秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/12

2972/R. Pipes1994年著—第1章③。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime(1994年).
 「第1章・内戦:初期の戦闘(1918年)③。
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 第一節/赤軍が勝利した理由②
 (10) 反ボルシェヴィキの軍隊は、ふつう、「白」軍(Belye)または「白衛」軍(Belogvardeitsy)として知られる。共産党員たちが対立者を非難するために作った形容詞は、彼らにもそのうちに受け入れられた。
 白は、むろん、ブルボン家の紋章であり、フランスの君主制主義者の旗印だった。
 ボルシェヴィキは、1790年代のエミグレがそうだったように、対立者の狙いは君主制を復活させることだ、という印象を与えるために、この語を用いた。
 現実には、いわゆる白軍のどれ一つにも、目標として掲げた中に、ツァーリ体制の復活はなかった。
 白軍の全てが約束したのは、ロシアの民衆に、自分たちの政府の形態を自由に決定する機会を与えることだった。
 最も強力な勢力である義勇軍は、ロマノフ王朝の紋章の黒、オレンジ色、白ではなく、民族的な白、青、赤を選んだ。(注06)
 そして、その代表曲(anthem)としては、「God Save the Tsar」ではなく、Preobrazhenskii 防衛連隊の行進曲を用いた。
 義勇軍の創設者かつ指導者たち—三人ともに農民が出自のAlekseev、コル二ロフ、Denikin の各将軍たち—は、ニコライ二世への敬愛を何ら示さなかった。Alekseev は、ニコライの退位を説得するに際して決定的な役割を果たしたのだった。(注07)
 白軍の将軍たちは、原理の問題としてのみではなく、実際的な理由からも、君主制の復活を拒否した。君主制復活は、全ての皇位継承候補者が殺害されているか政治から引退しているかのいずれかだったので、実現が不可能だった。(脚注3)
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 (脚注3) 典型的だったのは、Nikoiai Nikolaevich 大公の反応だった。この人物は、帝室内で最もよく知られていて、1918年に引退してクリミアですごしていた。
 白軍を引き受けつもりはあるかと尋ねられたとき、彼は、責任回避的に反応した。
 「私は、ニコライ一世の死の直後に生まれた。私と私の教育の全体は、彼の伝統の中で形成された。私は、服従し、命令することに慣れている兵士だ。今では服従すべき者はもういない。ある状況のもとでは、誰かに従属することを自分で決定しなければならない。誰かに、例えば、そのように言われればだが、総主教(Partriarch)に」。「Otry
viki iz dnevnika kn. Grigoria Trubetskogo」, Fenikin Papers, Box 2, Bakhmeteff Archive, Rarebook and Manuscript. Library, Columbia Uni., p.52, Cf., Denikin, Ocherki, IV, p.201-2.
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 いくぶんかロマンティックなGolovin 将軍の見方では、白が全てのスペクトルの色の総体だという意味においてのみ、運動は「白軍」だった。彼によれば、ロシアの白軍に活気を与える精神は、1792年にフランスに押し寄せた反革命勢力の精神ではなく、ナポレオンを登場させた革命軍の精神だった。(脚注4)
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 (脚注4) N. N. Golovin, Rossiiskaia kontro-revolutsiia(Tallin, 1937),Book 9 p.93; Book 5, p.65. 同時に指摘しておくべきなのは、内戦の後半の段階で白軍で闘った将校たちは、ますます又は部分的に、狂信的にすら、君主制主義者になった、ということだ。このことは、白軍に随行していた外国人、例えば、1919年にKolchak 軍の首都だったOmsk にいたJohn Ward 大佐によって観察された。
 彼はこう言う。「ロシアの将校はほとんど一人の人物への忠誠主義者」で、「君主制原理に子どものように執着している」。John Ward, With the “Die Hards” in Siberia(London, 1920), p. 160.
 しかし、この問題を扱う際、我々は、1919年にこの国の一般民衆は、2年前にそうだったようには君主制に対して消極的な気分だった、と理解してはならない。その2年前、レーニンは、この国に君主制に忠誠な者の気分が復活することを怖れて、ニコライ二世の処刑を命じ、1918年夏にロマノフ王朝のほとんどの者たちに対して同じことをした。
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 (11) ウラルの穏やかな丘陵を除いて広大な平原で闘われたロシアの内戦は、西部で1914〜1918年に展開された戦闘とはほとんど共通性がなかった。
 こちらには、決まった前線というものはなかった。
 兵団は主として鉄道路線沿いに動き、占拠されていない広大な領域をそのままにした。
 全てが流動的で、諸部隊は後方にではなく、戦場の付近で形成され、ほとんど訓練されないままで戦闘に投入された。(注08)
 部隊は突然に出現し、同じように突然に解体し、消滅した。
ばらばらになり、秩序のない暴徒へと解体した。
 前線は、わずかしか維持されなかった。数千人の兵団でなる分隊(devisions)が200キロメーターの距離の前線を防衛する、「旅団」(brigades)には数百人しかいない、といったことは異例ではなかった。(注09)
 非正規の部隊は、敵の前で逃亡し、少しのあいだだけ戦闘し、そして、もう一度、攻守を変更したものだ。
 捕えられている数万人の赤軍兵士は、白軍に組み入れられ、昨日までの仲間と戦闘するために派遣されることになる。
 Wrangel の退避のあとで捕えられた白軍の捕虜は、赤軍の制服を着せられ、ポーランド人部隊と闘うよう配置された。
 ごく一部の献身的な義勇兵を除いて、両軍いずれの兵士は、何のために闘っているのかが分からず、しばしば最初の戦闘のときに、脱走した。
 情勢は流動的だったので、戦闘の経緯を図式的に叙述するのは、ほとんど不可能だ。つぎのような事情が加わるので、なおさらそうだ。主要な戦闘部隊のあいだや背後に、諸々の独立した部隊がいた。「アナキスト」、「緑」、「Gregorivites」、「マホヌ派」(Makhonovites)、「Semenovites」の部隊だ。さらに、独自の目標をもつその他のパルチザン。
 内戦の前線の地図のいくつかは、Jackson Pollock の絵画に似ていた。白、赤、緑の線があらゆる方向に走り、かつ無原則に交差していた。
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 (12) 赤軍は内戦に勝ち残ったために、その勝利は優秀な指導力と積極的な士気が理由だった、と叙述したくなる。
 主観的な要因は、疑いなく結果に影響を与えた。しかしながら、軍事的均衡を吟味するならば、決定的要因は客観的性質のものだった、ということが分かる。(脚注5)
 状況は、アメリカの内戦と似ていなくはない。アメリカでは、北軍が人口、工業資源、輸送で圧倒的に優勢だった。そのために、戦闘の意思があるかぎり、北軍が確実に勝利していた。
 戦略的観点から見ると、ほとんど全ての点で、赤軍の側が有利だった。
 このような圧倒的な展望に抗して戦闘しつづけ、ある点では勝利に近づくようにすら見えた白軍の能力は、伝来的な知識とは反対に、将軍たちの手腕と士気をもっていたのはむしろ彼らだった、ということを示唆する。
 最終的には、彼らは敗北した。その理由は人気ある主張が少なかったことや致命的な政治的、軍事的過ちを冒したことではなく、克服することのできない不利な条件(handicaps)あったことだ。
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 (脚注5) この「客観的要因」で私が意味させてているのは、変更しようとする中心人物の能力を超えるものだ。すなわち、例えば、彼らにそれぞれにある地理的位置の条件によって決定されるもの。「主観的要因」は、彼らの姿勢、価値観、能力、その他の個人的な特性だ。
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2971/伊藤浩介・脳と音楽(2024年)。

  1オクターブ内の音程の(4/3)に対する(3/2)の「比」である(9/8)という数字(数値)に着目して、1オクターブ内に(=1と2のあいだに)①5音、②7音、③12音〈それぞれ最後の2を含めて6音、8音、13音)を設定したことがあった。
 →No.2860・「ドレミ7音・1オクターブ12音の作り方」(2025/04/15)。
 最初の1、(4/3)、(3/2)、2の3音(4音)の音階をかりにAと称するとすると、上の①、②、③はそれぞれ、B、C、Dということになる(これらが上のNo.2680で用いた符号だった)。
 もう一度書くと、つぎのとおり。
 B—1、(9/8)、(4/3)、(3/2)、(27/16)、2。
 C—1、(9/8)、(4/3)、(81/64)、(3/2)、(27/16)、(243/128)、2。
 D—1、(256/243)、(9/8)、(32/27)、(81/64)、(4/3)、(1024/729)、(3/2)、(128/81)、(27/16)、(16/9)、(243/128)、2。
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  上のことを記したあとで、つぎの書物の一部を読んだ。
 伊藤浩介・脳と音楽—基礎から身につく「大人の教養」(世界文化社、2024年10月)。
 有用なことを書いてくれている。
 第一に、周波数比が、例えば1/8、1/4、1/2、1、2、4、8、…と変わっても、2の自乗数比の関係にあるので「同じ音に聴こえる」。これを、どの程度一般化しているのか知らないが、上掲の伊藤著は「オクターブ等価性」と称している。この言葉で表現できるのであれば、面倒な説明が省ける。
 第二に、音階の「螺旋モデル」の説明がある。「音楽的ピッチの螺旋モデルと螺旋階段モデル」とも表現されている。
 すでに秋月瑛二は知っていることだが、分かりやすい。
 但し、「らせん階段」を用いても、<上向型>のほかに<下降型>もあることに、言及されていない。どちらを使うかによって、「ピタゴラス・コンマ」の数値は異なる(+と-の違いすらある)。
 なお、ChatGPT と「議論」してみたが、ChatGPT は、ピタゴラス音律に関連して「螺旋」も<上向>型と<下降>型も知っていて、理解していた。
 第三に、上に記したCの段階で、他にも異なる「数値」を発見できることを秋月は知っているが、その一つ(最も単純で分かりやすいと思った)上のCにはきちんとした名前があるようで、伊藤著によると、この7音階(8音階)(=ピアノでは白腱でのみ弾かれる音階。但し、十二平均律では数値が異なる)は、「アイオニアン」と呼ばれる。他に、ドリアン、フリジアン等もあって、秋月は理解できる。
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  伊藤著は、一般に<ピタゴラス音律>による場合の7音(8音)設定方法に言及しつつ、 <独自の>説明方法も試みている。
 だが、この説明は、出発点自体に、じつは問題がある。
 これは伊藤も、自覚しているようで、あとで「小さなごまかしがありました」と明言している。したがって、伊藤の「新しい」説明の仕方も、完全なものではない。
 伊藤は、(4/3)に対する(3/2)の「比」である(9/8)に着目していつ。
 この点は私と同じで、共感する。
 しかし、上の(9/8)を「全音」と称するのはまだよいが、つぎの前提に立つのが、「小さなごまかし」だ。
 すなわち、1と(4/3)のあいだに全音二つと半音一つがあり、(3/2)と2のあいだにも全音二つと半音一つがある、という前提だ。
 そして、「半音」+「半音」=「全音」と理解したままだと、きれいな(伊藤が図示する)円環にはならない。伊藤も、ごまかし=「矛盾」から「ピタゴラスのコンマ」が生まれる、と自ら書いている(約1.0135のようだ。この数字は通例の計算方法によるのと同じではない)。
 伊藤のさしあたり<独自の>説明に従って計算すると、伊藤も理解しているだろうように、(9/8)の2.5乗は(4/3)にならず、(9/8)の6乗はちょうど2にはならないわけだ。 
 こんなことに気づかせてくれて、その意味では有用で興味深い書物だ。
 なお、秋月瑛二による上記のC(やD)の音階では、「コンマ」は生じない。
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2970/R. Pipes1994年著—第1章②。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime(1994年).
 「第1章・内戦:初期の戦闘(1918年)」のつづき。
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 第一節/赤軍が勝利した理由①。
 (01) ほとんど3年のあいだロシアを引き裂いた内戦は、13世紀のモンゴルの侵略以降では、ロシアの最も破滅的な事件だった。
 語ることができないほどの暴虐行為が、敵意と恐怖から行なわれた。数百万人が、戦闘、および寒さ、飢え、病気で死んだ。
 ロシアは、戦闘が終わるとすぐに、ヨーロッパの人々が経験したことのない飢饉にさらされた。大規模の飢饉で、数百万人以上が死んだ。
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 (02) ロシア革命に関して用いられる多くの用語と同じく、「内戦」(Civil War)には、一つ以上の意味がある。
 この語は、通常の用語法では、1917年12月から1920年11月まで続いた赤軍と多様な反共産党軍または「白」軍の間の軍事闘争のことを指している。1920年11月に、白軍勢力の残存者はロシアの領土から立ち去った。
 しかしながら、もともとは、「civil war」はもっと広い意味をもっていた。
 それは、レーニンにとっては、「プロレタリアートの前衛」である彼の党と国際的「ブルジョアジー」の間の世界的な階級戦争を意味した。この語の最も包括的な意味での「階級戦争」であって、軍事闘争はその一面にすぎなかった。
 レーニンは、権力奪取後ただちに内戦が勃発するのを期待したのみならず、内戦を引き起こすためにこそ、権力を奪取した。
 彼にとっては、十月のクー・デタは、それが世界的な階級闘争につながらなければ、無意味な冒険だった。
 革命の10年前、Paris Commune を分析して、彼は、内戦を惹起することができなかったことがその崩壊の原因だった、という点で、マルクスに同意した。(脚注1)
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 (脚注1) Lenin, PSS, XVI, p. 454. マルクスは、1871年4月12日のKugelmann 博士への手紙で、コミューンの者たちは内戦の開始を望まなかったがゆえに敗北した、と書いた。Karl Marx, Pis’ma k L. Kugel’manu(Petrograd, 1920), p. 115.
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 レーニンは、世界大戦が勃発した瞬間から、戦争の終止を呼びかける平和主義の社会主義者を非難した。
 本当の革命は、平和を望まなかった。「平和は、philistines〔ペリシテ人〕と僧侶のスローガンだ。プロレタリアのスローガンは、『内戦』でなければならない」。(注01)
 ブハーリンとPreobrazhenskii は、広く読まれた共産主義読本で、つぎのように書いた。
 「内戦は、革命の表現だ。…
 内戦なくして革命が可能だと考えるのは、革命は『平和』革命であり得ると考えるのと同じだ。」(注02)
 トロツキーはもっとあからさまに、こう書いた。
 「ソヴィエトの権威は、組織された内戦だ」。(注03)
 このような宣明から見て、内戦は外国および国内の「ブルジョアジー」によって共産党指導者に押しつけられたものではない、ということは明確だ。内戦は、共産主義者の政治綱領の中心にあった。
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 (03) 従前のロシア帝国(ドイツによる占領下を除く)の住民にとって、内戦は1917年十月に始まった。ボルシェヴィキはその月に、臨時政府を打倒し、対立諸政党の弾圧へと進んだ。その当時にすでに、ロシアの新聞紙は、まだ「赤」軍も「白」軍もなかったが、〈Grazhdanskaia voina〉(内戦)と題するコラムを掲載した。その見出しのもとで報告されていたのは、ボルシェヴィキとその権力の承認を拒否する者たちの間の対立だった。
 ボルシェヴィキが好んで語った「二つの戦線での戦争」は、現実だった。そして、70年後ですら、どちらの側により多くの力が注がれたのかを決定するのは困難だ。
 軍事力がしばしば行使された民間人に対する闘争だったのか、それとも、白軍との間の軍事闘争だったのか。
 1918年4月23日、レーニンは、表面的には驚くほど馬鹿げていると思える主張を行なった。—「内戦は主としては終わった、と確実に言うことができる」。(注04)
 こう述べたとき、彼は、明らかに、まだほとんど形成されていなかった白軍との戦争ではなく、民間人対立者との間の戦争を意味させていた。
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 (04) この章と次の章は、主として、用語の在来的な意味での、すなわち軍事的な意味での内戦、を扱う。
 この対象は、きわめて複雑だ。莫大な領域に散らばる、多数の抗争を含んでいるからだ。
 主要な諸軍隊に加えて、頻繁に味方する側を変える、短命のパルチザン勢力や、外国の兵団の諸分遣隊があった。
 ロシアのような巨大で多様な帝国が分解し、その断片があらゆる方向へと飛ぶとき、一貫した構造は存在しない。
 そして、一貫した構造がないとき、歴史家は、現実を歪めるというリスクを冒してのみ、何らかの構造を叙述するふりをすることができる。
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 (05) ロシアの内戦は、三つの主要な戦線で戦われた。南部、東部、北西部だ。
 その内戦は、三つの主要な段階を踏んだ。
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 (06) 第一の段階は、ボルシェヴィキ・クーからフランスでの休戦協定の調印まで、1年のあいだ続いた。
 1917-18年の冬に、将軍のAlekseev とコル二ロフ(Kornilov)によるドン・コサック地域での義勇軍(Volunteer Army)の形成とともに始まった。
 半年後に、中央Volga とシベリアで、チェコ軍団の反乱があった。その結果、その地域で、二つの反ボルシェヴィキ政権を巻き込む東部戦線が生まれた。それらの政権は独自の軍隊をもち、それぞれ、Samara(Komuch)と、Omsk(シベリア政府)に所在した。
 この最初の段階には、前線が急速に変化した、小さな部隊が散発的に戦闘した、という特徴がある。
 共産党の文献では、この段階は、ふつう「パルチザン戦闘」(partizanshchina)の時期として言及される。
 この段階のあいだ、外国の兵団—反ボルシェヴィキ側のチェコ・スロヴァキア兵団、ボルシェヴィキ側のラトヴィア兵団 —は、本来のロシア軍よりも大きな役割を演じた。
 赤軍は、ようやくこの段階の最後、1918年秋に、形成された。
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 (07) 第二の、内戦の決定的段階は、1919年3月から11月まで、7ヶ月にわたった。
 最初は、東部のKolchak 提督の軍、南部のDenikin 将軍の軍が、赤軍を打倒して退却を強いながら、果敢に、モスクワへと進軍した。
 北西部では、Iudenich 将軍が、ペトログラードの郊外に侵入した。
 だが、そのときに赤軍は戦いの潮目を変え、先ずKolchak(1919年6月-11月)、次いでDenikin とIudenich(1919年10月-11)を打ち負かした。
 Kolchak とDenikin の両軍の戦闘能力は、ほとんど同時に、1919年11月14-15日の頃に壊滅した。
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 (08) 内戦の最後の段階は、1920年の拍子抜けするWrangel のエピソードだった。Denikin 軍の残兵はしばらくのあいだ、クリミア半島で、何とか強力さを維持した。
 この勢力は、ポーランドとの戦争の勃発(1920年4月)によって注意が逸らされることがなければ、巨大で優越的な赤軍によって、すみやかに総崩れしていただろう。(脚注2)
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 (脚注2)共産党歴史家は、通常、1920年のソヴィエト・ポーランド戦争を内戦の一部と見なす。この見方は、西側の若干の歴史家も受容してきた。しかしながら。このような扱いは、正当化するのが困難だ。国の政治的支配をめぐるロシア人の間の闘争ではなく、領土めぐる主権国家の間の在来的戦争であるからだ。こうした誤解は、1920年代のスターリンの論考に由来するように思える。スターリンは、その論考でポーランドのウクライナ侵攻を「協商諸国の第三次作戦」(Tretii Pokhod Antanty)と称した。最初の二つは、Denikin とKolchak の作戦行動だとした。(Pravda, No. III(1920年5月25日), p.1. Norman Davies, White Eagle, Red Star(London, 1972), p.89が引用。)
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 この戦争が終わったあとすぐに、赤軍は、注意の全てをWrangel に向けた。
 1920年11月、イギリスとフランスの海軍は、白軍が残したものをConstantinople へと退避させた。
 これは、軍事的な言葉の意味でのロシアの内戦の終結だった。
 政治的、社会的意味では、内戦が本当に終わったわけではなかった。
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 (09) ソヴィエトの歴史学、とくにスターリン支配のもとでのそれは、内戦は、反ボルシェヴィキのロシア人が傭兵の一部とする、外国による干渉だったと叙述した。
 ロシアの領土内に外国の兵団がいたことは争う余地がないのだが、内戦はずっと完全に、兄弟どうしの戦闘だった、とされた。
 1918年の遅くに、連合諸国内部で、ボルシェヴィキに対する「十字軍」が語られた。(注05)
 しかし、この計画はどこでも、実現に近づきもしなかった。
 3年のあいだの戦争による被害者数が示すのは、数千人のチェコ人義勇軍(反ボルシェヴィキ側)、その数の数倍のラトヴィア人(共産党側)、400人ほどのイギリス人を除いて、戦闘による死者は圧倒的にロシア人とコサックだ、ということだ。
 フランスとその連合国は、1919年4月に、親ボルシェヴィキのウクライナ・パルチザンと一回の小戦闘を行なったが、そのあとで撤退した。
 アメリカと日本は、赤軍と一度もかかわらなかった。
 連合諸国(基本的にイギリス)は、主として、軍事資材を白軍に供給することで貢献した。
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 ②へ、つづく。

2969/R. Pipes1994年著—序・第1章①。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime.
 リチャード·パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)。試訳。
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 序(Introduction)
 (01) 〈ボルシェヴィキ体制のもとでのロシア〉(注)は、〈ロシア革命〉を継続させ、完結させるものだ。
 ある意味では、この書物は、20年前に〈旧体制のもでのロシア〉で始まった私の三部作を完了させもする。
 しかしながら、この書物は、これだけで自立するものであることが意図されている。
 この書物が対象とするのは、ボルシェヴィキが、1917-18年の冬に征圧した大(Great)ロシアの基盤から、消滅したロシア帝国の国境地帯へと、さらに世界の残余へと、その権威を防衛しかつ拡張させる企てだ。
 1920年の秋までには、この企ては成功しないだろうこと、新しい体制は本拠地で(at home)共産主義国家建設に集中しなければならないこと、が明らかになっていた。
 この書物の結びの部分では、この予期されなかった展開がロシアの新しい支配者にもたらした諸問題と危機を扱う。
 私は、加えて、共産主義者の文化政策および宗教政策を叙述する。
 通常は歴史学で無視されたこうした問題を扱うことによって、私は、〈ロシア革命〉の序で記した、これまでなされた以上に包括的に主題を説明するという約束を、果たそうと努めたい。すなわち、企図とその権力の行使に対する革命の真髄だと通常は見られている、その権力を求める闘争について、より掘り下げて叙述する、という約束だ。
 この書物は、1924年1月のレーニンの死でもって終わる。そのときまでに、将来のスターリニズムの全ての制度とほとんど全ての実務は、整っていた。
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 (02) この書物は、ソヴィエト同盟が解体して新しい政府が共産党を非合法としたときには、事実上は完成していた。
 事態の突然の転換によって、私の仕事には終結部(coda)のようなものが与えられた。
 歴史家が、その起源の説明を執筆し終えるまさにそのときに、主題そのものが歴史となるというのは、珍しい経験だったに違いない。
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 (03)  共産党の消滅によって、それによる文献資料の独占は終わった。
 執筆の最後の段階でモスクワのかつての中央党文書庫を利用できたのは、私には幸運だった。そこには、1917年以降のソヴィエト同盟共産党(CPSU)の重要な文書のほとんどが保存されていた。
 私はこの機会に、ロシア文書庫委員会の長のR. G. Pikhoia 氏、ロシア現代史文書の保存研究センターの長のK. M. Anderson 氏と職員たちに、感謝の念を表明したい。
 こうした資料(レーニンとその秘書部の個人的文書、スターリン、Dzerzhinskii に関する文書、等)を知ることで、私の叙述の一定部分を修正または敷衍することができた。しかし、西側にすでに存在していた印刷された資料と文書を通じて私が形成していた見方を訂正する必要が生じた部分は、一箇所もなかった。
 このことは、私に一定程度の自信になった。他の、まだ秘密の文書収納庫—とくに、党政治局の細かい文書やチェカ/KGBの綴込み書類を含む、いわゆる大統領文書庫(Presidential Archive)—は、私の叙述の説得力を失わせそうではない。
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 (04) この機会を利用して、寛大な財政的支援をしてくれたJohn. M. Olin 財団に対して、謝意を表する。
 リチャード・パイプス(Richard Pipes)
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 (注) この書物の表題は、最初は「〈新しい〉体制のもとでのロシア」だと発表された。しかしながら、過去2年のあいだにロシアで起きた変化のために、この表題は有効でなくなった。1917年での〈新しい体制〉は、1991年に〈古い体制〉になった。
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 第1章・内戦:初期の戦闘(1918年)①。
 緒言。
 (01) 第一次大戦のただ中の1917年2-3月に、14世紀以来ロシアを支配してきたツァーリ体制は、驚くべき速さと終末の状態で崩壊した。
 瓦解の原因は数多く、歴史の奥深くに及ぶ。しかし、原因のうち最も直接的なものは、戦争遂行への民衆の不満だった。
 ロシア軍は、1914-16年の戦闘を満足には遂行しなかった。ドイツ軍に何度も敗北し、ポーランドを含む広く豊かな領土をドイツに委ねることを強いられた。
 高官層の中での反逆(treason)の風聞が広がり、保守層はそれに反発した。
 都市部の住民は、食料と燃料の価格高騰と不足に怒っていた。
 革命の勃発に火をつけたのは、退職した農民徴集兵からなる、ペトログラードの守備連隊の反乱だった。
 反乱が勃発するとすぐに、公共の秩序は瓦解した。これは、権力を掌握したいリベラルと急進派の政治家たちを勇気づける成り行きだった。
 3月2日のニコライ二世の退位とともに、国家の官僚機構の全体が解体した。
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 (02) 真空に入ってきたのは、行政経験はないが野心だけはもつ知識人たちだった。
 リベラルたちは、のちに穏健な社会主義者も加わって、臨時政府を構成した。一方で、急進派は、労働者と兵士の代表者でなる会議体であるソヴェトに加入した。だが、このソヴェトは、社会主義諸政党の知識人によって動かされていた。
 結果として生まれた二頭政治または二重権力は、うまく機能しなかった。
 1917年の夏までに、ロシアは、社会的および民族的な対立の増大によって引き裂かれた。地方の農民は私的な土地を奪い、労働者は工場を奪い、少数民族は自己統治の権利を要求した。
 首相のAlexander Kerensky は、独裁的権力の要求を試みた。しかし、彼はそれに相応する気質をもっておらず、いずれにせよ、有力な権力基盤を欠いていた。
 世論は、秋に、両極化した。Kerensky はリベラルと急進派の間の中間路線で舵を取ろうと試みた。
 Kerensky の権威への最終的な打撃になったのは、8月末にかけての、最高司令官のLavr Kolnilov 将軍との争論だった。Kerensky は彼を自分の権威を奪おうとしていると非難した。
 政府を守ることのできる唯一の実力組織である軍隊が争論に反対し、戦場はボルシェヴィキに残された。
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 (03) ボルシェヴィキ党は、独特の装置だった。
 ボルシェヴィキ党は、権力を奪取し、最初はロシアで次いでその他の世界で上から革命を起こすという特定の目的のための陰謀集団として組織されており、その組織と活動方法においてきわめて非民主主義的だった。
 その後の全ての全体主義的組織の原型(prototype)であり、通常は用いられている意味での政党よりも、秘密結社に似ていた。
 誰もが認めるその創設者、Vladimir Lenin は、二月革命の勃発を知ったまさにその日に、ボルシェヴィキが軍事力でもって臨時政府を転覆させる、と決意した。
 彼の戦略は、全ての不満をもつ集団に対して、彼らが望むものを約束することだった。農民には土地、兵士には平和、労働者には平和、少数民族には独立。
 これらのスローガンは全て、ボルシェヴィキの綱領には入っていなかった。そして、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすぐに、全てが投げ捨てられることになる。しかし、これらのスローガンは、民衆の中の大きな集団を政府から遠ざけるという目的のために役立った。
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 (04) ボルシェヴィキは、春と夏に3回、権力の奪取を試みた。しかし、失敗した。
 最後の7月には、ペトログラードの兵士たちは、政府からレーニンは敵のドイツと取引をしていると知らされて、落胆した。
 この3回めの蜂起の失敗のあと、レーニンは、フィンランドに隠れた。そして、作戦の指揮権を、Leon Trotsky に委ねた。
 トロツキーと他のボルシェヴィキ指導者たちは、次の権力奪取の企てを全ての権力のソヴェトへの移譲だと偽装(camouflage)して行なう、と決定した。この目的のために、ボルシェヴィキは、10月25日に、違法で適正に代表されていない第四回全国ソヴェト大会を召集した。
 このクーは、成功した。Kerensky のKolnilov に対する措置に怒っていた軍が、Kerensky への支援を、今度は拒否したからだった。
 ボルシェヴィキのクーは、ペテログラードから、ロシアの他都市へと広がった。
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 (05) ソヴェトの名前で権力が奪取され、そのソヴェトには全ての社会主義政党が代表されていたけれども、レーニンは、政府大臣の全てにボルシェヴィキ党員を任じて、他の社会主義諸政党が彼の政府に加わるのを拒否した。
 ロシアに新しい国制と行政を生み出すものとされた立憲会議の選挙で、ボルシェヴィキは手ひどい判断を受け、投票数の4分の1未満しか獲得できなかった。
 一度だけ開会したあとで、1918年1月にボルシェヴィキが立憲会議を解散したことは、ロシアでの一党体制の始まりの画期となった。
 ボルシェヴィキは、政治化した法廷と新しく設立された政治警察であるチェカを用いて、テロルを開始した。テロルは、ボルシェヴィキの権力の初年度に、彼らの領域内の対抗派を、効果的に沈黙させた。
 全ての組織的活動は、ボルシェヴィキ党の指揮下に置かれた。そして、この党自体は、外部からの統制をいっさい受けなかった。
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 (06) だが、ボルシェヴィキは、中央ロシアだけを支配した。そこですら、都市部と工業中心地域のみの主人だった。
 かつてのロシア帝国の国境地帯は、シベリアとともに異なる民族と宗教の人々が居住していたが、ロシアから分離し、独立を宣言した。民族の権利を主張するか(シベリアやコサック地域)、ボルシェヴィキの支配を受けるのを望まなかったかの、いずれかの理由で。
 したがって、ボルシェヴィキは、分離した国境地帯および全人口の5分の4が住む村落を、文字どおり、軍事力でもって征服しなければならなかった。
 ボルシェヴィキ自体の権力基盤も安定したものではなく、多くて20万人の党員と、解体過程にあった軍に、依存していた。
 だが、権力とは相対的な概念で、匹敵できる人数がいる組織が他に存在しない国では、ボルシェヴィキは、強力な勢力(formidable force)だった。
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 (07) ボルシェヴィキは、まずロシアで、次いでヨーロッパ、そしてその他の世界で広範な武装闘争を始める、という明確な目的のために、権力を奪取した。
 ロシア帝国だった時代の国境の外では、彼らは失敗した。
 しかし、その内部では、十分に成功した。
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 緒言、終わり。つづく。
ギャラリー
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