秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/09

2958/R. Pipes1990年著—第18章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第八節/人質の大量殺戮①。
 (01)  近年、ソヴィエトの政治警察は、その原型であるチェカを賛美しなければならないという強い切迫感をもっているようだ。
 ソヴィエトが気前よく助成している文献では、チェキストは、革命の英雄だと叙述されている。道徳的な誠実さを犠牲にして、苛酷で不愉快な義務を履行した、というわけだ。
 典型的なチェキストは、行動について妥協をしないほど厳格で、だが感情については感傷的なほど優しい、と描かれている。人間のための重大な使命を達成するために生来の人間性を抑制する、そのような稀な勇気と紀律をもつ精神的な巨人だ、というのだ。
 このような評価に値する者は、ほとんどいない。
 そうした文献を読むとき、Himmler のSS将校たちに対する1943年の演説を思い出さざるを得ない。彼は、SS将校たちを、数千人のユダヤ人を殺戮しながら「上品さ」を何とか維持したがゆえに、優れた血族だと称賛した。(脚注1)
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 (脚注1)  このような自己憐憫の例は、チェキストたちのグループのつぎの1919年の言明に見出すことができる。「不屈の意思と内面的な強さを必要とする信じ難く困難な条件のもとで…働く[チェカに]雇われている者は、誹謗中傷や頭の上に悪意をもって注がれる戯言にもかかわらず、汚染されることなく仕事をしつづける」、等々。V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, I(Moscow, 1928), p.430-1.
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 (02)  現実にはどうだったのか、チェカが惹きつけたのはどのような人々だったのか。これらを、離反して白軍に入ったかまたは白軍の手に落ちたかのチェキストの証言から、再現することができる。
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 (03)  人質をとって処刑する手続は、F. Drugov という名の元チェキストによって叙述された。(注95)
 彼の証言によると、チェカにはもともとは方法というものがなかった。チェカは、帝制下で重要な地位(とくに憲兵隊員)を占めていた、軍隊の高官だった、資産を所有している、あるいは新体制を批判している、といった様々の理由で、人質にした。
 地方チェカの意見では「大量テロルの適用に該当する何かが起きると、恣意的に設定されたその人質に相応する数が監獄の小部屋から選び出され、射殺された。
 Drugov の説明を支持する、ある州の都市からの証拠資料がある。
 1918年10月、旧体制の多数の著名人が避難していた北部コーカサスの都市であるPiatigorsk での若干のソヴェト官僚の殺害に反応して、チェカは、59人の人質を処刑した。
 公表された犠牲者の名簿には(姓名ともに提示されなかった)、ニコライ二世の退位について重要な役割りを果たしたN. V. Ruzskii 将軍、戦時中の輸送大臣だったS. V. Rukhov、6人の爵位付き貴族、があった。
 遺品は主として皇帝軍の将軍や大佐のもので、他の者のものはわずかだった。最後の少数者の中には、「大佐の娘」としてだけ特定されている女性がいた。(注96)
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 (04)  人質に関するより体系的な方法は、1919年夏に、採用された。それは、Denikin がモスクワに向かって前進して、収監者や人質たちが白軍の手に入るのを阻止すべく、彼らを避難させる必要と関係があった。
 Drugov によると、この時点で、ソヴィエト・ロシアの拘置所には、12,000人の人質がいた。
 Dzerzhinskii は、副官たちに、必要が生じたときに人質を射殺する優先順序を策定するよう指示した。
 Latsis とその仲間は、着実なKedrov 博士の助けを借りて、人質を7つの集団に分けた。分別する主要な規準は、個人的な富裕さだった。
 帝制時代の警察の元官僚が加えられた最も富裕な人質たちは、カテゴリー7と位置づけられた。この集団は、まず最初に処刑されるものとされた。
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 (05)  ナツィスによるユダヤ人の大量虐殺については、吐き気を催すほど詳細に、全ての側面が知られている。これと違って、1918-1920年の共産主義者によるホロコーストについては、一般的な経緯ですら隠されたままだ。
 処刑があることはしばしば公表されたけれども、決まって秘密裏に実行された。
 利用できる数少ない文献資料のうち、最良のもののいくつかはロシアにいたドイツの報道記者によっている。とくに、この種の情報の広がりを抑えようとしたドイツ外務省からの圧力に抵抗した、ベルリンの〈Lokalanzeiger〉で公刊されたものだ。
 以下の叙述は、ロンドンの〈The Times〉を経由した、この〈Lokalanzeiger〉によっている。
 「夜間に行なわれる処刑全体の詳細は、秘密のままだ。
 ソヴィエトの兵士の一部隊が、[Petrovskii]広場で、アーク灯に煌々と照らされながら、大監獄から送られてくる犠牲者を受け取るべくつねに待機している、と言われている。
 時間は無駄にされず、憐憫の情がかけられることもない。
 処刑の場所に身を置きたくはないが、処刑されるべく一列に並んで待つ者たちは、そこに引っ張られてくる。」
 このような実態は、ナツィの絶滅(extermination)収容所からの真正の文献資料を思い出させる。
 処刑執行者について、特派員はこう述べた。
 「毎晩のように処刑実施に加わった海兵たちについて、処刑する癖が身についたため、モルフィネ(morphia)がモルフィネ狂者に必要なように、彼らには処刑することが必要になった、と言われいる。
 彼らは業務に就くことを進んで志願し、何人かを射殺しなければ眠ることができない。」
 処刑が迫っていることや処刑が実行されたことは、家族には、知らされなかった。(脚注2)
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 (脚注2) The Times, 1918.09.28, p.5a. 大きな処刑場所として使われたPetrovskii 広場は、のちに、Dynamo 球場の所在地になった。そこはButyrki 監獄の近くで、その監獄には、モスクワ・チェカの囚人のほとんど—つねに約2,500人—が投獄されていた。別の処刑場所は、反対側、モスクワの東端のSemenovskaia Zastava にあった。
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 (06)  最も酷い残虐行為を行なったのは、いくつかの州のチェカだった。これらのチェカは中央機関の目が届かない遠くで活動し、外国の外交官や報道記者たちによって報告されるのを怖れなかった。
 そうしたチェカの機関員の一人、かつて法学生で帝制時代の官僚だったM. I. Belerosov は、1919年のKievチェカの活動について、詳細な叙述を残した(注97)。彼は、Denikin 将軍を尋問しもした。
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 ②へ、つづく。

2957/R. Pipes1990年著—第18章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始③。
 (15) 今やチェカの機関員は、好きなように体勢の敵を処理することができる、と告げられた。
 Peters の署名のあるチェカの回状第47号によると、「チェカは、その活動について、全く独立して、探索、逮捕、処刑を行なう。それらに関して説明する責任は、のちにソヴナルコムおよびソヴェト執行委員会(Ispolkom)に委ねられる」。(注86)
 このような力をもち、かつモスクワからの威嚇によって促進されて、ソヴィエト全土の州や地区のチェカは、今や活発に作業を行なった。
 共産党のプレスは、9月のあいだに、赤色テロルの進展についての州に関する大量の記事や処刑を報告する多数の欄を公にした。
 ときには処刑された者の人数だけが掲載され、ときには姓名と職業も掲載された。後者にはしばしば、「〈kr〉」あるいは「反革命」という特定が付いていた。
 チェカは、9月の末に、自分の組織の機関紙の〈週刊チェカ〉(〈Ezhenedel’nik VChK〉)を発刊した。情報と経験の交換を通じて、チェキストの間での仕事上の友愛関係の形成を助けるためだった。
 この機関紙は、ほとんどが州によって編集された処刑の概括を、定期的に掲載した。まるで、地域のフットボール戦の試合結果であるかのごとく。
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 (16) 共産党指導者たちがこの時期に流血を呼びかけた熱心さを読者に伝えるのは、困難だ。
 まるで隣人よりも「優しく」なく、「ブルジョア的」でないことを、競い合っていたかのごときだった。
 スターリン主義者とナツィのホロコースト(holocausts)は、はるかに大きい端正さ(decorum)をもって実行された。
 飢えや消耗で死ぬよう宣告された、スターリンにとっての「クラク」や政治的に望ましくない者は、「矯正収容所」に送られることになる。一方で、ヒトラーにとってのユダヤ人は、ガス室を経て、「撤去」(evacuate)または「再配置」(relocate)されることになる。
 これらと対照的に、初期のボルシェヴィキのテロルは、公然と(in the open)実行された。
 ここには躊躇はなく、婉曲的な言い回しもなかった。世界じゅうのGrand Guignol〔恐怖劇の人形〕は、—支配者であれ被支配者であれ—全ての者に責任感をもたせ、それによって体制の存続への共通の関心を発展させることで「教育的」目的に役立つ、という意味をもたされているのだから。
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 (17) 赤色テロルの開始の2週間後、共産党員の集会に向かって、ジノヴィエフは、こう述べた。
 「ソヴィエト・ロシアの住民1億人のうち、我々は9,000万人と何とか一緒に進まなければならない。残りの1,000万人については、言うべきことは何もない。彼らは、消滅(annihiate)されなければならない。」(注87)
 ソヴィエトの最高の地位をもった者の一人である者のこのような言葉は、1,000万人の人間に対して死刑の判決を下した。
 そして、赤軍の機関が大衆に大量虐殺(pogroms)をさせようとする、つぎの言葉もある。
 「哀れみもなく、寛容さもなく、我々は、数千の単位で敵を殺すだろう。彼らを数千のままでいさせよ。彼らを自分の血で溺れさせよ。
 レーニンとUritskii の血のために…。ブルジョアジーの血で溢れさせよ。—可能なかぎり、より大量の血を。」(注88)
 Karl Radek は、「白軍の運動には直接には参画していなかった」人々のような罪なき犠牲者に言及しつつ、こうした大量虐殺に拍手を送った。
 彼は、そのような人々への制裁を自明のこととして語った。
 「全てのソヴィエトの労働者にとって、反革命の工作員の手に落ちる労働者革命の指導者にとって、後者は10人の頭でもって支払う必要がある。」
 彼の唯一の不満は、民衆が十分には巻き込まれていないことだった。
 「ブルジョアジーの中から選ばれ、労働者、農民および赤軍の代表者でなるソヴェトにより発表された判決にもとづいて処刑される5人の人質は、この行為を是認する数千人の労働者が見ている中では、労働者大衆の参加のないチェカの決定のよる500人の処刑よりも、力強い大量テロルの行為だ。」(注89)
 当時の道徳的雰囲気はこのようなものだったので、チェカの収監者の一人によると、「参画するテロル」を呼びかけるRadek の文章は、監獄の被収容者、人質の多くから、人道的(humanitarian)な態度だとして歓迎された。(注90)
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 (18) のちに「革命の良心」として称賛される者たちを含めて、
ボルシェヴィキ党と政府の中の誰一人として、このような残忍な諸行為(atrocities)に、公的には反対しなかった。ましてや、抗議して辞職する者は存在しなかった。
 実際に、彼らは、支持していた。こうして、レーニンに対する狙撃の翌日の金曜日に、ボルシェヴィキ指導部の上層は、モスクワに対して、政府の政策を防衛するよう煽り立てた。
 大量殺戮に対する関心と嫌悪感の表明や実際にあったような人間の生命を救おうとする試みは、第二ランクのボルシェヴィキ党員、中でもM. S. Omninskii、D. B. Riazanov、E. M. Iaroslavskii によって行なわれた。但し、事態の推移にはほとんど影響を与えなかった。(脚注3)
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 (脚注3) 1918年11月、尊敬すべきアナキスト理論家のPeter Kropotkin が、テロルに抗議するためにレーニンと逢った。Lenin, Khronika, VI, p.195. 彼は、1920年に、人質を取るという「中世的」実務に反対する感情のこもった願いを書いた。G. Woodcock & I. Avakumovic, The Ancient Prince(London-New York, 1950), p.426-7.
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 (19) 初期段階での赤色テロルは、奇妙なことに、ボルシェヴィキが最初から反体制の暴力行為の元凶だと見なしてきた政党を攻撃しなかった。社会主義革命党(エスエル)だ。
 モスクワがエスエルに向かわなかったのは、エスエルが農民に支持されていたからか、白軍との戦闘で彼らの支援を必要としたからか、あるいはボルシェヴィキ指導者に対するテロルの波を却って煽るのを怖れたからか。いずれにせよ、ボルシェヴィキは、エスエルの人質たちを逮捕して射殺すると脅かしはしなかった。
 いわゆる赤色テロルのレーニンの時代に、ただ一人のエスエル党員だけが、モスクワで処刑された。(注91)
 チェカの犠牲になった者の大多数は、〈旧体制〉の者たち、ふつうの裕福な市民で、これらの多数はボルシェヴィキによる苛酷な弾圧を是認していた。
 収監されつつ、ボルシェヴィキによる抑圧を称賛した保守的な官僚や帝制時代の将校がいた、とする証拠資料がある。このような厳格な措置こそがロシアを混乱から抜け出させ、ロシアを再び大国にする、と考えていたのだ。(注92)
 すでに〔第12章で/試訳者〕記したように、君主制主義者のVladimir Purishkevich は、1918年春に、宥和的な調子で、共産党体制を、臨時政府よりもかなり「堅固だ」(firm)として称賛した。(注93)
 チェカはその犠牲者をこのような者たち—政治的な無害者および場合によっては支持者ですら—から選んだ、ということによって、次のことが確認される。すなわち、赤色テロルの目的は、特定の反対派を殲滅させるというよりも、一般的な威嚇の雰囲気を作り出すことであり、その目的のためにはテロルの犠牲者の考え方や活動ぶりは二次的に考慮されるにすぎなかった。
 ある意味では、テロルが非合理的であればあるほど、それだけ有効になった。テロルは、まさに合理的な検討を見当違いのものにし、人々を畜群の地位へと落とし込むからだ。
 Krylenko は、こう言った。—「有罪者だけを処刑してはならない。無実の者の処刑こそが、大衆にとっていっそう印象深いものにする。」(注94)
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 第七節、終わり。第八節へ。

2956/R.Pipes1990年著—第18章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始②。
 (10) 第一の布令は、人質(hostage)をとるという実務を制度化した。(脚注1)
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 (脚注1) 人質(hostage)について最初に言及したのは、1917年11月11日のトロツキーの演説だ。収監されている軍隊のカデットは、人質になるだろう、と彼は言った。—「我々が敵の手に落ちたならば、…労働者と兵士の各1人ごとに、我々は5人のカデットを要求することになる」。Izvesti
ia, No. 211(1917年11月12日), p.2.
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 これは、野蛮な手段で、最も暗黒の時代への回帰だった。第二次大戦後の国際司法裁判所ならば、戦争犯罪だと断定しただろう。
 チェカによる人質は、ボルシェヴィキ指導者に対する将来の攻撃またはボルシェヴィキ支配に対するその他の何らかの積極的な反抗への報復として実行されるものとされた。
 実際に、人質たちは昼夜を問わず射撃隊の前に並んでいた。
 このような虐殺を公式に裁可したのが、内務人民委員であるGrigorii Petrovskii の署名のある、1918年9月4日の「人質に関する命令(Order)」だった。これは、赤色テロル布令の1日前に発せられ、全ての州のソヴェトへと電信で伝えられた。
 「Volodarskii の殺害、Uritskii の殺害、人民委員会議議長のVladimir Ilich LENIN に対する殺害および傷害の企て、フィンランド、ウクライナでの、Don 地域での、およびチェコスロヴァキア(に支配された地域)での我々の同志数万人の大量処刑、我々の軍隊の後方での陰謀の継続的な発見、これらの陰謀についての右翼エスエルやその他の反革命的な(陰謀に関与している)くずども(scum)による公然たる承認、そして同時に、ソヴェトによる白衛隊兵士やブルジョアのきわめて少数の厳格な抑圧や処刑。
 これらが示すのは、エスエル、白衛隊兵士およびブルジョアジーに対する大量テロルに関する恒常的な話にもかかわらず、テロルは実際には存在しない、ということだ。//
 このような状況は、断固として終わらせなければならない。
 怠慢と寛容は、ただちに止めなければならない。
 地方ソヴェトに知られる全ての右翼エスエルが、ただちに逮捕されなければならない。
 ブルジョアジーと官僚たちの中から多数の人質をとることが、必要だ。
 白衛隊に抵抗して撹乱する企てがあった場合には、どんなに小さいものであっても、ただちに大量処刑の措置がとられなければならない。
 地方の州ソヴェトの執行委員会は、この点に関して特別の主導性を発揮すべきだ。//
 行政官署は、軍団やチェカを用いて、偽名の背後に隠れている全ての者を識別して逮捕する、あらゆる手段を講じなければならない。
 白衛隊の活動に関与する全ての者は、義務的な処刑に服さなければならない。//
 以上の全ての措置は、ただちに実行されるものとする。
 この点に関する地方ソヴェトの諸機関の優柔不断な行動は、ただちに連絡されなければならない。…内務人民委員部に対して。//
 労働者階級と貧しい農民層の権力に反抗する全ての白衛隊や卑劣な陰謀者は、我々の軍隊の後方から、最終的にかつ完全に排除されなければならない。
 大量テロルを行なうに際して、些かの躊躇も、些かの優柔不断さも、あってはならない。//
 前述の電報の受理を確認せよ。〈uezd〉(地区)のソヴェトに伝えよ。
 内務人民委員、Petrovskii。」(注80)
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 (11) この異常な文書は、特定の犠牲者に対する「怠慢と寛容」と称するもの—別言すると人間的優しさ—に対する制裁で脅迫したうえで、無差別のテロルを許容したのみならず、要求した。
 ソヴェトの官僚たちは、大量殺害を実行するか、それとも「反革命」への共謀として追及される危険を冒すか、を選ぶことが要求された。
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 (12) 第二の布令は、ソヴナルコム(人民委員会議)によって是認され、司法人民委員のD. Kurskii が署名した「決議」を1918年9月5日に採択することによって、赤色テロルを制度化した。(注81)
 この布令は、こう述べた。ソヴナルコムは、チェカ長官からの報告を聞いて、テロル政策を強化することが必須だ、と決定した。
 体制の「階級敵」は、強制収容所(concentration camps)に隔離されなければならず、白衛隊組織、陰謀者および反乱的行動[miatezh]と関係をもつ全ての者は、すみやかに処刑される必要がある。
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 (13) 共産党の文書資料や歴史的文献は、これらの命令の起源について、沈黙のままで通り過ぎている。これらをソヴィエトの布令集の中に見出すことはできない。
 レーニンの名前は、周到に、これらと無関係だとされてきた。人質取りは階級戦争にとってきわめて重要だと強く主張した、と知られているけれども。(注82)
 では、誰が、これらの布令の執筆者だったのか?
 表面的には、レーニンは当時は出血によって体調が悪かったので、国家に関係する仕事に関与することができなかった。
 だが、二人の人民委員がこのように重要な措置を、レーニンの明確な是認なくして決定することができた、と信じるのは困難だ。
 赤色テロルを開始する二つの布令をレーニンが裁可した、という疑念は、つぎの事実によって支持される。すなわち、9月5日に彼は、ロシア・ドイツ関係に関する瑣末な布令に何とか署名をすることができた。(注83)
 その署名の存在がレーニンの個人的な関与を、決定的に証明するわけではない。そうであっても、少なくとも、彼の身体上の不可能性を反対証拠として持ち出すことを否定することはできる。
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 (14) 8月31日、上記のような趣旨の公式の命令が発せられる前であっても、Nizhnii Novgorod のチェカは、「敵の陣営」から来た者と特定された41人の人質を検挙し、射殺した。
 犠牲者の名簿は、彼らは主に元将校、「資本主義者」、聖職者だったことを示していた。(注84)
 ジノヴィエフは、ペテログラードで、まるでレーニンが彼を「優しさ」のゆえに叱責する場合に備えるがごとく、512人の人質の略式処刑を命じた。
 処刑された者の中には、〈旧体制〉と関連して監獄に数ヶ月のあいだ収容されていた、したがって、ボルシェヴィキの指導者に対するテロリスト的襲撃と何の関係ももち得ない、そういう多数の人々が含まれていた。(注85)
 Dzerzhinskii は、モスクワで、1917年以来ずっと収監されていた旧帝制政府の何人かの高官たちの処刑を命じた。処刑された者の中には、1人の司法大臣(I. G. Shcheglovitov)、3人の内務大臣(A. N. Khvostov, N. A. Maklakov, A. D. Protopopov)、1人の警察部署の長官(S. P. Beletskii)、および司教(bishop)がいた。
 したがって、こうした殺害は、これらの者が司法や警察に責任をもっていたあいだにDzerzhinskii が収監されて過ごした苛酷な年月に対する報復だった、という印象から逃れることはできない。(脚注2)
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 (脚注2) 同様の現象は、15年後にドイツで観察されることになる。ナツィスが権力を掌握したとき、SAのメンバーはしばしば、個人的な敵を攻撃するために選抜し、拷問にかける。その中には、ワイマール共和国で彼らに判決を下した裁判官たちもいた。Andrzej Kaminskii, Konzentrationslager 1896 bis heute: eine Analyse(Stuttgart, 1982), p.87-88.
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 ③へ。

2955/R. Pipes1990年著—第18章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始①。
 (01) ボルシェヴィキは、権力を掌握した日から、テロルを実行した。権力を増すにつれて、そして彼らの人気が落ちてくるにつれて、テロルは激しくなった。
 1917年11月のカデット党員の逮捕、それに続いたカデット指導者のKokoshkin とShingarev の罰せられなかった殺害は、テロル行為だった。立憲会議の閉鎖と立憲会議を支持した示威行進者の射殺がそうだったように。
 赤軍兵団と1918年春に解散してボルシェヴィキを権力外に置こうと票決したソヴェトを都市から都市へと乱暴に扱った赤衛隊は、テロル行為をやらかしていた。
 主として1918年2月22日のレーニンの布令により与えられた権限にもとづき州および地区のチェカが実行した処刑は、テロルを新しい段階の激烈さにまで押し上げた。当時にモスクワに住んでいた歴史家のS. Melgunov は、プレスの記事から、1918年前半に行なわれた882の処刑に関する証拠資料を一冊にまとめた。(注73)
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 (02) しかしながら、初期のボルシェヴィキによるテロルは、のちの内戦中の白軍のテロルにむしろ似た非体系的なもので、また、犠牲者の多くは「投機者」を含む通常の犯罪者だった。
 ボルシェヴィキの状勢が底をついていた1918年の夏にようやく、テロルは体系的で政治的な性格を帯び始めた。
 チェカは、7月6日の左翼エスエルに対する弾圧のあとで、初めての大量処刑を実行した。その犠牲者は、その前月に逮捕されていたSavinkov の秘密組織のメンバーや、左翼エスエルの蜂起への参加者だった。
 モスクワのチェカ役員会から左翼エスエルを追放することによって、政治警察に対する最後の制約が除去された。
 7月半ば、Iaroslavl の蜂起(uprising)に加わっていた多数の将校たちが、射殺された。
 チェカは、軍事的陰謀に怖れ慄いて、旧軍隊の将校たちを探索し始め、審判手続なしで、彼らを処刑した。
 Melgunov の記録によれば、主としてチェカが、1918年7月だけで、1,115の処刑を実行した。(注74)
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 (03) 皇帝家族とその縁戚者の殺害は、テロルのいっそうの拡大を示した。
 チェカの組織員は今や、収監者や容疑者を意のままに射殺する力をもつことを誇った。但し、その後のモスクワによる苦情から判断すると、州当局は必ずしもつねに彼らの力を利用したわけではなかった。
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 (04) レーニンは、このような政府によるテロルの激化にもかかわらず、なおも満足しなかった。
 彼は、「大衆」をこのようなテロルに巻き込もうと考えていた。おそらくは、政府機関の者と民衆の両者を巻き込む組織的殺戮(pogrom)こそがこの両者をお互いに近密にするのに役立つ、と思ったからだ。
 彼は、共産党員官僚と市民たちがより断固として行動すること、殺害に対する抑制感を排除すること、を強く求めつづけた。
 他にどのようにすれば、「階級戦争」は現実のものになるのか?
 1918年の2月に早くも、レーニンは、ソヴィエト体制は「穏やかすぎる」という不満を述べていた。彼が欲したのは「鉄の権力」だった。ところが実際には、「異様に柔軟で、どの段階ででも鉄ではなくゼリーのようだ」というわけだ。(注75)
 ペテログラードの党官僚が、労働者がVolodarskii 暗殺に対する報復として虐殺を行なうのを制止した。このことを1918年6月に聞いて、レーニンは烈火のごとく憤慨し、かれの副官にに怒りの手紙を送った。
 「ジノヴィエフ同志!
 中央委員会は、今日ようやく、ペテログラードでは〈労働者たち〉がVolodarskii の殺害に対して大量のテロルでもって反応しようとしたこと、きみ(きみ個人ではなくペテログラード中央委員会または地域委員会)はそれを却下したこと、を知った。
 私は、断固として抗議する!
 我々は体面を傷つけている。ソヴェトの決議によって大量テロルで脅かしても、それを行動に移すときでも、我々は、大衆の〈全体として〉正しい革命的な主導性を〈邪魔して〉いる。
 こんなことは、許-され-ない!。」(注76)
 レーニンは、2ヶ月後に、Nizhnii Novgorod の当局に対して、「〈ただちに〉大量テロルを始め、〈数百人の〉売春婦、泥酔した兵士、元将校、等々を〈処刑し、放逐する〉」ことを指示した。(注77)
 ここでの恐ろしくも不正確な三文字—「等々(etc.)」—は、体制の組織員に対して、犠牲者を自由に選択することを認めた。それは、体制がもつ不屈の「革命的意思」表現するものとしての、大量虐殺のための大量虐殺(carnage)であるべきだった。その「革命的意思」は、脚元で崩れつつあった。
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 (05) テロルは、政府による村落に対する戦争の宣言に関連して、地方へも広がった。
 労働者に「クラク」を殺すことを奨励するレーニンの言葉を、すでに引用した。
 自分たちの穀物を食糧派遣隊から守ろうとして1918年の夏と秋に殺された農民について、その大まかな数ですら知るのは、不可能だ。
 政府の側での犠牲者の数が数千人になるとすれば、もっと少なかったということはあり得ないだろう。
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 (06) レーニンの仲間たちは、革命の教条のために民衆を殺害させ、殺害に関与させることが高貴で高揚させるものであると、明確に残酷な行為の用語法を用いて、誘い込むことについて、お互いに競い合った。
 例えば、トロツキーは、ある場合に、赤軍へと徴用した元帝制将校の誰かが背信的な行動をしたとしても、「特別な場所以外に何も残らないだろう」と警告した。(注78)
 チェキストのLatsis は、「内戦の法」はソヴィエト体制に反抗して闘う「全ての負傷者を殺戮すること」だ、と宣告した。「生か死かの闘いだ。きみが殺さなければ、殺されるだろう。だから、殺されないように、殺せ。」(注79)
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 (07) フランス革命ででも、白軍の側でも、このような大量殺戮の奨励は、聞かれなかった。
 ボルシェヴィキは、意識的に、市民を残虐にすること、前線の兵士が敵の軍服を着た者を見るのと同じように、つまり人間ではなく抽象物を見るように、仲間の市民の誰かを見させること、を追求した。
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 (08) 銃弾がUrirskii とレーニンを襲ったときまでに、殺害志向の精神状態は、きわめて高度の激烈さを達成していた。
 上の二つのテロリストの行為—判明したように関連性はないが、当時は組織的陰謀の一部と見なされた—は、形式的な意味での赤色テロルを解き放った。
 犠牲者の多数は、主に社会的背景、裕福さ、および旧体制との関係を理由として、適当に手当たり次第に、選ばれた人質だった。
 ボルシェヴィキは、こうした大虐殺は体制に対する具体的な脅威を抑圧することのみならず、市民を脅迫し、市民を心理的な屈服状態に陥らせるためにも必要だ、と考えた。
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 (09) 赤色テロルが公式に始まったのは、内務人民委員と司法人民委員の署名付きで9月4日と5日に発せられた、二つの布令によってだった。
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 ②へ。

2954/R. Pipes1990年著—第18章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり③。
 (18) 一人の政治家についての、体制によるこのような宗教類似の崇拝(cult)は、なぜ、唯物論や無神論と適合するのか?
 この疑問に対しては、二つの回答がある。一つは、共産党の内部的な必要性にかかわる。もう一つは、共産党と同党が支配する民衆の関係にかかわる。
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 (19) ボルシェヴィキは自らを政党だと主張したけれども、実際にはそのようなものではなかった。
 彼らはむしろ、選ばれた指導者の周りに集まった部隊または軍団に似ていた。
 彼らを一緒に結合させたものは、綱領または基本的主張ではなく—これらは、指導者の意向と一致するように毎日のように変わり得るものだった—、指導者の特性(person)だった。
 共産主義者を指導したのは、指導者の直観と意思であって、客観的な原理ではなかった。
 レーニンは、「指導者」(〈vozhd〉)と呼ばれる、近代の最初の政治的人物だった。
 彼の存在は、不可欠だった。彼の指導がなければ、一党国家体制は自らを維持するものを他に何ももたないのだから。
 共産主義は、政治を再び人格化した。そして、法ではなく人間が国家と社会を指揮する時代へと政治を後退させた。
 そのためには、字義どおりではなく表象としては、指導者は不死であることが必要だった。レーニンは、その人格(person)によって指導しなければならなかった。そしてまた、彼の死後は、継承者がその名前で支配することができ、レーニンから直接に霊感を受けたと主張することができる必要があった。
 レーニンの死後に始まった「レーニンは生きている!」というスローガンは、ゆえに、宣伝のための常套句なのではなく、統治の共産主義システムに不可欠の要素だった。
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 (20) 以上のようなことで、レーニンを神格化し、ふつうの人間の日常を超越する場所に置き、不死にする必要性が、かなりの程度に説明される。
 レーニン崇拝は、彼が死の淵にあったと考えられたときに始まり、実際に死亡した5年後には装置のごときものになっていた。
 彼の霊感は、彼が創設した党と国家の活力と破壊不能性を維持するためには不可欠だった。
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 (21) もう一つは、体制に正統性が欠けていることにかかわる。
 ボルシェヴィキが世界的革命の触媒者として行動していた体制の最初の三ヶ月には、この問題は生じなかった。
 しかし、世界的革命が近い将来に起こり得ないこと、ボルシェヴィキ体制は大きな多民族国家を統治する責任を持たなければならないだろうこと、が明瞭になると、要求される前提条件が変わった。
 この時点で、ボルシェヴィキの支配下にあるソヴィエト・ロシアの7000万人余りの住民の体制に対する忠誠さが、きわめて大きな関心事になった。
 ボルシェヴィキは、通常の選挙手続によってこの忠誠心を確保することができなかった。彼らが最も支持された1917年11月に〔立憲会議選挙で/試訳者〕、投票数の四分の一以下しか獲得していなかった。そして、幻想から醒めた後では、ボルシェヴィキは確実に一つの党派であるにすぎなかっただろう。
 ボルシェヴィキは、内心では、自分たちの権威は、参画資格に疑問がありながら権力にとどまる、薄い層の労働者と兵士に具現化されている、物理的な力に依存している、ということを知っていた。
 彼らの体制が左翼エスエルから攻撃された1918年7月に、首都の労働者と兵士は「中立」を宣言して体制を助けるのを拒んだ。このことから、彼らは逃れることができなかった。
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 (22) このような条件のもとで、本当の正統性および失われている民衆による委任の代用物になる次に最もよいものとしてボルシェヴィキに役立ったのは、創建した父親であるレーニンを神格化することだった。
 古代に関する歴史家たちは、つぎのことを知っていた。正統な権威を主張することができず、さらに民族的な紐帯でもってマケドニア人にも相互にも拘束されない、そういう多様な非ギリシャ人をマケドニアのAlexander が征服したあとで初めて、中東では、制度化された指導者崇拝が大規模に始まった、と。
 Alexander、その継承者たちは、ローマの皇帝たちとともに、世俗権威では与えられない神聖な権威をもつ安全確保の装置として、自己の神格化に頼った。
 「Alexander の継承者たちは、征服の正当さ、軍事力、先住の王たちから奪い取った王冠でもって占拠した、ギリシャ人系マケドニア人だった。
 これら古代の洗練された文明をもつ諸国では、刀剣の力が全てではなく、強者の法は適切な正統性を提供しないかもしれなかった。
 統治者は一般に、自らを正統化するのを好む。それはしばしば、彼らの地位の強化を意味するからだ。
 彼らの側からすれば、神聖な権利にもとづく権力および獲得した遺産の資格ある継承者だと自己表明するのは、賢明でなかったか?
 自分たちを神々と同一視するのはよい方法ではなくとも、臣民たちの崇敬を獲得する、同じ旗のもとに民衆を統合する、究極的には、王朝的支配を強固にするのは、思うに賢明ではないか?(注71)
 王朝側にとっては、…神格化は正統化を、刀剣によって獲得した権利の合法化を意味した。
 さらには、近年に仲間になった者たちの野望を超越する王室家族へと高めること、神聖な祖先が獲得した諸特権を一つに融合することで王室の権利を強化すること、自然の感情を通じては不可能になっったので、おそらくは宗教的感情を通じてその周りに結集させることのできる表象を、全ての臣民に対して提示すること、を意味した。」(注72)
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 (23) ボルシェヴィキがこのような先例をどれほど意識していたか、彼らが「科学的」だとする建前と偶像崇拝への最も原始的な渇望に訴えることとの間の矛盾にどれほど気づいていたか、を語ることは困難だ。
 ボルシェヴィキは本能的に行動した、ということは上の問題を語る見込みを与える。
 そうであるなら、彼らの本能は彼ら自身にも十分に役立った。大衆の支持を獲得するためには、このような神聖視の主張の方が、「社会主義」、「階級闘争」、「プロレタリアートの独裁」に関する話よりもはるかに役立つ、ということが分かったからだ。
 ロシアの人々にとって、「独裁」や「プロレタリアート」は意味をもたない外国語であり、ほとんどの者は発音することすらできなかった。
 しかし、国の支配者が死から奇蹟的に回復したという物語は、即時の感情的反応を呼び起こし、政府とその臣民の間に何がしかの紐帯を生み出した。
 これは、レーニン崇拝が決してなくならなかった理由だ。かりに、しばらくの間、国家が推進した、もう一人の神格化された者であるスターリンへの崇拝によっていく分か損なわれることになるとしても。(脚注3)
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 (脚注3) 2018年8月30日の後でソヴィエトのプロパガンダによってレーニンに払われた注目にもかかわらず、全ての者がレーニンのことを知ってはいなかったようだ。Angelica Balabanoff は、レーニンが療養所にいるKrupskaia を訪問した1919年早くに起きたつぎのことを、思い出している。彼とその妹が乗っていた車が、二人の男によって停止させられた。「一人が拳銃を向けて、言った。『金を出さないと、殺すぞ』。レーニンは自分の個人識別証明書を取り出して、言った。『私は、Ulianov Lenin だ』。襲撃者は、証明書を一瞥しようとすらしないで、繰り返した。『金を出さないと、殺すぞ』。レーニンは金を所持していなかった。外套を脱ぎ、車の外に出て、妻のための牛乳瓶を手放すことなく、歩いて進んだ」。A. Balabanoff, Impressions of Lenin(Ann Arbor, Mich., 1964),p.65.
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 第六節、終わり。

2953/R.Pipes1990年著—第18章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990)。
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり②。
 (11) Kaplan による暗殺未遂の最も直接的な効果として解き放たれたのは、無差別の、かつ犠牲者の数に歴史上の先例のない、テロルの波だった。
 ボルシェヴィキ党員は完全に恐怖を覚え、恐怖に駆られた者たちがそうしたとEngels が言ったのとまさに同じように行動した。すなわち、自らを安心させるために、無用の残虐行為を行なった。
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 (12) 暗殺の企てとレーニンの回復は、長期的に見ればおそらく重要性に変わりのない、別の影響ももった。すなわち、レーニンを神格化する意識的な政策の始まりとなった。この政策は、レーニンの死後には、紛れもなく国家が支える東方カルトに変わることになる。
 ほとんど致命的な傷害からレーニンが急速に回復したことは、以前よりも崇拝するようになっていた彼の支持者たちに、盲信的な信仰を引き起こしたように見える。
 Bonch-Bruevich は、「運命によって選ばれた者だけがこのような負傷による死を免れることができる」というレーニンの医師の一人の言葉を、肯定的に引用している。(注60)
 レーニンの「不死性」は、のちに、大衆の偶像崇拝感情でもって機能する、きわめて世俗的な政治目的のために利用された。しかし、多数のボルシェヴィキ党員が自分たちの指導者を超自然的存在で、人間を救うために派遣された現代の神だ、と純粋に見なすに至ったことは、疑い得ない。(脚注2)
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 (脚注2) レーニン崇拝(cult)の発展は、Nina Tumarkin, Lenin Lives(Cambridge, Mass., 1983)の主題だ。
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 (13) ボルシェヴィキは、Fannie Kaplan のレーニン暗殺未遂まで、レーニンに関してさほど語ろうとはしなかった。
 個人的な振る舞いとしては、政治的指導者に通常示されるもの以上の敬意をもって、彼に接した。
 Sukhanov は、レーニンが権力を掌握する前の1917年にすでに、彼の支持者たちが、「聖杯(Holy Grail)の騎士」に対するような「全く異例の忠誠心」をレーニンに対して示しているのに、衝撃を受けた。(注61)
 レーニンの評判は、その成功ごとに高まっていた。
 1918年にすでに、教養が高く、ボルシェヴィキの幹部たちの中でも分別があったLunacharsky は、レーニンについて、彼自身のものではなく「人類」のものだった、と思い出した。(注62)
 カルトの始まりを初期に暗示するものは、他にもあった。そして、まだ神格化の過程が進行していなかったとしても、それはレーニンが止めさせたからだった。
 レーニンは、帝制時代の法令を彼の名前で施行しようとしたソヴィエト官僚を止めて、支配者を汚辱するものとして罰した。(注63)
 彼の独特の虚栄心は、運動の中へと跡形もなく溶け込んでいた。すなわち、「個人崇拝」を発生させることなく、成功によって虚栄心を満足させていた。
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 (14) レーニンは、個人的な欲求については、きわめて穏健だった。生活区画、食事、衣服類は、全く実用的だった。
 より優れたものを求めるロシアの知識人の中でそれらに全く無関心であることで極端に位置し、権力の最高地点にいたときですら、質素で、ほとんど修道士的な生活様式を好んだ。
 レーニンは、「いつも灰色のスーツを身につけ、脚の長さには少し短すぎる、管のようなズボンを穿き、同様に簡素な単列ボタンの外套をもつほか、柔らかい白カラー、古いネクタイを身につけていた。私が見たところ、ネクタイは数年間同じものだった。それは小さな白い花が付いた黒色のもので、一つの独特の染みが摩耗を示していた。」(注64)
 のちの多数の独裁者が模倣したこのような簡素さは、しかし、個人崇拝の発生を妨げるものではなかった。むしろ、たぶんそれを促進した。
 レーニンは、最初の近代的な「大衆的」(demotic)指導者だった。そのような指導者は、大衆を支配しつつ、外見や表向きの生活様式では、大衆の中の一人にとどまった。
 このことは、今日的な独裁制の特徴として注目されてきた。
 「近代絶対制では、多数のかつての専政者たちがそうだったようには、自分自身と臣民の間の『違い』によって区別される、ということがない。反対に、全員が共通して持つものを具現化した存在のようなものだ。
 20世紀の専政者は『民衆のスター』であり、その個人的な性格はどうでもよい…」。(注65)
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 (15) 1917年と1918年の最初の8ヶ月間に出版されたレーニンに関する文献は、驚くべきほどに少ない。(注66)
 1917年に書かれたもののほとんどは、彼の対立者によるものだった。そして、そのような敵対的文献はボルシェヴィキが検閲して刊行を停止させたけれども、ボルシェヴィキ党自身は、自分たちの指導者に関してほとんど何も書かなかった。レーニンは、急進的知識人の界隈の外では、ほとんど知られていなかった。
 レーニン主義者による聖人伝執筆の水門を開いたのは、Fannie Kaplan による狙撃だった。
 1918年9月3-4日にすでに、トロツキーとカーメネフが書いたレーニンを讃える書物が出版され、第一版で100万部が頒布された。(注67)
 同じ頃のジノヴィエフによる賛美の書物は、20万部が印刷された。簡単な大衆向けの伝記は、30万部が売れた。
 Bonch-Bruevich によると、レーニンは、回復するとすぐに、こうした大量の出版物の流出を終わらせた。但し、彼の50歳の誕生日と内戦の終結に関連させて、1920年には、より控えめな程度でだが、再開することを認めた。
 しかし、レーニンの健康の悪化によって政治への積極的な関与を止めることを強いられた1923年までに、レーニン主義者による聖人伝の発行は一つの産業になり、数千人を雇用した。革命前の宗教的イコン(聖像)の絵画作りと同様だった。
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 (16) こうした文献は、今日の読者には奇妙な印象を与える。ボルシェヴィキが別の生活面では影響力をもとうとした粗暴な言葉遣いとは全く対照的に、情緒的、感傷的で崇拝心に充ちた調子で書かれているからだ。
 十字架から降ろされ、復活するというキリストに似た表象を、敵に対する「容赦なき闘い」という主題と調和させるのは、困難だ。
 こうして、「ブルジョアジー」を麦藁を食うにふさわしいと嘲笑していたジノヴィエフは、一方ではレーニンを、「世界共産主義の伝道者」、「神の恩寵による指導者」と叙述することができた。これは、Mark Antony がCaesar の葬礼の式辞で彼を「天空の神」と礼賛したのと同じようだった。(注69)
 他の共産主義者たちは、このような修辞的誇張をすら上回った。ある詩人はレーニンを、「中傷のイバラを冠した、無敵の平和の伝導者」と呼んだ。
 このような新しいキリストへの引喩は、1918年遅くのソヴィエトの出版物ではよくあることだった。当局はこれらの出版物を、一方では数千人の単位で人質を殺戮しながら、大量に配布した。(注70)
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 (17) もちろん、ソヴィエト指導者の公式の神聖視があったのではない。だが、公的な出版物や声明によって彼に帰属するとされた性質—全知、無謬、事実上の不死性—は、レーニンの神聖視に他ならなかった。
 「天才へのカルト」は、ソヴィエト・ロシアではレーニンに関してさらに進んだ(のちのスターリンについては言うまでもない)。これは、レーニンが原型を提供した、のちのムッソリーニやヒトラーに対する崇敬を上回るものだった。
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 ③につづく。

2952/R.Piped1990年著—第18章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり①。
 (01) レーニンの生命を狙う企てに至るテロリストの陰謀の詳細は、ようやく3年後にチェカに知られるようになった。なお、判明したところでは、トロツキーその他のソヴィエトの指導者の生命も狙われていた。
 この情報の主要な源は、老練なエスエルのテロリスト、G. Semenov(Vasilev)だった。
 Semenov は外国へ出ていたが、考えを変えて1921年にロシアに帰った。ロシアで、かつての仲間を裏切り、非難した。
 彼の宣誓供述書は、疑いなくある程度は粉飾されているが、のちに、1922年の社会革命党に対する裁判で、ボルシェヴィキの訴追者によって利用された。(58)
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 (02) 最大限に判断できるところでは、エスエルの闘争組織(Combat Organization)は、1918年の初めにペテログラードで活動を再開した。
 この部隊は、一部は知識人で一部は労働者の14人で構成され、しばらくの間、ジノヴィエフとVolodardkii を尾行していた。
 1918年6月、隊員の一人、労働者のSergeev が、Volodarskii を暗殺した。
 このテロリストは、エスエル中央委員会の裁可を得ることなく、独自に、地下活動を行なった。
 1918年の春、ボルシェヴィキ政府がモスクワに移った後で、闘争組織の何人かの隊員も、これに従った。
 彼らは、最初の犠牲者としてトロツキーを選んだ。彼は戦争遂行を指揮していることから、その死はボルシェヴィキの教条に最大の影響を与える、と考えたからだ。
 レーニンは、その後だとされた。
 帝制時代の官僚に対して行なわれた方法を採用して、隊員たちは、犠牲者の行動様式を判断するために、対象をこっそり追跡した。
 トロツキーはモスクワと前線の間をたびたび、かつ予測させないで、行き来している、ということが分かった。そのゆえに、Semenov がのちに説明するように、「技術的な理由で」、先ずレーニンを処置することが決定された。
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 (03) 彼らは、この任務を実行する前に、エスエル中央委員会の承認を求めた。
 この頃までにほとんどのエスエル指導者はSamara に移動していたが、Abraham Gots を長とする委員会の支部が、モスクワに残っていた。
 Gots ともう一人の委員会委員のD. Donskol は、レーニンの生命を狙う企てに裁可を与えるのを拒んだ。だが、党を巻き込むことなく、「個人的」な行為として行なわれるかぎり、反対しない、と言った。
 彼らはまた、党はレーニン殺害を否認しないだろう、と約束した。
 --------
 (04) Semenov は、計画を練っているあいだに、Fannie Laplan と二人の仲間が同じ目標を目ざして独立に動いていることを知った。
 Kaplan からは、断固とした「革命的テロリスト」という印象を受けていた。これを言い換えると、自殺しそうな(suicidal)タイプだった。
 彼はKaplan を、自分の組織に加わるよう誘った。
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 (05) Semenov は、労働者の集会にレーニンが現れるのを追跡するために、モスクワを4つの地区に分けた。そして、各地区に、彼の組織の2人ずつを割り当てた。一人は観察者(dezhurnyi)、もう一人は「処刑者」(ispolnitel’)として行動する。
 前者は、いつ、どこで、レーニンが演説するかを知るために、群衆の中に混じることとされた。
 そして、これらの情報を得るとすぐに、区域内の中心部で待つ「処刑者」に連絡するものとされた。
 こうした準備は、1918年8月に行なわれた。この頃、Samara のエスエルは、チェコ軍団に対する軍事的勝利を利用して、ロシア全体に対する権威を主張していた。
 --------
 (06) レーニンは、8月16日金曜日に、党のモスクワ委員会の集会で演説した。だが、何らかの不手際があって、Semenov の観察者はその集会に加わることができなかった。
 つぎの金曜日、レーニンは、このときはPolytechnic 博物館で、再び演説した。
 レーニンの登場に関する情報が伝えられ、群衆が現われた。
 このときは全てが計画どおりに進んだが、「処刑者」が怖気づいた。この者を、Semenov はすみやかに闘争組織から追放した。
 Semenov は、さらにつぎの金曜日、8月30日、に関する情報を得た。レーニンはこの日、南部地区に一回か二回、現われるだろう。
 Semenov は、今度は何も間違いが起きないように、この地区に最も信頼の措ける2人を配置した。一人は、観察者として行動する、熟練のテロリストで労働者のNovikov、もう一人は処刑者であるKaplan。
 エスエルのテロリストの伝統に従って、Kaplan は、自分が選択したもののために生命を捨てるつもりでいた。Novikov に、レーニンを撃った後で自分は自首する、と言った。
 しかしながら、彼女が気持ちを変えた場合に備えて、Novikov は別の者を雇って待機させていた。
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 (07) 8月30日の午後、Kaplan は、Serpukhovskii 広場で任務に就いた。
 バッグの中に弾丸を込めたBrowning 銃を入れて、運んだ。三発の銃弾には十字状の刻みがあり、その中にインドの致死性の毒、curare が塗られていた。(脚注1)
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 (脚注1) このことは、医師たちがレーニンの首から銃弾を除去し、首の上に十字架のような形の切り込みを発見した1922年4月に、確認された。P. Posvianskii, ed., Pokushenie na Lenina 30 avgusta 1918 g., 2 ed.(Moscow, 1925), p.64. しかし、医療小記事には論及がないので。毒は有効性を失っていたようだ。
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 (08) Novikov は、レーニンがMikhelson 工場で演説することを知った。
 Kaplan は、この情報が正確であることを確かめるために、レーニンの個人的運転手に尋ねた。その後で、彼女は、建物に入り、出口の近くに立った(別の文献では、中庭で待った)。
 出口につながる階段で事故を演じたのは、Novikov だった。Kaplan がレーニンに近づくのを邪魔されないよう、わざと、群衆の中へ背中から落ちた。
 回転銃が火を噴いたあと、Kaplan は、自首するという約束を忘れていたようで、本能的に走り去った。だが、止まって、抵抗しないで逮捕された。
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 (09) 9月6日、〈プラウダ〉は、エスエル党中央委員会の簡単な声明を掲載した。その声明は、党と全党員を代表して、レーニンの声明を狙ういかなる企てとも関係がない、と主張した。
 これはSeminov がGottおよびDonskoi と結んだ協定を破るもので、テロリストの気持ちをひどく挫いた。
 彼らは、トロツキーを狙っていた。トロツキーが前線に向かっていたからだが、彼は、列車を変更して、最後の瞬間で回避した。
 組織を維持すべく、ソヴィエトの施設の「収用」をいくつか実行した。だが、彼らの意気は沈みつづけた。とくに、ボルシェヴィキが白軍との戦闘で主導権を再び握ったあとでは。
 1918年の末までのどこかで、彼らの「闘争組織」は解体した。
 --------
 (10) レーニンは、目覚ましい早さで、回復した。
 これによって、彼の身体組成と生きる意思の強さが証明されているだろう。だが、仲間たちにとっては、超自然的な性質が示唆されていた。
 まるで、神それ自身がレーニンを生かせ、彼の教条を勝利させようと意図しているかのごときだった。
 レーニンは、ある程度体調が回復するとすぐに、仕事を再開した。だが、働きすぎて、逆戻りした。
 9月25日に、医師の強い勧めに従って、彼とKrupskaia はGor ki へ向かった。
 そこで、回復を待ちながら三週間を過ごした。
 レーニンは、事態の推移を気にし続け、何かを書いていたけれども、国家の日々の業務を他者に任せていた。
 彼に逢うことが許された数少ない訪問者の一人は、Angelica Balabanoff、古くからの同志でZimmerwald 会議への出席者、だった。
 Balabanoff が思い出すように、彼女がFannie Kaplan の処刑を話題にしたとき、Krupskaia は「取り乱し」た。
 のちに、女性二人だけのとき、Krupskaia は処刑について苦い涙を流した。
 Balabanoff は、レーニンはその件を話題にしたくなかった、と感じた。(注59)
 この当時はまだ、仲間の社会主義者を処刑することについて、ボルシェヴィキには当惑する想いがあった。
 --------
 (11)  10月14日に、レーニンはモスクワに戻った。
 10月16日、党中央委員会の会議に出席し、その翌日にソヴナルコムの会合に出た。
 彼が順調に回復していることを周知させるために、クレムリンの中庭に動画用カメラが持ち込まれ、Bonch-Bruevuch と会話しているところが撮影された。
 10月22日、レーニンは初めて公共の場に姿を見せ、その後で、全日の仕事を再開した。
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 ②につづく。

2951/池田信夫・平和の遺伝子(2024)①。

  池田信夫・平和の遺伝子—日本を衰退させる「空気」の正体(白水社、2024年12月)。
 この書物が究極的には「日本」または「日本人」に関するものであることは、上の副題からも、「はじめに」からも明らかだ。そのかぎりで、視点はナショナルなもので、「国家」または「民族」を超えたグローバルなものではない(日本で日本語で出版される人文系・社会系の書物はほとんど同様なので、この点を批判しているのではない)。
 だが、「日本」・「日本人」とはいったい、何を指すのだろうか。
 現在にいう「日本」や「日本人」は、いったいいつ頃に成立または生成したものだろうか。
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  西尾幹二・国民の歴史(1999、全集第18巻)の馬鹿馬鹿しくも単純な前提理解の一つは、呼称は別として「日本」というまとまりが最古からあり、現在の「日本人」の祖先は<縄文人>だ、と考えていることだ。
 たぶん1990年代には、日本人の起源に関するいわゆる<二重構造モデル>は、すでに知られ、通説的にすらなっていたのではないだろうか。なお、高橋祥子・ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか(Discover21、2017)には、同旨の「日本人の二重構造説」という語が出てくる。
 西尾幹二の無知と自らはそれを意識しない傲慢さは、「縄文人」の後裔が(多少の交雑または混血を認めつつ基本的には)現在の「日本人」だと「思い込む」。
 そして、もともと(「文学」系の)この人物には、日本人を含む「現生人類」=ホモ・サピエンスがいつ頃にどこで発生したのか、という関心はない。もちろん、「現生人類」に至る、植物等も含めての「生物」または「生命体」の発生起源の問題にも関心はない。
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 L・コワコフスキは、<マルクスは全ての問題の原因を資本主義に求め、ある程度は我々が「人間」であるということ自体に根源があることを見逃した>、という旨を書いたことがあった。
 西尾幹二・ヨーロッパの個人主義(1969、全集第01巻)の「まえがき」は、この書は「現代の神話である社会科学的知性に対する一私人の挑戦である」と結んでいる。
 「社会科学的知性」に対してすら「挑戦」したいのだから、「自然科学的知性」がこの人物において占める位置の悲惨な些少さも理解できるだろう。ヒト・人間が「生物」であることを、そして一個体が誕生すれば絶対的に「死ぬ」ことを、この人物は自己の問題としては意識していなかったのではないか。
 西尾は2019年に「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマだ」「科学は敵だ」と明言しているから(月刊WiLL2019年4月号)、1969年のまだ若いときの「気分」を維持し続けていたようだ。
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  現生人類(新人)の前には「(新人/)旧人/原人/猿人」という(「猿」から分かれた)「人類」がいた。
 その前をたどれば、「真核生物」の誕生から、さらに「生命体」の発生にまで目を向ける必要がある。そうなると、地球の誕生、銀河系宇宙の誕生にまで遡ってしまう。
 そこまで「途方もない」時間の過去まで意識するのはいささか負担が重いので、現生人類・ホモサピエンスの発生くらいから始めよう。
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  上の点に関心をもつのは、私自身が、いつの時点にか地球上に誕生した生物種(〜・綱・目・科・属・「種」の意味でも同じ)の末裔に他ならない、という絶対的な事実に由来する。
 それに比べれば二次的だが、「日本人」がヒト=ホモ・サピエンスの一部であるならば、「日本人」の祖先をさらにたどることにもなる。
 細かな時代や年代に拘泥してもほとんど意味はないし、文献によっても違いはある。
 大まかに「約数十万年前」としておけば間違いないだろう。
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 上掲の池田信夫・平和の遺伝子(2024)には、つぎの語句がある。
 「ホモ・サピエンスの30万年の歴史の中でも…」、
 「人類(ホモ・サピエンス)の歴史を約30万年と考えると…」、
 「ホモ・サピエンスは30万前から…」
 篠田謙一・人類の起源(中公新書、2022)には、「最古のホモ・サピエンスが登場したのは、…今のところ30万年〜20万年…とされています」との一文がある。
 出口治明・全世界史/上巻(新潮文庫、2018)の「前史」には、つぎの旨の文章がある。「現生人類が登場し」たのは、「いまから約20万年前のことです」
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 地球上のどこで「登場」したのか、というと、圧倒的にアフリカだったとされている(「東アフリカ」と限定されていた時代もあった)。
 これに対して、「猿人/原人/旧人」を経て地球上のいくつかの地域で「新人」=ホモ・サピエンスが発生し、各地域の現代人はそれぞれの「ホモ・サピエンス」の子孫だ、との説が論理的にあり得るし、実際にも一部で主張されているらしい。
 この対立らしきものが興味深いのは、現代「日本人」の祖先はアフリカにいたのか、アフリカに産まれた現生人類は日本人の祖先ではなく、「日本」あるいは「東アジア」(・「アジア」)に誕生した現生人類こそが祖先か、という問題が生じるからだ。
 但し、前者の<アフリカ単一起源説>が「ほぼ定説」らしい。
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 アフリカと言っても、三種類くらいのホモ・サピエンスが確認できるらしい。その点はともあれ、現在のように世界の各地域にヒト・人間が生存しているということは、「出アフリカ」があったこと、つまり、アフリカで誕生した現生人類がアフリカを出て、おそらくは現在のエジプトからイスラエル辺りを経て(アラビア半島南西部を海上で通過した可能性はある)、アジアとヨーロッパの東西に進出してしていった、ということを示している。
 その一部の集団が(「個人」もあり得るだろうか)、東アジアあるいは「日本列島」にまでたどり着いた。しかし、その頃、東アジアや今の「日本列島」の地勢、地形はどのようになっていたのだろう
 「日本列島」に該当する島々は(琉球列島や北海道を含めてよい)、その頃にすでに存在していたのだろうか。
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 つづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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