第17章—第四節/ボグダノフとロシアの経験批判論④。
(15) この理論は精神物理学(psychophysical)上の平行主義(parallelism)を含んでいる。だがそれは、精神的現象と身体的現象は単一の過程の「二側面」だということによってはいない。なぜなら、この理論は身体(body)は精神(mind)のための容器であるかのような「取り込み」(introjection)という過ちを含んでいるからだ。ここで心身平行主義とは、それらの間には、例えば一つの身体の視覚的特質と触覚的特質の間にあるような機能的な結びつきがある、という意味だ。
この理論は、「実体」に関する一元論ではない。そうではなく、「経験がそれによって体系化される組織化の一類型に関する一元論、認識の方法に関する一元論」だ(経験一元論,一巻,p64)。
同一の「経験」の内部では、無生物(inanimate)的な自然から有機物のいる(organic)自然への移行に関する問題は存在しない。なぜなら、自然全体は同質の要素の集合体であり、それの諸々の部分を「無生物の」と呼ぶのは、我々の抽象的な思考だけであって、それらの諸部分もまた我々の生命の一部だ。
しかしながら、このことは、それらは「心理的」(psychical)性格をもつこと(個人にとってのみ有効であることを意味するから)、を意味していない。そうではなく、精神的(mental)現象が人間における生理的(physiological)な現象と関連しているのと同じく、「物理的」(physical)側面と関連している、という以上の特別なことを我々は知らない基層(substratum)がある、ということを意味する。
人間生活では、生理的過程は直接的な経験の「反射物」であって、それ以外ではあり得ない。
「生理的生活は、生きている『有機体』による『外部的知覚』を集団的に調整したものの結果だ。生理的生活のそれぞれは、別の有機体の(またはそれ自体の)経験の一つ一つの複合体だ。
換言すれば、生理的生活は、生きている主体の、社会的に組織された経験における直接的な生活の反射物だ」(同上、p.145.)。
物理的自然それ自体は、組織化の程度によって異なる直接的な複合体と関連した派生物(derivative)だ。
我々は、我々が知覚する世界は我々の経験にとっての自然のようなものだ、と想定しなければならない。そうしなければ、あるものが別のものに影響を与えることを想像することができないだろうから。
我々は、したがって、一種の汎神論(panpsychism)を受容しなければならない。但し、異なる実体の存在を前提とすることなく、そうしなければならない。
経験の総体の範囲内では、無機的(inorganic)な世界に「対応する」、より低次の形態の組織化が、人間の精神に対応するより高次の組織化に先行する。この意味で、人間の経験に対する(vis-a-vis)自然の「優越性」は有効なままだ。
以下の文章は、いささか長いけれども、ボグダノフの認識論(epistemology)を最も簡潔に要約するものだ。〔以下の(17)、(18)を含む―訳者〕
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(16) 「経験の形態としての『精神的』(mental)と『物理的』(physical)は、『心』(mind)と『自然』(nature)に対応しない。
後者は形而上学的な意味をもち、『事物それ自体』に関連する。
しかし、我々は、空虚な物神(fetishes)として形而上学的な『事物それ自体』を無視して、その代わりに『経験的な置換え』(empirical substitution)を設定する。
置換えは、他者の心理(psyche)についての各人の認識から発生する。そのような置換えは、物理的経験という現象の『基礎』は、『精神的』複合体を含む、異なる程度に組織された直接的複合体で成り立つ、ということを前提としている。
高次の神経中枢(nervous centre)の生理的過程は、物理的経験という現象のように、『置換え』することのできる心理的複合体の反射物だ、ということを承認することとしよう。その場合には、生命の全ての生理的過程は、「連関した」(associative)、つまりは心理的な複合体の置換えを認める余地があることも分かる。だが、生理的現象がより複雑でなく、より高次に組織されてもいない場合は、置換えもそれに応じたものになる。
我々は、さらに、気づいた。生理的生活の外の「非有機的」(inorganic)世界でも、経験の置換えがなおも生じ得る。だが、非有機的現象に置換えられるべき『直接的複合体』は、連関的ではなく、かつ別のより低次の組織形態をもつ。
これらは「精神的」(psychical)結合ではなく、より明確でなく、より複合的でない、低次の組織化のレベルにあるものだ。そして、最も低次の、限られた局面では、たんに諸要素の混沌として現れる。
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(17) こうして、我々が物理的的経験を置換する直接的な諸複合体の中に、それらの相互関係を築くための、「自然」と「精神」の類似物を探求しなければならない。
しかし、この問題を設定すること自体が、つぎの答えを示唆する。
すなわち、『自然』、言ってみれば、非有機的なまたはもっとも単純な有機的な諸複合体は、発生史的には(genetically)先行し、一方で、『精神』(mind)、すなわち高次の有機的かつ連関的な諸複合体、とくに、経験を構成する諸複合体は、発生史的には二次的だ。
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(18) こうして、我々の見地は、狭い意味で『唯物論的』でなくとも、『唯物論』システムという同じ範疇の中にいる。それは、『生産力』(productive forces)の、技術的進歩の、イデオロギーだ。」(経験一元論、iii, p.148-9.)
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⑤へ。
(15) この理論は精神物理学(psychophysical)上の平行主義(parallelism)を含んでいる。だがそれは、精神的現象と身体的現象は単一の過程の「二側面」だということによってはいない。なぜなら、この理論は身体(body)は精神(mind)のための容器であるかのような「取り込み」(introjection)という過ちを含んでいるからだ。ここで心身平行主義とは、それらの間には、例えば一つの身体の視覚的特質と触覚的特質の間にあるような機能的な結びつきがある、という意味だ。
この理論は、「実体」に関する一元論ではない。そうではなく、「経験がそれによって体系化される組織化の一類型に関する一元論、認識の方法に関する一元論」だ(経験一元論,一巻,p64)。
同一の「経験」の内部では、無生物(inanimate)的な自然から有機物のいる(organic)自然への移行に関する問題は存在しない。なぜなら、自然全体は同質の要素の集合体であり、それの諸々の部分を「無生物の」と呼ぶのは、我々の抽象的な思考だけであって、それらの諸部分もまた我々の生命の一部だ。
しかしながら、このことは、それらは「心理的」(psychical)性格をもつこと(個人にとってのみ有効であることを意味するから)、を意味していない。そうではなく、精神的(mental)現象が人間における生理的(physiological)な現象と関連しているのと同じく、「物理的」(physical)側面と関連している、という以上の特別なことを我々は知らない基層(substratum)がある、ということを意味する。
人間生活では、生理的過程は直接的な経験の「反射物」であって、それ以外ではあり得ない。
「生理的生活は、生きている『有機体』による『外部的知覚』を集団的に調整したものの結果だ。生理的生活のそれぞれは、別の有機体の(またはそれ自体の)経験の一つ一つの複合体だ。
換言すれば、生理的生活は、生きている主体の、社会的に組織された経験における直接的な生活の反射物だ」(同上、p.145.)。
物理的自然それ自体は、組織化の程度によって異なる直接的な複合体と関連した派生物(derivative)だ。
我々は、我々が知覚する世界は我々の経験にとっての自然のようなものだ、と想定しなければならない。そうしなければ、あるものが別のものに影響を与えることを想像することができないだろうから。
我々は、したがって、一種の汎神論(panpsychism)を受容しなければならない。但し、異なる実体の存在を前提とすることなく、そうしなければならない。
経験の総体の範囲内では、無機的(inorganic)な世界に「対応する」、より低次の形態の組織化が、人間の精神に対応するより高次の組織化に先行する。この意味で、人間の経験に対する(vis-a-vis)自然の「優越性」は有効なままだ。
以下の文章は、いささか長いけれども、ボグダノフの認識論(epistemology)を最も簡潔に要約するものだ。〔以下の(17)、(18)を含む―訳者〕
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(16) 「経験の形態としての『精神的』(mental)と『物理的』(physical)は、『心』(mind)と『自然』(nature)に対応しない。
後者は形而上学的な意味をもち、『事物それ自体』に関連する。
しかし、我々は、空虚な物神(fetishes)として形而上学的な『事物それ自体』を無視して、その代わりに『経験的な置換え』(empirical substitution)を設定する。
置換えは、他者の心理(psyche)についての各人の認識から発生する。そのような置換えは、物理的経験という現象の『基礎』は、『精神的』複合体を含む、異なる程度に組織された直接的複合体で成り立つ、ということを前提としている。
高次の神経中枢(nervous centre)の生理的過程は、物理的経験という現象のように、『置換え』することのできる心理的複合体の反射物だ、ということを承認することとしよう。その場合には、生命の全ての生理的過程は、「連関した」(associative)、つまりは心理的な複合体の置換えを認める余地があることも分かる。だが、生理的現象がより複雑でなく、より高次に組織されてもいない場合は、置換えもそれに応じたものになる。
我々は、さらに、気づいた。生理的生活の外の「非有機的」(inorganic)世界でも、経験の置換えがなおも生じ得る。だが、非有機的現象に置換えられるべき『直接的複合体』は、連関的ではなく、かつ別のより低次の組織形態をもつ。
これらは「精神的」(psychical)結合ではなく、より明確でなく、より複合的でない、低次の組織化のレベルにあるものだ。そして、最も低次の、限られた局面では、たんに諸要素の混沌として現れる。
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(17) こうして、我々が物理的的経験を置換する直接的な諸複合体の中に、それらの相互関係を築くための、「自然」と「精神」の類似物を探求しなければならない。
しかし、この問題を設定すること自体が、つぎの答えを示唆する。
すなわち、『自然』、言ってみれば、非有機的なまたはもっとも単純な有機的な諸複合体は、発生史的には(genetically)先行し、一方で、『精神』(mind)、すなわち高次の有機的かつ連関的な諸複合体、とくに、経験を構成する諸複合体は、発生史的には二次的だ。
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(18) こうして、我々の見地は、狭い意味で『唯物論的』でなくとも、『唯物論』システムという同じ範疇の中にいる。それは、『生産力』(productive forces)の、技術的進歩の、イデオロギーだ。」(経験一元論、iii, p.148-9.)
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⑤へ。



























































