秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

生命・精神

2783/生命・細胞・遺伝—19。

 染色体の数が(23対)46本というのは、人体全体にある染色体数ではなく、一つの細胞内の数だとは、何となく分かっているような気がする。
 だが、遺伝子の数や塩基対の数(2本の「柱」に付く「塩基」の数の半分)となると、こうした分野についての素人には、いったいどの範囲の中の数かが怪しくなることがある。
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 ヒトがもつ遺伝子の数について、確定的で厳密な数値を示している書物等はない。
 だが、20,000と30,000の間の数値であることに一致はある、と思われる。
 若干の例を示す。
 本庶佑・ゲノムが語る生命像(2013)—約2万〜3万。
 島田祥輔・遺伝子「超」入門(2015)—約22,000。
 小林武彦・DNAの98%は謎(2017)—約22,000。
 太田邦史・エピゲノムと生命(2014)—約21,000。
 黒田裕樹・休み時間の分子生物学(2020)—約21,000。
 S.ムカジー・遺伝子(2021)—約21,000〜23,000。
 NHK取材班・シリーズ人体·遺伝子(2019)—約20,000。
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 細かな数値に拘泥する意味は全くない。
 細胞分裂が始まると遺伝子群が46本の染色体の中に分かれて「くるまれ」る、きれいに46(または23)等分化されるのではない、という知識からすると、これらの遺伝子数は、一つの細胞中にある遺伝子の数だ、ということを確認するしておくことが重要だ(秋月にとっては)。
 したがって、一人の人体全体の中には、<上の遺伝子数×細胞数>の遺伝子があることになる。
 但し、全ての(特定のアミノ酸生成を指示する)遺伝子が「発現」したり、「利用」されたりするのでは全くない。
 もう一つ、確認しておくべきなのは、つぎだ。
 遺伝子数は、ヒト・人間の全てで同じではなく、個体によって異なる。「約」22,000、「約」21,000 等だ。
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 遺伝子数のほかに、「塩基対」数も記述ないし紹介されていることがある。
 いちいちの文献を挙げないが、ほとんどがつぎの数字だ。
 30億、または32億
 「億」という数字になると一瞬は迷うが、これまた、一人の人体全体ではなく、一つの「細胞」内の塩基対の数だろう。
 〈ヒトゲノム)内にあるとされる諸数値もまた、一つの「細胞」についてのものだろう。
 したがって、「ヒトゲノム」は30億-32億の「塩基対」で構成され、その中に2万-3万(2万-2万2000)の「遺伝子」がある、ということになる。
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2782/生命・細胞・遺伝—18。

 生物=生命体とは、「『外界』と明確に区別される界壁(膜、皮膚等)をもつ統一体で、外部からエネルギーを取り込み代謝し、かつ自己増植または生殖による自己と同『種』の個体を産出し保存する力をもつ」もの、をいう(No.2723/2024.06.06)。
 これは、通常語られる生物=生命体の定義の三要素を含め込んで、秋月なりにまとめた定義らしきものだ。
 この「生命体」を説明しようとするとき、いったい何から、どこから始めるのが適切だろうか。唯一の正解はないだろう。つぎが考えられる。
 地球上(内)の単細胞生命体誕生、真核生物とくに種としてのヒト=ホモ・サピエンスの誕生、「細胞」、「細胞核」、DNA、遺伝子、「ゲノム」(とくにヒトゲノム)、あるいはほとんどの生命体に共通する〈セントラル・ドグマ〉、あるいは「細胞分裂」。
 上の「細胞」以下は関係し合っている。「細胞分裂」から始めた場合にのみ「染色体」も出てくるが、この「染色体」は説明にとって不可欠の概念だとは(秋月には)思われない。
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 ゲノム(genome)は、遺伝子(gene)の全体あるいはその集合ではない。
 「遺伝子の全体というより、『その生物をつくるのに必要な遺伝情報の全体』といった意味をもつ」という説明がある(2024年9月、武村政春・DNAとは何だろう?—「ほぼ正確」に遺伝情報をコピーする巧妙なからくり(講談社ブルーバックス)。
 これは「遺伝子」と「遺伝情報」の区別が前提になっていて、分かりづらい。
 つぎの叙述の方が、私には理解しやすい。「遺伝子」と「塩基配列」の区別は分かるからだ。
 当初は「『すべての遺伝子』という意味」だったが、現在では「範囲はさらに広がり」、『すべての塩基配列』と見なしています」(島田祥輔・大人なら知っておきたい-遺伝子「超」入門(2015、パンダ·パブリッシング)。
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 ともかくも、ヒトゲノム計画が終了して最初の研究報告が発表されたとき、研究者たちは喫驚した、と秋月が推測するのは、つぎのことだ。すなわち、ヒトゲノムとは大まかにはDNAの総体なのだが、そのDNAの約2%だけが遺伝情報をもつにすぎない、と明らかになったということ。
 ここで「遺伝情報」とは厳密にはまたは狭義には、〈特定のタンパク質=アミノ酸の生成〉を指示する情報をいう。そしてこれが厳密な・狭義の「遺伝子」だ。そしてこの部分、つまり特定のタンパク質の生成を指示する=「コードする」部分を〈エクソン〉という。
 但し、エクソン部分を分断して介在する箇所があって、これは〈イントロン〉と称され、「遺伝子」関連部分に含められている(ようだ)。
 なお、DNAがmRNAに「転写」される過程で、イントロンは除去され、エクソン部分だけが残る(=その部分だけが転写される)。この除去のことを〈スプライシング〉という。
 DNAのうち、エクソン部分は(ある文献によると)2パーセントにすぎない。イントロンを含めても、「遺伝子」関連部分はDNAの20パーセント程度にすぎない(小林武彦・DNAの98%は謎—生命の鍵をにぎる「非コードDNA」とは何か(2017年11月、講談社ブルーバックス)による)。但し、武村政春・DNAとは何だろう?(上掲)によると、エクソンは1.5パーセントと明記され、イントロンを含めて約25パーセントと表示されている。
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 DNAと遺伝子は、物理的、位置的にどういう関係にあるのだろうか。
 DNAが「二重らせん」構造をしていることはかなり広く知られている(1953年に発見された)。二本のDNAがらせん状に〈ヒストン〉といういわば「柱」に巻きついていることから、こう呼ばれる。
 二本のDNAはともに、〈ヌクレオチド〉と称される小単位が長くつながったものだ。各ヌクレオチドは、①塩基、②糖(五炭糖)、③リン酸からなる。③リン酸はいわば「のりのような接着剤」となって、上下の別のヌクレオチドとくっけさせ、長い一本のDNAを形成する。
 「遺伝」情報が入っている可能性があるのは、①塩基だ。A、T、G、Cの4種がある。
 一本のDNAにもう一本のDNAが「接合」して、「はしご段」またはより正確にはらせん状に巻く「縄ばしご」と比喩し得るものが出来上がる。
 「接合」するのは①塩基だけで、接合したものは①‘〈塩基対〉と呼ばれる。接合した場合、比喩的には、①’塩基対が「はしご」の横板または横縄部分になり、②と③は、にぎる二本の「柱」または「縄柱」になる。
 二つの「塩基」から一つの「塩基対」ができるが、接合する二つの塩基には、「相補」性がある。
 すなわち一方がかりにそれぞれA、T、G、Cだとすると、「接合」する別の塩基の性格は必ず、それぞれ、T、A、C、Gになる。別言すると、A-T、G-Cという対応または「相補」関係しかない(不思議なことだが、別の一本は正確な複製のための「予備」だともされる)。
 なお、ある塩基(・塩基対)と上下のそれの距離は、3.4オングストローム=0.34ナノメートル程度だという(上掲・武村)。100億オングストローム=1mだから、3.4/100億メートル)。
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 一本のDNAをタテに長く続くものと仮定した場合、タテに続く塩基の並びを〈塩基配列〉という。そして、3個から成る塩基配列で最大で64の異なるアミノ酸を特定することができる。塩基には上記のとおり4種あるので、4×4×4=64だからだ。そして、アミノ酸は20種類しかないからだ(4×4=16では足りない)。3個から成る塩基配列のことを〈コドン〉と言う。
 塩基配列は、塩基の4種の性格符号の組み合わせ方・つながり方によって、区切りとなる〈最初〉と〈最後〉が指定される、とされる。「開始コドン」「終止コドン」だ。
 この〈最初〉と〈最後〉の間のコドンの集まりが、一定の「遺伝情報」を示すことがあり得る。繰り返すと、一定範囲の塩基とそれから成る塩基配列が一定の「遺伝情報」(一定のアミノ酸の結合の仕方)を示していていることがあり得る。
 この場合、その(一定の区切り内の)部分を、「遺伝子」という。より正確には、その一定の塩基配列に「接合」している、「相補的」な塩基配列を含めて言う。
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 こうして、DNAと「遺伝子」がつながった。前者は形態・性格に、後者は「情報」という機能に着目しているので同一次元に並べるに適さないが、大雑把にはつぎのように言えるだろう。
 細胞>細胞核>DNA>塩基配列>遺伝子>コドン>塩基(・塩基対)。
 そして、ヌクレオチド=塩基+五炭糖+リン酸。   
なお、〈DNA〉=「デオキシリボ核酸」は、ヌクレオチド(nucleotide)を構成するここでの糖は「デオキシリボース」で、それに塩基(base)とリン「酸」(acid)が加わってヌクレオチドになり、かつ細胞「核」内にあるがゆえの呼称だと(秋月には)思われる。「核酸」=nucleic acid。
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 以上はほとんどが再述で、復習として一括して書いた。

2772/中村禎里・日本のルィセンコ論争(新版, 2017)。

  中村禎里(米本昌平解説)・新版·日本のルィセンコ論争(みすず書房、2017)
 なかなかすごい本だ。いろいろな意味で。
 生物学・遺伝学に関する〈自然科学〉系の書物だ。但し、遺伝に関心はあり、L・コワコフスキの書物でもソ連の戦後の学問に関する叙述の中で触れられているから、全く理解できないというのでは全くない。
 もう少し大まかな紹介をすれば、第一に、特定の主題に関する、日本の、しかも特定の一時期の、学問史、科学史の書物だ。
 第二に、政治または政党・党派と学問(自然科学)の関係に関する書物だ、
 政治または政党・党派とは社会主義(・共産主義)、ソヴィエト連邦・同共産党(スターリン)、一定時期の日本共産党を意味する。
 推測ではあるが、原著者がこれを執筆し(初版著は1967年)、米本昌平が冒頭にやや長い〈まえがき)を書きつつ実質的には新版=「50周年記念版」の刊行を推進したようであるのも、上の第二点に理由があるように思える。そうでなければ、21世紀にもなれば相当に古い、かつ生物学上の一論争(主として戦後直後、1950年年代)に関する書物を10年ほど後に出版したり、そのまた50年後に新版を刊行したりする気になれないのではないか。
 もっとも、それだけに、秋月瑛二に興味深いものではあっても、一般むけの書物ではない。遺伝学に何の関心もなかったり、そもそもソ連・スターリンや日本共産党を興味の対象にしない日本人にとっては、何やら面妖なことが書かれているだけの書物でしかないだろう。
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  日本に今でも民主主義科学者協会法律部会(2023年11月以降の現会長は小沢隆一)というのがあるが、この名称は、かつて「民主主義科学者協会」という学会または「科学者」の組織があり、現在までずっと存続しているのは「法律部会」だけであることを示している。かつては「政治(学〉」部会も、「生物(学)」部会等の自然科学系の「部会」もあった。1946年に民主主義科学者協会「理論生物研究会」発足、1950年に同「生物部会」に発展。
 書物をめくって確認しないが、「論争」参加者・関与者の中にはこの<民科>「生物部会」の会員も少なからずいた。
 現在の「法律部会」についてもそうだが、当時の民科「生物部会」の中にも当時の日本共産党の党員はおり、またソ連や〈社会主義〉の影響を受けた学者たちはいたものと思われる。
 中村禎里(1933〜)は論争の当事者ではなかったとしても彼らの次の世代の生物学者(研究者)として、民科「生物部会」の会員だったようだ。そうでないと、「論争」のとくに遺伝学上の意味を理解できないし、けっこうの大著を執筆もできなかったに違いない。
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  ルィセンコ学説、ルイセンコ論争の内容には触れない。
 L・コワコフスキの書物でもかなり詳しく言及されていたが、ルイセンコ(1896-1976)の学説は、ソ連共産党中央の支持を受けたー上の中村著はこう書く。p.64-。 
 1948年の「ソ連農業科学アカデミー会議」の報告の多数はルイセンコ学説支持で、会議の最後に会長のルイセンコが登壇して発言した。
 私への質問書の一つに「わたくしの報告にたいして党中央委員会はどんな態度をとっているか」というのがある。私は答える、「党中央委員会はわたくしの報告を検討し、それを是認した」と。
 つづいて、「嵐のような拍手、熱狂的な賞賛。全員起立」。
 反ルイセンコだった有力学者某はすぐのちに「党中央委員会の決定にしたがって、自説を放棄すると宣言した」。
 なお、ルイセンコ説に対比された「ブルジョア」学説は「メンデル・モルガン主義」と称された、という。このモルガン(モーガン)の名は、DNAの構造の解明へとつながっていった、メンデル以降の細胞学・分子生物学・遺伝学等のいわば〈嫡流〉にあった重要人物として、「染色体」や「細胞」等に関する記述の中で、この欄で出したことがある。
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  中村著は表向きは強調しているのではない。しかし、この本で初めて知った(確からしい)ことがある。
 L・コワコフスキの書物がルイセンコの関連して日本共産党に触れているわけがない。
 中村著は何気なくこう明記している。1949-50年に日本でのルイセンコ論争に関して新しい状況が生まれた。第一、ルイセンコ著の比較的忠実な翻訳書が刊行された。第二、ソ連での論争・対立の状況も知られるようになった。第三はこうだ。p.63。
 「第三に、日本共産党が、その機関誌紙を通じて、また指導者の発言を通じて、ルィセンコ説支持の態度をはっきりとうちだした」。
 これは相当に興味深い。中村は「日本共産党」(同党員)という語をほとんど使っていないが、日本での論争参加者の中にはおそらく間違いなく、当時の「日本共産党員」もいただろうと推測させる。 
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 自然科学上の議論、論争に、現在の日本共産党が容喙することはないだろう。
 しかし、例えば「政治」理論とか「歴史」認識とかの、政治学や歴史学に関係することには、当然のごとく干渉している、と考えられる。「歴史認識」が歴史学・歴史研究者の研究・判断の対象であることは言うまでもない。声明等を出さなくとも、日本共産党の綱領自体が、ロシア革命や「ソ連(共産党)」に関する、一定の理解・認識を前提としている。ロシア史・ソ連史ひいては世界史の学者・研究者であって日本共産党員である者が、党の理解・主張から全く自由であるとは考えられない。
 「法律部会」関係でも、「一字一句変えさせない」(数年前の小池書記局長。テレビ報道による)と現日本国憲法について言っていた日本共産党が、またその旨を主張しているはずの日本共産党中央があるなかで、憲法九条以外についてであれ、「憲法改正」の具体的議論を日本共産党員たる憲法学者・研究者が自由にできるわけがない。彼らは、「学問・研究の自由」を自ら制限し、一部を放棄しているわけだ。むろんまた、民科「法律部会」会員も日本共産党の多少とも強い影響下にある。
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2759/江崎道朗の「血筋」・「家系」観。

  江崎道朗はかつて、「日本会議専任研究員」という肩書きで月刊正論(産経新聞)に執筆していた。私がこの雑誌を読み始めた頃は、「評論家」になっていた。日本会議の専任研究員になる前は、日本会議の有力構成団体である日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』の編集長をしていた。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 この新書は秋月瑛二の<産経新聞的・保守>に対する不信を決定的なものにした記念碑的?著作だった。この書については多数回、すでに触れた(まだ指摘したいことはあったが、アホらしくなってやめた)。
 上の江崎書が相当に依拠していたのは、つぎだった。
 小田村寅二郎・昭和史に刻む我らが道統(日本教文社、1978)。
 小田村寅二郎(1919〜1999)は、「日本教文社」という出版元からある程度は推察されるだろうように、かつての<成長の家>関係者だった(この組織の現在の政治的主張はまた別のようだ)。
 江崎道朗が依拠する聖徳太子理解を小田村が戦前に執筆したのは戦前の<成長の家>の新聞か雑誌だった。
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  今回に再び述べたいのは、以上のことではない。
 江崎道朗の「血筋」・「血族」または「家系」に関する単純な感覚を、その小田村寅二郎への言及の仕方は示している。
 すなわち、江崎は、上の新書の中で少なくとも4回、繰り返して、つぎのように小田村を紹介または形容した。
 小田村は「吉田松陰の妹の曾孫」だった。
 一度だけならよいが、短い頁数の中に、小田村を形容する常套句のごとく、上の言葉が出てくる。
 これはやや異常であるとともに、「吉田松陰」の縁戚者であることをもって、小田村の評価を高めたいからだろう。そのような「血族」または「家系」の中に位置づけられる「きちんとした」人物だ、と言いたいのだろう。
 しかし、まず、「吉田松陰」を相当に高く評価している者に対してのみ通用する言及の仕方だ。この前提を共有しない者にとっては、何の意味もない。
 ついで、「吉田松陰の妹の曾孫」なのだから、松陰の直系の子孫ではない。妹の三世の孫というだけだ。実際のことだとしても、松陰は小田村の曾祖母の兄なので、親等数で言うと5親等離れている。
 だが、そもそもの疑問は、いったいなぜ、曾祖母の兄が松陰だということが小田村寅二郎の評価と関係があるのか、だ。
 ある人物の評価を過去の5親等離れた者の評価と関係づける、という発想自体が、私には異様だと感じられる
 かつまた、きわめて危険だと思われる。
 吉田松陰は当時の犯罪者であり刑死者でもあったが、松陰に限らずとも、一般論としてつぎのように言い得るだろう。
 5親等離れた者の中に犯罪者がいる(あるいは死刑になった者がいる)ことをもって、その旨を探索して、その人物を非難する、貶める、ということは許されるべきではない。江崎道朗の発想と叙述は、このような思考方法、人物評価方法の容認へと簡単につながるものだ。
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  江崎道朗の影響を受けた者に、つぎの人物がいる。
 竹内洋(1942〜)。京都大学名誉教授。
 竹内洋は<知識人と大衆>主題とする書物を多数刊行している。不思議だとかねて思ってきたのは、竹内は自分が「知識人」の中に含まれることをおそらく全く疑うことなく、叙述していることだ。新潟県佐渡から京都大学に入ったことだけではまだ「知識人」と言えないとすると、(とくに文科系の)大学教員であることをもって、「知識人」だと自己認識しているのだろうか。
 この竹内洋は、上記の江崎道朗書の「書評」を産経新聞に掲載した(2017年9月)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 このように江崎書の「功績」を認めるのも噴飯ものだが、ここで注目すべきは、つぎだ。
 「小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)」
 竹内洋は、さして長文ではない文章の中で、わざわざ、小田村は「吉田松蔭の縁戚」者だと書いているのだ。5親等離れた「縁戚」者なのだが。
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  「血族」、「家系」あるいは「縁戚」という意識・感覚というのは、なかなかすさまじいものだ。
 竹内洋は、江崎道朗もだが、以下の事例をどう感じるのだろうか。他にも、多様な事例があるものと思われる。なお、「縁戚者」の「自殺」の動機を、私は正確に知っているのではない。
 ①1972年2月、<浅間山事件>を起こした連合赤軍の活動家の一人の「父親」が—直近の「縁戚」者だ—、その一人の逮捕・拘束の前に、滋賀県の自宅で自殺した。
 ②2021年6月、<和歌山カレー毒殺事件>の犯人として死刑判決を受けて拘禁中の者の「長女」が—直近の「縁戚」者だ—、その娘とともに大阪湾に飛び降りて自殺した。
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2758/遺伝と「優生」—2024年2月·日本精神神経学会声明。

 今年2024年の2月、日本精神神経学会は、会長名でつぎの「声明」を発表した。同学会Website より引用。「」をつけない。
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 優生保護法について 
 2024年2月1日
 公益社団法人 日本精神神経学会
 理事長 三村 將
 1948年に成立した優生保護法は、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的とし、当時の優生学・遺伝学の知識の中で遺伝性とされた精神障害・知的障害・神経疾患・身体障害を有する人を、優生手術(強制不妊手術)の対象とし、48年間存続しました。しかし日本精神神経学会(以下、本学会)は、これまで優生法制に対して、政府に送付した「優生保護法に関する意見」(1992年)を除き、公式に意見を表明したことがありませんでした。このたび本学会は、法委員会において、優生保護法下における精神科医療及び精神科医の果たした役割を明らかにし、本学会の将来への示唆を得ることを目的として、数年にわたる調査を行いましたので、ここに報告します。 
 詳細な調査結果は報告書にありますが、自治体によって違いがあるものの、優生保護法成立からほぼ10年にわたり、行政主導で強制不妊手術の申請と承認に関わる強固なシステムが作り出されました。人口が急増し、生活が窮乏するこの時代において、行政と優生保護審査会が一体となって優生保護法を運用し、多数の強制不妊手術という犠牲を生みました。申請者である精神科医の肉声は残されていませんが、国家施策を前にした傍観の中で、無関心・無批判のまま、与えられた申請者としての実務を果たしてきました。また、精神科医も加わった優生保護審査会は、申請システムの実態を知った上で大部分の申請を承認しており、申請者以上に重い責任があります。
 本学会は強制不妊手術の問題が指摘された1970年代に至っても公式に意見を表明することもなく、不作為のまま優生保護法は存続し、被害者を生み続けることにつながりました。積極的であろうが消極的であろうが、強制不妊手術を受けた人々に取り返しのつかない傷を負わせた歴史的事実から目を逸らすことは許されません。
 ここに、精神科医療に責任を持つ学会として、強制不妊手術を受けた人々の生と人権を損ねたことを被害者の方々に謝罪いたします。
 優生保護法を過去のこととしてすますことはできません。本学会は、この歴史に学び、再び同じことが繰り返されないよう、精神医学と社会の関係を深く自省し、常に自らの問いとしていかなければなりません。さらに、本学会の使命として、現在もなお存在する精神障害や知的障害への差別、制度上の不合理を改革するため、力を尽くすことを誓います。
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 以上。
 この声明は、「優生保護法」にもとづく行政執行に加担し、「強制不妊手術」を行うなどの「人権」侵害を行なったことを、「謝罪」している。
 学会自体が加担・協力したのではないから、いかに会員医師が関与していたとしても学会自体が「謝罪」するとは稀有なことだろう。
 それに、「優生保護」に関係するのは〈精神神経〉医学のみならず、「遺伝」性疾患に関係する全ての医学分野だろう。日本に「遺伝学」に関係する学会も他にあるはずだが、他の「学会」がこのような声明を出したとは、聞いたことがない。
 ともあれ、この法律(現在は廃止)によると「申請者」は医師とされ、その申請の適否の決定には(都道府県単位での)優生保護審査会が関与するところ、その委員には精神神経医を含む医師が就いていた、という。
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 いくつかの感想が生じる。
 第一は、医学・医師と行政・社会の関係だ。
 医師はそれぞれの分野の専門家であるかもしれないが、個別の案件にかかる審議会・審査会の委員として活動するとき、そのつどの案件にかかる結論的判断を、その案件を所管する行政部局・その担当公務員にほとんど委ねてしまうことがあるのではないか。行政主導であり、医師から言えば行政追随だ。
 例えば、「保護」=手当支給の要否に関する特別児童扶養手当法上の認定にも、医師(1名でよい)の判断が必要だが、これが自立して、行政側の事前判断に影響を受けないで行われているとは言えないのではないか、という感想を持ったことがある。この例の場合は、「遺伝」ではなく、心身全体の諸疾患や発育不全に関する医学的判断がかかわっている。
 以上のことは反面では、「優生保護法」の場合は、厚生省の所管部局の歴代の官僚たちの責任の大きさだ。現在の大臣や首相が詫びて済むものではない。
 第二は、「遺伝」に関する医学的・科学的根拠があいまいなままで行われた「優生保護」なるものの恐ろしさだ。
 ある疾患・症状・身体状況が「遺伝」性のものであるか否かは、今日でも明瞭なものはほとんどないと思われる(例外として、母親由来の血友病があるとされる)。
 精神神経系の「統合失調症」についても、「遺伝」の関与度は明確でない。参照文献を示さないが、一卵性双生児のうちの一人が「統合失調症」を発症した場合、遺伝子は同じはずの双生児のもう一人も発症する確率は約50パーセントだとされる。高い数字ではあるが、しかし、同じ遺伝子をもつからつねに同じ(精神的)疾患を発症するというのでは全くなく、半分は「生後の環境」によることをこの数字は示しているだろう。
 なお、「生まれ」=遺伝か「育ち」=環境か、という一般的問題にこれもかかわるが、はっきりしているのは、どの点についても<単純なことは言えない>ということだ。これを、生物学的・「生命科学」的には、両親の遺伝子・染色体から「受精卵」という細胞が形成されるまでの複雑な過程も示している、と考えられる。
 第三は、生物学・遺伝学等々の正確な知見をふまえないで行われた政治・行政施策の、おぞましい歴史。
 ナツィス・ドイツ、そしてスターリン・ボルシェヴィズム。
 S·ムカジーによると、前者によるホロコーストは「遺伝の万能視」によって生まれた。<汚れた血>の除去による<民族の浄化>。なお、ユダヤ人に対してのみならず、精神神経面も含めた「弱者」に対しても、「安楽死」政策が進められた。
 S·ムカジーによると、後者は「遺伝の無視」によって生まれた。 すなわち、「遺伝」と関係なく、<一世代で人間を(イデオロギー面も含めて)改造することができる>、という非科学的な信念。なお、これを助長したのは、遺伝に関するT・ルイセンコの学説だった。
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2755/生命・細胞・遺伝—17。

 生命・細胞・遺伝—17。
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 ヒトの精子と卵子は「生殖細胞」と呼ばれ、「体細胞」と区別される。前者の「生殖細胞」は「減数分裂」によって生まれ、後者の「体細胞」は通常の(二倍化を経る)細胞分裂によって生まれる(「紡錘糸」が出現する「有糸分裂」とも言う)。
 だが、以上のことを、つぎのこととを混同して、あるいは混乱させて、理解してはならない。
 「生殖細胞」である精子または卵子も、それぞれ22本の「常染色体」と1本の「性染色体」をもつ。両者が結合した受精卵は22対44本の「常染色体」と、1対2本の「性染色体」をもつ(その2本がX型とX型の場合は女子、X型とY型の場合は男子に、通常はなる(決定的なのは染色体の型ではなく、「Sry遺伝子」の有無だ))。
 そして、「常染色体」内の遺伝子群と「性染色体」内の遺伝子群の一部は、「体細胞」の形成に関与し、「性染色体」内の遺伝子の一部は「生殖細胞」の形成に関与する。
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 受精卵は1個の細胞だが、新生児として出生するとき、1個の細胞は約38兆個に近い数の細胞へと増殖・分化している。出生直前にはほぼ同数の細胞群が形成されているに違いない。
 また、出生までの種々の段階を区切って、一定時期以降の胎児は(生物学的には)一個の「生物」・「生命体」に準じたものだと理解することは十分に可能だと見られる。
 しかし、学者により、または国家・社会により、この点についての一致はない。これは、<堕胎>・<人工中絶>と言われる行為の許容性の問題に関係する。
 なお、日本の民法3条1項は「私権の享有は、出生に始まる」と規定し、胎児には「自然人」としての権利を認めない(「相続」権にもかかわる)。「出生」の意味・時期について、民法(学)と刑法(学)とで理解が異なる。意味・時期の詳細はともあれ、出生前の胎児は、憲法(学)上も「基本的人権」の享有主体性が否認されるだろう。さらについでに、日本の母体保護法(法律)は妊娠22週未満での「人工妊娠中絶」を一定の条件のもとで認めている(以降は、「犯罪」になる)。
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 <染色体>というのは今日では一種の歴史的・経過的概念であるかもしれず、定説を知らないが、それは「クロマチン」の、細胞分裂期に特化した形状の呼称と言った方がよいようにも見える。「クロマチン」を「染色質」と称する文献もある。
 ここで「クロマチン」とは「ヒストン」と称されるタンパク質とDNAの結合体だ。そして、DNAの2本の「鎖」系がヒストンの周りに約1.7回巻きついてた単位を、「ヌクレオソーム」と言う。
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 各「染色体」が包み込む(くるむ)遺伝子の数は一定していない。2本から成る1番〜22番染色体、そして性染色体で、遺伝子の数は異なる。
 1番〜22番染色体の各「相同染色体」は全くかほとんど同じ形状をしていて、1対2本が向かい合って、アルファベットの「X」のような形になっている。性染色体の「X X型」の場合も同様だ。しかし、「XY型」の場合は左右(上下)2本の不均衡が著しい。従って、2つが向き合ってもアルファベットの「X」文字になり難い。
 いわゆる「Y染色体」は、最も小さい(=短い)染色体だ。したがってまた、内包する遺伝子数も、染色体の中で最も少ない
 確定的な情報ではないが、「Y染色体」がもつ遺伝子数は約100、「X染色体」のそれは約1000程度ともされる。また、「染色体」の大きさ(長さ)は前者は後者の20分の1程度だともされる。「Y染色体」は小さくて、かつ貧弱だと言えなくもない。
 上の大まかな数字を、一つの「核」内の遺伝子数と比較してみよう。
 ヒトゲノム計画終了後の2003年の「公的」な(ラフな)報告書にもとづくと、上の数字は21,000〜25,000だとされる(論者や文献により概数も異なる)。
 染色体23対46本で計算しやすいようにかりに23,000だとしておくと、1対当たりは1000遺伝子、1本当たりは500遺伝子になる。「Y染色体」1本で約100というのは、平均の5分の1にすぎない。それだけ<遺伝子数の少ない>のが「Y染色体」だ。
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 「Y染色体」に対する「X染色体」は、「相同染色体」ではない。父親由来の「性染色体」が「X染色体」の場合は、母親由来の「X染色体」という仲間がいる。この意味で、「Y染色体」は(その上にあるDNAやそのDNAがくるむ遺伝子も)孤立していて、脆弱性を持つ、と言い得るだろう。
 この点を(まだ触れたことのない論点も書かれているが)、S·ムカジー〔訳-田中文〕・遺伝子/下(2018)は、つぎのように叙述している。男として身につまされるので?、長いが引用しておく。
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 「他のどの染色体ともちがって、Y染色体は『対をなしておらず』、妹染色体も、コピーも持たないため、その染色体上のすべての遺伝子が自力でがんばるしかなかったのだ。
 他のどの染色体でも、突然変異が起きた場合には、対をなす染色体の正常な遺伝子がコピーされることによって修復される。
 だがY染色体の遺伝子は修理したり、修復したり、他の染色体からリコピーしたりすることができない
 バックアップもガイドも存在しないのだ(実際には、Y染色体の遺伝子を修復する独特の内部システムは存在する)。
 Y染色体に突然変異が起きても、情報を回復するメカニズムがないために、Y染色体には、長年のあいだに受けた攻撃による瘢痕がいくつも残っている。
 Y染色体はヒトゲノムの中の最も脆弱な部分なのだ。<改行>
 絶え間ない遺伝的攻撃を受けた結果、Y染色体は何百万年も前に、自らの上に載っている情報を投げ捨てはじめた。
 生存にとって真に価値のある遺伝子はゲノムの別の場所へと移り、そこで安全に保持されるようになった。
 たいして価値のない遺伝子は使われなくなり、引退させられ、取り替えられ、最も基本的な遺伝子だけが残った(…〈略〉…)。
 情報が失われるにつれ、Y染色体自体が縮んでいった。
 突然変異と遺伝子喪失という陰気なサイクルによって少しずつ削られていったのだ。
 Y染色体が全染色体の中でいちばん小さいのは、偶然ではない。
 Y染色体は計画的な退化の犠牲者なのだ(…〈略〉…)。<改行>
 遺伝子という観点からは、この事実は奇妙なパラドックスを示唆している。
 すなわち、ヒトの最も複雑な形質のひとつである性別は複数の遺伝子によってコードされているわけではなく、むしろ、Y染色体上にかなり危なっかしく埋め込まれているひとつの遺伝子が『男性化』の主要な調節因子である可能性が高いということだ。
 この最後の段落を読んだ男性の読者は、どうか心に留めてほしい。
 われわれはかろうじて、今ここにいるのだ。」
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2752/生命・細胞・遺伝—16。

 重要なことなので、再記(復習)から始めよう。
 DNAの最小単位はヌクレオチドで、これは「リン酸」・「五炭」・「塩基」の三つで成り、「リン酸」を<のり>のような接着体として上下(または左右)のヌクレオチドとつながる。「塩基」は、別のDNA分体(別の一本の「鎖」糸)の「塩基」(「相補塩基」)と結合して「塩基対」になる。この塩基対が、<縄ばしご>の足を乗せる<踏み板(縄)>だ。
 「塩基」には4種があり(A,T,G,C)、各塩基は一つの種類しか持たない。「塩基対」になる別の塩基の種類は、最初の塩基の種類に応じて、特定のものに決まっている。すなわち、A-T、G-C(T-A、C-G)の組合せしかない。
 ヌクレオチドが上下(左右)につながって、「塩基配列」ができる。2個つながると2個の「塩基配列」、3個つながると3個の「塩基配列」だ。
 「塩基配列」の並び方によって、特定の種類の「アミノ酸」の作成(・生成)が指示される。
 アミノ酸には、20種類がある。3個の「塩基配列」によって、アミノ酸の種類が特定できる。2個だけだと、(塩基の)4種×4種で、16種(のアミノ酸)しか特定できないからだ。3個だと、4種×4種×4種で、64種のアミノ酸を特定することができる。一定の配列の3個の塩基の組合せを、「コドン」と言う。
 「コドン」が上下(左右)に多数つながって、多様なアミノ酸の複雑な結合体としての一定の「タンパク質」の作成(・生成)が指示される。
 指示をする(仕様書・設計図を書く)、多数のコドン(>ヌクレオチド)の始まりと終わりは決まっている(始まりはA-T-G、終わりはT-A-A、T-A-G、T-G-Aのいずれか)。コドンの数は多様で、特定されていない。
 一定のタンパク質の生成を指示する(または「タンパク質をコードする」)、多数のコドンから成る一つの単位を「遺伝子」と称してよい。但し、この「遺伝子」という概念には、多数のコドンを形成する塩基に対応する、それの「相補塩基」も含められる、と見られる。2本めの「鎖」糸の「塩基」(相補塩基)は、もともとの「塩基」の<予備>だと考えられている。「鎖」糸が2本あってこそ、<縄ばしご>の左右の、手で握る部分ができる。
 なお、一つの「塩基」とその「相補塩基」、ひいては二本の「鎖」糸について、一方は父親由来、片方は母親由来と<堂々と活字に>している情報がネット上にあるが、誤り。父親と母親由来をそれぞれについて語ってよいのは、一つの「染色体」とその「相同染色体」だ。
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 「コドン」は塩基(配列)に着目しているので、厳密には、「リン酸」、「五炭糖」という、塩基を支えて保護するヌクレオチドのその他の要素を含まない。
 2本の「鎖」糸(ビーズがつながった糸)の中には多数のヌクレオチド全体が含まれており、それは「ヒストン」と称されるタンパク質の周りに、左回りの<らせん状に>巻きついている。1.7回〜2回巻きついた一つの単位を「ヌクレオソーム」と言う。正確に言うと、いわば接着剤である「リン酸」は含まれないようだ。
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 DNAとは、大まかには、上の「ヌクレオソーム」の総体だと言える。したがって、「コドン」、多数の塩基(塩基対)を含んでいる。(これは、細胞「分裂」時には、「染色体」として顕現する。)
 しかし、「遺伝子」をあくまで(これが現在も支配的だが)一定の「タンパク質をコードする」情報をもつものと理解すると、DNA=「遺伝子」の総体、ではない。
 それどころか、2000年代以降、DNAの98パーセント(ときに98.5%)は「遺伝子」たる情報を持たない、とされている。「非コードDNA(領域)」とも言われる。より正確にはつぎのとおり。
 DNAの約80パーセントは「遺伝子」を含まない領域が占める。「遺伝子」の「外」または「間」がある。
 さらに、いちおうは「遺伝子」たる情報を含む領域であっても、「タンパク質をコード」している部分とそうでない部分とがある。前者を「エクソン」(構造配列)、後者を「イントロン」(介在配列)と呼ぶ。イントロンの存在は1980年以降に明らかになった、とされる。これは、遺伝子の「内部」にある、<タンパク質非コード領域>だ。全生物ではないが、ほとんどの生物、「核」を持つ全ての生物の「遺伝子」に、この部分がある。
 「エクソン」部分に限ると、これはDNA全体の2パーセント(あるいは1.5%)を占めるにすぎない。
 なお、「遺伝子」につき、以下の叙述がある。「機能発現」の「調節」・「制御」にすでに論及があるが、代表的だろうと思うので、引用する。
 「遺伝子とは、一つの機能を持った遺伝情報の単位である、と定義することができる。
 ここに言う一つの機能とは、一般的にタンパク質またはRNAの構造を決めることである。
 遺伝子はエクソンとイントロンとから成り立っている…。
 この他に遺伝子の転写や翻訳の機能発現を調節する制御配列が、エクソンの上流(転写のスタートする位置)、下流(転写が終了する位置)、またはイントロンの中に存在する。
 制御配列は、この遺伝子が、いつどこで発現されるべきかについて、他の遺伝子からの指令を伝える調節物質が認識する領域である。〔一文、略〕
 このような制御配列、エクソンおよびイントロンを含めて、一つの遺伝情報の単位、すなわち遺伝子が作られているのである。」
 本庶佑・ゲノムが語る生命像—現代人のための最新·生命科学入門(2013)
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 <DNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質>が「セントラル·ドグマ」と称されるのは、ヒトあるいは哺乳類あるいは脊椎動物等の多くの生物に共通する「遺伝」情報の伝搬方法だからではない。「細菌」(バクテリア)を含む「原核細胞」あるいは「単細胞」生物にも共通する、生命体の「中心原理」であるからだ。ヒトも細菌も本質的には変わりがない、とも言える。どちらも「生命」だからだ。
 「真核生物」と細菌等の「原核細胞」が異なるのは、「核」あるいは「核膜」の有無、DNAの形状等だ。
 ヒトが持つとされる38兆個(または60兆個)の全細胞に「核」があって、上のシステムが配備されている。その「核」内にそれぞれ、約2万1000個〜2万4000個の「遺伝子」がある。その各「遺伝子」が含む塩基配列・塩基対の数は、…。これらの掛け算の結果=一個体・人体内での総数を計算してみる気にもなれない。
 さて、DNAが持つ情報等の全てがmRNAに「転写」(transcription)されるのだろうか。かつてはほとんど全てがコピーされるのだろうと推測されていた。つまり、DNAのほとんどは直接に「タンパク質」形成に関与しているのだろうと見られていた。
 2003年のヒトゲノム計画終了後には、ごく簡単には、つぎのように考えられているようだ。
 「転写」されるのは、まずは、エクソンの他にイントロン部分も含む、「遺伝子」領域だけだ。これによって生まれるものを「mRNA前駆体」(pre-mRNA)と呼ぶ。
 ついで、「mRNA前駆体」が核内から細胞質に出ていく過程で、「タンパク質になるのに無関係な」イントロン部分が除去され、エクソンのみの純粋な「mRNA」になる。これが、細胞質内にある「リボソーム」によって「翻訳」(translation)されることになる。これは、塩基配列という「暗号」の「解読」によって行われる、一定のタンパク質の生成のことだ。
 上にいう、イントロン部分の除去のことを、「スプライシング」(splicing)と言う。これによって、内部で「分断」されていた一つの遺伝子は一つづきになる。「分断」されていたエクソンが「連結」される、とも言い得る。このような過程は、全ての真核生物で生じる、ともされている。
 「遺伝」にとって必要な部分だけの、無駄のないかつ「正確」なコピーを目的としていることは明らかだろう。もっとも、いくつかの例外等の留意点に関する付言が必要であるようなのだが、立ち入らない。
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 さらに、なぜ、「必要」ではない部分をDNAは抱え込んでいるのか、も不思議なことだ。この点についての回答は、上に引用した本庶の叙述の中にある。すなわち、「遺伝子の転写や翻訳の機能発現を調節する制御配列」が、エクソンの末端部分以外に、イントロンの中にもある。これは、遺伝子が「いつどこで」発現すべきかを「調節」する機能を持つ。
 このような機能は、決して「不必要」でも「無駄」でもない。むしろ決定的に重要だとも言える。エクソンが示すのは「設計図」・「仕様書」あるいは「レシピ」なので、実際にいつどのように「実行する」かの指令は別に必要だと考えられるからだ。
 もう一つ、エクソン部分以外の領域の意味を「遺伝子」の「外」・「間」の(DNAの約80%を占めるという)部分も含めて考えると、つぎの可能性があるだろう。
 すなわち、現在はあるいはホモ・サピエンス誕生の時点ですでに「無駄」になっている、生物の<進化>の「名残り」または「痕跡」が、現在でもあるいはホモ・サピエンスになって以降も、DNAの中にとどめられている。
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2748/生命・細胞・遺伝—15。

 ヒトの染色体の数は23対46本で、チンパンジー、ゴリラ等の類人猿のそれは24対48本だ。
 ヒトのゲノムとチンパンジーのゲノムは、96パーセントが一致している。
 以上、S·ムカジー・遺伝子/下(2024)
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 上の後者に出てくる「ゲノム」(genome、ジーノウム)は、個々の遺伝子の総体、「遺伝情報」の全体のことだろうと安易に考えていた。gene がまとまって genome になる、と。
 これは大きな間違いだった。
 まず、DNA内の「遺伝子」は「遺伝情報」を持つ、と言うのは間違いではない。だが、ここでの「遺伝情報」は、<特定のタンパク質の生成を指示する情報(設計図・仕様書)>ととりあえずは理解する必要がある。
 こう理解してこそ、<DNA(>遺伝子)(転写)→RNA(翻訳)→タンパク質>を「セントラル·ドグマ」と称することができる。「タンパク質の生成を指示する」は、「タンパク質をコード(code)する」、と英語では表現される。
 一方、「ゲノム」というのは、<DNAがもつ情報の総体>を意味する。
 「遺伝情報」という語の理解の仕方にもよるが、DNAは<特定のタンパク質の生成を指示(code)する情報>のみを持っているのではない。
 「ヒトゲノム」のうち、つまりはヒトのDNAが持つ全「情報」のうち、上の意味での「遺伝情報」部分、あるいは「遺伝」に関する設計図・仕様書を直接に書いてある部分は、2パーセントにすぎない、とされる。この点を強調する表題を付けて、小林武彦『DNAの98%は謎』(2017)は執筆されている。
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 とくに2003年の「ヒトゲノム計画」の終了・結果報告書の発表以降、ゲノムや「遺伝子」の研究は新しい時代を迎えたようだ。それはまた、「セントラル·ドグマ」の厳密化・精緻化をも求めるものだ、と見られる。
 「ヒトゲノム計画」との関係は定かでないが、まず、DNAの中には、遺伝子とは関係のない部分が各遺伝子の「間」に含まれていることが明らかにされている。DNAの中には、そもそも「遺伝子」と性質づけられない部分が、遺伝子と遺伝子の「間」にあるわけだ。
 ついで、一つの「遺伝子」の「中」または「内部に」、「特定のタンパク質をコードしていない」部分がある、と明らかにされている。一個の「遺伝子」は全体としては「遺伝情報」を持つのだが、遺伝子「内部に」タンパク質生成には意味のない塩基配列が多数あって、「遺伝子」は「分断されている」、とされる。そのような部分は「イントロン」(intron)と称される。一方、「タンパク質をコードしている」部分は、「エクソン」(exon)と呼ばれる。
 この「エクソン」部分が、その解読と研究が相当に進んでいるDNA部分で、どの遺伝子のどの部分にどのようなアミノ酸やタンパク質の生成を指示する箇所があるかが研究されている。その成果は比較的容易に、「遺伝子治療」あるいは「遺伝子工学」に結びついていくだろう。
 多くの研究者の想定とは違って、「ヒトゲノム計画」の成果が明らかにしたのは、この「エクソン」部分は「ゲノム」全体=DNAが持つ情報のうちわずか2パーセントしかない、ということだった、とされる。
 残りの98パーセントは、いわゆる「非コードDNA領域」だ。これには、上記の①遺伝子の内部の「イントロン」と②遺伝子の外部の、複数遺伝子の「間に」ある、タンパク質生成の指示と無関係な部分とがある。少なくとも後者の一部は、従来は「ジャンクDNA」とも呼ばれたが、なぜあるのか、どんな役割を果たしているかの研究が新しい課題になっているようだ。
 「イントロン」は「遺伝子」内部の構成部分であるので、研究の必要はいっそう大きいだろう。タンパク質をコードする情報を持たなくとも、「エクソン」の指示の「発現」や「調整」に関与しているとも想定されている。
 こうしてみると、<DNA(転写)→RNA>の際にDNAの情報全てが「転写」されるのか、その必要はあるのか、といったことが問題になるだろう。そして、RNAはいったい何をしているかに今まで以上の注目が集まることになる、と見られる。
 なお、DNAから「転写」され、タンパク質生成のために「翻訳」されるRNAは、通常、とくに「mRNA」=「メッセンジャーRNA」と称されている。
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2747/生命・細胞・遺伝—14。

 遺伝子群を内包するDNAの最小単位は「ヌクレオチド」だが、塩基対を形成した二本のビーズ状の紐が「ヒストン」の周りを左巻きに(らせん状に)巻きついた場合の一つの単位は「ヌクレオソーム」という。ヒストンの「八量体」の周りを1.7回ぶん巻きついたものだとされる。
 「ヌクレオソーム」の全体を「染色体」と称するとかりにしても、「ヌクレオソーム」は「ヒストン」部分を含む概念なので、少なくともこの点で、DNAと染色体は同じ意味ではない。
 既述のように、染色体は細胞「分裂」の過程で「核」内に<出現>する。一方で、DNAは「核」内につねに格納されている。この点でも、DNAと染色体は異なる。
 但し、存在する・存在しない、見える・見えないの対比を染色体とDNAの間で用いることは、厳密には、「存在する」や「見える」は何を意味しているのか、「見えないから存在しない」のか、といった<哲学>や「認識」論に関係する(?)問題を惹起させるかもしれない。
 細胞分裂過程で「染色体」が「見える」ようになると言っても、ヒトの通常の「肉眼」で見えるわけではない。一方で、「染色質」が元になっている旨すでにこの欄に記したことがあるが、「見える」ことがなくとも、「染色体」は元々「存在」しているのかもしれない。
 この辺りの微妙な?現象を、本庶佑・ゲノムが語る生命像(2016)は、こう叙述している。
 「通常の細胞では、染色体は比較的ゆるやかに伸展した形となり、光学顕微鏡で見てもはっきりとした構造体としては観察されず、核の中にDNAとタンパク質の複合体として存在する。
 しかし、細胞分裂のときには、はっきりと染色体という光学顕微鏡下で見える構造体として凝縮する。

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 凝縮した「染色体」は、エンドウ豆の「鞘(さや)」のような形をしている。ちょうど真ん中ではないが、中央部が「くびれて」細くなっている。
 「常染色体」の場合、そのような染色体1本と全くか同じ形のもう1本が向かい合って、中央部の「くびれ」部分で接着しているか、その部分でほとんど「くっつき」そうになっている。その結果として、2本(1対)でアルファベット文字のXになっているように見える。Xの中央の交差部分が「くびれ」で、左と右が各1本ずつの染色体だ。
 「くびれ」部分、Xの中央部分は、少し離れているように図示されていることが多いように思われる。しかし、本庶・上掲書の、約10000倍に拡大したという写真では、その部分は明らかに「接着」している。
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 染色体の数は生物種で異なるようだが、ヒトの場合は「常染色体」が22対44本、「性染色体」が計2本だ(XX型かXY型か)。計46本と確定したのは、1956年だとされる(第二次大戦後。68年前)。
 上の前者は1対ごとに、「大きさ」の順に「1番」、「2番」、…、「22番」と称される(世界的に統一されている)。この「大きさ」は「長さ」であって、重さでも、内部に含む遺伝子数でも塩基対(・塩基)数でもない。もっとも、「21番」と「22番」の順は実際には逆だともされる。
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 染色体(「常染色体」)の1対2本は、エンドウ豆の「鞘」が向かい合って、「X」を形成しているように見える。「ビーズに糸がついたもの」が2本あるというのはDNAのことなので、混同しないよう注意する必要がある。
 左右の染色体1本の「くぼみ」部分は、「セントロメア」(centromere)と呼ばれる。ちょうど真ん中にあるのではないので、染色体1本を短い部分(「短腕」」,p)と長い部分(「長腕」,q)に分けることになる。
 興味深いのは、つぎのことだ。
 既述のように、「染色体」が二倍化して「赤道」に「整列」したあと、上下(左右)の一つの側が「極」へと徐々に「引っ張られる」。その際に活躍するのは「紡錘体」の要素である「紡錘糸」(spindle fiber)で、この「紡錘糸」は、染色体の「セントロメア」部分に接着して「両極」へと「引っ張る」。つまり、「紡錘糸」は細くなっている「セントロメア」部分を<引っ掛けて>、「両極」へと移動するのだ。
 左右(上下)の染色体1本の二つの「先端」部分または「両端」部分は、「テロメア」(telomere)と呼ばれる。固有のDNA配列を持つ。ともされる。染色体の一部だと理解しておくが、先端にくっつく別のものだと理解できなくはない。
 この「テロメア」部分が重要と見られるのは、細胞は永遠に「分裂」して「複製」されるのではなく、「分裂」ごとにこの「テロメア」部分は短くなっていく、とほぼ考えられている、ということだ。これはつぎのことを意味する。
 「染色体」の先端の「テロメア」の長さが、細胞の、ひいては個体全体の「老化」や「寿命」=「死」に影響を与えている可能性が高い。
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2746/生命・細胞・遺伝—13。

 生命・細胞・遺伝—13。
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 本庶佑・ゲノムが語る生命像—現代人のための最新·生命科学入門(講談社ブルーバックス、2016)
 40パーセントほど読んだ。参照文献を全ては記載してきていないところ、あえてこの文献を挙げるのは、今のところ、読みやすい文章で基礎的なことを書いてくれている貴重な書物と思われるからだ。もっとも、一年前には、あるいは二ヶ月前であっても、読んでもほとんど理解できなくて、読み続ける気にならなかっただろう。数日前から読み始めたが、他の諸々の書物を読んできたことの復習にもなって、なかなか面白い。
 内容の紹介はほとんどしない。
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 表現あるいは形容の仕方に、なるほどと感じさせる箇所がある。
 一つは、DNAをらせん状の「鎖」とか「糸」とか表現してきたところ、この著でも多くは「鎖」が使われているようだが、「ビーズ」(に糸がついたもの)という表現もある。瑣末かもしれない言葉の問題だが、こちらの方が適切または分かりやすいようにも思われる。
 つぎのように語られる。「ヒストン」という語はこれまでにこほ欄で使ったことがある。だが、「ヌクレオソーム」はない。かなり「ヌクレオチド」に似ているのだが、立ち入らない。なお、「糖」と「塩基」の結合で、三つめの「リン酸」がないものは、「ヌクレオシド」と言う。
 ①「DNAの糸を巻き込む糸巻きの芯」は「ヒストン」というタンパク質だ。ヒストン8分子から成る「八量体」の「周りに1.7回巻きでDNAの糸がからまったもの」が「ヌクレオソーム」という〔一染色体内の〕「基本単位」になる。「DNAは、このビーズに糸がついたようなヌクレオソーム構造を、何度もコイル状に折りたたみ、二重三重のコイルとなって、きわめて圧縮した形で核の中に折りたたまれている」。
 ②「DNAはヒストン八量体の周りに1.7回、約150塩基対の長さが糸巻きのような形でビーズ上に存在する」。この単位を「ヌクレオソーム」と言う。
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 もう一つ。細胞の「有糸分裂」によるDNA(・遺伝子群)の「複製」の過程について、「準備」作業として染色体・DNAの「二倍化」があるとして、「神秘的」だとすでに書いた。その際に、元の一つのDNAが二本の「DNA分体」または「DNAの片割れ」に「ほどける」と書いた。また、一つのDNAが塩基対の中央で二つの塩基に「切り裂かれる」と表現したこともある。
 だが、これらよりも、つぎの表現または形容—「チャックを開くように引き離」す—の方がおそらく明らかに適切だろう。
 「DNAの複製は、2本の鎖をチャックを開くように引き離しながら、それぞれに自分を鋳型として、ぴったりとはまり込む相手を作る形で、2組の二重鎖DNAを作り上げる方式で行われる。できあがった2組の二重鎖は、それぞれのうちの1本の鎖が新しく作られたものである」 
 チャックを開く、ファスナーを開く、ジッパーを開ける、の方が実像に近いと考えられる。元の「鋳物」の片割れの一つにその「鋳型」として新しい「DNA分体」が(逆向きで)「ピタッとくっついて」一つの新しいDNAになるためには(そして二倍に「複製」されるためには)、まずは元の一つの「鋳物」がこのようにして二つに引き離されなければならないのだ。
 なお、続けてこう叙述される。「複製」というこの「作業はきわめて複雑な化学反応であり、DNAの複製に関与する酵素〔「DNA合成酵素」〕は20種類以上にものぼる」。
 すでにS·ムカジーの名だけ記して「酵素」に言及したが、ここでも<神秘さ>の背景がより詳しく語られている。「酵素」、「ホルモン」、「神経伝達物質」といった「細胞」と区別される、「細胞」内のまたは「細胞」を行き来する<触媒>類には、まだ触れたことがない。
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2744/「遺伝子検査」を受けた。

 2024年4月には結果をもらっていたから、もう二ヶ月近く経っている。
 電子メール形式で報告書が届いた。さすがに、「開く」前にやや緊張する気分があった。座り直す感覚があったが、それは、まさかと思いつつも、何らかの致死的疾患を発症する「健康リスク」がきわめて高い、と指摘されたら困るな、という思いがあったからだ。しかし、じつは<十分に生きた>という気分が秋月にはすでにあるので、それなら仕方がないという思いも同時にあった。
 やや気になる「健康リスク」がわずかにあったが、全体としては問題がなかった方かと思われる。
 遺伝子レベルでの「検査」による予測だから、現在抱えている若干の病気・疾患の大半は「生後」の「生活環境」・「生活習慣」が原因だと考えられる。
 注意を惹いたのは、10000年前に先祖がどこにいたか(東アフリカからどう移動してきたか)の「診断」だった。
 こんなことを考えたことはなかった(もっとも、<日本人はどこからきたか>という話題には興味があった)。古くからの家系図が残っているような「一族」ではないので、江戸時代半ば以前の祖先のことは全く知らず、戦国時代の乱世に、あるいはいつの時期であれ、中国大陸や朝鮮半島から来た「渡来人」が先祖の中にいると言われても、きっと「ふーん」と納得しただろう。
 だが、どの程度の信頼性があるのか知らないが、どうやら10000年前に「日本列島」にいたらしい。この頃だとすでに「日本列島」は大陸から分離して形成されていたはずだ。
 但し、この点に関する現在の日本人の最多グループは40パーセントほとを占めるらしいが、私の場合は、7パーセントほどの少数派に属するとされていた。
 だがしかし、10代前(200〜350年前?)には計算上すでに1024人の「祖先」がいたはずだ(実際はこうならないのは1人で複数を兼ねている者がいるからだ)。そして、よく読むと、上の「診断」は「母系」をたどってのものらしい。とすると、受けたのは「母系」の祖先の一部についての「診断」で、あとはよく分からないということになるだろう。1000年前も10000年前も、1億年前も、10億年前も、私の「先祖」は地球上のどこかで生きていたはずなのだが。それで全く十分なのではあるが。
 「母系」で診断するということは、女性も同じ「遺伝子検査」の対象であるところ、女性は「Y遺伝子」を持たず、男性も「X遺伝子」ほ持っているので、「X遺伝子」のタイプに注目したからだろうか。よく分からない。
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 一定の量の唾液しか送っていない。それにしては、「遺伝子検査」というのは、「健康」・「病気」関係におおむね限っていても、多数の項目について「検査」し、「現状判断」または「将来予測」(あくまで確率)をできるものだと感心する。
 日本人全員が5000円の自己負担で「遺伝子検査」ができ(どの事業体=会社が行うかが問題だが、国・首相または「厚労省(大臣)」が「指定」することが考えられる)、かつ受診を義務づけると、その結果は、将来の治療または医療的判断に役立ち得るだろう。
 もっとも、「検査項目」によっては、かつまた「何を目的とする」かによっては、当然に<義務化>できる範囲は変わってくるし、「職務上知り得た秘密」に該当し得る「個人情報」の漏洩のおそれありとして<義務化>自体に反対運動が起きるかもしれない。
 「<遺伝子情報>または<DNA情報>を知られない自由」はありそうだ(憲法上保護されるべきだろう)。とすると、全て「同意」・「事前承認」がないと(死者については一定の親族の?)「遺伝子検査」ないし「ゲノム解析」はできないことになるのか。
 「同意」を表明できない重体、重病の患者については「家族」でよいのか? 「家族」がいなければどうなるのか?
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2743/生命・細胞・遺伝—12。

 生命・細胞・遺伝—12。
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 「体細胞」の分裂による複製により、一つの「母細胞」から二つの「娘細胞」が生まれる。後者は前者と同じく、それぞれ一つの「核」内に、遺伝子群を一部とする「二重らせん」状のDNAを持つ。
 こうなるためには、まず、「二重らせん」状の、二本の「鎖」が巻き付いた状態のDNAの「二重」または「二本」の長い「鎖」・「糸」が<ほどけて>、「一本ずつ」に分かれなければならない。
 これを<縄ばしご>や「塩基対」等を使って表現すると、縄ばしごの足を乗せる部分を半分に割る、または足を乗せる部分=「塩基対」(の連続)を半分に切り裂いて二つに分けて元の「塩基」(の連続)部分だけにする、ということだ。
 不思議で神秘的だと思うのは、上に続く②だ。
 すなわち、上で分かれた2本の「DNA分体」または「DNAの片割れ」に、それまでは「見えなかった」、新しい別の「DNA分体」または「DNAの片割れ」が発生してきて「くっつき」=「相補的塩基」どうしで「塩基対」を形成し、それぞれが新しい二つのDNAを構成する。
 遺伝子群はDNAの一部であるので、それらもまた、「DNA分体」とともに行動する。それに「くっつく」新しい別の「DNA分体」の中にも新しい遺伝子群が含まれている。
 このような変化とともに「染色体」が出現してきていて、最初は1本で一つの(「二重」の鎖・糸の)DNAを「くるんで」いたが、一つのDNAが「ほどかれ」、新しく二つのDNAができていくのに合わせて、「染色体」の数もまた、二倍になる(結果として、一細胞内に、23対46本ではなく、その二倍の46対92本の「染色体」が発生していることになる)。
 このような「二倍化」は「体細胞」の分裂過程について言えることで、「生殖細胞」については、このような現象はない。さらに厳密さを期して付記しておけば、「体細胞」であっても、心筋細胞や神経細胞といった<非再生系>細胞では、いったん成熟したものであるかぎり、「分裂」による複製自体が行われない。iPS細胞で作られた始原細胞が心筋細胞や神経細胞に「成熟」することはあっても、それが完了すれば、もう「分裂」・「複製」はしない。
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 「減数分裂」で生まれた精子の23本の「染色体」と同じく卵子の23本の「染色体」が合同して46本のそれをもつ受精卵ができる(44本の「常染色体」と2本の「性染色体」)というのは、まだ理解しやすい。
 だが、それまでは「見えなかった」DNA分体が新たに出現してきて、元のDNA分体と結合して一つの(二本鎖の)DNAを構成するというのは、不思議なことだ。
 S·ムカジーによると、DNAの二本の鎖・糸を「ほどく」<酵素>が出てくるし、新しいDNAを作る(複製する)別の<酵素>も出てくる。不思議なことだ。
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 細胞全体の「分裂過程」の説明としては、以上はまだ準備段階についてのもので、かつ次の重要で目立つことに触れてもいない。
 これまで存在しなかったような「染色体」が出現し、認知され得るのは、それが相対的に大きく、かつ固く<凝縮>しているからだ。その頃には「核膜」はほとんど消滅している。
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 凝縮した、目立つ染色体の数が二倍なったあと、①一細胞を球体の地球に喩えると、染色体群は、半数ずつに分かれて「赤道」上に整列(?)する。
 ついで、②それぞれの(つまり46本ずつの)染色体は、「紡錘糸」に<捉まえられて>(あるいは<引っ掛けられて>)両極(「北極」と「南極」)へと<引き寄せ>られる。「有糸分裂」だ。
 その頃には細胞自体の「分裂」も始まっている。つまり、「赤道」あたりが<くびれて>細くなっていく。
 DNA(と遺伝子群)を包んだ「染色体」群が完全に両極に分かれてしまうと、再び「核膜」に包まれ、上の<くびれ>のところで一つの細胞自体が徐々に二つに「分裂」する。
 かくして、一つの細胞(母細胞)から、「核膜」をもつ「核」が一つずつある、二つの細胞(娘細胞)が生まれる。
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 時間的にほとんど連続した過程だから、各段階を区別するのは容易でないだろう。
 但し、「染色体」の二倍化(新しい二つのDNAの生成)までとそれ以降に大きくは区別されるようだ。前者を「S期」、後者を「M期」と呼ぶ。
 それぞれ、Synthesis(合成)Mitosis(「有糸分裂」)という語に由来する。
 また、後者はさらに、「前期」・「中期」・「後期」・「終期」に分けられるようだ。
 上の「M期」が本来の細胞「分裂」期だとして、それ以外を「G」(=gap、「間期」)と称することがある。
 完全にまたはほとんど休止している状態をG0とし、上の「S期」にあたると見られる時期を「準備」のためのG1と呼んで区別する場合もある。さらに、「準備」が完了したあとで、いわば「最後の決断」を下すための小休止の時期があるとした場合、この時期はG2とも呼ばれる。
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 参照文献を二つだけ挙げる。
 S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(早川書房、2024)
 山科正平・新しい人体の教科書/上(講談社、2017)
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2742/生命・細胞・遺伝—11。

 生命・細胞・遺伝—11。
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 生殖細胞である精子と卵子は、それぞれ順調に成長した男子と女子の体内で、「減数分裂」によって作られる。但し、突如としてそうなるのではなく、<始原生殖細胞>をヒトは備えて生まれてくるらしい。この始原生殖細胞(前精原細胞・卵原細胞)をiPS細胞から作り出す方法の開発に日本で成功したとかのニュースが2024年5月にあった。
 「減数分裂」と称されるように、細胞の一種ではあるが、精子・卵子は「体細胞」と違って、その半分の23本の「染色体」しか持たない。両者が結合して「受精卵」となって、元の?46本に戻る。
 精子・卵子の23本の染色体は、既述のように、22本の「常染色体」と1本の「性染色体」に分けられる。精子のもつ「性染色体」にはX型とY型の2種がある。1本しかないので、あらかじめ、このいずれであるかが決められている。卵子の「性染色体」はつねにX型だ。したがって、受精卵が「常染色体」以外にもつ「性染色体」にはXY型とXX型があることになる。
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 「染色体」は、「常〜」にしても「性〜」にしても、それ自体が<遺伝情報>を持つものではない。<遺伝情報>は、個々の「遺伝子」がもつ。多数の「遺伝子」を一部に取り込んで、長い2本の「らせん」状になった鎖が「DNA」だ。
 染色体は、細胞分裂時に凝固した(遺伝子・)DNAを保護するかのごとく「くるんで」いる。この点について、以下の叙述は異なる理解・説明をしているようだが(DNAを「くるむ」物体とDNAが「形をかえる」物体とではたぶん意味が違うだろう)、一般的または多数でもないように思われるので、無視しておく。一時的に出現する「別の」構造体か、それとも「同じ」一体のDNAが変形したものか?
 細胞が「分裂をはじめるときになると、DNAのひもはぎゅっと凝縮されて、何本もの棒状の物体へと形をかえる」。「この棒状の物体は『染色体』とよばれており、ヒトの場合は一つの細胞につき、46本あらわれる」。
 雑誌ニュートン別冊・知りたい!遺伝のしくみ(ニュートンプレス、2010)
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 染色体でもDNAでもなく「遺伝子」がヒトの「性」を決定するした場合、その遺伝子は特定されているのか。一個体の一細胞がもつ遺伝子の数は、つぎのように数多い。「(ヒト)ゲノム」という語にはまだ立ち入らない。
 「ヒトゲノムにはヒトをつくり、修復し、維持するための主な情報を提供する2万1000から2万3000個の遺伝子が含まれている」(S·ムカジー・下掲書の「プロローグ」)。
 この数字は、この欄ですでに紹介したものと、全く同じではない。
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 「遺伝子」(gene)という概念自体が、20世紀の10年代に生まれた。ダーウィンもメンデルも、この概念を知らなかった。
 相当に観念的で抽象的な概念でもあった。誰も、「遺伝子」なるものを「見る」ことがなかった。
 そんな状況で、ヒトの「性」が遺伝子によって決められる、または遺伝子から大きな影響を受ける、という考え自体が確立していなかった。染色体に関する研究を発展させた、1933年のノーベル賞受賞者のモーガンもまた、<性決定の遺伝理論>を否定していた、という。
 モーガンが否定していたのと同じころ、アメリカの若手研究者・N·スティーヴンスの発想にもとづいて協力学者のE·ウィルソンが、「染色体という観点からは、雄の細胞はXYで、雌の細胞はXXであり、卵子は一本のX染色体を持っている」、「Y染色体を持つ持つ精子が卵子と結合すると、XYの組み合わせができ、『雄化』が決定する」と考えた。
 1980年代に入って、イギリスのP·グッドフェローがY染色体上の「性決定遺伝子」を探し始めた。
 1989年にアメリカのD·ペイジが「ZFY」を見つけて接近し、同年の後半にグッドフェローが「性決定」遺伝子を見つけて「SRY」遺伝子と名づけた。なお、この過程で、「XY型」染色体を持ちながら(遺伝子的には「男性」だが)「女性」である人々も発見され、研究に少なくとも結果としては貢献した。この現象をめぐる仔細は省略する。
 以上、S·ムカジー=田中文訳・遺伝子—親密なる人類史/下(早川書房、2018/文庫化2021)。
 Y染色体上に「性決定」遺伝子(「SRY」)が特定されたのは1989年、2024年からわずか35年前だ。第二次大戦後も40年間以上、「Y染色体」による「性決定」という不正確な通念がまかりとおっていた。
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 「生殖細胞」の染色体は「減数分裂」で23本。受精卵になると染色体数は元に戻って46本(うち2本が「性染色体」)。
 上のことよりも<神秘さ>を秋月は感じるのは、「体細胞」の分裂過程で、DNAも遺伝子も、そして染色体も「二倍化」することだ。
 つまり、DNAは塩基対の中央で二つに(一塩基ごと・一ヌクレオチドごとに)ー切り裂かれ、紡錘体(紡錘糸)に引っ張られて極方に集まるのだが、その片割れ(もはや「らせん状」ではない1本だけのDNAの鎖・ひも)に、相補的に<新しい>塩基群(新しい1本の鎖・ひも)が付着することだ。
 こうしてこそ、細胞は(遺伝子もDNAも)「複製」され、かつ二倍に「増える」(元の細胞は「死ぬ」)。
 この新しい塩基群(新しいDNAの片割れ)の出現による「複製」(新しい塩基対群の完成)・「増殖」こそが、「細胞」の、そして「生命体」の、<神秘>だと、秋月は感じる。
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2741/黒田裕樹・希望の分子生物学(2023)。

 黒田裕樹・希望の分子生物学—私たちの『生命観』を書き換える(NHK出版新書、2023年11月)。
 読了した。なかなかよくできた本だ。
 第1章では、「文科」系的日本人にも比較的に分かりやすく、「現代生命科学」の基礎を9項目に分けて説明してくれている。
 分類学、「悠久」を前提とする「進化」論、生物とは、栄養素、「始原生殖細胞」、免疫、等々。
 その他の紹介、要約等は今回はしない。
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 カント、マルクス、ニーチェ等々、あるいは少なくとも19世紀末までの「哲学」・「思想」等はほとんど役に立たない。
 読了して、記憶に強く残っていた<現代的>問題のうち、二つだけ取り上げる。
 第一。遺伝子「組換え」技術によって「大きな変革が予測される分野」の一つに、つぎがある。
 「寿命=老化に関与する遺伝子をターゲットとして、寿命または健康寿命を延ばせるようになる」。
 以下は、示唆を得ての秋月の文章。技術的には、ほぼ全員について遺伝子上の100歳寿命を実現できるものとする。
 <少死化>時代となって、「食糧」問題はどうなるのか。
 「寿命・健康寿命の延長」を望む者が対価を払って遺伝子改変を受ける場合、100歳寿命化はいかほどの金額になるのだろうか。
 望んでもその金額を支払えない者が出てくる。貧富の差異によって、「(健康)寿命」延長の可能性が変わる。
 この「不公平(?)」を、<国家>は貧者への補助金(・助成金)によって解消すべきか?
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 第二。「ブタの臓器」をヒトに移植する、またさらに、ブタの体内で「ヒトの細胞からなる臓器をつくる」、といった研究が行われている。後者ではきわめて短期間で目的のヒトの臓器を獲得できる。
 以下は、著者の言葉。「倫理的な問題を引き起こす可能性」がある、という。
 「例えば、人間の細胞がブタの脳にも混ざる可能性があり、そうなるとそのブタは何らかの形で『人間的』な認識を持つかもしれないと考えられます。
 だとしたら、そのブタを殺してもよいのか。」
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2740/末期癌の若き脳神経外科医の死②。

 つづき。Cady は夫妻の幼い子ども(8ヶ月)。
 ——
 「それとも、ここに家を再現できないかしら?
 BiPAP が空気を送り込む合間に、彼は答えた。
 『Cady』。/
 友人…がすぐに家からCady を連れてきてくれた。
 Cady はPaul の右腕に居心地よさそうに抱かれ、そしてCady らしい無頓着さでご機嫌な付き添いを始めた。
 空気を送りつづけ、Paul の命をつないでいるBiPAPの機械など気にも留めずに、Cady は小さな靴下を引っぱったり、病院の毛布を叩いたり、にこにこしたり、喉を鳴らして喜んだりした。」
 「Paul の急性呼吸不全はがんの急速な進行によるものと思われた。
 血液中の二酸化炭素濃度はいまだに上昇しつづけており、挿管の必要を揺るぎないものにしていた。
 家族の意見は分かれた。」
 「わたしは、急速に悪化した彼の容態を改善できる可能性を少しでも信じているなら、そう言ってほしいと医師たちに懇願した。/
 『Paul は奇跡の大逆転にかけたいとは思っていません』とわたしは言った。
 『意味のある時間を過ごせる可能性が残されていないのなら、マスクを取ってCady を抱きしめたいと思っています』。/
 わたしはPaul のベッド脇に戻った。
 彼はわたしを見て、はっきりと言った。
 BiPAPのマスクの上の目は鋭く、その声は静かだけれど揺るぎなかった。
 『用意ができたよ』(I 'm ready)。
 呼吸器を外す用意が、モルヒネ(morphine)を開始する用意が、死ぬ用意ができたということだった。/
 家族が集まった。
 Paul の決意のあとの貴重な時間に、わたしたちはみんな、愛と尊敬を彼に伝えた。
 Paul の目に涙が光った。」
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 「一時間後、マスクが外されてモニターが切られ、モルヒネの点滴が始まった。
 Paul の呼吸は安定していたものの、浅かった。
 苦しそうな様子はなかったけれど、わたしがモルヒネを増やしてほしいかと訊くと、彼は目を閉じたままうなづいた。…。
 そして、とうとう、Paul は意識を失っていった。」
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 「Paul の両親、兄弟、義理の姉、娘とわたしは9時間以上、彼のそばを離れずにいた。」
 「親しいいとこと叔父、そして司祭が到着した。」
 「北西向きの窓から暖かな夕陽が斜めに差し込むころ、Paul の呼吸はさらに静かになった。
 寝る時間が近づくと、Cady はぽっちゃりとした拳で目をさすり、彼女を家に連れて帰ってくれる友人がやってきた。
 わたしはCady の頬をPaul の頬につけた。
 ふたりのそっくりな黒髪には同じような寝ぐせがついていた。
 Paul の表情は静かで、Cady の表情は不思議そうだけれどもおだやかだった。
 彼の愛する娘はこれが別れの瞬間だとは思ってもいなかった。」
 「部屋が暗くなって夜が訪れ、低い位置の壁灯が暖かな光を放つころ、Paul の呼吸は弱々しく、そして、途切れがちになった。
 体は休んでいるように見え、四肢に力ははいっていなかった。
 もうすぐ9時だった。
 Paul は目を閉じて唇を開いたまま、息を吸い、そして、最後の、深い息を吐いた。」
 ——
 死亡日、2015年03月09日。37歳。

2739/末期癌の若き脳神経外科医の死①。

 Paul Kalanithi, When Breath Becomes Air (2016年1月)。
 =P·カラニシ=田中文訳・いま希望を語ろう—末期がんの若き医師が家族と見つけた『生きる意味』(早川書房、2016年11月)。
 若き脳神経外科医のPaul Kalanithi が末期癌に罹り、自らネット上に情報発信していて、その文章も一部掲載されているが、その妻だったLucy が書いた文章(死亡の過程やその後のこと)が主だと思える。舞台はアメリカだが、Paul Kalanithi という名を持つ夫の出身地等は不明。
 田中文の日本語訳がうまくて(そう感じられ)、それが理由になって最近にS·ムカジーのいくつかの著の邦訳書を手にすることになった。
 途中から途中まで、一部のみを紹介する。Lucy の文章だ。()は原書による。
 ——
 「日曜の早朝、わたしがPaul の額をなでると、燃えるように熱かった。」
 「肺炎(pneumonia)の可能性を考慮して抗生物質(antibiotics)の投与が開始されたあとで、わたしたちは家族の待つ家に帰ってきた(…)。
 でもひょっとして、これは感染(infection)ではなく、がん(cancer)が急速に進行しているせいなのだろうか?
 その午後、Paul は苦しむ様子もなくうとうととしていたけれど、病状は深刻だった。
 彼が寝ている姿を見ながら、わたしは泣いた。
 居間へ行くと、義父も泣いていた。/
 夕方、Paul の状態が突然、悪化した。
 彼はベッドのへりに腰掛けて、息をしようと喘いでいた。
 はっとするほどの変化だった。
 わたしは救急車を呼んだ。
 救急救命室にふたたびはいっていくところで(…)、彼はわたしのほうを向いてささやいた。
 『こんなふうに終わるのかもしれない』(This might be how it ends)。」
 --------
 「病院のスタッフはいつものようにPaul を温かく迎えてくれたけれど、彼の容態を把握したとたん、忙しく動きはじめた。
 最初の検査の結果、医師らは彼の鼻と口をマスクで覆ってBiPAP で呼吸を助けることにした。」
 「Paul の血液中の二酸化炭素濃度は危険なまでに高く、呼吸する力が弱くなっていることを示していた。
 血液検査の結果から示唆されたのは、血液中の過剰な二酸化炭素のうちのいくらかは、肺の病変と体の衰弱が進行していくにつれて…蓄積していったということだった。
 正常より高い二酸化炭素濃度(carbon dioxide level)に脳が順応したために、Paul の意識は清明なままだったのだ。
 Paul は検査結果を見て、そして医師として、その不吉な結果の意味を理解した。
 ICU へ運ばれていく彼のうしろを歩きながら、わたしもまた理解した。」
 「部屋に着くと、彼はBiPAP の呼吸の合間に、わたしに訊いた。
 『挿管が必要になるだろうか? 挿管(intubate)した方がいいだろうか?』」
 「BiPAP は一時的な解決策だと彼は言った。
 残る唯一の医学的介入はPaul に挿管すること、つまり人工呼吸器(ventilator)につなぐことだった。
 Paul はそれを望んでいるだろうか?」
 「問題の核心」は「この急性呼吸不全を治すことができるかどうかだった」。
 「心配されたのは、Paul の容態がよくならず、人工呼吸器を外せなくなることだった。
 Paul はやがてせん妄状態(delirium)に陥り、それから多臓器不全(organ failure)をきたすのではないだろうか?
 最初に心(mind)が、次に体(body)がこの世を去っていくのではないだろうか?」
 「Paul は別の選択肢を検討した。
 挿管ではなく、『コンフォートケア(comfort care)』を選ぶこともできるのだと考えた。
 死はより確実に、より早くやってくるけれど。
 『たとえこれを乗り越えられたとしても』、脳に転移したがんのことを考えながら、Paul は言った。
 『自分の未来に意味のある時間が残されているようには思えないんだ』。
 義母が慌てて割ってはいった。
 『今晩はまだ何も決めなくていいのよ、Pabby。…。』
 Paul は『蘇生(resuscitate)を行わないでほしい』という意思表示を確定的なものにし、それから義母のいうとおりにした。」
 ——
 つづく。

2738/生命・細胞・遺伝—10。

 細胞核内のDNAの最小単位のヌクレオチドは、リン酸、糖(五炭糖)、塩基で成る。
 五角形をしている五炭糖に5つある炭糖には、1‘〜5’の番号が振られている。
 数字の順はあくまで便宜的になのだろうが、リン酸(H3PO4)とまず結合するのは、五炭糖(の炭素)のうちの「5‘」だ。
 一方で、五炭糖(の炭素)のうちの「1’」が、塩基と結合する。
 したがって、ヌクレオチドは、五炭糖を真ん中にして、 <リン酸—糖(五炭糖)—塩基>という結合の仕方をしている、
 なお、五炭糖のうちの「2‘」だけがDNAとRNAで異なり、前者は水酸基(O)を持たないが(全体として→「デオキシリボース」)、後者は持つ(全体として→「リボース」)。日本語では「デオキシリボ核酸」等の語になって「核酸」が付いているのは、リン酸が「核」内にある「酸」だからだ。英語は、deoxiribonucleic acid。
 塩基(base)には4種がある。Adenine(アデニン、A)、Thymine(チミン、T)、Guanine(グアニン、G)、Cytosine(シトシン、C)だ。簡単にA、T、G、Cと称され、塩基(配列)の「文字情報」と言われたりされるが、むろん、塩基の表面にこれらの文字が刻印されているのではない。
 なお、RNAでは、上のうちTだけはUrasil(ウラシル、U)に代わる。
 DNA内の塩基にはプリン塩基とピリミジン塩基の二つがある。上のAとGはプリン塩基で、上のCとT(そしてRNAの場合のU)はピリミジン塩基だ。
 この塩基部分は、生物や細胞にとって必要不可欠の「情報」・「設計図」の作成に関係する<本体>だと言える。
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 一個のヌクレオチドだけでは「縄ばしご」、遺伝子あるいはDNAにならない。
 第一に、便宜的な言い方をすると、「下」へ延びなければならない。タテの「握り縄」を長くしなければならない。
 この場合、上のヌクレオチドの五炭糖(の炭素現象)のうちの「3‘」が「下」にある別のヌクレオチドの「リン酸」と結合し、さらに「下」のヌクレオチドへと繋がっていく。
 それぞれの「リン酸」には最初のものとは異なるそれぞれの五炭糖が結合している。また、その五炭糖の「1’」にそれぞれの「塩基」が接合している。
 大まかに言えば、ヌクレオチドが鎖のように上から下へと繋がっている。「リン酸」を介して接合しているのだが、二つの「リン酸」を繋ぐのは五炭糖の「5‘」または「3’」で、この二つだけを上から順に見ると、「5‘」→「3’」→「5‘」→「3’」→「5‘」…という順になる。また、それぞれのヌクレオチドに「塩基」を接合するのは、つねに、それぞれの五炭糖の「1’」だ。
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 第二に、「横」へと、広がらなければならない。
 この場合、「踏み板」(踏み縄)にあたる「塩基」を、<隣>にあるヌクレオチドの「塩基」と結合させることになる。あるいは、<噛み合わせる>ことになる。
 ここで重要なこと、不思議なことがある。
 塩基には上記のとおり4種類があるが、「隣」のヌクレオチドの塩基ののうち、接合する、あるいは「噛み合う」種類があらかじめ(不思議なことに)決まっている。
 すなわち、A-T、T-A、G-C、C-G、という4種の対応関係のみがある(4文字のあり得る組み合わせは4の4乗だが)。左右のセットで考えると、2種類しかない。
 なぜこうなっているかというと、A-T、G-Cの組み合せが必要なエネルギーが少なくて済む、という理由らしい。また、別の塩基と接合するに際してに必要な「水素結合」の個数(本数)がAとTの場合は2、GとCの場合は3と違っている、と指摘されている。
 こうして「隣の」ヌクレオチドの塩基との接合・結合(あるいは「対合」)によって、一つの「塩基」は一つの「塩基対」になる。「対合」する塩基のことを、「相補塩基」とも言う。
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 一つのヌクレオチドが「鎖」状になって「下」に繋がっていくと、塩基もまた、種類を変えながら、ずっと続いていく。
 この塩基の並び方を「塩基配列」という。片方だけではなく双方があって塩基対が出来上がっているとした場合も、やはり「塩基配列」と言ってよいのかもしれない。
 重要でかつ不思議なことは、「相補」関係にある、向かい合った、または隣り合ったヌクレオチドの塩基の配列の仕方には、一定の<法則>があることだ。
 すなわち、片方の塩基配列6個分がかりに「CATTGA」だったとすると、「相補塩基」の塩基配列は必ず「GTAACT」になっている。
 これは上記の、A-T、G-Cの対応関係しかない、ということの延長の説明になるだろう。6個はつぎのような相補塩基と対の配列に変わる。
 C→G、A→T、T→A、T→A、G→C、A→T。こうして、「GTAACT」になる。
 また、別の話題になるが、「相補」関係にあるヌクレオチド、つまり、リン酸・糖・塩基の繋がり方は、五炭糖(の炭素)の位置について上に述べた片方のそれとは逆、すなわち、「3‘」→「5’」→「3‘」→「5’」→「3‘」…になっている、という。不思議で、絶妙なことだ。
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 さて、生命に関する「情報」・「設計図」はリン酸や糖(五炭糖)の部分ではなく、A・T・G・Cという「塩基」(または塩基対)に記載されている。正確には、これらの塩基の独特で複雑な「配列」関係によって示されている。
 それらの<情報>は、DNAからRNAへ「転写」され、そのRNAが細胞質内のリボソームにより「翻訳・読解」されて、その指示情報に従って新たに「タンパク質」が作られる(ホモ・サピエンスのみならず、細菌・バクテリアを含む全ての生物に共通する、セントラル・ドグマ)。
 従って、生命に関する「情報」はタンパク質作りのための「設計図」であり、「レシピ」である、と言って差し支えない。
 そのタンパク質は多様なもので、諸種の「アミノ酸」がつながり合ったものだ。
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 アミノ酸は、20種類がある、とされる。それらが組み合わさって、一定のタンパク質が生まれる。
 塩基には4種類があるが、そのうち2種類を使っただけでは、正確には2列の塩基配列を使っただけでは、16種の異なるアミノ酸しか指定することができない。AA、AG、AC、…と、4×4=16が限界だ。
 そこで、塩基は、3種のそれで、一つの性格のアミノ酸を指定している、とされている。
 GGA、CTT等々の組み合わせ、または配列の違いで、4の3乗の64とおりの異なるアミノ酸を指定することができる。しかも、64と20の間には相当の余裕がまだあるので、複数の三「文字」の組み合わせを一つのアミノ酸のために利用することができる。
 4種の塩基のうち3つの配列はアミノ酸の、ひいてはタンパク質の生成のための「暗号」のようなもので、塩基3個の配列は「コドン」(codon)と称される。
 64種類の「コドン」がいかなるアミノ酸に対応しているかを一覧できる表は、<コドンの暗号表>とも呼ばれる。
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 塩基配列はしかしDNAの長さの範囲内で長々と続く可能性があるので、生命の維持または狭義の「遺伝」に関する「情報」として、何らかの一かたまりの区別が必要になってくるものと思われる。「複製」と「分化」を繰り返して維持されたり生成されたりする器官や臓器等々には違いがあるからだ。またそもそも、塩基配列の始めと終わりが明確でないと、作成が指示されるアミノ酸の並び方、ひいてはタンパク質を特定することができない。
 そこで、ATG(メチオニンというアミノ酸のためのコドン)を始まりと見なすことになっている、とされる。一方で、終わりを指定する「コドン」には、TAA、TAG、TGAの3つがある、とされる。
 以上の「コドン」以下は、主として森和俊・細胞の中の分子生物学—最新·生物科学入門(講談社ブルーバックス、2016)による。
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 上の一区切りまたは一かたまりは、秋月には一個の「遺伝子」に該当するように見える。当然に、この点でも、一個の遺伝子はDNA全体の一部にすぎない。
 「ヌクレオチドが多数つながりあったものは、化学的にはDNA(デオキシリボ核酸)と呼ばれる」としたあと、続けてこう書く文献もある。
 「したがって、一つの遺伝子は、ある長さをもったDNA(あるいはDNAの一断片)と言ってもよい」。
 小林朋道・利己的遺伝子から見た人間(PHP研究所、2012)
 また、「非コードDNA」という概念があるように、DNAが全て「遺伝」情報を保持しているわけではない。「DNAの98%が謎」という書名の文献もある。もっとも、正確には、DNAの全ての部分が「情報」・「設計図」を〈直接に〉示しているわけではない、〈間接的に〉、つまり設計図どおりの作成に移るべきか否か、いつ始めるのか、いわゆる遺伝子の<発現>をさせるか否か、といった重要問題に関与している可能性が高い、と言うべきだろう。むろん、〈無駄な〉部分もある。さらに、のちに触れる。
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 以上のDNAの構造に関する叙述またはノートに、「染色体」という言葉・概念は全く必要がない。
 染色体は<細胞分裂>(これによって「核」も「DNA」も(遺伝子群も)「分裂」するのだが)の過程で出現する構造体にすぎない。但し、核膜の一部または内面にあらかじめ「染色質」が用意されている、とされる。
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2737/西尾幹二批判076—「ひらめき」。

 「生命・細胞・遺伝—01」(2024/04/04)の最後にこう書いた。
 「文筆家、評論家、あるいは『もの書き』にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の『つながり方』またはその変化によって生じている」。
 このときに思い浮かべていた「もの書き」の文章はつぎだった。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。p.37。
 (その問題は)「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域に入ります。それは各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定という問題です」。
 西尾におけるアダム·スミスの「自由」概念の理解は、既述のように、間違っている。それはともかく、西尾幹二は、生活条件の整備等の物質的・経済的問題ではなく各自の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の<自由>の問題が重要だ旨を力説する。
 「ひとつひとつの瞬間の心の決定」は、脳内の、神経細胞(ニューロン)の働き、多数のそれの複雑なつながり方によって生じる。
 そして、西尾は「各自における」と書いて「各個人」のそれの重要性を面向きは強調しているようだが、じつは、西尾幹二という「自分」の<自由>こそが重要であり、保護され、尊重されるべきものだと考えていることは明らかだ。
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 西尾幹二にとって、文章作成の際に言葉や語句が「ひらめき」出てきて、それを選定する場合の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」がきわめて重要で、そこにこそ、<西尾幹二らしさ>、自分が高く評価されるべき根拠があるのだろう。
 物質的・経済的問題ではない、それと峻別されるべき<精神>の領域に属する問題なのだ。
 この部分にも、幼稚で単純な「物心(心身)二元論」が見え隠れしている。
 「物」よりも「精神」が大切、「精神」・「心」を表現する言葉・文章が大切。—さすがに「文学部的」または「文芸評論家的」なモノ書きの文章だ。
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 もっとも、西尾が語る趣旨を全く理解できないのではない。、またむしろ、陳腐な物言いでもある。
 西尾幹二がいっさい参照していないと間違いなく見られるのが「法学」または「憲法学」上の<自由>論なのだが、憲法(学)上は「経済的自由」よりも「精神的自由」が優先されるべきとされ、後者の中核は「内心の自由」にあるとされる。
 西尾は知らない単語・概念だろうが、この人が語っているのは要するに「内心の自由」の重要性に他ならない。特段に新しい深遠な考え方が示されているのでは全くない。
 (但し、「内心」の形成は<本当に自由に>行われているのか、という問題はある。この問題は「意識」・「こころ」の本質や<自由な意思>の存否という「ハードな」問題にかかわる)。
 上の()部分をあえて注記しておくが、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」が重要だなどという言辞は、ある意味ではほとんど自明のことを、何やら勿体をつけて、長々と書いているものに過ぎない。
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 だがしかし、「生活条件の整備」等の個々の人間が生きていく上で重要な課題と仕事を、西尾幹二は一貫して<馬鹿にしてきた>、という面が、一方にはあると考えられる。
 旅行中にふと思ったことだが、急傾斜の地域に鉄道を通すために、またその鉄道の速度を早めて人や物質を運送・運搬する時間を短くするために、日本で100年以上のあいだ、多数の人々が努力し、また工事等を行なってきた。そんな、無名だろう人々を含む多数の人々の、「便利さ」を追求する懸命の努力など、西尾幹二の意識には、ほとんど昇ってきたことがないに違いない。
 「生活条件の整備」は「精神的自由」と比べて価値あるものではないとしつつも、前者が獲得された以上は、西尾はその利便性を平然と利用してきたのだろう。
 西尾幹二が住んだ住宅にも、電気・上水道等々の種々の利便性が及んでいただろう。西尾が杉並区から中央線・市谷駅に着くまでのあいだ、あるいはその反対の帰路のあいだ、間違いなく西尾も、都市の交通施設・制度の恩恵を享受してきたわけだ。
 にもかかわらず、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の問題が重要だ、その<自由>にこそ価値がある、とぬけぬけと書けるのは何故だろう。かつまたその<自由>は、西尾幹二という「自分」のそれで十分であって、この人は、日本国民一般、世界の人々のことなど全く考慮していない。
 いびつな、「観念」好きの、自分が良ければよい、と考えるもの書きの姿が、ここにはある。
 「科学は敵だ」とか、「神話は無条件に信じるべきものだ」とか等々の狂信じみた物言いが西尾幹二にはあることは、すでにこの欄で記した。
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2736/生命・細胞・遺伝—09。

 DNAの構造(・形態)を理解しようとするとき、まずは木製のハシゴを思い浮かべるとよいかもしれない。
 登り降りするために足を乗せる横棒・横板の部分が「塩基」(正確には「塩基対」)だ。左右の手で握る部分は、「糖」と「リン酸」が繋がってできている。
 だが、「木製のハシゴ」では<二重らせん>構造を想像することが難しいかもしれない。左右の握り棒部分を強く「ねじって」、<らせん>階段のようにしなければならないからだ
 だから、勝手に、<縄ばしご>の方が近い、と秋月は思っている。「縄」でできたハシゴならば、左右にあるタテの縄を容易に「ねじって」、<らせん>状にすることができるだろう。
 左右の握り縄の部分は、長い「鎖」とか、長い「糸」と表現されることが多い。
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 DNA(とRNA)の最小の構成単位は、「ヌクレオチド」(nucleotide)というらしい。この「ヌクレオチド」は、一個ずつの「リン酸」と「糖」(正確には「五炭糖」)と—4種ある「塩基」のうちの—1種の「塩基」で成る。DNAの「糖」は「デオキシリボース」だ(だから、DNA=「デオキシリボ核酸」という)。RNA(リボ核酸)は「リボース」なので、DNAと異なる。
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 ヌクレオチドは、「縄ばしご」のごく一部だ。横棒部分の全体の、半分しか持たない。したがって、これだけでは、「はしご」にならない。また、左右にある握り縄部分のうちのごく短い一部分にすぎず、上記の通り計2個のつらなった分子構造しか持たない。
 ではなぜ、横棒=横板部分がもう半分くっついて(逆の形で「相補的に」)結合して、左右に一対の握り棒(握り縄)になっているのだろうか。一対の(計2種の)塩基を「塩基対」と言う。
 もともとタテの(ヌクレオチドの)長さが短いと生命体にとって必要な「情報」を記載する(正確には「情報」を記載する「塩基」部分を保持する)ことができないから、左右いずれかの「リン酸基」・「糖」部分は長く繋がって、「鎖」状にまたは長い「糸」状になっている。
 その左右いずれかの部分を長くすれば、塩基がもつ<情報>を十分に支えることができるのではないか。
 この問題について、DNAの<情報>がRNAに「転写」されるときに「コピーミス」が生じ得るので、その場合に備えて、もう一本(もう一鎖)、元来は「同じ」はずの「予備」を用意しているのだ、との説明がある。
 田口善弘・生命はデジタルでできている—情報から見た新しい生命像—(講談社ブルーバックス、2020)
 (なお、この一対は、有性生殖生物の場合の雌雄という一対に由来するのでは全くない。後者に由来するのは一対で成る<染色体>だ。)
 なるほど、無駄になるかもしれないのに丁寧なことだ、と思う。これに比べて、RNAは、「ヌクレオチド」が最小単位であることは同じだが、「はしご」状(二本の長い鎖の「らせん」状)ではなく、一本の長い「鎖」・「糸」なのだ。
 しかし、さらに疑うと、「予備」もまた「ミス」を含んでいる可能性が全くないとは言えないだろう。そうすると、「三本め」もまた用意しておかなければならないのではないか。
 日本の神社にたいていはある鳥居には一本の柱ではなく、左右一対の二本の柱がある(それらの上に「笠木」がある)。そうであってこそ、「安定」している(また、「美しい」のかもしれない)。
 だが、ごく稀には、二本の柱の中央の奥にもう一本柱があって、三本の柱をつないでいる鳥居がある(三柱鳥居。例、京都市の木嶋坐天照御魂神社)。上から見ると、正三角形の形状をしているはずだ。二本よりも、三本の方が「安定」性が(鳥居の場合はきわめて)高いだろう。
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 こんな雑考をしていると、興味深い記述を思い出した。すなわち、DNAの「二重らせん」構造を解明したJ·ワトソンとF·クリックは(他の一研究者グループも)、当初は「二重」と想定しておらず、「三重」と予想した時期もあったという。らせん状にヒストンに巻き付くのは何本と決まっているわけではないので、三本でも四本でもあり得ることだ。なお、他にも想定違いはあった(塩基がくっつく方向等)が、それらを打ち破ったのが、ロザリンド·フランクリンによる「写真」だったという。
 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子—親愛なる人類史—/上(2021)
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 生命体(生物)にとって最も基礎的な数字は、2、次いで4であって、3ではないような気がする。多言はしない。人間に身近な「音楽」についても。
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 そんな数字マニアックなことよりも、以下のことの方が、はるかに重要なことだろう。
 細菌(バクテリア)を含む全ての生物にDNAがあり(ウイルスの中にもDNAを持つものがある、という)、「ヌクレオチド」を(「分子」レベルでの)共通する最小単位にしている。細菌(バクテリア)もホモ・サピエンス=人類も同じだ。
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2735/生命・細胞・遺伝—08。

 生命・細胞・遺伝—08。
 細胞や個体・人間の「死」についてまず書こうと漠然と想定していたが、<Y染色体論>なるものをふと思い出して、染色体や遺伝子等に進んでしまった。「細胞死」と個体の「寿命死」の差異や関連についてがまだ触れていない。「読書ノート」のようなものを、行きがかり上、さらに進める。
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 生命体・細胞の(とくに遺伝子関連の)研究の発展史のようなものに05でごく簡単に触れた。以下、重なるところもある。
 1860年代のメンデルによるほとんどの生物に共通する遺伝関係「因子」と遺伝にかかる「法則」の発見から20世紀になってからの(ドイツのW·ヨハンセンによるドイツ語を経ての)「遺伝子(gene)」という言葉の出現や若きサットンの研究までの間に重要だったのは、「染色体(chromosome)」の発見とこの言葉の定着だった。
 なぜ「染色体」が遺伝子やDNAに先行したかの理由は、まずはその「大きさ」と「染色」されやすさ、にあっただろう。
 遺伝子やDNAよりもサイズが大きいために、当時の顕微鏡による「細胞」観察でもより容易に発見することができた。
 加えて、「染色体」は青い「アニリン染料」によく「染まる」性質を持ち、その大きさとともに明瞭に「目立つ」ものだった。
 「染色体」という呼称は、1888年に始まった、とされる。その「染色」性に由来していることは間違いない。
 このように「染色体」が目立った重要な背景には、しかし、<細胞分裂>の際の「挙動」こそがあった。
 1882年に、ドイツのW·フレミングは、<細胞分裂>の各段階ごとに、「よく染まる構造体」の「奇妙で特徴的な挙動」の「精緻なスケッチ」を残した(「」引用は、中屋敷均・遺伝子とは何か(2022)から)。このスケッチは現在でも利用されている。
 大きさも、「染色」性も、じつは、<細胞分裂>の過程での不思議な「挙動」によってこそ明らかになったものだった。
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 1875年にヘルトヴィヒが、ウニの「生殖」過程で「核」内の精子が別の核内に入っていって二つの「核」が融合する、ということを発見した。
 そんなこともあって、二つの「核」の融合を経る(狭義の)「遺伝」には「核」内の(その他の物質や構造体ではなく)「染色体」が重要な役割を果たしていることを、20世紀初頭にサットンが発見し、主張するに至る(既述、05)。
 こうして、メンデルによる「遺伝」に関する「因子」は「染色体」に該当する、またはこの二つは重要な関連がある、と考えられた。そしてまた、同時期にドイツのW·ヨハンセンの造語を経て「遺伝子」(gene)という語・観念も作られていた。サットンは、「染色体」=「遺伝子」と見なすとメンデルの「法則」をうまく説明できる、と気づいた、という(この部分、小林武彦・DNAの98%は謎(2017)による)。
 だが、「遺伝子」の正体・「性質」については、「染色体」との関連も含めてまだ不明確だった。
 一方ですでに1869年に、細胞内、とくに「核」内には「DNA」という物質があることが知られていた(スイスのF·ミーシャによる)。
 だが、「遺伝子」は「タンパク質」なのか「DNA」なのか、といった議論があり、「DNA」等の単純な成分をもつ「核酸」(nucleic acid)ではないとする説も有力だった。多数説だった、ともされる。人体を構成する主要な高分子化合物(生体高分子)は20種類のアミノ酸が複雑に結合した種々の「タンパク質」だから、「遺伝」・生存の基本を形成するのも「タンパク質」だろう、というわけだ。
 その後、1928年、その物質は「タンパク質」以外の何かだと判った(グリフィスの実験)。
 ついで1944年(第二次大戦中)、「遺伝子」の正体・本体または物質的性格は「DNA」だと解明された(アベリーの実験)。
 では、「DNA」はどのような形態・構造をしているのか。これが明らかにされたのが、1953年。J·ワトソンとF·クリックによる。その年から、まだ70余年しか経っていない。
 なお、「二重らせん」構造という結論に影響を与えたのはロザリンド·フランクリンという女性による観察・解析だった、という。この人はのちに38歳で夭折した(中屋敷・上掲書等々)。
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 以上の最後の方ですでに、「遺伝子」の本体または物質的性格が「DNA」だ、という旨を叙述した。これは、両者の差異に関する、つぎの説明の仕方に符号しているだろう。「視座」の違いによるとも言える。
 すなわち、「遺伝子」とは<情報>(を記載したもの)であり、「DNA」とはその<物質>(的性格)だ。
 だが、種々の説明の仕方があるようだが、すでに(<八木秀次の「Y染色体論」②>)で触れたように、「核」内のDNAのむしろ広い範囲は、「遺伝子」が示す情報(・設計図)を持たないようだ。「染色体」が出現する「細胞分裂」の過程でも同じ。
 したがって、「遺伝子」とDNAの関係・差異については、さらにもう少し立ち入る必要がある。
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2734/八木秀次の<Y染色体論>②。

 「細胞」は大きく「再生系」と「非再生系」に分けられる。
 上の後者は神経細胞、心筋細胞だ。おそらく、「iPS細胞」を使った再生 もあり得ない。爪も肝臓という臓器等も「再生」できるけれども。
 多数の細胞は前者の「再生系」だ。その中に、生殖細胞および生殖関連細胞も含まれる。
 この区別は、「細胞」の「分裂」があるか否かに対応している、と見られる。元の神経細胞が「分裂」によって消失してしまえば(そして新しい神経細胞に取って代わられれば)、各個体に固有の<記憶>や<自我意識>等もまた消滅してしまうのではないか。全ての細胞が「分裂」・増殖するかのような叙述は、厳密なものではない。
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 細胞の「分裂」の態様には、「有糸分裂」(有糸「核分裂」による細胞分裂)と「減数分裂」とがある。おおよそは「紡錘体」(糸)出現の有無によって区別されるとも言われるが、それはともかく、「減数分裂」で生み出されるのは、ヒトについて言うと、精子(男子)と卵子(女子)だ。
 これらを作り出す精巣や卵巣という細胞組織の個々の細胞も、「有糸分裂」(と「分化」)によって作り出される。
 上の区別に対応するのが、おそらく、「体細胞」と「生殖細胞」の区別だ。後者は正確には、精子(男子)と卵子(女子)のみを意味する。
 精子と卵子は「細胞」ではあるが、「体細胞」が23対・46本の「染色体」をもつのに対して、半分の23本の染色体しか持たない。「減数」分裂と称される理由だ。
 精子と卵子が一体となった「受精卵」は、両者から受け継いで、23対・46本の染色体をもつ。
 その受精卵は順調に分化・増殖すれば胎児になり、新生児となり、成長して再び精子(男子)または卵子(女子)を体内で(「減数分裂」によって)作り出す。
 元に戻ると、あるいは上から再出発すると、精子と卵子がもつ23本の「染色体」の中には、1本の「性染色体」がある。残りの22本の「常染色体」は少なくとも直接には生殖細胞の生成に関与しておらず、精巣・卵巣も含む、それ以外の圧倒的多数の諸「体細胞」の生成に関わっている。
 精子がもつ1本の「染色体」はいわゆる「X染色体」か「Y染色体」かのいずれかで、卵子がもつ1本の「染色体」は通常はつねに「X染色体」だ。
 「受精卵」・胎児・新生児・個々の人間がもつ23対・46本の「染色体」のうちの1対・2本の「性染色体」には、したがって、いわゆる「XY型」と「XX型」の違いがあることになる(生物上の「性」の区別)。
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 「染色体」はしかし、それ自体が「体細胞」や「生殖細胞」の生成に関する<情報・設計図>をもってはいない。
 「染色体」は、「DNA」や「遺伝子」を「細胞分裂」の際に整序させて<(一時的に)包み込む>「包装物」のようなものだ。こう理解するようになった。
 子孫への狭い意味での「遺伝」、個体みずからの「存続」の両者に関する<情報・設計図>は、「染色体」にではなく、「DNA」または「遺伝子」が示している。
 さらに、上の後の二つは同義ではなく、より決定的なのは最後の「遺伝子(gene)」だと見られる。
 下の書物によるとだが、「全ゲノム」=「DNA」全体のうち98%は「非コードDNA領域」だ。つまり人間の身体の生成・維持にとって重要なタンパク質を指定する等の情報をもっていない。また、同じく80%は、「遺伝子を含まない領域」だ、とされる。
 この数字は、アメリカを中心にして行われた(日本も少しは関与した)「ヒトゲノム計画(プロジェクト)」が完了した2003年の報告書にもとづくもので、「多くの研究者の予想以上の」ものだったとされる。
 小林武彦・DNAの98%は謎(講談社ブルーバックス、2017)。
 「全ゲノム」とは(ヒト一人についての)「30億塩基対」だとされるが、「塩基」等のDNAの構成要素は、別に触れる。
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 八木秀次・本当に女帝を認めてもいいのか(洋泉社新書、2005)。
 この書物で八木は、「Y染色体」としきりに書きつつ、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念を自らでは(たぶん)いっさい用いていない。これはなぜなのか。
 「ヒトゲノム計画」とその結果について知らなかったとしても容赦できる。しかし、2000年頃にはとっくに、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念があることくらいは知られていただろう。
 八木は、信じ難いことだが、「染色体」=「DNA」=「遺伝子」と単純に理解していたのだろうか。
 問題にされてよいのは、「染色体」ではなく、「遺伝子」だ。
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 他にももちろん、八木の議論の問題点は、多数ある。
 ①継承されるものはもともと全て<複製(コピー)>なので、「まったく同じ」染色体も遺伝子もあり得ない。
 ②「遺伝子」レベルでの<複製(コピー)ミス>(=「変異」)がありうる。
 ③「男系」で継承されてきた、という「科学的」根拠がない(「継体」以降にかぎっても)。子どもの父親は本当は誰なのか、という問題は、現代でも起きる。最もよく知っているのは受胎し、出産した母親だけ、ということはあり得る。また、「神武」天皇は本当に「男性」だったのか(その前に、「実在」性自体の問題はむろんある)。「継体」は本当に「応神」天皇の「Y染色体」を継承しているのか? あくまで若干の例だが、これらを肯定できる、「科学的」・「実証的」根拠はどこにあるのか。
 ④「血」・「血統」・「血筋」といった語が、厳密な意味が不明なままで使われている。まさか、「Y染色体」=「血」、ではないだろう。等々。
 以上は、「女系」または「女性」天皇の歴史上の存在とは直接の関係がない。
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 ついでながら、有性生殖生物である哺乳類の場合のオス(人の場合は男子)という「性」を決定する、正確にはたぶん「精巣」(→精子)を作り出すことのできる、そういう遺伝子は、近年の研究により、「SRY(Sex determining-region Y)遺伝子」と称されるものだと特定されている。そして、「XX型」染色体の中にも稀には、この「SRY遺伝子」をもつものがある、という。
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2732/生命・細胞・遺伝—07。

 生命・細胞・遺伝—07。
 「染色体」というものは、(秋月瑛二には)把握し難い。
 「染色体」は「遺伝子」や「DNA」を「内部に含む」、より「大きい」構造体だ、といちおう書いた(02)。
 そして、「染色体」は、細胞の中の「核」の中にある。
 これらは、完全に間違っている、というわけではない。
 こう理解して差し支えないだろう叙述は、すでに0206で引用または紹介した、S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(2018)のつぎの中にもある。
 「①遺伝子は染色体上に存在している。
 ②染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体で、そこには鎖状につながった何万もの遺伝子が含まれている。」
 また、同じ著者・訳者による、細胞/上(早川書房、2024)の序文にも、つぎの文章がある。
 「①…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)という、二重らせん構造を持つ分子内に物理的に存在している。
 ②DNAはさらに、糸の束のような構造をした染色体の中にパッケージされている。」
 後者によると、「遺伝子」は「DNA」という分子内に「物理的に存在」し、そのDNAは「染色体の中」に「パッケージされて」いる。
 どう読んでも、「遺伝子」<「DNA」<「染色体」という関係にある、と理解したくなる。
 また、前者の第二文は、「染色体」の中に「遺伝子が含まれている」と読むのが通常だろう。
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 だが、やや不思議なのは、上の前者の第一文が明らかに「遺伝子は染色体上に存在する」として、「の中に」ではなく「上に」としていることだ。これは原著で確認してもそうで、「in」ではなく「on」が使われている。
 遺伝子<染色体という関係にあるなら、なぜ「in」になっていないだろう、という気もする(in でもon でも、包含関係は変わらないかもしれないが)。
 さらに不思議であり、問題を孕んでいると感じるのは、上の前者の第二文と、上の後者の第二文の、日本語訳だ。原著の英文を見ていると、訳者の「医師」資格を問題視するのではないが、異なる日本語の文章に訳すことのできる可能性がある、と考えられる。なお、前者と後者の①と②は、原文ではいずれも、関係詞でつながった一続きの一文章だ。
 すなわち、つぎのように翻訳できる可能性があるだろう。
 前者の①・②。→「遺伝子は染色体上に存在している。—この染色体は細胞の中に含まれる(buried)長い線状の構造体で、細胞は、鎖状につながった何万もの遺伝子を含んで(contain)いる」。
 関係詞の主語を染色体ではなく細胞と理解できる可能性があり、その場合は、「遺伝子」<「染色体」ではない。たんに「遺伝子」<「細胞」を前提とした叙述であるにすぎない。
 後者の①・②。→「…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)と称される二重鎖のらせん状分子の中に(in)物理的に位置している。それ〔DNA〕はさらに、人間の諸細胞では、染色体と称される、群れた〔綛(かせ)のような〕(skein-like)構造体へと(into)パッケージ〔包装〕されている。
 この部分では(関係詞の主語ではなく)「packaged into」の意味の理解が問題になる。「〜へと包装」される、「〜に包み込まれる」とは、必ずしも大小ないし包含・被包含の関係を意味しないと理解できる可能性はあるだろう。また、「染色体」が「包装」するではなく、厳密には、「染色体」と呼ばれる「〜構造体」が「包装」する、と叙述されていることも気になる。〔原文追記—DNA which is further packaged in human cells into skein-like structures called chromosomes.〕
 要するに、「遺伝子」または「DNA」<「染色体」と単純に理解してはいけない、という気がする。
 そして、この理解の方がむしろ、別途に種々の文献を一瞥した後での秋月の理解に合致する。
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 一つの巨大な「細胞」に宇宙船のようなもので「細胞膜」を通過して入り、内部を探検して、「内部」の諸物体(ミトコンドリア、リボソーム等々)を紹介しているかのごとき叙述が、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)にはある(すでに、02での叙述の基礎にした)。
 上で記したことに関係して興味深いのは、上の紹介では一番最後に「(細胞)核」が取り上げられながら、「染色体」は「核」の中で独立した位置づけを与えらていない、ということだ。そのかぎりでは、著者は「遺伝子」や「DNA」等と同様の扱いを、「染色体」についてしている。
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 何となく不可解のままでいたところ、なるほど、と理解できた気になったのは、つぎの文章による。
 「細胞分裂が始まると、DNAが巻きついているヒストンはそれまでよりもさらに密に折りたたまれて、『染色体』という棒状の構造にまとまっていきます。
 染色体は、細胞分裂のときにしか見られないDNAの姿です。
 雑誌Newton 2011年11月号/生命の設計図·DN A(ニュートンプレス、電子化2015年)。
 これによると、DNA=染色体だ、とも言える。
 そのことよりも重要なのは、「染色体」は「細胞分裂」のときに(正確には、その過程で)出現する構造体だ、ということだ。
 「細胞分裂」は次から次へと頻繁に発生しているだろうから、「染色体」も<ほとんど常時>「核」(<「細胞」)内に存在していると感じられて不思議ではないだろう。
 しかし、論理的には、または時間軸を厳密に見れば、「染色体」は<一時的に>存在するものにすぎない。
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 かつまた、今回はほとんど立ち入らないが、「染色体」は、その形状、(「核」内での)「位置」や、(「遺伝子」・「DNA」との)「関係」を、「細胞分裂」の過程で頻繁に(だがリズミカルに)変化させる
 <空間軸>のみならず<時間軸>を取り込んで、あらためて「細胞分裂」の過程に触れる必要がある。その過程での「染色体」の様相は、「常染色体」と「性染色体」とで同じではない
 おそらくは「生殖細胞」や「性染色体」について明確には顧慮されていないが、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)の中には、つぎの叙述がある。
 ここでは、「染色体」の形状等の変化のほか、「(細胞)核」もまた一時的には消滅する旨も語られている。
 「細胞が分裂する際、すべての染色体は複製されて二倍になり、その後、二つに分かれる。
 ヒト細胞では、核膜が消え、分裂してできたばかりの娘細胞の中にフルセットの染色体が一組ずつ入ると、核膜がふたたび現れて染色体のセットを取り囲む。
 こうして、染色体がおさめられた新しい核を持つ娘細胞ができあがる。
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2731/生命・細胞・遺伝—06。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018/文庫2021)は「プロローグ」で、「われわれはすでに遺伝子を非常に詳しく、深く理解してい」る、とする。そして、こう続ける。
 「遺伝子〔genes〕は染色体〔chromosomes〕上に存在(reside)している。
 染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体〔long, filamentous structures〕で、そこには鎖状に〔in chains〕つながった何万もの遺伝子が含まれている。
 ヒトの染色体は全部で46本で、父親と母親から23本ずつ受けついでいる。」
 また、小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2012)には、つぎの叙述がある。
 「地球上で見られる生物のほとんどでは、遺伝子は、たがいにより集まり群れをつくって存在している。
 …、人間の場合、遺伝子は約2万個であることが知られている。
 これら2万個の遺伝子は、23個の群れに分かれて細胞の中に入っている。
 平均すれば、一つの群れには約870個の遺伝子が入っていることになる。
 約870個の遺伝子が乗ったバスが23台あると表現してもいい(それぞれのバスの中では、遺伝子はたがいにつながりあって、一本の長い紐のようになっている)。
 このときの一台一台のバス、あるいは一本一本の紐を染色体と呼ぶ。」
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 人間の染色体数は46だと確定、または判明したのは、1956年だとされる。
 上の②だと染色体の本数は23本のようでもあるが、一台のバス=一つの「群れ」であり、その「群れ」は2本の染色体で成ると理解すると、染色体の数(本数)はやはり46だ。
 なぜ「2本の群れ」ができるかというと、①が述べるように、<一定の種類の>染色体を父親から1本、母親から1本継承し、その2本が「群れて」いるからだ。
 23組(群れ・対)の染色体のうち22組の各染色体は「ほとんど同じ形質」をもつ(「相同」)。しかし、1組だけは異なる。その組み合わせ(セット)の染色体(2本)を<性染色体>とも言う。
 ところで、上の①と②は一つの「細胞」(>核)に関する叙述で、全ての「細胞」に当てはまる。
 したがって、人間の細胞数を約38兆個だとすると、人間の個々の個体は、46×38兆個=1748兆本の染色体を体内に持っている(細胞数約60兆個だと2760兆本)。全細胞・全ての核の中に、「長い線状」、「鎖状」の構造体あるいは「一本の長い紐」になった、これだけの数の「染色体」がある。
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 染色体ではなく、遺伝子の数となると、もっと膨大になる。
 上の①は「何万もの」(tens of thousands)と書き、②は「約2万」と書く。
 <性染色体>を除く染色体を「常染色体」と呼び、それは22組・対・セットの染色体で成る。1963年の国際会議を経て、各「常染色体」はその「大きさ」(正確には総「塩基対」数の多さ)の順に番号が振られることになった、とされる。第1番染色体、第2番染色体、…第22番染色体というように。
 それぞれが父親由来と母親由来の染色体の合計2本の「染色体」から成るのだから、2本ずつをセットにしてこう称するのは、やや紛らわしい。
 各番の「染色体」について、遺伝子数を正確に(または正確らしく)記載している文献がある。それによると、つぎの数字だ。1番〜22番まで列挙する。
 ①2610、②1748、③1381、④1024、⑤1190、⑥1394、⑦1378、⑧927、⑨1076、⑩983、⑪1692、⑫1268、⑬496、⑭1173、⑮906、⑯1032、⑰1394、⑱400、⑲1592、⑳710、㉑337、㉒701。
 以上、雑誌Newton2013年9月号・XとY—男女を決めるXY染色体(ニュートンプレス、電子化2016)。
 上のうち計6組は奇数だ。これは父親由来か母親由来かいずれかの遺伝子数が1つ少ない(または多い)ことを意味するのだろうが、理由・意味は分からない。
 血液のABO型に関与するのは血液型についてのA遺伝子、B遺伝子、O遺伝子だとされ、それらは第9番染色体上にある、という。但し、個々の染色体(群)には血液型については二つ(父親由来と母親由来)の遺伝子しか存在し得ないとされる。そこで、当該両親からは生まれ得ない血液型の子どももあることになる。
 ともあれ、上の各数字の合計を単純に計算すると、2万5412になる。これを22等分すると、平均は約1155だ。なぜか、上の小林朋道②のいう「約870」に比べて、やや多い(とはいえ、桁外れに異なる、という程ではない)。
 これは1細胞あたりの遺伝子数だから、個体全体での数は、2万5412×38兆の計算をしなければならない。これは1兆の96万5656倍で、96京5656兆になる。
 これだけ膨大な数の遺伝子が個体の「生存」のために用意されている(常染色体は「性」・生殖に関与しないと仮にしておく。いわゆる「性染色体」の遺伝子数は下記)。
 もっとも、「情報」または「設計図」が用意されていても「現実化」しない、あるいは「発現」しない、そういう遺伝子も、少なくない。メンデルは19世紀に、<顕性(優性)>と<潜性(劣性)>の区別があることを示したのだった。
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 ついでに、ここで確認しておく。
 「常染色体」と言われる父親由来と母親由来の2本の染色体は<きわめてよく似たものだ(正確には「塩基配列」がほとんど同じだ)。両親がその祖先から継承してきたものを仮に「血」と呼んでおくとすると、子どもには確率的には父親系統の「血」と母親系統の「血」が半分ずつ継承される
 したがって、子どもが「女子」であっても、確率的には半分、父親系統の「血」が伝わっている。使いたくない言葉だが、仮に(母親系統ではなく)父親系統の「血」が<高貴>だとしても、その<高貴>な「血」は、「女子」にも伝わる。このことはしごく常識的で、当たり前のことだろう。
 繰り返しだが、子どもの身体・体質等々々の個体の「形質」一般に密接に関係する「常染色体」のうち、子どもが女子であれ男子であれ、確率的には半分が母親由来であり、半分が父親由来だ。常識的で、当たり前ではないか。
 「常染色体」は22組(対・セット)で、「性染色体」は1組だけ。「性染色体」だけが子どもに「遺伝」する、あるいは「継承」される、のでは全くない。それによって、女子か男子かが運命的に(?)定まるのだとしても。
 なお、父親を含む両親が生後に獲得した形質は子どもに「遺伝」しない、「遺伝子」によって「継承」されることはない、ということも確認しておく必要があるだろう。
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 いわゆる「性染色体」、いわば(秋月用語だが)「第23番染色体」にも、遺伝子はある。そのうちの、父親由来と母親由来の2種があるいわゆる「X染色体」には、1098の遺伝子があり、父親由来のものしかない、いわゆる「Y染色体」には、かなり少ない78の遺伝子がある、とされる(上掲の雑誌Newton による。ちなみに、「第23番〜」を加えた総遺伝子数は、女子が2万5412+1098×2=2万7608、男子が2万5412+1098+78=2万6588)。
 さて、「Y染色体」の全体が、つまりは実質的には78の遺伝子の全てが、「男子」という「性」の決定に参画しているのだろうか。「参画」ではなく「関与」でもよい。
 上の問いは厳密には誤りだ。父親がもった「X染色体」もまた、「男子」にしないというかたちで、「性」の決定に「参画」・「関与」しているのだから。
 いや、そもそも、男女いずれかへの「性」の「決定」とはいったい何のことだろうか。あるいはさらに、それに遺伝子が「参画」または「関与」するとは、どういうことを意味しているのだろうか。
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2730/生命・細胞・遺伝—05。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 38兆個とも60兆個ともいわれる、ホモ・サピエンスの個体を構成する基本単位である「細胞」は、増殖または分化する(加えて、これらの結果として元の「細胞」は「死ぬ」)。
 「増殖」は「分裂」によって生じる。「増殖」とは、一つの細胞が二つに「分裂」して同じ「細胞」の数が2倍、4倍と増えていくことだ(10回で2の10乗の1024倍になる)。細胞レベルで同一のものの「クローン」を多数生み出していくこと、と言って間違いでないだろう。
 「分化」とは異なる性質の細胞に「変化」・「変質」することだ。増殖を伴わないかぎり、数は増えない。おそらくは増殖と分化が同時に並行して一挙に行われていって、多様な機能に特化した「細胞群」、「細胞集団」、「組織」といったものが出来てくるのだろう。
 既述のように、ほとんどの生命体では(=少なくとも真核生物であれば)、「細胞」の中に「(細胞)核」があり、全てのその中に(われわれの個体では38-90兆個の細胞の全てに)「DNA」が格納されている。
 なお、「神経細胞(ニューロン)」という細胞について、樹状突起、軸索、核、の他に「細胞体」がある、と01で書いた。この「細胞体」とは、細胞質、ミトコンドリア、リボソーム等を含む。ニューロンも「細胞」なのでこれらを含んでいて当然なのだが、「神経細胞」に特有の説明がされる場合にはこれらに逐一言及されず、「細胞体」として一括されることがある(と見られる)。
 神経細胞(ニューロン)の「核」の中にも、もちろん「DNA」が存在する。
 さて、「DNA」と「遺伝子」や「染色体」とは、どのような関係に立つのだろうか。これまで、後二者については、言葉としてもほとんど触れたことがない。
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 「遺伝子」という語は、ダーウィンもまだ使って使っていなかったようだ。最初は20世紀に入ってから1909年にドイツの研究者の書物の中に「Gen」として出てきたらしい。それが1911年に、英訳語でgene(複数形はgenes)と記述された(参照、下記の中屋敷著)。ゲノム(genome、ジーノウム)は、gene に由来する言葉だ。
 日本語の「遺伝子」という語では、親または先祖から子どもまたは子孫に同一のものを「継承」させる因子、という意味だけに理解される、そう誤解させる、そういう可能性がある。この意味での「遺伝」や「継承」は、英語ではheredity という。
 これに対して、英語のgen(独語のGen)には、「生み出す」、形質を発現させる、という意味があるとされる。秋月が付記するが、generate (生む、生成する)は、この語幹をもっていると思われる。
 そして、欧米語での「遺伝子」も、「遺伝」や「継承」の意味のみならず、自らの形質・形態や機能・役割を「生む」または「支配する」・「決定する」という意味ももっている。これは、「細胞」レベルでも「個体」レベルでも言える。
 ヒトの「個体」に即して簡単に言えば、ヒトの「身体」(正確には「脳」も含む)を「生み」、「支配」・「決定」しているのは、当該人間の「遺伝子」だ、ということだ。この意味では、子どもや子孫は何の関係もない。なお、「支配」・「決定」と言っても、ヒトの個体の「運命」があらかじめ「遺伝子」によって100%決まっている、という意味ではない。
 ともかく、「遺伝子」は、子ども・子孫への「遺伝」・「継承」にのみかかわるものではない。「自ら」に密接に、直接にかかわっている。
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 「遺伝子」、「染色体」、「DNA」は、ある意味では、それぞれの「発見」時代の科学または自然科学・生物学・遺伝学等の発展段階に則したもので、基本的には同じものを指している、とやや乱暴に言ってよいのかもしれない。つぎのような意味でだ。主として、中屋敷均・遺伝子とは何か—現代生命科学の新たな謎(講談社ブルーバックス、2022)による(粗雑な概括なので、叙述の責任は秋月にある)。
 1865年頃、明治改元の直前にG·J·メンデルがエンドウマメを使って<遺伝>に関する「法則」を発見したとき、親から子への形質の継承に関わる共通の「因子」があるに違いない、ということを明らかにしただけだった。その後彼とその「法則」は忘れられ、20世紀に入ってから、基本的考え方の「正しさ」が確認または再発見された。
 その再発見のためには、19世紀半ば以降の「高性能な複式顕微鏡」の量産等の技術や関連科学分野の発展が必要だった。つまり、まずは、「細胞」の「分裂」の際に特徴的な挙動をする「染色体」が発見された。その構造体は、「細胞」内に特定の染色剤を注入すると「よく染まって」見えたがゆえに、「染色体」(chromosome=色+体)と名付けられた。
 20世紀初頭に、アメリカの若い研究者(W·S·サットン)が、「染色体」はメンデルが指摘していた「因子」にほぼ該当するとした上で、つぎのことを明らかにした。
 ①「染色体」は2本の対で成り、1本は父親にもう1本は母親に由来する、②生殖細胞の形成の際に通常の細胞(=「体細胞」)とは違って「減数分裂」が起こり、1本ずつになった「父親由来の染色体」と「母親由来の染色体」がランダムに結合して、多様な組み合わせの2本の対から成る新しい「染色体」が生まれる。
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 上のことを詳細に確認し、「染色体」説に立って「染色体」のヒト等の生物の生存と子孫へ継承にとっての重要性を解明した研究者(T·H·モーガン)には、1933年にノーベル生理学·医学賞が付与された。
 「染色体」の実体の解明には、さらに時間が必要だった。
 メンデルには「因子」しかなく、のちに「遺伝子」という用語もできていたが、「染色体」の中にあるに違いない、という<観念的>なものだった。
 まだ「電子顕微鏡」、「超遠心分離機」、「電気泳動装置」等がないまま、「細胞」(>「核」>「染色体」)の研究が進められた。そして、遺伝子とその本体である「DNA」の存在自体は突き止められた。
 遺伝子と「DNA」の具体的様相の解明はまだだった。しかし、ようやく1953年(2024年から70年余前)に、J·ワトソンとF·クリックによって、「DNAの二重らせん構造」が明らかにされた。二人には、1962年にノーベル生理学·医学賞が授与された。
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 以上のとおり、「染色体」は各細胞かつ各核内にある「遺伝子」や「DNA」を内部に含む(これらよりも大きい)構造体だ。
 例えば、つぎの叙述が、シッダールタ·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018)の最初の方にある。形容詞、限定句は今回はほとんど省略。
 「遺伝子は染色体上に存在している。染色体とは、…構造体で、そこには…何万もの遺伝子が含まれている。」
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2729/八木秀次の<Y染色体論>。

  生命体(生物)や「細胞」等について勉強(?)していたら、ふと、八木秀次という、かつて私が「あほ」とみなしたグループの一人による、<Y染色体論>というものがあった、と思い出した。
 これは、<神武天皇(男性)と同じY染色体をもって(継承して)いてこそ、「天皇」である資格がある>という議論であるようだ。
 この程度の議論で決着がつくなら、明治新政府下での旧皇室典範制定過程での皇位継承の仕方に関する論議はほとんど不要であり、無益だった。
 また、小林よしのりや高森明勅らがとっくに批判しているようだ。だが、きちんと読んだつもりはないが、まだ本質を衝いていないようにも感じる。
 今回のこの投稿は、予告のようなものだ。
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 八木秀次は「染色体」という言葉・概念を使う。
 すでに最近にこの欄で触れたことがある。すなわち、「染色体」と「遺伝子」、「D NA」、さらに「ゲノム」は、どう違うのか。あるいは、これらの差異に拘泥しても無駄なのか。
 八木は、これらをどう区別しているのだろうか。あるいは、なぜ「染色体」だけを取り上げるのだろうかか。これらは同一のもの(こと)だ、と思っているのだろうか。
 さらに言うと、「Y染色体」なるものは、「染色体」自体の種別の一つなのか。それとも、「Y因子」を含む染色体のことを便宜的にそう称しているのか。
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  これまた少し異なる主題の予告にもなるが、つぎのことにも言及してみたいものだ。
 第一に、例えば<男系を通じてでなければ、天皇・皇室の「血」が伝わらない>と言われることが、たまにではあれ、ある。その場合の「血」とは、いったい何のことか。
 「血統」・「血族」等の語はまだ生きており、「血がつながる」とか「血が濃い」とかの表現も十分に通用している。
 だが、いまだにかなり多くの人々に、世代間(親から子への)継承に関するじつは単純で幼稚な<錯覚>があるようにも、私には感じられる。
 第二に、上に関連するが、<獲得形質は遺伝しない>という、遺伝学・生物学上の「公理」となっている「事実」だ。つまり、親からの継承の意味での「遺伝」または「遺伝子」に比べて少なくとも同等に子どもにとって重要なのは、「環境」ではないだろうか。幼年期には、学校等の<社会>環境のほかに、<家庭>環境がきわめて重要になることがある。
 「血」。「(生後の)獲得形質は遺伝しない」。興味深い主題が、まだ多く存在している。
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2728/生命・細胞・遺伝—04。

 ①宇宙一②地球—③生物(生命体)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 生物を植物と動物に二分するのは相当に古い分類で、現在では5界説のほか6界説もあるようだ。
 いずれの場合でも植物・動物等は「真核生物」で、生命が地球上(内)で誕生したときの単細胞生物は「真核生物」ではない。
 その最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期について、01では「約35〜40億年前に生まれた、とされている」と記して、この点に関してのみ推定年代に触れた。
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 出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇(文藝春秋、2018)の凄まじく、唖然とさせられるところは、<日本史・古代>と謳いつつ、宇宙・太陽系宇宙・地球の誕生、そして生命体(生物)の誕生に関する叙述から始めていることだ。
 この点で、<(文学的)文科系・モノ書き>による西尾幹二・国民の歴史(1999、2009、2017)が「歴史とは何か」に次いで「一文明圏としての日本列島」から書き起こしているのと、大きく異なる。
 西尾幹二は、さらに、「北京原人」等の「『原人』の足跡が日本列島に刻まれていてもいなくても、正直、私の人生観にはほとんど関係がない」と明言した。たんなる<(文学的)文科系・モノ書き>と出口治明の違いは完璧に顕著だ。
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 最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期以外のおおよその時期を記しておこう。
 種々の説があるのだろうが、キリがないので、上記の出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇による。
 約138億万年前、宇宙の歴史の開始。
 約46億万年前、太陽系宇宙誕生。
 約45.5億万年前、地球誕生。
 約40億万年前〜38億万年前。地球上に「海」発生=最初の生命体(生物)の発生。
 約19億万年前、「真核生物」誕生。
 約700万年前。「チンパンジーとの共通祖先」からヒトが分かれる。
 約25万年前〜20万年前。東アフリカで<ホモサピエンス>が出現。
 約10万年〜7万年前、<ホモサピエンス>=人類が「言語」を獲得。
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 上のような時期に加えて、関心を惹いたのは、ヒトの「脳」の成熟時期だ。以下で、似たようなことが、書かれている。
 ①出口治明・哲学と宗教全史(ダイヤモンド社、2019)
 「人間が定住生活をし始めたドメスティケーションのときに、人間の脳みそは最後の進化が終わり、それから今日まで進化していないといわれています」。
 ②小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2014)
 「(われわれの遺伝子がつくった)脳は、ホモ・サピエンスの歴史の99パーセントの狩猟採集生活において、遺伝子の増殖に都合よくつくられている」。
 「狩猟採集生活」のあとの「定住生活」開始時点で人間の「脳」は進化し切っていた、という点で、これら①と②は矛盾していないだろう。
 ③養老孟司・唯脳論(筑摩書房、1998)
 「ヒト、現代人つまりホモ・サピエンスは、ここ数万年ほど、解剖学的、すなわち身体的には変化していない」。「ヒトの脳の機能もまた、数万年このかた変化していないはずだ」。「書かれた歴史はたかだか数千年である。その間に、ヒトはまったく変化していないと言ってよいでろう」。
 定住=ドメスティケーションの開始の時期・地域について論議があるのだろうが、上の①は、「今から1万2000年前にメソポタミア地方で起きたと推測されて」いる、としている。
 なお、池田信夫の文章によると、「人類の脳は200万年前から大きくなり始め、ホモ・サピエンスが出てくる30万年前には現在の大きさになっていた」(同・ブログマガジン2023年11月23日号)。後の時期が少し早そうでもあるが、概略では間違いでないかもしれない。
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 以上のことは、つぎを推測させる。
 第一に、最も複雑で高度の機能をもつ「脳」が数万年前から今日まで基本的に変わっていないとすると、心臓・肝臓等々の器官の「機能」もまた、その当時にすでに現代と同様の進化を遂げていただろう。各器官の構造・機能について当時のヒトは知っておらず、「細胞」の知識も全く持っていなかっただろうが、「脳」等の<身体>は今日と同様に「働いて」いたのだ。
 第二に、脳の機能としての「感情」・「意識」・「記憶」等々も、ヒトは数万年前に身につけていただろう。平安時代の紫式部や清少納言がわれわれと基本的に同様の「美的」感覚を持っていたとしても不思議ではない。また、人種の差異を超えて、日本に来る外国人観光者の子どもたちが愉しいときはにこにこしているのも、何ら不思議ではない。
 この欄の2024/03/12で引用した、科学雑誌NEWTON-2016年6月号のつぎの文章の意味も、おおよそ納得できることになる。
 「いとおしさや、嫉妬、うらみ」といった「社会的感情」を含む「現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。/とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという」。
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 一方で、そのような「脳」と「人体」を古くから持ちながら、生物学・生命科学上や医学上の発見・開発、あるいは医療技術・医薬品等の発見・開発は(分野により種々だが)相当に遅れて、早くても17世紀以降のことだ。分野・知識・技術・薬剤によっては、100年前、50年前以降のものもある(例、心筋梗塞にかかるカテーテル検査・ステント留置術は約50年前に始まった)。
 つぎの著によると、「抗うつ剤」の研究・開発、脳内の「神経細胞」を覆って守るだけとほぼ考えられてきた「グリア細胞」に関する研究は、まだ途上にある。
 S·ムカジー=田中文訳・細胞—生命と医療の本質を探る/下(早川書房、2024)
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2727/生命・細胞・遺伝—03。

 ①宇宙一②地球—③生物(生命体)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 「細胞」は種々に分類されるのだろうが、つぎの二分が、まずは関心を引く。
 第一に、「体細胞」と「生殖細胞」の区別。後者は精子、卵子、初期胚など。
 精子・卵子は圧倒的多数の「体細胞」と違って減数分裂により生まれ、23本の「染色体」しかもたない。そんなことよりも、つぎの重要な違いをゲノム編集に関係して、秋月は知った。
 すなわち、「体細胞」はゲノム編集の対象にすでになっている。換言すると、〈クリスパ・キャス9〉という「遺伝子」改変・「ゲノム」編集の方法がすでに適用されているのは、「体細胞」だ。一方、「生殖細胞」のゲノム編集については論議があり、大勢的な一致はない。但し、中国人研究者が(アメリカ留学で得た知識・技術を発展させて)中国で初期胚をゲノム編集し、それを女性に移植し、その女性は双子の女の子を出産した「事実」がある、とされる。
 前者のゲノム編集の影響・効果は一世代に限定される。致命的疾患を発現させているような「体細胞」内の遺伝子が改変されても、その改変(・ゲノム編集)は次世代に影響を与えない。一方、遺伝子が改変された「生殖細胞」はその子どもの「生殖細胞」(女性だと卵子)に継承される。
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 第二に、「再生系細胞」と「非再生系細胞」の区別。
 前者・「再生系細胞」は、増殖したり、分化したりなどをする。新しい「細胞」に<再生>しうる。
 後者・「非再生系細胞」は、増殖・分化しない。ヒトの場合、初期胚・胎児は増殖と分化を繰り返して「成長」するが、母体から離れるとき(新生児となるとき)以降は、心臓を拍動させる「心筋」細胞と脳内の「神経」細胞(ニューロン)は、もはや増殖することがない、とされる。
 心筋梗塞や脳梗塞によって「壊死」した「心筋細胞」や「神経細胞」はもはや<再生>することがない。なお、例外は全くない、のではない、とされる。
 この区別に表向きは隠されているようでもある重要な意味は、ヒト、つまり人類、人間の「細胞」や個体の「死」ないし「死に方」と密接な関係があることだ。
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 「再生系細胞」が増殖するとは一つの細胞から二つの、そして四つの、…10回で1024個の同一の細胞が生まれることだ(限界まで増殖はつづく)。かつまた、元の、増殖前の細胞が「死ぬ」ことも意味している。
 「分化」の場合も同じ。異なる細胞に「分化」する前の元の細胞は「死ぬ」。
 上で「増殖したり、分化したりなどをする」と「など」を挿入したのは「死ぬ」こともあるからだ。
 ここで「死」という言葉、概念を使うのは紛らわしいかもしれない。あくまでも「細胞の死」であって、通常は「死」の意味で用いられているだろう「個体の死」ではないからだ。その意味では、「消滅」の方がよいだろうか。だが、生命体の基本的単位である「細胞」についても「死」を語って奇妙ではないし、逆に、「個体の死」もまた、「個体の消滅」だ。
 「細胞の死」またはその仕組みのことを<アポトーシス>と言うことがある(下掲書によると1972年に初めて提唱された)。
 そして、この現象または仕組みはヒトを含む多細胞生物にもともと内在しているものとされる。「プログラム化された」死であり、「遺伝子によって支配された」死だ。
 人間の身体の「細胞」は数ヶ月ごとに、あるいは毎日もしくは何時間かごとに「入れ替わっている」、とか言われることがある。上記の「心筋」細胞、「神経」細胞以外の全ての細胞にこれは当てはまる。血管を構成する細胞の一つである「赤血球」についても、肝臓の「肝細胞」についても言える。きりがない。
 アポトーシスは、「細胞がさまざまな情報をみずから総合的に判断して、遺伝子の発現にもとづいて自死装置を発動する」ことで起きる(下掲書)。
 役割を果たし終えた細胞、異常になった細胞が「自死」し、生命体に不要または有害な細胞が除去される。これは生命体たる個体の維持にとって重要だ。
 なお、「細胞の死」がつねに個体にとって好ましいわけでは勿論ない。個体の維持に必要不可欠の細胞群が<外界からの襲撃>によって死んでしまえば、「個体の死」に直接につながる。また、「外界」からの影響を無視するとしても、個別の細胞が<分裂>して「細胞の死」が発生する回数には限界がある、とされている。その限界に達してくると、個体の<老化>が顕著になり、「個体の死」と密接に関係する「非再生系細胞」の機能の低下にもつながってくる。「再生系〜」と「非再生系〜」が無関係であるはずはないからだ。
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 実際には「ふつうの」または正常な「細胞の死」だけが生じているのではない。同じことだが、細胞の全ての「増殖」等が正常に行われているわけではない。
 ついでに記しておくが、①細胞が「自死」しないで異常に増える場合—癌(悪性リンパ腫も)、ウイルス感染等、②細胞が異常に「自死」しすぎる場合—エイズ、神経変性疾患(アルツハイマー病等)、虚血性疾患(心筋梗塞、脳梗塞等)等。
 ここに見られるように、「心筋」細胞等は<再生>しない「非再生系細胞」だが、「自死」=アポトーシスはありうる。「脳梗塞」による細胞減少=一部または特定部位の「細胞の死」は、いわゆる<後遺症>を生じさせることもある。
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 「生殖細胞」は「再生系細胞」に含まれる。そして、異常なそれは、早い段階で除去される(=「自死」を余儀なくされる)。受精卵、初期胚も「生殖細胞」の一種だ。
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 「脳死」を別とすると、人間・個体の「死」の判断基準は、①心臓の拍動の停止、②肺の呼吸の停止、③瞳孔反射の不存在、の三つを充たすこととされてきた。
 この③が「神経細胞」の機能停止を少なくとも含んでいるとすると、①が「心筋細胞」、③が「神経細胞」の機能停止を意味している。そして、この二種の細胞はともに「非再生系細胞」であることはじつに興味深いことだ。
 これら(一部を含む)も、「再生系細胞」と同様の「死に方」をすることがある。しかし、興味深くかつ重要なのは、これらの「非再生系細胞」は個体自体の「死」と密接に関係している、とされることだ。
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 <君たちはどう生きるか>と問うてもよいが、<私たちはなぜ死ぬのか>と問うてもよい。
 ヒトははるか昔から、自分たちは永遠には生きられない、必ず「死ぬ」と、理屈はわからないままで、<経験的に>知ってきたに違いない。
 ヒト・人間には、「寿命」がある。なぜか。
 これは、ヒトという生物「種」がそのようなものとして生まれてきた、またはそのようなものとして「進化」してきた、と理解するほかないだろう。
 「細胞の死」と同じく、「個体の死」もまた、 「プログラム化された」死であり、「遺伝子によって支配された」死だと考えられる。
 もちろん、「種」として把握した場合のことであって、個々の人間の「寿命」・いつ死ぬかが、あらかじめ当該の人の「遺伝子」によって決定されている、という意味ではない。個別の個体次元では、「遺伝子」のほかに、生涯全体で受けてきた「環境」要因を無視することができない(長生きしようという「意欲」または「努力」が全くの無駄でもあるまい)。
 しかし、150歳、140歳、130歳まで生きた、という例を、(少なくとも秋月は)全く聞いたことがない。これはいったいなぜなのだろうか。高齢化社会となり、平均寿命も平均余命も長くなっていけば、ヒト・人間は(戦争や自然災害等を無視するとしても)過半以上の者たちが150歳、200歳まで生きるようになる、とは思えない。そうなるためには、よほどの「突然変異」とその「自然選択」化が必要だろう。
 「種」として把握した場合のヒト・人間には、 「プログラム化された」死、「遺伝子によって支配された」死が、あらかじめセットされている。これは「思想」・「哲学」、「宗教」・「信仰」の問題ではない。これらは「種」としてのヒトの「死」を考察するに際して、ほとんど何の役にも立たない。
 主な参考文献。田沼靖一・遺伝子の夢—死の意味を問う生物学(NH Kブックス、1997)
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2725/生命・細胞・遺伝—02。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子
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 単細胞生物の細胞、植物の細胞、ヒト等の動物の細胞の構造図を見ていて、あらためて驚愕するのは、生物(生命体)の「細胞」は、よく似た、基本的には「同じ」構造・形態をもっている、ということだ。
 細胞膜が一重のものと二層のものとがある。植物の細胞には、「葉緑体」がある。これら等の差異はあっても、少なくとも、きわめてよく似ている。
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 ヒトには約37兆(説によると約60兆)個の細胞があるが、個々の細胞の構造は基本的に同一だ。しかし、全てが同じ役割または一定の役割の中の同じ一部、を担っている、わけではない。
 多数の細胞が「器官」や「系」を形成して、多細胞体あるいは細胞集団である一つの生命体(個体)の「生」のために働いている。心臓・肝臓といった「器官」、神経系、循環系、生殖系といった「系」だ。
 一つの細胞の中の諸要素も、細胞の中で、種々の機能をもつ。
 ヒトの「細胞」についてを前提とする。つぎの書物は最新の知見を反映しているだろうから、以下の叙述で主に参考にする。
 シッダールタ·ムカジー=田中文訳・細胞—生命と医療の本質を探る/上(早川書房、2024)。
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 「細胞」は以下のもので構成される。
 ①細胞膜。外界と分ける。ヒトの場合は二重(二層)で、脂質分子で成る。「孔」が空いていて、一定の分子が通過する。
 ②細胞質。以下以外。コロイド状から水に近い部分まで、全体として「ゼリー」状だ。
 ③細胞骨格。細胞の形態を維持する。
 ④RNA(リボ核酸)。「核」で作られるが、収まらずに外に出てくる。「塩基」で成り、「遺伝子」形成にとって不可欠。
 ⑤リボソーム。RNAの「情報」または「仕様書」を<解読>する。
 ⑥プロテアソーム。タンパク質を分解し、廃棄物として細胞質内に排出する。
 ⑦ミトコンドリア。エネルギーを生み出す。エネルギーは、第一に細胞質内で生まれ(嫌気性解糖)、最終産物は2分子のATP。第二にミトコンドリアが酸素を使って2分子ATPを燃やして高分子のATPを生み出す(好気性解糖)。第一と第二により、ブドウ糖1分子から32分子ATPができる。
 「私たちは一日のあいだに、身体の何十億個もの細胞で何十億個ものエネルギーの缶詰をつくっては、一〇億個もの小さなエンジンを燃やしている」(ムカジー=田中・上掲著)。
 ところで、ミトコンドリアは独自の遺伝子を持っていて「細胞的」だ。これは発生史的には原始細胞だったミトコンドリアを「細胞」が取り込んで<共生>し始めたかららしい。
 おまえが好きだよ、一緒になろうよ、という「意思」疎通があったのだ。
 この欄で触れたことがあるが、団まりな・細胞の意思(NHKブックス、2008)などは、細胞にも「意思」がある(あった)と表現している。
 ⑧小胞体。タンパク質の合成と輸送にかかわる。
 ⑨ゴルジ体。タンパク質が細胞外に出るときに最後に通過する部位。
 ⑩分泌顆粒。ゴルジ体から細胞膜までタンパク質を運ぶ。RNA→リボゾーム→小胞体→分泌顆粒という「流路」がある。
 ⑪。最も重要な細胞内「器官」。二層の、孔のある「膜」=核膜がある。
 核膜内にDNA(デオキシリボ核酸)を「格納」する。RNAはこれを「鋳型に」して、あるいはこれから「転写」されて生み出され、細胞質内に送られる。
 なお、細胞、さらには生命体の発生史的に見ると、原始的にはRNAが遺伝等を担っており(RNAワールド)、のちに核内に(核膜で保護された)DNAが生まれたらしい。
 「遺伝」情報が、DNA→(「転写」)RNA→(「翻訳」)タンパク質という経路をとって伝搬されることは、1953年にDNAの「二重らせん構造」を発見したフランシス・クリックによって、1958年に<セントラルドグマ>と称された。
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 DNA、「遺伝子」、「染色体」、「ゲノム」等々の意味と差異については、別に扱わなければならない。「遺伝子」は子孫への継承(「進化」はこれに関係する)のみならず、当該細胞やその細胞を含む当該個体(生命体)の「生と死」に密接に関係していることも含めて。
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2724/養老孟司・唯脳論(1998)のごく一部。

 ひらめいた、思いついた、又は引用したい文章をそのままこの欄に文字入力できれば、なんと楽なことだろうか。文字入力するより、読書している方が楽だし、かつはるかに刺激的で愉しい。
 あれこれと拾い読みをしていたら、つぎの文章を見つけた。
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 養老孟司・唯脳論(1998、電子書籍2010、ちくま学芸文庫)の一部。一行ずつ改行。
 「人文科学や社会科学の人たちは、脳と言えば自然科学の領域だと思っている。
 自然科学も何も、そう思っている考え自体が、自分の脳の所産ではないか。
 こうした諸科学から言語を抜いたら、何もできなくなるであろう。
 言語は感覚性言語中枢から運動性言語中枢へ抜けて、運動器によってきちんと外部に表出される。
 まさかその性質を知らないでよいという言い方はあるまい。
 人文学者であろうと、脳血管障害を起こせば言語をうまく使えなくなる可能性がある。
 それどころではない。
 大脳皮質が退行すればボケてしまい、かつて自分の言ったことすら理解できなくなる。
 要するに、あらゆる科学は脳の法則性の支配下にある。
 それなら、脳はすべての科学の前提ではないか。」
 以上。
 上での「科学」は「学問」、「〜学」程度の意味で、また、「文科系」の評論作業も含めてよいだろう。
 ついでに、つぎの対比も、面白い。
 「文科系における言葉万能および理科系における物的証拠万能に頼るだけではなく、…」。
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 別の最近の生物関連書物を見ていたら、細胞等の「構造」と「機能」を区別する説明があった。
 この区別は、だいぶ以前に出版された上の養老著でもなされている。
 すなわち、「脳」は「構造」であり、「心」は「機能」だ。だから「心」は「脳」の所産ではない、とする言い方自体に問題がある
 <心身二元論>に関係する一つの説明の仕方かもしれない。但し、熟読していないから論評ではない全くないが、「心」、「意識」、「感情」等を養老はどう区別しているのだろうという関心は残る。
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 <文科系>人間は—佐伯啓思のように「人体」は「自然」の一種かとまで問題視しなくとも—「人体」の中でも「脳」は特別だ、と思いたい、そういう<気分>をもっている、かもしれない。
 だが、「脳」と「(その他の)身体部分」は区別できない旨の、つぎの養老孟司の叙述が上記著の中にある。
 「脳と身体とは、明瞭には区別できない」。なぜなら、「身体のほぼいたるところに抹消神経が張りめぐらされており、しかも脳と神経とは、一連の連続する構造だからである」。「肝臓や腎臓を取り出すように神経系を取り出すことは、もともと不可能であ」る。
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2723/生命・細胞・遺伝—01。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子(電子、光子etc.)
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 個々の人間は③だ。しかし、上の全てが個々の人間「自身」に関係している。
 宇宙が生まれ、ビッグバンによって地球が生まれ、やがて深海から「生命体」(有機体)が誕生し、長い長い時間ののちに「ホモ・サピエンス」(人類)が誕生した。今地球上で生きているヒトはみなその子孫たちだ(人類みな兄弟)。
 生命体(生物)は「外界」と明確に区別される界壁(膜、皮膚等)をもつ統一体で、外部からエネルギーを取り込み代謝し、かつ自己増植または生殖による自己と同「種」の個体を産出し保存する力をもつ。これによって、無生物・非生物と区別される。
 全ての生命体(生物)は、基礎的単位である「細胞」によって成り立つ。生物は単細胞生物と多細胞生物に分けられるが、最初の生命体である前者は、約35〜40億年前に生まれた、とされている。「ウイルス」は自らの細胞を持たないので、「生物」ではないと言われる。これに対して、「細菌」類は生物=生命体だ。
 ヒトはむろん多細胞生物だ。ヒトには37兆余個の細胞がある、とされる。ついでながら、ヒトの体内には、大腸菌等々の、多数の「生物」が生息(・寄生)している。これらは、「微生物」に含まれる。
 ニューロン=神経細胞〔neuron〕も、当然ながら、細胞の一種だ。
 細胞は、細胞膜、(細胞)核のほか、リボソーム、ミトコンドリア等によって構成される。「遺伝子」は「(細胞)核」の中に<格納>されている。全ての細胞核の中に、そして全ての細胞の中に「遺伝子」がある。「遺伝子」は「ゲノム」という言葉につながっていく。
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 ニューロン(神経細胞)という細胞は、どうやら脳にのみ存在するようだ。光、音、振動等の外部からの刺激を受容する「感覚器官」にも神経細胞はあるのだろう、但し多数で重要なのは脳内のそれだ、と思っていたが、間違いだったようだ。
 なお、例えば視覚器官が何かを「見た」あとで脳内の視覚神経(感覚神経細胞の一つ)が「見る」までにはきわめて短いながらも厳密には時間の経過がある(大脳と眼球のあいだには物理的な距離がある)、それを感じないのは時間的近接性がきわめて高いからだ、と漠然と思っていた可能性がある。これも間違いだった。眼が「見る」のと脳が「見る」のは同時に行われるらしい。つまり、脳内の感覚神経が見ないと、「見た」ことにならない。
 ニューロンは独特の形状をしていて、情報の出力を担う一本の軸索〔axon〕、情報の受容(入力)を担う多数の樹状突起(dendrite)がある。他に「細胞体」があって、この中に「(細胞)核」がある。さらにその中に「遺伝子」(DNA等ーとりあえず省略)があることになる。
 ヒト(成人)のニューロンは1000億個ほどあるらしい。この多数の神経細胞どうしがつながりあって情報の交換がなされる。但し、「つながりあう」ためには一つのニューロンの軸索から別のニューロンの樹状突起へと「接続」しなければならない。また、直接に接触するのではなく、両者を隔てる(各々のニューロンを区別する)「シナプス」の中への化学物質(神経伝達物質、nuerotransmitter)の放出と受容が行われることによって「つながる」。
 約1000億個のニューロンが自ら以外のニューロンの全てとつながると仮りにすると、1000億✖️1000億の線が絡み合った「網」ができる。実際にはそうではなく、つながる場であるシナプス(シナプス空間、シナプス間隙)の数は、1000億ではなく、数千万であるらしい。
 だが、最も少なく見積もって1000万としても、1000億✖️1000万=100億✖️1億=100京(あるいは、1000億✖️1000万=1兆✖️100万=100兆✖️1万=100京)というとんでもなく厖大な数の「つながり方」があることになる。むろん、一つのつながり方が定型的な一つの情報交換をするわけでもないだろう。
 文筆家、評論家、あるいは「もの書き」にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の「つながり方」またはその変化によって生じている。
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2721/「文科系」評論家と生命科学・脳科学—佐伯啓思。

  池内了×佐伯啓思(対談)「科学の現在と行方を見つめて」佐伯啓思監修・雑誌/ひらく第2号(A &F、2019)、p.166以下。
 この号の二つある特集の一つが<科学技術を問う>で、上の対談は体裁上重要なものだ。
 佐伯発言によると、池内了・科学の限界(ちくま新書、2012)という書物があり(秋月は未読)、科学の「あり方」を問題にしているようだ。それを理由として、佐伯は対談相手として選んだのかもしれない。
 但し、佐伯の希望どおりの内容になったかは疑わしい。
 そもそもが、一読者としての印象では、二人の発言内容は、うまく噛み合っていないところが少なくない。単純系・複雑系の区別も秋月自体がよく分かっていないが、池内が単純系の科学ではよく分からないと言っているのを、佐伯は科学そのものの問題・限界だと理解したがっているようなところもある。この単純系・複雑系に加えて、佐伯は 現代を<科学と技術>の区別の曖昧化だと把握したいがためにこの二語を使い出してくるので、錯綜が増している。
 決してつまらない対談ではないが、最も興味深く感じたのは、「文系」と自認する佐伯啓思の、科学(・自然科学)、とくに生命科学・脳科学に対する<不信>、批判・揶揄したい気分を感じさせる諸発言だ。
 佐伯啓思はまだよく知っている方で、西尾幹二、長谷川三千子、小川榮太郎、江崎道朗あたりは、生命科学や脳科学の動向に関心すらないかもしれない。
 だが、これらの者たちも発言しそうな、「文科系」評論家らしき言明を、佐伯は行っている。
 長くなりそうなので、2回に分ける。長々と論じるほどでもないので(それだけの明瞭な内容が示されていないので)、発言を引用し、ごく簡単な感想を記す。対談相手の発言が不明だと佐伯発言の意味も不明だろうものもあるので、必要に応じて、池内の発言も記す(ほとんどが引用ではない)。
 「〜と思います」は省略し、口語体を文語体に改めたところがある。。
 ——
 
 ①「つまり、自然を物質的な組成の組み合わせとみる、これが我々が考える、いわゆる自然科学的な意味での自然だ。
 すると、問題は生命科学が対象とするのは人体で、人間というのは、これは自然と考えていいのかという問題がある。」
  佐伯は、「自然」=「物質的な組成の組み合わせ」とすることの意味、さらに「物質的」なる表現の意味を、そして「自然」と「物質」をほとんど同一視する、または同系列の語としてこれら二語を用いることの理由を、より厳密に明らかにしておく必要がある。
 従って言葉の使い方の問題になるかもしれないが、「人体」も、「人間」も、「自然」の一部だろう、というのが、秋月瑛二の理解だ。
 米米 地球上(内)での「生命」の誕生や、のちの「ヒト」または「ホモ・サピエンス」の誕生は、<自然>の営みそのものではないか。
 米米米 私も佐伯啓思も、その新たに誕生した「生命」や「ホモ・サピエンス」を祖先とする後裔に他ならない。これを否定するなら、佐伯は〈自己〉の本質を理解していないのではないか。
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 ②「われわれ文系の人間からすると、人間の持っている感情とか記憶とか思考作用とか、快感のメカニズムとか、こういう種類のことは、果たして脳現象に持ってきていいのか、という疑問がどうしてもわいてしまう」。
  佐伯は、感情・記憶・思考作用・快感のメカニズムの四つを明記して、「脳現象」には還元できない旨を語る。思考や記憶はふつうの生物にないもので、「脳現象」ではない、と言いたいのかもしれない。全くの<無知>であるか、「脳」を「物質」と見て〈記憶・思考〉と無関係とする完全な間違いを冒している。〈感情・快感〉となると、より身体的側面を持ち、これまた「脳」の制御化にある。ともかく、「感情」に「脳」が深い関係のあること、中でも<扁桃体>が重要な役割を果たしているらいことくらい、初歩的な概説書にも書かれている。
 米米 「脳」神経あるいは「ニューロン(神経細胞)」に作用して、興奮したり緊張したりする「感情」を抑制する薬剤が、ごく初歩的には「睡眠」を助けるものも含めて、(ほぼ自由にまたは医師による処方を通じて)一般に流通していることを、佐伯は知らないのだろうか。
 これら薬剤は、〈セロトニン〉、〈ドーパミン〉等々の「神経伝達物質」(・「化学物質」)の(ニューロン間の)〈シナプス間隙〉への放出や回収にかかわっている。
 米米米 「快感」まで挙げているのは信じ難い。ひどい暑さ・寒さ、高湿度、痛み、等々からの解放、これらは人間にとって「快感」そのものだろう。そして感覚細胞を制御する「脳」の現象そのものだ。佐伯は特殊で独特の「快感」概念を使っているのかもしれない。
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 ③「文科系の人間は、人間というのは複雑系だと最初から思っているし、きれいに分析できないとあきらめている」。
 脳科学も生命科学も、「僕らのような文系の方からすると、そもそも人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」。
 「仮に脳科学で、人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートしまうとして、仮にそうだとして、それは、一体何が起きたのだろう」。
 「何かが進歩したと言えるのか、それで人間がわかったことにそもそもなるのか、という気」がする。
  「脳科学」と「生命科学」を明記して、「人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」と明言している。秋月瑛二もどちらかというと「文系」だが、このようには考えない。
 米米 「人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートし」て、いったい何の意味があるのか、というようなことを語っている。「無知」だ。
 米米米 「脳科学」者も「AI」によるシミュレート者も、それによって「人間がわかったことに…なる」とは、そもそも考えていないだろう。「人体」や「人間の神経・精神」を対象としていても、それで「人間」なるものが「わかる」ことには絶対にならない。但し、「人間」なるものの複雑さ・繊細さ・不可思議さを少しは理解することにつながる可能性がある、と考えられる。
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 ⑥〔池内—シミュレートしているだけで、わかったことにはならない。〕
 「そうですね。では、この種の科学とは何だろう」。「何か分かったことになるのか、という意味で」。
 〔池内—本質的に新しい法則の発見で「人間が実に複雑で、多様な側面がどういうメカニズムの下で発生しているのかということがある程度分かるんじゃないか」。「すぐに分かる」のではないが、「複雑系という非線形の非常な多体システムの扱い方がだんだん分かってくる」。
 「そういう意味では、根本的なところは物理のそれと今の生命科学はそれほど変わりはないということですね」。
 この部分で重要なのは、池内が「ある程度」分かる、「だんだん」分かっていると言っていることだ。秋月も、そうだろうと思う(但し、100%・完全にかは、??)。それに対して、佐伯が何やら不満げであることも重要だ。
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 ⑦「仮にそういう複雑系がある程度解析できるようになってきて、それで、人間の感情の動きと脳の作動の対応関係がある程度わかってきたら、すぐに、そのままそれを適用、応用されてしまうでしょう。つまり、脳科学は即技術になるのではないか。」
 〔池内—「いやいや」、その点では「応用」できない。但し、現時点ではできていないが、「複雑系の技術はあるのではないか」。〕
 「ただ、たとえば、すでに遺伝子工学がこれだけ急に展開してきて、それで遺伝子の組み合わせを操作すれば、癌を予防できるとか、癌にならないような子供を作れるとか、といった話が出てきて、それはもうすぐに現場に行ってしまいませんか」。
 この部分で佐伯は突然に、「ある程度わかってきたら」、「脳科学は即技術になるのではないか」と発言する。この性急さの意味は、ほとんど不明だ。
 米米かりに「即技術になる」として、なぜそれでいけないのか、という気がする。それに、「即技術」の意味が問題で、〈科学と応用〉または〈科学と技術〉のあいだには何段階もの中間段階がある(単純に二分できない)、と考えられる。
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 ⑧〔池内—癌は多くの組み合わせで、かつ「個体の反応は異なる」から、簡単には退治できない。〕
 「そこに生命科学の大きな問題があって、生命現象は物理現象とはやっぱり根本的に違う
 ところが、それを無理やりに単純系に砕いてやろうとするから、うまくいかない。」
 米じつに興味深い佐伯の発言だ。「生命現象は物理現象と…根本的に違う」。
 「物質的な組成の組み合わせ」が「自然」なのだから(上の①)、「生命」現象も「自然」現象ではない、または<たんなる物理現象>ではない、と言いたいのだろう。
 はたして、そうか。「生命」・「本能」の根幹を掌るとされる「脳幹」の作用に「化学物質」は関係していないのか。デカルト流に<我思う、ゆえに我あり>ということを言いたいのか。M·ガブリエルの著書の題である『「私」は脳ではない』(Ich ist nicht Gehirn)(秋月は未読)と言いたいのか。
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 ⑨「いくら生命過程の根本がDNAとか、それから、細胞レベルである程度のことが分かっても、それが具体的にどういうふうに働くかというのは個体によって全然違う、ということですね」。
 〔池内—人体は複雑系だから「個体によって全部違う」。「むろん、物質系としてはみんな同じなんです。本質的に」。「本質的には人体は同じ作りにできているんだけれども、反応は全部違う」。〕
 佐伯は<個体によって違う>ということを強調したいようだ。一方、池内の発言で重要なのは、「物質系としてはみんな同じ、本質的に」、「本質的には人体は同じ作りにできている」の部分だろう。この「本質」性を、佐伯は認めたくない、または、認めることができないのだろう。
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 ⑩〔池内—癌の要因に遺伝と環境の二つあり、両者の関係は複雑だから「なかなかわからないと思う」が、「むろんある程度解析できる要素はある」。〕
 「いや」、しつこいが、「僕が危惧するのは、逆に生命科学が進歩していって、癌の要因がかなりわかる、100%とはいかないまでも、80%くらいまで解析できる、となるとしましょう」。遺伝要因・環境要因、食べ物、人間関係、「それらがどう作用するか、ある程度わかってくる。で、わかってくれば、そのこと自体が我々を変えていってしまうのではないですか」。
 「我々の生活の仕方を変え、食生活を変え、という話になる。その延長の上に、先程の遺伝的な要因もやっぱりある程度はあるとなって、遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる、という話になる」。
 「そうすると、その科学の成果、科学の発展というものが、何らかの形で、ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくるのではないか」。
 佐伯が言いたいことは、よく分からない。なぜなら、「癌の要因」が「80%くらいまで解析でき」て、諸要因の「作用」が「ある程度わかって」くる、そして、「遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる」ということが、ここでは「癌」防止に限っておくが、なぜいけないのか?? 佐伯は、「科学の成果」が「ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくる」として問題視する。なぜ??
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 ⑪〔池内—それは「科学ではなく技術」だ。〕
 「先程から問題にしたかったのはそこ」だ。
 「科学的にいろんなことがわかってきた。遺伝子の構造がわかった。
 で、遺伝子の中に癌に関する遺伝子もある。
 そうすると、癌に関する遺伝子が完全に特定できる。
 これを除けば癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまうし、さらにいえば、技術として応用されることを目論んで、現代科学は展開されているのではないか」。
 ⑩のつづきだ。遺伝子に関する科学によって「癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまう」と、佐伯は問題視する。
 遺伝子等に関する科学の進展によって「癌の可能性が減る」ことは、佐伯にとって望ましくないことなのだ。これは癌の罹患・発症を免れたい圧倒的多数の人々に対して、「科学の成果」を享受することなく<癌で死んでしまえ>と言っているのと同じなのではないか。
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 ⑫「だから、科学上の発見といっても、それが応用に直結している限り、現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる
 何か今そういうことの途上にいて、そこで我々、何か打つ手はあるのか」。
 「少なくとも自覚する必要はあ」る。
 「科学上の発見」が「応用に直結」する限り、「現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる」。これは一般論としてはそのとおりだろうが、なぜしつこくこう強調するのか?
 米米「自覚する必要がある」。これは佐伯啓思という評論家の常套句。他に、「もう一度、〜について考えてみる必要がある」、「あらためて〜を問題とすることから始めなければならない」等々。
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 ⑬「生命科学の発展が、無条件でよいとは簡単には言えなくなってくる。
 遺伝子の解析が、そのままで無条件でいいとは言えなくなってくる。
 AIも同じことだと思いますし、情報分野の革新も同じことです。」
 「それは今たまたま始まった問題なのか、それとも20世紀の科学、特に物理学でもそういう構造ができてしまったのか。何か科学の構造が変わってしまったのか」。
 「生命科学の発展」、「遺伝子の解析」、「AI」、「情報分野の革新」について、さらにはおそらく<科学の発展>について、佐伯は懐疑的だ。しかし、もちろん、佐伯が具体的な代案を示すことはない。<問題だ、問題だ>、<自覚せよ、自覚せよ>とだけ騒いで、いったい何になるのか。
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2720/人類の「感情」の発生—300万年前〜3万年前。

  アントニオ·R·ダマシオ=田中三彦訳・感じる脳—情動と感情の脳科学·よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005)。
 この著(原題、Looking for Spinoza)は冒頭で、<感情の科学>の未成立または不十分さを強調している(感覚、感情、情動、情緒、感性といった語との異同には留意する必要はある。但し、さしあたりはこの点を無視してよい)。
 だが、脳神経学者(?)ダマシオも、以下のような進化生物学(?)の叙述または説明を、大きくは批判しないのではないだろうか。
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  科学雑誌NEWTON-2016年6月号「脳とニューロンシリーズ第3回/喜怒哀楽が生まれるわけ」。
 以下、上の一部の引用。一文ずつで改行、本来の改行箇所に/の記号を付す。
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 「喜怒哀楽は基本的に、自分のおかれた環境に対して生じるものだといえる。
 一方で、感情には、自分と他人の関係において見られるものも数多くある。
 いとおしさや、嫉妬、うらみ、といったものだ。
 これらは、『社会的感情』とよばれる。/
 現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。
 とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという。/
 また私たちは、感情を自覚するだけでなく、ほかのだれかにおきた出来事をわがことのように怒ったり、悲しんだりすることがある。
 つまり、他人の感情に共感できる。
 共感のしくみに深くかかわっているかもしれないと考えられているニューロンに、『ミラーニューロン』というものがある。
 …… 」
 <以下、略> 
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  20万-30万年前というのは、アフリカ東部でホモ・サピエンスが誕生したとされている時期だ。そして、上のNEWTON編集者のいう300万年前〜3万年前に入っている。
 この叙述に従うと、人類はその「共通祖先」や「原人」たちの長い時代のあいだに、「感情」を形成しつつあった。あるいは、人類は、「感情」というものをほとんど備えて生まれてきた。「日本」や「日本人」の成立よりはるかに昔のことだ。
 ホモ・サピエンスが地球各地へ分散していっても、同じような状況では、<かなりの程度>、きわめてよく似た「感情」をもち、そしてきわめてよく似た「感情」表現をする、これらも当然のことだ、と言えるだろう。
 もちろん、人種や民族による、さらには各個体による、差異は完全にない、全く同じだ、などと言うことはできないとしても。
 そしてまた、他人の感情との<共感性の欠如>という一種の「心の病気」が人間のごく一部には生じている、ということを否定できないとしても。
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2718/生殖細胞系列のゲノム編集—J・ダウドナらに関する書物。


  W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)
 読み終えておらず、およそ80パーセント近くまで進んだ。
 全く付随的に、と先日には書いた同じ(元)研究所長が、人種や民族と遺伝子との関係を、かつ「優れた」・「劣った」という対比のもとに、あらためて発言して顰蹙を買っている、というような話を、サイエンス·ジャーナリストであるこの本の著者は、この80%めくらいのところで書いている。
 そして、この著の主要部分は、もう済んだような気が秋月にはしている。
 主人公と多数の副主人公の一人の二人(ともに女性)は2020年のノーベル化学賞を受賞した、ということを、最近に知った。
 というくらいだから、私の専門的知識の欠如は著しいのだが、なかなかの難問を突きつけている書物だ。
 最初は日本とアメリカの研究者や研究環境の違いにも興味をもった。しかし、科学技術と人間・社会のあいだには難題が多くある、という感想の方がはるかに強くなった。
 上の旨は、登場人物の発言や諸報告書類の紹介によっても頻繁に語られている。既知の日本人読者も多いだろう。
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 以下では、著者のW·アイザックソンが他人や諸団体の言葉・文章ではなく、自分の文章として書いている部分を引用だけして、備忘としたい。
 著者が「まとめ」または結論として書いているところではない。J·ダウドナらのノーベル賞受賞に関する叙述は、まだない(最終の第56章にあるようだ)。ただ、一かたまりで要領よく書いている、と感じられた。
 以下に引用する文章は、全体で計56章(計9部)あるうちの第40章(第7部)にある。
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 第32章(第4部)の最初の方に、著者のつぎの文章があるのに気づいた。
 「今日、クリスパーが注目されているのは、それを使えば、次世代に受け継がれる(生殖細胞系列の)編集をヒトゲノムに施すことができるからだ。
 編集されたゲノムは将来の子孫の全細胞に継承され、やがては人類という種を変える可能性さえある。」
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 Jennifer Doudna(ダウドナ)とEmanuelle Charpentier(シャルパンティエ)の二人は、「クリスパー・キャス9」(CRISPR-Cas9)を開発したことによって、ノーベル賞を授与された(対象論文は2017年のもののようだ)。
 J·ダウドナら=櫻井祐子訳・クリスパー—究極の遺伝子編集技術の発見(文藝春秋/文春文庫、2017/2021)で、ダウドナ自身が CRISPR-Cas9 についてこう書いている。
 「最新の、またおそらくは最も有効な遺伝子編集ツールである『CRISPR-Cas9(略してCRISPR)』を使えば、ゲノム(全遺伝子を含むDNAの総体)を、まるで文章を編集するように、簡単に書き換えられる」。
 しかし、その使用方法または目的について、J·ダウドナもまた決して楽観的なのではない。
 W·アイザックソン著のどこかに、こんな文章があった。「最高の教育」の内実をここでは問わない。
 <親が「最高の教育」を自分の子どもに与えたいと考えてよいのと同様に、子どもに「最高の遺伝子」を与えたいと思って、どこがいけないのか? そうした個人の「自由意思」の実現を助ける医師たちや事業体があって、どこがいけないのか?>。
 ——
  以下、引用。秋月において段落ごとに番号を振った。第一の段落は、あえて途中から引用を始めている。
 「 細菌が何千年もかけてウイルスに対する免疫を発達させてきたように、わたしたち人類も発明の才を発揮して、同じことをするべきではないだろうか。/
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  もし自分の子どもがHIVやコロナウイルスに感染しにくくなるよう、ゲノムを安全に編集できるとしたら、そうすることは間違っているのだろうか?
 それとも、そうしないことが間違っているのだろうか?
 そして、〈中略〉他の治療や身体の強化についてはどうだろう?
 政府はその使用を妨げるべきなのだろうか?/
 ----
  この問いは、わたしたち人類がこれまでに直面した中でも最も深遠な問いの一つだった。
 地球上の生物の進化において初めて、一つの種が、自らの遺伝子構造を編集する能力を身につけた。
 それには、多大な利益が期待できる。
 多くの致死的な病気や消耗性疾患を排除できるかもしれない。
 そしていつの日か、自分や赤ん坊の筋肉、精神、記憶力、気分を強化するという希望と危険の両方を、わたしたち、あるいはわたしたちの一部に、もたらすだろう。/
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  この先の数十年で、自らの進化を促進する力を持つようになると、わたしたちは深遠な道徳的問いや精神的な問いに直面するはずだ。
 自然は本質的に善いものなのだろうか?
 天与の運命を受け入れるのは正しいことなのだろうか?
 神の恵み、あるいは自然のランダムなくじ引きがなければ、自分は別の才能を持って生まれたかもしれないという考えに、共感が入る余地があるだろうか。
 個人の自由を強調すると、人間の最も基本的な側面を、遺伝子のスーパーマーケットでのショッピングに変えてしまうのではないだろうか?
 お金持ちは最高の遺伝子を買うことができるのだろうか?
 そのような決定を個人に委ねるべきなのか、それとも何を許可するかについて、社会が何らかのコンセンサスを図るべきなのだろうか?/
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  しかし、わたしたちはこうした出口のない問いを、大げさにとらえすぎてはいないか?
 わたしたちの種から危険な病気を取り除き、子どもたちの能力を強化することで得られる恩恵を、なぜ手に入れようとしないのか?/
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  主に懸念されているのは、生殖細胞系列でのゲノム編集だ。
 それはヒトの卵子、精子、初期胚のDNAに変更を加えるもので、生まれてくる子ども—およびそのすべての子孫—の全細胞が、その改変された特徴を備える。
 一方、体細胞編集はすでに行われていて、一般に受けいられている。
 それは患者の標的細胞に変化を加えるもので、生殖細胞への影響はない。
 治療で何か間違いが起きたとしても、その害が及ぶのは患者個人であって、人類という種ではない。/
 ----
  体細胞編集は、血液、筋肉、眼などの、特定の細胞で行うことができる。
 しかし、高額な費用がかかるものの、効果はすべての細胞に及ぶわけではなく、おそらく永続的でもない。
 一方、生殖細胞系列のゲノム編集は、身体のすべての細胞のDNAを修正できる。
 そのため、寄せられる期待は大きいが、予想される危険も大きい。」
 ——
 以上。

2712/池田信夫のブログ037—ニューロンとヒト・日本人。

  池田信夫ブログマガジン2024/01/22号の一部から。
 「では人間はどうやってフレームを設定しているのか。
 それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。
 言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。/
 最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれているのであり、経験から帰納したものではない。
 そこからフレームが自己組織化されるが、その目的は個体と集団の生存である。」
 ---------
 この数文のうち、重要なのはつぎの二つだ。
 ①「最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれている」。
 ②「自己組織化」の「目的は個体と集団の生存である」。
 後者②は、<利己>と<利他(帰属集団)>のどちらがヒトにとって本質的かという、池田がいっときよく論及していた主題にかかわるだろう。
 以下では、前者①にだけ触れる。
 ——
  あらためて言うまでもないようなことだが、ホモ・サピエンス(人類)としての共通性を、どの人種も、民族も、もっている。
 上の言葉を利用すれば、「人類の長い歴史の中で生存に適したもの」として「選ばれ」た、「ニューロンの結合で遺伝的に決まっている」もの、ということになるだろう。
 胴体と頭と四肢(二本の腕と二本の脚)という肉体的・身体的なことのほか、〈快・不快〉とか〈喜び・悲しみ〉といった感覚・感情・感性も、「人類」としての共通性が<かなりの程度>あるようであることは、インバウンドとやらで日本に来ている多数の外国人を見ていても分かる。
 「笑い」にも苦笑から冷笑まで種々のものがあるが、爆笑・大笑いとまでいかない「ふつうの」笑いを示すとき、どの人種も、民族も、<かなりの程度>似たような表情を見せるようだ。
 これは、いったいなぜなのだろうか。
 「身体的」と「精神的」の二分自体がずいぶんと怪しいのだが(知性・感性を生み出す「脳」はどっちか)、とりあえずこの問題は無視しょう。
 「身体的」であれ「精神的」であれ、ホモ・サピエンス(人類)は<標準的な>装備品を身につけて生まれてきているようだ。それは、共通するまたは<標準的>な人類としての「生物的遺伝子」による、と言ってよいのだろう。
 こう述べて、済ますことはできない。
 ——
  一つの問題は、一つの(一人の)個体にとって、「生物的遺伝子」によって決定された部分と生後の「環境」によって決定または制約された部分は、どういう割合であるのか、あるいは両者はどういう関係に立つのか、だ。
 全てが「親ガチャ」によるのではない。また、全てが「自分」の「自由意志」と無関係な「遺伝」と「(生育)環境」によって決せられるのでもない。
 ともあれ、上で簡単に「生後」と書いたことも、厳密には問題がありそうだ。
 シロウト的叙述になる。受胎時からまたは「生命」の発生と言ってよい瞬間から、胎児は、母体=母親からすでに、母体を通じて種々の「外界」の影響を受けているのではないだろうか。
 直感的に書くと、例えば、母体=母親の心臓の拍動と血流の変化を胎児はすでに「感じ」ていて、その「速さ」=反復の頻度は、ヒトのとっての基礎的な「速さ」の感覚としてずっと残りつづけるような気がする。
 母親の「気分」や、例えばよく聴く音楽もまた、全く関係がない、とは断定できないだろう。
 だが、モーツァルトが「胎教」に良いとかの俗説にどのような実証的な根拠があるのか知らない。何らかの関係があるのだろうが、程度・内容等々を実証的に語るのは—現今のところは—不可能だろう。
 ——
  もう一つの問題はこうだ。ホモ・サピエンス(人類)としての共通性以外に、人種や民族等々によって異なる「多様性」があることも、常識的・経験的に知っている。この「多様性」をより正確にどのように理解し、またどのように〈評価〉すればいいのだろうか。
 その多様性は、生活する地域・圏域の地理や気候の差異によって形成されてきた、一定の「人類」集団ごとの「生物的遺伝子」によって生じてきたのだろう。毛髪や眼(虹彩)、皮膚の色等の違いは、よほどの長いあいだ、交流・交雑がなかったことを推測させる。
 ここで、とくに欧米またはヨーロッパとの対比で語られてきた「日本」論や「日本人」論が視野に入ってくる。
 だが、人種や民族ごとの特性にかかわる議論は、かなりの慎重さを必要とする。
 第一に、諸「人種」や諸「民族」それ自体を同じレベルで語れるのか、という問題がある。
 「日本」や「日本人」と対照されるべき他の「民族集団」は、例えば何(どれ)だろうか。
 第二に、どちらが「優れて」いるか、「劣って」いるか、という議論につながる可能性がある。しばしば優・劣を判断する基準を曖昧にしたままでの議論だ。
 下の著は「ヒトゲノム計画」を叙述する中で、全く付随的にだが、「人種や民族集団の遺伝的違いは知性や犯罪性などと結びついている」という過去の「幽霊」を、2000年頃の某研究所長の「人種と遺伝学に関する持論」は蘇らせた、と記している。
 W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)
 第三に、例えば「日本」とか「日本人」について語るとき、「日本」という社会集団または国家・地域意識はいつ生まれたのか(「日本」という言葉の成立とは直接の関係はない)、現在につながる「日本人」はいつ頃、どのようにして誕生したのかについて、無知であるか、または幼稚な知識を前提としている場合があると見られる。
 いったいいつの頃の、またはいつ頃から現在につづく「日本」・「日本人」を念頭に置いて論じているのだろうか。
 下の年二回刊行の雑誌は実質的に最終号のようだが、<日本とは何か、日本人とは?>を特集内容としている。
 10名近い執筆者たちにおいて、上に述べたような「日本」・「日本人」の意味や時期は明確になっているのだろうか。この点にも興味をもっていくつかの論考を読んでみよう。
 佐伯啓思監修・ひらく(年二回刊)第10号(A &F、2024年1月)
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2709/池田信夫のブログ036—「科学革命」。

  池田信夫の最近のブログは、「科学革命」に論及していることが多い。
 「革命」にも、さまざまなものがある。
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  ユヴァル·ハラリ/柴田裕之訳・サピエンス全史(原書2011、邦訳書2023)の最初の方では、「認知革命」なるものが語られている。大きな第一部の表題自体が、「認知革命」だ。
 「約7万年年前」の「認知革命」、「約1万2000年前」からの「農業革命」、「500年前」に始まった「科学革命」の三つの「革命」があったとしたあと、「認知革命」についてこんなことを書いている。
 「認知革命」(=7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場」)に伴って、「伝説や神話、神々、宗教」は「初めて現れた」。
 ホモ·サピエンスは「認知革命」のおかげで「虚構、すなわち架空の事物について語る」能力を獲得した。そして「虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった」。
 これらは間違いではないだろう。
 ハラリが「思考」や「意思疎通」の方法として「言語」以外のものを排除しているとは読めないが、「思考」の結果の表現や「意思疎通」の重要な、かつ主要な手段になるのは(とくに他者・集団との関係では)「言語」であることは否定できないだろう。
 「感覚」、「感情」、「情動」の表現や伝達の方法としても、「言語」は必ずしも不可欠でないとしても、役立ちうる。
 もっとも、「言語」として一つの<祖サピエンス語>を想定し、それが諸言語に分化したとする主張や学説は存在しないはずで、ハラリが想定する「言語」はこの点で不分明であるような気もする。
 また、こうも書いている。
 「最も広く信じられている説」によると、「たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり」、従来にない思考や「まったく新しい種類の言語を使って(の)意思疎通」が可能になった。この変異を「知恵の木の突然変異」と称してよいかもしれない。
 ——
  上の最後の叙述部分を、以下は否認している。
 池田信夫ブログマガジン2023年11月13日号——「戦争は『共感革命』から生まれた」。
 こう、書かれる。
 「(ハラリ著によると)人類は7万年前に『認知革命』という突然変異で言語の能力を獲得してフィクションを信じるようになったというが、そんな証拠は遺伝的にも考古学的にもない。
 人類の脳は200万年前から大きくなり始め、ホモ·サピエンスが出てくる30万年前には現在の大きさになっていた。
 言葉の使用は脳の拡大の結果であり、突然変異で生まれたものではない。」
 どうやら、池田の言い分の方が適切なようだ。
 問題はさらには、脊椎動物・哺乳類の中で、なぜホモ·サピエンスだけが脳を大きくすることができ、その結果として、サピエンスの大まかな種別ごとに「言語」を生み出すことができたか、にあるだろう。
 なぜ、人類だけが膨大な数の(一個体に1000億個とされることすらある)神経細胞(ニューロン)を脳内に形成・蓄積できるようになり、「言語」も操作できるようになったのか、と言い換えてもよい。
 なお、神経細胞はヒト・人間の身体じゅうにあるが、ヒトの場合は数の上では圧倒的多数が脳内にあるとされる(多さと脳への偏在?が人類を他の動物と区別する)。そして、「脳」>「ニューロン」こそが言語活動を含む人間の知性的・理性的活動の源泉になっている。
 ——
  「序章」だけとりあえず読むに終わるだろうと思っていたら、邦訳のうまさもあってか、上巻の半分くらいまで読んでしまったのは、つぎの書だ。
 W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)。
 書名にも「生物科学革命」という語がある。
 「序章」の中の一節の表題は「原子の革命、ビットの革命、そして遺伝子の革命」だ。
 その中で、こう書かれている。
 「20世紀前半」は、「物理学を原動力とする革命の時代だった」。
 「20世紀後半は、情報テクノロジーの時代だった」。その基礎は「ビット」のアイディアだった。1950年代にこれが「マイクロチップ、コンピュータ、インターネットの開発」につながり、「この三つのイノベーション」が結びついて「デジタル革命」が起きた。
 「今私たちは第三の、さらに重要な、生物科学革命の時代に突入した」。子どもたちは「デジタル・コーディング(符号化処理)」だけでなく「遺伝子コード」を学ぶようになるだろう。
 以上。
 「物理学」(アインシュタインの相対性理論・量子論以降の原子力・トランジスタ等々)による「革命」、「ビット」の二進法思考を基礎にした「デジタル革命」、「生物科学革命」の三つが語られている。
 節の表題に戻ってほぼそのまま利用すれば、「原子の革命、ビットの革命、遺伝子の革命」の三つになる。
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 こういう大きな時代変化の認識の記述あるいは「革命」に関する叙述に接すると、<資本主義から社会主義へ>という時代変化の予見や「社会主義革命」などという観念は、ちっぽけで些細なものに感じる。万が一、この予見や観念が「正しい」ものだとかりにしても、だ。
 資本主義・社会主義論は、かりにこの区別が成り立つとしても、「生産力」と「生産関係」の相剋などを基礎にした議論なのであり、人類全体の大きな見通しの中では、一部の側面にのみ着目した、ちんまりとした「細区分」に他ならないように考えられる。
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2706/池田信夫のブログ034—「ニューロン」。

  日本共産党の問題には、大した興味は持っていない。池田信夫が最近に論及している主題にの方がはるかに興味深く、かつ重要だと思われる。
 秋月による言い換えが入るが、<ヨーロッパ近代>とは何だったか、キリスト教はどういう役割を果たしたか、日本が明治以降に模倣・吸収しようとした<近代(ヨーロッパの)科学>の意味、そこでの「大学」の意義、「哲学」の諸相、等々。
 そしてまた、我々の世代はヨーロッパまたは西欧コンプレックスをもってきたものだが(明治以降の日本人からの継承だ。敗戦も関係する。マルクス主義もまた欧州産の「思想」体系だった)、<ヨーロッパ近代>を徹底的に相対化する思考または論調がむしろ支配的になっているのではないか、とも思わせる。
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 このような主題に関連する、この一ヶ月余の池田信夫の小論に、以下があった。タイトルだけ示す。日本共産党にかかわる小論は2024/01/22号に含まれているのだが、これよりも本来は、下記のものの方が面白い。
 2023/12/25号。
 「『実用的な知識』はなぜヨーロッパで『科学』になったのか」。
 「自己家畜化する日本人」。
 「『構造と力』とニューアカデミズム」。〔浅田彰〕
 「名著再読: ヨーロッパ精神史入門
 2024/01/15号。
 「『科学革命』はなぜ16世紀のヨーロッパで生まれたのか」。
 「名著再読: ウィトゲンシュタインはこう考えた」。
 2024/01/22号。
 「キリスト教は派閥を超える『階級社会』の秩序」。
 「名著再読: (ヒューム)人間知性研究」。
 2024/01/29号。
 「あなたが認識する前から世界は存在するのか」。
 「名著再読: (ショーペンハウエル)自殺について」。
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  「cat」・「猫」の「言葉」問題に触れ、池田にはたぶん珍しく「ニューロン」という語を使っていたのははたしていずれだったかと探索してみると、2024/01/22号の中の、「名著再読: (ヒューム)人間知性研究」だった。
 「ニューロン」も出てくるつぎの一連の文章は、なかなかに興味深く、いろいろな問題・論点の所在を刺激的に想起させてくれる。
 最初の「フレーム」について、「フレーム問題」を池田信夫のブログの検索窓に入力すると多数出てきた。何となく?意味は分かるので、ここでは、立ち入らない。
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  「では人間はどうやってフレームを設定しているのか。
 それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。
 言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。/
 最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれているのであり、経験から帰納したものではない。
 そこからフレームが自己組織化されるが、その目的は個体と集団の生存である。」
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 この数文は、いろいろな問題に関係する。
 秋月の諸連想、あるいは常識的・通俗的な秋月の思考の連鎖を、今後に書いてみよう。
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2570/人間の「死」①—<コロナ禍>。

 2020年の春以降、意気が上がらない、というか、気が滅入る、というか、そのような話題が継続している。
 潜在的には、自分自身の「老化」と「死」を考えているからだろう。しかし、うんざりする状態が、けっこう長く続いている。全て、人間の「死」に関係する。
 第一は、いわゆる<コロナ禍>だ。自分自身の罹患とそれに続く「死」を疑ったことがあったが、幸い素人判断は外れていた。しかし、この二年間、それ以前に比べて、外出や旅行をし難くなってはいる。
 当たり前のことだが、ウイルスによる感染症は、人の生命を奪うことがある。日本でも(それ以外の原因での病死が減ったという情報もあるが)三万人余が死んでいる。そして、身近な人について遭遇しない多くの人には「実感」がないのかもしれない。
 もともとは早晩死ぬだろう、とくに基礎疾患をもつ高齢者がこれをきっかけに「少しだけ早く」死んだだけ、という説もある。最終的な「死」と感染・発症の因果関係の有無またはその程度の判断は、専門家にも困難なことがあるのではないか。
 しかしともあれ、<コロナ禍>の被害に遭遇しなければ死ななかっただろう若い人々がいるのは間違いない。新聞やテレビは、「統計数字」としてだけ報道するけれども。もはや報道すらしない、警察署前に掲示されている交通事故死者の「数」のように。
 とくに高齢者(その中のとくに基礎疾患のある人々)が外出(・旅行)をし難くなっているということは、相当程度、<運動不足>になっている、ということだろう。
 そして適度の運動の機会が奪われるということは、一般論としては、とくに一定の基礎疾患をもつ老人の死期を早めるものだ、と思われる。心臓にせよ、肺にせよ、その他の臓器にせよ。
 しかし、そうした疾患があって、適度の運動不足によって「早く」死んだ人がいても、それは「新型コロナ・ウイルス」感染症による死者数には計算されないだろう。
 むろん、適度の運動不足と「早く」死んだことの因果関係を探るのは困難だし、基礎疾患をもつ老人の死をそのような観点から考察するという意識、雰囲気自体が存在しないかもしれない。
 それにしても、再び当たり前のことだが、新型コロナ・ウイルスによる感染症は(何型であれ)、人間・ヒトにとっての脅威らしい。これによる、犬・猫、馬、ニワトリ等々の死の話題は聞いたことがない。
 人間・ヒトは、実際にそうであるように、人種、肌の色、民族、帰属・在住国家に関係なく、共通して<コロナ禍>で死ぬことがある。
 これはホモ・サピエンスだからこそそうなのであって、人種、民族、国家とは関係がない。あえて言えば、<グローバル>な現象だ。
 だが、人種、民族、帰属・在住国家によって発症患者や死者の数や率は異なり得る。衛生状態、医療制度、予防措置(入国制限やワクチン接種を含む)など、主としてはおそらく国家の違いによる場合があることは否定できないだろう。
 また、2020年にはしきりと言われたようだが、人種、民族による「ファクターX」というのも、否定できないように思われる(今ではどう議論されているのだろう)。
 というのは、日本人(・日本列島人)と欧米人(たぶんとくにヨーロッパ人)とでは、肝臓の機能に顕著な(と言っても程度問題だが)差異が、何かの分解作用についてあり、日本人の方が<酔いやすい>、<アルコールに弱い>、という話をある医師から聞いたことがあるからだ。そのオチは、韓国の医師たちは、日本人と同じ(同様)だということを、執拗に認めようとしない、ということだったのだが。
 こんなことを考えていると、皮膚・眼球・毛髪の色、頭蓋骨の形状、四肢の長さ・割合、筋力等々はホモ・サピエンスであっても人種、民族等によって異なることは明瞭だと思えてくる(もちろん共通性も多数ある)。
 そして、現在に至るまで差異が続いてきているというのは、人種、民族等が隔絶した、つまり<交雑しない>、よほど長い、数千年、数万年単位の「進化」・変化(しない)過程が続いたのだろうと、想像せざるをえない。地形・地理的隔絶、移動手段の未発達によるのだろう。
 これは、「文化的」遺伝子ではなく、まさに「生物的」遺伝子の問題だ。
 第一点は、この程度にする。
 人間の「死」について考えさせられる第二は、ロシアによる対ウクライナ戦争、第三は、安倍晋三元首相の突然の「死」だ。これらは2022年のこと。

2551/孤独死と「直葬」。

  「おひとりさま」の、だろうか、「孤独死」という言葉を、数年くらい前に聞いた。
 孤独死とは何だろう。誰でも死ぬときは—大量一斉処刑とか突然の事故・自然災害による場合は別として—一個体として一人で死んでいくのだろうから、その意味ではほとんど全てが「孤独死」だ。
 死ぬとき、いわゆる息を引き取る瞬間に、周りに誰一人存在しないことを意味するのだろうか。
 しかし、そのようなことは、病院の病室でも起こり得る。あとで報告を受けた家族・遺族があわてて駆けつけて来る、ということもあり得る。
 おそらくは、死ぬ瞬間に、その人の死を気にかけている家族・親族あるいは「身寄り」が一人もおらず、また、病院に運び込まれたときはまだ生きていても周囲にいるのは家族・親族あるいは「身寄り」ではなく医療関係者だけ、という場合を意味するのだろう。
 たしかに、高齢化、後期高齢者の増加と親子・家族・親族関係の疎遠化にともなって、「統計」はきっと存在しないだろうが、「孤独死」の数は増えているだろう。
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  近年でのテレビでの宣伝広告の特徴の一つは、<葬儀場>または<葬儀運営業>や<葬儀保険>の宣伝が目立ってきたことだろう。「縁起が悪い」と感じられたのか、以前はそのような業種・商品の宣伝は全くなかったように思われる。
 さて、「孤独死」の場合の葬儀はどうなるのか。
 「一番小さな家族葬」という言葉があるようだが、死ぬときは「孤独死」であっても、「一番小さな家族葬」でも行われるということは、その死者は本当に「孤独」ではなかったのだろう。
 「一番小さな家族葬」の中の最も小さいものにも該当しない「直葬」というものも、「葬儀」概念の問題だが、ある人によると、「葬儀」の種類の一つだ。あるいは、「葬式はいらない」とか言う場合の「葬式」には「直葬」は含まれないのかもしれない。
 「直葬」概念またはそれを選択するかどうかは、正確には、家族・親族あるいは「身寄り」の有無とは関係がない。
 遺体・死体に対して何の葬礼も行わず、直接に火葬場に運び、骨にしてしまう、というのを「直葬」は意味するからだ。親族・「身寄り」が同意し、同行している場合もあり得るだろう。
 葬儀の仕方・種類はそのあとの「納骨」等々までの仕方・種類まで決めてしまうものなのか。
 全くの身元不明者の場合、所管市町村がその費用で「直葬」したとして、「納骨」はどうするのだろう。知識がない。提携?している寺院があって、その経営する墓地の無名者墓に入れるのだろうか。だがそうすると、その際にその仏教式の「読経」くらいはなされるようにも推測され、そうすると、「納骨」の段階でようやく「葬礼」がなされることになるのか。いや、<政教分離>の今では、市町村と寺院との提携?自体が許容されないのかもしれない。
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  しかしながら、葬儀も納骨も生者がすることであり、死者に関係はあっても死者自身が葬儀等がどのように行われているかを、知ることはできない。
 詳細に遺言しておけば、通常の、または正常な遺族・「身寄り」はおそらくそれに従うだろうが、遺言のとおりに行われる保証はない。「死後事務委任契約」を弁護士等を職業とする者と締結しておけば、保証される程度は高くなるだろう。
 だが、しかし、死んでしまっていれば、それを確認することはできないのは、当然のことだ。
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2508/M・ガブリエル2018年著の一部②。

 Markus Gabriel, Der Sinn des Denken(2018年)。 
 ドイツ語文を試訳する。前回とは別の箇所。邦訳書はないように見える。
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 第五章/現実とシミュレーション。
 第10節・両性をもつ現実(Das Zwitterwesen Wirklichkeit)
 (01) 現実には二つの面がある。
 第一に、何ものも現実には帰属せず、何らかの概念を分有しない。
 第二に、何ものも現実的でなく、我々がそれに欺かれることはありえない。
 以下に述べることは、この対比を鮮明にするだろう。
 一方には、絶対的な観念論(Idealismus)の立場があり、G. W. F. ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)はこれを支持する。
 この立場は、著名な箇所でこう概括する(ヘーゲルの二文)。
 「理性的なものは、現実だ。
  現実的なものは、理性的だ。」
 観念論の主要イデーは、何かが現実的であるときにのみそれは情報を提示することができ、ゆえに原理的にそれは何らかのシステムにとって解釈可能なものになる、というものだ。
 我々の情報時代は、この主要イデーの上に強固に築かれている。
 デジタル革命と展望される全面的ネット化は、まさにこの観念論を技術的に転換したものだ。
 (02) だが、これでは現実の一面しか把握できない。
 観念論者は決まって、現実を把握し、それに適合して我々の諸観念を形成するように、我々の能力を限定する。
 いわゆる超人間主義(Transhuanismus)の過激な変種では、観念論は、我々の生物的本性の克服すらを追い求める。
 これに対して、観念論を人間主義と結びつける観念論のLeipzig 学派の現代哲学は(とくに、James Conant、Andrea Kern、Sebastian Rödl、Pirmin Stekeler-Weithofer)、自己意識的な人間の生を概念の概念だと見なす。(注210, Kern=Kietzmann, Stekeler-Weithofer)//
 (03) 超人間主義は、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の超人(Übermensch)という幻想を技術の進歩によって実現しようとする企てだ。
 ニーチェは、もはや生物学的情報空間に生きていない、純粋な情報空間としての人間のより高次の存在形態を追求した。
 ここで読者は、Spike Jones の映画〈彼女〉に出てくるSamantha という名前の完全に人工的な知識人、あるいは例えば〈Black Mirror〉や〈Electric Dreams〉にある何か別の未来主義的な観念を思い浮かべてよいだろう。
 観念論は、超人間主義の世界像を間接的に支えている。ヘーゲルも現代のドイツの観念論者も(パラダイム的にLeipzig とHeidelberg の大学で主張される)、超えられない普遍的な高地の一つとして現実を基盤的に人間に根づかせようと企てているのだけれども。(注211, Friedrich Koch)//
 (04) 現実のもう一方の面、すなわち、我々は自分たちを欺くことができるという側面は、絶対的な観念論の範囲では当然に、適切には把握されない。
 そのゆえに、観念論はかつても今も、実存主義(Realismus)と対立する。
 (05) 実存主義は、我々は我々の見解を現実の状況に適応させなければならない、ということが、現実の決定的な標識だと見なす。
 これに従えば、現実は全てが我々の認識装置に適応したものであるわけではない。
 現実は、我々にそう思われるのとは全く別のものであり得る。
 実存主義はそのかぎりで、現実の理解を、我々を絶えず驚愕させることのできる状況に適応させる。
 実存主義によって、たしかに、現実は認識可能であり、我々はつねに欺かれるわけではない、ということが際立つ。
 だが、これは、現実はそのゆえに我々に適応したものだ、ということを意味しない。そうでなく、我々は多くのことを認識し、その他のものは認識しない、ということをたんに意味する。
 現実は原理的に認識可能なのか、そうでないのか、という問題を、新実在主義(Neue Realismus)は克服しない。なぜなら、現実は全包括的な対象領域なので、イデーは一貫して裏切られるからだ。
 反面で現実が態様範疇(Modalkategorie)であるならば、現実は原理的には認識可能だ。//
 (06) フランスの現代哲学は、この論脈で、ハイデガー(Heidegger)の後期哲学の『Ereignis』(事象)に依拠して語っている。
 ハイデガーはそこでは、むろん区別されるのだが、H・ベルクソン(Henri Bergson)を借用していた。
 ベルクソンはドイツでは低い評価しか享けておらず、それはまさにハイデガーが彼を中傷したからだ。 
 ベルクソンは当時の目線で、Albert Einstein その他の者と闘い、とりわけ1927年のその書の高い性質にもとづいて、ノーベル文学賞を受けた。
 ベルクソンとアインシュタインは良い関係でなかった。そのことで、最終的にはベルクソンの声価が傷ついた。//
 ——
 以下、省略。

2503/平野丈夫・何のための脳?-AI時代の行動選択と神経科学(2019年)より。

   <身分か才能か>、、<家柄(一族・世襲)か個人か>、<生まれか育ちか>、<遺伝か生育環境か>という興味深い重要な基本問題がある。
 平野丈夫・何のための脳?—AI時代の行動選択と神経科学(京都大学学術出版会、2019)。
 この中に、「生まれと育ち、経験による脳のプログラムの書き換え」という見出し(表題)の項がある。p.59〜。関心を惹いた部分を抜粋的に引用する。
 ・「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う脳・神経系はどのように形成される」のかについて、「遺伝的に決定される過程と、動物が育つ時の外部からの刺激または経験に依存した過程の両者が関与することがわかっている」。
 ・「網膜の神経細胞が視床へ軸索を伸ばす過程は、遺伝的要因により定まっている」。
 ・「一方で、大脳皮質のニューロンの各種の刺激に対する応答性は、幼児期の体験によって変わる」。
 ・「このように、神経回路形成において感覚入力が重要な役割を担う時期は幼弱期に限定され、この時期は臨界期と呼ばれる。臨界期の存在は視覚情報処理に限られない。言語習得等にも臨界期がある」。
 「神経回路の形成には、遺伝的にプログラム化された過程と、外部からの刺激または入力に応じた神経回路の自己組織化過程が関与する。
 神経回路の自己組織化は入力に応じた神経機能調節であるが、情報処理過程が刺激依存的に持続的に変化する現象であり、学習の一タイプと見なせる。」
 以上、至極あたり前のことが叙述されているようでもある。遺伝的に定まった過程と「幼児期」にすでに臨界を迎える過程とがある。
 前者は生命の端緒のときか出生以前の間かという疑問も出てくるが、たぶん前者なのだろう(但し、その場合でも一定の時間的経過を要するのだろうと素人は考える)。
 また、個々人にとって後発的に出現する視覚神経系等の「個性」が「遺伝」によるのか「幼児期」の体験等によるのかは、実際には判別できないだろう。もっとも、いろいろな点で「親に似る」(あるいは祖父母に似る)ことがある、つまり「遺伝」している、ということを、我々は<経験的に>知ってはいる。もちろん。「全て」ではない。子どもは両親の(半分ずつの?)「コピー」ではない。
 なお、上の叙述の実例として「鳥類」と「ネコ」が使われている。上のことはヒトまたはホモ・サピエンスだけの特質では全くない(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類は全て、大脳・間脳・中脳・小脳・延髄を有する。神経系もだろう。平野丈夫・自己とは何なのか? 2021年、p.31参照)。
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  西尾幹二は「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマ」だと発言し、対談者の岩田温も「無味乾燥な『科学』」という表現を用いている。月刊WiLL2019年4月号。p,223, p225。
 こんな<ねごと>を言っていたのでは、現代における「思想家」にも「哲学者」にも、全くなれないだろう。
 ヒト・人間も(当然に「日本人」も)また生物であり、それとしての「本性」を持つということから出発することのできない者は、今日では、「思想」や「哲学」を語る資格は完全にないと考えられる。
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  上に最初に引用した平野丈夫の一文は「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う…」と始まる。
 問題は「<適切な>行動選択」とは何か、どうやって決めるのか、だ。
 むろん平野も、困難さを承認し、それを前提としている。
 だが、上の著の「はじめに」にあるつぎのような文章を読むと、ヒト・人間を含む生物科学は(脳科学も脳神経科学も)、人間に関する、そして人間が形成する社会(・国家)に関する「思想」や「哲学」の基礎に置かれるべきものであるように感じられる。
 「動物の系統発生を考慮すると、脳・神経系のはたらきは動物が最適な行動をとるための情報伝達・処理・統合にあると考えられる。
 それでは、最適な行動とはどのようなものであろうか?
 それは個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動だと思う。
 なぜなら、現存動物種は進化過程における自然選択に耐えて生き残ってきたからである。
 しかし、ある生物個体が良好な状態であることと、その子孫・集団または種が繁栄することとは必ずしも両立しない。
 また、どのくらいの時間単位での利得と損失を考慮するかによっても、最適な行動は異なる。
 個体、グループまたは種にとって何が最適かは、実は正解のない難問である。
 ヒトを含む動物は各々の脳を使い、様々な戦略と行動の選択を行うことによって、個体の生存と血族または種の繁栄を図ってきた。」
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  緒言中の一般論的叙述だが、含蓄はかなり深い。
 「最適な行動」=「個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動」と言い換えても、後者が何かは「正解のない難問」だ。
 第一に、各個体と「子孫・集団または種」、あるいは「個体、グループまたは種」のいずれについて考えるかによって異なり、第二に、どのくらいの時間単位での「最適」性を想定するかによっても異なる。
 個体の「生存状況改善」と子孫の「繁栄」と言っても、具体的状況での判断はきわめて困難だ。
 それでも、大まかで基本的な思考・考察の出発点、視点または道筋は提示されているだろう。
 何のために生活しているのか? 何のために学問・研究をするのか?、何のために文筆活動をするのか?、何のために種々の仕事をするのか?。
 最低限または基礎的には<個体の生存>(食って生きていくこと)だったとして、それ以外に優先されるのはどのような集団の利益か。家族か一族か、帰属する団体・個別組織か、その団体・組織が属する「業界」か、それとも(アホだと思うが)「出身大学・学部」の利益・名誉か、あるいは「日本」・「国益」か、ヒトという「種」か、等々。
 生命・生存の他に、いかなる経済的または(名誉感覚を含む)精神的利益に「価値」を認めるのか。複数の「価値」が衝突する場合にはいずれを最優先にするのか。
 せいぜい1-2年先までを想定するのか、20年、50年、100年先までを時間の射程に含めるのか。
 自分自身(個体)の生存と自分自身の世俗的「名誉」にだけ関心を持つ者には、このような複雑で高次の問題は生じない。
 なお、上での表現を使うと、「最適な行動」の「選択」をする、複数の「選択可能性」の中から一つを選ぶ、これが可能である状態または力が「自由」であり、その基礎にあるのが「意思の自由」または「自由意思」だと考えられる。そのさらに基底には、脳内の「情報伝達・処理・統合」の過程があるのだけれども。

2500/平野丈夫・意識.自我.心の神経科学(2021年)。

 平野丈夫・自己とは何なのか?—意識・自我・心についての神経科学的考察(幻冬舎、2021.12)、より。
 一 意識
 かつて、秋月がこの欄で意識がないこと(深い睡眠や全身麻酔中の状態)は「死んで」いるのと同じ旨を書いたことがあるが、これも「意識」の語法による。また、のちに「深い睡眠や全身麻酔中の状態」で「意識」がなく、神経細胞(ニューロン)がかりに動いていなくともグリア細胞等々が「生存」を支えていることを知った。以下、上の著書に入る。
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 意識には少なくとも三つの意味がある。
 A/一般的イメージより広く、「単純かつ機械的に」「型にはまった脳・神経系のはたらき」を示す。目覚めている・寝ている・昏睡中等々で一括して「覚醒」。
 B/「ある事物に注意が向いてそのことに気づいている」こと。
 「感覚」はあるが「無意識」のこともある。「無意識」の情報にも身体は反射的応答をし、行動選択にも影響を与える。
 C/「自己の状態を観察・内省して思考する」こと。デカルトの「我思う」。最も高次で「心の本体」に近い。
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 二 意識A。
 ある基準では、I/刺激しなくとも覚醒(①意識清明・②場所や他者不明・③氏名・生年月日不明)、II/刺激すると覚醒(開眼が①呼びかけ・②揺さぶる・③痛み刺激)、Ⅲ/刺激しても覚醒しない(だが「生きている」)に大別する。
 別の基準では、1/開眼、II/言語音声反応、Ⅲ/運動反応、に着目する。
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 三 意識B。
 「意識」・「無意識」の対比はほぼこの意味。「外界からの刺激による感覚入力のほとんど」を我々は「知覚」しない。感覚(受容)と知覚はレベルが異なる。
 あること・あるものを「気づく」=「知覚する」と、その対象には「特有の主観的体験」が伴う。「生々しい主観的体験」は「クオリア(質感)」と呼ばれ、「意識に上がってくる」。
 「気づき」=「知覚」が「特定の神経細胞集団の発動」によるのは確かだ。しかし、「主観的クオリア」の発生態様は「ハード・プログラム」だ。
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 四 感覚と知覚
 感覚(感覚刺激)には、視覚、聴覚、平衡感覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚(触覚・温度感覚)などがある。*秋月—「六感」・「第六感」とは?
 これらを「感覚器」で受容するが、「一部」しか気づかない、つまり「知覚」しない。にもかかわらず、私たちは、一部の「感覚入力情報」に「自動的に反射応答」する。体温・血圧・心拍の変化等の「自律神経系の応答」は知覚しないことが多い。
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 五 視覚(感覚から知覚への例)
 ①網膜→②視床→③大脳皮質・一次視覚野→④大脳皮質・側頭葉高次視覚野。
 01・光の受容—光受容細胞(錐体と杆体—「網膜」にある)
 02・双極細胞(「網膜」にある)
 03・神経節細胞(「網膜」にある)
  いずれも「複数」の情報を伝える。各間を媒介するのは「シナプス」。
 04・視床(大脳皮質内側)内の外側膝状体。03が長い「軸索」を伸ばして04の神経細胞(ニューロン)に「シナプス結合」する=「投射」する。
 05・後部大脳皮質(=後頭葉)内の一次視覚野。これの神経細胞(ニューロン)は、視野内の「円状の明暗には全く応答せず」、「特定の視野位置の特定の傾きの線に応答する」。
 06・多数の視覚関連大脳皮質領域の高次視覚野。「形」(顔・複雑な形の図形等)の知覚は側頭葉内の視覚関連皮質部位だが、「場所」の情報はここでは欠落する。
 xx この過程の「どこか」(05-06?)で、知覚対象の「事物・概念」が「選択」されている。「各感覚情報処理系とは異なる脳部位が知覚対象を選別している可能性もある」。
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2413/Paul Kalanithi,When Breath Becomes Air(2016)。

  この欄に主に英語文献の「試訳」を掲載している。「業」としての翻訳ではないから、正確さ、厳密さ、日本文としてのこなれ具合などに限界はあるだろう。もともと、一つの単語の和訳に一時間を費やすつもりはなく(一文章にそれくらいを要したことはある)、一つの文章に一日をあてるつもりも全くないのだ。
 気になるのは複数の英語書の「試訳」を並行させていて、いずれを優先させるべきか、確たる方針を持っていないことだ。複数の中には、Richard Pipes の二つの大著も含まれる(この人の書物で「試訳」をしてみたいものは、他にも3〜4冊ある)。
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  邦訳書として出版されているものの翻訳には、(他者を批判し罵倒する気はないが)原文の構造を残したような生硬なものもある。だが、白須英子という人の翻訳文は、とてもうまい(かつ意味内容を外していない)と感じたものだ。複数あるが、つぎは、その一つ。
 M・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上・下(草思社、1997)
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy -A History of Socialism in Russia 1917-1991(1994).
 また、医師でもあるようなのだが、田中文という人のつぎの邦訳書も、主題とも相俟って、なかなか心を打つ。原書も所持しているが、上手な翻訳だ。
 P・カラニシ=田中文訳・いま、希望を語ろう-末期がんの若き医師が家族と見つけた「生きる意味」(早川書房、2016年11月)
 =Paul Kalanithi, When Breath Becomes Air (2016年1月).
 この邦訳書から、一部を引用し、紹介する。
 著者は、ほぼ実質的に、Paul の妻だったLucy だ。
 二人とも医師で、「末期がん」で37歳で亡くなったPaul と妻のLucy のあいだには、まだ8ケ月の女児、Cady がいた。
 ***
 Paul の生前最後の文章は、こう訳されている。
 「未来を奪われることのない人がいる。
 私たちの娘、Cady だ。」
 「これからのおまえの人生で、自分について説明したり、自分がそれまでどんな人間だったのか、何をしてきたのか、世界に対してどんな意味を持ってきたのかを記した記録をつくったりしなければならない機会が幾度もあるはずだ。
 そんなときにはどうか、死にゆく男の日々を喜びで満たしたという事実を、おまえが生まれるまでは一度も味わったことのない喜びで満たしたという事実を差し引かないでほしい。…
 やすらかで、満ち足りた喜びだ。
 今、まさにこの瞬間、これ以上のものはない。」
 以下は、Paul の死の数日前からについての、Lucy の文章だ。
 「日曜の早朝、わたしがPaul の額をなでると、燃えるように熱かった。」
 「肺炎の可能性を考慮して抗生物質(antibiotics)の投与が開始されたあとで、わたしたちは家族の待つ家に帰ってきた…。
 でもひょっとして、これは感染(infection)ではなく、がんが急速に進行しているせいなのだろうか?
 その午後、Paul は苦しむ様子もなくうとうととしていたけれど、病状は深刻だった。
 彼が寝ている姿を見ながら、わたしは泣いた。
 居間へ行くと、義父も泣いていた。/
 夕方、Paul の状態が突然、悪化した。
 彼はベッドのへりに腰掛けて、息をしようと喘いでいた。
 はっとするほどの変化だった。
 わたしは救急車を呼んだ。
 救急救命室にふたたびはいっていくところで(…)、彼はわたしのほうを向いてささやいた。
 『こんなふうに終わるのかもしれない』(This might be how it ends)。」
 「病院のスタッフはいつものようにPaul を温かく迎えてくれたけれど、彼の容態を把握したとたん、忙しく動きはじめた。
 最初の検査の結果、医師らは彼の鼻と口をマスクで覆ってBiPAP で呼吸を助けることにした。」
 「Paul の血液中の二酸化炭素濃度は危険なまでに高く、呼吸する力が弱くなっていることを示していた。
 血液検査の結果から示唆されたのは、血液中の過剰な二酸化炭素のうちのいくらかは、肺の病変と体の衰弱が進行していくにつれて…蓄積していったということだった。
 正常より高い二酸化炭素濃度(carbon dioxide level)に脳が順応したために、Paul の意識は清明なままだったのだ。
 Paul は検査結果を見て、そして医師として、その不吉な結果の意味を理解した。
 ICU へ運ばれていく彼のうしろを歩きながら、わたしもまた理解した。」
 「部屋に着くと、彼はBiPAP の呼吸の合間に、わたしに訊いた。
 『挿管が必要になるだろうか? 挿管した方がいいだろうか?』」
 「BiPAP は一時的な解決策だと彼は言った。
 残る唯一の医学的介入はPaul に挿管(intubate)すること、つまり人工呼吸器につなぐことだった。
 Paul はそれを望んでいるだろうか?」
 「問題の核心」は「この急性呼吸不全を治すことができるかどうかだった」。
 「心配されたのは、Paul の容態がよくならず、人工呼吸器を外せなくなることだった。
 Paul はやがてせん妄状態(delirium)に陥り、それから多臓器不全(organ failure)をきたすのではないだろうか?
 最初に心(mind)が、次に体(body)がこの世を去っていくのではないだろうか?」
 「Paul は別の選択肢を検討した。
 挿管ではなく、『コンフォートケア(comfort care)』を選ぶこともできるのだと考えた。
 死はより確実に、より早くやってくるけれど。
 『たとえこれを乗り越えられたとしても』、脳に転移したがんのことを考えながら、Paul は言った。
 『自分の未来に意味のある時間が残されているようには思えないんだ』。
 義母が慌てて割ってはいった。
 『今晩はまだ何も決めなくていいのよ、Pabby。…』
 Paul は『蘇生を行わないでほしい』という意思表示を確定的なものにし、それから義母のいうとおりにした。」
 「ここに家を再現できないかしら?
 BiPAP が空気を送り込む合間に、彼は答えた。
 『Cady』。/
 友人…がすぐに家からCady を連れてきてくれた。
 Cady はPaul の右腕に居心地よさそうに抱かれ、そしてCady らしい無頓着さでご機嫌な付き添いを始めた。
 空気を送りつづけ、Paul の命をつないでいるBiPAPの機械など気にも留めずに、Cady は小さな靴下を引っぱったり、病院の毛布を叩いたり、にこにこしたり、喉を鳴らして喜んだりした。」
 「Paul の急性呼吸不全はがんの急速な進行によるものと思われた。
 血液中の二酸化炭素濃度はいまだに上昇しつづけており、挿管の必要を揺るぎないものにしていた。
 家族の意見は分かれた。」
 「わたしは、急速に悪化した彼の容態を改善できる可能性を少しでも信じているなら、そう言ってほしいと医師たちに懇願した。/
 『Paul は奇跡の大逆転にかけたいとは思っていません』とわたしは言った。
 『意味のある時間を過ごせる可能性が残されていないのなら、マスクを取ってCady を抱きしめたいと思っています』。/
 わたしはPaul のベッド脇に戻った。
 彼はわたしを見て、はっきりと言った。
 BiPAPのマスクの上の目は鋭く、その声は静かだけれど揺るぎなかった。
 『用意ができたよ』(I 'm ready)。
 呼吸器を外す用意が、モルヒネを開始する用意が、死ぬ用意ができたということだった。/
 家族が集まった。
 Paul の決意のあとの貴重な時間に、わたしたちはみんな、愛と尊敬を彼に伝えた。
 Paul の目に涙が光った。」
 「一時間後、マスクが外されてモニターが切られ、モルヒネの点滴が始まった。
 Paul の呼吸は安定していたものの、浅かった。
 苦しそうな様子はなかったけれど、わたしがモルヒネを増やしてほしいかと訊くと、彼は目を閉じたままうなづいた。…。
 そして、とうとう、Paul は意識を失っていった。」
 「Paul の両親、兄弟、義理の姉、娘とわたしは9時間以上、彼のそばを離れずにいた。」
 「親しいいとこと叔父、そして司祭が到着した。」
 「北西向きの窓から暖かな夕陽が斜めに差し込むころ、Paul の呼吸はさらに静かになった。
 寝る時間が近づくと、Cady はぽっちゃりとした拳で目をさすり、彼女を家に連れて帰ってくれる友人がやってきた。
 わたしはCady の頬をPaul の頬につけた。
 ふたりのそっくりな黒髪には同じような寝ぐせがついていた。
 Paul の表情は静かで、Cady の表情は不思議そうだけれどもおだやかだった。
 彼の愛する娘はこれが別れの瞬間だとは思ってもいなかった。」
 「部屋が暗くなって夜が訪れ、低い位置の壁灯が暖かな光を放つころ、Paul の呼吸は弱々しく、そして、途切れがちになった。
 体は休んでいるように見え、四肢に力ははいっていなかった。
 もうすぐ9時だった。
 Paul は目を閉じて唇を開いたまま、息を吸い、そして、最後の、深い息を吐いた。」
 死亡日、2015年3月9日。
 以上、邦訳書のp.227-8, p.237-p.246。挿入の英語は、原著によって引用者。
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2409/武者小路実篤・愛と死(1939年)とパンデミック。

  武者小路実篤の小説の「愛と死」(1939年、昭和14年)が終盤に入り、突然に主人公の運命を「宙返り」させることになった電報は、つぎの文章だった。電報カタカナ文を普通の文字に変える。
 「今朝三時、夏子流行性感冒で死す。悲しみ極まりなし。すまぬ、野々村。
 野々村とは死亡した夏子の兄で、これをシンガポールで受け取ったのは、欧州からの帰途にあり、帰国後に夏子と結婚することになっていた村岡。
 上にいう「流行性感冒」のことを、昨年に思い出した。
 武者小路実篤がこの小説を発表したのは1939年だったが、冒頭と末尾に、同じ「之は21年前の話である」との一文がある。
 つまり作者は、1918年(大正7年)にあったことの追想という形で、これを書いた。
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  1918年というのは(レーニン・ロシアが対独講和をして戦争から離脱したあとでドイツ側の降伏で第一次大戦が終わった年でもあるが)、3年間続いた「スペイン風邪」の世界的流行が始まった年だった。
 小説にいう「流行性感冒」は日本にだけ見られたのではなく世界的なもので、実際のそれは5000万人以上を死なせた、世界史的に最悪のパンデミックの一つだった、とされる。
 作者も別の箇所で「スペイン風邪」という語を出している。小説「愛と死」での夏子の死がこれを背景にしていることは疑い得ない。実篤自身の体験ではなくとも、当時に感染症で死亡した人々やそれによって引き裂かれた若い男女のことをを、おそらく彼は見聞きしていたのだろう。
 「之は21年前の話である」と記した後につづけて、作家は主人公・村岡にこう語らせて、小説を終えている。
 「しかし自分は今でも忘れることができない。そして人間と言うものは無常なものであり、憐れなものであると思ふのである。
 死んだものは生きている者にも大なる力を持ち得るものだが、生きているものは死んだ者に対してあまりに無力なのを残念に思ふ。」
 夏子はあまりにも気の毒だ。「しかし死せるものは生ける者の助けを要するには、あまりに無心で、神の如きものでありすぎると言ふ信念が自分にとってせめてもの慰めになるのである。
 それより他仕方がないのではないか。」
 身近な者の突然の死について、何らかの原因がある人物や組織の何らかのの「責任」を解明したり追及したりしようとする遺族等の心情を否定するするつもりは全くない。
 但し、如何ともし難かった病気や自然災害による死の中には、感染症による場合に限らず、上のような述懷に辿り着くほかはない場合もあると思われる。
 生者は他者の死によってときに大きな衝撃を受け、ときに大きな影響を受ける。だが、死者は無心で、無邪気だ。「呪い」も「怨念」も、「心残り」も、それらを感じるのは、生者に限られる。「慰霊」によって慰められているのは、死者ではなく、本当は生き残っている者だろう。
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  ところで、小説「愛と死」は、戦後の日本で、二度映画化されている。たぶんよく知られてはいないと思うので、この機会に記しておこう。
 ①1959年・日活<世界を賭ける恋>/石原裕次郎・浅丘ルリ子。
 ②1971年・松竹<愛と死>/新克利・栗原小巻。
 原作との違いが、いろいろとある。なお、前者には、裕次郎が歌った主題歌もある。
 ②は、武者小路実篤のもっと若いときの小説「友情」(1920年)と物語を合体させていて、この小説の主人公・野島が失恋した杉子の心を勝ち得た大宮がのちの小説の村岡となって、のちの小説での夏子を突然に失う。
 ①では欧州からの帰路の空港待合室で日本からの電報を読み、②では仕事で長期出張中の青森県八戸の下宿先で電報を読む。
 ①での死因は突然の病気のようだが、②では大学実験室に勤める夏子=栗原が実験中の爆発事故で死ぬ。
 欧州・日本、東北・東京と離れた二人が交換する手紙の基本的内容は(戦後に時代を変えているが、パソコンも電子メールもまだない)、原作と同様のようだ。
 映画としての「でき」は、物語をやや無理しているが、②の方がよい、と私には感じられた。
 以上。
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2386/反コロナ・ワクチンと「死亡」事例。

  Covid-19用ワクチン接種後の死亡例等の資料が発表されたり、その一部の事例をマス・メディアが取り上げたりしている。原田曜平も発信している。
 厚生労働省のホームページには、かなり詳細な資料(審議会・検討会等に関するもの)がネット上で公表されている。
 この資料をもとにしているとみられる、かつ信頼できるように思われる国以外の(ということは「私人」の)文章または記事によると、死亡例については、つぎのとおりだという(5月中のもので最新のデータによるのではない。個別には厚労省のHPを参照していただきたい)。日本についての数字だ。
 「5月16日までの接種後死亡報告は55件で100万人接種当たり12.6件、100万件接種当たり9.0件」。引用終わり。
 素人ながらおおまかに言って、10万人に対する接種で、死亡者1人強、10万件の接種で死亡件数は1件弱、というところか。
 この数字をどう評価するという問題はあるが、もちろん、ワクチン接種と「死亡」の間の因果関係は「分からない」のが、つぎのとおり、現状だ。
 厚労省自体の某検討部会ら(長いので省略)の報告文自身の文章によると、5月26日以降「死亡として報告された事例」が新たに54件あり、2月17日〜5月30日までに「報告された死亡事例は計139件となった」。
 そして、「専門家の評価」によると、139件全てが①「情報不足等によりワクチンと症状名との因果関係が評価できない」もので、②「ワクチンと症状名との因果関係が否定できないもの」と、③「ワクチンと症状名との因果関係が認められないもの」は、いずれも0。
 つまり、全ての事例で、因果関係は否定できないが、肯定もできない、ということになるだろう。
 かりに因果関係があるとしても、10万人・10万件につき、上記のとおり約1名・1件という数字をどう見るかという問題はある。
 因果関係が今のところ「認められない」以上、また上の数字のかぎりでは、ワクチン政策の基本的政策方針を変更する必要は認められない、という省・国の見解も理解できないわけではない。
 しかし、論理的にはおそらく、10万ではなく、100万人あたり1名、100万件あたり1件程度の「因果関係のある」「死亡例」はあるだろうと、合理的に?推定できそうに見える。
 100万分の1というのは、100分の1が1%なので、その1万分の1。計算?に間違いがないとすると、0.0001%だ。
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  ここで、こういう欄だからこそ敢えて明記しようと思うのだが、この程度の確率でワクチン接種によって「死亡する」人や件数が出るのは、関係研究者・専門家も、製造会社も、日本政府も、<予見>しているのではないか? 1名の死者も出さない、というのは綺麗事だ。
 そして、そのような「犠牲」が発生しても犠牲者とはならない大多数の人々の健康・生命についての「利益」(つまりは<公益>または<公共の利益>)の方が上回る、という比較衡量・価値判断を<心奥>では行っているのではないだろうか。
 それにまた、死亡者の中には高齢者・基礎疾患ありの者が多いか大多数だとすると、かりに因果関係があったとしても(そう証明されたとかりにしても)、ワクチン接種がなくともこの数年以内に何らかの原因で(老衰・多臓器不全を含む)死亡していた人がいた可能性もある(あくまで可能性の話なので実証ができるはずはない)。
 だが、どうせ死んでいたのだから、という理屈は、究極的にはヒト・人間はいつか死ぬのだから、たまたま早くなっただけ、という理屈?につながりかねない。そしてこの理屈は、とくにまだ健康だった人や若い人の「死亡」の場合に、その本人(意識・意思があったとして)や遺族が(ふつうの?遺族ならば)納得できるものではないだろう。100万人あるいは1000万人のうちの1人に、なぜ自分が、あるいは自分の家族がならなければならないのか? 「運が悪かった」で済むか?? 人生も世の中も、圧倒的に「運」に、あるいは「偶然」に支配されているとは言っても。
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  今回のワクチン接種のような<予防接種>による死亡・高度の後遺症の発生を理由とする、国を被告とする訴訟は一時期は相当に多く見られた。
 原因の一つは、予防接種法という法律が法律レベルで定めていた「補償金」の額が低額だつたことにあった。
 そして、重要な法的問題の一つまたは前提的法的問題は、国に(予防接種法という法律が定める以上の)「金銭支払い」義務が発生するとかりにして、それは憲法29条3項による<損失補償>か同17条・国家賠償法による、不法行為についての<損害賠償>かだった。
 立ち入ると、長くなる。
 この度は捲りもしないで書名だけを記すが、多数の論文や判例批評類以外の稀有な単著に、以下があった。
 西埜章・予防接種と法(一粒社、1995〕。
 最高裁判決も出て、上の基本問題については、いちおうの決着はついてる。
 しかし、かつての事例と今回の事例で大きく異なるのは、かつて訴訟にまでなった時代は接種が「強制」されていたのに対して、今回はタテマエとしては「任意」、つまり「同意」をしてワクチン接種を受けている、ということだ。
 <任意>・「同意」の存在にこだわっているように見える発言がときにあるのも、きっと、こういう時代的・制度的背景の違いがあるのだろう。
 だがしかし、「強制」と「任意」は、日本の行政、そして日本の社会一般、あるいは「私人」間の人間関係にもよくあることだが、つねに明瞭に区別できるだろうか??
 接種に「同意」していた、任意に接種されたのだから、「死んでも仕方がない」という理屈は成り立たないだろう。
 「死ぬ可能性をほんの僅かでも認識し、了解していたか否か」に結局はなるのだろうが、しかし、かりにそうであっても、「ほんの僅か」とは程度問題でもあるし、何と言っても、死者は何も語らない。
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  さらなる展開と詳論、最高裁判例の「理屈」の紹介を、機会があればするかもしれない。
 「死亡」事例を念頭に置いたが、むろんそこまでに至らないアナフィラキシー等の副反応のひどい場合もあり得る。
 

2372/音・音楽・音響⑥—ピタゴラス律。

  人間の耳は、または聴覚は、20Hz〜20000(20k)Hzの音しか聞き取れない、というのは、至極当然の指摘なのかもしれないが、戦慄を感じるほどに重要なことだ。
 つまり、皮膚の色、毛髪の色、眼球の色等々は人種・民族等によって異なっても、ヒト・人間であるかぎり、その基礎的資質には上のように限界が共通してある、ということだ。アジア人の方がよく聞こえるとか、欧米人は高い音がよく聞き取れるがアジア人は低い音をよく聞き取れる、といったことはない。男女差がある、という指摘も全くない。
 いつ頃からかよく分からないが、ヒト(ホモ・サピエンス)というものが成立した頃にはすでにそうだったのだろう。
 聴能力と同じようなことは、視覚、嗅覚等々や走る能力、跳び上がる能力、等々々についても言えるだろう。
 以下にすぐに名を出すピタゴラスは紀元前6-5世紀の人だから、今から3000年前の地球人はとっくに、現代人と同じような音についての(能力と)感覚をすでに持っていたことは間違いない。
 なお、20Hz〜20000(20k)Hz、というのは、おそらく最小限度と最大限度だ。
 すでに書いたように、88鍵のピアノの最低音(A0)は27.5Hzで、最高音(C8)は約4186(4.186k)Hzなので、低い方にはまだ7.5Hzあり、高い方にはまだ15kHz以上の余裕?がある。通常の音楽の世界では25Hz〜4500Hzの間の音を使うのできっと十分なのだろう。
 健康診断に「聴力検査」があることがあって、高低二つと左右二つの音を聞き取れるかが検査されるが、どうやら、低い音は1000 Hz=1kHz、高い音は4000 Hz=4kHzの高さの音らしい。20〜20000の範囲に十分に入るもので、おそらくは、ふつうの人間が日常生活を支障なく行える程度の聴覚の可聴範囲は、20〜20000ではなく、1000〜4000程度だ、と実際的には判断されているのではなかろうか。
 私の場合、20000=20kHzの音を発信されても全く聞こえなかった旨、すでに書いた。とくに聴覚障害が、私にあるわけではない。
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  すでに関連してきているが、以下で書くことは<音楽理論>とか<楽典>といわれるものに全くシロウトの者が書くことなので、専門家や詳しい人々は読まないでいただきたいし、間違ってもいても侮蔑しないでいただきたい。
 至極当然のことと考えられているのだろうが、オクターブが一つ上でも一つ下でも、あるいは何オクターブ上でも下でも、音は「同じ」と感じられている、というのは不思議なことだ。
 ピタゴラスや古代の中国等の人々も同じことにとっくに気づいていたと思われる。
 ピアノではA0からA7まで7オクターブ、C0からC7まで7オクターブ、同じAまたはCであれば、「同じ」に聞こえる。だが高さは全く同一ではないはずだ。しかし、「同じ」に聞こえる。
 これは それぞれのHz数が、ある音(基音)を基礎にすると、2倍、4倍、8倍、16倍…、あるいは2分の1、4分の1、8分の1、16分の1、…になっているからで、つまり、音の波動の形が最も容易または単純に(厳密にはたぶんほとんど)「重なり合う」からだ。
 ギリシアの人だと、弦の長さを2分の1にして爪弾くくと「同じ(ような)」音になる、4分の1の長さにしても同様、中国の人だと竹筒または木筒のの長さを2倍にして吹いてみると「同じ(ような)」音になる、4倍の長さにしても同様、と「発見」したのに違いない。
 彼らもまた、現代人と、そして私と、同じまたは全く似たような「聴覚」・「音感覚」を持っていたに違いない。不思議ではある。
 なお、「Hz・ヘルツ」は音の高さの単位だが、電波・電磁波についても使われる。1ヘルツとは1秒間に1回の振動数(周波数)のこと。20kHzとは、1秒間に20000回の周波数・振動数のことを意味する(周波数が多いと音は「高く」なる)。
 さらに余計ながら、このヘルツはHeinrich Hertz という19世紀のドイツの学者の名に由来する。この彼が「電磁波」を発見する研究をしたドイツのカースルーエ(Kahrsruhe)大学には、今でもこの人の像があるという。
 Kahrsruhe(ドイツ西南部)にはたぶん今でも連邦通常〔民刑事〕裁判所と連邦憲法裁判所が、ドイツ鉄道駅から市街地を東へ抜けた所にある緑地・公園そばにあって、若かりし頃に外から建物だけを見たのだったが、きっと近くにあったに違いない大学とヘルツには、当時は関心が全くなかった。
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  ようやく、<ピタゴラス音律>とか<12平均律>に触れそうになってきた。
 ピタゴラスという人は数字に関心が深くて、1+2+3+4=10というふうに、1から3回一つずつ加えていった数の合計が10になることにも面白さ?を感じらしい。なお、ボーリング遊戯でのピンの並べ方とその数は、前方から1+2+3+4=10で、正三角形のかたちになる。
 基音(周波数1某とする)から出発して、1オクターブ上ずつの周波数は単純に1,2,3,4,5,…と増えていくのではない、ということは重要なことだ。つまり、一つ前の音よりもつねに2倍ずつ増えていくのだから、1、2、4、8、16,…と増えていく。
 さて、ピタゴラスは、あるいは古代の東西の人々は、弦または竹筒・木筒(竹管・木管)の長さが1/2、1/4、1/8と短くなれば「一オクターブ」(にあたるもの)ずつ高くなり、2倍、4倍、8倍と長くなれば「一オクターブ」(にあたるもの)ずつ低くなるが、元の音ときわめてよく調和する、ということを気づいたはずだ。
 そのうえで、種々の「実験」を試み、複数の音が「よく調和する」場合、あるいは連続する複数の音(音階と旋律)の選択の仕方等について、いろいろと試行錯誤したのだろう。
 その場合に、音を出す道具(楽器)のうち長さで区別しやすい弦または竹筒・木筒(竹管・木管)を使って、長さを①3分の2にしてみる、②2分の3(=1.5倍)にしてみる、ということを先ずはしたのではないだろうか。
 この辺りすでにシロウト談義になっているが、1/2にすれば1オクターブ高くなり、2倍にすれば1オクターブ低くなるのだが、その中間にある最も分かりやすい数字は、2/3と3/2しかないだろうと考えられる。
 1/2と1の間に3/4があるが、この3/4は、上の3/2の2分の1で、3/2の長さで「実験」する場合と実質的には異ならない。
 また、1と2の間には4/3もあるが、この4/3は、上の2/3の2倍で、2/3の長さで「実験」する場合と実質的には異ならない。
 さて、「ピタゴラス音律」についての説明を複数の文献・資料で読んでみたが、すでに現在一般に使われている「平均律」、正確には「十二平均律」を前提とする説明の部分が多いようだ。以下でも、それらを参照する。
 一定の基音(1とする)を前提にして、周波数を3/2ずつ乗してしていく、そしてその結果が2を超える場合は2で除すことによって2以下の数字とする。あるいは、周波数を2/3ずつ乗してしていき(3分の2にしていくということだ)、2分の1未満になる場合は2を乗することによって、1/2と1の間の数字とする。
 これをそれぞれを3回ずつ繰り返すと、すでに現代に一般的な音階符号を用いると、それらに近い(決して同じではない)数字の周波数の音が得られるのだという。
 かりに基音をDとすると1回めの×1,5で(上の)A、2回目のその×1,5(1/2)でE、3回めのその×1.5(1/2)でB。
 同じくDを基音として、1回目の×2/3(×2)でG、2回目のその×2/3(1/2)でC、3回めのその×2/3(×2)でF。
 これで現在にいう「全音」(白鍵)のA〜G、または C〜Bの7個(に近いもの〕が揃うことになる。
 上はDを基音としているが、C(ハ長調のド)を基音として(1として)音階を並べると、つぎのようになる、という。()内は、1に対する周波数の比。
 C(1)-D(9/8)-E(81/64)-F(4/3)-G(3/2)-A(27/16)-B(243/128)-C(2)。
 これは、分母に64や128が出てきて細かいようだが、その他のものも含めて、基音の3/2倍、2/3倍の各周波数という、古代人でも(楽器の長さを使って)発生させやすそうな音階だった。その意味では、原始的かつ最も人間的だつたとも言える。
 しかし、つぎの欠点、問題点があった、という。
 ①×3/2や×2/3を無数に繰り返していくと、いくら1/2や×2を使って調整しても仕切れない、つまり完結しない(元のいずれかに戻らない)。
 ②各音階の間が一定しない。
 しかし、この点は、現在でいう二つの「全音」間は上の数字によると全て9/8、「半音」と「全音」間(つまりEとFの間、BとCの間)はいずれも256/243なので、一貫しているとも言える。但し、後者は前者の半分(全音間の半分の17/16)ではない。
 上の②の但し書のような問題があると、今日でいう「転調」は、原則としてできなくなる。
 --------
  そこで、「純正律」が現れ、そして「十二平均律」が現れた。
 これら、とくに後者に立ち入ることは今回はやめて、つぎのことだけを記しておこう。
 現在の音楽や音階上の「理論」では、おそらく「12平均律」が絶対視され、これを前提とする楽譜が書かれているものと思われる。演歌も、ジャズも、パラードも、等々全てそうだ。たぶん一定期以降の<クラシック>という西洋音楽に由来しているものは全てそうだ(但し、「君が代」も12平均律による楽譜で表現できる)。
 しかし、「理論」上絶対的に「正しい」と言えるようなものではなく、歴史的に、人間界(音楽関係者)の便宜が積み重なって、いまのような形になったものと思われる。
 なぜ、1オクターブを12で(再来する元の音階を含めると13だが、間の音階は12)で区切るのか。そう問われて、誰も「正しく」は回答できないのではないか。
 それに、ピアノに特有のことだが、なぜ全て白鍵ではなく5つだけ黒鍵なのか、なぜEF間、BC間だけ半音なのか、という素朴な疑問も湧く(全て白鍵では幅が長くなり過ぎて、両手でも届かないから?)。
 現在でも独特ないし特有の音階というのは一部残って使われているようだが、全世界的な「12平均律」の圧倒的優勢は崩れないだろう(しかし、1000年後のことは分からない)。
 したがって、その約束事に従って「理論」を勉強する必要も出てくる。和声・和音学とかコードとか(テンションとか)、長調・短調の区別とか、あれこれの「冒険」はあってもおそらくは全部そうだろう。
 ——

2358/古田博司·ヨーロッパ思想を読み解く(2014)②。

 一 古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)をまた読了していないが、同・使える哲学(Discover21、2015)とともに、重要な基礎概念または範疇は、つぎだ。
 「向こう側」と「こちら側」。そして、この区別と異なる、「この世」と「異界」等。
 そして、「向こう側」と「こちら側」の区別が厳密にはつき難いことは、古田も当然に意識しているだろう。
 それにしても、何とか意味をそれなりに理解してみたいところだ。
 歴史通2016年3月号(ワック出版)に、上の後者の2015年著の紹介らしき記事がある。p.134。この記事は、こう書く。
 <西洋の「向こう側」はあくまで「この世」に属し、「五感では感じられない」が「『こちら側』の根拠になるようなもの」。
 「化学式やDNAのらせん構造がそれにあたる」。
 「イデア」こそ、まさに「向こう側」のこと。
 「イギリス哲学的思考」はこの「向こう側」へと「超え出る」もので、「近代科学を生んだ」。
 「ドイツ哲学」はこれに何ら貢献せず、「近代の終焉とともに無用になった」。>
 ---------
  ①顕微鏡(・望遠鏡)、レントゲン検査、CT とかMRI とかは、「五感」を延長したもの、ということになるのだろうか。そうだとすると「こちら側」もその範囲は可変で、広くなっている。
 だが、これらの作製にも、結果の解析・分析にも、「向こう側」の研究成果がたぶん必要なのだろう。
 ②古田のドイツ哲学批判は、上の前者でも厳しい。
 おそらく、ニーチェなどは全く評価していないだろう。ニーチェはドイツの哲学者だが、そもそもカントもヘーゲルも幾分なりとも継承しているように見えない。よく言えば<屹立>している、悪く言えば、<独りで勝手に喚いている>(ようなイメージがある)。
 したがって、ニーチェから強い影響を受けたと自認している西尾幹二(+西尾が書いたもの)を、古田博司はほとんどか全く(積極的・肯定的には〕評価していないのではないか。
 --------
  上の歴史通2016年3月号の記事は、「編集部のこの一冊」という表題が右上にあったりするので、編集部が書いたようでもある。
 だが、古田著やその基礎概念を簡単にまとめるのは容易ではないだろう。
 大胆に推測すれば、筆者である古田博司自身が、執筆している
 ところで、無署名で裁判例を理解するための解説文を判決そのものの文章より前に置くことは、民間の判決例掲載雑誌の<判例評論>や<判例タイムズ>でも見られる。いくつかのまたは重要な最高裁判決については、当該事件を担当した最高裁調査官が(アルバイトで?)執筆しているともいわれる(ほとんど同じまたは類似の文章が、のちに公式の最高裁調査官解説本に出ることもある)。
 最高裁判決ではないが、ある地裁判決の掲載時にその「解説」または「前置き」文を、無署名で執筆したことが、秋月瑛二にも一回だけある(報酬=原稿料は出た)。
 ——

2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。

  No.2317/2021.03.20にピアノ(88鍵)の鍵盤ごとの音の高さをHz単位で記しているが、有力または定説とみられる情報に従っている。
 絶対音階でのAはA0が27.5であるのを除いて(A1〜A7は)全て整数だが、これはAだからで、他の音はこんなに単純ではない。最高音のCは約4186Hz=4.186kHzだが、正確には端数がつく。
 A4=440Hzで、これが「音叉」の音の高さだと思われる。
 もっとも、ピアノ調律師はこれよりも少し高めに設定することがある、と何かで読んだことがある。また、交響楽団等々によって一定していない、ともいう。
 音には高さだけではなく、強さ(大きさ)や「音色」もあるから高さだけが重要であるのではないが、A4が周波数440Hzと決められているならば、周波数計を使って厳密に設定すればよいのではないか、と素人は考える。音は高さだけではないが、そうすると調律師という職業は要らなくなるだろうか。
 そうはいかないのが、ヒト・人間の感覚・感性に関係する音楽のむつかしい、または微妙なところだろう。
 ところでピアノ(またはバイオリン等)の一台(一本)だけならばどのようにでも?設定すればよいが、多数の楽器で演奏する場合、事前の音程の調整は決定的に重要だろう。リハーサル(Rehearsal)とは、きっと、まずはこのためにあるのだろう。
 余計な追記。ピアノではA0〜A7以上の音域があり、その他の楽器も高い音・低い音さまざまのものがあるのに、なぜ楽譜には、ト音記号のものとへ音記号のものしかないのか。合唱曲用のソプラノとテノールでは(アルトとバスも)同じ高さを示す楽譜を使っているのは奇妙で、女声と男声では、一オクターブ程度の差が本当はあるのではないか。あるいは、オーケストラの全ての楽器について、同じ高さまたは同じ基本音階を示す楽譜が用いられているのか?
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  <Yoasobi(よあそび)>、<Ado(アド)>のいくつかの歌・曲をYouTube で(見つつ)聴いた。曲名やら歌手名やら分からないのが、いつの頃からか多くなった。
 とりあえずこの二人(二組)について、嫌いだ、受けつけられない、ということは全くない。私にはテンポがやや早すぎ、リズム打ちもやや落ち着かないけれども。
 だが、とくに感じるのは、<Ado(アド)>という若い女性の声質と歌唱力だ。テレビによく出ているらしい下手な女の子グループよよりも、数段、いやはるかに声質がよくて、上手いだろう。
 (ところで、この人たちの歌と詩を聴いていると、全く余計ながら、西尾幹二は150年前に生きているのがふさわしい人物だ、と思えてくるのだが。)
 You Tube で(見つつ)聴いたといえば、Nataliya Gudziy がカバーしている<防人の詩>(原曲・さだまさし)はすこぶる印象的だった。
 私の世代だと、いや私に限れば、やはり小椋佳の、広くは知られていないいくつかの曲になお惹かれるところもある。比較的最近に知ったまたは意識した小椋佳の(よい)歌・曲に、つぎの二つがある。
 ①冬木立(初出1978年、小椋佳/作詞・作曲)。
 ②忍ぶ草(初出1978年、同上)。 
 確認してみると、何とYouTube上に二つともあった(すごい)。
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  バイオリンのIzhark Perlman のCDでユダヤ民謡を知ったあと、それに関してあれこれとYouTube を検索していたときだと思うが(それ以外に考えられない)、ロシア民謡とされるつぎの歌・曲を知った。
 Dmitri Hvorostovsky という人が歌っていた。まず感じたのは、歌・曲自体ではなく、この人の歌唱力のすごさだった。バリトンで、このクラスの音量と力強さ、口腔内・体内での響きをもって歌っている人は、日本のテレビでは見聞きしたことがない。バリトンのプロ歌手にはいるのかもしれないが。
 次いで、歌・曲自体に惹き込まれた。私好みの(よく聞けば単純素朴な旋律の)いい曲だ。
 先走って書けば、観たYou Tube上のタイトルは、つぎだ。
 Marvellous: Listen to the most popular Russian song for the last 45 years -Cranes.
 ロシア民謡とされ、上の末尾がタイトルで、(The)Cranes〔鶴、つる〕という。ロシア原語では、<Zhuravli>。
 ロシア語は分からないが、字幕で出てくる英語によると、これは主には戦死者を偲ぶ歌だ。
 やはり(?)、短調ミ始まりだ。
 いろいろと情報を探ってみた。種々考えさせられ、感じるところもある。第二次大戦の勝者・ロシア(ソ連)の<民謡>となっている曲であり、ロシア人の「愛国」の歌だろうからだ。
 しかし、戦死者だけではなく、あるいは戦争と関係なく、母国・祖国に生まれて死んでいった、全ての人々を思い出している(そして自分もいつか死ぬよ、と彼らに告げている)歌だと理解することは不可能ではない。
 二通り以上の英語字幕を見たことがあり、別情報では英語の「定訳」もあるというが、上記のYouTube 欄上に出ている英語字幕から、歌らしくなるように?訳してみよう。試訳であり、私訳。
  +++
 「血なまぐさい平原から帰って来なかった、
  兵士たちは、故郷の土に横たわっていない。
  白いつるに変わったのだと、私はときに思う。
  あの遠い時空からやって来て、つるたちは飛び、私は声を聞く。
  あまりにもたびたびで、とても悲しそうだからか、
  私はふと立ち止まって、静かに天空を見上げる。
  ***
  疲れたつるたちが、群れをなして飛ぶ。
  霧の中を、空の端へと飛んでいく。  
  その列の中に、小さな隙き間がある。
  たぶん、あの隙き間は、私のために空いている。
  その日がいつか来るだろう。あのような群れに入って、
  私は、同じ青灰色の霞の中を飛び、
  鳥のように、天空から語りかけるだろう。
  地上に残る全ての人々に対して。
  ***
  血なまぐさい平原から帰って来なかった、
  兵士たちは、故郷の土に横たわっていない。
  白いつるに変わったのだと、私はときに思う。」
 --------
  さて、この曲には特定の作曲者・作詞者がいるらしい。
 D. Hvorostovsky だけが歌っているのでもない。ロシア民謡と言っても、さほど古いものではなく、1968年頃に作られたようだ。
 これらの詳細は省略するが、一点だけ、書き記しておく必要がある。
 この「つる」というのは、広島の平和祈念公園にある「原爆の子の像」の<折り鶴>と関係がある、という情報がある。たしか英語の情報だ。
 再確認しないで書くと、たぶん広島を訪れた作者(作詞者・作曲者)が、<折り鶴>を織りながら死んでいった少女(2歳で被曝、12歳で発症、13歳で死亡)の話を聞くか、またはそれをもとにすでに築造されていた「像」の下の折鶴を見てからその物語を知って、inspire されて(つまりinspiration を得て)<つる>を用いる歌・曲を作った、というのだ。
 まんざら虚報とは思えないが、そんな話は日本では聞いたことがないし、そもそも上の「つる」というロシアの歌自体が、ほとんど全く知られていないだろう。
 ——
 D. Hvorostovsky 。この人自身、50歳代でもう亡くなっている。1962〜2017。


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2342/思い出す人々①—団まりな。

 団まりな(本姓・惣川)に最初に逢ったのは、このブログを始めるよりもかなり前だった。敬称省略。
 亡くなっていることを知ったのは2019年11月に彼女の書物に言及する際で、ネット上でだった。団(惣川)まりな、1940年-2014年。享年75。
 死亡の原因等は私には分からない。
 ——
 ある所に入っていくと、先に私を認識したらしい彼女が少し近づいてきて、「惣川です」との挨拶を受けた。
 そのときの微笑み方はずっと変わらなかったように思う。
 ネット上で写真を探していたら、若いときの茂木健一郎と並んで立っている写真があった。その写真よりもずっと穏やかで優しい印象が(私には)あった。
 →No.2080。 →No.2083。
 別のある人が、三井・団一族だ(その血をひいている)、ハーフかクォーターだと言っていたので記憶にとどめたが、これらをとくに意識することはなかった。
 あらためてネット上で確認すると、団琢磨の孫、団伊玖磨とは従兄妹の関係。父親は団勝磨、母親はジーンといったらしい。いわゆるハーフだった。
 両親が日本人だとして、何ら疑わなかっただろう。日本で生まれ、育ったからでもあるに違いない。あの微笑みも、優しい日本女性と何ら変わりなかった。むしろ、より誠実そうだったかもしれない。
 但し、よく思い出すと、眼(眼球)の色が両親を日本人とする人と少し違っていたかもしれない(彼女も日本人だったのだから、奇妙な表現だが)。
 家庭のこと、(惣川という)夫のこと等は全く知らなかった。話題にもならなかった。
 上記の二点も、特段に意識したことは全くなかった。眼の色などは全く。
 千葉県を旅行していたとき、明確に、この辺りに「惣川先生」は住んでおられるのだなあ、と意識したことがある。
 おそらく最初に貰った年賀状に、千葉県のその住所が書かれていた。少し調べて思い返してみると、彼女の存命中に、付近の国道か県道をバスで通過している。
 たぶん最後の年賀状だったのだろうか、全ての手紙・ハガキ類を「生前整理」で処分しているので手元にないが、かなり長く残していた10数枚のうちの一つが彼女の年賀状だった。
 今年になってから廃棄したそれには(こんな文章を書く予定はそのときはなかった)、「〜たちは、〜です。ふぅ。」と余白に手書きで書かれていた。
 「〜」を正確に思い出せないが、意味は分かった。今でも、おおよそは分かる。
 「ふぅ。」という言い方も、彼女らしいと思える。
 いい人で、優しい人だった(私には)。当方の不十分さ、至らなさをむしろ思い出すこともある。
 別のある所で5-6人で食事したとき、私の正面に座っておられたのが「惣川先生」だったと思い出す。きっとあのときが、最後に逢ったときだった。やはり、微笑んでおられた。
 あの人のことだから、<細胞には意思がある>という表現の仕方も、私には(他の一般読者よりも少しは)よく分かるのだ。
 みんな、いずれ死んでいく。いい人も、必ずしもそうではない人も。
 **

2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。

  Felix Mendelssohn,Violin Cocerto in E minor, op.64.
 この曲の以下のCDが増えた。Mullova、Perlman のViolin 演奏のものは、前回記したのとは指揮者・楽団等が異なる。一番下はCDではない。
 Anastasia CHEVOTAREVA, Russian SO, Yuriy Tokachenko, 2003
 Viktoria MULLOVA, O Revolutionnaire et Romantique, John E. Gardiner, 2002
 Itzhak PERLMAN, Concertgebouw O, Bernard Haftink, 1984
 Itzhak PERLMAN, Chicago SO, Daniel Barenboim, 1995
 Akiko SUWANAI, Czech PO, Vladimir Ashkenazy, 2000
 *YouTube* Natsuho MURATA, 2018
 *下はViktoria Mullova とAnastasia Chevotareva のCDジャケット。

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  旋律の記憶はあったが、最近に、この人のこの曲かということを初めて知った曲・旋律がいくつかある。Khachaturian、Sarasate、Saint-Saens らの曲・旋律ならすでに知っていたが。
 下の()は所持するCDの指揮者・演奏者等。
 ①J. S. Bach, Toccata and Fugue BMV565.(Seiji Ozawa, Boston SO)
 ②F. Schubert, Serenade=Ständchen.(Teiko Maehashi など)
 ③J. Brahms, Hungarian Dances, #1, #4, #5 (O. Suitner, Sttatskapple Berlin など)
 ④Rachmaninov, Piano Concerto, #2.(Nobuyuki Tsujii, Y. Sado, Deutsche SO Berlin など)
 この④だけは冒頭でなく、Piano のソロ部分の後の合奏の冒頭の旋律。これは短調ラ(A)から始まる。
 ①〜③はいずれも、短調ミ(E)始まり(Jewdish Melodies の「ユダヤの母」も同様)。
 ②と③のとくにNo.4 は、気づいて良かった。いかにも「美しい」と(私は)感じる。
 いずれも三連符で始まる。EEE,EFE,FD#Eのいずれかの三連符で始まり、Aに上がり、再びその三連符に戻ってつぎはBに上がるというのはよく使われている小旋律だ。上の二つはこれには該当しないが。
 三連符の多用が印象的な日本の歌謡曲類に、石川さゆり「津軽海峡冬景色」(作曲・三木たかし、1977)、井上忠夫(大輔)「水中花」(同作曲、1976)がある。この二つも、短調ミ(E)始まり。
 なお、J. Brahms, Hungarian Dances, No.4 は、つぎと感じがよく似ている。
 A. Dvorak, Slavonic Dances, op.72, No.2
,  --------
  「音楽」は、ヒト・人間が聴くことができないと、まず意味がないだろう。
  「音」は「音波」を聴覚・聴神経が「感じる」または「受容する」ことで、人間に「聞こえる」。
 眼・大脳の関係と同じらしいのだが、それによると「耳」(とくに鼓膜)に入り「聴神経細胞」を通って「大脳」(の一部)まで達するまでに一瞬の時間差があって、あまりに速いので「同時に」聞いていると「錯覚」している、ようでもあるが、正しくはそうではない。「聴覚」による感知と大脳による感知は、絶対的に「同時」に発生するらしい。
  「音」には大きさ(=強さ)、高さ、音色の三要素がある。前二者を除いて「音色」という場合と、全部を含めて「音色」という場合があるらしい。
 「音」の大きさ・強さは音波の圧力の差異で、波形図の振幅が示す。ヒト・人間が聴くことができる大きさ・強さの程度の範囲がある。他の動物とは異なる特性がある。
  「音」の高さは、音波の振れ方の密度で、波形図の波の密度が示す。周波数とも言う。単位にはHz(ヘルツ) が用いられる。 
 ヒト・人間が聴くことができる高さ・低さの範囲がある。
 むろん個体により一律ではないが、およそ20Hz〜20kHz(20000Hz)であるらしい。上を16kHzと書く書物もごく一部にある。
 ネット上にいくつかの高さの音を発生させるサイトがあったが、私は10kHzの高さの音を聴けなかった。無音に感じた。
 といっても難聴の部類にたぶん入らない。
 88鍵のピアノの最高音は4186Hz余=4.186Hz余らしいので、かりにピアノの最高音を含む曲の演奏を聴いても、楽々と?聞けるだろう。もっとも、ピアノの最高部のカタカタを含む曲はあまりなさそうだ。
 個体差はあるとしても、およそ20Hz〜20kHz(20000Hz)または20Hz〜16kHz(16000Hz)の間の高さの音しか聴くことができない、というのは不思議なことだ。ヒト・人間に特有なことで、超高周波・低周波数の音を聴く動物もいるらしい。 
 自然界には上の範囲に入らない高さの「音」もある。ということは、客観的には音が鳴っていても、人間が主観的には?「認知」・「感知」できない音がある、ということを意味する。
 これは、面前の物体(絵画でもよい)を「見て」いても、その細部の認識の程度には限度があるのと同じだろう。どんなに凝視しても、区別できない細部、あるいは「高細部」がある。PCのディスプレイの縦横のドット数を100万とか1億とかにしても(技術的に可能でも)、たぶん無駄だろう。つまり、人間にとっての実益、実用性がない。
 4kテレビとか4kモニターとかいうのは、横縦3840x2160画素の「解像度」をもつことを意味するらしいが、この横が7680とか15360、30720(3万超)になって、ふつうの人間(の視覚・視神経)はどの程度精細に見分けられるのか、という問題だ(むろんテレビ画面・モニター画面の大きさにもよる)。
 同様のことは音の高さにもあって、上記の範囲の限界域では聴こえないか、聴こえても同じような高さ・低さの音としか感知・感覚できない場合がきっと多いに違いない。
 個体差が厳密にはあっても、人類はほぼ同じ、一定の範囲内という意味で同じ、というのは、当然のことかもしれないが、新鮮な驚きでもある。
  1オクターブ上とか下とかいう。この1オクターブというのは、周波数(密度)を2倍にしたり2分の1にした場合の、元の音との間隔をいう。
 2倍にすると高くなって、1オクターブ上、2分の1にすると低くなって1オクターブ下。
 どんどん2倍を掛けていったり、どんどん2分の1ずつにしていくと、オクターブ(の基礎音)が変化する。
 不思議なことだが、実際には2とか2分の1、あるいはこれらの乗数の違いがあり、「高さ」は変わっても、同じオクターブ(の基礎音)上にあれば「同じ(高さの)ような音」と感じる(正確には、感じる、らしい)。
 下のド、上のド、そのまた上のド、調和して響きあって、同じ音のように感じる。これは周波数の比が最も単純な2によるためで、音波の波形に共通性・一致性があるからだろう(だが、完全に同じ音ではない。そもそも高さが違う)。
 この1オクターブの間をどう区切るか。
 現在一般的になっているもの(ド・レ・ミ…・ラ・シ・ド)にはいろいろな理屈があるようだが、偶然的な要素もあるのではないかと思われる。
 ラ・Aかド・Cが基礎音とされることが多いだろうが、88鍵のピアノでは7オクターブ余の音(または音階)を弾けるようだ。なお、88÷7=12+4。
 低い方から1オクターブ上の音の周波数(Hz)を、以下に記す。最初は最下のA(ラ)から始まる。すでに触れた可聴範囲の、20Hz〜20kHzの範囲に十分に入っている。
 27.5、55、110、220、440、880、1760、3520(=3.52k)。
 黒鍵を含めてあと3つの音程の音があり、88鍵のピアノの最高音は、上で少し触れたように4186余Hz=4.186k余HzのC(ド)。
 白鍵だけだとなぜA〜G(C〜上のB)の7音で、なぜ黒鍵を含めて12音(7+5)なのだろうか。1オクターブは、どうしてこのように(正確にはピアノでは)区切られるのだろうか。全てが理屈・理論らしきものではなさそうにも思える。なお、88÷12=7+4。
  以上の全て、全くの素人が書いていることだ。よって、「そのまま信じて」はいけない。ここでいったん区切る。
 **

2300/Mendelssohn,Violin Cocerto in E minor.

 昨年から本当にしばらくぶりに、Classic を聴き始めた。イアフォン類によるのではなくして。
 音、音楽や聴覚(聴神経)と「感情」・「情感」等について、いろいろと感じ、考えさせられるところもある。
 すでに知っている曲のうち、つぎのものは10種以上のCDが集まった(作曲者全集、演奏者全集、ジャンルによるものなど収載の仕方は多様)。
 短調のミ(相対音階)始まり、という私の好みの条件を充たしている。
 **
 Felix Mendelssohn,Violin Cocerto in E minor, op.64.
 (F・メンデルスゾーン=ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64番)
 —
 左から順に、Violinist、演奏楽団(P,O,H,Sは略語)、指揮者(conductor,Dirigent)、演奏または録音年。CDかSACD等かの音質の違いがあるが省略。
 Leland CHEN, Royal PO, Jane Glover, 1995
 Midori GOTO, Berliner PH, Maris Jansons, 2003
 Augustin HADELICH, Norwegian Radio O, Miguel Harth-Bedoya, 2015
 Hilary HAHN, Oslo PO, Hue Wolff, 2002
 Jascha HEIFETZ, Boston SO, Charles Munech, 1959
 Lanine JANSN, Leipzig GewandhausO, Riccardo Chailly, 2006
 Teiko MAEHASHI, Tonhalle O Zürich, Christoph Eschenbach, 1993
 Nathan MILSTEIN, Swiss FestivalO, Igor Markevich, 1953
 Nathan MILSTEIN, Wiener PH, Claudio Abbado, 1973
 Viktoria MULLOVA, Boston SO, Seiji Ozawa, 1990
 Anne-Sophie MUTTER, Berliner PH, Herbert Karajan, 1981
 Anne-Sophie MUTTER, Leipzig GewandhausO, Kurt Masur, 2008
 Itzhak PERLMAN, London SO, Andre Previn, 1973
 Sayaka SHOJI, OP Radio France, Myun-Whun Chung, 2005
 Kyoko YOSHIDA, O Ensamble Kanazawa, Seikyo Kim, 2002
 **
 全体・全楽章をじっくりと聴いて比べてみようと思うが、Heifetz は早すぎる。ASM=Anne-Sophie Mutterのどちらかは少し遅すぎる。Violin の音が弦に応じて細すぎるのと適切に力強いのとがある。日本人女性(五嶋みどり、庄司紗矢香ら)もしっかり弾いているが。Violinと楽団のバランスも重要だろう。
 ただ、演奏・録音は一回きりだし(録音用でなければ前者はやり直しできないはずだ)、録音の時期・細密さの程度、再生機器の能力・状態(PCへのrippingの態様も)、聴く者の精神・心理・身体条件によって、同じ構成者による演奏でも全く同じにはならない(同じには聴こえない)。これまた音楽の再生と鑑賞の微妙に不思議なところだ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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