをやめて、反対攻勢に出た。
 彼は、ぐらついている将来を立て直すべく、党員大衆の代弁者を装った。
 固く団結する古参党員たちが自分を外部者と扱うならば、自分は外部者たちの代表者になろう。
 外部者は党員の大多数だった。1922年の調査によれば、37万6000人の党員のうち1917年以前に入党していたのは、2.7パーセントだけだった。そしてそのゆえに、古参党員には有利な資格があった。(注203)
 しかし、その2.7パーセントが党の指導機関を独占し、その機関を通じて国家の諸機構を独占していた。(**)
 トロツキーの友人たちは、トロツキーは影響力のある共産党指導者であり、その名前はレーニンと分かち難く結びついている、と言った。(注204)
 ではどうして、一般党員たちはトロツキーに味方しようとしなかったのか?
 道徳的観点から言っても、1923年10月に開始されたトロツキーの反攻は、絶望的な賭け事にすぎなかった。
 1917年10月以降、誰もがこの時期ほど党の統一の至高の重要性を強く主張したことはなかった。労働者反対派や民主主義的中央主義者がしたように党内民主主義を強く呼びかけるのを、誰もが嘲笑して拒絶した。
 党内民主主義へのトロツキーの転換は、党の運営方法に関する根本的変化が動機となったものではあり得なかった。そのような変化は起きていなかったのだから。
 変化したのは党内でのトロツキーの立ち位置だった。かつては内部者だったが、今や彼は浮浪人(outcast)になった。
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 (脚注**) Leonard Schapiro によると、1920年初頭に党の要職を占めていた者たちの圧倒的多数は、革命以前からのレーニン主義者だった。「革命後の組織上の構造は、したがってこの点で、革命前の地下組織の構造にきわめて近かった」。Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union (1960), p.236-7.
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 後注。
 (190) IzvTsK, No. 9 (1990:9), p.149; Pravda, No. 225/25, 577 (1988.8.12), p.3.
 (191) Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (192) Trotskii, Moia zhizn', II, p.224-5.
 (193) Ibid., II, p.228-9.
 (194) E.g., ibid., II, p.217-8; Deutscher, Prophet Unarmed, p.93.
 (195) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.17.
 (196) Deutscher, Prophet Unarmed, ix. 同上、p.91も見よ。
 (197) V. P. Danilov in Ekonomika i Organizatsiia Promyshlennogo Proizvodstva (EKO), No. 1/187 (1990), p.60.
 (198) RTsKhIDNI, F. 558, op.1, ed. khr. 2518.
 (199) Dvenadtsatyi S"ezd, p.181-2.
 (200) Ibid., p.479-p.495; Pipes, Formation, p.289-293.
 (201) Trotskii, Moia zhizn', II, p.241.
 (202) Deutscher, Prophet Unarmed, p.106.
 (203) I. P. Trainin, SSSR i natsional'naia problema (1924), p.27.
 (204) Trotskii, Moia zhizn', II, p.230.
 ——
 ②へと、つづく。

2595/R・パイプス1994年著第9章第七節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機第七節の試訳のつづき。
 ——
 第七節/レーニン・スターリン・トロツキー②。
 (07) 民族問題に関するレーニンの小論をスターリンが知っていたか否かは、明瞭でない。だがいずれにせよ、レーニンが自分に対する全面的な闘いを準備していることを、今や疑うことができなかった。その闘いによって、自分は全てでないとしてもほとんどの役職を失うことになりそうだった。
 (レーニンはトロツキーに対して、第12回党大会でスターリンに対する「爆弾を用意している」と打ち明けていた。)
 スターリンは、自らの政治生命を賭けて闘っていた。今はいかに権力のある地位に就いていたとしても、レーニンが個人的に戦場を掌握してしまえば、自分には可能性がない。
 スターリンの一つの望みは、レーニンが自分を引き降ろす前に、彼が完全に無能力になることだった。//
 ----
 (08) Dzerzhinskii は、二度めのジョージアでの仕事から、1923年1月に戻った。
 資料を求めるのがレーニンの要請だったが、その資料を携帯しつつ、ごまかしてスターリンに渡すという対応方策をとった。
 スターリンを見つけることが二日間はできなかった。ようやくたどり着いたとき、スターリンはFotieva にこう言った。政治局の許可があるときにのみ、レーニンが求めることに同意するすることができる。
 ついでに彼はFotieva に、「レーニンに何か余計なことを語っていないか」どうか、「レーニンは今どのようにしているのか?」と尋ねた。
 Fotieva は、レーニンに何を告げるのも拒んだ。実際、彼女はスターリンに全てを話していた。
 レーニンはのちに、彼女の面前で、背信を疑っている、と言った。(注180)
 彼は正しかった。
 自分の口述筆記は「絶対に」、「完全に秘密にする」という命令を、彼女は無視した。そして、やがて、Fotieva が得た文書資料から彼女がその内容をスターリンと若干のその他の政治局委員に決まって伝える、という慣行が出来上がった。(*)//
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 (脚注*) Volkogonov, Triumf, I/1, p.153. 褒賞として、スターリンは彼女を1930年代の粛清の対象外にした。彼女は、スターリンよりも長生きし、1975年に死んだ。
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 (09) 2月1日、政治局はようやくレーニンの要請に応じて、Dzerzhinskii が二度めの使命のときに収集した資料を、彼の秘書たちに渡した。
 レーニンは、その資料を読める状態ではなかったので、文書類を秘書団に配布し、情報の所在に関する厳密な指示を発した。
 その作業は終了すれば、ただちにレーニンに報告されることになっていた。
 スターリン、Dzerzhinskii、Ordzhonokidze に対する党大会での責任追及を行うためなので、レーニンは秘書団の作業の進展を強い関心をもって見守った。Fotieva によれば、彼のジョージア問題への関心が絶頂にあったのは1923年2月のあいだだった。(注181)
 3月3日に、報告が彼に届けられた。
 それを熟読したのち、レーニンは、ジョージア人反対派を全力で支援することに決した。
 3月5日、彼はトロツキーに民族問題に関する自分の覚書を送った。それには、中央委員会でジョージア共産党を擁護する責務を担ってほしい、とのトロツキーに対する要請が付いていた。
 「事案はスターリンとDzerzhinskii によって『処理され』ている。その客観性を、私は信頼することができない。全くの逆だ」。(注182)
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 (10) たまたま同じその日、3月5日だった。レーニンは、漏れ聞いた電話での会話についてKrupskaia に質問したところ、彼女は前年12月のスターリンとの出来事を話した。(注183)
 レーニンはただちに、スターリン宛てのつぎの手紙を口述筆記させた。
 「敬愛する同志スターリン!
 きみは厚かましく私の妻に電話して、妻を侮辱した。
 彼女はきみが言ったことを忘れる気持ちだと言ったけれども、このことは彼女を通じてジノヴィエフやカーメネフにも知られている。
 私は自分に対して行なわれたことを簡単に忘れるつもりはない。そして、言うまでもなく、私の妻に対して行われたことは全て、私自身へも向けられていた、と考える。
 この理由により、私はきみに、きみが言ったことを取り消して謝罪するか、それとも我々の関係を断絶させるのを選ぶか、いずれであるかを私に教えてくれるよう求める。」(+)
 Krupskaia はこの手紙を発送するのを止めようとしたが、無駄だった。この手紙は3月7日に、Volodichevaにより個人的にスターリンに配達された。カーメネフとジノヴィエフ宛ての複写物とともに。(注184)
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 (脚注+) Lenin, PSS ,LIV, p.329-330. レーニンは同僚たちに宛てて「敬愛する」(〈Uvazhaem yi〉)という形容詞を用いなかった。これが使われていることは、スターリンはもはや同僚ではない、ということを示唆する。
 手紙の文章からは、トロツキーがのちに主張するようには(例えば、Portrety, p.42)、レーニンがスターリンとの「全ての個人的、同志的関係を断絶」したのではなく、かりにスターリンが謝罪しなければそうするとたんに威嚇していることが、明確だ。—スターリンは謝罪した。
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 (11) スターリンは冷静にその手紙を読み、そして返事を書いた。その内容は1989年に公にされたが、まさに条件つきの謝罪だとのみ叙述できるものだった。
 彼はKrupskaia を攻撃するつもりはなかったと強調し、彼女のレーニンの健康についての責任を想起させたにすぎないと述べつつ、結論的にこう書いた。
 「あなたが『関係』の維持のためには私が先の言葉を『謝罪』すべきだと感じているなら、私は先の言葉を撤回することができる。しかしながら、いったいどうなっているのか、どこに私の誤りがあったのか、何が本当に私に求められているのか、私は理解することができない。」(**)//
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 (脚注**) IzvTsK, No. 12 (1989.12), p.193. Maria Ulianova によれば、レーニンの健康は急速に悪化していたので、彼はスターリンの「謝罪」を読む機会がなかった。同上、p.199。
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 (12) レーニンは翌日、もう一つの覚書を口述した—彼の生涯の最後の意思表明になった—。それはジョージア人反対派の指導者たちに宛てたもので、トロツキーとカーメネフ用の複写が付いていて、ジョージア問題について彼らを「心から」支持する、スターリンとDzerzhinskii の「黙認」に驚愕している、この主題に関する演説を準備している、と知らせた。(注185)//
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 (13) スターリンは、政治的破滅の見込みに直面した。
 レーニンが彼との関係の断絶を提示し、トロツキーには責任追及が依頼されているなら、スターリンが書記長にとどまり続ける可能性は、皆無に近かった。
 しかし、報せは全てが悪いものではなかった。というのは、スターリンが継続的に連絡を取り合っているレーニンの医師団は彼に、患者の健康はいっそう悪くなっていると知らせてくれたからだ。
 それでスターリンは、時間稼ぎをすることに決めた。
 3月9日、〈Pravda〉は、スターリンからの、説明なしの短い一行の発表文を掲載した。三月半ばに予定されていた次期党大会は、4月15日に延期される。(注186)//
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 (14) 賭けは実を結んだ。
 翌日(3月10日)、レーニンは大きな発作を起こし、話す能力を奪われた。10ヶ月後の彼の死まで、〈vot-vot〉(ここ・ここ)、〈s"ezd-s"ezd〉(大会・大会)のような単音節の言葉しか発することができなかった。(注187)
 レーニンに付き添っている医師団—若干のドイツからの専門家を含めて40名—は、彼はもう二度と政治に関して積極的役割を果たすことはないだろう、と結論づけた。
 5月、レーニンは永遠にGorki へと転居した。そこで、好天の日には公園の中で車椅子に座っていた。
 全ての実際的な目的に関して、彼は生きている亡骸だった。何と言われたかを理解し、文章を読めるようにも見えたけれども、彼には意思疎通の能力がなかったからだ。
 8月、Krupskaia は彼に、左手で書くことを教えようとした。しかし、結果は勇気づけるものではなく、彼女は諦めた。(注188)//
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 (15) このレーニンの生涯最後の時期、彼は失敗の感覚で圧倒されていたように見える。
 それを証拠立てているのは、彼が歴史に残した結果の全てについての、陳腐な賞賛や安心への渇望だった。
 かつては好意的であれ敵対的であれ他者の意見には注意を払わなかったレーニンが、1923年と1924年初頭には、賞賛の言葉を切望した。
 彼は明らかな喜びをもって、レーニンをマルクスになぞらえるトロツキーの論文、レーニンなくしてロシア革命は勝利しなかっただろうとのGorky の主張、そしてHenri Guilbeaux、Arthur Williams のような外国の崇拝者の賛辞を、読んでいた。(注189)/
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 後注
 (180) Lenin, PSS, XLV, p.477.
 (181) L. A. Fotieva in VIKPSS, No. 4 (1957), p.162-3.
 (182) Lenin, PSS, LIV, p.329.
 (183) Rogovin, Byla li, p.75.
 (184) IzvTsK, No. 9/308 (1990.12), p.151.
 (185) Lenin, PSS, LIV, p.330.
 (186) Pravda, No. 53 (1923.3.9), p.1; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39; IzvTsK, No. 9 (1990.9), p.152.
 (187) V. P. Osipov in KL, No. 2/23 (1927), p.236-p.247; Petrenko in Minuvshee, No. 2 (1986), p.146; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (188) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1289 &1290.
 (189) Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.279-284; Trotskii, Moia zhizn', II, p.251-2.
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 第9章第七節、終わり。

2594/R・パイプス1994年著第9章第七節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第七節へ。
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 第9章第七節/レーニン・スターリン・トロツキー①。
 (01) レーニンはその月の遅くに戻り、頭脳の明晰さが残っていた二ヶ月のあいだ、仕事が許された合間に、短い文章を口述した。それらの文章の中で、彼は、自分が病気中のソヴィエトの政策がとった方向について絶望的な気持ちを表現し、改革の道筋を構想した。
 これらの小論で顕著なのは、まとまりの悪さ、本筋から逸れる書き方、繰り返しの多さだ。これら全てが、精神状態の悪化の兆候だった。
 きわめて有害なものは、スターリンの死まで、ソヴィエト同盟で公刊されなかった。
 レーニンの小論は最初はスターリンの継承者たちによってスターリンの信用を落とすために使われ、のちの1980年代には、ミハイル・ゴルバチョフの〈perestroika〉を正当化するために用いられた。
 これらは、経済計画、協同組合、労働者農民観察局の再編成、党と国家の関係を対象にしていた。
 全てを通じて、レーニンの晩年の文章や演説は共通する主題を扱い、ロシアの文化的後進性に対する絶望の感覚で溢れていた。彼は今や、文化の程度の低劣さがロシアでの社会主義建設の主要な障害だと見なすにいたった。
 「我々はかつて、活動の中心を政治的闘争に、革命に、権力の征圧に置いたし、そうしなければならなかった。
 しかしながら、今では、中心は平和的な『文化的』作業に広がり、それへと変化している。(注174)
 レーニンは、こうした言葉によって、暗黙のうちに自らの過ちを承認していた。すなわち、30年前に、ロシアは社会主義を達成する前に文化の貧困さを認めて資本主義の学校を卒業しなければならない、とのPeter Struve の議論を「ブルジョア的」として拒絶した、という過ちを冒した、ということを。(注175)
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 (02) レーニンの晩年の文章が扱った最も重要な主題は、後継者と諸民族の問題だった。
 12月23日と26日の間に、のちに1月4日付の補遺が付くが、小さい爆発物のように、彼は口述した。それは、来る第12回党大会〔1923年〕に配布される予定の同僚たちに関する一連の彼の論評だった。—やがてレーニンの「遺書」として知られることになる。(*)
 スターリンとトロツキーの対抗関係を心配して、レーニンは、中央委員会を27名から100名ほどにまで拡大することを提案した。新入者は、農民層と労働者階級から選抜される。
 この拡大は、党と「大衆」の間の懸隔を埋め、今はスターリンがしっかり握っている党を指導する機関の権力を弱める、という二重の効果をもつことになるだろう。//
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 (脚注*) Lenin, PSS, XLV, p.343-8. Krupskaia は1924年春に、レーニンの望みに従って晩年の文書類を彼の仲間たちに渡した。カーメネフは1924年の第13回党大会の上級者会議で、この「遺書」を読んだ。スターリンはこれが代議員たちに配布されていれば自分に生じたかもしれない窮迫事態から救われた。ジノヴィエフの、過去の者は過去へ、との示唆もあった。
 Krupskaia の反対意見をめぐって、この「遺書」は代議員たちに知らせるが公刊はしない、との合意が、トロツキーも一致してなされた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/116 (1989.1.22), p.8-9.
 この文書の内容は、つぎの記事で最初に公的に知られた。Max Eastman in the New York Times 1926年1月5日付。
 レーニンが「遺書」を残したことを1925年には全く信じなかったトロツキーは(Boolshevik, No., 1925, p.68)、10年後にThe Suppressed Testament of Lenin を出版した。この書物で彼は、「遺書」が党指導者たちに読まれたとき、自分に関する論評を聞いてスターリンは、レーニンに関する彼の本当の感情を表現する「語句」を口からすべらした、と想起した。その語句は発したことのないものだった。Suppressed Testament, p.16.
 「遺書」は1956年に、ソヴィエト連邦で初めて公表された。
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 (03) レーニンはあれこれと求めたが、文書が厳格に秘匿されることに全てが関係していた。彼は、文書は自分かKrupskaia のどちらかだけが開けられるよう、封印された封筒に入れるよう命令した。
 しかしながら、12月23日に口述を筆記した秘書のM. A. Volodicheva は、自分に委ねられた重要な文書を知っていることの責任に困惑し、Fotieva に相談した。するとFotieva は、その文書を書記長に見せるよう助言した。 
 スターリンは、ブハーリンとOrdzhonikidze がいる所でその文書を読んで、彼はVolodicheva に焼却するよう命じた。彼女はそうした。Gorki にある金庫にあと四つの複写物を入れていることを明らかにしないままで。(注176)//
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 (04) Volodicheva の不謹慎さに気づくことなく、翌日にレーニンは彼女に、党の指導的人物に関するいっそう爆弾的な言葉を口述した。(注177)
 書記長になっているスターリンは、「無制限の」(neob'iat-noia)権力を蓄積した。「私は、彼がこの権力を十分に慎重に行使する仕方をつねに知っているとは、確信していない」。
 1月4日〔1923年〕、つぎの補遺がFotieva に口述された、/
 「スターリンは粗暴[grub]すぎる。そして、この欠点は我々中央の内部や我々の関係では共産党員として十分に耐え得るものだが、書記長という役職にいれば耐え難いものになる。
 私はこの理由で、同志諸君はスターリンを今の役職から外し、同志スターリンよりもただ一点の長所、すなわち忍耐力、忠誠心、丁寧さ、同志の対する気配りをもっと持ち、もっと気紛れでない等の誰かと交替させることを考えるよう提案する。」(注178)/
 レーニンはかくして、スターリンの小さな悪癖、行為と気質の欠陥だけを指摘した。加虐的冷酷さ、誇大妄想、全ての優越者への憎悪が含まれる。そして、最後まで、スターリンを理解しなかった。//
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 (05) トロツキーについては、「現在の中央委員会で最も有能な人物」だが、「あまりにも自信に陥りやすく、仕事の純粋に管理的観点にあまりにも執着している」と論評した。
 後者の点でレーニンが意味させたのは、書類仕事ではない、非合議的な指令様式による運営への耽溺だった。
 1917年十月に、権力奪取に反対したカーメネフとジノヴィエフの恥ずべき行為を思い出した。
 だが、ブハーリンとPiatakov については、条件付きで良いことを叙述できた。—前者は党の最も傑出した理論家で、党のお気に入りだ。しかしなおも全くマルクス主義者でなく、スコラ哲学ふうだ。(+)
 いったい誰が書記長にふさわしいと思っているかに関しては、何も示されなかった。だが疑いなく、スターリンは去るべきだった。
 こうした散漫な論評を読んで受ける印象は、レーニンは誰一人として自分の権威を継承する資格がない、と考えていた、ということだ。
 Fotieva はすぐさま、こうした論評をスターリンに伝えた。(注179) 
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 (脚注+) レーニンは一年前に、カーメネフを叙述する四つの形容詞を書き留めていた。「貧素なやつ((bednenkii〉)、弱い、陽気な、怯えている」。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 22300.
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 (06) レーニンはつぎに、民族問題に取りかかり、この主題について、12月30-31日に三つの覚書を口述した。
 ここで、共産党機構が少数民族に対処した態様を激しく批判した。(**)
 彼の論評の主旨は、「自治化」というスターリンの案—今は放棄されていた—は完全に時機を失しており、その目的はほとんどが帝制時代から残っているソヴィエトの官僚制が国全体を支配するのを可能にすることだ、ということだった。
 レーニンは、同化した非ロシア人であるスターリンとDzerzhinskii を、「民族排外主義」だと非難した。
 彼はスターリンについて、「純粋で本当の『社会主義的民族主義者』であるばかりか、粗雑な大ロシアDzerzhimorda でもある」と評した(Dzerzhimorda とは、Gogol の〈検察官〉に登場する警察官で、その名前は「大鼻の黙らせ屋(snout muzzler)」を意味する)。
 スターリンとDzerzhinskii は、ジョージア人に対する「この本当に大ロシア民族主義的な活動」について、個人的な責任を取るべきだ。
 レーニンは、実際的結論として、同盟は強化されるべきだが、少数民族の人民にはnational な統合と共存できる最大限の権利が与えられなければならない、と要求した。但し、彼はこうも言った。民族少数派共和国の一部の独立を企てるいかなる試みも、「党の権威によって適切に弱体化することができる」。
 これは、いかにも典型的なレーニン主義的解決だった。彼においては、民主主義の前景(facade)によって、全体主義の実質は隠されなければならない。//
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 (脚注**) つぎで最初に出版された。SV, No. 23-24/69-70 (1923.12.17), p.13-15. 後述する理由で、諸小論はソヴィエト同盟では1956年の第20回党大会まで公表されなかった。Lenin, PSS, XLV, p.356-362.
 その二年前の1954年に公刊した私の翻訳(Formation of the Soviet Union, p.273-7)は、Trotsky Archive at Harvard にあった複写物にもとづいていた。
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 後注
 (174) Lenin, PSS, XLV, p.376.
 (175) P. B. Struve, Kriticheskie zametki k vopros ob ekonomicheskom razvitii Rossii, I (1894), p.288; Richard Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), Ch. 6.
 (176) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8; Genrikh Volkov in Sovetskaia kul'tura, No. 9/6577 (1989.1.21), p.3.
 (177) Lenin, PSS, XLV, p.344-6.
 (178) Ibid., p.346.
 (179) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8-9.
 ——
 ②へと、つづく。

2593/R・パイプス1994年著第9章第六節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
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 第六節・ジョージア紛議②。
 (08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
 また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
 スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
 スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
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 (09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
 スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
 レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
 その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
 彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
 レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
 彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
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 (脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
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 (10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
 一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
 彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
 ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
 しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
 このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
 三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
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 (11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
 スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
 スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
 10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
 これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
 これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169) 
 Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
 スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
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 (12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
 しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
 彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
 スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
 書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
 レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
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 (13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
 レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
 Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
 レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
 (彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
 彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
 翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
 レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
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 (14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
 1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
 彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
 親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
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 後注
 (163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
 (164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
 (165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
 (166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
 (167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
 (168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
 (169) Pipes, Formation, p.274-5.
 (170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
 (171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
 (172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
 (173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
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 第9章第六節、終わり。

2592/R・パイプス1994年著第9章第六節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機、の試訳のつづき。第六節へ。原書、p.471〜。
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 第六節・ジョージア紛議(the controversy over Georgia)①。
 (01) レーニンのスターリンに対する敵対意識は強いものだったが、少数民族に対処するスターリンの高圧的方法によって、さらに増大した。
 レーニンは、ロシアの少数民族への適切な対応を重要視した。それはソヴィエト国家の結合にとって重要なだけではなく、植民地諸民族への影響をもちそうだったからだ。
 本質問題について、スターリンと対立してはいなかった。つまり、民族主義(nationalism)は「プロレタリアート独裁」においては「ブルジョア的」遺物だった。
 ソヴィエト国家は中央志向であり、諸決定は民族的選好を考慮することなく行われなければならなかった。
 スターリンとの違いは、方法だった。
 レーニンは、民族少数派はロシア人の過去の虐待を理由としてロシア人への不満を説明してきた、と考えた。
 彼は、制限された文化的自治をもつ連邦上の外装を認めたり、とりわけ最大限の如才なさでもって対応するといった、本質的には形式上の譲歩をすることで、この不満を緩和しようとした。
 民族的情緒を全く欠く人物を軽蔑し、大ロシア排外主義は共産主義の世界的利益にとって危険だと見ていた。//
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 (02) 奇妙な外国訛りでロシア語を話すジョージア人のスターリンは、異なって考えていた。
 彼は早くに、共産党の権力基盤は大ロシアの民衆にあると理解した。
 1922年に登録された37万6000人の党員のうち、ゆうに27万人あるいは72パーセントがロシア人だった。そして残りの党員たちのうち高い割合の者たちが、ロシア化していた。ウクライナ人党員の半分、ユダヤ人党員の三分の二。(注156)
 さらに、内戦の過程で、かつ対ポーランド戦争の間ですら、共産主義とロシア民族主義の間の微妙な融合が起きた。
 それが最も顕著に発現したのが、いわゆる「Smena Vekh」または「目印の変化」だった。これは保守的なエミグレ(国外脱出者)の中で人気を博した運動で、ソヴィエト国家をロシアの民族的偉大さを示すものと把握し、エミグレたちに帰国するよう説いた。
 第10回党大会(1921年)で、ある代議員は、ソヴィエト国家の成果は「ロシア革命に関係した者たちの心を誇りで充たし、特有の赤色ロシア愛国主義を引き起こした」、ということに気づいた。(注157)
 スターリンのような野心的政治家には、より大きい関心は、世界を転覆させることではなく、地元(home)で権力を獲得することにあった。そして、このような民族にかかわる推移は、危険ではなく好機だった。
 彼の経歴の最初から、そしてより公然と彼の独裁の年月とともに、彼は民族少数派を犠牲にする大ロシア民族主義者だと自認した。//
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 (03) 1922年までに、共産主義者は非ロシア人が住む境界諸国のほとんどを再征服していた。
 この帝国主義的拡大の決定的要因は、赤軍だった。
 しかし、本国の共産党員たちも、プロパガンダと破壊活動によって、貢献した。そして、新しい体制が樹立されると、地方の事情について発言しようとした。
 このような要求に、中央は十分な注意を払わなかった。スターリンは、民族問題人民委員と書記局長の職に就いていたが、各々のいわゆるソヴェト共和国を、帝政時代にあったのとよく似たロシアに固有の一部だと見ていた。
 その結果として生じたのは、〔中央に対する〕憤慨であり、地方の共産党員とモスクワの中央機構の間の対立だった。レーニンはこのことに、1922年遅くに注意を向けるに至った。//
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 (04) この点に関する最も暴力的な対立が、ジョージアで発生した。
 スターリンは、鎮圧したメンシェヴィキの本拠は自分の個人的な管轄区域だと見なし、ジョージアが占拠されたあとで、地方党員を越えて、ジョージア人仲間で共産党コーカサス事務局長のSergei Ordzhonikidze の助けを安直に求めた。
 トランスコーカサスの経済の統合というレーニンの指示を実行するために、Ordzhonikidze は、ソヴィエト・ロシアへと一体化する予備段階として、ジョージアをアルメニア、アゼルバイジャンとともに一つの連邦に合併させた。
 Budu Mdivani とPhlip Markharadze が率いた地方党員たちはこれに抵抗し、Ordzhonikidze の高慢な措置についてモスクワに対して不満を述べた。(注158)
 レーニンは彼らの異議に従って、トランスコーカサスの政治的および経済的統合を一時的に延期した。
 その後、1922年3月に、彼は合併を進めるよう命令した。
 そして、Ordzhonikidze は、トランスコーカサス・ソヴェト社会主義共和国連邦同盟の設立を発表した。三共和国の政府が行使していた権力のほとんどは、新しいトランスコーカサス連邦へと移管された。
 Tiflis〔ジョージアの首都—試訳者〕からの異議申立ては、レーニンには効果がなかった。彼はこのような問題について、スターリンの助言を信頼していた。//
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 (05) 1922年の夏、共産党の領域は、四つの共和国で構成されていた。
 ロシア(RSFSR, ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦)、ウクライナ、ベラルーシ、およびトランスコーカサス。
 これらの形式的関係は双務的条約で規定された。
 だが現実には、四つの共和国全てがロシア共産党によって管理された。
 今決定されたのは、これらの共和国の関係をより整理されたものにする、ということだった。
 レーニンは、連邦同盟の基本的考え方を検討する任務を、1922年8月に、スターリンを長とする委員会に委託した。(注159)
 スターリンは、驚くほどの簡潔さをもつ結論に至った。
 すなわち、三つの非ロシア人共和国は、RSFSR〔ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦〕に自治的団体として加盟する。ロシア共和国の中央国家機関が、連邦的権限を引き継ぐ。
 このような制度では、ウクライナまたはジョージアと、Iakutiia またはBashkiriia のようなRSFSR内部の自治共和国との間の国制上の区別が消滅してしまう。 
 これは、全ての重要な国家機能をロシア共和国に与えるという、きわめて中央集権的な制度編成だった。(注160)
 じつに、帝制時代の「一つで不可分のロシア」という原理を復元させるものだった。//
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 (06) これは、レーニンが想定していたものでは全くなかった。
 彼は1920年に早くも、二種のソヴェト的政体を構想していた。すなわち、大民族集団のための、形式上の主権をもつ「同盟」諸共和国と、少数派民族集団のための「自治」諸共和国。
 スターリンは、今のモスクワは行政の実際の観点から大民族と小民族を区別していないように、こう区別するのは学者的だと考えた。(注161) 
 レーニンの命令を受けて、スターリンは自分自身の考えに従って新しい国家構造を考案しようとした。//
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 (07) 「自治化」(autonomization)という観念にもとづくスターリンの提案の草稿が、同意を求めて各共和国に送られた。
 それは、敵対的に受けとめられた。
 最も不満をもったのは、ジョージア共産党だった。彼らは1922年9月15日に、スターリンの提案は「未熟」だと宣明した。(注162)
 Ordzhonikidze はこれを却下し、トランスコーカサス連邦に賛成して草稿は〔ジョージア共産党に〕同意されたと、スターリンに知らせた。
 ウクライナは判断を保留し、ベラルーシはウクライナの決定に従うと宣言して、両方に肩入れした。
 スターリンの委員会は、事実上の全員一致で、彼の案を採択した。//
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 後注
 (156) Richard Pipes, Formation of the Soviet Union, rev. ed. (1964), p.278.
 (157) V. P. Zatonskii in Desiatyi S"ezd, p.203.
 (158) Pipes, Formation, p.266-9.
 (159) Ibid., p.270; IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191.
 (160) スターリンの提案は、1964年に初めて公刊された。Lenin, PSS, XLV, p.557-8. 彼の「自治化」提案をめぐる論争に関するその他の文献資料は、つぎにある。IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191-p.218.
 (161) Lenin, Sochineniia, XXV, p.624. 
 (162) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.196.
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 ②へと、つづく。

2591/R・パイプス1994年著第9章第五節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第五節・レーニンの孤立③。
 (12) 官僚機構上の小さな敗北、そしてレーニン・トロツキー連合という妖怪。これらは三人組に警戒を促した。彼らが生き残るには、政府案件からレーニンを完全に隔絶することが必要だった。
 トロツキーが勝利した12月18日〔1922年〕、スターリンとカーメネフは中央委員会総会で、レーニンの健康と摂生に関する権限をスターリンに全権委任する決定を獲得した。
 スターリンがその秘書のLydia Fotieva に伝えたように、この決定はきわめて重要な意味をもった。その条項はつぎのとおり。
 「同志スターリンに対して、共産党員との接触と文通のいずれについても、Vladimir Ilich Lenin の隔離(isolation,〈izoliatsiiu〉)に関する個人的な責任を付与すること」。(注142、/
 スターリンの指示によると、レーニンは短い時間ごとに仕事をし、そのうちの一人はスターリンの妻のN. I. Allulieva である秘書たちに、口述筆記させることができた。
 これは驚くべき方法で、レーニンと彼の妻を精神的無能者として扱うものだった。
 レーニンはただちに、中央委員会は医師団の助言にもとづいて決定しておらず、反対に、医師団にどう語るべきかを伝えている、と疑った。(注143)//
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 (13) レーニンは、その中心にスターリンがいるとますます疑った、その計略の罠に嵌ったと感じて、助けを求めてトロツキーへと向かった。トロツキーもまた、同様の窮地にいた。
 トロツキーによると、我々にはこの彼の言葉しか手がかりがないのだが、レーニンは、ソヴナルコムの副議長の地位を受諾するようもう一度彼に要請した。—12月前半のいつかの私的な会話のことで、二人が直接に接触した最後となった。
 しかし、トロツキーが言うには、この場合はレーニンはさらに進んで、官僚機構一般に、とくに組織局に対抗する「陣営」(bloc)に彼も加わるよう求めた。
 トロツキーはこれを、スターリンに対抗する連合(coalition)を意味していると理解した。(注144)//
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 (14) 1922年12月15-16日の夜、レーニンは、二度めの発作を起こした。その後、医師団は強制的な休息と全ての政治的活動の自制を命令した。
 レーニンは、服従を拒んだ。(注145)
 彼は、完全な身体的無能力になる、また、あり得る死の危機に瀕していると感じた。そして、全てを良い状態で残すのを確実にしたいと思った。
 12月22日、話す力を失ったときは青酸カリを渡すようにFotieva に頼んだ。(注146)
 レーニンは五月に早くもスターリンに似たような頼みをしていた。これは、彼はスターリンに特別の信頼を寄せていた証拠だと、Maria Ulianova が理解する事実だ。(*)//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198. 彼女の叙述は、スターリンの命令に応えたブハーリンの依頼で書かれた。また、ブハーリンの手書き文書も残されていており、真実性にはある程度の疑問を生じさせる。Rogo vin, Byla li, p.71.
 トロツキーは、殺害される直前の1939年に、1923年2月の政治局会議での出来事を思い出した。その会議でスターリンは邪悪な目つきをして、レーニンが希望のない状態を終わらせるために自分に毒を求めた、と報告した。L. D. Trotsky, Portrety (1984), p.45-49.
 トロツキーはその生涯の最後に、レーニンは書記長〔スターリン〕が与えた毒で死んだと信じていたようだ。Houghton Library, Harvard Uni,, Trotsky Archive, bMS Russian 13 T-4636, T-4637, T-4638.
 トロツキーの主張には不誠実なところがあった。なぜなら彼は、レーニンの血液には毒素の痕跡はなかった、とする検死結果を知らせるDzerzhinskii からの電話を受ける地位にあったからだ。RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 322.
 Fotieva によると、スターリンはレーニンに決して毒を与えなかった。MN, No. 17 (1989.4), p.8.
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 (15) 12月21日、レーニンは秘書たちを信頼できなかったようで、妻のKrupskaia にトロツキーへの暖かいメモを口述した。それは、「一発の砲弾も打つことなく戦術的妙計だけでもって」外国通商の独占をめぐる闘いに彼が勝利したことを祝うものだった。
 彼はトロツキーに、攻撃を強めるよう強く迫った。(注147) 
 このメモの内容は、すみやかにスターリンに伝えられた。彼は今では、レーニンとトロツキーが自分に対抗する勢力に加わっているという疑いに確信をもった。
 彼はその翌日に、Krupskaia に電話をかけ、彼女の夫の口述ををしたのは党の権限でもって自分が決めた摂生方法に違反していると、激しく叱責した。そして、中央統制委員会の調査にかける、と彼女を脅かした。
 電話が終わったあと、Krupskaia は激怒の発作に陥り、泣きながら床を歩き回った。(注148)
 その夜〔12月22日〕、彼女が夫にこの出来事を告げる前に、レーニンはさらにもう一回、発作を起こした。 
 Krupskaia はカーメネフに対して、党員であった全期間を通じて誰もスターリンがしたようには自分に話しかけなかった、と書き送った。
 自分以上に誰が、夫の健康の世話をするのか?、彼にとって良いことを自分以上に誰が知っているのか?(注149)
 スターリンは、この手紙について知らされて、Krupskaia に電話をして詫びるのが分別ある態度だと考えた。しかし、カーメネフと相談をして、レーニンの隔離を実行すべくいっそう警戒する措置をとった。
 12月24日、政治局(ブハーリン、カーメネフ、およびスターリン)の指示に従って、医師団はレーニンに対して、口述の時間を一日に5分ないし10分に限定するよう命じた。
 彼の口述は回答を必要とする意向伝達ではなく、個人的なメモ書きだと見なされることとされた。これは、レーニンが国家の諸問題に介入したり、トロツキーに通信したりするのを禁止する、巧妙な方策だった。
 指示書には、こうある。「いかなる友人も家族も、レーニンに考察や興奮の素材を与えないように、政治生活に関してはいっさい彼に伝えてはならない」。(注150)
 かくして、健康を守るためという装いのもとで、スターリンとその仲間たちは、レーニンを事実上は家屋内監禁の状態にした。(+)
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 (脚注+) この措置には30年後に奇妙な反応があった。1952年の秋、スターリンの医師は彼が健康でないと知り、ただちに全ての仕事をやめるよう迫った。スターリンは、おそらく先例を忘れておらず、その医師の逮捕を命じた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1), p.9.
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 (16) レーニンは、その政治的習癖への高い対価を払っていた。
 20年間、彼はその同僚たちを支配してきた。だが今や、彼らは権力を味わい、自分たちが権力を握ろうと焦っていた。
 彼らは、党内につぎのようなつぶやきを流布する運動をして、静かなクー・デタに至ることを正当化した。「老人」とは連絡が取れない、彼は精神状態が正常ではない。(注151)
 トロツキーは、不誠実にも、この運動に加わった。
 1923年1月、レーニンは迫っている党大会に備えてPravda 用に論文を書いた。その中で彼は、党の分裂の可能性について懸念を述べ、これを阻止する方策を提案した。(注152)
 政治局と組織局は合同会議を開き、一般党員に衝撃を与えそうな論文の公表の是非を、長々と議論した。党員からは、指導部との不一致は語られてないなかったのだ。
 レーニンは自分の論文が掲載された〈プラウダ〉を見たいと要求していたので、V. V. Kuibyshev は、レーニンが目にする一部だけの発行を提案した、
 結局、政治局の会議には中央統制委員会(TsKK)の代表者が同席すべきだとする一節を除いて、論文は公表されると決定された。中央統制委員会は、とりわけ書記長を含む、どの「有名人たち」の影響下にもなかった。(注153)
 同時に、指導部は論文の潜在的に有害な影響を弱めるために、地方や地区の党組織に対して、秘密の回覧書を配布した。
 1月27日付のその文書は、トロツキーが起草し、スターリンを含む政治局と組織局のメンバーが手書きで署名した。そして、レーニンの体調は良くなく、政治局の会議に出席することができない、と忠告するものだった。
 このことから分かるのは、実際には党が分裂する危険性は少しもなかった、ということを、レーニンは認識していなかった、ということだ。
(注154)
 この文書の内容を知ったならば、レーニンは、ニコラス二世が退位を強いられた後で日記に書いた言葉を思い出したかもしれない。
 「あたり一面、裏切り、臆病、欺瞞ばかりだ!」。//
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 (17) トロツキーが協力した褒賞として、スターリンは彼に対して1月に、VSNKh(最高経済会議)またはGosplan(国家計画委員会)のいずれかを所管する〈zamy〉の職をもう一度提示した。
 トロツキーは、再び断わった。(注155)//
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 (18) レーニンは、追いつめられた動物のように抵抗した。
 発作の間の明晰なときに三人組がしていることを知り、それに対抗する大きな運動を準備した。
 明らかにそうできる状態ではなかったけれども、トロツキーの助けを借りて、3月に予定されている第12回党大会で、国の政治的および経済的運営の劇的な変化を貫徹しようとした。
 トロツキーは、この闘いの当然の同盟者だった。彼もまた、政治的に孤立していたからだ。
 かりにレーニンが成功していたならば、スターリンの経歴は大幅に後退していただろう。破滅しはしなかったとしても。//
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 後注
 (142) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo, list 88.
 (143) Lenin, PSS, XLV, p.485.
 (144) L. Trotsky, The Real Situation in Russia (1928), p.304-5; Moia zhizn', II, p.215-7.
 (145) Khronika, XII, p.542-3.
 (146) Maria Ulianova in IzvTsK, No. 6/317 (1991), p.190.
 (147) Lenin, PSS, LIV, p.327-8.
 (148) Ulianova in IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (149) Lenin, PSS, LIV, p.674-5.
 (150) Ibid., XLV, p.710.
 (151) Leon Trotskii in Biulleten Oppozitsii, No. 46 (1935), p.4.
 (152) Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (153) Pravda, No. 16 (1923.1.25), p.1. PSS, XLV, p.387を参照。
 (154) 初出は、IzvTsK, No. 11/298 (1989.11), p.179-180.
 (155) Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n-199n.
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 第9章第五節、終わり

2590/R・パイプス1994年著第9章第五節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
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 第五節・レーニンの孤立②。
 (07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
 彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
 誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
 彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
 彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
 これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
 スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
 彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
 そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
 討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
 スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
 スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
 社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
 彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
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 (08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
 この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
 トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
 現実は、他愛のないものだった。
 レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
 実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
 政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
 トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
 彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
 彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
 提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
 しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
 ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
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 (脚注*)
 , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
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 (09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
 二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
 しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
 いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
 9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
 これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
 ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
 レーニンの反応は、激怒だった。
 「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
 きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
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 (脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
 トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
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 (10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
 9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
 10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
 不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
 トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
 「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
 レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
 彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
 証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
 彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
 翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
 レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
 また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
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 (11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
 これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
 レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
 Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
 レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
 この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
 トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141) 
 トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
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 後注
 (132) Carr, Interregnum, p.270.
 (133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
 (134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
 (135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (136) TP, II, p.831.
 (137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
 (138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
 (139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
 (140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
 (141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
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 ③へと、つづく。

2589/R・パイプス1994年著第9章第五節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第五節へ。
 日本共産党「創立」は1922年とされている。そして同党2020年綱領も従来の綱領と同趣旨で、「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別し、後者のあとでは「スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨て」た、と明記する。レーニンの死の1924年が画期のようだ(より正確にはその死は1924年1月21日)。なお、叙述されているように、スターリンの書記長就任は1922年4月で日本共産党「創立」・コミンテルンによる承認よりも前、レーニン生前もスターリンを含む「トロイカ」体制があった。
 ——
 第五節・レーニンの孤立①。
 (01) レーニンは、自分が作った体制の結果としてロシアが単独者支配になるとは、予想していなかった。
 そのようなことは不可能だと、考えていた。
 1919年1月、メンシェヴィキの歴史家のN. Rozhkov はレーニンに手紙で独裁的権力を掌握するよう、熱心に勧めた。これに対して、レーニンは、こう書き送った。
 「こう表現するのを許してくれるなら、『個人的独裁』に関しては、全くナンセンスだ。
 党機構はすっかり巨大になった、—ある意味では過剰なほどだ。
 このような状況では、『個人的独裁』は(一般に)実現し難い」。(注123)
 実際には、党機構がどれほど巨大になったか、それがどれほどの費用を要しているのか、レーニンはほとんど知らなかった。
 彼は、党の予算は過去の九ヶ月で4000万金ルーブルを要している、という1922年2月にトロツキーがもたらした情報を信用しなかった。(*)//
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 (脚注*) RTsKhIGNI, F. 2, op. 1, delo22737. この総額は、この時期にドイツがソヴィエト・ロシアに提供した信用借款額とほとんど等しい(上掲, p.427)。
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 (02) レーニンは、別のことに悩んでいた。すなわち、党は最上層部で抗争が激しくなり、下層からの官僚主義によって弱体化する、という見通しに恐れていた。 
 彼はどちらも脅威だとは思ってこなかった。共産主義者は、自分たちの誤りを除いて、生じたこと全てを不可避で科学的に説明し得るものだと見た。この点では、きわめて主意主義的(voluntarist)になっていて、人為的誤りによる間違いを非難した。
 公平な観察者からすると、レーニンが悩み、彼の革命を危うくしている問題は、彼の体制の諸前提に内在していたように見える。
 彼らが生み出した矛盾に関するDeutscher の分析を受け入れるためには、ボルシェヴィキがもった願望についての彼のロマンティックな見方に同調する必要はない。Deutscher はこう書いた。
 「ボルシェヴィキ党の夢想によると、党は紀律をもつが内部では自由な、献身的な革命家の集団であって、権力によって腐敗するはずはない。
 自分たちはプロレタリア民主主義を遵守し、少数民族の自由を尊重する。なぜなら、これらなくして、社会主義への真の前進はあり得ないからだ。
 こうした夢想を追求して、ボルシェヴィキは、巨大な中央志向の権力機構を築き上げた。そして、この機構のために、彼らの夢想を次第に潰してきた。プロレタリア民主主義、少数民族の権利も、そしてひいては彼ら自身の自由も。
 彼らは、その理想の達成を目ざして運動するとするなら、権力なしで済ませることはできなかった。
 しかし今や、彼らの権力が自分たちの理想と対立し、それを曇らせるに至った。
 きわめて深刻な矛盾が発生した。
 また、夢にしがみつく者と権力にしがみつく者との間に、深い溝も生まれた。」(注124)/
 論理的前提と現実的結果の間の連結を、レーニンは失った。
 生涯の最後の数ヶ月、彼は、体制を守るための方策として、諸制度を再構築し、人員を再配置する以外のことを考えつかなかった。//
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 (03) 彼は、権力掌握以降に、権力は一人に、つまり彼自身に依存し、彼がソヴナルコムの議長かつ党政治局の名義なしの指導者という二つの役割を果たしてきた。だが、彼一人に依拠するこのような党と国家機関の融合を、永続的なものとして制度化することはできない、とやむなく結論づけた。
 いずれにせよ、国家機構から提出された、重要な問題と些細な問題への対応で、ほとんどが瑣末な多数の案件の事務処理で、党の政策形成機関が停滞していて、組織機構は作動しなくなっていた。
 レーニンが部分的に引退したのち、古い組織編成は改められた。
 彼は1922年3月に、全てがソヴナルコムから党政治局に持ち込まれていると不満を述べ、「ソヴナルコムと党政治局の間の連結にかかわる多くのことを自分自身が行なってきた」のだから、結果として生じている混乱の責任は自分にある、と認めた。また、「私が去らなければならないとき、二つの車輪は協調して回ることはないことが明らかになった」と述べた。(注125)//
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 (04) 1922年4月、スターリンが総書記の役職に就いたその月、レーニンは、二人の信頼できる同僚を国家機構の監視者として指名することを思いついた。
 彼は政治局に対して、二人の代理者(deputy、〈zamestiteli〉、短くは〈zamy〉)を設けることを提案した。一人はソヴナルコムを動かし、もう一人は労働国防評議会(Truda i Oborony ソヴェト、またはSTO)を動かす。(+)
 どちらの機関でも議長であるレーニンは、ソヴナルコムのために農業専門家のAlexander Tsiurupa、STOのためにRykov を、多数の人民委員部職員を監督させるために用いることを提案した。(**)
 経済運営について何の権限も与えられていなかったトロツキーは、この提案を激しく批判し、〈Zamy〉の職責はあまりに広くて無意味なほどだ、と主張した。
 トロツキーは、経済は党の介入をなくして、中心からの権威主義的方法に従わせないかぎりは、満足できない実績を生み続けるだろう、と考えていた。(注126) これは、経済の「独裁者」になりたいというトロツキーの願望を意味していると、広く解釈された。
 レーニンはトロツキーを「根本的に誤っている」と評し、間違った判断を言い募ったと責めた。(注127) //
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLV, p.152-9. この評議会はソヴナルコムの最も重要な委員会だった。主として経済問題を扱い、一種の「経済内閣」(Alex Nove, An Economic History of the USSR, 1982, p.70)を形成していた。E. B. Genkia, Perekhod sovetskogo gosudarstva k Novoi Ekonomicheskoi Politike (1954), p.362 を参照。
 この提案の背景について、T. H. Rigby, Lenin's Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), 第13章を見よ。
 (脚注**) Isaak Deutscher (The Prophet Unarmed, 1959, p.35-36) は、トロツキー文書庫を一般的に参照しつつ、1922年4月11日の政治局の会議で、レーニンはトロツキーに第三の代理者の職を提示した、と主張している。
 しかしながら、その日の政治局の会議の記録は存在しない。そして、トロツキー文書庫には、この叙述を確認できる文書はない。
 また、トロツキーが言うところのこの提示を「政治的に抹消されてしまう」との理由で拒否したことを彼は正当化した、とのDeutscher の主張を支持する何の証拠資料もない。Deutscher, ibid., p.87. さらに、Rigby, Lenin's Government, p.292-3 を見よ。
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 (05) 1922年5月25-27日、レーニンは最初の発作を起こした。これによって、彼の右腕と右脚は麻痺し、一時的に会話し執筆する能力が失われた。
 その後二ヶ月、彼は職責を免ぜられ、ほとんどの時間をGorki で休んで過ごした。
 医師たちは今では診断を脳の動脈硬化、おそらくは遺伝性のそれ、へと変更した。(レーニンの二人の姉妹と兄は同じようにして死ぬことになる。)
 強制的なこの不在の期間、彼の最も重要な職務—党政治局とソヴナルコムを主導的に運営すること—は、モスクワの党組織の長だったカーメネフに移された。
 スターリンは、書記局と組織局を主宰した。それらでの仕事として、彼は、党機構の日常的な業務をこなした。
 ジノヴィエフは、ペテログラードの党組織の長、かつコミンテルンの議長だった。
 これら三名は「トロイカ」体制、政治局を支配し、それを通じて党と国家機構を支配する指導部、を形成した。
 三人のいずれにも、トロツキーの義兄であるカーメネフにすら、彼らの共通の好敵であるトロツキーに対抗する勢力に加わる理由があった。
 彼らは、レーニンの発作の時期に休暇中だったトロツキーに、情報を提供するという手間すらとらなかった。(注128)
 彼らは、継続的にレーニンと意思疎通を行なった。
 この期間のレーニンの活動の記録(1922年5月25日から10月2日まで)が示しているのは、スターリンが最も頻繁なGorki への訪問者で、12回レーニンと逢っている、ということだ。
 ブハーリンによると、レーニンが自らの病気の最も深刻な時期に会うことを求めた唯一の中央委員会メンバーは、スターリンだった。(++)
 Maria Ulianova によると、二人の出会いはきわめて愛情のこもったものだった。  
 「V. I. レーニンは、友好的に(スターリンと)逢った。冗談を言い、笑い、私に彼をもてなすよう、ワインを出す等々を、頼んだ。
 何度もの訪問の際、私がいるところでトロツキーについて議論していた。
 その際、レーニンがスターリンの味方で、トロツキーには反対していることが明らかだった。」(注129)
 レーニンはまた、手紙を書いてしばしばスターリンに連絡した。
 彼の文書資料庫には、外交政策を含めて考えられ得るあらゆる問題について、スターリンの助言を求める多数のスターリン宛ての文書が残されている。
 彼は、スターリンの過重労働を心配して、毎週二日間は田舎で休暇をとるよう政治局はスターリンに指示するよう求めた。(注130)
 Lunacharsky からスターリンはみすぼらしい区画に住んでいることを教えられて、彼にもっとましな所が見つかるよう取り計らった。(注131)
 レーニンと他の政治局員との間には、このような親密さを示す記録はない。//
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 (脚注++) IzvTsk, No. 12/299 (1989.12), p.200, note 19. しかしながら、のちにブハーリンは、メンシェヴィキの歴史家のBoris Nicolaevsky に、自分は1922年後半に頻繁にレーニンを訪問した、そして彼と真剣に会話をした、と打ち明けた。Boris I. Nicolaevsky, Power and the Soviet Elite (1965), p.12-13.
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 (06) レーニンの同意を得て、そして自分たちで問題を決定して、三人組は政治局とソヴナルコムに、これらが当然の事として同意する決議を提出することになる。
 トロツキーは多数派とともに投票するか、保留をした。
 当時は7人の委員しかいなかった政治局での三人の協力によって、トロイカ体制は全ての案件を通過させ、政治局に支持者を一人ももたなかったトロツキーを孤立させることができた(7人とは、3人の他に、欠席中のレーニン、トロツキー、Tomskii、ブハーリンだ)。//
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 後注
 (123) RTsKhiDNI, F. 5, op. 1, d. 1315, 1.p.1-4; F. 2, op. 1, d. 8492.
 (124) Deutscher, Prophet Unarmed, p.73.
 (125) Lenin, PSS, XLV, p.113-4.
 (126) Trotsky Archive, Houghton Library, Harvard Uni., T-746 &T-747. それぞれ、1922年4月18日付と19日付。上掲、note 108.
 (127) Lenin, PSS, XLV, p.180-2.
 (128) Trotskii, Moia zhizn', II, p.207-8.
 (129) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (130) Ibid., No. 4/291 (1989), p.185.
 (131) RTsKhiDNI, F. 2, op.1, delo 24699.
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 第五節①、終わり。②へと続く。

2588/R・パイプス1994年著第9章第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
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 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
 (05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
 レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
 レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
 スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
 そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
 彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
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 (06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
 今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
 しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
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 (脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
 トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
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 (07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
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 (08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
 レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
 彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
 書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
 この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
 この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
 しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
 「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。 
 スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
 書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
 同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
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 (09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
 スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
 彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
 レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
 スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
 彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
 Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
 1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
 スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
 彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
 スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
 中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120) 
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 (10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
 トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
 レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
 スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。 
 のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
 この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
 複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
 そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
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 後注
 (110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
 (111) Ibid.
 (112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
 (113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
 (114) LS, XXIII, p.228.
 (115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
 (116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
 (117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
 (118) Pethybridge, One Steo, p.155.
 (119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
 (120) Ibid., delo 270.
 (121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
 (122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
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 第9章第四節、終わり

2587/R・パイプス1994年著第9章第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節へ。
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 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭①。
 (01) レーニンの病気の最初の兆候は、1921年の2月に現れた。その頃、彼は頭痛と不眠を訴え始めた。
 それらは、全てが肉体に起因するものではなかった。
 レーニンは、連続した屈辱的な敗北を被っていた。ヨーロッパへの革命の拡大という望みが断ち切られたポーランドでの軍事的大失敗、市場の力への屈辱的な降伏が必要になった経済破綻、など。
 身体上の兆候は、1900年に生じたものに似ていた。そのときは、社会民主主義運動が内部分裂で崩壊しそうに見えた、党の歴史上のもう一つの危機的な時期だった。(*)
 1921年夏を経て、頭痛は徐々に治まったが、レーニンは、眠れないで困っていると言い続けた。(+)
 秋には、政治局が、レーニンの仕事のし過ぎを心配し、仕事の予定を軽くするよう求めた。
 12月31日には、彼の状態をなおも心配して、政治局は6週間の休暇をとるよう命令した。書記局の許可がないかぎり、職務に復帰してはならない。(注96)
 このような命令は奇妙に思えるかもしれないが、党の最高機関から共産党員に対して、機械的に発せられていた。レーニンの主要な秘書のE. D. Stasova がS. S. Kamenev 将軍に言ったように、ボルシェヴィキ党員たちはその健康が「宝のような資産」だと見られていた。(注97)//
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 (脚注*) N. K. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine. 2nd ed. (1933), p.35. このときには、愛人のInessa Armand のコレラによる突然死(1920年12月)によっても動揺した。
 (脚注+) レーニンは、クレムリンの薬局に自分で精神安定剤(Sumnacetin とVeronal)を注文することになる。
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 (02) レーニンの体調は、改善を示さなかった。
 昔には二つの仕事をすることができたのに今はほとんど一つもできないと、こぼした。
 彼は、1922年3月のほとんどを田舎で休養して過ごした。そこで、事態の推移を詳細に辿り、第11回党大会用の演説の草稿を書いた。
 どら声になり、苛立っていた。医師たちは、問題は「極度の疲労からの神経衰弱」だと誤診した。(注98)  
 この当時、彼の習慣的な辛辣さは極端になり、異常なほどだった。エスエルや(正教会の)聖職者の逮捕、裁判、そして処刑を命じたのは、この時期だった。//
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 (03) レーニンの身体状態の悪化は、彼が出席するのが最後になる、1922年3月に開かれた第11回党大会で明らかになった。
 彼はとりとめのない二つの演説を行なった。防衛的な性格のもので、自分に同意しない全ての者の人格をやたらに攻撃した。最も親密な仲間の何人かも愚弄した。
 奇妙な動き、記憶間違い、ときに生じる発話障害を見て、何人かの医師たちは今では、より深刻な病気、すなわち進行性麻痺に罹っていると結論した。それには治療法はなく、やがては全身不随になり、死ぬ。
 最近の2月にカーメネフとスターリンへの私的な手紙で自分の病気には「客観的兆候」がないと否定していたレーニンは (注99)、この診断を受け入れたようだった。きちんとした権限の移行の準備を開始したのだから。
 この準備は彼には苦痛となる仕事だった。他の何よりも権力が好きだっただけではなく、1922年12月のいわゆる「遺書」で明確にしたように、自分の権威を継承する資格が本当にある者はいないと考えたからだった。(**)
 彼はさらに、現実政治から自分が退去すれば、仲間たちの中に破壊的な個人的抗争を解き放つことになるのではないかと懸念した。//
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 (脚注**) 1922年3月21日付のレーニンの不思議なメモがある。これは、訪問中のドイツ人専門家に、Chicherin、トロツキー、カーメネフ、スターリンその他のソヴィエト高官たちの「神経疾患」を検査させることの同意を、中央委員会に求めていた。RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, delo 22960.
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 (04) 当時は、トロツキーがレーニンの自然の相続者だと思われた。
 Radek が称した「勝利の組織者」(注100) であるトロツキー以上に、誰がレーニンの継承者たる権利を持つだろうか?
 しかし、トロツキーの立場は、実質よりも表面だった。レーニンに数多く逆らってきたのだから。
 トロツキーは、長年にわたってレーニンとその支持者たちを冷笑し、批判したあとで、十月のクーの直前にボルシェヴィキ党に加入した。
 古くからの支持者たちは、トロツキーの過去を理由として彼を決して許さなかった。1917年以降の彼の技量がどうであれ、党の内部社会からすれば外部者のままだった。
 トロツキーの主な対抗者であるジノヴィエフ、スターリン、カーメネフとは違って政治局員だったけれども、党の執行的役職に就いたことはなく、ゆえに後援する勢力はもちろん一般党員たちに支持基盤を持たなかった。
 第10回党大会(1921年)の際の中央委員会選挙で、トロツキーは第10位で、スターリンよりも、相対的には無名のViachevlav Molotov よりすらも、下位だった。(注101)
 つぎの大会で、若きアルメニアの党員、Anastas Mikoyan は、トロツキーを軽蔑して、党が地方でどのように活動しているかを知らない「軍人」だと称した。(注102)  
 トロツキーの個性も、利点ではなかった。
 彼は、傲岸さと気配りの欠如のために広く嫌われていた。自分自身が認めたように、「非社交的、個人主義的、貴族主義的」という評判があった。(注103)
 トロツキーを称賛する自伝作家すら、彼は「他人にその過ちを思い出させる、 自分の優越性を言い張って分からせようとする、そのような誘惑に、ほとんど抵抗できなかった」と認めた。(注104) 
 彼は、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者たちの合議スタイルを侮蔑して、国の軍隊の司令官のように、自分への絶対的な服従を要求し、「ボナパルティスト」的野望が語られもした。
 かくして1920年10月、Wrangel に直面した赤軍兵団の中にあった不服従の報告に怒って、彼は、つぎの文章を含む命令を発した。
 「私は、つまりは政府に任命された、人民の信任を得ている、きみたちの赤色指導者は、私自身への完全な忠誠を要求する」。
 彼の命令を疑問視する全ての企ては、即決の処刑で対処されることになっていた。(注105)
 その高圧的な管理手法は中央委員会の注意を惹くことになり、中央委員会は1919年7月に厳しく批判した。(注106)  
 1920年の労働の軍事化という彼の無謀な企ては、その判断力に疑問を生じさせただけでなく、ボナパルティズムの疑いを強めた。(注107)
 1922年3月、トロツキーは、政治局に対して声明文を送り、党は経済運営への直接の介入をやめるべきだと強く主張した。
 政治局はトロツキーの提案を拒絶し、レーニンは、トロツキーの書簡についての慣例だったように、その上に「文書庫へ」と走り書きした。しかし、トロツキーの対抗者たちは、この文書を、彼は「党の指導的役割を廃絶しようとした」証拠として利用した。(注108)
 彼は、日常的な政治に巻き込まれるのを拒み、しばしば内閣の会議やその他の行政的討議に欠席した。喧嘩を超越した政治家というポーズをとったのだ。
 「トロツキーにとって主要なのはスローガン、話し手の基盤、印象的な身振りであって、決まりきった作業ではなかった」。(注109)
 彼の行政的能力は、実際に、低いレベルのものだった。
 Harvard 大学のトロツキー文書資料庫にある文書の蓄えが示しているのは、その中にはレーニンへの多数の連絡文書もあるのだが、トロツキーには簡潔で実際的な解決策を文章化する能力がもともとないことだ。レーニンは、原則として、そうした文書にコメントしなかったし、それらに依拠して行動しもしなかった。//
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 後注
 (96) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, ed. khr. 4376.
 (97) G. A. Kamevev in Revvoensovet Respubloki (1991), 115. IzvTsK, No. 4/291 (1984.4), p.191-8.を参照。
 (98) N. Petrenko, in MInuvshee (Paris), No. 2, 1986, p.198.
 (99) RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, ed. khr. 24760.
 (100) Pravda, No. 56 (1923.3.14), p.4.
 (101) Desiatyi S"ezd, p.402.
 (102) Odinadtsatyi S"ezd, p.430.
 (103) L. Trotskii, Moia zhizn', II (1930), p.246.
 (104) Deutscher, Prophet Unarmed, p.34.
 (105) RevR, No. 3 (1922.2), p.7.
 (106) Iu. I. Korablev in REvvoensovet (1991), p.51.
 (107) RR, p.707-8.
 (108) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1164; Dvenadtsatyi S"ezd, p.817.
 (109) Volkogonov, Triumf, I/1, p.116.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2586/R・パイプス1994年著第9章第三節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
 ——
 第三節・「労働者反対派」③。
 (14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
 この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。 
 問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
 労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
 伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
 モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*) 
 Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
 「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
 我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85) 
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 (脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
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 (15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
 前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
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 (16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
 これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
 労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
 反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
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 (17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
 支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
 党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
 後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
 レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
 レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
 そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
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 (18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
 「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
 「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
 除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
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 (脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
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 (19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
 Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
 トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88) 
 これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
 反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
 決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
 「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
 なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
 分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
 労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
 Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
 1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
 このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
 敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
 第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
 モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
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 (20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
 金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
 中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
 労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
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 (21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
 レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
 彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
 そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
 意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
 今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
 1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
 スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
 Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
 これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
 Shliapnikov は、1937年に射殺された。
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 (脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
 この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
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 後注。 
 (84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
 (85) Ibid., p.361.
 (86) Ibid., p.571-6, p.769.
 (87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
 (88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
 (89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
 (90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
 (91)  Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
 (92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
 (93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
 (94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
 (95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
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 第三節、終わり

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
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 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
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 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
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 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
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 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
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 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
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 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
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 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
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 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
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 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
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 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
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 ③へと、つづく。

2584/R・パイプス1994年著第9章第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第三節へ。
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 第三節・「労働者反対派」①。
 (01) 1920年夏、共産党は反対派(heresy)によって揺さぶられた。その反対派を党支配層は「労働者反対派」(Workers' Opposition)と名付けた。
 これは、ボルシェヴィキの工業労働者の不満を反映していた。知識人たちが国を支配しているという不満、より明確には工業の官僚主義化と、それと同時に生じている、労働組合の権限と自立性の縮小、に対する不満を内容としていた。
 報道担当者は古くからの共産主義者だったけれども、この運動は、党に所属したりメンシェヴィキに傾斜したりもしていない労働者の多数派の気分をも表現していた。
 主要な支持基盤は、労働者反対派が〈gubkom〉を握ったSamara、ドンバス地域、ウラルだった。
 大きな影響力をもったのは、冶金、鉱業、織物工業だった。(注64)
 長のAlexander Shliapnokov は、国で最強の労働組合で伝統的にボルシェヴィキにはきわめて友好的な、金属労働者の組合を動かしていた。
 労働者を基盤とする上級のボルシェヴィキ活動家で、第一次大戦中にShliapnokov は、ペテログラードの地下活動を指揮し、1917年十月に労働人民委員部を掌握した。
 彼の愛人のAlexandra Kollontai は、この運動の最も明瞭な理論家だった。
 労働者反対派とともに、「民主主義的中央派」として知られる第二の反対派が出現した。
 著名な共産主義知識人で構成されていて、党の官僚主義化と「ブルジョア専門家」の工業界への採用に反対した。
 これの支持者たちは、ソヴェトがもっと権力をもつことを望み、経済運営での主要な役割を要求する労働組合には反対した。
 指導者の一人で、やはり労働者出身の古くからのボルシェヴィキであるT. V. Sapronov には、党大会でレーニンを「無学」(〈nevezhda〉)で「独裁的」だと呼ぶ向こうみずさがあった。(*) 
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 (脚注*) 記録が印象に残って、この形容句はスターリンが1924年に初めて公にした。Stalin, Ob oppozitsii (1928), p.73.
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 (02) 労働者反対派は、熱烈なボルシェヴィキだった。
 彼らは、党の独裁、労働組合での党の「指導的役割」を承認していた。
 「ブルジョア的」自由の廃棄や諸政党に対する抑圧にも、同意した。
 農民層への党の対応には何も間違いはない、と考えていた。
 1921年のKronstadt 暴乱のときには、彼らは、暴乱鎮圧のために形成された赤軍軍団に最初に自発的に加わった。
 Shliapnokov の言葉によると、レーニンとの違いは目標にではなく、手段にあった。
 彼らは、新しい官僚機構に組み入れられている知識人層が国の支配階級である労働者を遠ざけているのは受け入れ難い、と感じた。
 なぜなら、国の「労働者」政府はじつに一人の労働者も権限ある地位につけていない。指導的役人たちのほとんどは、工場や農場で働いたことがないばかりか、しっかりした仕事に就いたことがない。(注65) //
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 (03) レーニンは、この異論をきわめて深刻に受け取った。彼は「労働者の自発性」を無視するつもりはなかった。それはボルシェヴィキ党の創立以来つねに闘ってきたものだったが。
 彼は、労働者反対派はメンシェヴィズムとサンディカリズムの一種だと非難して、すみやかにそれを粉砕した。
 しかし、そのために、共産党内に残っていた民主主義の要素を最終的に破壊する手段を用いた。
 レーニンは、労働者の望みを無視しつつボルシェヴィキ独裁制は労働者の政府だというフィクションを維持する一方で、本来の支持者からすら政府を確実に離反させた。//
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 (04) 労働者反対派は、第9回党大会(1920年3月)で出現した。それは、工業に単独者経営を導入するというモスクワの決定に関係していた。
 それまでは、ソヴィエト・ロシアの国有化された企業は、委員会によって運営されていた。その委員会には、技術的専門家や党職員と並んで、労働組合と工場委員会の代表も加わっていた。
 このような仕組みは非効率であることが分かり、工業生産の崩壊の原因だと批判された。
 党指導部はすでに1918年に、単独者による経営への移行を決定していた。だが、労働者側の抵抗があったため、その実施は困難だった。
 内戦が終わった今や、第9回党大会は、「上から下まで、所定の仕事については所定の人間が責任を負うという、頻繁に語られた明確な原理」を実施することを決議した。「審議や決定の過程である程度の位置を占める〈合議制〉は、執行の過程では無条件に〈個人主義(独任制)〉に道を譲らなければならない」。(注66)
 この決議を予期して、ソヴィエト労働組合中央評議会は、1920年1月に、単独者管理に反対することを票決していた。
 レーニンは、この要求を考慮しなかった。 
 同様に、ドンバスの労働者たちの意向も無視した。彼らの代議員たちは、20対3で、工業の運営での合議制を維持することに賛成票決をしていた。(注67)
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 (05) 1920年と1921年に全国的に導入された新しい制度のもとで、労働組合と工場委員会はもはや決定には参画せず、職業的経営者が下した決定の執行にのみかかわった。
 レーニンは、労働組合が経営に干渉することを禁止する決議を、第9回党大会に採択させた。
 彼は、このような推移をつぎのような論拠で正当化した。搾取階級を排除した共産主義のもとでは、労働組合は労働者の利益をもはや守る必要がない。それは政府によって行なわれるからだ。
 労働組合の固有の役割は、生産を改善し、労働紀律を維持して、政府の代理者として行動することにあった。
 「プロレタリアート独裁のもとでは、労働組合は資本家という支配階級に対する労働の売り手の闘争のための組織から、支配する労働者階級の道具へと変容したのだ。
 労働組合の任務は主として、組織化と教育の領域にある。
 これらの任務を労働組合は、自己完結的な、組織的に離れた勢力としてではなく、共産党に導かれるソヴィエト国家の道具として、履行しなければならない。」(注68)
 換言すれば、ソヴィエトの労働組合は、これ以来、労働者ではなく、政府を代表すべきものになった。
 トロツキーはこのような見方に賛成し、「労働者国家」では労働組合は雇用主を敵と見る習癖から脱して、党の指導のもとで生産性を高める要因に変質しなければならない、と論じた。(注69)
 労働組合の役割に関するこのような見方が現実に意味したのは、労働組合の役員は組合員によって選出されるのではなく、党が指名した、ということだった。
 ロシアの歴史過程でしばしば生じたように、自分たちの利益を守るためにある社会集団が設立した組織は、国家によってその国家自体の目的のために奪い取られた。//
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 後注。
 (64) Shliapnikov to Lenin, 1921.8.21, RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 24625.
 (65) Rigby, Lenins' government, p.149-p.156.
 (66) Deviatyi S"ezd Rkp(b): Protokoly (1960), p.411.
 (67) Ibid., p.177.
 (68) Ibid., p.417.
 (69) Desiatyi S"ezd, p.813-5.
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 ②へと、つづく。
 

2583/R・パイプス1994年著第9章第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第二節へ。
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 第二節・国家の官僚主義化
 (01) 党官僚制について、多くのことを書いた。
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 (02) 国家官僚機構も、より目ざましい早さで膨張した。
 国全体のソヴェト組織は、ボルシェヴィキの政策で有していたわずかの影響力も急速に失い、1919-20年までに、人民委員会議とその支部から伝えられる党の決定にゴム・スタンプを捺すだけの機関に変質した。
 ソヴェトの「選挙」は、党に選抜された者たちを承認する儀式となった。適格さを考えて投票する者は4人に一人もいなかった。(注44)
 ソヴェトは、国家官僚機構に権能を奪い取られた。その背後には、全能の党があった。
 1920年、ソヴェトが公開で討論することが許された最後の年、官僚主義の蔓延に関する不満が語られるのは、ふつうのことだった。(注45)
 1920年2月に労働者農民調査局(Rabkrin)が、国家機構による濫用を監視するために、スターリンを長として設置された。
 しかし、二年後にレーニンが認めたように、この機関は期待に応えなかった。(注46)//
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 (03) 政府官僚機構の膨張は、まずはとりわけ、1917年十月以前は私人の手中にあった諸装置の運営を政府が行なうようになった、ということで説明され得る。 
 金融や産業に私企業が関与するのを排除することで、またzemsivoや市議会を廃止することで、さらに全ての私的団体を解散させることで、政府は、代わりに、それに応じた役人層の膨張が必要となる諸活動について責任を担うようになった。
 一例で十分だろう。
 革命前の国民の諸学校は一部は公教育省によって、一部は正教会や私的団体によって監督された。
 1918年に政府が全ての学校を啓蒙人民委員部のもとに国有化したとき、従前は非政府系の学校に職責があった書記的または私的な人員を埋め合わせる職員を作り出さなければならなかった。
 やがて、啓蒙人民委員部は、従来はほとんど全く私人に任せられていた田舎の文化生活の指導や検閲についても責任を担わされた。
 その帰結として、1919年5月に早くも、有給の3000人の職員がいた。—これは、対応する帝制時代の省の職員数の10倍だった。(注47) //
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 (04) しかし、行政上の責務の増大は、ソヴィエト官僚機構の膨張の唯一の理由ではなかった。
 公務に従事する最も下の階梯にいる被雇用者にすら、ソヴィエト生活の過酷な条件のもとで生き残るための貴重な有利さがあった。ふつうの市民では利用できない物品を使え、賄賂や心づけを受けとる機会があるのはもちろんのこととして。//
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 (05) 結果は、大量の水増し要求だった。
 ホワイト・カラーの業務は、生産が落ち込んでいたときでも、ソヴィエト経済を指揮する多様な機構で膨らんだ。
 ロシアの工業界で雇用される労働者の数は1913年の85万6000から1918年には80万7000へと下がった一方で、ホワイト・カラー被雇用者の数は5万8000から7万8000へと増えた。
 かくして、共産党体制の最初の年にすでに、産業労働者のうちホワイト・カラーのブルー・カラーに対する割合は、1913年に比べて三分の一増えていた。(注48)
 その次の三年間には、この割合はもっと劇的に高くなった。1913年には100人の工場労働者に対して6.2人のホワイト・カラー被雇用者がいたが、1921年の夏には、この割合は15パーセントに上がった。(注49)
 運輸の部門では、鉄道輸送は80パーセント減退し、労働者の数は変わらないままだったが、官僚機構の人員は75パーセント増加した。
 1913年に鉄道路線の一キロ(一マイルの8分の5)に対してホワイト・カラーとブルー・カラーともに12.8人の被雇用者がいたが、1921年には、同じ仕事を20.7人で行なうよう要求された。(注50)
 1922-23年に実施されたKursk 地方のある農村地区の調査によると、帝制時代に16人の被雇用人がいた地方的農業部門には、今では79人がいた。—これは、食料生産が落ちていた時期のことだった。
 同じ地区の警察官署は、革命前と比較して、二倍の人員を有していた。(注51) 
 最も凄まじかったたのは、経済運営を所掌する官僚機構の膨張だった。1921年春、国家経済最高会議(VSNKh)は22万4305人の職員を雇用しており、そのうち2万4728人はモスクワで、9万3593人はその地方機関で、10万5984人は地区(〈uezdy〉)で勤務した。—これは、職責のある工業生産性が1913年のそれよりも5分の1低くなっていた頃のことだ。(注52) 
 1920年、レーニンが驚きかつ憤慨したことには、モスクワは23万1000人の常勤職員を雇っており、ペテログラードでは18万5000人だった。(注53)
 全体としては、1917年と1921年半ばの間に、政府職員の数は、5倍近く、57万6000から240万へと増加した。
 その頃までに、ロシアには労働者数の二倍の官僚たちがいた。(注54)//
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 (06) 役人の需要が増大し、かつその自分たちの働き手の教育レベルが低いとすると、新体制は、多数の帝制時代の元職員、とくに省庁を運営する能力のある人員を雇う以外には選択の余地はなかった。
 以下の表は、人民委員部での1918年時点でのそのような職員の割合を示している。(注55)
  ****
  内務人民委員部/48.3%。
  国家経済最高会議/50.3%。
  戦争人民委員部/55.2%。
  国家統制人民委員部/80.9%。
  運輸人民委員部/88.1%。
  財務人民委員部/97.5%。
  ****
 「示されているのは、人民委員部の中央官署の職員の半数以上、そしておそらく上層の管理的職員の90パーセントが、1917年十月以前に何らかの行政的地位に就いていた、ということだ」。(注56) 
 チェカだけは19.1パーセントが元帝制時代の職員であり、外務人民委員部では22.9パーセントがそうだった(この二つは1918年の数字)。これらでは、主として新しい人員が配置された。(注57)
 このような証拠資料を根拠にして、ある西側の研究者は、ボルシェヴィキにより最初の5年間になされた政府職員の変化は「おそらく『猟官制度』(spoils system)が全盛のワシントンで起きたことと同様だと見なせるだろう」という驚くべき結論に到達した。(注58)//
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 (07) 新しい官僚制度は、帝制時代をモデルにしていた。
 1917年以前のように、役人たちは、敵対的だと見なしたnation ではなく、国家に奉仕した。
 アナキストのAlexabder Berkman は1920年にロシアを訪問して、新体制のもとでの典型的な政府官署をこう描写した。
 「(ウクライナの)ソヴィエト機関は、モスクワ型のよくある光景を示している。疲れきった人々の集まり。空腹で、無感動に見える。
 特徴的で、悲しい。
 廊下や事務室は、あれこれの行為やその免除の許可を求めている申請者で混み合っている。
 新しい布令の迷路は、とても難解だ。役人は困惑する問題を解消する安易な方法を好んで選び取る。彼らの『良心』にもとづく『革命的方法』を。そしてふつうは、申請者の不満となる。/
 長い列が、どこにでもある。そして、どの事務室にも多数いるハイ・ヒール靴を履いた〈baryshni〉(若い女性)による『用紙』や文書の書き込みや処理。
 彼らは煙草をふかし、ソヴィエトの存在の象徴である、配られるpaek (手当)の量で推測する、一定の官署の有利さを熱心に議論している。
 頭がむき出しの労働者や農民が、長い台に近づく。
 丁重に、卑屈にすら、彼らは情報を求め、衣類についての『指示』や長靴用の『切符』を嘆願している。
 『分からない』、『隣の事務室で』、『明日来い』は、いつもの回答だ。
 抗議や愁嘆があり、注意や指導を乞い求める姿もある。」(注59)//
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 (08) 帝制時代のように、ソヴィエトの役人制度は精巧に階層化されていた。
 1919年3月、当局は公務を27の範疇に分け、各々を細かく定義した。
 俸給の違いは、比較的大きくなかった。かくして、若いドアマンや掃除人のような最下級の被雇用者は、毎月600(旧)ルーブルを受け取り、第27等級の者たち(人民委員部の部局の長など)には、2200ルーブルが支払われた。(注60)
 しかし、基本給与は大して重要ではなかった。ハイパー・インフレがあったからだ。
 意味のある俸給は、臨時収入だった。その中で、食料配給が最も重要だった。
 かくして、レーニンは1920年、その給与月額である6500ルーブルでは生きていけなかった。その額では、ふつうの市民が利用できる唯一の場所である闇市場で、30本のキュウリが買えただろう。(注61)
 Paek に加えて、最下級の役人たちにすら、賄賂という手段で基本給を補充する方法があった。賄賂は、厳しい法律に違反していたにもかかわらず、さかんに行われていた。(注62)//
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 (09) レーニンは、ソヴィエトの国家組織の不満足な状態の原因を、それが雇用している元帝制時代の官僚層に求めようとした。そして、こう書いた。
 「外務人民委員部を例外として、我々の国家機構には、そのほとんどに古い機構が残存しており、わずかの変化すら認められない。
 少しばかり最頂部が飾られているだけだ。他の部分は、我々の古い国家機構のうちの最も典型的に古いものだ。」(注63)
 しかし、この主題に関するとりとめのない混乱した言及が示しているように、レーニンは、何が間違っていてなぜそうなのかについて、全く何も理解していなかった。
 官僚制度の規模は、彼の政府がしようとしていることによって決定される。それが腐敗しているのは、民衆による統制から自由だからだった。
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 後注
 (44) Pethybridge, One Step, p.158.
 (45) V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, Pt. 2 (1929), p.57, p.68, p.97-p.100.
 (46) Pethybridge, One Step, p.161-8; Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (47) Sheila Fitzpatrick, The Commissariat of Enlightenment (1970), p.24.
 (48) L. N. Kritsman, Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii (1926), p.197.
 (49) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii kiass, 1918-1920 gg. (1974), p.122.
 (50) Gimpelson, Ibid., p.81; Kritsman, Geroicheskii period, p.198.
 (51) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.121.
 (52) V. P. Diachenko, Istoriia finansov SSSR (1978), p.87.
 (53) SV, No. 1 (1921.1.1), p.1. Cf. Alfons Goldschmidt, Die Wirtschaftsorganisation Sowjet-Russlands (1920), p.141; Lenin, PSS, LII, p.65.
 (54) Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obshchestva: Oktiabr' 1917-1920 (1976), p.268; Kritsman, Geroicheskii period, p.198; EZh, No. 101 (1922.5.9), p.2.
 (55) M. P. Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva v pervye gody sovetskoi vlasti: Sbornik Statei (1973), p.54.
 (56) T. H. Rigby, Lenins' Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), p.62.
 (57) Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva, p.55.
 (58) Rigby, Lenins' Government, p.51.
 (59) Berkman, Bolshevik Myth, p.219-220.
 (60) Dewar, Labour Policy, p.179-180.
 (61) Alfons Goldschmidt, Moskau 1920 (1920), p.62, p.88.
 (62) SUiR, 1917-18, NO. 35 (1918.5.18), Decree No. 467, p.436-7.
 (63) Lenin, PSS, XLV, p.383.
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 第二節、終わり

2582/R・パイプス1994年著第9章第一節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第一節・共産党の官僚主義化③。
 (15) いつの間にか、新しい支配者たちは、古い支配者たちの習慣にのめり込んでいた。
 Adolf Loffe はトロツキーに対して、腐敗の蔓延について不満を述べた。
 「頂上から底まで、そして底から頂上まで、どこでも同じだ。
 最下級のレベルでは、一足の靴か兵士のシャツ[gimnasterka]。
 上になると、自動車、鉄道車両、ソヴナルコムの食堂、クレムリンや『国営』ホテルの部屋。
 そしてこれらを全て利用できる最高の段階では、威厳であり、傑出した地位であり、名声だ。」(注32)
 Loffe によると、「指導者たちは何でもすることができる」と考えることが心理的に受容されるようになっていた。
 民衆の奉仕者のこのような貴族的習慣のどれ一つとして、マルクス主義は何の関係もなかった。だが、ロシアの政治的伝統とは大きな関係があった。//
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 (16) 新体制のもとでの地方の行政官の鍵は、広くgubkomy として知られた、地方の(〈guberniia〉)党委員会の長だった。
 ピョートル大帝以来、guberniia はロシアの基礎的な行政単位で、その長である知事は、広汎な執行と警察の権力を持ち、帝国の権威を代表していた。
 ボルシェヴィキ体制は、この伝統に従った。つまり、gubkomy の書記局長が、事実上、帝制時代の知事の継承者になった。
 ゆえに、この長を任命する権限は、相当の恩寵の淵源だった。
 革命前には、ツァーリが内務大臣の推薦にもとづいて知事を任命していた。
 今では、レーニンが、組織局と書記局の推薦にもとづいて知事を任命した。
 1920年に設置された書記局内のUcharaspred(Uchetno-Raspredetil'nyi Otdel)と呼ばれる特別部署が、党人員を選抜し、配転させた。
 1921年12月、gobkom 長に任命されるためには1917年10月以前に入党していなければならない、と定められた。
 地区(〈uezd〉)の党委員会(〈ukomy〉)の書記局長は、最少限度3年間の党員履歴をもっていなければならなかった。
 このような任命は全て、より上級の党機関によって承認される必要があった。(注33)
 これらの条項は、紀律と正統性を守るのを助けたかもしれない。しかし、党の細胞から自分たち自身の職員を選出する権利を剥奪する、という対価を払ってのことだった。
 当時はほとんど気づかれなかったけれども、これらの条項は、中央機関の権力を巨大なものにした。「組織局または書記局がもつ承認する権利は…、実際には、『推薦』や『指名』をする権利と同一になった」。(注34)
 これら全てのことは、スターリンが1922年4月に書記長の職を掌握する以前に、起きていたことだった。//
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 (17) こうした実務の結果として、地方での党の要職の任命は、ますます党員によってではなく、「中央」によって行われるようになった。
 1922年のあいだに、37人の〈gubkom〉長が解任されるか配転され、42人が「推薦」にもとづき任命された。(*)
 今や、帝制時代のように、忠誠心が、任用されるための最高の資格だった。中央委員会が配った回状「同志の党への忠誠について」では、これが役職に就くための第一の規準として挙げられていた。(注35)
 1922年に、書記局と組織局は1万件以上の任用を行なった。(注36) 
 政治局は多くの仕事に忙殺されていたので、任用の多くは、書記長と組織局の裁量でなされた。
 調査団がしばしば地方に派遣され、〈gubkomy〉の 実績について報告した。—帝制ロシアでの「是正」の模倣だった。
 1921年3月の第10回大会で、〈gubkom〉長は三ヶ月毎にモスクワに来て、書記局に報告すべきものとされた。(注37) 
 書記局で仕事をしていたViacheslav Molotov は、彼らに任せれば〈gubkomy〉はほとんど自分たちの地方的案件にかかわり、national な党の問題を無視する、という論拠でもって、このような実務を正当化した。(注38)
 こうして実際に、〈gubkomy〉は「モスクワの指令の運び手」に変わった。(注39)//
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 (脚注*) Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed. (1963), p.633, note 10.
 1923年にE. A. Preobrazhenskii は、〈gubkom〉長の30パーセントは中央委員会によって「推薦」された、と語った。これを彼は「国家内部の国家だ」と称した。(Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), 1968,p.146.)
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 (18) 書記局は、名目上は党の最高機関である党大会の代議員を選抜するという、追加の権限も獲得した。
 1923年までに、代議員は〈gubkom〉長の推薦にもとづいて任命された。その〈gubkom〉長自身が、相当程度に書記局に任命された者たちだった。(注40)
 この権限があることによって、書記局は、一般党員の反対を封じることができた。
 かくして、いわゆる「労働者反対派」や「民主主義的中央派」が中央委員会を追及する辛辣な討論を行なった第10回党大会(1921年)で、代議員たちの85パーセントは、反対派を非難する中央委員会を支持した。利用できる証拠資料によって判断するならば、党員全体の気分をほとんど反映していない票決だった。(注41)
 二年後の第12回党大会では、反対派は無力な辺縁部にまで減った。
 その次の大会〔1924年〕では、もはや、反対それ自体が存在しなかった。//
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 (19) かくして、共産党職員階層の中に、貴族制度が出現した。
 権力奪取後5年後に採用された実務は、体制の初期からははるかに遠ざかっていた。当時は、党は党員たちに対して、平均的労働者よりも安い俸給を受け取れ、生活区画は一人あたり一部屋に限定せよ、と強く言っていたのだった。(注42)
 これはまた、工場に雇用される共産党員に特権を与えず、むしろより重い義務を課す、という決まり事を捨て去ることも、意味していた。(注43) 
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 後注
 (32) Volkogonov, Trotskii, I, p.379-p.380.
 (33) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.277n-278n: Odinadtsatyi S"ezd, p.555.
 (34) Carr, Interregnum, p.278n.
 (35) Pravda, NO. 64 (1921.3.25), p.1.
 (36) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.182.
 (37) Kommunisticheskaia Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh, I (1953), p.576.
 (38) Odinadtsatyi S"ezd, p.156-7.
 (39) Roger Pethybridge, One Step Backwards, Two Sieps Forward (1990), p.154.
 (40) Aleksandrov, Kto upravliaet, p.22-23.
 (41) Desiatyi S"ezd, p.137.
 (42) M. Dewar, Labour Policy in the USSR, 1917-1928 (1956), p.162-3.
 (43) Desiatyi S"ezd, p.881.
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 ③、終わり。第一節も、終わり。

2581/R・パイプス1994年著第9章第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第一節・共産党の官僚主義化②。
 (09) 1920年にすでに、組織局が地方の党職員を指名することは一般的だった。彼らが運営すべく選出される、その地方党組織に諮ることのないままで。(注15) これは〈naznachenstvo〉、「任命制」と称されるようになった。
 数世紀にわたって官僚の支配と上からの指令の雨に慣れてきた国では、このような成り行きは正常に見え、これに対する反対は少なく、あっても影響力がなかった。//
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 (10) 理想主義的な理由で入党した共産主義者は疑いなくいたけれども、大多数の者は、党員であることによって得られる有利さのために入党した。
 党員たちは、19世紀には郷紳(〈dvorianstvo〉)の地位と結びついていた特権、すなわち政府の執行的(「責任ある」)地位に就けるという保障を享受した。
 トロツキーは彼らをダイコンと呼んだ(外側は赤く、内側は白い)。 
 共産党の階層で十分に高い者たちは、現金の手当のほかに食料配給の追加を受け、専門店舗を利用した。
 彼らは、逮捕や訴追から事実上は免れていた。これは無法のソヴィエト社会では決して小さな特権ではなかった。
 ソヴィエト政府は、帝制時代の実務を凌ごうとして、1918年に早くも、党職員は職務の遂行として行なった行動については訴追されない、という原則を打ち立てた。(注16)
 帝制時代には、直接の上司との意見不一致という理由だけで役人は裁判に付されることがあり得た。これに対して、共産党の役人は、「党で占めている等級に対応する党組織が知り、承認したうえでのみ」逮捕され得た。(注17) 
 レーニンは、このような実務に熱心に反対し、共産党員が間違った行動をしたならば他者よりも厳しく罰せられるべきだ、と主張した。だが、慣習を変えるには、彼は無力だった。(注18) 
 支配の最初から、法を超越する共産党の地位は、その党員たちへも移し換えられた。//
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 (11) 法的免責と結びついたこのような権力は、不可避的にその濫用を生じさせた。
 第8回党大会(1919年)が始まると、党職員の汚職や彼らの民衆からの離反に関する不満が語られた。(注19)
 共産党のプレスの紙面は、党職員が清廉という最も基礎的な規範を破っているという記事で埋められた。
 いくつかから判断すると、共産党幹部たちは、18世紀の奴隷所有者のごとく振る舞っていた。
 かくして、1919年1月、共産党のAstrakhan 機関は、Kliment Voroshilov の訪問に関して報告した。この人物はスターリンの戦友で、Tsaritsyn の第1十軍の司令官だった。 
 Voroshilov は豪奢な〈shesterka〉、6頭の馬に牽引された馬車で現れた。随行員たちの10台の馬車、トランク、樽その他の物品を高く積み上げた50ほどの荷車が、続いた。
 このような突然事には、地方の住民は訪問する賓客に対して全ての態様の人的サービスを行なうことが要求され、拒否すれば拳銃で威嚇された。(注20)//
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 (12) このような不面目な振舞いを終わらせるべく、党は1921年に、遅くと1922年早くに、粛清(purge)を実施した。
 表向きは内戦中の緩やかな受入れ手続で入党した出世主義者に向けられていたが、本当の攻撃対象は、他の社会主義政党、とくにメンシェヴィキから移ってきた者たちだった。レーニンは、共産党の隊列の中に民主主義思想その他の異端思想を注入しているとして、メンシェヴィキを非難していた。(注21)
 多くの者が除名された。
 そして、とくに不機嫌になった労働者たちなどに自発的に離党した者があって、党員数は、65万9000から50万に下がった。そしてさらに、40万人以下になった。(*) 
 このときに、「党員候補」の指名が制度化された。彼らは、入党資格を得る前に見習い期間を経験しなければならなかった。
 つぎの粛清(purge)では、より多くの者が除名されるか離党し、党のほとんど半分が変転した。(注22)
 こうした過程によって党はメンシェヴィキや他の「小ブルジョア社会主義者」を取り去ったかもしれなかった。しかし、腐敗した共産党員をそうしたのではなかった。
 共産党の特権的地位と法的責任からの完全な自由に内在しているがゆえに、権力の濫用は継続した。
 かりに市民が投票者または資産所有者のいずれかとして自分に関する事務処理を是正させる手段をもたないならば、また加えて、かりに党員は法的責任を免れているならば、行政集団は自制的になるか、居座り続けるか、あるいは自己満足の集団になってしまうだろう。
 党の倫理を監督するために1920年に設置された統制委員会は、党職員はその業務の遂行について自分たちを任命した者に対してのみ説明責任があり、「党員大衆」に対してはではない、ましてや国民全体にではない、と感じている、と報告した。(注23)
 これは、帝制時代の役人たちに広くあった態度を引き継いだものだった。(注24) //
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 (脚注*) 1922年9月の党組織部署のスターリンへの報告書は、地方によっては1921-22年に離党者が6.8から9.2パーセントに及んだ、と記した。: RTsKhIDNI, F. 558, op. 1 delo 2429.
 Kalinin によれば、党を去った者たちの大半は農民や労働者だった。RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9. 
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 (13) さらに悪いことに、党自体が官僚機構を腐敗させ始めた。
 1922年7月1日、組織局は、無害に感じさせる、「積極的党労働者の生活条件の改善について」という裁定を下した。これはもともと、省略した形で公にされた。(注25)
 この裁定は、党役人の給与体系を定めた。数百(新)ルーブルが受領される。家族手当、超過勤務手当が加えて支払われる。これで、全部では、基礎俸給の二倍になる。—この額は、工業労働者は平均して10ルーブルを得ていたときのものだった。
 上級の党官僚はさらに、代金を支払うことなく、追加の食料配給を受ける権利があった。他にもちろん、住居、衣服、医療、そして一定の場合には、運転手付きの自動車。
 1922年夏、党の中央機関に採用された「責任ある労働者たち」には、補足の食料配給が行われ、一月あたり26ポンドの肉、2.6ポンドのバターが配られた。
 彼らは、布張りで蝋燭の灯った特別の鉄道車両で旅行した。一方で庶民たちは、幸運に切符を入手できても、混み合った三等の客室か貨物車に詰め込まれた。(注26)
 最高級の役人には、外国の保養地で一ヶ月から三ヶ月の休暇または静養期間をとる権利があった。その費用は、党が金ルーブルで支払った。
 1921年11月、少なくとも6名のトップ・レベルの共産党員はドイツでの医療を受けていた。その一人(Lev Karakhan)は、痔の手術のためにドイツへ行った。(注27)
 このような利益の割当ては、スターリンの書記局が決定した。彼が採用したそこの職員は、600人いた。(注28)
 1922年の夏には、特別の恩恵を受ける者の数は、1万7000を超えた。
 同年の9月、組織局はその数を6万に増やした。//
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 (14) 党指導者たちは、別荘をもつ資格があった。
 田舎の家屋を得た最初の人物は、レーニンだった。彼は、1918年10月にモスクワの南西35キロメーターのGorki に、かつては帝制時代の将軍の資産だった屋敷を手に入れた。
 他の者たちも、レーニンに倣った。
 トロツキーは、ロシアで最も贅沢な不動産、Akhangelskoe を手に入れた。かつて、Iusuoov 王子の屋敷だった。
 スターリンは、Zubalovo の石油王の田舎家屋を自分のものにした。(注29)
 レーニンはGorkiで、GPUが操作する6台のリムジン車を自由に使用した。(注30)
 彼は自分のためには稀にしかそれを利用しなかったけれども、家族や友人たちのために利用させるのに反対ではなかった。例えば、妹とブハーリン家族がほとんど確実に休暇のためにクリミアへ旅行する私的車両には、彼らの旅の早さを上げるべく軍事列車が随行するように指示したように。(注31)
 劇場またはオペラに行ったとき、新しい指導者たちは、当然のこととして、皇帝用だった特別席を占めた。//
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 後注
 (15) Refail[R. B. Farbman]in Desiatyi S"ezd, p.97.
 (16) I. Zaitsev in Novyi den', No. 16 (1918.4.12), p.1; RR, p.63.
 (17) Konstantin Shteppa in Simon Wolin & Robert M. Slusser, The Soviet Secret Police (1957), p.86-87.
 (18) Lenin, PSS, XLIV, p.398; XLV, p.53.
 (19) E. g., N. Osinskii in Vos'moi S"ezd RKP(b): Protokoly (1959), p.27-28, p.164-7; A. A. Solts in Desiatyi S"ezd, p.57-58.
 (20) Kommunist (Abstrakhan), No. 6 (1919.1.11). Izvestiia, No. 12/564 (1919.1.18), p.4 が引用。
 (21) Lenin, PSS, XLIV, p.122-4.
 (22) "Aleksandrov", Kto upravlaet Rossiei ? (1933), p.28.
 (23) Solts in Desiatyi S"ezd, p.60.
 (24) RR, p.61-p.75. 〔RR=R. Pipes. Russian Revolution〕
 (25) A. Podshchekoldin in AiF, No. 27/508 (1990.7.7-13), p.2.
 (26) Alexander Berkman, The Bolshevik Myth (1925), p.43.
 (27) RTsKhIDNI, F.2, op.2, delo 1005.
 (28) S. K. Minin in Desiatyi S"ezd, p.92.
 (29) Svetlana Alliluyeva, Twenty Letters to a Friend (1967), p.26-27; Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/I (1989), p.190.
 (30) Lenin, PSS, LIV, p.649, p.266.
 (31) TP, II, p.444-7.  
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 第一節②、終わり。③へ。

2580/R・パイプス1994年著第9章第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第9章
 第一節・共産党の官僚主義化①。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たち、なかんずくレーニンは、進行しているその体制の官僚主義化(bureaucratization)に苛立った。
 指導部は、党と国家はともに、その役職を個人的な利益を高めるために使う役人という寄生階層に圧迫されている、と感じていた(そして、これを支持する統計上の証拠もあった)。
 さらに悪いことに、官僚制が膨張するほど、それが吸い込む予算は増大し、得られるものは少なくなった。
 このことは、チェカについてすらも言えた。Dzerzhinskii は1922年9月に、チェカの人員が行なっていることの完全な会計の提示を要求し、調査すれば「致命的な」(〈ubiistvennye〉)結果が出るだろうと付け加えた。
(注5)
 人生の最終期のレーニンにとって、官僚制はつきまとって離れない問題になっていた。//
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 (02) 彼らがこの現象に驚いたということは、つぎのことを示しているだろう。すなわち、ボルシェヴィキの強固な現実主義には、際立つ無邪気さが内在していた。(*)
 経済活動を含めた組織生活全体の国有化は必然的にホワイト・カラー労働者の数を膨張させる、ということは、彼らに明らかだったはずだろう。
 彼らが決して十分にはもたなかった「権力」(〈vlast'〉)が意味したのは機会だけではなく、責任でもあった、ということを彼らは考えなかったようだ。その責任の履行は、対応して大人数の職業人を必要とする常勤者の仕事だ、ということを。また、その職業人はもっぱらまたは主としてですら公共の福利のためだけに従事するのではなく、彼ら自身の利益のためにも勤務するのだ、ということを。
 共産党支配に伴なう官僚主義化は、事務的経歴しか有しない者たちが従来は不可能だった中間層へと上昇する、これまでにはなかった機会を与えることとなった。彼らこそが、官僚主義化の主要な受益者だった。(注6)
 労働者ですらも、工場の床を離れて役所へと向かえば、労働者であることをやめ、官僚層の中に混じり込んだ。党の統計上はしばしば、まだ労働者として記録されていたけれども。Kalinin はレーニンへの私的な手紙で、肉体労働に従事する者だけが労働者として表記され、一方で「監督者、監視者、評価者」は役人(office personnel、〈sluzhashchie〉)に分類されるべきだ、と強く迫った。(注7)
 以下は、メンシェヴィキのエミグレ機関紙がNEP の直前における現象について記述したものだ。
 「ボルシェヴィキ独裁…は、統治および公行政の全領域から帝制期の官僚機構のみならず、ブルジョア社会の学位制度を伴った知識人層を排除し、そのようにして、小ブルジョアジー、農民層、労働者階級、軍隊等々の無数の人々に『上昇する途』を開いた。彼らは従前は、富と教育をもつ者の特権的地位のために下級階層に所属させられていたが、今では巨大な『ソヴィエト官僚制』を構成している。—この新しい都市的階層の本質と野心は小ブルジョアであり、彼らの利益の全てがこの層を革命につなげている。革命こそが彼らを今ある地位に昇らせ、過酷な生産労働から逃れさせ、国民大衆の〈上に〉立つ国家行政機構に含み込んだからだ。」(注8)//
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 (脚注*) 1921年4月、レーニンは、体制の最初の一年半の間には官僚主義化の危険に気づかなかった、と認めた。彼は1919年にようやく、新綱領を採択した第8回党大会でそれを承認した。その綱領は遺憾さをもって「ソヴィエト・システム内部での官僚主義の部分的な復活」と記した。Lenin, PSS, XLHI, p.229.
 しかし、そのときでもレーニンは、この現象の原因は内戦が必要にさせた原始的な生産の方法と取引活動にあると批判した。Ibid., p.230. 
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 (03) ボルシェヴィキは、彼らの歴史哲学によれば政治はもっぱら階級闘争の付随物であり、政府は支配階級の道具にすぎなかったがゆえに、このような展開を予想することができなかった。この考え方は、国家とその公務員層は、そられが奉仕すると言われてきた階級利益とは異なる利害を有する、ということを見逃していた。
 その同じ哲学が、気がついたときに問題の性質を理解するのを妨げた。
 レーニンは、帝制時代の全ての保守主義者のように、「統制」委員会を積み上げ、監視者を派遣し、「善良な者たち」を制裁できるような濫用はないと要求する、といったこと以外には、官僚機構による濫用を抑止するための装置を考え出すことができなかった。
 問題の制度上の根源を、彼は最後まで、理解しなかった。//
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 (04) 官僚主義化は、国家と同様に党でも生じた。//
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 (05) 高度に中央志向の構造だったが、ボルシェヴィキ党はその党員層内部で、一定程度の非公式の民主主義を伝統的に育ててきた。(注9)
 「民主主義的中央集権主義」の原理のもとで、指令部門による諸決定は、疑問を抱くことなく下級機関によって実行されなければならなかった。
 しかし、決定は、全員が発言できる機会のある討論を経たあとで多数票決によって行われた。—まず中央委員会、次いで政治局。
 地方の党細胞の意見聴取が、機械的に行われた。
 国の独裁者ではあったが、レーニンは党内部では〈同輩中の首席〉にすぎなかった。政治局にも、中央委員会にも、正式の議長はいなかった。
 党の最高機関である党大会への代議員たちは、地方の諸組織から選出された。
 地方の党役員は、同輩たちによって選ばれた。
 実際には、レーニンはほとんどつねに、その個性と党創設者たる名声でもって支配した。だが、勝利は保障されておらず、ときには彼から外れた。//
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 (06) 党は国の運営という大きな責任をつねに負ったので、党員数も管理的機構も膨張した。
 1919年3月まで、Iakov Sverdlov という一人の人物が、その頭の中に、党組織と党員の全ての詳細を抱えていた。
 彼は、レーニンとその仲間が政治的決定や軍事的決定を自由に行うことができるよう、毎日党内を走り回った。(注10) 
 ともあれ、このようなシステムは、1919年3月に党員数は31万4000になったので、長くは続かなかった。
 この頃のSverdlov の突然の死によって、党をより公式に管理することが必須となった。
 このために、1919年3月の党第8回大会は、中央委員会に二つの新しい機関を設置した。一つは政治局で、中央委員会全体に諮ることなしで迅速に決定をすべく、最初は5人で構成された(レーニン、トロツキー、スターリン、カーメネフ、Nikolai Krestinskii)。もう一つは組織局でやはり5人で構成され、実際には人的任命を意味する組織問題を扱った。
 第三の機関、1917年3月に設置されていた書記局は、スターリンが1922年4月にその長に任命されるまでは、主として書類を捲るのに忙殺されていたように見える。
 その長である書記長は、組織局の一員である必要があった。
 スターリン以降の組織局と書記局の任務から判断すると、両者の間には厳格な所掌事務の区別はなく、ともに人事問題を扱った。但し、組織局は、党員の実績評価についてより直接的な責任をもっていたように思われる。(注11) 
 これらの機関の設置によって、党の事務の、モスクワにある頂点の権威への集中が始まった。//
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 (07) 共産党には、内戦が終わるまでに、もっぱら文書作業を行う手頃な規模の職員がいた。
 1920年の末頃にかけて行われた統計調査は、その構成に関して興味深い数字を明らかにした。
 職員の21パーセントだけが工業または農業での肉体労働に従事していた。
 残りの79パーセントは、多様なホワイト・カラーの職に就いていた。(+)
 職員の教育レベルはきわめて低くて、彼らの責任や権限と釣り合っていなかった。1922年では、0.6パーセント(2316人)だけが高等教育を修めていて、6.4パーセント(2万4318人)が第二次学校を終えていた。
 あるロシアの歴史家はこの資料にもとづいて、当時の党員の92.7パーセントは仕事上わずかしか識字能力がなかった(1万8000人または4.7パーセントは完全に識字能力がなかった)と結論づけた。(注12)
 ホワイト・カラー職員の一団から、共産党の中央機関にモスクワで採用される活動家エリートが出現した。
 1922年の夏、この集団は1万5000人以上を数えた。(注13)
 「党生活の官僚主義化は、不可避の結果を生んだ。…
 もっぱら党の仕事に従事した党職員は、工場や政府官署で常勤で働いている一般党員に比べて、明らかに有利だった。
 党の運営に職業として没頭できることは強い力となって、党職員層に対して、立案、指導、統制の中心部たる位置を与えた。
 党の階層の全てのレベルで、権限の移行が見えるものとなった。まずは大会または会議から、名目上は大会等が選出した諸委員会へ、次いで、諸委員会から、表向きは諸委員会の意思を執行する党書記局への移行。」(注14) 
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 (脚注+) N. Solovev in Pravda, No. 190 (1921.8.28), p.3-4. 完全ではないけれども—統計調査はロシア共和国の三分の二にしか及んでいない—、党の代表者全体について想定される。
 数字には、首都のモスクワは含まれていない。モスクワに関する統計は「信頼できない」と宣せられた。かりにこれを計算にいれれば、ホワイト・カラーの仕事をもつ共産党員の割合は、相当により高くなっただろう。首都は官僚制帝国の中枢なのだから。
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 (08) 当然のこととして、中央委員会組織は徐々に、そしてほとんど感知されることなく、ほとんどの諸決定のみならず全てのレベルでの執行人員の選抜についても、党の地方機関から権限を奪い取った。
 中央集権化への推移は止まらず、冷酷な論理を伴って進行した。
 まず、共産党は、全ての組織立った政治生活を掌握した。次いで、中央委員会は、自発性を抑え込み、批判を沈黙させて、党の指揮権を自らの手に握った。さらに、政治局は、中央委員会のための全ての決定を用意し始めた。
 そして、三人の男たち—スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ—が、政治局を支配するに至った。
 最終的には、一人だけが、つまりスターリンだけが、政治局のために決定をした。
 一人の独裁への途がいったん極まると、もうどこにも進む途はなく、スターリンの死によって、党とその国家の権威が漸次的に解体していく、という結果となった。//
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 後注
 (05) RTsKhIDNI, F. 76, delo 265.
 (06) Daniel Orlovsky in Diane P. Koenker, et al., eds., Party, State and Sosiety in the Russian Civil War (1989), p.180-p.209.
 (07) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9.
 (08) SV, No. 2 (1921.2.16), p.1.
 (09) 共産党の中央集権化と官僚主義化に関する最良の議論は、以下に見られる。Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed., (1963), Chap. 6.; Leonard Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy (1977), Part III.
 (10) Krestinskii in DesiatyiS"ezd, p.499.
 (11) RTsKhIDNI, F. 17, op. 112.
 (12) Pravda, No. 17 (1923.1.26), p.3.; A. V. Pantsov in VI, No. 5 (1990), p.80.
 (13) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.181.
 (14) Ibid., p.181. 
 ——
 第一節①、終わり。

2579/R・パイプス1994年著第9章序。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、へと試訳を進める。
 第9章の構成は、つぎのとおり。数字は本文にも目次にもなく、表題は目次にだけ見られる。
  
  第一節・共産党の官僚主義化。
  第二節・国家の官僚主義化。
  第三節・「労働者反対派」。
  第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭。
  第五節・孤立するレーニン。
  第六節・ジョージアに関する論争。
  第七節・レーニン・スターリン・トロツキー。
  第八節・トロツキーの衰退。
  第九節・レーニンの死。
 ——
 第9章/新体制の危機。 
 あなたはつぎの問題を、どのように解くか。
 農民層は我々の味方でなく、労働者階級は多様なアナーキズムの影響下にあって我々を放棄しようとしているとすれば、いま共産党はいったい何を基盤にすることができるのか?
 以上、共産党第10回大会で、Iurii Milonov (1921年3月)。(注1) 
 中央の政府を妨害する障害は何もなくなっていたが、同時に、それを支えてくれるものも何もなかった。
 以上、Alexis de Tocqueville. (注2)
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 序。
 1921-23年に共産党を襲った政治的危機の原因は、対抗諸政党の弾圧によっても不満は消失せず、党員内部へと不満が移ったにすぎなかった、ということにあった。
 このような展開は、ボルシェヴィズムの主要な教義、紀律のある統一、を侵すものだった。
 第11回党大会の諸決議は、起きていることを遠回しに認めていた。
 「きわめて緊張していた内戦という状況下で、プロレタリアートの勝利を確固たるものにするために、その独裁を維持するために、プロレタリアートの前衛は、ソヴィエトの権威に敵対する全ての政治集団から組織する自由を剥奪しなければならなかった。
 ロシア共産党は、ロシアの唯一の合法的政党として残った。
 もちろん、このような状況は、労働者階級とその党に多くの優越性をもたらした。
 しかしそれは、他方で、党の仕事をきわめて複雑にする現象も生み出した。
 不可避的に、唯一の合法的政党の党員たちには、自分たちの影響力を行使しようとする気分が生じてきた。別の状況であれば共産党員のみならず、社会民主党またはその他の小ブルジョア社会主義の政党の党員たちにも出現するだろう集団や層だ。」(注3)
 トロツキーが、こう述べたように。「我々の党は今やロシアの唯一の政党だ。あらゆる不満が、我々の党を通じて昇って来る」。(注4)
 かくして、党指導部は、苦痛の選択を迫られた。すなわち、党内部での不満に寛容になることで、統一とそれから生まれる利点を犠牲にするか、それとも、党指導機構の硬化と党員たちの指導部からの離反という両者の危険をともに冒してでも、統一を維持するか。
 レーニンは、躊躇することなく、後者を選択した。彼はこう決意することによって、スターリンの個人的独裁の基礎を築いた。//
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 後注
 (01) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.84.
 (02) Alexis de Tocqueville, The Ancient Regime and the French Revolution, Chap. 12.
 (03) OdinadtsatyiS"ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1961), p.545.
 (04) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.352.
 ——
 序、終わり。

2559/O.ファイジズ・スターリンによる継承②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第8章の試訳の続き。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
 第二節。
 (01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
 遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
 三人組は、そのように取り計らった。
 トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
 彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
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 (02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
 10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
 1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
 だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
 彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
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 (03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
 前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
 トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
 党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
 自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
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 (04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
 総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
 いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
 トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
 左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
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 (05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
 スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
 トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
 レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
 実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
 その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
 トロツキーは、抵抗することができなかった。
 敗北した人間として、党大会を去った。//
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 (06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
 彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
 彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
 このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
 二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
 分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
 しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
 Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
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 (07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
 正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
 レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
 彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
 スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
 しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
 スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
 ——
 第三節
 (01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
 レーニン記念碑が、至るところに建立された。
 指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
 レーニンは人間として死に、神として生まれた。
 レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
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 (02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
 「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
 三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
 このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
 レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
 その思想は、しばしば矛盾していた。
 聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
 スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
 しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
 党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
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 (03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
 しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
 レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
 レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
 一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
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 (04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
 脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
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 (05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
 スターリンは権力を握っていただろうか?
 革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
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 (06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
 党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
 レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
 政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
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 (07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
 レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
 彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
 1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
 レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
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 (08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
 レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
 NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
 さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
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 第8章、終わり。

2558/O.ファイジズ・スターリンによる継承①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著の邦訳書は、ない。
 そのうち、第8章の試訳。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
 第一節。
 (01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
 だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
 その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
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 (02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
 彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
 彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
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 (03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
 トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
 赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
 しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
 トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
 彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
 彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
 政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
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 (04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
 彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
 スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
 秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
 彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
 トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
 「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
 政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
 考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
 党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
 党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
 レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
 スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
 これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
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 (05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
 書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
 1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
 彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
 スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
 彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
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 (06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
 三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
 カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
 ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
 しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
 二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
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 (07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
 彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
 しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
 スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
 車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
 彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
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 (08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
 レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
 この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
 レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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 (09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
 中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
 スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
 赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
 レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
 彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
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 (10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
 ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
 レーニンが、介入した。
 彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
 レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
 大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
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 (11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
 ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
 政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
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 (12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
 彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
 こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
 レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
 さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
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 (13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
 レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
 カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
 ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
 トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
 だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
 「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
 私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
 レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
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 (14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
 スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
 レーニンはこの事件を知って、荒れた。
 彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
 権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
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 (15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
 三日後、彼は三回めの発作を起こした。
 言語能力が失われた。
 10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
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 第8章第一節、終わり。

2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
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 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
 ----
 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
 ——
 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
 ——
 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
 ----
 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
 ----
 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
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 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
 ----
 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
 ----
 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
 ——
 第7章、終わり。

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
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 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
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 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
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 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
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 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
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 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
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 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
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 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
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 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
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 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
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 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
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 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
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 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
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 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
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 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
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 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
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 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
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 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
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 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
 ——
 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
 ----
 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
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 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
 ——
 第五節以下へ、つづく。

2553/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑨。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。最後の第六節。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第六節。
 (01) 飢饉の16周年にあたる1993年の秋は、これまでとは違っていた。
 二年前に、ウクライナは初代の大統領を選出し、圧倒的に独立賛成を票決した。
 政府がつづいて新しい統合条約に署名するのを拒んだことは、ソヴィエト同盟の解体を早めた。
 ウクライナ共産党は、権力を放棄する前の最後の記憶に残ることとして、1932-33年飢饉の責任は「スターリンとその親しい側近が追求した犯罪過程」にあるとする決議を採択した。(注73) 
 Drach とOliinyk は他の知識人たちと合同してRukh という独立の政党を創立した。これは、1930年代初め以降で初めて民族運動を合法的に宣明したものだった。
 歴史上初めて、ウクライナは主権国家となり、それとして世界のほとんどから承認された。//
 ----
 (02) ウクライナは主権国家として、1993年の秋までに、自らの歴史を自由に議論し、記念した。 
 入り混じった動機から、以前の共産主義者と以前の反対派はみんな、熱心に語った。
 Kyiv では、政府が一連の公的な行事を組織した。
 9月9日、副首相は学者の会議を開き、飢饉を記念することの政治的な意義を強調した。
 彼は聴衆にこう言った。「独立したウクライナだけが、あのような悲劇がもう二度と繰り返されないことを保障することができる」。
 それまでにウクライナで広く知られて尊敬されていた人物のJames Mace も、その場にいた。
 彼もまた、政治的結論を導き出していた。「この記念行事が、ウクライナ人が政治的混乱と隣国への政治的依存の危険性を思い出す助けとなることを、希望したい」。
 従前の共産党政治局員である大統領のLeonid Kravchuk も、こう語った。
 「統治の民主主義的形態は、あのような災難から人々を守る。
 かりに独立を失えば、我々は永久に、経済的、政治的、文化的にはるかに立ち遅れることを余儀なくされるだろう。
 最も重要なことは、そうなってしまえば、我々はいつも、わが歴史上のあの恐ろしい時代を繰り返す可能性に直面するだろう、ということだ。外国勢力によって計画された飢饉も含めて。」(注74)//
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 (03) Rukh の指導者のIvan Drach は、飢饉の意義をより広範囲に承認することを呼びかけた。彼は、ロシア人が「悔い改める」こと、罪責を承認するドイツ人の例に倣うこと、を要求した。
 彼は直接にホロコーストに言及し、ユダヤ人は「全世界にその罪を彼らの前で認めるように迫った」ととくに述べた。
 全てのウクライナ人が犠牲者だったと彼は主張しなかったけれども—「ボルシェヴィキ略奪者はウクライナで、ウクライナ人も動員した」—、ナショナリスト的響きを強調した。
 「ウクライナ人の意識を統合する部分になっている第一の教訓は、ロシアは、ウクライナというnation の全面的な破壊にしか関心を持ってこなかったし、今後も持たないだろう、ということだ。」(注75)//
 ----
 (04) 儀式は、週末までつづいた。
 黒く長い旗が、政府の建物から垂らされた。
 数千の人々が記念行事のために、聖ソフィア大聖堂の外側に集まった。
 だが、最も感動的な儀式は、自発的なものだった。
 多数の人々が、Kyiv の中央大通りであるKhreshchatyk に集まった。その通り沿いの三ヶ所に設置された掲示板に、彼らは個人的な文書や写真を載せていた。
 祭壇が一つ、途中に設置されていた。
 訪問者たちは、そのそばに、花やパンを残した。
 ウクライナじゅうからやって来た市民指導者や政治家たちは、新しい記念碑の脚元に花輪を置いた。
 何人かの人々は、土を入れた壺を持ってきた。—飢饉犠牲者たちの巨大な墓地から取ってきた土壌だった。(注76)//
 ----
 (05) そこにいた人々には、その瞬間は確実なものと感じられただろう。
 飢饉は公的に承認され、記憶された。
 それ以上だった。ロシア帝国による植民地化の数世紀後に、ソヴィエトによる抑圧の数十年後に、主権あるウクライナで、飢饉の存在が承認され、記憶された。
 良かれ悪しかれ、飢饉の物語はウクライナの政治と現代文化の一部になった。
 子どもたちは、今では学校でそれを勉強することになる。
 学者たちは公文書館で、物語全体の資料を集めることになる。
 記念碑が建てられ、書物が発行されることになる。
 理解、解釈、許容、論述、そして哀悼の長い過程が、まさに始まろうとしていた。//
 ——
 第15章全体が、終わり。

2552/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑧。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第五節。
 (01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
 ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
 しかし、数字は虚偽ではなかった。
 数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
 調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
 爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
 数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
 政府は、危険を十分に知っていた。
 ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
 Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
 ----
 (02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
 彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
 ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
 悪い決定がなされた。
 タービン検査は間違っていた。
 原子炉は、溶解していた。
 ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
 Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
 公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
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 (03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
 Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
 ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
 より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
 事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
 字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
 この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
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 (04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
 6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
 彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
 Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
 今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。 
 Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
 彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
 「若い世代は何故、我々から離れたのか?
 我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
 我々は欺瞞に慣れてきた。…
 1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
 党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
 「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
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 (05) しかし、後戻りはできなかった。
 Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
 事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
 Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
 他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
 本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
 Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
 Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
 そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
 「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
 数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
 同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
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 (06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
 1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。 
 Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
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 (07) 他の者たちもつづいた。 
 スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
 1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
 彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
 「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
 そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
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 (08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
 困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
 Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
 委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
 それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
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 (09) 結果は、予期しないものだった。
 学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。 
 政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
 欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
 「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
 飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
 —— 
 第15章第五節、終わり。

2550/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節②。
 (10) 注目した全ての者が肯定的なのではなかった。多くの専門的雑誌は、Conquest 著を全く書評しなかった。
 一方で、何人かの北米の歴史家は、Conquest を政治的右翼の一員であるとともにソヴィエト史のより伝統的な学派の代表者だと見なし、この書物をあからさまに非難した。
 J, Arch Getty は〈London Review of Books〉で、Conquest の見方は保守的シンクタンクのアメリカの起業(Enterprize)研究所から助成を受けていると不満を述べ、「西側にいるウクライナ人エミグレ」と結びついているがゆえに、彼の根拠資料を「パルチザン的」だとして否定した。
 Getty はこう結論した。「その言う『悪の帝国』とともにある今日の保守的な政治的雰囲気の中では、この本は確実に人気を博するだろう」。
 当時、今のように、ウクライナに関する歴史的議論は、アメリカの国内政治によって形づくられていた。
 飢饉の研究がそもそもなぜ「右翼」か「左翼」のいずれかだと考えられるべきなのかについての客観的な理由は存在しないけれども、冷戦時代の学界政治によれば、ソヴィエトの悪業について書くどの学者も、簡単に色眼鏡でもって見られる、ということを意味した。(注56)//
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 (11) 〈悲しみの収穫〉はやがて、ウクライナ自体の内部で反響を見出すことになる。当局はこの書物の流入を阻止しようとしたけれども。
 Harvard の研究企画(project)が1981年に開始されたのとちょうど同じ頃、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に関する国連使節団の代表たちが大学を訪問して、ウクライナ研究所がその企画を断念するように求めた。
 その代わりとして研究所に提示されたのは、当時としては稀少なことだったが、ソヴィエトの公文書資料の利用だった。
 Harvard 大学は、拒否した。 
 Conquest 著の要約版がトロントの〈Globe and Mail〉に掲載されたあとで、ソヴィエト大使館の第一書記が編集者に対して、怒りの手紙を書き送った。
 その第一書記は、こう出張した。そのとおり、ある程度の者たちは飢えた、彼らはしかし、旱魃とクラクによる妨害の犠牲者だった。(注57)
 いったん書物が出版されると、それをウクライナ人から隠し通すことは不可能だった。
 1986年の秋に、アメリカが後援し、München に基地局のある自由ラジオ(Radio Liberty)で、その書物の内容はソ連内部のリスナーに向けて朗読された。//
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 (12) より手の込んだソヴィエトの反応が、1987年に届いた。〈欺瞞、飢饉とファシズム—ウクライナ・ジェノサイド、ヒトラーからハーヴァードへの神話〉の刊行によって。
 表向きの著者のDouglas Tottle は、カナダの労働活動家だった。
 彼の書物は、飢饉はウクライナのファシストと西側の反ソヴィエト集団によって考案され、プロパガンダされた悪ふざけ(hoax)だと叙述した。 
 Tottle は悪天候と集団化後の混乱が食料不足の原因となったことを承認したけれども、悪意のある国家が飢餓の拡大に何らかの役割を果たしたことを認めるのを拒んだ。
 彼の書物は、ウクライナ飢饉を「神話」だと書いたのみならず、それに関する全ての説明資料は定義上、ナツィによるプロパガンダで成っている、と論じた。
 Tottle の書物は、とりわけ、つぎのように断定した。
 ウクライナ人離散者たちは全員が「ナツィス」だ。飢饉関係の書物や論文集は、西側の情報機関とも結びついた、反ソヴィエトのナツィ・プロパガンダだ。Havard 大学は長く反共産主義の調査、研究、教育の中心で、CIAと連結している。飢饉についてMalcolm Muggeridge が書いたものは、ナツィがそれを利用したがゆえに、道徳的に腐敗している。Muggeridge 自身が、イギリスの工作員だ。(注58)//
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 (13) モスクワとKyiv の両方にある党史研究所は、Tottle の原稿作成を助けた。
 修正や説明のために、未署名の草稿が彼と二つの研究所のあいだを行き来した。
 ソヴィエトの外交部は書物の刊行と進行を支持し、可能な場所ではそれを促進した。(注59)
 やがてその書物は、少数者を惹きつけた。1988年1月に、〈Village Voice〉は「ソヴィエトのホロコーストの探求。55年前の飢饉が右翼に栄養を与える」という記事を掲載した。これはTottle の著作を無批判に用いていた。(注60)//
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 (14) 遡ってみると、Tottle の書物は、ほとんど30年後に何がやってくるかを示す先駆けとして重要だった。
 その中心にある主張は、ウクライナ「ナショナリズム」とファシズムおよびアメリカとイギリスの情報機関との間の連結という想定を基礎にしていた。—ウクライナでのソヴィエトの抑圧やウクライナの独立または主権に関する議論の全てはウクライナ「ナショナリズム」と定義された。
 かなりのちに、同じ連結の一体—ウクライナ・ファシズム・CIA—が、ウクライナの独立や2014年の反腐敗運動に対するソヴィエトの情報キャンペーンで用いられることになる。
 まさに現実的意味で、その情報キャンペーンの基礎は1987年に築かれていた。//
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 (15) 〈欺瞞、飢饉とファシズム〉は、当時のソヴィエトの釈明と同様に、1932-33年にウクライナとロシアで一定の飢えがあったことを承服しはするが、大量の飢餓の原因を、「近代化」の要求、クラクの妨害、言うところの悪天候に求めた。
 真実の一端が、最も手の込んだ糊塗活動に結びつけられたのと同様に、虚偽と誇張とにも結合された。 
 Tottle の書物は、当時に1933年のものとされた写真のいくつかは実際には1921年の飢饉の際に撮られたものだ、と正確に指摘した。
 それはまた、1930年代についての間違ったまたは誤解を与える報告があることも、正確に見抜いた。 
 Tottle は最後に正しく、一定のウクライナ人はナツィスに協力した、ナツィスはウクライナ占領中に飢饉に関してきわめて多くのことを書き、話した、と書いた。//
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 (16) こうしたことは1932-32年の悲劇を消失させたのでも、その原因を変更したのでもなかったけれども、飢饉に関して書く者をそもそも傷つけることを意図して、単純に「ナツィ」と「ナショナリスト」の連想が用いられた。
 ある一定範囲では、この策略は有効だった。飢饉についてのウクライナ人の記憶や飢饉に関する歴史研究者に対抗するソヴィエトの情報活動は、不確定性という汚名を残した。
 Hitchens ですら、〈絶望の収穫〉での彼の論述の中で、ウクライナ人のナツィへの協力に言及せざるをえなかった。また、学界の一部はつねに、Conquest の書物を警戒心をもって扱った。(注61)
 公文書を利用することができなかったので、1980年代には、1933年春の飢饉を引き起こした一連の意図的な諸決定について叙述するのは、まだ不可能だった。
 その余波、隠蔽工作または抑圧された1937年統計調査について詳しく叙述することも、不可能だった。//
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 (17) それにもかかわらず、〈絶望の収穫〉と〈悲しみの収穫〉のいずれをも生んだ研究企画は、さらなる影響をもたらした。
 1985年に、アメリカ合衆国議会はウクライナの飢饉を調査研究する超党派の委員会を立ち上げ、Mace を主任調査官に任命した。
 その目的は、「飢饉に関する世界の知識を拡大し、ソヴィエトの飢饉への役割を明らかにすることでアメリカ国民のソヴィエト・システムに関する理解を向上させるために、1932-33年ウクライナ飢饉に関する研究を行う」ことだった。(注62)
 その委員会は、3年かけて報告書と離散者で飢饉からの残存者の口頭および文書による証言録を取りまとまた。これは依然として、これまでに英語で公刊された最大のものだ。
 委員会がその成果を1988年に発表したとき、その結論はソヴィエトの主張とは真っ向から矛盾していた。委員会は、こう結論づけた。
 「つぎのことに疑いはない。ソヴィエト連邦ウクライナと北部コーカサス地方のきわめて多数の住民が、1932-33年の人為的飢饉によって飢えて死んだ。その原因は、ソヴィエト当局による1932年の収穫の剥奪にある。」//
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 (18) 加えて、委員会はこう述べた。
 「『クラクの妨害』に飢饉のあいだの全ての責任があるというソヴィエトの公式の主張は、虚偽である。
 飢饉は、主張されるような旱魃とは関係がなかった。
 飢えている人々が食料をより容易に調達できる地域へと旅行することを禁止する措置がとられた。」
 委員会はまた、こう述べた。
 「1932-33年ウクライナ飢饉は、農村地帯の住民から農業生産物を剥奪することで惹き起こされた」。言い換えると、「悪天候」や「クラクの妨害」によってではなかった。(注63)
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 (19) こうした知見は、Conquest のそれを反映していた。
 それはまたMaceの威厳を立証し、その後の年月に他の研究者たちが利用することのできる、山のような新しい資料を提供した。
 しかし、委員会が1988年に最終報告書を発表したときまでに、ウクライナ飢饉に関する最も重要な議論が、ヨーロッパやアメリカではなく、ウクライナそれ自身の内部でようやく起こり始めていた。//
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 第15章第四節、終わり。

2549/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節①。
 (01) 1980年、飢饉が近づいてから50周年。北アメリカのウクライナ離散者グループは、もう一度行事を催すことを企画した。
 トロントでは、飢饉研究委員会がヨーロッパと北米じゅうの飢饉残存者と目撃者のインタビューを録画し始めた。(注46)
 ニューヨークでは、ウクライナ研究基金が、ウクライナに関する博士論文を執筆した若い学者のJames Mace に、Harvard 大学ウクライナ研究所で大きな研究プロジェクトを立ち上げることを委託した。(注47)
 かつてと同様に、会議が計画され、デモ行進が組織され、ウクライナ教会やシカゴとWinnipeg の集会ホールで集会が開かれた。 
 だが、このときの影響は異なるものになる。
 フランスの共産主義研究者のPierre Rigoulot は、こう書いた。
 「人間の知識は、石工の仕事に応じて規則的に大きくなる壁のレンガのようには集積しない。知識の発展は、そしてその沈滞も、社会的、文化的かつ政治的な枠組みにかかっている。」(注48)
 ウクライナについては、その枠組みが1980年代に変遷し始め、その十年間を通じて変化し続けることになる。//
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 (02) 西側の受け止めの変化は、部分的には、ソヴィエト・ウクライナ内部での事態の助けがあって生じた。この事態はゆっくり発生したものだったが。
 1953年のスターリンの死は、飢饉に関する公式の再評価をもたらさなかった。
 1956年の記念碑的な「秘密演説」で、スターリンの後継者のNikita Khrushchev はソヴィエトの独裁者を取り囲んでいた「個人崇拝」を攻撃し、1937-38年の多数の党指導者たちを含む数十万人の殺害についてスターリンを非難した。
 しかし、Khrushchev は、彼は1939年にウクライナ共産党の長になっていたのだが、飢饉に関しても集団化に関しても沈黙したままだった。
 これらについて語るのを拒否したことは、その年以降の離散知識人にとってすら、農民たちの運命を明確に理解するのは困難であることを意味した。
 上級の党内部者だったRoy Medvedev は1969年に、スターリン主義に関する最初の「異端」歴史書である〈歴史に判断させよ〉で、集団化に論及した。
 Medvedev は、飢餓で死んだ「数万の」農民について叙述した。しかし、自分はほとんど何も知らないことを認めていた。//
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 (03) それにもかかわらず、Khrushchev による「雪解け」は、システムにある程度の裂け目を開けた。
 歴史家は困難な主題に接近することができなかったが、ときにはそうした。
 1962年、ソヴィエトの文芸関係雑誌は、最初の正直なソヴィエト収容所の描写であるSolzhenitsyn の〈Ivan Denisovich の人生の一日〉を掲載した。
 1968年、別の雑誌が、はるかに知名度が小さいロシアの作家のVladimir Tendriakov の短い小説を掲載した。その中で彼は、「郷土から剥奪されて追放され」、地方の町の広場で死んでゆく「ウクライナのクラクたち」についてこう書いた。
 「朝にそこで死者を見るのに慣れてしまった。そして病院の厩務員のAbram は、荷車とともにやって来て、遺体を積み込んだものだ。
 全員が死んだのではない。
 多くの者は、汚い、むさ苦しい路地をさまよった。象のように、血流がなくて青くなった、水腫の浮いた脚を引き摺りながら。そして、通行人全てから小突かれ、犬のような眼で物乞いをしながら。」(注49)//
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 (04) ウクライナ自体の中では、スターリン主義に対する知識人や文芸関係者の拒絶は顕著にnational な傾向を帯びた。
 1950年代遅くおよび1960年代初頭の抑圧が少なくなった雰囲気の中で、ウクライナの知識人たちは—Kyiv、Kharkiv で、そして、以前はポーランド領土で1939年にソヴィエト・ウクライナに編入されていたLiviv で—、もう一度出会い、書き、national な再覚醒の可能性について議論し始めた。
 多くの者たちは、ウクライナ語で子どもたちに教えた基礎学校で教育されていた。また、自分たちの国の「選択し得る」歴史の見方を両親や祖父母から聞いて成長していた。
 ある者たちは、ウクライナの言語、文学、そしてロシアの歴史とは区別されるウクライナの歴史を普及させることを公然と語り始めた。//
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 (05) こうしたnational identity の影を蘇生させようとする静かな試みに、モスクワは警戒心をもった。
 1961年に、7名のウクライナ人学者が逮捕され、Liviv で裁判を受けた。その中には、Stepan Virun もいた。この人物は、「ナショナリズム追及と数百の党員や文化人の壊滅に伴った不公正な抑圧」を批判する冊子を書くのを助けていた。(注50)
 別の二十数人は、1966年にKyiv で裁判を受けた。
 種々の「犯罪」の中で、ある者は「反ソヴィエト」の詩を含む書物を所有しているとして訴追された。
 その書物は著者名なしで印刷されていたので、警察は、Taras Shevchenko の作品だと見分けることができなかった(当時は彼の著作は完全に合法だった)。(注51)
 ウクライナ共産党の指導者のShelest は、こうした逮捕を主導した。1973年に第一書紀の地位を失ったあと、彼もつぎのような理由で攻撃されたけれども。
 〈O Ukraine, Our Soviet Land〉は、「ウクライナの過去、その十月以前の歴史に長い頁数を与えすぎており、一方で、偉大な十月の勝利、社会主義を建設する闘いのような画期的な出来事を適切に称賛していない」。
 この書物は発禁となった。そして、Shelest は、1991年まで名誉を剥奪されたままだった。(注52)。
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 (06) しかし、1970年代までに、ソヴィエト連邦はもうかつてのように世界から切断されてはおらず、このときの逮捕をめぐっては反響を呼んだ。
 ウクライナの収監者たちは、自分たちの事案に関するニュースを密かにKyiv へと送った。
 Kyiv にいる反対派たちは、自由ラジオ(Radio Liberty)またはBBCと接触する仕方を学んでいた。
 1971年までに、相当に多くの資料がソ連から漏れ出していたので、ウクライナでの証言類を収集した編集本を出版するのは可能だった。その中には、受刑中のウクライナ民族活動家の情熱的な証言録もあった。
 1974年、反対派たちは、集団化と1932-33年飢饉に関する数頁を含む地下雑誌を発行した。
 この雑誌の英語への翻訳版も、〈ソヴィエト連邦でのウクライナ人の民族浄化(Ethnocide)〉という表題で刊行された、(注53)
 西側のソヴィエト観察者や分析者は、ウクライナの反対派は別個の明確な一体の不満をもっていることを徐々に知るようになった。
 1979年にソヴィエトがアフガニスタンを侵攻したこと、1981年にRonald Reagan が大統領に選出されたことは、突如としてデタントの時代を終わらせ、西側の諸国民の相当に広い部分も、ソヴィエトによる抑圧の歴史に改めて注目することになった。その抑圧には、ウクライナ内部でのそれも、含まれている。//
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 (07) 1980年代初頭までに、ウクライナ離散者たちも、変化した。
 以前よりも社会の中核に昇り、財政力も大きくなり—ウクライナ人社会の構成員はもはや貧しい逃亡者ではなく、北アメリカとヨーロッパの中間層の確固たるメンバーだった—、離散者組織は、以前よりも内容のある企画を財政援助することができた。また、散在している資料を書物や映像に変えることもできた。
 カナダでのインタビュー企画は、大きな記録映画(documentary)へと発展した。
 〈絶望の収穫(Harvest of Despair)〉は映画祭で受賞し、1985年春にカナダの公共テレビで放映された。//
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 (08) 合衆国では、この映像を放送しようとしない公共の放送機関の当初の姿勢が、論争の対象になった。—彼らは「右翼」すぎると恐れたのだ。
 PBS は1986年9月についに、「最前線部隊」の特別版として、この映画を放送した。この番組は保守派のコラムニストで〈Natinal Review〉の編集者のWilliam Buckley によって生まれ、彼と歴史家のRobert Conquest、〈New York Times〉のHarrison Salisbury、当時は〈Nation〉のChristopher Hitchens の間の討議の放映が続いた。
 討議の多くは、飢饉それ自体とは関係がなかった。 
 Hitchens は、ウクライナの反ユダヤ主義という論点を提起した。 
 Salisbury は、彼の発言のほとんどで、Duranty〔1884-1957、〈New York Times〉の元モスクワ支局長—試訳者〕に注目した。
 しかし、論評と記事の連続した波がその後に続いた。//
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 (09) より強い関心の大波を生じさせたのは、Conquest 著の〈悲しみの収穫〉(Harvest of Sorrow)だった。これは、数ヶ月後に出版された、Harvard 大学の映像化企画の最も目に見える成果だった。
 この書物は(本書のように)、Harvard ウクライナ研究所の協力を得て執筆された。
 Conquest には、今日では利用できる公文書資料がなかった。
 しかし彼は、Mace と一緒に、存在している情報源—ソヴィエトの公式文書や離散者の中の生き残った人々の口頭証言—を総合して構成した。 
 〈悲しみの収穫〉は1986年に出版され、イギリスとアメリカの全ての大手の新聞や多くの学会誌で書評された。—当時は、ウクライナに関する書物としては先例のないことだった。
 多くの書評者は、このような恐るべき悲劇についてはほとんど何も知らなかった、という驚きを表明していた。
 〈The Times のLiterary Supplement〉で、ソヴィエトの学者のGeoffrey Hosking は、「数年以上を使ってこれだけの資料が積み重ねられた。ほとんどはイギリスの図書館で完全に利用できる」と衝撃を受けた。
 「ほとんど信じ難いことだが、Conquest 博士の書物は、一世紀全体を通じて、最悪の人為的な恐怖の一つと評価しなければならないものの最初の歴史的研究書だ」。
 Frank Sysyn は簡潔にこう述べた。「ウクライナに関するどの書物も、これほど広汎な注目を浴びなかった」。(注55)
 ——
 第四節②へと、つづく。

2548/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章第三節の試訳のつづき。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第三節②。
 (07) Pidhainy はカナダで、ロシア共産主義によるテロル犠牲者(Victims of Russian Communist Terror)ウクライナ人協会の設立を始めた。
 また、目立ったエミグレ組織者にもなり、しばしばエミグレ仲間たちに語りかけ、飢饉だけではなくソヴィエト連邦での生活に関する記憶も書きとめておくよう激励した。
 他のエミグレ集団も、同じことをしたか、すでに行なっていた。
 1944年にWinnipeg に設立されたウクライナ文化教育センターは、1947年に回想記録大会を催した。
 第二次大戦に関する資料を収集することを意図していたが、提出された回想録の多くは飢饉に関係しており、やがてそのセンターは豊富な収集物を蓄えることになった。(注38)
 世界じゅうのウクライナ人社会は、München にある離散者新聞による訴えにも反応した。その訴えは、「ウクライナでのボルシェヴィキの専横さを厳しく弾劾するのに役立つ」回想記を求めていた。(注39)//
 ----
 (08) このような努力の結果の一つが、Pidhainy が編集した書物、〈クレムリン黒書〉(The Black Deeds of the Kremlin)だった。
 やがて二巻で構成されて—第一巻は飢饉20周年の1953年に出版された—、〈黒書〉は、飢饉その他のソヴィエト体制の抑圧的側面の分析とともに、数十の回想記を含むことになった。
 執筆者の中には、Sonovyi がいた。
 このときの彼の主張は、英語に要約して翻訳された。
 「飢饉の真実」と題する彼の小論は、あからさまに始まっていた。
 「1932-33年の飢饉は、ロシアによる支配のためにウクライナ反対派の基幹部を破壊しようとするソヴィエト政府によって必要とされた。
 かくして、政治的動機があったのであり、自然が原因の産物ではなかった。」(注40)//
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 (09) 他の人々は、自分自身の体験を記した。
 簡潔で鮮烈な回想記は、死者の素描や写真とともに、長い文字によって過去を思い出させるものだった。
 Poltava の経済学者だったG. Sova は、「私は何回も、穀物、粉末の最後の一オンス、あるいは農民たちが取り去った豆類を見た」と記憶していた。(注41)
 I. Kh-ko は、その父親が家宅探索の際に靴のゲートルの中にいくつかの穀物を何とか隠すことができていたこと、だがそのうちにやはり死んだこと、を叙述した。
 「死体が至るところに散在していたので、父親の遺体を埋めてくれる者はいなかった」。(注42)
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 (10) 編集者たちは〈クレムリン黒書〉を、国じゅうの図書館に送った。
 しかし、カナダでの新聞記事やドイツでの冊子となった〈The Ninth Circle〉と同様に、ほとんどのソヴィエト学者や学界雑誌の主流によって、慎重に無視された。(注43)
 情緒的な農民の回想記と半学問的な小論の混合物では、アメリカの職業的歴史家たちに訴えるところがなかった。
 逆説的にも、冷戦はウクライナ人エミグレたちの行動の助けにならなかった。
 彼らの多くが用いていた言語遣い—「黒い行ない」あるいは「政治的武器としての飢饉」—は、1950年代、1960年代そして1970年代の多くの学者たちにはあまりにも政治的すぎた。
 執筆者たちは、物語を話す「冷戦の闘士」として冷たく拒否された。//
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 (11) ソヴィエト当局が飢饉の物語を積極的に抑圧したことも、不可避的に、西側の歴史家や文筆家に大きな影響を与えた。
 飢饉に関する確固たる情報が完全に欠けていたため、ウクライナ人の主張は少なくとも高度に誇張されたものだ、あるいは信じ難いとすら、感じさせた。
 そんな飢饉があったならば、ソヴィエト政府はそれに対応しようとしただろう?
 自分の国民が飢えているとき、どんな政府も傍観しはしないだろう?//
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 (12) ウクライナ人離散者たちは、ウクライナそれ自体の地位によっても傷つけられた。
 誠実なロシア史研究者に対してすら、「ウクライナ」という観念は、戦争後にはかつて以上に曖昧であるように思えた。
 外国人のほとんどは、ウクライナの短い、革命後の独立の時代があったことを知らなかった。ましてや1919年や1930年の農民蜂起について、知らなかった。
 1933年の逮捕と弾圧のことなど、少しも知らなかった。
 ソヴィエト政府は、その国民はもとより外国人がソヴィエト連邦は単一の統一体だと考えるように仕向けた。
 世界の舞台でのウクライナの公的な代表者は、ソヴィエト同盟の報道官であり、戦後の西側ではウクライナはほとんど一般的にロシアの一つの州だと考えられた。
 自分たちを「ウクライナ人」と呼ぶ人々は、いくぶんか不誠実だと見られることがあり得た。スコットランド人やカタロニア人(Catalan)の活動家がかつて不誠実だと見られたのとかなり似て。//
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 (13) ヨーロッパ、カナダ、アメリカ合衆国のウクライナ人離散者たちは、1970年代までに、自分たちの歴史家や雑誌をもつに十分なほど大きくなり、Harvard 大学のウクライナ研究所やEdmonton にあるAlberta 大学のカナダ・ウクライナ研究所の二つを設置できるほどに裕福になった。
 しかし、こうした努力があっても、歴史学の主流を形成できるほどに強くはならなかった。
 指導的なウクライナ人離散者のFrank Sysyn は、こう書いた。専門分野の「民族化」(ethnicization)で学界のその他の領域から遠ざかったかもしれない、ウクライナの歴史が二次的で価値のない研究対象のように見えるのだから。(注44)
 ナツィによる占領と一定範囲のウクライナ人がナツィスに協力したという記憶もまた、独立ウクライナの擁護者を「ファシスト」と称するのは数十年経ってすら簡単だ、ということを意味した。
 離散したウクライナ人たちが自己一体性(identity)を執拗に強調することすら、多くの北アメリカ人やヨーロッパ人には、「ナショナリスト」的で、ゆえに胡散臭いと思われた。//
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 (14) エミグレたちが「紛れもなく偏見をもつ者」だとして拒否され、彼らの説明は「曖昧な残酷物語」だとして嘲弄される、ということがあり得た。
 「黒書」の編纂はのちに、ソヴィエト史のある有名な研究者によって、学問的価値のない冷戦期の「時代的産物」にすぎないと叙述されることになる。(注45)
 しかし、そのときウクライナ自体で、重要な事態が進展し始めた。//
 ——
 第三節、終わり。

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
 ——
 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
 ——
 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
 ——
 第三節②へとつづく。

2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 試訳のつづき。
 ——
 第15章第二節②。
 (11) 1942-43年に—ウクライナでのナツィの権力の最高時とたまたま一致している—、飢饉後10年を画するために、農民の支持を狙って多数の新聞が資料を刊行した。
 1942年7月、〈Ukrainskiy Khliborob〉という25万人の読者のある農民週刊紙は、「ユダヤ・ボルシェヴィキのいない仕事の年」に関する大きな記事を掲載した。
 「全ての農民が1933年という年をよく憶えている。飢餓が草のように農民たちを刈り取った年だ。
 ソヴィエトは、20年間に豊かな土地を飢餓の土地に変え、その土地で数百万人が死んだ。
 ドイツ軍兵士はこの攻撃を停止させ、農民たちはパンと塩でドイツ兵を歓迎した。ウクライナの農民が自由に仕事ができるように戦う軍の兵士をだ。」(注21)
 別の記事がつづき、何がしかの魅力をもった。
 当時に日記をつけていた一人は、ナツィのプロパガンダはそのいくぶんかは真実だったために大きな影響をもたらした、と記した。
 「我々人民、我々の家屋、畑、床、便所、村役場、我々の教会の廃墟、蠅、汚物を見よ。
 一言でいうと、全てがヨーロッパ人を恐怖心でいっぱいにする。だが、ふつうの人々から距離を置く我々の指導者とその子分たちや現代ヨーロッパの生活水準から無視されている。」(注22)
 Poltava からのある避難者は、占領下での飢饉に関する多数の議論が始まった戦後すぐのインタビューに答えて、語った。
 彼はまた、まるで赤軍が戻ってきたかのように見えた時点で、人々は「さて我々の『赤たち』は何をもたらすのか? 新しい1933年飢饉か?」と問うた、ということを思い出した。(注23)
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 (12) ナツィのプレスの全てと同じく、これらの戦時中の記事は、反ユダヤ主義で満ちていた。
 飢饉は—貧困や弾圧とともに—、繰り返してユダヤ人の責任だとされた。これはむろん以前から流行していた考え方だが、今では占領者のイデオロギーの中を占めていた。
 ある新聞は、ユダヤ人は必要なもの全てをTorgsin 店舗で購入しているので、飢饉を感じていない住民の唯一の部分だ、と書いた。「ユダヤ人には、金もドルもない」。
 別の新聞は、ボルシェヴィズム自体が「ユダヤの産物」だと語った。(注24)
 ある回想者は、戦争中のKyiv での飢饉に関する反ユダヤ・プロパガンダ映画を見せられた、と思い出した。
 それは掘り出された死体の映像を含んでいて、ユダヤ人の秘密警察官の殺害で終わっていた。(注25)//
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 (13) 戦時中のプレスは、とくにナツィのプロパガンダの枠組に適合するよう企画されてはいない飢饉に関する記事を、ごく少数だけ掲載した。
 1942年11月、農業経済学者のS. Sosnovyi は、まさに最初の準学問的研究だったかもしれないものを、Kharkiv の新聞に掲載した。
 Sosnovyi の論考はナツィの特殊用語を使っておらず、起こったことを正直に説明していた。
 彼はこう書いた。飢饉は、ソヴィエト権力に反対するウクライナの農民を破壊することを意図していた、と。
 「自然な原因」の結果ではなかった。「実際に1932年の気候条件は、例えば1920年のときのそれのように異常ではなかった」。
 Sosnovyi はまた、最初に真摯に犠牲者数の概算を示した。
 彼は、1926年と1939年の国勢調査その他のソヴィエトの統計出版物(たぶん知っていただろうが、発禁の1937年国勢調査を含まない)に言及しながら、1932年にウクライナで150万人が、1933年に330万人が、飢餓で死んだ、と結論した。—今日に広く受容されている数字よりも僅かに大きいが、遠く離れてはいなかった。//
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 (14) Sosnovyi はさらに、本当の物語、「選択し得る話」のきわめて多くは事実のあとの10年間なおも生き続けたということを示し、飢饉がどのように発生したかを叙述した。
 「まず彼ら〔ボルシェヴィキ〕は、集団農場の貯蔵所から全てを奪った。—農民が「作業日」(〈trudodni〉)に得た全てのものを。
 ついで彼らは、飼料、種苗を奪い、あらかじめ受け取っていた最後の穀物を農民から奪った。…
 彼らは、撒かれた範囲が狭く、穀物の収穫量は1932年のウクライナでは少ないことを知っていた。
 しかしながら、穀物生産の計画はきわめて高かった。
 これは、飢饉を組織する第一歩ではないか?
 ボルシェヴィキは、調達している間に、極度に少ない穀物しか残っていないことを知った。だが、彼らは全てを運び去り、奪い去った。—これはまさに、飢饉を組織するやり方だ。」(注26)
 同様の思いが、のちに、飢饉はジェノサイド(genocide)だった、nation としてのウクライナ人を破壊する意図的な計画だった、という主張の基盤を形成することになる。
 しかし、1942年では、この言葉はまだ使用されていなかった。そして、こういう観念自体すらが、ナツィ占領下のウクライナにいる誰の関心をも惹かなかった。// 
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 (15) Sosnovyi の論考は淡々として分析的なものだったが、それに付随した詩は、公然とは行えなかった服喪がまだなされていたことの証拠だ。
 Oleksa Veretenchenko が作った「遠い荒廃した北方のどこか」は、1943年を通して〈Nova Ukraina〉に掲載された一連の詩の〈1933年〉の一部だった。
 どの詩も、痛みまたは郷愁の、異なる調子をもっていた。
 「笑いに、何が起きたのか?
 少女たちが真夏の夕べを照らすために用いた焚き火に、いったい何が?
 ウクライナの村民たちはどこにいる?
 そして、家のそばのサクランボはどこに?
 貪欲な炎へと、全てのものが消え失せた。
 母親たちが、その子どもたちを食っている。
 狂った男が、市場で人肉を売っている。」(注27)
 こうした感情の響きの形跡は、人々の家の私的会話でも聞くことができた。
 ソヴィエトとドイツは侵攻に際してウクライナ西部(Galicia、Bukovyna、西部Volhynia)を国のその他の部分と効果的に統合したがゆえに、多数の西部ウクライナ人は、初めて東部へと旅行することができ、そこで見聞したことを記録した。
 飢饉は1933年には広く論じられたけれども、繰り返して語られる飢饉の物語を聞いて、戦時中に中部ウクライナを訪れたBohdan Liubomyrenko には、依然として驚きだった。
 「我々が人々を訪問した至るところで、会話した者は誰もが全て、きわめて恐ろしいこと、彼らが体験した日々について言及した」。
 彼を接遇した者はときどき、「一晩じゅう、彼らの恐怖の体験」を語った。
 「恐怖の時代は、政府が1932-33年にウクライナを満足げに眺める悪魔と一緒に計画した人為的飢饉の時代で、その記憶は人々の中に深く染み込んでいた。
 十年の長さは、殺戮の痕跡を抹消することも、無垢の子どもたちや男女の、飢饉で衰弱して死んでゆく若者たちの、最後のあえぎ声を消散させることも、できなかった。
 悲しみの記憶は、黒いもやのように都市や村落の上になおも掛かっており、飢餓を免れた目撃者たちの間に致命的な恐怖を生んでいる。」(注28)
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 (16) ウクライナ人も、集団化、抵抗、弾圧するために1930年に到来した軍隊について、公然と話し始めた。
 多くの人々には、飢饉の政治的原因は明瞭で、「農民たちが強奪されたこと、全てが没収されたこと、家族には、小さな子どもたちにすら、何も残されなかったこと」を語り、「彼らは全てを没収して、ロシアへと輸出した」と言った。(注29)
 1980年代に、作家のSvetlana Aleksievich はロシアの老人女性に会った。彼女は戦時中にあるウクライナ人女性の側で仕えていた。
 家族全員を飢饉で失った生存者であるその女性は、ロシアの老人に、自分は馬の肥料を食べてようやく生き残った、と言っていた。
 「私は祖国を守りたかった。でも、スターリンを守りたくはない。あの革命の裏切り者は。」(注30)//
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 (17) のちにそうなったのと同様に—また今日でも同様に—、聞いた者全員がこうした物語を信じているわけではなかった。
 ロシアの老人は、彼女の仲間は「敵」か「スパイ」ではないかと懸念した。
 Galicia 出身のウクライナ・ナショナリストですら、国家による飢饉という考えを固く信じるのは困難だと感じた。
 「率直に言って、政府がそんなことをすることができたと信じるのはむつかしいと思った」。(注31)
 スターリンは意図的に人々が飢えて死ぬのを認めたという考えは、スターリンを嫌う者たちにとってすら、あまりにも恐ろしすぎ、あまりにも怪物的だった。//
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 第二節、終わり。


 Applebaum-Faminn02

2544/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第二節①
 (01) 1941年6月22日、ヒトラーがソヴィエト同盟に侵攻した。
 ドイツ軍は11月までに、ソヴィエト領ウクライナのほとんどを占領した。
 つぎにどうなるかが分からないまま、多くのウクライナ人は、ユダヤ系ウクライナ人ですら、最初はドイツ兵団を歓迎した。
 ある女性はこう思い出す。
 「少女たちはしばしば兵士に花を捧げ、人々はパンを与えたものだ。
 我々はみんな、彼らを見て嬉しかった。
 彼らは、我々から全てを奪って飢えさせた共産主義者から救ってくれようとしていたのだ。」(注7)
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 (02) バルト諸国も、同様にドイツ軍を歓迎した。これら諸国は、1939年から1941年まで、ソ連に占領されていた。
 コーカサスとクリミアも同様に、ドイツ兵団を熱烈に迎えた。これらの住民たちがナチスだったのが理由ではない。
 非クラク化、集団化、大量テロルと教会に対するボルシェヴィキの攻撃によって、ドイツ軍がもたらすものについて、幼稚で楽観的な見方が生まれていた。(注8)
 ウクライナの多くの地方で、ドイツ軍の到来とともに、自発的な非集団化が発生した。
 農民たちは後方地を奪ったのみならず、ラッダイト(Luddite)の憤激のようにトラクターや複式収穫機を破壊した。(注9) 
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 (03) 大騒ぎは、すぐに終わった。—そして、ドイツによる占領のもとでのよりましな生活を望んだ全ての者たちの期待は、すみやかに消滅した。
 つぎにどうなったかの十分な説明は、この書物の射程を超えている。ウクライナにナツィスがもたらした苦難は、広範囲で、暴力的で、ほとんど理解できないほどの規模で残虐なものだったからだ。
 ソ連に来るまでに、ドイツは他国を破壊する多数の経験をもっていた。そしてウクライナでは、自分たちがどうしたいのかを知っていた。
 ただちにホロコーストが始まり、遠く離れた収容所でのみならず、公然と繰り広げられた。
 ドイツ軍は、移送をするのではなく、隣人たちの面前で、村落の端や森の中で、ロマ人やユダヤ人の大量の処刑を敢行した。
 ウクライナのユダヤ人の三分の二が、戦争の全過程を通じて死んだ。—80万人と100万人の間。この割合は、大陸全体で死んだ数百万の現実的部分のそれよりも大きい。//
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 (04) ヒトラーによるソヴィエトの犠牲者の中には、200万人以上の戦争捕虜も含まれていた。彼らのほとんどは病気か飢餓のために死に、また、多くはウクライナの領域で死んだ。
 人肉喰いが、再びウクライナで発生した。
 Kirovohrad の第306捕虜収容所では、監視兵が収監者が死んだ仲間を食べていると報告した。
 Volodymyr Volynskyi の第365捕虜収容所での目撃者は、同じことを報告した。(注10)
 ナツィの兵士と警察官は、その他のウクライナ人を、とくに公職の役人たちから強奪し、打ちのめし、恣意的に殺害した。 
 ナツィの人種階層では、スラヴ人は下層人間(Untermenschen)『“で、おそらくはユダヤ人よりも一階位上だったが、偶発的な抹殺の候補になった。
 ドイツ軍を歓迎した者の多くには、ドイツは一つの独裁制を新しい独裁制に変更した、ということが分かった。とりわけ、ドイツが新たな移送の波を打ち寄せ始めたときに。
 戦争のあいだに、ナツィ兵団は、200万人以上のウクライナ人をドイツの強制労働収容所に送り込んだ。(注11)
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 (05) ウクライナを占領した全ての諸国と同じく、ナツィスも究極的にはただ一つの現実的な関心をもっていた。すなわち、穀物。
 ヒトラーは以前から、「ウクライナの占領は全ての経済的不安から我々を解放する」、ウクライナの領土は「誰も前の戦争のように我々をもう一度飢えさせることができなくなる」のを保障する、と主張していた。
 1930年代の遅く以降、ヒトラー政権はこの願望を現実に変えようとしてきた。
 Herbert Backe という食料と農業を担当した悪辣なナツィ官僚は「飢餓計画」を構想したが、その目標は率直だった。すなわち、「戦争の三年めに全軍がロシアで食べていけてはじめて、戦争に勝つことができる」。
 しかし、軍全体は、ドイツ自体もそうだが、ソヴィエト国民が食糧を奪われてはじめて、自分は食べていくことができる、とも結論づけていた。 
 1941年6月に1000名のドイツの官僚たちに回覧された覚書にもあるが、彼は5月に出版した「経済政策指針」でこう説明した。
 「信じ難い飢餓がまもなくロシア、ベラルーシおよびソヴィエト連邦の産業都市を襲うだろう。Kyiv 、Kharkiv はもちろんモスクワやレニングラードでも。
 この飢饉は偶発的なものではないだろう。目標は、およそ三千万の人々が『死に絶える』(die out)ことだ。」(注12)
 征服した領域の活用を所管する東方経済部員(Staff East)への指針は、厳としてつぎのように述べていた。
 「この領域の数千万もの多数の人々は不必要になり、死ぬかまたはシベリアへと移住しなければならないだろう。
 〈黒土地帯からの余剰分を使って飢餓による死から彼らを救う試みは、ヨーロッパへの供給を犠牲にしてのみ成り立ち得る。
 そのような試みは、ドイツが戦争に踏み出すのを妨げる。
 ドイツとヨーロッパが封鎖に対抗する妨げになる。
 このことは、絶対的に明瞭だ。〉」[強調〔=〈〉〕は原文のまま](注13)
 これは、何倍も大きくしたスターリンの政策だった。飢餓による民族(nations)全体の抹殺。//
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 (06) ナツィスには、この「飢餓計画」をウクライナで完全に実施する時間的余裕がなかった。
 しかし、その影響はその占領政策に感じ取ることができた。
 集団農場からの食料徴発の方が容易だという理由で、自発的な非集団化はすぐに停止された。
 Backe は、「ドイツ人は、ソヴィエトがすでに整えていないならば、集団農場を導入しなければなければならなかっただろう」と報告的に説明した。(注14)
 1941年には、農場は「協同組合」へと転換させることが意図されたが、それは起きなかった。(注15)//
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 (07) 飢餓も、戻ってきた。
 スターリンの「焦土」政策が意味したのは、ウクライナの経済的資産の多くが赤軍を退却させたことですでに破壊されている、ということだった。
 占領によって、状況はそこにとどまった人々にはさらに悪くなった。
 Kyiv が9月に陥落する直前に、帝国経済大臣のHermann Göring は、Backe と会談した。
 二人は、都市部の住民が食物を「むさぼる」(devour)のが許されてはならない、ということで一致した。「もし誰かが新たに占領した領域の住民全員に食を与えたいと望んだとしても、そうすることはできないだろう」。
 SSのHeinrich Himmler は数日後にヒトラーに対して、Kyiv の住民は人種的に劣っており、不要なものとして処分することができる、と言った。
 「彼らの80-90パーセントなしで、容易に済ませられる」。(注16)//
 ----
 (08) 1941年冬、ドイツは都市部への食料供給を断ち切った。
 固定観念とは逆に、ドイツ当局はソヴィエトのそれよりも有能ではなかった。つまり、農民取引者たちは暫定的な非常線を通過した—1933年にそうするのは困難だと気づいていた。そして、数千人の人々が再び食料を求めて道路や鉄道を利用した。
 それにもかかわらず、食糧不足は、占領地帯で増大した。
 もう一度、人々は膨らみ、痩せ、遠くを見つめ、そして死に始めた。
 その冬、Kyiv で5万人が飢餓のために死んだ。
 ナツィの司令官が非常線で遮断していたKharkiv では、1942年5月の最初の二週間で、1202人が飢餓のために死んだ。
 占領期間中の飢餓による全死者数は、約2万人に達した。(注17)//
 ----
 (09) こうした論脈の中で、ウクライナの1933年飢饉に関して公然と語るのが初めて可能になった。—残虐な占領のもとでの苦難と混沌、そして新たな飢饉の発現の中で。
 状況によって、物語の語られ方が形成された。
 占領のあいだ、議論の目的は生存者が嘆き悲しんだり、回復したり、正直な記録を生んだり、あるいは将来のための教訓を学んだりするのを助けることでは、なかった。
 過去を思い出すようなことを望んだ人々は、失望していた。
 飢饉についての秘密の日記類を守り続けた農民たちの多くは、日記類を地下から掘り出し、地方の新聞社へ持ち込んだ。
 しかし、「不幸なことに、編集者たちの多くは、今になっては過去の時代のことに興味がなかった。そして、こうした貴重な歴史的記録は公表されなかった」。(注18)
 その代わりに、この編集者たち—仕事と生活を新しい独裁制に依存していた—のほとんどが、ナツィのプロパガンダに奉仕する記事を掲載した。
 この者たちには、議論の目的は、新しい体制を正当化することだった。//
 ----
 (10) ナツィスは実際には、ソヴィエトによる飢饉について多くのことを知っていた。
 その飢饉が起きているあいだ、ドイツの外交官はベルリンへの報告書で詳細に飢饉に関して叙述していた。
 Joseph Goebbels は、1935年のナツィ党大会の演説で、飢饉に言及した。彼はそこで、500万人が死んだと発言した。(注19)
 ドイツ軍が到着した瞬間から、ウクライナ占領者たちは、彼らの「イデオロギー的工作」のために飢饉を利用した。
 彼らが望んだのは、モスクワに対する憎悪が増幅すること、ボルシェヴィキによる支配の結果を人々が思い出すこと、だった。
 彼らがとくに熱心だったのは田園地帯のウクライナ人に達することで、ドイツ軍が必要とする食料の生産のためにはそうした努力が要求された。
 プロパガンダ用ポスター、壁新聞、時事漫画が、不幸で半ば飢えた農民たちを描いた。
 あるやせ細った母親とその子どもは、「これがスターリンがウクライナにしたことだ」というスローガンのある荒廃した都市を見た。
 別の貧しい一家は、「同志たちよ、生活はよくなった、愉快になった」というスローガンの下で、食物のないテーブルに座っていた。—このスローガンは、有名なスターリンからの引用句だった。(注20) //
 ——
 第二節②へとつづく。

2543/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor①。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 邦訳書は、たぶん存在しない。この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。
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 緒言
 序説—ウクライナ問題。
 第1章・ウクライナ革命、1917年。
 第2章・反乱、1919年。
 第3章・飢饉と休止、1920年代。
 第4章・二重の危機、1927-29年。
 第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
 第6章・反乱、1930年。
 第7章・集団化の失敗、1931-32年。
 第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
 第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
 第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
 第11章・飢餓—1933年の春と夏。
 第12章・生き残り—1933年の春と夏。
 第13章・その後。
 第14章・隠蔽。
 第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
 エピローグ・ウクライナ問題再考。
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 すでにこの欄に掲載したのは、冒頭の「緒言」と「序説」。
 以下、第15章(とエピローグ)を試訳する。 
 Holodomor(ホロドモール)の意味は、本文の中で語られるだろう。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール(Holodomor)。
 第一節。
 (01) 飢饉のあとの数年間、ウクライナ人は、起きたことについて語るのを禁止された。
 彼らは、公然と嘆き悲しむのを怖れた。
 大胆にそうしようとしても、祈ることのできる教会はなく、花で飾ることのできる墓石もなかった。
 国家がウクライナの農村地帯の諸団体を破壊したとき、公的な記憶も攻撃された。
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 (02) しかしながら、生存者たちは、私的に記憶していた。
 彼らは、起きたことについて、実際に書き残し、または頭の中に憶えた。
 ある者が思い出すように、日記を「木箱に鍵をかけて」守りつづけ、床下に隠したり、地下に埋めたりした人々もいた。(注2)
 農村では家族内で、人々は何が起きたかを子どもたちに話した。
 Volodymyr Chepur は、彼の母親が彼女と彼の父親の二人は食べるためにあった全てのものを彼に与えようとした、と話してくれたとき、5歳だった。
 自分たちが生き残ることができなくとも、証言することができるように彼が生きるのを、両親は望んだ。
 「私は死んではならない。大きくなったとき、我々とウクライナ人がどのように苦悶の中で死んだかを、人々に語らなければならない。」(注3)
 Elida Zolotoverkha 、日記を残していたOleksandra Radchenko の娘も、子どもたち、孫たち、さらにひ孫たちに、日記を読んで、「ウクライナが体験した恐怖」を記憶しておくように言った。(注4)//
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 (03) 多くの人々が私的には繰り返したこうした言葉は、彼らの痕跡を残した。
 公的な沈黙によって、それらの痕跡はほとんど秘密の力をもった。
 1933年以降、こうした物語は選択し得るいずれかの話になった。飢饉に関する、情緒的に力強い「本当の歴史」か、公的な否認と並んで成立して大きくなる口伝えの伝承か。//
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 (04) 彼らは党が公的議論を統制するプロパガンダ国家で生きたけれども、ウクライナ内の数百万のウクライナ人は、選択し得るこの話を知っていた。
 分裂の感覚、私的な記憶と公的な記憶の乖離、民族的哀悼のうちににあったに違いない大きく裂けた穴。—これらは、ウクライナ人を数十年にわたって苦しめた。
 両親がDnipropetrovsk で飢餓によって死んだあと、Havrylo Prokopenko は、飢饉について考えるのを止めることができなかった。
 彼は学校のために、飢饉に関する物語をそれにふさわしい絵図つきで書いた。
 教師はその作業を褒めたけれども、捨てるように言った。彼が、そして自分が、面倒なことに巻き込まれるのを怖れたからだった。
 このことは彼に、何かが間違っている、という感情を残した。
 なぜ、飢饉のことに触れることができないのか?
 隠そうとしているソヴィエト国家とは何だ? 
 Prokopenko は、30年後に、地方のテレビ局で、「飢えて黒い人々」に関する一節を含む詩歌を何とか読むことができた。
 地方当局からの威嚇的な訪問がそのあとでつづいた。しかし、彼はいっそう確信するようになった。ソヴィエト連邦(the USSR)はこの悲劇について責任がある、と。(注5)//
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 (05) 記念する物が存在しないことで、Volodymyr Samoiliusk も苦悩した。
 彼はのちのナツィの占領を生き延びて第二次大戦で戦闘したけれども、飢饉の体験以上に悲劇的だと思えるものは何もなかった。
 記憶は数十年間彼にとどまり続け、彼は、飢饉が公式の歴史の中に現れるのを待ち続けた。
 1967年に彼は、1933年に関するソヴィエトのテレビ番組を観た。
 彼は画面を凝視して、記憶している恐怖に関する映像を待った。
 しかし、第一次五ヶ年計画の熱狂的英雄たち、メーデー行進、さらにその年からのサッカー試合すら、の画像は見たけれども、「おぞましい飢饉に関しては、一言も発せられなかった。」(注6)
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 (06) 1933年から1980年代の遅くまで、ウクライナ内部での沈黙は、全面的(total)だった。—瞠目すべき、痛ましい、そして複雑な例外はあったけれども。
 ——
 第一節、終わり。

2539/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづきで、最終回。公刊邦訳書は、存在しない。
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 第20章・判決(Judgement)
 第二節②
 (08) ソヴィエト国家の創設者をどう取り扱うべきかに関する合意は、もはや得ることができなかった。
 Yeltsin とロシア正教会は、レーニンの聖廟を閉鎖して彼自身が望んだようにレーニンの遺体をSt. Petersburug のVolkov 墓地の母親の隣に埋葬しようとの呼びかけを支持した。
 しかし、共産党員たちは団結して、これに反対することを明瞭にした。それで、この問題は解決されないままになった。
 Putin は、レーニンを聖廟から移すことに反対だと言い、ソヴィエト国歌についての彼の考え方と同様の理由で、レーニンを聖廟から取り去ることは、ソヴィエト支配の70年のあいだ間違った理想を抱いていたと示唆することになって古い世代の者たちを傷つけるだろう、と言った。//
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 (09) Putin は、彼の体制の最初から、ソヴィエトの歴史における誇りを回復しようと意図した。
 ロシアを大国の一つとして再建設することは、彼の課題(agenda)の重要な一部だった。
 Putin の新政策は、とくにソヴィエト同盟への郷愁(nostalgia)に訴えるときに、人気を博した。
 ソヴィエト連邦の崩壊は、ほとんどのロシア人にとっては屈辱だった。
 数ヶ月のうちに、彼らは全てを失った。全て—安全と社会的保証を与えてくれた経済制度、超大国たる地位をもつ帝国、一つのイデオロギー、学校で教えられたソヴィエト的歴史の見方が形成したナショナルな一体性。
 ロシア人は、グラスノスチの時期に自分たちの国の歴史が泥を塗られたことに憤慨していた。
 彼らには、スターリン時代の自分たちの親族に関する諸問題を問うのを強いられたことが、不愉快だった。
 彼らは、自分たちの歴史がいかに「悪い」ものだったかを語る講釈を聞きたくなかった。
 Putin は、1917年以降の偉業を達成した「大国」の一つだとロシアを再び自己主張することによって、ロシア人がロシア人としてもう一度快い気持ちになることを助けた。//
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 (10) Putin の新政策は学校から始まった。ソヴィエト時代について否定的すぎると見られた教科書は、教育省の同意のもとで拒否され、実質的に教室から排除された。
 2007年、Putin は、歴史の教師たちの会合で、こう語った。
 「我々の歴史にあるいくつかの問題がある部分について言えば、そのとおり、存在した。
 しかし、どの国がそのような問題を持っていないのか?
 我々には、いくつかの他の国に比べて、問題は少なかった。
 我々にあった問題は、他のいくつかの国のようにはおぞましいものではなかった。
 そのとおり、我々にはおぞましい問題があった。1937年に始まった事態を思い出そう、それについて忘れないようにしよう。
 しかし、他の諸国も同様であって、より多くすらあった。
 いずれにせよ、我々は、アメリカ人がヴェトナムで行ったような、数千キロメートル以上にわたって化学薬品を撒いたり、小さな国に第二次大戦全体よりも7倍以上多い爆弾を落としたりすることをしなかった。
 また、ナツィズムのような、その他の暗黒の部分もなかった。
 この種の出来事は、全ての国家の歴史で起きている。
 そして、自分たちが罪を背負わされることを、我々は認めることができない。…」(後注5)
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 (11) Putin はスターリンの罪責を否定しなかった。
 しかし彼は、その点に思いとどまり続けることなく、国の「栄光のソヴィエトの過去」の達成者としてのスターリンの功績とそれのあいだの均衡を考える必要を語った。
 大統領から作成が委ねられ、ロシアの学校で圧倒的に奨励された歴史教育者用の手引書では、スターリンは、「国の近代化を確実にするためにテロル運動の指揮を理性的に行った、有能な管理者(effective manager)」だったと描かれた。(後注6)//
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 (12) 世論調査が示しているのは、ロシア人は革命的暴力に対して当惑させる考え方をもっている、ということだ。
 三都市(St. Petersburg, Kazan, Ulyanovsk)で2007年に実施された調査によると、住民の71パーセントは、チェカの創設者のDzerzhinsky は「公共の秩序と市民生活を守った」と考えていた。
 僅か7パーセントだけが、Dzerzhinsky を「犯罪者で、処刑者だ」と見なしていた。
 その調査が示すさらに当惑させることは、ほとんど全員がスターリンのもとでの大量弾圧について十分によく知っていながら—「1000万人から3000万人までの犠牲者」が被害を受けたとほとんどの者が知っていながら—、回答者の三分の二が、スターリンは国にとって積極的な役割をもった(positiv)と考えていることだった。
 多くの者が、スターリンのもとでの人々は「より優しくて思いやりがあった」とすら考えていた。(後注7)
 数百万人が殺害されたと知っていてすら、ロシア人は、大量の国家的暴力は革命という目標を目指すためには正当化され得る、というボルシェヴィキ思想を、受容し続けているように見える。
 別の調査によると、ロシア国民の42パーセントは「スターリンのような指導者」が再登場するのを望んでいる。(後注8) //
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 (13) 2011年の秋、数百万のロシア人が〈The Court of Time (Sud Vremeni)〉というテレビ番組を観た。そこでは、ロシアの歴史上の多様な人物や事件について、弁護人、証人および陪審員のいる模擬裁判によって判決が下された。陪審員は、電話で投票して評決に達した視聴者たちだった。
 これが下した諸判決は、ロシア人の考え方の変化について大きな希望を与えるものではない。
 農民に対するスターリンの戦争や農業集団化の影響の大惨害に関する証拠が提示されても、視聴者の78パーセントは、集団化はソヴィエトの工業化のために正当化される(「恐ろしい必要」だった)となおも考えており、僅か22パーセントだけがそれは「犯罪」だったと見なした。
 ヒトラー・スターリン協定〔1939年の独ソ不可侵条約—試訳者〕については、91パーセントが必要だったと考えた。僅か9パーセントだけは、それは第二次大戦の勃発に寄与した一要因だったと見なした。
 同じ投票数は、Brezhnev 時代についても記録された。91パーセントが「種々の可能性があったとき」だったと考えた。
 ソヴィエト同盟の瓦解についても、91パーセントが「national な大惨事」という評決に賛成した。//
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 (14) ロシア人が共産主義体制の社会的悪夢と病理から治癒されるには、数十年を要するだろう。
 革命は、政治的には死んでいるかもしれない。しかし革命は、100年の暴力的な一巡りで掃き集められた人々の精神性(mentalities)に余生を見出している。//
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 第二節、終わり。第20章も、終わり。

2538/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
 —— 
 第20章・判決(Judgement)。
 第二節①。
 (01) ロシアが必要としたのは、おそらく裁判ではなく、真実と和解に関する委員会だった。それは、アパルトヘイト(apartheid)の犠牲者に公開の聴聞の機会を与え、暴力行使の加害者から恩赦の訴えを聴く、そうした目的のために設置された南アフリカの委員会のようなものだ。
 以前の党官僚の特定のグループを訴追したり禁止したりするのが不適切であれば、公開の聴聞や過去に冒された犯罪に対する国家の謝罪を通じて、ロシア人が自分たちの過去に向き合い、ソヴィエト体制の犠牲者が被った悪夢を認識することが、議論の余地はあるとしても正当で、治療法になっただろう(「復古的正義」)。//
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 (02) 限られたかたちではあるが、この過程はGorbachev のもとでのグラスノスチによって始まっていた。
 抑圧の犠牲者たちは名誉が回復され、氏名を明らかにすることが認められた。
 ソヴィエト・システムの崩壊のあと、Yeltsin には、新しい民主主義と市民社会のために必要だった制度設計の一部として、このシステムを解明する機会があった。
 彼は、この機会を掴まなかった。
 そのための説明の一部は、つぎのように政治的だった。
 KGB の力は強すぎて、その文書資料を公共の調査のために開示するよう強いることができない。憲法裁判所は新しいものなので、民主主義的役割を有効に果たすことができない。Memorial のような公共的団体はその力が依然として弱すぎる。
 そして、西側からは何ら圧力が加えられなかった。西側は、経済の自由化にだけ関心があったのだ。
 しかし、歴史は、一つの説明でもあった。
 ソヴィエトの過去によって、国は二分された。
 革命の歴史に関する合意はなく、nation が真実と和解を探求して統合することのできる、同意された歴史物語もなかった。
 南アフリカでは、アパルトヘイトに対する決定的な道徳的勝利があり、退いた体制の歴史に対して統一した物語を課すことができた。
 しかし、ロシアでは、1991年に、そのような勝利はなかった。
 多くのロシア人が、ソヴィエト同盟の崩壊を、おぞましい敗北だと見た。//
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 (03) 真実と和解は、歴史的判断を意味する。
 しかし、ロシアの人々が自分たちの国の歴史について、どのような評決を下し得ただろうか?
 彼らは、ソヴィエト・システムは世界で最良でないとしても「正常な」(normal)ものだと信じて(少なくともある程度は受容して)自分たちの人生を生きていたのだ。//
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 (04) ナツィ・ドイツとの比較が、ときおり行われた。
 西ドイツは、1945年以降、彼ら自身の近年の歴史に照らして、長くて痛々しい自己点検の作業を行ってきた。
 ナツィ体制は、12年間だけつづいた。
 しかし、ソヴィエト・システムは、四分の三世紀に及んだ。
 1991年までには、ロシアの住民の全体がそのシステムのもとで教育され、そのもとで経歴を積み、彼らの子どもたちを育てた。彼らの人生をソヴィエトの偉業を達成するために捧げたのであり、それは彼ら自身と当然に一体だった。//
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 (05) ロシアの人々は、信念と実践のシステムとしての共産主義を喪失して、混乱した。
 彼らは、道徳的空虚を感じた。
 ある人々にとっては、宗教が空隙を埋めた。
 正教は、マルクス・レーニン主義に代わる既成の選択肢だった。
 正教は、1917年以降に失われたロシア的生活様式との再連結、祖先を抑圧したことについての後悔、ソヴィエト体制に関与してしまった道徳的妥協からの清浄化を提供した。
 別のある人々にとっては、君主制主義が代替物だった。
 1990年代初頭には、ロマノフ家へのロシア人の関心が復活するということがあった。
 国外逃亡していたロマノフ家の子孫が帰ってきて、ロシアが立憲君主制になる、ということが語られた。
 君主制主義者の復活は、ニコライ二世とその家族が1998年7月17日、彼らがボルシェヴィキによって処刑された後ちょうど80年後に、St. Petersburg のPeter & Paul 聖堂に再埋葬されたときに絶頂に達した。
 二年後、皇帝一族は、モスクワの総主教によって聖人とされた。//
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 (06) 歴史で分裂したロシア人は、nation または国家の象徴のまわりで統合することができなかった。
 ロシア帝国の三色旗(白・青・赤)が、ロシア国旗として再び採用された。
 しかし、ナショナリストや君主制主義者たちは帝国軍隊の外套を好み、共産党員たちは赤旗に執着した。
 ソヴィエトの戦時中の国歌は、19世紀の作曲家のMikhail Glinka が作った「愛国歌」に換えられた。
 しかし、この「愛国歌」は人気がなかった。
 この歌はロシアの競技者やサッカー選手を鼓舞せず、彼らの国際舞台での成績はnational な恥辱の原因になった。
 Putin は、2000年に大統領に選出されてすぐ後に、87歳の作家のSergei Mikhailkov が1942年に元の歌詞を書いていた言葉に新たに戻した。
 彼はこの復活を、歴史的な敬意と継続性について語って正当化した。
 彼はこう言った。この国のソヴィエトの過去を否定することは、古い世代の人々から彼らの人生の意味を奪うことになるだろう。
 民主主義者はスターリン時代の国歌の復活に反対した。一方で、共産党員は支持し、ほとんどのロシア人もこの回帰を歓迎した。//
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 (07) 十月革命を記念することも、同様に分裂の元になった。
 Yeltsin は、「対立を消滅させ、異なる社会階層の間に和解を生むために」革命記念日を調和と再和解の日(Day of Accord and Reconciliation)に変更した。
 しかし、共産党員たちは伝統的なソヴィエト的様式で革命記念日を祝いつづけ、多数の党員が旗を掲げてデモ行進をした。
 Putin は、11月4日を国民統合の日として設定することで、対立を解消しようとした(1612年にポーランドによるロシア占領が終わった日)。
 その日は、2005年から公式のカレンダーで11月7日の祝日となった。
 しかし、国民統合の日は、理解されなかった。
 2007年の世論調査によると、住民のわずか4パーセントだけが何のための日かを語ることができた。
 人々の十分の六は、革命記念日がなくなることに反対していた。
 ——
 第二節②へと、つづく。
 

2537/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
 ——
 第20章・判決(Judgement)。
 第一節②。
 (09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
 しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
 ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
 民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。) 
 Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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 (10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
 独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
 実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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 (11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
 おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
 東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
 これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
 彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
 しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
 革命は、ロシアの土壌から成長した。
 数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
 「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
 この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
 Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
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 第一節、終わり。

2536/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章はこの書全体の最終章で、「判決」(Judgemenrt)との表題のもとでソヴィエト連邦の歴史全体についての何らかの判断、評価、論評が書かれているのかとも、予想した。
 だが、そうではなく、主としては1991年崩壊後の(旧ソ連全体についてではなく)ロシアについて、人物としてはYeltsin やPutin らについて、書かれているようだ(当然に判断、評価、論評を含む)。
 この欄での表題を「ソ連崩壊のあと」に変えて、試訳を続ける。
 ロシアの民衆の多数が「社会主義・共産主義」またはソ連共産党支配を拒否したためにソ連が崩壊・解体したわけではない(O・ファイジズによると)、という指摘等は、今日のロシアやプーティン(Putin)について考えるにあたっても興味深い。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」(1997年、〈日本会議〉設立宣言)という宣明は、とくにロシア国民にとっては、どこか的はずれで幼稚だと、改めて思いもする。
 ——
 第20章・判決(Judgement)
 第一節①。
 (01) Yeltsin によるソ連共産党(CPSU)の禁止を、共産党員は争った。
 この事件は、新設されたロシア憲法裁判所の法廷によって1992年7月から審理され、五ヶ月間テレビで放映された。
 これは「ロシアのニュルンベルク」だと喧伝され、共産党に対する政治裁判と同然になったけれども、1945年のナツィス裁判とは違って、犯罪行為を追及される被告人はいなかった。8月の蜂起〔クー〕の指導者たちですら被告人ではなく、彼らは刑務所からすみやかに釈放され、恩赦を受けていた。//
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 (02) Gorbachev は、証人として出廷するのを拒んだ。見せ物裁判で全ての罪責を負わされる(made scaprgoat)のを恐れたのだ。
 彼は、ニュルンベルク裁判との対比を否定した。のちに、〈回想録〉でこう書いた。
 ニュルンベルクでは、「特定の者たちが特定の残虐行為を行ったとして裁かれた。
 しかし、本当に犯罪者として有罪であるソ連共産党の指導者たちはすでに死亡しており、歴史だけが彼らに対して判決を下すことができる。」(後注1)
 だとすれば、これはいかなる性格の裁判なのか?//
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 (03) Yeltsin の法的チームは、ソ連共産党は正当(proper)な政党ではなく犯罪組織だったと主張すべく、60人以上の専門家の宣誓証言に支えられて、十月革命の歴史の全体に及ぶ36巻の文書資料を作成した。
 スターリンのテロルの犠牲者の一人だったLav Razgon は、収容所で死亡した人々の数の正確な計算を嘆願した。
 他の者たちは、スターリン後の時代の反対派や僧職者を追及すべく証言した。
 共産党員たちは、党の歴史について自分たちの見方を述べ、ソヴィエトの工業化の達成、1945年の勝利、スプートニク宇宙計画を強調した。//
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 (04) 法廷は、ソヴィエトの歴史について判断する権能を自分たちは有しないと声明し、妥協的な評決に達した。Yeltsin によるソ連共産党の禁止を肯認し、一方で共産党員がロシアで党を再建することを許容した。
 ロシア連邦共産党は、法廷での審理直後の1992年11月30日に設立された。
 1993年3月までに、ロシア連邦共産党は、50万人以上の登録党員をもち、ロシアの新しい「民主政」のもとで他をはるかに凌ぐ最大の政党になった。//
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 (05) 党の歴史に関して、いかなる判決を下すことができたのか?
 党の「犯罪」の記録について、いったい誰が評決を下す法的または道徳的な権利を有したのか? 
 ニュルンベルクでは、罰せられるべき明らかな戦争犯罪があり、国際法のもとで裁判権をもつ軍事的勝利者がいた。
 しかし、以前のソヴィエト同盟を裁く司法権をもつ解放勢力は存在しなかった。
 憲法裁判所は、そのような高度の権能を担える立場にはなかった。
 13名の裁判官のうち12名は、かつては共産党員だった。
 彼らは誰に対して判決を下すことができたのか?
 新しいロシア憲法は、ようやく1993年2月に採択された。このことは、党にその政策を実施するほとんど無審査の権力を付与していたBrezhnev の憲法に従って、彼らは法的決定を下す必要があることを意味した。//
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 (06) いったい誰に、判決が下されなければならなかったのか?
 Gorbachev にか?
 党指導部にか? KGB にか?
 あるいは、ソヴィエト・システムを動かしてきた数百万の幹部党員、警察官、監視兵たちにか?
 Yeltsin は大統領布告で、個々の共産党員が党の犯罪について責任を取らされてはならない、と述べた(彼は疑いなく、1976年と1985年のあいだはSverdlovsk の共産党の長だった自分の経歴について、多くを回答できたはずだった)。
 裁判途中にあったテレビ・インタビューで、この穏健な考え方の意味がつぎのように明らかにされた。
 「おそらく我々は、1917年以降初めて、言ってみれば、復讐という過程を開始しなかった。
 そうするのをロシアが抑制した、ということが重要だ。分かるだろう。」(後注2)//
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 (07) 法廷もまた、妥協案に達したとき、ナショナルな統合と和解の必要を考えていた。
 座長が事情聴取の開始に際して述べたように、「当事者が法廷のどちらの側に座っていようとも、白軍と赤軍が行ったように互いに破壊し合うのではなく、のちには一緒に生きていかなければならない」のだった。(後注3)//
 ----
 (08) こうした宥和的な姿勢の結果として、ソヴィエト体制による人権侵害について、誰に対しても正義(justice)が行われなかった。
 従前のKGB やロシアの共産党の官僚に対しては、いかなる訴追も行われなかった。これは、以前のソヴィエト連邦のその他の諸国、とくにエストニアやラトヴィアと異なっていた。これら諸国では、1940年代に大量の逮捕やバルト諸国からソヴィエトの収容所への強制移送を実行した元NKVD職員に対して、明確な意思をもつ審判が行われた。
 東ヨーロッパやバルト諸国にあったような、犯罪に加担した者たちを暴き、上級官職から排除する、浄化(lustration)の法制も政策もロシアにはなかった。//
 ——
 第一節②へと、つづく。

2535/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第六節。
 (01) ソヴィエト同盟の崩壊は、完全な革命ではなかった。
 Gorbachev の改革によって社会は活性化し、政治化したけれども、ソヴェト体制が瓦解したのは、Gorbachev の改革努力によってではなかった。
 かりに今後に歴史が何かを明らかにするとすれば、ロシアにおける長年にわたる民主主義の弱さだ。—民衆が現実的な変化を達成することができないこと。//
 ----
 (02) Gorbachev は自分の挫折を導いた諸事態の鍵となる登場人物だった。
 改革を通じてソヴィエト同盟を救おうとする元来の計画から判断すると、彼は失敗する運命にあったに違いない。
 しかし、彼の意図は自分の見解が進展するにつれて変化し、この期間に多数のことを達成したと評価されるべきだ。とりわけ、ロシアに民主主義の基礎を築いたこと、ソヴィエトの支配からnationsを解放したこと、冷戦を終結させたことで。
 おそらく彼の主要な功績は、ボルシェヴィキが平和的に権力を放棄する舵取りをしたことだ。ボルシェヴィキの権力は、ほとんど4分の3世紀のあいだ、テロルと強制力に依拠していた。
 Gorbachev は、内戦や大きな暴力なくして、ボルシェヴィキの独裁を廃止することができた。これは容易ならない可能性しかなかったことで、これゆえにこそ、彼は現代史上の偉大な人物の一人だという、西側での彼の評価と地位に値する。
 出発したとき、革命を終わらせることは、彼の意図ではなかった。
 Gorbachev は、レーニン主義者として、ソヴィエト・システムを改革することで社会主義を建設するのは可能だと信じていた。
 彼は後年には、共産主義から民主政への行路を指揮するのがつねに自分の計画だという、異なる考えを抱くことになった。
 しかし、真実を言えば、彼は政治上のコロンブスだった。約束された土地を見出すべく出発したが、別の異なる土地を発見したのだ。//
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 (03) 成功した革命かに関しては、政治的エリートを交替させたかが本当の検査対象になる。
 大まかには、これは東欧の諸革命が実現したことだった。
 しかし、ロシアでは、1991年の事件の結果として多くの変化があったのではなかった。
 Yeltsin 政権は、共産主義体制の権力悪用に加担したり高位の職にとどまり続けたりした役人たちを暴いた東ヨーロッパの多くと比べると、浄化するための法制を何ら作らなかった。
 政治家や成功した事業家の大部分は、Yeltsin のロシアでは、ソヴィエト・ノメンクラトゥーラ(nomenklatura)(党指導者、議会議員、工場管理者、等々)の一部だった。 
 Yeltsin の大統領府の4分の3の職、ロシア政府のほとんど4分の3の職が、1999年時点での従前のノメンクラトゥーラ構成員でもって占められていた。
 地域政府では、その割合は80パーセントを超えた。半分以上が、Brezhnev のもとでのノメンクラトゥーラの一員だった。//
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 (04) 1990年代のビジネス・エリートたちも、以前のソヴィエトや党の官僚の出身だった。
 Gorbachev 時代の法的混乱によって、彼らは国有資産を私的な財産に変更することができた。
 1986年以降、コムソモール(Komsomols,共産主義青年同盟)は商業取引をすることを法的に認められ(輸出入業、店舗、そして銀行すら)、書類上の収益を流動的現金に変えた。
 これは、Mendeleev 化学・技術研究所にいるコムソモールの役員から最初の民間銀行の一つのMenamap の総裁になるという、Mikhail Khodorkovsky が歩んだ途だった。
 役員たちは、裕福になった。西側企業との共同事業を立ち上げることにより、またロシアでの銀行市場での現金取引から個人的利潤を得るべく外国債権を用いることにより。
 1987年から、ソヴィエトの公務員は国有資産を購入し始めた。これは、残りの民衆が国有資産から何がしかの分配を受け取ったときよりも、ずっと前のことだった。
 諸省庁は商業化し、一部は上級官僚が営む事業体として経営された。彼らは、自分たちが管理してきた資産を最低価格で自分たちに売った。 
 工場と銀行は、同じように売り払われた。//
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 (05) ソヴィエト・システムの崩壊は、ロシアの富や権力の配分を民主主義化しなかった。
 1991年のあと、ロシア人は、何も大きくは変わらなかったと考えるのを許されてきた。少なくとも、良い方向には変わらなかったと考えるのを。
 疑いなく、ロシア人の多くは、1917年の後と多くは同じことだと思っていた。//
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 第六節、終わり。第19章も終わり。第20章(書物全体の最終章。表題は<Judgement>)へと進むかは未定。

2534/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第五節。
 (01) Gorbachev は、党の一体性を維持することで、1991年のソヴィエト体制の崩壊とともに滅びることを自ら確実にした。
 その崩壊は、1989年に東ヨーロッパでの革命とともに、ソヴィエト帝国の外縁部で始まった。
 モスクワからの軍事的支援がないままで、東ヨーロッパの共産党体制は、民主主義運動に抵抗することができなかった。その運動は、共産党に権力から去ることを要求し、新しい指導者たちを選んだ/
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 (02) ポーランドでは、大衆ストライキと抗議運動によって共産主義者は連帯(Soridarity)との円卓会談を行うことを余儀なくされ、1989年6月に政府が確信を持てない議会での投票と自由選挙に準じたものが行われた。その選挙で連帯は、候補者を立てることが認められた全ての議席を総占めする勝利をかち得た。
 共産主義者の権威は傷ついた。
 Jaruzelski が大統領として返り咲き、連帯の活動家のTadeusz Mazowiecki が首相になった。これは1989年9月のことで、この40年間で東ヨーロッパでは最初の非共産党政権だった。//
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 (03) ハンガリーでは、共産党は自分たちの権力の放棄について民主主義フォーラムの活動家たちと交渉した。後者は新しい議会を構成する複数政党選挙で、最大多数の票を獲得した。
 ハンガリー革命は、ベルリンの壁の崩壊と東ドイツ(GDR)の共産主義体制の瓦解につながった。
 ハンガリーがその国境をオーストリアに開いて数千の東ドイツ人が西側に旅行することを認めたとき、危機が始まった。
 出国(exodus)を食い止めようとする試みは、とくにLeipzig〔当時、東ドイツ〕で大衆的抗議を生み、政府への圧力となった。
 アメリカ合衆国のテレビによって語って、市民は自由に出国しているという印象を政治局の報道官が与えた。—これは、東側で観られていた西ドイツのテレビ局が取り上げた物語だった。
 壁が開いていると考えて、東ドイツの数万の市民たちが、11月9日から国境に到着した。
 政府からの明確な指示がないまま、監視兵は、彼らを西側へと通過させた。
 壁は、壊れた。//
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 (04) チェコスロヴァキアでは、ベルリンの壁の崩壊は、Václav Havel その他の老練な反体制者たちが組織した市民フォーラム(the Civic Forum)が主導した広汎な抗議運動を呼び起こした。
 11月25日までに、80万人の抗議者がプラハの街頭に出現した。
 その二日後、ゼネ・ストに住民の4分の3が加わった。
 共産党体制は自由選挙について譲歩し、権力を手放した。そして、12月29日の連邦議会の満場一致の票決によって、Havel が大統領となった。//
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 (05) 東欧革命は、ソヴィエト同盟内部でのナショナリストの運動に油を注いだ。
 バルト諸nations は、最初に独立を求めた。それに、ジョージア、アルメニア、および実質的にはウクライナとモルダヴィアの地域が、続いた。
 より遅く反応したのは中央アジア諸共和国で、そこではエリート層はソヴィエト・システムに依存しており、民衆が選択するのはIslamic になりそうだった。//
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 (06) Gorbachev の改革は、二つの態様でナショナリスト運動が勃興する条件を生んだ。
 第一に、彼が1990年3月にソヴィエト大統領という新しく作った地位に就任したことは、共和国の指導者たちが自分たちの権力基盤を形成する先例となった。
 1991年6月にYeltsin がロシア共和国の大統領に選出されたことは、ロシア共和国内部では、選出されていないソヴィエト大統領よりも強い権威をYeltsin に与えた。
 第二に、各共和国の最高ソヴェトについての競争選挙の導入によって、ナショナリストはこの最高の議会を統制して、モスクワからの独立を宣言するために利用することができるようになった。
 バルト諸国では、ナショナリストが1990年の選挙で圧倒的な勝利を獲得した。
 この諸国では、共産党は圧力のもとで分裂し、主権をもつことに賛成する党派としてソ連共産党を脱退し、ナショナリストの票を求めて競い合った。//
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 (07) 警察による弾圧も、ジョージアとバルト諸国での独立運動を盛んにさせた。
 Tbilisi 〔ジョージアの首都〕では、ソヴィエトの警察によって1989年4月に、19人のデモ参加者が殺害され、数百人が重傷を負った。
 リトアニアとラトヴィアでは、1991年1月の弾圧によって、17人が殺害され、数百人が負傷した。
 こうした弾圧は大部分は、KGB や軍部にいる共産党の強硬派が主導していた。彼らは、ナショナリストの暴力的反応を挑発しようとしていた。そうなれば、ソヴィエト同盟の瓦解を阻止すべく非常事態宣告の議論をするために用いることができた。
 Gorbachev は、これに抵抗して党を分裂させる危険を冒さずに、強硬派に譲歩し、Boris Pugo を内務大臣に、Gennady Yanaev をソヴィエトの副大統領に任命した。//
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 (08) Gorbachev は、ソヴィエト同盟を再構築しようとする彼の計画のためには、彼らの支持を必要とした。
 彼は、各共和国が国民投票を経て合意するならば、新しい同盟条約について交渉しようと提案した。
 ソヴィエト同盟を一緒に守る連邦構造に合意したかったのだが、彼はそれを力でもって維持するのは間違っていると考えた。
 Gorbachev は、レーニンのように、ソヴィエト同盟は自発的な意思にもとづく同盟として存続し得ると信じた。//
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 (09) 六つの共和国は、完全にソヴィエト同盟から離脱する決意をもち、この国民投票を拒否した(ジョージア、アルメニア、モルダヴィア、バルト三国)。
 他の九共和国では、1991年3月17日の国民投票で、人口の76パーセントがソヴィエト同盟の連邦構造の維持に賛成する票を投じた。
 条約草案がソヴィエト政府と九共和国の指導者たちの間で交渉された(「9+1」合意)。そして、モスクワ近郊のNovo-Ogarevo で署名された。
 この交渉で、Yeltsin(ロシア大統領に選出されたあと、強い立場だった)とLeonid Kravchuk(ナショナリストに変身してウクライナの大統領になるのを狙っていた)は、ソヴィエト大統領から各共和国へと、従前はクレムリンにあった多数の権能を抜き出していた。//
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 (10) 8月までに、九のうち八共和国が、条約草案に同意した。—唯一の例外はウクライナで、1990年の国家主権の宣言を基礎にする同盟に投票した。
 この条約草案は、ソヴィエト連邦を、ヨーロッパ同盟に似ていなくはない、独立国家の連邦に転換していただろう。単一の大統領、単一の外交政策、単一の軍事兵力をもつけれども。
 条約は、ソヴィエト連邦をソヴェト主権共和国同盟と改称していただろう(「社会主義」の箇所が「主権」に変わる)。
 〔1991年〕8月4日、Gorbachev はクリミアのForos で休日を過ごすべくモスクワを発った。8月20日には、新しい同盟条約に署名するために首都に帰還するつもりだった。//
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 (11) 条約は同盟を救うことを意図していたけれども、強硬派は同盟の瓦解を促進することを恐れた。
 強硬派は、行動するときだと決断した。
 8月18日、陰謀者の派遣団がForosu へ急いで行って、非常事態の宣言をすることを要求した。そしてGorbachev が最後通告を拒んだとき、彼らはGorbachev を建物内に拘禁した。
 モスクワでは、自ら任じた国家非常事態委員会が、権力を掌握したと宣言した(これに加わっていたのは、ソヴィエト首相のValentin Pavlov、KGB 長官のVladimir Kruchkov、国防大臣のDmitry Yazov の他に、Yanaev、Pugo ら)。
 疲れていると見えたYanaev 〔Gorbachev 任命の副大統領〕は、両手をアルコール症的に震わせながら、世界のプレスに対して、自分が大統領職を奪取していると、不確かに発表した。//
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 (12) 国家転覆者たちは、ためらいが過ぎて、成功する現実的な可能性を持たなかった。
 おそらくは、最後までシステムを守るに必要な手段を奪うという意思を、彼らすら有していなかった。
 彼らはYeltsin を拘束することができなかった。Yeltsin はホワイト・ハウスへ、ロシア議会(最高ソヴェト)の所在地へ、向かった。そこで彼は。クー・デタに対抗する民主主義防衛隊を組織することになる。 
 国家転覆者たちは、クーへの抵抗を抑止するためにモスクワに持ち込んだ戦車部隊に対して、決定的な命令を発することができなかった。
 いずれにせよ、彼らの味方である上級の軍司令官たちの間にも分かれがあった。 
 ホワイト・ハウスの外側に駐留していたTamanskaya 分団は、Yeltsin に対する忠誠を宣言した。彼は、戦車の一つの上に登って、群衆に向かって呼びかけた。
 流血の事態は起こらないまま、この時点以降は、転覆者たちがホワイト・ハウス攻撃に成功するのは不可能になった。
 だが、彼らは、闘う気分をそもそも持っていなかった。//
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 (13) クーはすみやかに終わった。
 8月22日に、その指導者たちが逮捕された。
 Gorbachev は、首都に戻った。
 しかし、1917年8月のKornilov 陰謀事件の後のケレンスキーのように、Gorbachev は自分の地位が侵食されていることを知った。
 クーは共産党への信頼を大きく傷つけ、主導権を、ロシア共和国大統領で「民主主義の守り手」のYeltsin へ移した。 
 Yeltsin は、8月23日に、クーでのソ連共産党の役割を調査するあいだ同党の活動を停止する布令を発した。
 その日の夜半、群衆が、Lubianka のKGB本部建物の外側にある、チェカ創設者・Dzerzhinsky の立像を倒壊させた。
 翌日、Gorbachev は、ソ連共産党総書記を辞任した。
 8月25日、ソ連共産党の財産は、全ての文書資料と銀行口座も含めて、ロシア(共和国)政府が掌握した。//
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 (14) 〔1991年〕11月6日、Yeltsin は、ロシアでのソ連共産党を禁止した。
 その布令は、法技術的には、ロシアの大統領の権限を超えている点で違法だった。
 しかし、Yeltsin は、歴史的根拠を理由として正当化した。「ソヴィエト同盟の人民が追いやられた歴史的苦境(cul-de-sac)と、我々が到達している解体状態に対して」その党には責任がある、と宣告したのだ。(後注8)//
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 (15) Gorbachev は、同盟条約の交渉をなおも再開したかった。
 しかし、Yeltsin はそれに反対した。ソヴィエト同盟の解体はロシアにとっての勝利だと見たのだ。一方で、その他の共和国、とくにウクライナは、その潜在的な抑圧の力がクーによって暴露されたモスクワとの同盟には、どのようなものであれ警戒するようになっていた。
 Novo-Ogarevo 会談が11月に再び始まったとき、Yeltsin とKravchuk〔ウクライナ〕 は、ソヴィエト政府からのいっそうの譲歩を要求した。
 まるでソヴィエト連邦が主権国家同盟へと変わるように見えた。
 しかし、12月1日に、独立に賛成するウクライナの一票が、ソヴィエトという国家の船に巨大な穴を吹き込んだ。
 一週間後、Yeltsin、Kravchuk とべラルーシの指導者のStanilav Shushkevich は、ベラルーシで会って、ソヴィエト同盟の解体を発表した。
 独立国家共同体(Commomwealth of Independent States, CIS)がこれにとって代わることになる。//
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 (16) 実質的には、三つの共和国の指導者たち(Yeltsin、Kravchuk、Shushkevich)による、ソヴィエト連邦から離脱して自分たちのnational な政権を樹立しようとするクー・デタだった。
 クリスマスの日にクレムリンからテレビで放映された別れの演説で、Gorbachev は、ソヴィエト同盟の廃止を支持することはできない、なぜなら憲法上の手続でまたは民主主義的な民衆の投票で承認されていないのだから、と宣言した。
 世論は〔「共同体」ではなく〕同盟を支持していた。
 ソヴィエト同盟を終焉させたのは、指導者とエリートたちだった。//
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 第五節、終わり。

2533/O.ファイジズ・ソ連崩壊④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第四節。
 (01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
 社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
 Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
 ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
 彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。 
 Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
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 (02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
 在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
 彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
 国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
 競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
 レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
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 (03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
 政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
 彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
 何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
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 (04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
 1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
 これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
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 (05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
 5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
 議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
 Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
 彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
 彼は7月2日にテレビでこう表明した。
 「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
 政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
 ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
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 (06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
 レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
 このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
 Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
 このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
 ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
 政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
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 第四節、終わり。

2532/O.ファイジズ・ソ連崩壊③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ
 第三節。
 (01) グラスノスチ(glasnost、情報公開)は、Gorbachev の改革の中の本当に革命的な要素で、システムをイデオロギー的に解体する手段だった。
 ソヴィエト指導者は政府に透明性を与え、改革に反対するBrezhnev 保守派たちの力を削ぐことを意図した。 
 グラスノスチの初期の呼びかけは、1986年4月のChernobyl 原発事故—史上最悪でヨーロッパの多くに影響を与えた—のはずべき隠蔽によって強化された。
 しかし、glasnost の影響は、Gorbachev の統制を超えて急速に大きくなった。//
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 (02) 検閲を緩和した glasnost は、党はマスメディアを掌握できないことを意味した。マスメディアは、従前は政府が隠していた社会的諸問題を暴露し(劣悪な住居、犯罪、生態学的破綻、等)。それによってソヴィエト・システムへの民衆の確信を掘り崩した。//
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 (03) ソヴィエト史に関する暴露も、同様の効果をもった。
 次から次に、システムを正当化する神話は、新たに公にされた文書や外国で翻訳されて出版された書物で明らかになった暗い事実だとして、攻撃に晒された。その神話とは、資本主義社会に対する物質的かつ道徳的優位、ナツィズムを打倒したという名誉、集団化と五ヵ年計画による国の近代化、大衆を基にした1917年10月の革命による創設、といったものだ。
 メディアは毎日、この国の暴力的歴史の「黒点」が多数つまった暴露を掲載した。大量テロル、集団化、飢饉、Katyn の虐殺の詳細。グラク(強制収容所)の恐怖、偉大な愛国戦争でのソヴィエト兵の生命の無謀な浪費の全容。
 これらは、ウソと半分真実が混じったものとして、こうした事件の公式の記録を暴露することによって、体制の信頼性と権威を揺るがせた。//
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 (04) 人々の信頼は政府から離反していった。—その多くは、こうした真実を暴露したメディアに原因があった。
 最も大胆な新聞や雑誌は、途方もなく売れた。
 〈Argumenty i fakty〉(論争と事実)の週間予約購読者数は、1886年から1990年のあいだに、200万から3300万に増えた。この週刊誌はプロパガンダ機関であることをやめ、かつて秘密だった事実やソヴィエトの生活についての批判的見解を伝えるソースになった。
 毎金曜日の夜に、数千万人の若者たちが、〈Vzglyad〉(View)という番組を観た。この番組は、ソヴィエトの検閲による制約はもちろん、個人的好みの限界をも無視して、今日的問題に関するテレビ編集、インタビュー、歴史の探索に突進した(やがて1991年1月に禁止された)。//
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 (05) Glasnost は、社会を政治化した。
 独立の公共的団体が結成された。
 1989年3月までに、ソヴィエト同盟には6万の「非公式の」グループやクラブがあった。
 これらは、街頭で集会を開き、デモ行進に参加した。多くは、政治改革、市民の権利、ソヴェト諸共和国や地域の民族的独立性、あるいは共産党による権力独占の廃止を呼びかけるものだった。
 大都市では、1917年の革命的雰囲気が蘇ってきていた。//
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 第三節、終わり。

2531/O.ファイジズ・ソ連崩壊②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第二節。
 (01) Gorbachev は、レーニン主義の理想から始めた。
 脱スターリン化の基本方針がその政治的発展の契機となったKhrushcev のように、Gorbachev は、「レーニンへの回帰」の可能性を信じた。
 他の指導者たちはソヴィエト国家の創設者に口先だけの賛辞を寄せた一方で、Gorbachev は、レーニン思想は彼が直面している革命的挑戦にとつてなお意味があると信じて、レーニンを真剣に考察した。
 彼は、遺言のレーニンに共感していた。—レーニンが最後に書いたもので、NEP での市場への譲歩の問題に取り組み、内戦で間違った革命の是正には民主主義がより多く必要だとしていた。—彼は、レーニンが考えたことに対応するものを見た。それを60年後に仕立て直さなければならなかったのだ。
 ソヴィエトの民衆と政治的エリートに皮肉な見方が大きくなっているときに、Gorbachev は楽観的なままであり、仕組みを改革する可能性を純粋に信じていた。
 彼は、レーニンの革命を道徳的かつ政治的な刷新を通じて作動させることができると、真摯に考えた。
 この意味で、Gorbachev は、最後のボルシェヴィキだった。//
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 (02) 改革への彼の理想主義的信念を最もよく示す例は、彼が最初にしたことだ。すなわち、1985年4月の布令によって発表された、反アルコール決定。これによってウオッカの価格は3倍になり、ワインとビールの生産は4分の3に減った。
 「ウオッカで共産主義を建設することはできない」と、Gorbachev は言った。
 のちに彼が認めたように、この初期の段階での彼の思考のいくつかは「ナイーヴでユートピア的だった」。(後注2)
 アルコール依存症者たちは、この政策に妨げられることなく、安くて危険な密造酒を闇市場で購入し(砂糖が突然に店舗から消えた)、またはオーデコロンや化粧水を飲んだ。
 国家はウオッカ販売による貴重な収入源を、1985年の総額の17パーセント失い、消費用物品や食料を輸入する力を減らした。それで、購入や飲食を減らした人々は、不満を募らせることになった。//
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 (03) Gorbachev は、党内指導層に改革を支持する多数派をもたず、Khrushcev が辿った運命を回避するためには慎重に事を進める必要があると意識していた。
 1985-86年、彼は経済の「迅速化」(〈uskorenie〉)だけを語った。これは、アルコール禁止にふさわしく、紀律を強化し、生産性を向上させるAndropov の方法を模倣したものだった。
 1987年1月の中央委員会総会でようやく、Gorbachev は、そのペレストロイカ(perestroika)政策の開始を発表し、それは指令経済と政治制度の急進的な再構築という「革命」だと表現した。
 Gorbachev は、自分の大胆な決定を正統化するためにボルシェヴィキの伝統を援用し、つぎの威厳ある言葉で演説を締め括った。
 「我々は懐疑者にすらこう言わせたい。そのとおり、ボルシェヴィキは何でも行うことができる。そのとおり、真実はボルシェヴィキの側にある。そのとおり、社会主義は人間のために、人間の社会的経済的利益とその精神的な向上に奉仕するシステムだ。」(後注3)
 これは、新しい1917年10月の主意主義(voluntarist)の精神だった。//
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 (04) 経済的には、perestroika はNEP と多く共通していた。
 perestroika は、市場メカニズムによって計画経済の構造に対して生産の刺激と消費者の需要の充足を加えることができる、という願望に満ちた想定に依存していた。
 賃金や価格に対する国家統制は、1987年の国家企業体に関する法律によって緩和された。
 協同組合は1988年に合法化され、カフェ、レストラン、小店舗や売店が急に出現することになった。たいていの店でウオッカや(今や再び合法化された)、タバコ、外国から輸入したポルノ・ビデオが売られた。
 しかし、こうした手段では、食糧やより重要な家庭商品の不足を沈静化することができなかった。
 インフレが大きくなり、賃金と価格の統制の緩和によって悪化した。
 計画経済の廃止によってのみ、危機は解消され得ただろう。
 しかし、イデオロギー的に、それは1989年までは不可能だった。その年にGorbachev は、ソヴェト型の思考から決裂し始めた。そして、さらに急進的に1990年8月に合法化し、そのときに、市場にもとづく経済への移行に関する500日計画が、ついに最高ソヴェトによって導入された。
 しかし、そのときまでにすでに、経済の破綻を抑えるには遅すぎた。//
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 (05) Gorbachev は、社会主義的思考での「革命」だとしてperestroika を提示し、—彼自身の理想化した読み方によった—レーニンの言葉で、絶えずそれを正当化した。
 彼は、公務員の本当の選挙を伴う、政府でのさらなる「民主主義」を呼びかけ、従前はタブーの言葉だった「多元主義」について語り、党に対してその創設者の「社会主義的人間中心主義」への回帰を迫った。
 「Perestroika の意図は、理論的および実践的観点からするレーニンの社会主義の観念を、完全に復活させることだ」と、Gorbachev は、十月革命70周年記念集会で宣言した。(後注4)
 この「人間中心主義」や「民主主義」は、レーニンの理論や実践には、ほとんど見出され得ないものだったけれども。
 しかし、Gorbachev は、その改革への党指導層の支持を望むならば、レーニンの名を引き合いに出す必要があった。//
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 (06) 外交政策でこの「新しい思考」が意味したのは、階級闘争という冷戦に関する党の理論的枠組を放棄して「普遍的な人間の価値」の増進に代える、ということだった。
 このことは、ソヴィエト経済の利益を無視することにつながる、より実践的で「常識的」接近を含んでいた。
 また、Brezhnev(ブレジネフ・)ドクトリンを放棄するという意味も包含していた。
 Gorbachev は、東ヨーロッパの共産党指導者たちに、今や彼ら自身の判断で生きるべきことを完全に明瞭にした。
 彼らがその民衆の支持を獲得できなくとも、モスクワは助けるために介入するつもりはない、ということを。
 民衆の支持は東欧の共産党指導者たちが自分たちでperestroika を行なってかち取ることを、Gorbachev は望んだ。
 ——
 第二節、終わり。
 

2530/O.ファイジズ・ソ連崩壊①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 この書物の章順の表題は、つぎのとおり。
 01/出発、02/「舞台げいこ」、03/最後の望み、04/戦争と革命、05/二月革命、06/レーニンの革命、07/内戦とソヴィエト体制の形成、08/レーニン・トロツキー・スターリン、09/革命の黄金期?、10/大きな分岐、11/スターリンの危機、12/退却する共産主義?、13/大テロル、14/革命の輸出、15/戦争と革命、16/革命と冷戦、17/終わりの始まり、18/成熟した社会主義、19/最後のボルシェヴィキ、20/判決。
 これらのうち、「ソ連解体」期に関する19章・20章を試訳してみる。なお、18章はスターリンの死から始まっているようだ。
 書名は「革命的ロシア-1891〜1991」であって「ソ連史」ではないが、大まかには前史を含む<ソ連史>だろう。
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution (1996, Memorial Edition 2017)という「ロシア革命史」の書物もあり、この欄で一部の試訳を掲載しているが、これとは別の書物。
 各章内の節分けはないが、一行の横線を引いた明確な区分けがあるので、便宜的に各「節」の区切りとして扱う。一行ごとに改行し、段落の初めに元来はない数字番号を付す。
 —— 
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第一節。
 (01) ソヴィエト体制が突然に終焉するとは、誰も想定していなかった。
 たいていの革命は、轟音ではなく嗚咽とともに死ぬ。
 1989年〜1991年の事態は一つの革命だと、ある人々は言う。
 これは全く正しくはない。
 しかし、体制が崩壊した速さに誰もが驚いたために、革命という名をかち得たのだろう。//
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 (02) 1985年、ソヴィエト同盟はどの国家とも同様に永続的なものに見えた。
 Gorbachev が解決しようとした諸問題のどれも、ソヴィエト体制の存在そのものを脅かしたのではなかった。
 経済は停滞していて、年間成長率は1パーセント以下で、生活水準は西側よりも大きく遅れており、石油価格の急激な下降(1980年価格の3分の1)は、体制の財政に大きな打撃を与えた。
 しかし、事態は、ソヴィエトの歴史上で政治的にもっと不安定だった時期よりもはるかに悪かった。
 人々は物不足に慣れるに至っていて、大衆的な抗議の兆しはなかった。
 体制は、改革しなくとも数年間は踏ん張っていけただろう。
 貧しい生活水準が長く続いても何とか切り抜けた独裁制の例は、豊富にあった。
 それらの多くは、ソヴィエト同盟が1980年代に経験したよりもはるかに悪い経済的環境の中でも生き抜いた。//
 ----
 (03) 軍事予算は重荷になっていて、Reagan のSDI〔戦略防衛構想〕の開始とともにいっそう大きくなり始めた。
 東ヨーロッパの共産主義体制を安い石油と食糧で支援する費用は、やはり深刻な課題だった。
 クレムリンは、ポーランドの1980年危機に対処するためだけに、40億ドルを費やす必要があった。その年、大衆的ストは<連帯>という反対派運動に発展し、Jaruzelsky 政府による戒厳令の施行を強いることとなった。
 しかし、1985年までに、連帯運動は息切れがしたように見え、ソヴィエト帝国は安全だと思えた。//
 ----
 (04) ソヴィエト体制が完全に崩壊した速さを説明するために必要なのは、ソヴィエト同盟の構造的問題にではなく、体制がその頂点から解きほどけていった態様に、目を向けることだ。
 仕組みを急進的に再構成する、切迫した必要性はなかった。
 「危機」があったとすれば、ソヴィエトの現実とソヴィエトの社会主義の理想との間に分裂が大きくなっていることに危機を感じとる、Gorbachev やその他の改革者たちの心理(the mind)の中にあった。
 現実の危機を惹き起こしたのは、Gorbachev の改革だった。すなわち、党の権力と権威の解体。
 観念上の革命が開始されたのは、グラスノスチ(glasnost、情報公開)が人々に体制を疑問視して代替の選択肢を要求するのを認めたことによってだった。
 18世紀のフランスの旧体制についてTocqueville が書いたように、「悪い政府にとつて最も危険な瞬間は、政府が改革を始めるときだ。…。辛抱強く我慢するのが長いほど、政府は矯正不能に見え、人々がいったん政府を排除する可能性を意識すれば、不満は耐え難いものになってしまう」。//
 ——
 第一節、終わり。

2521/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題の最終回。
 —
 序説・ウクライナ問題④。
 (18) 工業化はロシア化への圧力も強めた。工場の建設はウクライナの諸都市に、ロシア帝国の至る所から外部者を送り込んだからだ。
 1917年までに、Kyiv の住民の5分の1だけがウクライナ語を話した。(19)
 炭鉱の発見と重工業の急速な発展は、とくにウクライナの東端地域にある鉱業と製造業の地域であるドンバス(Donbas)に劇的な影響を与えた。
 この地域の指導的な工業家はたいていはロシア人で、外国人が混じっていることは少なかった。
 ウェールズ人であるJohn Hughs は、元々は彼に敬意を表して「Yuzivka」と呼ばれ、今はDonetsk(ドネツク)として知られる都市の基礎を築いた。
 ロシア語はDonetsk の工場で使われる言語になった。
 ロシアとウクライナの労働者の間で抗争がしばしば発生し、ときには、「ナイフでの決闘という最も乱暴な形態」をとり、両者間の激闘となった。(20)//
 (19) Galicia にある帝国の境界付近の、オーストリア・ハンガリー帝国のウクライナ人とポーランド人の混住地域では、民族主義運動ははるかに小さかった。
 オーストリアはその帝国のウクライナ人に対して、ロシア帝国またはのちのソヴィエト連邦よりも、はるかに大きな自治を認めた。少なからず、ウクライナ人を(オーストリアの観点から)ポーランド人に対する有用な競争相手と見なしたからだった。
 1868年に、Liviv(リヴィウ)の愛国主義ウクライナ人が文化的社会団体のProsvita を設立し、これはやがてウクライナじゅうに多数の会員をもつに至った。
 1899年から、ウクライナ国民民主党(National Democratic P.)がGalicia でも自由に活動し、選出した代表者をウィーンの議会へと送った。
 今日まで、ウクライナの自立的社会団体(self-help society)の従前の本部は、Liviv にある最も印象的な19世紀の建築物の一つだ。
 この建物は、ウクライナ民族様式の装飾を〈Jugendstil〉(若者様式)の外観へと融合した壮麗なものだ。そして、ウィーンとガリツィア(Galicia)の完璧な合成物になっている。//
 (20) しかし、ロシア帝国内部ですら、1917年の革命前の数年間は、多くの点でウクライナにとって前向きだった。
 ウクライナの農民層は熱心に、20世紀の初めの帝国ロシアの近代化に参加した。
 彼らは、第一次大戦の直前に急速に、政治的意識に目覚め、帝国に懐疑的になった。
 農民反乱の波が、1902年にはウクライナとロシアの両方にまたがって勃発した。
 農民たちは、1905年革命でも大きな役割を果たした。
 それに続く騒乱は社会的不安の連鎖を生み、皇帝ニコライ二世を動揺させ、ウクライナにある程度の市民的、政治的権利をもたらした。その中には、公的生活の分野でウクライナ語を用いる権利もあった。(21)
 (21) ロシア、オーストリア・ハンガリーの両帝国が予期されないかたちで、それぞれ1917年と1918年に崩壊したとき、多くのウクライナ人は、ついに国家を設立することができる、と考えた。
 ハプスブルク家が支配していた領域では、この望みはすみやかに消失した。
 期間は短いが血まみれのポーランドとウクライナの軍事衝突は、1万5000のウクライナ人と1万のポーランド人の生命を奪った。そのあとで、最も重要な都市であるLiviv などの西部ウクライナの多民族地域は、近代のポーランドへと統合された。
 その状態は、1919年から1939年まで続いた。//
 (22) ペテルブルクでの1917年二月革命の後の状況は、もっと複雑だった。
 ロシア帝国の解体によって、権力は短い間、Kyiv のウクライナ民族運動の手に渡った。
 しかし、指導者の中には、民間人であれ軍人であれ誰一人、この国の権力について責任を担う心準備をしている者がいなかった。
 政治家たちが1919年にVersailles(ヴェルサイユ)に集まって新しい諸国家の境界線を引いたとき—その中には近代のポーランド、オーストリア、チェコ・スロヴァキアがあった—、ウクライナは国家に含まれないことになる。
 だがなおも、そのときは完全には失われていなかっただろう。
 Richard Pipes(リチャード・パイプス)が書いたように、1918年1月26日の独立宣言は「ウクライナでの国家形成の〈dénouement〉(結果)を示すものではなく、本当の始まりだった」。(22)
 独立した数ヶ月間の騒然状態と民族的一体性に関する活発な議論は、ウクライナを永久に変えることになっただろう。//
 ——
 序説・ウクライナ問題、終わり。

2520/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題。
 ——
 序説・ウクライナ問題③。
 (12) 言語と農村地帯との間の結びつきは、ウクライナ民族運動はつねに強い農民的雰囲気をもった、ということをも意味した。
 ヨーロッパの他の部分と同様に、ウクライナの民族的覚醒は田園地帯の言語と習慣の再発見によって始まった。
 民俗学者と言語学者は、ウクライナ農民の芸術、詩、日常会話を記録した。
 国の学校では教えられなかったけれども、ウクライナ語は、一定範囲の反体制的な、反既得権益層のウクライナの作家や芸術家が選択する言語になった。
 ウクライナ語は公式の取引では用いられなかった。だが、私的な文書のやり取りや詩作で使われた。
 1840年に、Taras Shevchenko —1814年に農奴の孤児として出生—は、〈Kobzar〉—「吟遊詩人」の意味—を出版したが、これは、ウクライナの詩歌を最初に本当に素晴らしく収集したものだった。 
 Shevchenko の詩は、浪漫的なナショナリズムと農村地帯の理想的な像を社会的不公正に対する怒りと結びつけ、出現すべき多数の議論の基調となった。
 「Zapovit」(「遺言」)という最も有名な詩の一つで、彼はDnieper の河岸に埋葬されるよう頼んだ。
 「私を埋めよ。そして、あなたたちは立ち上がり、重い鎖を壊し、暴君の血で洗い、自由を獲得する。…」(13)
 農民層の重要性はまた、最初から、ウクライナの民族的覚醒は、人民主義(Populist)やのちにロシア語やポーランド語を話す商人、地主、貴族に対する「左翼」反対派と呼ばれることになるものと同義だったことを、意味した。
 この理由で、ウクライナの民族的覚醒は急速に力強くなり、1861年の皇帝アレクサンダー三世のもとでのロシア帝国の頃の農奴解放が続いた。
 農民層の自由は、実際には、ウクライナの自由のことであり、ロシアやポーランドの主人たちに対する一撃だった。
 より強いウクライナの一体性を目指す運動は、帝国の支配層はよく理解していたことだが、当時ですら、より大きい政治的かつ経済的な平等を求める運動だった。//
 (13) ウクライナの民族的覚醒は国家制度と結びつかなかったため、それはまた、初期の時代から、広汎な、自律的で自由意思による慈善団体の形成を通じて表現された。これは、いま我々が「市民社会」と称するものの初期の例だった。
 農奴解放後の短い期間、「ウクライナ愛国者」はウクライナ青年たちに、自立した学習グループの形成、雑誌や新聞の刊行、日曜学校を含む学校の設立、農民層の識字能力の拡大、を呼びかけた。
 民族的希望は、精神的自由、大衆の教育、農民層の上方可動性を求めることとなった。
 この意味で、ウクライナ民族運動は、最初から、西側の同様の運動の影響を受けており、西側のリベラリズムや保守主義とともに西側社会主義の要素を含んでいた。//
 (14) この短い期間は、続かなかった。
 ウクライナ民族運動が強くなり始めるとすぐに、モスクワは、他の民族運動とともに、それは帝国ロシアの統一性に対する潜在的な脅威だと感知した。
 ジョージア人、チェチェン人その他のグループが帝国内部での自治を追求したように、ウクライナ人はロシア語の優越性に挑戦した。また、ウクライナを「南ロシア」、民族的一体性を有しないたんなる地方、と叙述する歴史のロシア的解釈に対しても。
 彼らは、すでに経済的な影響力を得ていたときには、農民層の力をさらに強くしようとした。
 富裕で、より識字能力があり、うまく組織された農民たちは、大きな政治的権利をも要求する可能性があった。//
 (15) ウクライナ語が、第一の目標だった。
 1804年にロシア帝国最初の大きな教育改革が行われたとき、皇帝アレクサンダー一世は、いくつかの非ロシア語が新しい国立学校で使われるのを許したが、ウクライナ語は認められなかった。表向きは、それは「言語」ではなく一つの方言だ、というのが理由だった。(14)
 実際には、ロシア帝国の官僚は、ソヴィエトの継承者がそうだったように、この禁止を政治的に正当化することを—1917年までつづいた—、およびウクライナ語が中央政府にもたらす脅威を、完全に理解していた。
 キーフ総督のPodolia とVolyn は、1881年に、ウクライナ語と学校の教科書でそれを用いることは高等教育や、さらに立法府、裁判所、公行政でそれを使用することになり、そうして「多大の複雑さと統一したロシアに対する危険な変化」を生むことになる、と宣告した。(15)//
 (16) ウクライナ語の使用が制限されたことで、民族運動は大きな影響を受けた。
 そのことで、識字能力を持たない人々が広がる、という結果にもなった。
 ほとんど理解できないロシア語で教育された多数の農民たちは、上達することがなかった。
 20世紀初めのPoltava のある教師は、「ロシア語での勉強が強いられると、生徒たちは教えたことをすぐに忘れる」と嘆いた。
 別の者は、ロシア語学校の生徒たちは「やる気を失って」、学校に退屈するようになり、「フーリガン」になる、と報告した。(16)
 差別はまた、ロシア化も生じさせた。ウクライナに住む全ての者—ユダヤ人、ドイツ人、その他のウクライナ人などの少数民族—にとって、より上の社会的地位を得る方途は、ロシア語を話すことだった。
 1917年の革命まで、政府の仕事、専門的仕事および商業取引には、ウクライナ語ではなく、ロシア語での教育を受けていることが要求された。
 現実にこのことは、政治的、経済的または知的な志望をもつウクライナ人は、ロシア語での表現能力を必要とする、ということを意味した。//
 (17) ロシア政府はまた、ウクライナ民族運動が大きくなるのを妨げるために、「政治的不安定を生じさせない保障として…、市民的社会団体と政治団体のいずれも」から成るウクライナ人の組織を禁止した。(17)
 1876年、皇帝アレクサンダー二世は、ウクライナ語の書物と定期刊行物を非合法化し、劇場で、そして音楽劇の台本にすら、ウクライナ語を用いることを禁止する布令を発した。
 彼はまた、新しい自発的組織の結成を思いどどまらせるか禁止し、反対に、親ロシアの新聞や親ロシアの組織には助成金を交付した。
 ウクライナの報道機関やウクライナの市民的社会団体に対する明確な敵意は、のちのソヴィエト体制でも維持された。—さらにのちには、ソヴィエト後のロシア政府によっても。
 このように、先例はすでに19世紀の後半にあった。(18)//
 ——
 序説④へと、つづく。

2519/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年、初版,London)
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
 ——
 序説・ウクライナ問題②。
 (08) このような考え方の背後には、確固たる経済的根拠があった。
 ギリシャの歴史家のHerodotus 自身が、ウクライナの有名な「黒土」(black earth)、Dnieper河低地でとくに肥沃な土地について、こう書いた。
 「この堆積地沿いよりも穀物が大きく成長するところはない。穀種が播かれなければ、草が世界で最もよく生える。」(10)
 黒土地域は現代ウクライナのおよそ三分の二を覆い—ロシアとKazakhstan へと広がる—、比較的に温暖な気候と相俟って、ウクライナが毎年二回の収穫期をもつのを可能にしている。 
 「冬小麦」は秋に撒かれて、7月と8月に収穫される。春の穀物は4月と5月に植え付けられ、10月と11月に収穫される。
 ウクライナのきわめて肥沃な土地は、商業者の野望を掻き立てた。
 中世後半から、ポーランドの商人たちはウクライナの穀物を運んで、バルト海ルートで北方と取引した。
 ポーランドの聖職者や貴族は、今日の言葉を使えば起業地区を設定して、耕作してウクライナを開発する意欲のある農民に税や軍役を免除した。(11)
 貴重な資産を保有したいとの欲求は、しばしば植民地主義の論拠の背後にあった。
 ポーランド人もロシア人も、自分たちの穀倉地帯が独立した一体性をもつことを認めようとしなかった。
 それにもかかわらず、隣人たちが考えたこととは全く別に、分離して区別されるウクライナの自己認識(identity)が、現在のウクライナを構成する地域で形成された。
 中世の終わり頃からのち、この地域の人々は、つねにでなくともしばしば、ポーランドやロシアという占領する外国人とは区別される者として自分たちを認識する意識を共有した。
 ロシア人やベラルーシ人のように、ウクライナ人はその起源をキーフ公国の国王にたどり、偉大な東スラヴ文明の一部だと多くの者は自分たちを意識した。
 他の者たちは、自分たちは敗残者または反乱者だと考え、Zaporozhian コサックによる大反乱をとくに尊敬した。これは、Bohdan Khmelnytsky が率いて、17世紀にポーランドの支配に、そして18世紀初頭にロシアの支配に、抵抗したものだった。
 ウクライナのコサック—内部法をもつ準軍事組織である自治団体—は、自己一体性と不服の感覚を具体的な政治的目標に変えた最初のもので、ツァーリから大きな特権とある程度の自律性を獲得した。
 記しておくべきであるのは(確実にのちの世代のロシア人やソヴィエトの指導者は決して忘れなかった)、ウクライナのコサックは1610年と1618年のモスクワでの行進でポーランド軍に加わり、市の包囲攻撃に参加して、その当時のポーランド・ロシア間の対立が終わるの確実にし、少なくとも当時はポーランドの側に立っていた、ということだ。
 のちにツァーリは、ロシアへの忠誠を確保し続けるために、ウクライナ・コサックとロシア語を話すドン・コサックの両者に特別の地位を与えた。それによって、この両者は特別の自己一体性を保持することが認められた。
 これらがもつ特権によって、反抗しないことが保証された。
 しかし、Khmelnytsky とMazepa は、ポーランド人とロシア人の記憶に刻印を残した。ヨーロッパの歴史や文学に対しても同様だった。
 Voltaire はMazepa に関する報せがフランスに広がった後で、「ウクライナはつねに自由になろうと志してきた」と書いた。(12)//
 (09) 数世紀にわたる植民地支配のあいだに、ウクライナの多様な地域は多様な性格を得るに至った。
 東部ウクライナの定住者は、長くロシアに支配されていたが、ロシア語に少しだけ近いウクライナ語の一つを話した。
 彼らはまたロシア正教会派である傾向をもち、Byzantium から伝わった儀礼に従い、モスクワが指導した階層制のもとにあった。
 Volhynia、Podolia やGalicia 地方の定住者は、長くポーランドの支配のもとで生活し、18世紀末のポーランド分割の後では、オーストリア・ハンガリー帝国に支配された。
 彼らはウクライナ語のよりポーランド語的な範型を話し、ローマまたはギリシャのカトリックである傾向があった。正教会に似た儀礼を用いる信仰だったが、ローマ教皇の権威を尊重した。//
 (10) しかし、地域的勢力の境界はたびたび変更したため、上の両者を信仰する者がいたし、以前のロシアと以前のポーランドの境界を分ける両側には、今もいる。
 19世紀までに、イタリア人、ドイツ人、その他のヨーロッパ人が近代国家の国民だと自己を認識し始めたとき、ウクライナで「ウクライナ性」を議論する知識人たちは、正教派にもカトリック派にもいたし、「東部」と「西部」のウクライナのいずれにもいた。
 文法と正書法にある差異にもかかわらず、言語は地域を超えてウクライナを統一した。
 キリル文字のアルファベットを用いることで、ラテン・アルファベットで書かれるポーランド語と区別された。
 (一時期にハプスブルク家はラテン文字を導入しようとしたが、失敗した。) 
 キリル文字のウクライナ型はロシア語とも異なり、追加された文字も含めて違いを保ち、言語が近似しすぎるのを妨げた。//
 (11) ウクライナの歴史上は長く、ウクライナ語は主に田園地帯で話された。
 ウクライナがポーランドの、そしてロシア、オーストリア・ハンガリーの植民地だったとき、ウクライナの大都市は—トロツキーが観察したように—、植民地支配の中心地であり、ウクライナ農民層の大海の中でのロシア、ポーランド、またはユダヤの文化の島嶼部だった。
 20世紀に入っても、都市と農村部は言語によって区分された。たいていの都市住民はロシア語、ポーランド語またはYiddish (ユダヤ人の言葉の一つ)を話し、一方で地方のウクライナ人はウクライナ語を話した。ユダヤ人がYiddish を話せなければ、しばしば国と取引の言語であるロシア語が用いられた。
 農民たちは都市部を、富、資本主義、そして「外からの」—たいていはロシアの— 影響を受けたものと見なした。
 対照的に都市部のウクライナは、田園地帯を後進的で、未開だと考えた。//
 ——
 ③へと、つづく。

2518/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 緒言につづく、序説(Introduction)・ウクライナ問題、へ移る。
 ——
 序説・ウクライナ問題①。
 (01) ウクライナの地理はウクライナの運命を形づくった。
 Carpathian 山脈は南西部で境界を画した。しかし、国の北西部の穏やかな森林と野原では、軍隊の侵入を阻止することができなかったし、ましてや、東に開いた広原地帯ではそうだった。
 ウクライナの大都市は全て、東ヨーロッパ平原、国土のほとんどに広がる平地にある。—Dnipropetrovsk とOdessa、Donetsk とKharkiv、Poltava とCherkasy、そしてもちろん、古代の首都のKyiv。
 Nikolai Gogol は、ロシア語で書いたウクライナ人だったが、かつて、Dnieper 河がウクライナの中央を貫いて流れ、低地を形成している、と観察した。
 そこから、「河は中心から枝分かれして、一つならず境界に沿って流れ、隣国との自然の境界として役立っている」。
 このことは、政治的な帰結をもたらした。「山脈または海という自然の境界が一方の側にあったならば、ここに定住している人々は政治的な生活様式を保持して、分離した国家を形成していただろう。」(2)
 (02) 自然の境界が存在しないことは、なぜウクライナ人は20世紀の遅くまで主権をもつウクライナ国家を確立できなかったかを説明する助けになる。
 中世後半までに、明確なウクライナ語があった。その起源はSlavic で、関係はあったが、ポーランド語ともロシア語とも区別された。イタリア語とも関係はあったが、スペイン語やフランス語と区別された。
 ウクライナ人は、自分たちの食べ物、習慣、地方的伝統、自分たちの悪魔と英雄、伝説をもった。
 他のヨーロッパの民族のように、ウクライナの自己一体性(identity)の意識は、18世紀と19世紀のあいだに明瞭になった。
 しかし、その歴史のほとんどは、我々が今ウクライナと呼ぶ領域は、Ireland やSlovakia のように、他のヨーロッパの帝国の植民地(colony)だった。//
 (03) ウクライナ(Ukraine)—この言葉はロシア語とポーランド語で「境界地」を意味する—は、18世紀と20世紀のあいだ、ロシア帝国に帰属していた。
 その前は、同じ地域はポーランド、またはポーランド・リトアニア連邦に属した。後者は、1565年にリトアニア大公国を継承したものだ。
 さらに以前は、ウクライナ地域はキーフ大公国(Kyivan Rus' )の中心に位置した。これは、Slavic 種族とViking 貴族が9世紀に建てた中世国家だった。
 そして、この地域の記憶では、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人がそろって自分たちの祖先だとするほとんど神話的な王国があった。//
 (04) 何世紀にもわたって、帝国軍隊がウクライナの地上で戦闘した。ときには、前線の両者の側がウクライナ語を話す兵団だった。
 ポーランドの軽騎兵が、今はKhotyn というウクライナの町を支配するために、1621年にトルコの精鋭部隊と戦った。
 ロシア皇帝の兵団は、1914年にGalicia 地方で、オーストリア・ハンガリー帝国の軍団と闘った。
 ヒトラー軍は、スターリン軍と、1941年と1945年のあいだに、Kyiv、Lviv(リヴィウ)、Odessa で衝突した。//
 (05) ウクライナ領域の支配を目ざす闘いには、つねに知的な要素があった。
 ヨーロッパ人がnation とナショナリズムの意味を論じ始めて以来ずっと、歴史家、文筆家、報道者、詩人、民族学者は、ウクライナの範囲とウクライナ人の性質について論じてきた。
 ポーランド人は、中世初期の最初の接触のときから、ウクライナ人は言語や文化が自分たちとは違っていることを、つねに承認した。ともに同じ国家の一部であったときですら。
 16-17世紀のポーランドの貴族の称号をもつウクライナ人の多くは、ローマ・カトリックではなく正教会にとどまった。
 ウクライナの農民はポーランド人が「Ruthenian」と呼ぶ言葉を話し、異なる習慣、異なる音楽、異なる食べ物をもつ人々としてつねに描写された。//
 (06) 帝国の全盛時にはモスクワの者たちは承認しようとはしたくなかったけれども、彼らも、ときどきは「南ロシア」または「小ロシア」と称したウクライナは自分たちの北方の故郷とは異なっていることを、本能的に感じていた。
 初期のロシア人旅行者のIvan Dolgorukov 公は、1810年に彼の一行がついに「ウクライナの境界を越えた」ときについて、こう書いた。
 「私の思いは(Bohdan)Khmelnytsky と(Ivan)Mazepa へ向かった」。—この二人は初期のウクライナの民族的指導者だった。
 「そして、消え失せた樹木の街路を思った。…どこも、例外なく。
 粘土の小屋があった、だが、他に施設は何もなかった。」(3)
 歴史家のSerhiy Bilemky は、19世紀のロシア人はしばしばウクライナに対して、北ヨーロッパ人がイタリアに対して抱いた父親的(paternalistic)思いを持っていた、と観察した。
 ウクライナは、理想的な選択し得るnation だった。ロシアと比べてより旧式だったが、同時に、より純粋で、より情緒的で、より詩的だった。(4)
 ポーランド人も、失った後でも長く「自分たちの」ウクライナの土地に対する郷愁に充ちた思いを残しつづけ、ロマンティックな詩や小説の主題にした。//
 (07) だがなお、違いを承認していても、ポーランド人もロシア人もときには、ウクライナnation の存在を傷つけ、または否定しょうとした。
 19世紀のロシア・ナショナリズムの指導的理論家のVissarion Berlinsky は、こう書いた。
 「小ロシアの歴史は、ロシアの歴史という本流に入ってくる支流のようなものだ。
 小ロシアはつねに支流であって、決して一つの人民(people)ではなく、ましてや国家(state)ではなかった。」(5)
 ロシアの学者と官僚層は、ウクライナ語を「全ロシア語の方言、または半方言、あるいは話し方の一つ」として扱ったのであり、「〈patois〉やそのような単語類には独立に存在する権利がない」。(6)
 ロシアの文筆家は、ウクライナ語を口語または農民の話し方を示すために用いた。(7)
 一方で、ポーランドの文筆家は、ウクライナの領域の東方に対する「空白」を強調する傾向があり、ウクライナ領土をしばしば「文明化されていない辺境で、自分たちが文化と国家の形成をもたらした」と叙述した。(8)
 ポーランド人は〈dzikie〉、「荒野」という表現を、東部ウクライナの空虚な土地を描写するために用いた。東部ウクライナ地方は、ポーランド人の民族的想像力では、アメリカで荒れた西部(Wild West)がもったような機能を果たした。(9)//
 ——
 序説②へと、つづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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