秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/08

2950/R.Pipes1990年著—第18章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第五節/レーニン暗殺未遂②。
 (10) 尋問のあと、Kaplan は短いあいだLubianka の地下室に勾留された。その部屋は、共犯の容疑でその夜遅くにチェカに逮捕されたBruce Lockhart が勾引されたのと同じ部屋だった。
 彼は、こう書く。
 「(8月31日の)朝6時に、一人の女性が部屋に送り込まれた。
 彼女は黒い衣服だった。髪は黒く、じっと凝視する眼の下には大きい黒いリングがあった。
 顔には色がなかった。強くユダヤ人系の特徴は、魅力的でなかった。
 年齢は20歳と35歳のあいだのどれかだっただろう。
 我々はこれがKaplan だと思った。
 ボルシェヴィキは疑いなく、彼女が我々に知っているという何らかの合図を送るのを期待していた。
 彼女の落ち着きぶりは不自然だった。
 窓へ向かって行き、手の上に顎を乗せて、外に日光を見ていた。
 そこにとどまり。動くことなく、話すことなく、明らかに運命を諦めていた。そして、番兵がやって来て、彼女を連れ去った。」(注57)
 彼女は、Lubianka からクレムリンの地下室の一つに移動させられた。そこは、たいていの重要な政治的犯罪者が監禁されていた場所で、生きて出た者はほとんどいなかった。
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 (11) そのあいだに、医師たちの一団がレーニンを診察した。彼は生と死のあいだを彷徨っていたが、医師たちがボルシェヴィキ党員だと確認するほどに、意識の状態を回復していた。
 血液が肺の一つに入ってはいたが、体調の回復の見込みはあった。
 レーニンの献身的な秘書のBonch-Bruevich は見守っていて、宗教的光景が浮かんだ。その光景は「突然に、聖職者、司教、金持ちに虐待されたあとで、十字架から降ろされるキリストを描いたヨーロッパの有名な絵を、私に思い出させた。…」。
 このような宗教的連想はすみやかに、レーニン崇拝(Lenin cult)の分かち難い要素になった。奇跡的な生存の物語とともに始まった。
 崇拝の気分は、ブハーリンを編集長とする〈Pravda〉9月1日付の畏敬に満ちた叙述で明らかだった。レーニンは、「世界革命の天才、プロレタリアートの世界的大運動の心と頭脳」、「世界の無比の指導者」、その分析力によって「ほとんど預言者的な予見する能力をもつ」人物だった。
 Kaplan の襲撃のあとただちに起きたことについて、現実離れした記事が書かれるにまで至った。Kaplan は、現代のCharlotte Corday—Marat の暗殺者—として、嘲弄された。
 「二度射撃され、肺を貫通され、大出血をしたレーニンは、助けを拒み、自分で進む。
 生命の危険がまだあった翌朝に、彼は新聞を読み、聴き、知り、観察する。そして、我々を世界革命へと導く車のエンジンが休まず動いているのを見る。」
 このような表象は、確実な死を免れた者の神聖さを信じるロシアの大衆に訴えかけることを意図して、用いられた。
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 (12) 8月31日付の〈Izvestia〉の第一面にSverdlov の署名付きで掲載された公式の発表は、断固として非キリスト教的な調子だった。
 この発表記事は、当局は「ここにも右翼エスエルの、…イギリスやフランスの雇われ者の指紋が発見されるだろうことを、疑っていない」と何の証拠も示すことなく、主張した。
 こうした非難は、8月30日午後10時40分の日時付きの文書で行なわれた。この時刻は、Kaplan が最初の尋問を受ける1時間ほど前だった。
 その記事は、こうつづく。
 「我々は全ての同志に対して、完璧な静穏さを維持すること、反革命分子との闘争を強化することを呼びかける。
 労働者階級は、諸力をさらに強固にし、革命の全ての敵に対する容赦なき大量テロルでもって、指導者に対する襲撃に反応するだろう。」
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 (13) その後の数週間、ボルシェヴィキのプレス(非ボルシェヴィキのプレスはこの頃までに禁止されていた)は、同様の奨励と威嚇で溢れた。しかし、驚くべきことに、殺害計画についてもレーニンの健康の実際の状態についても、ほとんど情報が提供されなかった。素人が理解できない、定期的な医療小記事は別として。
 こうした資料を読んで得る印象は、ボルシェヴィキは意識的に、レーニンに対して起きたことは全てしっかりと統制されていると公衆を納得させるよう、事件を控えめに報じた、というものだ。
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 (14) 9月3日、クレムリンの司令官、P. Malkov という名の元海兵は、チェカに呼び出され、チェカはFannie Kaplan に死刑宣告をした、と告げられた。
 彼は、ただちに判決を実行するものとされた。
 Malkov が叙述するように、彼は怯んだ。「人間を、とくに女性を、射殺するのは容易でない」。
 彼は、遺体の処理について尋ねた。
 Sverdlov に相談するように言われた。
 Sverdlov は、Kaplan は埋葬されない、と言った。
 「彼女の遺体は、跡形もなく破壊される」。
 Malkov は、処刑の場所として、クレムリンの大宮殿に隣接し、軍用車両の駐車場として使われている狭い中庭を選んだ。
 「私は自動車戦闘部隊の司令官に、囲い地から数台のトラックを動かすこと、エンジンをかけておくこと、を命令した。
 また、乗用車を見えない裏小路に移して門に向かわせるようにも、命令した。
 誰も立ち入らせないよう命じた二人のラトヴィア人兵士を門に配置し、私はKaplan を迎えに行った。
数分後、彼女を中庭に連れ出していた。…
 『車の中へ!』、私は鋭い口調で命令した。
 私は、袋小路の端にある自動車を指し示した。
 肩を発作的に捻らせて、Fannie Kaplan は一歩を踏み出した。ついで、第二歩…。
 私は、拳銃を持ち上げた。…」(脚注)
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 (脚注) P. Malkov, Zapiski komendanta Moskovskogo Kreml ia(Moscow, 1959), p.159-p.161. 1961年に出版された第2版では、この部分は削除されている。第2版では、Malkov はたんにつぎのように言わされた、になっている(p.162)。「私はKaplan に、以前から用意されていた車に入るよう命じた」。処刑に関する短い発表が、9月4日の〈Izvest iia〉(No.190/454, p.1)に掲載された。
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 (15) こうして、ロシアのCharlotte Corday と蔑まれた若い女性は、死んだ。見せかけの裁判手続すらなく、背後から撃たれた。悲鳴をかき消すように、トラックのエンジンは大きな音を出していた。死体は、生ゴミのように処分された。
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 第五節、終わり。

2949/R.Pipes1990年著—第18章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。 
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 第五節/レーニン暗殺未遂①。
 (01) ロシア皇帝ならば、いかに過激なテロリズムのもとでも、レーニンほどには生命の危険を怖れなかった。また、皇帝は、レーニンほどには十分に警護されなかった。
 皇帝たちは、ロシアや外国を旅行した。彼らは公的行事を楽しみ、姿を現わした。
 レーニンは、四六時中ラトヴィア人ライフル部隊に警護されて、クレムリンの煉瓦の壁の中に隠れていた。
 ときに市内へ行くとき、通常は事前の告知はなかった。
 1918年3月に首都がモスクワに移動したときと1924年の彼の死のあいだ、レーニンは、革命の勝利の舞台だったペテログラードをわずか二回しか再訪せず、国を見たり民衆と交流したりするためには一度も旅行しなかった。
 彼が最も遠くまで出かけたのは、モスクワの近くの村のGorki で静養するためにRolls-Royce で旅したときだった。静養したGorki の場所は、レーニンが使うために徴発されていた。
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 (02) トロツキーは、より大胆だった。司令官に話すためにしょっちゅう前線へ行き、暗殺の企てを空振りさせるために頻繁に予定と日程を変更した。
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 (03) 1918年9月以前は、レーニンやトロツキーの生命を狙う深刻な暗殺の企ては行なわれなかった。それ自体が秀れたテロリストの党であるエスエルが、ボルシェヴィキに対する積極的な抵抗に反対していたからだ。
 エスエルが皇帝やその官僚層に対抗して用いた手段に訴えようとしなかったことは、二つの考慮に由来していた。
 第一は、エスエル指導部が、時勢は自分たちの側にあり、じっと耐えて、ロシアに民主主義が復活するのを待つことが肝心だ、と考えたことだ。
 彼らの見方によれば、ボルシェヴィキの指導者を殺害することは確実に、反革命の勝利につながる。
 第二は、ボルシェヴィキによる報復と大虐殺を恐れたことだ。
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 (04) 全てのエスエル党員がこの考え方だったのではなかった。
 党中央委員会の是認を得てまたは得ないで、ボルシェヴィキに対抗して武器を取る気持ちの者もいた。
 1918年の夏、モスクワのチェカのまさに鼻先で、このようなグループの一つが形成され始めた。
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 (05) モスクワの様々な場所で、金曜日の午後か夕方に、労働者や党員に向けて演説を行なうのは、レーニンを含むボルシェヴィキの指導者たちの習慣だった。
 レーニンが登場することは、通常は事前には発表されなかった。
 8月30日、金曜日、レーニンは、二つの集会に出席する予定だった。一つは、Basmannyi 地区の穀物日用品販売所の建物で、もう一つは、市の南部にあるMichelson 工場で。
 その日の早くに、ペテログラード・チェカの主任、M. S. Uritskii が射殺された、という報せが届いた。
 暗殺者はユダヤ人の青年のL. A. Kannegisser で、穏健な人民社会党の党員だった。
 のちに、彼は友人の処刑に復讐するために自分で行動した、ということが明らかにされた。
 しかし、そのときは知らされず、おそらくはテロリストの組織的行動が進行している、という恐怖が巻き起こった。
 憂慮した家族がレーニンに出席を控えるよう迫ったが、彼はいつもと違って、危険に向き合うことを選んで、信頼する運転手のS. K. Gil が運転する車で市内へ向かった。
 彼はまず、穀物日用品販売所に現われ、そこからMichelson 工場へと進んだ。
 聴衆は半分はレーニンを期待していたけれども、彼が来るのが確実になったのは、自動車が中庭に入ってきたときだった。
 レーニンは、西側の「帝国主義者たち」を攻撃するいつもの用意された演説を行なった。
 彼は、「死ぬか勝利するかだ」という言葉で結んだ。
 Gil がのちにチェカに語ったところによると、レーニンが演説しているあいだ、白い服を着た女性がやって来て、レーニンは内部にいるのかと尋ねた。
 彼は、捉え難い曖昧な返事をした。
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 (06) レーニンが密になった群衆を抜けて出口に向かっていたとき、彼のすぐ後ろの誰かが滑って倒れて、群衆を塞いだ。
 レーニンは、数人を従えて、中庭に入った、
 まさに車に乗ろうとしたとき、一人の女性が接近して、パンが鉄道駅で没収されたと不満を言った。
 レーニンは、パンに関するその実務を止めるよう指示がなされている、と言った。
 動いている踏み板に足を乗せたとき、三発の射撃音が響きわたった。
 Gil は、振り向いた。
 彼は、数歩離れた場所から銃撃した人物がレーニンについて調べていた女性だと認識した。
 レーニンは、地上に倒れた。
 パニックに襲われた見物者たちは、四方に逃げ去った。
 Gil は、回転銃を取り出して、暗殺者を追って走った。だが、彼女を見失った。
 中庭に残っていた子どもたちは、彼女が逃げ去った方向指し示した。
 数人だけが、彼女を追っていた。
 彼女は走りつづけたが、突然に立ち止まり、追跡者に対して顔を向けた。
 逮捕され、Lubianka のチェカ本部に連れていかれた。
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 (07) レーニンは意識のない状態で車の中に運び込まれ、車は最高の速さでクレムリンへと急いだ。
 医師が、呼ばれた。
 そのときまで、レーニンは、ほとんど動くことができなかった。
 彼の心拍は微かになり、大量の血を流していた。
 レーニンは、死にかけているように見えた。
 医師の検査によって、二カ所の傷が明らかになった。一発の銃弾は比較的に無害で、腕の中にとどまっていた。もう一発は潜在的に致命的で、顎と首の連結部にあった。
 (のちに知られたが、第三の銃弾はレーニンが狙撃されたときに彼と会話していた女性に当たっていた。)
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 (08) つづく数時間、テロリストはチェカの機関員によって5つの尋問を受けていた。(脚注1)
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 (脚注1) これらの尋問の調書は、PR, No.6-7(1923年)p.282-5 に公表された。Peters によると、何を意味しているのであれ、主要な尋問者、現存する事件の記録は「きわめて不完全」だった。〈Izvestiia〉, No.194/1, 931(1923年8月30日), p.1.
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 彼女はほとんど口を開かなかった。
 名前は、Fannie Efimofvna Kaplan。生まれ名は、Feiga Roidman またはRoitblat。
 父親は、ウクライナで教師をしていた。
 少女のときにアナキストに加わっていたことが、のちに知られた。
 アナキストがKiev の知事を殺害するために彼女の部屋で組み立てていた爆弾が爆発したとき、16歳だった。
 野戦軍事法廷は彼女に死刑判決を下し、そのあと無期の重労働刑に変更した。この判決に、彼女はシベリアで服した。
 そこでSpiridonova その他の確信あるテロリストと遭遇し、彼らの影響を受けて、エスエルに加入した。
 1917年の早くに、政治的恩赦を受けて、中央ロシアに戻った。最初はウクライナ、あとでクリミアに住んだ。。それまでに、彼女の家族はアメリカ合衆国に亡命していた。
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 (09) 宣誓供述書によると、彼女は、1918年2月に、立憲会議の解散と接近しているブレスト=リトフスク条約の締結に報復するために、レーニンを暗殺することを決めた。
 だが、レーニンに対する反感は、もっと深い所にあった。彼女は、チェカにこう言った。
 「レーニンは裏切り者だと考えているので、射撃した。
 彼は、数十年で実現するはずの社会主義の考えを延期した。」
 さらに、こうも言った。どの政党にも帰属していないが、Samaraの立憲会議委員会に共鳴する、Chernov が好きで、ドイツに対抗するイギリスとフランスの同盟に賛成だ。
 彼女は、仲間の存在を一貫して否定し、誰から銃砲を与えられたかを言うのを拒んだ。(脚注2)
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 (脚注2) その銃、Browning 銃は、犯罪の場所から消失した。1918年9月1日に〈Izvestiia〉(No.188/452, p.3)は、この銃の存在場所に関する情報を求めるチェカの声明を掲載した。
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 ②へ。

2948/R.Pipes1990年著—第18章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立②。
 (07) モスクワとペテログラードでは、左翼エスエルとの取決めにより、チェカは政治的犯罪者の処刑を行なうことができなかった。
 左翼エスエルがチェカの中で活動しているあいだは—つまり1918年7月6日までは—、上の両都市のいずれでも、正規の政治的処刑は起こらなかった。
 2月22日布令の最初の犠牲者は、「Eboli 皇子」という偽名でチェキストを装った通常の犯罪者だった(注54)。
 しかしながら、諸州では、チェカ機関はこのような制約に拘束されず、政治的犯罪を理由として市民を決まり事のように(routinely)処刑した。
 例えば、メンシェヴィキのGrig orii Aronson は、つぎのことを思い出す。1918年の春に、Vitebsk のチェカは、労働者全権代表者会議のポスターを配布した責任を追及して、2人の労働者を逮捕し、処刑した(脚注)
 どれだけ多くの者たちがこのような恣意的な処刑の犠牲になったかは、おそらく明らかにならないだろう。
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 (脚注) Grig orii Aronson, Na zare krasnogo terrora(Berlin, 1929), p.32. ゆえに、G. Leggett がLatis に従って、1918年7月6日まではチェカは犯罪者だけを処刑し、政治的反対者を免じていた、と語るのは、正しくない。Leggett, The Cheka: Lenin’s Political Police(Oxford, 1986), p.58.
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 (08) 帝制期の保安制度の憲兵隊を見習って、チェカは武装部隊を設置した。
 その統制下にある最初の軍事部隊は、小さなフィンランド人派遣団だった。
 他の部隊が追加されて、1918年4月に、チェカには6つの歩兵団、50の騎兵団、80の自転車団、60の機銃砲団、40の砲兵団、および3台の武装車があった(注55)。
 チェカが行なったおそらく唯一の民衆のための行動を1918年4月に実行したのは、これらの分隊だった。その行動とは、住居用の建物を占拠し、民間人にテロルを加えていたアナキストの蛮族である「黒衛団」(Black Guards)をモスクワで武装解除した、というものだった。
 基礎的なな軍事力の獲得は、政治警察が国家の内部の事実上の国家に膨張していく第一歩にすぎなかった。
 1918年6月のチェキストのある会合では、正規のチェカ軍団を設置する、あるいはチェカに鉄道および国境の安全を確保する権限を付与する、といったことが語られた(注56)。
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 (09) 設立後の最初の数ヶ月にチェカは種々の努力を行なったが、大きな部分は通常の商業活動と闘うことにまで及んだ。
 小麦粉袋の販売のような、最も日常的な小売取引業務が今や「投機」の中に分類され、チェカの任務には投機に対する闘いが含まれた。そのために、チェカの組織員は多くの時間を農民の「運び屋」を追跡することに費やした。鉄道の乗客の荷物を検査したり、闇市場を手入れしたりした。
 「経済犯罪」にかなり没頭したことで、1918年春には出現し始めていた、より危険な反政府陰謀に目を光らし続けることが妨げられた。
 この分野での1918年前半の唯一の成果は、Savinkov の組織のモスクワ本部を暴いたことだった。
 しかし、これは偶発的な出来事だった。そして、いずれにせよ、チェカは、Savinkov の祖国と自由を防衛する同盟に浸透することができなかった。これは結果として、7月にIarosravl 蜂起が起きてチェカを突然に驚かせることにつながった。
 さらに驚愕だったのは、左翼エスエルの反乱計画を知らなかったことだった。左翼エスエルの指導者たちがその意図をほとんど漏らさなかったのだとしても。
 事態をさらに悪くしたことに、左翼エスエルの陰謀はチェカ本部の内部で密かに企てられ、チェカの武装部隊に支持されていた。
 この大失態によって、Dzerzhinskii は7月8日に、その職を辞することを強いられた。Peters が暫定的に引き継いだ。
 8月22日、Dzerzhinskii は復職した。その日はまさに、もう一度屈辱的な苦難を味わう日だった。すなわち、レーニンの生命を狙うテロリストの企てがほとんど成功するのを阻止できなかったこと。
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 第四節、終わり。

2947/R.Pipes1990年著—第18章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立①。
 (01) 元来の使命に制約されつつも、チェカは、政治的に望ましくない者を処断する無制限の自由を追求した。
 これによって、司法人民委員部と衝突することになる。
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 (02) 設立された最初から、チェカは、それ自体の権限にもとづき、「反革命」や「投機」を行なっている疑いのある者たちを逮捕した。
 犯罪者は、警護つきで、Smolnyi へと送られた。
 この手続に、司法人民委員のSteinberg は満足できなかった。この人物は、正義のタルムード的(Talmudic)観念に関する博士論文でドイツで学位を得たユダヤ人法律家だった。
 〔1917年〕12月15日、彼は、司法人民委員部の事前の承認がある場合を除き、逮捕された市民をSmolnyi か革命審判所のいずれかに送るのを禁止する決定を行なった。
 チェカに拘禁されている犯罪者は、釈放されるものとされた(注44)。
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 (03) レーニンによる後援があるとの自信があったようで、Dzerzhinskii は、この指令を無視した。
 12月19日、彼は、立憲会議防衛同盟の一員を逮捕した。
 Dzerzhinskii のこの行為を知るとすぐに、Steinberg はこれを取消し、犯罪者の釈放を命じた。
 この係争は、その日の夕方にあったソヴナルコムの会議の議題になった。
 内閣はDzerzhinskii の側に立ち、チェカの犯罪者を釈放したとしてSteinberg を非難した。
 しかし、Steinberg はこの敗北に怯むことなく、ソヴナルコムに対して司法人民委員部とチェカの関係を調整するよう求め、「司法人民委員部の権能について」と題する企画案を提出した(注46)。
 この文書は、司法人民委員部の事前の裁可なくしてチェカが政治的な逮捕を行なうことを禁止していた。
 レーニンと内閣の残りの閣僚たちは、Steinberg の提案を是認した。ボルシェヴィキは、この時期に左翼エスエルと争論するのを望まなかったからだ。
 採択された決議は、「顕著に政治的重要性をもつ」者の逮捕に関する全ての命令には司法人民委員部の副署が付いていること、を要求した。
 おそらくは、チェカはその固有の権限にもとづいて、通常の逮捕は行なうことはできた。
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 (04) しかし、この限定された譲歩ですら、ほとんど直ちに撤回された。
 二日のち、たぶんDzerdhinskii の不服に応えて、ソヴナルコムは全く異なる決議を採択した。
 その決議は、チェカが調査機関であることを確認しつつ、司法人民委員部その他の全ての機関に対して、重要な政治的人物を逮捕する権限を妨害しないよう言いつけた。
 チェカには、事後に司法人民委員部と内務人民委員部に知らせる必要だけがあった。
 レーニンは、すでに逮捕されている者は法廷に引き渡されるか釈放される、という条件を追加した(注47)。
 その翌日、チェカは、ペテログラードで事務職被用者のストライキを指揮していた中心部を逮捕した(注48)。
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 (05) 左翼エスエルは、1917年12月に締結されたボルシェヴィキとの協定の一部として、役員会(Collegium)として知られるチェカを運営する委員会に、代表者を出す権利をもった。
 チェカを100パーセント・ボルシェヴィキの機関とするというボルシェヴィキの意図からすると、この譲歩はそれに逆行していたが、レーニンは、Dzerzhinskii の反対を遮ってこれに同意した。
 ソヴナルコムは左翼エスエルをチェカの副長官に任命し、役員会にこの党の数人を加えた(49)。
 左翼エスエルはさらに、役員会の全員一致の同意がある場合を除いてチェカは死刑を執行しない、役員会は死刑判決に対する拒否権をもつ、という原則を受け入れさせた。
 1918年1月31日、ソヴナルコムは、発表されなかった決定で、チェカはもっぱら調査に関する任務をもつ、ということを確認した。
 「チェカは、その任務を、諜報活動全般、犯罪の抑圧と防止に集中させる。全ての調査につづく行為や事案の法廷への提示は、革命審判所の調査委員会に委ねられる。」(注50)
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 (06) チェカに対するこうした制限は、一ヶ月後に「社会主義祖国の危機!」という布令によって放棄された(注51)。
 この文書は、誰が反革命者や新しい国家に対するその他の敵を「その場で射殺する」かについて、述べていなかった。だが、この責任がチェカに譲り渡されたことに疑いはあり得なかった。
 チェカはその翌日に、「反革命者」はその場で容赦なく殺戮される、ということを民衆に警告したものだ、と確認した(注52)。
 その日、2月23日に、Dzerzhinskii は地方ソヴェトに対して電信で、反体制「陰謀」が広がっていることにかんがみ、ただちに自分たち自身のチェカを設置し、「反革命者」を逮捕し、勾引したどこででも処刑する、という途を進むよう助言した(注53)。
 上の布令はこのようにしてチェカを、公式にかつ永続的に、調査機関から完全に自立したテロルの機構へと変質させた。
 この変質は、レーニンの同意でもって、行なわれた。
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 ②へとつづく。

2946/R.Pipes1990年著—第18章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第三節/チェカの起源。
 (01) チェカは、実質的に秘密に生まれた。
 保安機構を設置する決定—基本的には帝制時代の警察とOkhrana の復活—は、1917年12月7日にソヴナルコム(人民委員会議)によって採択された。これは、事務職の被用者によるストライキを意味する「サボタージュ」(sabotage)との闘いに関するDzerzhinskii の報告にもとづいていた。(脚注1)
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 (脚注1) <Iz istorii Vserossiiskoi Chrezvychainoi Kommissii 1917-1921 gg.>(Moscow, 1958), p.78-p.79. この趣旨の決議を採択した農民大会の圧力を受けて、ボルシェヴィキは軍事革命委員会を解散した(Revoliutsiia, VI, p.144)。チェカは、これの後継組織だった。
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 ソヴナルコムの決定は、このとき、公表されなかった。
 最初に活字で発表されたのは1924年で、虚偽の部分のある不完全なものだった。1926年により完全だが虚偽を含むものが、そしてようやく1958年に完全で真正なものが、明らかにされた(注33)。
 1917年には、ボルシェヴィキの新聞に、ソヴナルコムは「反革命およびサボタージュと闘う非常委員会」を設置した、役所はペテログラードのGorokhovaia 2番地に位置するだろう、という短い、二文だけが掲載された(注34)。
 この建物は革命前は、市長の事務局および警察の地方支部として使われていた。
 チェカの権能も、責任も、何ら説明されていなかった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府が創設時にチェカの役割や権限を公表しなかったことで、チェカには不吉な効用が生じた。チェカがもとうと意図していた権限を要求するのが可能になったからだ。
 今では知られているが、チェカの使命は、帝制時代の保安警察を範として、国家に対する犯罪を捜査し、阻止することだった。
 チェカは、司法的権力を有しないものとされた。ソヴナルコムは、チェカが政治的犯罪の容疑者を訴追と判決のために革命審判所に引き渡すことを想定していた。
 チェカを設立する秘密の決定の関係条項には、つぎのように書かれていた。
 「(非常)委員会の任務 (1) ロシア全国で各区画での反革命と怠業の全ての試みと行為を抑圧し、絶滅すること。(2) 全ての怠業者と反革命者を革命審判所の法廷に引き渡し、彼らと闘う手段を考え出すこと。(3) 委員会は[反革命と怠業を]阻止するために必要な範囲内で、前審での審問のみを行なう。」(注35)
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 (03) 最初に発表された決定(1924、1926)では、一つの重要な言葉が変わっていた。
 今は知られているように、決定の原稿では「抑圧する」—「presekat」—という言葉が「pre-seklat」の省略形として用いられていた。
 最も早い発表では、この言葉は「presledovat」に変更され、これは「訴追する」を意味した(注36)。
 若干の文字の交換や置き換えは、チェカに司法的権限を与える、という効果をもった。
 スターリンの死後にようやく明らかになったこの偽作によって、チェカとその後継組織(GPU、OGPU、NKVD)には、非公開で行われる略式の手続で、政治的収監者に対して、死刑を含む全ての範囲の制裁を課す判決を下すことが認められた。
 ソヴィエトの保安警察はこの権限を剥奪された。このことは、1956年だけで数百万の生命に関係した。
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 (04) 通常は官僚主義的儀礼に几帳面なボルシェヴィキは、秘密警察に関しては、重大な例外を設けた。
 のちには体制を救ったと信頼されたこの機構には、長いあいだ、法的な立場がなかった(注37)。
 1917-18年の法令集では無視されていて、形式的な一体性をもっていなかった。
 これは、意図的な政策方針だった。
 1918年の初めに、チェカは、自らが承認した場合を除いて、チェカに関する情報を発表するのを禁止した(注38)。
 この差止め命令は厳格に守られたのではなかったが、チェカに関するそれ自身や社会での役割に関する一定の像を与えた。
 この点で、ボルシェヴィキは、正規の勅令なくしてロシアの最初の秘密警察、Preobrazhenskii の役所、を設置したピョートル大帝の先例に従っていた。(脚注2)
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 (脚注2) この機構は内密に設けられたので、歴史家は今日まで、これの設立を根拠づける布令の所在を突き止める、または発せられただろう大まかな時期を決定する、ということができていない。Richard Pipes, Russia under the Old Regime(London, 1974), p.130.
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 (05) チェカは、少人数の事務職員と若干の軍事部隊で出発した。
 三月に政府とともにモスクワへ移った。そこでは、Bolshaia Lubianka 11番地にあるIakor 保険会社の広い区画を利用した。
 このとき、わずか120人の被用者がいた、とされた。但し、本当の数字は600人近くだった、と見積もる研究者もいる(注39)。
 チェキストのPeters は、つぎのことを認めた。チェカは人員を新しく補充するのが困難だった。なぜなら、ロシア人には帝制時代の警察の像がまだ鮮やかで、「感情的に」反応し、旧体制の迫害と新しいそれとの区別がつかず、彼らは加入するのを拒んだからだ(注40)(脚注2)
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 (脚注2) 当時の多くの者が報告しているが、この混乱は一部は、看守を含む多くのチェカ被用者は帝制下でも同じ仕事に従事した、ということによるのかもしれない。
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 その結果として、チェカ活動家のうち高い割合を占めたのは、非ロシア人だった。
 Dzerzhinskii はポーランド人で、彼に近い同僚の多くはラトヴィア人、アルメニア人、ユダヤ人だった。
 チェカが共産党員の官僚や重要な収監者を守るために用いた警護者は、もっぱらラトヴィア人ライフル部隊から選抜された。ラトヴィア人はより冷厳で、賄賂をより受けにくいと考えられていたからだ。
 レーニンは、外国人たちへのこの信頼を強く支持した。
 Steinberg は、ロシア人の民族的性格へのレーニンの「恐怖」を思い出す。
 レーニンは、ロシア人には断固さがない、と考えた。彼はこう言ったものだ。「ロシア人は穏やかだ。穏やかすぎる。革命的テロルという過酷な手段を行使することができない。」(注41)
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 (06) 外国人を雇用することには、つぎのような利点が追加的にあった。すなわち、血縁の紐帯によって潜在的な犠牲者たちと結びつくのがなさそうであること、ロシアの地域共同体からの非難によって躊躇することはないこと。
 例えば、Dzerzhinskii は、強いポーランド民族主義の雰囲気の中で育ち、若いときは、ポーランド人に加えた迫害を理由として「ロシア人(Muscovites)全員を絶滅」させたかった(脚注3)
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 (脚注3) PR, No.9(1926), p.55. のちにレーニンは、彼とジョージア人のスターリンを、ロシア排外的愛国主義だと批判した。
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 ラトヴィア人は、ロシア人を軽蔑していた。
 Bruce Lockhart は、1918年9月にチェカに拘禁されていた短いあいだに、ラトヴィア人警護者が「ロシア人はのろくて汚い」、戦闘のときはいつも「彼らに失望した」と言うのを聞いた(注42)。
 ロシアの民衆にテロルを加える外国人をレーニンが信頼していたことは、イワン雷帝の実務を想起させる。イワン雷帝(Ivan the Terrible)のテロル装置であるOprichnina には、多数の外国人が、とくにドイツ人が、いた。
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 (07) 社会主義国の政治警察につきまとう悪評を除去するために、ボルシェヴィキは、政治的であるチェカの主要な任務を、通常の犯罪と闘う任務と結びつけようとした。
 ソヴィエト・ロシアには殺人、略奪、強盗が蔓延しており、市民たちはこれらをなくそうと必死だった。
 体制側はまた、新しい政治警察をより受け入れやすいものにするために、チェカに対して山賊行為や「投機」を含む通常の犯罪を撲滅減する責任を割り当てた。
 1918年6月のメンシェヴィキの日刊紙のインタビュー記事で、Dzerzhinskii はチェカには二つの任務があると強調した。
 「(チェカの任務は)ソヴィエト当局の敵および新しい生活様式に対する敵と闘うことだ。
 このような敵は、我々の政治的対抗者および蛮族、窃盗、投機者その他の社会主義秩序の基盤を破壊する犯罪者の双方だ。」(注43)
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 第三節、終わり。

2945/R.Pipes1990年著—第18章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄②。
 (07) まずメンシェヴィキとエスエル、ついで左翼エスエルへと、他政党をソヴィエトの組織から追放することによって、革命審判所は公共の裁判所の外装をわずかにまとったボルシェヴィキの審判所に変わった。
 1918年に、革命審判所の職員の90パーセントはボルシェヴィキの党員だった(注25)。
 革命審判所の判事に任命されるためには、読み書きできる能力以外の形式的な資格は必要でなかった。
 当時の統計によると、この審判所の判事の60パーセントは、中等教育以下の教育しか受けていなかった(注26)。
 しかしながら、Steinberg は、最も酷い犯罪者の何人かは教育を十分に受けていないプロレタリアではなく、審判所を個人的な復讐のために利用する、あるいは被告人の家族から賄賂を受け取ることを躊躇しない、そういう知識人だった、と書いている(注27)。
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 (08) ボルシェヴィキの支配のもとで生きる人々は、歴史的な先例のない状況にあった。
 通常の犯罪や国家に対する犯罪のために、法廷はあった。しかし、法廷の指針となる法がなかった。
 どこにも明確に定められていない犯罪に関する職業的資格のない判事たちによって、市民は判決を受けた。
 西側の司法を伝統的に指導してきた「法なくして犯罪はない」(nullum crime n sine lege)や「法なくして制裁はない」(nulla poe na sine lege)の原則は、役に立たない銃弾と同じように捨てられた。
 当時の人々には、こうした状況はきわめて異様に映った。
 ある観察者は1918年4月にこう書いた。これまでの5ヶ月間、略奪、強盗、殺人の罪では誰も判決を受けなかった。処刑する部隊とリンチする群衆はいた、と。
 彼は、昔の法廷は休みなく仕事をしなければならなかったのに、犯罪はどこに消えたのだろうと不思議がった(注28)。
 答えはもちろん、ロシアは法のない社会に変質した、ということだった。
 1918年4月に、作家のLeonid Andreevは、平均的市民にとってこれが何を意味するかをこう叙述した。
 「我々は異様な状況な中で生きている。カビやきのこを研究している生物学者はまだ理解できるかもしれないが、社会心理学者には受け入れられない。
 法はなく、権威もない。社会秩序全体が、無防備だ。…
 誰が我々を守るのか?
 なぜ、まだ生きているのか。強奪もされず、家から追い出されることもなく。
 かつてあった権威はなくなった。見知らぬ赤衛隊の一団が鉄道駅の近くを占拠し、射撃を練習し、…食糧と武器の探索を実行し、市への旅行の『許可証』を発行している。
 電話も、電報もない。
 誰が我々を守るのか?
 理性の何が残っているのか? 成算を誰も我々に教えてくれない。…
 やっと、若干の人間的な経験。単純な、無意識の習慣だ。
 道路の右側を歩くこと。出会った誰かに『こんにちは』と言うこと。その他人のではなく自分の帽子を少し持ち上げること。
 音楽は長らく止まったままだ。そして我々は、踊り子のように、脚を動かし、聞こえない法の旋律に向かって揺らす。」(注29)
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 (09) レーニンが失望したことに、革命審判所はテロルの道具にはならなかった。
 判事たちは気乗りしないで働き、穏やかな判決を下した。
 ある新聞は1918年4月に、判事たちは少しの新聞を閉刊させ、少しの「ブルジョア」に判決を下しただけだった、と記した(注30)。
 権限を与えられたあとでも、死刑判決を下す気があまりなかった。
 公式の赤色テロルが始まった1918年のあいだ、革命審判所は、4483人の被告人を審判し、その三分の一に重労働を、別の三分の一に罰金を課した。わずか14人が死刑判決を受けた(注31)。
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 (10) このような状態を、レーニンは意図していなかった。
 やがてほとんど全員がボルシェヴィキの党員になった判事たちは、極刑を下すよう迫られ、そうする広い裁量が認められた。
 審判所は1920年3月に、「前審段階での審問で証言が明確な場合は証人を召喚して尋問することを拒む権限、また、事案の諸事情が適切に明瞭になっていると決定した場合にはいつでも司法手続を中止する権限、を与えられた」。
 「審判所には、原告や被告が出頭して弁論する権利を行使するのを拒む権限があった」(注32)。
 こうした措置によって、ロシアの司法手続は、17世紀の実務へと後戻りした。
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 (11) しかし、このように流れが定められても、革命審判所はきわめて遅く鈍重だったので、「いかなる法にも制約されない」支配を追求するレーニンを満足させなかった。
 その結果として、レーニンはいっそう、チェカを信頼するようになった。彼はチェカに、きわめて不十分な手続ですら順守することなく、殺害する免許状を交付した。
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 第二節、終わり。

2944/R.Pipes1990年著—第18章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄①。
 (01) ソヴィエト・ロシアへの大量テロルの導入の最初の一歩は、全ての法による制約の—実際には法それ自体の—廃止と、法を革命的良心と呼ばれるものに置き換えること、だった。
 このようなことは、他のどこでも起きたことがなかった。ソヴィエト・ロシアは、歴史上初めて、公式に法を法でなくした(outlaw)国家だった。
 この措置によって、国家当局は嫌悪する者を自由に処分できるようになり、対抗者たちに対する組織的大虐殺(pogroms)が正当化された。
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 (02) レーニンは、権力を握る前からずっと、これを構想してきた。
 彼は、パリ・コミューンの致命的な過ちの一つはフランスの法的制度を廃止できなかったことだ、と考えた。
 この過ちを、彼は回避しようとした。
 1918年後半に、プロレタリアート独裁を、「いかなる法にも制約されない支配」と定義した(注15)。
 彼は、法や法廷を、マルクス主義の流儀で、支配階級がその利益を拡大するための道具だと見なした。「ブルジョア」社会では、公平な司法という偽装のもとで、法は私有財産を守護するために役立つ。
 こうした見方は、1918年早くに、のちに司法人民委員になるN. V. Krylenko によって明確に述べられた。
 「法廷は、階級を超越する、社会の階級構造、闘争している集団の階級的利益、支配階級の階級的イデオロギー、そうしたものの本質的部分から独立した、何らかの特別の『正義』を実現することを任務とする装置だ、と主張するのは、ブルジョア社会の最も広がっている詭弁だ。…
 『法廷を正義で支配させよ』—これよりも酷い、現実についての誤魔化しを思い浮かべることはできない。…
 他にも、多数のこのような詭弁を引用することができる。すなわち、法廷は『法』の守護者だ。『政府当局』のように『人格』の調和ある発展を確保するという高次の任務を追求している。…
 ブルジョア的『法』、ブルジョア的『正義』、ブルジョア的『人格』の『調和ある発展』という利益。…
 生きている現実の単純な言語へと翻訳すれば、これが意味するのは、とりわけ、私有財産の護持だ。…」(注16) 
 Krylenko は、このような前提から、私有財産の消滅は自動的に法の消滅をもたらすだろう、社会主義はこうして、犯罪を生む心理的情動を「萌芽のうちに破壊する」だろう、と結論する。
 この見方によれば、法は犯罪を防止するものではなく、犯罪の原因だ。
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 (03) もちろん、完全な社会主義へと移行するあいだ、何らかの司法制度は残ったままだろう。しかし、偽善的な正義という目的ではなく、階級闘争という目的に奉仕するこになる。
 レーニンは、1918年3月にこう書いた。
 「我々には国家が必要だ。強制が必要だ。
 この強制を実現するプロレタリア国家の機関が、ソヴィエトの法廷であるべきだ。」(注17)
 この彼の言葉に忠実に、レーニンは権力を握ったすぐあとに、ペンによる署名を通じて、1864年以降に発展してきたロシアの法的制度全体を廃絶させた。
 彼はこれを、Sovnarkom(人民委員会議=ほぼ内閣)での長い討議のあとで発せられた、1917年11月12日の布令でもって達成した(注18)。
 この布令はまず第一に、ほとんど全ての現存していた法廷を解体させた。上訴のための最高法廷だったthe Senate までも含めて。
 さらに、司法制度に関係する職業を廃止した。行政総裁(the Proculater、司法長官のロシア版)の役所、法的職業、ほとんどの治安判事(justice of the peace)を含めて。
 無傷で残ったのは、些少な犯罪を所管する「地方法廷」(mestnye sudy)だけだった。
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 (04) この布令は、法令全書に載っている法令を明確には無効としなかった。—これは一年後に行なわれた。
 しかし、地方法廷の判事たちに、「打倒された政府の法令にもとづいて決定したり判決を言い渡すのは革命によってそれらが否定されておらず、かつ革命的良心や法的正当性についての革命的感覚と矛盾しない範囲に限られる、と指導される」とする指令を発することによって、同じ効果が生じた。
 この曖昧な定めを明瞭にする修正によって、ソヴィエトの布令のほか「社会民主労働党や社会主義革命党の最小限綱領」と矛盾する法令は無効だと明記された。
 基本的に言えば、犯罪はなおも司法手続に従って処理されたが、罪は、判事(または判事たち)が得た印象によって決定された。
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 (05) 1918年3月、ボルシェヴィキ体制は、地方法廷を廃止し、代わりに人民法廷(People’s Court、narodnye sudy)を設置した。
 この人民法廷は、全ての範疇の市民対市民の犯罪を扱うものとされた。殺人、身体傷害、窃盗、等々。
 この法廷の選任された判事たちは、証拠に関していかなる形式的な事項にも拘束されなかった(注19)。
 1918年11月に発せられた規則は、人民法廷の判事たちが1917年十月以前に制定された法令に言及するのを禁じた。
 さらには、証拠に関する全ての「形式的」規則を遵守する義務を免除した。
 判事たちは評決を出すに際して、ソヴィエトの布令に指導されるものとされたが、それがないときは、「正義に関する社会主義者の感覚」(sotsialistischeskoe pravosoznanie)によった(注20)。
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 (06) 国家とその代表者たちに対する犯罪を私人に対する犯罪と異なって扱うロシアの伝統的な実務に沿って、ボルシェヴィキは同時期に(1917年11月22日)、革命審判所(Revorutionary Tribunals)と称される、フランスの類似の制度を範とした新しい類型の法廷を導入した。
 これは、経済犯罪や「sabotage」を包含する範疇である、「反革命罪」で起訴された者を審理するものとされた(注21)。
 司法人民委員部—当時の長はSteinberg—は、これに指針を与えるべく、1917年12月21日に、追加の指示を発した。これにより、「革命審判所は制裁を課す際に、事案の諸状況と革命的良心が告げるところを指針としなければならない」と明記された。
 「事案の諸状況」をどう決定するのか、何が「革命的良心」なのかは、語られなかった(脚注)
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 (脚注) 革命前のロシア法ですら「善意」や「良心」のような主観的概念でもって機能していた。例えば和解法廷の手続を定める法令は、判事に「(彼らの)良心にしたがって」判決を提示するよう指示していた。同じような定式は、いくつかの刑事手続でも用いられた。帝制時代の法令のスラヴ主義的遺産は、ロシアの指導的な法理論家の一人のLeon Petrazhitskii によって批判されてきた。つぎを見よ。Andrzej Walicki, Legal Philosophies of Russian Liberalism(Oxford, 1987), p.233.
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 したがって、実際には、革命審判所はその設立時から、有罪に関する常識的印象にもとづいて被告人に判決を下す、カンガルー法廷として機能した。
 革命審判所には最初は、死刑判決を下す権限がなかった。
 この状態は、死刑の非公然の導入によって変わった。
 1918年6月16日、<Iavestiia>は、新しい司法人民委員のP. I. Stuchka が署名した「決定」を発表した。こう述べられていた。
 「革命審判所は、法がその制裁「以上の」という言葉を使って措置を定めている場合を除いて、反革命に対する措置を選択するに際していかなる規則にも拘束されない」。
 この複雑な言葉遣いが意味したのは、つぎのことだった。すなわち、革命審判所は自由に、適切と判断すれば犯罪者に死刑判決を下すことができる。但し、政府が死の制裁を命令したときは、そうしなければならない。
 この新しい規則の最初の犠牲者は、Baltic 艦隊のソヴィエト司令官のA. M. Shchastnyi 提督だった。トロツキーがこの人物をその艦隊をドイツに降伏させる陰謀を図ったとして訴追していたのだが、彼の例は、他の将校たちへの教訓として役立った。
 Shchastnyi は、レーニンの命令にもとづき大逆罪の事件を審理するために設置された中央執行委員会の特別革命審判所の審判にかけられ、その判決を受けた(注23)。
 左翼エスエルが死刑判決という嫌悪すべき実務の復活に抗議したとき、Krylenko は、こう答えた。「提督は、『死刑だ』ではなく、『射殺されるべきだ』と宣告されたのだ」。(注24)
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 第二節②へ、つづく。

2943/伊藤友計・西洋音楽の正体(2021年)。

  伊藤友計・西洋音楽の正体—調と和声の不思議さを探る—(講談社選書メチエ、2021)
 熟読して読了したのではないから、きちんとした紹介をすることはできない。
 しかし、一瞥のかぎりで、または一瞥した部分には、私自身の関心と結論らしきものと同じことが書かれている。それで、心強く感じて、取り上げたくなった。
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  途中にこんな文章がある。第一部第三章から。
 「もとをたどれば、西洋音楽も半音と全音だけを音楽の構成要素としていたわけではない」。「『音楽』という『音の組織化』を図るのに、その素材が半音と全音だけでならないということはまったくない」。
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 まとめ的部分である<終章>には、こんな文章がある。
 「音階も、和音も、調性も、自然の直接の産物ではない」。
 「西洋音楽は、人間の知的営為が長年の時間の中で、歴史的、文化的、民族的、宗教的等に構築してきた人間の所産である」。
 「西洋音楽は自然と人為、必然と偶然、理解と誤解、共感と反発、論理と非論理といったさまざまな要素が、互いに溶け合い、混ざり合って、それらが見分けのつかなくなるほど渾然一体となってしまったアマルガム/合金のようなものとして、われわれの前にある」。
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  秋月瑛二が関心をもってきたのは、日本にあるらしき、〈十二平均律〉を前提とした「音楽理論」や「楽典」というものは、「音」・「音楽」に関する科学的または自然科学的な、聴覚に関する生物学的・生理学的な探求の結果として出来上がっているものでは全くない、ということだった。
 だから〈十二平均律〉につながった〈ピタゴラス音律〉等にも興味をもったし、一オクターブはなぜ12音(最後を含めて13音)で分割されるのか、ドレミ…はなぜ7音(最後を含めて8音)なのか、と素人ながら考えた。
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 上の著の終章の表題は「音楽と自然」だ。
 ここで「自然」とは、私なりに言い換えると、ヒト・人間の生物的・生理学的本質のことだ。そして、「音」または「音楽」について<当然に>または<自然に>得られる何らかの定式があるだろう、ということを含意している。
 なお、一定の音(基音)の周波数が例えば2倍になると1オクターブの上の音になり二つの音は「同じ」音として重なって聴こえるとか、基音の3/2倍や4/3倍の音はいずれも「協和性」が最も高い音として聴こえる(今日言うドとソ、ドとファの関係にほぼ近い)というのは、「自然」に属するのではないか、と私には思える。
 これがヒト・人間のいつの時代からか、旧石器時代か、日本での縄文時代か弥生時代か、ではなく、もっと古くからだろうと思われるが、私に断定はできない。
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 「音楽」は自然と人為の両面で成り立つ、というのはレヴィ=ストロースも言っていたようで、上の著者は、彼のつぎの文章を引用している(1964年の『神話論理』の中の「生のものと火を通したもの」から)。
 「音楽は二つの格子を使う。ひとつは生理的であって、それゆえ自然のものである。…。もうひとつの格子は文化的である。それは音楽で使われる音の階梯であり、音の数と隔たりは文化によって異なる。
 「音楽の背後には、感覚的経験の自然の組織がある。だからといって音楽が自然の組織の支配下にあるというわけではない。」
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  今日に世界を圧倒している「西洋音楽」は、〈十二平均律〉も含めていうと、旧石器時代やさらにそれ以前から世界に支配的であったのではなく、たかだか19世紀に成立・確立したものだ。
 当時の日本、明治期の日本は、急いで「文明開花」し欧米の科学技術等を「学び、吸収する」過程で、おそらく間違いなく、当時のドイツの「音楽理論」を急いで<輸入>した。
 そして、今日がある。「西洋音楽」の成立・確立過程での種々の対立や論争、19世紀とは異なる音楽状況(ちなみにJ. S. バッハは17世紀)にはほとんど関心を持たれなかった(とりわけ学校教育や芸術系の官学で)。
 そのようにして、日本の「近代音楽」が始まった。国歌・君が代も、日本にいたドイツ人音楽家の採譜(・編曲?)によるとされる。正確には、辻田真佐憲・ふしぎな君が代(幻冬社新書、2015)参照。
 但し、雅楽や三味線・尺八等が演奏する楽曲には、おそらく「西洋音楽」に吸収され得ない「日本」的な音律や旋律等々があるかにも思える。興味深いテーマだ(ここで「日本的」とはいつ頃に起源があるか、は大問題ではあるのだが)。
 とは言え、「西洋音楽」は、〈十二平均律〉や「五線譜」による楽譜表記も含めて世界をほぼ完全に支配していて(日本の演歌・歌謡曲類もその範囲内にある)、「音楽」に関する電子的技術類にも前提として採用されているようだ。とすると、この趨勢は、人類の「文化」あるいは人間の精神的・知的営為の一つの分野で、今後少なくとも数百年は続くのではないか。
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2942/R.Pipes1990年著—第18章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル③。
 (16) レーニンのJacobin 的確信の根源にあったのは、ボルシェヴィキが権力を維持してさらに拡張させるべきだとすれば、「ブルジョアジー」と烙印される「邪悪な」思想や関心が具現化したものを物理的に廃絶しなければならない、ということだった。
 ボルシェヴィキは「ブルジョアジー」という言葉を大まかに二つの集団のために用いた。第一は、工業上の百万長者であれ余剰の農地をもつ農民であれ、出自や経済上の地位のおかげで「搾取者」として機能している者たち。第二は、経済的または社会的地位とは無関係に、ボルシェヴィキの政策に反対している者たち。
 このようにして、主観的におよび客観的に、その者がもつ見解によって、「ブルジョア」に分類することができる。
 レーニンが、内閣にいた頃についてのSteinberg の回想録に猛烈に怒った、という証言が存在している。
 レーニンは1918年2日21日に、「危機にある社会主義の祖国」と称される布令案を内閣に提出した(注12)。
 これの刺激になったのは、ブレスト=リトフスク条約に署名するというボルシェヴィキの失敗につづくドイツ軍のロシアへの前進だった。
 布令案の文書は、国と革命を防衛するために立ち上がることを人々に訴えていた。
 レーニンはその中に、「その場での」—すなわち裁判手続を経ないでの—処刑を認める条項を挿入した。処刑対象とされたのは、「敵の代理人、投機者、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイ」と烙印された、広くて曖昧な悪者の範疇に入る者たちだった。
 レーニンは、布令への民衆の支持を得るために、通常の犯罪者(「投機者、押し込み泥棒、ごろつき」)に対する略式の司法手続を含ませた。民衆が犯罪に苦しんでいたからだが、レーニンの本当の狙いは、「反革命煽動者」と呼ばれる彼の政治的対立者たちだった。
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 (17) 左翼エスエルは、このような措置を批判し、政治的対立者に対する死刑の導入に原理的に反対した。
 Steinberg は、こう書く。
 「私は、この残虐な脅迫は、宣言がもつ哀れみを殺してしまう、として反対した。
 レーニンは嘲弄しつつ、こう答えた。
 『逆に、ここにこそ本当の革命的哀れみがある。
 まさに最も乱暴な革命的テロルなくして我々は勝利できると、きみは本当に考えているのか?』/
 この点でレーニンと議論するのは困難だった。我々はすぐに、行き詰まった。
 我々は、きわめて広い範囲に及ぶテロルの潜在的可能性がある厳格な警察の措置について討論した。
 レーニンは、革命的正義という語を出して私の意見に対して怒った。
 私は憤慨してこう言った。
 『では、我々は何のために司法人民委員部を置いているのか?
  率直に、<社会的絶滅のための>人民委員部と呼ぼう。そして、司法人民委員部はなくしてしまえ!』
 レーニンの顔が突然に輝いて、彼はこう答えた。
 『よし。…それはまさしく行なうべきことだ。…しかし我々は、そう言うことができない』」。(脚注)
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 (脚注) Steinberg, In the Workshop, p.145. Steinberg は間違って、この布令の草案起草者をトロツキーだとしている。
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 (18) レーニンは長い間ずっと赤色テロルを主導し、しばしばより人間的な同僚たちを甘言を用いて誘導しなければならなかったけれども、自分の名前をテロルと切り離そうときわめて大きな努力をした。
 彼は全ての法令に自分の署名を付すことに執拗にこだわった。しかし、国家による暴力行使に関係する場合はいつでも、これを省略した。この場合に彼が好んだのは、(ボルシェヴィキ)中央委員会議長や内務人民委員その他の当局者が行なったとすることだった。そのような当局者の中には、偽って皇帝家族の虐殺の責任を取らせたUral 地方ソヴェトもあった。
 レーニンは、自分が煽動した非人間的な行為が自分の名前と歴史的に結びつけられることを、懸命に避けようとした。
 あるレーニンの伝記作家は、こう書く。
 「彼は、テロルやLubianka 〔チェカ本部が所在する建物/試訳者〕その他の地下室での殺害を行なった個人的行為が自分自身とは切り離されて抽象的にのみ語られるよう、気を配った。…
 レーニンは、自分はテロルから離れていると振る舞い続けたので、彼はテロルに積極的には関与していない、全ての決定はDzerzhinskii によって行なわれた、という伝説が生まれて、大きくなった。
 これは、あり得ない伝説だ。なぜなら、レーニンはその性格上、重要な問題に関する権限を委ねることができない人間だったからだ。」(注13)
 実際に、一般的な手続に関するものであれ重要な収監者の処刑に関することであれ、重要性をおびる全ての決定には、ボルシェヴィキの中央委員会(のちには政治局)の承認が必要だった。レーニンはその中央委員会の、永遠の事実上の議長だった(注14)。
 赤色テロルは、レーニンの子どもだった。父親であることを必死で否定しようとしたのだったとしても。
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 (19) この認知されていない子どもの保護者は、チェカの創設者であり監督者である、Dzerzhinskii だった。
 この人物は、革命勃発時にほとんど40歳になっていた。Vilno の近くで、愛国的なポーランドの地主階層の家庭で生まれた。
 その家庭の宗教的、民族主義的な継承物と決別し、リトアニア社会民主党に加入した。そして、職業的な革命組織家および煽動家になった。
 帝制時代の監獄で重労働をしながら、11年を過ごした。
 これは過酷な年月であり、彼の精神に拭い去ることのできない傷跡を残した。そしてそれは、癒すことのできない復讐への渇望とともに不屈の意思を形成した。
 彼は、考え得る最も残虐な行為を、愉しみではなく理想家の義務として、行なうことができた。
 レーニンの指示を、宗教的献身さをもって、無駄なくかつ素っ気なく、「ブルジョア」や「反革命者」を射撃部隊の前に送って、実行した。その際に、同じく愉しみのない強迫意識があったのだが、それは、数世紀前であれば異端者を火炙りの刑に処すことを命じたような意識状態だっただろう。
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 第一節、終わり。

2941/死者に「霊」はあるか—「近代」と「理性」①。

  2025年8月9日、石破茂首相は「広島市原爆死没者慰霊式」に出席した。
 8月15日には政府主催(厚生労働省所管)で「全国戦没者追悼式」が行なわれる。舞台の中央には、例年、「全国戦没者之霊」と縦に黒書した木製の標柱が立っている。
 「慰霊式」・「慰霊祭」、「〜の霊」というのは、馴染みのある、「ふつうの」表現あるいは言葉だ。
 当然ながら、「死没者」・「戦没者」には、「霊」がある、ということを前提としている。政府も、広島市等も、そういう<考え>に(「建前」のみでかどうかはさらに言及する必要があるが)立っていることは間違いないだろう。
 追加すると、6月23日を「慰霊の日」と定めている沖縄県ではその日に県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行なわれている。舞台中央には「沖縄全戦没者之霊」と書かれた標柱が立っている。
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 広島市の原爆死没者「慰霊碑」(設置・管理主体は広島市)には、よく知られるように、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。
 問題にされることがあるのは後段の第二文だが、では前段・第一文はどういう意味だろうか。
 死没者には、「安らかに眠る」ことができる者とそうでない者がいるだろう、前者になって下さい、という意味だ、とも読める。
 だが、そもそも、死者が<安らかに眠る>とは、何のことか。
 死者が「安らかに眠る」とは、どういう行為または状態を指しているのだろう。
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 原爆死没者や戦没者を例に挙げると、彼らは貴重なまたは特別の死者だから「霊」をもつ、と答えられるのかもしれない。
 戦争に出征して死んだ軍人については、とくに「英霊」と称されることもある(靖国神社・護国神社の「祭神」には立ち入らない)。
 だが、日本では、一定の、特別の「死者」についてのみ、「霊」の存在が語られているのではない。
 「お盆」には「先祖の霊」が帰ってくる、と言われてきた。帰ってきているからだろうか、この時期に「墓参り」する人々もいる。なお、京都の「五山の送り火」は帰ってきた「霊」を再び「送る」行事らしい。
 一般的にもそうだが、何らかの事故や事件の犠牲となった人々について「慰霊(式)」がなされることも多い。御巣鷹の尾根への「慰霊登山」というのもある。国や地方公共団体だけが「慰霊(式)」を行なっているのではない。
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  8月6日の式典での石破茂首相の挨拶の中に、つぎの言葉があった。
 「直前まで元気に暮らしておられた方が4,000度の熱線により一瞬にして影となった石」。
 原子爆弾の爆心地のような場所では高温の熱線によって人間の肉体は「一瞬にして」消え去る=蒸発する、というのは、「4,000度」程度ではあり得ない、とするのが科学的な知見であるらしい。この温度の程度では骨や焼け滓まで全て消失はしないようだ。
 では、発生し得るとして「20,000」度の温度の熱を浴びると、どうなるのだろう。
 また、「影」だけ(銀行支店の玄関石段に)残した人は、おそらくほぼ<即死>だったのだろう。
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 回り道をしたが、死者の「骨」または「遺骨」というものは、なかなか(物理的に)消滅することがないようだ。
 日本の現在に通常の火葬では、「遺骨」が残る。(「遺骨」が「きれいに」残るように温度調整がなされるようだが、)斎場・火葬場での火葬の温度は、おおよそは1,500度程度であるらしい
 世界的には<土葬>の地域が広いようだが、遺体をそのまま土中に埋葬したとしても、いずれは腐食して死んだときの姿をとどめることはない。それでもしかし、「遺骨」だけは長く残るようだ。
 もっとも、奈良県明日香村の石舞台古墳には「人骨」はなく、高松塚古墳には石棺や四周の壁の絵の一部はあっても、「人骨」は残っていなかった。
 したがって、長期的にみると、種々の(物理・化学的な)原因があるのだろうが、「骨」もまた消失するのかもしれない(佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも「墓」にあたる区画はあっても「人骨」は出ていないはずだ)。
 だが、世界のかなり広い地域で、「墓」、「墓地」や「墓園」というのが築かれてきたということは、「骨」=「遺骨」だけは相当に長期にわたって残存する、という知識を、ヒト・人間は古い時代から蓄積してきたからだ、と思われる。
 もちろん、「墓」が築かれない、死体・遺体の放棄=投げ捨てによる<風葬>あるいは<鳥葬>というのもあった(ある)。その場合でも、「骨」=「遺骨」だけは長く残る、という知識を、ヒト・人間はずっと昔から得てきただろう。
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 「遺骨」があってこそ、ある特定の人間の死を確認することができ、「追悼」、さらには「慰霊」の対象にすることができる。もちろん、種々の例外や補足の余地はあるのだが、こうした<思い>は相当程度に強い、または強くあり続けてきた、と言えるだろう。
 「墓」・「墓地」の中心的要素は(<樹木葬>や「納骨堂」であっても)、「遺骨」だ。
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 少なくとも日本では多くの場合、「死者」であることを象徴するのは「墓」であり、その中に納められている「遺骨」だ(だった)、ときわめて大まかには言えると思われる。
 では、「遺骨」のある「墓」に、死者の「霊」は存在しているのか。ときには高い場所から、子孫たちが住む故郷を「見守って」いるのか。あるいは、時期、季節ごとに、死者の「霊」はもともとの肉体の一部がある「墓」のあたりに<帰ってくる>のか。
 あるいは、「墓」の場所に関係なく、死者の「霊」は、宇宙のどこかに(天国に?、極楽浄土に?)存在しているのか。
 「霊」の存在を前提にしてこそ「慰霊」を語り得るだろうことは、最初の方で述べた。
 死者に「霊」が本当にあるのか。<近代的理性>をもつ人々は、あるいは我々日本人は、この問題にどのように回答し、どのように決着をつけてきたのだろうか。
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2940/R.Pipes1990年著—第18章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・『赤色テロル』」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル②。
 (08) トロツキーは、歩調を合わせた。
 1917年12月2日、新しいボルシェヴィキが支配する全国ソヴェト執行委員会(Ispolkom)に向かって、こう語った。
 「プロレタリアートが死にゆく階級を終焉させるときに、不道徳なものは何もない。
 これはプロレタリアートの権利だ。
 君たちは、…我々が階級敵に対して指揮した小さなテロルに憤慨している。
 しかし、注目せよ。遅くとも一ヶ月のうちに、このテロルはもっと恐ろしい形態をとるだろう。フランスの偉大な革命家を模範として。
 我々の敵が直面するのは、監獄ではなく、ギロチン(guillotine)だ。」
 彼はこのときに、ギロチンを(フランスの革命家のJacques Hebert を剽窃して)「人を頭の長さに短くする」道具と定義した。
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 (09) この証拠資料に照らしてみても、赤色テロルについて国内外の反対者によってボルシェヴィキが「強いられた」、「不幸な」政策だったと語るのは馬鹿げている。
 Jacobins にとってもそうだったように、テロルはボルシェヴィキにとって最後に依拠する手段としてではなく、ボルシェヴィキを捉え難い民衆の支持を示すものとして役立った。
 民衆の評判が落ちれば落ちるほど、ボルシェヴィキはいっそうテロルを行使した。1918-19年の秋から冬にかけて、彼らのテロルはかつてない無差別の虐殺のレベルに達するまでになった(脚注1)
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 (脚注1) 1919-20年までに、レーニンは、多数の社会主義者を投獄した。スイスの友人のFritz Platten が彼らは間違いなく反革命者ではないと抗議したとき、レーニンは、こう答えた。「もちろん、違う。…しかし、彼らが誠実(honest)な革命家にすぎないから、というのが、まさに彼らが危険な理由だ。何ができる?」 Isaac Steinberg, In the Workshop of the Revolution(London, 1955), p.177.
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 (10) このような理由で、赤色テロルは、ボルシェヴィキが決まって自己正当化のために言及する、ロシアの反ボルシェヴィキ軍によるいわゆる白色テロルと比較することはできない。また、好んでモデルだと主張した、Jacobin のテロルとも比較することができない。
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 (11) 白軍は実際に、多数のボルシェヴィキとボルシェヴィキ同調者を処刑した。ふつうは略式の方法で、ときどきは残忍な方法で。
 しかし、白軍は、テロルを政策の位置にまで高めなかったし、実行するチェカのような正規の装置を作り出すこともなかった。
 彼らの処刑は原則として、自分たちの責任で行動している野戦将校によって命じられた。そして、赤軍が退避した地域に入ったときに彼らが見た光景に対する、感情的な反応として行なわれた。
 白軍のテロルは、嫌悪すべきものだったが、赤色テロルの場合は通常だったような体系的なものでは決してなかった。
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 (12) 1793-94年のJacobin のテロルは、心理的、哲学的に類似したところがあったにもかかわらず、いくつかの基本的な点で赤色テロルと異なっていた。
 第一に、下から、街頭から、食糧不足に激怒し、代わりの責任者(scapegoats)を探す群衆から、発生した。
 これと対照的に、ボルシェヴィキのテロルは、上から、流血にうんざりしていた民衆に対して課された。
 後述するように、モスクワは、地方ソヴェトを厳しい制裁でもって威嚇して、テロル実行の指令を履行させた。
 1917-18年には多くの自発的な暴力行使が起きたけれども、群衆が社会各層全体の流血を求めた、という証拠資料は存在していない。
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 (13) 第二に、二つのテロルは、継続期間が大きく異なる。
 Jacobin のテロルは、最も短く見て10年間つづいた革命のうち、一年以下の期間内に起きた。したがって、エピソードあるいは「短い幕間」と適切に叙述することができる。
 Jacobin の指導者たちが逮捕されてギロチン台に送られたのはテルミドール第9日のことだったが、そのあとすぐに、フランスのテロルは突然に、かつ永遠に終わった。
 しかし、ソヴィエト・ロシアでは、テロルは止むことなく断続的につづいた。激烈さは様々だったけれども。
 死刑は内戦の終末期に再び廃止されるが、最低限度は裁判所の手続を尊重しつつも、処刑は以前と同じく実施され続けた。
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 (14) Jacobin のテロルとボルシェヴィキのそれの違いを最も象徴的に示すのは、おそらくつぎのことだ。
 パリにはRobespierre の記念碑は建てられず、彼の名に因んだ街路もない。一方で、モスクワには、チェカ設立者のFeliks Dzerzhinskii の巨大な像が市の中心に立ち、彼に敬意を表して名付けられた広場を圧倒している。
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 (15) ボルシェヴィキのテロルは、大量処刑以上の多くのものを巻き込んだ。
 同時代の何人かの意見では、恐ろしいテロルは、蔓延している弾圧の雰囲気ほどには抑圧的効果をもたなかった。
 その法的知識とレーニンのもとでの司法人民委員の経験によって、現象を評価する独特の立場にあったIsaac Steinberg は、1920年に、内戦が終わってもテロルは継続した、ボルシェヴィキ体制の本能に関する特質になった、と記した。
 収監者や人質の略式の処刑は、彼にとっては、「革命的な地球を支配する、陰鬱に明滅するテロルの中での、最も輝かしいもの」、「血の高峰」、「その極致」だった。
 「テロルは個人の行為、分離した偶然の行為ではなく、—頻発したとしても—政府の憤怒を表現したものだ。
 テロルとは『仕組み』(system)であり、…大衆の威嚇、大衆の強制、大衆の絶滅を目的とする、政府の合法化された計画だ。
 テロルは、命令された意思を実行するするように政府が脅迫し、誘発し、強制する手段となる、そういう制裁、報復、威嚇を、考え抜いて登録したものだ。
 テロルは、上から国の民衆全員に対して投げられる、重くて息苦しくさせる外套だ。警戒心を潜ませる不信と復讐欲で編まれた外套だ。
 誰がこの外套を手にし、誰がこの外套を通じて民衆<全体>を苦しめるのか。例外なく? …
 テロルのもとでは、実力はきわめて少数の者の手にあり、その少数者は孤立を感じ、それを怖れる。
 厳密に言えば、少数者が自ら支配し、つねに成長する多数の人々、諸グループ、諸階層を敵と見なすがゆえに、テロルは存在する。…
 この『革命の敵』は、…革命の拡張を支配するまでに拡張する。
 この観念は徐々に拡大しつづけ、国土全体、民衆全体を包括するに至り、最後には、『政府を例外とする全て』とその協力者たちを包括する。」(脚注2)
 Steinberg は、赤色テロルの宣告の中に、労働組合の解体、言論の自由の抑圧、警察官と情報提供者がどこにでもいること、人権の無視、飢餓と欠乏の蔓延、を含めた。
 彼の見解では、この「テロルの雰囲気」、つねに現存する脅威が、処刑以上にはるかに、ソヴィエトの生活を病毒で冒した(poisoned)。
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 (脚注2) I. Steinberg, Gewalt und Terror in der Revolution(Berlin, 1974), p.22-p.25. 1920-23年に書かれたこの書物(最初に1931年に出版された)は、レーニン主義のロシアを叙述しており、スターリン主義のロシアを対象としていない。
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 ③へとつづく。

2939/R.Pipes1990年著—第18章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳。
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 第18章・「赤色テロル」
 「大部分のテロルは、恐怖を抱いた人々が自分を安心させるために行なう無意味な残虐行為だ」。
 F·エンゲルスからK·マルクスへ(注01)。
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 第一節/レーニンとテロル①。
 (01) 国家による体系的なテロルはボルシェヴィキが発明したものだ、とは言い難い。その先例は、Jacobins に遡る。
 そうであったとしても、この点でのJacobins とボルシェヴィキが実際に行なったことの差異は大きいので、ボルシェヴィキがテロルを発明した、と考えてよい。
 フランス革命はテロルで頂点に達したが、ロシア革命はテロルとともに始まった、と言うにとどめよう。
 前者は「短い幕間」、「逆流」と称されてきた(注02)。
 赤色テロルは最初から体制の本質的要素であり、強くなったり弱くなったりしつつも、決して消失しなかった。そして、ソヴィエト・ロシアの上に永遠の暗雲のごとく掛かっている。
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 (02) 戦時共産主義や内戦その他のボルシェヴィズムの評判が悪い問題についてと同様に、ボルシェヴィキの代弁者や擁護者は、テロルの責任の所在を反対派に求めるのを好む。
 遺憾なことだったが、反革命に対する避けられない反応だった、と言われる。言い換えると、機会が別に与えられれば、避けただろう、と言うのだ。
 典型的であるのは、レーニンの友人だったAngelica Barbanoff の見解だ。
 「不幸なことかもしれないとしても、ボルシェヴィキが開始したテロルと抑圧は、外国による干渉や、特権を維持して旧体制を再建しようと決意したロシアの反動活動家によって強いられたものだった」(注03)
 このような釈明は、いくつかの理由で却下することができる。
 かりにテロルが実際に「外国の干渉主義者」や「ロシアの反動家」によってボルシェヴィキに「強いられた」ものだったとすれば、ボルシェヴィキがこれらの敵を決定的に打ち破るとすぐに—すなわち1920年に—、テロルを放棄しただろう。
 ボルシェヴィキは、そんなことを何もしなかった。
 内戦が終了するとともにボルシェヴィキは1918-19年の無差別の大虐殺をやめたけれども、彼らは、それまでの法令や制度を無傷で残した。
 スターリンがソヴィエト・ロシアの紛うことなき主人になると、彼が比類のない巨大な規模でテロルを再開するのに必要な手段は、すぐ手の届く所にあった。
 このことだけでも、ボルシェヴィキにとってテロルは防衛的武器ではなく、統治の道具だった、ということが分かる。
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 (03) ボルシェヴィキによるテロルの主要な装置であるチェカは、1917年12月早くに設立された。それは、ボルシェヴィキに対する組織的な反対派が出現する機会を得る前で、「外国の干渉主義者」がまだせっせとボルシェヴィキに言い寄っていたときだった。これらのことも、上述のような解釈の適切さを確認している。
 チェカの最も残酷な活動家の一人、ラトビア人のKh. Peters がこう言ったことに、我々は依拠することができる。すなわち、1918年の前半にチェカがテロルを開始したとき、「これほどの反革命の組織は、…かつて観察されなかった」(脚注1)
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 (脚注1) PR, No. 10/33(1924), p.10. Peters は、副長官として勤務した。1918年7-8月には、チェカの長官代理として。
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 (04) 証拠資料によると、最も決然たる煽動者のレーニンは、テロルを革命政府の不可欠の手段だと見なした。
 彼はテロルを予防的に—すなわち彼の支配に対する積極的な反対行為が存在しなくとも—行使するつもりでいた。
 彼がテロルを用いたのは、自分の教条の正しさと真白か真黒か以外に多彩に政治を見ることができないことについての、深い所にある自信に根ざしていた。
 それは、Robespierre を駆り立てたのと本質的には同じ考えだった。トロツキーは1904年に早くも、レーニンをRobespierre と比較した(04)。
 フランスのJacobin のように、レーニンは、もっぱら「良い市民」が住む世界を建設しようとした。
 こういう目標があったので、Robespierre のように、「悪い市民」を肉体的に排除することを道徳的に正当化することができた。
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 (05) レーニンが「Jacobin」という名を冠するのを誇るボルシェヴィキ組織を作ったときから、彼は、革命的なテロルの必要について語った。
 1908年の小論「コミューンの教訓」で、この主題に関する意味深い観察を行なった。
 この最初の「プロレタリア革命」の成果と失敗を挙げたあとで、その重大な弱点をレーニンは指摘した。すなわち、プロレタリアートの「行き過ぎた寛容さ」—「道徳的影響力を行使」しようとするのではなく、「敵を絶滅させておくべきだった」(注05)。
 この言明は、政治上の文献で、通常は害虫に対して使われる「絶滅」(extermination)という言葉を人間に対して用いた、最も早い例の一つであるに違いない。
 これまでに叙述してきたように、レーニンは、自分の体制の「階級敵」と定めた者たちを、有害動物の駆除に関する語彙から借りてきて、叙述した。クラクを例えば、「吸血虫」、「蜘蛛」、「蛭」と呼んだ。
 1918年1月に彼は、民衆が組織的虐殺(pogrom)を実行する気になるよう、感情を掻き立てる言葉遣いを用いた。
 「コミューン、村落や都市の小さな細胞は、金持ち、詐欺師、寄生虫を実際的に評価し支配する数千の形態と方法を実行し、試さなければならない。ここでの多様性こそが、成功と唯一の目標の実現を保障する。唯一の目標—ロシアの土壌から、全ての有害な虫を、悪辣なノミを、南京虫を—金持ち等々を—一掃すること。」(注06)
 ヒトラーならば、ドイツの社会民主党の指導者に関して、このような例に倣うだろう。彼はこの党の指導者たちは主としてユダヤ人だと考えていて、その著<Mein Kampf>で、絶滅させることだけがふさわしい<Ungeziefer>あるいは害虫と呼んだ。(注07)
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 (06) 国家の長になった最初の日に起きた出来事ほど、レーニンの心理にテロルへの狂熱が深く組み込まれていることを示すものはない。
 ボルシェヴィキが権力奪取していたとき、カーメネフは第二回全国ソヴェト大会に対して、ケレンスキーが1917年半ばに再導入した前線での脱走兵への死刑の廃止を求めた。
 大会はこの提案を採択し、前線での死刑を廃止した。(注08)
 レーニンは他のことに忙しくて、この出来事を見逃した。
 トロツキーによると、レーニンがこれを知ったとき、「完全に激怒した」。そして、こう言った。
 「馬鹿げている。死刑なしで、どうやって革命ができるのか?
 自分を武装解除して、きみの敵を処理できると思っているのか?
 他に弾圧のためのどんな手段があるのか?
 監獄か?
 両方ともが勝とうとしている内戦のあいだに、誰が監獄に意味を認めるのか? …
 彼は繰り返した。間違いだ、容赦できない弱さだ、平和主義者の幻想だ。」(注09)
 こう語られた時期は、ボルシェヴィキの独裁が辛うじて始まった頃、ボルシェヴィキが継続するとは誰も思わなかったために組織的反対運動が起きていなかった頃、まだ僅かにでも「内戦」の兆候がなかった頃だった。
 レーニンの強い主張に従って、ボルシェヴィキは死刑に関するソヴェト大会の行動を無視し、次の6月に死刑を再導入した。
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 (07) レーニンは舞台の背後でテロルを指揮するのを好んだけれども、チェカの「無実の」犠牲者についての苦情には我慢できないことをときたま知らしめた。
 無実の市民の逮捕を批判したメンシェヴィキの労働者に対して、1919年に、こう答えた。
 「有罪であれ無罪であれ、意識的であれ無意識であれ、数十人または数百人の煽動者を収監するのと、数千人の赤軍兵士や労働者を失なうのと、どちらがよいのか?
 前者の方がよい。」(注10)
 このような理由づけによって、無差別の迫害は正当化された(脚注2)
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 (脚注2) これを、Poznan での1943年の一演説でのSSに対するHeinrich Himmler の訓戒と比較せよ。
 「戦車障害濠の建設中に1万人のロシア女性が消耗して死ぬかどうかは、ドイツのための戦車障害濠が建設されているかぎりで、私の関心外だ。…
 誰か私のところにやって来てこう言う。『女性や子どもたちで戦車障害濠を建設することはできない。非人間的で、彼らは死ぬだろう』。
 私はこう言ってやる。『戦車障害濠が建設されなければドイツの兵士は間違いなく死ぬのだから、きみは自分の血縁の殺害者だ』」。
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 第一節②へとつづく。

2938/R.Pipes1990年著—第17章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第15節/この事件からの示唆。
 (01) Ekaterinburg の悲劇以後の時代にチェカが奪い取ることになる数万人の生命を思えば、またその継承者が殺した数百万人のことを思えば、11人の囚人〔前皇帝とその家族〕の死は、異常な規模のものだったとはほとんど言えない。
 しかしそれでも、前皇帝、その家族、補助者たちの虐殺には、深い象徴的な意味がある。
 自由(liberty)に偉大な歴史的時代があったように—Lexington やConcord の闘い、Bastille への突撃—、全体主義(totalitarianism)についてもそうだ。
 虐殺が準備され、実行されたやり方には、それは最初は否定されたあとで正当化されたのだが、それにまつわる独特のおぞましさがある。以前の国王殺しとは際立って区別する、そして二十世紀の大量虐殺の前兆だったと印象づける、そういう何ものかがある。
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 (02) まず何よりも、不必要だった。
 ロマノフ家は進んで、実際に幸福に、積極的な政治世界から退き、捕獲者であるボルシェヴィキの全ての要求に屈従していた。
 彼らは確かに、誘拐されることや自由な世界に連れていかれることに反対でなかった。しかし、収監状態、とくに責任追及や裁判がないままでの拘禁の状態から逃れたいと彼らが望むことを、処刑を正当化するためにEkaterinburg のボルシェヴィキが指し示したような「犯罪の企て」だと見なすことはほとんどできない。
 いずれにせよ、かりにボルシェヴィキ政府が実際に彼らが逃亡して反対派の「生ける旗印」になることを恐れたのだとすれば、そのときは、彼らをモスクワに連れてくるまさに適切な時期だった。Goloshchekin からすれば、3日後に皇帝家族の持ち物とともにEkaterinburg を経って列車でモスクワに向かうことに何の困難もなかった。
 彼ら皇帝家族は、モスクワにいれば、チェコ軍団、白軍その他のボルシェヴィキ体制への反対派の手に届かなかっただろう。
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 (03) これが行なわれなかった理由が探し求められなければならない。それは、時間不足、逃亡の危険、あるいはチェコ軍団に捕われるといった偽りの言い訳にではなく、ボルシェヴィキ政府の政治的必要にあった。
 1918年7月、ボルシェヴィキは、多方面から攻撃を受け、支持者の多くから見離されて、運命のどん底へと沈んでいた。
 継続する任務放棄を断固として阻止するため、ボルシェヴィキは血を必要とした。
 トロツキーが亡命中につぎのように事件を回想したとき、こうしたことの多くは承認されていた。
 トロツキーは、17年前に、前皇帝の妻と子どもたちを片付けるとのレーニンの決定と同意見だった—トロツキーに個人的な責任はなく、従って正当化する必要のない行為だ。
 「決定は、好都合だけではなく必要だった。
 この制裁が苛酷であることによって、誰に対しても、我々は容赦なく闘い続け、どこにも止まらないだろうことを、示した。
 皇帝家族の処刑は、威嚇し、脅かし、見込みがないという感覚を敵に植えつけるだけではなく、我々の党員たちに刺激を与え、退却することはあり得ない、目の前にあるのは全面的な勝利か全体的な破滅かのいずれかだ、ということを示すためにも、必要だった。」(注109)
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 (04) ある次元で言うと、トロツキーによる正当化には良い点がなかった。
 かりに敵の中にテロルを、味方の中に忠誠性を注ぎ込むために、前皇帝の妻と子どもたちを殺したのだとすれば、ボルシェヴィキはその殺害行為を大声で明瞭に言明しただろう。にもかかわらず実際には、当時に、そしてその後10年間、ボルシェヴィキは否定した。
 しかし、トロツキーの恐るべき告白は、深い道徳的、心理的意味では、正しかった。
 Dostoevsky の「悪霊」の主人公のように、ボルシェヴィキは、動揺する支持者たちを集団的犯罪の絆で結びつけるために、血を流さなければならなかった。
 ボルシェヴィキが良心の咎めを感じる犠牲者たちが無実であればあるほど、ボルシェヴィキ党員はそれだけ強く、退却も逡巡も妥協もあり得ないこと、指導者に絶対的に拘束されていること、を認識せざるを得なかった。そして、指導者とともに、代償を無視して「全面的勝利」を目指して行進するか、それとも「全体的破滅」へと沈むか、のいずれかだけを選ぶことができた。
 Ekaterinburg の虐殺は、公式には6週間後に始まった「赤色テロル」の始まりを画するものだった。「赤色テロル」の犠牲者たちの多くは、犯罪を冒したゆえにではなく、トロツキーの言葉では彼らの死が「必要とされた」がゆえに処刑された、そういう人質たちだったことになる。
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 (05) 冒したことを理由としてではなく死が「必要とされた」がゆえに人々を殺害する、ということを政府が誇るとき、我々は、全く新しい道徳の王国に入っている。
 ここに、1918年7月16-17日の夜に起きた出来事の象徴的な意味がある。
 政府の秘密の指令によって行なわれた皇帝家族の虐殺は、人類を初めて、意識的なジェノサイドの出発点に立たせた。皇帝家族はその背景にもかかわらずきわめて普通で、何の罪もなく、ただ平穏に過ごすのを許されることだけを望んでいたのだったが。
 ボルシェヴィキが彼らを非難して死に追いやったのと同じ理由は、のちにロシアやその他の国で、数百万の名もなき人々に対して適用されることになる。新しい世界秩序に関するあれこれの設計をたまたま邪魔した、というだけの人々に対して。
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 第15節、終わり。第17章全体も、終わり。第18章は<赤色テロル>

2937/西尾幹二批判083—全集未完結②。

  「全集未完結」と題した昨2024年11月の投稿のとき、当初は西尾幹二全集は結局未完結で終わるのだろうという認識で書き始めた。参照、→No.2786/2024.11.10。
 ところが、そのとき未完だった第22巻Bは刊行される予定があると、書き進めるうちに気づいた。
 冒頭の写真のさらに裏側の写真の下につぎの注記があったからだ。
 「いよいよ全集は完結が近づいた。大型の議論をしている余裕はもうなく、手早く仕事を処理してくれる人材を著者が選んで『三人委員会』に委嘱した。2023年4月1日撮影」
 これで、未完結でないことが分かった。
 同時に、既述のように、この文章に関しては、奇妙・不可解なことがあった。
 第一に、上の文章は誰が書いたのか。
 委嘱した「著者」というのは、西尾幹二のことだろう。また、執筆者は「三人委員会」の委員の一人でもなさそうだ。
 とすると、刊行出版社である国書刊行部の(西尾全集担当の)編集者による文章だとほぼ断定せざるを得ない。
 これは異常なことだ。この第22巻Aまで、こういう形で国書刊行会の編集者が「表に」登場することはなかった
 第二に、「三人委員会」を構成しているはずの三人の顔・姿は「写真」に写されているが、氏名の表記が全くない
 これも異常だろう。写真で顔・姿を示しながら、重要なはずの「三人委員会」の三人の氏名をなぜ明らかにしていないのか。
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  思い出すと、迂闊にも忘れていたが、第22巻Aの「オビ」には、2024年(または「本年」)「12月」に完結予定と書かれていたような気がする。
 この記憶が正確でないとしても、翌年3月頃、つまり今年・2025年の3月頃には最後の第22巻Bが刊行される(・されるらしい)という情報が、複数の文章で伝えられていた。以下は、例。
 宮崎正弘「西尾幹二の沈黙」月刊正論2025年1月号/追悼特集、p.150。
 「あと一巻で完結する直前に訃報に接した(…)。ただし、編集は終わっており、年譜を作成中だった。版元の担当者に訊ねると、『春には出せると思います』」。
 なお、上よりも前の時期だろう、同じ宮崎は、その書評ブログで「次の配本予定の巻22Bは…師走刊行予定だ」とも記していた(同<辛口コラム>)。
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  現在、2025年の8月。「春」は明らかに過ぎてしまい、3月末・4月初めから明らかに4ヶ月、1年の三分の一が過ぎた。
 しかし、西尾幹二全集22巻Bはまだ刊行されていない。未完結のままだ。
 今後どうなるのか、どうする予定なのか、「版元」の国書刊行会のウェブサイトには何の情報も掲載されていない。「版元の編集者」(上記)、「三人委員会」はどうしているのだろうか。
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  未完結のままだと決めつけるわけにはいかないだろうが、かりにそうなっているとすると、以下の感想が生じる。
 第一に、もともと「西尾幹二全集」は種々の点で異様な、そしてグロテスクな「全集」だった。
 基本的には生存中の著者が「自分で」編集した(しようとした)ことに奇妙さの根源があっただろう。
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 個人「全集」というのは、各巻のいわゆる「月報」を除いて、その著者の書物や文章だけが収載される、というイメージがある。それはイメージだから順守する必要はないとも言えるが、西尾全集の場合、本人以外の別の者の文章を(月報にではなく)<本巻>に載せる何らかの「基準」はなかった、西尾のそのときどきの感覚に依っていた、と思われる。そして、その第三者が執筆された時期も、過去のものがほとんどだったが、「全集」刊行時点のもの、つまりその第三者の「書き下ろし」もあった、と記憶する。
 この意味でも、不思議な個人「全集」だ(だった)。
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 何度も書いたように、「全集」に収載される各巻の文章が元々はいつどこに執筆されたかが、相当に分かりにくかった(巻にもよる)
 時期的にいうと、多くはつぎの三段階を経ただろう(但し、厄介なことに、aやbなしで、直接にc「全集」に登場したと見られる、「本人の墓探し」等の文章、ウェブサイト上だけの文章等(例、第22巻A)もあり、「怪奇さ」が増す)。
 a-雑誌や新聞等への初出の文章、b-aを時期別または主題別にまとめた書物の文章、c-全集に掲載される文章。
 bの書物がいわゆる「書き下ろし」である場合は(2-3冊の場合も全てがそうである場合は)問題は少ない。しかし、a がある場合には、b にまとめる段階ですでに西尾による「編集」が入っていて、a を「加筆修正した」と明記されていたものもあり、その時点での西尾による「はしがき」や「後記(類)」がすでに執筆されていたものもあり、さらに西尾以外の者による「書評」的なものや「解説」が付いていたものもあった。
 上の「加筆修正」があった場合、c「全集」でa の「初出」とb の「加筆修正」後のいずれを採用したかが(後者が全部またはほとんどだったとしても)明記されておかなければならなかったはずだ。
 つぎに、b に本人による「前記」・「後記」類、第三者による「解説」・「書評」類がある場合、c 「全集」ではこれらをどう処理したかが明記されておくべきだっただろう。全てが排除されたのではなく「全集」の「後記」に再掲載されたものもあったはずだが、既述のように再掲載する・しないの基準ははっきりしない。
 これらは本来は出版元の編集者が配慮すべきものだったかもしれないが、西尾「全集」の場合、本人が一貫して取り仕切り、かつ上に書いたような細かな「配慮」を、西尾はほとんどできなかったように見える。
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 <本人編集>による問題の直接の帰結は、かつてはb の段階で一冊の書物にまとめられた諸文章が、c「全集」では別々の諸巻に分けられて収載される、という現象が生じたことだ(なお、b の段階で、同じ文章が二つ以上の書物に二重に収載されていたかもしれない。この場合、問題はさらに複雑になる)。
 さらに、別々の諸巻に分けられて収載されていればまだよいが(?)、どの巻にも収録されない文章もある(あった)はずだ。これも、西尾幹二の、「全集」刊行時点での判断によるに違いない(そして、その基準・理由は分からない)。西尾の<本人編集>の帰結だ。
 「文章」どころか、b の時点での書物そのものが(つまり全体が)、「全集」では再録されていないものがあると見られる。西尾の本人編集の帰結だ。
 (その他、明記なしでの本巻中での「書き換え」すらもあった。例、→No.2796「欺瞞の人」)。
 個別論考で「全集」のどこにも収載されていないと見られるものに、例えば、以下がある。
 「保守思想の一部の左翼返り—立花隆氏なら仕方がないが西部邁氏よ、おおブルータス、お前もか—」月刊正論2002年3月号。
 「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」月刊正論2002年6月号。
 個別の書物で「全集」のどの巻にも収載されていないのでないかと思われるものに、例えば、以下がある。
 西尾幹二『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)
 西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)
 (西尾幹二=平田文昭『保守の怒り』(草思社、2012)。)
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 これでなぜ、<西尾幹二全集>と言えるのか
 この指弾はもちろん、第一には西尾幹二に対して向けられる。第二は、国書刊行会という出版会社に対してだ。
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 第二に、西尾幹二が「保守」論壇の「最後の大物」で、その「思想(・哲学)」、「歴史等への見方」等を後世に残しておくべき、貴重で偉大な人物だったとすれば、「版元」を含む関係者は、是非とも「全集」を残しておこう、22巻(実質的に24巻)全部を刊行しておこうと考え、「使命感」さえもつのでないか。
 だが当初の予定よりも少なくとも四ヶ月遅れて何の「音沙汰」もないことは、つぎのことを意味しているのではないか。
 西尾幹二という人間が生きて存在しているうちはまだしも、そうでなくなってみると、「全集」を完結させる意欲が大きく削がれた。西尾幹二本人がいなくなっては、「全集」完結に拘泥する意味がどこにあるのかと疑問を感じ始めた。
 西尾幹二は、人間関係上「別れの会」に出席しようとだけは思わせても、詰まるところは、その程度の人物だったのだ。
 この世からいなくなれば、どんな恫喝も、文句も、注文も、いっさい気にする必要がない。「年譜」、さらには「書誌」作成という面倒なことをする意味が、いかほどあるのか?
 以上は、西尾幹二の「仕事」(と言っても、基本的に<文章執筆請負業>)全体の評価に関係するので、これ以上は踏み込まない。
 なお、四が一定の前提に立っての叙述であることは、上に明記している。
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2936/R.Pipes1990年著—第17章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)③。
 (13) 7月20日、Ural ソヴェトは発表の原稿を書き、モスクワに対して、公にすることの許可を求めた(注96)。
 発表原稿は、こうだった。
 「特報。Ural 労働者農民兵士代表ソヴェトの執行委員会と革命的幕僚の命令により、前の皇帝、専制君主は、その家族と一緒に、7月17日に処刑された。
 遺体は埋葬された。
 執行委員会義長、Beloborodov、Ekaterinburg にて。1918年7月20日午前10時。」(脚注)
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 (脚注) この文書のテキストは、むしろ疑わしい状況のもとで、西側で利用できるようになった。1956年春に、西ドイツの大衆紙の週刊<七日>の編集部に、自分をHans Meier と名乗る人物が、現われた。彼は、戦争捕虜として、1918年に皇帝家族処刑する決定にEkaterinburg で直接に関与した、この問題について記した文書を書いたが、東ドイツで生活している18年のあいだ隠してきた、と主張した。
 事件について彼が記したことは、詳細だがきわめて風変わりだった。主要な目的は、西側でもう一度生き延びていると流布し始めた物語である、そのAnastasia は家族と一緒に死んだ、ということに関する疑いを除去することにあったようだ。
 Meier の文書は、一部は真実で、一部は捏造だと見られる。最もあり得る説明は、彼はソヴィエトの秘密警察のために働いた、ということだ。彼の文書は、<七日>, No.27-35(1956年7月14日-8月25付)にある。
 Meier の「証拠資料」について、P. Paganutstsi, Vremia i my, No.92(1986)を見よ。著者は、ドイツの裁判所は自称Anastasia によって提起された訴訟に関連してMeier の文書を取り調べ、偽造だと判断した、と述べている。
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 モスクワは、これを発表するのを禁止した。ニコライの家族の死について言及していたからだった。
 この文書の唯一知られている複写では、「その家族と一緒に」とか「遺体は埋葬された」とかは、読みにくい署名をした誰かによって、抹消されていた。この人物は、「公表禁止」と走り書きしていた。
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 (14) Sverdlov は7月20日に、自分が原稿を書いた承認する発表文をEkaterinburg に電信で送り、モスクワのプレスで公にした(注97)。
 7月21日、Goloshchekin は、Ural 地方ソヴェトに、報せを伝えた。その報せについて知らなかったようだが、このソヴェトは一週間前に前皇帝を射殺する決定をした。この決定は今では、予定どおり実行されていた。
 Ekaterinburg の住民は、7月22日に配達された新聞でこれについて知った。翌日には<The Ural Worker>(Rabochii Urala)で改めて報じられた。
 この新聞は、つぎの見出しで伝えた。「白衛軍、前皇帝と家族の誘拐を企て。陰謀は暴露さる。Ural 地方ソヴェト、犯罪企図を予期し、全ロシア人の殺戮者を処刑。最初の警告だ。人民の敵、王君に手を差し伸べる以外に専制君主制を復活できず。」(注98)
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 (15) 7月22日、Ipatev 邸の警護者たちは退去した。Iurovskii は、全員で分けるよう8000ルーブルを渡し、前線へ動員されるだろうと告げた。
 その日、Ipatev は義理の妹から電報を受け取った。「居住者は出て行った」(注99)。
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 (16) 目撃証人たちは、民衆は—少なくともEkaterinburg の住民は—、前皇帝の処刑について知らされても何の感情も示さなかった、ということで一致している。
 死者を追悼して、モスクワの教会で若干の儀礼が行なわれた。だが、それ以外に反応はなかった。
 Lockhart は、「モスクワの民衆は、驚くべき無関心さでもって、報せを受け取った」と記した(注100)。
 Bothmer も、同様の印象をもった。「民衆は皇帝殺害を、冷淡な無関心さで受け入れた。上品で冷静な人々ですら、恐怖に慣れすぎていて、自分たちの心配と欲求に心を奪われすぎていて、特別なことと感じることができなかった。」(注101)
 前の首相のKokovtsov ですら、7月20日にペテログラードの路面電車に乗っているときに、肯定的な満足感を感知した。
 「哀れみや同情のわずかな痕跡すら、どこにも観察しなかった。
 報道は声を出して読まれた。にやにや笑い、冷笑、嘲笑とともに。あるいは、きわめて心なき論評とともに。
 きわめてうんざりする言葉も聞いた。「とっくになされるはずだった」。「やあ、ロマノフの兄貴、おまえの踊りは終わりだ」(注102)。
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 (17) 農民たちは、思いを胸にしまい込んだ。
 しかし、独特の論理で表現された、彼らの反応を一瞥することができる。ある老農夫が、1920年に某知識人に打ち明けた思いからだ。
 「今、地主の土地は皇帝のNicholas Alexandrovich によって我々に与えられた、と確実に知っている。
 これのために、大臣たち、ケレンスキー、レーニン、トロツキー、その他の者たちは、皇帝をまずシベリアに送り、そして殺した。子どもたちも同じ。
 その結果、我々には皇帝はおらず、彼らが永遠に民衆を支配することができた。
 彼らは我々に土地を与えようとはしなかった。だが、子どもたちは、彼らが前線からモスクワやペテログラードに戻ったときに、彼らを止めた。
 今は、彼ら大臣たちだ。彼らは我々に土地を与え、抑えつけなければならないからだ。
 しかし、我々を締め殺すことはできない。
 我々は強くて、持ちこたえるだろう。
 そして、いずれは、老いぼれ、息子たち、孫たちが、誰でもよい、我々は彼らボルシェヴィキの始末をつけるだろう。
 心配するな。
 我々の時代がやって来る。」(注103)
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 第14節/ニコライの処刑をモスクワが発表(2)。
 (01) つづく9年間、ソヴィエト政府は、頑なに公式のウソにしがみついた。Alexandra Fedorovna と彼女の子どもたちは安全に生きている、というウソだ。
 Chicherin は1922年に、ニコライの娘たちはアメリカ合衆国にいる、と主張した(注104)。
 このウソは、皇帝家族全員が一掃されたということを受け入れられない君主制主義者たちに擁護された。
 Solokov は、西側に着いたあと、君主制主義者たちに冷遇された。ニコライの母親、Dowager Marie 皇妃、Nikolai Nikolaevich 大公、こうした生存中の著名なロマノフ家の者たちは、Solokov と会うことすら拒否した(注105)。
 Solokov は無視され、貧困の中で、数年後に死んだ。
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 (02) ソヴィエト協力者のP. M. Bykov は、Ekaterinburg で1921年に出版したこの事件に関する初期の説明書で、皇帝家族に関する真実を語っていた。
 しかし、この本は、すみやかに流通から排除された(注106)。
 元来の版を維持しないものがパリで出版されたあとで、Bykov はようやく1926年に、Ekaterinburg の悲劇に関する公式の共産党版説明書を書くことを認められた。
 モスクワが主要なヨーロッパ言語に翻訳したこの書物は、ついに、Alexandra と子どもたちが前皇帝とともに死んだ、ということを認めた。
 Bykov はこう書く。
 「遺体が存在しないことについて、多くのことが書かれた。
 しかし、…死者の遺体は、焼却されたあとで、鉱床から遠く離れた場所へ持っていかれ、泥地の中に埋葬された。そこは、有志や調査員たちが掘り出さなかった地域にあった。
 遺体はそこに残っており、今までに自然に従って腐敗している。」(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.126. 家族の死を初めて認めたのは、つぎだと言われている。P. Iurenev, Novye materialy o rasstrele Romanovykh. Krassnaia gazeta, 1925/12/28(Smirnoff, Autour, p.25).
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 (03)  Iurovskii は、Ekaterinburg からチェコに向かって逃亡したのち、やがてのちにモスクワへ移った。そこで、政府のために働いた。
 職務に対する報奨として、チェカの役員団の一人に任命されるという栄誉を受けた。
 1921年5月に、レーニンに温かく迎えられた(脚注2)
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 (脚注2) Leninsksia Gvardiia Urala(Sverdlovsk, 1967), p.509-514. 皇帝家族の運命に関心をもったあるイギリスの将校は、1919年にEkaterinburg の彼を訪問した。Francis McCullagh, Nineteenth Century and After, No.123(1920年9月), p.377-p.427. Iurovskii は、Ipatev 邸の指揮者だったあいだ日記をつけていた。その日記は、つぎの中にある短い断片的文章を除いて、未公刊のままだ。Riabov’s article in Rodina, No. 4(1989年4月), p.90-91.
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 彼がニコライを殺害した回転銃は、モスクワの革命博物館の特別の保管庫の中に置かれている。
 1938年の秋にクレムリン病院で、自然の死を遂げた(注107)。
 彼は、チェキストかつ「ジェルジンスキの片腕の同志」として、小さいボルシェヴィキの英雄で成るpantheon に、適切な位置を占めた。小説や伝記の対象人物でもあった。それらは彼を、「典型的」なチェキストで、「閉鎖的で厳格だが、柔らかい心をもつ」と叙述した(108)。
 Ekaterinburg の悲劇に関係するその他の主要人物は、Iurovskii ほどうまくは生きなかった。
 Beloborodov は最初は、経歴を早く昇った。1919年3月には、中央委員会と組織局の一員として受け入れられた。そののち、内務人民委員の地位を得た(1923年-1927年)。
 しかし、トロツキーとの友情関係によって破滅した。1936年に逮捕され、その二年後に射殺された。
 Goloshchekin も、スターリンの粛清の犠牲者になり、1941年に殺された。
 二人とも、のちに「名誉回復」した。
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 (04) Ipatev 邸は長い間、クラブの建物や美術館として役立ってきた。
 しかし、当局はその建物を見るためにEkaterinburg(Sverdlovsk に改称)に来る訪問者の数の多さに不安になった。訪問者の中には、見たところ宗教巡礼者もいた。
 1977年秋、当局は取り壊しを命じた。
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 13節・14節、終わり。

2935/R.Pipes1990年著—第17章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)②。
 (08) Sverdlov は次に、翌7月19日の報道のために<Izvestiia>と<Pravda>に送る公式発表の原稿を書いた。
 London の<The Times>に翻訳されて、7月22日に公表された。つぎのような記事だった。
 「ソヴェト第五回大会で選出された中央執行委員会の最初の会合で、前皇帝のNicholas Romanoff の射殺に関する、Ural地方ソヴェトから直接に受け取った通信文が公にされた。
 赤色Ural の首都であるEkaterinburg は最近、チェコスロヴァキア軍団の接近による脅威を受けていた。
 同時期に、反革命陰謀が暴露された。武装部隊でもってソヴェトの権威から皇帝を奪い取ることを目的とする陰謀だ。
 この事実にかんがみ、Ural 地方ソヴェトの幹部会は、前皇帝のNicholas Romanoff を射殺することを決定した。この決定は、7月16日に実行に移された。
 Romanoff の妻と子息は、安全が保障された場所に移された。暴露された陰謀に関する文書は、特別の配達人によってモスクワに送られた。
 最近に、前皇帝を裁判にかけると決定されていた。人民に対する犯罪で審判されることになっていた。だが、のちに起きたことで、この道筋を辿るのが遅れた。中央執行委員会の指導部は、Ural 地方ソヴェトがNicholas Romanoff を射殺する決定を行なうのを余儀なくした情勢を討議したあとで、次のとおり決定した。
 ロシア〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は(幹部会の者たちにおいて)、Ural 地方ソヴェトの決定を、正常なものとして受け容れる。
 中央執行委員会は今では、Nicholas Romanoff 事件に関するきわめて重要な資料や文書を自由に利用することができる。最近のほとんどの日々についての彼自身の日記、妻や子どもたちの日記。彼の文通文書、中でもRomanoff とその家族に対するGregory Rasputin からの手紙。これらの資料は全て、調査され、近い将来に公にされるだろう。」
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 (09) こうして、公式の伝説が生まれた。ニコライ—そして彼だけ—は、逃亡を企てたがゆえに射殺された、そして、決定はモスクワのボルシェヴィキ中央委員会によってではなく、Ural 地方ソヴェトによってなされた。
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 (10) <Pravda>と<Izeves ti ia>がEkaterinburg ソヴェトの決定なるものを最初に報道した7月19日にも、直後の日々にも、Ekaterinburg ソヴェトは石の沈黙を守った。なお、7月13日に、ロマノフ家の資産を国有化する布令は発効していた。
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 (11) 世界じゅうのプレスは、ボルシェヴィキの公式見解に従った物語を報道した。
 <The New York Times>は、7月21日の日曜版の第一面にニュースを載せた。見出しはこうだった。
 「ロシアの前皇帝、Ural ソヴェトの命令で殺さる。ニコライ、7月16日に射殺さる。チェコスロヴァキア軍が彼を奪う怖れがあったとき。妻と継承者は安泰。」
 付随している追悼記事は、厚かましくも、処刑された君主は「社交的だが弱かった」と書いた。
 前月のニコライの死に関する風聞への無関心さからモスクワが正しく予見していたように、世界は処刑を冷静に取り扱った。
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 (12) ソヴィエトのプレスがニュースを掲載した日、Riezler は、Radek およびVorovskii と逢った。
 彼はおざなりにニコライの処刑に抗議し、世界の意見は必ず非難されるだろうと言った。一方で、ドイツ政府の「ドイツの皇女たち」への関心を強調した。
 もしドイツ政府が本当に皇妃とその娘たちに関心を持つならば、彼女たちは「人道主義的配慮」によってロシアを離れるのが許されるべきだ(注93)、とRadek が反応したとき、彼は高い自制心をもっていたに違いなかった。
 7月23日、Riezler はもう一度Chicherin に、「ドイツ皇女たち」の問題を取り上げた。
 Chicherin はすぐには反応しなかったが、翌日に、「自分が知っているかぎりで」皇妃はPerm へと避難した、とRiezler に言った。
 Riezler は、Chicherin はウソを言っている、との印象をもった。
 このとき(7月22日)までに、Bothmer は、Ekaterinburg 事件の「恐るべき詳細」を知っていた。そして、モスクワの命令によって家族全員が殺害され、Ekaterinburg のソヴェトに自由があったのは処刑の時期と殺害の方法を決定することだけだった、ということに疑いをもたなかった(注94)。
 それでもなお、8月29日にRadek は、ドイツ政府に対して、Alexandra とその子どもたちを逮捕されているスパルタクス団員のLeon Jogiches と交換させることを提案した。
 ボルシェヴィキの官僚は、この申し出を9月10日にドイツ領事に対して繰り返した。だが、詳細が報道され、前皇帝の家族は軍事作戦によって遮断されたと言われるようになると、こういった申し出は責任逃れ的になった(注95)。
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 ③へとつづく。

2934/R.Pipes1990年著—第17章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)①。
 (01) モスクワがロマノフ家の殺害を命じた、との争う余地のない証拠資料がかりに存在しなかったとしても、ニコライの「処刑」に関する公式の報道がその決定があったとされたEkaterinburg でではなく、モスクワで行なわれたという事実からしても、それが事実だったかを強く疑い得ただろう。
 実際に、Ural 地方ソヴェトは、すでに外国で報道されていた、発生したあとの5日間は、事件を公的に発表することを許されなかった。
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 (02) 証拠資料は決定的ではないけれども、皇妃と子どもたちの運命はきわめて微妙な問題だったがゆえに、モスクワはEkaterinburg に対して、発表を控えるよう命令したように見える。
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 (03) 問題は、この時期にボルシェヴィキが大いに取り入っていた、ドイツ人だった。
 ドイツ皇帝(Kaiser)はニコライの従兄で、ニコライの子どもたちの名付け親だった。
 彼〔Wilhelm 二世〕がその気になれば、ブレスト=リトフスク条約による解決の一部として、前皇帝とその家族をドイツに引き渡せと要求できただろう。この要求を、ボルシェヴィキは断わることのできない立場にあった。
 しかし、彼は何もしなかった。
 3月早くにデンマーク王がロシア前皇帝らのために取り持つよう求めたとき、ドイツ皇帝は、ロシアの皇帝家族の庇護場所を提供することはできない、と反応した。その理由は、ロシア人は君主制の復活の企てだと解釈するだろう、ということだった(注86)。
 スウェーデン王から、ロマノフ家がその苦境から楽になるのを助けるよう求められても、彼は拒否した(注87)。
 こうした振る舞いについての最もあり得る説明を、Bothmer が行なった。ドイツの左翼諸政党に対する恐れによる、というものだ(脚注1)
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 (脚注1) K. von Bothmer, Mit Graf Mirbach in Moskau(Tübingen, 1922), p.104. あるドイツ人学者は、ドイツの行動を擁護して、Alexandra が言ったこと—娘たちの家庭教師だったGilliard が記録した—を引用した。自分は「ドイツに助けられるより、ロシアで激烈に死にたい」。Jagow, BM, No.5(1935), p.351. そうかもしれないが、しかしもちろん、ドイツ政府は当時に彼女がこのように考えていることを知りようがなかった。
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 (04) ドイツ政府は、ニコライの運命に対して無関心だったにもかかわらず、ドイツの血統の前皇妃、彼女の娘たち、その他のロシア宮廷のドイツ人女性たち、とくにAlexandra の妹のElizabeta Fedorovna、の安全にはある程度の関心を示した。彼らは、これら女性をまとめて「ドイツの皇女たち」として言及した。
 Mirbach〔ロシア駐在ドイツ大使〕は5月10日に、Karakhan やRadek とともにこの問題を取り上げ、政府につぎのように報告した。
 「もちろん、打倒された体制を擁護するような冒険的行為をしてはいけないが、それにもかかわらず、私は、人民委員たちに対し、<ドイツの>皇女たちはあり得る全ての配慮でもって扱われる、とくに、彼女たちの生命への脅威はもちろんだが、どんな小さなごまかしもあってはならない、という期待を表明する。体調の悪いChicherin に代わってKarakhan とRadek は、きわめて協力的にかつよく理解して、私の見解を聞いてくれた。」(注88)
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 (05) 7月17日の朝、前夜の出来事に関する報告を、Ekaterinburg にあるソヴェトのある官僚—ほとんど確実に、その議長であるBeloborodov—は、クレムリンに電信で送ったと見られる。
 レーニンの生涯についてはきわめて詳細な編年記録があって、一時間ごとに彼の公的な活動を辿っている。しかし、不可解なことだが、その7月17日の記録はこう記している。
 「レーニンは(正午に)Ekaterinburg からの通信を受け、封筒に書く。『受領した。レーニン』」(注89)。
 Ekaterinburg はこの時期にはクレムリンと郵便では連絡しておらず直接の電信によっていたので、問題の通信は手紙ではなく電報だった、ということを当然視することができる。
 つぎに、当該の編年記録は通常は、レーニンに対する、挙げている文書の要点を記載している。
 この場合での省略が示唆するのは、共産党の文献がレーニンとの関係をつねに否定する主題、すなわち皇帝家族の殺害にそれは関連していた、ということだ。
 通信文は、ニコライの妻と子どもたちの運命に関して、明らかに十分に詳細ではなかった。そのことは、説明を求めてクレムリンがEkaterinburg に電信したことで分かる。
 同じ日ののちに、Beloborodov はモスクワへ、尋問に対する答えであるかのような暗号化した通信を送った。
 Solokov はEkaterinburg の電信電話局で、この電信文の写しを見つけた。
 彼はこの暗号を解読できなかった。
 ようやく二年後にパリで、あるロシアの暗号使用者が、解読した。
 解読された通信文は、皇帝家族の最終的運命に関する問題を決着させた。
 「モスクワ、クレムリン。人民委員会議秘書Gorbunov、返信証明。
 Sverdlov に知らせる、家族全員が長と同じ運命に遭う。公式には、家族は避難中に死ぬだろう。Beloborodorv。」(注90)
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 (06) Beloborodov の通信文は、その夜にモスクワに届いた。
 Sverdlov は、全ロシア・ソヴェト中央執行委員会の幹部会に報せを伝えた。注意深く、ニコライの家族の運命に言及することを省略して。
 彼は、前皇帝がチェコ人の手に落ちることの重大な危険性について語り、Ural 地方ソヴェトの行動について幹部会から正式の是認を得た(注91)。
 彼は、適切な時期があった6月か7月初旬に皇帝家族をモスクワへ移送しなかった理由を説明するという、面倒なことしなかった。
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 (07) Sverdlov はその日の遅く、クレムリンで進行中だった人民委員会議の会合に立ち寄った。
 目撃者は、その光景をこう叙述する。
 「Semashko 同志が報告していた公衆衛生の企画に関する議論のあいだに、Sverdlov が入ってきて、Ilich(レーニン)の後ろの椅子に着席した。
 Semashko は終わった。
 Sverdlov は身体をIlich の方に曲げて近づき、何かを言った。
 『Sverdlov 同志は、出席者に対して、発表することを求める』。
 Sverdlov はいつもの落ち着いた声で始めた。
 『私は、言わなければならない。地方ソヴェトの決定により、Ekaterinburg で、ニコライは射殺された。Alexandra とその息子は、信頼できる者の手にある。
 ニコライは逃亡しようとした。チェコ人が近くに来ていた。
 〔全ロシア・ソヴェト〕執行委員会幹部会は、是認を与えた。』
 一同、沈黙。
 Ilich が提案した。『条項から条項へ、企画書を読み進まなければならない。』
 条項から条項へと読むのが進行し、統計に関する計画案の議論がつづいた。」(注92)
 このような偽装でもってどうしようとしていたのか、我々が知るのは困難だ。必ずや、ボルシェヴィキ内閣の一員たちは真実を知っただろうからだ(脚注2)
 このような成り行きは、恣意的な行動を正当化する「正しさ」を必要とするボルシェヴィキを満足させたように見える。
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 (脚注2) Bruce Lockhart は、7月17日の夕方にすでに、Karakhan が自分に、皇帝家族の全員が死んだと言った、と主張する。<あるイギリス人工作員の回想>(London, 1935), p.303-4.
 ニコライの4人の娘たちは誰の「手」のうちにいるのかと、なぜ誰かが問わなかったのか、不思議なことだ。
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 ②へとつづく。

2933/桑原聡・元月刊正論編集代表(産経新聞社)②。

  桑原聡が月刊正論の編集代表になったとき(2010年12月号から)、民主党内閣になっていた。
 月刊正論編集代表として民主党政権を歓迎または支持していたわけではないが、一方で自民党について、こう書いていた。
 「かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(月刊正論2011年4月号p.326)。
 「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の切れたこの政党にも多くを期待できない」(産経新聞2011年3月1日付)。
 この<政治感覚>について、当時に批判的にコメントした。
 →No.0995「月刊正論編集長・桑原聡の政治感覚とは」(2011/03/07)
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 現時点で「後づけ的」に振り返ると、解散総選挙を経て「賞味期限の切れた」はずの自民党を中心とする安倍晋三内閣が誕生し(2012年12月)、2020年9月までの長期政権となった。
 「わが国を元気にする知恵も力もなかった」か、「多くを期待できない」ものだったかは評価が分かれるとしても、編集代表が桑原でなくなった月刊正論は<安倍晋三内閣>をほとんど全面的に支持・擁護する雑誌に変わった。
 表面的にのみ言うと、桑原の「政治感覚」は奇妙だった、間違っていた、ということになるだろう。それに、自民党について「賞味期限の切れた」政党とわざわざ明記しておくことの意味をどう理解していたのか、も怪しい。もともと桑原に「政治評論家」的言明をする資格があったのかどうか自体も、疑問だった。
 もっとも、2025年参議院議員選挙等を経てみると、桑原の指摘は当たっていた、と言えなくもない。10年以上後のことを予見したのだ、とこの人が強弁するとすれば。
 別のテーマになるが、自民党は手っ取り早く「国会議員」になりたい人物が相対的に最も多く集まる政党であり、また、「総裁」(かつ首相)が誰であるかによって、その政策の基本(少なくとも強調する政策方針)が変わる政党でもある。日本の「政党」、戦後の日本「政党」史を過度に真面目に理解すると、実態を見損なう怖れなしとしないだろう。
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  桑原聡は、編集代表として最後に(退任号に)、つぎの言葉を遺した。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」(月刊正論2013年11月号)。
 なぜこの一文が出てきたかを想像すると、直前に「保守のみなさん、……おおらかに共闘しましょうよ」と書いたからかもしれない。
 そう書いた自分もまた当然に<保守>なのですよ、と確認しておきたかったのだろう、とも思われる。
 なお、上の文章等は、数年後に私が別の論脈で引用し、コメントしている。
 →No.1542「『自由と反共産主義』者の三相・三面・三層の闘い①」(2017/05/14)
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 産経新聞社退職後に桑原聡が行なっていることの一部を知ると、この人は本当に(=心から)上のように「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ち」を持っているのか、疑問が生じる。
 まず、現時点のネット情報として上がっていないようだが、桑原聡は産経新聞社退職後、早稲田大学(のたぶん学部で)「村上春樹」について(非常勤講師として)講義していた。別の大学で「村上春樹」を講じていたとの情報もある。
 詳細な探索をするつもりはないので「いいかげん」であることを認めるが、つぎに、最近は「モンテーニュ」の<随想録>についてどこかに連載しているらしい。
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 さて、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じる」と明記した桑原聡と、「村上春樹」や「モンテーニュ」に、とくに前者に、関心をもち講義をしたり文章を書く桑原聡は、同じ人物なのか、という感想を覚える。
 「天皇陛下を戴く国の在りよう」への愛着と、「村上春樹」に対する愛着または関心は、印象としては、なかなか共存し難いのではないだろうか。
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 そこで、つぎの言葉を使いたくなる。「ビジネス保守」
 桑原聡の「天皇」にかかわる上の前者の言葉は、産経新聞社の社員で月刊正論という雑誌の編集代表をしている、という自己が所属する組織、その中で割り当てられた立場・「肩書き」を意識したもので、私人・個人としての言葉では全くなく、<ビジネス保守>としての言葉でないだろうか。
 つまり、「仕事(・業務)として」、「生業の一環として」発しているのではないか。ここでの「保守」は、むろん「産経新聞社的・保守」のことだが、「保守」概念に立ち入らない。
 「帰属組織」や体外的「肩書き」によって自己のイメージを自ら形成していく、というのは、珍しくはない。その「自己の」主張や見解についても同じだ。
 そのような制約が付いた「組織人」の言葉を「真面目に」受け取る必要はない、という教訓は、当たり前のことながら。またささやかながら得られるだろう。桑原聡だけではなく、もちろん、全ての新聞・雑種・テレビ放送局等の「組織」に属している者の主張・見解について言える。
 「ビジネス保守」という言葉は、桑原聡に関連して、すでに以下で使った。
 →No.2637/「月刊正論(産経新聞社)と皇室」(2023/06/03)
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  桑原聡の出身大学・学部を知りたい、と書いた2018年の文章をより正確に引用しておく(→No.1825/2018.07.08.)。
 「『(狭義の)文学・哲学・外国語』関係学部出身者こそが、戦後日本を奇妙なものにしてきて、きちんとした政策論・制度論をできにくくし、<精神論・観念論>的な議論を横溢させてきたように感じられる。
 もちろん、総体的かつ相対的な話として書いている。
 渡部昇一、加地伸行、小川榮太郎、江崎道朗、花田凱紀、長谷川三千子。全て、歴史以外の文学部出身だろう(外国語学部を含める)。桑原聡を含む月刊正論の代々編集代表者、月刊WiLLの編集者の出身学部を知りたいものだ。
 上に限らない。例えば、以下の者たちは、東京大学仏文学科出身だ。大江健三郎、鹿島茂、内田樹。…」
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2932/R.Pipes1990年著—第17章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第12節/その他の皇帝一族の殺戮。
 (01) 殺人者たちがその犯罪の痕跡を隠しているあいだに、別のロマノフ家の悲劇が、Ekaterinburg の北140キロにあるAlapaesk で演じられていた。
 ボルシェヴィキは1918年5月以降、ここに何人かの皇帝一族を監禁してきた。Sergei Mikhailovich 大公、Elizaveta Fedonovna 大公妃(1905年にテロリストに殺されたSergei Aleksandrovich の未亡人で今は修道女の前皇妃の妹)、Constantine 大公の3人の子息—Igor、Constantine、Ivan。
 彼らは、助手や家族の世話を受けながら、ロシア人とオーストリア人に警護されたAlapaesk の外の学校用建物に、監禁されて生活していた。
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 (02) 6月21日—まさにIpatev 邸の囚人たちが自称救出者からの最初の連絡を受けた日—に、Alapaesk の被監禁者たちの地位は変わった。
 彼らは今では、厳格な収監体制のもとにあった。
 二人—F. S. Remez という名の秘書と修道女—を除いて、付添者は排除され、貴重品は没収され、行動の自由は厳格に制限された。
 これらは、Ekaterinburg から発せられたBeloborodov の命令によっていた。その言うところでは、一週間前のMichael のPerm からの「逃亡」の繰り返しを防止するためだった。
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 (03) 6月17日、皇帝家族が殺害された日に、Alapaesk の囚人たちは、より安全な場所へ移動させると言われた。
 当局はその夜に、ロマノフ一族が捕らわれた学校用建物に、「白衛軍」を偽装した武装団によるニセの攻撃を仕掛けた。
 囚人たちは混乱に乗じて逃亡するためにこれ利用した、と言われた。
 実際には、Vekhniaia Siniachikha と呼ばれる場所に連れていかれ、森の中へと歩かされ、ひどく殴られ、そして殺された。
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 (04) 7月18日午前3時15分、Alapaesk ソヴェトは、茶番劇全体を演じたEkaterinburg へ、ロマノフ家の囚人は逃亡した、と電信連絡をした。
 その日ののち、Beloborodov は、モスクワのSverdlovsk、ペテログラードのジノヴィエフとUritskii に電報を打った。
 「Alapaesk の執行委員会、不明の部隊による18日朝の建物への攻撃を知らせる。そこに一時期、Igor Konstantinoich, Konstatin Konstantinovich, Ivan Konstantinovich, Sergei Mikhaiovich とPoley(Paley)をとどめさせ続ける。警護者の抵抗にかかわらず皇子たちは犠牲者にならないよう誘拐される。両側で探索が進行中。」(注84)
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 (05) 白軍が行なった検死によると、抵抗して射殺されたと見られるSergei 大公を除いて、犠牲者全員が、見つかった鉱山の立て坑に投げ込まれたときには、まだ生きていた。
 5人の犠牲者とElizaveta 大公妃の付添修道女は、おそらく数日後に、空気と水の不足で死んだ。
 検死によると、Constantine 大公の口と胃には土の痕跡があった。
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 第12節、終わり。

2931/R.Pipes1990年著—第17章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第11節/遺体の処理。
 (01) Ekaterinburg のボルシェヴィキは、ロシア人は殉教者の遺体に奇蹟的な力を認めるのを知っていて、またロマノフ家への崇拝が発生するのを阻止しようと気にかけて、遺体の全ての痕跡を破壊することに傾注するに至った。
 Iurovskii とその助手のErmakov がその目的のために選んだ場所は、Ekaterinburg から15キロ北にあるKiptiaki 村の近傍の森だった。Ekaterinburg の北部は沼地、泥炭地ばかりで、放棄された鉱山もある、という地域だった。
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 (02) 中心部から数マイル走って、遺体を乗せたトラックは、荷車をもつ25人の男たちの一党と出会った。
 「彼らは労働者(ソヴェト、その執行委員会等々のメンバー)で、Ermakov が集めていた。
 彼らは叫んだ。『なぜ彼らを死なせて運んでいるのか?』
 彼らは、自分たちがロマノフ家の処刑を任された、と考えていた。
 彼らは、遺体を荷車へ移し始めた。…
 すぐに(犠牲者の)ポケットを探索し始めた。
 ここでも私は、射殺という威嚇で脅迫し、警護をするよう命じた。
 Tatiana、Olga、Anastasia は何らかの特殊なコルセットを身につけていることが判った。
 遺体を裸に剥くことが決定された。—ここでではなく、埋める予定の場所で。」
 彼らが、ほとんど3メートルの深さにある放棄された金鉱跡に到着したのは、午前6-7時だった。
 Iukovskii は、死体の衣服を脱がせ、埋めよ、と命令した。
 「彼らが少女の一人の衣服を脱がせ始めたとき、コルセットの一部が銃弾で裂かれているのを見た。ダイヤモンドがgash にあった。
 やつらの眼が輝いた。全員にやめさせる必要があった。…
 彼らは遺体の衣服を脱がせ、それらを焼却し始めた。
 Alexandra(前皇妃)は亜麻布に縫い込まれたネックレスで成る真珠のベルトを着けているのが分かった。
 (少女たちはみんな、首にRasputin の絵と彼の祈祷文のある御守りをつけていた。)
 ダイヤモンドが集められた。半pud(8キログラム)の重さがあった。…
 貴重品を鞄に詰めたあと、遺体にあった残りの物は焼かれた。
 死体そのものは、鉱山の中へと降ろされた。」(注82)
 6人の女性の遺体に対してどのような侮辱が行なわれたかは、読者の想像に委ねなければならない。この作業に加わった警護者の一人は、のちにこう言って自慢した、とするにとどめよう。「皇妃の—をsqueeze したので自分は安らかに死ねる」(注83、「—」は原文ママとの記述あり(試訳者))。
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 (03) この場所は、現地の農民には、一本の幹から成長した大きな四本の松の木があったことから、<四人兄弟>として知られていた。
 Solokov がロマノフ家の遺体を見つけるために数ヶ月のあいだ掘ったのは、まさにこの場所だった。
 彼は多くの物的資料を見つけた。—イコン、ペンダント、ベルト留め具、めがね、コルセット締め具。これらは全て、皇帝家族の一員の持ち物だと特定された。
 切断された指も、見つかった。きつく嵌められていた指輪を取り除く際に切られた、皇妃のものだと考えられた(脚注)
 一組の入れ歯は、Botkin 博士のものだと識別された。
 彼らは、イヌのJemmy を焼却する手間をかけなかった。その犬の腐敗した死体は、立て坑で見つかった。
 皇妃が持っていた10カラットのダイヤモンドは、見逃すか偶然に落とすかした。これは夫からの贈り物で、草の中にあった。
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 (脚注) だが、ニコライのものである可能性もあった。Alexandra は7月4日に、全ての宝石類を渡せとするIurovskii の要求に関連させて、夫の婚約指輪は外れないだろう、と記していた。
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 (04) しかしながら、犠牲者の遺体はどこにも見つからなかった。そして、長年にわたって、皇帝家族の何人か、またはほとんどですら、虐殺を免れて生き残っているのではないか、という推測を生むことになった。
 この謎が解消されたのは、〔1989年に〕Iurovskii の回想録が出版されることによってだった。この書物はまた、遺体は一時的にのみ「四人兄弟」に埋められた、ということを明らかにした。
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 (05) Iurovskii は、「四人兄弟」鉱床は深さが浅すぎて墓場を隠すことができない、と考えた。
 彼は調査するために中心部に帰り、モスクワへと至る道の途中にもっと深い鉱床が存在することを知った。
 すみやかに、大量の灯油と硫酸を携えて戻った。
 7月18日の夜、付近の道路を閉鎖したあと、Iurovskii の部隊は、チェカの派遣部隊に助けられて、遺体を掘り出し、トラックに乗せた。
 彼らはモスクワ街道を進んだが、トラックが途中で泥に嵌まって動かなくなった。
 埋葬が、近くの浅い墓場で行なわれた。
 犠牲者たちの顔と身体に硫酸が注がれ、墓場は土と小枝で覆われた。
 その埋葬場所は、1989年まで知られないままだった。
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 第11節、終わり。
 
ギャラリー
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