秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

R・パイプス試訳

1515/ネップ期・1921年飢饉①-R・パイプス別著8章10節。


 つぎの第10節にすすむ。第10節は、p.410~p.419。
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 第10節・1921年の飢饉①。
 ロシアは、その歴史を通して定期的に、厳しい収穫不足を経験してきた。革命のすぐ前の年には、1891~2年、1906年および1911年に、それがあった。
 農村共同体(muzhik)は長い体験を通じて、一年のまたは二回の不作にすら耐え抜けるように、充分な予備を蓄えて自然災害に対処することを学んだ。
 不作はふつうは、飢餓というよりも空腹を意味した。間欠的に飢饉が蔓延することはあったけれども。
 飢饉(famine)は、三年にわたって冷酷にも農作を秩序立って破壊し、ボルシェヴィキは、数百万の人々が死亡する飢饉について熟知することになった。(*)//
 飢饉の前には、1920年に初めて感知された干魃があった。
 ウクライナと北コーカサスはソヴェト支配を逃れていて、何とか予備穀物を大量に集めていた。これらの〔ボルシェヴィキによる〕再征服があったために、災害から一時的に目を逸らすことになった。
 1921年に政府が新しい現物税制度のもとで獲得した食糧の半分は、ウクライナから来ていた。(171)
 しかし、食糧集積機構は1920年にはウクライナとシベリアでまだ完全には設けられていなかったので、徴収の重い負担が依然として、消耗した中央部地方にのしかかった。(172)//
 1921年飢饉を引き起こした天候の要因は、1891-92年のそれに似ていた。
 1920年の降水は、異常に少なかった。
 冬には雪がほとんど降らず、降ってもすぐに融けてしまった。
 1921年春に、ヴォルガ地域の収穫は少なかったが、決定的に悪くはなかった。
 そして、灼熱の暑さと干魃がやってきて、草葉が焼かれ、土地にひび割れが入った。
 巨大な範囲の黒土の一帯は、砂塵の鉢に変わった。(173)
 昆虫〔いなご〕は、残った草木類のほとんどを食べた。//
 しかし、悲劇に対して、自然災害は寄与したにすぎない。それは、原因ではなかった。
 1921年の飢饉は、『< Neurozhai, ot Boga; golod, ot liudiei >、不作は神の思し召し、空腹は人間が原因』という農民たちの諺の正しさを確認した。
 干魃は、大災難を促進した。そしてそれは、遅かれ早かれボルシェヴィキの農業政策の結果として必然的に起こったものだった。
 この主題を研究した一学生は、政治的および経済的要因がなかったとすれば、干魃は大きな意味をもたなかっただろうと述べる。(174)
 ほとんど余剰などではなく、農民たちの生存に不可欠だった穀物の『余剰』を容赦なく収奪したことは、大厄災を確実なものにした。
 供給人民委員〔ほぼ供給大臣〕の言葉によると、1920年までは、農民たちは自分たちが食べ、種子を残すにぎりぎり十分な程度を収穫していた。
 もはや生存のための余裕は残っていなかった。かつては穀物現物の蓄えが、悪天候に対して農民たちを柔らかく守ってくれた。それが、なかった。//
 1921年の干魃は、ほぼ間違いなく、食糧生産地帯の半分を襲った。この地帯のうちの20%は、収穫が全くなかった。
 飢饉を被った地域の人口は1922年3月で、ロシアで2600万人、ウクライナで750万人、併せて3350万人だった。子どもたち700万人以上を含む。
 アメリカの専門家は、被害者のうち1000万人から1500万人は死亡するか、死ぬまで残る後遺症を肉体に受けた、と推算した。(**)
 最も悲惨だったのは、ふつうの年だと穀物類の主要な供給地であるヴォルガの黒い土の地帯だった。
 カザン、ウファ、オレンブルク、サマラの各地域は、1921年の収穫高は一人あたり5.5 Pud より少なかった。-これは、種子用に何も残さないとして、農民たちの生存に必要な量の半分だった。(+)
 ドンの低地一帯や南部ウクライナも、悲惨だった。
 国土の残りの地方のほとんどで、収穫高は5.5~11 pud で、地方の民衆人口が食べるのにぎりぎりだった。(175)
 ヨーロッパおよびアジアのロシアの、飢饉に遭った二十の食糧生産地方での生産高は、革命以前には毎年に穀物類2000万トンだったが、1920年には845万トンに減り、1921年には290万トンに減った。つまり、〔革命前に比べて〕85%も低くなった。(176)
 比較してみると、帝制時代に天候条件によって最悪の不作となった1892年には、収穫高は平年よりも13%低かった。(177)
 この違いは、大部分について、ボルシェヴィキの農業政策に起因しているはずだ。//
 大厄災がどの程度に人為的行為によっているかを、さらに、伝統的に最大の収穫高をもつ地帯で最小のそれになったという数字によっても、強く主張することができる。
 例えば、ヴォルガのゲルマン自治共和国はふつうは繁栄した緑地だが、最悪地域の一つになり、その人口の20%以上を失った。
 ここでは、1920-21年に、全穀物類収穫物の41.9%が、〔国家によって〕徴収された。(178)// 
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  (*) なぜソヴィエトの歴史家がこの主題に注意を向けることができなかったのかは、理解し難い。なぜ西側の学者がこれを無視してしまったのかは、もっとありそうでない。
 例えば、E・H・カーは、その三巻の<ロシア革命の歴史>で、この最も秘儀的な情報に関する叙述部分を残してはいるが、死者の推定数は信頼できないという尤もらしい理由で、大災害を一段落(a single paragraph)でもって簡単に片付けている(<ボルシェヴィキ革命>, Ⅱ, p.285)。
 同様の理由づけは、ネオ・ナチの歴史家により、ホロコーストを無視する根拠として使われてきた。
 これを〔私が〕執筆する時点では、1921年飢饉に関する研究書は一つも存在していない。
  (171) レーニン, PSS, XLIV, p.667.; LIII, p.391。
  (172) 同上, XLIII, p.13-14。
  (173) 革命的ロシア(RevR), No. 14/15 (1921), p.14-15。
  (174) L・ハチンソン, in : F. A. Golder =Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の推移について (1927), p.50。
  (**) イズベスチア, No. 60-1499 (1922年3月15日), p.2。ハチンソン, in : Golder =Hutchinson, 推移について, p.17。少し異なる数字は、次に示されている。Pomgol, Itogi bor'dy s golodom v 1921-22 gg (1922), p.460。子どもたちの数字は、次による。ロジャー・ペシブリッジ, 一歩後退二歩前進 (1990), p.105。
  (+) 地域ごとに数字はいくぶん変わるけれども、農民は毎年、生存維持の穀物として最低でも10 pud (163 kg)を必要とし、種子として残すために追加して2.5~5 pud (40-80 kg)が必要だった。RevR, No. 14/15 (1921), p.13。
 L・カーメネフは、1914年以前のロシアで、一人当たりの平均穀物消費は一年で16.5 pud (種子穀類を含む)だったと見積もっていた。RTsThIDNI, F. 5, op. 2, delo 9, list 2。
  (175) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.50。
  (176) ジーン・M・インゲルソル, 生態学的災害の歴史的諸例 (1965), p.20。
  (177) V. I. Pokrovskii, in : <略> (1897), p.202。
  (178) V. E. Den, <略> (1924), 209。ファイジズ, 農民ロシア, p.272。
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 ②へとつづく。

1516/ネップ期・1921年飢饉②-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
 1921年(大正10年)とは、その3月の第10回党大会で食糧徴発制から現物「税」制への変更が決定され(のちに言う「ネップ」=新経済政策の開始)、10月にはレーニンが「革命」4周年記念演説を行い、同10月末には、日本共産党・不破哲三らが<市場経済から社会主義へ>の途への基本方針を確立したと最重要視しているモスクワ県党会議でのレーニン報告があった、という年でもある。
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 第10節・1921年の飢饉②。
 1921年の春、干魃に見舞われた地方の農民たちは、草葉や樹皮やねずみ類を食べるという手段をとるべく追い込まれた。
 飢えは続き、政府による救援は見込まれない中で、起業精神のあるタタール人たちは、一ポンドあたり500ルーブルという値をつけて、『食用の粘土』と宣伝する物体を被災地域の市場に売りに出した。
 夏の初めに、空腹で狂いそうになった農民たちは、自分の村落を離れて、徒歩でまたは荷車で、最も近い鉄道駅へと向かった。食糧があると噂されている地域へと〔列車で〕進めるという望みを持ちながら。最初はウクライナへ、のちにはトルキスタンへ、だった。
 しばらくして、哀れな数百万の人々が、鉄道駅に密集した。
 モスクワ〔=政府=共産党〕は1921年7月までは大災害は起こっていないと頑なに主張していたので、彼ら農民は、列車運送を拒否された。
 彼らは鉄道駅で、『決して来ない列車を、あるいは避けられない死を』待った。
 以下は、シンビルスク鉄道駅が1921年夏にどのようだったかを述べている。//
 『汚いぼろ服の一団の民衆を、想像しなさい。その一団の中には、傾けた裸の腕があちこちに見える。顔には、すでに死斑が捺されているようだ。
 とりわけ、ひどく厭な臭いに気づく。通り過ぎることはできない。
 待合室、廊下、一歩進むたびに人々が覆ってくる。彼らは、身体を広げたり、座ったり、想像できるあらゆる姿でうずくまっている。
 近づいて見れば、彼らの汚れたぼろ服にはしらみ〔虱〕が充満しているのが分かる。
 チフスに冒された人々が、彼らの赤ん坊と一緒にいて、這い回り、熱で震えている。
 育てている赤ん坊たちは、声を失なった。もう泣くことができない。
 20人以上が毎日死んで、運び去られる。しかし、全ての死者を移動させることはできない。
 ときには、生きている者の間に、死体が5日間以上も残っている。//
 一人の女性が、幼児を膝の上に乗せてあやしている。
 その子どもは、食べ物を求めて泣いている。
 その母親は、しばらくの間、腕で幼児を持ち上げる。
 そのとき、彼女は突然に子どもをぶつ。
 子どもは、また泣き叫ぶ。これで、母親は狂ったように思える。
 彼女は、顔を激しい怒りに変えて、猛烈に子どもを叩き始める。
 拳で小さな顔を、頭を雨のごとく打ち続けて、最後に、幼児を床の上に放り投げ、自分の足で蹴る。
 戦慄の囁き声が、彼女の周囲でまき起こる。
 子どもは床から持ち上げられ、母親には悪態の言葉が浴びせられる。
 母親が猛烈な興奮状態から醒めてわれに戻ったとき、彼女の周りは、全くの無関心だ。
 母親はその視線を固定させる。しかし、きっと何も見えていない。』(179)//
 サマンサからの目撃者は、つぎのように書いた。
 『災害の恐ろしさを数行で叙述しようとするのは、無益だ。それを表現できる言葉を、誰も見つけられないだろう。
 彼ら骸骨の如き人間たち、骸骨のごとき子どもたちを、自分自身の目で見なければならない。
 子どもたちは病的に青白い、しばしば腫れ上がった顔をしていて、眼は空腹を訴えて燃えさかっている。
 彼らが恐れ慄いて、『Kusochek』(もう一欠片だけ)と死にゆきながら囁くのを、自分で聞かなければならない。』(180)//
 飢えで狂った者たちは、殺人を犯し、隣人をまたは自分たち自身を食べた。こうしたことについて、多数の報告があった。
 ノルウェイの社会奉仕家でこの当時にロシアを訪れていたフリートヨフ・ナンセンは、『恐るべき程度にまで』蔓延した現象として、人肉食(cannibalism)について語った。(181)
 ハルコフ大学の一教授は、これら諸報告の検討を請け負って、26事例の人肉食を事実だと承認した。
 『七つの事例で、…殺人が犯されており、死体が金儲けのために売られた。…ソーセイジ(sausage)の中に偽って隠されて、公開の市場に置かれた。』(182)
 死体嗜好症(necrophasia〔死姦〕)-死体の利用し尽くし-もまた発生した。//
 被災地帯を訪れた人たちは、村から村へと過ぎても、人の生命の兆候に気づかなかった。住民たちは逃げているか、移動するだけの身体の強さがなくて小家屋の中で横たわっていた。
 都市では、死体が路上に散乱していた。
 それらは拾い上げられ、荷車に乗せられ-しばしば裸に剥かれたあとで-、墓標のない民衆用墓地の穴へとぞんざいに投げ込まれた。//
 飢饉のあとには、伝染病が続いた。それは、空腹で弱くなった肉体を破壊した。
 主な死因はチフスだったが、数十万人が、コレラ、腸チフス熱、天然痘の犠牲にもなった。//
 ボルシェヴィキ体制の飢饉に対する態度を、30年前に同様の悲劇に直面した帝制政府のそれと比較してみることは、教育上も有益だ。かつて、およそ1250万人の農民が飢えに苦しんだ。(183)
 この当時におよびそれ以降に急進主義者やリベラルたちは、帝制政府は何もしなかった、救援は私的な団体によってなされた、という虚偽の情報宣伝をまき散らし、繰り返してきた。
 しかし、これとは反対に、記録は、帝制時代の国家機関は速やかにかつ効果的に動いたことを示している。
 それらは、食糧の供給を準備し、1100万人の被災者に引き渡し、地方政府に対して寛大な緊急的援助を与えた。
 その結果として、1891-92年飢饉に帰因する死者数は、37万5000人から40万人と推計されている。-これは、衝撃的な数字だ。
 しかし、この数字は、ボルシェヴィキ〔政府〕のもとで飢餓に苦しんだ人々の数の、13分の1にすぎない。(184)//
 クレムリン〔共産党政府〕は、急性麻痺に陥ったかのごとく、飢饉の広がりを眺めた。
 農村地方からの諸報告は災害が発生しそうだと警告していたけれども、またそれが起こった後ではその蔓延を警告していたけれども、クレムリンは何もしなかった。
 なぜならば、〔第一に〕『富農』、『白軍』または『帝国主義者』のいずれの責任にもすることのできない、国家的な大惨事の発生を承認することができなかったからだ。
 第二に、明確な解決策を、何も持っていなかった。
 『ソヴェト政府は初めて、その権力に訴えては解決することができない問題に直面した。』(185)
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  (179) フィッシャー, 飢饉, p.90、から引用。
  (180) 革命ロシア(RevR), No. 14/15 (1921年11-12月), p.15。
  (181) フィッシャー, 飢饉, p.300。
  (182) 同上, p.436n。
  (183) リチャード・G・ロビンス, Jr., ロシアの飢饉: 1891-1892 (1975)。
  (184) 同上, p.171。
  (185) ミシェル・エレ(Michel Heller), in :雑誌・ノート〔cahier〕 XX, No.2 (1979), p.137〔仏語〕。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。③につづく。

1518/ネップ期・1921年飢饉③-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉③。
 1921年の5月と6月、レーニンは国外から食糧を購入するように命じた。しかしそれは、彼の主な関心である都市住民に対して食を与えるためで、農民に対してではなかった。(186)
 飢饉はレーニンを当惑させたが、それは反対の政治的結果が生じる恐れが潜在的にせよあるかぎりにおいてだった。
 例えば、レーニンは1921年6月、飢えの結果として生じている『危険な状況』について語った。(187)
 そして彼は、すでに我々が見たように、正教教会に対する攻撃を開始する口実として飢餓を利用した。
 1921年7月に、ジェルジンスキーはチェカに、飢饉の被災地帯での反革命の脅威について警告し、苛酷な予防措置を取るように命じた。(188)
 収穫の減少についていかなる示唆をすることも、新聞には禁止された。7月初めにすら、農村地帯では全てがうまくいっているとの報道が続いた。
 ボルシェヴィキ指導者層は、飢饉とのいかなる明らかな連関に言及することも注意深く避けた。
 クレムリンの農民たち代表者であるカリーニンは、被災地域を訪れた唯一の人間だった。(189)
 飢饉が最悪点に達していた8月2日、レーニンは『世界のプロレタリアート』への訴えを発し、素っ気なく、『ロシアの若干の地方で、明らかに1891年の不運よりも僅かにだけ少ない飢餓が生じている』と記述した。(190)
 この時期にレーニンのが書いたものや語ったもののいずれにも、飢餓で死んでいく数百万人の彼の国民に対する同情の言葉は、何一つ見出すことができない。
 実際に、レーニンにとっては飢饉は、政治的には決して歓迎されざるものではなかった、ということが示唆されてきた。
 なぜならば、飢饉は農民たちを弱体化し、その結果として飢饉は『農民反乱のような類を全て一掃した』、そして食糧徴発の廃止によるよりももっと早くにすら村落を『平穏にした』のだから。(191)//
 クレムリンは7月にようやく、誰もが知っていること、国土が悲惨な飢饉に掴まえられていること、を承認しなければならなかった。
 しかし、クレムリンは直接にそうしたのではなく、したくはない告白をして私的な方途を通じた援助を求める口実にすることを選んだのだった。
 確実にレーニンの同意を得て、ゴールキは7月13日に、食糧と医薬品を求めて『敬愛する全ての人々へ』と題する訴えを発した。
 7月21日に政府は、市民団体指導者の要請にもとづいて飢餓救済のための自発的な民間人組織を形成することに同意した。
 全ロシア飢餓救済公共委員会(Vserossiiskii Obshchestvenny Komitet Pomoshchi Golodaiushchim、略称して Pomgol)と呼ばれたそれは、多様な政治組織に属する73人の委員をもち、その中にはマクシム・ゴールキ、パニナ伯爵夫人、ヴェラ・フィグナー、S・N・プロコポヴィッチとその妻、エカテリーナ・クスコワが、著名な農業学者、医師や作家などとともにいた。(192)
 この委員会は、類似の苦境にあった帝制政府を助けるために1891年に設立された飢饉救済特別委員会を、模したものだった。異なっていたのは、レーニンの指令にもとづいて、12人の有力な共産党員から成る『細胞(cell)』があったことだ。
 カーメネフが長として、アレクセイ・リュイコフが次長として働いた。
 このことは、共産主義ロシアで許可された初めての自立組織が、指定された狭い範囲の機能から逸脱しない、ということを確実にした。//
 7月23日、アメリカ合衆国商務長官のハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover〔共和党、のち1929-33年の大統領〕)が、ゴールキの訴えに反応した。
 フーヴァーは、アメリカ救済委員会(ARA)を設立して〔第一次大戦の〕戦後ヨーロッパに食糧と医薬品を供給する仕事に大成功していた。
 彼は確固たる反共産主義者だったが、政治は別に措いて、飢饉からの救済に精力的に没頭した。
 フーヴァーは、二つの条件を提示した。一つは、救済の指揮管理に責任をもつアメリカの組織には、共産党の人員からの干渉を受けることのない独立した活動が認められること。二つは、ソヴィエトの監獄に拘禁されているアメリカ市民を釈放すること。
 アメリカ人救済担当者は治外法権を享有するとのこの主張は、レーニンを激しく怒らせた。彼は、〔共産党中央委員会〕政治局に書いた。
 『アメリカの基点、フーヴァー、そして国際連盟は、珍しくひどい。
 『フーヴァーを懲らしめなければならない。
 <彼の顔を公衆の面前で引っぱたいて、全世界が>見るようにしなければならない。
 同じことは、国際連盟についても言える。』
 レーニンは私的にはフーヴァーを『生意気で嘘つきだ』と、アメリカ人を『欲得づくの傭兵だ』と描写した。(193)
 しかし、彼には実態としては選択の余地はなく、フーヴァーの条件を呑んだ。//
 ゴールキは7月25日、ソヴィエト政府に代わって、フーヴァーの申し出を受諾した。(194)
 ARAは8月21日にリガで、マクシム・リトヴィノフとともに、アメリカの援助に関する協定書に署名した。
 フーヴァーはまず、アメリカ議会からの1860万ドルを寄付し、それに民間人の寄付やソヴィエト政府が金塊を売って実現させた1130万ドルが追加された。
 その活動を終えるときまでに、ARAはロシアの救済のために6160万ドル(あるいは1億2320万金ルーブル)を使い果たした。(*)//
 協定書が結ばれたときに、レーニンは、ポムゴル(Pombgol〔全ロシア飢餓救済公共委員会〕)に関して小文を書いた。
 彼はこの組織を、敵である『帝国主義者』に助けを乞うたという汚名が生じるのを避けるために、仲介機関として利用した。
 この組織はこの目的に役立ったが、今やレーニンの怒りの矢面に立たなければならなかった。
 レーニンは8月26日、スターリンに対して政治局に以下のことを要求するように頼んだ。すなわち、ポムゴルを即時に解散させること、および『仕事に本気でないこと(unwillingness)』を尤もらしい理由としてポムゴルの幹部たちを投獄するか追放すること。
 彼はさらに、二ヶ月の間、一週間に少なくとも一度、その幹部たちを『百の方法で』、『嘲笑し』かつ『いじめて悩ませる』ように新聞に対して指示するように、命じた。(195)
 レーニンが要請して開催された政治局会議で、トロツキーはこれを支持して、ARAと交渉している間、アメリカ人は一度もこの委員会〔ポムゴル〕に言及しなかった、と指摘した。(196)
 その次の日、先陣のARA一行がロシアに到着し、ポムゴルの委員たちと一緒にカーメネフと会ったとき、ポムゴル全幹部の二人以外はチェカに拘束されて、ルビャンカに投獄された(ゴールキはあらかじめ警告されていたらしく、出席しなかった)。(197)
 彼らはそのあと、あらゆる形態の反革命の咎で新聞によって追及された。
 処刑されると広く予想されていたが、ナンセンが仲裁して、彼らを救った。
 彼らが監獄から釈放されたのち、何人かは国内に流刑となり、別の者は国外に追放された。(198)
 ポムゴルは、解体される前にもう一年の間、政府の一委員会として生き長らえた。(199)//
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  (186) レーニン, PSS, LII, p.184-5, p.290, p.441-2; LIII, p.105。
  (187) 同上, XLIII, p.350。
  (188) G. A. Belov, et al., ed, <略> (1958), p.443-4。
  (189) ペシブリッジ, 一歩後退, p.117。
  (190) レーニン, PSS, XLIV, p.75。
  (191) ペシブリッジ, 一歩後退, p.119。
  (192) イズベスチア, No. 159-1302 (1922年7月22日), p.2。エレ, in : 雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.131-172。フィッシャー, 飢饉, p.51。
  (193) レーニン, PSS, LIII, p.110-1, p.115。
  (194) フィッシャー, 飢饉, p.52-53。
  (*) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.553。
 ソヴィエトの金売却の収益は、もっぱら都市住民の食糧を購入するために使われたように思われる。
 外国人が飢饉のロシアへの食糧供給を助けたという最も古い事例は、1231-32年のノヴゴルード(Novgorod)であった。そのとき、飢餓のために人口が減っていた地域の人々を救ったのは、ドイツからの船便輸送による食糧だった。Novyi Entsikopedicheskii Slovar', XIV , 40-41。
  (195) レーニン, PSS, LIII (1965), p.141-2 で、初めて公表された。
  (196) B・M・ヴァイスマン, ハーバート・フーヴァーとソヴェト・ロシアの飢饉救済 (1974), p.76。
  (197) ミシェル・エレ, Pomoshch 入門 (1991), p.2。
  (198) ウンシュリフトのレーニンあて報告(1921年11月21日), in : RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1023。
  (199) ミシェル・エレ, in :雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.152-3。イズベスチア, No. 206/1645(1922年9月14日), p.4。
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 ④につづく。

1520/ネップ期・1921年飢饉④-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉④。
 ARA〔アメリカ救済委員会〕は、活動が最も活発だった1922年の夏、一日に1100万の人々に食糧を与えた。
 他の外国の諸団体は、300万人ぶんを加えた。
 総体的にいうと、この期間にソヴィエト政府および外国の救済諸機関が輸入した食糧は、1億1500万~1億2000万pud、あるいは200万トンに達した。(200)
 このような活動の結果として、1922年夏の初めには、『飢餓による現実の死の報告は、事実上なくなった。』(201)
 ARAはまた、800万ドルに値する医薬品も供給した。これは、感染症を食い止めるのに役立った。
 さらに、1922年と1923年に穀物の種子も供給し、続けて二回分の豊かな収穫を可能にした。
 数百人のARAスタッフは、フーヴァーが作成した取り決めにしたがい、数千人のソヴィエト市民に助けられながら、食糧や医薬品の分配を監督した。
 共産党当局は干渉しないと合意していたが、ARAの活動はチェカおよびその後継機関であるゲペウ(GPU)によって近くで監視されていた。
 レーニンはARAには全体にスパイが潜入していると確信していて、モロトフに対して、ARAが雇った外国人に目を光らせ続ける委員会を組織するように命じた。また、『英語に習熟している最大多数の共産党員』を動員して、『フーヴァーの委員会に〔採用するよう〕紹介し、監視と情報収集の別の形態として使う』ことも命じた。(202)
 のちにARAが解散したあとで、諜報活動や誰も欲していない物品のロシアへの荷下ろしを含む行為の、きわめて邪悪な動機はARAの責任だと非難しようとした。(203)
 第二次大戦の後でもなお、おそらくはスターリンがマーシャル・プランによる援助を拒否したことを正当化するために、ARAが雇ったソヴィエト国民の何人かが、諜報活動に従事したという言明書に署名させられた。//
 飢えているソヴィエト市民に対する食糧供給という重要な責任をアメリカや他国の組織が引き受けるやいなや、モスクワはその資源を別の目的へと転用した。
 8月25日-フーヴァーとの協定書に署名があって3日後-に、リトヴィノフはモスクワに対して、つぎのように知らせた。すなわち、自分はイギリス団に2000万金ルーブルの価格で宝石を売却した、また、購入者は2000万ポンド(一億ドル)(204)-この金額はアメリカと欧州を併せての飢餓ロシア人への寄付額を上回る-を支払ってさらに宝石を買う用意がある、と。
 トロツキーは1921年10月早くに、厳格に秘密にしているドイツのソヴィエト工作員、ヴィクトール・コップに、1000万金ルーブル(500万ドル)でライフル銃と機関銃を買い付けるように命令した。(205)
 これらの事実は、この当時は知られていなかった。
 知られるようになり、アメリカの救済団体にきわめて大きな衝撃を与えた。このことは、まさにその当時に、ソヴェト政府は自らの国民への食糧供給を西側の慈善金に頼っていたことを証拠だてている。
 ソヴェト政府は、外国に売るために食糧品を使っていた。(206)
 モスクワは1922年の秋に、数百万トンの穀物類を輸出できるように保有していると発表した。-これは、来たる冬の間に800万のソヴィエト市民がなおも食糧の支援を必要としており、その半分だけを国内の穀物資源で対応できるという時期に、行なわれた。(207)
 ソヴェト当局は質問されて、工業用や農業用の機械類を購入するために金銭が必要なのだと説明した。
 この行為は、アメリカの救済関係職員を激怒させた。
 『ソヴェト政府は、外国の市場で食糧供給物の一部を販売しようと懸命に努力しているが、一方では、輸出物に代替させるために、世界中に食糧の寄付を懇願している。』(208)
 フーヴァーは、抗議した。『生存者の経済条件を改善すべく機械や原料を確保するために、飢えている人々から奪って食糧を輸出する、ソヴェト政府の政策の非人間性』、に対して。(209)
 しかし、飢饉の最悪期が過ぎてしまうと、モスクワは外国の声を聞くのを拒絶することができた。
 穀物類が輸出されていることが報告されるとロシア人救済のための追加資金を集めることは不可能になり、ARAは1923年6月に、ロシアでの活動を停止した。//
 1921年飢饉の死傷者数は、犠牲者たちの痕跡が維持されなかったために、確定するのはむつかしい。
 最大の損失は、サマラとシェラビンスク地方およびゲルマンとバスク(Bashkir)の各自治共和国で発生した。合わせての人口は、20.6%減少した。(210)
 社会的階層について言えば、最大の被害を受けたのは、農村地方の貧困者、とくに、乳牛(cow)を持っていなかった人々だった。それを保有していれば、多くの家族が死から逃れることができた。(211)
 年齢について言うと、最も多く死んだのは、その多くが飢えた両親によって捨てられた、子どもたちだった。
 1922年に、150万人以上の農民の子どもたちが孤児になり、物乞いをし、窃盗をしていた。
 乳幼児・孤児保護施設(besprizornye)での死亡率は、50%に達した。(212)
 ソヴィエト中央統計局は、1920年と1922年の間の人口減少を、510万人だと推算した。(213)
 ロシアの1921年飢饉は、戦争によるものを別にすれば、黒死病以来の、ヨーロッパ史上最大の人的大災害だった。//
 少なくとも900万人の人命を救ったと概算されているフーヴァーの博愛主義の活動がなければ、損失はさらに大きくなっていただろう。(214)
 ゴールキはフーヴァーあての手紙で、人類史上に類例のない活動だったとフーヴァーを称賛した。
 『貴方の助けは、最大級の賞賛に値する、無類の巨大な業績として歴史に残るでしょう。そして、貴方が死から救ってくれた数百万のロシア人の記憶のうちに、長くとどまり続けるでしょう。』(215)
 多くの政治家が、数百万の人々を死に至らしめたとして歴史上に重要な位置を占めている。
 ハーバート・フーヴァーは、大統領としての業績のゆえに悪評はあり、すぐにロシアで忘れられたが、数百万の人々を救った人物として、稀なる栄誉が与えられる。//
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  (200) フィッシャー, 飢饉, p.298n。
  (201) ハチンソン, in : Golder and Hutchinson, 推移, p.18。
  (202) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 830、1921年8月23日付。
  (203) 例えば、レーニン, Sochineniia, XXVII, p.514 を見よ。
  (204) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 837。
  (205) トロツキー選集(J. M. Meijer 編) Ⅱ, p,596-599。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo, p.914。
  (206) フィッシャー, 飢饉, 第14章。
  (207) 同上, p.315, p.321。ニユーヨーク・タイムズ, 1922年10月16日付, p.4。
  (208) フィッシャー, 飢饉, p.321。
  (209) 同上, p.321-2。
  (210) V・E・デン, 経済地理路線〔? 露語〕, p.209。
  (211) EZh (Ekonomicheskaia zhizn'), No. 292 (1922年12月24日), p.5。ファイジズ,農民ロシア, p.271。
  (212) インゲルソル, 歴史的諸例, p.36。ペーター・シャイベルト, 権力にあるレーニン (1984), p.166。
  (213) デン, 上掲, p.210。
  (214) インゲルソル, 歴史的諸例, p.27。
  (215) H・ジョンソン, in : Strana i mir, No. 2-68 (1992), p.21、から引用。
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 第10章、終わり。

1541/緒言・スイスのレーニン①-R・パイプス著第10章。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990、Vintage)〔リチャード・パイプス・ロシア革命〕の第二部の最初の第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』の試訳は、すでに済ませた(2月下旬以降)。
 この本には1997年に新版が出ていて、①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919、というタイトルになっている(Harvill Press 刊、計950頁余)
 中身は頁数を含めて変わっていない。但しいわば大判から中判への変更で、活字・文字はやや小さくなり、少し読み辛い(もっと小さな活字・文字の小型判の本はある)。
 タイトルに「1899-1919」が付いて分かりやすくなっている。
 そして、この欄で1994年刊の「別著」とも称したものは、次のタイトルになった。
 ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Refime 1919-1924.(計約600頁)
 こう並べてみると、簡潔版(単純な抜粋又は要約でないが)の、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995、Vintage, 1996、計430頁余)=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)が、①のではなく、時期・内容ともに①と②を併せたものの簡潔版(Concice 版)であることがよく分かる。
 ちなみに、リチャード・パイプスの、注記・参考文献等も詳しい上の①、②ともに(③はあるが)、邦訳書がまだ存在しないことに留意されてよい。試訳している部分でも明らかだが、リチャード・パイプスの記述内容は、日本の<ある勢力>にとって<きわめて危険>だ。アメリカの安全保障会議の「ソ連・東欧問題」補佐官だったが、この人が1989-91年のソ連・東欧の激動期に日本のメディアからインタビューされたり、原稿執筆を依頼された痕跡が全くないのはどうしてだろうか ?
 Leszek Kolakowski(L・コワコフスキ)のMain Currents of Marxism (マルクス主義の主要な潮流)は邦訳書がないかぎりは、レーニン関係部分だけでもこの欄で邦訳してみたい。
 ただ-すでにネップに関連してこの著を参照してレーニン全集(大月書店)の一部を引用しているのだが-、L・コワコフスキはたんなる抽象的・理論的「哲学者」ではなく、モスクワでの留学経験、スターリン体制下でのポーランドでの実経験を踏まえて(マルクス等々だけでなく)レーニンやスターリンの諸文献を熟読しており、(かつこれが重要だが)ロシア・ソ連の歴史の基本的なところはきちんとした知識をもったうえで、叙述している。したがって、L・コワコフスキ著の一部の邦訳を試みるにしても、やはりロシア革命等々の歴史の基本的な理解が必要だ。
 二月革命、十月「革命」あるいは<一党支配の確立>について、すでにリチャード・パイプス著の概読はしている。
 しかし、邦訳を試みたかどうかはやはり<記憶>への定着度がかなり異なるので、あらためて、上の①の第二部・第10章からの試訳を、これから掲載してみよう。
 この著の第二部・第10章の節の区分・タイトルはつぎのとおり(但し、原著の詳細目次の中にタイトル名は出てきて、本文にはない。また、「節」の文字や「数字」もない。「緒言」は詳細目次にすらない)。
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 第二部/第10章・ボルシェヴィキの権力奪取への努力(Bid)。
 (緒言)
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 第2節・ドイツの助力によるレーニンの帰還。
 第3節・レーニンの革命戦術。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキ集団示威行動。
 第5節・臨時政府への社会主義党派の加入。
 第6節・権力闘争へのボルシェヴィキ資産とドイツの援助。
 第7節・6月のボルシェヴィキ街頭行動の中止。
 第8節・ケレンスキーの夏期攻撃。
 第9節・ボルシェヴィキの新たな攻撃の準備。
 第10節・蜂起の準備。
 第11節・7月3-5日の出来事。
 第12節・鎮圧された蜂起-レーニンの逃亡・ケレンスキーの独裁。
 注記は、本文の下部にある(*)や(+) はできるだけ訳し、後注(note)は原則として訳さない。
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 緒言
 1917年のロシアの革命について二つを語る-第一に二月で第二は十月-のが一般的だが、革命の名に値するのは、第一のものだけだ。
 1917年二月に、ロシアはつぎの意味で、本当の革命を経験した。まず、ツァーリスト(帝制)体制を打倒した社会不安は、刺激もされず予期もされずに自然発生的に起こり、つぎに、続いた臨時政府は、すみやかに国民全体に受容された。
 1917年十月は、いずれの点でも本当ではない。
 まず、臨時政府の打倒につながった事象は自然発生的に起こったのではなく、緊密に組織された陰謀集団によって計画され、実施された。
 つぎに、この陰謀家たちが民衆の過半を服従させるためには、三年間の国内戦争(内戦)と無差別のテロルが必要だった。
 十月は、古典的なクー・デタ(coup d'etat)だった。政府の統治権力は、民衆参加の外見でも帯びるという当時の民主主義的な慣行を無視して、民衆の関与なくして、少数集団によって奪取され、行使された。
 政治にではなくて戦争にむしろ適切な手段が、その革命的な行動には用いられた。//
 ボルシェヴィキのクー(権力転覆)は、二つの段階を経た。
 第一は4月から7月までの時期で、レーニンは、武装した実力が支える街頭示威行動によって、ペテログラードの権力を奪おうとした。
 二月の騒擾の態様にしたがって、この示威行動を段階的に拡大するのが、レーニンの意図だった。そうして、最初はソヴェトに、その後即時に彼の党へと権力を移行させる、大規模な暴乱へと持ち込もうとした。
 この戦略は、失敗に終わった。三回めの7月の行動は、ボルシェヴィキ党の破滅をほとんど生じさせた。
 ボルシェヴィキは8月までには、権力への衝動力を十分に回復した。しかしこのとき、彼らは別の戦略を用いた。
 レーニンは、フィンランドにいて警察の目から逃れていた。その間の責任者だったトロツキーは、街頭の集団示威行動を避けた。
 トロツキーはその代わりに、偽りのかつ非合法のソヴェト大会という前景の背後で、政権中枢を奪取する特殊な突撃兵団に依拠した、ボルシェヴィキのクーを準備していた。
 権力掌握は、名目上は、一時的にのみかつソヴェトのために実行された。しかし、実際は、永続的に、かつボルシェヴィキ党の利益のために、だった。//
 <〔原文一行あけ〕>
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 レーニンは、ツューリヒにいて二月革命の勃発を知った。
 戦争の開始以来ずっと故国から切り離されて、レーニンは、スイスの社会主義的政界人たちに身を投じていた。そして、彼らに非寛容と論争好きというよそ者の精神を注入していた。
 レーニンの1916年から1917年の間の冬の日誌によると、熱狂的だが焦点が定まらない活動様式が分かる。小冊子を配ったり、対抗的なスイスの社会民主党に対して策略を試みたり、マルクスとエンゲルスを勉強したりしていた。//
 ロシアからのニュースは、数日遅れてスイスに届いた。
 レーニンはまず、ペテログラードの社会不安について、ほとんど一週間遅れて、3月2日/15日〔ロシア暦/新暦、以下同じ〕の<新ツューリヒ新聞(Neue Zuercher Zeitung)>の報道で知った。
 ベルリン発のその報道は、戦争の舞台からの二つの速報の間に挿入されていて、ロシアの首都で革命が勃発した、ドゥーマ〔もと帝制議会・下院〕は帝制下の大臣を逮捕して権力を握った、と伝えていた。//
 レーニンはすぐに、ロシアに帰らなければならないと決めた。
 1915年にスカンジナヴィアに移動することはまだ可能だったのにその『危険を冒す』ことをしなかったのを、今や激しく悔いた。(*)
 だが、どうやって帰るか ? 明確なただ一つは、スウェーデンを経てロシアに入ることだった。
 スウェーデンに行くには、フランス、イギリスまたはオランダという連合国の領域を通過するか、ドイツを縦断するかのどちらかだつた。
 レーニンはイネッサ・アーマンド(Inessa Armand)にほとんど任せて、英国の査証(visa)を得る機会を探してくれるよう頼んだ。だが彼は、英国は自分の敗北主義の綱領を知っているのでほとんど確実に発行を拒否するだろうと、これを得る見込みはまずないと考えた。
 レーニンはつぎに、偽の旅券(passport)でストックホルムへ旅行するという現実離れした計画を抱いた。
 スイスの彼の工作員、フュルステンベルク・ガネツキー(Fuerstenberg Ganetskii)に、使える旅券をもつ、かつレーニンと肉体的に似ているだけではなくて彼はスウェデン語を知らなかったので聾唖者でもある、スウェーデン人を見つけるよう頼んだ。
 こんな計画のどれも、首尾よくいく現実的な見込みは全くなかった。
 レーニンは結果として、パリにいるマルトフ(Martov)がある社会主義者の難民団体に3月6日/19日に提案した計画を利用した。それによると、ドイツ人とオーストリア人の捕虜と交換に、その領土を通ってスウェーデンへと縦断することをロシア人がドイツ政府にスイスの媒介者を通じて依頼する、ということだった。(5)//
 レーニンは、トロツキーの言葉によれば檻の中の野獣のごとく怒り狂っていたが、ロシアの政治状況の見通しを失ってはいなかった。
 ロシアの支持者たちが自分が舞台に登場するまで適切な政治路線を採用することに、彼の関心はあった。
 とくに懸念したのは、支持者たちがメンシェヴィキの『日和見主義』戦術やエスエル〔社会主義革命党〕の『ブルジョア』議会政府への支持を真似ようとしないかどうかだった。
 レーニンは、3月6日/19日にストックホルム経由でペテログラードにあてて送信した電報で、彼の基本方針をつぎのように概述した。//
 『我々の戦術-新政府の完全な不信任と不支持。
 とくに、ケレンスキーを疑う。
 プロレタリアートの武装だけが唯一の保障だ。
 ペテログラード(市の)ドゥーマ選挙の即時実施。
 <他諸政党との友好関係を持たない。>』//
 レーニンが支持者たちにこの指令を電報で伝えたとき、一週間しか仕事をしていない臨時政府には、政治的な基本的考え方を明らかにする機会はほとんどなかった。
 舞台から遠く離れたところにいて西側報道機関による二次的または三次的な情報に依存していたので、レーニンが新政府の意図や行動について知っているはずは決してなかった。
 『完全な不信任』とか支持しないという彼の主張は、したがって、新政府の政策によるものではありえなかった。
 そうではなく、新政府の権力を奪おうとするア・プリオリな(a priori、先験的な)決定を反映していた。
 ボルシェヴィキは他諸政党と協力しないとのレーニンの主張は、権力の空白をボルシェヴィキ党だけが排他的に奪い占めるという、充ち満ちた決心をしていることを意味した。
 上掲の簡潔な文書は、二月革命を知ってほんの僅か4日後に、レーニンがボルシェヴィキによるクー・デタを考えていたことを意味するだろう。
 また、『プロレタリアートの武装』の指示は、軍事暴動としてのクー(政権転覆)を想定していたことを示唆する。
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  (*) これはおそらく、1915年のレーニンとの会合の際になされたパルヴス(Parvus)の提案に関係している。
  (5) W. Hahlweg, Lenins Rueckkehr nach Russland 1917 (1957)〔レーニンのロシアへの帰還〕, p.15-16。
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 第1節②へとつづく。

1543/スイスにいたレーニン②-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党②。
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 1917年3月のボルシェヴィキ党は、このような〔レーニンの〕野心的計画を遂行できる状況ではほとんどなかった。
 大戦中に警察に逮捕されて、それは2月26日が最もひどかったのだが、党の最も重要な組織体であるペテログラード委員会の委員が勾留され、党の機構は無力になった。
 指導部の者たちはみな、投獄されるか、追放されていた。
 1916年12月初期のレーニンあて報告で、シュリャプニコフ(Shliapnikov)は、いくつかの工場や要塞守備兵団での前の数ヶ月間の党の活動について、『戦争をやめろ』、『政府を倒せ』とのスローガンだったと叙述した。だが同時に彼は、ボルシェヴィキが警察の情報員にスパイされていて非合法の活動をするのがほとんど不可能になった、と認めた。
 二月革命を呼びかけたとか組織したとすらしたとかのボルシェヴィキによるそのすぐあとの主張は、したがって、全く事実ではない。
 ボルシェヴィキは、自発的な示威行動者たち、そしてまた、メンシェヴィキやそれが支配するソヴェトの後にくっついて、その人たちの上着の裾を握って歩いたようなものだった。
 反乱兵団の中には支持者はほとんどいなかったし、この時期の工場労働者の中でボルシェヴィキを支持する者は、メンシェヴィキやエスエルに対してよりもはるかに少なかった。
 二月の日々の間、ボルシェヴィキがしたことと言えば、訴えや宣言文書類を発行することに限られていた。
 せいぜいのところ、2月25-28日のデモ行進で労働者や兵士たちが運んだ革命の旗を準備するのに手を染めたかもしれない。//
 しかしボルシェヴィキは、数の少なさを組織化の技術で埋め合わせた。
 3月2日、監獄から釈放されたばかりの党ペテログラード委員会は、三人総局(Bureau)を立ち上げた。それは、シュリャプニコフ、V・A・モロトフおよびP・A・ザルツキー(Zalutskii)の三人で構成された。
 この総局は3日後に、モロトフが編集長になって、再生した党の機関誌、<プラウダ>の第一号を発行した。
 3月10日には、N・I・ポドヴォイスキーとV・I・ネフスキー(Nevskii)のもとに軍事委員会(のち軍事機構と改称)を設立して、ペテログラード守備兵団への情報宣伝と煽動を実施することになった。
 ボルシェヴィキは活動の本拠として、若いニコライ二世の愛人だとの風聞のあったバレリーナのM・F・クシェシンスカヤ(Kshesinskaia)の贅沢なアール・ヌーヴォー様式の邸宅を選んだ。
 この邸宅をボルシェヴィキは、所有者の抗議を無視して、友好的兵団の助けで『収用した』。
 1917年7月までここに、ペテログラード委員会と軍事機構はもちろんだが、ボルシェヴィキ党の中央委員会も所在した。//
 1917年3月はずっと、ロシアのボルシェヴィキはその指導者から切り離され、メンシェヴィキやエスエルとほとんど異ならない政治路線を追求した。
 中央委員会のある決定は、口では臨時政府は『大ブルジョア』や『地主』の代理人だと述べていたが、それに対抗するとは主張しなかった。
 最も力があるボルシェヴィキの組織であるペテログラード委員会は、3月3日に、メンシェヴィキ・エスエルの立場を採用して、< postol'ku-poskol'ku >、つまり『民衆』の利益を向上させる『範囲で』政府を支持することを訴えた。
 理論的にも実務的にも、ペテログラードのボルシェヴィキ指導部は、レーニンのそれとは完全に対立する基本方針を採った。
 ペテログラード指導部はしたがって、レーニンから一週間後に届いた3月6日の電報の内容が気に入ったはずはなかった。
 ペテログラード委員会の会議に関する公刊されている議事録は、電報を受け取った後の議論を記載していない。//
 この親メンシェヴィキの方向は、追放されていた三人の中央委員会メンバーがペテログラードに着いて、強化された。三人とはL・B・カーメネフ、スターリンおよびM・K・ムラノフで、年長者優先原理により、この三人が、党の指揮権と<プラウダ>の編集権を握った。 
 これら三人はいずれも、彼らの論考や演説で、レーニンがツィンマーヴァルト(Zimmerwald)やキーンタール(Kiental 〔いずれもスイスの小村、社会主義インターの会合地〕)でとった見地を拒否した。
 彼らは、国家間の戦争を内乱に転化するのではなく、社会主義者が講和交渉の即時開始を強く主張することを望んだ。(11)
 ペテログラード委員会は、3月15-16日に会議を開いた。
 そのときの議事録も決定集も公刊されていないことは、新政府や戦争への態度という重大な論争点について、多くの出席者が反レーニンの立場を選択したことを強く示唆する。
 しかし、知られていることだが、3月18日のペテログラード委員会の閉鎖会議で、カーメネフは、臨時政府は間違いなく『反革命的』で打倒されるべき運命にあるが、その打倒のときはまだ将来だ、『重要なことは権力を掌握することではなく、それを維持し続けることだ』と主張した。
 カーメネフは、同旨のことを3月末の全ロシア・ソヴェト協議会でも語った。
 この当時のボルシェヴィキは、メンシェヴィキとの再統合を真剣に考えていた。
 3月21日にペテログラード委員会は、ツィンマーヴァルトやキーンタールの基本線を受け入れるメンシェヴィキと合同するのは『可能でかつ望ましい』と宣言した。(*)//
 こうした態度を考えると、アレクサンダー・コロンタイ(A. Kollontai)がレーニンの第一と第二の『国外からの手紙』を携えて彼らの前に現れたときに、ペテログラードのボルシェヴィキが衝撃や疑惑の反応を示したことは、理解できない。
 レーニンはこの手紙で、3月6日/19日の電報について詳述していた。つまり、臨時政府の不支持と労働者の武装。
 この基本方針は、ロシアの状況の雰囲気を全く知らない誰かが考え上げた、完全に現実離れしているものだと、彼らは感じた。
 数日間の躊躇の後で、彼らは第一の『国外からの手紙』を<プラウダ>に載せたが、レーニンが臨時政府を攻撃している部分の文章は除外した。
 彼らは、第二の手紙、およびその後のものを掲載するのを拒んだ。//
 3月28日と4月4日の間にペテログラードで開かれた全ロシア・ソヴェト大会で、スターリンが動議を提案して、代議員たちが採択した。それは、臨時政府への『統制』、および『反革命』と闘い革命運動を『拡大する』目的をもつその他の『進歩勢力』との協力を呼びかけるものだった。(+)
 ボルシェヴィキのこのようなもともとの『反ボルシェヴィキ』的態度とレーニンが到着した後の速やかな変化は、彼らの振る舞いが、信奉して適用する原理にもとづいているのではなく、指導者の意思にもとづいている、ということを示す。
 すなわち、ボルシェヴィキは、信じることにではなく信じる人物に、完全に拘束されていた。//
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  (11) カーメネフ, プラウダ, No.9 (1917年3月15日), p.1、スターリン, プラウダ, No.10 (1917年3月16日), p.2。
  (*) シュリャプニコフは、つぎのように書く。ペテログラードのボルシェヴィキは、カーメネフ、スターリンおよびムラトフが強く主張して迫った政策方針を知って狼狽した、しかし、ペテログラードに現れた年長の三人のボルシェヴィキの前で自分たちが従った政策の見地に立ったので、狼狽した別のありそうな原因は、端役を演じなければならなかったことへの憤慨にあったように見える、と。 
  (+) この大会の記録はロシアでは公刊されてこなかったが、レオン・トロツキー, Stalinskaia shkola falsifikatsii (ベルリン, 1932) で見い出せる。上の決定は、p.289-p.290 に出てくる。
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 第2節につづく。

1544/ドイツの援助で帰国①-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けによるレーニンの帰国①。
 ドイツには、ロシアの急進派について自らの計画があった。
 戦争は膠着している。そして、勝利する可能性が残るのは、敵国の協調を分裂させることだ、最もよいのはロシアを戦争から追い出すことだ、と認識するに至った。
 ドイツ皇帝は1916年の秋に、つぎのように書いた。//
 『厳密に軍事的観点から言えば、残りの諸国と全力を挙げて戦闘するために、分離講和をして協商側の交戦国の中の一国又は別の一国を分離することが重要だ。<中略>
 そうすると、ロシアの内部抗争が我々との講和の結論に影響を与えるかぎりでのみ、我々は戦争努力を組織することができる。』//
 ロシアを軍事力で排除することに1915年に失敗したドイツは、こうして、革命ロシア内部にある分裂を利用するという政治的方法に訴えた。
 臨時政府は完全に、協商国側の基本方針を支持していた。二月革命はイギリスが工作した、と思っていたドイツ人もいたほどだ。(18)
 ロシア外務大臣・ミリュコフ(Miliukov)の声明には、中央諸国軍が楽観できる理由はなかった。
 したがって、ロシアを協商国軍から切り離せる唯一の希望は、『帝国主義』戦争に反対してそれを内戦(civil war)に転化しようと主張している急進的過激派を、換言すると、レーニンが疑いなき指導者だったツィンマーヴァルト・キーンタールの左翼を、利用することにあった。
 レーニンがロシアに帰還すれば、階級対立意識を引き起こし、民衆の厭戦気分を利用して、臨時政府に対して尽きない混乱を生じさせることができるだろう、そしてたぶん権力を握ることすら。//
 『レーニン・カード』を使うのを最も強く主張したのは、パルヴス(Parvus)だった。
 パルヴスは1915年にレーニンに接近していた。そのときレーニンは協力するのを拒否したが、状況は今は変わった。
 1917年にパルヴスはコペンハーゲンに住んでいて、諜報活動をする隠れ蓑として、そこで輸入商社を経営していた。
 スパイ行為(espionage)を指揮するために、表向きだけの科学研究所も持っていた。
 ストックホルムにいる彼の商売上の代理人はヤコブ・ガネツキー(Jacob Ganetskii)で、レーニンが信頼する仲間だった。
 パルヴスはロシアの亡命者政策をよく知っていたので、レーニンのような過激主義者には大きな望みをもった。
 彼はデンマークのドイツ大使、V・ブロックドルフ=ランツァウ(Brockdorff-Rantzau)に対して、解放された戦争反対左翼は政治不安を広げ、二、三カ月にはロシアは戦争にとどまることは不可能だと気づくだろう、と請け負った。(20)
 パルヴスはレーニン一人を選び出して、ケレンスキーとチヘイゼ(Chkheidze)のいずれよりも『はるかにすごい狂乱者』だとして特別の注意を向けた。
 不可思議な洞察力をもってパルヴスは、いったんロシアに帰国すればレーニンは臨時政府をぐらつかせ、権力を奪い取り、そして速やかに分離講和を結ぶだろうと、予言していた。(21)
 パルヴスはレーニンの権力への渇望をよく理解しており、自分はドイツ領をスウェーデンへと通過させる仕事ができると考えた。
 パルヴスの影響によって、ブロックドルフ=ランツァウはベルリンに電報を打った。//
 『我々は今無条件に、ロシアに可能な最大の混乱を生み出す方法を探さなければならない。<中略>
 我々は、穏健派と過激派の間の対立を悪化させるため…可能な全てをすべきだ。後者が上回ることが最大の利益になるのだから。
 そうすれば、革命は不可避になり、その革命はロシア国家の安定を破壊する形態をとるだろう。』(22)//
 スイスにいるドイツ公使、G・フォン・ロンベルク(von Romberg)は、ロシア事情に関する当地の専門家から得た情報にもとづいて、同様の進言を行った。
 彼は、『Lehnin〔レーニン, ドイツ語ふう綴り〕』の支持者たちは講和交渉を即時に開始することや臨時政府と他社会主義諸政党のいずれにも協力しないことを主張しており、ペテログラード・ソヴェトを混乱させるという事実に、ベルリンの注意を向けさせた。(23)//
 これらに従って、ドイツ首相のテオバルト・ベートマン=ホルヴェク(Theobald von Bethmann-Hollweg)は、ロシア亡命者たちとスウェーデンへの移動について話を始めるように命令した。
 会談は、3月遅くと4月初頭に(新暦で)、初めはロバート・グリム(Robert Grimm)、あとはフリッツ・プラテン(Fritz Platten)というスイスの社会主義者の助けで、行われた。
 レーニンは、ロシア人たちの代表者として行動した。
 このような危険な政治的冒険をするに際してレーニンについても彼の綱領についても情報を得る面倒なことをしなかったのは、ドイツ人の洞察力の欠如(myopia)の兆候を示すものだ。
 彼らにとって重要なのは、ボルシェヴィキとその他のツィンマーヴァルトの追随者たちの、ロシアに戦争を止めさせたいという立場だけだった。
 ドイツの資料庫を調べたある歴史家は、ボルシェヴィキへの関心を示す文書資料を見つけなかった。レーニンの雑誌、< Sbornik Sotsial-Demokrata >の二号分があり、ベルンの大使館からベルリンへと進呈されていたが、40年の間書庫に眠ったままで、頁は切られていなかった。//
 ドイツ縦断移動に関する交渉の際にレーニンは、亡命者たちが敵国と協調する責任を感じることはないと安心させるのに多大の骨折りをした。
 列車は治外法権の地位をもつと、レーニンは主張した。プラテンの許可なくして誰も立ち入ってはならないし、旅券(passport)の検査もない、と。
 貧乏な難民〔レーニン〕がドイツ政府に条件を提示する地位にあると感じていたという事実は、彼が委ねた職務部門から高い評価を得ていたことを示唆する。//
 ドイツ側では、交渉は、外務省、とくにその長のリヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuehlmann)の積極的な支援を受けて、民間人団体が実行した。
 その〔外務省が大きく関与した〕結果としてレーニンのロシア帰還の背後で促進したのはルーデンドルフ(Ludendorff)だと考えられるようになったけれども、実際には将軍は大した役割を果たしてはおらず、彼は護送車両を手配するのに寄与したにとどまる。//
 プラテンは4月1日(新暦)に、レーニンの条件をドイツ大使館に電送した。
 二日後に、諸条件は受諾できると知らされた。
 この時期にドイツ財務省は、『ロシア工作』のために500万マルクを与えよとの外務省からの要求に同意した。(27)
 ロシアに関してドイツが行なっていたことは、つぎに示されるように、いつものやり方と同じだった。//
 『どの敵国、フランス、イギリス、イタリアおよびロシアについても、ドイツは内部での反逆を計画する工作をしていた。
 その計画は全て、大まかには同じだ。
 第一、極左の政党を使っての混乱。第二、金を払ってかドイツが直接に教唆してかの、敗北主義者の平和主義論文。最後、弱体化した敵国政府から最後には権力を奪取して平和を願う、重要な政治的人物との相互理解を確立すること。』(28)
 ドイツは、イギリスについては、アイルランド人のロジャー・ケイスメント卿(Roger Casement)、フランスについてはジョセフ・カイヨー(Joseph Caillaux)、そしてロシアについてはレーニンを使った。
 ケイスメントは射殺され、カイヨーは投獄された。
 レーニンだけが、金銭を支払ったことを正当化した。//
 3月27日/4月9日に、32人のロシア人亡命者たちがツューリヒを離れてドイツの前線へと向かった。
 乗客の完全な名簿を利用することはできないが-ドイツ人は列車の旅行客を審問しないという取り決めだった-、彼らの中には、6人のブント構成員、3人のトロツキー支持者のほかに、レーニン、クルプスカヤ、ジノヴィエフとその妻子、イネッサ・アーマンドおよびラデックを含む19人のボルシェヴィキ党員がいたことが知られる。(29)
 ゴットマディンゲンで国境を越えたあとで、彼らは二車両で成るドイツの列車に移った。
 一つはロシア人用で、もう一つは、ドイツの護衛兵用だった。
 伝説になっているのとは違って、列車は封印されていなかった。
 シュトゥットガルト、フランクフルトを通過して、3月29日/4月11日の午後早くに、ベルリンに到着した。
 そこで列車は、ドイツの監視兵に囲まれて20時間、留め置かれた。
 3月30日/4月12日、彼らはバルト海の港があるサスニッツ(Sassnitz)へ行き、そこでスウェーデンのトレレボリ(Traelleborg)行きの蒸気船に乗り込んだ。
 上陸すると、ストックホルム市長の歓迎に合った。そして、スウェーデンの首都へと進む。//
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  (18) General M. Hoffmann, Der Krieg der versaeumten Gelegenheiten 〔機会を逃した戦争〕(ミュンヒェン, 1923), p.174。
  (20) Z. A. B. Zeman = W. B. Scharlau, The Merchant of Revolution : The Life of Alexander Helphand (Parvus)〔革命の商人/アレクサンダー・ヘルプハンド(パルヴス)の人生〕(ロンドン, 1965), p.207-8。
  (21) P. Scheidemann, Memoiren eines Sozialdemokraten 〔ある社会民主主義者の回想〕(ドレスデン, 1930), p.427-8。
  (22) Hahlweg, レーニンの帰還, p.47。 
  (23) 同上, 49-50。4月3日/3月21日付電信。これはおそらく、その日の<プラウダ>に掲載されたレーニンの第一の『国外からの手紙』を指している。
  (27) Z. A. B. Zemann 編, Germany and the Revolution in Russia〔ドイツとロシア革命〕, 1915-1918 (ロンドン, 1958), p.24。
  (28) Richard M. Watt, Dare Call It Treason 〔敢えて裏切りと呼ぶ〕(ニューヨーク, 1963), p.138。
  (29) Fritz Platten, Die Reise Lenins durch Deutschland 〔レーニンのドイツ縦貫旅〕(ベルリン, 1924), p.56。
  (31) Hahlweg, レーニンの帰還, p.99-100。 
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 ②へとつづく。

1547/レーニン帰国②・四月テーゼ-R・パイプス著第10章。


 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けでレーニン帰還②。
 そこ〔ストックホルム〕で待っていた人たちの中に、パルヴスがいた。
 彼はレーニンと逢いたいと頼んだが、慎重なボルシェヴィキ指導者は拒んで、ラデックに譲った。ラデックは、オーストリア人だったおかげで裏切りだと追及される危険がなかった。
 ラデックは3月31日/4月13日のかなりの部分を、パルヴスとともに過ごした。
 二人の間に何があったかは、知られていない。
 彼らは別れ、パルヴスは急いでペルリンに向かった。
 4月20日(新暦)に、パルヴスは私的に、ドイツの国務長官(state secretary)のアルトゥール・ツィンマーマン(Arthur Zimmermann)と会った。
 この会見についても、記録は残されていない。
 パルヴスは、ストックホルムに戻った。(32)
 文書上の証拠は不足しているが-高いレベルの秘密活動を含む資料についてよくあることだ-、後で起こったことを見てみると、パルヴスがドイツ政府に代わってラデックと逢い、ロシアでのボルシェヴィキを財政的に支援する条件や手続について取り決めた、ということが、ほとんど確実だと思われる。(*)//
 ストックホルムのロシア領事館は、到着を待って入国査証を用意していた。
 臨時政府は、戦争反対活動家たちの入国を認めるかどうかを躊躇したように見える。
 しかし、方針を変更して、敵国領土を縦貫したことでレーニンが政治的に妥協することを期待した。
 一行はストックホルムを立って3月31日/4月13日にフィンランドに着き、三日後(4月3日/16日)の午後11時30分にペテログラードに到着した。(+)//
 レーニンがペテログラードに着いたのは、全ロシア・ボルシェヴィキ大会の最終日だった。
 地方から出てきている多くのボルシェヴィキ党員は知っていて、指導者レーニンを歓迎する用意をしていた。その歓迎ぶりは、その劇場性において、社会主義諸団体でかつて見た全てをはるかに上回っていた。
 ペテログラード委員会は、フィンランド駅へと労働者たちを呼び集めた。
 委員会は、線路に沿って護衛兵と軍楽隊を配置した。
 レーニンが列車から姿を現わしたとき、軍楽隊は『マルセイエーズ(Marseillaise)』を演奏し始め、護衛兵たちは見ようと跳び上がった。
 チヘイゼ(Chkheidze)がイスポルコム(Ispolkom)を代表して歓迎し、社会主義者は国内の反革命と外国の侵略から『革命的自由』を防衛すべく一致団結するという希望を声を出して語った。
 フィンランド駅の外で、レーニンは装甲車の上に昇り、投光器によって照らされながら、簡単に若干の言葉を発した。そのあとでクシェシンスカヤ(Kshesinskaia)邸に向かい、群衆が後を続いた。//
 スハーノフ(Sukhanov)は、その夜のボルシェヴィキ中央司令部での出来事について、目撃証言書を残した。//
 『かなり大きなホールの下に、多数の人々が集まった。労働者たち、『職業的革命家たち』、そして女性たち。
 椅子は足らず、出席者の半分は心地よくなく立っているか、テーブルの上に体を伸ばしていた。
 誰かが進行役に選ばれ、各地域からの報告という形での挨拶の言葉が述べられた。
 この挨拶は、全体としては単調で、長々と続いた。
 しかし、いまそのときに、ボルシェヴィキの「様式(スタイル)」の奇妙で独特な特徴、ボルシェヴィキ党の仕事の独特の流儀(モード、mode)だとの思いが生じた。
 そして、ボルシェヴィキの全作業が、それなくして党員たちは完全に無力だと思い、同時にそれを誇りに思い、中でも自分が聖杯の騎士のごとくそれの献身的な召使いだと感じている、異質な精神的根源の鉄の枠に捉えられている、ということが絶対的な明白性をもって、明確になった。
 カーメネフも、漠然と何かを喋った。
 最後に、彼らはジノヴィエフを思い出した。ジノヴィエフはあまり熱意のない拍手を受け、何も語らなかった。
 そうして、報告の形での挨拶が最後を迎えた…。//
 そのとき、体制の大主人公〔レーニン ?〕が、『反応的に』起ち上がった。
 私は、あの演説を忘れることができない。異端者的に図らずも熱狂的興奮に投げ込まれた私にだけではなく、本当の信仰者たちにも衝撃を与えて驚愕させた、雷光のごときあの演説を。
 誰もあのようなことを予期していなかった、と断言する。
 まるで全ての原始的な諸力が棲息地から起き上がったように思えた。
 そして、全ての自然界破壊の精神的なものが、邪魔する物なく、懐疑なく、人間的な苦しみも人間的な打算もなく、クシェシンスカヤ邸のホールにいる取り憑かれた信徒たちの頭の上で、響き回った。』(35)//
 90分続いたレーニンの演説の基本趣旨は、『ブルジョア民主主義』革命から『社会主義』革命への移行は数ヶ月の問題として達成されなければならない、というものだった。(**)
 これは、帝制が打倒されたあと僅か4週間後に、死刑を執行するつぎの承継者は自分だとレーニンが公に宣言している、ということを意味した。
 こういう前提命題は、彼の支持者たちの大多数の気分とは違っていて、無責任で『冒険主義的』だと思われた。
 その結果として、その夜に残った者たちは、嵐のごとき議論を交わした。その会合は、午前4時に終わった。//
 その日の後で、レーニンは、ボルシェヴィキ党の一団に対して、そして別にボルシェヴィキとメンシェヴィキの合同の会議に対して、一枚の文書を読み上げた。それは、反対を予想して、レーニンの個人的見解による回答を提示するものだった。
 のちに『四月テーゼ(April Theses)』として知られるこの文書は、狂気でなければ完全に現実感を失っていると聞き手には思える行動綱領を概述したものだった。(36)
 レーニンの提示は、こうだった。進行する戦争への不支援、革命の『第二』段階への即時移行、臨時政府への支持の拒絶、全権力のソヴェトへの移行、人民軍を結成するための現軍隊の廃止、全ての地主所有土地の没収と全国土の国有化、ソヴェトの監督のもとでの全銀行の単一の国有銀行への統合。
 そして、ソヴェトによる生産と配分の統制、新しい社会主義インターナショナルの結成。//
 <プラウダ>編集局は、印刷装置が機械的に故障したという偽りの理由をつけて、レーニンの『テーゼ』を印刷するのを拒否した。
 4月6日のボルシェヴィキ中央委員会総会は、レーニンのテーゼに対する否認決議を採択した。
 カーメネフは、レーニンが現在のロシアとパリ・コミューンとの間の共通性を指摘するのは過っている、と主張した。
 一方、スターリンは、『テーゼ』は『図式的(schematic)』で事実に即していないと考えた。
 しかし、レーニンおよび一時期に<プラウダ>編集局に一緒にいたことのあったジノヴィエフは同編集局に発刊を強いて、『テーゼ』は4月7日に掲載された。
 レーニンの論文には、カーメネフの論評が付けられていて、これは党機関の決定から逸脱している、と書いていた。
 レーニンは、『ブルジョア民主主義革命は達成されたという前提から出発し、その革命の社会主義革命への即時移行を唱える』。
 さらにカーメネフは続ける。しかし、中央委員会の考えは異なっており、ボルシェヴィキ党はその決議に従う。(***)
 ペテログラード委員会は4月8日に会議を開き、レーニンの文書について議論した。
 表決は、やはり圧倒的に否定的だった。賛成2票、反対13票、そして保留が1票。
 地方の諸都市の反応も似ている。例えば、キエフとサラトフのボルシェヴィキ組織は、レーニンの基本方針(program)を却下した。後者は、執筆者〔レーニン〕はロシアの状況に疎い、という理由でだった。//
 指導者の宣言文書に関するボルシェヴィキの見解がどうであろうと、ドイツは愉快だった。
 ストックホルムにいるドイツの工作員は、4月17日に、ベルリンへと電信を打った。
 『レーニンの入国は、成功だった。彼は、我々がまさに望んだように仕事をしている』。(41)//
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  (32) ゼーマン=シャルラウ, 革命の商人・パルヴスの生涯 (1965), p.217-9。
  (*) ラデックはオーストリア人で、臨時政府からは敵国人だと考えられた。ロシアへの入国査証の発行を拒否されたので、彼は1917年10月までストックホルムにとどまり、レーニンのために働いた。
  (+) そのあと、ロシア難民のいくつかの一行がさらにドイツを縦貫してロシアに着いた。
  (35) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, III (1922), p.26-27。
  (**) この演説の音源上の記録はない。しかし、レーニンが用いたノートは、同全集・選集類で刊行されている。〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)10頁「われわれはどうやって帰ってきたか」1917年4月4日執筆、同13頁「四月テーゼ擁護のための論文または演説の腹案」1917年4月4-12日の間に執筆/1933年1月22日<プラウダ>上で初公表-「手稿による印刷」。とくに後者が該当しそうだ-試訳者の注記。〕
  (36) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)3頁「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について/テーゼ」<プラウダ> 26号(1917年4日7日)。-注記・試訳者による〕
  (***) Iu. Kamenev in :<プラウダ> 27号(1917年4日8日)2頁。カーメネフは、3月28日のボルシェヴィキ大会の諸決議を参照要求する。
  (41) ゼーマンら編, ドイツとロシア革命 (1958), p.51。
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 第3節につづく。

1551/レーニンの革命戦術①-R・パイプス著10章3節。


 リチャード・パイプスの近著に、以下がある。
 Richard Pipes, Alexander Yakovlev -The Man whose Ideas delivered Russia from Communism (2015) . <R・パイプス, アレクサンダー・ヤコブレフ-ロシアを共産主義から救い出した人物>。
 これの2015年2月付の序言の一部は、つぎのとおり。
 「2005年に、イタリア・トリノで開かれた会議に、ミハイル・ゴルバチョフから招かれた。その会議は、『世界を変えた20年』と題して、世界政治フォーラムが組織しており、1985年から始まったゴルバチョフの5年間の指導者在職中にソヴィエト同盟で生じた、諸変革を記念するのを目的としていた」。
 さて、Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990), の第二部第10章の試訳。
 前回からのつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術①。
 レーニンは、きわめて秘密主義の人間だった。
 合わせて55巻の全集になるほどに多くを語り、書いたけれども、彼の演説や著作は圧倒的に虚偽宣伝や煽動で、潜在的な支持者を説得することか、または知られた対抗者の考えを暴露するというよりもそれを破壊することかを意図していた。
 心に浮かんだことは、身近な仲間にすらほとんど明らかにしなかった。
 階級間の世界戦争の最高司令官として、計画は個人的なままにした。
 したがって、レーニンの思想を再述するためには、知られている行為から隠された意図へと遡って分析することが必要だ。//
 一般的な諸論点-誰が敵でその敵に対して何がなされるべきか-については、レーニンは包み隠さなかった。
 大まかに把握された目標-『綱領』(プログラム, programm)-を、彼は公にしていた。
 そこからレーニンの意図を見抜くには、かなりの困難がある。
 ムッソリーニについて言うと、彼自身はクー・デタ技術の専門家では全くなかったが、ジョバンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)に対して、『国家は革命の綱領に対してではなく、革命の戦術に対して防衛されなければならない』と打ち明けていた。//
 レーニンはメンシェヴィキ・エスエルの二段階革命の原理およびその推論形である dvoevlastie 、つまり二重権力を拒否した。
 彼は臨時政府を可能なかぎり実際にぐらつかせて、権力を奪取することを意図した。
 レーニンの注目すべく鋭い政治的本能-どの成功した将軍も所持する才能-によって、これができると考えた。
 彼は、リベラルなまたは社会主義的知識人がどういう存在なのかを知っていた。クレマンソー(Clemenceau)の言葉を借りれば、『菜食主義の虎』たちは、彼らの革命的な言辞にかかわらず、政治責任を死ぬほど怖れ、かりに手渡されても権力を行使できない。
 この点で彼は、ニコライ二世のようなものだと判断した。
 さらに、国民的な一体性の外観や臨時政府への一般的な支持の奥底には、煽り立てて適切に指揮すれば非効率な民主政体を打倒してレーニンに権力をもたらすような、力強い破壊力が煮え立っていると、気づいていた。都市での物資の不足、農民の社会的動揺、民族的な欲求。
 ボルシェヴィキはその目標を達成するため、現況(status quo)に対する唯一の選択肢として、臨時政府や他の社会主義政党のいずれもからきっぱりと離れなければならなかった。
 ロシアへの帰還後レーニンは、この主張を基本線として、支持者たちに臨時政府への融和的態度を放棄すること、メンシェヴィキとの統合を考えてはならないことを力強く説いた。//
 民主主義的なスローガンがますます民衆性を獲得しているのを見たレーニンは、ボルシェヴィキ党への権力の要求を公然とは主張できなかった。
 ボルシェヴィキ党の党員以外は誰も、そして党員ですらほとんど、権力要求が達成できる見通しを持たなかった。
 この理由で短い幕間(中間休憩期間)として、レーニンは1917年の間は、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 1917年の秋までボルシェヴィキはソヴェトの中の少数派だったことを見ると、この戦術は当惑させるもののように思える。そして、表向きは、この綱領を達成するということは、権力のメンシェヴィキとエスエルへの移行を意味するはずだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、このような移行は決して生じないと確信していた。
 メンシェヴィキの全指導者の中で対抗派に対する幻想を最ももっていなかったツェレテリ(Tsereteli)は、ボルシェヴィキはソヴェトの多数派から国民的権力を闘い取ることに何ら困らないと思っている、と書いた。
 臨時政府にはいろいろな欠点があったけれども、レーニンの見地からすると、それは大きな軍事力をもちかつ農民層および中産階級からの確実な量の支持を受けているがゆえに、民主主義的社会主義者たちよりもはるかに危険な敵だった。
 民族主義に訴えることで、臨時政府は力強い力を結集することができた。
 名目上であろうと、臨時政府に権力がとどまっているかぎり、国家が右へと舵を切る危険はつねに存在した。
 ソヴェトに権威の中心があったので、政治的雰囲気を急進化させ、『反革命』という妖怪でもって脅迫して優柔不断な社会主義者たちを引っ張り続けるのは、相対的には簡単なことだった。//
 レーニンはその目標-権力の奪取-をめざし、軍事史や軍事学で学んだことにもとづく方法で追求した。
 純粋な政治というのは、権威主義的な方法であっても、権力への競争者と自主的な主導性については抑えた展望をもつ民衆全体の両者との間の、何らかの種類の調整を含んでいる。
 しかし、レーニンには政治とはつねに階級戦争であり、クラウセヴィッツの語法で思考をした。
 軍事戦略としての目的は、対抗者との調整ではなくして、彼らを破壊することだった。
 これは、先ず第一に、二つの意味での対抗者の武装解除を意味した。すなわち、(1) 軍事力の剥奪、(2) その諸機構の破壊。
 しかしこれはまた、戦場と同じく、敵の肉体的な殲滅を意味しえた。
 ヨーロッパの社会主義者はよく『階級戦争』と語ったが、それは主としては、バリケードを築くという頂点があるかもしれないとしても、工場ストライキや投票行動のような、非暴力的な手段によるものを意味した。
 レーニンは、そして彼だけは、『階級戦争』を文字どおりに国内戦争(civil war)の意味で用いた-戦略的破壊を目的とする、必要ならば政治の戦場での再挑戦を不能にするほどの首尾での勝利につながる敵の殲滅を目的とする、使用可能な全ての武器を使っての、戦争だ。
 このような見地での革命とは、別の手段によって遂行される戦争だった。違いは、国家間や民族間ではなくて、社会的階級の間で行われる戦闘だということにあった。
 戦闘のラインは、水平ではなく垂直に〔横ではなく縦に〕走っていた。
 このような政治の軍事化に、レーニンが成功する重要な根源があった。
 成功するためにレーニンはこのように考えていたが、それは、彼の敵が、設定もされず予期もできない地域での戦闘だと政治を取り扱う者がいるなどとは想像できないほどのものだった。//
 レーニンがその人格の内奥から導く政治に関する考え方は、彼の支配への渇望とレーニンが成長したアレクサンダー三世時代のロシアで形づくられた伝来的政治風土とが結びついたものだった。
 だが、この心理的な衝動と文化的伝統とを、理論的に正当化するものがなければならない。レーニンは、これを、マルクスのパリ・コミューン(Paris Commune)に関する論評のうちに見出した。
 この主題に関するマルクスの著作はレーニンに圧倒的な印象を与え、彼の行動の指針になった。
 マルクスはコミューンの生成と崩壊を観察して、全ての革命家はそのときまで、既存の諸制度を破壊するのではなく奪い取ろうとするという重要な過ちを冒していたと結論づけた。
 階級国家の政治的、文化的そして軍事的な諸構造を無傷なままに残して、たんに人員だけを置き換えることでは、反革命の生育地が残されてしまった。
 これからの革命家は、違うやり方で前進しなければならないことになろう。
 『これまでなされたように官僚・軍事機構を一塊としてある者から別の者に移行させるのではなく、それを破壊すべきだ』。(44)
 これらの言葉は、レーニンの心に深く染みこんだ。
 レーニンはあらゆる機会にこれを繰り返し、その重要な政治命題の中心に据えた-<国家と革命>。
 それはレーニンの破壊本能を正当化するのに役立ち、新しい秩序を樹立するというその欲望に合理性を与えた。『全体主義』要求の中に全てを包括する、新しい秩序をだ。//
 レーニンはつねに、革命を世界的な意味で捉えた。
 彼にはロシア革命はたんなる偶然的事件であり、『帝国主義』の最も弱い環を偶発的に切断することだった。
 レーニンはロシアを改革することにでは決してなく、ロシアを征圧して、産業諸国家とその植民地における革命への跳躍台にすることにだけ関心があった。
 ロシアの独裁者となっても、1917年やその後の事態を世界的観点から見ることをやめなかった。
 彼にとっては、『ロシア革命』であってはならず、ロシアで開始された、発生するはずの世界的革命なのだった。
 ロシアへと出立する日の前に渡したスイスの社会主義者たちあての別れの文章の中で、レーニンはこの点を、つぎのように強調している。//
 『一連の諸革命を<開始>したという大きな栄誉は、ロシア人に与えられた。<中略>
 ロシアのプロレタリアートが<独特の、おそらく短期間のみの>全世界の革命的プロレタリアートの前衛になったのは、その特殊な属性にではなく、特殊な歴史的条件に原因がある。
 ロシアは農民国家であって、ヨーロッパの最も遅れた国の一つだ。
 そこで<直接に、現時点で>、社会主義が勝利するのは<不可能>だ。
 しかし、国家の農民的性格は…、ロシアのブルジョア民主主義革命への巨大な一撃を導くことを、そして我々の革命を世界的社会主義革命の<序曲>にすること、それへの<一歩>とすること、を<可能に>する。』(45)
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 (44) レーニン全集に引用される、1871年のクーゲルマン博士への手紙。
 (45) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)25頁「戦術に関する手紙」(1917年4日8-13日に執筆、のち単行小冊子)かと思われる。-注記・試訳者による〕
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 ②へとつづく。

1556/レーニンの革命戦術②-R・パイプス著10章3節。

 R・パイプス著の試訳のつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術②。
 世界的社会主義革命についてのレーニンの秘密主義は、一つは彼の意図を対抗者に隠しておこうという望みに由来していた。もう一つは、計画したようには事態が進まなかったときに失敗したという汚辱を避けることができるという利益があるからだった。
 そうしておけば、計画が失敗したときいつでもレーニンは、その計画はなかったと開き直ることができた(そして実際にそうした)。
 個人的にボルシェヴィキ勢力を指導していた1917年の春や初夏に、レーニンはいくつかの指令を発した。その諸指令から、レーニンの戦闘計画に関する一般的な見取り図を描くことができる。//
 二月の経験からレーニンは、臨時政府は街頭の大衆示威活動で打倒できると学んだように見える。
 まずは、1915-16年にそうだったように、雰囲気が醸成されなければならない、次いで、民衆からの目から見て臨時政府の評判を落とす力強い宣伝活動がなされなければならない。
 この目的のためには、過った全てについて非難が加えられるべきだった。政治不安、物資不足、物価高騰、軍事的後退。
 ペテログラードを明け渡すドイツ軍との共謀だ、と追及すべきだった。一方ではそれを防御し、裏切りだと非難しつつもコルニロフ(Kornilov)将軍と協力したけれども。
 非難が度はずれになればなるほど、政治的に鍛えられていない労働者や兵士たちは、その非難を信頼しそうだった。信じられない現実には、信じられない原因があるからではないのか ?
 しかし、二月とは異なって、街頭での過激な示威活動は厳しく監視されていたので、自然発生性という見かけを与える高度に計算した努力が必要だと強く考えていたにしても、レーニンは自発的な行動を待ちはしなかった。
 レーニンはナポレオンから学んで、< tiraillerie >、小戦闘の原理を国内戦争に適用した。何人かの軍事史研究者はこの考え方を、戦争へのナポレオンの主要な貢献だと見なしている。
 ナポレオンは、戦闘のためにその戦力を、職業的正規軍と志願兵団の二つに分けた。
 志願兵団を送ってその中に敵の砲火を誘い込むのは、戦闘の初期のナポレオンのやり方だった。これは、敵陣の配置を知ることを意味した。
 重大な時点になると、ナポレオンは、敵の最も弱い地点で敵陣を粉砕すべく正規軍を活動につかせ、戦闘させた。
 レーニンはこの戦術を、都市での戦闘に適用した。
 民衆が、臨時政府を刺激する扇動的なスローガンを掲げて街頭に送り込まれた。これへの反応で、政府側の強さと弱さが判明することになる。
 群衆が政府側の実力を圧倒するのに成功したとすれば、ナポレオンの正規軍に当たるボルシェヴィキが-つまり、ボルシェヴィキ軍事機構が組織する武装労働者と兵士たちが-奪い取ることになる。
 群衆が失敗したとすれば、その地点はそのままにされて、民衆が変えようとするが抵抗してみて政府は『反民主的』だと分かる、ということになる。
 そして、ボルシェヴィキは次の機会を待つ、といこととなる。
 基本的な考え方は、ナポレオンの『< on s'engage et puis on voit >』-『自分でやってみて、そして分かる』ということだった。
 レーニンの三回の蜂起の企てで(1917年の4月、6月および7月)、彼は群衆を街頭に送り込んだが、自身は後方でじっとしており、『人民』を指揮するのではなくてそれに従うふりをした。
 いずれの企ても失敗したあと、レーニンは革命的意図を持っていたことを否認することになるし、ボルシェヴィキ党は軽はずみな大衆を抑え込もうと全力を尽くしたとすら装うことになる。(*)//
 レーニンの革命の技術には、群衆を操作することが必要だった。
 本能的だったのか知識によってだったかを言うのは難しいが、レーニンは、フランスの社会学者のギュスタフ・ル・ボン(Gustav Le Bon)が1895年に< La Psychologie des Foules (群衆の心理学)>で初めて定式化した群衆行動の理論に従った。
 ル・ボンは、人は群衆の一員になると個性を失い、その本能的心理をもつ集団的人格の中へと解体させてしまう、と述べた。
 その心理の重要な特徴は、論理的に推論をする能力が低下し、対応して、『無敵の力』をもつという意識が発生することだ。
 無敵だと感じて群衆は行動に走り、熱望は彼らを操作にさらす。『群衆は何かを期待する精神状態になり、簡単に暗示に従う』。
 群衆は、言葉と観念との連関による暴力への訴えに、とくに反応する。その観念は壮大でかつ曖昧な像(イメージ)を呼び覚まし、『不可思議』の雰囲気を漂わせる。『自由』、『民主主義』そして『社会主義』のごとく。
 群衆は、恒常的に繰り返された暴力のイメージと結びつく狂信者に反応する。
 ル・ボンによると、群衆を動かす力は宗教的な忠誠心だと最終的には分析できるので、『他の全ての前の神を、必要とする』、超自然的性格を授けられた指導者を。
 群衆の宗教的情緒は、つぎのように素朴だ。//
 『優れた者と想定されている者への崇敬、価値づけられる権力への恐怖、その命令への盲目的服従、その教条に関して議論できないこと、その教条を拡散したい欲求、自分たちを受容しない者全てを敵と考える傾向』。(48)//
 群衆の行動に関する最近の観察者は、群衆の活力(dynamism)に注意を向けた。//
 『いったん形成された群衆は、急速に大きくなろうとする。
 群衆が広がる力と意思力を、強調してもすぎることはない。
 大きくなっていると感じるやいなや-例えば、少数だがきわめて激烈な群衆によって始まる革命的な諸国では-、群衆は自分たちが大きくなるのに反対する者を束縛的だと見なす。<中略>
 こうなると群衆は包囲された都市のようなもので、多くの包囲攻撃に見られるように、その壁の前にも内部にも敵がいる。
 戦闘している間に、群衆は、国じゅうから、ますます多数の別働隊(パルチザン)を魅きつける』。(49)//
 レーニンは、きわめて稀な正直なときに、仲間のP・N・レペシンスキーに、大衆の心理に関する原理的なことをよく理解している、と打ち明けた。彼は、つぎのように書く。//
 『(レーニンは)1906年の夏の終わりに、ある私的な会話の中で、相当の確信をもって革命の敗北を予言し、退却(retreat)をする準備が必要だと示唆した。
 このような悲観的な状況にもかかわらずレーニンがプロレタリアートの革命的な力を強化するために活動するとすれば、それは、おそらくは大衆の革命的精神は決して損なわれないという考えからだった。
 勝利への、あるいは半分の勝利へですら、新しい可能性が生じるのだとすれば、そのきわめて多くは、この革命的精神に拠っているだろう』。//
 言い換えると、失敗だったとしてすら、大衆の行動は、群衆を緊張と戦闘準備の高い次元にとどまらせ続ける、価値ある仕掛けなのだ。(**)//
 ロシアに帰国した後三ヶ月の間、レーニンは、臨時政府を群衆行動で打倒しようという無謀で性急なことをした。
 レーニンは、言葉で絶えず攻撃して、臨時政府とそれを支持する社会主義者は革命に対する裏切り者だという批判にさらし、それと同時に、民衆に対して国民的な不服従を呼びかけた-軍には政府命令の無視を、労働者には工場の管理の掌握を、地方共同体の農民には私的土地の確保を、少数民族には民族の権利の要求を。
 彼には予定表はなかったが、小戦闘は対抗者〔臨時政府〕の無能力さとともに優柔不断さを暴露していたので、すぐにでも成功すると確信していた。
 七月蜂起の間の決定的な瞬間にレーニンが狼狽しなかったとすれば、十月にではなくそのときに権力を奪取していたかもしれなかった。//
 逆説的にだが、レーニン(とのちにはトロツキー)の戦術は、武装はしたものの、肉体への暴力をたいして含んではいなかった。
 肉体への暴力は、のちに、権力が確保されたのちに出現することになった。
 虚偽情報宣伝活動と大衆の示威活動、集中砲火的な言葉と街頭騒乱の目的は、公衆一般はもとより対抗者〔臨時政府〕の心のうちに、不可避性の意識を植え込むことだった。変化はやって来る、何も止められはしない。
 レーニンの生徒で模倣者のムッソリーニやヒトラーのように、彼は、まずは進路上に邪魔して立つ者たちの精神を打ち砕き、そして滅亡する運命にあるのだと説き伏せることによって、権力を勝ち取った。
 十月のボルシェヴィキの勝利は、十分の九は、心理的なもので達成された。
 つまり、関与した軍事力はきわめて小さいもので、1億5000万人の国民のうちせいぜい数千人にすぎない。また、ほとんど一発も銃砲が火を噴くことなく勝利が到来した。
 戦争は始まる前にでも、人々の心の中で勝ったり負けたりする、というナポレオンの格言の正しさを、十月の全行程は確認している。//
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 (*) この戦術は、何人かの歴史家をすら困惑させるのに成功してきている。ボルシェヴィキは権力への欲求を公然とは宣言しなかったので、そう望まなかったのだ、という主張がある。しかし、1917年10月には、ボルシェヴィキは、そんな圧力は実際には存在しなかったにもかかわらず、下からの圧力によって行動した、と装うことになるのだ。
 ボルシェヴィキやその模倣者が使ったこの手法の二元性は、クルツィオ・マラパルテ(Curzio Malaparte)が、その著<クー・デタ>で最初に指摘した。
 ムッソリーニによる権力奪取の参加者であるマラパルテは、ほとんどの同時代人や多くの歴史家が見逃したことを知っていた-すなわち、ボルシェヴィキ革命とその継承者たちは、見えるものと隠されたものという二つの異なる次元で作動した、ということをだ。後者の隠されたものこそが、現存した体制の致命的な機関に対して、死への一撃を加えた。
  (48) G. Le Bon, The Crowd (ロンドン, 1952), p.73。
  (49) E. Canetti, Crowd and Power (1973), p.24-25。 
  (**) E. Hoffer, The True Believer (ニューヨーク, 1951) p.117, p.118-9 を参照。
 『行動とは、団結させるものだ。<中略> 全ての大衆運動は、団結する手段として自らの大衆行動の助けになる。大衆運動が探求し喚起する闘いは、敵を倒すためばかりではなく、その支持者たちに本能的な個人性を剥き出しにさせ、集団的な媒体へとより溶解させていくためにも役立つ』。
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 第4節につづく。

1558/四月騒乱①-R・パイプス著10章第4節。

 前回のつづき。
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 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動①。
 ロシアの戦争意図をめぐる政治的危機を利用して、ボルシェヴィキは4月21日に、権力をめざす最初の試みを行った。
 イスパルコム〔Ispolkom, 全ロシア・ソヴェト執行委員会〕は1917年の3月末に臨時政府に対して、オーストリアとトルコの領土に対するミリュコフ(Miliukov)の要求を承認しないように強く主張したことが、想起されるだろう。
 社会主義者たちを宥めるべく、政府は3月27日に宣言書を発表し、イスパルコムが承認した。それは、領土併合の放棄を多言することなく、ロシアの目的は『民族の自己決定権』にもとづく『永続平和』だと宣言していた。//
 こう認めることで問題は収拾されたが、一時的にだけだった。
 ヴィクトル・チェルノフ(Viktor Chernov)がロシアに帰ってきて、この問題は再び4月の論争の根幹部分になった。
 このエスエル党の指導者は戦時中の数年間を、西欧で、主としてスイスで過ごした。スイスではツィンマーヴァルトとキーンタールの会議に参加し、伝えられるところではドイツの資金で、ドイツやオーストリアにいるロシア人戦争捕虜に関する革命的な書物を刊行した。 
 彼はペテログラードに戻って、すぐにミリュコフに反対する宣伝運動を始め、ミリュコフの辞任を要求し、政府に対して3月27日の宣言書をロシアの正式の戦争意図であるとして連合諸国の政府に電送することを求めた。
 ミリュコフは、公式に領土放棄を明らかにすれば戦争からの離脱の意図を意味していると連合諸国が誤解する、という理由で、この要求に反対した。
 しかし、内閣はミリュコフの言い分を認めなかった。
 ケレンスキーは、この事案に特別の熱心さを示した。それは、彼の重要な好敵であるミリュコフの評判を落とし、ケレンスキー自身のソヴェト内での立場を強くするはずだった。
 そのうちに、妥協に到達した。
 政府は3月27日の宣言書を連合諸国に伝えるのに同意するが、戦争を継続するとのロシアの意図についての疑いを除去するように、説明の文書〔Note, 覚え書〕を添付することとする。
 ケレンスキーによると、ミリュコフが案を作成して内閣が承認した説明文書は、『ミリュコフの「帝国主義」への最も厳しい批判で充満していたはずだった』。(53)
 それは、連合諸国と共通する『高い理想』のためのロシアの戦闘決意と、そのために『義務を完全に履行する』ことを再確認した。
 二つの文書[宣言と説明書(覚え書)]は、4月18日(西暦で5月1日)に連合国諸政府へと電送すべく国外のロシア大使館へと打電された。//
 政府の文書が4月20日朝のロシアの新聞に掲載されると、社会主義知識人界は激怒した。
 ごく一部の極端派を除く社会主義諸政党の公式目標である、勝利までの戦争継続の誓約が不愉快だったのではなく、問題は、『併合と配分』に関する両義的な言葉遣いだった。
 イスパルコムはその日に、『革命的民主主義は、攻略的な目的のために…血が流れることを許しはしない』と票決した。
 ロシアは、戦いつづけなければならない。だがそれは、全交戦国が領土併合のない講和を結ぶ用意ができるまでだ。//
 政府とイスパルコムの間の協議によって、論争は容易に解消されえただろう。それはほとんど確実に政府側の屈従になっただろうけれども。
 しかし、両者間に妥協が成る前に、兵舎および労働者区画で怒りが発生した。それは、見えない糸でイスパルコムとつながっていた。//
 街頭不安は4月20日-21日に自然発生的に始まったが、速やかにボルシェヴィキが指導した。
 若き社会民主主義者の将校、リュテナント・テオドア・リンデ(Lieutenant Theodore Linde)は、この人は指令書第一号の草案作りに関与していたのだが、政府の文書は革命的民主主義の理想に対する裏切りだと解釈した。
 リンデは彼の連隊、フィンランド予備衛兵団の代表者たちを呼び集め、彼らにミリュコフに反対する街頭示威活動へと部下を投入するように言った。
 彼は同じ伝言書を携えて、別の守備兵団も回った。
 リンデは、ロシアが戦争し続けることを望む、熱烈な愛国者だった。
 すぐのちに、彼は死ぬ。闘いに加わるよう求めた前線の兵士団によって、殺戮された。彼らは、リンデのドイツふうにひびく名前によって、敵の工作員に違いないと決めたのだった。
 しかし、彼は、多くのロシアの多くの社会主義者のように、戦争は『民主主義』の理想を掲げて開始されたと思いたい人物だった。
 どうも彼は、権威により正当化されていない政治的な示威運動に参加するように兵士たちに熱心に説くことは反乱を呼びかけるに等しい、ということを認識していなかったように見える。
 午後三時からそれ以降、フィンランド予備衛兵団を先頭とする若干の軍団が、完全武装をして、政府が所在するマリインスキー宮へと行進した。そこで彼らは、ミリュコフの退任を要求して叫んだ。//
 グチコフ(Guchkov)が病気だったため、このときの閣議はマリインスキー宮ではなくて、グチコフの戦時省の職場で開かれていた。
 その前に、コルニロフ将軍が現れていた。彼は、ペテログラード軍事地区司令官であり、首都の治安に責任をもっていた。
 彼は、兵団に反乱兵士たちを解散させることの許可を求めた。
 ケレンスキーによると、内閣は一致してこの要請を拒んだ。
 『我々は、推移を把握している自信がある。また、きっと民衆は政府に反対するいかなる暴力行為をも許さないだろう』。
 これは、臨時政府がその権威に対する公然たる挑戦に直面して実力を行使するのをためらった最初のことで、かつ最後のことではなかった。-この事実をコルニロフもレーニンも、忘れなかった。//
 このときまで、ボルシェヴィキは騒乱と何の関係もなかった。実際、彼らは驚いたように思える。
 しかし、ボルシェヴィキはこれを利用する時間を逸しなかった。//
 この時点でのボルシェヴィキの最高司令部の活動については現在、明確ではない。重要な文書証拠類のほとんど非公刊のままであるためだ。
 事態に関する公式の共産党の見方によると、党中央委員会は、4月20日夕方から21日の全日にわたってペテログラードで起きた反政府の集団示威活動を、正当なものとして承認してはいなかった。
 『臨時政府打倒』とか『全権力をソヴェトへ』とか書いた旗を掲げて街頭を歩くボルシェヴィキ党員は、S・Ia・バグダエフ(Bagdaev)を含む第二ランクのボルシェヴィキの指令によって行動した、とされている。(*)
 しかし、ボルシェヴィキ党のような中央集中的政党で、小さな党組織が自分で中央委員会に果敢に逆らって革命的なスローガンを掲げるのを認めただろうとは、全く考え難い--レーニンの臨時政府への対立的な立場に反抗したとバグダエフの文書が証して、責任はより愚かな者へと転嫁された。
 1917年4月20-21日の事態に関して誤導するような説明方法は、ボルシェヴィキの最初の蜂起の企てが恥ずかしい失敗に終わったことを隠蔽するために作り上げられてきた。
 事態を正確に描くのをさらに混乱させるのは、共産党の歴史家が事象発生後に党によって採択された諸決議を長々と引用してきたことで、それはこの事象は、発生前に意図されていたと示唆しており、かつレーニンが書いた指令を『出典不明』だと推論している。//
 リンデによって呼び出された兵団がマリインスキー広場に集まっていた4月20日の午後、ボルシェヴィキ中央委員会は緊急の会議を開いた。
 ミリュコフの文書を読んだあとその日の早くにレーニンが起草した決定を、同委員会は裁可した。このことは、その後の示威活動はボルシェヴィキが支持していたことの、合理的な根拠を提示する。
 レーニンの著作物の初期の諸版は、レーニンが執筆者であることを否定した。
 これを初めて肯定したのは、1962年発行のレーニン全集の第5版だった。(61)
 レーニンは、臨時政府は『完全に帝国主義的』だ、イギリス・フランスはもとよりロシアの資本によって支配されている、と表現した。
 この類の体制はまさにその本性において、領土併合を放棄することができない。
 レーニンは、政府を支持しているとしてソヴェトを批判し、ソヴェトに全権力を握るように求めた。〔A〕
 これはまだしかし、政府打倒の公然たる訴えではなく、レーニンの文章からこのような結論を導くには、深い洞察が必要だ。
 これはたしかに、ボルシェヴィキ党員が『臨時政府打倒』や『全権力をソヴェトへ』と書く旗をもって示威行進をするのを承認している。レーニン自身がしかし、のちにはこれらと離れることになる。//
 このときの会議で中央委員会が採択した戦術的諸決定がどのようなものであったかは、知られていない。
 中央委員会会議にしばしば加わっていたペテログラード委員会の議事録で公刊されている版は、瑣末な組織上の問題のみを記録している。
 5月3日までの全てのそれに続く会議の議事は、省略されている。
 しかしながら、つぎの二つのことは、合理的に見て確かだ。
 第一に、レーニンは攻撃的な示威行動の主な提唱者であり、かつ強い反対に遭ったように見える。
 これのかなりは、後で起きたことから分かる。のちにレーニンは、同僚、とくにカーメネフから批判を受けた。
 第二に、集団示威活動は、激発した労働者や反乱した兵士たちがツァーリ(帝制)政府を打倒した2月26-27日の再現、全面的な蜂起を意図するものとされていた。//
 すでに4月20日の夕方、午後の示威行進に参加した兵士たちが兵舎に帰ったあとで、兵士と労働者の新しい一群が、反政府の旗を持って街頭に現われた。彼らは、ボルシェヴィキが指導する反乱者たちの先行軍団だった。
 そのあと、『レーニンよ、くたばれ!』と書く旗を掲げる、反対の示威活動が起きた。
 示威行進中の者たちは、ネヴスキー通りで衝突した。
 イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕による介入に従って、群衆たちは平穏になった。//
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  (53) Alexander Kerensky, The Catastrophe (ニューヨーク, 1927), p.135。
  (*) バグダエフは実際に、5月1日、これは4月18日にあたる、のデモを組織したとしてペテログラード委員会から追及された。この日に政府の戦争意図に関する宣言書と説明文書は、連合諸国政府に伝えられた。
  (61) Lenin, Sochineniia, XX, p.648。プラウダ第37号(1917年4年21日付)p.1からの文章は、p.608-9。Lenin, PSS, XXXI, P.291-2。
 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)183頁以下の「臨時政府の覚え書」/1917年4月20日執筆・プラウダ第37号(1917年4年21日)に発表、が該当する。「覚え書」とは、本文上の<添付した説明文書>の旨で訳したNoteのことだ。-注記・試訳者〕。
  〔A〕試訳者注記/上のレーニン全集第24巻183頁以下「臨時政府の覚え書」から一部引用する。p.183-5。
 「…と覚え書は、補足している。//簡単明瞭である。決定的に勝利するまで戦う。イギリスやフランスの銀行家との同盟は神聖である…。//
 問題は、グチコフ、ミリュコフ、…が資本家の代表者だという点にある。/
 問題は、いまロシアの資本家の利益が、イギリスとフランスの資本家とおなじものだということにある。このために、しかもただこのために、ツァーリと英仏資本家との条約は、ロシアの資本家の臨時政府の心情にとっては、こんなに貴重なのである。//
 どの自覚した労働者も、どの自覚した兵士も、臨時政府を『信頼』する政策を、これ以上は支持しないであろう。信頼の政策は破産したのだ。//
 いまの労働者・兵士代表ソヴェトは、二者択一をせまられている。すなわち、グチコフとミリュコフが進呈した丸薬をのみこむか、…、それともミリュコフの覚え書に反撃をくわえるか、…である。//
 労働者、兵士諸君、いまこそ、大きな声で言いたまえ、われわれは、単一の権力-労働者・兵士代表ソヴェト-を要求する、と。臨時政府、ひとにぎりの資本家の政府は、このソヴェトに場所を明けわたさなければならない。」
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 ②へつ続く。

1560/四月騒乱②-R・パイプス著10章4節。

 前回のつづき。第4節は、p.399-p.405。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動②。
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 ボルシェヴィキ中央委員会は4月21日の朝に再度会議をもち、その日の活動命令を採択した。
 一つの指令は、工場と兵舎へと扇動者を派遣し、労働者と兵士にその日に計画している示威活動に関する情報を伝え、参加すべく呼びかけるように命じた。
 この扇動者たちは真昼間に、労働者がペテログラードでは最も急進的なヴィボルク地区の多くの工場に現われた。それは、昼食の休憩時間中だった。
 午後に仕事を離れて反政府抗議活動に参加しようとの訴えは、失望する反応を受けた。その主な理由は、イスパルコムからのエスエルとメンシェヴィキの工作員が、労働者たちを中立化する準備をしていたからだ。
 三つの小さな工場の労働者だけが、ボルシェヴィキの決議を採択した。彼らはわずか千人ほどで、ペテログラードの労働者人口の1%の半分以下だった。
 プティロフ、オブホフその他の大企業は、ボルシェヴィキを無視した。
 ボルシェヴィキが武装行動を計画したことは、軍事機構の長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoisky)がクロンシュタット海兵基地に対してペテログラードに信頼できる海兵の派遣を求めている事実によって、示されている。
 クロンシュタットの海兵たちは、市の中で最も粗々しくて最も暴力好きの者たちだった。無政府主義者(anarchist)の影響を強く受けていて、< burzhui >〔ブルジョア〕を痛めつけて略奪するのに刺激はほとんど必要なかった。
 彼らを市へと送り込むことは、集団的殺戮を生むことになるのはほとんど確実だった。
 彼らを呼んだことは、ボルシェヴィキは4月21日に『平和的な偵察』を意図したのだというレーニンの主張が偽り(lie, ウソ)であることを示している。//
 午後早くに、反政府の旗を掲げる一群が、銃砲で武装したボルシェヴィキの『工場軍団(Factory Militia)』を先頭にして、ネヴスキーに沿って中心部へと前進した。
 兵士も海兵も参加しないという残念なできだったが、これは民主主義的政府に対する、最初の武装による挑戦だった。
 示威行進者がカザン大聖堂に接近したとき、彼らは『臨時政府に永き生を』と叫ぶ反対の行進者と遭遇した。
 乱闘が起こり、何人かが散発的に射撃した。これによって、三人が死亡した。
 これは、二月以来最初の、ペテログラードでの街頭暴力(street violence)だった。//
 支持者たちが街頭にいる間、レーニンは慎重に家にいようと考えていた。//
 秩序をもう一度回復しようと、コルニロフ(Kornilov)は、砲兵隊および兵団を送り出すように指令した。
 このとき彼は、群衆は説得によって静穏化できると主張するイスパルコムに抵抗された。
 イスパルコムは、軍事スタッフに、コルニロフの指令を取消すように電話した。
 そのあと、コルニロフはイスパルコムの代表団と会った。
 その代表団は騒乱を阻止する責任を請け負い、コルニロフは指令を撤回して兵団に兵舎にとどまるように命じた。
 政府もボルシェヴィキも武力に訴えないことを確実にするために、イスパルコムは、ペテログラード守備兵団に対して、つぎの公式宣明書を発した。//
 『同志兵士諸君!
 混乱しているこの数日の間、執行委員会(イスパルコム)が呼びかけないかぎり、武器をもって外出してはならない。
 執行委員会だけが、君たちの行動を差配する権利を持っている。
 軍団の街頭への出団(日常の些細な任務を除く)に関する全ての命令は、印章が捺され、以下の者のうち少なくとも二名の署名のある、執行委員会の文書用紙で発せられなければならない。チヘイゼ、スコベレフ、ビナシク、ソコロフ、ゴルトマン、ボグダノフ。
 全ての命令は、電話104-06によって確認されなければならない。』//
 この命令書は、ペテログラード軍事司令官の権威を弱めた。
 コルニロフは、任務を履行することができなくなり、解任と前線への任命を求めた。
 のち五月の最初の日に、彼は第八軍の司令官の任に就いた。//
 その日遅く、イスパルコムは投票して、続く48時間の間の全ての集団示威行進を禁止した。
 街頭に武装した人間を送り込む者は誰でも、『革命への裏切り者』だと非難した。//
 4月21日、全く同じスローガンを掲げる、ボルシェヴィキと推定される示威行進がモスクワであった。//
 ペテログラード騒乱は、民衆の支持のなさから4月21日の夕方にかけて収まった。
 政府に忠誠心のある示威行進者は、ボルシェヴィキの指導に従った者たちと少なくとも同程度に戦闘的で、数の上ではそれよりも相当に上回っていたことが分かった。
 モスクワではボルシェヴィキの反乱はまだ翌日まで続いたが、怒った群衆が反乱者たちを取り囲み、反政府の旗を彼らの手からちぎり取って終わった。//
 蜂起は失敗したことが明白になった瞬間に、ボルシェヴィキは全ての責任を否定した。
 4月22日にボルシェヴィキ中央委員会は、『小ブルジョア』大衆が最初は躊躇したが『親資本家』軍の支援をうけて出現した、ということを認め、反政府スローガンを時期尚早だとして非難する決議を裁可した。
 党の任務は、政府の本性に関して労働者を啓発することだ、と説明された。
 集団示威活動はもうないとされ、ソヴェトの指令には従うべきだとされた。〔A〕
 カーメネフが提案した可能性が高い決議は、彼が『冒険主義』だと非難するレーニンの敗北を示した。
 レーニンは、ペテログラード委員会の性急さによるとする示威活動の反政府的性格を非難して、弱々しく自らを守った。
 しかし、自己防衛をしている間にも、レーニンは思わず、心に浮かんだことを露わにした。
 『これは、暴力的手段に訴える企てだった。
 あの懸念した時点で、民衆が我々の側へと立場を大きく変えたかどうかは、分からなかった。<中略>
 我々はたんに敵の強さの「平和的な偵察」を実施しようとしていたのであり、決して戦いは望まなかった。』(70)
 四月騒乱は『暴力的手段に訴える企てだった』と言っていることと、『平和的な偵察』を意味したという主張を、どのように調和させることができるのか、レーニンは説明しなかった。(*)
 さしあたりの間は、群衆はイスパルコムに、そして、その代表者を通じて政府に、従った。
 こうした文脈では、社会主義知識人はなぜ実力の使用に反対したのかを理解することができない。
 しかし、群衆の気分は変わりやすいものだ。そして、四月の主要な教訓は、ボルシェヴィキ党が弱かったことではなく、政府とソヴェトの指導者たちが実力に実力でもって対処する用意がなかった、ということだった。
 四月の日々の教訓を数ヶ月後に分析したレーニンは、戦術の面でボルシェヴィキは『十分に革命的でなかった』と結論づけた。これによって彼は、権力をひったくらなかったことに謬りがあった、とだけ意味させることができたのだろう。
 さらに言えば、レーニンは小さな戦闘の始まりから多くの鼓舞を、スハーノフによれば、四月におけるレーニンの『大きく生え始める翼』への希望を、引き出していた。//
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  〔A〕 <レーニン全集第24巻(大月書店)p.207以下「1917年4月22日(5月5日)朝採択されたロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会の決議」が該当するー試訳者・注記。
  (70) Lenin, PSS (Polnoe sobranie sochinenii, 5th ed.), XXXI, p.361。
  <レーニン全集同上p.245以下「現在の情勢についての報告の結語ー4月24日(5月7日)」が該当する。レーニンはこう述べる。以下、一部引用。カーメネフは「われわれに同意して、いまでは別な立場をとっている…。われわれの冒険主義はどこにあったか? それは、暴力的方策に訴えようと試みたことにあった。大衆が…のかどうか、われわれにはわからなかった。そしてもし大衆が大きく振れたのであれば、問題は別であっただろう。われわれは、平和的なデモンストレーションというスローガンをだした」。「われわれは、ただ敵の勢力にたいする平和的な偵察だけをおこない、戦闘はやらないことをのぞんだのであるが、ペテルブルグ委員会は、ちょっぴり左寄りのコースをとった。そして、このことは、…とんでもない犯罪である。組織機構がしっかりしていないことがわかった。つまり、…」/同全集この文書末尾の注記によると、「1921年に、レーニン全集、第1版第14巻第2分冊にはじめて発表。議事録のタイプした写しによって印刷」。ー以上、試訳者・注記。
  (*) アメリカの歴史家、アレクサンダー・ラビノヴィッチ(Alexander Rabinowitch)は、四月の示威活動は平和的なものだったというボルシェヴィキの文書内容を採用して、その上のレーニンが『暴力的手段』に言及している文章を、引用から省略している。A. Rabinowitch, Prelude to Revolution (1968), p.45。
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 第5節につづく。

1563/五月連立・エスエルら入閣-R・パイプス著10章5節。

 前回からのつづき。
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 第5節・社会主義者の臨時政府への加入。p.405-7。
 四月騒乱は、臨時政府の最初の重大な危機だった。
 ツァーリ体制(帝制)が崩壊して僅か二ヶ月後に、知識人たちはその眼前で国の統合が壊れていくのを見た-そしてもはや、責めるべき皇帝も官僚層もいなかった。
 政府は4月26日に、もう統治できない、『今まで直接で即時には内閣の一部を占めていなかった国の創造的な人たちの代表者』を、つまり社会主義知識人の代表者を、招き入れたい、という感情的な訴えを国民に対して発した。
 『大衆』の目から妥協しているとされるのをまだ怖れて、イスパルコムは4月28日に、政府からの打診を拒否した。
 イスパルコムが態度を変えた原因は、戦時大臣、グチコフの4月30日の退任だった。
 グチコフが回想録で説明するように、ロシアは統治不能になったと彼は結論していた。
 唯一の救済策は、コルニロフ将軍や実業界の指導者たちに代表される『健全な』勢力を政府に招き入れることだ。      
 社会主義知識人の態度が変わらなければこれは不可能なので、グチコフは階段を下りた。
 ツェレテリによれば、そのあとでミリュコフの任務から解放されたいとの要請がつづいたグチコフの辞任は、もはや一時凌ぎの方策では対応できない範囲に及んでいる、危機の兆候だった。
 『ブルジョアジー』が、政府を放棄しようとしていた。
 5月1日にイスパルコムは方針を変え、総会に諮ることなく、賛成44票対反対19票、保留2票の表決をして、メンバーが内閣の職を受諾することを許した。
 反対票は、ソヴェトが全ての権力を獲得することを願うボルシェヴィキと(マルトフ支持者の)メンシェヴィキ国際派によって投じられた。
 ツェレテリは、〔国際派以外の〕多数派を合理化する説明をしている。
 彼が言うには、政府は、迫りつつある破滅から国を救うことができないことを認めた。
 このような状況では、一歩を踏み出して革命を救う義務が、『民主主義』勢力にある。
 ソヴェトは、マルトフやレーニンが望むように、自らのために自らの名前で権力を得ることは、できない。そんなことをすれば、民主政を信じてはいないが民主主義勢力と協力するつもりのある多数の国民を、反動者たちの手に押し込んでしまうことになるのだから。
 別のメンシェヴィキのV・ヴォイチンスキー(Voitinskii)にツェレテリが語ったのは、つぎのようなことだ。
 『ブルジョアジー』との連立に賛成し、『全権力をソヴェトに』のスローガンに間接的には反対することになるのは、農民たちがソヴェトの『右翼側に』位置しており、おそらく彼らは自分たちが代表されていない組織を政府だと認めるのを拒むだろうからだ。//
 イスパルコムは、連立政府の設立に同意する際に、一連の条件を付けた。
 すなわち、連合国間の協定の見直し、戦争終結への努力、軍隊の一層の『民主化』、農民に土地を配分する段階を始める農業政策、そして憲法制定会議(Constituent Assembly)の召集。
 政府の側では、新政府を、軍隊の最高指令権の唯一の源泉であることはもとより、状況によれば軍事力を実際に行使する権限をもつ、国家主権の排他的保持者だと認めることを、イスパルコムに要求した。
 政府とイスパルコムの代表者たちは、五月の最初の数日間を、連立の条件を交渉することで費やした。
 5月4日から5日にかけての夜に、合意に達した。それに従って、新しい内閣が職務を開始した。
 安定感があって無害のルヴォフ公が首相に留任し、グチコフとミリュコフは正式に辞任した。
 外務大臣職は、カデット〔立憲民主党〕のM・I・テレシェンコ(Tereschenko)に与えられた。
 若き実業家のテレシェンコは政治経験がほとんどなく、公衆にはあまり知られていなかったので、これは不思議な選抜だった。
 しかし、一般に知られていたのは、ケレンスキーのようにフリーメイソンに所属しているということだった。この人物の任命はフリーメイソンとの関係によるという疑問の声が挙がった。
 ケレンスキーは、戦時省を所管することになった。
 彼もこの職へと後援するものは持たなかったが、ソヴェトでの卓越ぶりと弁舌の才能によって、夏期の攻勢を準備している軍隊を鼓舞することが期待された。
 6人の社会主義者が、連立内閣の大臣になった。そのうち、チェルノフは農務省の大臣職に就き、ツェレテリは郵便電信大臣になった。
 この内閣は、二ヶ月間、生き存えることになる。//
 五月協定は、究極的な権威について国民を当惑させる二重権力体制(dvoevlastie)の奇妙さを、いくぶんか和らげた。
 五月協定は、大きくなっていく失望の意識だけを示すのではなく、社会主義知識人の成熟さが増大したことをも示していた。そして、そのようなものとして、一つの明確な発展だった。
 表面的には、『ブルジョアジー』と『民主主義』を一つにした政府は、二つの集団が相互に敵対者となるよりは効率的だと、約束した。
 しかし、この合意は、新しい問題も生じさせた。
 社会主義政党の指導者が入閣した瞬間に、彼らは反対者〔野党〕の役割を失った。
 内閣に入ることで彼らは自動的に、間違う全てについての責めを分け持つことになった。
 このことが許したのは、政府に入らなかったボルシェヴィキが現状に対抗する唯一の選択肢であり、ロシア革命の守護者であるという位置を占めることだった。
 そして、リベラルおよび社会主義知識人の行政能力は救いようもなく低かったので、事態は、より悪化せざるをえなかった。
 ボルシェヴィキが、唯一の想定できるロシアの救い手として、現われた。//
 臨時政府は今や、崩壊する権威から権力統御権を奪う穏健な革命家たちの、古典的な苦境に立ち至った。
 クレイン・ブリントン(Crane Brinton)は、革命に関する比較研究書の中で、つぎのように書く。//
 『穏健派たちは、少しずつ、旧体制の反対者として得ていた信頼を失っていることに気づく。そして、ますます旧体制の相続人としての地位と見込みでは結びついていたものを失墜させていることに。
 防御側に回って、彼らはつぎつぎと間違いをする。防御者であることにほとんど慣れていないのが理由の一つだ。』
 『革命の進行に遅れる』と考えることが心情的に堪えられなくて、左翼にいる好敵と断交することもできなくて、彼らは誰も満足させず、十分に組織され、十分に人員をもつ、より決意をもつ好敵たちに、喜んで道を譲る。(79) //
  (79) Crane Brinton, Anatomy of Revolution (ニューヨーク, 1938), p.163-171。

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 第6節につづく。 

1568/レーニンらの利点とドイツの援助①-R・パイプス著10章6節。

 第5節終了の前回からのつづき。第6節は、p.407~p.412。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
 1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
 6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
 しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
 ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
 新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
 メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
 このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
 社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
 だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
 社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
 そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
 『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
 ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
 したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
 社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
 社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
 レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
 多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
 しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
 保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
 彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
 このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
 ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
 かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
 こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
 この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
 自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
 のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
 そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
 (*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
 第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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 ②につづく。

1570/レーニンらの利点とドイツの援助②-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの財政援助②。
 しっかりした指導者がいないロシアでは解体が進み、社会主義者が作動させていたものを含む国家諸制度が全て弱体化した。そうして、事態の推移は、全ロシア・ソヴェトや労働組合中のメンシェヴィキやエスエルの指導者たちを出し抜く機会を、ボルシェヴィキに与えた。
 連立政府の形成ののちにマルク・フェロ(Marc Ferro)は、ペテログラードの全ロシア・ソヴェトの権威が各地域のソヴェトのそれが大きくなるにつれて弱くなったことを指摘した。
 同じようなことが労働運動でも起こり、全国的労働組合は権威を失って地方の『工場委員会(Factory Committe)』に譲った。
 各地域ソヴェトと工場委員会は、ボルシェヴィキが操縦しやすい、政治経験のない人々によって管理されていた。//
 ボルシェヴィキは、メンシェヴィキが支配する大きな全国的労働組合にはほとんど影響力を持たなかった。
 しかし、輸送と通信の状態が悪化したとき、ペテログラードかモスクワに本部がある大きな全国的労働組合は、広大な国土に散在している構成員と接触できなくなった。
 労働者たちは今や、職業的労働組合から工場へと、忠誠の方向を移す傾向が生じた。
 このような推移は、1917年に全国的労働組合の構成員数がきわめて多数になったにもかかわらず、発生した。
 実力と影響力を最も急速に身につけた労働者組織は、工場委員会(あるいは Fabzavkomy)だった。
 この工場委員会は、旧政府が任命した管理者が姿を消したあとで、二月革命の始まりの時期に、国有の防衛装備工場で出現した。
 そこから、私有の諸企業へと広がった。
 3月10日、ペテログラード産業家連盟はイスパルコムとの間で、首都の全工場施設(plants)に工場委員会を設置することに合意した。
 臨時政府は翌月に、それらを公的に承認し、工場委員会が労働者たちの代表団として行動する権利を付与した。//
 工場委員会は最初は穏健な立場を採用し、生産の増大と労働争議の仲裁に関心を集中させた。
 そうして、工場委員会は、急進化した。
 不幸なことに物価高騰や燃料、原料の不足が工場閉鎖になるほどにひどくなり、工場委員会は、投機や偽りの会計帳簿のせいだと雇用主を責め立て、一時罷業の手段をとった。
 あちこちで彼らは、所有者や管理者を追い払って、自分たちで工場を稼働させようと企てた。
 そうでなくとも、彼らは経営に自分たちの声が強く反映されることを要求した。
 メンシェヴィキはこのようなアナクロ・サンディコ主義的組織に好意をもたず、工場委員会を全国的労働組合へと統合しようとした。
 しかし、労働者の当面の日々の関心が、別の場所にいる同職業の仲間ではなく同じ傘のもとに雇われている仲間とますますつながっていくにつれて、趨勢はメンシェヴィキの意向とは反対の方向へと進んだ。
 ボルシェヴィキは、労働組合でのメンシェヴィキを弱体化する理想的な手段だと、工場委員会のことを考えた。
 ボルシェヴィキは『労働者の支配』というサンディコ主義の考えに同意はしなかったが、かつ権力奪取ののちにはこの組織を絶滅させることになるのだが、1917年の春には、工場委員会を大きくすることが彼らの利益だった。
 ボルシェヴィキは工場委員会の設立を助け、全国的に組織した。
 5月30日に開催されたペテログラード工場委員会の第一回大会では、ボルシェヴィキは、少なくとも三分の二の代議員を支配した。
 工場の会計書類に関与できるだけではなくて工場の管理についての決定的な表決権が労働者に与えられるべきだとのボルシェヴィキの提案は、圧倒的な多数でもって可決された。
 工場委員会、Fabzavkomyは、ボルシェヴィキの手に落ちた、最初の組織だった。(*)//
 レーニンは暴力行為による権力奪取を目論んでいたので、政府とソヴェトの双方から独立し、党の中央委員会に対してのみ責任をもつ自分自身の軍団を必要とした。
 『労働者の武装』は、将来のクー・デタへの綱領の中心にあった。
 群衆は、二月革命の間に、軍需物資を略奪した。数万の銃砲が消え、そのいくらかは工場の中に隠された。
 ペテログラード・ソヴェトは、帝制時代の警察に代わる『人民軍』を組織した。
 だがレーニンは、ボルシェヴィキがこれに加入するのを拒んだ。自分自身の実力部隊が欲しかったのだ。
 国家転覆のための組織を作っているとして訴追されることのないように、レーニンは、その私的な軍を最初は『労働者民兵』と呼んで、工場を略奪者から守る当たり障りのない護衛団のごとく偽装した。
 この私的民兵は4月28日に、ボルシェヴィキの赤衛軍(Red Guard, Krasnaia Gvardiia)と一つになり、後者には、『革命の防衛』と『反革命軍に対する抵抗』という使命が加わった。
 ボルシェヴィキは、この自分の軍に対するソヴェトの反対を無視した。
 赤衛軍は結局は、通常の民間警察に変わるか人民軍と併合するかしたので、期待外れのものに終わった。どちらの場合でも、レーニンが期待したような階級軍精神をもつものにはならなかったからだ。
 必要になった十月には、存在していないことで異彩を放つことになる。//
 ボルシェヴィキはクーを準備して、守備軍団や前線兵団の間での虚偽情報宣伝や煽動活動も熱心に行なった。
 この仕事の責任は、軍事機構(Military Organization)が負うこととされた。
 ある共産党資料によれば、この軍事機構は、守備兵団の四分の三に、工作員や細胞(cell)を持った。
 軍事機構はその工作員や細胞から軍団の雰囲気に関する情報を得るとともに、それらを通じて、反政府および反戦争の宣伝活動を実行した。
 ボルシェヴィキは制服組の人間からほとんど支持されていなかったが、首尾よく兵団の不満を煽った。それの効果は、兵士たちが、政府またはソヴェトからのボルシェヴィキに対抗する呼びかけに服従したくない気分になる、ということだった。
 スハノフ(Sukhanov)によれば、最も強く不満を持っていた守備軍兵士たちですらボルシェヴィキを支持したのではなかったが、兵士たちの雰囲気は『中立』や『無関心』の一つで、反政府の訴えに反応しやすくなっていた。
 守備軍団の中の最大部隊、第一機関銃連隊の雰囲気は、この範疇に属していた。//
 ボルシェヴィキは主としては、印刷した言葉の手段でもって、心情に影響を与えた。
 <プラウダ>は、6月までには、8万5000部が発行された。
 ボルシェヴィキは地方紙や特定の集団に向けた文書(例えば、女性労働者、少数派民族)を発行し、夥しい数の小冊子を作成した。
 ボルシェヴィキは、制服を着た男たちに特別の注意を払った。
 兵士用の新聞、< Soldatiskaia プラウダ>が4月15日に発刊され、これは5万から7万5000部が印刷された。
 つづいて、海兵用の< Golos Praudy >、前線兵士用の< Okopnaia Pravda >が、それぞれクロンシュタット、リガで印刷されて、発刊された。
 それらは合わせて1917年の春に、兵団にむけて一日に10万部が配られ、ロシアの全軍に1200万人の兵士がいたとすれば、一隊あたり毎日一人のボルシェヴィキ党員の需要を満たすものだった。
 ボルシェヴィキ系新聞の合計部数は、7月初めには、32万になった。
 追記すると、< Soldatiskaia プラウダ>は、35万の小冊子と大判紙を印刷した。
 ボルシェヴィキには1917年二月には新聞がなかったことを考えれば、こうしたことは特筆されるべき事柄だ。//
  (*) 労働組合と工場委員会の対立は、20年後にアメリカ合衆国でも起きた。そのとき、工場を基礎にする組合はCIOと提携して、AFLの職業志向の組合に挑戦した。ここでは共産主義者は、ロシアのように、前者に味方した。
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 ③へとつづく。

1572/レーニンらの利点とドイツの援助③-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの資金援助③。
 これらの出版物は、レーニンの考え方を広めた。しかし、隠した内容で、だった。
 採用した方法は『プロパガンダ(propaganda)』で、読者に何をすべきかを伝える(これは『アジテーション(agitation)』の任務だ)のではなく、望ましい政治的結論を自分たちが導く想念を読者に植え付けることだった。
 例えば、兵団に対する訴えで、ボルシェヴィキは、刑事訴追を受けさせることになるような脱走を唆しはしなかった。
 ジノヴィエフは、<兵士のプラウダ>第1号に、新聞の目的は労働者と兵士の間の不滅の緊密な関係を作り出し、結果として兵団員たちが自分たちの『真の』利益を理解して労働者の『集団虐殺』をしないようにさせることにある、と書いた。
 戦争の問題についても、彼は同様に用心深かった。//
 『我々は、いま<銃砲を置く>ことを支持しない。
 これは、決して戦争を終わらせない。
 いまの主要な任務は、全兵士に、何を目ざしてこの戦争は始まったのか、<誰が>戦争を始めたのか、誰が戦争を必要とするのか、を理解させ、説明することだ。』(91)//
 『誰が』、もちろん、『ブルジョアジー』だった。兵士たちは、これに対して銃砲を向けるようになるべきだ。//
 このような組織的な出版活動を行うには、多額の資金が必要だった。
 その多くは、ほとんどではなかったとしても、ドイツから来ていた。//
 ドイツの1917年春と夏のロシアでの秘密活動については、文書上の痕跡はほとんど残っていない。(*)
 ベルリンの信頼できる人間が、信頼できる媒介者を使って、文書に残る請求書も受領書も手渡すことなく、中立国スウェーデン経由で、ボルシェヴィキに現金を与えた。
 第二次大戦後にドイツ外交部の文書(archives)が公になったことで、ボルシェヴィキに対するドイツの資金援助の事実を確かなものにすることができ、そのある程度の金額を推算することができるが、ボルシェヴィキがドイツの金を投入した正確な用途は、不明瞭なままだ。
 1917-18年の親ボルシェヴィキ政策の主な考案者だったドイツ外務大臣、リヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuelmann)は、ドイツの資金援助を主としてはボルシェヴィキ党の組織と情報宣伝活動(propaganda)のために用いた。
 キュールマンは1917年12月3日(新暦)に、ある秘密報告書で、ボルシェヴィキ党派に対するドイツの貢献を、つぎのように概括した。//
 『連合諸国(協商国、Entente)の分裂およびその後の我々と合意できる政治的連結関係の形成は、戦争に関する我々の外交の最も重要な狙いだ。
 ロシアは、敵諸国の連鎖の中の、最も弱い環だと考えられる。
 ゆえに、我々の任務は、その環を徐々に緩め、可能であれば、それを切断することだ。
 これは、戦場の背後のロシアで我々が実施させてきた、秘密活動の目的だ--まずは分離主義傾向の助長、そしてボルシェヴィキの支援。
 多様な経路を通して、異なる標札のもとで安定的に流して、ボルシェヴィキが我々から資金を受け取って初めて、彼らは主要機関の<プラウダ>を設立することができ、活力のある宣伝活動を実施することができ、そしておそらくは彼らの党の元来は小さい基盤を拡大することができる。』(92) //
 ドイツは、ボルシェヴィキに1917-18年に最初は権力奪取を、ついで権力維持を助けた。ドイツ政府と良好な関係をもったエドュアルト・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)によれば、そのためにドイツがあてがった金額は、全体で、『金で5000万ドイツ・マルク以上』だと概算されている(これは、当時では9トンないしそれ以上の金が買える、600~1000万ドルになる)。(93)(**)//
 これらのドイツの資金のある程度は、ストックホルムのボルシェヴィキ工作員たちを経由した。その長は、ヤコブ・フュルステンベルク=ガネツキー(J. Fuerustenberg-Ganetskii)だった。
 ボルシェヴィキとの接触を維持する責任は、ストックホルム駐在ドイツ大使、クルツ・リーツラー(Kurz Riezler)にあった。
 B・ニキーチン(Nikitin)大佐が指揮した臨時政府の反諜報活動によると、レーニンのための資金はベルリンの銀行(Diskontogesellschaft)に預けられ、そこからストックホルムの銀行(Nye Bank)へと転送された。
 ガネツキーがNye 銀行から引き出して、表向きは事業目的で、実際にはペテログラードのシベリア銀行(Siberian Bank)の彼の身内の口座へと振り込まれた。それは、ペテログラードのいかがわしい社会の女性、ユージニア・スメンソン(Eugenia Sumenson)だった。
 スメンソンとレーニンの部下のポーランド人のM・Iu・コズロフスキー(Kozlovskii)は、ペテログラードで、表向きは、ガネツキーとの金融関係を隠す覆いとしての薬品販売事業を営んでいた。
 こうして、ドイツの資金をレーニンに移送することができ、合法の取引だと偽装することができた。
 スメンソンは、1917年に逮捕されてのちに、シベリア銀行から引き出した金をコズロフスキー、ボルシェヴィキ党中央委員会メンバー、へと届けたことを告白した。
 彼女は、この目的で銀行口座から75万ルーブルを引き出したことを、認めた。
 スメンソンとコズロフスキーは、ストックホルムとの間に、表向きは取引上の連絡関係を維持した。そのうちいくつかは政府が、フランスの諜報機関の助けで、遮断した。
 つぎの電報は、一例だ。//
 『ストックホルム、ペテログラードから、フュルステンベルク、グランド・ホテル・ストックホルム。ネスレ(Nestles)は粉を送らない。懇請(request)。スメンソン。ナデジンスカヤ 36。』(97)//
 ドイツは、ボルシェヴィキを財政援助するために、他の方法も使った。そのうちの一つは、偽造10ルーブル紙幣をロシアに密輸出することだった。
 大量の贋造された紙幣は、七月蜂起〔1917年〕の余波で逮捕された親ボルシェヴィキの兵士や海兵から見つかった。//
 レーニンは、ドイツとの財政関係を部下に任せて、うまくこうした取引の背後に隠れつづけた。
 彼はそれでもなお、4月12日のガネツキーとラデックあての手紙で、金を受け取っていないと不満を述べた。
 4月21日には、コズロフスキーから2000ルーブルを受け取ったと、ガネツキーに承認した。
 ニキーチンによると、レーニンは直接にパルヴス(Parvus)と連絡をとって、『もっと物(materials)を』と切願した。(***)
 こうした通信のうち三件は、フィンランド国境で傍受された。
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  (91) <兵士のプラウダ>第1号(1917年4月15日付) p.1。
  (*) 1914年~1917年のロシアの事態にドイツが直接に関与したことを示すと称する、『シッション文書(Sission Papers)』と呼ばれるひと塊の文書が、1918年早くに表れた。これはアメリカで、戦争情報シリーズ第20号(1918年10月)の<ドイツ・ボルシェヴィキの陰謀>として、公共情報委員会によって公刊された。ドイツ政府はただちに完全な偽造文書だと宣言した(Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命 1915-1918, ロンドン, 1958, p.X.。さらに、ジョージ・ケナン(George Kennan) in: The Journal of Modern History, XXVIII, No.2, 1956.06, p.130-154、を見よ)。これは、レーニンの党に対するドイツの財政的かつ政治的支援という考え自体を、長年にわたって疑わせてきた。
  (92) Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命, p.94。
  (93) <前進(Vorwaerts)>1921年1月14 日号, p.1。
  (**) ベルンシュタインが挙げる数字は、ドイツ外務省文書の研究で、大戦後に確認された。そこで見出された文書によると、ドイツ政府は1918年1月31日までに、ロシアでの『情報宣伝活動』のために4000万ドイツ・マルクを分けて与えた。この金額は1918年6月までに消費され、続いて(1918年7月)、この目的のために追加して4000万ドイツ・マルクが支払われた。おそらくは後者のうち1000万ドイツ・マルクだけが使われ、かつ全てがボルシェヴィキのためだったのではない。当時の1ドイツ・マルクは、帝制ロシアの5分の4ルーブルに対応し、1917年後の2ルーブル(いわゆる『ケレンスキー』)にほぼ対応した。Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik <ドイツの東方政策> 1918 (ウィーン・ミュンヘン, 1966), p.213-4, 注19。
  (97) Nikitin, Rokovye gody, p.112-4。ここには、他の例も示されている。参照、Lenin, Sochineniia, XXI, p.570。  
  (99) Lenin, PSS, XLIX, p.437, p.438。
  (***) B. Nikitin, Rokovye gody (パリ, 1937), p.109-110。この著者によると(p.107-8)、コロンタイ(Kollontai)も、ドイツからの金を直接にレーニンに渡す働きをした。ドイツの証拠資料からドイツによるレーニンへの資金援助が圧倒的に証明されているにもかかわらず、なおもある学者たちは、この考え(notion)を受け容れ難いとする。その中には、ボリス・ソヴァリン(Boris Souvarine)のようなよく知った専門家もいる。Est & Quest, 第641号(1980年6月)の中の彼の論文 p.1-5、を見よ。
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 第7節につづく。

1574/ケレンスキー着任・六月騒乱①-R・パイプス著10章7節。

 前回のつづき。第7節は、p.412~p.417。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動①。
 ケレンスキーは、戦時大臣としての職責に、称賛すべき積極さで取り組んだ。
 ロシアの民主主義の生き残りは、強くて紀律ある軍隊にかかっていると、そして沈滞気味の軍の雰囲気は軍事攻勢に成功することで最も高揚するだろうと、確信していたからだ。
 将軍たちは、軍がこのまま長く動かないままであれば、軍は解体すると考えていた。
 ケレンスキーは、フランス軍の1792年の奇跡を再現したかった。フランス軍はその年、プロイセンの侵攻を止めて退却させ、全国民を革命政府へと再結集させた。
 二月革命前に取り決められていた連合諸国への義務を履行するために、大攻勢は6月12日に予定されていた。
 それはもともとは純粋に軍事的な作戦として構想されていたが、今や加えて、政治的な重要性を持ってきていた。
 軍事攻勢の成功に期待されたのは、政府の権威を高め、全民衆に愛国主義を再び呼び起こすことだった。これらは、政府に対する右翼や左翼からの挑戦にうまく対処するのを容易にするだろう、と。
 テレシェンコはフランスに対して、攻勢がうまくいけばペテログラード守備兵団にある反抗的な要素を抑圧する措置をとる、と語った。//
 軍事攻勢を行う準備として、ケレンスキーは軍の改革を実施した。
 彼は、おそらくロシアの最良の戦略家だったアレクセイエフについて、敗北主義的行動者だという印象を持った。そしてアレクセイエフに替えて、1916年の運動の英雄、ブルジロフ(Brusilov)を任命した。(*)
 ブルジロフは軍隊の紀律を強化し、服従しない兵団に対する措置について、広い裁量を将校たちに与えた。
 フランス軍が1792年に導入した commissaires aux armees を真似て、前線の兵士たちの士気高揚のために委員(commissars)を派遣し、兵士と将校の間の調整にあたらせた。これは、のちに赤軍でボルシェヴィキが拡大して使うことになる、新しい考案物だった。
 ケレンスキーは、5月と6月初めの間のほとんどを、愛国心を掻き立てる演説をしながら、前線で過ごした。
 彼が現れることは、電流を流すような刺激的効果をもった。//
 『前線へのケレンスキーの旅を表現するには、「勝利への進軍」では弱すぎるように思える。
 扇動的な力強い演説のあとは、嵐が過ぎ去るのに似ていた。
 群衆たちは彼を一目見ようと、何時間も待った。
 彼の通り道はどこにも、花が撒かれた。
 兵士たちは、握手しようとまたは衣服に触ろうと、何マイルも彼の自動車を追いかけた。
 モスクワの大きな会館での集会では、聴衆たちは熱狂と崇敬の激発に襲われた。
 彼が語りかけた演台は、同じ信条の崇拝者たちが捧げた、時計、指輪、首輪、軍章、紙幣で埋め尽くされた。』(103)//
 ある目撃者は、ケレンスキーを『全てを焼き尽くす火を噴き上げている活火山』になぞらえた。、そして、彼には自分と聴衆の間に障害物があるのは堪えられないことだった、とつぎのように書いた。
 『彼は、あなた方の前に、頭から脚まで全身をさらしたい。そうすれば、あなた方と彼の間には、見えなくとも力強い流れのあるお互いの放射線が完璧に埋め尽くす、空気だけがある。
 彼の言葉はかくして、演壇、教壇、講壇からは聞こえてこない。
 彼は演壇を降りて台に飛び移り、あなた方に手を差し出す。
 苛立ち、従順に、激しく、信仰者たちの熱狂が打ち震えて、彼を掴む。
 自分に触るのを、手を握るのを、そして我慢できずに彼の身体へと引き寄せるのを、あなた方は感じる。』(104)//
 しかしながら、このような演説の効果は、ケレンスキーが見えなくなると突如に消失した。現役将校たちは、彼を『最高説得官』と名づけた。
 ケレンスキーはのちに、6月大攻勢直前の前線軍団の雰囲気は、両義的だった、と想い出す。
 ドイツとボルシェヴィキの情報宣伝活動の影響力は、まだほとんどなかった。
 その効果は、守備兵団と、新規兵から成る予備団である、いわゆる第三分隊に限られていた。
 しかし、ケレンスキーは、革命は戦闘を無意味にしたとの意識が広がっていることに直面した。
 彼は、書く。『苦痛の三年間の後で、数百万の戦闘に疲れた兵士たちが、「新しい自由な生活が故郷で始まったばかりだというのに、自分はなぜ死ななければならないのか?」と自問していた。』(105)
 兵士たちは、彼らが最も信頼する組織であるソヴェトからの返答をもらえなかった。ソヴェトの社会主義者多数派は、きわめて特徴的な、両義的な方針を採用していたからだ。
 メンシェヴィキと社会主義革命党(エスエル)の(ソヴェトでの)多数派が裁可した典型的な決議を一読すれば、戦争に対する完全に消極的な性格づけに気づく。すなわち、この戦争は帝国主義的なものだ。また、戦争は可能なかぎり速やかに終わらせるべきだとの主張にも。
 また一方で、ケレンスキーの強い要求に従って挿入された、遠慮がちの数行にも気づくだろう。それは、全面平和を遅らせて、ロシアの兵士たちが戦い続けるのは良いことだ、と、曖昧な論理で、かつ感情に訴える何ものをもなくして、示唆する数行だった。//
 ボルシェヴィキは政府に対する不満や守備兵団の士気低下を察知して、6月初めに、この雰囲気を利用することを決めた。
 ボルシェヴィキの軍事機構は6月1日に、武装示威活動を行うことを表決した。
 この軍事機構は中央委員会から命令を受けていたので、当然のこととして、その決定は後者の承認を受けているか、おそらくは後者の提唱にもとづいていた。
 中央委員会は6月6日に、4万人の武装兵士と赤衛軍を街頭に送り込んでケレンスキーと連立政権を非難する旗のもとで行進し、そして適当な瞬間に『攻撃に移る』ことを議論した。
 これが何を意味するのかは、軍事機構の長のネフスキー(Nevskii)からボルシェヴィキの計画を知ったスハノフの文章によって分かる。//
 『6月10日に予定された「宣言行動」の対象は、臨時政府の所在地のマリンスキー宮(Mariinskii Palace)とされた。
 これは、労働者分遣団とボルシェヴィキに忠実な連隊の最終目的地だった。
 特に指名された者が宮の前で、内閣のメンバーに出て来て質問に答えよと要求することになっていた。
 特別指名の集団は、大臣が語ったとき、『民衆は不満だ!』と声を挙げて、群衆の雰囲気を興奮させる。
 雰囲気が適当な熱度以上に達するや、臨時政府の人員はその場で拘束される。
 もちろん、首都はすぐに反応することが予想される。
 この反応の状態いかんによって、ボルシェヴィキ中央委員会は、何らかの名前を用いて、自分たちが政府だと宣言する。
 「宣言行動」の過程でこれら全てのための雰囲気が十分に好ましいと分かれば、そしてルヴォフ(Lvov)やツェレテリが示す抵抗は弱いと分かれば、その抵抗はボルシェヴィキ連隊と兵器の実力行使によって抑止する。(**)
 示威行進者の一つのスローガンは、『全ての権力をソヴェトへ』だとされていた。
 しかし、ソヴェトが自らを政府と宣言するのを拒んで武装の示威活動を禁止すれば、スハノフが合理的に結論するように、権力がボルシェヴィキ中央委員会の手に渡されるということのみを意味したことになっただろう。
 示威活動は第一回全ロシア・ソヴェト大会(6月3日に開会予定)と同時期に予定されたので、ボルシェヴィキは既成事実を作って大会と対立するか、または大会の意思に反して、大会の名前で権力を奪うか権力を要求することを無理強いするかを計画していたかもしれない。
 レーニンは実際に、その意図を秘密にはしなかった。
 ソヴェト大会でツェレテリがロシアには権力を担う意思がある政党はないと述べたとき、レーニンは座席から、『ある!』と叫んだ。
 この逸話は、共産主義者の聖人伝記類では伝説になった。//
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   (*) ブルジロフ(Brusilov)はその回想録で、最高司令官になったときにすでに、ロシア軍団には戦闘精神が残っておらず、攻勢は失敗すると分かったと主張している。A. B. Brusilov, Moi vospominaniia (モスクワ・レニングラード, 1929), p.216。 
  (103) E. H. Wilcox, Russian Ruin <ロシアの破滅> (ニューヨーク, 1919), p.196。
  (104) 同上, p.197。V. I. Nemirovich-Danchenko を引用。  
  (105) Alexander Kerensky, Russia and History's Turning Point <ロシアと歴史の転換点>(ニューヨーク, 1965), p.277。
  (**) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, IV (ベルリン, 1922), p.319。スハノフはこの情報の源を示していない。だが、メンシェヴィキ派の歴史家のボリス・ニコラエフスキー(Boris Nikolaevskii)は、ネフスキーから来ているのだろうと推測している。SV, No. 9-10 (1960), p.135n。ツェレテリは、スハノフが回想録を公刊した1922年に主要な人物はまだ生きていて、スハノフの説明を否定できたはずだったにもかかわらず、誰もそうしなかった、と指摘する。I. G. Tsereteli, Vospominaniia o Fevral'skoi Revoliutsii, II (パリ, 1963), p.185。
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 ②につづく。

1576/六月騒乱の挫折②-R・パイプス著10章7節。

 前回からのつづき。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動②。
 ボルシェヴィキは、予定した日の4日前の6月6日、最高司令部の会議を開いて最後の準備をした。
 この会議の議事内容を、我々は削り取られた議事録からしか知ることができない。その議事録では、最も重要な最初の事項、レーニンの発言が粗々しく切断されている。
 蜂起するという考えは、強い抵抗に遭った。
 レーニンの『冒険主義』を4月に批判したカーメネフは、再び主導権を握った。
 カーメネフは、この作戦は確実に失敗する、と言った。ソヴェトの権力獲得に関する問題は、ソヴェト大会に委ねるのが最善だ。
 中央委員会のモスクワ支部から来たV・P・ノギン(Nogin)は、もっと率直に、つぎのように語った。
 『レーニンの提案は、革命だ。我々にそれができるのか?
 我々は国の少数派だ。二日では、攻撃を準備できるはずがない。』
 ジノヴィエフも、計画している行動は党を大きな危機に瀕せしめると述べて、反対派に加わった。
 スターリン、中央委員会書記のS・D・スタソワ(Stasova)、およびネフスキー(Nevskii)は、力強くレーニンの提案を支持した。
 レーニンの議論内容は、知られていない。しかし、ノギンの言っていることから判断して、レーニンが何を求めていたかは明瞭だ。//
 ペテログラード・ソヴェトとソヴェト大会は、示威活動を起こすことを考慮して、完全に闇の中に置かれたままだった。//
 6月9日、ボルシェヴィキの扇動者たちが兵舎や工場に現れて、兵士や労働者たちに翌日に予定された示威活動について知らせた。
 軍事機構の部署である<兵士プラウダ>は、示威行進者たちに詳しい指示を与えた。
 その新聞の論説は、つぎの言葉で結ばれていた。
 『資本主義者たちに対する戦争を勝利の結末へ!』//
 このときに開会中のソヴェト大会は、大会での弁舌に夢中になっていて、ほとんど遅すぎると言っていいほどに、ボルシェヴィキの準備について何も知りはしなかった。
 6月9日の午後になって、ボルシェヴィキのビラを見て初めて、彼らがしようとしていることを知った。
 出席していた全ての政党が-もちろんボルシェヴィキを除いて-、ただちに、示威活動の断念を命令すること、およびこの判断を労働者区画と兵舎に伝える活動家を派遣すること、を表決した。
 ボルシェヴィキは、新しい事態に対処すべく、その日遅くに会合を開いた。
 公刊された記録文書は存在していないのだが、彼らは議論の末に、ソヴェト大会の意思に屈して、示威活動を断念することを決定した。
 彼らはさらに、ソヴェトが6月18日に予定した平和的(換言すると、武装しない)示威行進に参加することに合意した。
 おそらくボルシェヴィキ最高司令部は、ソヴェト首脳部に挑戦するのはまだ時機が好くないと考えた。//
 ボルシェヴィキのクーは、回避された。しかし、ソヴェトの勝利の価値には、疑わしいところがあった。なぜなら、ソヴェトには、この事件から適切な結論を導く、道徳的勇気が欠けていたからだ。
 ボルシェヴィキを含めてソヴェトの全党派を代表するおよそ100人の社会主義知識人たちが、6月11日に、この二日間の事態について議論すべく会合を開いた。
 メンシェヴィキの代弁者であるテオドア・ダン(Theodore Dan)はボルシェヴィキを批判し、いかなる党派もソヴェトの承認なくして示威活動をするのは許されない、武装の集団はソヴェトが支援する示威活動にのみ投入される、という決議案を提案した。
 これらの規則の違反者は除名されるものとされていた。 
 レーニンは自ら選んで欠席しており、ボルシェヴィキの事案はトロツキーによって防御された。
 最近にロシアに到着したトロツキーは、まだ正式には党員ではなかったが、ボルシェヴィキ党にきわめて近い立場にいた。
 議論の途中でツェレテリは、臆病すぎるとして、ダンの提案に反対するように出席者に求めた。
 青白くなり、興奮して声を震わせて、彼は叫んだ。//
 『起きたことは、<陰謀に他ならない。
 -政府を転覆させて、ボルシェヴィキに権力を奪取させる陰謀だ>。
 彼らが他の手段では決して獲得できないと知っている権力を、だ。
 この陰謀は、我々が発見するや否や無害なものに抑えられた。
 しかし、明日にもまた発生しうる。
 反革命が頭をもたげた、と言う。
 それは違っている。
 反革命が頭をもたげたのでは、ない。頭を下げたのだ。
 反革命は、ただ一つの扉を通ってのみ貫ける。ボルシェヴィキだ。
 ボルシェヴィキが今していることは、考え方の情報宣伝ではなく、陰謀だ。
 批判を攻撃する武器は、武器を攻撃する批判によって置き換わる。
 ボルシェヴィキ諸君、許せ。だが、我々は、別の手段での闘争を選択すべきだ。
 武器をもつ価値のない革命家からは、武器を奪い取らなければならない。
 ボルシェヴィキは、武装解除されなければならない。
 彼らが今まで利用してきた異様な専門的用具を、彼らの手に残してはならない。
 機関銃や武器を、彼らに残してはならない。
 我々は、このような陰謀に寛容であってはならない。』(*)//
 ツェレテリはある程度の支持を得たが、多数は反対だった。
 ボルシェヴィキの陰謀だとする、どんな証拠があるのか?
 純粋な大衆運動を代表するボルシェヴィキを、なぜ武装解除するのか?
 彼は本当に『プロレタリアート』を、自衛できないものにしたいのか?
 マルトフは、とくに猛烈に、ツェレテリを非難した。
 社会主義者たち〔ソヴェト大会〕はその翌日に、ダンの穏健な提案に賛成する表決をした。これは、ボルシェヴィキの武装解除に、彼らから秘密の装置を剥ぎ取ることに、反対することを意味した。
 精神の、重大な過ちだった。
 レーニンは直接に、ソヴェトに挑戦した。そしてソヴェトは、その目を逸らした。
 ソヴェト多数派は、つぎのように信じることを好んだのだ。すなわち、ボルシェヴィキは、ツェレテリが言うような、権力奪取を志向する反革命の党ではなく、疑問のある戦術を用いている、ふつうの社会主義政党の一つなのだ、と。
 社会主義者たちはかくして、ボルシェヴィキを非合法なものにする機会を、敵に対してソヴェトの利益を代表し、その利益のために活動していると主張するという、強い政治的武器を奪い取る機会を、逃した。//
 ボルシェヴィキは、臆病ではなかった。
 <プラウダ>は、ツェレテリの提案が否決された翌日に、ボルシェヴィキは現在も将来も、ソヴェトの命令に服従する意思はないと、ソヴェトに知らしめた。
 『我々は、以下のとおり宣言するのが義務だと考える。
 ソヴェトに参加しても、かつソヴェトが全ての権力を獲得するために闘っても、一瞬でも、また原理的に我々の敵対物であるソヴェトの利益のためにも、つぎの権利を放棄することはしない。
 すなわち、分離しておよび自立して、我々のプロレタリア階級政党の旗のもとに労働者大衆を組織化する全ての自由を活用する権利。
 我々はまた、そのような反民主主義的制限に服従することを、範疇的に拒否する。
 <国家の権力が全体としてソヴェトの手に移ったとしても>、-そしてこれを言いたいが-ソヴェトが我々の煽動活動に足枷をはめようとしても、<我々は、温和しく服従するのではなく>、国際的社会主義の理想の名において、投獄やその他の制裁を受ける危険を冒す。』(112)//
 これは、ソヴェトに対する戦争開始の宣言であり、ソヴェトが政府になっても、なったときにも、それに反抗して行動する権利をもつことを強く主張するものだった。// 
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  (*) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.2。これは非公開の会議だった。そして、他の根拠資料は存在しない。しかし、ツェレテリは、<プラウダ>からの本文引用部分は、若干の些細な、重要ではない省略はあるけれども、正しく自分の発言を伝えるものであると確認している。ツェレテリ, Vospominaniia, II, p.229-230。
  (112) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.1。強調の< >は補充。
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 第8節につづく。

1578/六月の軍事攻勢-R・パイプス著10章8節。

 前回につづく。
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 第8節・ケレンスキーの夏期軍事攻勢。
 ロシア軍は、6月16日、連合国からの銃砲と砲弾をたっぷりと装備して、二日間の砲弾攻撃を開始し、終わって砲弾づめをした。
 ロシアの攻撃の矛先は南部戦線で、ガリシアの首都のルヴォウ(Lwow)を狙っていた。
 コルニロフ将軍が指揮する第八軍は、目立った。
 第二次の攻撃作戦は、中部および北部前線に向けられた。
 政府が望んだように、この攻勢は愛国主義の明確な兆候を呼び起こした。
 ボルシェヴィキは、このような雰囲気の中であえて軍事行動に反対はしなかった。
 6月のソヴェト大会で、レーニンもトロツキーも、支持に対する反対動議を提案はしなかった。//
 オーストリアに対するロシアの作戦は、二日間よい展開を示た。だが、十分に義務を果たしたと思った諸兵団が攻撃命令に従うのを拒否したことで、やむなく停止した。
 彼らはすぐに、大急ぎで逃げ出した。
 7月6日、追い詰められるオーストリア軍を助けに何度か来ていたドイツ軍が、反攻をはじめた。 
 ドイツの軍人たちが見ていると、ロシア軍は略奪し狼狽を広げて、逃げていた。
 6月大攻勢は、旧ロシア軍の死直前の喘ぎだった。//
 旧ロシア軍は1917年7月以降は、重要な作戦を行わなかった。
 この辺りが、第一次大戦でのロシアの人的被害について述べる、適当な場所だろう。
 ロシアの戦争に関する統計は貧相なので、人的損失を正確に決定するのは困難だ。
 標準的な情報源によれば、ロシアの死傷者数は交戦国のうちそれが最大のものと同程度だった。
 例えば、クラットウェル(Cruttwell)は、ロシア人死者数170万人、負傷者数495万人と推算する。
 これらは、ドイツの被害を僅かに上回り、ロシアよりも16ヶ月間長く戦争を続けたイギリスやフランスとほぼ相応する。
 別の外国人は、死者数は250万人に達すると概算する。(114) 
 これらの数字は、多すぎると考えられてきた。
 公式のロシアの情報源によれば、戦場での死者数は、77万5400人だ。
 もっと最近のロシア人の概算では、いくぶんか多い数字になる。
 戦場での死者数は90万人、戦闘負傷による致死者数40万人、合計で死者は130万人。
 これは、フランス軍およびオーストリア軍の死者数に並び、ドイツ軍のそれよりも三分の一少ない。//
 ロシア軍は、はるかに超える最大数の戦争捕虜を敵国に手に残した。
 ドイツとオーストリアの戦時捕虜収容所(POW camps)には390万人のロシア人捕虜がいた。これは、イギリス、フランスおよびドイツ各軍の戦争捕虜の合計数(130万人)の3倍に達した。
 オーストリア=ハンガリー軍だけは220万人の捕虜を出し、接近した。
 戦闘に投じられた100人のロシア人ごとに、300人が降伏した。
 比較してみると、イギリス軍ではこの数字は20、フランス軍では24、ドイツ軍では26だった。
 言い換えると、ロシア人兵士たちは、西側の諸軍の兵士よりも12倍から15倍の高い確率で降伏した。//
 六月軍事攻勢の失敗は、分断された国家を彼と政府の周りに再結集させようとしたケレンスキーにとって、個人的な惨事だった。
 大きな賭けをして負けて、彼は狼狽し、立腹しやすくなり、極度に懐疑的になった。
 こうした気分の中で、彼は重大な過誤を冒して、敬愛される指導者から、左からも右からも軽蔑される生け贄に変わった。//
 六月軍事攻勢の失敗がもたらした士気低下と失望の雰囲気の中で、レーニンとその部下たちは、新しい蜂起へと冒険的企てをした。
  (114) C. R. M. F. Cruttwell, A History of the Great War, 1914-1918 (Oxford, 1936), p.630-2。Tsen-tral'noe Statistiki, Rossiia v Mirovoi Voine 1914-1918 goda (モスクワ, 1925), p.4n。
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 第9節につづく。

1580/七月蜂起へ(1)-R・パイプス著10章9節。

 前回につづく。
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 第9節・ボルシェヴィキによる新しい襲撃の用意。
 ロシア革命の事件のうち、1917年の七月暴動ほど、意図的に虚偽が語られているものはない。レーニンの最悪の大失敗だった、党をほとんど破滅させる原因となる誤った判断だった、ヒトラーによる1923年のビア・ホール蜂起と同等だ、という理由でだ。
 ボルシェヴィキは、責任を免れるために、七月蜂起は自然発生的示威行動でボルシェヴィキは平和的な方向に導こうとした、と異様に長々と偽りの説明をした。
 7月3-5日の行動は、予期される敵の反攻に備えてペテログラード守備軍団を前線に派遣するという政府の決定によって、突如として発生した。
 もともとは軍事上の配慮をして、この決定には、ボルシェヴィキの虚偽情報宣伝にきわめて汚染された首都の軍団を取り除くという意味もあった。
 この移動は、権力への次の企てのために使うつもりの実力部隊を奪われるおそれがあったので、ボルシェヴィキにとって、災厄を意味した。
 ボルシェヴィキは応えて、『ブルジョア』政府を攻撃し、『帝国主義的』戦争に抗議し、そして前線に行くのを拒否しようと強く訴える、猛烈な情報宣伝活動を守備軍兵団の間で行った。
 民主主義の伝統をもつならばどの国でも、戦時中にこのような反乱の呼びかけがあるのは耐え難いものだっただろう。//
 ボルシェヴィキへの支援の主要な基盤は、第一機関銃連隊にあり、ここに1万1340名の兵士とほぼ300名の将校がいた。後者の中には、多くの左翼知識人が含まれていた。
 この隊の多くの者は、能力欠如または不服従を理由として、元々の軍団から追い出されてきたよそ者だった。
 急進的な工場群近くのヴュイボルク地区の宿舎に住んでいる、内心では怒り狂っている大衆だった。
 ボルシェヴィキの軍事機構はここに、およそ30名から成る細胞を作った。それには若い将校も含まれていて、ボルシェヴィキは彼らに定期的に煽動技術の訓練をした。
 彼らは、アナーキストはもちろんだが、連隊の前で頻繁に演説をした。//
 連隊は6月20日、500人の機関銃兵団を前線に派遣せよとの指令を受けた。
 その兵団は翌日に会合をもち、『革命戦争』を闘うためだけに、つまり、『資本家たち』が除去された、ソヴェトが全権力をもつ政府を防衛するためだけに、前線へ行くという、-内容で判断するとボルシェヴィキに由来する-決議を採択した。
 決議が言うには、政府がその兵団を解散させようとすれば、連隊は抵抗することになる。
 連隊の別の諸兵団に対して、支援を要請する密使が派遣された。//
 この反乱で最大の役割を果たすボルシェヴィキは、慌てて行動をして愛国主義的反発を刺激してしまうのを懼れた。
 彼らには、ほんの僅かの刺激を与えても襲いかかってくる用意をしている、多くの敵がいた。
 シュリャプニコフ(Shliapnikov)によると、『生命の危険を冒させるにまで至らないと、ネフスキーに我々の支持者が出現することはなかっただろう』。
 そのゆえに、ボルシェヴィキの戦術は、大胆さに慎重さを結合するものでなければならなかった。彼らは、高いレベルの緊張を維持するために兵士や労働者のあいだで激しく煽動した。しかし、把握し切れずに反ボルシェヴィキの集団殺戮(pogrom)に終わるような衝動的な行動には反対した。
 <兵士プラウダ>は6月22日、党からの明確な指令がないままで集団示威活動をしないように兵士と労働者たちに訴えた。//
 『軍事機構は、公然と市街に出現することを呼びかけてはいない。
 かりに必要が生じれば、軍事機構は、党の指導組織-中央委員会およびペテログラード委員会-との合意の上で、公然と街頭へ出現することを呼びかけるだろう。』//
 ソヴェトへの言及は、なかった。
 この抑制した立場の呼びかけは、のちに共産党歴史家がボルシェヴィキ党には七月反乱についての責任がないとする証拠として引用するものだ。しかし、このことはいかなる種類の何をも、証明していない。たんに、党は事態をしっかりと掌握し続けたいと考えていた、ということを示すだけだ。//
 連隊での最初の不穏の波は、ボルシェヴィキが示威活動を思いとどまらせて落ち着いた。ソヴェトはボルシェヴィキの決議を是認するのを拒否した。
 連隊は、諦めて、500人の機関銃兵団を前線に派遣した。//
 このとき、ソヴェトも一緒になって政府は、クロンシュタットでも、暴乱の萌芽を抑圧した。
 ペテログラード近くのこの海軍基地の守備軍団は、アナキストの強い影響のもとにあった。しかし、その政治組織は、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)とS・G・ロシャル(Roshal)が率いるボルシェヴィキの手にあった。
 海兵たちには、不満があった。政府が、二月革命のあとで彼らが奪い取って司令本部にしていた元大臣のペーター・ドゥルノヴォ(Peter Durnovo)の邸宅から、アナキストたちを実力で追い出したからだ。
 その邸宅にいたアナキストたちはきわめて乱雑に振る舞ったので、6月19日に19の兵団が、邸宅を取り戻して占有者を拘束するために派遣された。
 そのアナキストたちに扇動されて、海兵たちは6月23日に、収監者を解放するためにペテログラードで行進しようとした。
 彼らもまた、ソヴェトとボルシェヴィキの協同の努力があって、抑制された。//
 しかし、温和しくしていたときでも、機関銃兵士たちは、絶え間なく続く扇動的情報宣伝の影響下にあった。
 ボルシェヴィキは全権力のソヴェトへの移行を主張しており、それにはソヴェトの再選挙、そしてソヴェトが排他的にボルシェヴィキの手に落ちることが続くことになっていた。
 ボルシェヴィキは、このことが直接に平和をもたらすことになると約束していた。
 彼らはまた、『ブルジョアジー』の『抹殺(annihilation)』を主張した。
 アナキストたちは兵士に対して、『ミリュコフ通り-ネフスキーとリテイニュイ-での集団殺害(pogrom)』を扇動した。//
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 第10節へとつづく。

1582/七月蜂起へ(2)①-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・蜂起の準備①。
 V・D・ボンシュ-ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)によると、6月29日の夕方に、フィンランドのヴュイボルク市(Vyborg)近くのネイヴォラ(Neivola)の彼の別宅に、予期せぬ訪問者が現れた。ペテログラードから、小列車に少しばかり乗ってやって来ていた。
 それは、レーニンだった。
 迂回した経路を-『秘めたクセで』-旅したあとだったが、レーニンは、とても疲れた、休みが欲しい、と説明した。
 これはきわめて異様な行動で、レーニンの性格から全く外れていた。
 彼には、休暇をとるという習慣がなかった。1917年から1918年にかけての冬のような、疲労を感じた方がよかった重要な政治的事件の真っ只中ですら、そうだった。 
 レーニンの説明は、この場合について、きわめて疑わしい。レーニンが欠席したいと思っていたとは想定し難い、ペテログラード組織の大会を、ボルシェヴィキは二日のちには開くことになっていたからだ。
 レーニンの『陰謀めいた』行動はまた、当惑させるものだ。なぜなら、彼には自分の動きを隠すもっともらしい必要がなかったからだ。
 ゆえに、レーニンがペテログラードから突然に姿を消した理由は、別のところに求めなければならない。
 政府がレーニンがドイツと金銭上の取引をしている十分な証拠資料を得て、彼をまさに逮捕しようとしている、という風聞を彼が知った、というのがほとんど確実だ。//
 フランス諜報機関のピエール・ローラン(Pierre Laurent)大佐は、6月21日に、敵国〔ドイツ〕との取引を示す、ペテログラードのボルシェヴィキとストックホルムのその仲間たちとの間の14回の傍受した通信内容を、ロシアの防諜機関に渡した。すぐに、さらに15回分が増えた。
 政府はのちに、レーニンの第一のストックホルム工作員、ガネツキーを捕まえたかったのでボルシェヴィキの逮捕を遅らせた、と述べた。ガネツキーはロシアに次に来るときに有罪証拠となる文書を携帯しているはずだった、と。
 しかし、蜂起後のケレンスキーの行動を見てみると、政府が遅らせた背後には、ソヴェトを怒らせることへの恐怖があったと疑うに足る、十分な根拠がある。//
 しかし、6月末日には、訴追するための証拠は当局に十分にあり、7月1日に当局は、一週間以内に28名のボルシェヴィキ指導者党員を逮捕するように命じた。//
 政府内部の誰かが、この危険についてレーニンに察知させた。
 最も疑わしいのは、ペテログラード司法部(Sudebnaia Palata、高等裁判所)の他ならぬ長官の、N・S・カリンスキー(Karinskii)だ。ボンシュ-ブリュヴィッチによると、このカリンスキーは、レーニンはドイツ工作員だとして有罪視することを司法省が公的に発表する予定だと、7月4日にボルシェヴィキに漏らすつもりだった。
 レーニンもまた、6月29日に諜報機関員がスメンソンの尾行を始めたことを知らされて、警戒しただろう。
 何も他には、レーニンがペテログラードから突然に姿を消したことを説明していない。ロシア警察の手の届かないフィンランドに彼が逃亡したことについても、だ。(*)//
 レーニンは、6月29日からボルシェヴィキ蜂起が進行していた7月4日の早朝の時間まで、フィンランドに隠れた。
 七月の冒険(escapade)の準備へのレーニンの役割を、確定することはできない。
 しかし、現場に存在していなかったことは、彼が無関係だったと不可避的に意味させるわけではない。
 1917年の秋、レーニンはまたフィンランドに隠れていたが、なおも十月のクーへと導く諸決定に積極的な役割を果たした。//
 七月作戦は、政府が機関銃連隊を解散してその兵員を前線へと分散させようとしていることを、この連隊が知って、始まった。(**)
 ソヴェトは6月30日、軍事専門家と問題を議論するために連隊の代表者たちを招いた。
 その翌日、連隊の『活動家たち』は、自分たちの会合をもった。
 隊員たちの雰囲気は緊張していて、強熱的な焦燥の中にあった。//
 ボルシェヴィキは7月2日、人民会館(Narodnyi Dom)で、連隊との協同集会を組織した。
 外部の発言者は全てボルシェヴィキで、その中に、トロツキーとルナシャルスキー(Lunacharskii)がいた。
 ジノヴィエフとカーメネフは出席する予定だったが、おそらくはレーニンのように逮捕を怖れて、姿を見せなかった。
 トロツキーは5000人以上の聴衆を前に演説して、六月軍事攻勢について政府をなじり、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 彼は連隊員に対して、多くの言葉を使って政府への服従を拒否するようにとは言わなかった。
 しかし、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は会合を開いて、つぎの趣旨の決議を採択した。その決議は『ニコライ、血の皇帝』の歩みに従うケレンスキーを非難し、全ての権力をソヴェトへと要求した。//
 連隊員たちは兵舎へ戻ったが、興奮して眠れなかった。
 彼らは徹夜で事態について議論し、その結果として、暴力行動を要求する声が挙がってきた。スローガンの一つは、『<ブルジョア>をやっつけろ(beat the burzhui)』だった。//
 集団暴行(pogrom)が行われていた。
 クシェシンスカヤ邸に集合したボルシェヴィキたちは、どう反応すればよいか分からなかった。加わるか、やめさせようとするか。
 ある者は、兵団は後退できないから、我々もあえて行動すべきだと主張し、別の者は、動くのは早すぎると考えた。
 そしてこのあと、民衆的な激しい怒りの波に乗って権力に昇るという願望と、自然発生的な暴力はナショナリストの反応を刺激してその最大の犠牲者は自分たちになるだろうという恐怖の間で、ボルシェヴィキたちは引き裂かれた。//
 ボルシェヴィキと機関銃連隊の連隊委員会は、さらに7月3日に、会議を開いた。その雰囲気は、農民反乱の前の村落集会と同じだった。
 主な発言者はアナキストで、中で最も著名なのは、『シャツを開けて胸を見せ、巻き毛を両側に飛ばしていた』I・S・ブレイクマン(Bleikhman)だった。彼は兵士たちに、武器を持って街頭に出て、武装蜂起へと進むことを、呼びかけた。
 アナキストたちは、こうした行動の客観的な目的については語らなかった。『街頭が自ら明らかにするだろう』。
 アナキストたちのあとのボルシェヴィキたちは、その問題を論じなかった。彼らはただ、行動する前にボルシェヴィキ軍事機構の指令が必要だと主張した。//
 しかし、連隊員たちは、前線での務めをやめると決意して、またアナキストに激高へと駆り立てられて、待とうとしなかった。
 彼らは満場一致で、完全武装をして路上に出動することを表決した。
 臨時革命委員会が選出されて示威活動を組織することになった。この委員会の長になったのは、ボルシェヴィキのA・Ia・セマシュコ(Semashko)中尉だった。
 以上は、午後2時と3時の間に起きた。//
 セマシュコと、何人かは軍事機構に属する仲間たちは、政府が抑圧行動をとっているかどうかを知るために、かつ自動車を取り上げるために、偵察兵を送り出した。
 彼らはまた、工場と兵舎およびクロンシュタットへ、使者を派遣した。//
 使者たちは、異なる対応を受けた。守備軍団の若干の兵団は、参加することに合意した。主としては、第一、第三、第一七六および第一八〇歩兵連隊だった。
 その他の兵団は、拒否した。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、セメノフスキー(Semenovskii)およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の守備兵団は、『中立』を宣言した。
 機関銃連隊自体の中では、多くの隊員が、身体に暴力被害を受ける危険はあったが、線上で待ち構えることに投票した。
 結局、連隊の半分だけが、およそ5000人の連隊員が、蜂起に参加した。
 工場労働者の多くもまた、参加するのを拒んだ。//
  ------
  (*) レーニンは5月半ばにはすでに、スットックホルムとの連絡が政府によって傍受されていることに気づいていた。レーニンは5月の16日付の<プラウダ>紙上で、『ロシア・スウェーデン国境を越えた』けれども、全ての手紙や電信類は掴みそこねた『カデットの下僕』を侮蔑した。Lenin, PSS, XXXII, p.103-4。参照、Zinoviev, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 8-9 (1927), p.57。
  (**) 7月のこの連隊の役割に関する最良の叙述は、資料庫文書にもとづく、P. M. Stulov in : KL = Krasnaia letopis', No. 3-36 (1930), p.64~p.125 だ。参照、レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 17。
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 ②へとつづく。 

1583/七月蜂起へ(2)②-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備②。
 適切な資料が不足しているため、こうした進展に関するボルシェヴィキの態度を決定的に語るのは困難だ。
 ボルシェヴィキ党の第六回党大会への報告として、スターリンは。7月3日の午後4時に中央委員会が武装の集団示威活動に反対する立場をとった、と主張した。
 トロツキーは、スターリンの主張を確認する。(144)
 指導するレーニンがいない中で、反乱が彼らのスローガンのもとでだが彼らの誘導なくして災難に終わってしまうのを怖れて、ボルシェヴィキの指導者たちが最初から反対した、とは想定し難い。
 しかし、この日に関する中央委員会の議事要領が利用できるならば、この判断についてもっと自信を感じるだろう。//
 提案された集団示威活動について知るや、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕はただちに、兵団に対してやめるように訴えた。
 イスパルコムには、政府を打倒して、ボルシェヴィキがその手にしようと執拗に押し進んでいる権力を獲得する欲求はなかった。//
 その日の午後、クロンシュタット・ソヴェト執行委員会の前に、機関銃連隊の二人のアナキスト代議員がやって来た。粗雑で、教養が乏しいように見えた。
 彼らは、連隊は他の軍団や工場労働者と一緒に路上に出て権力のソヴェトへの移行を要求する、と伝えた。
 彼らには、武装した支援が必要だった。
 執行委員会は、海兵はペテログラード・イスパルコムが承認しない示威活動をすることはできない、と回答した。
 そのときに使者たちは、海兵たちに直接に訴える、と言った。
 言葉通りに進み、アナキストが政府を非難する演説を聞くために8000人から10000人の海兵が集まった。
 海兵たちには、ペテログラードへと出立する心づもりがあった。
 目的は不明瞭だとしても、両側にある何かを略奪してブルジョアをやっつけることは、彼らの気持ちから離れているはずはなかった。
 ラシャルとラスコルニコフは彼らを抑えようとして、しばらくの間、ボルシェヴィキの司令部に指令を求めて電話した。
 ラスコルニコフは、司令部と通信したあとで、海兵たちに、ボルシェヴィキ党は武装示威活動に参加することを決定した、と伝えた。そのときに、集まった海兵たちは、満場一致でそれに加わることを表決した。(*)//
 機関銃連隊からの代議員は、プティロフの労働者の前にも姿を現した。その労働者の多くから、彼らは自分たちの信条への支持をとりつけた。//
 午後7時頃、集団示威活動に賛成表決した機関銃連隊の兵団は、兵舎に集合した。
 先行分団は、機関銃を山積みした略奪車に乗って、すでにペテログラードの中心部へと分かれて進んでいた。
 午後8時、兵士たちはトロイツキー橋を行進し、そこで他の連隊の反乱兵団が加わった。
 午後10時、反乱者たちが橋を縦断した。
 ナボコフ(Nabokov)は、このときに彼らを見ていた。『我々が二月の日々から記憶しているのと同じ、鈍くてうつろな、野獣のような顔をしていた。』
 川を渡り終わって、兵団は二つの軍団に分かれた。うち一つはソヴェト所在地であるタウリダへ、もう一つは臨時政府所在地であるマリンスキーへと向かった。
 たいていは空中への、的がはっきりしない発砲がいくつかあった。ほんの少しの略奪も。//
 ボルシェヴィキ最高司令部-ジノヴィエフ、カーメネフおよびトロツキー-は、7月3日の正午頃に、党をこの反乱に参加させることを決定したと思われる。すなわちこのとき、機関銃連隊の兵団は集団示威活動をする決定を採択していた。
 このとき、上の三人は、タウリダ宮にいた。
 彼らの計画は、ソヴェトの労働者部会(Section)の支配権を握り、その名前で権力のソヴェトへの移行を宣言すること、そして兵士部会や幹部会とともにイスパルコムに対し、達成した事実を呈示すること、だった。
 その口実は、抗しがたい大衆の圧力にある、とされた。//
 この目的のためにボルシェヴィキは、その日おそくに、労働者部会での小蜂起を企んだ。
 ここではボルシェヴィキは、兵士部会と同じく、少数派だった。
 〔労働者部会の〕ボルシェヴィキ団はイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に、午後3時に労働者部会の緊急集会を開催するというきわめて簡単な告知をすることを要請した。
 このことですぐに、この部会のエスエルとメンシェヴィキの党員たちが接触できた。
 しかしボルシェヴィキは、自分たち仲間が一団となって出席することで一時的な多数派となる、と確信していた。
 ジノヴィエフは集会を開いて、ソヴェトは政府の全権力を勝ち取ると主張した。
 出席していたメンシェヴィキとエスエル代議員はジノヴィエフに反対し、ボルシェヴィキに機関銃連隊を止めるのを助けるよう求めた。
 ボルシェヴィキがそれを拒んだとき、メンシェヴィキとエスエルは退出して、結果として彼らの好敵に全権を与えた。
 ボルシェヴィキは労働者部会の事務局(Bureau)を選出し、これは、カーメネフが提示した決定をしかるべく裁可した。その最初の文章は、つぎのとおりだった。//
 『権威の危機にかんがみ、労働者部会は、労働者・兵士および農民の代議員から成る全ロシア・ソヴェト大会は権力をその手中に収めると強く主張することが必要だと考える』。
 もちろん、このような『全ロシア大会』は、紙の上にすら、存在していない。
 言いたいことは明らかだ。すなわち、臨時政府は、打倒されなければならない。//
 これを成し遂げて、ボルシェヴィキたちは中央委員会の会議のために、クシェシンスカヤ邸へと向かった。
 午後10時、会議が始まろうとしたときに、一団の反乱兵士たちが近寄ってきた。
 共産党の資料によると、ネヴスキーとポドヴォイスキーがバルコニーから、反乱兵士は兵舎に帰るように強く迫り、それに対して兵士たちが不満の叫びを上げた。(**) //
 ボルシェヴィキは、まだ揺れ動いていた。
 彼らには、動きたい衝動があった。しかし、前線兵士たちのクーに対する反応を心配した。前線兵士たちの中で熱心に情報宣伝を行ったけれども、ボルシェヴィキは何とか、とくにラトヴィア・ライフル部隊といった若干の連隊で勝利したにすぎなかったからだ。
 戦闘部隊の大半は、臨時政府に忠実なままだった。
 ペテログラード守備軍団の雰囲気ですら、確実なものでは全くなかった。
 なおも混乱は増し、プティロフの数千人の労働者たちがタウリダの前に集まっていると妻や子どもたちから伝えられて、ボルシェヴィキの躊躇する心は負けた。
 午後11時40分、この頃までに反乱兵士たちはまでには兵舎に戻り、静穏が街に帰ってきていた。そのとき、ボルシェヴィキ中央委員会は、臨時政府の武力による打倒を呼びかける、つぎの決議を採択した。//
 『現にペテログラードで起きている事態を考慮して、中央委員会会合はつぎのように結論する。
 現在の権威の危機は、革命的プロレタリアートと守備軍団がただちに固くかつ明白に労働者・兵士および農民の代議員から成るソヴェトへの権力の移行に賛成すると宣言しなければ、人民の利益において解消されることはないだろう。
 この目的のために、労働者と兵士はただちに路上に出て、その意思を表明すべく示威行進を行うよう求める』。//
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、…。
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  (144) レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 20。
  (*) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.60。ロシャルは、1917年12月に反共産主義者により射殺された。ラスコルニコフは、1910年から党員、1917年にクロンシュタット・ソヴェトの副議長、1920年代と1930年代に国外のさまざまのソヴィエトの外交職にあった。ラスコルニコフは1939年にモスクワへと召還されたが帰国するのを拒み、公開の書簡でスターリンを厳しく非難した。そのあと彼は、『人民の敵』だと宣告された。その年のあと、彼はきわめて疑わしい状況のもとで南フランスで死んだ。
  (**) Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.11-13。Ia. M. Sverdlov, in : ISSSR, No. 2 (1957), p.126。七月叛乱を調査するために任命された政府委員会の報告書は、ボルシェヴィキはより攻撃的に演説したと叙述している(p.95-96)。この報告書は、以下として再発行された。D. A. Chugaev, ed., Revoliutsionoe dvizhenie v Rossi v iiule g. (モスクワ, 1959)。
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 ③につづく。

1585/七月蜂起へ(2)③-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備③。
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、その戦術は、いつもと同様に、用心深く、面目を維持しつつ退却する余地を残していた。
 この事件の参加者だったミハイル・カリーニン(Mikhail Kalinin)は、かくして、党の立場をつぎのように叙述する。//
 『責任ある党活動家たちは、微妙な問題に直面した。
 「これはいったい何か-示威活動か、それともそれ以上の何かなのか?
 ひょっとすると、プロレタリア革命の始まり、権力奪取の始まりなのか?」
 これがこのとき、重要な問題として現われた。そして、彼らは(レーニンの存在を)切望した。
 レーニンならば、答えるだろう。「我々は何が起きているか、分かるだろう。だが今は何も言うことができない!」<中略>
 これはじつに、革命家の力、その数、その質、そしてその行動力を再吟味することだった。<中略>
 再吟味すれば、重大な結果に遭遇することがありえた。
 全ては、力の相関関係に、そして好機が発生する多さにかかっていた。
 いずれにせよ、不愉快な驚きを防ぐ保障のためであるかのごとく、司令官の命令は、「我々は、分かるだろう」だった。
 これは決して、力の相関関係が有利であることが判明すれば連隊を戦闘へと投入する可能性も、あるいは他方で、可能な最小限の損失で退却する可能性も、いずれも排除するものではなかった。七月に現実に起きたのは、後者だった。』 (*)//
 中央委員会は、翌日の7月4日までの予定で、ポドヴォイスキーが長である軍事機構に、作戦を指揮する責任を委ねた。
 ポドヴォイスキーとその同僚たちは、親ボルシェヴィキの軍団や工場と連絡を取り合い、行動を留保するように助言したり行進の順序を教えたりしながら、その夜を過ごした。
 クロンシュタットは、クシェシンスカヤ邸のボルシェヴィキ最高司令部から、兵団出動の要請を受けた。
 武装の集団示威活動は、午前10時に開始するものとされた。//
 7月4日、<プラウダ>は、第一面に広い白紙面をつけたままで発行された。それは、前夜にはあったカーメネフとジノヴィエフの抑制を求める論文を削除したことの、見える証拠だった。
 この判断にレーニンがどういう役割を果たしたかは、あったとしても、確定することはできない。
 ボルシェヴィキの歴史家は、レーニンは仲間たちが何をしているかを知らないままでフィンランドの片田舎の平和と静穏を味わっていた、と執拗に主張する。
 レーニンがボルシェヴィキの行動を伝言配達者(courier)にょって初めて知ったのは、7月4日の午前6時だった、と言われている。その後で彼は、すぐに首都へ出立して、クルプスカヤやボンシュ-ブリュヴィッチと一緒になった、とされる。
 このような公式見解は、レーニンの支持者は彼の個人的な是認なくしていかなる行動も決して企てなかったことを考えると、信じ難いように思える。そんな莫大な危険のある冒険をするような行動では、疑いなく、なかったのだ。
 スハロフ(Sukhanov)によって(後述参照)、レーニンは叛乱の前の夜のあいだ、当該主題に関して<プラウダ>用の論文を書いていた、ということも知られている。
 当該主題、それはほとんど間違いなく『全ての権力をソヴェトへ』で、その論文は、新聞<プラウダ>が7月5日に掲載した。(158)//
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  (*) M. Kalinin, in : Krasnaia gazeta, 1917年7月16日, p. 2。
 レーニンは現場にいなかったので、カリーニンは合理的に推測して、レーニンが次の日に語ったことを参照している。つぎの同様の評価を参照。Raskolnikov, in :PR= Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.59。
 ボルシェヴィキの戦術は、メンシェヴィキに漏れていなかったわけではなかった。ツェレテリ(Tsereteli)は、7月3日の午後にスターリンがイスパルコムに姿を見せて、ボルシェヴィキは労働者と兵士が街頭に出るのを止めるために可能なことは全てすると伝えたあとで事件が起きた、と叙述する。
 チヘイゼ(Chkheise)は微笑みながらツェレテリに対して言った、『今や状況は明らかだ』。ツェレテリは続ける、『私は彼に尋ねた。状況が明らかだというのはどういう意味か?』チヘイゼは答える、『平和的な民衆には、その平和的な意図を述べる原案など必要はない、という意味さ。我々は、指導者のいないままに大衆が放っておかれることはありえない、と言って、ボルシェヴィキが加わるつもりのいわゆる自然発生的な示威活動に関して議論しなければならないだろう、と思う』。
 Tsereteli, Vospominaniia, Ⅰ, p.267。
  (158) Lenin, PSS, XXXII, p.408-9。
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 第11節につづく。

1589/七月三日-五日の事件①-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事①。 
 臨時政府は、ボルシェヴィキがしようとしていることを7月2日に知った。
 7月3日に、ドヴィンスク(Dvinsk)の第五軍の司令部と連絡をとって、兵団出動を求めた。
 誰もが、進んで何かしようとは思わなかった。少なくともその理由の一つは、その承認が必要なソヴェトの社会主義者たちが、実力行使に訴える権限を与えるのを躊躇したからだ。
 7月4日の早い時間に、ペテログラード軍事地区の新しい司令官、P・A・ポロフツェフは、武装示威活動を禁止し、守備兵団に対して秩序維持を助けるよう『示唆する』声明を発表した。
 軍事参謀部は、街頭騒擾を抑圧するために使える軍力を調べて、ほとんどが存在していないことに気づいた。いたのは、プレオブランジェスキー守備連隊の100人、ウラジミール兵学校からの一隊、2000人のコサック兵、50人の傷病兵だった。
 守備軍団の残りは、反乱兵士たちとの対立に巻き込まれるようになるのを望まなかった。//
 7月4日は、平穏のうちに始まった。誰もいない街頭の不思議な静けさが、何かが始まるのを暗示しているようだった。
 午前11時、車に乗った赤衛軍と一緒に、機関銃連隊の兵士たちが、市の要所を占拠した。
 同時に、クロンシュタットからきた5000人から6000人の海兵が、ペテログラードに上陸した。
 彼らの指揮官のラスコルニコフはのちに、政府が地上の砲台から彼らの一つふたつの小型船を射撃して阻止しなかったことに驚いた、と語った。
 海兵たちは、ニコラエフスキー橋近くの上陸埠頭から直接にタウリダへと進むよう、命令を受けていた。
 しかし、彼らが隊列を整えたとき、ボルシェヴィキの使者が、命令は変更された、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕へと行くように、と伝えた。
 そこにいたエスエルは抗議したが、無視された。エスエルのマリア・スピリドノワは海兵たちに演説すべく来ていたが、聴衆はいないままで放っておかれた。
 軍楽隊を先頭にし、『全権力をソヴェトへ』と書く旗を掲げながら、長い一団の縦列になって、海兵たちは、ヴァシリエフ島と株式交換所橋を縦断し、アレクサンダー広場に着いた。そこから、ボルシェヴィキの司令部へと、進軍し続けた。
 そこで彼らは、バルコニーから、ヤコフ・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)、ポドヴォイスキー(Podvoiskii)およびM・ラシェヴィッチ(Lashevich)の挨拶を受けた。
 クシェシンスキー邸にわずか前に到着していたレーニンは、言葉を発することについてはっきりせずにためらいを示した。
 レーニンは最初は、体調が悪いという理由で海兵たちに語るのを拒んでいたが、最後には屈して、若干の短い言葉を述べた。
 海兵たちを歓迎して、レーニンはつぎのように語った。//
 『起きていることを見て、嬉しい。二ヶ月前に打ち上げた全権力の労働者、兵士を代表するソヴェトへという主張が今や、理論的スローガンから現実へと転化しているのが分かって、嬉しい』。(163)//
 このような注意深い言葉ですら、誰の心にも、ボルシェヴィキがクー・デタを実行していることを疑う余地を残さなかっただろう。
 これは、レーニンが10月26日までに公衆の前に姿を見せた、最後のことになった。//
 海兵たちは、タウリダへと向かった。
 彼らが出立したあとでボルシェヴィキ司令部内部で起きたことについては、ルナシャルスキーに教えられたスハノフの文章によって分かる。//
 『7月3日-4日の夜、「平和的な集団示威行進」を呼びかける宣言書を<プラウダ>に送る一方で、レーニンは、心のうちにクー・デタの計画を具体化していた。
 政治的権力-実際にはこれはボルシェヴィキ中央委員会によって掌握される-は、傑出しかつ著名なボルシェヴィキ党員で構成される「ソヴェト」省によって公式に具象化される。
 この点で、三人の大臣が指名されていた。レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキー。
 この政府は、ただちに講和と土地に関する布令を発して、この方法で首都と地方の数百万人の共感を獲得し、それでもって政府の権威を強化する、ということとされていてた。
 レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキーは、クロンシュタットの海兵たちがクシェシンスキー邸を後にしてタウリダ宮へ向かったあとで、このような合意に達した。<中略>
 革命は、つぎのようにして、達成されるものとされた。
 クラスノエ・セロ(Krasnoe Selo)からの第一七六連隊-ダン(Dan)がタウリダを守護するために任されたのとまさに同じ連隊-が、〔ソヴェトの〕中央執行委員会メンバーを拘束する。
 まさにそのときに、レーニンが行動の現場に到着して、新政府の設立を宣言する。』(*)//
 海兵たちは、ラスコルニコフに率いられて、ネフスキー通りを行進した。
 彼らの隊列には、小さな分団と赤衛兵が配置されていた。
 先頭と最後尾には、武装した車が進んだ。
 男たちは、ボルシェヴィキ中央委員会が用意したスローガンを書いた旗を掲げた。
 ペテログラードの『ブルジョア』の中心部、リテイニュイに曲がって入ったとき、銃撃音が響いた。
 群衆は恐怖に囚われて、咄嗟に離れた。銃火は広く渡り、あらゆる方向に撒き打ちされた。
 一人の目撃者が窓から写真を撮り、ロシア革命の暴力に関する数少ない写真記録の一つを生んだ(図版第53〔秋月注記/本文中の写真-この書物の表紙に使われているもの〕)。
 銃撃が終わったとき、示威行進者たちは再び集まって、タウリダへの行進を再開した。
 彼らはもう秩序だった編成を維持しておらず、すぐに使えるように銃砲を持っていた。
 午後4時頃に、ソヴェト〔所在地〕に着いた。そこで、機関銃連隊の兵士たちから、大きな歓声で迎えられた。//
 ボルシェヴィキはまた、プティロフ〔企業名〕の労働者の大群団をタウリダ宮へと送り込んだ-その推算数には変わりがあり、1万1000人から2万5000人になる。(+)
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  (163) Chuganov, Revoliutionnoe dvizhenie v iiue, p.96。参照、Lenin, PSS, XXXIV, p.23-24、Flerovskii, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 7-54 (1926), p.77。
  (*) Sukhalov, Zapiski, IV, p.511-2。スハノフがこうした記憶を1920年に公刊したあとで、トロツキーは強く否定し、トロツキーに突つかれてルナシャルスキーもそうした。ルナシャルスキーはスハノフ宛ての手紙で、スハノフの記述には全く根拠がないと非難し、公刊すれば『歴史家としての不愉快な結果』になるだろうとスハノフを警告した(同上、p.514n.-p.515n.)。しかし、スハノフは撤回するのを拒否し、自分は正確にルナシャルスキーが語ったことを回想した、と主張した。
 だが、その同じ年にトロツキー自身が、あるフランスの共産主義者の出版物の中で、七月事件は権力奪取を-つまりボルシェヴィキ政府の確立を-意図していた、ということを認めた。
 『我々は、一瞬たりとも、七月の日々は勝利に至る前奏だということを疑わなかった』。Bulletin Communiste (Paris), No. 10 (1920年5月20日)。これは、以下で引用されている。Milorad M. Drachkovitch & Branko Lazitch, レーニンとコミンテルン, Ⅰ (Stanford, 1972), p.95。
  (+) Nikitin, Rokovye gody, p.133 は少ない数を、Istoriia Putilovskovo Zavoda 1801-1917 (モスクワ, 1961) は多い数を示す。トロツキーの8万という推算(ロシア革命の歴史 Ⅱ, p.29)は、全くの空想だ(fantasy)。
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 本来の改行箇所でないが、ここで区切る。②へとつづく。

1590/七月三日-五日の事件②-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事②。
 他の工場や軍事分団から集まって群衆は膨れ上がり、その数は数万人になった。(+)
 ミリュコフ(Miliukov)は、タウリダ宮の正面で繰り広げられた情景を-自然発生的だという見かけにもかかわらず、群衆の中に分散していたボルシェヴィキ党員によって緊密に指揮されていた情景を-、つぎのように叙述する。//
 『タウリダ宮は、言葉の完全な意味での、闘争の焦点(the focus)になった。
 全日にわたって、武装した軍団がその周辺に集まり、ソヴェトが最後には権力を奪えと主張した。<中略>
 (午後4時頃、)クロンシュタットの海兵たちが到着し、建物の中に入ろうとした。
 彼らは司法大臣のペレヴェルツェフ(Pereverzev)に対して、ジェレツニャコフ(Zhelezniakov)の海兵やアナキストがドゥルノヴォ(Durnovo)邸に拘禁されている理由を説明せよと要求した。
 ツェレテリが出てきて、反抗的な群衆に、ペレヴェルツェフは建物内にいない、すでに辞任してもはや大臣ではない、と告げた。
 前者は本当だったが、後者はそうでなかった。
 直接に釈明されることがなかったので、群衆たちはしばらくは、どうすればよいか分からなかった。
 しかし、ついで、大臣たちはお互いに連帯して責任を負っている、との叫び声が鳴り響いた。
 ツェレテリを拘束しようとする企てがなされたが、彼は宮の中へと何とか逃れた。
 チェルノフ(Chernov)が宮から姿を現わして、群衆を静かにさせた。
 群衆はすぐに彼に突進し、武器を持っていないかと探した。
 チェルノフは、こんな状態では話せない、と宣告した。
 群衆は、沈黙した。
 チェルノフは、社会主義者大臣たちの仕事ぶりについて、一般的にかつ、とくに農務大臣である彼自身について、長い演説を始めた。
 カデット〔立憲民主党〕の大臣に比べれば、まだ安全なこと(bon voyage)だった。
 群衆たちは反応して叫んだ。
 「なぜ以前に、そう言わなかったのか?
 土地は労働者に、権力はソヴェトに移されていると、すぐに宣言せよ!」
 一人の背の高い労働者が拳を大臣の面前につき突けて、怒って叫んだ。
 「おい、おまえたちにくれたら、権力を奪え!」
 群衆の中の数人がチェルノフを捕まえて、車の方向に引き摺った。他の者たちは一方で、彼を宮の方に引っ張った。
 大臣のコートは引き千切られ、クロンシュタットの海兵たちはその身体を車の中に押し込んで、ソヴェトが権力を奪うまでは解放しないと宣言した。
 何人かの労働者たちがソヴェトが会議をしている部屋に突入して、叫んだ。
 「同志たちよ、チェルノフをやっつけているぞ!」
 混乱の真っ只中で、チハイゼはチェルノフを自由にさせるべく、カーメネフ、ステクロフ(Steklov)およびマルトフを指名した。
 しかし、チェルノフはトロツキーによって解放された。トロツキーは、その場に着いたばかりだった。
 クロンシュタットの海兵たちはトロツキーに従い、彼はチェルノフを連れて会議室に戻った。』(*) //
 そうした間に、レーニンは、目立つことなくタウリダに向かっていた。そこで、現場の事態に関与することなく、事態の展開に依拠しながら、権力を握り取るか、それとも示威活動は民衆の怒りが自然発生的に暴発したものだと宣告するか、を考えた。そして、その情景から姿を消した。
 ラスコルニコフは、レーニンは満足しているようだと思った。(165) //
 全ての行動がタウリダ宮で起こったわけではなかった。
 群衆がソヴェト所在地に集まっている間に、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構が指令した武装分遣隊員が、戦略的な諸地点を占拠した。
 ボルシェヴィキが勝利する見込みは、ペトロ・パヴロ要塞の守備軍団、8000人余りがボルシェヴィキの側へと動いたことで、かなり良くなった。
 武装車のボルシェヴィキ分団は、いくつかの反ボルシェヴィキ新聞社から機械装備を取り上げた。
 アナキストたちは、新聞社の中で最も自由な< Novoe vremia〔新時代〕>を掌握した。
 他の分遣隊は、フィンランド駅とニコライ駅で警護任務を剥奪し、ネフスキー通りとその両側の通りに機関銃の砲台を設置した。この後者は、ペテログラード軍事地区の参謀がタウリダ宮から出てくるのを阻止する効果をもった。
 ある武装分団は、レーニンのドイツとの取引に関する資料が保存されている防諜機関の建物を攻撃した。
 抵抗には遭わなかった。
 リベラルな新聞社の判断によると、その日の推移の結果、ペテログラードはボルシェヴィキの手のうちに渡された。(167)//
 かくして段階は、正規の奪取へと設定された。すなわち、表面的にはソヴェトの名前での、現実にはボルシェヴィキのための、権力の奪取。
 この最高の事態を用意して、ボルシェヴィキは、54の工場から厳選した代表団をすでに編成していた。彼らは、ソヴェトが権力を掌握することを要求する請願書を持って、タウリダ宮で呼びかけることになっていた。
 この者たちは、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕が占有している部屋に強引に入っていった。
 そのうち数人が、話すのを許された。
 マルトフとスピリドノワ(Spiridonova)は、彼らの要求を支持した。マルトフは、これは歴史の意思だ、ときっぱりと述べた。
 この時点で、反乱者たちが身体を張って埋め尽くして、ソヴェト所在地を奪ってしまうことになるようにも思える。
 ソヴェトには、このような脅威に対する何の防御もなかった。ソヴェトを防衛しているのは、全体で6人の護衛だった。//
 だが、それでもなお、ボルシェヴィキは最後の一撃(coup de grace)を放つことに失敗した。
 これは組織が貧弱だったからか、決意のなさによるのか、あるいはこの双方のゆえか、を語るのは不可能だ。
 ニキーチン(Nikitin)は、つぎのように述べて、ボルシェヴィキによる権力奪取の失敗を、拙劣な計画によるとして非難した。//
 『蜂起は、即興的に行なわれた。敵方の全ての行動は、それらが準備されていなかったことを示した。
 連隊や大きな分団は、主要地域に入っても、自分たちの直接の使命を知っていなかった。
 彼らは、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕のバルコニーから、「タウリダ宮〔ソヴェト本部〕へ行け、権力を奪え」と告げられた。
 彼らが行ってつぎの命令を待っている間に、それぞれが混じり合ってしまった。
 対照的に、トラックや武装車に乗った10人から15人の分隊や車の小分遣隊は、完全に自由な行動をした。全市にわたって大きな顔をした。
 しかし彼らも、鉄道駅、電話局、食糧貯蔵所、兵器庫という重要拠点や広く開いている全ての入り口を奪い取れという具体的な命令を受け取らなかった。
 街路は血で染まった、しかし指導者がいなかった……。』(**)//
 しかし、最終的な分析をするならば、ボルシェヴィキの失敗は、不適切な戦力や拙劣な計画以外の要因で惹起されたと思われる。
 今日の研究者たちは、市〔ペテログラード〕は、求めているボルシェヴィキのものだった、ということで合意している。
 上のような要因ではなくて、最高司令官の側にある、最後の瞬間の精神力(nerve)の失敗が原因だった。
 レーニンは、たんに決心できなかったのだ。
 この数日間をレーニンの側にいて過ごしたジノヴィエフによると、今は『やる(try)』ときなのか、そのときではないのか、レーニンは声を出して迷い続けていた。そして、そのときではない、と決めた。
 何らかの理由で、レーニンは、飛躍をする勇気を呼び覚ますことができなかった。
 ドイツとの取引が政府によって暴露されるということが引っ掛かっていて、その暗雲が彼を思いとどまらせた可能性がある。
 のちに二人ともに収監されていたとき、レーニンへの隠れた批判をしていたラスコルニコフに、トロツキーは言った。
 『おそらく、我々は過ちをおかした。
 我々は、権力を奪うべきだったのだ。』//
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  (+) ボルシェヴィキはその数を、50万人またはそれ以上だと推算する。V. Vladimir in : PR =Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.40。これはひどく水増しされている。示威活動に参加した群衆は、おそらくこの数の十分の一を超えなかった。参加したと知られる守備軍の一隊による分析が示しているのは、兵団のせいぜい15-20%が関与し、またはたぶんそれよりも少なそうだ、ということだ。B. I. Kochakov, in : Uchenye Zapski Leningradskovo Gosudarstvennogo Universiteta, No. 205 (1956), p.65-66、G. L. Sobolev, in : IZ, No. 88 (1971), p.77、を見よ。
 示威活動者の数をきわめて誇張するのは、そのときものちもボルシェヴィキの政策で、その目的は、自分たちは『大衆』を指揮しているのではなく彼らの圧力に対応しているのだ、という主張を正当化することにあった。目撃者による証拠資料である、以下を見よ。A. Sobolev, in : Rec,' No. 155-3-897 (1917年7月5日), p.1。
  (*) Miliukov, Istoriia Vtoroi Russkoi Revoliutsii, Ⅰ, Pt. 1 (ソフィア, 1921), p.243-4。チェルノフ事件に関する別の説明は、Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5-17 (1923), p.34-35、Raskolnikov, 同上, p.69-71 にある。
  (165) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5/17 (1923), p.71、No. 8-9/67-68 (1927), p.62。
  (167) NV= Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) Nikitin, Rokovye gody, p.148。ネヴスキーは、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は、敗北する可能性を予期して、慎重にその戦力の半分を残したままだった、と語る。Krasnoarmeets, No. 10-15 (1919.10), p.40。
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 第12節へとつづく。

1593/犯罪逃亡者レーニン①-R・パイプス著10章12節。

 前回第11節終了からのつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁①。
 こうした事態が推移していたとき、ケレンスキーは戦線にいた。
 恐れおののいた大臣たちは、何もしなかった。
 タウリダ宮の前の数千人の男たちの叫び声、見知らぬ目的地へと走る兵士や海兵を乗せた車の光景、守備軍団が放棄したとの知識、これらは、大臣たちを絶望感で充たした。
 ペレヴェルツェフによると、政府は、実際には捕らえられていた。//
 『私は、資料文書を公表する前に、7月4日蜂起の指導者たちを逮捕することはしなかった。彼らの決意が彼らの犯罪の活力の十分の一でもあれば、そのときに彼らはすでに実際にはタウリダ宮の臨時政府の一部を征圧して、何の危険を冒すことなくルヴォフ公、私自身そしてケレンスキーの議員団を拘束することができた、という理由でだけだ。』//
 ペレヴェルツェフは、この絶望的な状況下で、兵士たちの間に激しい反ボルシェヴィキの反応を解き放つことを期待して、レーニンのドイツとの関係について、利用できる情報の一部を公表することに決めた。
 彼は二週間前に、この情報を公表しようと強く主張していた。しかし、内閣は、(メンシェヴィキの新聞によると)『ボルシェヴィキ党の指導者に関する事柄には、慎重さを示すことが必要だ』という理由で、彼の提案を却下していた。
 ケレンスキーはのちにレーニンに関する事実を発表したのは『赦しがたい』過ちだったとしてペレヴェルツェフを非難したけれども、ケレンスキー自身が7月4日に騒擾のことを知って、『外務大臣が持つ情報を公開するのを急ぐ』ように、ルヴォフに対して強く迫った。
 ニキーチン総督およびポロヴツェフ将軍と確認したあとで、ペレヴェルツェフは、報道関係者とともに80人以上のペテログラードおよびその周辺の駐留軍団代表者を、彼の執務室へと招いた。
 これは、午後5時頃のことだった。タウリダでの騒乱は最高度に達していて、ボルシェヴィキのクーはすぐにでも達成されるように見えた。(*)
 将来に見込まれるボルシェヴィキ指導者の裁判での最も明確な有罪証拠資料を守るために、ペレヴェルツェフは、持っている証拠の断片だけや、価値がきわめて乏しいものを公表した。
 それは、D・エルモレンコ(Ermolenko)中尉のあいまいな調書で、彼はドイツ軍の戦時捕虜だった間に、レーニンはドイツ軍のために働いていると言われた、と報告していた。
 こうした伝聞証拠は、政府関係の事件では、とくに社会主義者関係のそれでは、多大に有害なものだった。
 ペレヴェルツェフはまた、ストックホルムを経由したボルシェヴィキのベルリンとの金銭関係に関する情報も、ある程度は発表した。
 彼は愚劣にも、信用のないかつてのボルシェヴィキ・ドゥーマ〔帝制国会下院〕議員団長、G・A・アレクジンスキーに対して、エルモレンコの調書の信憑性を調べてほしいと頼んだ。//
 司法省にいる友人、カリンスキーはすぐに、ペレヴェルツェフがまさにしようとしていることをボルシェヴィキに警告した。それによってスターリンは、レーニンに関する『誹謗中傷』の情報をばらまくのを止めるようにイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に求めた。
 チヘイゼとツェレテリは、ペテログラードの日刊新聞社の編集部に電話をかけ、イスパルコムの名前で、政府が発表したことを新聞で公表しないように懇請した。
 ルヴォフ公も、同じようにした。そして、テレシェンコとネクラソフ(Nekrasov)も。(**)
 全ての新聞社が、一つだけを除いて、この懇請を尊重した。
 その一つの例外は、大衆紙の < Zhivoe slovo >だった。
 この新聞の翌朝の第一面の大見出し--レーニン・ガネツキーと共謀スパイたち--のあとにはエルモレンコの調書と、ガネツキーを通してコズノフスキーとスメンソンに送られたドイツの金に関する詳細が続いていた。
 この情報を記載した新聞紙は、街中に貼られた。//
 レーニンとドイツに関するこの暴露情報は、ペレヴェルツェフの説明を受けた連隊の使者から伝わり、諸兵団に電流を通したかのような効果をもった。
 ほとんど誰も、ロシアはソヴェトと友好関係にある臨時政府によって統治されているのか、それともソヴェトのみによって統治されているのか、などとは気に懸けなかった。敵国と協力していることに関して、感情的になった。
 敵国領土を縦断した旅で生じたレーニンにつきまとう疑念によって、レーニンは兵団にはきわめて不人気になっていた。
 ツェレテリによると、レーニンは制服組から嫌われているのでイスパルコムに保護を求めなければならなかった。
 タウリダに最初に到着したのはイズマイロフスキー守備兵団で、プレオブラジェンスキーと、軍楽隊のあとで行進したセメノフスキーの各兵団が続いた。
 コサック団も、現われた。
 兵団が接近してくるのを見聞きして、タウリダ正面の群衆たちは、慌てふためいてあらゆる方向へと逃げた。何人かは、安全を求めて宮の中に入った。//
 このときタウリダ宮の内部では、イスパルコムとボルシェヴィキ・工場『代表団』との間の議論が進行中だった。
 メンシェヴィキとエスエルたちは、政府が救出してくれるのを期待して、時間を潰していた。
 政府側の兵団がタウリダ宮に入ってきた瞬間、彼らはボルシェヴィキの提案を拒否した。//
 反乱者たちがそれぞれに分散したので、ほとんど暴力行為は行われなかった。
 ラスコルニコフは海兵たちにクロンシュタットへ戻るように命令し、400人をクシャシンスカヤ邸を守るために残した。
 海兵たちは最初は離れるのを拒んだが、勢力が優る非友好的な政府側の軍団に囲まれたときに屈服した。
 深夜までには、群衆は、タウリダにいなくなった。//
 事態の予期せぬ転回によって、ボルシェヴィキは完全に混乱に陥った。
 レーニンは、カリンスキーからペレヴェルツェフの行動を知るやただちに、タウリダから逃げた。それは、兵士たちが姿を現わす、寸前のことだった。
 レーニンが逃げたあと、ボルシェヴィキは会議を開いた。その会議は、蜂起を中止するという決定を下して終わった。
 正午頃に彼らは、大臣職の書類を配布されていた。6時間後には、探索される獲物の身になった。
 レーニンは、全ては終わった、と思った。
 彼は、トロツキーに言った。『今やつらは我々を撃ち殺すつもりだ。やつらには最も都合のよいときだ』。(181)
 レーニンはつぎの夜を、ラスコルニコフの海兵たちに守られて、クシェシンスカヤ邸で過ごした。
 7月5日の朝、新聞紙< Zhinvoe slovo >の売り子の声が通りに聞こえているときに、レーニンとスヴェルドロフは抜け出して、仲間のアパートに隠れた。
 つづく5日間、レーニンは地下生活者になり、毎日二度、いる区画を変更した。
 他のボルシェヴィキ指導者たちは、ジノヴィエフを除いて、逮捕される危険を冒して公然としたままだった。ある場合には、逮捕するのを要求すらした。//
 7月6日、政府は、レーニンとその仲間たちの探索を命じた。全員で11人で、『国家叛逆(high treason)と武装蜂起の組織』で訴追するものだった。(***)
 コズロフスキーとスメンソンは、すみやかに拘引された。
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  (*) NZh = Novaia zhin', No. 68 (1917年7月7日), p.3。この事態に関するペレヴェルツェフの説明は、つぎの編集部あて書簡にある。NoV = Novoe vremia, No. 14-822 (1917年7月9日), p.4。ペレヴェルツェフは、その回想をつぎで公刊した、と言われる。PN = Poslednie novosti, 1930年10月31日。しかしこの新聞のこの号を私は利用できなかった。
  (**) Zhivoe slovo, No. 54-407 (1917年7月8日) p.1。参照、Lenin, PSS, XXXII, p.413。ルヴォフは、早すぎる公表は機密漏洩罪になるだろうと編集者たちに言った。  
  (181) Leon Trotzky, O Lenin (モスクワ, 1924), p.58。
  (***) Alexander Kerensky, The Crucifixion of Liberty (ニューヨーク, 1934), p.324。その11人とは、以下のとおり。レーニン、ジノヴィエフ、コロンタイ、コズロフスキー、スメンソン、パルヴゥス、ガネツキー、ラスコルニコフ、ロシャル、セマシュコ、およびルナチャルスキー。トロツキーはリストに載っていなかった。おそらくは、ボルシェヴィキ党の党員ではまだなかったためだ。彼は7月末にようやく加入した。トロツキーはのちに、収監される。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
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  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
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 ③へとつづく。

1601/ケレンスキー首相-R・パイプス著10章12節。

 前回からのつづき。
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 第12節・蜂起鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁③。
 7月6日の夕方にペテログラードに帰ったケレンスキーは、ペレヴェルツェフに激しく怒って、彼を解任した。
 ケレンスキーによると、ペレヴェルツェフは、『レーニンの最高形態での国家叛逆を文書証拠が支えて確定する機会を、永遠に喪失させた』。
 この言い分は、レーニンとその支持者に対して行ったその後の日々の果敢な行動が失敗したことについて、尤もらしい釈明をしたもののように見える。
 『レーニンの最高形態での国家叛逆を確定する』努力がなされなかったとすれば、それは、レーニンの弁護へと跳びついた社会主義者たちを宥める気持ちからだった。
 それは、『すでにカデット〔立憲民主党〕の支持を失ってソヴェトを敵に回す余裕のない政府が、ソヴェトに対して行なった譲歩』だった。(*)
 このように考察すると、7月とそれ以降数ヶ月のケレンスキーの行動は、際立っていた。//
 ケレンスキーはルヴォフに代わって首相になり、陸海軍大臣職を兼任した。
 彼は独裁者のごとく行動し、自分の新しい地位を見える形で示すために、冬宮(Winter Palace)へと移った。そしてそこで、アレクサンダー三世のベッドで寝て、その机で執務した。
 7月10日、コルニロフ(Kornilov)に、軍司令官になるように求めた。
 コルニロフは、7月事件に参加した兵団の武装解除および解散を命令した。
 守備軍団は10万人へと減らされ、残りは前線へと送られた。
 プラウダその他のボルシェヴィキ出版物は、戦陣から排除された。//
 だが、このような決意の表明はあったものの、臨時政府は、ボルシェヴィキ党を破滅させるだろう段階へとあえて進むことをしなかった。公開の審問があれば、国家叛逆活動に関して所持している全ての証拠資料が、呈示されていただろう。
 新しい司法大臣のA・S・ザルドニュイ(Zarudnyi)のもとに、新しい委員会が任命された。
 その委員会は資料を集めたが-10月初めまでに80冊の厚さになった-、結局は法的手続は始まらなかった。
 この失敗の理由は、二つあった。すなわち、『反革命』への恐怖、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕と対立したくないとの願望。//
 7月蜂起によってケレンスキーには、右翼がボルシェヴィキの脅迫を利用して、君主制主義者がクーを企てるのではないかとの強迫観念的な恐怖が、染みついた。
 彼は7月13日にイスパルコムで挨拶し、『反革命勢力を刺激する行動』から構成員は距離を置くように強く要求した。そして、『ロシア君主制を復古させる全ての企ては断固として、容赦なき方法で抑圧される』と約束した。
 ケレンスキーは、多くの社会主義者たちのように、7月反乱を打ち砕いた忠誠ある諸兵団の献身さを、喜んだというよりむしろ警戒した、と言われている。
 彼の目からすると、ボルシェヴィキが脅威だったのは、そのスローガンや行動が君主制主義者を助長するという範囲においてのみだった。
 ケレンスキーが7月7日に皇帝一族をシベリアに移送すると決定したのは、同じような考えにもとづくものだったと、ほとんど確実に言える。
 皇帝たちの出立は、7月31日の夜の間に、きわめて秘密裡に実行された。
 ロマノフ家の者たちは、50人の付添いや侍従たちの随行員団に同伴されて、トボルスク(Tobolsk)へと向かった。それは、鉄道が走っておらず、したがってほとんど逃亡する機会のない町だった。
 この決定の時機-ボルシェヴィキ蜂起およびケレンスキーのペテログラード帰還の三日のち-は、ニコライを皇位に復帰させる状況を右翼の者たちが利用するのを阻止することに、ケレンスキーの動機があった、ということを示している。
 このような見方は、イギリスの外交部のものだった。//
 関連して考えられるのは、ボルシェヴィキを仲間だと見なし、それへの攻撃を『反革命』の策謀だと考え続けている、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の機嫌を損ないたくないという願望だった。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルは、政府のレーニンに対する『誹謗中傷運動』を繰り返して攻撃し、訴追を取り下げて、拘留されているボルシェヴィキたちを解放することを要求した。//
 ボルシェヴィキに対するケレンスキーの寛大な措置は、ボルシェヴィキは彼とその政府をほとんど打倒しかけたにもかかわらず、翌月にコルニロフ将軍に関して見せた素早いやり方とは著しく対照的だった。//
 政府とイスパルコムのいずれもの不作為の結果として、ペレヴェルツェフが主導して解き放とうとしたボルシェヴィキに対する憤激は、消散した。
 この両者は、右翼からの想像上の『反革命』を怖れて、左翼からの本当の『反革命』を消滅させる、願ってもない機会を失った。
 ボルシェヴィキはまもなく回復し、権力への努力を再び開始した。
 トロツキーは、1921年の第3回コミンテルン大会の際にレーニンが党は敵との取引で間違いをしたとを認めたとき、1917年の『性急な蜂起のことを頭の中に想い浮かべた』、とのちに書いた。
 トロツキーは、つぎのように付記した。『幸運にも、我々の敵には十分な論理的一貫性も、決断力もなかった』。(203)
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  (*) Richard Abraham, Alexander Kerensky (ニューヨーク, 1987), p.223-4。ペレヴェルツェフはネクラソフとテレシェンコが言い出して7月5日の早いうちに解任されたが、二日長く職務にとどまつた。
  (203)トロツキー, レーニン, p.59。 revolution
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 第10章、終わり。第11章の章名は、「十月のク-」。但し、第11章の最初から「軍事革命委員会によるクー・デタの開始」という目次上の節までに、48頁ある。

1755/R・パイプス別著(ボルシェヴィキ体制下のロシア)第5章第3節。

 リチャード・パイプス『ボルシェヴィキ体制下のロシア』。計587頁。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (Vintage/USA, 1995).
 この本のうち、すでに試訳の掲載を済ませているのは、以下だ。
 ①p.240-p.253。第5章:共産主義・ファシズム・国家社会主義ー第1節・全体主義という概念。/第2節・ムッソリーニの「レーニン主義者」という出自。
 ②p.388-p.419。第8章:ネップ・偽りのテルミドールー第6節・強制的食糧徴発の廃止とネップへの移行。/第7節・政治的かつ法的な抑圧の強化。/第8節・エスエル「裁判」。/第9節・ネップのもとでの文化生活。/第10節・1921年の飢饉。
 ③p.506-p.507。終章:ロシア革命に関する考察ー第6節・レーニン主義とスターリニズム。
 上の①のつづきの部分(ヒトラーと社会主義との関係等)について、試訳を続行する。
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 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義①。
p.253~。
 ボルシェヴィキとファシズムの出自は、社会主義だった。
 国家社会主義(National Socialism)は、異なる種子から成長した。
 レーニンの出身が位置の高いロシアの官僚階層の出身で、ムッソリーニのそれは疲弊した工芸職人階層であるとすると、ヒトラーは小ブルジョアの背景をもち、社会主義への敵意とユダヤ人への憎悪で充満した雰囲気の中で、青年時代をすごした。
 当時の政治的、社会的な理論に通じた熱心な読者だったムッソリーニやレーニンとは違って、ヒトラーは無知で、観察やときたまの読書や会話から知ったものを拾い上げた。
 ヒトラーには理論的な基礎がなく、意見と偏見だけはあった。
 そうだったとしてすら、最初にドイツの自由を排除し、つぎにヨーロッパじゅうに死と破壊を植え込んだ、そのような致命的な効果を与えて彼が用いることとなる政治的イデオロギーは、消極的にも積極的にも、ロシア革命によって奥深く影響されていた。
 消極的には、ロシアでのボルシェヴィズムの勝利とヨーロッパを革命化する企ては、ヒトラーの本能的な反ユダヤ主義と、ドイツ人を恐れさせる「ユダヤ共産主義」の陰謀という妖怪とを正当化した。
 積極的には、ロシア革命は、大衆操作の技術をヒトラーに教え、一党制の全体主義国家のモデルを提供することによって、ヒトラーが独裁的権力を追求するのを助けた。//
 反ユダヤ主義は、国家社会主義のイデオロギーと心理において、中心的で逸れることのない目標として独特の位置を占める。
 ユダヤ人恐怖症の起源は古典的太古にさかのぼるけれども、ヒトラーのもとで不健全で破壊的な形態を帯びたそれは、歴史上かつて見ないものだった。
 このことを理解するには、ロシアおよびドイツの民族主義運動に対するロシア革命の影響について記しておくことが必要だ。//
 伝統的な、20世紀以前の反ユダヤ主義は、もともとは宗教上の敵意によって強くなった。つまり、キリスト殺害者で、キリスト教の福音を頑強に拒む邪悪な人々だというユダヤ人に対する先入観。
 カトリック教会や一部のプロテスタント教派のプロパガンダのもとで、この敵意は、経済的な争いや金貸しで狡猾な商人としてのユダヤ人への嫌悪によって補強された。
 伝統的な反ユダヤ主義者にとって、ユダヤ人は「人種」でも民族を超える共同体でもなく、誤った宗教の支持者であり、人類への教訓として、故郷を持たないで(homelss)苦しみ、漂流するように運命づけられていた。
 ユダヤ人は国際的な脅威だとの考えが確立されるためには、国際的な共同社会が存在するに至っていなければならなかった。
 これはもちろん、世界的な商業と世界的な通信の出現とともに19世紀の過程で発生した。
 これらの発展は、地域と国家の障壁を超えて、近代までは相当に保護された自己完結的な存在だった共同体や国家での生活に対して、直接に影響を与えた。
 人々は、突然にかつ訳が分からないままに、自分たちの生活を支配することができなくなる感覚を抱き始めた。
 ロシアでの収穫が合衆国の農民の生活状態に影響を与え、あるいはカリフォルニアでの金の発見がヨーロッパでの価額に影響を与え、国際的な社会主義のような政治運動が全ての既存体制の打倒を目標として設定したとき、誰も、安全だと感じることはできなかった。
 そして、国際的な出来事が持ち込む不安は、全く自然なこととして、国際的な陰謀という考えを発生させた。
 ユダヤ人以上に誰がその役割をより十分に果たすのか?。最も可視的な国際的集団であるのみならず、世界的な金融とメディアで傑出した位置を占めている集団は誰か?。//
 ユダヤ人を、見えざる上位者の一団が統轄する、紀律のとれた超国家的共同社会とする見方は、最初はフランス革命の騒ぎの中で登場した。
 フランス革命への役割は何もなかったけれども、反革命のイデオロギストたちはユダヤを容疑者だと見なした。一つは、公民的平等を与えた革命諸法律によって彼らは利益を得たとの理由で、また一つは、フランスの君主主義者が1789年の革命についての責任があると追及したフリーメイソン(Masonic)運動と彼らは広くつながっているとの理由で。
 ドイツの急進派は、1870年代までに、全てのユダヤ人はどこに公民権籍があろうと秘密の国際組織によって支配されている、と主張した。この組織はふつうは、実際の仕事は慈善事業だった、パリに本拠がある国際イスラエル連合(the Alliance Israelite Universelle)と同一視された。
 このような考えはフランスで、ドレフュス(Dreyfus)事件と結びついて1890年代に一般的になった。
 ロシア革命に先立って、反ユダヤ主義は、ヨーロッパで広汎に受容されていた。それは主としては、パリア・カスト〔最下層貧民〕として彼らを扱うことに慣れていた社会で対等なものとしてユダヤ人が出現してきたことへの反作用だった。また、解放された後にすら同化することを拒むことへの失望によっていた。
 ユダヤ人は、その同族中心主義や秘密主義、いわゆる「寄生的」な(parasitic)な経済活動や「レバント」的(Levantine)挙措だと受け止められたことで、嫌悪(dislike)された。
 しかし、ユダヤ人に対する恐怖(fear)は、ロシア革命とともに生じた。そして、その最も厄災的な遺産であることが判明することになる。//
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 (秋月)今回の部分には注記はない。
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 ②へとつづく。

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
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 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
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 ③へとつづく。

1758/ナチスの反ユダヤ主義③-R・パイプス別著5章3節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク、1995)、第5章の試訳のつづき。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義③。
 
これら国外移住者(emigre)の中で最も悪名高いのは、ドイツ系出自のロシア将校、F・V・ヴィンベルク(Vinberg)だった。この人物のユダヤ人に対する強迫観念は、病的な程度にあった。(48)
 彼はロシア革命をユダヤ人人の、かつユダヤ人だけによる手仕事だと見なした。その出版物の一つの中に彼は、ほとんど全てはユダヤ人だと言われているとする、間違ったソヴィエト将官のリストを載せた。(49)
このような見方はたちまちにドイツの右翼グループに受け容れられた。彼らは、ドイツの敗北という苦渋をなめ、共産主義者の反逆に怯えていた。
 悪名高いユダヤ恐怖症のドイツ人と一緒に、<議定書>の最初の翻訳書をドイツで発行したのは、ヴィンベルクだった。
 1920年1月に発刊され、すぐに人気を博した。
 のちの数年の間にドイツには、数十万冊のこの本が溢れた。
ノーマン・コーンは、ヒトラーが権力を奪うまでにドイツで少なくと<も28版までが流通していた、と見積もる。(50)
 ほどなく、翻訳書がスウェーデン語、英語、フランス語、ポーランド語で出版され、その他の外国語版が続いた。
 1920年代に、<議定書>は、国際的なベスト・セラー本になった。//
 <議定書>のメッセージにとくに敏感だったのは、駆け出したばかりのドイツ国家社会主義党だった。この党は1919年の最初から病的な反ユダヤ主義を表明していたが、そのための理論的根拠を欠いていた。
 1919年に発表された最も初期のナツィ(Nazi)の綱領は、ドイツの敵として、第一にユダヤ民族、第二にベルサイユ条約、第三にマルクス主義者を掲げた。このマルクス主義者は共産主義者ではなく社会民主党を意味しており、ナツィス(Nazis)は、共産党とは友好的な接触を保っていた。(51)
 ユダヤと共産主義との連結は、<議定書>の助けで確立された。これがヒトラーの注目を惹いたのは、アルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)による、と言われている。
 ロシアで建築設計を勉強したバルト系ドイツ人の一人は、ロシアの旅券を持ち、ドイツ語よりも流暢にロシア語を話した。このローゼンベルクは、ヴィンベルクの考え方を支持するように変わり、それをナツィの運動へと接ぎ木した。そして彼は、ナツィ運動の主なイデオロギストとなった。
 ヴィンベルクによって彼は、ロシア革命はユダヤ民族が世界制覇をするために設計したものだった、と確信した。
 <議定書>は、未来の総統(Fuehrer)に対して圧倒的な印象を与えた。
 ヒトラーは、初期の同僚だったヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、こう語った。
 『「シオン賢者の議定書」を読み終わった。-全く唖然とした。敵が秘密的なこと、そして、いたる所にいること!
 私はすぐに、我々はこれを真似なければならないと分かった。-もちろん、我々の方法で。』(52)
 ラウシュニンクによると、<議定書>は、政治的な思いつき(inspiration)をする主要な情報源としてヒトラーに役立った。(53)
 こうしてヒトラーは、世界征服のためにユダヤ人の戦略に関する本当ではない手引き書を利用した。ユダヤ人はドイツの不倶戴天の敵だと叙述するためのみならず、その方法を採用して世界支配という彼自身の願望を実現するために。
 彼は、世界制覇の追求へのユダヤ人のいわゆる狡猾さに敬意を払ったので、彼らの「イデオロギー」と「プログラム」を完全に採用することに決めた。(54)//
 ヒトラーが反共産主義へと転じるのは、彼が<議定書>を読んだ後のことにすぎない。//
 『ローゼンベルクは、ナツィのイデオロギーの上に永遠の痕跡を残した。
 党は、1919年のその創立のときから病的な反ユダヤ主義だった。
 しかし、1921-22年だけは、ロシアの共産主義に夢中になった。
 そして、これは多くはローゼンベルクがしたことだったように思われる。
 ローゼンベルクは、ロシアの黒い百人組(the Black Hundred)のタイプの反ユダヤ主義と、ドイツの人種主義者の反ユダヤ主義とを、連結させた。
 もっと細かく言うと、ボルシェヴィズムはユダヤ人の陰謀だとするヴィンベルクの考え方を彼は採用したうえで、民族的・人種主義的(voelkisch-racist)な用語でもって再解釈した。
 それが帰結させた夢想は、数多くの記事や冊子で説明されているように、ヒトラーの思考とナツィ党の見解やプロパガンダにおける強迫観念的(obsessive、偏執症的)主題となった。』(55)//
 ヒトラーには大きくはつぎの二つの政治目標しかなかった、と言われてきた。ユダヤ民族の破壊と東ヨーロッパの生存空間(Lebensraum)への膨張。彼の政綱のその他の要素は全て、社会主義であれ資本主義であれ、これらの目標に達する手段にすぎなかった。(56)
 このようにして、祖国を襲った厄災についての生け贄(scapegoat、贖罪者)を世界ユダヤ民族の「隠された手」のうちに探して見出したロシアの過激派君主主義者たちの狂信は、やがてドイツの全権力を獲得することとなる党の政治イデオロギーへと注入された。
 ナツィによるユダヤ人絶滅のための理由づけは、ロシアの右翼グループに由来した。
 ユダヤ人の肉体的な絶滅を最初に公然と呼びかけたのは、ヴィンベルクとその仲間だった。(57)
 ユダヤ人のホロコーストは、こうして、予期されも意図されもしなかった、ロシア革命の多くの帰結の一つだったことが分かる。//
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 (48) この人物については、Walter Laqueur, Russia and Germany (ロンドン、1965年)、p.114-8. を見よ。〔ワルター・ラカー・ロシアとドイツ〕
 (49) F. Vinberg, Krestnyi put' I, 2nd ed. (ミュンヘン、1922年)、p.359-p.372.
 (50) Cohn, Warrant, p.293.
 (51) Laqueur, Russia and Germany, p.55.
 (52) Rauschning, Hitler Speaks, p.235.
 (53) 同上、p.235-6。
 (54) Alexander Stein, Adolf Hitler, Schueler der "Weisen von Zion" (カールスバート、1936年).〔アレクサンダー・シュタイン・ヒトラー-『シオンの流儀の生徒』〕
 (55) Cohn, Warrant, p.194-5.
 (56) Eberhard Jaeckel, Hitlers Weltanschauung〔ヒトラーの世界観〕 (テュービンゲン、1969年)。Kuhn, Das faschistische Herrschaftsystem 〔ファシストの支配体制〕のp.80 から引用した。 
 (57) Laqueur, Russia and Germany, p.115.
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 第4節へとつづく。つぎの表題は、「ヒトラーと社会主義」。

1759/ヒトラーと社会主義①-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)の試訳のつづき。p.258~p.260.
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 第4節・ヒトラーと社会主義①。
 政治現象として言えば、ナチズムとはつぎの二つのことだった。政治過程に民衆が参加するという装いを与える大衆操作の技巧、ドイツ国家社会主義労働党が権力を独占して国家制度をその道具に変える統治のシステム。
 これら二つのいずれについても、その始源的およびボルシェヴィキ的な両者の意味でのマルクス主義の影響は明白だ。//
 青年ヒトラーが社会民主党はいかにして群衆を操縦しているかを綿密に研究した、ということが知られている。
 『ヒトラーは、社会民主党から大衆政党と大衆プロパガンダ〔虚偽宣伝〕に関する考え方を引き出した。
 彼は<我が闘争>に、ウィーンの労働者の大衆示威活動での行進で四列の絶えることのない隊列を凝視したときの印象を叙述している。
 「私はほとんど二時間、私の前にまっすぐにゆっくり進んでくるその巨大な龍のごとき人々を眺めながら、物を言えないまま立ちつくした」。』(*)
 ヒトラーは、このような観察から大衆の心理に関する彼の理論を発展させた。のちにそれを使用して、彼は目を見張る成功を遂げた。
 彼は、ラウシュニンクとの会話で、社会主義に対する自分の負い目(debt)をつぎのように認めている。
 『私は、認めるのを躊躇しないほど、多数のことをマルクス主義から学んだ。
 その退屈する社会理論や歴史の唯物論的理解を意味させているのではない。あるいはその馬鹿げた「限界効用」論(!)等々でもない。
 しかし、彼らの方法を学んだ。
 彼らと私自身との違いは、陳腐な商品売り(peddlers)や退屈な簿記係(penpushers)がおずおずと開始したことを、私は現実に実践した、ということだ。
 国家社会主義の全体は、それから始まった。
 労働者の体育クラブ、工場内の細胞、大衆デモ、大衆に理解しやすく書いた宣伝パンフレットを見ろ。
 政治闘争のためのこれらの新しい方法は全て、本質的にはマルクス主義に根源がある。
 私がしなければならなかったのは、これらの方法を奪い取って我々の目的に適合させることだ。
 私はただ、民主政体の枠の中で進展を実現しようとしたために社会民主主義が何度も失敗したことを、論理的に発展させなければならなかった。
 国家社会主義とは、民主主義秩序との馬鹿げたかつ人工的な絆を断ち切ることができていればマルクス主義がなっていたかもしれないものだ。』(58)
 この最後には、ボルシェヴィズムがしたもの、そしてボルシェヴィキがそうなったもの、と追記されてよい。(+)
 共産主義のモデルをナツィス運動へと送り込む一つの交信手段は、「民族的(national)ボルシェヴィキ」として知られる(++)、ヒトラーに跪いている左翼との間の右翼知識人のそれだった。
 彼らの主要な理論家、ヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とオットー・シュトラサー(Otto Strasser)は、ロシアでのボルシェヴィキの成功に大きな感銘を受けた。そして、ソヴェト・ロシアがその経済を建設するのをドイツが助けて、その見返りにフランスとイギリスに対抗する政治的支援を得ることを望んだ。
 彼らは、モスクワは国際的なユダヤ人の陰謀の司令塔だとの、ヒトラーが採用したローゼンベルクの論調に、共産主義は隠されたロシアの伝統的民族主義の表むきの顔(facade)だ、と反応した。
 『彼らは、世界革命と語り、ロシアのことを意味させている』。(**)
 しかし、「民族的ボルシェヴィキ」は、共産主義ロシアとの協働以上のことを願った。すなわち、政治的権力を集中し、対抗する政党を絶滅させ、自由市場を規制することによって、ロシアの統治システムをドイツが採用することを望んだ。
 ゲッベルスとシュトラサーは、1925年にナツィの日刊紙である Voelkischer Beobachter に、「社会主義独裁(socialist dictatorship)」の導入だけが混沌からドイツを救い出すことができる、と主張した。
 ゲッベルスはこう書いた。-『レーニンは、マルクスを犠牲にした。その代わりに、ロシアに自由を与えた』。(59)
 彼自身のナツィ党についてゲッベルスは、1929年に、「革命的社会主義者」の党だ、と書いた。(60)//
 ヒトラーは、こうしたイデオロギーを拒んだ。しかし、ドイツの労働者を社会民主党から離脱させるために社会主義的スローガンを用いるという範囲では利用した。
 ナツィ党の名にある「社会主義」および「労働」という形容句は、たんに人気のある言葉を詐欺的に使用したものではない。
 この党は、この世紀の初めの年代にチェコ人出稼ぎ労働者と競争するためにボヘミアで形成されたドイツ人労働者の団体から、成長した。
 ドイツ労働党(Deutsche Arbeiter Partei)、この組織はもともとはこう称していたのだが、この党の綱領は、社会主義、反資本主義および反聖職者主義をドイツ民族主義(nationalism)と結びつけたものだった。
 ドイツ労働党は、1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗った。
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 (*) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.44.
 1919-20年の冬に社会民主党の演説を聴く群衆の中のヒトラーを撮した写真が、Joachim Fest, Hitler (New York, 1974) の144~145頁の間に再掲されている。
 (58) Rauschning, Hitler Speaks, p.185.
 (+) ヒトラーは1941年月の演説で、率直にこう述べた-「根本的には(basically)、国家社会主義はマルクス主義と同一のものだ(the same)」。
 The Bulletin of International News (London), XVIII, No.5 (1941年3月8日)、p.269.
 (++) この用語は、1919年にラデックによって、侮蔑的な意味で作られた。
 この傍流的であっても興味深い運動に関する最良の研究書は、Otto-Ernst Schueddekopf, Linke Leute von Rechts (Stuttgart, 1960) 〔右からの左の者たち〕だ。
 (**) Schueddekopf, Linke Leute, p.87.
 共産主義は本当はロシアの民族的利益を表現するものだとの考えは、N. Ustrianov および1920年代初頭のロシア移住者のいわゆる「Smena Vekh」運動の理論家から始まる。同上、p.139 を見よ。
  (59) 以下からの引用。Max H. Kele, Nazis and Workers (Chapel Hill, N.C., 1972)、p.93.
 (60) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.25.
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
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 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
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 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
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③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
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 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
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 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
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 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
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 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
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 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。p.269~p.271。
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 Ⅱ・支配党と国家③。
 〔目次上の見出し-「群衆の操作とイデオロギーの役割」〕
 「人々を全ての政治領域から排除すること」、およびその帰結である政治的生活の廃絶は、ある種の代用物を要求する。
 民衆のために語るふりをする独裁制は、単純に前民主政的な権威主義モデルに変えるというわけにはいかない。
 全体主義体制は、アメリカのおよびフランスの革命以降に投票者の10分の9またはそれ以上だと広く承認されている、民衆の意思を反映していると主張する意味では、「民衆的」(demotic)だ。 そして、大衆の積極的関与という幻想を生み出す、荘大な見せ物だ。//
 政治ドラマの必要はすでにジャコバン派によって感じ取られていて、彼らは、「至高存在」を讃えたり、7月14日を祝ったりする、手の込んだ祝祭でもって独裁制を偽装した。
 全権をもつ指導者たちと力なき庶民たちが一緒に世俗的儀式を行うことで、ジャコバン派は、その臣民たちとともにあるのだという意識を伝えようとした。
 ボルシェヴィキ党は内戦の間に、その乏しい資源をパレードを実施することや、バルコニーから数千の支持者に呼びかけることに使った。そして、近時の出来事にもとづいて、青空下の舞台で演劇を上演すること。
 このような見せ物の演出者は、観衆から役者を、そして民衆から指導者を、隔てる障壁を、かなりの程度まで壊した。
 大衆は、フランスの社会学者のギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)が19世紀後半に定式化した原理に合致して、動かされた。ル・ボンは、群衆とは、心霊的(psychic)な操作を喜んで受ける客体に自分たちをする、まるで異なる集団的人格体だと述べた。(*)
 ファシスト党は最初に、1919-20年のフューメ(Fiume)占領の間にこうした方法を使って実験した。そのときこの都市を支配したのは、詩人政治家のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio)だった。
 『ダヌンツィオが主役を演じた祭典の成功は、指導者と指導される者の境界を廃棄するものと想定された。そして、公会堂のバルコニーから下にいる群衆に向けた演説は(トランペット演奏が付いて)、同じ目的を達成することとなった。』(94)
 ムッソリーニと他の現代の独裁者は、このような方法は必須のものだと考えた-娯楽としてではなく、支配者と支配される者の間の分かち難い結びつきに似る印象を反対者や懐疑者に対して伝えるために考案された儀式として。//
 このような演出については、ナツィスを上回る者はいなかった。
 映画や演劇の最新の技巧を使い、ナツィスは止まることを知らない根本的な力に似た印象を参加者や見物者たちに伝える集会や無宗教儀礼でもってドイツ人を魅了した。
 総統とその人民との一体性は、大群の幹部兵士のごとき制服姿の男たち、群衆のリズミカルな叫び声、照明および炎や旗によって象徴された。
 きわめて自立した精神の持ち主だけが、このような見せ物の目的を認識できる心性を保持することができた。
 多くのドイツ人にとって、このような生き生きとした見せ物は、投票数を機械的に算定することよりもはるかによく、民族の精神を写し出すものだった。
 ロシア社会主義者の亡命者だったエカテリーナ・クスコワ(Ekaterina Kuskova)は、ボルシェヴィキと「ファシスト」両方による大衆操作の実際を観察する機会をもった。そして、強い類似性を1925年に記した。//
 『レーニンの方法は、<強制を通じて納得させること>だった。
 催眠術師、煽動者は、相手の意思を自分自身の意思に従わせる-ここに強制がある。
 しかし、その相手たる主体は、自分の自由な意思で行動していると確信している。
 レーニンと大衆の間の紐帯というのは、文字通りに、同一の性質をもつものだ。…
 まさしく同じ様相が、イタリア・ファシズムによって示されている。』(95)
 大衆はこのような方法に従い、実際には自分たちを非人間的なものにした。//
 これとの関係で、全体主義イデオロギーに関して何ほどかを書いておく必要がある。
 全体主義体制は、私的および公的な生活上の全ての問題への回答を与えると偽称する考え方を体系化したものを定式化し、かつ押しつけるものだ。
 このような性格の世俗的イデオロギーは、党が統御する学校やメディアによって履行されたもので、ボルシェヴィキとそれを摸倣したファシストとナツィスが導入した新しい考案物(innovation)だ。
 これは、ボルシェヴィキ革命の主要な遺産の一つだ。
 現在のある観察者は、その新基軸さに驚いて、これのうちに全体主義の最も際立つ特質を見た。そして、それは人々をロボットに変えるだろうと考えた。(**) //
 経験が教えたのは、このような怖れには根拠がない、ということだ。
 当局にとって関心がある何らかの主題に関して公共に語られ印刷される言葉の画一性は、三つの体制のもとで、じつにほとんど完璧だった。
 しかしながら、いずれも、思考(thought)を統制することはできなかった。
 イデオロギーの機能は、大衆的見せ物のそれと類似していた。すなわち、個人の共同体への全体的な没入(total immersion)という印象を生み出すこと。
 独裁者自身はいかなる幻想も持たず、服従者たちが考える一つの表面体の背後に隠れている私的な思考について、ひどくではないが多くの注意を向けた。
 ヒトラーが認めるところだが、かりに彼がアルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の<20世紀の神話>をわざわざ読まなければ、そしてそれが国家社会主義の理論的な根拠だと公式に宣言しなかったとすれば、我々はいかほど真面目にナツィの「イデオロギー」を受け止めるだろうか?
 そしてまた、いかほど多くのロシア人に、難解で瑣末なマルクスとエンゲルスの経済学を修得することが、本当に期待されていたのか?
 毛沢東のチャイナでは、洗脳(indoctrination)はかつて知られた最も苛酷な形態をとり、十億の民衆が教育を受ける機会や僭政者の言葉を収集したもの以外の書物を読む機会を奪われた。
 しかしなお、瞬時のムッソリーニ、ヒトラーおよび毛沢東は舞台から過ぎ去り、彼らの教えは薄い空気の中へと消失した。
 イデオロギーは、結局は、新しい見せ物であることが分かった。同じように、はかない見せ物だった。(+)
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 (*) La Psychologie des foules (Paris, 1895). 〔群衆の心理学〕リチャード・パイプス・ロシア革命、p.398 を見よ。
 ヒトラーと同じくムッソリーニがル・ボンの本を読んでいたことは知られている。A. James Gregor, The Ideology of Fascism (New York, 1969), p.112-3. および George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.24, No.1 (1989), p.14.
 レーニンはこれをつねに彼の机の上に置いていたと言われる。Boris Bazhanov, Vospominaniia byvshego sekretia Stahna (Paris & New York, 1983), p.117.
 (94) George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.14, No.1 (1989), p.15. さらに、George Mosse, Masses and Man (New York, 1980), p.87-p.103 を見よ。
 (95) Carl Laudauer and Hans Honegger, eds., Internationaler faschismus (Karlsruhe, 1928), p.112.
 (**) 全体主義に関する研究者はしばしば、このイデオロギーを押しつけることを全体主義体制の決定的な性質だとして強調する。
 しかしながら、イデオロギーは、三つの体制において、大衆操作に役立つ大きな道具の役割を果たす。
 (ナチズムについて、ラウシュニングはこう書いた。
 『綱領、公式の哲学、献身と忠誠は、大衆のためのものではない。
 エリートは何にも関与していない。哲学にも、倫理規準にも。
 それらは一つの義務にすぎない。同志、秘伝を伝授されたエリートである党員にとっての絶対的な忠誠の義務だ。』(Revolution of Nihilism, p.20.)
 同じことは、適用については限りなき融通性をもつ共産主義イデオロギーについて語られてよい。
 いずれにしても、民主政体もまた、そのイデオロギーを持つ。
 フランスの革命家たちが1789年に『人間の権利の宣言』を発表したとき、バーク(Burke)やドゥ・パン(de Pan)のような保守的な同時代人は、それを危険な実験だと考えた。
 「自明のこと」では全くなくて、不可侵の権利という考えは、その当時に新しく考案された、革命的なものだった。
 伝統的なアンシャン・レジームだけは、イデオロギーを必要としなかった。
 (+) ハンナ・アレント(Hannah Arendt)やヤコブ・タルモン(Jacob Talmon)のような知識人歴史家は、全体主義の起源を思想(ideas)へと跡づける。
 しかしながら、全体主義独裁者は、思想を吟味することに熱心な知識人ではなく、人々に対する権力を強く渇望する者たちだった。
 彼らは、目的を達成するために思想を利用した。彼らの規準は、いずれが実際に働くか、だった。
 彼らに対するボルシェヴィズムの強い影響は、彼らに適したものを借用するそのプログラムにあるのではなく、ボルシェヴィキが従前には試みられなかった手段を用いて絶対的な権威を確立するのに成功したという事実にある。
 こうした手段は、世界的な革命に対してと同様に、国家の(national)革命にもまさしく適用できるものだった。
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 ⑦/Ⅲ・党と社会、へとつづく。
 下は、R・パイプスの上掲著。
rpipes02-01

1769/三全体主義の共通性⑦-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.272~p.274。
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 Ⅲ〔第三款〕・党と社会①。
 民衆を独裁者の手中にある本当に黙従する素材にするためには、政治に関する意見発表を剥奪するのでは十分でない。 
 彼らの公民的自由-法による保護、集会・結社の自由そして財産権の保障-を剥奪することも必要だ。
 この「権威主義」(authoritarianism)を「全体主義」と分かつ線上にある途へと、独裁制は進んだ。
 合衆国で1980年にジーン・カークパトリック(Jean Kirkpatrick)が最初に広めたのだが、また、彼女から引用してレーガン政権がよく使う、それゆえにある者は冷戦のための修辞だとして拒否する用語法になったのだが、この区別の先行例は、1930年代の初期にさかのぼる。
 ナツィによる権力奪取の直前だった1932年に、一人のドイツ人政治学者が<権威主義国家か全体主義国家か?>というタイトルの本を書いた。そこで彼は、この区別を明瞭にした。(96)
 ドイツの亡命学者のカール・レーヴェンシュタイン(Karl Loewenstein)は、1957年に、このように二つの体制を区別した。
 『「権威主義的」(authoritarian)という語は、単一の権力保持者-一人の個人または「独裁者」、集団、委員会、軍事政権(junta)、あるいは党-が政治権力を独占する政治組織を意味する。
 しかしながら、「権威主義的」という語はむしろ、社会の構造よりも統治の構造に関連する。
 通常は、権威主義体制は、共同体の社会経済生活を完全に支配しようとする欲求を持たないで、国家を政治的に統制することに自らを限定する。…
 これと対照的に、「全体主義的」という語は、社会の社会経済上の活力、生活の態様に関連する。
 全体主義体制の統治技法は、必ずや、権威主義的だ。
 しかし、この体制は、国家意思の形成に正当に関与する権能を相手方たる民衆から剥奪すること以上のはるかに多くのことをする。
 この体制は、私的な生活、精神、感情、そして市民の習俗を鋳型に入れて、支配的イデオロギーに合うように作り上げようとする。…
 公式に宣明されたイデオロギーは、社会の隅々と裂け目の全てに浸透する。
 そのもつ野望は、「全体的」(total)だ。』(*)//
 二つの類型の反民主主義体制の区別は、20世紀の政治を理解するためには基礎的なものだ。
 見込みなくマルクス主義-レーニン主義の用語法の陥穽に嵌まった者だけが、ナツィのドイツと、まぁ言ってみると、サラザール(Salazar)のポルトガルまたはピルズドスキ(Pilsudski)のポーランドとの違いを理解することができないだろう。
 権威主義体制は、現存する社会を過激に変えて人間自体を作り直そうとすら懸命に努める全体主義体制とは異なり、防衛的なもので、その意味では保守的だ。
 権威主義体制は、調整のつかない政治的社会的利害に翻弄されて、民主主義諸制度がもはや適切に機能を果たすことができなくなったときに、出現する。
 それは、基本的には、政治的な意思決定を容易にするための手段だ。
 統治するにあたって、それは、支えてくれる伝統的な淵源に依拠する。そして、社会を「設計して構築する」(engineer)よう努めるのでは全くなくて、現状を維持しようと努める。
 知られるほとんど全ての場合で、権威主義的独裁者が死亡するか追放されたのがいつであっても、それらの国々は民主政体を再建する困難さをほとんど経験しなかった。(**)//
 このような基準で判断すると、スターリニズムを最頂点とするボルシェヴィキ・ロシアだけが、完全に発展した全体主義国家だと性質づけられる。
 なぜなら、イタリアとドイツは、社会を原子化するのを意図するボルシェヴィキの方法を摸倣したが、最もひどいとき(戦争中のナツィ・ドイツ)ですら、レーニンが意図しスターリンが実現したものには及ばなかった。  
 ボルシェヴィキの指導者たちはほとんどもっぱら強制力に頼ったのに対して、ムッソリーニは、そしてヒトラーですら、強制を合意と結合すべきとのパレート(Pareto)の助言に従った。
 彼らは命令が疑いなく遵守されている間は、社会とその諸制度を無傷なままで残そうとした。
 この場合には、歴史的伝統の相違が決定的だった。
 ボルシェヴィキは、数世紀にわたる絶対主義体制のもとで政府を専制的な権力と同一視することに慣れていた社会で活動した。そして、社会を奪い取ってそれを管理しなければならなかっただけではなく、責任を果たしていると示すために厳密には必要だった以上の抑圧を行った。
 ファシストもナツィスも、それぞれの国の社会構造を破壊しはしなかった。それが理由で、第二次大戦で敗北した後に、それらの国は速やかに正常状態に戻ることができた。
 ソヴィエト連邦では、1985年と1991年の間のレーニン主義-スターリン主義体制の全ての改革の試行は、社会的であれ経済的であれ、全ての非政府諸制度が最初から建設されなければならなかったために、行き着くところがなかった。
 その結果は、共産主義体制の改革でも民主政体の確立でもなく、組織的な生活の継続的な瓦解だった。//
 ロシアで自立した非政府諸制度の破壊が容易だったのは、形成されつつあった社会制度の全てが1917年のアナーキー(無政府状態)によって分解されたことによっていた。
 いくつかの(例えば、労働組合、大学および正教教会の)場合には、ボルシェヴィキは既存の管理者を自分たちの党員で置き換えた。それ以外では、単純に解体させた。
 レーニンが死亡する頃までには、共産党の直接の支配のもとにないいかなる組織も、ロシアには事実上は存在していなかった。
 生活に必要な一時的な借地が認められた農村共同体を例外として、個々の公民と政府との間を取り持つことのできるものは何も存在しなかった。//
 ファシスト・イタリアとナツィ・ドイツでは、私的団体ははるかによく活動できた。とくに、党の統制のもとに置かれてはいたけれども、労働組合は、民主主義社会の市民には取るに足らないと思われるほどのものでもソヴィエト同盟では労働者の届く範囲から完全に除外された、ある程度の自治と影響力とを享受し続けた。//
 ムッソリーニは、イタリア社会に対する自分の個人的な権威を強く主張しつつ、政治組織に関して示したのと同じ用心深さをもって、ことを進めた。
 ムッソリーニの革命は、二つの段階を経て進展した。
 1922年から1927年まで、彼は典型的な権威主義的独裁者だった。
 彼の全体主義への動きが始まったのは、私的団体の自立性を奪った1927年だった。
 その年に彼は、全ての私的団体に対して、その規約と構成員名簿を政府に提出することを要求した。
 この方法は、それらの団体を隊列に取り込むことに寄与した。それ以降にファシスト党に順応しようとしない諸組織の構成員は、個人的なリスクを冒すことになったのだから。
 これと同じ年に、イタリアの労働組合は伝統的な諸権利を剥奪され、ストライキが禁止された。
 そうであってすら、ムッソリーニが私的企業への対抗機構として利用したので、労働組合はある程度の力を維持した。ファシストの法制のもとでは、企業は、党による全般的な指導のもとで、労働組合の代表者たちに意思決定に関与する同等の権利を与えなければならなかったのだ。//
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 (96) H. O. Ziegler, Autoritaeter oder totaler Staat ? (Tübingen, 1932).
 (*) Loewenstein, Political Power and the Government Process (Chicago, 1957), p.55-p.56, p.58.
 不適切なことだが、レーヴェンシュタインは、1942年にファシスト後のブラジルの独裁者、ジェトリオ・ヴァルガス(Getulio Vargas)に関する本でこの区別を導入したという名誉を求めた(同上、p.392、注3)。
 (**) その例は、フランコ(Franco)のスペイン、サラザールのポルトガル、軍事政権排除後のギリシャ、ケマル・アタテュルク(Kemal Atatürk)のトルコ、そしてピノチェト(Pinochet)のチリだ。
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 党と社会②へとつづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1773/三全体主義の共通性⑨-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.276~p.278。
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 Ⅲ・党と社会③
 ムッソリーニは、ヒトラーが従った様式を基礎にした。
 彼は、「自然の」、ゆえに不可侵の権利だと承認することはしないで、私有財産はファシスト国家で存在する余地があると感じていた。つまり、彼にとっては財産所有権は条件つきの権利であって、国家の利益に従属する。国家はそれに介入し、生産手段に関するかぎりは国有化によって廃止する権限をもつ。(104)
 ファシスト政府はしきりに、経営が下手なため、労働関係が悪いためあるいはその他の理由の何であれ、政府の期待に添って活動しない私企業に介入した。
 政府当局はしばしば、労働組合を対等な協力者と見なさなければならなったことに怒りをもつ企業経営者たちと激論した。
 また、利益を「調整」し、経営者を交替させることで、生産や配分の過程にも介入した。
 このような実務に言及して、当時のある人は、ファシズムのもとでは私企業は労働者と同様に統制されるのだから、それを「成功した資本主義」と見なすのは適切でない、と観察した。(105)//
 ナツィスもまた、私企業を廃止する根拠はないと考えた。私企業は協力的で、ヒトラーが主要な経済目標として設定していた再軍備を助けようとしていたから。
 私的事業を許すのは一時的対応措置で、信念の問題ではなかった。
 ファシスト党のように、ナツィス党は私有財産の原理を承認したが、人的資源のごとく生産手段は「共同体」の利益に奉仕しなければならないという理由で、その神聖性を否定した。
 あるナツィの理論家の言葉によれば、「財産権は…もはや私的事柄ではなく、一種の国家による特権であって、『適切な』用法で使われるべき条件次第で制限される」。(106)
 もちろん、「私的事柄」ではない「財産権」は、もはや私的財産ではない。
 国民精神を体現化する総統は、「『共同体の任務』と合致する場合には、意のままに財産権の制限または収奪を行う」権利を有する。(107)
 ドイツ国家社会主義労働党が唯一の合法政党だと宣言した1933年7月14日に、ある法律が党と国家の「利益」に反する全ての財産を没収する権限を与えた。(108)
 共産主義者の実務から直接に借用して同じ目的、つまり急速な再軍備、を意図するナツィの四カ年計画は、国家が経済活動に介入する権能を大きく高めた。//
 『マルクス主義やネオ・マルクス主義の神話をもつ世代の者は、やはりおそらくは、1933年と1939年の間のドイツ経済のような非資本主義的な、または反資本主義的な方向にすら向かう、表向きは資本主義経済なるものを、平和時には決して知らなかった。…
 第三帝国での企業の地位はよくても、屈服することが成功の条件である、不平等な相手同士の社会上の契約の産物だった。』(109)
 土地を処分する農民の権利は、農民を家族の中に守るという考えから、厳格に規制された。
 事業に対する干渉は恒常的にあり、株主配当金として支払うことのできる収益の高さを制限するまでになった。
 ラウシュニンクは、西側の妥協者に対して1939年に、「ナツィスによるユダヤ人財産の収奪は第一歩にすぎず、ドイツの資本家と以前の支配階層の経済的地位を全体的にかつ不可逆的に破壊することの始まりだ」と警告した。(111)//
 ナチズムを「ブルジョア」的性格のものだとするのは、いずれも歴史上の証拠がないと反証される二つの論拠に依拠している。
 ヒトラーが権力への途上にあるときに、彼は産業界や銀行界から経済的な支援を受けた、と広く信じられてきた。
 しかしながら、文書記録上の証拠が示すのは、大企業はヒトラーにわずかの金額しか与えておらず、社会主義的スローガンに疑念をもったために、ヒトラーに対抗する保守諸政党へのそれよりもはるかに少なかった、ということだ。//
 『まったくの事実の歪曲のゆえにのみ、大企業者は(ワイマール)共和国の崩壊について深刻な、あるいは重大ですらある役割を果たしうることになった。…
 共和国解体についての大企業の役割が誇張されてきたとすれば、そのことはヒトラーの権力掌握についてのその役割について、もっと本当のことですらある。…
 国家社会主義労働党の初期の成長は、大規模な企業界からのいかなる大きな援助にもよることなく、生起した。』(112)
 第二に、ナツィ体制の期間のいつのときでも大企業は政策をナツィに押しつけるのは別としてナツィの政策に抵抗できた、ということを示すことはできない。
 あるドイツのマルクス主義歴史家は、ヒトラーのもとでの資本家階層の地位を、つぎのように叙述する。
 『ファシズムの自己認識からすると、ファシストの統治制度の特徴は政治の優越性にある。
 政治の優越がきちんと守られるかぎり、どの集団がその体制から利益を得ているかは関心のない事柄だった。
 ファシストの世界観によれば、経済秩序は二次的な重要性しかもたず、したがって彼らは現存する資本主義秩序も受け入れた。』(*)
 別の学者はこう書く。
 『国家社会主義運動は最初から、政治決定に対して現実的な影響を与えない地位に満足しているかぎりでのみ実業家や特権階層を許容する、そういう新しくて革命的なエリートたちによる統治を目指した。』(113)
 そして彼らは、余裕のある国家秩序やそれが与える収益に満足した。//
 これとの関係では、レーニンはドイツ帝国政府からはもちろんロシアの富裕層から金銭を貰ことに何の呵責も感じなかった、ということを忘れるべきではない。(114)
 権力へと向かっているとき彼は、資本家たち諸団体が新体制と協調関係をもって活動できるように交渉を開始して、喜んでロシアの大企業と協力した。
 その計画は、共産主義を進行させようと強く主張する左翼共産主義者たちの反対によって無意味になった。(115)
 しかし、意図はそこにあった。そして、かりにレーニンが新経済政策を始めた1921年にロシアの大規模な資本主義工業や商業のうちの何かが生き延びていたとするならば、彼はほとんど確実に、それと交渉を始めていただろう。//
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 (104) A. James Gregor, Ideology of Fascism (New York, 1969), p.304-6.
 (105) Beckrath, Wesen und Werden, p.143-4.
 (106) Theodor Maunz, in: Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.146-7.
 Feder, Der deutsche Staat, p.22 も見よ。
(107) Schoenbaum, 引用同上, p.147.
 (108) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.247.
 (109) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.114, p.116.
 (110) Neumann, Permanent Revolution, p.160-p.170.
(111) Rauschning, Revolution of Nihilism, p.56.
 (112) Henry A. Turner, Jr., German Big Business and the Rise of Hitler (New York, 1985), p.340-1.
 (*) Axel Kuhn, Das faschistishe Herrschaftssystem (Hamburg, 1973), p.83.
 この著者は、「ファシスト」をナツィの意味で用いている。
 ワイマール共和国では産業界は「…統治形態に対する驚くべき無関心さを示した」、ということが指摘されてきた。Henry A. Turner , in: AHR(=American Historical Review), Vol. 75, No. 1 (1969), p.57.  
 (113) Neumann, Permanent Revolution, p.170.
 (114) リチャード・パイプス・ロシア革命, p.193, p.369-372, p.410-2。
 (115) 同上、p.676-9。
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 第5節「三つの全体主義体制に共通する特質」終わり。第6節「…相違」へとつづく。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1776/諸全体主義の相違②完-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)
 試訳のつづき。第5章第6節。p.280-1。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違②。
 要するに、ロシアは社会構造が同質で民族的構造が異質だったので、熱望をもつ独裁者は階級間の敵意に訴えることが想定されえたのだが、状況が反対の西側では、訴えかけは民族主義(ナショナリズム)になったのだろう。//
 とは言え、今きちんと、つぎのことを記しておかなければならない。
 階級にもとづく全体主義と民族にもとづく(nation-based)全体主義は、一つに収斂しがちだ。
  スターリンはその政治的経歴の最初から、大ロシア民族主義と反ユダヤ主義を用心深く奨めていた。
 第二次大戦の間と後で彼は、おおっぴらに、明瞭な熱狂的愛国主義の言葉を使った。
  ヒトラーの側について言うと、彼はドイツ民族主義は制限的すぎると考えていた。
 彼は「私は世界革命を通じてのみ、自分の目的を達成することができる」とラウシュニンクに語り、ドイツ民族主義をより広い「アーリア人主義」へ解消するだろうと予言した。
 『民族(nation)という観念は無意味になってきた。…
 我々はこの偽りの観念から抜け出して、人種(race)の観念へと代えなければならない。…
 歴史的過去を帯びる人々の民族的区別の言葉遣いで新しい秩序を構想することはできない。だが、この区別を超える人種にかかる言葉遣いによってならそうすることができる。…
 科学的意味では人種というものは存在しないと、私は素晴らしく賢い知識人たちと全く同様に、完璧によく知っている。
 しかし、農民で牧畜者であるきみは、人種という観念なくしてはきみの生育の仕事をうまくは成し遂げられない。
 政治家である私は、今まで歴史の基盤の上に存在した秩序を廃棄して全般的で新しい反歴史的な秩序を実施し、そしてそれに知的な根拠を与える、そういうことを可能とする観念を必要としている。…
 そして、人種という観念は、私のこの目的のために役立つ。…
  フランス革命は、国民(民族、nation)という観念を国境を超えて伝播させた。
 国家社会主義は、人種という観念でもって広く革命をもたらし、世界を作り直すだろう。…
 民族主義(ナショナリズム)という常套句には多くのものは残らないだろう。我々ドイツ人には、ほとんど何も。
 その代わりに、善良な一つの支配する人種についての多様な言葉遣いが、理解されるようになるだろう。』(120)//
 共産主義と「ファシズム」は、異なる知的起源をもつ。一方は啓蒙哲学に、他方はロマン派時代の反啓蒙的文化に、根ざしている。
 理論については、共産主義は理性的、構築的で、「ファシズム」は非理性的、破壊的だ。このことは、共産主義がつねに知識人たちに対してきわめて大きい魅力を与えた理由だ。
 しかしながら、実際には、こうした区別もまた、不明瞭になっている。
 じつにここでは「存在」が「意識」を決定するのであり、全体主義諸制度はイデオロギーを従属させ、それを意のままに再形成するのだ。
 記したように、両者の運動は思想(ideas)を、際限のない融通性をもつ道具だと見なす。それは、服従を強制して一体性の見せかけを生み出すために、臣民たちに押しつけられる。
 結局のところ、レーニン主義-スターリン主義の全体主義とヒトラー体制は、いかに知的な起源が異なっていても、同じように虚無主義的(nihilistic)で、同じように破壊的なのだ。//
 おそらく最も語っておくべきなのは、全体主義独裁者たちがお互いに感じていた、称賛の気持ちだ。
 述べてきたように、ムッソリーニはレーニンに大きな敬意を払っていたし、「隠れたファシスト」に変わったことについてスターリンを惜しみなく賞賛した。
 ヒトラーはごく親しい仲間に、スターリンの「天才性」に対して尊敬の念を抱いていることを認めた。
 第二次大戦のただ中でヒトラーの兵団が赤軍との激しい戦いで阻止されていたとき、彼は両軍が一緒になって西側の民主主義諸国を攻撃し、破滅させることを瞑想した。
 このような両軍の協働に対する一つの重大な障害は、ソヴィエト政府の中のユダヤ人の存在だった。これは、ヒトラーの外務大臣のヨアヒム・リッベントロップ(Joachim Ribbentrop)にソヴィエト指導者が与えた、非ユダヤ系の適切な幹部の地位に就けば指導的部署から全てのユダヤ人を排除するとの保証、を考慮すれば解消できるように見えた。(121)
 そしてその代わりに、最も過激な共産主義者の毛沢東は、ヒトラーとその方法を称賛した。
 きわめて多くの同志の生命を犠牲にした文化革命のさ中に非難が加えられたとき、毛沢東は、「第二次大戦を、ヒトラーの残虐さを見よ。残虐さが強ければ強いほど、革命への熱狂はそれだけ大きくなる」、と答えた。(122)//
 根本のところで、左と右の様式がある全体主義体制は、類似した政治哲学と実践によってのみならず、それらの創設者の共通する心理によって結び合わされている。
 すなわち、搔き立てる動機は憎悪であり、それを表現したのが暴力だ。
 彼らの中で最も率直だったムッソリーニは、暴力は「道徳的な治癒療法」だ、人々を明白な関与に追い込むのだから、と述べた。(123)
 この点に、そして自分は疎外されていると感じている現存の世界を、どんな犠牲を払ってでも全ての手段を用いて徹底的に破壊しようとの彼らの決意のうちに、彼らの親近性(kinship)があった。//
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 (120) Rauschning, Hitler Speaks, p.113, p.229-230.
 (121) Henry Picker, ed., Hitlers Tischgespräche im Führerhauptquartier, 1941-1942 (Bonn, 1951), p.133. 
 (122) NYT(=New York Times), 1990年8月31日号, A2.
 (123) Gregor, Fascist Persuasion, p.148-9. 
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 第5章第6節、そして第5章全体が、これで終わり。

1490再掲/レーニンとスターリン-R・パイプス1994年著終章6節。

 ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳する。 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。
 
章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節だ。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1923/R・パイプス・ロシア革命第11章<十月クー>第1節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」)前後に関する全般的かつ詳細な、つぎの二つの大著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 いずれについても、邦訳書はない。
 但し、前者の2/3と後者を一つに併せたような簡潔版があり、これには、邦訳書がある。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)。
 上のうちAの一部を二年近く前から「試訳」してこの欄に紹介し始めたのだったが(その後Bの一部へも移動)、このAについて試訳の掲載を済ませているのは、第9章(レーニンとボルシェヴィズムの起源)と第10章(権力を目指すボルシェヴィキ)の二つの章にすぎず、本文だけで計842頁になる全体のうち98頁にすぎない。
 ある程度は黙読しかつCの邦訳書も参考にしているので、すでに多少の知識はある。しかし、きちんと日本語に置き換える作業をしておく必要があるだろう。
 トロツキーを長とするペトログラード・ソヴェトの軍事革命委員会の設立辺りから再開したいところだが(なお、確認しないが、ここでの「革命」はレーニンが考え抱く「社会主義革命」では決してなかっただろう)、R・パイプスのAの書物は急いでくれない。
 <コルニロフ事件>という<右への揺れ>があったからこそつぎに<左への揺れ>でレーニン・ボルシェヴィキに有利になった(偶然なのか必然なのか)ともされるので、じっくりとつぎの第11章(十月のクー)の冒頭から「試訳」作業を続けてみよう。
 各節の見出しは本文中にはなく、目次(内容構成)上のものを用いている。
 注記のうち(*)は本文の下欄(文字どおりの脚注)で数字番号付きの注は全体の後にまとめて掲載されている。ここでは前者は本文中に挿入し、後者は試訳掲載部分ごとに最後に記載する。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に、原著にはない数字番号を付した。注記のうちロシア文字が長くつづくものは記載を省略する。
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 Richard Pipes(R・パイプス)・ロシア革命1899-1919 (1990)。
 第11章・十月のクー。
 「捕食動物がその食する動物よりも賢くなければならないのは、自然の法則だ。」
 -自然史入門(Manual of Natyral History)。
 「我々がその当時に本当の危険に直面したのは、まさにその瞬間からだった。」
 -Alexander Kerensky. (1)
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 (1) A・ケレンスキー <The Catastrophe>(New York-London, 1927), p.318.
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 (はしがき)
 1917年9月、レーニンは隠れており、ボルシェヴィキ勢力の指揮権はトロツキーに渡った。トロツキーは、二ヶ月前に入党していた。
 即時の権力奪取というレーニンからの圧力に抗して、トロツキーはより慎重な戦略を採用した。ボルシェヴィキの企図は権力のソヴェトへの移行への努力だと偽装したのだ。
 ほぼ間違いなくその考案者だと言ってよいが、近代クーデタの技術にきわめて熟達しているトロツキーは、革命を勝利へと導いた。//
 トロツキーは、レーニンを補完する理想的な人物だった。
 より目立ち、より派手な、はるかに上手い演説者かつ著述者として、彼は群衆を魅了することができた。レーニンのカリスマ性は、その支持者たちの間に限られていた。
 しかし、トロツキーは、ボルシェヴィキ党員からは人気がなかった。一つには、ボルシェヴィキを辛辣に攻撃して数年のちに遅く党に加入したからだ。また一つには、耐えられないほどに傲慢だったからだ。
 いずれにせよ、ユダヤ人であるトロツキーは、革命であれ何であれ、ユダヤは外部者だと見なされた国での全国的な指導者になることを、ほとんど見込めなかった。
 革命と内戦の間、彼はレーニンの分身(alter ego)で、腕を組み合う不可欠の同僚だった。しかし、勝利を得たのちには、当惑の種になる。//
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される①。
 (1)ボルシェヴィキが七月の敗走から回復することを可能にしたのは、ロシア革命のうちでのもっと奇怪な出来事の一つによる。それは、コルニロフ(Kornilov)事件として知られる。(*)
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 (*) ロシア革命に関する歴史家にこれほどの関心を惹起した主題はほとんどない。したがって、これに関する文献はきわめて多い。
 主要な第一次資料は、D. A. Chugaev, ed., <以下、〔略〕>で公刊されている。
 ケレンスキーに関する資料は、Delo Kornilova所収(英語訳<ボルシェヴィズムへの前奏>、ニューヨーク、1919)、Boris Savinkovに関する資料は、K delu Kornilova所収(Paris, 1919)。二次的文献のうち、とくに教示的なものは以下。E. I. Martynov の党派的だが豊かな資料をもつ<コルニロフ>(Leningrad, 1927)、P. N. Miliukovの<〔略〕>(Sofia, 1922)、およびGeorge Katkov の<コルニロフ事件>(London-New York, 1980)。
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 (2)将軍Larv Kornilov (コルニロフ)は、1870年にシベリア・コサックの家庭に生まれた。
 父親は農民かつ兵士で、母親は家事従事者だった。
 コルニロフの庶民的出自は、ケレンスキーやレーニンの出自とは対照的だった。彼らの父親は公職貴族の上位階層に属していた。
 コルニロフは、カザフ・キルギスの中で幼年時代を過ごし、アジアとアジア人に対する終生の情愛を保持し続けた。
 軍事学校を卒業して、参謀学校に入り、栄誉を得てそこを修了した。
 彼はトルキスタンで活動任務を開始し、アフガニスタンやペルシアへの遠征隊を率いた。
 中央アジア語のトルコ方言を習得していてロシアのアジア地域の専門家になっていたコルニロフは、赤い外衣を身にまとってTekkeトルコ人の護衛兵に囲まれているのを好んだ。彼らとはその母国語で会話し、彼は「Ulu Boiara」あるいは「大ボヤール(Great Boyar)」として知られていた。
 彼は日本との戦争に参加し、その後に軍事随行員として中国に配置された。
 1915年4月、ある分隊を指揮していたときに重傷を負い、オーストリア軍の捕虜となった。だが、脱走して、ロシアに帰還した。
 1917年3月、ドゥーマの臨時委員会はニコライ二世に、コルニロフをペトログラード軍事地区の司令官に任命するよう求めた。
 4月のボルシェヴィキ反乱までこの地位に就いていたが、そのときに離任し、前線へと向かった。//
 (3)まず第一にかつ主としては政治家であるほとんどのロシアの将軍とは違って、コルニロフは戦闘する人間で、伝説的な勇気をもつ野戦の将校だった。
 彼には愚鈍との評判があった。アレクセイエフは、コルニロフは「獅子の心と羊の脳をもっていた」と語ったと伝えられている。しかしこれは、公正な評価ではない。
 コルニロフには、多量の実践的知識と一般常識があった。このタイプの他の兵士たちに似て、政治や政治家を軽蔑していたけれども。
 彼は、「進歩的」見解をもっていた、と言われた。そして、彼かツァーリ体制を嫌っていたことについて、疑う理由はない。(2)//
 (4)軍人としての履歴の最初の頃、コルニロフは不服従の傾向を示し、それは1917年二月以降にさらに強くなった。そのとき彼は、ロシア軍の解体と臨時政府の無能力さを観たのだった。
 彼に対する反対者はのちに、独裁的野心をもっていたと彼を責めるだろう。
 このような追及は、一定の条件をつけてのみ行うことができる。
 コルニロフは愛国者で、とくに戦時中に国内秩序を維持し勝利のために必要な全てのことを行ってロシアの国家利益を前進させる、そういういかなる政府に対しても、奉仕する心づもりがあった。
 1917年の夏遅く、彼は、臨時政府はもはや自由な活動者ではなくて社会主義インターナショナル派の捕囚になっており、敵の工作員がソヴェトの中に収まっている、と結論づけた。
 独裁的権力を掌握するという示唆を彼に受容させたのは、まさにこのような信念だ。//
 (5)ケレンスキーは七月蜂起の後でコルニロフに向き直って、コルニロフが軍隊の紀律を回復し、ドイツの反攻を抑えることを望んだ。
 7月7-8日の夜、ケレンスキーはコルニロフを戦闘の先端にある西南方前線の責任者に任命した。そして三日後に、補佐官のBoris Savinkov の助言にもとづいて、コルニロフに最高司令官の地位を提示した。
 コルニロフは、急いでは受諾しなかった。
 彼は政府がロシアの戦争努力全体を妨げている諸問題と真剣に取り組むまでは、かつそうでなければ、軍事活動の指揮を執る責任を負うのは無意味だと考えていた。
 その諸問題には、二つの性格のものがあった。狭くは軍事的なもの、より広くは、政治的および経済的なものだ。
 他の将軍たちと相談して、コルニロフは軍隊の戦闘能力を回復するには何がなされる必要があるかについて、幅広い合意を見出した。すなわち、指令第一号が権限を与えた軍事委員会は廃止されなければならず、または少なくともその権能が縮小されなければならない、軍事司令官たちは紀律に関する権能を再び取得しなければならない、後方の連隊への秩序を回復するために諸手段が用いられなければならない。
 コルニロフは、後方はもちろんのこと前線での脱走や反抗について有罪である軍隊人員に対して、再び死刑を導入することを要求した。
 しかし、そこに彼はとどまらなかった。
 他の交戦諸国の戦時動員計画について知っており、ロシアについても同様のものを望んだ。
 防衛産業および輸送-戦争努力にとって最も重要な経済部門-を担当する従事者たちが軍事紀律に服すべきことは、コルニロフには不可欠のことだと思えた。
 前任者たちよりも大きな権限を要求した範囲は、1916年12月にドイツの経済に対する事実上の独裁的権力を握った将軍ルーデンドルフと対抗するためだった。すなわち、国家が全面戦争を遂行することができるようにするためだ。
 コルニロフが主任幕僚の将軍A. S. Lukomski と共同で作り上げたこの計画は、彼自身とケレンスキーとの間の対立の主要な源泉になった。この計画は将校団および非社会主義者の意見を反映しており、ケレンスキーはソヴェトの監視のもとで行動しなければならなかったからだ。
 調整できないものがあるために、対立を解消するのは不可能だった。国際社会主義の利益に対して、一方にはロシア国家の利益があった。
 両人をよく知っていたサヴィンコフ(Savinkov)が、つぎのように述べるように。
 コルニロフは「自由を愛した。<中略> しかし、彼にとってロシアが第一で、自由はその次だった。一方、ケレンスキーにとって<中略>、自由と革命が第一で、ロシアはその次だった」。(3)//
 (6)7月19日、コルニロフは司令官を受諾するために用意している条件を、ケレンスキーに対して伝えた。
 1: 良心と国家に対してのみ責任を負う、2: 自分の活動命令と司令官任命のいずれについても何者も干渉しない、3: 政府と議論している紀律確保の手段は、死刑による制裁も含めて、後方の兵団にも適用される。4: 政府は自分の従前の提案を受け入れる。(4)
 ケレンスキーはこれらの要求に対して激しく怒り、コルニロフに対する提示を撤回することを考えたほどだった。しかし、翻って考え直したうえで、これを将軍の政治的な「無邪気さ(naïveté)」を表現したものだとして取り扱うことに決めた。(5)
 実際のところ、軍隊がなければ彼は無力であるため、ケレンスキーはコルニロフの助力に大きく依存していた。
 確かに、コルニロフの四条件のうち第一のものは、ほとんど無作法だった。しかしながら、将軍の望みはソヴェトによる介入を除去することにある、と説明することはできる。ソヴェトは、指令第一号で、軍事命令を取り消す権限を要求していたのだ。
 最高司令部にいるケレンスキーの副官でエスエル〔社会革命党〕のM. Filonenko がコルニロフに、「責任」とは臨時政府に対するものを意味させていないとすれば、この要求は「きわめて深刻な懸念」を呼び起こすだろう、と語った。これに対してコルニロフは、そのことはまさしく考えていることだ、と答えた。(6)
 そして、のちに見られるようにコルニロフがケレンスキーと最終的に決裂するまでは、彼の「不服従」はソヴェトに対して向けられていたのであり、臨時政府に対してではなかった。//
 (7)コルニロフが軍隊の司令権を掌握したいと考える条件は、おそらくはコルニロフの公的関連将校のV. S. Zavoiko によって、プレスへと漏らされた。
 各条件が<Russkoe slovo>7月21号で公にされた結果、大騒動が発生した。コルニロフは非社会主義の集団ではすぐに人気を獲得し、一方でそれに対応するだけの敵愾心を左翼に生じさせた。(7)
 (8)首相と将軍の間の交渉は、ゆっくりと二週間つづいた。
 コルニロフは、自分が提示した条件は充たされるだろうとの保障を得て、ようやく7月24日に新しい任務を引き受けた。
 (9)しかしながら、実際には、ケレンスキーは約束を守ることができなかつたし、その意思もなかった。
 彼は自由な人物ではなくイスパルコム(Ispolkom〔ソヴェト執行委員会〕)の意思の執行者だというのが、できない理由だった。イスパルコムはとくに後方での軍事紀律を回復しようとする全ての手段を「反革命的」だと考えており、それらを拒否していた。
 したがって、ケレンスキーが改革を実行するためには、彼の主要な政治的支持者である社会主義者たちと分裂することを強いられただろう。
 そして彼は、コルニロフは将来の危険な対抗者であることをすぐに理解するに至っただろうから、約束を断固として守ろうとはしなかっただろう。
 歴史研究者が歴史上の個人の心の裡を見通そうとするのは、つねに危険なことだ。しかし、7月と8月のケレンスキーの行動を観察すれば、彼は慎重に、自分の軍事官僚たちの不同意を惹起させ、妥協する機会をもつことを断固として拒否した、という結論以外のものを見出すのは困難だ。
 なぜなら、ケレンスキーは、ロシアの指導者かつ革命の擁護者としての自分の地位を脅かすいかなる者をも、打倒しようと考えていたからだ。(*)//
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 (*)これは、将軍Martynov の見解でもある。彼は、こうした事態をすぐ傍らで観察していて、文書上の証拠を研究した。すなわち、同<コルニロフ>, p.100。N. N. Golovin<<略>>(Tallin, 1937), p.37.参照。
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 (2) A・ケレンスキー <ボルシェヴィズムへの序曲>(New York, 1919),xiii. D. A. Chugaev, ed, <<略>>(Moscow, 1959),p.429.
 (3) Zinaida Gippius, Sinoaia kniga (Belgrade, 1929), p.152.
 (4) E. I. Martynov <コルニロフ>(Leningrad, 1927), p.33-34.
 (5) A・ケレンスキー・Delo Kolnilova (Ekaterinoslav, 1918), p.20-21.
 (6) Martynov <コルニロフ>p.36.
 (7) 同上、p.34.
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 ②へとつづく。 

1924/R・パイプス・ロシア革命(1990)第11章第1節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990)
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 なお、著者(R・パイプス)はアメリカで存命だったA・ケレンスキー(1881-1970)に直接に会って、インタビューしている。
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される②。
 (10)Boris Savinkov (B・サヴィンコフ)は、軍事省の部長代行で、ケレンスキーとコルニロフの二人の信頼を得ていたため、仲介者としての役割を果たすには理想的にふさわしい人物だった。彼は、8月初めにつぎを求める四項目の案を起草した。すなわち、後方兵団への死刑の拡大、鉄道輸送の軍事化、軍需産業への戒厳令の適用、〔ソヴェトの〕軍事委員会の権限の縮小に対応する将校の紀律権限の回復。(8)
 彼によると、ケレンスキーは文書に署名すると約束したが、それを引き延ばし続け、8月8日に、「いかなる状況にあっても、後方部隊への死刑については署名しない」と彼に言った。(9)
 コルニロフは欺されたと感じて、ケレンスキーに「最後通牒」を突きつけた。これがケレンスキーを憤激させ、コルニロフをほとんど解任しそうになった。(10)
 ケレンスキーが軍隊の再活性化に強い関心を持っているのを知って以降、コルニロフはケレンスキーの不作為によって、首相は自由な人間ではなく社会主義者たちの道具にすぎないという疑念を持たざるをえなかった。社会主義者たちのうちの何人かは、七月蜂起以降、敵と通じていると言われていた。
 (11)コルニロフの執拗な要求は、ケレンスキーを困難な状態に追い込んだ。
 ケレンスキーは5月以降、何とか政府とイスパルコムの間に股がってきた。立法に関するイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の拒否権に譲歩してそれが離反しないようにし、他方では同時に、力強く戦争を遂行して、リベラル派や穏健な保守派すらの支持を得ることによって。
 コルニロフは、ケレンスキーが是非とも避けたいと願っていること-つまり左翼と右翼のいずれかを、国際的社会主義の利益とロシア国家の利益のいずれかを、選択すること-をするように首相に迫った。
 ケレンスキーは幻想のもとにいることはできなかった。すなわち、多くは合理的だと考えていたコルニロフの要求に応じるのは、ソヴェトとの決裂を意味するだろう。
 ソヴェトの会議は8月18日、ボルシェヴィキの動議にもとづき、軍隊へ死刑を復活させる案について議論した。
 この案は事実上の満場一致で、すなわち4人(ツェレテリ、ダン、M. I. Liber、チェハイゼ)の反対に対するおよそ850人の賛成で、前線部隊への死刑の適用を拒否する決議を採択した。それの適用は、「司令幕僚たちに対する奴隷にする目的でもって兵士大衆に恐怖を与えようとする手段だ」として。(11)
 明白なことだが、戦闘地域にいない後方の兵団に対して死刑を拡大することにソヴェトが同意することはあり得なかった。防衛産業や輸送の労働者たちに軍事紀律を課すことについては、言うまでもない。//
 (12)理論的には、ケレンスキーはソヴェトに対抗して、リベラル派と保守派に運命を委ねることも考えられ得ただろう。
 しかし、とくに六月攻勢の失敗と七月蜂起に対する優柔不断な対応の後でこれらの社会勢力が彼に抱いている低い評価を考えると、ケレンスキーがこれを選択する可能性はあらかじめすでに排除されていた。
 8月14日のモスクワの国家会議にケレンスキーが姿を現したとき、彼は左翼側によってのみ強く称賛された。右翼側は石のごとき沈黙でもって迎えた。彼らが拍手喝采を浴びせたのは、コルニロフに対してだった。(12) 
 リベラル派と保守派のプレスは、包み隠さすことのない侮蔑をもってケレンスキーに触れていた。
 したがって彼には、左翼側を選択する以外の余地はなかった。イスパルコムの社会主義知識人たちに従順でありつつ、一方では確信と成功の見込みは減っていても、ロシアの国家利益を推進しようとしながら。//
 (13)ケレンスキーが左翼側と宥和したかったのは、約束した軍隊改革をしなかったことのみならず、ボルシェヴィキに対して断固たる措置をとらなかったことでも明らかだった。
 彼は大量の証拠を手にしてはいたけれども、イスパルコムとソヴェトに遠慮して七月蜂起の指導者たちを訴追しなかった。彼らは、ボルシェヴィキの責任を追及するのは「反革命的」だと考えていた。
 ケレンスキーは、右翼と左翼の両方の戦争遂行「妨害者」に保護されるべきとの軍事省からの提案に反応して、これと類似した先入観をもっていることを示した。
 彼は、右翼側の逮捕されるべき者の名簿を承認した。しかし、別の名簿が届けられたときには躊躇を示した。そして、結局は半分以上の名前を除外したのだった。
 それらの文書が、連署が必要な内務大臣でエスエルのN. D. Avksentiv に届いたとき、彼は最初の名簿を再確認したが、第二の名簿からは2名(トロツキーとコロンタイ)以外の全ての者の名前を削除した。(13) //
 (14)ケレンスキーは、民主主義的ロシアを指導すると運命づけられていると自認する、きわめて野心的な人物だった。
 この野心を実現する唯一の方法は、民主主義的左翼-すなわちメンシェヴィキとエスエル-の主張を管掌することだった。そして、そうするためには、その左翼がもつ「反革命」という強迫観念を分かち持たなければならなかった。
 彼は、コルニロフのうちに全ての反民主主義勢力が集中したものを見たのみならず、そう見る必要があった。
 ボルシェヴィキが4月、6月そして7月の武装「示威行動」で何を意図していたのかをよく知っており、またレーニンやトロツキーが将来に企てていることを容易に理解したけれども、ケレンスキーは、ロシアの民主主義は左翼からの危険ではなく右翼からの危険に直面していると、自らを納得させた。
 知識がなかったわけでも知的精神をもっていなかったわけでもなかったので、彼のこのような馬鹿げた評価は、それが彼には政治的にふさわしかったという前提でのみ、意味があることになる。
 コルニロフにロシアのボナパルトの役を割り当てて、ケレンスキーは無批判に-じつは進んで-、コルニロフの友人や支持者たちが巨大な反革命の陰謀を企てているという風聞に反応した。(14)
 (15)軍隊改革が実行されないままで、貴重な日々が過ぎ去った。
 コルニロフは、ドイツがまもなく軍事攻勢を再開しようとしていると知り、また事態を動かすことを意図して、内閣と会うことの許可を求めた。
 彼は8月3日に、首都に着いた。
 大臣たちに挨拶をして、彼は軍隊の状態の概略を述べ始めた。
 コルニロフは、軍隊の改革に関して議論したかった。しかし、サヴィンコフが軍事省がその問題に取り組んでいると言って、遮った。
 コルニロフはそのあと、前線の状況に話題を変えて、ドイツとオーストリアに対して準備している軍事行動について報告した。
 この時点で、ケレンスキーはコルニロフに寄りかかって囁いて、注意するように求めた。(15) 一瞬のちに、同様の警告がサヴィンコフからもあった。
 この出来事によって、コルニロフと彼の臨時政府に対する態度が、動揺した。
 彼はこのことに何度も言及して、その後の彼の行動を正当化するものだとした。
 彼はケレンスキーとサヴィンコフの警告を正しく解釈していたので、一人のまたは別の大臣は軍事機密を漏洩する疑いがあった。
 モギレフに戻ったときコルニロフは、衝撃を受けた状態のままで、Lukomskii に起きたことを語り、いかなる性格の政府がロシアを動かしていると考えるかと尋ねた。(16)
 彼は、自分が警告された大臣はチェルノフだと結論づけた。チェルノフは、ボルシェヴィキを含むソヴェトの仲間たちに秘密情報を伝えていると信じられていた。(17)
この日以降、コルニロフは臨時政府を国家と国民を率いるに値しない、と見なした。(*)
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 (*) 政府は忠誠心のない者やおそらくは敵の工作員に惑わされているとの彼の確信は、彼がこの時期に政府に提出した秘密のメモ文書がプレスに漏れたことで強められた。
 左翼のプレスは抜粋版を発行し、コルニロフに反対する運動を開始した。悪口のキャンペーンだった。Martynov <コルニロフ>, p.48.
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(16)この出来事からほどなくして(8月6日又は7日に)、コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官である将軍クリモフ(A. M. Krymov)に、その兵団をルーマニア地域から北方へ動かすよう命令した。そして、別の軍団を投入し、西部ロシアの大雑把にはモスクワとペトログラードと等距離にある都市のVelikie Luki で位置を整えるよう命じた。
 第三軍団は、二つのコサック分団とコーカサスからのいわゆる土着(または粗雑)分団で構成されていた。いずれも人員不足だったが(土着分団には1350人しかいなかった)、頼りになると見なされた。
 こうした命令に当惑して、Lukomskii は、これらの勢力をドイツ戦に用いるのだとするとVelikie Luki は前線から遠すぎる、と指摘した。
 コルニロフは答えて、モスクワかペトログラードのいずれかで発生する可能性が潜在的にあるボルシェヴィキの蜂起を鎮圧するための場所に軍団はいて欲しいと語った。
 彼はLukomskii に対し、臨時政府に対抗するつもりはない、だが必要だと分かれば、クリモフの兵団がソヴェトを解散し、その指導者たちを吊し、ボルシェヴィキを-政府の同意があってもなくても-簡単に片付ける、と付け加えた。(18)
 彼はまたLukomskii に、ロシアは国家とその軍隊を救うことのできる「確固たる権威」を絶望的にだが必要としている、と語った。
 つぎは、コルニロフの文章だ。
 「私は反革命家ではない。<中略>私は旧来の統治体制の形態が嫌いだ。それは私の家族を手酷く扱った。過去に戻ることはない。決して、あり得ない。
 しかし、我々は、本当にロシアを救うことのできる権威を必要としている。その権威は、戦争を栄誉をもって終わらせることを可能にし、立憲会議〔憲法制定会議〕へとロシアを指導するだろう。<中略>
 我々の現在の政府には、しっかりした個人はいるが、事態を、ロシアを、破滅させる者もいる。
 重要なことは、ロシアには権威がなく、そのような政府が設立されなければならないということだ。
 おそらくは私は、そのような圧力を政府に対してかけることになるはずだ。
 かりにペトログラードで騒擾が勃発すれば、それが鎮圧された後で私は政府に入り、新しい、強い権威の形成に参加しなければならないだろう。」(19)//
 (17)ケレンスキーがコルニロフに対して一度ならず自分も「強い権威」に賛成だと言っていたのを聞いていたので、Lukomskii は、コルニロフと首相は困難なく協力するはずだ、と結論した。(20)
 コルニロフはサヴィンコフの要請に応じて8月10日にペトログラードに戻った。しかしこれは、首相の望みには反していた。
 ケレンスキーの生命を狙う試みに関する風聞を聞いて、彼はTekke の護衛団とともに到着し、護衛団はケレンスキーの事務所の外側に機関銃を積み上げた。
 ケレンスキーは内閣全員と会いたいとのコルニロフの要請を拒否した。そしてその代わりに、顧問団であるNekresov とTereshenko が同席して、彼を迎えた。
 将軍の非常時意識は、ドイツが軍事攻勢をリガの近くで開始し、首都の脅威になりそうだ、という知識にもとづいていた。
 彼は改革の問題に話題を転じた。外国勢力のために働くロシア人に対する死刑も含めての、前線および後方での紀律の回復、および防衛産業や輸送の軍事化だった。
 ケレンスキーは、コルニロフが望んだことの多く、とくに防衛産業と輸送に関しては「馬鹿げている」と考えた。しかし、軍隊の紀律を強化することを拒否することはなかった。
 コルニロフは首相に、自分はまさに解任されそうで、軍での騒擾を刺激しそうな行動をしないように「助言されている」ということを分かっている、と言った。(22)
 (18)4日後、コルニロフは国家会議にあっと言わせる登場の仕方をした。その会議はケレンスキーがモスクワに国民の支持を集めるべく招集したものだった。
 まず最初に、ケレンスキーは会議で挨拶するのを許可せよとのコルニロフの要請を拒否した。しかし、軍事問題に限定するという条件つきで、容赦した。
 コルニロフがボリショイ劇場に着いたとき、彼は喝采を受け、群衆によって持ち上げられた。
 右翼の議員たちは、騒がしい歓迎の仕方で迎えた。
 むしろ素っ気ない演説でコルニロフは、政府の政治的な打撃になると解釈され得るものは何も語らなかった。ケレンスキーにとっては、この事態が、分岐点だった。すなわち彼は、将軍に対する共感を示すことはケレンスキーへの個人的な侮蔑だと解釈したのだ。
 ケレンスキーののちの証言によると、「モスクワ会議の後で、つぎの攻撃の試みは右翼から来るだろう、左翼からではない、ということは自分には明瞭だった」。(23)
 このような確信が彼の心の裡にいったん定着してしまうと、それは<固定観念(idée fixe)>になった。
 のちに起こることは全て、それを強化するのに役立つだけになる。
 右翼のクーが進行中だとの彼の確信は、将校たちや一般市民からの電信で強まった。それらは、コルニロフをその職のままにとどめておくことを求めるもので、また幕僚将校たちによる陰謀の軍事的中心部からの内密の警告だった。(24)
 保守派のプレスは、ケレンスキーとその内閣に対する連続的な批判を開始した。
 典型的だったのは右翼<Novoe vremia>の編集部で、ロシアを救う鍵は最高司令官の権威を疑いなく受容することだ、と主張した。(25)
 コルニロフがこの政治的キャンペーンを使嗾したという、いかなる証拠も存在しなかった。しかし、それを受け取る側には、彼は疑念の対象になった。//
 (19)冷静に観察すれば、司令官たる将軍への共感が高まるのは、ケレンスキーへの不満の表現であって、「反革命」の兆候ではなかった。
 国家は、しっかりとした権威の存在を切に必要としていた。
 しかし、社会主義者たちは、この雰囲気を敏感に気づくことはなかった。
 実際の政治ではなく歴史を詩文的に見て、社会主義者たちは保守派(「ボナパルティスト」)の反動は不可避だと堅く信じていた。(*)
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 (*) 著者〔R・パイプス〕との私的な会話でケレンスキーは、彼の1917年の行動はフランス革命の教訓に強く影響されていたことを認めた。
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 8月24-25日、何かがたまたまにでもそれを正当化する前に、社会主義派のプレスが反革命の存在を告げた。8月25日、メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、「陰謀」との見出しのもとに、真っ最中だ、政府が少なくともボルシェヴィキに対して示したのと同じだけの情熱をもってこれと闘うよう希望を表明する、と発表した。(26)
 かくして、筋書き(plot)は書かれた。
 残るのは、主人公を見つけることだった。//
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 (8) Boris Savinkov <K delu Kornilova>(Paris, 1919), p.13-14.
 (9) 同上、p.15. P. N. Miliukov <Istoriia <以下略>>(Sofoia, 1921), p.105.
 (10)ケレンスキー<Delo>p.23. Savinkov <K delu>p.15-16. Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.99.
 (11) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.69-70.
 (12) 同上、p.54.
 (13) Savinkov <K delu>p.15.
 (14) ケレンスキー<Delo>p.56-57. 同<Catastrophe>p.318.
 (15) Savinkov <K delu>p.12-13. Geprge Katkov <コルニロフ事件>(London-New York, 1980), p.54.
 (16) A. S. Lukomskii, <<略>>(Berlin, 1922), p.227.
 (17) Katkov <コルニロフ事件>, p.170.
 (18) Lukomskii, <<略>>, p.228, p.232.
 (19) Chuganov, <<略>>, p.429.
 (20) 同上、p.429-430.
 (21) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.37-38. Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.224-5.
 (22) Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.107-8. Trubetakoi<<略>>No.8(1917年10月4日)所収。Martynov <コルニロフ>p.53が引用。
 (23) ケレンスキー<Delo>p.81. Gippius, <Siniaia kniga>p.164-5.
 (24) ケレンスキー<Delo>p.56-57.
 (25) <DN>No.135(1917年8月24日), p.1 に引用。
 (26) <NZh>No.110(1917年8月25日), p.1.
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 第2節へとつづく。

1928/R・パイプス著ロシア革命・第11章第2節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第2節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ蜂起鎮圧への助けをコルニロフに求める。
 (1)8月半ば、ドイツ軍は予期されていたリガに対する攻撃を開始した。
 紀律不十分で政治化していたロシア兵団は後退し、8月20-21日にこの都市を放棄した。
 コルニロフにとって、このことはロシアの戦争行動が切実に再組織されなければならないこと、そうでなければペトログラード自体がやがてリガと同じ運命を味わうだろうことの決定的な証拠だった。
 コルニロフ事件があった雰囲気を理解するには、この軍事的後退を視野の外に置いてはならない。
 現代人は歴史家も、コルニロフとケレンスキーの対立をもっぱら権力闘争として扱ってきたけれども、コルニロフにとってそれはまず第一に、戦争に敗北しないようにロシアを救う、重要であるいは最後かもしれない努力だったからだ。//
 (2)8月半ば、サヴィンコフは信頼できるフランス諜報機関の情報源から、ボルシェヴィキが9月最初に新しい蜂起を計画しているとの情報を受け取った。その情報は8月19日に、日刊紙<Russkoe slovo>に掲載された。(*)
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 (*) 新聞によると(189号、p.3)、これはボルシェヴィキの総力挙げてのものだと政府は考えた。
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 その時期は、最高司令部がドイツの作戦の次の段階が始まり、リガからペトログラードへと前進してくるとと考えた時期と合致していた。(27)
 この情報の源は、知られていない。ボルシェヴィキの資料にはその時期にク-を準備していると示すものは何も存在しないので、誤りだったように見える。
 サヴィンコフは、この情報をケレンスキーに伝えた。
 ケレンスキーは動じなかったように見えた。彼はそのとき、のちと同様に、ボルシェヴィキのクーを自分の対抗者による空想の産物だと考えた。(28)
 しかし、言われるボルシェヴィキ蜂起に関する情報を、コルニロフを弱体化させるための言い分として利用することをすぐに思いついた。
 彼はサヴィンコフに、ただちにモギレフに行ってつぎの任務を果たすように頼んだ。
 1: フィロネンコが報告している、最高司令部での将校による陰謀を消滅させること。
 2: 軍最高司令部の政治部署を廃止すること。
 3: ペトログラードとその近郊をコルニロフの指揮から政府の指揮へと移して、そこに戒厳令を敷くことについて、コルニロフの同意を得ること。および-。
 「4: ペトログラードを戒厳令のもとに置いて臨時政府を全ての攻撃から、とりわけボルシェヴィキによる攻撃から防衛するために、コルニロフ将軍が騎兵軍団を派遣するよう頼むこと。ボルシェヴィキはすでに7月3-5日に反乱を起こし、外国の諜報機関の情報によれば、ドイツ軍の上陸とフィンランドでの蜂起と連結して、もう一度蜂起を準備している。」(29)//
 この第四の任務は、ケレンスキーがのちにはコルニロフが政府を打倒するためにペトログラードに対して騎兵軍団を派遣したと主張し、それは将軍を国家反逆罪によって追及する理由にされることになるので、とくに記憶されつづけるに値する。//
 (3)サヴィンコフのモギレフでの任務の目的は、そこで企てられているとされる反革命陰謀を終わらせ、かつそのようにして、ボルシェヴィキの蜂起に対抗する準備をしているふりをすることだった。
 ケレンスキーはのちに、「最高司令部に対する軍事上の自立性」が欲しかったので、自分の指揮下におく軍事力-すなわち、第三騎兵軍団-を求めた、ということを婉曲的ながら認めた。(30)
 ペトログラード軍事地区をコルニロフの指揮から除外することは、同じ目的に役立つものだった。//
 (4)サヴィンコフは8月22日にモギレフに到着し、24日までそこに滞在した。(31)
 彼はまずコルニロフとの会見から始め、全ての違いを乗り越えて将軍と首相が協力することがきわめて重要だと語った。
 コルニロフは、同意した。ケレンスキーについてその職責からすると弱くて適してもいないと考えてはいたが、彼が必要だった。
 コルニロフは、アレクセイエフ(Alekseev)将軍、プレハノフ(Plekhanov)やA A. アルグノフ(Argunov)のような愛国主義社会主義者を用いて政府の政治的基盤を拡大するようケレンスキーは十分に助言されるされるだろうと付け加えた。
 サヴィンコフはコルニロフの改革提案に話題を転じて、政府はそれに関して行動する用意があると保証し、最終的な改革草案を提示した。
 コルニロフは、軍事委員会やコミサールを残したままだったので、全体としては満足できないものだと考えた。
 これらの改革はすぐに行われるのか?
 サヴィンコフは、ソヴェトからの激しい反応を刺激する怖れがあるので、政府は今のところはまだこれを公にするつもりがない、と反応した。
 彼はコルニロフに、ボルシェヴィキが8月末か9月初めにペトログラードで新しい騒擾を起こすことを計画しているという情報があることを知らせた。軍隊改革の基本方針を早まって発表すると、ボルシェヴィキの即時の蜂起を惹起するだろう、軍隊改革に反対しているソヴェトもまたボルシェヴィキに同調する可能性がある、と言いつつ。//
 (5)サヴィンコフはついで、予期されるボルシェヴィキのクーへの対処方法に関する話題へと移した。
 首相は、ペトログラードとその近郊をペトログラード軍事地区から除外し、直接に自分の指揮のもとに置きたいと考えていた。
 コルニロフはこの要請に不満だった。しかし、従った。
 軍隊改革が提示された場合のソヴェトの反応を誰も予想することはできないので、また、ボルシェヴィキの蜂起が予期されることを考慮してサヴィンコフは、ペトログラードの守備連隊に追加して、信頼できる戦闘軍団を投入するのが望ましい、と続けた。
 彼はコルニロフに、二日以内に第三騎兵軍団をVelikie Luki から、政府の指揮が及ぶことになるペトログラード近接地へと動かすよう要請した。
 このことが行われればすぐに、自分は電報でペトログラードに知らせることになる。
 彼はまた、必要となれば、政府はボルシェヴィキに対する「容赦なき」行為を実行する用意がある、かりにボルシェヴィキに加勢するならばペトログラード・ソヴェトに対しても同様だ、と語った。
 この要請に対して、コルニロフはすぐに同意した。//
 (6)コルニロフはまた、最高司令部の将校たちの同盟に対して、モスクワへと移動するよう要請することに同意した。しかし、政治的部署を廃止することは拒否した。
 彼はさらに、注意を引く最高司令部での全ての反政府陰謀を消滅させることも約束した。
 (7)8月24日朝、ペトログラードへと出発しようとしていたときに、サヴィンコフは、二つの要請を追加した。
 コルニロフがこれらを実行しなかったことをのちにケレンスキーは重視しようとしなかったけれども、サヴィンコフの記録では、ケレンスキー自身がこれらの要請を主導的に行ったことが知られている。(33)
 一つは、第三軍団がペトログラードへと出立する前に、この軍団の司令官を将軍クリモフ(Krymov)が取って代わること。サヴィンコフの意見では、クリモフの評判は「望ましくない事態」を生じさせ得るというものだったが。
 もう一つは、コーカサス出身者にロシアの首都を「解放」させかねないので、土着分団を第三軍団から分離すること。//
 (8)コルニロフはケレンスキーの欺瞞を見抜かなかったのか?
 コルニロフの言葉や行動からは、彼はケレンスキーの指示を額面通りにそのまま理解した、という結論に達するに違いないだろう。ケレンスキーの危惧の本当の対象はボルシェヴィキではなくコルニロフ自身だった、ということに彼は気づかなかった。
 二人が別れを告げていたとき、コルニロフはサヴィンコフに、国家がケレンスキーを必要としているのだからケレンスキーを支えるつもりだ、と保障した。(34)
 欠陥が多々あったとしても、ケレンスキーは真の愛国者であり、そしてコルニロフにとって、愛国的社会主義者は貴重な財産だった。//
 (9)サヴィンコフと別れたのち、コルニロフは、その職責を与える将軍クリモフに対してつぎのような命令を発した。
 「1: 私からまたは現地で直接にボルシェヴィキの蜂起が始まったと連絡を受ければ、遅滞なく軍団をペトログラードへと動かし、ボルシェヴィキの運動に参加するペトログラード守備連隊を武装解除させ、ペトログラードの民衆を武装解除して、ソヴェトを解散させること。
 2: この任務を達成したならば、将軍クリモフは砲弾を装備する一旅団をOranienbaum へと分離すること。そこに到着したあとで、クロンシュタット連隊に対して要塞を武装解除し、中心場所へと移るように命令すること。」(35)
 これら二つの命令は、ケレンスキーの指示を補完するものだった。
 第一のもの-騎兵軍団のペトログラードへの派遣-は、サヴィンコフが口頭でした要請に従っていた。
 第二のもの-クロンシュタットの武装解除-は、8月8日にケレンスキーが発したが履行されなかった命令と、その基本趣旨が一致していた。(36)
 これら二つの任務は、臨時政府をボルシェヴィキから防衛するためのものだとされた。
 コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官の地位をクリモフに与えるのを拒否する姿勢を示した、と言われているかもしれない。これを正当化するために、コルニロフはLukomskii に、クリモフでは反乱に対処するのは苛酷すぎるだろうと政府は怖れた、と説明した。しかし、全てが終わってしまったときには、その方が彼には喜ばしいことだっただろう。(37)
 Lukomskii は、サヴィンコフがもたらした指令は一種の罠ではなかったかと、気をめぐらした。コルニロフは「Lukomskii は邪推をしすぎる」と言って、この疑念を却下した。(38)//
 (10)このとき、コルニロフに将校たちが近づいてきて、ペトログラードにはボルシェヴィキ鎮圧を助けるつもりの2000人の軍員がいる、と言った。
 彼らは、その軍員たちを指揮する100人の将校の派遣をコルニロフに要請した。コルニロフは、その人数を派遣すると約束した。
 コルニロフは、8月26日までには全員が準備できる状態になるはずだ、と語った。その日は、予期されるボルシェヴィキ蜂起の時期の最も早い日で、ボルシェヴィキが立ち上がったときにはクリモフが率いる騎兵軍団が接近していて、義勇兵たちがソヴェトの議場のあるスモルニュイ(Smolnyi)を掌握できるはずだった。(39)//
 (11)サヴィンコフは、8月25日にケレンスキーに報告した。ケレンスキーの指令は全て履行されるだろう、と。//
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 (27) N. N. Golovin,<<略>>(Tallin, 1937), p.15.
 (28) ケレンスキー,<Delo>, p.62.
 (29) サヴィンコフの供述書から。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.85. 所収。
 (30) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.158.
 (31) サヴィンコフが書き取った会見要領は、つぎに再録されている。Chugaev,<<略>>, p.421-3. コルニロフと二人の将軍が署名している別の要録書は、つぎにある。Katkov,<コルニロフ>, p.176-8. サヴィンコフの回想録である<K. delu Kornilova>, p.20-p.23.
 (32) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.175.; Chugaev,<<略>>, p.422.
 (33) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日), p.3.
 (34) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.178.
 (35) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.によるコルニロフの供述書から引用。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.91. 参照。
 (36) Martynov,<コルニロフ>, p.94.; Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.
 (37) Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.238.
 (38) 同上、p.237-8.
 (39) 同上、p.232.
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 第3節へとつづく。

1932/R・パイプス著ロシア革命・第11章第3節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 今まで気づいたことがなかったが、1990年版とPaperback版(1996年)とで記載(注のごく一部)が異なっている部分がある。タイトルの一部の「1899-1919」の追記は、1990年版にはない。
 なお、これまでどおり、<>は原文が斜体字(イタリック体)のもの。ほとんどが文献名だが、今回の部分には筆者による<強調>らしき部分があるようだ。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂①。
 (1)このとき、首相と最高司令官との間の不一致を明確な分裂へと変える出来事が発生した。
 その触媒になったのは、自称国家「救済者」、V・N・ルヴォフ(Vladimir Nikolaevich Lvov)という名の、怒れる聖ペテロだった。
 ルヴォフは45歳の、裕福な土地所有家庭に生まれた、燃え立つ野心を持つがそれに相応した才幹はない人物で、落ち着かない人生を送ってきた。
 ペトルブルク大学で哲学を学んだのち、モスクワの神学校に入った。そして、とりとめのない研究をつづけ、しばらくの間は、修道僧になることを考えていた。
 彼は最終的には、政治を選んだ。
 オクトブリスト〔十月主義者〕となり、第三と第四のドゥーマでは議員を務めた。
 戦争中は、進歩ブロックに属した。
 幅広い社会関係のおかげで、第一次の臨時政府で、Holy Synod の検察官に任命された。その職に1917年7月まで就き、その月に解任された。
 彼は解任を悪く受け取り、ケレンスキーに怨みを抱いた。
 相当に個人的な魅力があったと言われているが、繊細で「信じがたいほど軽薄だ」と見なされた。George Katkov は、彼の精神状態(sanity)を疑問視している。(40)
 (2)ルヴォフは、8月、迫りつつある崩壊からロシアを救いたいと考えているモスクワの保守派知識人のグループに入った。
 7月初め以降、国には本当の内閣がなかった。ケレンスキーが独裁的権力を握った。
 ルヴォフと彼の友人たちは、コルニロフのように、臨時政府は事業や軍隊の代表者たちによって強化される必要があると感じていた。
 その考えをケレンスキーに伝えたらどうかと、ルヴォフは提案された。
 このような動きの主導者はA. F. Aladin だったように見える。彼は、陰から姿を一切見せることなく大きな影響力を発揮した、(N.V. Nekrasov やV. S. Zavoiko のような)ロシア革命での不思議な人物の一人だった。
 Aladin は、若いときは社会民主党の革命家で、第一ドゥーマでのTrudovik 会派を率いた。
 第一ドゥーマが解散したあと、彼はイギリスに移って1917年2月までとどまった。
 彼は、コルニロフに近かった。
 親しくてグループを形成したのは、赤十字の役人でルヴォフの兄のI. A. Dobrynskii や、著名なドゥーマ議員で、進歩的ブロックの指導的人物のニコラス(Nicholas)だった。//
 (3)ルヴォフの回想録(全体として信頼できないという特徴をもつが)によれば、国家会議のあとの8月17-22日の間に、コルニロフを独裁者にしてルヴォフを内務大臣にしようという陰謀が最高司令部にある、いう風聞を知った。(*)
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  (*) 1917年9日14日に作成されている、ルヴォフが最初に記したものは、Cguganov 編<<略>>, p.425-8.に収載。
 1920年11月と12月に<PN>に掲載されたルヴォフの回想は、A・ケレンスキー=R. Browder編<ロシア臨時政府1917>Ⅲ( Stanford, Califf., 1961), p.1558-68.
 Vladimir Nabokov <père>が彼との会話に関するルヴォフの説明を「ナンセンス」だとして否定する手紙を<Poslednie novosti >に書き送ったあとで、その掲載は終了した。
 ルヴォフは、パリの路上浮浪者として人生を終えたと言われている。
 (〔上の一行の初版の記述〕=ルヴォフは1921年または1922年にロシアに戻り、変節した「生(Living)教会」に加わった。) 
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 ルヴォフは、ケレンスキーに知らせる義務があると感じた、と主張した。
 二人は、8月22日午前中に、会った。
 ケレンスキーがのちに語るには、国の救い手になろうとする多数の訪問客がおり、その客たちにはほとんど気をかけなかった、しかし、ルヴォフの「伝言」は自分の注意を惹く脅威を伴っていた、と。(+)
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  (+) ケレンスキーは1917年10月8日に、コルニロフ事件調査委員会でルヴォフの交替に関する説明をした。のちに、注記をつけて、<Delo Kornilov>, p.83-p.86.を出版した。
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ケレンスキーによれば、ルヴォフは彼に、政府への世論の支持は基礎を浸食されるまでに至っており、軍部と良好な関係を築く公的人物たちを政府に入れることで政府を下支えすることが必要だ、と語った。
 ルヴォフはそれらの人物に代わって語っていると言ったが、それが誰々なのかを明らかにすることは拒んだ。
 ケレンスキーはのちに、自分の名前で交渉する権限をルヴォフに与えたことを否定した。ルヴォフの言葉に対して「意見を明確に述べる」ことができる前に彼の仲間たちの名前を知る必要はなかった、と言って。
 ケレンスキーはとくに、ルヴォフがコルニロフに助言するためにモギレフへと行く可能性について議論した、ということを否定した。(41)
 彼によれば、ルヴォフが役所を去ったあと、彼はルヴォフとの会話に特別の考えを抱かなかった。
 ケレンスキーを疑う理由はない。しかし、意識的か否かは別として、もっと多くのことを知りたいという印象を与えたというのは、本当らしくないでもない。その場合には、正規の代理人でなかったとしても、モギレフでの反政府陰謀という継続している風聞に実体があるのかどうかを知るための情報探索員(intelligence agent)としてルヴォフを使って、ということになる。(++)
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 (++) これはGolovin の<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.25.の見解だ。
 ルヴォフはのちに彼は要請してケレンスキーから、ルヴォフが大きな裁量をもちかつ完全に秘密に行動するという条件で、自分の仲間たちと交渉する権限を受け取ったと主張した。<PN>190号(1920年12月4日)p.2.
 ケレンスキーののちの活動からすれば、このような振る舞いは彼らしくなかったということにはならないだろう。
 ケレンスキーの側近であるNekrasov の黙認があったというのが、もっとあり得そうだ。彼は、二人〔ケレンスキーとコルニロフ〕の対立を誇張する大きな役割を果たした。
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 (4)ルヴォフは、首相との会話について友人たちに報告するためにモスクワへ戻った。会見は成功だった、と彼は友人たちに語った。そして、ケレンスキーは内閣の再組織を議論する用意がある、と。
 ルヴォフの説明を基礎にして、Aladin が、覚え書きを起草した。
 「1. ケレンスキーは最高司令部と交渉する意思がある。
  2. 交渉はルヴォフを通じて行われるものとする。
  3. ケレンスキーは国と軍部全体に信頼される内閣を形成することに同意する。
  4. これらのことを考慮して、特別の諸要求がまとめられなければならない。
  5. 特別の計画が作り出されなければならない。
  6. 交渉は、秘密に行われなければならない。」(*)
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 (*) Martynov, <コルニロフ>, p.84-p.85. この証言では、ルヴォフは、Aladin の覚え書きは「私の立場ではなくAladin の私の言葉から推論した結論」を示している、と言った。Chugaev,<<略>>, p.426.
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 この文書は、ケレンスキーとの会話を報告する際に、ルヴォフは自分の提案に対する首相の関心を誇張した、ということを示唆している。//
 (5)Dobrynskii に付き添われて、ルヴォフはモギレフへと向かった。
 彼は8月24日、ちょうどサヴィンコフが離れたときに到着した。
 コルニロフはケレンスキーの指令を実施するのに忙しすぎたので、ルヴォフはホテルに入った。ルヴォフはそのホテルでコルニロフがケレンスキーを殺害するとの風聞を聞いた、と主張した。
 恐怖にかられて、ルヴォフはケレンスキーに代わって行動するふりをしてケレンスキーを守り、内閣の再構成について交渉しようと決心した。
 彼は詳しく、こう語った。「ケレンスキーは私にコルニロフと交渉をする特別の権限を与えなかったけれども、私は、一般論として、政府の再組織に同意できるかぎりは、ケレンスキーの名前で交渉することができると感じていた。」
 彼はその夜と再び次の日(8月25日)の朝に、コルニロフと会った。
 コルニロフの証言と同席していたLukomoskii の回想録によれば、ルヴォフは自分自身は「重要な使命」に関する首相の代理人だと考えていた。(43)
 無謀にも警戒心を抱かず、コルニロフはルヴォフに信任状の提示を要請しなかったし、ペトログラードに対して首相に代わって語る権限が彼にあることの確認もしなかった。しかるにそうして、コルニロフはルヴォフとともに、ただちに最も微妙で潜在的には犯罪になり得る議論を始めてしまった。
 ルヴォフの任務はロシアの政府をいかにして堅固なものにするかに関するコルニロフの見解を知ることだ、と彼は語った。
 彼自身の意見では、このことは三つの方法のいずれかによって達成することができる。
 (1) ケレンスキーがかりに独裁的権力を掌握する。(2) 名簿がコルニロフを構成員として形成される。(3) コルニロフが独裁者になり、ケレンスキーとサヴィンコフは閣僚職を担当する。(44)
コルニロフはこの情報を額面通りにそのまま受け取った。彼は以前のいつかに、政府は戦争遂行の運営を改善するためのイギリスの小さな戦争内閣を範とする内閣制を検討していると公式に聞いていたからだ。(45)//
 (6)ケレンスキーは独裁的権力を彼に提示しているということを意味させていたルヴォフの言葉を解釈して、コルニロフは第三の選択肢が最もよいと反応した。
 彼は、自分は権力を欲しがりはしないし、国家のあらゆる長の職の者にに従うだろう、と言った。しかし、ルヴォフが提案したように主要な責任を引き受けることを求められたならば、拒否しないかもしれないし、拒否できないだろう、とも語った。(46)
 コルニロフはさらに進んで、ペトログラードで切迫しているボルシェヴィキ・クーの危険を見るならば、首相とサヴィンコフはモギレフに安全を求め、そこで新しい内閣の構成に関する議論にコルニロフとともに参加するのが賢明かもしれない、と言った。//
 (7)会見は終わった。ルヴォフはただちに、ペトログラードに向けて出立した。
 (8)政治的にはもっと明敏なLukomoskii は、ルヴォフの任務に関して疑念を表明した。
 コルニロフはルヴォフに信任状の提示を求めたのか?
 コルニロフは否と答え、ルヴォフは誠実な人物だと知っているから、と理由づけた。
 サヴィンコフはなぜ、内閣変更に関するコルニロフの意見を尋ねなかったのか?
 コルニロフは、この質問を、とるに足らぬものとして無視した。(47)
 (9)8月25日の夕方、コルニロフは電信で、ロジアンコ(Rodzianko)を別の公的指導者たちと一緒に、三日以内にモギレフに来るように、招聘した。
 ルヴォフは同様の伝言を兄に送った。
 会合は、新しい内閣の構成に対応するためだった。(48)
(10)次の日(8月26日)の午前6時、ルヴォフは冬宮でケレンスキーと会った。(*)
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 (*) この会見に関する資料は、ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.132-6. およびMiliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.204-5. ミリュコフは、首相との会見の前と後にすぐにルヴォフに話しかけた。
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 コルニロフとの会見の際には首相の代わりだとの姿勢をとっていたのと同じように、今はルヴォフは、最高司令官の代理人(agent)の役割を引き受けていた。
政府の再構築に関する三つの案に関するコルニロフの意見をルヴォフが尋ねた、ということは、ケレンスキーに言わないままだった。その件を彼は友人たちとまとめていたのだったが、首相から求められて提示した。彼は、コルニロフは独裁的権限を要求しているとケレンスキーに言った。
 ケレンスキーは、これを聞いて笑いはじけたことをのちに記憶している。しかし、愉楽はすみやかに警戒へと変わった。
 ケレンスキーはルヴォフに、コルニロフの要求を書き止めておくよう頼んだ。
 ルヴォフは、つぎのようにメモ書きをした。
 「コルニロフ将軍は提案する。
 1: 戒厳令がペトログラードに布かれること。
 2: 全ての軍事および内政当局は最高司令官の手のもとに置かれること。
 3: 首相を排除しない全ての大臣は退任し、最高司令官による内閣の形成までは、臨時の執行権限が副大臣へと移行すること。
     V・ルヴォフ」
 (11)これらの言葉を読んでただちに全てが明白になった、とケレンスキーは語る。(50)
 軍事クーが、行われつつある。
 彼は、コルニロフがなぜすぐに、サヴィンコフではなくHoly Synod の元検察官を選んだのかと自問し得ただろう。また、もう少しはましに、コルニロフかフィロネンコに、最高司令官は本当に自身の代理としてルヴォフに委託したのかと、急いで直近の電信で問い合わせることもなし得ただろう。
 ケレンスキーは、いずれもしなかった。
 コルニロフがまさに権力を奪取しようとしているとの彼の確信は、ケレンスキーとサヴィンコフがその日にモギレフに向けて出立するのを望んでいるとのルヴォフの主張によって、強められた。
 ケレンスキーは、コルニロフは二人を捕囚にしようとしいる、と結論づけた。//
 (12)ルヴォフがコルニロフによって提示されたとした三条件が、発令を強いるためにルヴォフとその友人たちによって捏造されたものであることを、ほとんど疑うことはできない。
 三条件は、コルニロフの回答を反映させていなかった。その回答は、首相がコルニロフに対してした質問だと言われたものに対してのものだった。
 しかし、それらの条件は、まさにケレンスキーがコルニロフと決裂するには必要なものだつた。
 コルニロフの陰謀の明白な証拠を獲得するために、ケレンスキーは、さしあたりは協力することに決めた。
 ケレンスキーは、電信機でコルニロフ将軍と通信するために、ルヴォフを午後8時に軍事大臣室に招いた。//
 (13)Miliukov と合間の時間を過ごしたルヴォフは、遅刻した。
 午後8時半、コルニロフを30分間待たせたままだった後で、ケレンスキーは、電信による会話を始めた。彼は、この会話中に、不在のルヴォフになりすまし続けた。
 ケレンスキーがのちに語るには、彼は、この偽装によって、ルヴォフの最終報告を確認するか、さもなくば「当惑したうえで」否定をするかを知ることを望んでいた。//
 (14)以下は、電信テープに記録されている、この祝福すべきやり取りの全文だ。
 「ケレンスキー: 首相がライン上。将軍コルニロフを待っている。
  コルニロフ: 将軍コルニロフがライン上。
  ケレンスキー: ごきげんよう、将軍。ケレンスキーとV. N. ルヴォフがライン上。
 我々は、Vladimir Nikolaivich 〔=ルヴォフ〕が伝えた情報に従ってケレンスキーは行動することができることを確認するよう、貴方にお願いする。
  コルニロフ: ごきげんよう、Aleksandr Fedorovich 〔=ケレンスキー〕。ごきげんよう、Vladimir Nikolaivich。
 この国と軍隊が置かれていると私が思う情勢の概略をもう一度確認する。その概略は、彼〔ルヴォフ〕が貴方に報告しなければならないという要請によりVladimir Nikolaivich に述べたものだ。さらにもう一度、明確に言わせてほしい、最近数日の事態、すでに差し迫っている事態は、可能なかぎり短時間のうちに完全に明確な決定を行うことを絶対に必要にさせている、と。
  ケレンスキー〔ルヴォフの声色で〕: 私、Vladimir Nikolaivichは、厳格に内密にして<貴方が私にAleksandr Fedorovich に知らせてほしいと頼んだ、行われなければならないこの明確な決定に関して>照会している。
 貴方からの個人的な確認がなくしては、Aleksandr Fedorovich は私を完全に信頼することを躊躇している。
  コルニロフ: そのとおり。私は、私が貴方にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する。
  ケレンスキー: 私、Aleksandr Fedorovich は、Vladimir Nikolaivich が私に報告した言葉を貴方が確認する、という回答を得た。
 私がそのことをするのは、今日ここを出発するのは、不可能だ。しかし、明日に出発することを望んでいる。
 サヴィンコフは必要だろうか?
  コルニロフ: 私は切実に、Boris Viktorovich が貴方と一緒に来ることを要請する。
 私がVladimir Nikolaivich に対して語ったことは、Boris Viktorovich に同等に当てはまる。
 私は、貴方がたの出立が明日以降にまで延期されないよう、真剣に乞い願うだろう。<以下略>
  ケレンスキー: 我々は、それに関する風聞が飛び回っている、示威活動(demonrtration)がある場合にかぎって、行くべきなのか、それとも、いかなる場合でもか?
  コルニロフ: いかなる場合でも。
  ケレンスキー: さようなら。我々はすみやかに会うべきだろう。
  コルニロフ: さようなら。」(51)
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 (40) I. G. Tsereteri, <<略>>Ⅰ(Paris, 1963), p.108-9.; <V. D. Navokov, <略>(1976)>; Katkov,<コルニロフ>, p.85.
 (41) ケレンスキー, <Delo>, p.85.
 (42) Chugaev,<<略>>, p.427.
 (43) Katkov,<コルニロフ>, p.179.; Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (44) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (45) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日)収載, p.3.
 (46) Katkov,<コルニロフ>, p.179-p.180.
 (47) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.239.
 (48) 同上, p.241.; Chugaev,<<略>>, p.432.
 (49) Chugaev,<<略>>, p.442.
 (50) ケレンスキー, <Delo>, p.88.
 (51) Katkov,<コルニロフ>, p.90-p.91. 強調〔試訳者注<>部分〕は補充した。原文のロシア語全文は、Chugaev,<<略>>, p.443.に収載。
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 ②へとつづく。

1936/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂②。
 (15)この簡単な対話は、勘違いのゆえの喜劇だった。しかし、最も悲劇的な結末をもたらした。
 ケレンスキーは、のちにこう主張した-そして人生の最後までこの見方に固執した-。すなわち、コルニロフは、コルニロフの名前で語るルヴォフの権限を肯定したのみならず、ルヴォフが彼の言ったとして伝えた言葉の正確さをも確認した。つまりは、コルニロフは独裁的権力を要求した、というのだ。(52)
 しかし、我々は、ヒューズ(Hughs)装置の一方の端での目撃証人から、コルニロフは会話が終わったときに、安堵のため息をついたことを知る。すなわち、彼にとっては、モギレフに来るというケレンスキーの同意は、首相は新しくて「強い」政府を形成するための作業に一緒に加わる気持ちがある、ということを意味した。
 その夜の遅く、コルニロフはルコムスキー(Lukomskii)と、そのような内閣の構成について議論した。その内閣では、ケレンスキーとサヴィンコフの両人は大臣の職を保持することになるだろう。
 コルニロフはまた、モギレフにいる自分と首相に加わるように指導的政治家たちを招く電報も発した。(53)
 (16)テープの有用性のおかげで、二人の人物は食い違って(cross-purposes)会話していたことを、確定することができる。
 コルニロフについては、彼がルヴォフのふりをしたケレンスキーに確認したことの全ては、実際のところ、ケレンスキーとサヴィンコフをモギレフに招いた、ということだけだ。
 ケレンスキーは、コルニロフが確認したことをもって、-熱にうかされた自分の妄想で生じたということ以外には何の根拠もなく-コルニロフは自分を捕囚にし、彼が独裁者だと宣言する意図をもつ、ということを意味するものと解釈した。
 ケレンスキーの側には、直接にまたは間接的にですら、コルニロフが実際にルヴォフに三点の通告を自分に伝達するように言ったのかに関して調査しなかったという、途方もなく大きい手抜かりがあった。
 コルニロフは、ケレンスキーとの会話で、内閣が職権を放棄し、軍事と民政の全権力がコルニロフの手へと置き換わることに関して、いっさい何も言わなかった。
 コルニロフの言葉-「そのとおり。私は、私が貴方(ここではルヴォフ)にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する」-から、ケレンスキーは、ルヴォフにより彼に提示された三項の政治的条件は真正なものだ、と推論する方を選択した。
 フィロネンコ(Filonenko)がテープからの文章を見たとき、ケレンスキーは尋ねていることを述べておらず、コルニロフは何に対して回答しているかを分かっていない、と彼は気づいた。(*)
 --------
 (*) Miliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.213.
 ケレンスキーとは違ってコルニロフはのちに、自分は無分別にも、ルヴォフが自分に代わってケレンスキーにルヴォフが伝えた内容をケレンスキーに質問したなかったことを、認めた。A. S. ルコムスキー, <Vospominaniia>Ⅰ(Berlin, 1922), p.240.
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 ケレンスキーはルヴォフに成りすますことによって、理解可能な暗号でもってコルニロフと意思疎通していると考えたのだったが、じつは謎々話を語っていたのだ。
 首相の行動を弁護するために言うことができる最良のことは、彼は過度に緊張していた、ということだ。
 しかし、ケレンスキーは聞きたいと思っていたことをそのままに聞いたつもりだったのではないか、という疑念はくすぶり続ける。
 (17)かかる薄弱な根拠にもとづいて、ケレンスキーは、コルニロフと公然と決裂することに決意した。
 ルヴォフが遅まきに姿を現したとき、ケレンスキーは彼を拘束した。(+)
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 (+) 彼〔ルヴォフ〕はその夜を、首相が使っていたアレクサンダー三世スイートの隣の部屋で過ごした。首相は、大声のオペラ・アリアを鳴り響かせて、覚醒し続けさせた。彼はのちに自宅で軟禁され、精神病の医者によって治療された。<Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
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 重要なことをする前にもう一度コルニロフと通信してサヴィンコフの心の裡にあった曖昧な誤解を明確にすべきだとの彼の請願を無視して、ケレンスキーは、深夜に内閣の会議を招集した。
 ケレンスキーは閣僚たちに、何が明らかになったかを告げ、軍部のクー・デタに対処できるよう「全権限」を-つまり独裁的権力を-自分に与えるよう要請した。
 大臣たちは、「陰謀者・将軍」に立ち向かう必要がある、ケレンスキーは非常事態に対処すべく全権限を持つべきだ、として合意した。
 それに応じて彼らは、辞表を提出した。ネクラソフはこれを、臨時政府は事実上は存在することをやめた、と解釈した。(54)
 ケレンスキーは、この会議によって、名目上の独裁者となった。
 8月27日午前4時、閣議が休会となった以降、正規の閣議は開催されず、10月26日まで、ケレンスキーが単独で、またはネクラソフやテレシェンコ(Tereshchenko)と相談して行動する、との決定が下された。
 午前中早くに、大臣たちの同意があったのかなかったのかいずれにせよ-ほとんどがケレンスキーの個人的権威にもとづいていそうだが-、ケレンスキーは、コルニロフに対して、解任する、ただちにペトログラードへと報告することを命じる、との電報を打った。
 コルニロフの後継者が任命されるまでは、将軍ルコムスキーが最高司令官として仕えることとされた。(**)
 --------
 (**) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99. サヴィンコフによると、午後9時と10時の間に-すなわち、閣議が開かれる前に-、ケレンスキーは彼に、コルニロフを解任する電報はすでに発せられたのだから、コルニロフの理解を得るには遅すぎる、と言った。<Mercure de France>No.503(1919年6月1日), p.439.
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 コルニロフと決裂したことにより、ケレンスキーは、革命の代表者を気取ることができた。ネクラソフによると、内閣の深夜会議の間にケレンスキーは、「私は彼らに革命を譲り渡すつもりはない」と発言した。-まるで、与えるか守るかの勝負であるごとくに。
 (18)このように事態が推移している間、簡単なやり取りに関するケレンスキーの解釈を知らないままのコルニロフは、想定されるボルシェヴィキ蜂起を政府が鎮圧するのを助ける準備を進めていた。
 午前2時40分、コルニロフはサヴィンコフと電信を繋いだ。//
 「一団が、8月28日夕方にかけて、ペトログラード郊外に集結する。
 ペトログラードが8月29日に戒厳令下に置かれることを要請する。」(56)//
 コルニロフが軍事蜂起にかかわらなかったということの証拠がもっと必要だとかりにしても、この電信記録こそ、その証拠を与えるに違いない。
 なぜなら、コルニロフがかりに第三軍団に対して政府を倒すためにペトログラードへと進むよう命令していたとすれば、彼が電信でもってあらかじめそのことを政府に警告することはしないだろう。
 言われるところのクーを彼は副次的なものと見なしていただろうとは、ますます信じがたい。
 Zinaida Goppius は、発生して数日後にコルニロフ事件の不思議さを想い、明白な疑問を抱いた。すなわち、「どのようにして、コルニロフが静かに最高司令部に座っている間に、彼は自分の兵団を「派遣した」のか?」(57)
 じつに、コルニロフが本当に政府を転覆させて独裁者たる地位を奪取することを計画していたとすれば、彼のような気質と軍人的態度をもつ人物は、本人自身がきっと、軍事行動を指揮しただろう。//
 (19)ケレンスキーがコルニロフを解任する電信通告は、8月27日午前7時、最高司令部に届いた。将軍たちに完璧な混乱が襲った。
 彼ら最初の反応は、電信文が10時間前にあったケレンスキー=コルニロフ会談から見てその内容が無意味であるばかりか、慣例の連続番号に欠け、表題なしで「ケレンスキー」との署名しかないので様式が適切ではないがゆえに、偽造されたものに違いない、というものだった。
 また、法制上は内閣のみが最高司令官を解任する権限をもつので、いかなる法的効力もなかった。
 (司令部はもちろん、前夜に閣僚たちは辞任してケレンスキーが独裁的権力を握ったことを知らなかった。)
 将軍たちはさらに考えて、この連絡はおそらく本当のものだが、ケレンスキーは強迫を受けて、あり得ることとしてはボルシェヴィキに捕らわれている間に送信した、と結論づけた。
 このように考えて、コルニロフは辞職を拒み、ルコムスキーが「状況が十分に明確になるまで」彼の職務を執行することとなった。(58)
 ボルシェヴィキはすでにペトログラードを掌握している、とコルニロフは確信し、ケレンスキーの指示に反してそれを無視し、クリモフ(Krymov)に彼の兵団が前進する速度を早めるよう命令した。(59)//
 (20)モギレフの誰も、ルヴォフを詐欺師だと疑っていなかった。そのルヴォフの質問に対するコルニロフの回答に関係してペトログラードで発生したかもしれない混乱について明確にするため、ルコムスキーは、自分の名前で政府に対して、軍隊の崩壊を阻止するためには強い権威が必要であることを再確認すべく電報を送った。(60) //
 (21)その日の午後、ルヴォフの策謀をまだ知らなかったが何か大きな過ちがあると疑っていたサヴィンコフは、コルニロフに接触した。
 V・マクラコフ(Vasilii Maklaov)は傍らに立っていて、終わりの方で会話に加わった。(61)
 サヴィンコフは、ルコムスキーの最新の電報を話題にして、モギレフを訪れることで自分は政治問題を全く起こさなかったと抗議した。
 コルニロフはこれに反応して、初めてV・ルヴォフに言及し、ルヴォフが自分の前に提示した三つの選択肢に言及した。
 さらに彼は、第三騎兵軍団は、サヴィンコフが伝えた政府の指示に従ってペトログラードに向けて進んでいる、とまで言った。
 コルニロフは完全に忠誠心をもって行動していて、政府の命令を履行していた。
 「(解任)決定は私には全く予期され得なかったもので、労働者兵士代表ソヴェトの圧力によってなされた、と確信していた。<中略>
 私は宣告する、<中略>自分の職から離れるつもりはない。」 
 コルニロフは、「個人的な説明を通じて、誤解はさっぱりとなくなるに違いない」と確信して、首相とサヴィンコフにこの最高司令部で会うのを幸せに思っている、と付け加えた。//
 (22)この時点では、亀裂の修復はまだ可能だった。
 ケレンスキーが一月前にレーニンの事案でとったのと同じ慎重な行動をコルニロフへの責任追及に関する対処で示し、コルニロフの「最終的形態での反逆」を証明する「文書上の証拠」を提示していたならば、これから発生したことの全ては、避けることができていただろう。
 しかし、ケレンスキーはレーニンを抑圧するのを怖れた一方で、将軍と宥和することには何の関心もなかった。
 Miliukovが事態の推移を知らされて調停者としての役割をすると提案したとき、ケレンスキーは、コルニロフとの和解はあり得ない、と回答した。(62)
 ケレンスキーは、連合諸国の大使たちからあった同様の提案も拒絶した。(63)
 この当時にケレンスキーを見た人々は、彼は完全に異常発作(hysteria)の状態にあると考えた。(64)
 (23)臨時政府と将軍たちとの間の完全な分裂を阻止するために必要だったのは、ケレンスキーまたはその代理者が、独裁的権力を要求する資格をルヴォフに対して与えたのかと、<コルニロフに>直接に尋ねることだけだった。
 ケレンスキーがこの明確な一歩を執らなかったことは、つぎのうちの一つでのみ説明することができる。
 第一に、あらゆる判断をすることのできない精神状態にあった。さもなくば第二に、革命の救済者との名誉を握りつづけ、そうして左翼からの挑戦を弱体化させる、ということを目的として、意識的にコルニロフと決裂することを選んだ。
 (24)サヴィンコフは、コルニロフからルヴォフの行動について知って、急いで首相の事務室の方へと走り戻った。
 途中でたまたまネクラソフと遭遇した。ネクラソフはサヴィンコフに、コルニロフとの友好関係を追求するのはもう遅い、反逆罪で最高司令官を訴追するとの首相の声明文をすでに自分が夕刊の新聞に送った、と語った。(66)
 ケレンスキーはサヴィンコフに、コルニロフと通信する機会をもつまではそのような文書を発表しない、と約束していた。しかし、にもかかわらず、それが行われた。(67)
 数時間のち、新聞は号外でもって、ネクラソフが草稿を書いたと言われている、ケレンスキーの署名の付いた衝撃的な声明文を発表した。(68)
 Golvin はこう考えている。サヴィンコフがコルニロフとの会話についての報告をする機会をもつ前に、ネクラソフが意識的に発表した、と。(69)
 その声明文は、つぎのとおり。
 「8月26日、将軍コルニロフは私へと、ドゥーマ代議員のVladimir Nikolaivich ルヴォフを遣わせて、臨時政府は将軍コルニロフに、民政および軍事の全権限を移行させるように、彼自身がその裁量でもってこの国を統治する新しい政府を任命するとの条件付きで、要求した。
 このような要求を行うドゥーマ代議員のルヴォフの権能は、直接の電信会話で将軍コルニロフによって、のちに私に対して確認された。」(69)
 声明文はつづく。「革命の成果に対して有害な政治体制<中略>を構築する」目的でもって困難時を利用しようとする「ロシア社会の特定の分野」による企てからこの国を防衛するために、内閣は、コルニロフを解任しペトログラードに戒厳令を布く権限を首相に与えた。//
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 (52) ケレンスキー,<Delo>, p.91.
 (53) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ,Pt.2, p.200.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.241.
 (54) この会合の資料は以下。N. V. Nekrasov, <RS>No.199(1917年8月31日), p.2. およびMartynov,<コルニロフ>, p.101.
 (55) <NZh>No.120/126(1917年9月13日), p.3.
 (56) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.98.
 (57) Gippius, Siniaia kniga, p.180-1.
 (58) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242.; ケレンスキー,<Delo>, p.113-4.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.33-p.34.
 (60) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242-3.
 (61) 全文は、Shugaev,<<略>>, p.448-p.452.
 (62) <NZh>No.114(1917年8月29日), p.3.
 (63) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.111.
 (64) Gippius, Siniaia kniga, p.187.
 (65) ケレンスキー,<Delo>, p.104-5.
 (66) サヴィンコフ, <K Delu>, p.26.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.35.
 (67) B・サヴィンコフ, <Mercure de France>所収、No.503/133(1919年6月1日), p.438.
 (68) Richard Abraham, <アレクサンダー・ケレンスキー: 革命への初恋>(New York, 1987), p.277.
 (69) Shugaev,<<略>>, p.445-6. ; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.101-2.
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 ③へとつづく。
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