秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア・ソ連史

2803/R.パイプス1990年著—第14章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
 ————
 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動①。
 (01) Ioffe は、〔1918年〕4月19日に、任務を携えてベルリンに到着した。
 ドイツの将軍たちは、ロシアの外交官は主として諜報と破壊に従事するだろうと正確に予測して、ブレスト=リトフスクかドイツから離れた別の都市にソヴィエト大使館が置かれるよう望んだ。しかし、外務当局はこれを却下した。
 Ioffe は、Unter den Linden 7番地の帝制時代の古い大使館を引き継いだ。ドイツはそこを、戦争のあいだずっと、無傷のまま維持していた。
 その建物の上に彼は、鎌と槌が描かれた赤旗を掲げた。
 のちにソヴィエト政府は、ベルリンとハンブルクに領事館を開設した。
 --------
 (02) Ioffe の館員は最初は30人だったが、その数は増加し続けた。ドイツとソヴィエトが関係を消滅させた11月には、180人になっていた。
 加えて、Ioffe は、ソヴィエトの政治的宣伝工作文書を翻訳させ、破壊活動を実行させるためにドイツの急進派を雇用した。
 彼はモスクワとの電信による通信手段を継続的に維持した。ドイツはこれを盗聴し、連絡のいくつかを暗号解読した。だが、大量であるため、公刊されていないままだ(脚注)
 ----
 (脚注) Ioffe のレーニンあて文書を選抜したものは、I. K. Kobiliakov 編集によるISSR, No. 4(1958), p.3-p.26 で公表された。
 --------
 (03) 在ベルリンのソヴィエト外交代表団は、ふつうの大使館ではなかった。それはむしろ、敵国の奥深くにある革命の前哨基地だった。すなわち、その機能は、革命を促進することだった。
 アメリカの一記者がのちに述べたように、Ioffe はベルリンで、「完璧な背信」(perfect bad faith)でもって行動した(45)。
 Ioffe の諸活動から判断すると、彼には三つの使命があった。
 第一は、ボルシェヴィキ政府を排除したいドイツの将軍たちの力を弱くすること。
 彼はこれを、事業や銀行の団体の利益に訴えたり、ドイツに対してロシアでの独特の経済的特権を与える通商条約の交渉をしたりすることで達成した。
 第二の使命は、ドイツの革命勢力を援助することだった。
 第三は、ドイツの国内情勢に関する情報を収集することだった。
 --------
 (04) Ioffe は、革命的諸活動を鉄面皮の心持ちでもって実行した。
 彼はドイツの政治家や事業家たちに、つぎのことを期待した。彼らの経済的搾取に従属するロシアでの優越的な利益を増大させて、彼が冒す外交上の規範に逸脱した行為を看過するようドイツ政府を説得すること。
 1918年の春と夏、彼が主として行なったのは、独立社会主義党の極左派であるSpartacist 団と緊密に結びついた、政治的宣伝工作だった。
 のちにドイツの統合が崩れ始めたとき、彼は、社会革命の火を煽るべく金銭と武器を提供した。
 ロシア共産党の支部に変わっていた独立社会主義党は、ソヴィエト大使館と調整してその諸活動を行なった。あるときには、モスクワは、この党の大会で挨拶する公式の代表団をドイツに派遣した(46)。
 Loffe はこの任務のために、モスクワから1400万マルクを与えられた。彼はこの金をドイツのMendelssohn銀行に預けて、必要に応じて引き出した(脚注)
 ----
 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.352n.
 Ioffe は、極左から極右までドイツの全政党との接触を維持したけれども、「社会的裏切り者」の党である社会民主党との関係は意識的に避けた、と語る。VZh, No. 5(1919), p.37-38.
 レーニンの指示にもとづくこの政策は、15年後のスターリンの政策を予期させるものだった。スターリンは、ドイツ共産党にナツィスと対抗する社会民主党との協力を禁止することによって、ヒトラーの権力掌握を可能にしたとして、広く非難された。
 --------
 (05) Ioffe は、ドイツの多くの地方諸都市に、ソヴィエトのドイツ情報センターを設けた。ソヴィエトの情報宣伝が連合諸国のメディアに伝えられるオランダでも同様だった。
 1919年、Loffe は明らかに誇りをもって、ベルリンでのソヴィエト代表部として自分が達成したことを詳しく述べた。
 「ソヴィエト大使館は、十の左派社会主義新聞よりも多くのことを指揮監督し、援助した。…
 全く当然のことだが、その情報作業ですら、全権代表の活動は「合法的目的」のものに限定されなかった。
 情報資料は印刷されたものに限られたわけでは全くなかった。
 検閲者が削除したもの全てが、最初から通過しないだろうと判断されて提示されなかった全てが、そうであるにもかかわらず、非合法に印刷され、非合法に散布されていた。
 議会で利用するためにそれらが必要になることは、きわめて頻繁にあった。そうした資料は(社会民主党の)独立会派からドイツ帝国議会の議員たちに渡された。受け取った者は議会での演説のために使った。
 ともあれ、こうして文書になっていった。
 この作業では、ロシア語の資料に限定することはできなかった。
 ドイツ人社会の全ての階層と堂々たる関係を持つソヴィエト大使館、ドイツの各省庁にいるその工作員たちは、ドイツの諸事情についてすらドイツの同志たちよりも多くの情報をもっていた。
 前者が受け取った情報は、やがては後者に伝えられた。こうして、軍部の多くの策謀は、適切な時期に公衆一般の知るところになった。//
 もちろん、ロシア大使館の革命的活動が情報の分野に限られていたのではなかった。
 ドイツには、戦争のあいだずっと地下で革命的活動を行なっていた革命的グループが存在した。
 機会が多かったのみならずその種の陰謀的活動に習熟もしていたロシアの革命家たちは、これらのグループと協力しなければならなかったし、実際に協力した。
 ドイツの全土が、非合法の革命的諸組織によって覆われていた。数十万の革命的冊子と宣伝文書が、前線と後方で毎週に、印刷され、散布された。
 ドイツ政府は一度、煽動的文書をドイツに密輸出しているとしてロシアを追及し、用いられる価値があるだけのエネルギーでもって、運搬者のカバンに、密輸入されたものを捜索した。だが、ロシア大使館がロシアから持ち込んだものはドイツ国内でロシア大使館の助けでもって印刷されたものに比べれば大海中の一滴にすぎない、ということに気づかなかった。」//
 Ioffe によれば、要するに、在ベルリンのロシア大使館は、ドイツ革命を準備すべく、ドイツの社会主義者たちとの緊密な接触のもとで継続的に仕事をした(48)。
 --------
 (06) 在独ソヴィエト大使館は、さらにまた、他のヨーロッパ諸国に、革命的文献と破壊的資金を分配する経路として機能した。同大使館を、オーストリア、スイス、Scandinavia、オランダへ向けて外交嚢を配達するクーリエたちの、諸国の安定した流路(ドイツの予想では100ないし200)が通過していた。「クーリエたち」の中には、ベルリンに着いた後で姿を消す者もいた(49)。
 --------
 (07) ドイツ外務省は、このような破壊的活動に関係する軍事および内政当局から、抗議を頻繁に受け取った(50)。しかし、ドイツのロシアでの高次の利益だと認めているもののために、それらを大目に見た。
 一度短いあいだ、ソヴィエト大使館側のとくに不埒ないくつかの行動についてあえて抗議したとき、Ioffe は回答を用意していた。こう説明した。
 「ブレスト条約自体が、計略を行なう機会を認めている。
 締結した当事者は諸政府であるがゆえに、革命的行動の禁止は、政府とその機関に適用されると解釈することができる。
 ロシア側からはこう解釈される。そして、ドイツが抗議している全ての革命的行動は、全てロシア共産党の行動であって同政府のそれではない、とただちに説明される。」(51)
 ————
 つづく。

2801/R.パイプス1990年著—第14章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
 ————
 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達②。
 --------
 (10) モスクワでの一ヶ月後、Milbach は、ボルシェヴィキ体制の存続可能性、およびロシア政策全般の基礎になっている自国ドイツのロシアに関する知識、について、不安を感じ始めた。
 ボルシェヴィキは存続しそうだと、信じ続けはした。すなわち、5月24日に、ソヴィエト体制の崩壊は切迫していると予言するBothmer その他の軍人たちに反対する見解を書いて、外務省に警告した(36)。
 しかし、ロシアでの連合諸国の外交官や軍人たちの活動や彼らの反対少数派集団との接触を知って、レーニンは権力を失うのではないか、そしてドイツはロシアでの援助の根拠を全て失って孤立するのではないか、と懸念した。
 したがって、彼は、ボルシェヴィキへの信頼に加えて反ボルシェヴィキ少数派との会話を開始するという政治的保険をかける、という柔軟な政策を主張した。
 --------
 (11) 5月20日、Milbach は、ソヴィエト・ロシアの状況とドイツのロシア政策にある危険性について、最初の悲観的な報告書を、本国に送った。
 彼はこう書いた。体制に対する民衆の支持はこの数週間で大きく減少した。トロツキーはボルシェヴィキ党は「生きている死体」だと語ったと言われている。
 連合諸国は泥水の中で魚釣りをしており、エスエルやメンシェヴィキの国際主義者、セルビアの戦争捕虜やバルトの海兵たちに対して寛大に資金を配っている。
 「いま以上に腐敗した賄賂のロシアは絶対にない」。
 トロツキーが共感しているため、連合諸国はボルシェヴィキに対する影響力を増している。
 トロツキーは、事態が悪化するのを阻止するために、ドイツ政府が一月に終わらせたボルシェヴィキに対する助成金を更新する金を必要とした(37)。
 ボルシェヴィキを連合国の方へ向ける、親連合国のエスエルが権力を奪取する、この二つをいずれも阻止するために、資金が必要だ(38)。
 --------
 (12) この報告書には、より明確に悲観的な調子の報告が続いた。そしてこれらは、ベルリンで顧みられなかったのではなかった。
 6月初め、Kuhlmann は見方を変えて、ロシアの反対派との会話を開始する権限をMilbach に与えた(39)。
 彼はまた、Milbach に、裁量性のある資金を割り振った。
 6月3日、Milbach はベルリンに電報を打って、ボルシェヴィキに権力を持たせつづけるに毎月300万マルクが必要だと、伝えた。外務省は、総計で4000万マルクの意味だとこれを解釈した(40)。
 Kuhlmann は、ボルシェヴィキが連合国側へと転換するのを阻止するには「金が、おそらくは大量の金が」かかることに同意見だった。そして、ロシアでの秘密工作のために在モスクワ大使館に上記の金額を送ることを承認した(41)。
 この金がどう使われたのかを、正確に叙述することはできない。
 約900万マルクだけは、特定目的のために使われた。総額の半分はボルシェヴィキ政府に、残りは反対派に支払われたように思われる。後者の相手は主に、Omsk を中心地としたシベリアの反ボルシェヴィキ臨時政府、親皇帝派の反ボルシェヴィキ集団、Don コサックの首長、P. N. Krasnov だった(脚注)
 ----
 (脚注) ボルシェヴィキ政府は、6月、7月、8月の毎月、ドイツから300万マルクの援助金を受け取った。Z. A. B. Zeman, ed., Germany and the Revolution in Russia, 1915-1918 (London-New York, 1958), p.130.
————
 (13) ドイツが反ボルシェヴィキ少数派と接触するのを妨げたのは、ブレスト条約だった。
 ボルシェヴィキ以外の全ての政治的党派は、この条約を受容しようとしなかった。ボルシェヴィキにすら、分裂があった。
 Milbach が観察していたように、ソヴィエト・ロシアの状況は厄災的であり、かりに代償がブレスト条約を受容することだったとすれば、非ボルシェヴィキのどのロシア人も、ボルシェヴィキに対抗するドイツによる援助を受け入れようとしなかっただろう。
 言い換えると、反ボルシェヴィキ集団からの支持を得ようとすれば、ドイツは条約の実質的な改正に同意しなければならなかった。
 Milbach の意見では、反対派集団はポーランド、リトアニア、Courland の喪失を黙認する可能性があった。しかし、ウクライナ、エストニア、そしてたぶんLyvonia の割譲を容認することはなかった(42)。
 --------
 (14) Milbach は、Rietzler に、チェカと連合諸国工作員の鼻先でロシアの反対派集団と交渉するという微妙な任務を与えた。
 Rietzler は主として、いわゆる右翼中心派(Right Center)と接触した。これは、ボルシェヴィズムはドイツ以上に悪辣なロシアの国益に対する脅威だと結論づける、そしてボルシェヴィキを排除するためにドイツと合意する心づもりのある、信望ある政治家や将軍によって、6月半ばに結成された小さな保守的グループだった。
 この集団は、財政、産業、軍事上のしっかりした交渉を要求はした。しかし、現実には顕著と言えるほどの支持者がなかった。なぜなら、ロシアの積極的な活動家の圧倒的多数は、ボルシェヴィキはドイツが生んだものだと考えていたからだ。
 右翼中心派の中心人物は、Alexander Krivoshein だった。この人物はかつてStolypin 改革の指導者で、上品な愛国者であって、かりにドイツがロシア政府を打ち立てるならば受け入れやすい首班候補だったかもしれなかった。しかし、彼は旧体制の典型的な官僚だったので、命令を下すというよりも命令に服従してきた人物だった。
 他に、1916年攻勢の英雄だったAleksei Brusilov もいた。
 Krivoshein は、媒介者を通じて、Rietzler につぎのことを知らせた。すなわち、彼のグループはボルシェヴィキを打倒する用意がある、そのための軍事的手段もある、しかし、実行するにはドイツの積極的な協力が必要だ(43)。
 このような協力を実現するには、ドイツはブレスト条約の改訂に同意しなければならなかった。
 --------
 (15) 接触はしたけれども、ドイツは、ロシアの反対派への敬意をほとんど示さなかった。
 Milbach は君主主義者を「怠け者」と見なし、Rietzler は、ドイツの援助と命令を求める[ロシアの]ブルジョアジーについて、侮蔑的に「嘆いて愚痴を言う者たち」と語った(44)。
 ————
 第四節、終わり。つづく。

2800/R.パイプス1990年著—第14章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
  ————
 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達①。
 (01) 1918年の後半、ロシアとドイツの両国は、互いに大使館を設置した。Ioffe がベルリンに行き、Mirbach がモスクワにやって来た。
 ドイツ人は、ボルシェヴィキ・ロシアが最初に信認した外国使節団だった。
 彼らは驚いたのだが、ドイツ人がモスクワまで旅をした車両は、ラトヴィア人によって警護されていた。
 ドイツの外交官の一人は、ロシアによってモスクワで催されたレセプションは驚くほど温かかった、と書いた。戦勝者がこれほどまでに歓迎されたことはかつてなかった、と彼は思った(31)。
 --------
 (02)  使節団の長のMilbach は47歳の経歴ある外交官で、ロシアの諸事情について多くの経験があった。
 彼は1908年から1911年まで、ペテルブルクのドイツ大使館の顧問として勤務し、1917年12月に、ペテルブルクへの使節団の長となった。
 Milbach は、プロイセン・カトリックの富裕で貴族的な家庭の出身だった(脚注)
 昔からの派の外交官で、同僚たちの中には「ロココ伯爵」と呼んで相手にしない者もおり、革命家たちと付き合うのは苦手だった。しかし、機転と自制心によって、外務省内での信頼を獲得していた。
 ----
 (脚注)  Milbach につき、完全には信頼できないが、つぎを見よ。Wilhelm Joost, Botschafter bei den roten Zaren (Vienna, 1967), p.17-p.63.
 --------
 (03) Milbach の片腕のKurt Riezler は、36歳の思慮深い人物で、やはりロシアの事情をよく知っていた(脚注)
 彼は1915年に、レーニンの協力を確保するという、Parvus の失敗した企てに一定の役割を果たした。
 1917年にストックホルムに派遣され、ドイツ政府とレーニンの代理人の間の主要な媒介者となった。彼は、いわゆるRiezler 基金からロシアへとその代理人に援助金を送った。
 Riezler は、ボルシェヴィキが十月のクーを実行するのを助けた、と言われている。但し、そこでの彼の役割は明瞭ではない。
 同僚たちの多くと同様に、彼は、ドイツを救うことのできる「奇跡」として、クーを歓迎した。
 彼はブレストでは、融和的政策を主張した。
 しかしながら、彼は、気質的に悲観論者で、どちらの側が戦争に勝ってもにヨーロッパは衰亡に向かっている、と考えていた。
 ----
 (脚注) 彼の諸文書は、Karl Dietrich Erdmann によって編集された。Kurt Riezler, Tagebücher, Aufsatze, Dokumente (Göttingen, 1972).
 --------
 (04) ドイツ大使館の第三の主要な人物は軍事随行員のKarl von Bothmer で、Ludendorff やHindenburg の考え方を引き継いでいた。
 この人物はボルシェヴィキを毛嫌いしており、ドイツはボルシェヴィキと縁を切るべきだと考えていた(32)。
 --------
 (05) これら三人のドイツ人は、ロシア語が分からなかった。
 彼らと接触することになるロシア人は、全員が流暢にドイツ語を話した。
 --------
 (06) ドイツ外務省はMilbach に対して、ボルシェヴィキ政府を支援すること、条件を設けることなくロシアの少数反対派と連絡を保つこと、を指示した。
 Milbach は、ソヴィエト・ロシアの真実の状況およびロシアにいる連合諸国の代理人たちの活動に関する情報を得ることを自らの任務とした。ブレスト条約が定めていた諸国間の通商交渉の基礎作業をするのは当然のことだった。
 20人の外交官とそれと同数の書記職員たちは、Arbat 通りから脇に入ったDenezhnyi Pereulok に贅沢な私宅を構えた。それらは、共産主義者たちから事業を守り続けたいドイツ人の砂糖事業家の財産だった。
 --------
 (07) Milbach は数ヶ月前にペテログラードにいたことがあり、自分が何を期待されているのかを知っていたに違いなかった。そうであっても、モスクワで見たものには唖然とした。
 彼はモスクワ到着の数日後に、ベルリンへこう書き送った。//
 「通りはとても活発だ。
 しかし、もっぱら貧民たち(proletarian)で溢れている。良い衣服を着た者たちを滅多に見ることがない。—まるで、かつての支配階級、ブルジョアジーはこの地球上から消滅したかのごとくだ。…
 かつては公衆の中で富裕な層だった聖職者たちは、同様に、通りから消失した。
 店舗では、主に以前は美麗だったものの埃まみれの残物を見つけることのできるのだが、それらは狂気じみた値段で売られている。
 労働というものが欠落した状態の蔓延、愚かなままでの怠惰、これはこうした風景全体に特徴的だ。
 工場は操業を停止した状態で、土地はほとんどが耕作されないままだ。—ともかく、これが我々が今度の旅で得た印象だ。
 ロシアは、[ボルシェヴィキによる]クーによる苦難以上の、さらに大きな災難へと向かっているように思える。//
 公共の安全には、望まれるものがまだ残っている。
 昼間には自由に一人で動き回ることができるのだが。
 しかしながら、夕方に自宅から出ることは勧められない。射撃の音が頻繁に聞こえ、小さなあるいは大きな衝突がしょっちゅう起きているようだ。…//
 ボルシェヴィキによるモスクワの支配は保持されている。何よりも、ラトヴィア軍団によってだ。
 さらには、政府が徴発した多数の自動車にも依っている。多数の自動車が市中を走り回り、危険な箇所へと、必要な兵団を送り届けている。//
 このような状態が今後どうなるかを、まだ判断することができない。しかし、とりあえずは一定の安定の見込みがある、ということは否定できない。」(33)
 --------
 (08) Riezler もまた、ボルシェヴィキ支配のモスクワに意気消沈した。最も衝撃的だったのは、共産主義官僚たちの腐敗の蔓延と怠惰な習慣だった。とりわけ、女性を求める飽くことのない要求。(34)

 ---------
 (09) 5月半ば、Milbach はレーニンと会った。
 レーニンの自信は、彼を驚かせた。
 「一般にレーニンは自分の運命に岩のごとき確信を持っていて、何度も何度も、ほとんど執拗なほどに、際限なき楽観主義を表明する。
 同時にレーニンは、彼の支配体制はまだ無傷であったとしても、敵の数は増え続けていて、状況は『一ヶ月前以上の深刻な警戒』を必要としている、と認める。
 他諸政党は現存の体制を拒否する点だけで一致しているが、別の見方をすれば、それら諸政党は、全ての方向に離ればなれになりそうで、ボルシェヴィキの権力に匹敵するほどのそれを全く持っていない。その他の諸政党ではなく支配政党たるボルシェヴィキだけが組織的権力を行使する、という事実に、レーニンの自信の根拠はある(35)。(脚注)
 ----
 (脚注) 当時にものちにも、レーニンは私的会話では人民の支持に自分の強さの淵源を求めなかった、ということは注目に値する。彼は強さの由来を反対派の分裂に見ていた。
 彼は1920年代にBertrand Russel に、自分と仲間たちは二年前には周囲の敵対的状況の中で生き延びられるかを疑っていた、と語った。
 「彼は自分たちが生き延びたことの原因を、様々な資本主義諸国の相互警戒心とそれらの異なる利害に求める。また、ボルシェヴィキの政治宣伝の力にも」。以上、Bertrand Russel, Bolshevism (New York, 1920), p.40.
 ————
 ②へとつづく。

2799/R.パイプス1990年著—第14章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
 ————
 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続②。
 (05) このような会話が行われている間の4月4日、日本は小さな派遣軍団をVladivostok に上陸させた。
 建前としては、この軍団の使命は、在留日本国民の保護だった。最近に2人の日本人が、そこで殺害されていた。
 しかし、日本軍の本当の目的はロシアの海岸地域の掌握と併合にあると、広くかつ的確に考えられていた。
 ロシアの軍事専門家たちは、輸送とシベリア地域の公的権威の崩壊によって、莫大な後方支援が必要な数十万の日本軍のヨーロッパ・ロシアへの移動が阻害される、と指摘した。
 だが、連合諸国はこの構想に固執し、フランス、イギリスおよびチェコ兵団でもって日本の派遣軍団を弱体化させることを約束した。
 --------
 (06) 6月の初めに、イギリスはMurmansk に1200人の、Archangel に100人の、追加の兵団を上陸させた。
 --------
 (07) レーニンは、アメリカの経済的援助を諦めなかった。それは、フランスが約束した軍事的協力を補完するものだった。
 アメリカは、ブレスト条約が批准されたあとでも、ロシアとの友好を表明しつづけた。
 アメリカ国務省は、ロシアとその国民は「共通する敵に対抗する友人で仲間だ」と日本に知らせた。ロシア政府を承認はしなかったけれども(25)。
 別のときに、アメリカ政府は、ロシア革命が惹起した「全ての不幸と悲惨さ」にもかかわらず、「最大の同情」を感じていると表明した(26)。
 このような友好的な発言が具体的には何を意味するのかを知りたくて、レーニンはRobins に対して、経済的「協力」の可能性をアメリカ政府に打診してみるよう頼んだ(27)。
 5月半ばにレーニンはRobins に、アメリカ合衆国はドイツに代わる工業製品の供給者になり得るとするワシントンあての覚書を与えた(28)。
 だが、ドイツの産業界とは違って、アメリカ人たちは関心をほとんど示さなかった。
 --------
 (08) ボルシェヴィキの連合諸国との協力はどの程度にまで進む可能性があったか、あるいはそもそもそれはどの程度に真面目に意図されていたのか、を判断するのは不可能だ。
 ボルシェヴィキはドイツがこうした交渉の経緯を掴んでいることに気づいていたのだが、ボルシェヴィキの連合諸国との予備的な交渉は、ドイツがブレスト条約の条件履行を監視するように仕向ける可能性があった。あるいは、ロシアが連合国側に走るよう追い込む怖れもあった。
 いずれにせよ、ドイツはロシアに接近していて、敵対的な意向は持っていない、と保証した。
 4月に両国は外交使節団を交換し、通商協定に関する会談の準備を整えた。
 5月半ば、ドイツ政府は、将軍たちが主張していた強硬路線を放棄し、ドイツはいま以上のロシア領土の占領は行なわない、とモスクワに知らせた。
 レーニンは、5月14日の談話で、この保障を公式に確認した(29)。
 この保障によって、ドイツ・ロシアの友好的国家関係の基礎が築かれた。
 ドイツは(ボルシェヴィキの)打倒を意図していない、ということがドイツ・ロシア関係の推移の過程で明らかになったとき、トロツキーは、「連合諸国の援助」という考え方を捨てた(脚注)
 このとき以降、ボルシェヴィキと連合諸国との交渉は急速に途絶えていった。こうして、モスクワは、戦争に勝利しようとしていると見えたドイツ帝国の勢力範囲に入った。
 ----
 (脚注)  Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918 (Vienna-Munich, 1956), p.49. 日本軍のVladivostok 上陸を正当化した確かに不用意な4月末の新聞インタビュー記事によって、連合諸国とモスクワの間に生まれつつあった協調関係を意図的に破壊したのはNoulens だ、とするHogenhuis-Seliverstoff の主張には、いかなる根拠もない。
 ---------
 第三節、終わり。つづく。

2798/R.パイプス1990年著—第14章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
 ————
 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続①。
 (01) トロツキーは、連合諸国との軍事交渉を継続した。
 3月21日に、フランス軍事使節団のLaverne 将軍に、つぎの覚書を送った。
 「Sadoul 司令官との会議のあとで、人民委員会議の名前でもって、ソヴィエト政府が企図している軍の再組織という課題についてのフランス軍の技術的な協力を要請することを、光栄に思う」。
 これには、航空、海軍、諜報等々の全ての軍事部門についての、ロシアが希望した33人のフランスの専門家たちの詳しい一覧表が、付いていた(注21)。
 Laverne は彼の使節団にいる3人の将校を、ソヴィエト戦争人民委員部の補佐に指名した。トロツキーは彼らの部屋を、自分のオフィスの近くに割り当てた。
 協力はきわめて慎重に行われ、そのために、ソヴィエトの軍事史では多くを語られていない。
 Joseph Noulens によると、のちに、トロツキーは、500人のフランス軍人と数百人のイギリスの海軍将校を要請した。
 トロツキーはまた、アメリカ合衆国およびイタリアの使節団と、軍事協力に関して議論した(注22)。
 --------
 (02) しかしながら、何もない所から赤軍を組織する推移はゆっくりしたものだった。
 ドイツ軍はそのあいだに、南西のウクライナとその近傍へと前進していた。
 ボルシェヴィキは、このような状況下で、連合諸国は自分たちの軍団を用いてドイツ軍の前進を阻止するのを助けるつもりがあるのかを、探ろうとした。
 3月26日、新しい外務人民委員のGeorge Chicherin は、フランスの総領事のFernand Grenard に、覚書を手渡した。それは、ロシアが日本にドイツの侵略を撃退する助けを求めるとした場合の、またはロシアが日本に対抗してドイツに頼るとする場合の、連合諸国の意思の言明を求めるものだった(注23)。
 --------
 (03) Vologda を本拠としていた連合諸国の大使たちは、Sadoul を通じて伝えられたボルシェヴィキからの問い合わせに対して、疑い深く反応した。
 連合国大使たちは、ボルシェヴィキは本当に赤軍をドイツに対抗するものとして設置しようとしているのかを疑った。Noulens が述べたように、ロシアの支配を強固にする「近衛軍」として構想されている、というのが最も可能性が高かった。
 モスクワに代わってSadoul が熱心に語ったつぎの釈明を聞くと、彼らの想いを想像することができる。
 「ボルシェヴィキは、ともかくも軍を形成するだろう。しかし、われわれの助力なくしては、行うことができない。
 そして必ずやいつか、その軍はロシア民主政体の最悪の敵であるドイツ帝国軍に対して立ち上がるだろう。
 他方で、新しい軍には紀律があり、職業軍人が配置され、軍隊精神が浸透しているために、内戦に適した軍隊にはならないだろう。
 トロツキーが我々に提案したように、我々がその軍の形成を指揮するならば、それは国内の安定の要因になり、連合諸国の意のままでの国民防衛の手段になるだろう。
 こうして軍で我々が達成する脱ボルシェヴィキ化は、ロシアの一般的政治に影響を与えるだろう。
 このような進展が始まっていることを、我々はすでに見ていないか?
 不可避の残虐性を通じてボルシェヴィキたちが現実主義的政策に急速に適合していくのを見ないならば、偏見で盲目になっているに違いない。」(注24)
 こうした釈明は、ボルシェヴィキは現実主義へと「進化」しているという、文書に残された早い時期の記録の一つに違いなかった。
 --------
 (04) 多くの疑念があったにもかかわらず、連合諸国の大使たちは、ソヴィエトからの要請をそっけなく拒否したくなかった。
 トロツキーとはむろんのこと各々の政府と頻繁に意思疎通をしたあとで、彼らは、4月3日に、以下の諸原則を共通理解とすることにした。
 1. 連合国は(共同行動を拒むアメリカを除き)、モスクワが死刑を含む軍事紀律を再導入することを条件として、赤軍の組織化を援助する。
 2. ソヴィエト政府は、日本軍のロシア領土への上陸に同意する。日本軍はヨーロッパから派遣された連合国兵団と合同して、ドイツ軍と戦う多国籍軍を形成する。
 3. 連合国の派遣軍団は、Murmansk とArchangel を占領する。
 4. 連合国は、ロシアの国内行政に干渉することをしない(脚注)
 ----
 (脚注) Joseph Noulens, Mon Ambassade en Russie Soviettique, II(Paris, 1933), p.57-58; A. Hogenhuis-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.59.
 Noulens は、連合諸国の国民には、ドイツ国民がブレスト条約で獲得したのと同じ利益、特権、補償が認められる、という条件をさらに追加したかった。だが、これを欠落させざるを得なかった。Hodensuis-Seliverstoff, Les Relations, p.59.
 ————
 

2791/R.パイプス1990年著—第14章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
 ————
 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話②。
 (10) 公式の政府の声明が、「国際ブルジョアジー」による攻撃を撃退するソヴィエト・ロシアの必要によるものとして、新しい、社会主義的軍隊の創設を正当化した。
 しかしこれは、公にされた使命の一つにすぎず、また必ずしも最も重要なものでもなかった。
 帝制軍と同じく、赤軍は二つの機能をもった。すなわち、外国の敵と戦うこと、国内の治安を確保すること。
 Krylenko は、1918年1月の第三回全国ソヴェト大会の兵士部会にあてて、こう宣告した。「赤軍の最大の任務は、『国内戦争』を闘い、『ソヴィエトの権威の防衛』を確実にすることだ」(注11)。
 言い換えると、赤軍の任務は、まず第一に、レーニンが行なうと決意していた内戦のために役立つことだった。
 --------
 (11) ボルシェヴィキもまた、赤軍に対して、内戦を拡大する使命を与えた。
 レーニンは、社会主義の最終的勝利のためには「社会主義」国家と「ブルジョアジー」国家の間の一続きの大戦争が必要だ、と信じていた。
 彼らしくない率直さで、こう語った。
 「ソヴェト共和国が帝国主義諸国と並んで長いあいだ存在するというのは、考え難い。
 最終的には、どちらかが勝利する。
 その結末に至るまで、ソヴェト共和国とブルジョア諸政府のあいだの最も激烈な闘争が長く続くのは、避けることができない。
 これが意味するのは、支配階級であるプロレタリアートは、かりに支配することを欲しかつ支配すべきものならば、そのことを軍事組織でもって証明しなければならない、ということだ。」
 --------
 (12) 赤軍を組織することが発表されたとき、<Izvestiia>は社説欄で、つぎのように歓迎した。
 「労働者の革命は、地球規模でのみ勝利することができる。そして、永続的な勝利のためには、さまざまな諸国の労働者が互いに協力し合うことが必要だ。//
 プロレタリアートの手に権力が最初に移った国の社会主義者は、腕を組んで、兄弟たちがブルジョアジーと国境を越えて闘うことを助ける、という任務に直面することになるだろう。//
 プロレタリアートの完全かつ最終的な勝利は、国内の戦線と国際的な戦線での連続した戦争の完全な勝利なくしては、考えることができない。
 したがって、革命は、自らの、社会主義の軍隊なくしては、達成することができない。//
 Heraclitus は、『戦争は、全てのことの父親だ』と言った。
 戦争を通じてこそ、社会主義への途もまた拓かれている<脚注>。」
 --------
 <脚注> Izvestiia, No.22/286(1918.1.28),p.1. Heraclitus は実際には少し違って語った。—「(戦争でなく)対立は全てのことの父親であり王君だ。対立はある者を奴隷にし、ある者を自由にした。」
 --------
 (13) 他に多くの見解が発表され、明示的にまたは黙示的に、赤軍の任務の中には外国での干渉が含まれる、という趣旨が述べられた。あるいは1918年1月28日の布令のように、「ヨーロッパでの来るべき社会主義革命への支援を提供する」と述べられた(注13)。
 --------
 (14)  これら全て、将来のことだった。
 さしあたりボルシェヴィキが有していた信頼に足りる軍団は、ラトヴィア・ライフル兵団(the Latvian Rifles)だけだった。これについては、憲法会議の解散とKremlin の安全確保の箇所ですでに言及はしている。
 ロシア軍は、1915年の夏に、分離した最初のラトヴィア兵団を設立した。
 1915-16年に、ラトヴィア・ライフル兵団は、8000人で成る全員が義勇の兵団で、ナショナリズムが強い、かなりの大きさの社会民主主義の兵団だった(注14)。
 ロシアの常設軍団からのラトヴィア民族派で補強されて、それは1916年の末には、全部で3万人から3万5000人で成る8個の分団を形成していた。
 この兵団はチェコ軍団(Czech Legion)に似ていた。これはほぼ同時期にロシアで、戦争捕虜でもって編成されていた。もっとも、両兵団の運命は全く異なるものになるのだけれども。
 --------
 (15) 1917年の春、ラトヴィア兵団はボルシェヴィキの反戦宣伝に好意的に反応し、講和と「民族自決権」原則によって、当時ドイツの占領下にあった母国に帰ることができるだろうと期待した。
 社会主義ではなく民族主義にまだ動かされていたが、彼らはボルシェヴィキの諸組織と緊密な関係を形成し、臨時政府に反対するボルシェヴィキのスローガンを採用した。
 1917年8月、ラトヴィア兵団は、Riga の防衛者として自認するようになった。
 --------
 (16) ボルシェヴィキはラトヴィア兵団をロシア軍の他の兵団とは区別して扱い、損傷を与えないままにし、重要な治安活動を彼らに委ねた。
 ラトヴィア兵団は次第に、フランスの外国人軍団とナツィスのSSの結合体のようなものになっていった。外国の敵からと同様に内部の敵からも体制を守る、一部は軍隊で一部は保安警察のような軍団だ。
 レーニンは彼らを、ロシア人部隊以上に信頼した。
 --------
 (17) 労働者と農民の赤軍を創設しようとする初期の計画は、無に帰した。
 入隊した者の目的は主に報酬と略奪する機会の獲得だった。前者はすみやかに月給50ルーブルから150ルーブルに上がった。
 軍の大半は、除隊されたごろつき兵士たちだった。トロツキーはのちに彼らを「フーリガンたち」と呼び、ソヴィエトの布令は「非組織者、悶着者、利己主義者」と称することになる(注15)。
 今日の新聞は、初期の赤軍兵団が実行した暴力的な「収奪」の物語で溢れている。空腹で支払いが悪かった者たちは、制服や軍備品を売り、ときには相互で闘った。
 1918年5月、Smolensk を占領した彼らは、「ユダヤを叩き出せ、ロシアを救え」というスローガンのもとで、ソヴェトの諸機関からユダヤ人を追放することを要求した(注16)。
 状況はかなり悪く、ソヴィエト当局はたまにはドイツの軍団に対して、言うことを聞かない赤軍兵団に介入することを要請しなければならなかった(注17)。
 --------
 (18) 事態はこのように進むことはできず、レーニンはやむなく、かつての将軍幕僚やフランス軍事使節団に迫られていた職業的軍隊の構想を受け入れた。
 1918年の2月と3月初旬に党内で、労働者で構成されて民主主義的構造をもつ「純粋な」革命軍の主張者と、より伝統的な軍隊の支持者の間で、討論が行なわれた。
 討議では、労働者による工業支配の主張者と職業的経営の主張者の間で同時期に起きていたのと同じ対立があった。
 どちらの場合も、効率性の考慮が革命的ドグマに打ち勝った。
 --------
 (19) 1918年3月9日、人民委員会議(Sovnarkom)は、ある委員会を任命した。その任務は、「社会主義的軍隊(militia)と労働者・農民の普遍的な軍事化の理念にもとづく、軍の再組織と強力な軍隊の創設のための軍事センターを樹立するプラン」を一週間以内に提示すること、だった(注18)。
 職業的軍隊に対する反対派を率いていたKrylenko は、戦争人民委員を辞し、司法人民委員部を所管した。
 彼に替わったトロツキーには、軍事の経験がなかった。ほとんど全てのボルシェヴィキ指導者と同じく、草案を考えるのを避けて以来ずっとだった。
 トロツキーが任命されたのは、敵に寝返ったり政治に干渉したりすることでボルシェヴィキ独裁に対する脅威を与えない、そのような効率的で戦闘準備のある軍隊を創設するために必要な、外国または国内についての職業的助力を獲得するためだった。
 政府は同時に、トロツキーを議長とする、最高軍事会議(Vysshyi Voennyi)を設立した。
 この会議は、将校(戦争人民委員部と海軍)とかつての皇帝軍の軍事専門家で構成された(注19)。
 ボルシェヴィキは、軍隊の完全な政治的信頼性を確保するために、軍事司令官たちを監督する「人民委員」の仕組みを採用した(注20)。
 ————
 第二節、終わり。

 

2787/R.パイプス1990年著—第14章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試約のつづき。
 ——
 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話①。
 (01)  1918年3月23日、ドイツ軍は、長く待った西部戦線への攻撃を開始した。
 ロシアとの休戦以降、Ludendorff は、50万人の兵士を東部から西部へと移動させた。勝利すべく、二倍の数の生命を犠牲にするつもりだった。
 ドイツ軍は、事前の大砲の連弾なくしての攻撃、特殊な訓練を受けた「電撃部隊」の重大な戦闘への投入といった、多様な戦術上の刷新を採用した。 
 ドイツ軍は、攻撃の主力部隊をイギリス部門に集中し、それは強い圧力を受けた。
 連合国司令部内の悲観論者、とくにJohn J. Pershing は、前線は攻撃に耐えられないのではないかと怖れた。
 ———-
 (02) ドイツの攻勢は、ボルシェヴィキもまた困惑させた。
 公式の言明としては両方の「帝国主義陣営」を非難し、交戦の即時停止を要求したが、ボルシェヴィキは実際には、戦争の継続を望んでいた。
 諸大国が相互の戦闘に忙殺されているあいだは、獲得したものを堅固にすることができ、将来に予期される帝国主義十字軍を迎え打ち、さらには国内の反対勢力を粉砕するのに必要な軍事力を高めることができた。
 ————
 (03) ボルシェヴィキは、中央諸国との講和条約の締結後ですら、連合諸国との良好な関係を維持しようとした。なぜなら、つぎのことに確信がなかったからだ。ドイツ人がボルシェヴィキを権力から排除しようとロシアへと進軍する、そのようなことを惹起する「好戦的政党」は決してベルリンを支配し続けることはない、ということの確信。
 ドイツ軍による三月のウクライナとクリミアの占領は、このような懸念を増幅させた。
 ————
 (04) 既述のように、トロツキーは、連合諸国に経済的援助を要請した。
 1918年3月半ば、ボルシェヴィキは、赤軍の設立と、可能ならば潜在的にあり得るドイツによる侵略に対抗する介入への助力、を呼びかける緊急の訴えを発した。
 レーニンは、ソヴィエト・ロシア関係に集中しつつ、新たに任命した戦争人民委員のトロツキーに、連合諸国と交渉する任を与えた。
 もちろん、トロツキーが初めて主張した全ては、ボルシェヴィキ中央委員会によって裁可されていたものだった。
 ————
 (05) ボルシェヴィキは3月初めに、軍隊の設置に真剣に取り組むことを決定した。
 だが彼らは、ロシアの多くの社会主義者と同様に、職業的軍隊は反革命をはぐくむ基盤になると見ていた。
 <アンシャン・レジーム>〔旧帝制〕の将校たちを幕僚とする常備軍は、自己破壊を誘引することを意味した。
 ボルシェヴィキが好んだのは<武装した国民>であり、国民軍(people’s militia)だった。
 --------
 (06) ボルシェヴィキは、権力掌握後も、旧軍隊が残したものを解体し続けた。将校たちからは、彼らが保持した僅かなものも、剥奪した。
 ボルシェヴィキが元々指令していたのは、将校たちは選挙されるべきであり、軍隊の階層は廃止されるべきであり、兵士ソヴェトに司令者の任命権が与えられるべきだ、ということだった(注4)。
 ボルシェヴィキ煽動家の誘導によって、兵士や海兵たちは、多数の将校にリンチを加えた。黒海艦隊では、このリンチは、大規模な虐殺へと発展した。
 --------
 (07) レーニンとその副官たちは同時に、彼ら自身の軍隊を創設することに関心を向けた。
 レーニンのもとでの初代の戦争人民委員に、彼は、32歳の法律家のN. V. Krylenko を選任した。この人物は、予備役の中尉として帝制軍に奉仕していた。
 1917年11月に、Krylenko はMogilev の軍司令部へ行った。最高司令官のN.N. Dukhonin を交替させるためだった。Dukhonin はドイツ軍との交渉を拒んでいた者で、Krylenko の兵団によって荒々しく殺害された。
 Krylenko は、新しい最高司令官に、レーニンの秘書の兄である、M. D. Bunch-Bruevich を任命した。
 --------
 (08) 職業的将校たちは実際には、知識人たちよりももっと、ボルシェヴィキに協力するつもりである、ということが分かった。
 厳格な非政治主義と権力者への服従という伝統のもとで育ったので、彼らのほとんどは、新政府の命令を忠実に履行した(注5)。
 ソヴィエト当局は彼らの氏名を明らかにするのに気乗りでなかったけれども、ボルシェヴィキの権威をすみやかに承認した者たちの中には、帝制軍の将軍の高級将校だった、以下のような人々もいた。A. A. Svechin、V. N. Egorev、S. I. Odintsov、A. A. Samoilo、P. P. Sytin、D. P. Parskii、A. E. Gutov、A. A. Neznamov、A. A. Baltiiskii、P. P. Lebedev、A. M. Zainonchkovskii、S. S. Kamenv(注6)。
 のちに、二人の帝制時代の戦争大臣、Aleksis Polivanov とDmitri Shuvaev も、赤軍の制服を着た。
 1917年11月の末、レーニンの軍事補佐のN. I. Podvoiskii は、旧帝制軍の一員たちは新しい軍隊の中核として役立つのかどうかに関して、将軍たちの意見を求めた。
 将軍たちは、旧軍隊の健全な軍団は用いることができる、軍は伝統的な強さである130万人まで減らすことができる、と回答し、推奨した。
 ボルシェヴィキはこの提案を拒否した。新しい、革命的軍隊を作りたかったからだ。それは、1971年にフランスで編成された革命軍—すなわち<levee en masse>—を範としたものだったが、これには農民はおらず完全に都市居住民で構成されていた(注7)。
 --------
 (09) しかしながら、事態の進行は待ってくれなかった。前線は崩壊しつつあり、今ではそれが、レーニンの前線だった。—こう好んで言ったように。「十月のあとで、ボルシェヴィキは『防衛主義者』になった」。
 新しいボルシェヴィキ軍を創設することになるよう、30万人から成る軍隊の設立が話題になった(注8)。
 レーニンは、この軍隊が集結し、一ヶ月半以内に、予期されるドイツ軍の襲撃に対応するよう戦闘準備を整えることを、要求した。
 この命令は、1月16日のいわゆる諸権利の宣言(-of Rights)で再確認された。この宣言は、「労働者大衆がもつ力の全てを確保し、搾取者の復活を阻止するために」(注9)赤軍を創設することを規定していた。
 労働者と農民の新しい赤軍(Raboche-Krest’ianskaia Krasnaia Armiia)は全員が義勇兵で、「証明済みの革命家」で構成される、と想定されていた。各兵士には一ヶ月に50ルーブルが支払われるとされ、全兵士に仲間たちの忠誠さについて個人的に責任を持たせるための「相互保証」によって拘束されるとされた。
 こう予定された軍隊を指揮するために、人民委員会議(Sovnarkom)は1918年2月3日に、Krylenko とPodvoiskii を議長とする、赤軍の全ロシア会合(Collegium)を設立した(注10)。
 ————

2784/R.パイプス1990年著—第14章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
 ————
 第14章第一節②。
 (06) 西側はボルシェヴィズムに大きな関心をもたなかったとしても、ボルシェヴィキには西側に重大な関心があった。
 ロシア革命は、その元の国に限定されたままでは存続しなかっただろう。ボルシェヴィキが権力を奪取した瞬間から、それは国際的な意味をもった。
 ロシアの地政学的位置だけによっても、ロシアが世界大戦から離れることは許されなかった。
 ロシアの多くは、ドイツの占領下にあった。
 やがて、イギリス、フランス、日本、アメリカが形だけの派遣部隊をロシアに上陸させた。東の前線を再活性化させようとの試みは失敗した。
 依然としてもっと重要だったのは、革命はロシアに限られるべきでなく、限られることもあり得ない、革命が西側の産業国家に拡大しなければロシアは破滅する、という確信が、ボルシェヴィキにあったことだ。
 ボルシェヴィキがペテログラードを支配したまさにその最初の日に、講和布令は発せられた。それは、外国の労働者たちに対して、ソヴェト政府が「労働者、被搾取大衆を全ての隷従と搾取から解放する任務を首尾よく成し遂げる」(注2)よう決起し、助けることを強く呼びかけるものだった。
 --------
 (07) これは、新しい言葉遣いで覆われていたけれども、既存の全ての政府に対する、そして主権国家の内政問題への全ての干渉に対する、戦争の宣言だった。内政干渉は当時およびのちに頻繁に繰り返されることになる。
 そのような意図があることを、レーニンは否定しなかった。
 「全ての諸国の帝国主義的強奪に対して、我々は挑戦状を突きつけた」。
 外国での内戦を促進しようとするボルシェヴィキの企ての全て—文書アピール、助成金や援助金の提供、軍事的協力—は、ロシア革命を国際化させた。
 --------
 (08) こうして外国の政府が彼らの国民に反乱や内戦を刺激することは、「帝国主義的略奪者」に対して、同じように報復する全ての権利を与えた。
 しかしながら、すでに述べた理由で、実際には、諸大国はこの権利を行使しなかった。いずれの西側政府も、大戦中もその後も、共産主義体制を打倒するようロシア国民に対して訴えることをしなかった。
 ボルシェヴィズムの最初の年でのこのような限定的な干渉しかしなかった動機は、もっぱら、彼らの個別的な軍事的利益のためにロシアを役立たせることにあった。
 ————
 第一節、終わり。

2781/R.パイプス1990年著—第14章①。

 Richard Pipes には、ロシア革命期(とりあえず1917-1921)を含む、つぎの二つの大著がある。
 A/Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   **「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。
 B/Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 上のA は、つぎのような構成だ(再掲。頁は追加)。
 ----
 序説。
 第一部・旧体制の苦悶。 p.1〜p.337.
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。 p.341〜.
  第9章/レーニンとボルシェヴィズムの起源。 p.341〜.
  第10章/ボルシェヴィキによる権力の追求。 p.385〜.
  第11章/十月のクー。 p.439〜.
  第12章/一党国家の形成。 p.507〜.
  第13章/ブレスト=リトフスク。 p.567〜.
  第14章/革命の国際化。 p.606〜.
  第15章/「戦時共産主義」。 p.671〜.
  第16章/村落に対する戦争。 p.714〜.
  第17章/皇帝家族の殺害。 p.745〜.
  第18章/赤色テロル。 p.789〜p.840.
 あとがき。 〜p.842.
 ----
 もともと第一部をしっかり読む気はなかった。第二部・第9章からこの欄への試訳の掲載を始めた(2017年)。だが、巻末まで終わっておらず、掲載済みは第9章〜第13章だ。これは、第二部の5割余、全体の3割余にとどまる。
 --------
 Richard Pipes(リチャード・パイプス、1923〜2018)とLeszek Kolakowski(L・コワコフスキ、1927〜2009)のいくつかの書物は、2017年以降現在までの私の、大部分でも半分でもないが、重要な一部だった。2017年以降も生きていたからこそ、二人の書物にめぐり合うことができ、それまでの発想・思考方法自体をある程度は大きく変えることになった。生き物としての人間(の個体)の必然とはいえ、「知識」以上の多くのことを教えられたので、比較的近年に逝去し、今は現存していないことを意識すると、涙が滲む思いがある。
 --------
 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990)の第14章の「試訳」を始める。
 ————
 第14章/革命の国際化。
 休戦を達成することは、全世界を征服することだ。
 —レーニン、1917年9月。
 --------
 第一節/ロシア革命への西側の関心の少なさ①。
 (01) ロシア革命は、やがてフランス革命以上に、世界史に大きな影響を与ることになる。だが最初は、フランス革命ほど注目を浴びなかった。
 これは二つの要因でもって説明することができる。フランス革命がより有名だったこと、二つの事件が異なる時期に起きたこと。
 --------
 (02) 18世紀後半、フランスは、政治的かつ文化的に、ヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン王朝は大陸の第一の王朝で、君主制絶対主義を具現化していた。また、フランス語は、文化的社会の言語だった。
 諸大国は最初は、フランスを揺さぶった革命の態様に喜んだ。しかしすぐに、彼ら自体の安定に対しても脅威であることに気づいた。
 国王の逮捕、1879年9月の大虐殺、専制王を打倒するとのジロンド(the Girondins)の諸外国への訴えからして、フランス革命はたんなる政権の変化ではないということに、全く疑いはなかった。
 一巡りの戦争がほとんど四半世紀のあいだ続き、ブルボン朝の復活によって終わった。
 牢獄に収監中のフランス国王へのヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威の源が正統性原理にあり、かつ国民主権のためにこの原理がいったん廃棄されれば彼らの安全も保障されないとすれば、理解することが可能だ。
 なるほどアメリカの植民地は早くに民主制を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、指導的な大陸国家ではなかった。
 --------
 (03) ロシアはヨーロッパの外縁にあり、半分はアジアだった。そして、圧倒的に農業国家だった。したがって、ヨーロッパは、ロシア国内の進展が自分自身に関係があるとは考えていなかった。
 1917年の騒乱は、既成の秩序に対する脅威ではなく、ロシアが遅れて近代に入ることを表明するものと、一般に解釈された。
 --------
 (04) こうした無関心が大きくなると、つぎのようなことになる。すなわち、歴史上最大で最も破壊的な戦争の真っ只中で起きたロシア革命は、正当に評価すべき事件ではなく、その戦争の一つのエピソードにすぎないという印象を、当時の人々に与えた。
 ロシア革命が西側に生じさせたこの程度の興奮は、ほとんどもっぱら、軍事作戦への潜在的な影響と関係していた。
 連合諸国と中央諸国はいずれも、二月革命を歓迎した。但し、異なる理由で。
 前者は、人気のない帝制の崩壊はロシアの戦争遂行を再活性化するだろう、と期待した。
 後者は、ロシアを戦争から退出させるだろう、と期待した。
 もちろん、十月のクーは、ドイツでは熱狂的に歓迎された。
 連合諸国の中には入り混じった受け取り方があったけれども、確実なのは、警報は発せられなかったことだ。
 レーニンと彼の党は知られておらず、その夢想家的な計画や宣言は、誰も真面目に受け取らなかった。
 とくにブレスト=リトフスク条約後の主な見方は、ボルシェヴィキはドイツが作ったもので、戦闘が終了すれば舞台から消え去るだろう、というものだった。
 ヨーロッパ諸国の政府は例外なく、ボルシェヴィキの潜在的可能性とそれがもつヨーロッパの秩序に対する脅威を、いずれも極端に過小評価した。
 --------
 (05) このような理由で、第一次大戦の最後の年でも、そのあとに続く休戦に際しても、ロシアからボルシェヴィキを排除する企ては、何ら試みられなかった。
 諸大国は1918年11月まで相互間での戦闘に忙殺されたので、遠く離れたロシアでの進展を気にかけることができなかった。
 ボルシェヴィキは西側文明に対する致命的な脅威だとの声は、あちこちで少しは聞かれた。この声はドイツ軍でとくに大きかった。ドイツ軍は、ボルシェヴィキによる政治的虚偽宣伝や煽動と最も直接に接する経験を有していたからだ。
 しかし、そのドイツですら結局は、直接的な利益を考慮することを、あり得る長期的な脅威への関心よりも優先した。
 レーニンは、交戦諸国は講和締結後に力を合わせて、レーニンの体制に対抗する国際的十字軍を立ち上げるだろう、と絶対的に確信していた。
 彼の恐怖は、根拠がなかった。
 イギリス軍だけが積極的に、反ボルシェヴィキ勢力の側に立って干渉した。但し、熱意半分のことで、ある一人の人物、Winston Churchill の先導によってそうしたのだった。
 その干渉は真剣には行なわれなかった。西側が用意できる軍事力は干渉が必要とする軍事力よりも強く、また、1920年代の初めにヨーロッパの大国は共産主義ロシアと講和し〔、国家承認し〕たからだ。
 ————
 第一節②へとつづく。

2779/O.ファイジズ・レーニンの革命⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
 ————
 第六節。
 (01) ボルシェヴィキの初期の布令の中で、10月26日のソヴェト大会で採択された講和に関するものほど、感情に訴える力をもったものはない。
 レーニンが、その布令を読み上げた。その布令は無併合、無賠償という古いソヴェトの定式にもとづいて「公正で民主的な講和」を訴える、爆弾のごとき「全ての交戦諸国の国民への宣言」だった。
 布令の趣旨が明らかになったとき、Smolny のホールには、圧倒的な感動の波が生じた。
 John Reed は<Ten Days That Shook the World>の中で、こう思い出した。「我々は立ち上がっていて、一緒に口ずさんで、滑らかに上昇してくる the Internationale の斉唱に加わった。…『戦争が終わった』と私の近くにいた若い労働者が言った。彼の顔は輝いていた。」(注15)
 --------
 (02) しかし、戦争は少しも終わらなかった。
 講和に関する布令は希望の表現であって、現実の言明ではなかった。
 ボルシェヴィキはそれを、西側での革命の炎を煽るために使った。
 それはボルシェヴィキにある、戦争を終わらせる唯一の手段だった。—いやむしろ、レーニンが示唆したように、戦争を一続きの内戦へと転化する唯一の手段だった。その内戦で、世界の労働者はそれぞれの交戦政府に対抗して団結するだろう。
 世界社会主義革命が差し迫っているとの信念は、ボルシェヴィキの思考の中核にあった。
 マルクス主義者としてのボルシェヴィキには、ロシアのような後進的農民国家で先進的産業社会のプロレタリアートの支持なくして革命が長く持続するとは、考え難いことだった。
 権力掌握は、ヨーロッパ革命の勃発が接近しているという想定のもとで実行された。
 西側からのストライキや暴動の報告は、世界革命が「始まっている」ことの兆候として歓迎された。
 --------
 (03) しかし、この革命が起きることがなければ、いったいどうなるのか?
 そうなれば、ボルシェヴィキは軍隊がないこと(数百万の兵士たちは講和に関する布令は解隊する理由になると理解した)に気づき、ドイツによる侵略に防衛力なくして立ち向かうことになるだろう。
 ブハーリンのような、党の左派に属する者たちにとっては、帝国主義ドイツとの分離講和は、国際的信条に対する裏切りになる。
 彼らは、侵略者ドイツに対する「革命戦争」(ひょっとすれば赤衛隊による)を行なうという考え方に賛成した。それは西側での革命を刺激するだろう、とも論じた。
 これと対照的に、レーニンは、そのような戦争を持続する可能性についてますます懐疑的になった。
 軍隊が存在しないことに直面すれば、ボルシェヴィキには分離講和を締結するしか選択の余地はなかった。そうすれば、ボルシェヴィキに必要な、権力の基盤を固める「息つぎ」の時間が与えられるだろう。
 加えて、東側との分離講和によって中央諸国は西側の前線での戦闘を長引かせることになるので、ロシアのこの政策は、革命の可能性を高めそうだった。
 レーニンは、ヨーロッパでの戦争を終わらせたくはなかった。革命の可能性が大きくなるかぎりで、戦争ができるだけ長く続いてほしかった。
 ボルシェヴィキは、戦争を革命目的のために利用する達人だった。
 --------
 (04) 1917年11月16日、ソヴィエト代表団がドイツ軍との休戦を交渉すべく、ベラルーシの都市、ブレスト=リトフスクへ出発した。
 12月半ば、トロツキーが派遣された。講和関係文書への署名が行なわれる前に西側で革命が始まるという望みをもって、講和交渉を長引かせるためだった。
 ドイツの我慢は、まもなく切れた。
 ドイツはウクライナとの交渉を始めた。ウクライナにはロシアからの独立を達成するためにドイツと保護関係になることを受け容れる用意があった。そして、この脅威を、ロシアがドイツの頑強な要求(ポーランドのロシアからの分離、Lithuania とほとんどのLatvia のドイツによる併合等々)を受諾するための圧力として用いた。
 トロツキーは延期を求め、自分以外のボルシェヴィキ指導者たちと協議するためにペテログラードに戻った。
 --------
 (05) 1918年1月11日の中央委員会での決定的会合では、最大多数派は、ブハーリンの革命戦争の主張を支持した。
 トロツキーは、もっと話し合おうと提案した。
 しかし、レーニンは、分離講和以外の選択の余地はない、それは早ければ早いほどよい、と執拗に主張した。
 彼は、ドイツ革命が勃発する可能性に賭けて革命の全体を遅らせることはできない、と論じた。
 「ドイツはまだ革命を身ごもっているだけだ。我々はすでに、完全に健康な子どもを産んでいる」(注16)。
 --------
 (06) ジノヴィエフと、影のごとき存在のスターリン(Sukhanov によるとこの頃は「ぼんやりした灰色」だった)を含む中央委員会内の他の4人だけの支持しかなかったので、レーニンは、ブハーリンに反対して多数派となるために、トロツキーと同盟することを強いられた。
 トロツキーは、交渉を引き延ばすためにブレスト=リトフスクへと送り返された。
 しかし、2月9日、ドイツはウクライナとの条約に署名し、1週間後に、ロシアとの戦闘を再開した。
 5日経たない間に、ドイツ軍はペテログラードに向かって150マイル前進した。—それまでの3年間にドイツ軍が前進したのと同じ距離。
 --------
 (07) レーニンは、激しく怒っていた。
 ドイツとの条約への署名を拒んだ中央委員会内の反対派ができたのは、敵が前進するのを可能にしたことだった。
 レーニンは、中央委員会での熱気ある議論の末に、2月18日に自分の意見を通過させた。
 ドイツの諸条件を受諾するとの電報が、ベルリンに発せられた。
 しかしながら、ドイツ軍は数日のあいだ、ペテログラードに向かって進み続けた。
 ドイツの航空機がペテログラードに爆弾を落とした。
 ドイツ軍は首都を占領し、ボルシェヴィキを排除することを計画していると、レーニンは確信した。
 レーニンは従前の立場を変え、革命戦争を呼びかけた。
 連合国からは、軍事的な助力が求められた。連合国はロシアを戦争にとどまり続けさせることに関心があり、そのことは、政府の性格によるとか、提供された助力を理由として、という以上のものだった。
 ボルシェヴィキは、首都をペテログラードからモスクワへと避難させ始めた。
 ペテログラードではパニックが起きた。
 -------
 (08) 2月23日、ドイツは講和のための最終文書を提示した。
 このときドイツは、その日まで5日間以内にドイツ軍が掌握していた全ての領土を要求した。
 レーニンは中央委員会で、苛酷な講和条件を受諾する以外に選択肢はない、と強く主張した。
 こう論じた。「もしもそれらに署名をしなければ、数週のうちにソヴェト権力に対する死刑判決に署名することになるだろう」(注17)。
 ドイツの提案を受諾することが決められた。
 ブハーリン派は、抗議して中央委員会から離脱した。
 --------
 (09) 講和条約は、最終的に3月3日に調印された。
 ボルシェヴィキの指導者の誰も、ブレスト=リトフスクに行かなかった。そして、国じゅうで「汚辱の講和」と見なされた条約に彼らの名前を残すことをしなかった。
 左翼エスエルは、抗議してソヴェト政府から離脱した。そしてボルシェヴィキには、自分たち自身だけの権力が残された。
 --------
 (10) ブレスト=リトフスク条約のもとで、ロシアはヨーロッパ大陸上のほとんど全ての領土を放棄することが義務づけられた。
 ポーランド、フィンランド、エストニア、リトゥアニアは、ドイツの保護のもとでの一種の独立を達成した。
 ソヴェト軍団は、ウクライナから退避した。
 最終の計算では、ソヴェト共和国は人口(5500万人)の34パーセント、農業地の32パーセント、工業企業の54パーセント、炭鉱の89パーセント(泥炭と木材は最大の燃料源になっていた)を喪失した。
 ヨーロッパの大国であったロシアは、17世紀のモスクワ公国と同じ程度の地位へと小さくなった。
 だが、レーニンの革命は、救われた。
 ————
 第四章第六節、終わり。第四章全体も終わり。

2778/O.ファイジズ・レーニンの革命⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
 ----------------
 第五節。
 (01) ロシアの国民的議会の閉鎖に対して、全民衆的な反応はなかった。
 エスエルを支持する伝統的基盤である農民層には、無関心があった。
 エスエルは自分たちの憲法会議への敬意を農民たちは共有してくれている、と考えていたが、これは間違っていた。
 教養のある農民たちにとってはおそらく、憲法会議は「革命」のシンボルだった。
 だが、自分たちの政治的思考の及ぶ範囲が彼ら自身の村落に限定されていた農民大衆にとっては、憲法会議は、都市的政党が支配する遠く離れた議会であり、評判の悪い帝制期のドゥーマを連想させるものだった。
 彼らには、自分たちの考えに近い村落ソヴェトがあった。実際には、より革命的形態での村落集会にすぎなかったけれども。
 あるエスエルの宣伝活動家は、農民兵士たちの集団がこう言うのを聞いた。「何のために憲法会議が必要なのか?、我々のソヴェトがすでにあり、我々の代表者は、集まって、何でも決定できるというのに」(注12)。
 --------
 (02) 農民層は、村落ソヴェトを通じて、地主たち(gentry)の土地と財産を自分たちに分けた。
 そうしたのは社会正義に関する彼らの平等主義的規範に沿ったからで、10月26日に全国ソヴェト大会が採択した土地に関する布令による制裁(sanction)を必要としなかった。
 いかなる中央の権力も、彼らがすべきことを語りはしなかった。
 村落共同体(commune)は、各世帯の「食べる者」の数に従って、没収した耕作地の細片を割り当てた。
 土地所有者には、農民がするように自分で労働するならば、通常はそのための区画が残された。
 村落共同体の意識の中核にあった土地と労働の権利は、基本的な人間の権利だと理解されていた。
 --------
 (03) 左翼エスエルは、ペテログラードでの敗北の後で、民主主義回復への支持を集めるべく、彼らの元々の、地方の根拠地に戻った。
 そのことは、地方の生活の新しい現実について、新たな教訓を明らかにすることになった。
 都市部では次から次に、穏健な社会主義者たちが、ソヴェトの支配権を極左へと譲り渡した。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルが、準工業的農民の大部分とともに労働者と兵士たちの支持をあてにすることができた北部と中央の工業地域では、地方ソヴェトのほとんどは、たいていは投票箱を通じて、10月の末までに、ボルシェヴィキの手に握られた。そして、Novgograd、Pskov、Tver でのみ、若干の激しい戦闘が起きた。
 さらに南部の農業地方では、権力の移行は長くかかり、主要な都市の路上の戦闘によって血が流れた。
 --------
 (04) ソヴェト権力の確立にしばしば伴なっていたのは、「ブルジョア」の財産の没収だった。
 レーニンは地方ソヴェトの指導者に対して、復讐によって社会正義を実現する形態として、「略奪者からの略奪」を組織することを推奨した。
 ソヴェトの役人たちは、薄い令状を持ちつつ、ブルジョアの家宅を周りに行き、「革命のために」貴重品や金銭を没収することになる。
 ソヴェトは<burzhooi>〔ブルジョア〕から税金を徴収し、納入を強制するために人質を監獄に入れた。
 こうして、ボルシェヴィキのテロルが始まった。
 --------
 (05) 報復と復讐は、革命の力強い駆動力だった。
 巨大な数のロシアの民衆にとって、全ての特権の廃止が革命の基本的原理だった。
 ボルシェヴィキは、この特権に対する闘争に制度的形態を与えることによって、自らの運命に何ら良いことがなくとも富者や強者が破壊されるのを見ることに満足する、そのような貧しい、多数の民衆から革命のエネルギーを引き出すことができた。
 ソヴェトの政策で民衆に訴えることができたのは、つぎだった。昔の豊かな階級がその持つ広い家屋を都市の貧しい民衆と分かち合うよう、あるいは路上で雪やゴミを清掃するような単調かつ退屈な作業をするように強いること。
 トロツキーはこう述べた。「何世紀にもわたって、我々の父親や祖父たちは、支配階級の汚物やゴミを清掃してきた。だが今は、我々が彼らに我々の汚物をきれいにさせよう。我々は彼らの生活を快適でないものにして、ブルジョアにとどまるという希望を失わせるようにしなければならない」(注13)。
 --------
 (06) ボルシェヴィキは、<ブルジョア>を「寄生虫」、「階級の敵」だと描いた。
 そして、大規模に彼らを破壊するテロルを行うことを奨励した。
 レーニンは、1917年12月に「競争を組織する仕方」を書いて、それぞれの町や村には「ロシアの大地からノミ、シラミ—ごろつき、狂人—、金持ち、等々を一掃する」それぞれに独自の手段が残されるべきだ、と提案した。
 「ある所では、10人の金持ち、12人のゴロつき、仕事を怠ける6人の労働者が、監獄に入れられるだろう。
 二つめの場所では、彼らはトイレ掃除をさせられるだろう。
 三つめの場所では、一定の時間を務めた後で『黄色い切符』が与えられるだろう。そうすると、彼らが直るまで、<有害な>者たちだと誰もが警戒し続ける。
 四つめの場所では、全員のうち10人ごとの怠け者の中から1人が、ただちに射殺されるだろう。」(注14)
 「ブルジョアジーに死を!」は、チェカ(Cheka)の建物の壁に書かれていた。
 --------
 (07) 財産を奪われ、名誉を傷つけられ、「かつての人民」は生き残りのためにもがいた。
 彼らは、食っていくだけのために最後の所有資産を売ることを強いられた。
 Meyendorff 男爵夫人は、5000ルーブルでダイアモンド製ブローチを売った。—一袋の小麦を買うことができた。
 貴族の御曹司たちは、街路上の売り人へと格落ちした。
 多数の者が全てを売り払い、外国へと逃亡した。—およそ200万のロシア人エミグレが1920年代の初めまでに、Berlin、Paris、New York にいた。あるいは、南へと、ウクライナやKuban へ逃げた。そこは、反革命の白軍が勢力の主要な基盤としていた地域だった。
 白衛軍は、帝制軍、コサック、地主やブルジョアの息子たちで成る義勇部隊で、ボルシェヴィキに反抗する闘争でもって統合された。
 彼らの明瞭なただ一つの目標は、時計の針を1917年十月の前に戻すことだった。
 ————
 第四章第五節、終わり。

2777/O.ファイジズ・レーニンの革命④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
 ————
 第四節。
 (01) 新しい体制が長く続くとは、ほとんど誰も考えなかった。
 「一時間のCaliphs 〔アラブの指導者〕」というのが、多くのプレスの判断だった。
 エスエル指導者のGots は、ボルシェヴィキに「数日間」だけを認めた。
 Gorky は2週間、Tsereteli は3週間だった。
 多くのボルシェヴィキは、それ以上に楽観的ではなかった。
 教育人民委員〔文部科学大臣〕のLunacharsky は10月29日に、妻にこう書き送った。「事態はまだ不安定なので、手紙から離れるときいつも、私の最後のものになるのか否かすら分かっていない。私はいつでも、牢獄に投げ込まれる可能性がある」(注9)。
 ボルシェヴィキは首都を辛うじて掌握していた。—ペテログラードには主要な官署の全てがあったが、国有銀行、郵便と電信は権力奪取に抗議してストライキに入っていた。一方、地方については何の統制も効かせていなかった。
 ボルシェヴィキは、ペテログラードに食糧を供給する手段を持ち合わせていなかった。鉄道への支配を失っていたので。
 パリ・コミューン—「プロレタリアート独裁」の原型—の運命と同様になるように見えた。それはフランス全土から切り離されていたので、1871年のフランス軍の攻撃に耐えることができなかった。
 --------
 (02) 最も早い軍事的脅威は、ケレンスキーがもたらした。
 彼は10月25日に冬宮から逃げ、ペテログラードのボルシェヴィキと闘うために北部前線から18のコサック団をかき集めた。ペテログラードでは、カデットと将校たちの小さな部隊が、彼らを支援すべく決起することになっていた。
 一方でモスクワでは、ケレンスキーに忠実な連隊が、10日間、ボルシェヴィキと戦闘した。
 最も激烈な戦闘はKremlin の周りで起き、モスクワの貴重な建築上の財産の多くが損なわれた。
 --------
 (03) 最初の内戦は、Vikzhel つまり鉄道労働組合の介入によって複雑になった。
 全社会主義政党の労働者で成っていたVikzhel は、鉄道輸送を停止すると脅かして、戦闘を中止し、社会主義連立政府樹立に向けた政党間交渉の開始をするようボルシェヴィキに強いようとした。
 首都への食糧と燃料の供給が切断されれば、レーニンの政府は存続できなかった。
 モスクワとペテログラードでのケレンスキー部隊との戦闘は、鉄道に大きく依存していた。
 ボルシェヴィキは10月29日に、メンシェヴィキとエスエルとの協議を開始した。
 しかし、レーニンは、いかなる妥協にも反対した。
 ケレンスキー兵団との戦闘の勝利が確実になるや、彼は政党間協議を潰し、それは最終的には11月6日に決裂した。
 ボルシェヴィキによる権力の奪取は、ロシアでの社会主義運動を分裂させた。それは取り返しのつかないものだった。
 --------
 (04) 権力奪取は全ロシア・ソヴェト大会の名において実行された。しかし、レーニンには、ソヴェト大会または常設のその執行部〔ソヴェト中央執行委員会=ソヴェトCEC〕を通じて統治する意図は全くなかった。ソヴェト執行部では、左翼エスエル、アナキストと少数のメンシェヴィキが、レーニンの独裁を実施する機関である人民委員会議(Sovnarkom)を議会のごとく恒常的に制約しようとしていた。
 人民委員会議は11月4日に、ソヴェトによる同意なくして立法(legislation)をする権限が自らにある—これはソヴェト権力の原理を侵犯していた—、そして、その観点からしてソヴェトの意見を聴くことなく立法できる、と布告した。
 ソヴェト執行部は、12月12日に初めて2週間の会合を行なった。
 人民委員会議はそのあいだに、中央諸国との和平交渉を開始し、ウクライナでの戦争を宣言し、モスクワとペテログラードに戒厳令を敷いた。
 --------
 (05) レーニンは、権力を握った最初の日から、それに反対する「反革命」的政党の破壊に着手した。
 10月27日、人民委員会議は反対のプレスを廃刊させた。
 カデット、メンシェヴィキ、エスエルの指導者たちは、軍事革命委員会によって逮捕された。
 11月の末までに監獄はこれらの「政治犯」で満ちたので、空き部屋を増やすためにボルシェヴィキは犯罪者たちを釈放し始めた。
 --------
 (06) ゆっくりと、しかし確実に、新しい警察国家の姿が見え始めていた。
 12月5日に軍事革命委員会は廃止され、2日後にその任務は、Cheka (反革命と破壊活動に対する闘争のための非常委員会)へ移された。これは新しい保安機関で、やがてKGBになることになる。
 Cheka を設置した人民委員会議の会合で、そのボスのDzerzhinsky は、その任務を、内戦の「内部戦線」にいる革命の「敵たち」とそれらを死に至らせるまで闘うことだと説明した。
 「我々は、革命を防衛するためには何でもする用意のある、決然たる、頑強な、ひたむきの心をもつ同志たちを、あの前線—最も危険で厳しい前線—へと送る必要がある。
 私は革命的正義の形態を追求している、と考えるな。我々には、正義は必要ではない。
 今は戦争だ。—直接に向かい合った、決着がつくまでの戦争だ。
 生か死だ。」(注10)
 --------
 (07) 反対諸政党は、憲法会議に彼らの希望をつないだ。
 憲法会議は確かに民主主義の本当の機関だった。成人の普通選挙でもって選出され、階級に関係なく全ての公民を代表した。
 一方で、ソヴェトは、労働者、農民、兵士だけを代表した。そして、ボルシェヴィキはソヴェトにあえて挑戦しているように見えた。ボルシェヴィキは実際には、分けられていた。
 --------
 (08) レーニンはつねに、形式的な民主主義原理を侮蔑していた。
 彼がその四月テーゼで明瞭にしていたのは、ソヴェト権力を憲法会議よりも高次の民主主義の形態と見なす、ということだった。
 ソヴェトには「ブルジョアジー」のための場所はなかった。そして、彼の見方では、プロレタリアート独裁にはソヴェトのための場所はなかった。
 しかし、ボルシェヴィキによる権力掌握は、部分的には憲法会議の召集を確実にする手段として正当化された。—レーニンは七月事件以降、「ケレンスキー商会」は憲法会議を開かせようとしないだろうと論じていた。したがって、面目を失うことなくして、彼の約束にたち戻ることはできなかっった。
 --------
 (09) さらに加えて、ボルシェヴィキの中の穏健派は、憲法会議のための11月の選挙運動に関与していた。
 カーメネフのような者たちは、地方レベルでソヴェト権力を国民的議会としての憲法会議と結びつけるという考え方に賛成すらしていた。
 憲法会議は、当時のロシアの革命的状況に適した、直接民主制の興味深い混成(hybrid)形態になっただろう。そしておそらく、ソヴェト体制の暴力的発展に進む全ての帰結と結びついた、内戦への螺旋状の下降へと国が向かうのを阻止することができただろう。
 --------
 (10) 11月の選挙は、ボルシェヴィキに関する国民投票(referendum)だった。
 その評決は、不明確だった。
 エスエルが最大多数の票を獲得した(38パーセント)。だが、投票用紙は十月の権力奪取を支持する左翼エスエルと支持しない右翼エスエルを区別していなかった。
 エスエル党の分裂は最近だったので、印刷を変更することができなかった。
 ボルシェヴィキは、ちょうど1000万票(24パーセント)を得た。その多くは、北部の工業地帯の労働者と兵士によって投じられた。
 南部の農業地帯では、ボルシェヴィキは振るわなかった。
 --------
 (11) ただちにレーニンは、宣言した。結果は不公正だ、と。理由はエスエルに分裂があったことだけではなく、十月の蜂起は人々の「頭の中に階級闘争意識を吹き込んだ」、よって国民一般の意見は選挙後に左へと動いているがゆえにだ。
 レーニンは強く主張した。「当然のことながら、革命の利益は憲法会議の形式的諸権利よりも高い位置にある」、憲法会議という「ブルジョア議会」は「内戦」の中で廃棄されなければならない(注11)。
 --------
 (12) 1918年1月5日、憲法会議の開会日のペテログラードは、包囲された状態にあった。
 ボルシェヴィキは公共の集会を禁止していた。そして、市街地を兵団で溢れさせた。その兵団は、憲法会議を防衛するために労働組合が組織した5万人の示威行為者の大群に対して発砲した。
 少なくとも10人が殺害され、数十人が負傷した。
 政府の兵団が非武装の群衆に発砲したのは、二月革命の日々以降で初めてのことだった。
 --------
 (13) タウリダ宮のCatherine ホールで午後4時に、憲法会議は召集されていた。緊張した雰囲気だった。
 すでに代議員とほとんど同数の兵士たちが入っていた。
 彼らはホールの背後に立ち、階廊に座り込んでいた。ウォッカを飲み、エスエルの代議員たちに悪罵の声を発しながら。
 レーニンは、帝政期の大臣たちがドゥーマの会期中に座っていた古い政府用特別室から、情景を眺めていた。
 彼には、決定的な戦闘が始まる前の瞬間の将軍のごとき印象があった。
 --------
 (14) Chernov が議長となり、エスエルが討論を開始した。—彼らエスエルは、立法上の遺産として残したく、土地と講和に関する諸布令を憲法会議で採択させたかった。
 しかし、兵士たちのヤジが激しくて、誰も聞き取ることができなかった。
 しばらくして、ボルシェヴィキは、この憲法会議は「反革命者たち」の手中にあると宣言して、退出した。のちに左翼エスエルが、これに従った。
 そして、午前4時、赤衛隊が閉鎖の手続を始めた。
 赤衛隊の一員だった海兵が演壇に上り、Chernov の肩をそっと叩いた。そして、「警護兵が疲れたので」全員がホールから出て行ってほしい、と宣告した。
 Chernov は数分間、会合を続行した。だが、警護兵が威嚇したので、やむなく会議を延期することに同意した。
 代議員たちは出て行き、タウリダ宮は閉鎖された。
 これとともに、ロシアの12年間の民主主義の歴史は終焉した。
 代議員たちが翌日に再びタウリダ宮に戻ったとき、宮殿の建物に入るのを阻止された。そして、憲法会議を解散するとの人民委員会議(Sovnarkom)の布告を提示された。
 ————
 第四章第四節、終わり。

2775/O.ファイジズ・レーニンの革命③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
 ————
 第三節。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たちのほとんどが実際のような方法と時期で蜂起するのを望んでいなかった、というのは、ボルシェヴィキ蜂起に関する皮肉の一つだ。
 10月24日の夕方遅くまで、中央委員会の多数派と軍事革命委員会は、全国ソヴェト大会の開会の前に臨時政府の打倒があることを予期していなかった。その臨時政府打倒は、24日の翌日に、Smolny 研究所—かつては貴族の娘たちの学校だったことのある黄土色の古典的な宮殿—の白い柱廊のある舞踏会場で行なわれたのだったが。ここで打倒とは、ほぼ臨時政府の大臣たち(ケレンスキーを含まない)の逮捕(身柄拘束)を意味した。
 武装したボルシェヴィキの支持者たちは、首都ペテログラードを反革命の攻撃から防衛するためだけに、街路を占拠していた。
 --------
 (02) レーニンの介入が、決定的だった。
 付け髭と頭に包帯を巻いた帽子で変装してペテログラードの隠れ場所を出発し、Smolny 研究所のかつての一教室(36番)にあるボルシェヴィキの司令部へと向かった。蜂起の開始を強要するために。
 市街を横断する途中のTaurida 宮の近くで、彼は政府の警護官の検問を受けて停止させられた。だが、その警護官たちはレーニンをホームレスの酔っ払いだと勘違いし、レーニンを通過させた。そのときにレーニンが逮捕されていたら、その後の歴史はどう変わっていただろう?
 --------
 (03) レーニンはSmolny に到着し、蜂起の開始を命令することを中央委員会に強制した。
 ペテログラードの地図が持ち出され、ボルシェヴィキ指導者たちはそれを見てじっくり研究していた。そして、攻撃をする主要なラインを引き終わっていた。
 レーニンが、ソヴェト大会に提示されるべきボルシェヴィキ政府の閣僚名簿を作ることを提案した。
 それを何と称するかという問題が生じた。
 「臨時政府」という名称は評判を落としていた。閣僚を「大臣(ministers)」と呼ぶのはブルジョア的だと思われた。
 フランスのジャコバン派に倣って「人民委員(people’s commissars)」という名を思いついたのは、トロツキーだった。
 全員がこの提案に賛成した。
 レーニンは言った。「うん、それはいい。革命の香りがする。そして、政府〔=内閣〕そのものを『人民委員会議』(the council of -)と称することができる」(注6)。
 --------
 (04) 1917年10月25日の事件ほど、神話によって歪曲されてきた歴史的出来事は、他にほとんどない。
 ボルシェヴィキの蜂起は民衆の英雄的闘争だとする一般に共通する感覚は、歴史的事実というよりむしろ、<十月>—1927年に制作されたSergei Eisenstein の政治的宣伝映画—の影響を受けている。
 ソヴィエト同盟ではのちに称されるようになった偉大なる十月社会主義革命(The Great October Socialist -)は、実際にはクーにすぎなかった。ペテログラード市民の大多数には全く気づかれないままで推移したクーだった。
 劇場、レストラン、路面電車は、ボルシェヴィキが権力奪取に至っているあいだ、全くふつうに機能していた。
 --------
 (05) 冬宮のMalachite ホールにはケレンスキー内閣の大臣たちが籠もっていたのだが〔ケレンスキーを含まない〕、そこへの伝説的な「突入」は、大臣たちの自宅軟禁のごときものだった。
 「突入」を指揮したのは、ボルシェヴィキのVladimir Antonov-Ovseenko だった。それは、Eisenstein の映画製作者たちが描くほどの損傷を与えなかった。
 冬宮の大臣たちを防衛する部隊のほとんどは、突撃が始まる前にすでに、腹を空かせ、意気消沈して、家路についていた。
 蜂起に積極的に参加した者の数は、大きくはなかった(多数を必要としなかった)。—たぶん、冬宮広場にいた1万人から1万5000人の間の数の労働者、兵士および海兵だ。
 しかも、それらの全員が「突入」に加わったのではなかった。しかし、多くの者はのちには、突撃に加わったと言い張った。
 冬宮が掌握されると、多数の民衆たちが関与するようになり、主としては、宮殿およびそのワイン貯蔵庫から略奪した。
 --------
 (06) 冬宮が掌握されたことは、タバコの煙で充ちたSmolny 研究所の大ホールで行なわれていたソヴェト全国大会で発表された。
 670人の代議員たち—ほとんどがガウンやコートをまとった労働者と兵士たち—は、メンシェヴィキのMartov の提案を満場一致で可決した。その決議は、ソヴェトの全政党に基盤をおく社会主義政府を樹立しよう、というものだった。
 その直後に権力の奪取が発表されたとき、メンシェヴィキとエスエルの代議員たちのほとんどは、自分たちは「犯罪的冒険」に何の関係もないとの声明を出し、抗議してソヴェト大会から退出した。
 おそらくは会場の半分を占めていたボルシェヴィキの代議員は、口笛を吹き、床を踏み鳴らし、彼らを嘲笑する言葉を投げつけた。
 --------
 (07) レーニンが計画した挑発的行為—先制のクー—は、成功した。
 過ちを認めた最初のメンシェヴィキの一人であるNikolai Sukhanov の言葉によれば、メンシェヴィキとエスエルは大会から退出することによって、「ソヴェトを、民衆を、そして革命を独占することをボルシェヴィキに許した」。「我々自身の非理性的な行動によって、レーニンの全ての『ほら』の勝利を保障した」(注7)。
 --------
 (08) 直接の効果として、メンシェヴィキおよびエスエルが分離した。
 これを主導したのは、トロツキーだった。
 トロツキーは、「我々を残して去った惨めな集団」との連立を求めるMartov 提案の決議を非難して、大ホールに残っていたメンシェヴィキとエスエルの代議員に対して、つぎの記憶に残る言葉を発した。
 「きみたちは破産者だ。役割はもう終わった。行くべき所へ行け—歴史のゴミ箱へ!」。
 残りの生涯を通じて苦悶することになるのだが、Martov は、激しい怒りを瞬間に感じて、叫んだ。「では、出て行こう!」。そして、ホールから出て行った(注8)。
 --------
 (09) 午前2時すぎだった。残っていたのは、ソヴェト権力を破壊しようとするメンシェヴィキとエスエルの「裏切り」的企てを非難する決議を、トロツキーが提案することだった。
 おそらくは行なっていることの重要性を理解していなかった一般代議員たちは、この提案を支持して手を高く上げた。
 彼らの行為は結果として、ボルシェヴィキ独裁に対して、それを肯定するソヴェトのスタンプを与えた。
 ————
 第四章第三節、終わり。

2774/O.ファイジズ・レーニンの革命②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
 ——
 第二節。
 (01) コルニロフ事件によって、レーニンは決意を固めた。臨時政府を打倒するために立ち上がるときがきた。
 しかし、すぐに蜂起をしたのではない。
 レーニンは、権力の問題を解決すると想定された9月14日の民主主義会議(Democratic Conference)の前に、ボルシェヴィキの仲間たちの努力を支持していた。エスエルとメンシェヴィキに対して、リベラル派との連立から離れ、全ての社会主義政党による政府に加わろうと説得する彼らの努力を。
 Kornilov を打倒するに際して左翼諸政党が協力したことは、政治的手段でソヴェト権力を達成できる展望を切り拓いた。
 カーメネフは、これを任務とするボルシェヴィキ活動家だった。
 彼はレーニンとは違って、党はソヴェト運動と二月革命が生んだ民主主義的仕組みの範囲内で権力を求めるべきだ、と考えた。
 したがってまた、ロシアはボルシェヴィキによる蜂起に対応できるには未熟で、段階を一つ上げるいかなる企てもテロル、内戦とボルシェヴィキ党の敗北で終わるのを余儀なくされる、と考えた。
 --------
 (02) レーニンは、だが、民主主義会議でエスエルとメンシェヴィキがカデットと分離できなかったことを知って、武装蜂起をするという元の主張に立ち戻った。
 エスエルとメンシェヴィキは、ケレンスキーの指導の下で、9月24日に、カデットとの連立を組み変えた。このことは、その週に行なわれたペテログラード・ドゥーマ選挙で、彼らの大敗北につながった。
 モスクワでは、エスエルへの票は6月の56パーセントからわずか14パーセントに減った。メンシェヴィキは12パーセントから4パーセントに落ちた。その一方で、ボルシェヴィキは6月に11パーセントだったが、9月には51パーセントを獲得して大勝利した。カデットは、17パーセントから31パーセントへと増やした。
 この結果は国の両極化を明らかに示した。—投票者が際立った階級的主張をもつ両端の政党を支持したので、「内戦選挙」と称された。
 --------
 (03)  レーニンは、フィンランドの新しい隠れ家から、ボルシェヴィキ中央委員会に対して、武装蜂起の開始を呼びかける、ますます苛立った手紙を矢のように送りつけた。
 彼は、ボルシェヴィキは「国家権力を自らの手中に収めることができるし、そうしなければならない」と論じた。
 できる。—党はすでにモスクワとペテログラードのソヴェトで多数派になっている。これでもって、内戦へと「民衆を連れて行く」のに十分であるのだから。
 「しなければならない」。—投票箱を通じて権力を獲得しようと憲法会議を待っていれば、「ケレンスキー商会」が、ペテログラードをドイツに捧げるか軍事独裁を樹立するかのいずれかによって、ソヴェトに対して先制攻撃をするだろうから。
 彼は同志たちに、「暴動は芸術(art)だ」というマルクスの権威ある言明を思い起こさせた。
 そしてこう結論づける。「ボルシェヴィキが『形式的な』多数派になるのを待つのは純朴すぎる。革命はそうなることを待ってくれはしない」(注3)。
 --------
 (04) 中央委員会は、レーニンの指示を無視した。まだカーメネフの議会主義的戦術を支持して、ソヴェトへの権力の移行のために、10月に召集される予定の第二回全ロシア・ソヴェト大会まで待つ、と決議した。
 ペテログラードから120キロ離れた保養地のVyborg へと移って、レーニンは、党組織に対して矢継ぎばやに激しいメッセージを送りつづけた。それらは、ただちに—ソヴェト全国大会の<前に>—武装蜂起を開始することを迫るものだった。
 レーニンは9月29日にこう書いた。「ソヴェト大会を『待つ』ならば、我々は革命を『台無しにする』に違いない」(注4)。
 --------
 (05)  レーニンの性急さは、政治的だった。
 権力の移行が大会での票決によって起きていれば、その結果はほとんど間違いなく、全ての社会主義政党から成る社会主義連立政府だっただろう。
 ボルシェヴィキは、少なくともエスエルとメンシェヴィキの左翼(あるいはひょっとすれば全部)に位置して権力を分有しなければならなかっただろう。
 これはレーニンの党内の最大の好敵であるカーメネフの勝利を意味し、カーメネフはおそらく、どんな社会主義連立政府であっても、ソヴェトの中心人物として登場しただろう。
 大会の前に権力を掌握してこそ、レーニンは政治的主導権を握ることができる。そして、他の社会主義政党に対して、ボルシェヴィキの行動を是認してレーニンの政府に参加することを強いることができるだろう。あるいはそれに反抗すれば、政府はボルシェヴィキだけのものになるだろう。
 レーニンの革命とは、臨時政府に対抗するのと同等に、ソヴェトに基礎をおく他の社会主義政党に対抗して行なわれたものだった。
 --------
 (06) レーニンは我慢できなくなって、ペテログラードに戻り、10月10日に中央委員会の秘密会合を開催した。そこで、10票対2票(カーメネフとジノヴィエフ)という重大な票決でもって、蜂起を準備することを押し付けた。
 その時期は、まだ明瞭でなかった。
 --------
 (07) ボルシェヴィキの指導者たちの多くは、ソヴェト全国大会以前のいかなる行動にも反対だった。
 10月10日の中央委員会会議で、ボルシェヴィキ軍事革命委員会その他の活動家から、つぎの報告がなされた。ペテログラードの兵士と労働者たちは党の呼びかけだけでは出てこないが、「決起を刺激する何かがあれば、積極的に飛び出す、つまり兵団から離脱するだろう」(この離脱はケレンスキーの連隊との絶縁を意味した)(注5)。
 しかし、レーニンは、即時の準備の必要を執拗に主張した。
 これは、ペテログラードの一般市民の慎重な雰囲気を無視してのものだった。レーニンが思い抱く権力奪取の方法であるクー・デタでは、少数精鋭の武力だけが必要だった。十分な武装と紀律があればよかった。
 彼には、Baltic 連隊の中のボルシェヴィキ支持者による、ペテログラードの軍事侵略としてクーを実行する、という用意すらあった。
 --------
 (08) レーニンは聳え立つがごとき影響力を持ったので、彼は10月16日の中央委員会でその主張を貫徹し、ごく近い将来に蜂起するという提案を支持する決議を(19票対2票で)行なわせた。
 カーメネフとジノヴィエフはこの決議を支持することができず、中央委員会から脱退した。そして、10月18日に、彼らは蜂起に反対していることを新聞の記事で公にした。
 --------
 (09) ボルシェヴィキの陰謀は今や公に知られるところとなり、ソヴェトの指導者たちは、第二回全国大会を10月25日まで延期すると決議した。
 彼らが期待したのは、これで生じた5日のあいだに、遠く離れた地方から支援者たちを集める、ということだった。
 しかし実際には、ボルシェヴィキが蜂起を準備するのに必要な時間を与えることになった。
 この延期はまた、ソヴェト大会はそもそも開会されないかもしれないとのボルシェヴィキの主張に信憑性を与え、大会を防衛するという理由でボルシェヴィキ支持者たちが街路上に出てくるのを助けた。
 ケレンスキーが巨大なペテログラード連隊を北部前線に移すという愚かな計画を発表したとき、「反革命」の噂はさらに大きくなった。
 軍事革命委員会(MRC)—〔ペテログラード・ソヴェト内にあって〕ボルシェヴィキの蜂起を先導することになる実力組織—が10月20日に設立されたのは、ペテログラード連隊の移転を阻止するためだった。
 前線への派遣に脅かされて、多数の兵士たちは将校たちに服従するのを拒み、忠誠の対象を軍事革命委員会に切り換えた。軍事革命委員会は10月21日、自分たちが連隊を統率する組織だと宣言した。
 MRC による連隊の奪取は、蜂起の最初の行為だった。
 ——
 第四章第二節、終わり。

2771/O.ファイジズ・レーニンの革命①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014). 
 この書の対象は<ロシア革命史>ではなく、ほぼ<ソヴィエト連邦史>だ。したがって、Orlando Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution(1998)に比べて、〈ロシア革命〉期の叙述は詳細さで劣る。
 O. Figes, Revolutionary Russia の方は、第7章、第8章、第9章、第19章、第20章の試訳を、すでにこの欄に掲載した。
 各章題は、第7章/内戦とソヴィエト体制の形成、第8章/レーニン、トロツキーおよびスターリン、第9章/革命の黄金期?、第19章/最後のボルシェヴィキ、第20章/判決。
 しばらくぶりに、〈第6章/レーニンの革命〉に戻って、試訳を続ける。
 「* * *」による区切りまでを「節」とし、一行ごとに改行する。段落ごとに、原書にはない数字番号を付す。
 ----
 第6章・レーニンの革命①。
 第一節。
 (01) 1917年7月8日、ケレンスキーは首相になった。
 彼は、民衆の支持がありかつ軍司令部がまだ受け容れられる唯一の大政治家で、国を再統合して内戦に向かう流れを止めることのできる人物だと見られていた。
 新しい連立政府(7月25日形成)の基本方針はもはや、二月の後の二重権力構造の基盤であるソヴェトの同意があるという民主主義原理に、基づいていなかった。
 ケレンスキーは、Kadets 〔立憲民主党〕の要求に従い、公共の集会に新規の規制を行ない、前線兵士を対象とする死刑を復活させ、軍事紀律を回復すべく兵士委員会の影響力を削減した。そして、Korniov 将軍を新しい最高司令官に任命した。
 --------
 (02) Kornilov は国家の救済者だとして、事業家、将校たち、右翼的団体に歓迎された。
 彼はこれらの支援を受けつつ、反動的な措置を執った。その中には、民間人に対する死刑の復活、鉄道や国防産業の軍事化、労働者の組織の禁止があった。
 ソヴェトに対する明瞭な脅迫として、これらの措置は戒厳令の発布につながることになるものだった。
 ケレンスキーは動揺したが、8月24日に結局は同意した。このことはKornilov に、ケレンスキーまたは彼自身による軍部独裁の樹立が可能だと期待させた。
 このクー〔軍部独裁〕を阻止しようとボルシェヴィキが蜂起するとの噂を聞いて、最高司令官たるKornilov は、首都を占拠し、連隊を武装解除するために、コサック軍団を派遣した。
 --------
 (03) この時点で、ケレンスキーはKornilov に反対する側に回った。
 ケレンスキー自身の幸運は急速に落下していたのだが、この<反転(volte-face)>により幸運が蘇るだろうと彼は考えた。
 ケレンスキーは、Kornilov を「反革命」、政府に対する裏切り者と非難して最高司令官を解任し、民衆にペテログラードを防衛するよう訴えた。
 ソヴェトは、首都防衛の軍事力を結集すべく、全政党で成る委員会を結成した。
 ボルシェヴィキは、七月事件のあとの抑圧が終わって名誉回復をしていた。
 何人かの指導者が釈放された。その中に、トロツキーがいた。
 --------
 (04) ボルシェヴィキだけに、労働者や兵士たちを動員する能力があった。
 北部の工業地域では、「反革命」と闘う革命委員会が一時的に結成された。
 赤衛隊は、工場の防衛隊を組織した。
 Kronstadt の海兵たちが、彼らは七月事件のときは臨時政府を打倒しようと最後にペテログラードへやって来たのだったが、再びやって来た。今度は、Kornilov に対抗して首都を防衛するために。
 結局は、闘う必要がなかった。
 Kornilov が派遣したコサック軍団は、ペテログラードへの途上で北部コーカサスからのソヴェト代表団に遭遇し、武器を置くよう説得された。
 内戦はのちの日まで、延期された。
 --------
 (05) Kornilov は、「反革命陰謀」に加担したとして、30人の将校たちとともに、Mogilev 近くのBykhov 修道院に収監された。
 政治的殉教者としての右派から見ると、「Kornilov 主義者」はのちの義勇軍や白軍を生み出す基礎的な核になった。白軍は、内戦で赤軍と戦うことになる。
 --------
 (06) つまるところ、「Kornilov 事件」は、ケレンスキーの地位を強めたのではなく、むしろ掘り崩した。
 ケレンスキーは、右派からはKornilov を裏切ったと非難された。一方、左派からは、「反革命」行動に関与していた、という疑惑を持たれた。
 Kadets (明らかにKornilov 運動に一定の役割を果たした)は、このような左翼の疑念を増幅させた。
 ケレンスキーの妻はこう書いた。「ケレンスキーと臨時政府の威信は、Kornilov 事件によって完全に破壊された。そして夫は、ほとんど支援者がいないままで、とり残された」(注01)。
 春の人民の英雄は、秋には人民の反英雄(anti-hero)になった。
 --------
 (07) 一般の兵士たちは、将校層がKornilov を支持したのではないかと疑っていた。
 そのために、8月末から、軍の規律の顕著な非厳格化が生じた。
 兵士集会は、講和と権力のソヴェトへの移行を呼びかける決議を採択した。
 軍からの脱隊の率が、急激に上がった。数万人の兵士が毎日、軍の分団を離れた。
 脱隊兵のほとんどは農民出身で、故郷の村落に帰りたかった。そこは今、収穫真っ盛りの季節だった。
 武装しかつ組織化して、彼ら農民兵士たちは、領主を攻撃した。これは9月からいっそう激しくなった。
 --------
 (08) 大きな工業都市では、Kornilov 危機の中で、似たような過激化が進行していた。
 ボルシェヴィキはKornilov 事件の第一の受益者で、8月31日に初めて、ペテログラード・ソヴェトの多数派になった。
 Riga、Saratov、モスクワのソヴェトも、その後にすみやかに同様になった。
 ボルシェヴィキの好運が上昇した理由は、主として、非妥協的に「全ての権力をソヴェトへ」と叫び続けた唯一の政党だったことにある。
 --------
 (09) この点は強調しておく必要がある。なぜなら、十月革命に関する最大の誤解は、ボルシェヴィキはこの党に対する大衆の支持の波に乗って権力へと到達した、というものだからだ。
 そうではない。
 十月蜂起は、民衆のごく少数派の支持を得ての、クーだった。ソヴェト権力という民衆の理想にとくに着目した社会的革命の真只中で、それは起きた。
 Kornilov 事件のあと、工場、村落、軍団から突如として、ソヴェト政府の樹立を求める決議が噴出した。
 しかし、ほとんど例外なく、それらが呼びかけた政府は、全ての社会主義政党が参加する政府だった。そして諸決議はしばしば、社会主義政党間の対立については著しく寛容だった。
 --------
 (10) Kornilov 事件の現実的な重要性は、つぎのことにある。すなわち、ソヴェトに対する「反革命的」脅威がある、という民衆がもつ信念が強化されたこと。ボルシェヴィキは、この脅威を、十月に赤衛隊その他の闘争的な者たちを動員するために利用することになる。
 Kornilov 事件は、この意味で、ボルシェヴィキによる権力奪取のための衣装稽古(dress rehearsal)だった。
 ボルシェヴィキの軍事委員会が、Kornilov に対する闘争の中で新たな力を得て、—七月以降にすでにあった—地下から出現してきた。
 赤衛隊もまた強化された。赤衛隊員のうち4万人が、Kornilov 事件の中で武装した。
 Trotsky がのちに書いたように、「Kornilov に反対して立ち上がった武装集団は、将来に十月革命のための部隊となるべき軍団だった」(注02)。
 ——
 第一節、終わり。

2770/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑧。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017)の一部の試訳。
 --------
 第四章—内戦
 第一節④
 (20) 内戦の終了とともにソヴィエトの経済と社会に生じていたのは、より大きな厄災の状況だった。
 歴史家たちは、この原因は長年の戦争と社会的転覆—深い根源をもつ厄災の継続(38)—のうちにより多くあるのか、それとも、ソヴィエトの政策の特有の効果であるのか、を議論している。
 しかし、大厄災たる結果だったことについては一致がある。破滅した経済、都市部の人口減少、大量の国外逃亡という危機、農民の反乱、ストライキ、そして共産主義者の中にすらある公然たる不満。
 1921年までに、工業生産高は戦争前の20パーセントへと落ちた。
 『プロレタリアート独裁』としてソヴェト支配の基盤だと想定されていた労働者たちは、荒廃して飢えた都市から逃亡するか、兵士または行政官になった。そうして、労働者階級の規模は、戦争前の半分以下にまで縮小した。
 マルクス主義者の言うプロレタリアートの『脱階級化』は、革命の厄介で逆説的な効果だった。労働者階級出身で『労働者反対派』の指導者だったAlexander Shliapnikov が1922年の党大会でLenin をこう冷笑したように。
『存在しない階級の前衛となって、おめでとう』(39)。
 農民たちは耕作する土地で、彼ら自身が生きていくのに必要な生産しかしなくなった。
 しかし、彼ら自身の生存すら、干魃が広い地域を飢餓の縁に追い込んだときには、脅かされた。その飢饉は、1921〜22年に、大規模で襲うことになった。
 これの頂点にあるのは、疾患と病気の蔓延だった(ある歴史家の言葉では『近代史における最も過酷な公衆の健康の危機』)。また、数百万の子どもたちにとってを含む住宅欠如、都市部での暴力犯罪、地方での山賊、大量の泥酔者、生き残ろうとする、道徳意識なき民衆による放蕩しての悪態その他の、想像し得る全ての態様等々。
 Lenin が1921年3月の党大会で、ロシアは『打ちのめされて死に際にあった男のように、7年の戦争の中から出現してきた』と語ったとき、彼は強調しすぎてはいない。
 あるいは、若干の歴史家が論じてきたように、ロシアは『トラウマ』の状態で、内戦を終えた(43)。
 --------。
 (21) 民衆の反乱は、損傷を受けた革命およびトラウマとなった革命という感覚を増大させた。
 農民がもう白軍の勝利を怖れなくなったあとでは、ボルシェヴィキは、よりマシな悪魔ではなくなった。
 農民たちは穀物徴発隊を待ち伏せして襲い、国家の権威の代理人たちを攻撃した。
 1920年の遅くに、西部シベリア、中部Volga、Tambov 地方、およびウクライナで、大量の蜂起が勃発した。
 どこにでも見られた主要な要求は、同じだった。すなわち、穀物の強制取得〔徴発〕の廃止、自由取引の復活、そして農民に耕作地と生産物に対する完全な支配権を付与すること。
 このリバタリアンな考えは、農民が革命で自らの手によって獲得したと思ったものだった。
 いくつかの農民集団は、憲法会議の再招集を主張した。
 都市労働者の騒擾はさほどに拡散しなかったが、政治的にはより不安定だった。
 1921年の初め、抗議集会、示威行動、ストライキが散発して起きた。
 労働者たちの要求は主として肉体的生存の問題に関係していて、とくに食糧と衣類を要求した。
 しかし、経済的な欲求不満は、かつてと同様に、政治的不満を惹き起こした。
 労働者たちは、市民権の回復、工場の実力強制的経営の廃止を要求した。憲法会議を呼びかける者もいた。
 1921年3月、ペテログラードに近い島にあるKronstadt 海軍基地で反乱が起きた。
 Kronstadt の海兵たちは1917年の七月事件—Trotsky は当時に『ロシア革命の誇りと栄光』と賞賛した—と十月の権力奪取の際にボルシェヴィキを支援したことで有名だったが、今や、一党支配の終焉、言論とプレスの自由の回復、憲法会議の招集、全権力の自由に選出されたソヴェトへの移行、穀物徴発を含む経済の国家統制の廃止、を要求した。
 『人民委員体制はくたばれ』は、海兵と労働者たちのあいだの一般的なスローガンになった。
 --------
 (22) この危機を複雑にしたのは、共産主義者たちの中にあった不満だった。彼らは、革命の中核的諸原理は生き延びるために犠牲にされた、と感じていた。
 不満をもつ党派は、以前にも発生していた。
 1918年、『左翼共産主義者』は、世界革命に対する裏切りだとして、ブレスト=リトフスク条約に反対した。また、労働者支配の侵奪だとして、工業への厳格な労働紀律の導入を批判した。
 1919年、『軍事反対派』は、新赤軍は伝統的紀律を採用し、帝制下の将校たちを用いるとのTrotsky の構想を非難した。
 しかしながら、内戦が終わると、党の政策に対する内部批判はより公然たる、かつより激烈なものになった。もはや勝利することはなかったけれども。
 『民主主義的中央派』は、党の権威主義的中央集権化や官僚主義化の増大に異論を唱え、諸問題の自由な討議と地方党官僚の選挙を要求した。
 『労働者反対派』は、工業での伝統的紀律、経営への『ブルジョア専門家』の利用、労働組合の国家への従属に反対した(44)。
 --------
 (23) 1921年の春は、転換点だった。
 異論は鎮静化され、粉砕された。
 3月に開かれた第10回党大会は、党内の分派を禁止した。その結果、いかなる組織勢力の周りにも、共産主義者のあいだでの批判が合流することができなくなった。
 しかし、党内部での反対派の抑圧は、農民の蜂起、労働者のストライキ、あるいはKronstadt を粉砕するために使われた暴力に比べれば、温和だった。
 Lenin 、Trotsky その他の党指導者たちは、これを正当化した。おそらくは彼ら自身に対するものであっても。彼らは、自分たちが歴史の正しい側にいると確信していたのだから。
 同時に、こうした妥協は必要であるように見えた。多くの異論に直面したから、というだけではない。経済的には後進国であるロシアが経済的諸問題を解決し、社会主義への途を急速に進むために国際主義的な支援が必要であるところ、そのような支援を提供すると想定された、世界全体の社会主義革命が『遅れ』ていたからだ。
 1921年、『戦時共産主義』の残虐性と英雄主義は、宥和的で穏健な『新経済政策』あるいはNEP の導入によって放棄された。
 多くは、変わらなかった。
 共産党による国家の統制権は無傷で残ったままだった(他政党の公式の禁止によって強化された)。そして、党内紀律も強化された(分派の禁止等々)。
 経済については、『管制高地』の完全な支配権は国家が維持した。銀行、大中の産業、輸送、外国貿易、商業全体。
 しかし、小規模の企業、小売取引は、規制を受けつつも、再び許容された。
 そして、非難された穀物や生産物の徴発に代わって、政府は『現物税』を導入し、これをさらに現金税に変えた。
 Lenin は、NEPが社会主義への途上での『後退』であることを認めた。より急進的な者たちは耐え難いものと考えた。
 しかし、おそらくはLenin を含む多数のボルシェヴィキは、遅れた農業国家にはふさわしい、社会主義への新しい途だとNEPについて考え始めた。
 1920年代に、党内でつぎの二つの議論が激しく行なわれた。一つに、民衆の文化的、経済的レベルを向上させ、社会主義的協同の利益を民衆に理解させる、緩やかな社会主義への移行の主張、二つに、戦時共産主義の英雄的急進主義の復活であっても、より戦闘的な行進の強行の主張。
 この議論はようやく、1920年代末に、Stalin による『大転換』によって決着がついた。複雑さと妥協の中で突き進み、新しい経済、社会、文化へと跳躍しようとする、『上からの革命』。
 ——
 第四章第一節、終わり。

2769/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑦。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 ——
 第四章—内戦
 第一節③
 (13) これは、敵の抑圧のみに関してではない問題だった。
 内戦のあいだ、政府と党〔ボルシェヴィキ、共産党〕は、全ての生活領域で、とくに経済と社会について、ますます中央集権的で、上意下達の、実力強制的な支配の手法を採った。
 学者たちは、イデオロギー的志向とは対立する状況や必要性がどの程度多く権威主義への傾斜—とくに、Lenin がのちに『戦時共産主義』と称した経済政策—を形成したのかを、議論しつづけている。
 これについて整理して論述するのは、本当にほとんど不可能だ。
 問題をさらに複雑にすることに、またロシアとボルシェヴィズム以外にも十分に適用し得る相互連関を示唆してもいるのだが、この権威主義の多くの側面は、世界大戦中にヨーロッパじゅうで見られた、経済と社会を総動員するための実践を反映し、かつ発展させた。—なかんずく、影響力が大きかった、政治的には保守の側の例である、ドイツの『戦時社会主義』(<Kriegssozialismusu>)(28)。
 『必然性の王国』は、きわめて強く、かつ苛酷になった。
 経済の状態に関する1918年春のある報告は、全部門での『組織解体』、『危機』、『衰退』、『不安定化』、『麻痺』による『崩壊の状況』を記述した(29)。
 衰退した経済を回復させ、その経済を動力として戦闘をし、建設をすることは、最も緊急性が高いの事項になった。
 しかし、これを行なう方法は、状況以上のものだった。—それゆえに、絶望的な必要性という状況のもとで解放された未来を実現しようとする『戦時共産主義』という逆説的な観念も生まれた。
 --------
 (14) 食糧問題、とくに労働者と兵士への供給の問題は、きわめて切迫していた。
 1918年5月、政府は『食糧独裁』を宣告した。これには、全ての穀物取引の国家独占、厳格な価格統制、物不足を利用した投資だと非難される私的『袋持ち男』の規制、農民から穀物その他の農業生産物を徴発するための武装派遣隊の設置が含まれていた。
 食糧独裁は、大量の『余剰』を蓄えているとされた田園『ブルジョアジー』に対する階級闘争だと捉えれば、『革命的』側面をもった。また、社会化された農業へと向かう第一歩と理解することもできた。
 しかし、必要性こそが、それを発動させた主要な駆動力だった。
 農民革命は、市場化できる産物を生産する大規模農地による農業を生んだのではない。大部分はますます、伝統的で小規模の、最低限を充たす農業となった。
 いずれにせよ、農民には、穀物を市場に出す動機がほとんどなかった。市場には買うものがほとんどなく、金銭はますます無価値になっていたからだ。そうして農民たちは、生産物を蓄え込んだ。
 なおまた、食糧独裁は大部分で失敗だった。農民たちがしばしば暴力的に挑発に抵抗し、価格の安さに抗議した、というのみではない。加えて、政府は、経済の分野で民間部門の代わりをすることができるほどに強くはなかった(30)。
 --------
 (15) 工業の分野では、ボルシェヴィキは、市場関係と私有財産を廃止するという歴史的目標に向かって着手した。
 しかし、今や生産の崩壊が行動を要求していた。
 国家経済最高会議〔SCNE〕が、社会主義への移行の長期計画を策定するために、1917年12月に設立された。
 若干の国有化が、内戦の前に行なわれた。だが、ほとんどは国家中央ではなく、地方ソヴェトと工場委員会による作業だった。
 経済危機と内戦の到来によって、私的経済からのより決定的な離反が促進された。
 政府は1918年6月に、大規模工業の全てを国有化した(小工場は1920年)。
 小売業の大部分は、1918年末までに禁止された。『市場のアナーキー』を制御するためだった。
 経済をめぐるこの闘いは、ブルジョアジーの抑圧に限定されはしなかった。
 政府は成人男子全員について強制労働を導入し、厳格な労働紀律を定め、『労働者支配』を独任制の経営に変えた(そして、経営と技術に関する『専門家』の俸給と権限を高めた)。また、工業の動員について労働組合を制約し、ストライキを禁止した。
 イデオロギー的に熱狂した地方の活動家や組織は、資本主義を抑圧する行動について大きな役割を果たした。そして、地方の民衆に大きく訴えることができた。とくに『ブルジョアジー』に『強制寄付』をさせるような行為、労働者住宅にするための家屋やアパートの徴発によって。
 --------
 (16) 同時に、労働者たちの不満は増大していた。
 経済上の苦労や工場紀律の拡大への憤慨によって、メンシェヴィキ、エスエル、そしてアナキストすらの議論にあらためて関心をもつようになった。これらは、民衆の権力である強い地方機関にもとづく複数政党による民主制の回復を呼びかけていた。
 労働者たちはまた、共産党権力は十月革命の精神を喪失するか裏切った、という実体的感覚に応えようとした。
 1918年の早くにペテログラードで、社会主義者の主要な反対諸政党は、工場代議員の特別会議〔Extraordinary Assembly of Factory Delegates〕と称される、一種の反ソヴェトを設立した
 この会議は、経済的諸問題の発生は、ボルシェヴィキ国家の官僚層が原因であるというよりも、民主主義的に労働者の行動を機能させることに、労働組合、工場委員会 、地方ソヴェトが失敗したことが原因だ、と論じた。
 対照的に、ボルシェヴィキ指導部は、国家は労働者国家であるがゆえに、労働者は生産手段をもち、ゆえに、搾取される、ということはあり得ない、と議論した。
 政府が1918年5月に工場労働者へのパンの配給を増やしたとき、上記の代議員会議は労働者たちに対して、ストライキをするよう呼びかけた。その際に政府と党(ボルシェヴィキ)を、労働者を『買収』し、労働者を『民衆の別の層』と分断しようととしていると非難した。また、『人民の権力の復活』だけが飢えの問題を解決するだろうと論じた。
 これに反応した政府は、ストライキを抑圧し、この運動の指導者たちを逮捕した(31)。
 --------
 (17) 政治的関係も、同じく、戦時危機とイデオロギー的な愛着の混合によって形成された。
 党の政治手法としてますます顕著になっていたのは、中央集権化、階層性、指令と布令による支配、異論に対する抑圧と制裁、社会全般の監視の拡大、だった。
 これらは、社会主義革命を起こすための、かつてのボルシェヴィキにあった、前衛党モデルの遺産でもあった。
 しかし、多くのボルシェヴィキが主張しただろうように、異なってもいた。とくに、政治的社会的システムの転覆ではなく、それの建設のために用いられたのだから。
 地方のソヴェトと委員会は下からの革命の特徴面だったけれども、今や統御されていた。
 工場委員会と労働組合の権限は、独任制経営と厳格な労働紀律が優勢となって、形骸化した。
 低減した工場自治は、『経済の軍事化』政策によって1920年代にさらに少なくなった。この政策に含まれていたのは『労働徴用』で、労働者たちを軍事的紀律と違反への苛烈な制裁に服従させた。
 常習的欠勤、低い生産性、製品の『窃盗』その他の非行は、とくに輸送や軍需のような基幹産業では、『犯罪的』行為、『職場放棄』、『裏切り』と見なされた。
 逮捕、すみやかな審判、労働収容所への追放その他の制裁は、通常のことになった。その際にCheka はますます、基礎的な役割を果たした。
 こうしたことは、望ましい効果を生んだ。すなわち、少なくとも公式の統計によると、1920年代に、生産性が向上した(32)。
 他方では、軍事化されたこの新しい政治的環境のもとで、かつては是認され、称讃された、1917年の逞ましい地方主義と直接民主制は、今や危険な断片化とアナーキーだと考えられた。
 --------
 (18) しかしなお、多くの共産主義者たちは、自分たちは新しい社会、新しい文化、新しい人間を創出するために—必然の王国から自由の王国と跳躍するために—闘っている、と信じていた。
 『戦時共産主義』についてのある初期のロシアの歴史家の言葉では、内戦の年月は『ロシア革命の英雄的時代』だった(33)。
 暴力は、暴力の基盤に対する高潔な闘いであるがごとく見えた。
 経済の崩壊は、資本主義の終焉であるかのごとく見えた。
 実験の時代だった。その多くは、全ての『前線』で社会的、文化的生活様式を変えるものとして、支配党と国家によって称賛された。
 一つの戦場が、家庭であり、性であり、男女関係だった。
 党の特別支部である女性部(Zhenotdel、1919年設立)は、共同台所と共同保育によって家庭生活の不平等な負担から解放された、また、人格において自由で大胆で積極的な『新しい女性』を生み出すために活動した。
 党の青年部であるKomsomol (1918年設立)は、若年層に新しい集団主義的精神を吹き込む活動をした。
 コミューンが国じゅうに組織された。とくに、都市部での学生と労働者の『ハウス・コミューン』、若干の実験的な農業コミューン。
 子どもに家がない(homeless)という恐ろしい問題ですら、理想主義者にとっては、子どもを新しい方法で育てるよい機会だった。ほとんどの両親の遅れていると見える考え方や価値観から自由なやり方で。
 労働者の文化生活を変えようとする『プロレタリ文化』運動は、1917年の末に出現した。その多くを主導したのは、労働者階級の作家、詩人、芸術家、活動家だった。そしてしばしば、『迫害された』人間性を輝く新世界、幸福と自由の楽園で『復活』させる(好まれた表現)という夢想を好む、急進的で新しい『プロレタリア文学』を生み出した。
 芸術家、建築家、作家たち—多くは国家機構、とくに啓蒙人民委員部〔文部科学省〕から支援を受けていた—は、新しい世界を想像した。そして、不可能な建築プランを描くことすらした(34)。
 この歴史的な時代では、想像不可能なことは何一つないように見えた。この時代には、最も残虐な暴力と最も急進的な理想像はいずれも、同じ行路の一部だった。1918年の公共彫刻公園を叙述する言葉を借りれば、『苦痛と悲哀を通じて、全ての拘束鎖からの解放を目ざして絶え間なく闘いながら』進む行路(35)。
 --------
 (19) ほとんどの歴史家は、内戦時代の実力強制と暴力の文化はボルシェヴィキの行く末に決定的な影響を与えた、と見ている。Robert Tucker がスターリン主義の起源に関する影響力ある研究書で論じたところでは、それはつぎのようなものを『形成する経験』だった。『ボルシェヴィキ運動の革命的な政治文化を軍事化し』、『好戦的熱狂、革命的自己犠牲主義』と<elan>』の遺産を残し、『安易な実力強制への依存、行政的命令による支配、中央集権的行政、略式司法』の遺産も残し、『冷酷性、権威主義と「階級憎悪」』というボルシェヴィキの精神(ethos)を『残虐性、狂信、異論をもつ者に対する絶対的な不寛容』に転換し、『国家という様式を通じて社会主義が建設されるという確信を抱くのを困難にする』、そのような経験(36)。
 Sheila Fitzpatrick がこう論じたのは有名だ。内戦は『新しい体制に炎による洗礼を与え』たが、『ボルシェヴィキが危険を冒して獲得し、あえて追求すらしたかもしれない』洗礼だった(37)。
 ——
 つづく。

2768/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑥。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 ——
 第四章—内戦
 第一章②
 (07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
 10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
 11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
 ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
 1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
 Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
 --------
 (08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
 多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
 ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
 講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
 --------
 (09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
 内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
 1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
 --------
 (10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
 軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
 兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
 戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
 このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
 一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
 --------
 (11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
 白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
 しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
 『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
 農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
 赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
 だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
 --------
 (12) 内戦は、凶暴な事態だった。
 いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
 どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
 赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
 『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
 ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
 ——

2767/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑤。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 --------
 第四章—内戦
 第一節①
 (01) ボルシェヴィキは、革命的社会主義国家に関する矛盾する考え方を抱いて、権力を掌握した。
 一方には、一般民衆の欲求とエネルギーを解き放つことによる、大衆参加という解放と民主主義の考えがあった。
 Lenin は1917年春のペテログラードへの帰還の後で述べたのだが、ロシアを『崩壊と破滅』から救う唯一の方途は、抑圧された労働者大衆に『自分たち自身の強さへの自信を与える』こと、民衆の『エネルギー、主導性、決断力』を解き放つこと、だった。こうして、彼らは動員された状態のもとで、『奇跡』を行なうことができる(1)。
 これは、新しいタイプの国家の理想、大衆が参加する権力という『コミューン国家』(1871年のパリ・コミューンを参照している)、『大きな金額』のためではなく『高い理想のために』奉仕する『百万の人々の国家装置』だった(2)。
 コミューン国家という理想は、1918年に『ロシア社会民主主義労働者党』から『ロシア共産党(ボルシェヴィキ)』へと党の公式名称を変更したことに反映された。
 権力掌握から最初の1ヶ月間に、Lenin は繰り返して、『歴史の作り手』としての『労働大衆』に対して、『今やきみたち自身が国家を管理している』こと、だから『誰かを待つのではなく、下からきみたち自身が率先して行動する』こと、を忘れないよう訴えた(3)。
 この語りを良くて実利主義的だと、悪ければ欺瞞的だと解釈した歴史家がいた。—Orlando Figes の見解によれば、『古い政治体制を破壊し、そうして彼自身の党による一党独裁制への途を掃き清めるための』手段にすぎない(4)。
 しかしながら、多数のボルシェヴィキが解放と革命権力の直接参加主義的考えを信じていた、ということを我々が見るのを妨げないよう、慎重であるべきだ。
 --------
 (02) しかし、以上は、ボルシェヴィキの国家権力に関するイデオロギーの一面にすぎなかった。
 Lenin がボルシェヴィキは『アナキストではない』と主張したのは正当だった。
 ボルシェヴィキは、強い指導力、紀律、強制、実力の必要性を信じてはいた。
 『プロレタリアートの独裁』と理解され、正当化された『独裁』は、いかにして革命を起こし、社会主義社会を建設するかに関するボルシェヴィキの思想の最も重要な部分だった。
 ボルシェヴィキには、権力を維持し続け、彼らの敵を破壊する心づもりがあった。そして明示的に言ったことだが、大量逮捕、略式手続での処刑、テロルを含む最も『残酷な手段』(Lenin の言葉)を使う用意があった。
 Lenin は、『裕福な搾取者たち』に対してのみならず、『詐欺師、怠け者、フーリガン』に対して、そして社会へと『解体』を拡散する者たちに対しても警告した。
 革命への脅威になるものとして『アナーキー』を非難するのは、今度はボルシェヴィキの番だった(5)。
 しかし、独裁は、必要物以上のものだった。
 それは美徳〔virtue〕でもあった。すなわち、プロレタリアートの階級闘争は、暴力と戦争を生む階級対立を克服することを意図する闘争として、歴史における唯一の闘争だった。Lenin が1917年12月に、それは『正当で、公正で、神聖だ』と述べたように(6)。
 さらに言うと、これは戦争になるべきものだった。
 --------
 (03) 最初の数ヶ月、新しいソヴェト政府は、一般民衆に力を与え、より平等な社会を築くよう行動した。ソヴェトに地方行政の権能を与え、農地の農民への移譲による農民革命を是認した(7)。また、日常の工場生活を支配する決定に参画する労働者の運動を支持して、『労働者支配』を必要とする法制を作り(8)、『全ての軍事単位内部での全権能』を兵士委員会とソヴェトに付与して兵士の運動を支持して、全将校が民主的に選挙されるようになった(9)。さらに、民族や宗教にもとづく特権や制限を廃止して、ロシアの帝政的要素の優越に対する闘争を支持し、全ての帝国国民の『平等と主権性』を主張した。これには民族自決権も含まれていて、分離や独立国家の結成にまで及ぶものだった(10)。
 ソヴェト政府は、全ての民衆を『市民』と単一に性格づけることに賛成して、資産、称号、地位のような公民的不平等の法的な性格づけを廃止しもした(11)。既存の法的装置を『民主的選挙にもとづいて設立される法廷』に変えもした(12)。
 --------
 (04) こうした急進的な民主主義化のほとんどは、内戦という非常の状況の中で実行されないことになる。効率的な動員と紀律を妨げる、事宜を得ないものとして、放棄された。
 しかし、ボルシェヴィキによる国家建設は、最初からすでに、ボルシェヴィキ・イデオロギーの権威主義的様相を明らかにしていた。
 一つの初期の兆候は、単一政党による政府を樹立しようとする意欲だった。これは、『全ての権力をソヴェトへ』は『民主制』の統合的代表者への権力移譲を意味すると民衆のあいだで広く想定されていた中で、それにもかかわらず、見られた。
 しかしながら、一党支配は、直接のまたは絶対的な原理ではなかった。
 新しいソヴェト政府が非ボルシェヴィキを包含することには、実際的な理由があった。とくに補充されるべき多数の政府官僚のための有能な個人が、不足していたことだ。
 政治的な理由もあった。とくに、労働者と兵士の委員会、国有鉄道労働組合(重要争点に関して全国的ストライキでもって威嚇した)、独立した左翼社会主義者たち、そして不満を抱いているボルシェヴィキ、これらからの圧力。
 上の最後の中で最も有名だったのは、ボルシェヴィキの中央委員会委員の、Grigory Zinoviev とLev Kamenev だった。この二人は、労働者や兵士の多数派の意思に反するとして、『政治的テロル』によってのみ防衛可能だとして、また『革命と国家の破壊』に帰結するだろうとして、一党政府を公然と批判した(13)。
 1917年12月、Lenin は、限られた数の左翼エスエル(エスエル主流派から離脱した党派)の党員を内閣(人民委員会議またはSovnarkom)に含めることに同意した。
 しかし、これは長くは続かなかった。
 数ヶ月のちに、ボルシェヴィキの政策に影響を与えようとして政府に参加した左翼エスエルは、不満の中で内閣を離れた。彼らが反対した、ドイツとの講和条約の締結が契機となった。
 そのあと数ヶ月、左翼エスエルはボルシェヴィキの権威主義に対する批判を継続した。—ある左翼エスエル指導者は、1918年5月に、Lenin は『凶暴な独裁者』だと非難した。そして、ボルシェヴィキは左翼エスエルの活動家に引き続いて妨害されたことに苛立ち、決定的な分裂へと至った。
 ある左翼エスエル党員が、ドイツの大使を暗殺した。これはソヴェト権力に対する『反乱』の一部だと見られたのだったが、ボルシェヴィキは、全てのレベルでの政府各層から左翼エスエルを排除〔purge〕した。そして、エスエルと同党員を厳格に壊滅させた。
 ボルシェヴィキによる一党支配はこうして完成し、永続することとなった(14)。
 --------
 (05) 長く待たれ、長く理想化された憲法会議を散会させる決定が下された。これは多くの者によって、ボルシェヴィキの権威主義を示す、とくに厄介な兆候だったと考えられている。
 1917年11月に実施された憲法会議の選挙の結果は、革命的だった。—ロシア民衆の大多数が、公開の民主的投票でもって、将来の社会主義への道を選択した。
 エスエルが全投票数の38パーセントを獲得した(分離していたウクライナのエスエルを含めると44パーセントだった)。ボルシェヴィキは24パーセント、メンシェヴィキは3パーセント、その他の社会主義諸政党も合わせて3パーセントだった。すなわち、社会主義者たちには(分かれていても)、全投票の4分の3という輝かしい数が与えられた。
 非ロシアの民族政党は、社会主義に傾斜した党もあったのだが、多く見て全投票数の8パーセントを獲得した。
 リベラルなKadet(立憲民主)党は、5パーセント未満だった。
 その他の非社会主義諸政党(右翼主義者と保守派を含む)には3パーセントだけが投じられた。
 ボルシェヴィキは、全国の投票数の4分の1という相当大きい割合を獲得した。とくに都市部、軍隊、北部の工業地域で多かった。—ボルシェヴィキは本当に労働者階級の党だと証明された、と言うのが公正だ(15)。
 --------
 (06) 同時にまた、選挙結果は、ボルシェヴィキによる政府の圧倒的な支配を正当化するものではなかった。—彼らが政府から去ることはほとんど期待できなかったけれども。
 Lenin は、ソヴェト権力をボルシェヴィキが握った最初の日に、憲法会議選挙は従前に予定されたとおりに11月12日に実施される、と確認した(16)。そのときですでに、Lenin の文章の注意深い読み手であったならば、つぎのことに気づいただろう。すなわち、『憲法幻想』〔constitutional illusions〕への早くからの警告、『階級闘争の行路と結果』が憲法会議よりも重要だという強い主張(17)。
 この議論は、選挙のあとで、憲法会議を『偏愛』する〔fetish〕ことに反対する公然たる主張へと発展した。—選挙の立候補者名簿は時期にそぐわない(とくに名簿登録後の左翼エスエルの立党による)。『人民の意思』は選挙後にさらに左へと変化した。ソヴェトは『民主主義の高度の形態』であって、憲法会議が設立したかもしれない政府はそれより後退したものだろう。内戦の蓋然性のゆえに緊急の措置が必要だ。
 イデオロギーとして憲法会議を攻撃する最も重要な主張は、階級闘争に関する歴史的論拠だった。すなわち、議会の正統性は、形式的な選挙によってではなく、歴史的闘争の中で占める位置によって判断されるべきだ。この位置は、どの程度において『労働者民衆の意思を実現し、彼らの利益に奉仕し、彼らの闘いを防衛する』か、によって定まる。
 憲法会議がたとえ圧倒的に社会主義派によって占められていても、この歴史的審査に耐え難い、とボルシェヴィキは結論づけて、憲法会議に機会は与えられない、と主張した。歴史と階級闘争の論理が、反革命的な憲法会議が解散することを『強い』た。それは、1918年1月の最初の会合で行なわれた(18)。
 だが、この動議に若干の穏健なボルシェヴィキは反対したこと、ほとんどの左翼エスエルは会議の閉鎖を是認したこと、は記憶しておく価値がある。
 --------
 つづく。

2766/M. A. シュタインベルク・ロシア革命④。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 --------
 第三章/1917年
 第一節④
 (17) 『コルニロフ〔Kornilov〕事件』は陰謀と混乱の奇妙な混合物で、騒擾の危険性、紀律と強い国家の必要性に関して激論が交わされている中で、それに煽られるようにして起きた。
 新しい最高司令官は、自分をロシアを救う人間だと見ていた。これは、保守的プレス、右翼政治家、軍将校や事業家の組織、地主たちから勇気づけられての自画像だった。
 Kornilov は、Kerensky も、おそらく一時的な軍事独裁によって、ソヴェトとその支持者たちの言論を封じるのを望んでいると、根拠なく信じていたように思われる。
 何が現実に起きたかに関する歴史上の諸記録は、矛盾した証拠と主張で充ちている。
 我々に分かるのはつぎのことだ。Kerensky は8月26日に、Kornirov が政府全大臣の辞職、首都での戒厳令の発布、全ての公民的、軍事的権限の自分の手中への移行を要求したこと、これらの要求を支援すべく兵団を首都へ動かしていること、を知った。
 Kornilov を擁護する者たちはのちに、Kerensky 自身がこの権力集中を命令していたのであり、兵団を動かしたのは、噂されたボルシェヴィキのクーからKerensky と政府を防衛するためだったにすぎない、と主張した。
 Kerensky は国民に対して、軍事クーからロシアと革命を『救う』のを助けるように呼びかけた。
 ソヴェト指導部は、地方ソヴェト、労働組合、工場委員会、ボルシェヴィキを含む左翼諸政党(ソヴェトはボルシェヴィキ指導者たちの監獄からの釈放のための調整を助けてすらいた)を動員することでもって、首相の訴えに応えた。
 行進しているKornilov の兵団は、前進を停止するよう簡単に説得された。とりわけ、Kerensky は自分たちの行動を支持していない、と聞いたために。
 こうして、『反乱』は数日で終わった。
 しかし、危機は始まったばかりだった。
 右派は、Kerensky を、Kornilov を騙して、裏切った、と非難した。
 左派は、Kerensky は最高司令官と共謀していた、のちに反対に回った、と疑った。
 結果として、二番めの連立内閣が崩壊した。リベラル派と社会主義派の間の相互不信が深まって、分裂したのだ。
 ようやく9月遅くに、新しい連立の臨時政府が形成された。—第三の、そして最後の内閣。これを率いた首相はKerensky で、10人の社会主義者大臣(多くはメンシェヴィキとエスエルの党員。但し、公式には個人として行動した)と6人のリベラルな大臣(多くはカデット〔立憲民主党、Constitutional Democratic Party, Kadets〕)で成っていた。
 --------
 (18) ボルシェヴィキは、政府に加わらなかった唯一の主要な左翼政党として、民衆の不満解消のための逃げ場所になった。
 そして、階級を明瞭に基礎にしたその基本政策は、ますます両極化している社会的雰囲気にうまく適合した。
 ボルシェヴィキは、富者に負担となり貧者に利益となる税の再配分が目標だ、と宣言した。また、農民の土地所有者に対する闘争、労働者の雇用者に対する闘争、兵士の将校に対する闘争を支持することも。さらに、死刑のような『反革命的』措置を採用しないことも(18)。
 とは言え、とくに魅力的なのは、彼らが繰り返したスローガンだった。すなわち、『パン、平和、土地』、『全ての権力をソヴェトへ』。—全ての不満を捉え、一つの単純な解決策を提示する化身たち〔incarnations〕。
 ボルシェヴィキの人気が増大していることは、Kornilov 事件の前にすでに明らかになっていた。工場委員会や労働組合での投票で、地区や市のソヴェトへの代議員の新または再選挙で、ボルシェヴィキの演説者や決議に対するソヴェト内部での受け入れの仕方で、そして市議会の選挙においてすら(19)。
 Kornilov 事件は、反革命への恐怖、穏健な社会主義者たちとの妥協への不満を掻き立てた。その後、ボルシェヴィキはいっそう急激に影響力を増した。もっとも、エスエルの中で同様に宥和的でない『左翼エスエル〔Left SRs〕』のそれも似たようなものだったが。
 8月31日、ペテログラード・ソヴェト代議員の多数派は、有産階層を除外した社会主義者政府を樹立しようとのボルシェヴィキの決議案を採択する議決を行なった(20)。
 9月の後半に、ボルシェヴィキは、ペテログラードとモスクワの両都市で、ボルシェヴィキを多数派とする新しいソヴェト指導部を選出するのに十分なかつ信頼できる多数派を獲得した。
 Lev Trotsky は最近にボルシェヴィキ党に加入したのだったが、ペテログラードでは彼が、議長に選出された。
 同じことは全国で起きていた。
 最も重要なことは、ボルシェヴィキは今や、大胆な政治的ギャンブルのために増大している人気を利用する用意がある、ということだった。政治的賭け—国家権力を奪取するための蜂起〔insurrection〕。
 --------
 (19) 労働者兵士代議員ソヴェトの第二回全ロシア大会は10月25日に開催され、全国の数百のソヴェトから代議員が出席した。
 ボルシェヴィキは代議員たちの中で最大の単一党派で、左翼エスエルの支持を得れば有効な多数派を形成することができた。
 14人のボルシェヴィキと7人の左翼エスエルで、新しい幹部会が構成された。
 メンシェヴィキには4人が割り当てられていた。しかし、のちには政治的自殺と見なされた動議を出して、幹部会の議席を受け取るのを拒否した。この拒否は、ボルシェヴィキによる蜂起が街路上で進行中であることに対する抗議の意思を示す行動だった。
 大会は、ボルシェヴィキのスローガンである『全ての権力をソヴェトへ』を是認した。但し、ほとんどの代議員は、ソヴェト権力とはボルシェヴィキによる一党支配ではなく、社会主義者の民主的な統一的政府を意味すると理解していたけれども。
 メンシェヴィキの指導者のYuly Martov は、ソヴェト大会の直前に『陰謀』という手段で国家権力の問題を決着させようとするボルシェヴィキの企ては、『内戦』と反革命につながる可能性が高い、と警告し、『全ての社会主義諸政党と組織』のあいだで『統一した民主主義的政府』を樹立するための協議をただちに開始することを提案した。この提案は、満場一致で承認された。
 ボルシェヴィキですら、『展開している事態に関するそれぞれの見解を、全ての政治的党派が表明することに、多大の関心を寄せる』と宣言した(21)。
 しかしながら、複数政党による社会主義者政府、『革命的な民主主義的権威』を目ざす構想は、事態の進行に間に合わなかった。他『党派』とともに活動することに対してボルシェヴィキに深く染み込んでいた強い疑念によって、その構想は実現しなかった。
 --------
 (20) 10月24日から25日にかけての夜、ペテログラードの労働者『赤衛隊〔Red Guards〕』と急進的兵士たちは、主要な街路と橋梁、政府関連の建物、鉄道駅、郵便局と電報局、電話交換所、発電所、国立銀行、警察署を掌握し、臨時政府の大臣たちを逮捕した。
 この武装蜂起は、ソヴェトの軍事革命委員会の秘密会議で練り上げられていた、詳細な計画に従っていた。このソヴェト軍事革命委員会をボルシェヴィキは支配しており、Trotsky が議長に就いていた。もっとも、タイミングの問題はボルシェヴィキ党内での激しい議論の対象だった。—タイミングはすぐれて政治的意味合いを持つ問題だったので。
 Trotsky は、蜂起は『ソヴェト権力』のために、そして政府による弾圧に抵抗する革命を『防衛』するために、ソヴェトの行動を正当化する外套をまとうべきだ、ということに拘泥していた。
 しかし、Lenin は、全く理性的なことに、つぎのように心配していた。ソヴェト全国大会は、全ての社会主義者政党を包含する政府、あるいは有産階層のみを排除した、より広範囲の『民主主義的政府』をすらに固執し続けて、ボルシェヴィキの手を縛るかもしれない、と。そのゆえに彼は、臨時政府の打倒を既成事実〔fait accompli〕としてソヴェト大会に提示する必要がある、そうすれば大会での議論は無意味になるだろう、と強く主張した。
 ソヴェト大会が10月25日に開会したとき、臨時政府の大臣たちがいる冬宮に対するボルシェヴィキの武装攻撃が進行していた。
 メンシェヴィキとエスエルの発言者たちは激しく怒り、ボルシェヴィキの行動は『犯罪的な政治的冒険』だ、と非難した。一つだけの政党による日和見主義的な権力ひったくりだ、その背後にはソヴェトの後援があるとし、そのソヴェトの名前でボルシェヴィキは二枚舌を使って行動している、と。
 彼らは、ボルシェヴィキの行動はロシアを内戦へと突入させ、革命を破滅させる、と予見した。
 ほとんどのメンシェヴィキと右翼エスエルたちは、ボルシェヴィキの行動の『責任を負う』ことをしたくなくて、大会の会場から退出した。—有名になったTrotsky の侮蔑の言葉がこれに投げつけられた。彼らは、『歴史のごみ箱』に入る運命だけが残る『破産者』だ。
 10月26日の夜明け前、ソヴェト全国大会は、レーニンのつぎの宣言を承認した。全ての国家権力はソヴェトの手中にある、全ての地方権力は、労働者兵士農民代議員の地方ソヴェトへと移譲される。
 大会はまた、全ての諸国に講和を即時に提案すること、全ての土地を農民委員会に移譲すること、兵士の権利を守ること、工業の『労働者支配』を確立すること、憲法会議の召集を確実にすること、を誓約した。
 ——
 第一節、終わり。

2765/M. A. シュタインベルク・ロシア革命③。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 --------
 第三章/1917年
 第一節③
 ——
 (12) これは実際には、2週間後の『七月事件』に比べると『瞬時の一打ち』にすぎなかった。
 7月3日、数万人の兵士、海兵、労働者たちが、大部分は武装して、首都の街路を行進した。
 彼らは市の中心部を占拠し、自動車を奪い、警察やコサックと闘った。そして、頻繁に銃砲を空中に放つことで、彼らの蜂起のごとき雰囲気を強調した。
 午前2時頃、6万人から7万人の男性、女性、子どもたちが路上にいた。そのうちのほとんどはTauride 宮にあるソヴェト司令部の近くだった。群衆は、その規模と戦闘的気分を増大し続けた。
 大衆集会で採択された決議は、戦争の即時停止、『ブルジョアジー』と今以上妥協しないこと、そして『全ての権力をソヴェトへ』を要求した。
 いかにしてこれらの目標を実現するかについて、ほとんどの示威行為者には分かっていないように見えた。とくにソヴェト指導部は自分たちが『全ての権力』を握るという発想自体を拒絶していたので。
 七月事件の最も有名な場面で、ソヴェト指導者たちは、群衆を静めるためにエスエル〔Socialist Revolutionary〕のVictor Chernov を街頭へと派遣した。
 彼の訴えに応えたのは、拳を振ってChernov に向かって『手渡されたら権力を取れ』と叫ぶ、示威行為者の怒りだった。
 ソヴェトの穏健な指導者たちは、この事件全体についてボルシェヴィキを非難した。
 そして、ボルシェヴィキ自体が、間違いなくこの運動を助長していた。
 しかし、彼らはこの運動を権力奪取へとつなげる用意をしておらず、そうしようとしなかった。
 指導者を欠いたので、反乱は解体した。
 7月4日夕方の激しい雨が、路上の群衆の最後の一人を追い払った(11)。
 --------
 (13) 歴史家たちは、今でも議論している。七月事件は、慎重かつ巧妙に計画され、だが失敗した、ボルシェヴィキによる権力奪取の企てだったのかどうか。
 あるいは、のちのクーのために試験をするという、ボルシェヴィキの戦術の一部だったのか。
 あるいは、躊躇している指導部を行動へと強いようとする、ボルシェヴィキ党員たちの努力だったのか。
 あるいは、急進化した兵士や労働者たちの調整済みでない行動ですら、党は最初は支援することに同意しており、のちに瞬時に権力奪取のために使おうと考えたが、成功しないことが明瞭になったので撤退した、のだったか。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点では同意している。ボルシェヴィキの一般活動家がこの事件できわめて大きな役割を演じたこと、大多数の労働者や兵士たちは指導を求めて党を見つめていたこと。
 そして、臨時政府の打倒がボルシェヴィキの課題〔agenda〕になっていたことに、ほとんど疑いはない。
 問題は、いつ行なうか、だった。
 --------
 (14) 地方〔provinces〕の後進性というステレオタイプ的見方とは矛盾するが、臨時政府への支持や階級を超えた統合が解体していった早さは、ペテルブルクやモスクワよりもむしろ、地方で急速だった。
 例えば Saratov では、Donald Raleigh が資料文書を示したように、地方のリベラルな新聞は6月に、『都市部だけではなく地方全体で、権力は現実には労働者、兵士の代表者の(地方)ソヴェトへと移った』と報告した。
 穏健な社会主義者と急進的なそれのあいだの断裂もまた、中心部以上に急速に進んだ。例えば、ボルシェヴィキは5月に、リベラル・ブルジョアジーとの協働に抗議して、Saratov ソヴェトから脱退した。
 同様に、地方の労働者、兵士、農民たちはもっと早くに妥協に耐え難くなり、即時のかつ直接的な諸問題の解決に賛成した。これが意味したのは、ボルシェヴィキに傾斜する、ということだった(12)。
 Kazan やNizhny-Novgorod のような別の地方の町々では、またそれらの周囲の農村地帯では、Sarah Babcock が示したように、ほとんどの民衆にとっての地方『政治』の本質は、政党への帰属や選挙への関与ではなく、経済的、社会的な必需品のための直接的な闘いだった。
 エリート全員に対する不信は、主要な諸都市で以上に、おそらく地方の一般民衆のあいだで、より強いものがあった(13)。
 紀律ある国家の最も熱烈な支持者だと広く考えられているDon 地域の多数のコサックですら、中央の権力よりも地方の権力を支持した(14)。
 このような地方主義と権力の断片化は、ペテルブルクでの政治的決定や国家権力をめぐる闘争より以上にではかりになくとも、それと同等に革命を規定した。
 臨時政府の権威は急速に低下し、地方ソヴェト、委員会、労働組合その他の諸制度の力の増大によって掘り崩された。
 --------
 (15) ロシアじゅうの社会的権威が突如として断片化してきた。それは、直接的行動が唯一の解決方法だと思わせるような、経済的危機のさらなる悪化によって促進された。だがまた、『ブルジョアジー』とそれと結びついた政治的エリート層に対する不信によっても。
 兵士たちは将校を無視し、選出された兵士委員会にのみ耳を傾けた。
 農民たちは、自分たちが土地を奪ったり地主を追放するのを妨げるものはほとんどないと分かって、土地改革を待つのをやめた。
 労働者たちは、作業場の条件を直接に統御する直接的行動をとった。—多くの工場では、『労働者支配』—理論を適用したのではなく実践の中で生まれて発展した考え—が、進展していった。工場委員会が、管理者側の決定を監視し始めたのみならず、重要な経営上の決定を自ら行ない始めるようになるとともに。
 雇用者または経営者が例えば燃料不足を理由とする一時解雇〔lay-off〕で威嚇したとき、工場委員会は、新しい燃料供給源を探して、輸送と支払いについて取り決めすることがあり得た。また、利用可能な燃料のより経済的な使用方法を取り決めたり、会社の経費支出への監督権を要求したり、全員の労働時間を平等に削減することを裁可したり、あるいは、一時解雇される者を選定する、労働者の集団的権利を要求したりすることがあり得た。
 稀な場合、通常は雇用者が工場の閉鎖を選ぼうとした場合だが、労働者委員会は、自分たちで工場の操業を決定した(15)。
 多くの観察者にとって、こうした事態は『アナーキー』で『カオス』だった。
 多くの別の観察者にとっては、これは下からの『民主主義』だった。
 --------
 (16) 七月の危機の後で、臨時政府は社会主義者が多数派になるよう再構成され、社会主義者で法律家であるAlexander Kerensky が率いた。この臨時政府は、このような権力の断片化と国家の弱体化を許容できなかった。
 臨時政府は、『アナーキー』に対する戦争を宣告した(16)。
 しかし、政府の、当時に称された『国家主義』〔statism〕は、状況を悪化させたにすぎなかったかもしれない。次の政治的危機を誘発し、そうしてさらに、国家の権威を弱いものにした。
 七月事件は、間違った危険を明らかにし、間違った解決策を生んだものだったかもしれない。すなわち、容易に判別できるボルシェヴィキによる騒乱の脅威によって、より大きい、より困難な、社会的、民族的、地域的な両極化と断片化の脅威が、覆い隠された。
 臨時政府は7月に、それが理解する脅威に応じて、数百人のボルシェヴィキ指導者を逮捕した(逮捕を逃れて隠れた多数の中にレーニンがいたけれども)。
 市民的自由は公共の秩序のために制限された。
 死刑が前線にいる兵士について復活した。叛逆、脱走、戦闘からの逃亡、戦闘の拒否、降伏への煽動、反抗、あるいは命令への不服従すらあったが、これらにより野戦法廷で有罪と宣告された者たちについてだった。
 ペテログラードでの街頭行進は、つぎの告知があるまで禁止された。
 そして、将軍のLavr Kornilov が、この人物は軍事的かつ公民的な紀律の擁護者として保守的界隈で尊敬されていた、屈強な気持ちをもつコサックだったが、新しい最高司令官に任命された。
 Kerensky 首相は、騒擾を克服できる強い政治的実行者だと見られるのを望んだ。
 彼は七月事件の際に暴徒と闘って殺されたコサックたちの葬儀で演説をし、こう宣言した。「アナーキーと無秩序を助長する全ての企ては、この無垢の犠牲者たちの血の名において、容赦なく処理されるだろう」(17)。
 おそらくは象徴的な動きとして、また安全上の理由から、Kerensky は、臨時政府の役所を冬宮(Winter Palace)へと移した。
 ——
 つづく。

2764/M.A.シュタインベルク・ロシア革命②。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 --------
 第三章/1917年
 第一節②
 ——
 (06) 総じて、とくに1917年の初めは、他者に対する優越をめざす闘いと同様に、権力こそが理解すべき問題だった。
 臨時政府とソヴェトはいずれも、正統性と権威の範囲について、不確かさを感じていた。
 強く正当性を信じた臨時政府のリベラルな指導者たちは、悲しくも、自分たちの本質は閉鎖されたドゥーマによる自己任命の委員会だと分かっていた。自分たちは限定的な、偏った基盤のもとで選出されていた。
 『臨時』という(新しい政府について彼らが選んだ)名前は、適正な民主的選挙が実施されるまでの一時的なものとしてのみ彼らは国家権力を受け取った、ということを完全に明瞭にしていた。民主的選挙の実施は、正統性のある国家秩序を確立する基盤を形成する憲法会議〔憲法制定会議, Constituent Assembly〕の選出のために必要だった。
 ソヴェトはそれが代表する社会集団のために政府の諸政策と行動に決まって反対し、労働者と兵士たちを街路上に送り込む力は彼らを現実的な政治的権力に変えることになる。しかし、社会主義者の指導者たちは、自分たちの役割は全国民を代表することではなく、特定の階級を擁護するすることだと、強く主張した。
 彼らにとって、『ソヴェト権力』を語ることは受け容れ難いもので、馬鹿げてすらいた。
 社会主義指導者たちの政治的躊躇を生んだのは、イデオロギー上の信念、歴史に関する思想、現実に関する見方だった。
 彼らは、革命のための自分たちの当面の任務は民主制と市民権を確立することだと考えていた。伝統的に(とくにマルクス主義の歴史観で)リベラル・ブルジョアジーの歴史的役割と想定されてきた諸任務だ。
 この階級を打倒して社会主義を樹立するという考えは、せいぜいのところ時期尚早で、自殺するようなものですらあった。進行中の戦争を考慮しても、また、そのような急進的な実験をするにはロシアは社会的、文化的にきわめて未成熟であるがゆえに。
 ソヴェトの指導者たちは、政府を支配するのではなく政府に影響を与えようとしていると明確に述べた。躊躇しているが適切に力づけられた『ブルジョアジー』を共和国の建設、市民権の保障へと、そして将来の憲法会議のための選挙の準備へ向かわせることが必要だ、と。
 --------
 (07) 臨時政府は、市民的、政治的改革の大胆な政策を打ち出した。—数千人の政治的犯罪者や流刑者を釈放した。言論、プレス、集会、結社の自由を宣言した。労働者がストライキをする権利を是認した。笞打刑、シベリアへの流刑、死刑を廃絶した。民族または宗教による法的制限を撤廃した。フィンランドに憲法を回復した。ポーランドに独立を約束した。ロシアと帝国全土の地方行政の仕組みにより大きな権限を付与することに一般的に賛成した。女性に投票する権利や役職に立候補する権利を保障した(当初は若干の躊躇いがあったが、女性労働者の路上示威行進を含む女性たちの抗議にすみやかに屈した)。そして、普通、秘密、直接、平等の選挙権にもとづく憲法会議選挙の準備を開始した。
 こうした改革は確かに、当時の世界で最もリベラルなものだった。言葉だけではなく、行動の点でも。
 しかし、政府は、三つの深刻な問題を解決するのは、イデオロギー的と実際的の両方の理由で困難であることも分かった。
 第一に、より多くの土地を求める農民たちの要求を、ただちには満足させることができなかった。
 臨時政府はたしかに、土地改革の作業を始めた。
 しかし、財産権の再配分に関する最終的決定を行なうには本当の民主主義的権威をもつ政府の樹立を待たなければならない、とも主張した。
 第二に、経済的な不足と混乱を解消することができなかった。
 これには少なくとも、リベラル派としては受け容れられない、社会的、経済的な政府による統制をある程度は必要としただろう。
 第三に、戦争を終わらせることができなかった。
 それどころか、ロシアを戦闘から一方的に撤退させるするつもりはなかった。彼らは戦闘を、民主主義諸国のドイツの軍国主義と権威主義に対するものだと見なしていた。
 --------
 (08) ペテルブルクはロシアではない。Nikolas 二世はそう言うのが好きだった。国内の農民や町の住民は忠実な民衆で、厄介な首都居住者のようではなかった。
 しかし、二月の革命はただちにかつ強いかたちで、ロシアと帝国じゅうに広がった。
 地方の町々では、熱狂的な示威行動者が街路を埋め尽くした(最初は地方警察とコサックが解散させた)。彼らは、革命的な歌をうたい、新しい秩序を支持する旗を掲げ、長時間の抗議集会に参加した。
 諸政党とソヴェトが設立された。
 新しい地方政府は、旧体制を維持しようとする軍隊や警察を武装解除させた。そして、地方の官僚組織を新政府を支持する行政担当者に変えた。
 帝国の非ロシア地域では、少数民族の自治を要求するという重要な事項が加わって、同様のことが展開した。
 実際のところ、首都以外での最も直接の革命の効果はおそらく、強い地方主義〔localism〕だった。その理由はなかんずく、ペテログラードにある政府には地方で権力を行使する手段がなかったことだ。
 民衆のほとんどが住んでいる村落では、農民たちは、彼らなりの支持方法と熱狂でもって、革命の報せに反応した。旧体制の役所と警察を掌握し(ときには叩きのめし)、村落委員会を組織し、とりわけ、聞こうとする者全てに対して、革命の主要な目標は現実に耕作している者たちの手に全ての土地を譲渡することであるべきだと語った(7)。
 --------
 (09) 1917年の危機的事件のいずれにも、直接的かつ具体的な原因があった。すなわち、外交文書の漏洩、急進者による路上示威運動、軍事クーの企て、ボルシェヴィキの蜂起。
 しかし、全ての危機のより深原因は、多数の当時の人々およびのちのたいていの歴史家の見解によれば、教養あるエリート層と一般民衆のあいだの『越え難い亀裂』にあった。
 あるリベラルな軍事将校は3月半ばに、各層の兵士たちの中での経験にもとづいて家族に対して、一般民衆の考えをこう説明した。「起きたのは政治的革命ではなく社会的革命だった。そこでは、我々は敗北者で、彼らは勝利者だ。…以前は我々が支配したが、今では彼ら自身が支配しようとしている。彼らが語る言葉の中には、過去何世紀にもわたる、仕返しされていない侮蔑がある。共通する言語を見つけることはできない。」(8)
 この階級間の亀裂は、『二重権力』という編成体制をますます脅かすことになった。この体制自体がこの分裂を具現化したもので、1917年の経過と結果を形づくることになる。
 --------
 (10) 戦争は、新しい革命政府にとって、最初の危機の主題だった。
 臨時政府は、帝制政府の併合主義的戦争遂行の放棄を求めるペテログラード・ソヴェトの圧力を受けて、3月後半につぎの宣言文を発した。「自由ロシアの目標は他国民衆の支配ではなく、彼らの財産の奪取でもなく、外国領土の力づくでの掌握でもない。これらではなく、民族自決を基盤とする安定した平和を支えることだ。」(9)
 同時に、外務大臣の Paul Miliukov は連合諸国に外交文書を送って、勝利するまで戦い抜くと決意していること、敗戦国に対しては通常の『保証金と制裁』を課すのを用意していること、を伝えた。これは多くの人々の想定では、1915年に連合諸国と協定したように、ロシアがDardanelle 海峡とConstantinople を支配することを含んでいた。
 この文書の内容がプレスに漏れ、4月20日に報道されたとき、その効果は爆発的なものだった。なぜなら、ペテログラード・ソヴェトと臨時政府自身が発した宣言が示す外交政策方針と直接に矛盾していると見えた。政府の宣言はソヴェトに対する偽善的な休止のようだった。
 武装兵士を含む、激怒して抗議する大群衆が、『Miliukov-Dardanelskii』、『資本主義者大臣』、『帝国主義戦争』を非難して、ペテログラードとモスクワの路上を行進した。
 Miliukov は辞任を余儀なくされ、内閣は社会主義者を含むように改造されなければならなかった。このことは民衆の政府への信頼を回復するのに役立った。しかしまた、ソヴェトを指導する諸政党を、政府の将来の失敗について責任のある立場に置いた。
 主要な社会主義政党の中で『ブルジョア』連立政府に加わることを全党員に許さなかった政党が一つだけあった。レーニンがまだ主流派でなかった、ボルシェヴィキだ。
 --------
 (11) ソヴェト指導部は、彼らへの支持を高めるべく、6月18日の日曜日に、ペテログラードでの『統一』示威行進を組織した。
 掲げられたスローガンは、『革命的勢力は団結せよ』、『内戦をするな』、『ソヴェトと臨時政府を支持する』等だった。
 この反面で起こったのは、あるソヴェト指導者の回想によると、『ソヴェト多数派とブルジョアジーの顔への、ピリッとした瞬時の一打ち』だった」(10)」。
 ソヴェト支持のスローガンがあちこちにある真っ只中で、行進者が掲げる旗の多くには、ボルシェヴィキのスローガンが書かれていた。例えば、『10人の資本主義者大臣はくたばれ』、『彼らは闘う用意をするよう約束して我々を騙した』、『あばら小屋に平和を、宮殿に対しては戦争を』、そして徐々に有名になっていた『全ての権力をソヴェトへ』。
 ——
 つづく。

2763/M.A.シュタインベルク・ロシア革命①。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 この書物の構成・内容はつぎのとおり。
  *謝辞
  *目次
 序説—ロシア革命を経験する
 第一部・史料と物語
  第一章/自由の春—過去を歩む
 第二部—歴史
  第二章/革命・不確実性・戦争
  第三章/1917年
  第四章/内戦
 第三部—場所と人々
  第五章/街路の政治
  第六章/女性と村落での革命
  第七章/帝国を打倒する
  第八章/夢想家たち
 結語—未完の革命
  *文献
  *索引 p.371-p.388.
 --------
 第三章から始める。
 原書にはない段落番号を付す。一行ごとに改行する。原書での” ”は『』で表現し、イタリック体強調の文字は<>で挟む。
 注記(章のあいだにある)の内容は訳さず、注番号だけ残す。
 章のあいだに「* * *」の一行が挿入されていることがある。章内の大きな区切りと理解して、前後を「節」で分ける。
 ——
 M. A. シュタインベルク・ロシア革命 1905-1921 (Oxford, 2017)
 第三章/1917年
 第一節①
 (01) 歴史家は多様なかたちで1917年の物語を記述してきた。
 とくに、学問分野としての歴史学の進展は、1917年をどう理解し、解釈し、叙述するかを変化させてきた。—この「科学的」理性は、政治的およびイデオロギー的な好み(革命、社会主義、リベラリズム、国家、民衆の行動—むろんソヴィエト同盟自体—について歴史家がどう考えるか)や、また倫理的価値観(歴史家が例えば不平等性、社会的公正、暴力についてどう考えるか)とすら、不可分に絡み合ってきたけれども。
 我々が研究する人々にとってもそうだが、歴史家たちには、『歴史』と称している記述はどのような性格のものであるかにについて、考え方に分かれがある。
 近年に変わった主要なことは、一般の人々(とくに兵士、労働者、農民)、女性、少数民族、地方、帝国の辺境に対してもっと注意を向けるべく、政治指導者たち、国家制度、地理的中心部、男性、ロシア民族からいくぶんか焦点を逸らしたことだ。
 さらにもっと最近では、学者たちの関心は主観的なもの〔subjectivities〕へと向かっている。—人々が語る考え方や要求へとのみならず、価値観や感情という曖昧な領域へと。このことは、歴史という記述の様相をさらに豊かにし、かつ複雑にしている。
 しかしながら、学者たちは最近でも、歴史を形づくるに際しての大きな構造〔structures〕の重要性をあらためて強調している。すなわち、経済の近代化、資本主義、法制、イデオロギーや思想の世界的潮流、国際関係、戦争。
 もちろん、こうした異なる研究方法は相互に排他的なものではない。
 これらは多様なかたちで結びついてきた。—私がこの書物でそうするように。
 --------
 (02) 1917年の大きな危機的事件、それはとくに首都ペテログラードで発生したのだったが、革命に関する標準的な記述の基礎になっている。すなわち、帝制を転覆させた二月革命、戦争継続に関する四月危機、蜂起に近かった七月事件、八月に起きたKornilov の反乱の失敗、そして、ボルシェヴィキが権力を掌握した十月革命。
 これらの事件の背後にあるのは、因果関係〔causation〕の物語だ。戦争の推移、経済の崩壊、社会的格差の拡大、政府の失敗。
 この因果関係は、我々には最も馴染みのある、歴史の記述の方法だ。—説明可能な原因と重要な結果を結びつけて諸事件を語ること。
 除外したことも含めて、このような方法に馴染みがあっても、このことは諸事件の必然性を語るのと矛盾はしない。
 のちの章では、別の観点から1917年に立ち戻ることにしよう。
 しかし、これら諸事件と諸経緯は、最も重要な構造と基盤だ。
 そして、珍しいことに、たいていの歴史家は、何が起こったか、なぜ、何が変わったかについては合意している(1)。
 --------
 (03) 最初の危機は2月23日(3月8日)に始まった。その日、ペテログラードの数千の女性織物労働者たちが工場から路上に出た。パンと食糧の不足に抗議するためだった。また、国際女性デーを記念してだった。これに加えて、首都その他の都市のきわめて多数の男女がすでにストライキに入っていた。
 この危機は都市と国土じゅうにすみやかに広がった大混乱であり、数日を経て、政府は打倒された。このことは、権力をもつ者たちには驚きではなかったはずだ。
 首都に潜入していた秘密警察の要員たちが1917年1月頃に報告書で述べていたのは、「市民の広範囲で権限をもつ者たちに対する憎しみの波」(2)が高まっていたことだった。
 増大する民衆の怒りは、戦争による損傷により、悪化する絶望的な経済状況により、とくに食糧不足と物価高騰により、いっそう激しくなった。また、無関心であるか無能であるかのいずれかと見えた国家の諸政策によっても。
 大衆の雰囲気に敏感だった支配エリート層の中には、民衆の不満を反映した思いが生まれた。すなわち、戦争遂行や自分たちの政治的、社会的な地位の維持は下級の階層の騒擾によって危うくなる可能性がある、という恐怖。
 数を増やしつつ労働者男女が首都の街路に出てくるとき、連呼の声、旗、演説はパンを要求したが、同時にまた、戦争の終止と専制の廃止も要求した。
 学生、教師、ホワイトカラーの労働者たちが、民衆に加わった。
 暴力行使が散発して起きた。とりわけ店舗のショーウィンドウは破壊された。
 棒や金物の一部、岩石、そしてピストルをもつ者も、行動者の中にはいた。
 社会主義活動家はそうした運動を激励したけれども、彼らには現実の指導力または方向指示能力がなかった。
 運動は、不安を解消する熟慮した行動であるというよりは、不満の発現だった。
 そのようなものとして、社会主義者たちは諸行動を、『革命』ではなく『騒擾〔disorder〕』だと見なした(3)。
 あるいは、前線にいるNicholas 二世に書き送った皇妃 Alexandra の侮蔑的な見方によれば、示威行動者たちの行動は自分たちのために耳障りな騒乱を起こしている『フーリガン運動』だった(4)。
 --------
 (04)  皇帝は情報を十分に与えられず、何が起きているかを理解することができなかったので、その反応は過信と不寛容が致命的に入り混じったものだった。
 皇帝は2月25日、ペテログラード軍事地区司令長官に対して電報を打った。それには、つぎの致命的な文章があった。—「貴君に命令する。明日、首都の騒擾を終焉させよ。この騒擾は、ドイツ、オーストリアと戦争している困難な時期には受け容れ難い」(5)。
 警察と地方連隊兵士たちはこの命令に従い、民衆を攻撃し、傷つけ、殺害した。
 政府官僚たち、そして社会主義指導者たちは、これで事態は鎮静化したと思った。
 しかし翌日、兵士たちが示威行動者たちの側に立って街路上に出現した。
 首都の軍事的権力の有効性が崩壊したとなって、権力空間にパニックが生まれた。とくに、混乱が国土じゅうの諸都市に広がり、各地方の連隊兵士たちがしばしば路上の示威運動者たちに加わったので。
 2月27日、内閣はドゥーマ〔State Duma, 議会〕を延期し、ドゥーマの指導者(政府の改革だけがロシアを鎮静化でき、戦争継続を可能にすると執拗に主張し続けた)を、大混乱の責任があると非難した。そのあと、内閣の大臣たち自身が辞職した。
 おそらく最も決定的だったのは、最上層の軍事指導者たちがこうNicholas二世を説得したことだ。ドゥーマが支配する新しい政府のみが『気分を鎮める』ことができ、『全国土に拡大する無政府状態』を止めることができる。今の状態は、軍の解体、戦争遂行の終焉、『極左〔extreme left〕分子による権力の掌握』(6)につながるだろう」、と。
 自分の将軍たちにまで反乱が及んでいる事態に直面し、Nicholas は裏切られたと感じた。だが、自分には選択の余地がないことを理解した。
 戦争を継続し、君主制を守ることを望んで、彼は3月2日に退位し、弟のMikhail を後継者に指名した。弟は妥協をより好むと考えられていたのだったが。
 Mikhail は皇位の継承を拒んだ。これが、300年続いたRomanov 王朝を劇的に終わらせ、ロシアを事実上の共和国にする、静かな意思表示だった。
 しかし、革命は始まりにすぎなかった。
 --------
 (05) 1917年の残りの期間は、誰が権力を握り、維持するかに関する闘いが生んだ、一続きの危機だった。
 この闘いの大部分は、『二重権力』という独特の装置によって具体化された。『二重権力』とは、ペテログラードの労働者と兵士の代表者のソヴェト(評議会)と新しい臨時政府のあいだの、緊張した政治的関係を意味した。
 (前者は工場と連隊での選挙によって選出されるのだが、すみやかに労働者、兵士、農民の代表者の全国ソヴェトになった。そして、全国の地方ソヴェトによって、首都へと代議員が派遣された。後者はペテログラード・ソヴェトと協定をしたドゥーマの議員たちによって設立された。)
 しかしこれは、『二重権力』の最も主要な側面にすぎなかった。それは本当は、帝国全体の現象であり、国家のほとんど全ての政治的関係で具現化された。すなわち、軍隊では将校層と兵士委員会のあいだ、工場では経営側と労働者委員会のあいだ、村落では伝統的共同体と農民委員会のあいだ、学校では学校管理者と学生評議会(ソヴェト)のあいだ、の政治的関係。
 世代は、この物語の一部だ。つまり、委員会、これはソヴェト『階級』とも称されるが、若者で構成される傾向があり、その若者はしばしば前線から帰還した兵士たちだった。
 二重の権力は、実際にそうだったよりも単純なものに見えている。実際には、両者のあいだの協力や対立の程度は、国じゅうで、また時期によって変化したし、変更可能なものだった、というだけではない。帝国の広い部分で、地方の少数民族あるいはその他の集団を代表する団体は、以上のような政治的関係をさらに複雑にしていた。
 ——
 つづく。

2760/レフとスヴェータ30—第11章①。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
 第7章末まで終わっている。第8章〜第10章は、さしあたり割愛。 
 これは、Orlando Figes 作の「小説」ではない。
 第二次大戦が終わっていた1953年、レフ(Lev)は北極海に近いペチョラ(Pechora)の強制労働収容所にいた。スヴェータ(Svetlana)は、モスクワにいた。  
 --------------------------------------------- 
 第11章①。
 (01) スターリンは、1953年3月5日に死んだ。
 彼は脳発作に襲われ、5日間意識不明で横たわった後に死んだ。
 その病は、ソヴィエトの新聞では3月4日に報道された。
 レフは2日後、スヴェータに書き送った。
 「この新しい知らせを、少しも予期していなかった。
 このような場合、現代の医薬の重要性がきわめて明瞭になる。//
 重要な人々が病気になったとき、自然のなりゆきより少しでも長く人間の健康を維持することが不可能であることが、完全に明らかになる。」
 --------
 (02) スターリンの死は、3月6日に全国民に発表された。
 3日後の葬儀まで、彼の遺体は赤の広場近くのthe Hall of Columns に安置された。
 巨大な群衆が、敬意を示すべく訪れた。
 首都の中心部は、涙ぐむ送葬者で溢れた。彼らはソヴィエト同盟の全ての地域から、モスクワに旅してきていた。
 数百人が、押しつぶされて死んだ。
 スターリンを失ったことは、ソヴィエトの人々には感情的な衝撃だった。
 ほとんど30年近く—この国の歴史で最も精神的打撃を受けた時代—、人々はスターリンの影のもとで生きた。
 スターリンは、彼らには精神的な拠り所だった。—教師、ガイド、父親的保護者、国民的指導者で敵に対する救い主、正義と秩序の保証人(レフの叔母オルガは、何らかの不正があったとき、「いつもスターリンいる」と言ったものだった)。
 人々の悲しみは、彼の死を受けて感じざるをえない当惑についての自然な反応だった。スターリン体制のもとでの人々の体験とはほとんど関係なく。
 スターリンの犠牲者ですら、悲しみを感じた。//
 --------
 (03) レフとスヴェータは、他の者たちと同じく、3月6日にラジオでこのニュースを知った。
 大きな衝撃と昂奮の状態にあり、二人ともに、本当にどう感じたのかを語ることができなかった。
 レフは3月8日に、こう書いた。
 「スターリンの死を全く予期していなかったので、最初は本当のことだと信じるのが困難だった。
 そのときの感情は、戦争が始まった日のそれと同じだった。」
 重大な報せについて、レフはそれ以上、付け加えなかった。労働収容所に関する政策の変化が生じ、早期に自分が釈放されるのではないかと望んだに違いないけれども。
 スヴェータもまた、用心深かった。だが、この人生の転機となる可能性のあるラジオ放送があったことで、レフと結びついて生きてきたことの喜びを隠すことができなかった。
 3月11日に、レフにあてて書き送った。
 「モスクワで先週にあったようなことは、今までなかった。
 そして何度も思いました。ラジオが発明されて、人々が同じことを同じ時に聞けるのはなんと素晴らしいことか、と。
 新聞があるのも、よいことです。
 今までより頻繁に語りかけるつもりですが、感じていることを数語で明確に語ろうと考える必要はないのだから、今はしません。」//
 ---------
 (04) スターリンの死が明からさまな喜びでもって歓迎された一つの場所は、労働収容所や収容所入植地区だった。
 もちろん例外はあり、当局または情報提供者による監視が収監者たちの喜びの表現を抑えた収容所もあった。だが、一般的には、スターリンの死の報せは、歓喜の声の自然発生的な爆発でもって迎えられた。
 レフは、「誰一人、スターリンのために泣きはしなかった」と思い出す。
 収監者たちは疑いなく、スターリンは自分たちの惨めさの原因だ、と考えていた。そして、そうして安全だと分かったときは、恐がることなくスターリンに対する蔑みの言葉を発した。
 レフは、1952年10月以降の事態を思い出す。その10月、彼の営舎の仲間たちは、党中央委員会最高幹部会での選挙の結果について、ラジオ放送に耳を傾けた。
 候補者たちが獲得した投票数が次々と読み上げられ、それが終わった後でアナウンサーは言った。「Za Stalina !! Za Stalina !!」(「スターリン万歳 !! 」)。
 収監者のうち何人かは、その代わりに「Zastavili !! Zastavili !!」(「強制だ !!」)と唱え始めた。これは、選挙は不正だ、ということを意味した。
 誰もがこれに加わり、この冗句を愉しんだ。//
 --------
 (05) 収監者たちの間では、スターリンの死によって釈放されるだろうと、一般に推測された。
 3月27日に政府は、5年以下の判決に服している受刑者の恩赦を発表した。これらは、経済的犯罪者とされた55歳以上の男性、50歳以上の女性および治療不可能の病気をもつ受刑者だった。ーつぎの数ヶ月間に、約100万の受刑者が釈放される見通しだった。
 木材工場では、1953年中に恩赦の対象になるのは、受刑者数のおよそ半分だった(1263名から627名へと減る)。
 釈放される者たちのほとんどは犯罪者だった。この者たちは暴れ回り、店舗から略奪し、家屋から強奪し、女性を強姦し、町中でテロルを繰り広げるまでになった。
 レフは〔1953年〕4月10日に、スヴェータにこう書き送った。
 「我々の仲間の何人かはもう外に出て、意のままにペチョラを徘徊している。
 彼らは、あらゆる機会を利用して、力ずくで盗んでいる。
 最悪の者たちは、自由気儘にやっている。
 髭を生やした見映えのよい、Makarovだ。…この人は武装強盗をして8年間服役した。
 Kolya Nazhinsky も、いなくなった。—この人は6キロの粥〔kasha〕を盗んで1947年にはここにすでに10年間いた。
 そして、去年に仲間の一人から300ルーブルを盗み、Nやその隣人から少しずつ金をくすねた。
 でもしかし、みんなはこの人の愚かさと彼に対する元々の判決の不公平さを憐れむばかりだ。この判決がなければ、彼は窃盗をしなかっただろうから。」//
 --------
 第11章②((06)〜)へとつづく。 

2622/B.ローゼンタール・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編第7章第一節②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 = B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。  
 ——
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
 第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
 第一節・レーニン教(the Lenin Cult)②。
 (06) レーニンは、写真家 Gustav Klutsis(1895-1938)の好みの客体だった。 
 Klutsis は、アヴァン・ギャルドが幾何学的様式で描いていた1920年にはすでに、プロパガンダには画像が必要だ、と主張していた。
 彼のモンタージュ写真は、巨大な人物群で覆われていた。それは、新しい世界は社会主義で創造されるという、赤裸々に視覚的に訴えるイメージを描いていた。
 「全国土の電化」(1920年)は、地球にまたがり、電力塔を運ぶ巨大なレーニンの風貌を捉えている。(注11)
 Klutsis は、レーニンに捧げる一連のモンタージュ写真を製作した(一つはMayakovsky の「ウラジミール・イリイチ・レーニン」の出版本に使われた)。また、「レーニンと子どもたち」と題する本の挿入画像を描いた。
 Klutsis は、「レーニンは生きている!」を証明すべく、群衆の光景にレーニンの肖像を挿入した。例えば、1927年のモスクワ・全同盟オリンピックでの競技者たちの中に。
 彼は圧力をかけられて第一次五カ年計画の初期の集団的人物像を描いたと言われたが、それでもなお、レーニンおよび(または)スターリンは、何らかのかたちで描かれた。//
 ----
 (07) レーニンの遺体を保存すると決定したことは、聖人は腐敗しないとのロシア人の信仰に入り込んだ。そして、異なる次元では、ニーチェ/Fedorov の不死の超人という考え方に入り込んだ。
 遺体が腐朽し始めたとき、不朽化委員会は防腐処理を行なうと決定した。
 スターリンとKrasinは、彼は以前はVperedist〔レーニンに批判的な一派〕でFedorov を尊敬していたのだったが、この委員会を指揮した。
 防腐処理された遺体が1924年8月に展示されたとき、党のプレスはソヴィエト科学の専門性の高さを自慢し、手続や遺体に関して奇蹟は何もないことを明らかにしようとした。
 それは、霊験のある遺物ではなかった。 
 暗黙のうちに、ソヴィエトの科学は、キリスト教だけが約束できたもの—人の不死—を達成していたのだろう。
 偉大な人物だけが復活するというKrasin の信念については、何も語られなかった。//
 ----
 (08) 職業は技師であるKrasin は、爆発物を製造し、1905-7年には密輸入と「収奪」に従事していた。そして、Bogdanov やスターリンと緊密になって活動していた。(注12)
 Krasin は、Granat 百科辞典のための自伝的小論で、Vperedに言及したり自分がレーニンに同意しなかったことを記すことをしなかった。
 監獄でドイツ語を学習したこと、GoetheやSchiller のほとんど全ての著作を原語で読んだこと、「Schopenhauer とKant を発見し、Mill の論理とWundt の心理学を全般的に研究した」こと(これは神話の原型の考え方を含んでいた)、は記した。(注13)
 ニーチェに言及するのは賢明ではなかっただろう。だが、広く読書していたKrasin は、確実に、ニーチェの思想をよく知っていた。//
 ----
 (09) Krasin は1920年に、「科学が全能になるときが来るだろう、科学は死んだ有機体を再生させることができるだろう」と予言していた。
 彼は同様に、「科学と技術の全ての力を使った人類の解放が、偉大な歴史的人物を復活させることができるときが来るだろう」ことを確実視していた。(注14)
 レーニンは、明白な選択肢だった。
 Krasin は1924年2月に、レーニンの墓標の世界的重要性はMecca やJerusalem を上回ると主張し、プレス、労働者や党の集会で、大々たるプロパガンダ運動の一つとして聖廟に関する議論を行なうように迫った。
 彼はすでに、レーニンを記念する祝祭の周りに民衆の想像力を動員する運動の始まりとして、聖廟の設計コンペをすることを発表していた。//
 ----
 (10) Krasin が望んだのは、聖廟に演説者の講壇を設けることだった。これは、聖廟を劇場型寺院に変えるだろう(Ivanov の考え)。
 勝利した設計案は、これを含んでいなかった。しかし、聖廟は全く同様に機能した。
 レーニン聖廟は、世界の共産主義の中心たる神宮になった。
 構築主義芸術家のVladimir Tatlin(1885-1953)は、一つの巨大な講堂、ラジオ局と二、三百の電話機を備えた一つの情報官署をもつ建築物を造る、そのような工学技術の勝利を聖廟が示すことを願った。
 Malevich は、レーニンの遺体を立方体(cube)(四次元の象徴)の中に置くことを提案した。そして、「活動する全てのレーニン主義者は自宅に、カルトを象徴する物質的基盤を設けるべく立方体を置くべきだ」と言った。(注15)
 彼は、音楽と詩を備えた完全なカルトを、ロシアの家庭に聖像(icon)の間の代わりにレーニンの間が設けられることを、思い描いた。 
 立方体(cube)は「ピラミッドの力」をもつソヴィエトの装具になるだろう。Giza の巨大ピラミッドの神秘さをもつ民衆の熱狂物に。//
 ---
 (11) 勝利した建築家のAleksei Shchusev(1873-1941)も、聖廟を立法体の形で建築することを提案した。
 彼の最初の素描の一つには実際に、三つの立方体があった。これは、聖三位一体神を近代主義的に表現したものだった。
 彼は革命以前は教会を設計しており、世界の建築運動とも関係していた。
 Shchusev は1905年に、教会建築家たちに対して、中世のロシアの芸術の「美しさと真摯さ」を「創造的に手本にする」ことを要求した。「古い形態を模写して修正する—これは堕落だ—ではなく、民衆と神の間の親交の場所という昔の考え方をかつてと全く同じように美しくかつ真摯に表現する新しい形態を創造する」のだ。(注16)
 ソヴィエトの建築分野の政界で、Shchusev はつねに、新古典派の立場にいた。しかし、彼はまた、建築家は「新しいロマン主義を、革命的熱狂のロマン主義を」表現しなければならない、とも公言した。(注17)
 聖廟についてのShchusev の完璧な簡潔さは、精神の上では近代主義的だった。
 それは結局のところは、立方体だった。
 最初の霊廟は、木材で造られた。
 それが公開されたあとすみやかに、石製の聖廟作りが発表された。
 設計のためのコンペがもう一回行なわれ、Shchusev が勝利した。
 建築家のKonstantin Melenikov(1890-1974)は、石棺の意匠についての権利を得た。
 建設は1929年7月に始まり、1930年10月、この計画についてスターリンに関心があったために、予定よりもほとんど4年前に、完成した。//
 ----
 (12) レーニン・カルトは、学問に対して大きな影響を与えた。
 1923年には、レーニンの著作物を研究するためのレーニン研究所、レーニン博物館が創立された。
 モスクワ大学でのレーニン主義のセミナー、党とレーニン主義に関する諸講座が、1924-25年に設けられた。
 やがてボルシェヴィキおよび非ボルシェヴィキの学者や党活動家たちは、彼らの見解をレーニンの適切な引用でもって防御するようになった。こうして、レーニンが何気なくふと語った言葉は、ドグマ(dogma、教条)に変わった。//
 ——
 第7章第一節、終わり。 

2621/B. ローゼンタール・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編第7章第一節①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。  
 「第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927」の「序」の試訳を昨年12月に終えている。
 つづく第三編のいわば「本文」はつぎの二つの章で成っている。
 第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
 第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。
 前者の第7章は、つぎのように構成されている。
 序、第一節・レーニン崇拝(カルト)第二節・新しいソヴィエト人間第三節・プロレタリア道徳
 以上のうち、第7章の序と第一節だけ試訳し、その余の部分、および第8章全体は、さしあたり割愛する。
 ——
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
 第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
 ----
 序。
 ボルシェヴィキは、十月革命と内戦を単一の「叙事詩的出来事」として描いた。それを彼らは神話化し、人類史上の重要性があるものと考えた。
 地獄は過去のもので、貧困と抑圧の支配もそうだった。
 地上の天国はまだ将来のものだったが、創造されつつあった。
 新しい人間も、創造されつつあった。だが、その性質については争いがあった。
 提示されたモデルには、ニーチェ的特徴(traits)があった。—その特徴がそのモデルに依拠していた。
 新しいプロレタリア道徳は社会主義を目ざす仮借なさ、激しい労働、闘争を、そしてまた、「ブルジョア」的慰安と便宜に対する侮蔑心を要求した。
 レーニン個人崇拝(the Lenin Cult)は、ボルシェヴィキの神話に対して、「闘う英雄」、新しい儀礼、寺院—レーニンの霊廟—を与えた。(注1) //
 ---- 
 第一節・レーニン・カルト(the Lenin Cult)①。
 (01) (レーニン暗殺が企てられた)1918年のその始まりから、レーニン死後の綿密な努力と体系化へと至るレーニン個人崇拝の物語は、Nina Tumarkin によって書かれている。ここで繰り返すつもりはない。(注2)
 その聖典となったものはよく知られており、その機能についても同様だ。すなわち、レーニンは死んだが、その教条は生きている、との意図を打ち込むことによって、レーニンの正統な後継者としての党の周りに大衆を結集させること。
 私のここでの目的は、そのニーチェ的根源を明らかにすることだ。ニーチェ的根源の中には、聖典と混じり合っているものがある。
 レーニン個人崇拝は、ボルシェヴィキの神話創造における新しい段階を画した。
 一つには、神の建設にはアポロ的聖像、キリスト教的意味での偶像(icon)が欠けていた。
 そして、レーニンの人格像(persona)が、この隙間を埋めた。//
 ----
 (02) レーニンに超人を演じさせることで、彼に関するあらゆる種類の誇張が成立した。
 レニングラード・ソヴェトの副議長だったGrigory Evdokimov は、賛辞の中でこう書いた。
 「世界の最も偉大な天才が逝った。
 思想、意思、仕事の巨人が死んだ。
 数億万の労働者、農民、植民地奴隷たちが、力強い指導者の死を哀悼している。 
 その墓場から、レーニンは、その完全な姿でもって、世界の前に立ちあがる。」(注3)
 検死作業は、あたかもレーニンの超人間的な地位を明白に証明しているがごとくに、彼の巨大な脳について報告した。
 Lunacharsky の言葉では、「共産主義世界の聖人、…その創造者、その闘士、その殉難者は…、過度の、超人間的な、膨大な仕事でもってその巨大な脳を破壊した」。
 我々はレーニンのうちに、「大文字のMan を見た」(Gorky の1903年の小論の引用)。
 彼へと「熱線と光線が集中している」。(注4)
 レーニンは、共産主義普遍世界の太陽だった。//
 ----
 (03) 葬礼は、劇場化された儀式だった。
 スターリンの賛辞にある正教に類似の調子には、馴染みのある礼拝の形態でのボルシェヴィキ神話の雰囲気があった。
 別の挨拶の中で、スターリンは、のちには彼のものとされた資質(謙虚さ、論理力)がレーニンにあったと述べた(SW,6,p.54-56)。
 葬礼およびその直後の代表者だったジノヴィエフは、「レーニンの天才性」が「翼をもって」彼自身の葬礼の上を飛んでいる、と語った。
 さらに、「レーニンの思想に激励された一般庶民は、我々と一緒にこの葬礼を即時に催した」と、言った。(注5)
 言い換えると、葬礼は、集団的創造性の産物だった。
 同様の儀式が、国土全体で繰り広げられた。
 トロツキーは葬礼に欠席したが、レーニンに関する彼の論文はしばしば、のちのもっと従順な世代による聖人の伝記の語調に近いものだった。(注6)//
 ----
 (04) Gorkyが書き、外国で出版されたレーニンへの賛辞は、まるで「神は死んだ」と発表するかのごとく、「ウラジミール・レーニンは死んだ」で始まっていた。
 Gorky は、レーニンをこう叙述した。
 「自分で実践に移すことを以前の誰も考えなかった目標に向かって闘う意思をもつ、驚くほど完璧な化身。
 そしてそれ以上に、彼は私には正義の人間の、怪物的人間の、伝説的人間の一人だった。またロシアの歴史で予期されれなかったほどに、ピョートル大帝、Mikhail Lomonosov、レフ・トルストイ等のような意思と才能の人間の一人だった。…
 レーニンは私にとって、伝説上の英雄であり、我々の時代の恥ずべき混沌から、汚辱の『国家主義』の腐朽した血まみれの沼地から民衆が脱する方途を、灯りで照らすために、燃えさかる心で胸を張り裂いている人物だった。」(注7)/
 Gorky は、「老女Izergel」(1895年)での「燃えさかる心」や「沼地」という隠喩を用いていた。これは、彼のロシアでの超人探索の始まりを画する短い小説だった。
 ピョートル大帝は、(20世紀での)ニーチェ的像型だと広く考えられていた。そして、ある範囲の人々によっては、怪物だと。
 Gorky は、レーニンを「怪物」と称することによって、ニーチェがナポレオンを「非人間と超人の統合体」(GM,54)と称したように、レーニンをナポレオンと結びつけていた。
 Gorky の全集では(GSS,17,5-46)、Gorky がレーニンの残虐さを正当化するものとして、「怪物」の語は削除された。
 「レーニンのもとで、おそらくは(Wat·)Tyler、Thomas Müntzer、Garibaldi のもとで以上の多くの人々が殺された。…
 だが、レーニンへの抵抗は、より広くかつより力強く組織されていた。」
 また、レーニンのつぎの釈明も削除された。
 「我々の世代は、歴史的重要性で仰天させるほどの任務を達成した。
 状況によって迫られた我々の残虐さは、理解され、許容されるだろう。
 全てが理解されるだろう。全てだ!」(注8)
 Gorky の無条件の英雄崇拝は、1917-18年の彼の立場(第6章を見よ)からする、彼方からの叫びだった。また、1920年に書いてレーニンを「勇者がもつ聖なる狂気」の模範者だと称賛した論考ですらそうだった。
 勇者の中で、「ウラジミール・レーニンは、第一の人物であり、かつ最も狂気の人物だ」。(注9)
 レーニンはこれを、褒め言葉だとは見なさなかった。//
 ----
 (05) Mayakovsky は、不死の超人/キリストを暗示する言葉を用いて、レーニンを「人間の中で最大の人物」と称賛した。それは彼の長い詩「ウラジミール・イリイチ・レーニン」(1924年)の中でだった。
 「レーニンは、生者以上に生きている」、「レーニンは—生きた。レーニンは—生きている。レーニンは—生きつづけるだろう」という行の部分は、レーニン教(カルト)のマントラ(呪文)になった。
 三連の構成は、「キリストは死んだ、キリストは起きた、キリストは再び現れるだろう」という礼拝文を反映していた。 
 Mayakovsky はこの詩を、ロシア共産党に捧げた。党とレーニンは「双生児」だったからだ。
 「我々が一つを語るとき、別のもう一つを意味させている」。(注10)
 Mayakovsky は同じ詩で、未来主義者の激しい言葉遣いに集団主義の調子を加えた。
 「個人主義者に憐憫を!/団結して爆砕を!/党でもって叩け!/労働者たちは一つの大きな拳に溶け合った。」(p.272)
 党は「百万の指をもつ拳で/一つの巨大な拳で、握られる。/個人—無意味だ。/個人—虚無だ。」(p.283)
 Mayakovsky は、かつて小さな酒神礼賛的合唱でそうしたように、莫大な人民大衆を導こうとした。
 レーニン・カルトは、完璧な目標地点だった。
 アヴァン・ギャルドの雑誌「Lef」は、ある号の全体をレーニンの言葉で埋めた(第8章を見よ)。//
 ——
 ②へとつづく。

2620/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序⑥。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.180-。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
 ----
 
 第四節②。
 (05) Dmitry Furmanov の小説の〈Chapaev〉(1923年)、内戦期の伝説的農民指揮官に関する彼の「日記」では、「意識」(アポロ)は政治行政官(小説上のKlychkov、現実のFurmanov)でもって象徴された。
 Chapaev は、Klychkovによって、「抗いがたく自然発生的なもの全てを、…農民層のあいだに鬱積していた忿懣や不信の全てを、意味させている」。
 「だが、この自然発生的要素がどのように発現するかは、悪魔には分かっている」。
 そうしてKlychkov は、「[Chapaev を]知性的な感覚の虜にして、…啓発する」ことを決意する」。(注20)
 Furmanov は、本当は神話創造(ニーチェの曖昧な考え方のもう一つ)であるものに客観的な報告だとの印象を与えるために、その「日記」に事実と虚偽とを混ぜ合わせた。
 彼は、ボルシェヴィキの行政官の反神話(countermyth)を創り出すために、Chapaev から神話の要素を除去した。//
 ----
 (06) 西側の芸術と思考は、ニーチェの思想のためのもう一つの導管だった。
 政治的および文化的な結びつきは、ソヴィエト同盟を最初に承認した国家であるワイマール・ドイツとのあいだにとくに密接だった。
 表現主義(expressionism)、ニーチェが染み込んだ美学運動は、その影響力が頂点にあった。(注21)
 戦争、革命(1918-19年)、そして経済の崩壊によって政治化したドイツの表現主義には、ソヴィエトの未来主義と多くの共通性があった。
 劇作家のBertolt Brecht(1898-1956)とSergei Tretiakov(1892-1939)の二人は、親友関係と職業的関心で結びついていた。
 Meyerhold は、都市的な扇動的見せ物として、Ernst Toller の〈大衆的人間〉(Masse Mensch)を上演した。その際に、群衆の場面や彼がソヴィエトの観衆にふさわしいと考えたその他の場面を付け加えた。
 ソヴィエトの素人劇場のTRAM の監督たちは、ドイツの監督であるErwin Piscator(1896-1966)やMax Reinhardt(1873-1943)と接触した。
 Lissitzky(Lazar Markovich, 1891-1941)とニーチェの影響を受けた建築家のBruno Taut(1880-1938)は親友だった。
 1921-23年に帰国したエミグレたちは、最新のヨーロッパ思想に馴染んでいた。 
 政治的および文化的な結びつきは、ソヴィエト同盟を承認した第二の国家であるファシスト・イタリアとも密接だった。
 イタリアの文化エリートたちの中には、ニーチェに影響された者もいた。
 Jack London(ニーチェアンかつマルクス主義者だと思い出す)は、きわめて著名だった。
 ロシア人たちは容易に、凍った北部での彼の英雄たちの経験に共感することができた。//
 ----
 (07) Oswald Spengler の〈西洋の没落〉(1922年に〈Zakat Evropy〉(ヨーロッパの衰退)としてロシア語に翻訳された)は、ゲーテ/ニーチェ的原型を発展させた。 
 Spengler は「ファウスト的文化」は「意思の文化」だと、「アポロ的文化」は「古典的文化」だと叙述した。—時代が両者を分かつ。
 Spengler の書物はソヴィエト同盟では発禁となったけれども、ソヴィエトの新聞にはこれに関する記事が掲載され、その内容はロシア語版が出版される前に知識人層に知られていた。 
 Berdiaev とFrank は(ロシアから追放される前に)、〈Oswald Spengler とヨーロッパの衰退〉と題するシンポジウムの開催に寄与した。この会合に対して、Bazarov その他のマルクス主義者たちは、〈Red Virgin Soil(Krasnaia nov')—マルクス主義の旗のもとに〉や〈プレスと革命〉(Pechat' i revoliutsiia)で反応した。//
 ----
 (08) Spengler はボルシェヴィキ革命をディオニュソス的激変と解釈し、将来の神話がロシアで生まれるだろうと予言した。
 「この田舎びた人々が切望しているのは、自分たち自身の生活様式、宗教、歴史だ。
 トルストイのキリスト教は、誤解だった。
 彼はキリストについて語って、マルクスを意味させていた。
 だが、つぎの一千年はトルストイのキリスト教のものになるだろう。」(注22) 
 Spengler の予言は革命についてのボルシェヴィキの想定像と矛盾していたけれども、「腐りつつあるヨーロッパ」に対峙する彼らの自信を強め、自分たちは新しい文明を建設しているのだという確信を強固にした。
 彼らは自分たちを初期のキリスト教信者たちに喩え、ヒトラーが権力を掌握するまでは、決まって「一千年の支配」という語句を用いて、自分たちの支配は一千年続くだろう、と予言した。(注23)//
 ----
 (09) こうした全ての導管を通じてソヴィエト社会に入り込んだニーチェ思想の累積的な効果は、甚大だった。
 ニーチェ思想は、党エリートたちを「文化」の重要性に敏感にさせた。また、人間の改造、階級にもとづく残虐な道徳性、ボルシェヴィキの神話創造、レーニン崇拝へと結実したカルトへの意思、といった途方もない望みを促進するのを助けた。
 新しい美学理論へと体現化されて、ニーチェ思想は、新しい芸術様式と言葉上の実験を触発した。
 新しい理論は最初から政治的なものだった。あるいは、対抗諸集団が国家に支援される文化を目指して争っていたので、政治化されるものになった。
 つぎの二つの章では、ネップ期におけるニーチェの影響を全般的に扱うことはしない。
 全体を叙述すれば、別の一冊の書物が必要になるだろう。
 繰り返すが、この書物では、スターリン主義の一部となったニーチェ思想だけを対象とする。//
 ——
 第三編の序、終わり。
 ****
 試訳者追記。
 最後に出てきているOswald Spengler の著には、つぎの邦訳書がある。
 O·シュペングラー・西洋の没落/第一巻・第二巻(村松正俊訳、1989、五月書房)。
 原題、Der Untergang des Abendlandes。ゲーテ/ニーチェを継承・発展させたと自認しているらしいが、例えば第一巻第五章II<仏教、ストア主義、社会主義>の中には、ニーチェについての、批判的とみえる言及が多くある。若干の例を以下に引用する。
 「ニーチェ哲学の様式、響き、態度は、ニーチェのなかにある時代遅れのロマン主義者が決定したものである。それ以外においてはニーチェはあらゆる点で、数十年にわたる唯物論の弟子となっていた。
 ニーチェをショーペンハウエルに熱情的に引きつけたものは、ショーペンハウエルが大様式の形而上学を破壊し、その師カントを心ならずも戯画化したその学説中の要素であり、バロックのあらゆる深い概念を、具体的なもの、機械的なものに変じたことである。」(上掲第一巻訳書、p.340)
 「ニーチェとヴァーグナーとの決裂のなかに潜んでいるものは、ニーチェのその師の変更であり、ショーペンハウエルからダーウィンへ、同一世界感情の形而上学的法式化からその生理学的法式化へ、ショーペンハウエルとダーウィンとともに承認した相(すなわち生きんとする意志は生存競争と同一である)の否定から肯定への、無意識な一歩である。」(同、p.342)
 「ニーチェは自分でもそうとは知らないで、社会主義者でもあった。彼の本能は、その標語に反して、社会主義的で、実際的であって、ゲーテとカントの夢にさえも考えなかったところの『人類の救済』に向けられたものである。」(同、p.342)
 なお、より広い全体的視点からの、以下もある。
 →松岡正剛の千夜千冊・2005/04/13

2619/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.179-。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
 ----
 
 第四節①。
 (01) ニーチェの思想は、いくつかの導管を通ってNEP 文化に入った。
 Lunacharsky、トロツキー、ブハーリン、Kerzhentsev、およびIaroslavsky (1918年に左翼共産主義者の一人)は、自分たちの文化戦略のためにニーチェを利用した。
 啓蒙人民委員としてのLunacharsky の権力は、1920-21年に減少した。だがなおも、重要ではあった。
 Gorky が執筆したものは広く知られたままで、彼はソヴィエトの仲間たちとの交際を維持した。
 Mayakovsky の詩の朗読は、多数の聴衆を引き寄せた。
 新しい美学理論の支持者は、ニーチェ主義の要素をもつ前革命期の「isms(主義)」に反応し、お互いにも反応し合った。まだ残っているニーチェ的課題(Nietzschean agenda)の諸問題を新たに解決しようとしていたので。
 1917年以降に成人になった世代にとっては、ニーチェを読んでいる者、ニーチェ思想を間接的または間々接的に知っている者、広まっているニーチェ思想をたんに取り上げているにすぎない者が誰々なのか、を知るのは困難だった。
 ニーチェの書物は人民図書館から排除されていたが、全ての図書館からではなかった。そして個人的に所持されていた本は、手渡しされた。
 新しい、または再発行されたニーチェに関する書物は、私的事業者によって出版されていた。//
 ----
 (02) 文学は、ニーチェ思想の主要な導管だった。
 Merezhkovsky の歴史小説、Artybashev の〈Sanin〉、Verbitskaia の〈幸福への鍵〉は新しい世代の読者を魅了した。
 Merezhkovsky の〈Peter とAleksis〉は、1919年に映画化された。
 Verbitskaia の〈幸福への鍵〉の映画版(1913年)は1920年代半ばに再発表され、大人気を博した。
 表象主義は、若い文筆家に有益な影響を与え、夢想的神話学に対する刺激となった。(注14)
 労働者劇場で生まれていた風刺文は、表象主義の著作から文章を具体化したものだった。
 Ilia Ehrenderg の小説〈Julio Jurenito〉(1922年)の主人公は、大まかにはツァラトゥストラ(Zarathustra)をモデルにしており、Merezhkovsky やBerdiav に倣ってモデル化された登場人物もいた。
 作家のIury Olesha(1899-1960)は、超人、重力に勝つ飛行士、張綱上の歩行者を描いた(Z, p.41,43,48)。(注15)
 歴史小説家たちは、Stenka Razin その他のコサック指導者たちを、合唱団にとどまりつつそこからはみ出し、そして言ってみれば、理性よりも本能に導かれているような、非個人的な神話的人物として叙述した。
 酔っ払いの大騒ぎや指導者と大衆の間の合唱に似た対話の情景は、反乱がディオニュソス的性格を持つことを強調した。
 Stenka Razin は、未来主義者の詩人のKamensky が好んで取り上げた主題だった。//
 ----
 (03) 初期のソヴィエトの作家たちが好んだ主題である内戦は、動物的行動、残虐性、非道徳主義を強調する、俗悪なニーチェ的、またはニーチェ・ダーウィン的接近方法に適応したものだった。
 Boris Pilniaks の〈引き剥れた年〉(1922年、1919年刊)の中の一人物は、「強者だけを生き延びさせよ、…人間性と倫理感をもつ悪魔(devil)だけを」と宣言する。
 Isaac Babel の〈赤い騎兵隊〉は、ニーチェ的意味を読みとる文芸批評家たちに対して、力の美しさを提示した。Babel は権力に関して曖昧で、留保なしで権力を称賛することはやめたけれども。(注16)
 その書物はひどく残酷な情景を、例えば、養豚者が過去の悪事に復讐するために以前の主人の顔を踏みつける場面を、含んでいた。
 Vsevolod Ivanov の〈装甲列車 14-19〉(1922年)は、ソヴィエトの古典になった。
 当時の人々は彼を「革命+Gorky」だと見なし、Gorky はIvanov の「自然(elemental)の人間」の描写を支持した。
 Ivanov を称賛すべく使われた言葉—「愉快な」、「活力のある」かつ「新しい創造的エネルギー」—は、著者と批評者を結びつけるニーチェ的糸筋を示唆していた。
 Ivanov はニーチェの主要作品の全てを読んでおり、それらの書物のほとんどを所持していた。(注17)
 少ししか名を挙げないが、Iury Libedinsky の〈一週〉(1923年)、Ilia Selvinsky の〈鉄の氾濫〉(1924年)のようなその他の内戦小説は、(ディオニュソス的)動乱または鉄の男、またはこれら両者を描いた。//
 ----
 (04) Katherina Clark は、自然発生性と意識性の弁証法はソヴィエトの小説にある「大筋」の構造的焦点だと見る。(注18)
 この弁証法は、アポロ的なものととディオニュソス的なものとしても叙述することができる。レーニンにおける対極性がこれらに対応しているがゆえにだけではなく。
 「アポロ的」と「ディオニュソス的」は語彙の中にきちんとした位置を占め、新しい出版物はこれらに関してソヴィエトの読者たちに説明した。
 Evgeny Braudo は〈ニーチェ、哲学者と音楽家〉(1922年)で、ニーチェの「悲劇」はニーチェの科学的関心(アポロ)とその芸術的霊魂(ディオニュソス)を均衡させようとした過ちだった、と書いた。そして、苦痛を甘受するディオニュソスの能力を強調した。これは、長く苦しんでいるロシアの民衆の最近の試練を婉曲に指摘していた。(注19)
 このBraudo の書物は、何回も再版された。
 Evreinov (芸術監督)はその書物の〈アザゼルとディオニュソス〉(Azazel i Dionis、1924年)で、ディオニュソスをイエスと微妙に関連づけた。悲劇はユダヤ人の間から生まれた、ディオニュソスはユダヤ出自だ、と論じることによって。
 Veresaev は〈アポロとディオニュソス〉で、ディオニュソスを悲観主義や頽廃主義と同一視し、彼自身の「生きる人生」(Dostoevsky の言葉)の哲学を発展させた。 
 Veresaev は、表象主義者とニーチェはアポロについて忘却したとし、「かくして我々は死ぬ」と主張した。ホメロスはギリシャ文化の頂点を代表しており、それはアポロによって象徴化されている、と。//
 ----
 序・第四節①、終わり。

2617/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序④。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.177-8。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927
 ----
 
 第三節。
 (01) 既述の状況だったにもかかわらず、NEP はソヴィエト文化の黄金時代だった。
 包括的な文化政策を党がもっていなかったために、ソヴィエトのアヴァン-ギャルドを世界的に有名にした諸実験の余地が生まれた。
 NEP 文化の特徴は、機能的合理性と、強いプロメテウス主義の構成要素としての千年紀的狂熱の共存だった。
 後者は、叛乱、神との闘い、科学と技術による自然の克服、および「〈nous〉(知性または意識)による現実の支配」をその意味に含んでいた。(注11)
 マルクス主義に内在するプロメテウス主義は、ニーチェ主義、Federova 主義、神秘(オカルト)思想と接合した(Soloviev はボルシェヴィキ的な意味での十分なプロメテウス主義者でなかった)。
 広報宣伝者たちは、魔術や宗教への崇拝を、科学技術がもつ驚異作動力への崇拝に転換させようとした。
 科学の周縁にある準オカルト理論の支持者である宇宙主義者たち(cosmists)は、死の廃棄、宇宙旅行、何でも行なうことができる不死の超人を心に夢見た。(注12)
 心理学の支配的学派は、反射論とフロイト主義だった。
 Ivan Pavlov(1849-1936)は、条件反射を強調した。一方で、Vladimir Bekhterev(1857-1927) は、連想的反射を強く主張した。
 Bekhterev はとくに、「心理感染」(psychic contagion)と社会生活における示唆(suggestion)(〈unushenie〉)の役割に関心をもった。
 トロツキーは、説明し難い霊魂やプシュケー(psyche)にではなく肉体的欲求を基礎にしているとの理由で、フロイト理論は一種の唯物論だと考えた。
 多数のフロイト主義者はニーチェに関心をもってきていたし、おそらく依然としてそうだった。(注13)
 私は思うのだが、フロイトは彼らに、(ディオニュソス的)無意識や「権力への意思」に関する「科学的」議論という外装を与えた。//
 ----
 (02) ソヴィエト・マルクス主義は、まだ完成するほどに編纂されてはいなかった、
 知識人たちは、マルクス主義を広範囲の諸々の問題や論点に適用した。その際に、関係があると見なした、ニーチェのものを含む非マルクス主義の諸思想も利用した。
 全体として言えば、知識人たちは、破壊よりも建設を、狂喜よりも理性を、芸術よりも科学や技術を、熱情よりは神経生理学的または精神心理学的な感情を重視した。そして、「社会主義の建設」のために必要な特質—自己紀律、目的志向性、純粋性—を、付加すれば、もちろん党意識を、高く評価した。
 このような方向づけの中には、ニーチェのAppolo 的利用も含まれていた。
 芸術は社会を「組織」し、「階級意思」を強化する、というBogdanov の基本的主張は、当然のこととされていた。
 彼の〈赤い星〉(1907年)は、1918年、1922年、1928年に再出版された。
 〈技術者Menni〉(1912年)は、少なくとも7回の再版となった。
 〈Tektology〉は、技術者、専門家たちに、そしてアヴァン-ギャルドに対して特別の訴求力があった。
 革命前のように、個々人はニーチェ思想やその普及者たちの考え方のこうした側面を取り上げた(または再作動させた)。その諸側面は、重要なまたは有用なものとして強い印象を彼らに与え、残りの部分は無視させた。
 ——
 序の第四節へとつづく。

2616/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
 ----
 
 第二節②。
 (07) 他の積極的手段には、LEF(芸術の左翼戦線、avan-garde 連合)、VAPP(全ロシア・プロレタリア作家同盟)のような組織やこれらが刊行する雑誌に対する資金援助があった。
 Agitprop の長は1924年に、党が考える様式に添って書かれた、そして「広範な大衆に社会主義の精神についてイデオロギー教育をする」のに適した文学を擁護した。
 党は関連する動きとして、ボルシェヴィキの英雄たちと、革命前の探偵物語の英雄的主人公であるNat Pinkerton に因んだ「赤いPinkerton」に関する冒険物語の執筆を励ました。
 Marietta Shaginian(1888-1982、Merezhkovsky たちのかつての同僚)の小説である〈Mass-Mend〉(1924年)は、民衆が神秘的なもの(オカルト、occult)に嵌っていることを利用していた。
 この小説では、プロレタリアの「白い魔術」が資本主義陰謀家の「黒い魔術」を打ち負かす。(注8)
 党は特定の様式または語法を命令しなかった。そうする気は実際になかった。しかし、遅かれ早かれ単一の社会主義的芸術様式が支配するだろうと、広く想定されていた。
 文筆家や芸術家の競い合う諸組織は、それは自分たちだということを確実にしようとした。//
 ----
 (08) 党はまた、大衆や党員たちがNEPは社会主義の放棄であるとか、ボルシェヴィキ幹部による意欲の減退または方向性の喪失であるとかと解釈しないように保障しなければならなかった。
 〈Pravda〉で最も頻繁に使われた隠喩—「任務」、「途」、そして「社会主義建設」におけるがごとき「建設」—は、上からの統制、目的志向性、指導性を含意していた。
 〈Pravda〉上の隠喩は、管下にある他の新聞類でも同じように使われた。
 「任務」(task)は通常、上級の当局によって与えられた。
 「途」(path)は、「任務」の意味を補強した。
 レーニンは、この「途」を、物事を行なう唯一の方策があるという確信を表現するために用いた。「一つの戦略、一つのイデオロギー、一つの方向」だ。
 1920年代の半ばまでには、「レーニン主義の途で」とか「社会主義への途」とかの語句は、至るところで見られた。そして、「途」は「線(路線)」へと狭まった。スターリンの「線(路線)」(line)というように。
 ときには、「途」と「路線」は一緒に用いられた。1926年に、ある編集者が「一般的路線」を社会主義への「高速道」と同一視したように。(注9)
 ----
 (09) 「途」という隠喩は、マルクスやエンゲルスに由来しなかった。
 これは直線的な歴史の動きを想定していたが、曖昧な隠喩として使われた。
 ボルシェヴィキは、Merezhkovsky からこの「途」という隠喩を取り上げたのかもしれない。
 「途」(the path)は、キリスト教的神秘主義の中心的表象だ。
 ボルシェヴィキたちが、そしてLunacharsky やかつて神学生だったスターリンがこのことを知っていたかはともかく、「途」という隠喩は、世俗的な救済のためのイデオロギーであるボルシェヴィズムの宗教的性格を示していた。
 「途」という隠喩はまた、ある保証の感覚も伝えていた。実際に、党指導者たちは、大衆が困惑しているとしても方向を失ってはいない、と言われた。
 また別の次元では、「途」という隠喩は、党の将来の方位を映し出していた。共産主義の社会は、まだ遠く離れたところにあった。//
 ----
 (10) 上級党学校は、党意識(〈partiinost'〉)、プロレタリア化、実践性を教え込んだ。
 知識のための知識は、「スコラ哲学」または「ブルジョア・アカデミズム」だとして蔑まれた。
 Sverdlovsk大学には、神学校の雰囲気があった。
 狂熱的な生活様式は、政治的な忠誠心と関連していた。
 「ブルジョア的」ソヴィエト科学アカデミーと対抗すると自認した社会主義アカデミーは、学術計画(高等教育の組織化と統制)と集団的な学術研究を擁護した。
 それに加盟した学者たちは、広範な聴衆が入手しやすい辞典、教科書、編集書を執筆して送り出した。また、マルクス主義の観点から社会科学についての再作業(再評価)を行なった。
 党は1923年に、アカデミーに対して物理科学を含めることを認めた。
 赤色教授研究所は、若い党政治家、学者、広報者たちをマルクス主義でもって訓練した。
 上級党学校との間の、そして各々の内部での競争は、部門や学生たちが味方する党内闘争によって、加速された。//
 ----
 (11) 1924年の「社会主義」アカデミーから「共産主義」アカデミーへの変化は、1925年頃の大きな転換の予兆だった。1925年には、作家や芸術家たちの対立組織間の闘いが激化し、外国の出版物の輸入や外国旅行に対する規制が厳しくなった、
 第14回党大会(1925年)は、ソヴィエト同盟を自己充足の産業国家にすると決議し(「一国社会主義」)、GOSPLAN(国家計画局)に、総合的な経済計画のための統括数字(予想)をまとめるよう指示した。
 最初の案は、均衡ある発展を強調し、それにはBogdnov とBayarov の見方が生かされていた。(注10)
 ——
 第三節へとつづく。

2615/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三編序②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.174〜。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927
 ----
 序 第二節①。
 (01) ボルシェヴィキの指導者たちは、前例のない状況下を歩んでいると感じていた。
 驚くことではないが、彼らの政策方針はときには矛盾し合っていた。
 生産の奨励は農民や「ブルジョア専門家たち」の作業場や物質的刺激で階級融和を促進する契機を含んでいたが、階級を基礎にした雇用や昇格は、人員の最適な利用を妨げていた。
 ネップマンたち(NEPmen)(小事業家)はよそ者だった。そして、政府に支援された芸術家や文筆家たちの組織は、階級憎悪へと転化するだろうプロレタリア的戦闘性の必要を説いた。
 ブハーリンは1925年に、農民たちに豊かになるよう激励し、階級闘争を「弱める」ことを擁護した。しかし、彼は共産党員たちには、階級間の戦争は終わっておらず、形態を変えているにすぎない、と保障した。//
 ----
 (02) ボルシェヴィキ指導者たちは、「文化戦線」を進んでいるとも感じていた。
 マルクスとエンゲルスは、社会主義的文化はどのようなもので、それをどのようにして創り出すかについて、指針を与えていなかった。
 ニーチェの思想は、この隙間を埋めるのに役立った。
 レーニン、トロツキー、ブハーリンは、「文化革命」の必要性について合致していたが、「文化」とは何か、「文化革命」はどう進められるべきかに関しては異なっていた。
 スターリンは、この問題については沈黙していた。彼は1928-29年に、ブハーリンの戦略を採用し、かつ過激化させた(第9章を見よ)。//
 ----
 (03) マルクスとエンゲルスは、文化は経済的基盤の変化に伴って多かれ少なかれ自動的に変わっていく、と想定していた。
 そのゆえに、ボルシェヴィキ指導者たちが恐れたのは、資本主義の部分的復活は「ブルジョア・イデオロギー」が回復して「ブルジョアの復古」にすらつながることを意味するのではないか、ということだった。
 敵対階級が生む文学と芸術はソヴィエト権力を掘り崩すかもしれない。知識人層がツァーリズムを破壊したのと全く同じように。
 ボルシェヴィキの困惑を増大させることに、プロレタリアートは農民の大海の中の孤島にすぎなかった。
 「意識的」労働者の数は微細なもので、また、新しく加入した党員たちはほとんどが教養のない労働者や農民たちだった。(注3)
 加えて、経済は「ブルジョア専門家たち」に依存しており、ソヴィエト同盟は資本主義諸国に包囲されており、かつまたNEP の商業文化の影響による汚染もあった。
 Eisenstein の映画〈戦艦ポチョムキン〉(1925年)は世界的な喝采を浴びたが、ロシアの観衆たちはMary Pickford やDouglas Fairbanks をむしろ好んだ。//
 ----
 (04) ボルシェヴィキ指導者たちは先ず、エスエルやメンシェヴィキからの「イデオロギー感染」と闘うことに力を注いだ。
 エスエルたち(1921年夏に逮捕されていた)の見せもの裁判は数ヶ月続いた。それには、プレスの全頁を覆う憎悪キャンペーンが伴なっていた。
 Lunacharsky は、訴追者の一人だった。
 彼は被告人たちを(民衆全体に伝染する)「病原菌」、「害虫」(〈vrediteli〉、つまり根絶されるべきもの)と呼び、後者の語を彼らに関する自分の小冊子「かつての人々」(〈byvshie liudi〉)で頻繁に用いた。(注4)
 この言葉の由来はGorky の小説「〈Byvshie liudi〉」(1903年)にあった。この小説は、「かつて人間だった生物たち」として英語に翻訳された。
 法廷には敵意をもった観衆が詰めかけ、被告人たちを嘲り死刑を要求する、あらかじめ選抜された群衆によってしばしば煽り立てられた。—この群衆は、公衆を「教育」し、現実的であれ潜在的であれ危機を喧伝することを意図する劇場となった裁判での、一種の「合唱隊」だった。(注5)
 被告人たちは有罪とされ死刑判決を受けたが、Gorky を含む外国からの抗議に応えて、そのうち何人かは、執行される代わりに国外に行くことが許された。//
 ----
 (05) ボルシェヴィキ指導者たちはすみやかに、「ブルジョア」的思想と価値に民衆が「感染」するのを阻止するために(「感染」(infection)という考えはTolstoy に由来する)、積極的に行動しなければならないと気づいた。
 Tolstoy は芸術は人々をキリスト教に「感染」させるべきだと考え、この「感染」という語を病気の蔓延ではなく、霊感的(inspirational)な意味で用いた。
 ボルシェヴィキ指導者たちは、部分的には資本主義の経済基盤があっても、社会主義の意識を吹き込み、社会主義の文化を建設することによって「自然発生性」と闘わなければならなかった。
 言い換えると、彼らは「全ての[ブルジョア的]価値の再評価」を行なおうとしていた。
 広く承認されてはいないBogdanov の見方では、〈Pravda〉は1922年8月に、プロレタリア文化に関する議論を再開した。
 文化のこのような強調は、ブハーリンが〈プロレタリア革命と文化〉(1922年)を、トロツキーが〈日常生活の諸問題〉(1923年のPravda 上の連載)や〈文学と革命〉(1924年)を執筆することにつながった。//
 ----
 (06) 最も危険な「イデオロギー感染」の一つである宗教が、実際に復活しようとしていた。1922年遅くに、Berdiaev、Frank、その他の非マルクス主義知識人たちがロシアから追放されて以降に。
 古参ボルシェヴィキのEmilian Iaroslavsky(Gubelmann、1878-1943)が、〈無神〉(〈Bezbozhnik〉)という雑誌を創刊したのも、1922年だった。
 彼は1923年に、その著〈神はいかに産まれ、生き、死ぬか〉で、宗教と文化の神秘性の「仮面を剥ぎ」、キリスト教を含む全ての宗派の世俗的な起源を「暴露し」た。
 この表題は、まだ知られていた歴史小説三部作のMerezhkovsky の様式にもとづく戯曲だった。
 これはまた、直接にではないが、最新の神であるキリスト教の神は死んだ、ということも意味していた。
 Iaroslavsky は1925年に、無神論者同盟を創立した(のちに「戦闘的」が追加された)。
 その組織員たちは聖職者に対していやがらせを行ない、教会の事業を著しく妨害し、クリスマスやイースターの日に、共産党の祭典を組織した。そして(積極的に)、「赤い婚礼」、(洗礼に代わる)「Oktoberings」、「赤い葬礼」を促進した。 
 「赤い」儀礼の考案者の中には、Kerzhentsev、Iaroslavsky の他に、〈アポロとディオニュソス〉(1915年、再刊1934年)や〈新旧の儀礼について〉(1926年)の著者であるVikenty Veresaev もいた。(注6)//
 ——
 第二節②へとつづく。

2614/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三編序①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.173〜。
 ----
 第三編/新経済政策(NEP) の時期のニーチェ思想—1921-1927。
 
 第一節。
 (01) 新経済政策(NEP)のもとで、政府は「管制高地」(大工場と工場群、信用、外国通商)を支配したが、農民たちは納税後の余剰を売ることができた。私的な取引も許容された。
 1927年の末までに、生産はほとんどの分野で1913年の水準を回復した。
 しかしながら、労働者たちの生活は、ひどく悪い状態のままだった。農民たちの穀物を売ろうという意欲は売って得られる対価に左右され、消費用製品の価格とも関係があった。//
 ----
 (02) 1921年の夏、レーニンの健康が悪くなり始めた。
 彼は、1924年1月24日に死亡した。
 レーニンの4回めの発作のあとの1923年3月に、後継者争いが始まっていた。レーニンは、無能となって取り残された。
 スターリンは、トロツキーを孤立させるために、Grigory Zinoviev(Radomysky, 1883-1936)およびLev Kamenev(Rozenfeld, 1883-1936)と同盟した。
 1924年半ばに、スターリンは方針を変えて、Bukharin、Aleksei Rykov(1881-1938)およびMikhail Tomsky(1880-1936)と手を組んだ。
 スターリンとブハーリンは、1924年から1928年まで、共同支配者だった。
 第5回党大会(1927年2月)で、スターリンは政治局の全権を握り、トロツキーは党を除名され、スターリンはNEPに逆行し始めた。
 レーニンが生きていたならばNEP はどのくらい長く継続したか、を判断するのは不可能だ。この問題についてのレーニンの言明は、矛盾を孕んでいた。//
 ----
 (03) NEP の時期は、それ以前やそれ以降と比較してのみ、リベラル(liberal)だった。
 私的な活字出版業や劇場が始まった(または再開した)。
 検閲は緩和されたが、消滅はしなかった。ニーチェのものを含む危険な書物は、1920年に始まる人民図書館から排除されていた。
 党のAgitprop(煽動と宣伝)部門は、膨らんだ。
 チェカはGPU に替わった。そして、エスエルの指導者たちや「協力者たち」の見せしめ裁判が、1922年に繰り広げられた。
 Ivanov-Razumnik は、被告人の一人だった。
 その頃までに、拡大した文化機構が出現した。これには、「文化に関する党員起業家」(Christopher Read の用語)、文学や芸術を高く評価しているとしても元来の忠誠心は革命に向けられていた者たち、が配属された。
 彼らの任務は、大衆の意識を鋳造(mold)することだった。//
 ----
 第二節へとつづく。

2613/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三章序。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 「第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917」の「第3章・ニーチェ的マルクス主義者」の「序」の試訳。邦訳書は、ない。
 以下に名が出てくるA. Lunacharsky は、1917年「十月革命」後の初代の<啓蒙(=文化·教育)人民委員(=大臣)>。
 ----
  第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
  序。
  (01) George I. Kline は、「ニーチェ的マルクス主義」という用語を作って、その中に、Aleksandr Bogdanov(出生名はAleksandr Malinovsky、1873-1938)、その義弟のAnatoly Lunacharsky(1875-1933)、Maxim Gorky(Aleksei Peshkov、1868-1936)、V. A. Bazarov(V. Rudnev、1874-1939 )、Stanilav Volsky(Andrei Solokov、1880-1936)を包摂した。(注1)
 私は、Aleksandra Kollontai(1872-1952)も含める。
 これらのマルクス主義者たちは、マルクスとエンゲルスが軽視した問題—倫理、認識論、美学、心理学、文化、その他の諸価値—を強調した。そして、神話がもつ政治心理的(psychopolitical)有用性を承認した。//
 ----
 (02) 彼らは全てが芸術的文化的創造性の問題に敏感で、自由な発意と意欲を強調した。しかし、意欲や創造性がとる形態は個人なのか集団なのかに関しては一致していなかった。
 彼らにおける集団性は、義務的なものを意味してはいなかった。
 彼らは、人々が義務の意識から集団に従属するのではなく、自分たちを集団と一体視することを望んだ。
 ニーチェが助けたのは、Plekhanov がほとんど抹消して革命的人民主義の精神の中に含めてしまった、マルクス主義の「英雄的」で主意主義的(voluntaristic)な側面を取り出すことだった。//
 ----
 (03) ニーチェが〈平等への意思は、権力への意思だ〉と言ったとき、論理(logic)について語っていたが、彼の観察は、政治と社会に適用することができるものだった。「平等への意思」が既存の権威を廃して代わりに新しい権威を就かせる、という意味を含んでいる場合には。
 ニーチェ的マルクス主義者は、プロレタリアートを権威に就かせることを望んだ。
 彼らは、「ロマン派革命家たち」、「ボルシェヴィキ左派」としても知られている。Gorky が公式にはボルシェヴィキではなく、Kollontai は1915年まではメンシェヴィキだったとしても。
 レーニンは、Bogdanov の「マッハ主義」認識論に因んで、彼らを「Machians」(ときどき「マッハ主義者」(Machists)と翻訳される)と称した。//
 ----
 (04) ニーチェ的マルクス主義者は、第一章と第二章で叙述した表象主義者や哲学者たちと議論した。
 思想についてBerdiaev が意欲の重要性を強調したこと(意欲は人間の行動を喚起する)は、Bogdanov の認識論への関心を掻き立てた。
 Bogdanov とLunacharsky は、新観念論者の雑誌〈哲学と心理学の諸問題〉にいくつかの初期の論考を発表した。
 Bogdanov は〈観念論の諸問題〉を論評し、〈実在論的世界観に関する小考〉(1904)という対抗シンポジウムを組織した。(注2)
 Gorky とLunacharsky は、宗教哲学学会の会合やIvanov の社交的集まりに出席した。
 他に多くの交流の例を挙げることができる。//
 ----
 (04) Bogdanov は、Gorky とLunacharsky が行ったほどに頻繁には、ニーチェに言及しなかった。そして、無味な「科学的」語彙を用いた。そのために、彼に対するニーチェの影響はより分かりづらい。
 しかしながら、芸術と神話がもつ意識を変革する力についての彼の信念、神話創造の自分自身の試み、そして文化革命の呼びかけには、プロレタリアートの立場からする「全ての価値の再評価」が含まれていることが明らかだ。
 最もよく分かるのは、Bogdanov は「イデオロギー」という語を肯定的に用いており、「イデオロギー」は虚偽の意識であって支配階級の利益のための現実の神秘化または歪曲を意味したマルクスやエンゲルス(MER,p.154-5.)とは大きく違っていた、ということだ。 
 Bogdanov は、「社会におけるイデオロギーの客観的役割、イデオロギーがもつ不可欠の社会的機能を不明瞭な」ままにした、「イデオロギーは組織する形態だ、同じことだが、全ての社会的実践のための組織的手段だ」として、マルクスとエンゲルスを批判した。(注3)
 イデオロギーはたんに社会経済的構造を反映するのではなく、社会を「組織する」、ゆえに創造するに際してきわめて重大な役割を果たす。
 イデオロギーは、正当化する形態であるだけではない。それは構築的な現象だ。
 Bogdanov の著作においては、イデオロギーは神話とほとんど同義だ—合理的に構成された神話。
 彼はときおり、Ivanov の語である「神話創造」(myth-creation)を用いた。しかし、理性的な意識の役割を強調した。//
 ----
 (05) Bogdanov の小論である「人間の集結」(〈Sobiranie cheloveka〉,1904)は、つぎの三つの標語でもって始まる。
 「社会的存在が意識を規定する」(マルクス)。「神は自ら自身の像で人間を創造した」(創世記I、27)。「人間は橋渡しであって、目標ではない」(ニーチェ)。(注5)
 〈Sobiranie〉は、「集団」または「集合」と翻訳することもできる。そして、認識論的には〈Sobornost〉という観念と結びついている。
 考え得る他の訳語の「統合」を用いると、〈Sobiranie〉はスラヴ人好みの全体(wholeness)という観念をその意味に含んでいる。
 Bogdanov にとって、進歩とは「意識的な人間生活の全体と調和」を意味した。(注6)
 彼は、職業上の専門化と労働の区別がそうしているように、個人主義は、個人と社会の調和を破壊する、と考えた。
 とくに、精神労働と身体労働の分離に反対した。—これは、青年マルクス、Mikhailovsky、そしてFedorov が思考した主題だった。
 彼が疎外の克服を強調したのは、まだ知られていなかった1844年のマルクスの草稿を先取りしていた。 
 Bogdanov がとくに好んだ言葉の中に、「調和」があった(ニーチェの語彙の一部ではなく、Fourier その他の夢想的社会主義者たちによって多くは使われた)。また、「支配」や「支配すること」(mastery, to master)(〈ovladenie〉,〈ovladet〉)もあった(これは、「把握(すること)」または「所有(すること)」とも翻訳することができる)。
 彼の用語法での「支配」およびこれに関連する言葉は、複数の意味を含んでいた。知識や技術をmasterしている労働者、自然をmaster している専門家(〈chelovechestvo〉)、奴隷がmaster になる、地上の新しい主人としてのプロレタリアート。
 彼が最も好んだ言葉である「組織化」はLavrov の戦略に立ち戻るものだったが、Bogdanov の用語法では、Apollo 的側面があった。
 Apollo は統合し、構造化する。
 Bogdanov は、「組織化への意思」によって駆り立てられていた、と言っても誇張ではないだろう。
 ——
 第一編第1章「序」、終わり。

2612/Rosenthal2002年著の構成内容の再掲。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
 =B. G. ローゼンタール, 新しい神話・新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ
 この著は、No.2436に記載したように、つぎのような内容構成(目次)を持つ。
 目次掲載内容以外に、中身の本文を見て、一部についてだけ、さらに細分化して「節」にあたるものも記した
 邦訳書はない。
 を付した箇所だけが、すでにこの欄に「試訳」を掲載したものだ。No.2454・2470・2472・2475・2476・2478・2480(2021年12月〜2022年1月)。赤文字部分は、次回以降に試訳予定。
 著者の認識・主張の根幹は、<ボルシェヴィズムとはマルクス主義とニーチェを融合したものだ>、にあるだろう。
 ——
 緒言 *p.1〜.
  第一節・ニーチェの課題。
   1/新しい神話。
   2/新しい世界。
   3/新しい男(と女)。
   4/新しい道徳性。
   5/新しい政治。
   6/新しい科学。
  第二節・ニーチェの主張にある文化特有の要素。
  第三節・この書の予定。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。*p.27〜.
   序。
   第1章・象徴主義者。
   第2章・哲学者。
   第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
    。*p.68〜.
    第一節・ボグダノフの「マッハ主義」認識論。
    第二節・新しい道徳。
    第三節・マルクス主義の神話創造者と1905年革命。
    第四節・ボグダノフの文化革命への綱領。
   第4章・未来主義者。
  ◎要約
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。 *p.117〜.
   序
   第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。
   ◎序
   ◎第一節・レーニン—正体を隠したニーチェアン?
    第二節・ブハーリンのニーチェ的な政治的想像。
    第三節・レオン·トロツキーのニーチェ的無意識。
   第6章・ボルシェヴィズムを超えて—魂の革命の展望
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。 *p.173〜.
   
   第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
    序。
    第一節・レーニン個人崇拝。
    第二節・新しいソヴィエト人間。
    第三節・新しいプロレタリア道徳。
   第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。
    序。
    第一節・アヴァン-ギャルド。
    第二節・リアリズムの作家と画家。
    第三節・文化革命が前進する。 
 第四編/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。 *p.233〜.
  第一部/縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   第9章・「偉大な政治」のスターリン型。
   第10章・芸術と科学における文化革命。  
  第二部/ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義リアリズム。
   第11章・社会主義リアリズム理論へのニーチェの貢献。
    序。
    第一回ソヴィエト作家同盟会議でのニーチェ的課題。
     1/新しい神話。
     2/新しい男(と女)。
     3/新しい世界。
   第12章・実施される理論。
    序。
    第一節・文学。
    第二節・劇場。
    第三節・映画。
    第四節・絵画·写真·彫刻。   
  第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
   序。
   第13章・スターリン個人崇拝とその補完。
   第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。
 エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。 *p.423〜.
    序。
    第一節・消極的表象としてのニーチェ。
    第二節・異なるニーチェの発見。
    第三節・ニーチェ的課題。
     1/新しい神話。
     2/新しい芸術様式。
     3/新しい世界。
     4/新しい道徳。
     5/新しい科学。
 ——
 以上。

2608/R・パイプス1994年著結章<省察>第九節(了)。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳の最後。原書、512頁。
 ----
 第九節・歴史からの道徳的示唆。
 (01) 科学的方法を人間の諸問題の管理に適用することはできないことを例証したことに加えて、ロシア革命は、政治の性格の問題、すなわち彼らの委任なくして、いや彼らの意思に反してすら、人間を作り直し、社会を再様式化しようとする政府の権利という、きわめて深大な道徳的問題を提起した。すなわち、初期の共産党のスローガン、「我々は力ずくで人類を幸せに向かわせる」、の正当性だ。
 レーニンと懇意にしていたGorky は、レーニンは人間を鉱石に対する金属加工者だと見なした、とするムッソリーニに同意した。(注24)
 レーニンの見方は、至るところにいる急進的知識人たちに共通する見方を表現したものにすぎなかった。
 これは、道徳的に優れていて同時により現実的なカントの原理的考えに逆行している。カントは、人間は決して他者の目的のためのたんなる手段になってはならず、自分自身に目的があるとつねに考えられなければならない、と説いた。
 この優れた見地からすると、ボルシェヴィキの過剰さ、自分たちの目的のために無数の人々の生命を簡単に犠牲にすることは、倫理と良識のいずれをも醜怪に侵害するものだ。
 ボルシェヴィキは、手段は—人々の福利および生命すら—きわめて現実的なものであり、それに対して目的はつねに漠然としていて、しばしば達成し難い、ということを黙殺した。
 この場合に適用する道徳的原理は、カール・ポパー(Karl Popper)によってこう定式化されてきた。
 「全ての人間が、価値があると自分が考える目的のために自分を犠牲にする権利をもつ。
 誰一人として、ある目的のために他者を犠牲にしたり、他者が彼らたちを犠牲にするよう誘発したりする権利をもたない。」(注25)//
 ----
 (02) フランス革命に関するその記念碑的研究から、Hippolyte Taine は、彼自身は「たわいもない」(puerile)と表現した教訓を、すなわち「人間社会は、とくに近代の社会は、巨大で複雑なものだ」という教訓を導き出した。(注26)
 このような観察を、つぎのような推論でもって補足する誘惑に駆られる。
 まさに近代社会は「巨大で複雑な」ものであり、したがって把握して理解するのがきわめて困難であるがゆえに、社会を再構築しようとするのはもちろん、管理の諸様式を社会に押し付けるのは、適切ではなく、実現可能でもない。
 把握して理解することができないものを、統御することはできない。
 ロシア革命の悲劇的で醜悪な物語—現実にそうだったものであり、人類を向上させる高貴な企てと見た外国の知識人たちの想像ではそう思えたものではない—が教えるのは、政治的な権力(authority)は、イデオロギー上の目的のために用いられてはならない、ということだ。
 人々はあるがままに任せるのが、最善だ。
 Oscar Wilde が中国の賢人が語ったとした言葉によると、こうだ。人間にそのまま任せるべきものは、ある。—しかし、人間を統治(govern)するようなことは、かつてなかった。//
 ----
 後注
 (24) NZh, No. 177/171 (1917.11.10), in H. Ermolaev, ed., Maxim Gorky, Untimely Thoughts (1968), p.89.
 (25) Frankfurter Allgemeine Zeitung, No. 291 (1976.12.24), Section VI, p.1.
 (26) Hippolyte Taine, The French Revolution, II (1881), Preface, p. v.
 ——
  第九節、結章全体が終了。

2607/R・パイプス1994年著結章<省察>第八節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
 ----
 第八節・共産主義の失敗の不可避性。
 (01) それ自体がもった願望から判断すると、共産主義は記念碑的(monumental)な失敗だった。共産主義は、ただ一つのことだけに、成功した。—権力にとどまること。
 しかし、ボルシェヴィキにとっては権力はそれ自体が目標ではなくその目的のための手段だったのだから、たんなる権力保持だけでは、実験は成功したと評価することはできない。
 ボルシェヴィキは、その目的を何ら秘密にしていなかった。すなわち、私的財産を基礎にする全ての体制を打倒し、それらを世界的な社会主義社会の同盟で置き換えること。
 ボルシェヴィキは、第一次大戦の終わりまでに拡張していたロシア帝国の国境の内部でのみ成功した。第一次大戦終焉のとき、赤軍はドイツの降伏によって生まれた東ヨーロッパの真空に踏み込んだ。中国共産党は日本から自分たちの国の支配を奪った。そして、モスクワの助力を受けた共産主義独裁制が、新しく解放された地域に設立された。//
 ----
 (02) 共産主義を輸出することが不可能だといったん判ると、ボルシェヴィキは1920年代に、自国での社会主義社会の建設に取り組んだ。
 この尽力も、失敗した。
 レーニンは、強制的没収とテロルを結合させることで、自国を数ヶ月のうちに世界の指導的な経済大国に変えるのを期待した。実際には反対に、彼が継承した経済を破滅させた。
 レーニンは、共産党がnation に対する紀律ある指導力を持つことを期待した。実際には反対に、国全体で弾圧した政治的不満や、自分の党内部の変化に遭遇した。
 労働者たちが共産主義者に背を向け、農民たちが反乱を起こしたとき、権力にとどまるには、断固として警察的手段に訴えることが必要だった。
 膨らんで腐敗した官僚機構は、体制の行動の自由を妨げた。
 諸民族の自発的な同盟は、抑圧的な帝国に変わった。
 最後の二年間のレーニンの演説と文章が明らかにしているのは、建設的な思想の衝撃的な少なさと経済に関する無能力さだ。テロルでさえも、古い国に染み込んだ習慣を克服するには役に立たないことが判った。
 ムッソリーニは、初期の経歴がレーニンのそれにきわめて似ており、ファシスト独裁者としてであれ共産主義体制を共感をもって観察していた。その彼は1920年7月にすでに、ボルシェヴィズムという「巨大で、恐ろしい実験」は失敗した、と結論づけた。
 「レーニンは、他の芸術家が大理石や金属の上で仕事をするように、人間の上で仕事をした芸術家だった。
 しかし、人間は花崗岩よりも硬く、鉄ほどには可塑的でない。
 傑作は生まれなかった。
 芸術家は、失敗した。
 その仕事は彼の力量を超えることが判明した。」(注22)/
 70年と数千万人の犠牲者のあとで、レーニンとスターリンのロシアの長としての継承者であるBoris Yeltsin は、アメリカの連邦議会に対して、多くのことを承認した。
 「世界は、安心して嘆息することができる。
 至るところに社会的衝突、敵愾心、人間性に注入する無比の残忍さを蔓延させた共産主義という偶像は、崩壊した。
 崩壊した。二度と生まれることはない。」(注23)//
 ----
 (03) 失敗は不可避だった。失敗は、共産主義体制の前提そのものの中に組み込まれていた。
 ボルシェヴィズムは、歴史上最も無謀な、国の生活全体を総合計画に従属させ、全ての人間と全ての事物を合理化しょうとする企てだった。
 ボルシェヴィズムは、人類が数世紀にわたって蓄積してきた智恵を、無用のごみくずのごとく捨て去った。
 その意味で、科学を人間の諸問題に適用しようとする、独特な作業だった。
 それは、知識人層という種族に特徴的な熱情をもって追求された。知識人たちは、自分たちの理想に抵抗があることはその理想が健全であることの証拠だと考えた。
 共産主義は、啓蒙主義の誤った教理から出発したがゆえに、失敗した。これは思想の歴史でおそらく最も有害な、人間はたんなる物質的合成物で、精神や生得の思想を欠いている、という考え方だ。人間は、無限に鍛造可能な社会環境の産物のごときものだ、と見なす。
 この教理によって、個人的忿懣をもつ人々が社会にそれを向けること、自分たちではなく社会に解消させようとすること、が可能になった。
 経験が何度も確認してきたように、人間は生命のない物体ではなく、自らの願望と意思をもつ生物だ。—機械的存在ではなく、生物的存在だ。
 かりに最も凄まじい調教を受けたとしても、人間は、学ぶよう強制された教訓を自分の子どもたちに伝えることができない。子どもたちは絶えず新しくこの世に生まれてきて、最終的に解決されたと考えられている疑問を投げかけるのだ。
 この常識的な真実を例証するために、数千万人の死者、生き残った人々の甚大な苦しみ、そして一つの大国の破滅が必要だった。//
 ----
 (04) このような欠陥のある体制が、どのようにして長く権力を維持し続けることに成功したのか。この疑問に、我々が何を思いつこうとも、体制の人々自身が支持したからだ、という答えで対処することはできない。
 市民からの明示的な委託にもとづかない政府の耐久性をその言うところの人気(popularity)で説明する者はみな、同じ弁明をその他の全ての、ツァーリズムを含む権威主義的体制にも行なわなければならない—ロシアのそれは70年ではなく7世紀も生き残った。そして、どうやらとても人気があったツァーリズムがどのようにして、数日のうちに崩壊したのか、を説明するという、面白くない仕事にさらに直面しなければならない。//
 ----
 後注
 (22) Benito Mussolini, Opera Omnia, XV (1954), p.93.
 (23) NYT, 1992.6.18, p. A18.
 ——
 第八節、終わり。つづく。

2606/R・パイプス1994年著結章<省察>第七節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
 ----
 第七節・革命の人的犠牲(human cost)。
 (01) 革命はロシアに、途方もない人的損失を負わせた。
 統計資料はきわめて衝撃的で、疑問を生じさせるほどだ。
 しかし、誰かが別の数字を示すことができないかぎり、歴史家はそれを受け容れざるを得ない。共産主義者と非共産主義者の人口統計学者たちが似たような数字を提示しているので、いっそうそうなる。//
 ----
 (02) 以下の表は、1926年の国境内部でのソヴィエト同盟の人口を示している(単位は100万人)。
  1917年秋/147.6
  1920年初/140.6
  1920年初/136.8
  1922年初/134.9 (注19)
 人口の減少—1270万人—の原因は、まず、戦闘と感染症による死亡だった(それぞれ約200万人)。また、脱出(約200万人)。そして、飢饉(500万人以上)。//
 ----
 (03) しかし、これらの数字は物語の半分しか伝えていない。通常の条件のもとでは、人口は静止したままではなく、明らかに増加するだろうからだ。
 ロシアの統計学者の推算が示すのは、1922年に人口は1億3500万ではなく、1億6000万以上を数えたはずだった、ということだ。
 この数字を考慮するならば、脱国者(エミグレ)の数を除いても、ロシアでの革命の人的犠牲者は—現実のそれと出生の減少とで—、2300万人以上に達する。(*) これは、第一次世界大戦の全交戦諸国が被った戦死者数の二倍半で、当時のスカンジナヴィア4カ国にオランダを合わせた人口数にほぼ匹敵する。
 現実の死亡者は16歳〜49歳の年代集団で最も多く、とくにその世代の男性に多い。彼らのうちの29パーセントが、1920年8月までに死んだ。つまり、飢饉が起きる前に。(20)//
 ----
 (04) このような前例のない厄災を、平静に見ることができるか? 平然と見なければならないのか?。
 我々の時代の科学の威厳はきわめて高いので、少なからぬ学者たちは、調査に関する科学的方法とともに、道徳的かつ情緒的な冷静さという科学者の習慣を、別言すれば全ての現象を「自然な」ものと、ゆえに倫理的に中立的なものと見る習癖を、身につけてきた。
 彼らは、歴史的事象に人間の意欲を入り込ませるのを嫌う。自由な意思は予測できないので、科学的分析に馴染まないからだ。
 歴史的「不可避性」は、彼らには科学者にとっての自然の法則なのだ。
 しかし、科学の対象と歴史学の対象は大きく異なることがこれまでに知られてきた。
 我々は正当に、医師による病気の診断や、冷静で感情を交えない治療方法の提示を期待する。
 会社の財務状況を分析する会計士、設備の安全性を検査する技師、敵国の能力を評価する情報将校は明らかに、感情に左右されないままでいなければならない。
 その理由は、彼らの調査の目的は適切な決定に到達するのを可能にすることにあるからだ。
 しかし、歴史家にとっては、決定は他者によってすでになされており、冷静さがあっても理解に何も付け加えはしない。
 実際には、理解を妨げる。なぜなら、熱情の火の中で生み出された事象を、どうやって熱情なくして理解することができるのか?
 「Historiam puto scribendam esse et cum ira et cum studio」—「私は、歴史は怒りと熱狂でもって書かれるべきだ、と主張する」と、ある19世紀のドイツの歴史家は述べた。
 全ての問題について中庸を説いたアリストテレスは、「怒りを欠くこと」が受容し難い状況がある、と書いた。「怒るべき事物に対して怒らない者たちは、馬鹿だと見なされるからだ」。(注21)
 関連性のある事実を集めることは、たしかに、冷静に、怒りや狂熱なくして、行なわれなければならない。歴史家の仕事のこの側面は、科学者のそれと異なるところはない。
 しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない。なぜなら、これらの事実を分類すること自体が—どれが「関連性がある」かに関する決定なのだから—、判断を必要とし、そしてこの判断は、価値に依存する。
 事実それ自体には、意味がない。事実を選択する指針を与えはしないし、命令しもしない。そして、強調すれば、過去の「意味を理解する」ためには、歴史家は何らかの原理的考え方に従わなければならない。
 歴史家は通常は、原理的考え方を持っている。意識していようといまいと、最も「科学的な」歴史家ですら、諸前提を置いて仕事をしている。
 総じて言えば、この諸前提は、経済的決定論に根ざしている。経済的、社会的な基礎資料は、統計学的な論証を導き、この論証は公平さという幻想を生むからだ。
 歴史的事象に関する判断を経るのを拒絶することも、道徳的諸価値にもとづく。すなわち、起きることは全て自然であり、ゆえに正しい(right)という暗黙の前提に立っている。これは、たまたま勝利を獲得した者たちを弁明することにつながる。//
 ----
 後注。
 (19) Iu. A. Poliakov, Sovetskaia strana posle okonchaniia grazhdanskoi voiny (1986), p.94.
 (20) S. G. Strumilin, Problemy ekonomiki truda (1957), p.39.
 (21) Aristotle, Nicomachaean Ethics, IV, p.5.
 ——
 第七節、終わり。つづく。

2605/R・パイプス1994年著結章<省察>第六節(レーニンとスターリン)。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
 つぎの第六節は、2017年・2018年に試訳を掲載・再掲している。
 2017/04/09(1490/日本共産党の大ウソ33)、2018/11/08(1490再掲/レーニンとスターリン—R·パイプス1994年著)。
 これに依りつつ、あらためて原書を見て少し修正した試訳を掲載する。
 —— 
 第六節・レーニン主義とスターリン主義。 
 (01) ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題の一つは、レーニン主義とスターリン主義の関係、-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任、だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、この二人の共産党指導者の間のいかなる連関も否定する。そして、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式の歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑されるスターリン主義の先行者から、その後の体制を切り離すという目的に役立った。
 興味深いことに、レーニンの権力掌握は不可避だったと叙述する全く同じ者たちが、スターリンの叙述に至ると、その歴史哲学を捨て去る。彼らは、スターリンは歴史からの逸脱だ、と叙述するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、その言う先立つ行路のあとで、歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)、30年の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 ----
 (02) スターリンの経歴を検証すれば、彼はレーニンの死後に権力を掌握したのではなく、最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかになる。
 レーニンは、党の諸機構を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠資料が示すのは、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日常の事務を遂行したこと、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて多くて多様な助言を与えた、ということだ。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは党中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 スターリンはこれらの権能にもとづいて、実質的には全ての党支部や国家行政部門への執行的人員の任命を監督した。
 レーニンが組織的反抗者(「分派主義」)の発生を阻止するために導入していた諸規則のおかげで、スターリンは自分が執事的地位にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、スターリンの人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 ----
 (03) しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞たちの99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI. S. Unshlikht は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに「呵責なく」処理したかを、またレーニンが資本主義世界の <人道性> をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(注18)
 二人にある上記の違いは、「外部者」という概念の違いによる。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して用いたのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 -----
 (脚注*)  実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたViacheslav Molotov は、レーニンの方がスターリンと比べて「より苛酷(harsher)」だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184.
 ----
 (04) 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産党員の殺戮を除いて-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量テロルも含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動様式(modus operandi)はレーニンのそれらと同じだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的には、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思い浮かべることはできる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして> 彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそが重要な指揮命令構造を党に課すことによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
 ----
 (後注18)  RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
 --
 結章第六節、終わり。つづく。

2604/R・パイプス1994年著結章<省察>第五節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.502〜。
 ——
 第五節・共産主義とロシアの歴史の遺産。
 (01) 多くの不一致があるにもかかわらず、現在のロシア民族主義者たちと多数のリベラルたちは、帝制と共産主義ロシアの間の連結関係を否定する点では、一致している。
 前者が連関を承認するのを拒否する理由は、外国人、とくにユダヤ人を攻撃するのを好んだことについて、共産主義ロシアは自分自身の不運に対する責任を負う、というものだ。
 この点で彼らは、ドイツの保守派に似ている。ドイツ保守派は、ナツィズムをヨーロッパの一般的現象の一つと描く。その目的は、ドイツの過去に先例があったことを否定すること、あるいはドイツ人が特別に責任を負うこと、の否定だ。
 このような考え方は、間違ったことの責任を他者に転嫁することができるので、その影響を受けた人々の心を容易に掴んでいる。//
 ----
 (02) リベラルたちや急進的知識人—ロシアには外国ほど多くないが—は、共産主義とツァーリズムとの間の親近関係を、革命全体が犠牲が多い無意味な大失敗になってしまうという理由で否定する。
 彼らが好むのは、共産主義者たちの宣せられた目標に焦点を当てて、それを帝制時代の現実と対比させることだ。
 こうすれば、瞠目すべき対照が生まれる、という。
 もちろん、共産主義時代の現実と帝制時代の現実を比較すればほとんど直ちに、描いた構図は変化する。//
 ----
 (03) レーニンの体制と伝統的ロシアの類似性を、少なからぬ現代人は、とりわけ歴史家のPaul Miliukov、哲学者のNicholas Berdiaev、老練社会主義者のPaul Akseirod は(注10)、および小説家のBoris Pilniak は、気づいている。
 Miliukov によると、ボルシェヴィズムには二つの側面がある。
 「第一に、国際的だ。第二に、純粋にロシア的だ。
 ボルシェヴィズムの国際的側面は、きわめて先進的なヨーロッパの理論を起源としていることによる。
 その純粋にロシア的側面は、主としてその実践に関係している。ボルシェヴィズムの実践的側面はロシアの現実に深く根ざしていて、『アンシャン・レジーム』からの離反では全くなく、ロシアの過去を現在に再現(reassert)するものだ。
 我々の惑星の初期の時代の証拠として、地質の変化は地球の下の地層から表面に達しているのだが、ロシアのボルシェヴィズムは、薄い、社会の表層だけを取り除くことによって、ロシアの歴史的生命の非文化的で非組織的な基層は全くそのままに残した。」(注11)
 革命を主として精神の観点から検討したBerdiaev は、ロシアに革命があったことすら否定した。
 「過去の全てが繰り返されており、新しい仮面(masks)に隠れて動いている」。(注12)//
 ----
 (04) ロシアに関して全く無知の者でも、たった一日の1917年10月25日に、武装蜂起の結果として、数千年の古い歴史をもつ巨大で人口の多い国が完全に変革され得たという推移を理解することができない、と感じるに違いない。
 同じ人々、同じ領土に居住する人々、同じ言語を話す人々、共通する過去の継承者たちが、政府の突然の交替によって異なる人間に作り上げられることは、ほとんどあり得なかった。
 このような劇的な、自然界には存在しない変形が可能であると信じるためには、物理的な実力に裏打ちされている布令(decree)についてにすら、その布令の力に対する大きな信頼が必要だ。
 人間は環境によって完全に塑型される自立性なき物体だ、と考えてのみ、このような非条理なことを思いつくことができるだろう。//
 ----
 (05) 二つのシステムの間の継続性を分析するには、家産主義(patrimonialism)という概念を参照しなければならない。この家産主義はモスクワ公国の統治の基礎にあり、多くの態様で旧体制の終焉までロシアの制度や政治文化に存続してきた。(注13)
 帝制家産主義は、四つの支柱に依拠した。
 第一に、独裁政。すなわち、憲法にも代表的機関にも制約されない個人的支配。
 第二に、専制者による、国の資産の所有。すなわち私的財産の事実上の不存在。
 第三に、臣民に無制限の奉仕を要求する、専制者の権利。これは、集団的と個人的のいずれの権利も存在しないことに帰結した。
 第四に、国家による情報の統制。
 絶頂期の帝制支配を共産主義体制を比較すれば、レーニンの死の頃までに見られたように、間違いようのない類似性が明らかになる。//
 ----
 (06) まず、独裁政から。
 伝統的に、ロシアの君主は、立法と執行の権力を完全に掌握し、外部の組織による干渉を受けないでそれらを行使した。
 君主は、民族または国家ではなく彼個人に忠誠を誓う奉仕貴族や官僚たちの助けを借りて統治した。
 レーニンは、役職に就いたその初日から、本能的にこのモデルに倣った。
 民主主義の理想への譲歩として立憲制や代表的機構を認めたけれども、それらは全く儀礼的な機能しか果たさなかった。立憲制は国家の真の支配者である共産党を拘束する力を持たず、議会は選挙されず、同じ政党によって選抜されたのだから。
 職責の履行に関して、レーニンは、最も独裁的なツァーリのピョートル一世やニコライ一世に似ていた。レーニンは、国はあたかも自分の私的所有物であるかのごとく、国家事務のきわめて詳細な事柄にも個人的に関与するのを執拗に主張した。//
 ----
 (07) モスクワ公国の先行者がそうだったように、ソヴィエト支配者は、国の生産的、収益作出的な富への権益を要求した。  
 土地と工業の国有化に関する布令を皮切りに、政府は、純粋に個人的に使用される物品を除く全ての資産を奪い取った。
 そして、政府は一党の手中にあり、その党は今度はその指導者の意思に服従したがゆえに、レーニンは、国の物質的資産の事実上の所有者だった。
 (法的な所有権は「人民」にあったが、これは共産党と同義だと見なされた。)
 工業は、国家が指名する管理者によって運営された。
 その生産品と、1921年以前は土地からの生産物は、クレムリンが適切と判断したように処分された。
 都市部の不動産は、国有化された。
 私的な商取引は(1921年以前と1928年以降は)非合法化され、ソヴィエト体制は全ての合法的な卸売りと小売りの取引を統制した。
 こうした措置はモスクワ公国の実務を超えていたが、ロシアの主権者は国を支配するだけではなく所有しもするという原理を永続化するものだった。//
 ----
 (08) 君主は、その住民も所有した。
 ボルシェヴィキは、国家に奉仕する義務を再び制度化した。これは、モスクワ公国・絶対主義の際立つ特質の一つだった。
 モスクワ公国では、皇帝の臣民は、微少な例外を除いて、軍隊や官僚機構で直接的にか、臣民の土地を耕作することでまたは従僕に条件付きで賃貸することで間接的にか、皇帝のために労働しなければならなかった。
 結果として、全国民が王君に繋がれた。
 奴隷状態からの解放は1762年に始まった。その年、郷紳(gentry)たちは私的な生活へと隠退することが認められ、99年後には奴隷解放の結果に至った。
 ボルシェヴィキはすみやかに、モスクワ公国時代の、全ての市民に国家のために労働することを義務づける実務を復活させた。これは、どの外国にも見られなかったことだった。
 処刑の威嚇でもってレーニンの指示に従って1918年に導入され、実施された、いわゆる「一般的な労働義務」は、17世紀のロシアには完璧に理解可能なものだっただろう。
 農民に関しては、ボルシェヴィキは、〈tiaglo〉、木材とりと運搬のような強制労働、の実務を復活させた。こうした労働には手当は支払われなかった。
 17世紀のロシアのように、どの住民も、許可なくしては国を離れることができなかった。//
 ----
 (09) 共産主義官僚機構は、党と国家のいずれに採用された者であれ、全く自然なかたちで、帝制時代の先輩たちの生活様式へと滑り込んだ。
 義務と特権をもつが世襲の権利のない奉仕階級は、もっぱら上級者に対してのみ責任を負う、閉鎖的で細かく等級分けされた階層を形成した。
 帝制時代の官僚機構のように、彼らは法を超越した。
 〈glasnosti〉、つまり外部からの監督なしで働き、秘密の通牒を手段にして時間の多くをつぶした。
 帝制時代には、官僚機構内の上位階層への昇格によって、相続可能な貴族特権が授与された。
 共産主義官僚にとっては、最上位階層への昇進は、〈nomenklatura〉の名簿に含み入れられるという褒賞を伴った。これは、一般の人々は言うまでもなく—共産党員であること自体が奉仕貴族と同義だった—、ふつうの勤労者の手に届かない諸特権をもたらした。
 ソヴィエトの官僚機構は、帝制時代のそれのように、行政諸団体がその統制の外にあるのを容赦せず、すみやかに「国家化される」(statefied)こと、すなわちその指揮権の連鎖の中に統合されることを確実にした。
 これを、新体制の表面的な立法機関であるソヴェトのために、同様に表面的な「支配階級」の機関である労働組合のために行なった。//
 ----
 (10) 共産主義官僚機構が古い様式に迅速に適合すべきだったことは、何ら驚きではない。新しい体制は、多くの点で古い習慣を継続したのだから。
 この継続性を促進したのは、ソヴィエトの管理的職位の相当に大きい部分が元は帝制時代の働き手によって占められていたことだった。彼らはかつての習癖を持ち込み、帝制時代の職務で得た習慣を共産主義の新加入者たちに伝えた。//
 -----
 (11) 治安警察は、ボルシェヴィキが帝制から採用した、もう一つの重要な組織だった。ボルシェヴィキは、全体主義の中心的な制度になるものの手本を他に持っていなかったのだから。
 帝制ロシアは、それだけが二種の警察機構をもっていたことで独特だった。一つは、市民から国家を守るための、もう一つは市民が相互に守り合うための。(*)
 国家犯罪は、意図と行為の間に明確な区別をしないで、きわめて緩やかに定義された。(注14)
 帝制時代の国家警察は、監視の精巧な方法を練り上げていた。雇った情報提供者の網状組織を通じて社会に浸透し、職業的な工作員の助けを借りて反対諸党派に入り込むことによって。
 帝制時代の警察部門には、政治制度の変化を望む気持ちを表現するような、他のどのヨーロッパ諸国でも犯罪ではなかった行為を犯罪だとして、行政的に追放する制裁を課す独特な権限があった。
 アレクサンダー二世の暗殺後に与えられた多様な特権を使って、帝制警察は、1881年から1905年までのロシアを実質的に支配した。(15)
 その手段は全て、ロシアの革命家たちにとってよく知られていた。彼らは、権力へと到達するや、それを採用し、彼らの敵たちに向けた。
 チェカとその後継組織は、帝制の国家警察の実務を吸収した。そして、1980年代の後半には、KGB がほとんど一世紀前にOkhrana が作った手引書を部員に配布するほどになっていた。(16)//
 ----
 (脚注*) 多くのヨーロッパ諸国には政治警察部門があった。しかし、その機能は、調査して容疑者を裁判にかけることだった。帝制ロシアにおいてのみ、政治警察が裁判権をもった。この権能によって、逮捕して、裁判所に頼ることなく容疑者を追放(exile)することができた。
 ----
 (12) 最後に、検閲に関して。
 19世紀の前半、ロシアは、ヨーロッパ諸国の中で唯一、予防的検閲を実施した。 
 検閲は、1860年代に緩和され、1906年に廃止された。
 ボルシェヴィキは、自分たちの体制を支持しない全ての出版を閉鎖し、全ての形態の知的および芸術的表現を予防的検閲の対象にした。最も抑圧的だった帝制時代の実務を再制度化したのだ。
 ボルシェヴィキはまた、全ての出版事業を国営化した。
 こうした方法は、モスクワ公国時代の実務にさかのぼる。ヨーロッパ人は、これに該当するものを知らなかった。(+)
 ----
 (脚注+) 「書物印刷が出現したときから活版印刷が私人の手にあり、書物の出版の主導性が私人にあった西側諸国とは対照的に、ロシアでは、書物の印刷は最初から国家が独占した。このことは、出版活動の方向を決定づけた。…」
 C. P. Luppov, Kniga v Rossi v XVII veke (1970), p.28.
 ----
 (13) ボルシェヴィキは、これら全ての事柄のモデルを、マルクス、エンゲルス、あるいはその他の西側の社会主義者の文献にではなく、彼ら自身の歴史のうちに見出した。かつまた、書物に叙述された歴史というよりも、彼らが皮膚感覚で経験した歴史だった。革命的知識人の発生と活動を予防すべく1880年代に制度化された強化・臨時防止措置の体制のもとで、自分たちが帝制と闘った経験だった。(注17)
 ボルシェヴィキは、こうした実務を、社会主義者の文献から借りた論拠でもって正当化した。諸文献からは、帝制時代に知られていたものをはるかに凌ぐ残虐さと呵責なさをもって行動せよとの命令を受け取っていた。
 ツァーリズムは、ヨーロッパから好ましく見られたいという願いをもっていたが、ボルシェヴィキにとってはヨーロッパは敵だったのだから。//
 ----
 (14) ボルシェヴィキは帝制の実務を真似た、というのではない。逆に、彼らは帝制と何ら関係がないようにしようと、全く反対のことをしようと望んだ。
 彼らは、状況を考慮してやむなく見習った。
 いったん民主主義を拒否すると—これは1918年1月に立憲会議の解散で決定的になった—、独裁的に統治する他に選択肢がなくなった。
 そして、独裁的に支配することは、人々が慣れ親しんできた仕方で彼らを支配することを意味した。
 レーニンが権力掌握をして導入して体制には、最も反動的な帝制ロシアの統治に直接の先行例があった。アレクサンダー三世のそれであり、そのもとで、レーニンは育って大人になった。
 異なる名称をもったとしても、1880年代と1890年代の「反改革」をレーニンがいかに多く繰り返したかは、不思議なことだ。//
 ----
 (15) ロシア革命が実際にそうだったように終焉したのは、何ら驚きではない。
 革命家たちは、人間と社会を再構成するという急進的な思想をもったかもしれない。しかし、過去をモデルにして、人間という素材で成る新しい社会を構築しなければならなかった。
 こうした理由で、彼らは遅かれ早かれ、過去に屈服することになる。
 「革命」(revolution)はラテン語の〈revolvere〉に由来し、この観念は元来は惑星の動きを表現するために用いられたが、中世の占星術者によって、人間界の事象の突然で予期しない転回を説明するために使われた。
 そして、revolvere する対象は、出発地点へと回帰する。//
 ----
 後注。
 (10) SV, No. 6 (1921.4.20), p.6.
 (11) Paul Miliukov, Bolshevism: An International Danger (1920), p.5.
 (12) Jane Burnbank, Intelligentsia and Revolution (1986), p.194 から引用。
 (13) この主題については、私の Russia under the Old Regime (1974) を見よ。
 (14) 同上、p.109.
 (15) 同上、第11章。 
 (16) Oleg Kalugin, Vid s Liubianki (1990), p.35.
 (17) Pipes, Russia under the Old Regime, p.305-p.310.
 ——
 第五節、終わり。つづく。

2603/R・パイプス1994年著結章<省察>第三節・第四節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.500〜。
 ——
 第三節・「ユートピアン」ではないボルシェヴィズム。
 (01) 1991年以後はもはや争いようのなくなった共産主義の失敗の原因は、それは以前のソヴィエト同盟の指導者たちも認めているのだが、言うところの高貴な理想に達することのできない人間の欠点にあった、としばしば指摘されている。  
 釈明論者たちは、努力が報われなかったとしても、その意欲は高貴であって、企てには価値があった、と言う。彼らはこのような主張を支えるために、ローマ時代の詩人であるPropertius の言葉、「In magnis et voluisse sat et」ー「偉大な企ては、そう意欲するだけで十分だ」—を引用し得るだろう。
 しかし、ふつうの人間の望みとはまるで合致しないために、追求するには最も非人間的な手段に依拠しなければならない、そのような企てがいかほどに偉大だったのか?//
 ----
 (02) 共産主義の実験は、しばしば「夢想的」(ユートピアン、utopian)と称される。
 かくして、ソヴィエト同盟に関する最近のある歴史書は、決して同情的にでなく、〈権力のユートピア〉(Utopia in Power)という書名を用いている。
 しかしながら、この言葉は、エンゲルスが用いた限定的な意味でのみ用いることができる。彼は、マルクスの「科学的」教理を受容しない社会主義者たちの見解は歴史的かつ社会的な現実を考察していないとして、彼らを批判するために、この言葉〔「空想的」(「夢想的」〕)を用いた。
 レーニン自身が、その生涯の最後に、やむなくこう認めることを強いられた。すなわち、ロシアの文化的現実を無視し、ボルシェヴィキが課そうとした経済的社会的秩序を形成する用意がロシアにはないことを無視したという罪責がボルシェヴィキにはある、ということを。
 ボルシェヴィキは、その理想が達成不可能であることが明白になると、無制限の暴力に訴えることによってその企てを継続した。
 ユートピアン共同体がいつでも想定していたのは、「共働的共同社会」(cooperative commonwealth)を創出するという任務について、党員たちに一致がある、ということだった。
 対照的にボルシェヴィキは、そのような一致を獲得しようとしなかったのみならず、個人や集団の主導による全ての見解表明を「反革命」だとして拒絶した。
 ボルシェヴィキはまた、虐待や弾圧に関する見解を除けば、彼ら自身とは異なる全ての見解を立憲主義的に検討する能力のなさを晒け出した。
 ボルシェヴィキは、こうした理由から、ユートピアンたち(Utopians)ではなく、狂信者たち(fanatics)と見なされるべきだ。
 彼らは目の前でそれを凝視した後でも、敗北を認めるのを拒んだ。これは、目標を忘れるという努力を倍加させるという、Santayana による狂信者の定義を充足している。//
 ----
 (03) マルクス主義とボルシェヴィズムは、その誕生そのものが、暴力に取り憑かれたヨーロッパの知的生活の産物だった。
 自然選択に関するダーウィン理論は、中心では妥協なき闘いが行なわれるという社会哲学へと、すみやかに翻訳された。
 Jacques Barzun は、こう書く。「1870年-1914年の文学の手ごろな部分を渉猟しなかった者は、誰一人として、血を追い求めた大きさの程度を理解しなかった。また、ヨーロッパの古代文明について啓発されている市民が別々にかつ矛盾して執拗に求めた血は、多様な党派、階級、民族、人種の血だったことを、思い抱けなかった。」(注9)
 ボルシェヴィキ以上に熱狂的にこの哲学を吸収した者たちはいなかった。
 「呵責なき暴力」、全ての現実的または潜在的な対抗者の破壊を目ざして突き進む暴力は、レーニンにとって、最も有効だったばかりか、問題を処理するための唯一の方策だった。
 そして、その非人間性に彼の仲間たちの一部が怯んだとしても、その彼らもまた、自分たちの指導者の退廃的影響力から逃れることができなかった。//
 ----
 (後注09) Jacques Barzun, Darwin, Marx, Wagner: Critique of a Heritage (1941), p.100-1.
 ——
 ——
 第四節・イデオロギーの機能。
 (01) ロシアの民族主義者たちの考えでは、共産主義は、ロシアの文化や伝統には疎遠なもので、西側から輸入された一種の疫病だった。
 ウイルスだとする共産主義に関するこの意識は、僅かばかりの検証にも抵抗することができなかった。
 知識人たちの運動は国際的には広く見られたけれども、共産主義はまずロシアで、ロシア人のあいだで、定着した。
 ボルシェヴィキ党は、革命の前も後も、圧倒的にロシア人で構成されており、その初期の基盤は、ヨーロッパ・ロシアと境界諸国のロシア人移住者にあった。
 疑いなく、ボルシェヴィズムの基礎にあった〈諸理論〉、とくにカール・マルクスのそれは、西側出自のものだった。
 しかし、ボルシェヴィキの〈諸実践〉が独自のもので、西側のどこでもマルクス主義はレーニン主義=スターリン主義という全体主義の過剰へと行き着かなかった、ということも同様に疑い得ない。
 ロシアで、そしてのちには同様の伝統のある第三諸国で、マルクス主義は、自治、法の遵守、私的財産の尊重という伝統を欠く土壌で育った。
 異なる環境で異なる結果が生じる原因は、満足な説明としてはほとんど役立たない。//
 ----
 (02) マルクス主義は、権威主義の傾向とともにリバタリアン(libertarian)的なそれをもつ。そしてこの両者への影響はいずれも、国の政治的文化に依存している。
 マルクス主義の教理にあるこれらの要素はロシアでは次第に優位を獲得して、ロシアの家産的(patrimonial)な遺産にぴったりと適合した。
 中世以来のロシアの政治的伝統では、政府は—より正確には支配者は—客体であって、「国」(the land)が主体だった。
 この伝統は容易に「プロレタリアート独裁」というマルクス主義の観念と融合した。この観念のもとで支配党は、国の住民と資源に対する不可分の支配権を要求した。
 「独裁」に関するこのマルクスの考えは十分に漠然としたものだったので、最も手近にあった家産主義というロシアの歴史的遺産の内容でもって充填された。
 全体主義を生み出したのは、ロシアの家産的遺産という頑丈な幹への、マルクス主義イデオロギーの移植だった。
 全体主義は、マルクス主義の教理とロシアの歴史と、そのいずれかに論及することだけでは説明することができない。これら両者の統合の結果だったからだ。//
 ----
 (03) しかしながら、イデオロギーとして重要であっても、共産主義ロシアの形成におけるその役割は、強調されすぎてはならない。
 かりに個人または集団が一定の信念を表明し、自分の行動を誘発するものとしてその信念に言及するとすれば、その思想の影響を受けて行動している、と言ってよいかもしれない。
 しかしながら、思想というものは、説得と強制のいずれかによって他者に対する支配を正当化できるほどには、自分の個人的行為を指揮するために用いられはしない。そうだととすれば、問題は複雑になる。なぜなら、説得と強制力のいずれが思想に役立つかを決するのは不可能であり、反対に、思想はこのような支配を確保または正当化するために役立つからだ。
 ボルシェヴィキの場合は、上の後者を継続した。ボルシェヴィキはあらゆる考え得る仕方でマルクス主義を歪曲し、まず政治権力を獲得し、ついでそれを維持し続けたからだ。
 かりにマルクス主義が何かを意味しているとすれば、つぎの二つだ。すなわち、第一に、資本主義社会はその成熟とともに内部矛盾から崩壊する宿命にある、第二に、その崩壊(「革命」)は工業労働者(「プロレタリアート))によって遂行される。
 マルクス主義理論に喚起された体制は、少なくともこの二つの原理に執着していただろう。
 ソヴィエト・ロシアに、我々は何を見るか?
 「社会主義革命」は、資本主義がまだ幼年期にある、経済的には後進国で実行された。そして、労働者階級の意欲は非革命的なままだという見解を抱く党によって、権力が奪取された。
 やがて、歴史の全段階で、ロシアの共産主義体制は、マルクス主義のスローガンでその行動を覆っているときですらマルクス主義の教理を考慮することなく、何でも全てのことを挑戦者を打倒するためにならば行なった。
 レーニンは、まさにメンシェヴィキならば躊躇しただろうマルクス主義の良心から自由だったがゆえに、成功した。
 こうしたことを考えれば、イデオロギーは補助的な要因として扱われなければならない。
 新しい支配階級の願望や思考様式はおそらく、その行動を決定する、あるいは後世にその理由を説明する、そのいずれかを行なう一体の諸原理で成ってはいなかった。
 概して言って、ロシア革命の現実の行程を知らなければ知らないほど、マルクス主義思想がもった支配的な影響力に要因を求めたがるものだ。(*)
 ----
 (脚注*) 歴史における思想の役割に関する議論は、ロシア歴史学に限られはしない。イギリスでもアメリカでも、この問題については激しい論争が行なわれてきた。イデオロギー学派の擁護者は、とくにLouis Namier の手によって、顕著な敗北を喫した。Namier は、18世紀のイギリスの思想は、全体として見れば、個人的または集団的な利害によって喚起された行動を合理化するために奉仕した、と論証した。
 〔Louis(Lewis) Namier、1888年〜1960年、現在のポーランド出身のイギリスの歴史学者。—試訳者。〕
 ——
 第三節・第四節、終わり。つづく。

2602/R・パイプス1994年著結章<省察>第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.497〜。
 ——
 第二節・ボルシェヴィキの権力掌握
 (01) ロシア革命で社会的経済的要因が果たした役割が相対的に小さかったことは、1917年二月の事件を考察すれば、明らかになる。
 二月は、「労働者」革命ではなかった。工業労働者たちは合唱隊の役を演じて、本当の主演者である軍隊に反応し、その活動を増幅させた。
 ペテログラード守備連隊の暴乱は、物価上昇と物資不足に不満な市民たちのあいだでの混乱を刺激した。
 ニコライが4年後にレーニンとトロツキーがKronstadt 蜂起と国土じゅうの農民反乱に直面した際に用いた、それと同じ残忍な鎮圧方法を選んでいたならば、暴乱は落ち着いていただろう。
 しかし、レーニンとトロツキーの関心は権力を握り続けることにあったのに対して、ニコライはロシアのことを気に懸けた。
 将軍とDuma 政治家たちが、軍隊を救い、屈辱的な降伏を避けるために退位すべきだと説得したとき、彼はおとなしく従った。
 権力にとどまり続けることが至高の目標であったならば、ニコライは容易にドイツと講和条約を締結し、軍隊を暴乱者たちに対して解き放っただろう。
 ツァーリは労働者と農民の反乱によって退位を迫られるという神話がまさに神話だったのは、記録からも疑いの余地はない。
 ツァーリが屈服したのは、反乱する民衆にではなく、将軍と政治家たちに対してだった。そして、愛国的な義務意識からそうした。//
 ----
 (02) 社会的革命は退位に先行したというよりも、むしろその後に続いた。
 連隊兵士、農民、労働者、民族少数派は、各グループがそれぞれの目標を追求し、そのために国は統治不能になった。
 秩序を復活させる可能性は、臨時政府ではなくてソヴェトこそが正統な権威の淵源だと主張する、ソヴェトを動かす知識人層の主張によって挫折していた。 
 民主主義の敵は左翼の側にはいないと考えたケレンスキーの適確でない企てによって、政府の失墜は加速した。
 国全体が—その資産とともに政治的実体が—〈duvan〉、つまり略奪品の分配の対象になった。その進展が行き着くまで、誰にも止める力がなかった。//
 ----
 (03) レーニンは、この無政府状態の中で権力へとつき進んだ。この状態をむしろ大いに促進したのだ。
 彼は、全ての不満グループに、それらが求めるものを約束した。
 農民たちの支持を得るために、社会主義革命党の「土地の社会化」綱領を吸収した。
 労働者たちには、工場の「労働者による統制」に関するサンディカリスト的傾向を激励した。 
 兵士たちに向けては、講和の展望を約束した。
 民族少数派に対しては、民族自決権を提示した。
 実際には、これら全ての誓約は彼の基本方針に反しており、それらの提示が目的を達成するとすみやかに破られた。このことは、国を安定化させようとする臨時政府の努力を無為にすることになった。//
 ----
 (04) 同様の欺瞞は、臨時政府の権威を落とすためにも用いられた。
 レーニンとトロツキーは、ソヴェトと立憲会議への権力の移行を呼びかけるスローガンを用いて、一党独裁制の願望を隠蔽した。そして、問題を孕んだソヴェト大会の開催でもって、それを正当化した。
 ボルシェヴィキ党の一握りの指導者たち以外の誰にも、こうした約束やスローガンの背後にある真実が分からなかった。
 したがって、1917年10月25日の夜にペテログラードで起きたことを、ほとんど誰も気づかなかった。
 いわゆる「十月革命」は、古典的なクー・デタだった。
 その準備はきわめて内密に行なわれたので、カーメネフが事件の一週間前の新聞インタビューで党は権力奪取を意図していると暴露したとき、レーニンは、彼を裏切り者と宣告し、除名を要求した。(注5)
 もちろん、本当の革命であれば、予定表はなく、裏切られることもない。//
 ----
 (05) ボルシェヴィキが臨時政府を打倒した容易さ—レーニンの言葉では「一枚の羽毛を持ち上げる」ようだった—によって、多数の歴史家は十月のクーは「不可避」だったと納得してきた。
 しかし、そう思えるのは、過去を振り返って見たときに限ってだ。
 レーニン自身が、きわめて不確かな(chancy)企てだと考えていた。
 1917年9月と10月の隠れ場から中央委員会に宛てた切迫した手紙で、成功は武装蜂起を実行する速度と決断に完全にかかっている、と彼は主張していた。
 10月24日に、こう書いた。「蜂起を遅らせるのは死ぬことだ。全てが間一髪に(on a hair)かかっている」。(注6)
 これは、歴史の趨勢を信頼する心構えのある、そのような人物が抱く感情ではない。
 トロツキーは、のちにこう主張した。—他のいったい誰がよりよく知る立場にいただろうか?
 もしも「レーニンと自分がペテルブルクにいなければ、十月革命は存在しなかっただろう」。(注7)
 わずか二人の個人の存在に依拠している、「不可避の」歴史的事件を、想定することができるか?//
 ----
 (06) こうした証拠でもまだ確信を得られないならば、ペテログラードでの1917年十月の事件を精細に見るだけで足りる。「大衆」は観衆として振る舞って、冬宮への突撃を訴えたボルシェヴィキを無視したことを知るだろう。冬宮では、臨時政府の年長の大臣たちが外套で身を包み、若いカデットたち〔立憲民主党員〕、女性兵団、個人の小隊によって守られていた。
 我々はトロツキーの権威に従うことができる。彼自身によると、ペテログラードの十月「革命」は「せいぜい」2万5000人から3万人によって達成された。(注8)—この数字は、全国土に1億5000万人がおり、都市部には40万人が、連隊兵士たちが20万人以上いた、という中でのものだ。//
 ----
 (07) 独裁的権力を掌握した瞬間から、レーニンは、のちに「全体主義的」(totalitarian)と名付けられた体制の基礎を掃き清めるために、全ての既存の制度を根絶し続けた。
 この「全体主義的」という用語は、冷戦期のものだと考えて用法を避けようと決めた西側の社会学者や政治学者に嫌悪されてきた。
 しかしながら、検閲機関がこの用語の使用禁止を解除したとき、いかにすみやかにソヴィエト同盟でこれが好まれるに至ったかは、注目に値する。
 かつての歴史には知られないこの種の体制は、私的だが全能の権力を国家に押し付け、全ての組織生活を例外なく自らに従属させる権利があると要求し、その意思の履行を無制限のテロルでもって強要した。//
 ----
 (08) 全体を総合的に見れば、レーニンの歴史的な著名さは、きわめて劣っていた政治家たる資質によるのではなく、その統率の手腕によっていた。
 彼は、歴史の大きな征圧者の一人だった。この特質は、彼が征服した国は自分自身の国だけだったということで損なわれることはない。(*)
 レーニンの考えの新しさ、そして成功した理由は、政治を軍事化したことにあった。
 彼は、内政や外交を言葉の文字通りの意味での軍事行動として扱った、最初の国家の長だった。その目的は敵を服従するよう強いることではなく、殲滅することだった。
 レーニンはこの新しい考えによって、対抗者たちに対して顕著な有利さを獲得した。対抗者たちにとっては、軍事は政治の反対物であるか、そうでなければ異なる手段によって追求される政治だったからだ。
 彼は、軍事化した政治、そしてその結果としての政治化した軍事行動によって、先ず権力を掌握し、それを維持し続けることができた。それによって、まともに生育する社会的、政治的秩序の形成が助けられたのではない。
 彼は、ソヴィエト・ロシアとロシア依存国に対する争いの余地なき権威を主張したあとですら、闘って破壊すべき新しい敵を見出さなければならなかった。今は教会、つぎは社会主義革命党、そのつぎは知識人層。このようだったのは、全ての「前線」へと突撃することにきわめて習熟するに至っていたからだ。
 この好戦性は、共産主義体制の不変の特質になった。そして、スターリンの悪名高いつぎの「理論」で絶頂を極める。すなわち、共産主義が最終的な勝利に接近すればするほど、社会的対立はそれだけいっそう強くなる。—これは、空前無比の残忍さによる大量虐殺を正当化する考えだった。
 かくして、レーニン死後60年のうちに、ソヴィエト同盟は国内および外国での不必要な闘争でもって消耗し尽くし、自らを肉体的にも精神的にも破滅させた。 
 ----
 (脚注*) Clausewitz はすでに1800年代の早くに、ヨーロッパ文明をもつ大国を獲得するのは、さもなくば内部的分割以上に不可能」になる、と書いていた。Carl von Clausewitz, The Campaign of 1812 in Russia (1843), p.184.
 ——
 後注
 (05) RR〔=Richard Pipes, Russian Revolution〕, p.484-5.
 (06) Lenin, PSS, XXXIV, p.435-6.
 (07) Lev Trotskii, Dnevniki i pis'ma (1986), p.84.
 (08) Lev Trotskii, Istoriia russkoi revoliutsii, II, Pt. 2 (1933), p.319.
 ——
 結章・第二節、終わり。第三節へと、つづく。
 

2601/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.493〜。
 ——
 第一節・革命の原因②。
 (08) 農奴制の伝統と農村ロシアの社会制度—共有の家族資産とほとんど一般的な共同体による土地保有の制度—は、農民層が近代的市民性のために必要な性質を発展させるのを妨げた。
 農奴制は奴隷制ではなかったけれども、農奴は奴隷と同じく法的権利をもたず、ゆえに法の感覚がなかった点では共通していた。
 ロシアの指導的な古典的古代の歴史家で1917年の目撃者だったMichael Rostovtseff は、こう結論づけた。農奴制は、自由を全く知らず、そのことで農奴が真の市民たる性質を獲得するのが妨げられたという点では、奴隷制よりも悪かった、と。彼の見解では、これは、ボルシェヴィズムの主要な教条だった。(注4)
 農奴にとっては、権威とはまさにその性質からして恣意的だ。そして、それから自衛するために彼らは、法的権利や道徳上の権利への訴えに頼らないで、策略に依拠した。
 彼らは、原理にもとづいて政府を理解することができなかった。彼らにとっての生活は、ホッブズの全てに対する全ての者の戦いだった。
 このような姿勢は、専制主義(despotism)を助長した。内的な紀律と法への敬意が不在であれば、外部から課されるべき秩序が必要になるからだ。
 専制主義が作動するのを止めたとき、無政府状態が発生した。
 そして、いったん無政府主義が行路を進み始めるや、それは不可避的に、新しい専制主義を生み出すことになった。//
 ----
 (09) 農民層は、ある一点でのみ、革命的だった。すなわち、農民層は、土地の私的所有を承認しなかった。
 彼らは革命の前夜に国の耕作地の10分の9を保有していたけれども、地主、商人、共同体に属さない農民がもつ残りの10パーセントを強く欲しがった。
 経済的な議論も法的なそれも、彼らの意思を変えなかった。彼らは、その土地に対して神から付与された権利をもつ、いつかは自分たちのものになる、と感じていた。
 そして、自分たちという言葉で意味させたのは、構成員に公正に土地を分与する共同体だった。
 ヨーロッパ・ロシアで共同体による土地保有が優勢だったのは、農奴制の遺産であるとともに、ロシア社会の歴史の基礎的な事実だった。
 これが意味したのは、法の感覚が微小にしか育たなかったことのほか、農民もまた個人的な私的財産をほとんど尊重しない、ということだった。
 急進的知識人たちは、農民層を現状に対抗させようとする彼らの目的のために、こうした傾向をいずれも利用した。(*)//
 ----
 (脚注*) 1880年代に革命家の経歴を開始し、レーニンの独裁を目撃したVera Zasulich は、1918年に、ボルシェヴィズムを支持する社会主義者の責任は財産を奪おうと労働者—農民層をこれに加えることができよう—を扇動したが、市民の義務については何も教えなかったことにある、ということを承認した。NV, No. 74/98 (1918.4.16), p.3.
 ----
 (10) ロシアの工業労働者たちが潜在的に不安定だったのは、革命的イデオロギーを吸収したがゆえにではなかった。—そうしたのは彼らのうちごく少数で、その者たちですら革命的諸政党の指導的地位からは排除された。
 そうではなく、彼らのほとんどは一世代前に、またはせいぜい二世代前に、農村から移り住み、表面的にだけ都市化していたので、彼らは工場へと農村的態度を持ち込み、ごく僅かにだけ工業の環境に適応していたからだ。
 彼らは社会主義者でななく、サンディカリスト(syndicalist)だった。彼らの村落が全ての土地について権利を与えられたように、彼らも工場について権利がある、と考えた。
 彼らが政治に関心をもったのは、農民層と同じような程度でだった。この意味でも、彼らは、原始的な、イデオロギー性のない無政府主義の影響下にあった。
 さらに、ロシアの工業労働者は、数の上で取るに足らず、革命で大きな役割を果たさなかった。せいぜい300万人の労働者では(彼らの多くは季節雇用の農民でもあった)、全国民の僅か2パーセントを代表しているにすぎなかった。
 教授たちに指導された大学卒業生の多数は、西側、とくにアメリカ合衆国でと同様にロシアでも、革命以前のロシアの労働者に急進主義の証拠があったことを探し出そうとして、せっせと歴史的資料を調べた。
 その結果として学術書ができたが、ほとんどが無意味な出来事や統計資料で充たされた。そして、歴史はつねに興味深いが、歴史書は空虚でも退屈でもあり得るということを、あらためて証明した。//
 ----
 (11) 革命が起きた主要で、議論の余地はあるが決定的な要因は、知識人層(the intelligentsia)だった。ロシアの知識人たちは、他のどこよりも大きな影響力をもっていた。
 帝制時代の公務員の独特な「階位」制度は外部者を管理部門から排除した。最高の教育を受けた者を遠ざけ、西ヨーロッパでは構想されたが実行されなかった、社会改革のための空想的計画を、その者たちが受け入れやすいようにした。  
 代表的〔準議会〕制度と自由なプレスが1906年までなかったことで、教育の普及と結びついて、文化的エリートにはもの言わぬ民衆に代わって発言する権利がある、という主張をすることが可能になった。
 知識人が「大衆」の意見を実際に反映していた、とする証拠資料は存在していない。反対に、証拠が示しているのは、革命の前も後も、農民と労働者たちは知識人に対して強い不信の念をもっていた、ということだ。
 このことは、1917年とそれに続く数年で明確になった。 
 しかし、民衆の本当の意思はそれを表現する回路がなかったので、ともかくも1906年に短命の立憲的秩序が導入されるまでは、知識人たちは民衆の代弁者であるとの虚像を作ることができた。//
 ----
 (12) 政治機構を正当化するものが存在しない他諸国のように、ロシアの知識人は自分たちで一つの階層を構成した。そして、思想が彼らに一体性と団結を与えたので、彼らは、極端な知的偏狭さを身に付けた。
 人間は環境により塑形される物質的実在にすぎないという、またその帰結として環境の変化は不可避的に人間の本性を変化させるという、啓蒙主義の考え方を採用して、知識人たちは、「革命」はある政府を別の政府に変えることではなく、比較にならないほどに大がかりなものだ、と見た。人間の新しい種を生み出すという目的をもつ、人間の環境の全体的な大変造なのだ。—むろんロシアでのことだが、他のどこでも同じだ。
 現状の不公平さを強調するのは、民衆の支持を獲得する手段にすぎなかった。こうした不公平さをどんなに是正しても、急進的な知識人たちはその革命的熱意の放棄を説得されなかっただろう。
 このような信念は、多様な左翼党派を結合させた。アナキスト、社会主義革命家〔エスエル〕、メンシェヴィキ、そしてボルシェヴィキ。 
 科学的用語を使っても、彼らの見解は矛盾する根拠に気づいておらず、そのゆえに宗教的信仰にきわめて近いものだった。//
 ----
 (13) 知識人層は、我々は権力を渇望する知識人と形容したのだが、既存の秩序に全的かつ非妥協的に敵対した。
 自殺をするなら別として、ツァーリ体制が行うことができたもので、彼らを満足させるものは一つもなかっただろう。
 彼らは、民衆の条件を改良するためにではなく、民衆への支配を獲得して、民衆を自分たちのイメージに作り変えるために革命家になった。
 だが、帝制に立ち向かったにせよ、のちにレーニンが持ち込んだような手段を使う以外には、挑戦し、攻撃する方法をもっていなかった。
 諸改革は、1860年代のであれ1905-6年のであれ、急進派の欲求を強めただけで、革命的な過度の行動へといっそう彼らを刺激した。//
 ----
 (14) 農民の要求に苦しめられ、急進的知識人層から直接の攻撃を享けて、崩壊を避けるためには帝制には一つの手段しかなかった。それは、社会の保守的要素と権力を分有し、権威の基盤を拡張することだった。
 歴史の先例が示すのは、成功した民主政体はもともとは権力分有を上位階層に限っていた、それがやがてその他の国民の圧力を受けるに至り、その結果として上位階層の特権がふつうの権利になった、ということだ。 
 数の上では急進派よりもはるかに多い保守層を巻き込むことは、政策決定と行政の両面で、政府と社会の間に有機的紐帯のようなものを作り出すだろう。そして、大変動の事態のときには帝制への支持を保障し、同時に、急進派を孤立させるだろう。
 帝制に対して、このような行路の選択が、何人かの先見の明のある官僚や私人から強く勧められた。
 大改革のあった、1860年代にこれが採用されるべきだっただろう。だが現実には、そうされなかった。
 ついに1905年に、民衆全体に広がる反乱によって議会制の導入を余儀なくされたとき、君主制の側はもうこの選択肢を利用しなかった。合同したリベラル派と急進派の反対勢力が、民主主義的参政権に近いものを認めるよう強いたからだ。
 この結果として、議会(ドゥーマ、Duma)での保守派は、戦闘的な知識人と無政府主義の農民に覆い隠されてしまった。//
 ----
 (15) 第一次世界大戦は全ての交戦諸国に甚大な負担を課した。その負担は、愛国主義の名のもとでの政府と市民層の緊密な協力によってのみ克服することができた。
 ロシアでは、このような協力関係は一度も実体化されなかった。
 軍事的失敗によって元々の愛国的熱狂が消散し、国が消耗戦争を遂行しなければならなくなったとき、ツァーリ体制は民衆の支持を動員することができないことを知った。
 崇敬者ですら、それの挫折の時点で君主制は漂浪していることに同意した。//
 ----
 (16) 政治権力を支持者たちと分有するのをツァーリ体制は拒否し、そしてそれを強いられたときには不承々々かつ欺瞞的にそうした。その動機は、複雑だった。
 心の奥底で王室、官僚機構、職業的将校たちに浸透していたのは、ロシアはツァーリの私的領有物だと見る因習的考え方だった。
 18-19世紀のモスクワ公国の推移の中で伝統的制度は次第に廃止されていったけれども、精神性は生き残った。
 そして、官僚層のみならず、農民層もまた伝来的な語句でもって思考して、強くて不可分の権威の存在を信じ、土地は帝制の財産だと見なした。
 ニコライ二世は、その継承者として専制を維持することを当然視した。無制限の権威は彼にとって受託した権能であって、弱める権利があるはずのない財産権と同等のものだった。
 彼は、皇位を守るために1905年に国民が選出した議員たちと権威を分かち合うのを同意したことについて、罪の感覚を拭い去ることができなかった。//
 ----
 (17) ツァーリとその補佐者たちはまた、社会の少数部分とすら権限を分有するのは官僚制機構を混乱させ、民衆がさらなる参加を要求することになるだろうと怖れた。
 上の後者の場合、主要な受益者は、ツァーリとその補佐者たちが全くの無能だと考えている知識人層になるだろう。
 加えて、このような譲歩を農民たちが誤解して、暴動に進むという懸念もあった。
 また最後に、ツァーリに対してのみ責任を負い、その裁量によって国の行政を行ない、そこから多数の利益を得ている官僚機構が改革に反対している、ということもあった。//
 ----
 (18) このような要因は君主の側が政府への発言権を保守派に付与することを拒んだことの説明にはなるが、正当化はしない。それが直面した問題の多様さや複雑さによって、いずれにせよ官僚機構が多くの効果的な権限を奪われたとしても、そうだ。 
 19世紀の後半に資本主義的諸制度が出現して、国の資源の統制権の多くは私人の手に移った。これは、家父長的財産制の残余を破壊した。//
 ----
 (19) 要するに、帝制の崩壊は不可避ではなかったが、それは、ツァーリ体制が国の経済的文化的成長に適応するのを妨げた文化的および政治的欠陥が、そして第一次大戦により生まれた圧力のもとでは致命的な欠陥が、根深いところにあったことによる、と言えそうだ。
 このような適応の可能性が存在したとしても、政府を転覆させてロシアを世界革命の跳躍台として用いようと決意する戦闘的知識人層の活動によって、挫折しただろう。 
 ツァーリ体制の崩壊の原因となったのはこうした性格の文化的、政治的欠陥だったのであり、「抑圧」や「窮乏」ではなかった。
 我々はここで、原因はこの国の過去に遠く遡る民族的悲劇を論述している。
 経済的、社会的苦難は、1917年以前にあった革命の脅威に大きく寄与したのではなかった。
 「大衆」が—現実的にであれ夢想的にであれ—どのような不満を抱いていても、彼らは革命を必要としなかったし、革命を望みもしなかった。
 革命に関心を寄せた唯一のグループは、知識人層だった。
 言うところの民衆の不満や階級の対立の強調は、現実にある事実にではなく、イデオロギー上の先入観に由来した。すなわち、政治的進展はつねにかつどこでも社会経済的対立によって駆り立てられている、それは現実に人間の運命を動かしている潮流の表面にある「水泡」にすぎない、という信用の措けないないイデオロギーにだ。//
 ----
 後注
 (04) Michael Rostovtseff in NV, No. 109/133 (1918.7.5), p.2.
 ——
 結章・第一節、終わり

2600/R・パイプス1994年著結章<省察>第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。
 この最後の章はこの欄に試訳を全て掲載したと思っていたが、間違いで、掲載済みは<第六節・レーニニズムとスターリニズム>だけだった。
 →2018/11/08(1490再掲)→2017/04/09(1490・日本共産党の大ウソ33)
 最初の第一節から試訳を掲載する。第六節も含める。「結章」という趣旨の言葉は使われていない。
 ——
 結章/ロシア革命に関する省察。
 第一節・革命の原因①。
 (01) 1917年のロシア革命は一つの事件ではなく、一つの過程ですらなかった。そうではなく、多かれ少なかれ同時期に起きた、だが異なる、ある程度は矛盾する目標をもつ関係行動者たちを巻き込んだ、一続きの破壊的で暴力的な行動だった。
 ロシア革命は、ロシア社会の最も保守的な要素の反乱として始まった。その保守的要素は、王室のRasputinとの親交関係や戦争遂行の不手際にうんざりしていた。
 反乱は、保守派から、君主制が残れば革命が不可避になるという怖れから君主制に反対していたリベラル派へと、広がった。
 君主制に対する攻撃は、もともとは、広く信じられているように厭戦気分からでななく、戦争をより効果的に遂行させようという望みから、行なわれた。革命を起こすためではなく、革命を防ぐためだった。
 1917年2月、ペテログラード守備連隊が群衆市民に発砲するのを拒んだとき、将軍たちは、議会〔または準議会)の政治家たちの同意を得て、騒乱が前線にまで波及するのを阻止しようと、皇帝ニコライ二世に退位を承服させた。
 軍事的な勝利のために行なわれた退位は、ロシアが国家であることを示す殿堂全体を引き倒した。//
 ----
 (02) 元来は社会的不満分子も急進的知識人たちもこうした出来事に重要な役割を何ら果たさなかったけれども、いずれも、今まであった帝制の権威が崩壊する最前部へと移っていた。
 1917年の春と夏、農民たちは共同体に属さない資産の奪取と自分たちへの配分を始めた。
 次に、反乱は前線の兵団へと広がり、彼らは戦利品の分け前を奪い合って脱走した。また、工業企業体の指揮権を握った労働者へと、自治の拡大を望む民族少数派へと広がった。
 各グループは、それぞれの目標を追求した。しかし、国の社会的経済的構造に対する攻撃が積み重なることによって、1917年の秋までに、ロシアにアナーキー(無政府)の状態が生まれた。//
 ----
 (03) 1917年の諸事件が明らかにしたのは、広大な領域と強い権力があるにもかかわらず、ロシア帝国は脆弱な人為的構造物であり、支配者と被支配者を結びつける有機的紐帯によってではなく、官僚制、警察および軍隊が提供する機械的な連結関係によって一つにまとまっている、ということだった。
 ロシアの1億5000万の住民は、強い経済的利害によっても、民族的一体性(national identity)によっても、結びついていなかった。
 大部分は自然経済である国の数世紀にわたる専制的支配は、強い水平的紐帯が形成されるのを妨げた。帝国ロシアは、ほとんど布地のない縦糸だった。
 このことを、ロシアの指導的な歴史家であり政治家であるPaul Miliukov は、当時に指摘していた。
 「ロシア革命の特殊な性格を理解するためには、我々自身がロシアの歴史の全過程を通じて形成した特有の性質に、注意を向けなければならない。
 私には、これら全ての特質は一つに収斂している、と思える。
 ロシアの社会構造を他の文明諸国のそれと区分けする根本的差異は、社会を構成する諸要素の強い結合または接合の弱さまたは欠如だ。
 ロシアの社会集団の統合の欠如は、文化生活の全ての諸側面に観察することができる。政治的、社会的、心理的、そして民族的諸側面。/
 政治的観点からは、ロシアの国家制度はそれが支配している民衆一般との結合と融合を欠いていた。…
 こうした様相の帰結として、東ヨーロッパの国家制度は、不可避的に西側のそれとは異なる一定の形態を採用した。
 東側の国家には、有機的な進化の過程を経て内部から発生する時間的余裕がなかった。
 それは、外部から東ヨーロッパへともたらされたのだ。」(注1)/
 こうした要因を考慮すると、革命はつねに社会的(「階級的」)不満から生じる、というマルクス主義の考え方を支持することはできない、ということが明確になる。
 どこでもそうであるように、そのような不満は帝国ロシアにも存在した。しかし、体制の崩壊とその結果としての混乱を生み出した決定的で直接的な要因は、圧倒的に政治的なものだった。//
 ----
 (04) 革命は不可避だったか?
 何事も全て起きるべくして起きる、と考えるのは自然だ。そして、この幼稚な信念を似非科学的な論拠でもって合理化する、そのような歴史家がいる。過去を予言すると主張するがごとくに適確に未来を予言できるならば、そのような者はいっそう確信をもつだろう。
 お馴染みの法的格言を言い換えると、心理学的には、起きたこと自体が歴史的正当化の十分の九を提供する、と語り得るかもしれない。
 E・バーク(Edmund Burke) は、フランス革命を疑問視したことで、狂人だと当時は広く見なされた。70年のちにも、Matthew Arnord によると、バークの考え方はなおも「時代遅れで、ゆえに事象によって克服される」と考えられていた。—歴史的事象に関するこのような合理性への、そのゆえに不可避性への信仰は、きわめて根深い。
 歴史的事象が壮大で重要であればあるほど、それだけ、その帰結は疑問視するのが不可能な事物の自然な秩序の一部であるように、ますます思えてくる。//
 ----
 (05) 最も語り得ることは、ロシアでの革命の蓋然性はなかった、といよりもあった、ということだ。これにはいくつかの理由がある。
 もちろん、おそらく最も重要なのは、不可侵の権威によって支配されることに慣れていた—まさに、この不可侵性のうちに正統性の標識を見ていた—民衆から見て、帝制の威厳が着実に衰退していたことだった。
 軍事的勝利と拡張の一世紀半のち、19世紀半ばから1917年まで、ロシアは、連続する屈辱を外国によって経験してきた。自分の領域内での敗北であるクリミア戦争、トルコに対する勝利の戦果のベルリン会議での喪失、日本との戦争での大失敗、そして、第一次大戦でのドイツへの大敗。(注2) 
 このように連続して敗北すれば、どんな政府であっても評価を落とすだろう。ロシアでは、致命的だった。
 ツァーリ体制の恥辱と同時期に併せて発生したのは革命運動で、過酷な弾圧に訴えたにもかかわらず、体制は鎮圧することができなかった。
 社会と権力を分け合うという1905年の気乗り薄い譲歩によっては、ツァーリ体制は反対派の人気を博することもなく、民衆全体から見てその威厳を高めもしなかった。一般民衆は、支配者はどのようにして政府機構に関する公的議論の場で嘲弄されるがままに放っておけるのか、理解することができなかっただろう。
 T'ienming、あるいは天命(Mandate of Heaven)という孔子の原理は、その元来の意味では道理ある行動をする支配者の権威と結びついているが、ロシアでは、力強い行動に由来した。弱い支配者、「敗北者」はそれを失うのだ。
 ロシアの国家の主を道徳性や大衆性を基準にして判断することほど、誤解を招くものはないだろう。重要なのは、皇帝が味方や敵に恐怖を掻き立てることにあった。—イワン四世に似て、ニコライ二世は「畏怖すべき」との異名に値した。
 ニコライ二世は、憎悪されたためではなく、軽蔑されたがゆえに退位した。//
 ----
 (06) 革命が起きた要因の中には、政治的構造に一度も統合されなかった、ロシアの農民層の心性(mentality)があった。
 農民たちはロシア住民の80パーセントを占めた。
 彼らは、消極的な性質で変化の邪魔者のごとく、国家の問題に関係する行動にほとんど積極的には関与しなかった。しかし、同時に現状(status quo)に対する永続的な脅威でもあり、きわめて不安定な要素だった。
 ロシアの農民は旧体制のもとで「抑圧された」と言われるのは通例のことだが、いったい誰が彼らを抑圧していたのかはさっぱり明瞭でない。
 農民たちは、革命の直前には、十分な市民的権利、法的権利を享有していた。完全にか共同体としてかのいずれかで、彼らは国の農地の10分の9と、同じ割合の家畜を所有していた。
 西ヨーロッパやアメリカの標準からすると貧しかったが、父親の世代よりは豊かで、おそらくは農奴だった可能性が高い祖父の世代よりは自由だった。
 農民たちは、仲間たちから割り当てられた分与農地を耕作しながら、アイルランド、スペインまたはイタリアの小作農民たちよりは、確実により大きな保障を享けていた。//
 ----
 (07) ロシアの農民に関する問題は、抑圧ではなく孤立だった。
 彼らは国の政治的、経済的、文化的生活から隔絶しており、そのゆえに、ピョートル大帝がロシアの西欧化の路線を設定したとき以降の変化の影響を受けなかった。
 当時の多数の者たちは、農民層はモスクワ公国時代の文化に浸ったままだ、と観察した。
 彼らは文化的には、イギリスのアフリカ植民地の元々の住民たちがヴィクトリア朝の英国と共通性がある以上には、ロシアの支配エリートや知識人と共通性がなかった。
 ロシアの農民の大部分は、農奴に出自があった。君主制が大地主と官僚層の気紛れに任せて以降、彼らは臣民ですらなかった。
 結果として、農村の住民にとっては、解放の後でも、国家は税を徴収し兵を募るがその代わりには何もしない、異質で悪意のある実力体だった。
 農民たちは、望んだ土地を受け取るのを期待した遠く離れたツァーリに対する漠然とした傾倒を除けば、愛国心を持たず、政府への執着もなかった。
 農民たちは本能的に無政府主義的で、national な生活に統合されることはなく、急進的反対派からと同様に保守的権益層からも疎遠だった。
 彼らは、都市や髭を生やしていない男たちを見下した。Marquis de Custine は、早くも1839年に、ロシアではいずれ髭のある者による剃った者に対する反乱が起きるだろう、ということを耳にした。(注3)
 疎遠にされ、潜在的には爆発的なこの農民大衆の存在は、政府を動けなくした。政府は、農民たちは怖れるがゆえに従順だと考え、いかなる政治的譲歩も弱さと反逆だと解釈するようになった。//
 ----
 後注
 (01) Paul Miliukov, Russia To-day and To-morrow (1922), p.8-9.
 (02) この点につき、Willoam C. Fuller, Jr., Strategy and Power in Russia, 1600-1914 (1992) を見よ。
 (03) Marquis[A. de]Custine. Russia (1984), p.455.
 ——
 第一節①、終わり。②へと、つづく。

2599/R・パイプス1994年著第9章第九節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。最後の第九節
 ——
 第九節・レーニンの死。
 (01) レーニンは、1924年1月21日月曜日の夕方に死んだ。
 家族や付添いの医師たち以外では、彼の最後の瞬間の唯一の目撃者は、ブハーリンだった。(*)
 一報が届くや否や、ジノヴィエフ、スターリン、カーメネフ、Kalinin は動力付雪上そりでGorki へと急いだ。指導部の残りの者たちは、列車で続いた。
 死んだ指導者のベッド脇で祈祷を行なったスターリンは、レーニンの頭を持ち上げ、自分の胸に寄せて、接吻をした。(注219)
 翌日、Dzerzhinskii は、レーニンの死に関する短い文章の原稿を書いた。GPU が大量逮捕をせざるを得なくなることがないように、「パニック」にならないよう民衆に警告するものだった。(注220)
 ----
 (脚注*) Bukharin in Pravda, No. 17/2, 948 (1925.1.21), p.2. ブハーリンは、1937年2月に監獄からの生命を乞うスターリン宛ての手紙で、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と書いた。NYT, 1992.1.15, p.A11.
 ----
 (02) レーニンが死んだ日、トロツキーは、保養地のSukhumi への途中で、Tiflis に着いた。
 彼はその翌日に、スターリンからの暗号電報で、それを知った。(注221)
 電信でのトロツキーの質問に対して、スターリンは、葬礼は土曜日(1月26日)に行われると知らせ、そのために戻ってくる時間はないだろう、政治局は予定通りSukhumi へ行くのが最善だと考える、と追記した。(注222)
 判明したように、葬礼は日曜日に行なわれた。
 トロツキーはのちに、自分を葬礼に出席させないよう意図的に間違った情報を与えた、とスターリンを攻撃した。
 この追及は、厳密な検討に耐えられるものではない。
 レーニンは月曜日に死に、トロツキーは火曜日の朝にその報せを受けた。
 モスクワからTiflis まで、彼は三日を要していた。
 彼がただちに帰還していれば、遅くとも金曜日にはモスクワに到着していただろう。かりに葬礼が土曜日に行なわれていても、彼は十分に出席できた。(+)
 それどころか、理由について何ら説明しなかったが、彼はスターリンの助言に従って、Sukhumi まで行った。
 レーニンの遺体が古参党員に付き添われて冬のモスクワに横たわっていたあいだ、トロツキーは、黒海の太陽を浴びていた。
 彼の不在は、大きな驚きと落胆をもって受け止められた。//
 ----
 (脚注+) レーニンの葬儀を日曜日に延期するとの決定は、金曜日の1月25日に最初に発表された(Lenin, Khronika, XII, p.673)。したがって、土曜日に葬礼は執行されるとの電報でもって、スターリンは、トロツキーがのちに主張するように(Moia zhizn', II, p.249-250)意図的に彼を騙していた、のではなかった。
 Deutscher は、彼の英雄に好意的である特徴的な例だが、スターリンはトロツキーに葬礼は「翌日に」行なわれると知らせた、と主張する(Prophet Unarmed, p.133)。だが、スターリンの第二の電信は、葬礼は土曜日に、つまり「翌」日ではなく四日後に行なわれるだろうと述べていた。
 ----
 (03) レーニンの遺体はどのように扱われたのか?(注223)
 これまで公にされていないが、彼の遺言で、レーニンは、ペテログラードの彼の母親の傍に埋葬されるという望みを表明していた。
 これは妻のKrupskaia も望んだことだった。
 彼女は、Pravda への手紙で、レーニン個人崇拝には強く反対していた。—記念碑も、式典も、そして暗黙にだが聖廟も、望まなかった。(注224) 
 しかし、党の支配者たちには、異なる考えがあった。
 政治局は、レーニンの死の数ヶ月前に、彼の遺体を防腐処理することを議論していた。
 この方針にとくに賛成したのは、スターリンとKalinin だった。彼らは、亡き指導者が「ロシア様式」で埋葬されるのを望んだ。
 聖人の遺体は腐敗しないという、正教に起源のある一般民衆の信仰に対応して、レーニンの肉体は永遠に展示される必要があった。
 彼らの共通の敵であるトロツキーを別として、彼らの誰も広くは知られていなかった。
 スターリンは官僚機構内の乱闘によってこの時点までに独裁的権力を獲得していたが、国内での知名度はほとんどなかった。
 死者は沈黙しているが姿は実在しているので、レーニンは、適切に保存されるならば、彼が創設した信条に正当性を与え、十月革命と後継者による支配の連続性を示すことになるだろう。
 レーニンの遺体を防腐処理して赤の広場の霊廟に展示するという決定が、ブハーリンとカーメネフの反対を遮って、採択された。//
 ----
 (04) レーニンの遺体はDom Soiuyov の円柱ホールに横たえられていた。数万人がそれを見た。
 1月26日〔1924年〕、スターリンは弔辞を述べ、彼が神学校で学んだ宗教的抑揚を用いて、党の名のもとでレーニンの命令を実践すると「誓約」した。(注225)
 1月27日の日曜日、遺体は一時的な木製霊廟に運ばれた。(**)
 不幸なことに、春が到来する三月までに、遺体は変質し始めた。(注226)
 何がなされるべきだったか?
 葬礼の責任者だったKrasin は、再生を信じて、遺体を氷凍させることを提案した。そして、このための特別の装置がドイツから輸入された。だが、この考えは実行できないものとして中止を余儀なくされた。
 何事にも通じているのが仕事だったDzerzhinskii は、V. P. Vorobev という名のKharkov の解剖学者が生体組織の新しい保存方法を開発していたことを知った。
 指導部は長い討議のあとで、このVorobev にレーニンの防腐処理を委ねることを決めた。 
 彼が率いるグループは、不朽化(Immortalization)委員会と名付けられた。//
 ----
 (脚注**) レーニンの脳は切除され、V. I. Lenin 研究所へと移された。そこの科学者たちは、彼の「天才性」の秘密を発見し、「人類の進化の高次の段階」を示すと証明することを任務として割り当てられていた。
 のちに、スターリンと他の若干の共産主義著名人の脳が、収集物に加わった。レーニンの心臓は、V. I. Lenin 博物館に預託された。AiF, No. 43/576 (1991.11), p.1.
 ----
 (05) Vorobev は補助者とともに三ヶ月間、細胞と組織内の水を自分が案出した化学的流動体に変える仕事に従事した。
 この合成物は、通常の温度と湿度では気化せず、細菌や真菌類を破壊し、発酵もしない、と言われていた。 
 防腐処理は7月後半に完了し、遺体は翌8月に新しい木製霊廟に展示された。
 これは1930年に、石製の聖廟に変えられた。除幕式を行なったのはスターリンで、やがて国家後援の崇敬対象物となった
 1939年、スターリンは、22人の科学者を遺物を監視する研究室に配置した。注意深くしていても、遺物は安定したままではなかったからだ。
 外面上の腐敗や変化が進まないように、最も先進的な方法が採用された。//
 ----
 (06) かくして、5年前には神を冒涜し、嘲弄する運動をして正教の遺物をニセモノとして晒したボルシェヴィキは、彼ら自身の神聖な遺物を創り上げた。
 くずと骨にすぎない教会の聖人たちとは違って、彼らの神は、科学の時代にふさわしく、アルコール、グリセリン、フォルマリンで成り立っていた。
 ----
 後注
 (219) V. Bonch-Bruevich in KN, No. 1 (1925), p.186-191.
 (220) RTsKhIDNI, F. 75, op. 3, delo 287.
 (221) Text in Volkpgonov, Trotskii, II, p.42.
 (222) Trotsky, Stalin, p.381-2.
 (223) これにつき、Nina Tumarkin, Lenin Lives! (1983), Ch. 6を見よ。
 (224) Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.1.
 (225) Stakin, Sochineniia, VIm p.46-p.51. 原文は、Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.6.
 (226) 以下の叙述が基礎にしているのは、Iurii Lopukhn in Glasnost' (1991.10.18), p.6、およびTumarkin, Lenin Lives!, p.182-9.
 ——
 第九節、そして第9章全体が、終わり。

2598/R・パイプス1994年著第9章第八節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退③。
 (11) 1923年12月、トロツキーはついに党内階層から離れ、「新路線」と称されるPravda 上の論文で、自分の事案を公にした。
 彼はこの論文で、民主主義の理想に燃える若い党員層と、凝固した古参党員を対比させた。
 それが強調した結論は、「党はその諸機構に従属しなければならない」だった。(注215)
 スターリンは、こう回答した。
 「ボルシェヴィズムは、党を党諸機構に対峙させるのを受け入れることができない」。(注216)//
 ----
 (12) トロツキーも賛成して第10回党大会〔1921年3月〕で採択された党規約によれば、今や、彼が行なっていることは、とくにグループ46と協議していることは、争う余地なく、「分派主義」だった。
 この罪責は、トロツキーの二通の手紙が—偶然にか意図的にか—公に漏出した内容によって生じた。
 1924年1月に開催された党会議には、したがって、トロツキーと「トロツキー主義」を「小ブルジョア」的逸脱と非難する十分な権利があった。(注217)//
 ----
 (13) トロツキーの舞台は終わっていた。残りは拍子抜けするものだった。
 党多数派に対して、彼は防御しなかったからだ。1924年に彼自身がこう認めることになったように。
 「我々の誰一人として、党に逆らうのを望まないし、誰一人として正当に党に逆らうことはできない。
 結局のところ、我々の党はつねに正しいのだ。」(注218)
 1925年1月、トロツキーは戦争人民委員の辞任を強いられることになる。
 続いたのは党からの除名と追放で、後者はまず中央アジアへ、ついで国外へだった。
 そして最後には、暗殺された。
 ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンその他の黙認でもってスターリンが取り仕切ったトロツキーを排除する諸行為は、党員層の支持を受けて実行された。党員層は、利己的な策略者から党の統一を守るためにそれらは役立つと考えた。//
 ----
 (14) 敗北者が、勝利者よりも道徳的に優れていると見なされるがゆえに、後世の人々の同情を引きつける、という事例が、歴史上には多数存在する。
 トロツキーにこのような同情を掻き集めるのは、困難だ。
 確かに、彼はスターリンやその同盟者たちよりも教養があり、知的にはより興味深く、個人的にはより勇敢で、仲間の共産党員たちとの対応はより高潔だった。
 しかし、レーニンがそうであるように、彼が持つこのような美徳は、もっぱら党内部でのみ示された。
 外部者や民主主義の拡大を追求した内部者との関係では、トロツキーはレーニンやスターリンと同一だった。
 彼は、自らを破滅させる武器を作るのを助けた。
 心から同意しつつ、レーニン独裁への反対者たちが味わったのと同じ運命に陥った。
 カデット〔立憲民主党〕、社会主義革命党(エスエル)、メンシェヴィキ、赤軍で戦おうとしなかった帝制時代の将校たち、労働者反対派、Kronstadt の海兵たち、Tambov の農民たち、〔ロシア正教〕聖職者たち、と同じ運命にだ。
 トロツキーは、自分自身が脅威にさらされたときにのみ、全体主義の危険を呼び醒まそうとした。
 党内民主主義への彼の突然の転向は、原理を擁護したのではなく、自己保身の手段だった。//
 ----
 (15) トロツキーは、自分をジャッカルの群れに襲われた誇りある虎だと叙述するのを好んだ。
 そして、スターリンはより怪物的だと示そうとした。レーニンのボルシェヴィズムの理想的範型を救済したいロシアや外国の者たちにとっては、このイメージはより説得的だと感じられた。
 しかし、記録が示しているのは、当時のトロツキーもまた、ジャッカルの群れの中の一頭だった、ということだ。
 彼の敗北には、この点を高貴にするものは何もなかった。
 トロツキーは、政治的権力を目ざす下劣な闘争で自分の首を絞めたがゆえに、敗北した。//
 ----
 後注
 (215) Pravda, No. 281 (1923.12.11), p.4.
 (216) I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.16.
 (217) Kommunisticheskaia Partiia Sovetskogo Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh …7th ed., I (1953), p.778-785.
 (218) Trinadtsatyi S"ezd RKP(b) (1963), p.158.
 ——
 第八節、終わり。最後の第九節の目次上の表題は、<レーニンの死>。

2597/R・パイプス1994年著第9章第八節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退②。
 (08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
 (ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
 突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
 この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
 彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
 彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
 「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
 政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
 自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
 彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
 「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
 党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
 ----
 (09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
 新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
 しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
 長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
 「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
 国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
 中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
 しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
 同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
 同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
 同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
 彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
 同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
 しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
 彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
 彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
 彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
 同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
 この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
 この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
 ----
 (10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
 歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
 また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
 政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
 スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
 のちに、こう説明することになるように。
 「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
 隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
 いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
 ----
 (脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
 ----
 後注
 (205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
 (206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
 (207) Ibid., p.170.
 (208) Ibid., p.173.
 (209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
 (210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
 (211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
 (212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
 (213) Ibid., p.188-9.
 (214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
 ——
 ③へと、つづく。

2596/R・パイプス1994年著第9章第八節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機の試訳のつづき。第八節へ。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退①。
 (01) レーニンが舞台から退いても、スターリンはまだトロツキーに勝たなければならなかった。トロツキーは、ジョージア問題の処理についてスターリンを非難するようレーニンに指示されていた。
 トロツキーがレーニンから託された責任を回避したので、スターリンのこの責務は意外にも緩やかなものになった。
 トロツキーは、レーニンからの任務を実行しないで、ジョージア人を見棄てた。一人の秘書が電話で3月5日のレーニンの手紙を読んだとき、体調が悪いと言って、中央委員会総会でジョージア人のために発言することをそっけなく拒んだ。ほとんど動けない、と主張した。
 しかし、少しだけ躊躇してこう追加した。自分は今や完全にジョージア人反対派の側に立つようになった、と。(注190)
 そう言ってすら、トロツキーは、第12回党大会の開会を延期するとのスターリンの自己のための決定を支持した。(注191)
 彼は大会の直前に、スターリンの書記長への再任を支持する、Dzerzhinskii とOrdzhonikidze の追放に反対する、とカーメネフに保障した。(注192)
 彼は、伝統的にレーニンが行なってきた中央委員会報告を行なってほしいとの、仲間に組み込もうとしてのスターリンの提示を断わった。
 彼は、書記長であるスターリンの方が適格だと思った。 
 スターリンは穏やかに固持して、報告する栄誉はジノヴィエフに移った。彼は、レーニンの地位は望めば自分のものになると信じて、うかうかと前へと進み出た。(注193)//
 ----
 (02) トロツキーとスターリンの経歴上この重大な分岐点でのトロツキーの行動は、現代人および歴史家のいずれをも不可解にさせてきた。
 トロツキー自身は、満足できる説明をいっさい行わなかった。
 多様な解釈が示されてきた。トロツキーはスターリンを過小評価した。あるいは反対に、書記長の地位は固く揺るぎないので挑戦しても失敗すると考えた。闘って確実に党を分裂させるという意欲がなかった。(注194)
 トロツキー信奉者の何人かは、彼は政治的内紛を自分の威厳よりも重視せず、個人的な政治的策謀をする考えが全くなかった、と主張する。(注195)
 彼の伝記作家のIsaac Deutscher は、トロツキーの消極性を彼の「度量」と「英雄的性格」に起因させた。この点でDeutscher は、トロツキーは「歴史上きわめて稀な人物」だと主張する。(注196)//
 ----
 (03) トロツキーの行動は、探り出すのが困難な多数の絶望的要因によるものだったように思われる。
 彼は疑いなく、自分はレーニンの指揮権を継承する資格が最もある、と考えていた。
 だが、彼に立ち向かう険しい障害があることに十分に気づいていた。  
 彼には党指導部に支持者がなかった。指導層はスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの周りに群がっていた。
 よそよそしい個性とボルシェヴィキでなかった過去を理由として、党員のあいだで人気がなかった。
 彼を妨げたもう一つの要因—その性質からして評価し難いけれども確実に重みがあった—は、彼がユダヤ人であることだった。
 この点は、1990年に1923年10月の中央委員会総会に関する詳細が公刊されたことによって浮かび上がってきた。この総会でトロツキーは、代理職へのレーニンの提示を拒否したことに対する批判から防衛した。 
 彼は言った。ユダヤ人出自は自分には何ら意味がないが、政治的には大きな意味がある、と。
 レーニンが提示した高位の職に就くことで、自分は「この国はユダヤ人に支配されているという根拠を、敵に与える」だろう。
 レーニンはこの論拠を「ナンセンス」として却下した。だが、「彼の心の奥深くで、彼は私に同意していた」。(注197)//
 ----
 (04) トロツキーはこのように考えて、1922-23年に大いに矛盾する行動をした。多数派から独立して行動しようと努め、同時に、致命的な「分派主義」との汚辱を避けるべく多数派に協力した。
 結局は、政治闘争に敗北したばかりか、もっと勇気のある立場をとっていたならば得ただろう道徳的敬意をも失った。//
 ----
 (05) トロツキーの黙認によって、スターリンの破滅の舞台になる可能性があった第12回党大会は、彼の勝利で終わった。
 3月16日、スターリンは自信を滲み出して、Tiflis にいるOrdzhonîkidzeに電話して、「いろいろあったけれども」、大会はトランスコーカサス委員会の行為を承認するだろう、と伝えた。(注198) 
 彼は正しかったことが判明した。
 大会で彼は、より民主主義的な手続を40万人の党に導入すれば、党は「帝国主義の狼たち」の継続的な脅威のもとにあるときに行動することができない「おしゃべりクラブ」に変質する理由を、辛抱強く説明した。(注199)
 スターリンは、新しい人員でもって中央委員会を拡大することの有用性について、レーニンに同意した。一方で、構造の変化や人物の交替についての彼の提案は無視した。
 民族問題に関するレーニンの覚書は代議員たちには配布されたが、公表されなかった。(*)
 この問題に関する報告の中で、スターリンは、賢くも中庸の方向を歩んだ。ジョージア人反対派と緩やかな同盟を擁護するレーニンの議論を帳消しにした。一方で、無謀にも、レーニンが彼を追及した「大ロシア民族排外主義」を非難すらした。(注200)
 詳細な記録によれば、彼の組織に関する報告が終了すると、代議員たちは「大きい、長い拍手」でスターリンを讃えた。(+)
 (党大会でのレーニンの演説は、通常は「大きい拍手」とだけ書かれた。)
 トロツキーは、ソヴィエト工業の将来について報告するにとどめた。—これはこの大会での彼の唯一の登場で、たんなる「拍手」を受けた。
 スターリンは容易に、書記長の地位を再確認された。//
 ----
 (脚注*) 1923年4月16日、Fotieva は彼女自身の責任で、民族問題に関するレーニンの小論の複写物をスターリンに送った。スターリンは、こういう仕方で「自分がかかわる」(〈vmeshivatsia〉)のをしたくないという理由で、受け取るのを拒んだ。そして、その複写物は中央委員会に送付された。
 スターリンは、その夜にFotievaから、レーニンの妹の手紙の趣旨をつぎのように引用する手紙を確保した。妹の手紙によると、レーニンはそれを公表せよとの指示を出さなかった、彼女自身も公表するにはまだ適さないと考える。
 スターリンは、Fotieva の手紙を受け取って、中央委員会に対して、レーニンのこのような重要な言明を秘密にしたままだったとしてトロツキーを責める文書を送った。その文書はこう結んでいた。
 「私は、同志レーニンの(民族問題に関する)論文はプレスで公表されるべきだ、と信じる。
 同志Fotieva の手紙によって、同志レーニンがまだ全部を見直していないので公表することはできない、と分かったのは、ただ残念なことだ。」
 公表される代わりに、レーニンの小論は「彼らの情報として」代議員たちに配布された。
 この問題の関係文書は、RTsKhIDNI, F.5, op.2, delo 34 に保管されており、IzvTsK, NO.9 (1990.9), p.153-161 に 再現されている。
 ----  
 (脚注+) Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.62. このような栄誉を受けた他の唯一の報告者は、ジノヴィエフだった(同上、p.47)。—これは、ジノヴィエフがレーニンの後継者だと予想(tout)されていた、さらなる証拠だ。
 ----
 (06) トロツキーの融和的姿勢は、彼のためにはほとんど役立たなかった。
 彼は回想録に、レーニンが無力のあいだにスターリンの仲間たちは彼を除く全ての政治局委員が関与する陰謀を行なっていた、彼らは決定を行なう前に討議し、揃って行動した、と書いている。
 任命される資格を得るために、党員は唯一の基準を充たす必要があった。すなわち、自分(トロツキー)に対する憎悪だ。(注201)
 40名で成る新しい中央委員会で、トロツキーが自分の支持者に含めることができたのは、3人にすぎなかった。(注202)//
 ----
 (07) 情勢は自分に圧倒的に不利で、失うものは何もないと意識して、トロツキーは敵に媚びるのをやめて、反対攻勢に出た。
 彼は、ぐらついている将来を立て直すべく、党員大衆の代弁者を装った。
 固く団結する古参党員たちが自分を外部者と扱うならば、自分は外部者たちの代表者になろう。
 外部者は党員の大多数だった。1922年の調査によれば、37万6000人の党員のうち1917年以前に入党していたのは、2.7パーセントだけだった。そしてそのゆえに、古参党員には有利な資格があった。(注203)
 しかし、その2.7パーセントが党の指導機関を独占し、その機関を通じて国家の諸機構を独占していた。(**)
 トロツキーの友人たちは、トロツキーは影響力のある共産党指導者であり、その名前はレーニンと分かち難く結びついている、と言った。(注204)
 ではどうして、一般党員たちはトロツキーに味方しようとしなかったのか?
 道徳的観点から言っても、1923年10月に開始されたトロツキーの反攻は、絶望的な賭け事にすぎなかった。
 1917年10月以降、誰もがこの時期ほど党の統一の至高の重要性を強く主張したことはなかった。労働者反対派や民主主義的中央主義者がしたように党内民主主義を強く呼びかけるのを、誰もが嘲笑して拒絶した。
 党内民主主義へのトロツキーの転換は、党の運営方法に関する根本的変化が動機となったものではあり得なかった。そのような変化は起きていなかったのだから。
 変化したのは党内でのトロツキーの立ち位置だった。かつては内部者だったが、今や彼は浮浪人(outcast)になった。
 ----
 (脚注**) Leonard Schapiro によると、1920年初頭に党の要職を占めていた者たちの圧倒的多数は、革命以前からのレーニン主義者だった。「革命後の組織上の構造は、したがってこの点で、革命前の地下組織の構造にきわめて近かった」。Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union (1960), p.236-7.
 ----
 後注。
 (190) IzvTsK, No. 9 (1990:9), p.149; Pravda, No. 225/25, 577 (1988.8.12), p.3.
 (191) Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (192) Trotskii, Moia zhizn', II, p.224-5.
 (193) Ibid., II, p.228-9.
 (194) E.g., ibid., II, p.217-8; Deutscher, Prophet Unarmed, p.93.
 (195) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.17.
 (196) Deutscher, Prophet Unarmed, ix. 同上、p.91も見よ。
 (197) V. P. Danilov in Ekonomika i Organizatsiia Promyshlennogo Proizvodstva (EKO), No. 1/187 (1990), p.60.
 (198) RTsKhIDNI, F. 558, op.1, ed. khr. 2518.
 (199) Dvenadtsatyi S"ezd, p.181-2.
 (200) Ibid., p.479-p.495; Pipes, Formation, p.289-293.
 (201) Trotskii, Moia zhizn', II, p.241.
 (202) Deutscher, Prophet Unarmed, p.106.
 (203) I. P. Trainin, SSSR i natsional'naia problema (1924), p.27.
 (204) Trotskii, Moia zhizn', II, p.230.
 ——
 ②へと、つづく。

2595/R・パイプス1994年著第9章第七節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機第七節の試訳のつづき。
 ——
 第七節/レーニン・スターリン・トロツキー②。
 (07) 民族問題に関するレーニンの小論をスターリンが知っていたか否かは、明瞭でない。だがいずれにせよ、レーニンが自分に対する全面的な闘いを準備していることを、今や疑うことができなかった。その闘いによって、自分は全てでないとしてもほとんどの役職を失うことになりそうだった。
 (レーニンはトロツキーに対して、第12回党大会でスターリンに対する「爆弾を用意している」と打ち明けていた。)
 スターリンは、自らの政治生命を賭けて闘っていた。今はいかに権力のある地位に就いていたとしても、レーニンが個人的に戦場を掌握してしまえば、自分には可能性がない。
 スターリンの一つの望みは、レーニンが自分を引き降ろす前に、彼が完全に無能力になることだった。//
 ----
 (08) Dzerzhinskii は、二度めのジョージアでの仕事から、1923年1月に戻った。
 資料を求めるのがレーニンの要請だったが、その資料を携帯しつつ、ごまかしてスターリンに渡すという対応方策をとった。
 スターリンを見つけることが二日間はできなかった。ようやくたどり着いたとき、スターリンはFotieva にこう言った。政治局の許可があるときにのみ、レーニンが求めることに同意するすることができる。
 ついでに彼はFotieva に、「レーニンに何か余計なことを語っていないか」どうか、「レーニンは今どのようにしているのか?」と尋ねた。
 Fotieva は、レーニンに何を告げるのも拒んだ。実際、彼女はスターリンに全てを話していた。
 レーニンはのちに、彼女の面前で、背信を疑っている、と言った。(注180)
 彼は正しかった。
 自分の口述筆記は「絶対に」、「完全に秘密にする」という命令を、彼女は無視した。そして、やがて、Fotieva が得た文書資料から彼女がその内容をスターリンと若干のその他の政治局委員に決まって伝える、という慣行が出来上がった。(*)//
 ----
 (脚注*) Volkogonov, Triumf, I/1, p.153. 褒賞として、スターリンは彼女を1930年代の粛清の対象外にした。彼女は、スターリンよりも長生きし、1975年に死んだ。
 ----
 (09) 2月1日、政治局はようやくレーニンの要請に応じて、Dzerzhinskii が二度めの使命のときに収集した資料を、彼の秘書たちに渡した。
 レーニンは、その資料を読める状態ではなかったので、文書類を秘書団に配布し、情報の所在に関する厳密な指示を発した。
 その作業は終了すれば、ただちにレーニンに報告されることになっていた。
 スターリン、Dzerzhinskii、Ordzhonokidze に対する党大会での責任追及を行うためなので、レーニンは秘書団の作業の進展を強い関心をもって見守った。Fotieva によれば、彼のジョージア問題への関心が絶頂にあったのは1923年2月のあいだだった。(注181)
 3月3日に、報告が彼に届けられた。
 それを熟読したのち、レーニンは、ジョージア人反対派を全力で支援することに決した。
 3月5日、彼はトロツキーに民族問題に関する自分の覚書を送った。それには、中央委員会でジョージア共産党を擁護する責務を担ってほしい、とのトロツキーに対する要請が付いていた。
 「事案はスターリンとDzerzhinskii によって『処理され』ている。その客観性を、私は信頼することができない。全くの逆だ」。(注182)
 ----
 (10) たまたま同じその日、3月5日だった。レーニンは、漏れ聞いた電話での会話についてKrupskaia に質問したところ、彼女は前年12月のスターリンとの出来事を話した。(注183)
 レーニンはただちに、スターリン宛てのつぎの手紙を口述筆記させた。
 「敬愛する同志スターリン!
 きみは厚かましく私の妻に電話して、妻を侮辱した。
 彼女はきみが言ったことを忘れる気持ちだと言ったけれども、このことは彼女を通じてジノヴィエフやカーメネフにも知られている。
 私は自分に対して行なわれたことを簡単に忘れるつもりはない。そして、言うまでもなく、私の妻に対して行われたことは全て、私自身へも向けられていた、と考える。
 この理由により、私はきみに、きみが言ったことを取り消して謝罪するか、それとも我々の関係を断絶させるのを選ぶか、いずれであるかを私に教えてくれるよう求める。」(+)
 Krupskaia はこの手紙を発送するのを止めようとしたが、無駄だった。この手紙は3月7日に、Volodichevaにより個人的にスターリンに配達された。カーメネフとジノヴィエフ宛ての複写物とともに。(注184)
 ----
 (脚注+) Lenin, PSS ,LIV, p.329-330. レーニンは同僚たちに宛てて「敬愛する」(〈Uvazhaem yi〉)という形容詞を用いなかった。これが使われていることは、スターリンはもはや同僚ではない、ということを示唆する。
 手紙の文章からは、トロツキーがのちに主張するようには(例えば、Portrety, p.42)、レーニンがスターリンとの「全ての個人的、同志的関係を断絶」したのではなく、かりにスターリンが謝罪しなければそうするとたんに威嚇していることが、明確だ。—スターリンは謝罪した。
 ----
 (11) スターリンは冷静にその手紙を読み、そして返事を書いた。その内容は1989年に公にされたが、まさに条件つきの謝罪だとのみ叙述できるものだった。
 彼はKrupskaia を攻撃するつもりはなかったと強調し、彼女のレーニンの健康についての責任を想起させたにすぎないと述べつつ、結論的にこう書いた。
 「あなたが『関係』の維持のためには私が先の言葉を『謝罪』すべきだと感じているなら、私は先の言葉を撤回することができる。しかしながら、いったいどうなっているのか、どこに私の誤りがあったのか、何が本当に私に求められているのか、私は理解することができない。」(**)//
 ----
 (脚注**) IzvTsK, No. 12 (1989.12), p.193. Maria Ulianova によれば、レーニンの健康は急速に悪化していたので、彼はスターリンの「謝罪」を読む機会がなかった。同上、p.199。
 ----
 (12) レーニンは翌日、もう一つの覚書を口述した—彼の生涯の最後の意思表明になった—。それはジョージア人反対派の指導者たちに宛てたもので、トロツキーとカーメネフ用の複写が付いていて、ジョージア問題について彼らを「心から」支持する、スターリンとDzerzhinskii の「黙認」に驚愕している、この主題に関する演説を準備している、と知らせた。(注185)//
 ----
 (13) スターリンは、政治的破滅の見込みに直面した。
 レーニンが彼との関係の断絶を提示し、トロツキーには責任追及が依頼されているなら、スターリンが書記長にとどまり続ける可能性は、皆無に近かった。
 しかし、報せは全てが悪いものではなかった。というのは、スターリンが継続的に連絡を取り合っているレーニンの医師団は彼に、患者の健康はいっそう悪くなっていると知らせてくれたからだ。
 それでスターリンは、時間稼ぎをすることに決めた。
 3月9日、〈Pravda〉は、スターリンからの、説明なしの短い一行の発表文を掲載した。三月半ばに予定されていた次期党大会は、4月15日に延期される。(注186)//
 ----
 (14) 賭けは実を結んだ。
 翌日(3月10日)、レーニンは大きな発作を起こし、話す能力を奪われた。10ヶ月後の彼の死まで、〈vot-vot〉(ここ・ここ)、〈s"ezd-s"ezd〉(大会・大会)のような単音節の言葉しか発することができなかった。(注187)
 レーニンに付き添っている医師団—若干のドイツからの専門家を含めて40名—は、彼はもう二度と政治に関して積極的役割を果たすことはないだろう、と結論づけた。
 5月、レーニンは永遠にGorki へと転居した。そこで、好天の日には公園の中で車椅子に座っていた。
 全ての実際的な目的に関して、彼は生きている亡骸だった。何と言われたかを理解し、文章を読めるようにも見えたけれども、彼には意思疎通の能力がなかったからだ。
 8月、Krupskaia は彼に、左手で書くことを教えようとした。しかし、結果は勇気づけるものではなく、彼女は諦めた。(注188)//
 ----
 (15) このレーニンの生涯最後の時期、彼は失敗の感覚で圧倒されていたように見える。
 それを証拠立てているのは、彼が歴史に残した結果の全てについての、陳腐な賞賛や安心への渇望だった。
 かつては好意的であれ敵対的であれ他者の意見には注意を払わなかったレーニンが、1923年と1924年初頭には、賞賛の言葉を切望した。
 彼は明らかな喜びをもって、レーニンをマルクスになぞらえるトロツキーの論文、レーニンなくしてロシア革命は勝利しなかっただろうとのGorky の主張、そしてHenri Guilbeaux、Arthur Williams のような外国の崇拝者の賛辞を、読んでいた。(注189)/
 ----
 後注
 (180) Lenin, PSS, XLV, p.477.
 (181) L. A. Fotieva in VIKPSS, No. 4 (1957), p.162-3.
 (182) Lenin, PSS, LIV, p.329.
 (183) Rogovin, Byla li, p.75.
 (184) IzvTsK, No. 9/308 (1990.12), p.151.
 (185) Lenin, PSS, LIV, p.330.
 (186) Pravda, No. 53 (1923.3.9), p.1; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39; IzvTsK, No. 9 (1990.9), p.152.
 (187) V. P. Osipov in KL, No. 2/23 (1927), p.236-p.247; Petrenko in Minuvshee, No. 2 (1986), p.146; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (188) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1289 &1290.
 (189) Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.279-284; Trotskii, Moia zhizn', II, p.251-2.
 ——
 第9章第七節、終わり。

2594/R・パイプス1994年著第9章第七節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第七節へ。
 ——
 第9章第七節/レーニン・スターリン・トロツキー①。
 (01) レーニンはその月の遅くに戻り、頭脳の明晰さが残っていた二ヶ月のあいだ、仕事が許された合間に、短い文章を口述した。それらの文章の中で、彼は、自分が病気中のソヴィエトの政策がとった方向について絶望的な気持ちを表現し、改革の道筋を構想した。
 これらの小論で顕著なのは、まとまりの悪さ、本筋から逸れる書き方、繰り返しの多さだ。これら全てが、精神状態の悪化の兆候だった。
 きわめて有害なものは、スターリンの死まで、ソヴィエト同盟で公刊されなかった。
 レーニンの小論は最初はスターリンの継承者たちによってスターリンの信用を落とすために使われ、のちの1980年代には、ミハイル・ゴルバチョフの〈perestroika〉を正当化するために用いられた。
 これらは、経済計画、協同組合、労働者農民観察局の再編成、党と国家の関係を対象にしていた。
 全てを通じて、レーニンの晩年の文章や演説は共通する主題を扱い、ロシアの文化的後進性に対する絶望の感覚で溢れていた。彼は今や、文化の程度の低劣さがロシアでの社会主義建設の主要な障害だと見なすにいたった。
 「我々はかつて、活動の中心を政治的闘争に、革命に、権力の征圧に置いたし、そうしなければならなかった。
 しかしながら、今では、中心は平和的な『文化的』作業に広がり、それへと変化している。(注174)
 レーニンは、こうした言葉によって、暗黙のうちに自らの過ちを承認していた。すなわち、30年前に、ロシアは社会主義を達成する前に文化の貧困さを認めて資本主義の学校を卒業しなければならない、とのPeter Struve の議論を「ブルジョア的」として拒絶した、という過ちを冒した、ということを。(注175)
 ----
 (02) レーニンの晩年の文章が扱った最も重要な主題は、後継者と諸民族の問題だった。
 12月23日と26日の間に、のちに1月4日付の補遺が付くが、小さい爆発物のように、彼は口述した。それは、来る第12回党大会〔1923年〕に配布される予定の同僚たちに関する一連の彼の論評だった。—やがてレーニンの「遺書」として知られることになる。(*)
 スターリンとトロツキーの対抗関係を心配して、レーニンは、中央委員会を27名から100名ほどにまで拡大することを提案した。新入者は、農民層と労働者階級から選抜される。
 この拡大は、党と「大衆」の間の懸隔を埋め、今はスターリンがしっかり握っている党を指導する機関の権力を弱める、という二重の効果をもつことになるだろう。//
 ----
 (脚注*) Lenin, PSS, XLV, p.343-8. Krupskaia は1924年春に、レーニンの望みに従って晩年の文書類を彼の仲間たちに渡した。カーメネフは1924年の第13回党大会の上級者会議で、この「遺書」を読んだ。スターリンはこれが代議員たちに配布されていれば自分に生じたかもしれない窮迫事態から救われた。ジノヴィエフの、過去の者は過去へ、との示唆もあった。
 Krupskaia の反対意見をめぐって、この「遺書」は代議員たちに知らせるが公刊はしない、との合意が、トロツキーも一致してなされた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/116 (1989.1.22), p.8-9.
 この文書の内容は、つぎの記事で最初に公的に知られた。Max Eastman in the New York Times 1926年1月5日付。
 レーニンが「遺書」を残したことを1925年には全く信じなかったトロツキーは(Boolshevik, No., 1925, p.68)、10年後にThe Suppressed Testament of Lenin を出版した。この書物で彼は、「遺書」が党指導者たちに読まれたとき、自分に関する論評を聞いてスターリンは、レーニンに関する彼の本当の感情を表現する「語句」を口からすべらした、と想起した。その語句は発したことのないものだった。Suppressed Testament, p.16.
 「遺書」は1956年に、ソヴィエト連邦で初めて公表された。
 ----
 (03) レーニンはあれこれと求めたが、文書が厳格に秘匿されることに全てが関係していた。彼は、文書は自分かKrupskaia のどちらかだけが開けられるよう、封印された封筒に入れるよう命令した。
 しかしながら、12月23日に口述を筆記した秘書のM. A. Volodicheva は、自分に委ねられた重要な文書を知っていることの責任に困惑し、Fotieva に相談した。するとFotieva は、その文書を書記長に見せるよう助言した。 
 スターリンは、ブハーリンとOrdzhonikidze がいる所でその文書を読んで、彼はVolodicheva に焼却するよう命じた。彼女はそうした。Gorki にある金庫にあと四つの複写物を入れていることを明らかにしないままで。(注176)//
 ----
 (04) Volodicheva の不謹慎さに気づくことなく、翌日にレーニンは彼女に、党の指導的人物に関するいっそう爆弾的な言葉を口述した。(注177)
 書記長になっているスターリンは、「無制限の」(neob'iat-noia)権力を蓄積した。「私は、彼がこの権力を十分に慎重に行使する仕方をつねに知っているとは、確信していない」。
 1月4日〔1923年〕、つぎの補遺がFotieva に口述された、/
 「スターリンは粗暴[grub]すぎる。そして、この欠点は我々中央の内部や我々の関係では共産党員として十分に耐え得るものだが、書記長という役職にいれば耐え難いものになる。
 私はこの理由で、同志諸君はスターリンを今の役職から外し、同志スターリンよりもただ一点の長所、すなわち忍耐力、忠誠心、丁寧さ、同志の対する気配りをもっと持ち、もっと気紛れでない等の誰かと交替させることを考えるよう提案する。」(注178)/
 レーニンはかくして、スターリンの小さな悪癖、行為と気質の欠陥だけを指摘した。加虐的冷酷さ、誇大妄想、全ての優越者への憎悪が含まれる。そして、最後まで、スターリンを理解しなかった。//
 ----
 (05) トロツキーについては、「現在の中央委員会で最も有能な人物」だが、「あまりにも自信に陥りやすく、仕事の純粋に管理的観点にあまりにも執着している」と論評した。
 後者の点でレーニンが意味させたのは、書類仕事ではない、非合議的な指令様式による運営への耽溺だった。
 1917年十月に、権力奪取に反対したカーメネフとジノヴィエフの恥ずべき行為を思い出した。
 だが、ブハーリンとPiatakov については、条件付きで良いことを叙述できた。—前者は党の最も傑出した理論家で、党のお気に入りだ。しかしなおも全くマルクス主義者でなく、スコラ哲学ふうだ。(+)
 いったい誰が書記長にふさわしいと思っているかに関しては、何も示されなかった。だが疑いなく、スターリンは去るべきだった。
 こうした散漫な論評を読んで受ける印象は、レーニンは誰一人として自分の権威を継承する資格がない、と考えていた、ということだ。
 Fotieva はすぐさま、こうした論評をスターリンに伝えた。(注179) 
 ----
 (脚注+) レーニンは一年前に、カーメネフを叙述する四つの形容詞を書き留めていた。「貧素なやつ((bednenkii〉)、弱い、陽気な、怯えている」。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 22300.
 ----
 (06) レーニンはつぎに、民族問題に取りかかり、この主題について、12月30-31日に三つの覚書を口述した。
 ここで、共産党機構が少数民族に対処した態様を激しく批判した。(**)
 彼の論評の主旨は、「自治化」というスターリンの案—今は放棄されていた—は完全に時機を失しており、その目的はほとんどが帝制時代から残っているソヴィエトの官僚制が国全体を支配するのを可能にすることだ、ということだった。
 レーニンは、同化した非ロシア人であるスターリンとDzerzhinskii を、「民族排外主義」だと非難した。
 彼はスターリンについて、「純粋で本当の『社会主義的民族主義者』であるばかりか、粗雑な大ロシアDzerzhimorda でもある」と評した(Dzerzhimorda とは、Gogol の〈検察官〉に登場する警察官で、その名前は「大鼻の黙らせ屋(snout muzzler)」を意味する)。
 スターリンとDzerzhinskii は、ジョージア人に対する「この本当に大ロシア民族主義的な活動」について、個人的な責任を取るべきだ。
 レーニンは、実際的結論として、同盟は強化されるべきだが、少数民族の人民にはnational な統合と共存できる最大限の権利が与えられなければならない、と要求した。但し、彼はこうも言った。民族少数派共和国の一部の独立を企てるいかなる試みも、「党の権威によって適切に弱体化することができる」。
 これは、いかにも典型的なレーニン主義的解決だった。彼においては、民主主義の前景(facade)によって、全体主義の実質は隠されなければならない。//
 ----
 (脚注**) つぎで最初に出版された。SV, No. 23-24/69-70 (1923.12.17), p.13-15. 後述する理由で、諸小論はソヴィエト同盟では1956年の第20回党大会まで公表されなかった。Lenin, PSS, XLV, p.356-362.
 その二年前の1954年に公刊した私の翻訳(Formation of the Soviet Union, p.273-7)は、Trotsky Archive at Harvard にあった複写物にもとづいていた。
 ---- 
 後注
 (174) Lenin, PSS, XLV, p.376.
 (175) P. B. Struve, Kriticheskie zametki k vopros ob ekonomicheskom razvitii Rossii, I (1894), p.288; Richard Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), Ch. 6.
 (176) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8; Genrikh Volkov in Sovetskaia kul'tura, No. 9/6577 (1989.1.21), p.3.
 (177) Lenin, PSS, XLV, p.344-6.
 (178) Ibid., p.346.
 (179) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8-9.
 ——
 ②へと、つづく。

2593/R・パイプス1994年著第9章第六節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
 ——
 第六節・ジョージア紛議②。
 (08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
 また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
 スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
 スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
 ----
 (09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
 スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
 レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
 その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
 彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
 レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
 彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
 ----
 (脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
 ----
 (10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
 一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
 彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
 ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
 しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
 このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
 三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
 ----
 (11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
 スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
 スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
 10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
 これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
 これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169) 
 Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
 スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
 ----
 (12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
 しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
 彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
 スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
 書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
 レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
 ----
 (13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
 レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
 Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
 レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
 (彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
 彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
 翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
 レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
 ----
 (14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
 1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
 彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
 親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
 ----
 後注
 (163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
 (164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
 (165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
 (166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
 (167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
 (168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
 (169) Pipes, Formation, p.274-5.
 (170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
 (171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
 (172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
 (173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
 ——
 第9章第六節、終わり。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー