秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/11

2968/R. Pipes1990年著—第18章㉖・あとがき。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十二節/赤色テロルの犠牲者。
 (01) 赤色テロルには、多様な側面がある。しかし、歴史家がまず何よりも関心をもつべきであるのは、犠牲者たちだ。
 犠牲者の数を決定することは、できない。将来も、そうだろう。レーニンがチェカ関係資料を破壊することを命じたのは、ほとんど確実だからだ。(注137)
 Latsis は、1918年と1920年のあいだに処刑された者についてのソヴィエトの公式の数字にきわめて近い数字を、提示した。12,733 人だ。
 しかしながら、この数字に対しては、きわめて少なすぎる、という異論が提起されてきた。その理由は、Latsis 自身の推算によっても、中央ロシアの20州で単年(1918年)に6,300件の処刑が行なわれた。そして、その犠牲者のうち45,200人は、反革命的活動のゆえに射殺された、ということにあった。(注138)
 Latsis の数字は、大都市のいくつかについて利用可能な統計資料に照らしても、きわめて不均衡だ。
 かくして、William Henry Chamberlin は、プラハのロシア文献資料庫(Prague Russian Archive、今はモスクワにある)で、1920年—この頃までに死刑判決は公式に廃止されていた—についてのウクライナ・チェカの報告書を発見した。その報告書は、3,879件の処刑、そのうちOdessa で1,418件、Kiev で538件、を表示していた。(注139)
 Tsaritsyn でのボルシェヴィキによる虐殺行為に関する研究によって、3,000人〜5,000人の犠牲者数という概数が、明らかになった。(注140)
 〈Izvestiia〉によると、1920年の5月22日と6月22日のあいだに、革命審判所だけで—つまりチェカによる犠牲者を算入しないで—600人の市民に死刑判決を下した。その中には、「反革命」の35人、スパイ行為の6人、職務怠慢の33人が含まれていた。(脚注6)
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 (脚注6) Izvestiia, No.155/1002(1920年7月16日), p.2. 犠牲者のうちの最大多数の273人は、脱走および軍役を回避するための自傷行為が理由だった。
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 Chamberlin は、これらの数字を用いて、赤色テロルの総犠牲者の概数を、 5万人とした。
 Laggett によると、14万人だった。(注141)
 誰もが確実に言えるのは、Jacobin のテロルの犠牲者数が数千にのぼったとすれば、レーニンによるテロルの犠牲者数は、数十万人ではなくとも、Jacobin 派の10倍にはなる、ということだ。
 スターリンとヒトラーが開始した新しいテロルの波の犠牲者は、数百万人にのぼることになる。
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 (02) この大殺戮の目的は、いったい何だったのか。
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 (03) レーニンに支持されたDzerzhinskii は、しばしば、テロルとその装置であるチェカは、革命を救った、と豪語した。
 このような自賛は、革命がボルシェヴィキ独裁制と同じ意味であるかぎりで、正しい。
 ボルシェヴィキがテロルを開始した1918年の夏まで、彼ら自身内部を除いて、赤色テロルは民衆の各層から拒否されていた、という明確な証拠資料が存在している。
 このような状況のもとでは、「容赦なきテロル」は実際に、体制を維持する唯一の方法だった。
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 (04) テロルは、「容赦なき」ものであるのみならず(「容赦のある」テロルを考え得るか?)、無差別のものでなければならなかった。
 かりにボルシェヴィキ独裁に対する反対者が明確な少数派だとすれば、彼らの外科的切除を考え得ただろう。
 しかし、ソヴィエト・ロシアでは、少数派だったのは、体制とその支持者たちだった。
 権力を維持するために、独裁制はまず社会を原子的に分解し、ついで行動しようとする意思そのものを破壊する必要があった。
 無実の者を処刑することに躊躇を感じない体制では、無実であることは生き延びる何の保証にもならない、ということを、赤色テロルは一般民衆に教えた。
 生き延びる最良の望みは、自らを可能なかぎり目立たないようにすることにあった。これが何を意味するかというと、自立した公的活動という考えを、そして公的活動への関心を、全て放棄すること、そして私的な世界に閉じこもること、だった。
 いったん社会が人間という原子の集積体へと解体され、各人が気づかれることを怖れ、肉体的な生存についてのみ関心をもつようになると、社会が何考えているかは、問題でなくなってしまう。政府が、公的活動の全領域を自分のものにしているのだから。
 少数派は、このような状況のもとでのみ、数百万人を服従させることができた。
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 (05) しかし、このような体制が支払うべき対価は、その犠牲者にとっても、その実働者にとっても、安くはなかった。
 ボルシェヴィキは、圧倒的多数の意思に反して権力にとどまるために、誰もの認識を超えるほどに、権力を歪める必要があった。
 テロルは、共産主義を救ったかもしれない。だが、まさに魂(soul)そのものを腐食させた。
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 (06) Isaac Steinberg は、市民と当局の双方に対する赤色テロルの破壊的な影響を、鋭く指摘した。
 彼は、1920年に路面電車で旅行したとき、乗客でいっぱいの車両と国全体のあいだの類似性に衝撃を受けた。
 「我々の国は、今日の路面電車に似ていないか? 電車は使い古され、古さでキーキーと音を立て、ぎっしりと詰まった乗客を乗せて、モスクワの荒涼とした街路を進んでいる。疲れ果てる闘いをしたあとであるかのごとく、車内で呼吸するのは難しい。
 乗客たちの目を見ると、飢えていそうだ。
 恥ずかしげもなく、他人から座席を奪っているのが見える。
 多数の大衆が偶然に一緒になったのだが、お互いの同情や理解の感覚は全くないようだ。全員がお互いをライヴァルにすぎないと見ている。
 路面電車の運転手に対する愚かな憎悪がある。これは、政府、国家、組織に対する、偶然にめぐり合った大衆の感情の表現だ。
 乗ろうとして電車の入り口で群がっている者たちへの無関心と皮肉があった。これは、共同体に対する、そして連帯感に対する姿勢だった。
 もっと熱心に観察すれば、彼らは根本的にはお互いによく似ていることに気づく。彼らの敵対的な目には、同じ思い、兄弟のように光る同じ輝きがある。
 彼らはみな心の中で、同じ痛みで泣いている。
 だが、今、ここでは、慈悲の情のない敵どうしだ。」(注142)
 しかし、彼は、テロルがその実行者に対して与える影響にも注目した。
 「テロルが階級敵であるブルジョアを襲うとき、彼らの自尊心と愛の感情を押しつぶすとき、彼の家族から離れさせるかまたは家族の中に閉じこめさせるとき、テロルが彼の精神を傷つけて無気力にするとき、テロルはいったい誰を攻撃しているのか?
 敵の階級的性格だけが、彼にだけ独特なもので、彼とともにいずれ消失するのか?
 あるいは、テロルは同時に、何か一般的なもの、全ての人間に、すなわち人の人間的本性にかかわる何かを攻撃しているのか?
 憐憫と苦難の感情、精神や自由への切望、家族への執着、遠方への渇望—これらは「人間」を作るものだが—、これらは、究極的には、〈いずれ〉の側の陣営でも知られており、共通している。
 そして、テロルが人類の一定の集団に共通している感情を抉り出し、追い出し、嘲るとき、テロルはどこでも、全ての魂に対して同じことをしている。
 敵の陣営で冒涜される尊厳の感覚、敵に対する憐れみを抑えつけた感情、一定の敵に負わせた苦痛は、心理的反射を通じて、勝利者の陣営へとはね返ってくる。
 隷属は、打ち負かされた者たちの魂に与えるのと同じ影響を、勝利者に対しても生み出す。」(注143)
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 第十三節/外国の反応。
 (01) 外部の世界は、新聞の記事、訪問者による報告、ロシア人亡命者から、ボルシェヴィキのテロルが生んだ、包み込まれた影響を聞いた。
 一定範囲の人々は、嫌悪でもって反応した。若干の者たちは、同情した。
 だが、最も有力な反応は、一種の無関心さだった。
 ヨーロッパは、知りたいと思わなかった。
 ヨーロッパは、数百万人の生命を奪った戦争から抜け出したばかりだった。
 猛烈に、正常な状態が回復するのを望んだ。
 大量の死に関する物語になおも夢中になることはできない、と感じた。
 そして、赤色ロシアでの事態は言われるほど酷くはない、テロルは終わった、ともかくも自分の運命とは関係がないと、ときには真面目に、ときには欺瞞して、保障する者たちに、好んで耳を貸そうとした。
 ロシアは、つまるところは、イワン雷公(Ivan the Terrible)、ドフトエフスキーの「地下室の手記」、そしてRasputin の、異国情緒の残忍な国だった。
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 (02) 誤解させるのは、簡単だった。
 ソヴィエトの虚偽情報機構は、テロルによる犠牲を最小化し、言うところの挑発を最大化した。
 アメリカの素人評論家のWilliam Bullitt のような悪気のない外国からの訪問者は、とくに有効だった。この人物は、1919年2月に、Wilson 大統領の使節として、ロシア内部をすぐに動き去った。
 彼は、帰国したのち、アメリカ議会で、血にまみれたテロルという話は相当に誇張されている、と保障した。
 彼は聴衆に対して、「赤色テロルは終わった」と保証し、チェカは全ロシアで5000人「だけ」を処刑した、と述べた。
 「処刑は、きわめて稀れなことだ」。(脚注1)
 Lincoln Steffens は、ソヴィエト・ロシア訪問についての報告で、「ボルシェヴィキ指導者は赤色テロルを後悔しており、恥じている」と述べた。(注144)
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 (03) Bullitt やSteffens は、テロルを最小限に評価した。少なくとも、許容した。
 しかし、Pierre Pascal のような者を、どう判断すべきだろうか。この人物はフランスの若い元将校で、ロシアで共産主義者になり、のちにSorbonne で教授になった。そして、テロルを否認し、犠牲者の存在を嘲弄した。
 彼は、1990年2月に、「テロルは終わった」と次のように書いた。
 「本当のことを言うと、テロルは存在しなかった。
 フランス人にとって正確な観念に符号する『テロル』という言葉は、その執行を職責とするこの恐ろしい非常委員会[チェカ]の穏健さ、優しさ、上品さを見ると、私をつねに笑わせる。」(注145)
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 (04) 他の者たちは、ある種類のテロルがソヴィエト・ロシアを荒廃させているならば、別の種類の、同じく恐ろしいテロルが西ヨーロッパやアメリカ合衆国を苛んでいる、と考えて、安息を見出した。
 1925年に、政治的収監者のための国際委員会と自称するグループが、ソヴィエトの監獄や収容所の収監者から密かに聞いた証言集を出版した。
 そこでの各証言の真正さ(authenticity)を、誰も疑わなかった。
 だが、編集者のIsaac Don Levine がこのおぞましい証拠についてどう思うか、と世界を指導する知識人に尋ねたとき、反応は、控えめの衝撃を受けたというものから正直ではないと冷笑するものまで様々だった。
 Albert Einstein がそうだったように、ほとんど誰も、「殺されるのを怖れて殺す、という人間の歴史上の悲劇」を示すこうした資料の重大性を見て取ることができなかった。
 〈Jean Christophe〉の著者であるRomain Rolland は、「I.W.W〔Industrial Workers of the World, 世界産業労働組合/訳者〕の労働者たちを苦しめているCalifornia の監獄でも、ほとんど同じことが行なわれている」、という理由で、証言証拠の意味を軽視した。
 Upton Sinclair は、「ソヴィエトでの収監者の取扱いはCalifornia 州の収監者の条件とほぼ同じだ」、という恥ずかしい驚きを明言して、Rolland を支持した。
 Bertrand Russel は、もう少しだけよかった。彼は、いずれの側も類似のことを行なっている、という理由で、ソヴィエトと西側諸政府の間の「友好関係の促進」のためにこうした資料の出版が寄与することを「真摯に希望する」、と述べた。(注146)
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 第十二節・第十三節、終わり。<第18章・赤色テロル>も終わり。
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 あとがき(Afterword)。
 (01) 大戦が終わった1918年11月、ボルシェヴィキは、27州のヨーロッパ・ロシアを支配していた。そこに、およそ7000万人、あるいはロシア帝国の戦前の人口の半分、が住んでいた。
 境界諸国—ポーランド、フィンランド、Baltic 地域、ウクライナ、Transcaucasia、中央アジア、シベリア—は、分離して主権国家を形成するか、反ボルシェヴィキの白軍に支配されるか、のいずれかだった。
 共産党の支配地域は、ほとんど大ロシア人が住む、消滅した帝国の中心地域に囲まれていた。
 先には、内戦が控えていた。その過程で、ロシアは、国境地帯の全てでなくともほとんどを、軍事力でもって再征服し、その支配領域をヨーロッパ、中東、東アジアへと広げることになる。
 革命は今や、新しい段階に入る。膨張の段階へと。
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 (02) ボルシェヴィキによる支配の最初の1年、ロシア人は、歴史上先例のないほとんど無原則のテロルの採用によって威嚇されたのみならず、完全に途方に暮れた。
 その時期を生き抜いた人々は、全ての価値の再評価にさらされた。
 良くて褒められたものは、何であれ、悪くて罰せられた。
 神への信仰、慈善、寛容、愛国主義、節検(thrift)といった伝統的美徳は、滅びゆく文明の、受容し難い遺産だとして、新しい体制によって非難された。
 新しい体制が明らかにした適正な教条のために行なわれたものであれば、殺害、強盗、誹謗中傷、虚偽は良いことだった。
 全てに、意味がなかった。
 この時代の人々の困惑は、1918年夏に出版された黙想に反映されている。それは、数少ない比較的に自立した日常を記したものとして、なおも紹介するに値いするだろう。(注01)
 「Narva 門の向こうのどこかに男が住んでいたある朝、彼の前に置かれたsamovar〔茶沸かし器〕から注がれた茶を、飲んだ。
 主食のあいだ、ウォッカの瓶を半分空けて、〈The Petrograd Rag〉を読んだ。
 年に一度誰かが殺されたとき、彼は少なくとも1週間のあいだ、怒りを感じつづけた。そして、今…。
 親愛なるご主人、殺人(murders)については、彼らは書くのをやめた。反対に、昨日30人がやられ(bump off)、別の100人が強盗に遭った、と我々に教えてくれる。…
 これが意味するのは、全てが順調だ、ということだ。
 そして、何が起きようとも、窓から外を見ることすらしないよりは良い。
 今日、彼らは赤旗をもって行進した。明日は、たれ幕(banners)をもって。そしてまた、赤旗、そしてまた、たれ幕。
 今日、コルニロフ(Kolnilov)が殺されていた。明日、彼は復活している。
 その次の日、コルニロフはコルニロフではなくDutov で、Dutov がコルニロフだ。そして、彼らは、彼らの全員だが、将校でもコサックでもなく、ましてロシア人ではなく、チェコ人だ。
 そして、どこからチェコ人が来たのか、誰も知らない。…
 我々は彼らと闘い、彼らは我々と闘う。
 ニコライ・ロマノフ(Nicholas Romanov)は、殺された。彼は、殺されていない。
 誰が誰を殺したのか、誰がどこへ逃亡したのか、なぜVolga 河はもうVolga 河ではなく、ウクライナはロシアでないのか。
 なぜドイツ人はクリミアを我々に返すと約束したのか、Hetman〔コサックの首長〕はどこから来たのか、彼はいったい何者だ、なぜ彼はすぐに怒るのか。…
 なぜ我々は、精神病院(insane asylum)にいないのか。」
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 (03) 新しい状態はきわめて不自然で、常識や良識(decency)が侮辱された。その結果として、住民の大多数は、恐ろしくて不可解な大変動について、体制に責任がある、と考えた。その大変動に対しては抵抗することができず、始まったときのように突然に消滅するまでは、耐えなければならないのだった。
 しかしながら、事態の推移が示すだろうように、このような突然の消滅という期待は、間違っていた。
 ロシア人とボルシェヴィキ支配下の人々は、安息を知らないままになる。
 革命を体験し、生き延びた人々は、正常な状態の回復を見ることが決してできないことになる。
 革命は、彼らの悲嘆(sorrows)の始まりにすぎなかった。
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 1990年著・第二部、終わり。

2967/ R.Pipes1990年著—第18章㉕。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
  「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設③。
 (10) 収容所から脱出しようとすると、厳しい制裁を受けた。
 第一回めのとき、再び捕えられた者は、判決の期間が10倍ほども延長されることがあり得た。
 第二回めのとき、死刑判決を言い渡すことができる革命審判所に引き渡されるものとされた。
 脱出する気持ちを失わせるために、収容所当局は、「集団責任制」(krugovaia)を設ける権限を付与された。これは、仲間の被収容者たちを相互に責任があるものとした。
 理論的に言えば、一人の被収容者は、そのために用意された本に、虐待に対する不服を書き記す権利をもった。
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 (11) こうして、近代的(modern)な強制収容所が生まれた。—その内部では全ての権利を人間は失ない、国家の奴隷となる飛び地(enclave)だ。
 これとの関係では、強制収容所にいる者の地位とふつうのソヴィエトの市民の地位の差異、に関する疑問が生じるかもしれない。
 結局のところ、ソヴィエト・ロシアの誰も、個人的権利を享有せず、法に訴えることがなかった。そして、強制労働を定める布令のもとで、国家が要求する場所で働くよう命じられた。
 当時のソヴェト・ロシアでは、自由と勾留の境界線は不明瞭だった。
 例えば、1919年5月、レーニンは、南部前線での軍事施設の建設のための労働者の動員を、布告した。(注132)
 彼は、動員される労働力は「まずは収監者および強制収容所に勾留されている者や重労働刑を宣せられた者」によることを、要求した。
 しかし、これで不十分な場合は、レーニンの布告は、「地方の住民にも労働義務を課す」ことを求めた。
 ここで、強制収容所の勾留者は、ふつうの「自由な」市民と区別されている。しかし、前者は強制労働へと徴用される最初の集団である、ということによってだけだ。
 そうではあるが、上の二つの範疇には、両者を分ける顕著な違いがある。
 収容所に入れられていない市民は、家族と一緒にふつうに生活し、配給を補填するために自由市場へと行くことができた。
 一方で、被収容者は、縁戚者の訪問をときどき受けるだけで、食料の包みを受け取ることは、禁止された。
 ふつうの市民たちは長官とその助手たち(しばしば共産党の信任者)の監視のもとで一日じゅう暮らすことはしなかった。長官たちは、彼ら自身の俸給や収容所の管理運営費を調達するために、労働者に負担金を課して徴収する責任をもっていたけれども。
 また、他人の行為についての「集団責任制」という実務のもとで、制裁を受ける可能性はほとんどなかった。
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 (12) ソヴィエト・ロシアには、1920年の末に、48の強制収容所があり、およそ5万人を収容していた。
 3年後(1923年10月)、これらの数は、315箇所と7万人に増加した。(注133)
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 (13) ソヴィエトの初期の強制収容所の状態に関する情報は少なく、この主題に関心を示す研究者はほとんどいない。(注134)
 被収容者が密かに外部に持ち出したり、生存者が提供する証言は時おり存在して、収容所の状態を描いている。それは、微細な詳細まで、ナツィの強制収容所の状況に似ている。
 類似性はきわめて大きいので、20年前に公表された、というのではないけれども、最近に作成された話だと疑うかもしれないだろう。
 1922年、社会革命党のエミグレ(脱出亡命者)たちは、ドイツで、Viktor Chernov を編集者として、ソヴィエトの監獄や収容所からの生存者の報告をまとめた多数の書物を出版した。
 その中には、Archangel 近くのKholmology にある強制収容所での生活について、匿名の女性収監者によって書かれた叙述が、含まれていた。
 その収容所には、4つの複合施設があり、1200人の被収容者がいた。
 収監者たちは、収用された修道院に居住した。そこの設備は比較的に快適で、暖房もあった。
 それにもかかわらず、執筆者は、その収容所を「死のキャンプ」と叙述する。
 飢餓が、広がっていた。アメリカの救済機関から送られたものもある食料の包みは、すぐに取り上げられた。
 ラトヴィア人の名前をもつ長官は、ごく些細な違反行為に対しても、受刑者を射殺させた。
 畑で働いている受刑者が自分で引き抜いた野菜を食べた場合、その者はその場で殺害され、逃亡を試みたと報告された。
 1人の収監者の逃亡は、自動的に9人の収監者の処刑へとつながった。法に定められているように、「集団責任制」が彼らに適用されるのだった。
 再逮捕された逃亡者も、殺害された。ときどきは、生きたまま埋葬された。
 管理当局は、被収容者を符号だと見なした。彼らの生と死は、重要な問題ではなかった。(注135)
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 (14) こうして、全体主義体制の中心的な装置が、出現した。
 「トロツキーとレーニンは、新しい態様の強制収容所の発明者であり、創造者だった。
 彼らが、集中収容所(concentration camps)と称される施設を創設した、というだけの意味ではない。…
 ソヴィエト共産主義の指導者たちは、法的理由づけのための独特の方法も新しく生み出した。それは、スターリンはただ技術的に組織して発展させただけの、強制収容所の巨大なシステムを作り出す諸観念の網で成り立っていた。
 トロツキーとレーニンの強制収容所と比較すると、スターリン主義者のそれは、巨大な形態での制度(〈Ausführungsbestimmung〉)を再提示しているにすぎない。
 そして、もちろん、ナツィスは、前者にも後者にも既成のモデルを見出し、発展させたにすぎなかった。
 ドイツの強制収容所は、これらのモデルに素早く飛びついたものだった。
 1921年3月13日、当時はほとんど無名だったヒトラー(Adolf Hitler)は、〈Völkischer Beobacater〉に、こう書いた。
 『必要ならば、煽動者たちを強制収容所に監禁することによって、我々人民にユダヤ的腐敗が入り込むのを防止する」。
 その年の12月8日、ヒトラーは、ベルリンのNational Club での演説で、権力を奪取すれば強制収容所を設立するという意図を、表明した。」(注136)
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 第十一節、終わり。

2966/R.Pipes1990年著—第18章㉔。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設②。
 (05) しかしながら、1918年には強制収容所はほとんど建設されず、設置されたものは諸州のチェカまたは軍事司令部によって主導された、と思われる。
 強制収容所の建設が本格的に始まったのは1919年の春で、主導したのは、Dzerzhinskii だった。
 レーニンは、強制収容所が自分の名前と結びつけられるのを好まなかった。これを設立して構造や活動を定める諸布令は、人民委員会議の名によってではなく、ソヴェト中央執行委員会とその議長のSverdlov の名で発せられた。
 これら諸布令は、チェカの再構成に関する1919年2月17日のDzerzhinskii の報告書の中に含まれていた諸勧告を実施した。
 Dzerzhinskii は、治安妨害と闘うための現存の司法的手段は十分ではない、と主張した。
 「法廷が判決を下すこととともに、行政的な判決の言い渡し—つまり強制収容所—を保持することが必要だ。
 今日でも、拘置(under arrest)されている者の労働が公的な労働全体の中で役立っているとは、とうてい言い難い。だから私は、拘置されている者の労働を利用するために強制収容所を保持するよう勧告する。また、職業をもたず生活している者や強制がなければ労働することができない者についても。
 あるいは、ソヴィエトの諸組織に関して言えば、このような制裁の措置は、労働について無関心な態度の者、怠惰な者、遅い者、等々に適用されるべきだ。
 このような措置をとれば、我々自身の労働者をも引き上げることができるはずだ。」(注127)
 Dzerzhinskii、カーメネフ、およびスターリン(この布令の共同起草者)は、収容所を、「労働の学校」と労働の貯留庫(pool)を結合させたものと考えた。
 「全ロシア非常委員会[チェカ]は、強制収容所に限定する権能を付与された。全ロシア中央執行委員会により承認された、強制収容所への収監の規則に関する厳密な指示によって導かれる。」(注127)
 明確でない理由により、1922年およびその後、「強制収容所」(concentration camps)という用語は、「強制労働収容所」(camps of forced labor)に変更された。
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 (06)  1919年4月11日、CEC は、収容所の組織に関する「決定」を発した。これは、内務人民委員部—長は今やDzerzhinskii—の権威のもとで、強制労働収容所の網(network)の設置を定めた。
 「以下の個人または一定範疇の個人たちは、強制労働収容所に拘置される。行政諸機関、チェカ、革命審判審判所、人民法廷および布令や指令で権限を与えられている他のソヴェト機関が決定した者。」(注129)
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 (07)  画期をなすこの布令の若干の特徴について、注記が必要だ。
 1919年に装置化されたソヴィエトの強制収容所は、法廷と行政機関のいずれかによって判決を受けた、あらゆる種類の望ましくない者たちを監禁しておくための場所だと意図されていた。
 監禁される者の中には、個人だけではなく、「一定範疇の個人たち」—すなわち、全ての階級—も含まれていた。
 Dzerzhinskii は、「ブルジョアジー」のための特別強制収容所が設立されるべきだと、ある箇所で提案した。
 強制的に隔離されている被収容者たちは、ソヴィエトの行政部や経済部署が賃金を支払わないで用いることのできる奴隷労働の貯留庫になっていた。
 収容所の網状機構は、内務人民委員部によって、当初は収容所の中央管理機関を通じて、のちには一般にGulak として知られる中央収容所管理機構(Main Camp Administration、Glavnoe Upravlenie Lageriami)を通じて、運営された。
 ここで、原理としてではなく実務においても、スターリンの強制収容所帝国を感じ取ることができる。
 スターリンの強制収容所は、レーニンのそれと、規模についてだけ異なっていた。
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 (08)  強制収容所の設立を承認したCEC の諸決議は、収容所の活動を指導する詳細な指針を必要とした。
 1919年5月12日に発せられた布令は、細かい官僚的用語法を用いて、収容所の基本構成を定めた。どのように組織されるべきか、被収容者の義務と想定上の権利は何か。
 この布令は、全ての州都である都市に対して、300人またはそれ以上を収容できる強制労働収容所の建設を命じた。
 ソヴィエト・ロシアには(内戦の状況によるが)約38の州があったので、この規定は、最少で計11,400人の施設を想定していた。
 しかし、この数字は大きすぎた。布令は地区の首都にも強制収容所を建築する権限を認めており、こちらの数字は数百に達したからだ。
 収容所を組織する責任は、チェカが負った。建設されると、収容所を管理する権限は、地方ソヴェトに移ることとされていた。
 この条項は、ボルシェヴィキによる立法の一つで、ソヴェトは「最高」(sovereign)機関だという神話を維持することを前提にしていた。
 そして、実際には、機能しなかった。ソヴィエト・ロシアにある収容所の「総合的管理」の責任が、内務人民委員部内に新しく設置された強制労働局(Department of Forced Labor、Otdel Prinuditel’nykh Rabot)へと移されたからだ。そして、既述のとおり、内務人民委員部の長(人民委員)は、チェカの長官と同じ人物だった。
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 (09)  ロシアの政府には、受刑者の労働を利用するという古くからの伝統があった。「国家の経済それ自体の中で強制労働の利用が、ロシアの歴史ほどに大きい役割を果たした国はなかった。」(注131)
 ボルシェヴィキは、この伝統を復活させた。
 ソヴィエトの強制収容所の拘禁者は、1919年の最初から、つねに、拘禁施設の内部か外部で肉体労働をしなければならなかった。
 指示書は、こう定めていた。「収容所に到着するとただちに、全員が、仕事を割り当てられ、滞在中はずっと肉体労働に従事するものとする」。
 収容所当局が拘禁者の労働を完全に利用するのを促すために、また政府の財政負担を軽減させるためにも、各収容所は財政的に自立して運営していくことが、要求されていた。
 「収容所とその管理機構を運営する費用は、被収容者が定員いっぱいの場合には、被収容者の労働によって賄う必要があった。
 赤字の責任は、別の指令書が定めた規則に従って、管理者と被収容者に生じることになる。」(脚注5)
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 (脚注5) したがって、別の権威が行なったように、ソヴィエトの強制収容所はもともとは民衆をテロルにかけることに役立ったが、1927年にスターリンのもとでようやく経済的な重要性をもった、と主張するのは、正しくない。実際に、制裁的労働で元を取る、さらには国家の収入とするという実務は、帝政時代に遡る。かくして1886年に内務省は、重労働施設の管理者に対して、受刑者の労働が利益を生むことを確かめよ、と指示した。R. Pipes, Russia under the Old Regime, p.310.
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 ③へとつづく。

2965/R. Pipea1990年著—第18章㉓。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設①。
 (01) チェカの最も重要な職責の中に、「強制収容所」(concentration camps)を組織し、運営することがあった。ボルシェヴィキは、この収容所を全く新しく考案したのではなかったが、新奇できわめて邪悪な意味をこれに与えた。
 強制収容所は、その完全に発展した形態では、一党国家制や全能の政治警察とともに、ボルシェヴィキが20世紀の政治実務に影響を与えた主要なものだった。
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 (02) 「Concentration Camps」という用語は、植民地戦争(colonial war)に関連して19世紀の末に生まれた。(脚注1)
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 (脚注1) この装置に関する最良の歴史書は、Kaminsky, Konzentrationslager だ。この主題を、歴史家は驚くほどに無視してきた。
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 スペイン人は、キューバ人の暴乱に対する戦いのあいだに、このような収容所(camps)を最初に設けた。
 それらは、40万人を収容した、と推算されている。
 アメリカ合衆国は、1898年のフィリピン暴乱と戦うあいだに、スペイン人に見習った。
 イギリスも、ボーア(Boer)戦争のあいだに、同様のことをした。
 しかし、これらは、名前を別とすれば、ボルシェヴィキが1919年に導入し、ナツィスその他の全体主義体制がのちに模倣した強制収容所とほとんど関係がなかった。
 スペイン、アメリカ、イギリスの強制収容所は、植民地のゲリラとの戦いのあいだに採用された非常措置だった。それらの目的は、制裁ではなく、軍事的なものだった。—すなわち、非正規軍を一般民間人から分離すること。
 初期の収容所の条件は苛酷だった、と認めざるを得ない。イギリスに監禁されて、2万人ほどものボーア人が死んだ、と言われている。
 しかし、意図的な虐待は、存在しなかった。苦痛や死は、収容所が急いで完成されたことによっていた。急いだがゆえに、居住条件、食事等の供給、医療が不適切なままだった。
 被収容者たちは、労働を強制されなかった。
 三つの場合はいずれも、戦闘が終結すると、収容所は取り壊され、被収容者は解放された。
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 (03) ソヴィエトの強制収容所や労働収容所(lageri prinuditel’nykh rabot)は、最初から、組織、活動、目的が異なっていた。
  1. 永続的な施設だった。内戦のあいだに導入され、1920年に戦闘が終わっても、消滅しなかった。
 それどころか、様々の目的をもってその場所に維持され、1930年代には途方もない割合で膨張した。その頃のソヴェト・ロシアは平穏で、表向きは「社会主義を建設していた」のだが。
 2. ゲリラを支援したと疑われた外国人を収容しなかったが、政治的反抗者だとの嫌疑を抱いたロシア人その他のソヴィエト市民は、収容した。
 元来の役割は、植民地の人々を軍事的に制圧するのを助けることではなかった。ソヴィエトでは、自国の市民にある不満を抑圧することが任務だった。
 3. ソヴィエトの強制収容所は、重要な経済的役割を果たした。被収容者は、命じられれば、労働しなければならなかった。このことが意味したのは、彼らは隔離されるだけではなく、奴隷労働者として搾取される、ということだった。
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 (04) ソヴィエト・ロシアで強制収容所が最初に話題になったのは、1918年の春、チェコ人の蜂起や従前の帝制期の将校たちの採用に関係してだった。(脚注2)
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 (脚注2) ソヴィエトの強制収容所に関する最も包括的な解説は、Mikhail Geller, Kontsen-tratsionnyi mir i sovetskaia literature(London, 1974)だ。これには、ドイツ語、フランス語、ポーランド語の翻訳書がある。英語のものはない。
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 1918年5月末、トロツキーは、武器を捨てて降伏するのを拒む
チェコ人兵士を、強制収容所への監禁でもって威嚇した。(脚注3) 
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 (脚注3) L. D. Trotskii, Kak vooruzhalas’ revoliutiia, I(Moscow, 1923), p.214, p.216. Geller によると(Konrsentratsionnyi, p.73)、これは、この用語のソヴィエトでの最も早い使用例だ。
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 8月8日、彼は、モスクワからKazan までの鉄道路線を保護するために、近傍のいくつかの地方に強制収容所を建築することを命じた。それは、「その場で」処刑されていないまたは他の制裁を受けている、「悪辣な煽動者、反革命将校、破壊工作者、寄食者、投機者」を隔離するためでもあった。(注126)
 こうして、強制収容所は、訴追することができていないが何らかの理由で当局が処刑しないことを好む、そのような市民を抑留する場所だと理解された。
 レーニンは、8月9日のPenza への電信で、この用語を上のような意味で用いた。反抗する「クラク」は「容赦なき大量テロル」—すなわち処刑—を受けさせるべきだが、疑わしい者は市の外にある強制収容所に監禁せよと、その電信は命令していた。(脚注4)
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 (脚注4) Lenin, PSS, L, p.143-4. チェカの長官代理の地位にあったPeters は、武力でもって捕えた者は「その場で射殺され」、政府に反対して煽動した者は強制収容所に監禁される、と言った。Izvestiia, No.188/452(1918年9月1日), p.3.
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 このような威嚇は、1918年9月5日の「赤色テロルに関する決定」によって、法的および行政的制裁の効果をもった。この決定は、「階級敵を強制収容所へ隔離することによってソヴェト共和国を守る」ために行なわれた。
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 ②へとつづく。
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