2025/10
Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する②。
(03) チェカは、徐々に、国家の保安に通常は影響を与えないと考えられる広い範囲の管理や監督の権能を掌握した。
「投機」—すなわち私的取引—を取り締まる布告を執行するために、チェカは、1918年の後半に、鉄道、水路、主要道路その他の交通手段に対する統制権を握った。
Dzerzhinskii は、この職務を効率的に実行するために、1921年4月、交通人民委員に任命された。(注121)
チェカは、あらゆる形態の強制労働を監督かつ実施した。この義務を逃れる者や不十分にしか履行しない者に対しては、これらを制裁する裁量的権限をもった。
銃撃による処刑は、このような目的のために使われた、一般的な方法だった。
ある目撃者は、経済的成果を上げるためにチェカが用いた手段について、貴重な洞察を与えてくれている。この人物は、ソヴェトが雇用したメンシェヴィキの森林専門家で、レーニンとDzerzhinskii が材木生産の増大について決定したときに、たまたま在職していた。
「あるソヴィエトの布令が公示された。この布令は、政府所有の森林の近くに居住する全ての農民に対して、1ダースの木材を用意し、輸送するよう義務づけた。
だが、この義務づけは、森林労働者(foresters)をどうするか—彼らに何を要求するか—という問題を生じさせた。
ソヴェト当局から見ると、これら森林労働者たちは、新政府が冷淡に処理をした妨害者的知識人の一部だった。/
この特定の問題を議論した労働・防衛会議(the Council of Labor and Defence)の会合には、他の人民委員の中でも、Felix Dzerzhinskii が出席した。…
彼は、しばらく聴いていたあと、こう言った。
『正義と衡平のために、提案する。森林労働者は、農民への割当て量の達成について個人的な責任を負わされる。加えて、各森林労働者は一人ずつ、同じ量—1ダースの木材—を達成するものとする。』/
会議の若干の構成員たちは、反対した。
彼らが指摘したのは、森林労働者は重い肉体労働に慣れていない知識人だ、ということだった。
Dzerzhinskii は、農民と森林労働者の間の年齢による不平等を無くす良いときだ、と答えた。/
チェカの長官は、結論としてこう発言した。
『さらに加えて、かりに農民が割当て量を達成できなければ、それに責任を負う森林労働者は、射殺されなければならない。
残りの者は、真剣に仕事に取り組むだろう。』/
森林労働者の多数は反共産主義者だと、広く知られていた。
依然として、部屋にある、当惑した静けさを感じた。
突然に、私は、無作法な声を聴いた。
『この提案に、誰か反対するか?』/
レーニンだった。彼の真似のできないやり方で、議論を終わらせようとしていた。
当然ながら、誰もあえてレーニンとDzerzhinskii に反対しなかった。
レーニンは、思い直したかのように、森林労働者の射殺の部分—承認されていたが—は会合の正式の議事録から削除するよう、提案した。
これもまた、彼が望んだとおりに承認された。/
会合のあいだ、私は気分が悪かった。
私はもちろん、1年以上、処刑がロシアをひどく破壊していることを、知ってきていた。—だが、多数の無実の人々の運命にかかわる5分間の議論に、私自身が同席していた。
私は、心底から動揺した。
咳き込んだけれども、私の冬風邪の一つの咳以上のものだった。/
1、2週間以内に森林労働者の処刑が行なわれても、彼らの死は先の事態を少しも変えないだろう、ということは、私には苦痛だった。
このような恐るべき決定は、この非常識な措置を発動する者たちにある、憤懣と復讐の感情から来ている、と私は知った。」(注122)
文書には何の痕跡も残さない、このような決定が多数あったに違いない。
--------
(04) チェカは、着実に、その軍事力を増大させた。
1918年夏、その戦闘部隊(Combat Detachments)が、赤軍から分離した一つの組織となった。これは、Korpus Voisk VChK(AU-ロシア・チェカの軍団)と称された。(注123)
帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)を範としたこの軍団は、「国内戦線」のための常備軍へと成長した。
1919年5月、政府は、内務人民委員としての新しい権能をもつDzerzhinskii が主導して、これらの部隊の全てを、共和国の国内的保安の軍隊(Voiska Vnutrennei Okhrany Respubliki)へと統合し、戦争人民委員ではなく内務人民委員が監督するものとした。(注124)
このとき、この国内軍には、12万人ないし12万5000人の兵士がいた。
1920年代の半ばまでには、この数は二倍になり、全体でほとんど25万人になった。この兵士たちは、工業施設、輸送設備を守り、供給人民委員部が食料を徴発するのを助け、強制労働と強制収容所を護衛した。(注125)
--------
(05) 重要なことを付言すると、チェカは、Osoby Otdel(特殊部署)として知られる、軍隊のための対抗諜報組織の事務局を設置した。
--------
(06) チェカは、こうした機能と権能をもつことによって、1920年までに、ソヴィエト・ロシアの最も強力な組織になった。
警察国家の基盤は、かくして、レーニンがその職責にあるあいだに、その主導のもとで、築かれた。
————
第十節、終わり。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する②。
(03) チェカは、徐々に、国家の保安に通常は影響を与えないと考えられる広い範囲の管理や監督の権能を掌握した。
「投機」—すなわち私的取引—を取り締まる布告を執行するために、チェカは、1918年の後半に、鉄道、水路、主要道路その他の交通手段に対する統制権を握った。
Dzerzhinskii は、この職務を効率的に実行するために、1921年4月、交通人民委員に任命された。(注121)
チェカは、あらゆる形態の強制労働を監督かつ実施した。この義務を逃れる者や不十分にしか履行しない者に対しては、これらを制裁する裁量的権限をもった。
銃撃による処刑は、このような目的のために使われた、一般的な方法だった。
ある目撃者は、経済的成果を上げるためにチェカが用いた手段について、貴重な洞察を与えてくれている。この人物は、ソヴェトが雇用したメンシェヴィキの森林専門家で、レーニンとDzerzhinskii が材木生産の増大について決定したときに、たまたま在職していた。
「あるソヴィエトの布令が公示された。この布令は、政府所有の森林の近くに居住する全ての農民に対して、1ダースの木材を用意し、輸送するよう義務づけた。
だが、この義務づけは、森林労働者(foresters)をどうするか—彼らに何を要求するか—という問題を生じさせた。
ソヴェト当局から見ると、これら森林労働者たちは、新政府が冷淡に処理をした妨害者的知識人の一部だった。/
この特定の問題を議論した労働・防衛会議(the Council of Labor and Defence)の会合には、他の人民委員の中でも、Felix Dzerzhinskii が出席した。…
彼は、しばらく聴いていたあと、こう言った。
『正義と衡平のために、提案する。森林労働者は、農民への割当て量の達成について個人的な責任を負わされる。加えて、各森林労働者は一人ずつ、同じ量—1ダースの木材—を達成するものとする。』/
会議の若干の構成員たちは、反対した。
彼らが指摘したのは、森林労働者は重い肉体労働に慣れていない知識人だ、ということだった。
Dzerzhinskii は、農民と森林労働者の間の年齢による不平等を無くす良いときだ、と答えた。/
チェカの長官は、結論としてこう発言した。
『さらに加えて、かりに農民が割当て量を達成できなければ、それに責任を負う森林労働者は、射殺されなければならない。
残りの者は、真剣に仕事に取り組むだろう。』/
森林労働者の多数は反共産主義者だと、広く知られていた。
依然として、部屋にある、当惑した静けさを感じた。
突然に、私は、無作法な声を聴いた。
『この提案に、誰か反対するか?』/
レーニンだった。彼の真似のできないやり方で、議論を終わらせようとしていた。
当然ながら、誰もあえてレーニンとDzerzhinskii に反対しなかった。
レーニンは、思い直したかのように、森林労働者の射殺の部分—承認されていたが—は会合の正式の議事録から削除するよう、提案した。
これもまた、彼が望んだとおりに承認された。/
会合のあいだ、私は気分が悪かった。
私はもちろん、1年以上、処刑がロシアをひどく破壊していることを、知ってきていた。—だが、多数の無実の人々の運命にかかわる5分間の議論に、私自身が同席していた。
私は、心底から動揺した。
咳き込んだけれども、私の冬風邪の一つの咳以上のものだった。/
1、2週間以内に森林労働者の処刑が行なわれても、彼らの死は先の事態を少しも変えないだろう、ということは、私には苦痛だった。
このような恐るべき決定は、この非常識な措置を発動する者たちにある、憤懣と復讐の感情から来ている、と私は知った。」(注122)
文書には何の痕跡も残さない、このような決定が多数あったに違いない。
--------
(04) チェカは、着実に、その軍事力を増大させた。
1918年夏、その戦闘部隊(Combat Detachments)が、赤軍から分離した一つの組織となった。これは、Korpus Voisk VChK(AU-ロシア・チェカの軍団)と称された。(注123)
帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)を範としたこの軍団は、「国内戦線」のための常備軍へと成長した。
1919年5月、政府は、内務人民委員としての新しい権能をもつDzerzhinskii が主導して、これらの部隊の全てを、共和国の国内的保安の軍隊(Voiska Vnutrennei Okhrany Respubliki)へと統合し、戦争人民委員ではなく内務人民委員が監督するものとした。(注124)
このとき、この国内軍には、12万人ないし12万5000人の兵士がいた。
1920年代の半ばまでには、この数は二倍になり、全体でほとんど25万人になった。この兵士たちは、工業施設、輸送設備を守り、供給人民委員部が食料を徴発するのを助け、強制労働と強制収容所を護衛した。(注125)
--------
(05) 重要なことを付言すると、チェカは、Osoby Otdel(特殊部署)として知られる、軍隊のための対抗諜報組織の事務局を設置した。
--------
(06) チェカは、こうした機能と権能をもつことによって、1920年までに、ソヴィエト・ロシアの最も強力な組織になった。
警察国家の基盤は、かくして、レーニンがその職責にあるあいだに、その主導のもとで、築かれた。
————
第十節、終わり。
Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する①。
(01) ソヴェト・ロシアは、1920年までに、つぎの意味での警察国家になった。保安警察、事実上の国家内部の国家が、その触手を、経済管理機関を含む全てのソヴェト組織に広げた、という意味での。
きわめて短い時間で、チェカは、無害の政治的異論者を捜査し、判定を下す機関から、人の生か死を決定するだけでなく、全国家装置の日常的活動を監督する、政府を超える機関に変身した。
このような発展は、必然的だった。
共産主義体制は、国の運営全般を自分で行なうことを主張したが、数十万人の専門家たちを雇う以外に選択の余地はなかった。—専門家は「ブルジョア専門家」で、その定義上、「階級敵」だった。
したがって、彼らを緊密に監督する必要があった。
この監督が、チェカの責任となければならなかった。チェカだけが、必要な組織だったのだから。—この責任が、チェカがソヴィエトの生活の全ての局面に浸透することを可能にした。
新しい機能に関する1919年2月のCEC に対する報告で、Dzerzhinskii は、こう述べた。
「群衆をまとめて簡単に処理する必要は、もうない。
我々の敵は、今では闘争の方法を変えた。我々の組織の中に、虫のように入り込もうとしている。
その目的は、我々の隊列の内部で破壊工作をすることであり、外部の敵が我々を破滅させ、我々の権力の機関や機構を掌握して、それらを我々に向けるまでつづく。…
この闘争は、する気があるならば、個人的に行なうもので、今までよりも繊細だ。
探索しなければならない。とどまることはできない。…
我々の敵は、ほとんど全ての我々の組織内にいる。
だが、我々は自分たちの組織を破壊することができない。細い糸を見つけて、捕えなければならない。
この意味で、闘争の方法は、今や完全に変わらなければならない。」(注119)
チェカは、このような主張を、全てのソヴェト組織に浸透する言い訳として用いた。
そして、チェカは人間の生命に対する無制限の力を維持したので、それがもつ行政的指示は、テロルのさらに新しい形態となった。この新しい形態のテロルを、共産党員か否かを問わず、ソヴェトで働く者全員が逃れることができなかった。
したがって、Dzerzhinskii が、1919年3月にチェカの長官職を保持しながら、内務人民委員に任命されたのは、自然なことだった。
--------
(02) 権能の拡大に沿って、1919年半ば、チェカの上層官僚には、いかなる市民をも逮捕し、いかなる組織をも捜索する権限が、与えられた。
このような権能が実際に意味したことは、 チェカ役員会の構成員に発行された証明書から記述することができる。
この証明書は、所持者に対して、つぎの権限を認めた。
(1) 反革命活動、投機その他の犯罪を行なったとして有罪であるかその疑いがあるいかなる市民をも拘束し、チェカに引き渡すこと。
(2) 全ての国家および公的官署、工業・商業企業、学校、病院、地域共同住宅、劇場ならびに鉄道駅・蒸気船港に、自由に立ち入ること。(注120)
————
②につづく。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する①。
(01) ソヴェト・ロシアは、1920年までに、つぎの意味での警察国家になった。保安警察、事実上の国家内部の国家が、その触手を、経済管理機関を含む全てのソヴェト組織に広げた、という意味での。
きわめて短い時間で、チェカは、無害の政治的異論者を捜査し、判定を下す機関から、人の生か死を決定するだけでなく、全国家装置の日常的活動を監督する、政府を超える機関に変身した。
このような発展は、必然的だった。
共産主義体制は、国の運営全般を自分で行なうことを主張したが、数十万人の専門家たちを雇う以外に選択の余地はなかった。—専門家は「ブルジョア専門家」で、その定義上、「階級敵」だった。
したがって、彼らを緊密に監督する必要があった。
この監督が、チェカの責任となければならなかった。チェカだけが、必要な組織だったのだから。—この責任が、チェカがソヴィエトの生活の全ての局面に浸透することを可能にした。
新しい機能に関する1919年2月のCEC に対する報告で、Dzerzhinskii は、こう述べた。
「群衆をまとめて簡単に処理する必要は、もうない。
我々の敵は、今では闘争の方法を変えた。我々の組織の中に、虫のように入り込もうとしている。
その目的は、我々の隊列の内部で破壊工作をすることであり、外部の敵が我々を破滅させ、我々の権力の機関や機構を掌握して、それらを我々に向けるまでつづく。…
この闘争は、する気があるならば、個人的に行なうもので、今までよりも繊細だ。
探索しなければならない。とどまることはできない。…
我々の敵は、ほとんど全ての我々の組織内にいる。
だが、我々は自分たちの組織を破壊することができない。細い糸を見つけて、捕えなければならない。
この意味で、闘争の方法は、今や完全に変わらなければならない。」(注119)
チェカは、このような主張を、全てのソヴェト組織に浸透する言い訳として用いた。
そして、チェカは人間の生命に対する無制限の力を維持したので、それがもつ行政的指示は、テロルのさらに新しい形態となった。この新しい形態のテロルを、共産党員か否かを問わず、ソヴェトで働く者全員が逃れることができなかった。
したがって、Dzerzhinskii が、1919年3月にチェカの長官職を保持しながら、内務人民委員に任命されたのは、自然なことだった。
--------
(02) 権能の拡大に沿って、1919年半ば、チェカの上層官僚には、いかなる市民をも逮捕し、いかなる組織をも捜索する権限が、与えられた。
このような権能が実際に意味したことは、 チェカ役員会の構成員に発行された証明書から記述することができる。
この証明書は、所持者に対して、つぎの権限を認めた。
(1) 反革命活動、投機その他の犯罪を行なったとして有罪であるかその疑いがあるいかなる市民をも拘束し、チェカに引き渡すこと。
(2) 全ての国家および公的官署、工業・商業企業、学校、病院、地域共同住宅、劇場ならびに鉄道駅・蒸気船港に、自由に立ち入ること。(注120)
————
②につづく。
Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
(07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
--------
(08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
——
(脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
----
(脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
--------
(09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
--------
(10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
しかし、時期が到来していた。
1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
--------
(11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
--------
(12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
----
(脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
----
彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
--------
(13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
————
第九節、終わり。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
(07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
--------
(08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
——
(脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
----
(脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
--------
(09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
--------
(10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
しかし、時期が到来していた。
1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
--------
(11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
--------
(12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
----
(脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
----
彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
--------
(13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
————
第九節、終わり。
Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員①。
(01) 赤色テロルが二ヶ月めに入ったとき、ボルシェヴィキの中層および下位の党員のあいだに、テロルへの嫌悪が感じられるようになった。
1918-19年の冬のあいだにその感情は強くなり、政府は1919年2月、チェカの権能を制限する一連の規則の発令を強いられた。
しかし、この規制は、ほとんど紙の上だけのものだった。
1919年の夏、赤軍がDenikin の攻勢によって後退し、モスクワが奪取される切迫感が生まれたとき、恐れ慄いたボルシェヴィキ指導部は、一般民衆をテロルする完全な自由をチェカに復活させた。
--------
(02) 共産党組織の内部でのチェカに対する批判は、人道主義的な衝動からではなく、チェカが独立していることへの不満や、チェカを統制下に置かなければやがてそれが忠誠心ある共産党員を脅かすことになる、という怖れによって、掻き立てられた。
チェカに付与された赤色テロルを行なう自由は、チェカの権能が党の指導層へすら及ぶことを意味した。
チェキストがつぎのように誇るのを聞いたとき、ふつうのボルシェヴィキ党員がどう感じるかを、容易に想像することができる。—我々は、「好むならば」ソヴナルコムの一員を、レーニンですらも、逮捕することができる、自分たちはチェカに対してのみ忠実なのだから。(注99)
--------
(03) 多数のボルシェヴィキ党員が思っていることを最初に語った最初の官僚は、〈プラウダ〉編集部員のOlminskii だった。
Olminskii は、1918年10月早くに、チェカは党とソヴェトの上位にあると考えている、と非難した。(注100)
州の行政を監督すると想定されていた内務人民委員部の官僚たちは、州や〈uezd〉のチェカが地方ソヴェトを無視していることに不満を表明した。
1918年10月、内務人民委員部は、地方のチェカとの関係について調査するために、州と〈uezd〉のソヴェトに対して調査団を派遣した。
回答した147のソヴェトのうち、20ソヴェトだけが、チェカが独立して行動していることに満足していた。残りの127ソヴェト(85パーセント)は、自分たちの監督のもとでチェカに活動させることを望んだ。(注101)
司法人民委員部も同様に困惑しており、政治的犯罪者を審理し判決を出す手続から自分たちは排除されている、と考えていた。
その長官であるN. V. Korylenko は、テロルの熱心な支持者で、無実の者を処刑することすら擁護していた。彼は、のちに、スターリンの見せ物裁判の、指導的な訴追者になる。
彼は、しかし、全く自然に、自分の人民委員部が殺害を担当することを望んだ。
1918年12月、彼は、党中央委員会に対して、チェカを本来の機能—すなわち、捜査—に限定し、司法人民委員部に審理と判決の権能を委ねようとする企画書を提示した。(注102)
党中央委員会は、当分のあいだ、この提案を棚上げした。
--------
(04) チェカに対する批判は、1918-19年の冬に、継続した。
〈週刊チェカ〉の刊行については、編集部の論評はなかったが、州のボルシェヴィキ官僚の手紙によって嫌悪感が広がった。ボルシェヴィキ官僚たちは、レーニンの生命を狙って共謀したとして非難されたBruce Lochkart が「最も優しい拷問」すら受けることなく釈放されたことに対して、怒りを表明した。(注103)
Olminskii は、1919年2月に、批判を再開した。
彼は、無実の者の処刑に異議を挟んだ。そのような数少ない著名なボルシェヴィキ党員の一人として、こう書いた。
「赤色テロルについては、異なる見解があり得る。
しかし、いま諸州で行なわれているのは、赤色テロルでは全くない。最初から最後まで、犯罪だ。」(注104)
モスクワで噂話として呟かれたのは、チェカの座右銘(motto)はこうだ、ということだった。—「有罪者一人を見逃すよりは、10人の無罪の者たちを処刑する方がよい」。(注105)
--------
(05) チェカは、反撃した。
反撃の仕事は、Dzerzhinskii のラトヴィア人副官であるLatsis とPeters に委ねられた。Dzerzhinskii は10月早くに、スイスへと1ヶ月の休暇をとりに行っていたからだ。
彼は、レーニンの暗殺未遂が起きて以降の6週間を、レーニンによる赤色テロルに目を光らせながら、過ごした。
髭を剃って、そっとモスクワから抜け出た。
ドイツを経由してスイスへ行き、妻と子どもたちに合流した。彼ら家族は、ベルン(Berne)のソヴィエト代表部に落ち着いていた。
赤色テロルが頂点に達していた1918年の10月に撮影された、彼の写真が、残っている。上品な私服を着て家族とともにLugano 湖畔に立って、ポーズをとっている。(注106)
大虐殺に耐えられないかのごとき様子は、テロルのこの熟達者についてよく知られた最もよい写真だった。彼は二度と、このような非ボルシェヴィキ的弱さを示そうとしなくなった。
--------
(06) チェカの報道官は、批判に応えて、彼らの組織を防衛するとともに、反対攻撃も行なった。
批判者を、こう呼んだ。反革命と闘う実際的経験のない、そしてチェカに無制約の行動の自由を認める必要性を理解することができない「アームチェア」政治家だ、と。
Peters は、反チェカの情報宣伝の背後には、「プロレタリアートと革命に敵対的な」悪辣な分子がいると非難した。チェカを批判するのは、国家反逆の罪を冒させることにつながる契機だとも、言った。(注107)
チェカは、ソヴェトから独立して行動することによって、ソヴィエトの憲法(Constitution)を侵犯している、とする批判があった。これに対して、〈週刊チェカ〉の編集部は、憲法は「ブルジョアジーと反革命が完全に粉砕されたあと」で初めて効力もち得る、と答えた。(脚注1)
----
(脚注1) Pravda, No.229(1918年10月23日), p.1. この時期のチェカをめぐる紛議に関する資料の多くは、Melgunov Archive, Box 2, Folder 6, Hoover Institution にファイルされている。さらに、Leggett, Cheka, p.121-p.157 を見よ。
————
②へ、つづく。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員①。
(01) 赤色テロルが二ヶ月めに入ったとき、ボルシェヴィキの中層および下位の党員のあいだに、テロルへの嫌悪が感じられるようになった。
1918-19年の冬のあいだにその感情は強くなり、政府は1919年2月、チェカの権能を制限する一連の規則の発令を強いられた。
しかし、この規制は、ほとんど紙の上だけのものだった。
1919年の夏、赤軍がDenikin の攻勢によって後退し、モスクワが奪取される切迫感が生まれたとき、恐れ慄いたボルシェヴィキ指導部は、一般民衆をテロルする完全な自由をチェカに復活させた。
--------
(02) 共産党組織の内部でのチェカに対する批判は、人道主義的な衝動からではなく、チェカが独立していることへの不満や、チェカを統制下に置かなければやがてそれが忠誠心ある共産党員を脅かすことになる、という怖れによって、掻き立てられた。
チェカに付与された赤色テロルを行なう自由は、チェカの権能が党の指導層へすら及ぶことを意味した。
チェキストがつぎのように誇るのを聞いたとき、ふつうのボルシェヴィキ党員がどう感じるかを、容易に想像することができる。—我々は、「好むならば」ソヴナルコムの一員を、レーニンですらも、逮捕することができる、自分たちはチェカに対してのみ忠実なのだから。(注99)
--------
(03) 多数のボルシェヴィキ党員が思っていることを最初に語った最初の官僚は、〈プラウダ〉編集部員のOlminskii だった。
Olminskii は、1918年10月早くに、チェカは党とソヴェトの上位にあると考えている、と非難した。(注100)
州の行政を監督すると想定されていた内務人民委員部の官僚たちは、州や〈uezd〉のチェカが地方ソヴェトを無視していることに不満を表明した。
1918年10月、内務人民委員部は、地方のチェカとの関係について調査するために、州と〈uezd〉のソヴェトに対して調査団を派遣した。
回答した147のソヴェトのうち、20ソヴェトだけが、チェカが独立して行動していることに満足していた。残りの127ソヴェト(85パーセント)は、自分たちの監督のもとでチェカに活動させることを望んだ。(注101)
司法人民委員部も同様に困惑しており、政治的犯罪者を審理し判決を出す手続から自分たちは排除されている、と考えていた。
その長官であるN. V. Korylenko は、テロルの熱心な支持者で、無実の者を処刑することすら擁護していた。彼は、のちに、スターリンの見せ物裁判の、指導的な訴追者になる。
彼は、しかし、全く自然に、自分の人民委員部が殺害を担当することを望んだ。
1918年12月、彼は、党中央委員会に対して、チェカを本来の機能—すなわち、捜査—に限定し、司法人民委員部に審理と判決の権能を委ねようとする企画書を提示した。(注102)
党中央委員会は、当分のあいだ、この提案を棚上げした。
--------
(04) チェカに対する批判は、1918-19年の冬に、継続した。
〈週刊チェカ〉の刊行については、編集部の論評はなかったが、州のボルシェヴィキ官僚の手紙によって嫌悪感が広がった。ボルシェヴィキ官僚たちは、レーニンの生命を狙って共謀したとして非難されたBruce Lochkart が「最も優しい拷問」すら受けることなく釈放されたことに対して、怒りを表明した。(注103)
Olminskii は、1919年2月に、批判を再開した。
彼は、無実の者の処刑に異議を挟んだ。そのような数少ない著名なボルシェヴィキ党員の一人として、こう書いた。
「赤色テロルについては、異なる見解があり得る。
しかし、いま諸州で行なわれているのは、赤色テロルでは全くない。最初から最後まで、犯罪だ。」(注104)
モスクワで噂話として呟かれたのは、チェカの座右銘(motto)はこうだ、ということだった。—「有罪者一人を見逃すよりは、10人の無罪の者たちを処刑する方がよい」。(注105)
--------
(05) チェカは、反撃した。
反撃の仕事は、Dzerzhinskii のラトヴィア人副官であるLatsis とPeters に委ねられた。Dzerzhinskii は10月早くに、スイスへと1ヶ月の休暇をとりに行っていたからだ。
彼は、レーニンの暗殺未遂が起きて以降の6週間を、レーニンによる赤色テロルに目を光らせながら、過ごした。
髭を剃って、そっとモスクワから抜け出た。
ドイツを経由してスイスへ行き、妻と子どもたちに合流した。彼ら家族は、ベルン(Berne)のソヴィエト代表部に落ち着いていた。
赤色テロルが頂点に達していた1918年の10月に撮影された、彼の写真が、残っている。上品な私服を着て家族とともにLugano 湖畔に立って、ポーズをとっている。(注106)
大虐殺に耐えられないかのごとき様子は、テロルのこの熟達者についてよく知られた最もよい写真だった。彼は二度と、このような非ボルシェヴィキ的弱さを示そうとしなくなった。
--------
(06) チェカの報道官は、批判に応えて、彼らの組織を防衛するとともに、反対攻撃も行なった。
批判者を、こう呼んだ。反革命と闘う実際的経験のない、そしてチェカに無制約の行動の自由を認める必要性を理解することができない「アームチェア」政治家だ、と。
Peters は、反チェカの情報宣伝の背後には、「プロレタリアートと革命に敵対的な」悪辣な分子がいると非難した。チェカを批判するのは、国家反逆の罪を冒させることにつながる契機だとも、言った。(注107)
チェカは、ソヴェトから独立して行動することによって、ソヴィエトの憲法(Constitution)を侵犯している、とする批判があった。これに対して、〈週刊チェカ〉の編集部は、憲法は「ブルジョアジーと反革命が完全に粉砕されたあと」で初めて効力もち得る、と答えた。(脚注1)
----
(脚注1) Pravda, No.229(1918年10月23日), p.1. この時期のチェカをめぐる紛議に関する資料の多くは、Melgunov Archive, Box 2, Folder 6, Hoover Institution にファイルされている。さらに、Leggett, Cheka, p.121-p.157 を見よ。
————
②へ、つづく。
Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第八節/人質の大量虐殺②。
(07) Belerosov によると、Kievチェカは、初め(1918-19年の秋と冬)は略奪、強要、強姦の「絶え間なき耽溺」の状態にあった。
機関員の4分の3はユダヤ人で、その多くは他の仕事に就けない輩たちだった。そして、ユダヤ人仲間を失わないよう気にかけてはいたが、ユダヤ人共同体から切り離されていた。(脚注3)
----
(脚注3)Dzerzhinskii の指示にもとづいて、チェカは、ユダヤ人をほとんど人質にしなかった。これは、ユダヤ人を好んでいたからではなかった。人質をとる目的の一つは、捕らえた共産主義者を白軍が処刑するのを抑えることだった。白軍はユダヤ人の生命を気遣うとは考えられていなかったので、Dzerzhinskii によれば、ユダヤ人を人質にするのは無益だった。M. V. Latsis, Chrezvychaine Kommissii po bor’be’s kontr-revoliutsiei(Moscow, 1921),p.54. Belerosov によると(p.132)、この政策は、1919年5月に変更された。その頃に、Kievチェカは、「煽動のために」「ある程度のユダヤ人を射殺」し、彼らに幹部の地位を与えないよう、命令された。
----
Kievチェカの赤色テロルの、Belerosov の言うところの「小屋産業」的段階は、のちに、モスクワから命令される「工場的」活動様式に変わった。
1919年夏の絶頂期、それは白軍に市が降伏する前のことだったが、Kievチェカは300人の市民を雇用し、500人の武装兵を有していた。
--------
(08) 死刑判決は、恣意的に下された。人々は、明確な理由なく射殺され、同じく気紛れに釈放された。
チェカの監獄にいる者たちは、「質問」のために呼び出される深夜の恐ろしい瞬間まで、自分たちの運命を知らなかった。
「囚人がLukianov 牢獄に収監され、突然に『チェカ』に召喚されたとすれば、慌てる理由は何もあり得なかった。
公式には、収監者は、『質問に応じる』ことが要求される者の名簿が小部屋(cell)に大声で告げられるとき—通常は午前1時、処刑の時刻—に初めて、自分の運命を知った。
その者は監獄の一画—the chancery—に連れていかれ、そこの適当な場所で、通常は書かれていることを読みきかされることなく、登録カードに署名した。
通常は、運命が決まったその者が署名したあとで、付け加えられた。すなわち、あれこれのことが、彼の判決について告げられた。
実際には、これはウソ(lie)の類だった。その収監者が小部屋を出たあとでは「優しく」扱われず、彼を待つ運命を弄ぶように告げられた。
ここで服を脱ぐよう命じられ、そして判決が執行される場所へ導かれた。
判決執行のために、第40Institute通りの傍に特別の庭が用意されていた。…その通りには、州のチェカが移ってきていた。
執行者—司令官またはその代理、ときには助手の一人、たまにはチェカの『素人』—は、裸の犠牲者をこの庭に招き入れ、地上に平らに横たわるよう命じた。
そして、彼らの襟首に向かって、銃弾が放たれた。
こうした処刑は、回転銃、通常はコルト、によって、実行された。
射撃は狭い範囲で行なわれたので、犠牲者の頭蓋は通常は粉々に砕けた。
次の犠牲者が同様に呼び入れられ、通常は苦悶の状態で、その前の犠牲者のそばに横たわった。
犠牲者の数が多くなりすぎて庭に入りきれなくなると、新しい犠牲者は前の者の上に置かれた。そうしない場合は、庭の入口で射殺された。…
犠牲者たちは通常、何の抵抗もすることなく、処刑の場に向かった。
彼らが体験したことは、大まかにすら、想像することができない。…
彼らの多くは通常、別れの言葉を言う機会を求めた。そして、そこには他に誰もいなかったので、処刑を受け入れ、諦めた。」(脚注4)
----
(脚注4) NChS, No. 9(1925), p.131-2. Hoover研究所の写真資料庫には、スライドの収集物がある。それらは明らかにKiev 奪取のあとで白軍によって撮影されており、地方のチェカ本部と、庭にある、腐敗した裸の死体を含む浅い大量の墓場を示している。1918年12月、白軍は、ウクライナでのボルシェヴィキによる犯罪を調査研究する委員会を任命した。この委員会にあった資料は、プラハのロシア文書資料庫に預けられた。チェコ政府は、第二次大戦後に、それらをモスクワに渡した。外国の研究者は、それらを利用できないできた。上の委員会が発表した報告書のいくつかは、Hoover研究所のMelgunov 資料庫のBox n、およびColumbia大学のBakhmeteff 資料庫のDenikin 文書、Box 24 で見ることができる。
--------
(09) 赤色テロルの衝撃的な特徴の一つは、犠牲者たちがほとんど抵抗しなかったこと、あるいは逃亡しようとすらしなかったことだ。彼らは、必然的なものに対するがごとく、赤色テロルに屈従した。
犠牲者たちは、屈服し、協力することによって、生きながらえることができる、という幻想を抱いていた。行なったことではなく属性を理由として犠牲者となったこと、自分たちの役割は残る民衆に対して教訓を伝えることにすぎないこと、に気づくことが全くできなかったようだ。
しかし、ここにはまた、一定の民族的な特徴も機能していた。
1920年のロシア・ポーランド戦争のあいだポーランドで勤務していたCharles de Gaulle〔戦後のフランス大統領〕 は、大きくなればなるほど、ロシア人は、それだけ危険に、より無感動になる傾向がある、と観察した。(注98)
————
第八節、終わり。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第八節/人質の大量虐殺②。
(07) Belerosov によると、Kievチェカは、初め(1918-19年の秋と冬)は略奪、強要、強姦の「絶え間なき耽溺」の状態にあった。
機関員の4分の3はユダヤ人で、その多くは他の仕事に就けない輩たちだった。そして、ユダヤ人仲間を失わないよう気にかけてはいたが、ユダヤ人共同体から切り離されていた。(脚注3)
----
(脚注3)Dzerzhinskii の指示にもとづいて、チェカは、ユダヤ人をほとんど人質にしなかった。これは、ユダヤ人を好んでいたからではなかった。人質をとる目的の一つは、捕らえた共産主義者を白軍が処刑するのを抑えることだった。白軍はユダヤ人の生命を気遣うとは考えられていなかったので、Dzerzhinskii によれば、ユダヤ人を人質にするのは無益だった。M. V. Latsis, Chrezvychaine Kommissii po bor’be’s kontr-revoliutsiei(Moscow, 1921),p.54. Belerosov によると(p.132)、この政策は、1919年5月に変更された。その頃に、Kievチェカは、「煽動のために」「ある程度のユダヤ人を射殺」し、彼らに幹部の地位を与えないよう、命令された。
----
Kievチェカの赤色テロルの、Belerosov の言うところの「小屋産業」的段階は、のちに、モスクワから命令される「工場的」活動様式に変わった。
1919年夏の絶頂期、それは白軍に市が降伏する前のことだったが、Kievチェカは300人の市民を雇用し、500人の武装兵を有していた。
--------
(08) 死刑判決は、恣意的に下された。人々は、明確な理由なく射殺され、同じく気紛れに釈放された。
チェカの監獄にいる者たちは、「質問」のために呼び出される深夜の恐ろしい瞬間まで、自分たちの運命を知らなかった。
「囚人がLukianov 牢獄に収監され、突然に『チェカ』に召喚されたとすれば、慌てる理由は何もあり得なかった。
公式には、収監者は、『質問に応じる』ことが要求される者の名簿が小部屋(cell)に大声で告げられるとき—通常は午前1時、処刑の時刻—に初めて、自分の運命を知った。
その者は監獄の一画—the chancery—に連れていかれ、そこの適当な場所で、通常は書かれていることを読みきかされることなく、登録カードに署名した。
通常は、運命が決まったその者が署名したあとで、付け加えられた。すなわち、あれこれのことが、彼の判決について告げられた。
実際には、これはウソ(lie)の類だった。その収監者が小部屋を出たあとでは「優しく」扱われず、彼を待つ運命を弄ぶように告げられた。
ここで服を脱ぐよう命じられ、そして判決が執行される場所へ導かれた。
判決執行のために、第40Institute通りの傍に特別の庭が用意されていた。…その通りには、州のチェカが移ってきていた。
執行者—司令官またはその代理、ときには助手の一人、たまにはチェカの『素人』—は、裸の犠牲者をこの庭に招き入れ、地上に平らに横たわるよう命じた。
そして、彼らの襟首に向かって、銃弾が放たれた。
こうした処刑は、回転銃、通常はコルト、によって、実行された。
射撃は狭い範囲で行なわれたので、犠牲者の頭蓋は通常は粉々に砕けた。
次の犠牲者が同様に呼び入れられ、通常は苦悶の状態で、その前の犠牲者のそばに横たわった。
犠牲者の数が多くなりすぎて庭に入りきれなくなると、新しい犠牲者は前の者の上に置かれた。そうしない場合は、庭の入口で射殺された。…
犠牲者たちは通常、何の抵抗もすることなく、処刑の場に向かった。
彼らが体験したことは、大まかにすら、想像することができない。…
彼らの多くは通常、別れの言葉を言う機会を求めた。そして、そこには他に誰もいなかったので、処刑を受け入れ、諦めた。」(脚注4)
----
(脚注4) NChS, No. 9(1925), p.131-2. Hoover研究所の写真資料庫には、スライドの収集物がある。それらは明らかにKiev 奪取のあとで白軍によって撮影されており、地方のチェカ本部と、庭にある、腐敗した裸の死体を含む浅い大量の墓場を示している。1918年12月、白軍は、ウクライナでのボルシェヴィキによる犯罪を調査研究する委員会を任命した。この委員会にあった資料は、プラハのロシア文書資料庫に預けられた。チェコ政府は、第二次大戦後に、それらをモスクワに渡した。外国の研究者は、それらを利用できないできた。上の委員会が発表した報告書のいくつかは、Hoover研究所のMelgunov 資料庫のBox n、およびColumbia大学のBakhmeteff 資料庫のDenikin 文書、Box 24 で見ることができる。
--------
(09) 赤色テロルの衝撃的な特徴の一つは、犠牲者たちがほとんど抵抗しなかったこと、あるいは逃亡しようとすらしなかったことだ。彼らは、必然的なものに対するがごとく、赤色テロルに屈従した。
犠牲者たちは、屈服し、協力することによって、生きながらえることができる、という幻想を抱いていた。行なったことではなく属性を理由として犠牲者となったこと、自分たちの役割は残る民衆に対して教訓を伝えることにすぎないこと、に気づくことが全くできなかったようだ。
しかし、ここにはまた、一定の民族的な特徴も機能していた。
1920年のロシア・ポーランド戦争のあいだポーランドで勤務していたCharles de Gaulle〔戦後のフランス大統領〕 は、大きくなればなるほど、ロシア人は、それだけ危険に、より無感動になる傾向がある、と観察した。(注98)
————
第八節、終わり。
人気記事(30日間)
アーカイブ
記事検索
リンク集
最新記事
タグクラウド
- 2007参院選
- L・コワコフスキ
- NHK
- O・ファイジズ
- PHP
- R・パイプス
- カーメネフ
- ケレンスキー
- コミンテルン
- ジノヴィエフ
- スターリン
- ソヴェト
- ソ連
- チェカ
- トロツキー
- ドイツ
- ニーチェ
- ネップ
- ヒトラー
- ファシズム
- フランス革命
- ブハーリン
- ボルシェヴィキ
- ポーランド
- マルクス
- マルクス主義
- メンシェヴィキ
- ルソー
- レシェク・コワコフスキ
- レーニン
- ロシア革命
- ワック
- 不破哲三
- 中国
- 中国共産党
- 中川八洋
- 中西輝政
- 丸山真男
- 九条二項
- 佐伯啓思
- 保守
- 全体主義
- 八木秀次
- 共産主義
- 北朝鮮
- 大江健三郎
- 天皇
- 安倍内閣
- 安倍晋三
- 安倍首相
- 小学館
- 小林よしのり
- 小沢一郎
- 屋山太郎
- 岩波
- 左翼
- 慰安婦
- 憲法九条
- 憲法学界
- 憲法改正
- 文藝春秋
- 新潮社
- 日本会議
- 日本共産党
- 日本国憲法
- 月刊WiLL
- 月刊正論
- 朝日新聞
- 桑原聡
- 樋口陽一
- 橋下徹
- 櫻井よしこ
- 民主主義
- 民主党
- 江崎道朗
- 池田信夫
- 渡部昇一
- 産経
- 百地章
- 皇室
- 石原慎太郎
- 社会主義
- 神道
- 立花隆
- 竹内洋
- 自民党
- 自衛隊
- 花田紀凱
- 菅直人
- 西尾幹二
- 西部邁
- 読売
- 諸君!
- 講談社
- 辻村みよ子
- 週刊新潮
- 遠藤浩一
- 阪本昌成
- 音楽ライブラリー
- 鳩山由紀夫
カテゴリー



























































