秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/07

2930/R.Pipes1990年著—第17章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第10節/殺害(2)②。
 (07) 苛酷な作業だった。
 Iurovskii は各処刑者に一人ずつ犠牲者を割当てて、真っ直ぐに心臓を狙うこととしていた。
 一斉射撃が止まったとき、犠牲者のうち6人—Alexis、三人の少女、Demidova、Botkin—は、生きていた。
 Alexis は、血溜まりの中で呻いていた。Iurovskii は、頭に二発撃って、終わらせた。
 Demidova は、うち一つには金属の箱が中にある枕を使って、激しく防衛した。だが彼女も倒れ、銃剣で差し抜かれた。
 「少女たちの一人が突き刺されたとき、銃剣はコルセットを貫こうとしなかった」と、Iurovskii は不満ごちた。
 彼が思い出すように、「手続」の全体は、20分を要した。
 Medvedev も、光景を思い出す。「彼らは、身体のさまざまな部分に銃弾で負傷した。顔は血で覆われていて、衣服にも血が染み込んでいた。」(注78)
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 (08) トラックのエンジン音がかき消してはいても、射撃音は街路からも聞こえた。
 Solokov 委員会での目撃証言者の一人で、外部警護者たちが宿舎にしていた街路の向かいのPopos の家の居住者は、こう思い出した。
 「私は、記憶にある16日から17日の夜を十分に再現すことができる。その夜私は、一睡たりとも眠れなかったからだ。
 深夜の頃、私は中庭へ行き、物置に近づいた。
 私は不安を感じ、止まった。少しのちに、遠くの一斉射撃の音が聞こえた。
 およそ15発だった。続いて、別の射撃があった。3発か4発だった。それらは、ライフル銃の音ではなかった。
 2時を過ぎていた。
 射撃音は、Ipatev 邸からきていた。
 まるで地下室から聞こえてくるように、くぐもって聞こえた。
 そのあと私は、急いで自分の部屋に戻った。前皇帝が拘禁されている家の警護者が、上から私を見ることができるのではないか、と怖くなったからだ。
 戻ったとき、隣人が私に尋ねた。『聞いたか?』。
 私は答えた。『射撃音を聞いた』。
 『聞いた?』
 『うん、聞いた』と私は言った。そして、我々は沈黙した。」(注79)
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 (09) 処刑者たちは、上階からシーツを持ってきた。そして、死体から貴重品を剥ぎ取って着服し、血が滴り落ちている遺体を、即席の担架で、低層階を通って、正門で待つトラックまで運んだ。
 彼らは、粗い軍用布のシーツを車の床に広げ、遺体をつぎつぎと上に重ね、同様のシーツでそれらを巻いた。
 Iurovskii は、死で威嚇して、盗んだ貴重品の返還を要求した。そして、金の時計、ダイヤの煙草入れ、その他の物を没収した。
 そして、トラックに乗って離れた。
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 (10) Iurovskii は、Medvedev に、清掃を監視する責任を課した。
 警護者たちは、柄付き雑巾、水バケツ、血痕を除去するための砂を持ってきた。
 彼らの一人は、作業の光景をつぎのように叙述した。
 「部屋は、火薬の霧のような何かで満たされており、火薬の臭いがした。…
 壁や床には、弾痕があった。一つの壁にはとくに多数の弾痕(銃弾そのものではなくそれによる穴)があった。…
 壁のどこにも銃剣の傷はなかった。
 壁や床の弾痕の周りには、血があった。壁には血が跳ねたものや染みがあり、床には小さな血溜まりがあった。
 弾痕のある部屋からIpatev 邸の中庭を通って横切る必要があった他の部屋の全てにも、血痕や血溜まりがあった。
 正門に続く中庭の石にも、同様の血の染みがあった。」(注80)
 翌日にIpatev 邸に入ったある警護者は、完全に乱雑した状態を見た。衣類、書籍、ikon が乱雑に散らばっていた。それは、隠された金や宝石類が隈なく探され、奪われた跡だった。
 雰囲気は陰鬱で、警護者たちは会話しなかった。
 チェカの一員たち(チェキスト, chekist)は低層階の自分たちの区画で残りの夜を過ごすのを拒み、上の階に移動していた。
 従前の居住者をただ一つ思い出させるものは、皇女のspaniel犬のJoy だった。この犬は、見逃されていた。彼は皇女の寝室のドアの外にいて、入れてくれるのを待っていた。
 警護者の一人はこう証言した。「ひそかに思ったことをよく憶えている。キミは、待っても無駄だよ」。
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 (11) 当分のあいだは、外部警護者はその職にとどまった。Ipatev 邸では何も変化していない、という印象を作り出すためだった。
 この欺瞞の目的は、偽りの逃亡の企てを演じることだった。この企ては、皇帝家族が殺されたと言われることになるだろう過程で彼らは「避難」しており、その間に行なわれた、ということになる。
 7月19日、ニコライとAlexandra の、私的文書を含む最も重要な持ち物が、列車に荷積みされ、Goloshchekin によってモスクワへと運ばれた(注81)。
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 第10節/殺害(2)、終わり。

2929/R.Pipes1990年著—第17章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第九節/殺害(1)。
 最近まで、1918年7月16-17日の夜にIpatev 邸で起きた血の事件については、ほとんど全部が、Solokov 委員会が集めた証拠資料にもとづいていた。
 ボルシェヴィキは7月25日に、Ekaterinburg をチェコ軍団に明け渡した。
 チェコ人とともにEkaterinburg に入ったロシア人は、急いでIpatev 邸へと向かった。そこには誰もおらず、乱雑なままだった。
 7月30日、皇帝家族の運命を決定するために調査が始まった。しかし、調査者たちが真剣な努力をしないままで、貴重な数ヶ月が経った。
 翌1919年1月、Kolchak 提督は、調査を指揮させるべくM. K. Diterikhs 将軍を任命した。だが、Diterikhs には必要な資質がなく、2月に、シベリアの法律家であるNicholas Solokov と交替させられた。
 その後2年間、Solokov は揺るぎない決意でもって、全ての目撃証人や全ての資料上の手がかりを追い求めた。
 1920年にロシアから逃亡することを余儀なくされたとき、彼は、調査の諸記録を携帯して持ち出した。
 この諸資料とそれらによって彼が書いた論文は、Ekaterinburg の悲劇に関する第一の証拠資料を提供している(脚注1)
 最近にIurovskii の回想録が出版された。これは、警護者たちの主任だったP. Medvedev や、Solokov が尋問した追加的な証人の宣誓供述書を、補足し、拡充している。
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 (脚注1) Solokov 委員会の調査記録の複写文書—タイプ打ちの7フォルダ—は、Harvard のHughton 図書館の預託物だ。これらは最初は、Solokov に同行した、ロンドンの<The Times>紙の特派員のRobert Wilton が所有していた。そのうち三つある原本の運命は、Ross, Gibel’, p.13-17 で論じられている。Ekaterinburg 事件の追加的な証拠資料は、Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi sem’i の中にある。
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 第10節/殺害(2)①。
 (01)  皇帝家族は、7月16日をふつうに過ごした。
 Alexandra の日記の最後の書き込みによると、それは彼らが床に就いた午後11時頃のものだが、彼らには、何か異様なことが起こりそうだとの予感が全くなかった。
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 (02) Iurovski は、一日じゅう忙しかった。
 遺体を焼却して埋める場所を選別したあと—Koptiaki 村の近傍の放棄された鉱山跡—、Ipatev 邸の正門そばの垣根の中にFiat 製トラックが駐車できるよう調整した。
 夕闇が迫る頃、Medvedev に対して、警護者が回転銃を取り外すよう求めた。
 Medvedev は、Nagan タイプの回転銃—ロシアの将校への標準的な配布物で、各々7発撃つことができた—を12丁集め、指揮者の部屋へ持っていった。
 午後6時、Iurovskii は、台所から料理人見習いのLeonid Sednev を呼び出し、家の外に出した。その際、この少年が叔父である侍従のIvan Sednev に会ことができるよう皇帝たちが心配している、と言った。
 Iurovskii は嘘をついていた。叔父のSednev は数週間前にチェカによって射殺されていたからだ。
 だが、そうであっても、これはこの時期での彼の唯一の人間的行為だった。この少年の生命は、救われた。
 午後10時頃、Medvedev に対して、警護者にロマノフはその夜に処刑される、射撃音を聞いても驚くな、と伝えるよう言った。
 深夜に着く予定のトラックが、一時間半遅れた。それで、処刑も遅れた。
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 (03) Iurovskii は午前1時半にBotkin 博士の目を醒させ、他の者を起こすよう求めた。
 市内で騒擾が発生している、皇帝家族の安全のために低層階に移動する必要がある、と説明した。
 この説明は、納得させるものであったに違いない。Ipatev 邸の居住者たちは、街路からの射撃音をしばしば聞いていたからだ。前の日にAlexandra は、夜間に一台の大砲や数丁の回転銃の発射音を聞いた、と記していた(脚注2)
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 (脚注2) いくつかの説明によると、皇帝家族はIpatev 邸から安全な場所へ移動させられる、と言われていた。しかし、この説明は、彼らは一緒に持っていっただろう物品が全くないまま部屋を離れたという事実と矛盾している。物品の中には、Alexandra が旅行中に決して離さなかったイコン(ikon)も含まれている。Doterikhs, Ubiistvo, I, p.25.
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 11人の囚人たちが洗面し、衣服を着るのには、30分かかった。
 午前2時頃、彼らは階段を降りた。
 Iurovskii が、先頭になって導いた。
 つぎに続いたのは、腕にAlexis を抱いたニコライだった。二人とも軍用服と帽子を着用していた。
 ついで、皇妃と娘たちが続いた。Anastasia はKing Charles spaniel 犬のJeremy と一緒だった。そのあとは、Botkin 博士。
 Demidova は、二個の枕を運んだ。その一つには、宝石箱が隠されていた(注76)。
 彼女の後ろは従者のTrup、料理人のKharitonov だった。
 皇帝家族は知らなかったが、10人の処刑部隊—そのうち6人はハンガリー人、残りはロシア人—が、隣の部屋にいた。
 Medvedev によると、家族は「危険を予期していないかのごとく、静かだと見えた」
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 (04) 皇帝家族らの行列は内部階段の最後で中庭に入り込み、左に曲がって低層階へと降りた。
 彼らは、家の反対の端へと連れていかれた。そこは以前は警護者たちが占めていた部屋で、5メートルの幅、6メートルの奥行きがあった。その部屋からは、全ての家具が除去されていた。
 窓が一つあった。半月の形をし、外壁の高いところにあり、格子の柵が付いていた。そして、開いたドアが一つだけあった。
 反対側に第二のドアがあって、収納空間につづいていたが、鍵がかかっていた。
 その部屋は、袋小路にあった。
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 (05) Alexandra は、なぜ椅子がないのか、と不思議に思った。
 Iurovskii は、いつも親切であるように、二個の椅子を持ち込むよう命令した。その一つにニコライがAlexis を座らせ、もう一つにAlexandra が座った。
 残りの者たちは、並ぶよう言われた。
 数分後、10人の武装部隊と一緒に、Iurovskii が再び部屋に入ってきた。
 つづく光景を、彼はこう叙述した。
 「一同が入ったとき、私はロマノフたちに、彼らの親戚がロシアに反抗する攻撃を続けていることを考慮して、Ural のソヴェトは彼らを射殺する決定を下した、と告げた。
 ニコライは、部隊に背を向けて、家族と向かい合った。
 そして、まるで気を取り直したように、身体を向き直して、「何?」、「何?」と尋ねた。
 私は急いで自分が言ったことを繰り返し、部隊に対して、準備するよう命じた。
 その一員たちは、射撃する者があらかじめ指定され、血が大量に溢れるのを避け、また迅速に死に至らしめるために、直接に心臓を狙うよう指示されていた。
 ニコライはもう何も言わなかった。
 彼はもう一度、家族に向かい合った。
 他の者たちは、取り乱して、抗議の叫びを発した。
 それが、数秒間だけ続いた。
 そして、射撃が始まり、二、三分つづいた。
 私はその場で、ニコライを殺した。」(注77)
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 (06) 皇妃Alexandra と彼女の娘の一人には辛うじて十字を切る時間があったことが、目撃証人によって知られている。彼女らも、すぐに死んだ。
 部隊の全員が回転銃の予備銃弾を空にしたほどの、激しい射撃だった。Iurovskii によると、銃弾は壁から床へとはね返り、霰のように部屋じゅうを跳んだ。
 少女たちは、絶叫した。銃弾を浴びて、Alexis は椅子から落ちた。
 Kharitonov 〔料理人〕は「座り込んで、死んだ」。
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 第10節②へとつづく。

2928/生命・細胞・遺伝—20。

 一 「生命・細胞・遺伝」で最初に記述しようと思っていたのは、「細胞」の死と「個体」の死、<アポトーシス>と<アポビオーシス>の区別と関係という主題だった 
 参考文献—田沼靖一・ヒトはどうして老いるのか—老化・寿命の科学(ちくま新書、2002)等。
 それが、「細胞」一般にまず触れたのはよいが、いつのまにか、核(細胞核)内の染色体とかDNAとかヒトゲノムに触れてしまうようになった。男子であることを決定するのはY染色体ではなく、「SRY 遺伝子」と称される遺伝子の存在だ、という近年の研究成果にも触れた。
 →No.2754→No.2755
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  全くの「しろうと」による覚書・ノートだから不十分さがあって、当然だ。最新の知見からすると、誤りがあったかもしれない。
 だが、誤った記述の訂正ではないが、①重要な関係に論及し得ていない、②間違った「思い込み」を前提にしている、そういう記述をそのまま残している。
 これらが気になっていたので、追記する。
 上の①が第一、上の②が第二になる。
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  第一。 DNAに何度も触れた。だが厳密には「核DNA」(細胞核内のDNA)に言及したのだった。細胞内のミトコンドリアもまたDNAを持つことに、きちんと論及していなかった。
 ミトコンドリアについて触れてはいるが(2024/04/14→No.2725/—02)、ほとんどつぎのことしか述べていない。エネルギー(ATP)を生み出すこと、元来は自立した細胞(細菌)だったとみられるところ「細胞」に(「おまえが好きだよ、一緒になろうよ」、と言われて)吸収されたこと。
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  上の後者に由来するが、ミトコンドリアもDNAをその内部にもつ。また<ミトコンドリア遺伝子>もある。
 但し、ミトコンドリアDNA内の「遺伝子」は、ヒト(およびたぶん雌雄のある生物)の場合、母系でのみ継承されていく。父・男子(オス)も体内・細胞内に<ミトコンドリア遺伝子>をもつが、受精卵には残らない、とされる。
 この点にあれ?という風に気づいたのは、つぎのようなことがあったからだ。
 昨年春に「遺伝子検査」というものを初めて受けた(価格はたぶん4万-6万円くらいだった)。
 →No.2744/「『遺伝子検査』を受けた」。
 結果の項目中に祖先(1万年前!)の所在地域というものがあったが、それは「母系」=女系をたどっての「祖先」らしかった(検査結果の注記による)。
 なぜそうなのか(父系は診断できないのか)はそのときは分からなかった。しかし、少なくともこの項目での診断対象は(私の)ミトコンドリアだった、と思われる。
 のちに、<ミトコンドリア遺伝子>は母系でのみ継承される、ということを知って、納得した。
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  その他、核DNAとミトコンドリアDNAには、以下のような差異がある、とされる。
 遺伝子については、上の点の他、その数が(核—と比べて)圧倒的に少ない。100分の1以下だ。
 核DNAは「2本(鎖状)の螺旋構造」をもつのに対して、ミトコンドリアDNAは「1本の環」であるらしい。
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  なお、ここでついでに記しておくと、「DNA」という語の使い方に紛らわしいところがあった(「遺伝子」、「染色体」、「ゲノム」といった基本的概念との関係以外で)。
 つまり、DNA「全体」を指す場合と、例えば<開始コドンと終止コドン>の間の、あるいは個々の「遺伝子」に対応する(少なくとも個々の「遺伝子」を含む、「DNA分体」と称されることがあるものを指す場合とを、明確に区別しては記述してこなかった(この辺りは、専門家または諸文献でも曖昧なような気もする)。
 今後は、意識しておくことにしよう。
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  第二。<ヒトゲノム計画>終了後でも見られる、ヒト・人間が(一個体として)もつ(細胞核内の)遺伝子の総数について。
 長くなったので、今回は省略する。
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2927/R.Pipes1990年著—第17章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ②。
 (07) Iurovskii がIpatev 邸に責任をもったあと最初にしたのは、警護者による窃盗をやめさせることだった。
 窃盗は、安全確保の観点からして危険だった。窃盗をする警護者は、チェカの連絡網の外で、囚人たちへの、および彼らからの文書を運ぶよう、さらには彼らが逃亡するのを助けるようにすら、贈賄されることがあり得た。
 職務の最初の日に、彼は、皇帝家族が所有している貴重品を全て提出させた(彼は知らなかった、女性たちが下着の中に縫い込んだものを除く)。
 彼は目録を作成したあとで、宝石類を封印された箱の中に入れ、家族がそれを持ちつづけるのを許した。但し、毎日、点検した。
 Iurovskii はまた、家族の荷物が保管されている物置に鍵を付けた。
 つねに他人を良いように考える性格のニコライは、こうした措置は家族のために行なわれた、と信じた。
 「(Iurovskii と助手たちは)我々の家で起きた不愉快な出来事について説明した。彼らは我々の持ち物の紛失に言及した。…
 Avdeev には部下たちが物置のトランクからという窃盗するのを阻止できなかったという責任があることについて、彼に気の毒だった。…
 Iurovskii と助手たちは、どのような種類の者たちが我々を囲んで警護し、窃盗をしているかを、理解し始めた。」(脚注1)
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 (脚注1) Alexandra の日記によると、Iurovskii は7月6日に、窃盗された時計をニコライに返却した。
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 (08) Alexandra の日記によって、7月4日に内部警護者が新しい要員と交替したことが確認される。
 ニコライは、新しい彼らはラトビア人だと思った。また、警護者の班長も、Solokovの尋問に対して同じように答えた。
 しかし、当時は「ラトビア人」という言葉は、緩やかに親共産党の全ての外国人を指していた。
 Solokov は、Iurovskii が新しい要員の10人のうち5人とドイツ語で話した、ということを知った(注69)。
 彼らが戦争捕虜のハンガリー人だったことに、ほとんど疑いはない。ある者はMagyars (マジャール人)で、ある者はマジャール化したドイツ人だった(脚注2)
 彼らは、チェカ本部から移って来て、American ホテルに居住した(注70)。
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 (脚注2) Sokolov は、Ipatev 邸の壁にハンガリー語での言葉があるのに気づいた。「Verhas Andras 1918 VII/15e—örsegen」(Andras Verhas 1918年7月15日—警護者)。Houghton Archive, Harvard Uni., Sokolov File, Box 3.
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 (09) これは、処刑部隊だった。
 Iurovskii は、彼らに低層階を割り当てた。
 彼自身はIpatev 邸に引っ越さず、妻、母親、二人の子どもたちと一緒に住むのを選んだ。
 指揮官の部屋へは、彼の助手のGrigorii Petrovich Nikulin が入った。
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 (10) 7月7日、レーニンはEkaterinburg に指示して、Ural 地方ソヴェトの議長のBeloborodov にクレムリンと直接に電信連絡をすることを認めた。
 「事態の異常な重要性にかんがみて」そのような連絡方法をとることについての、Belonorodov の6月28日の要請に対して、レーニンが行なった反応だった(注71)。
 Ekaterinburg がチェコ軍団の手に落ちた7月25日まで、軍事問題およびロマノフ家の運命に関するその市とクレムリンとの間の全ての連絡は、この電信の方法で、しばしば暗号を用いて、行なわれた。
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 (11) Goloshchekin は、殺害のための保障を得て、7月12日にモスクワから帰った。
 その同じ日、彼はソヴェト執行委員会に対して、「ロマノフ家の処刑に関する中央当局の態度」に関して報告した。
 彼は、モスクワはもともとは前皇帝を審判にかけるつもりだったが、戦線の場所が近接していることを考慮して、これを実行することをやめた、そしてロマノフ家は処刑されるものとすると決めた、と言った(注72)。
 ソヴェト執行委員会は、モスクワの決定に対してゴム印を捺した(注73)。
 今では、その後と同じく、Ekaterinburg が処刑についての責任を引き受けた。皇帝家族がチェコ軍団の手に落ちるのを阻止するための非常措置だ、と見せかけることによって(脚注3)
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 (脚注3) Iurovskii は、1920年に書かれ、だがようやく1989年に公にされた回想録で、ロマノフ家の「絶滅」(extermination, istreblenie)に対する暗号の命令を7月16日にPerm から受けた、と語った。Perm は、モスクワがUral 地方の通信センターとして用いた州都だった。彼によると、最終的な処刑命令は、同じ日の午後5時にGoloshchekin によって署名された。Ogonek, No.21(1989), p.30.
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 (12) 翌日の7月15日、Iurovskii の姿が、Ekaterinburg の北にある森で見られた。
 彼は、遺体を処理する場所を探していた。
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 (13) 皇帝家族は、何も疑っていなかった。Iurovskii は厳格な手順を維持しており、細心な態度で、皇帝家族の信頼すら獲得していた。
 ニコライは、6月25日/7月8日にこう書いた。「我々の生活は、Iurovskii のもとで、いかなる点でも変わらなかった」。
 実際に、いくつかの点では、彼らの生活は良くなった。今では修道女から全ての物を提供されていたからだ。但し、その一部はAvdeev の警護者によって盗まれた。
 7月2日、作業員が唯一の空いた窓に鉄柵を取り付けた。これもまた、皇帝家族は異様だと感じなかった。Alexandra は、「いつものように、昇ることに疑問はなかったし、見張り番と接触することもそうだった」と記した。
 今ではチェカはニセの逃亡計画を放棄していたが、Iurovskii は、本当に逃亡する機会を与えなくなかった。
 7月14日日曜日、彼は、聖職者が来てミサの儀式を行なうのを許した。
 聖職者が去るとき、彼は、皇女の一人が「ありがとう」とつぶやくのを聞いた(注74)。
 7月15日、若干の医学的知識をもっていたIurovskii は、寝たきりのAlexis と、彼の健康について議論しながら、時間を過ごした。
 彼はその翌日に、Alexis に卵を持って来た。
 7月16日、二人の女性が清掃するためにやって来た。
 彼女たちはSokolov に、家族は健全な精神状態にあると思えた、皇女たちはベッドを整えるのを手伝った際に笑った、と語った。
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 (14) この頃ずっと、皇帝家族はまだ、救出者から連絡が来るのを望んでいた。
 ニコライの、6月30日/7月13日付の、日記への最後の記入はこうだった。
 「我々には、外部からの報せがない」。
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 第八節、終わり。

2926/R.Pipes1990年著—第17章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ①。
 (01) 共産党当局のいつものやり方だったけれども、皇帝家族を処刑する責任をUral の地方ソヴェトに負わせるというのは、レーニンを免責するためとはいえ、確実に誤解を生じさせる。
 ロマノフ一族を「絶滅」するという最終決定が個人的にレーニンによって、おそらくは7月初めになされたことは、確定することができる。
 中央から明確に権限付与されることなく、地方のソヴェトがこのような重大な問題について行動することはないだろう、ということからも、上のことは相当程度確実に推測され得ただろう。
 Solokov は、委員会による調査結果を公表した1925年に、レーニンの責任について、確信をもった。
 しかし、トロツキーという権威ある者による、争う余地のない積極的な証拠資料が存在している。
 トロツキーは1935年に、ある亡命者用新聞で、皇帝家族の死に関する記事を読んだ。
 彼は記憶を呼び覚まし、日記にこう書いた。
 「私のその次のモスクワ行きは、Ekaterinburg がすでに落ちた後のことだった[すなわち7月25日以後]。
 Sverdlov と話した際に、ついでにこう尋ねた。『ああそうだ、皇帝はどこにいる?』
 彼は、『終わった』、『射殺された』と答えた。
 私は『家族はどこにいる?』、『家族も彼と一緒にか?』と、驚き気味で尋ねた。
 『全員だ。どうして?』とSverdlov は答えて、私の反応を待った。
 私は、返答しなかった。
 『では、誰が決定したのか?』と私は追及した。
 答えはこうだった。『我々が、ここで決定した。Ilich〔レーニン〕は、とくに現在の困難な状況のもとでは、白軍に生きている旗印として残してはならない、と考えた』。
 私はそれ以上質問せず、この件はもう打ち切りだと考えた。」(注64)
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 (02) Sverdlov の素っ気ない言葉は、公式の見解はつぎのようだったにもかかわらず、一瞬に問題を片付けた。すなわち、ニコライとその家族は、逃亡するかチェコ軍団に捕らわれるかを阻止するために、Ekaterinburg の当局の主導によって、処刑された。
 決定は、Ekaterinburg でではなく、モスクワで行なわれた。それは、ボルシェヴィキ体制が基盤を失っていると感じ、君主制の復活を怖れたときだった。—これは一年後にはすでに狂信的すぎて考慮に値しなくなった考えだったが (脚注1)
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 (脚注1) Kolchak 提督が立ち上げた調査委員会によって詳細が知られるようになると、Ekaterinburg の虐殺は、反ユダヤ主義文献が不快にも溢れるという事態を生んだ。それらは何人かのロシアの文筆家や歴史家によって書かれ、西側にも反響があった。
 こうした文献の多くは、Ekaterinburg の虐殺についてユダヤ人を非難し、それを世界的な「ユダヤの陰謀」の一部だと解釈した。
 ロンドンの<Times>特派員のイギリス人、Robert Wilton の記事で、および彼のロシアの友人すらの説明では、ユダヤ人恐怖症のDiterikhs 将軍は、精神病理上の異常を呈した。
 おそらく、当時に反ユダヤ主義の拡散や偽作の<シオンの賢人の議定書(Protokols of the Elders of Zion)>の普及に役立った、という以上のことは何もなかった。
 これらの著作者たちは悲劇についてユダヤ人を断固として非難するが、都合よく、死刑の宣告はロシア人のレーニンによって裁可されたことを忘れていた。
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 (03) 6月の末、Ural の最有力のボルシェヴィキでSverdlov の友人のGoloshchekin は、Ekaterinburg からモスクワに向かった。
 Bykov によれば、彼の任務は、ロマノフ一族の運命について、共産党中央委員会および全国ソヴェト中央執行委員会と討議することだった(注65)。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキ、とくにGoloshchekin は、邪魔なロマノフ一族を排除したかった、ということは、十分に確定されている。このことから、彼は処刑へと進むことについてモスクワの承認が欲しかった、ということを合理的に導くことができる。
 レーニンは、この要請を是認した。
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 (04) 前皇帝を、そして可能であれば彼の直接の家族をも処刑するという決定は、7月の最初の数日のあいだに行なわれた、と見られる。7月2日夕方のソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕の会議で、というのが最もありそうだ。
 この仮説を裏付ける二つの事実がある。
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 (05) ソヴナルコムの会合の議題の一つは、ロマノフ家の資産の国有化だった。
 この趣旨の布令の草案を策定する委員会が、設置された(注66)。
 この問題が緊急を要するとは、共産党支配のもとで生きているロマノフ一族は監獄の中にいるか国外追放中で彼らの財産はとっくに国家に奪われているか農民に配分されていたとすれば、危機的な状況のもとでは考えられなかっただろう。
 したがって、ニコライを処刑する決定と関連付けられて、議題設定や布令案作成が行なわれたと言えそうだ。
 ロマノフ一族の資産を公式に国有化する布令は、殺害の三日前、7月13日に施行された。だが、不思議にも一般的な実務から逸脱して、6日後まで公表されなかった。—この日は、殺害という事実の情報が公にされた日だ(注67)。
 この論脈を支持するもう一つの事実は、すぐのちにある。すなわち、7月4日に、皇帝家族を警護する責任は、Ekaterinburg からチェカへと移された。
 この7月4日に、Beloborodov は、クレムリンに電報を打った。
 「モスクワへ。Goloshchekin に代わって〔全国ソヴェト〕中央執行委員会議長のSverdlov あて。
 中央の指示に合致して事態を調整すべくSyromorotov が出発したところだ。…<中略>(脚注2)
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 (脚注2) Solokov, Ubiistvo, Photograh No.129, p.248-p.249の間。Avdeev の助手のA. M. Moshkin は、皇帝家族の持ち物を盗んだ責任で逮捕された。
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 (06) Ekaterinburg のチェカの長のIakov Mihailovich Iurovskii は、革命の相当前に通常の犯罪で有罪判決を受け、シベリアへの流刑となったユダヤ人の、孫だった。
 不十分な教育を受けたあと、Tomsk で時計職人の見習いになった。
 1905年革命のあいだに、ボルシェヴィキに加入した。
 のちにベルリンでしばらく過ごし、そこでルター主義へと改宗した。
 ロシアに帰ったとき、Ekaterinburg へと追放され、写真スタジオを開いた。そこはボルシェヴィキの秘密会合の場所として役立った、と言われている。
 戦争中は、準医療従事者の訓練を受けた。
 二月革命が勃発したときにやめて、Ekaterinburg へ戻った。そこで兵士たちの中に入って戦争反対を煽動した。
 1917年十月、Ural 地方ソヴェトは、彼を〔Ural 地方の〕「司法人民委員」に任命した。そのあと、彼はチェカの一員になった。
 Iurovskii は、どの文献を見ても、邪悪(sinister)な人物だった。憤懣と挫折感でいっぱいの、当時のボルシェヴィキに惹かれるようなタイプで、第一の応募先は、秘密警察だった。
 Solokov は、彼の妻と家族に対する尋問から、つぎのような人物像を描いた。すなわち、尊大で、意欲的な人間で、傲慢で、残虐な気質の持ち主(注68)。
 Alexandra 〔前皇妃〕は、すぐにこの人物を嫌いになり、「下品で不愉快だ」と形容した。
 チェカにとっては、彼を価値あるものにするいくつかの長所があった。すなわち、国有財産を扱う際の実直さ、慎みのない残虐さ、相当の心理的洞察力。
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 ②へとつづく。

2925/自由民主党による憲法改正の「条文イメージ」。

  今回(2025年7月)の参議院議員選挙用の自由民主党の「公約」を見ていると、「憲法改正の条文イメージ」として、つぎの4項目を記している。
 「①自衛隊の明記、②緊急事態対応、③合区解消・地方公共団体、④教育充実」。
 長らく「現行憲法の自主的改正」を党是としてきた政党がこの体たらくだと、現行憲法はすでに80年近く改正されていないが、2047年まで、つまり施行から100年間、一度も改正されることなく通用してしまうのではないか。ちなみに、大日本帝国憲法の施行期間は(1945-1889で)56年または(1947-1889で)58年だった。
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  「公約2025」以外の自民党文書をより正確に確認する必要があることは認める。だが、つぎのように指摘して差し支えない、と考えられる。
 上の項目記載を「条文イメージ」と称するのは間違っている。どんな「条文」の「イメージ」も出てこないからだ。また、この「公約」に限らず、どの項目についても、自由民主党は「案」であれ「条文づくり」を行なっていない。
 かつて二度にわたって全体にわたる「改正憲法草案」を自民党は発表した。しかし、九条二項の削除を前提として「国防軍」、「自衛軍」を設置する旨のそれらにあった条項は、安倍晋三内閣による、九条二項存置を前提とする「九条の二」(または九条三項追加)による<自衛隊明記>案によって、実質的に放棄された、と言ってよい。
 しかもまた、すでに長く経過した<自衛隊明記>の「条文」案が全く提示されていないのだから、ほとんど話にならない。
 日本会議系の「日本政策センター」伊藤哲夫らによる<自衛隊明記>案を安倍晋三が採用したのだとすると、同センター・伊藤哲夫の果たした役割は(現九条二項に手をつけさせなくなるという意味で)犯罪的だ(+犯罪的だった)。歴史的にそう断罪されるだろう。
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 安倍晋三が突然に<自衛隊明記>案を発表したのは2017年の憲法記念日だった。そのビデオ・メール(挨拶)を受けた櫻井よしこらの憲法改正集会の最後では、櫻井よしこは<緊急事態条項を!>と叫んで拳を上げていた。
 ということは、櫻井は安倍の<自衛隊明記>論をその日まで知らなかった、ということになる。
 もちろん、彼女(と代表をしている憲法改正運動団体)は、その日以降は<自衛隊明記>改正案を第一に掲げるように<変転>したのだったが。
 「①自衛隊の明記」案の問題性ついては、この欄にすでに何度も触れたので、繰り返さない
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 上の②と④の適否は、具体的な「条文案」を手がかりにしてこそ議論できるもので、「条文案」を示していない(又は示すことができない)のは無責任だ。
 「緊急事態対応」にせよ「教育充実」にせよ、現憲法を改正しなければできないことと、現行の法律(を含む法令)を改正する、又は新たに制定することによってできることもある。
 この区別を意識することなく、どうして「憲法改正」を語ることができるのか。例えば一定の緊急事態に(当面)法律と同等の効力をもつ政令を内閣は制定できる、としたいならば憲法改正による新条項が必要だ。だが、現行法律の改正等で「緊急事態対応」を配慮することができる事項もある。
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  上の③は、ひどい。
 自民党には法曹資格をもつ国会議員等もいるはずだが、「合区解消」を憲法改正の主題の一つにするようでは、まともに党内議論はなされていないのだろう。なお「・地方公共団体」との追記があるのは意味不明だ。
 現憲法は、「地方公共団体」という語を用いているが、都道府県と市町村の二層制を前提とするとはどこにも書いていない(但し、現在の(法律上の)東京都の「特別区」部分以外は、現憲法施行当時の「二層制」をやはり採用しているというのが最高裁判例のようだ)。
 重要なのは、各「都道府県」の設置と各名称は、現行法律にもとづいている、ということだ。法律により、又は法律が定める手続により、これらを変更することができる、ということだ。
 国会議員選挙の際の島根県・鳥取県、高知県・徳島県の各「合区」は地方自治法(法律)でもない公職選挙法(法律)が定めたことだ。よって、その趣旨の公職選挙法の関係条項を改めれば、元に戻して「合区解消」することは不可能では全くない。
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 憲法に「合区解消」を明記する? いったいどういう条文になるのだろうか。
 「現在の都道府県の二つ以上を合わせた選挙区を設けてはならない」。
 こんな条文を憲法上に作れない。「現在の都道府県」というのは、現行の法律を見ないと分からず、現行憲法をどう読んでも47都道府県は明らかにならない。
 「選挙区」とは何かも、現憲法上から明確にならない。
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 この「合区解消」案が憲法改正の一問題として出てきたという報道をだいぶ前に知ったとき、自民党は「狂って」いるのではないか、法曹資格をもつ国会議員は、さらには大学法学部出身の国会議員は何を考えているのか、と感じたものだ。
 上に挙げた4つの県の選出議員・関係議員の「顔を立てて」、きっと自分の国会議員たる地位に関係がない問題については何も異論を挟まなかったのだろう。
 しかし、「最高法規」たる憲法改正の対象事項について、これほどに鈍感であってよいのか。
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  憲法を現実の変遷にも対応して<より合理的な>内容のものにすることは、国民全体の、とりわけ「発議」権者(とされている)国会の構成員の重要な責務だろう。
 現憲法97条の「精神的」(説教的?)規定の内容には問題がある、とこの欄で指摘したことはある。
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 より具体的な論点として、以下がある、と近年に考えた。
 第一。内閣(内閣総理大臣ではない)の一存だけによる(天皇への助言手続は必要だが)<衆議院解散>権の否認。これは本来は現憲法の「解釈」問題だと考えられる。だが、これまでの「憲法慣行」と「司法実務」から見て、憲法改正が必要のようだ。
 第二。長と議会の二元制、長と議会議員の住民による「(直接)選挙」制、の二つを、現憲法は<全国一律に>、つまり全ての「地方公共団体」について要求している。200人の村から東京都まで。これを、もう少し柔軟に法律によって(極論すれば各「条例」でということになるが?)定めることができるように改める
 なお、<道州制>は、道州の長と(道州議会設置を前提として)道州議会議員の「公選」制を採用するかぎりは、現憲法に違反せず、法律レベルの改正で採用可能だと考えられる。これらを採用しない場合は、憲法改正が必要になりそうだ。
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2924/R.Pipes1990年著—第17章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第七節/チェカによる救出作戦の捏造②。
 (08) (1918年)6月22日、明らかにニコライの返書に反応して、作業員が皇帝夫妻の寝室の窓を点検した。
 その翌日、作業員たちが喜んだことに、二重窓が外され、換気用窓枠が入れられていた。息苦しく熱い上層階に新鮮な空気を入れるためだった。
 囚人たちは、外に寄り掛かるのを禁じられた。娘たちの一人が頭を外に出しすぎたとき、警護者の銃の火が噴いた。
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 (09) 6月25日、第二の秘密の伝言が届き、三つめは6月26日に来た。
 これらの手紙が皇帝家族に届いたことに争いがないのは、ニコライの日記による。彼は不用意にも6月14日(27日)の日付にこう書いた。
 「我々は最近、次から次に、二通の手紙を受け取った。それらは、誰か献身的な者によって神隠しされる準備をするよう、我々に助言している!」
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 (10) 第二の手紙は、心配しないよう説得していた。救出は何のリスクもなく実行される、と。
 皇帝家族は数十人の武装警護者に囲まれていることを考えれば、かりに策略者が望むように捕囚者の気持ちを和らげることが許されたのだとしても、これは、驚くべき請け負いだった。
 そしてこれは、その真正さに関するきわめて大きな疑問を生じさせる。
 この手紙はこう述べた。窓の一つは壊されていることが「絶対に必要だ」と。—これは実際に、指揮者によって2日前に、そうなされた。
 Alexis が歩けないことは「問題を複雑にした」が、「大きすぎる面倒ではなかった」。
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 (11) ニコライはこの手紙に対して、6月25日に、ある程度のも長さの返書を書いた。
 彼は手紙の発送者に対して、窓の一つが二日前に実際に空いた、と教えた。
 皇帝家族だけではなくBotkin 博士や侍従たちも救出することが、絶対的要請だった。
 「彼らが我々に負担をかけたくなく、彼らが我々に従った後で自発的に国外追放になって我々を残したくないと思うとすれば、我々は何と浅ましいことだろう」。
 ニコライはまた、物置に保管している二つの箱の運命についても、関心を表明した。小さな箱はAF(Alexandra Fedorovna)No.9 と貼り紙され、大きな箱は「No.13 N. A.」と指定され(Nicholas Alexandrovich)、後者に「古い手紙と日記」が入っていた。
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 (12) 第三の手紙は、追加の情報を求めていた。
 差出人は、残念ながら、全員を救出するのは不可能かもしれない、と書いた。
 その者は、6月30日までに「作戦行動の詳細な計画」を提供すると約束し、家族に対して、合図(これに関する叙述はなかった)に関して敏感になるよう指示した。合図を知るや否や、玄関に続くドアにバリケードを築き、彼らが何とか入手したロープを使って、空いている窓から下に降りることとされていた。
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 (13) その夜(6月26-27日)、約束された救出の企てを予期して、Alexis は、両親の部屋へ移動した。
 家族は、就寝しなかった。
 ニコライは、「我々は不安な夜を過ごし、衣服を着けたままで徹夜した」と記した。
 しかしながら、合図は来なかった。
 「待つことと不確実さは、身を切られるように辛かった」。
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 (14) 何が起きたことでチェカがその計画を放棄したのかを、決定することはできない。
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 (15) つぎの夜、ニコライとAlexandra は、警護者の会話を偶然に聞いて、逃げようという考えを捨てた。
 Alexandra は、6月28日にこう書いた。「我々はその夜に、部屋の下にいる見張り番の様子を聞いた。我々の窓をつねに監視せよ、と特別に言われていた。—我々の窓が開いていたので、再びきわめて疑い深くなった。」
 このことは、ニコライにつぎの行動をさせた、と見られる。すなわち、誘拐されることに反対していないが逃亡する気持ちになっていないという趣旨の、本意ではない覚書を手紙の発送者に伝えること。
 「<中略>(フランス語文。脚注に英語化されているので参照。)(脚注)
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 (脚注) 「我々は<逃亡>するのを望まないし、そうすることもできない。
 力ずくで誘拐されることだけができる。我々をTobolsk から移したのは、実力だったように。
 したがって、我々からの<いかなる積極的な援助も>あてにしてはいけない。
 指揮官には多数の協力者がおり、彼らは頻繁に交替させられ、不安になっている。
 彼らは我々捕囚者とその生活を注意深く警護している。それは我々には良いことだ。
 我々は、彼らが我々を理由として被害を受けるのを望まないし、我々のために行動する君たちを理由としてそうなるのも望まない。
 とりわけ、お願いだから、血を流すな。
 君たち自身で、彼らに関する情報を取得せよ。
 ハシゴなくして窓から下に降りるのは不可能だ。
 降りた後でも、指揮者の部屋から我々の部屋の窓が開いているのが見えるため、大きな危険がまだある。低層階の機関砲は中庭から入ってくる者を狙える。
 (削除印付き—だから、我々を誘拐しようという考えは捨てよ。)
 もし我々を見守っているなら、君たちは、緊急の現実的な危険がある<場合には>、いつでも我々を救いに来ることができる。
 外で何が起きているのか、我々は完璧に知らない。新聞も手紙も受け取っていない。
 窓を開けることが許された後で、監視は強化され、頭を窓の外に出すことすら禁止された。そうすれば、顔に銃弾を受けるリスクがある。」
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 (16) この段階で、見せかけだけの救出作戦は、頓挫した。
 皇帝家族は、しかしなおも、四つめおよび最後の秘密連絡を受けた。それらの文書は、7月4日以降に書かれたはずだった。その日にAvdeev と交替した新しい指揮者に関する情報を求めるものだったからだ。
 これらは、チェカによる粗雑な捏造文書だった。その文書は、皇帝家族に対し、友人の「DとT」—明らかにDolgorukii とTatishchev—はすでに「救出された」と保障していたが、実際には、二人は6月に処刑されていた。
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 (17) こうした経験をしたあと、ニコライと子どもたちの外貌は変化した。Solokov〔委員会〕での目撃証人は彼に、皇帝家族は「疲れ果てて」いると見えた、と語った(注63)。
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 第七節、終わり。

2923/R.Pipes1990年著—第17章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第七節/チェカによる救出作戦の捏造①。
 (01) 6月17日、皇帝家族は、歓迎すべき報道を知った。Novotikhvinskii 修道会の修道女が、これまでは同様の要請は却下されてきたが、卵、牛乳、乳脂を皇帝家族に配達することが認められるだろう、という報せだ。
 のちに知られるに至ったように、これは皇帝家族の良い暮らしへの関心から生じたのではなく、チェカの策略の一部だった。
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 (02) 6月19日または20日、皇帝家族は修道女から乳脂の容器を受け取った。その蓋の中には、つぎの伝言が書かれた一片の紙が隠されていた。その伝言は注意深く書かれたか、または、フランス語に関する知識が十分にない者によって書き写されたもののようだった。
 「<中略>[フランス語文。脚注1に英語化されているので、参照。]
 死を覚悟している者、ロシア軍将校より。」(脚注1)
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 (脚注1) 友人たちはもう眠らず、長く待ったときが来るのを望むでしょう。
 チェコスロヴァキア人の反乱はかつてなく、ボルシェヴィキの深刻な脅威になっています。Samara、Chelia binsk および東部と西部のシベリアは、民族臨時政府の支配下にあります。スラヴの友人の軍隊は、Ekaterinburg の80キロ離れたところにおり、赤軍の兵士たちは有効には抵抗していません。
 外部の動きの全てに対して、注意深くしていて下さい。待って、希望をもち続けて下さい。
 しかし同時に、用心深くして下さるよう懇願します。なぜなら、ボルシェヴィキは<敗北するより前に、本当のかつ重大な危険を象徴している>からです。
 昼も夜も一日じゅう、準備しておいて下さい。
 <あなたの二つの部屋>の概略を、家具、ベッドの場所を、描いて下さい。
 あなたたち全員が床に就く時間を、明確に書いて下さい。
 あなたたちのうち一人は、これから毎晩2時と3時のあいだを眠ってはいけません。
 二、三の言葉で返答して下さい。外部にいるあなたの友人にとって有用な全ての情報を与えてくれるよう、懇願します。
 返答を、あなたにこの文書を伝えたのと同じ兵士に、<書いて、だがひと言も言わないで>、与えて下さい。
  --------
 (03) 返答は、皺になったノート用紙と同じ紙でなされた。
 家族が床に就く時間に関する質問のそばに、「a 11 1/2」と書かれていた。
 「二つの部屋」との質問は、「三つの部屋」に訂正された。
 下部は、力強く、読みやすい文字で書かれていた。
  「<中略>[フランス語文。脚注2に英語化されているので、参照。](脚注2)
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 (脚注2) 「バルコニーへ上がる角から。5つの窓は通りに、2つの窓は広場に面している。窓は全て閉められ、封印され、白く塗られている。
 男の子はまだ病気でベッドにおり、全く歩くことができない。脳震盪が彼の痛みの原因だ。
 一週間前、無政府主義者を理由として、夜間に我々をモスクワへ移動させた、と考えられた。
 結果が<絶対に確実だ>ということがなければ、誰も何のリスクも負うはずはない。
 我々はほとんど常時、慎重に監視されている。」
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 (04) 自称救出者からのこの秘密の伝言文書には、いくつかの当惑させる特徴がある。
 まず、言葉遣いだ。 
 この文書は、君主制主義の将校ならばその国王に対して使わないだろう、そのような態様で書かれている。「Vorte Majeste」(陛下)ではなく「vous」(あなた)と国王に呼びかけるというのは、想定し難い。
 全体を見ても、この文書の語彙や様式は異様なであって、Ekaterinburg の悲劇の調査者ならば完全な捏造文書だと考えるほどのものだ(注57)。
 また、この手紙がどのようにして囚人(=皇帝家族)に届けられたか、という疑問がある。
 執筆者は兵士に、おそらく警護者に、言及している。
 しかし、Ipatev 邸警護団の指揮者だったAvdeev は、つぎのように書いている。秘密の手紙は、修道女から送られた乳脂の容器の蓋で発見された、そしてチェカのGoloshchekin に渡された、彼は囚人に送る前に複写した、と。
 Avdeev によると(注58)、チェカはこの問題を追及し、執筆者は「Magich」という名のセルビアの将校だと確定し、この人物を逮捕した。
 実際に、セルビアの将校やロシアへのセルビア軍事使節団の中に、Jarko Konstantinovich Micic(Michich)少佐がいた。この人物は、ニコライに会いたいと要請して、疑念を生じさせていた(注59)。
 Micic は、Alapaevsk に抑留されていたセルビアの皇女、Helen Petrovna を発見して救出するために、Ural 地方を旅行したことがある、ということも知られている。この皇女は、Ivan Konstantinovich 大公の妻だった。
 しかし、Micic の旅行に同行したSerge Smirnov の回想録から、二人はようやく7月4日にEkaterinburg に到着した、ということを確定することができる。これが意味するのは、Macic は6月19-20日に執筆することはできなかった、ということだ(注60)。
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 (05) 最初の文書の所持者として考えられるもう一人は、Alexis の医師のDerevenko 博士だった。
 しかし、ソヴィエト当局が1931年に明らかにしたDerevenko の宣誓供述書から、彼が〔Alexisを〕訪問したときには囚人たちとの意思疎通を禁止されていた、ということが知られる(注61)。
 さらに、Alexandra の日記から、彼がIpatev 邸を最後に訪問したのは6月21日だった、と確定している。このことから、彼が最初の秘密文書を運ぶのは、理論的に不可能だ。
 しかし、これですら、ありえそうでない。なぜなら、Derevenko の言うことを確認して、Alexandra は、彼は決して「Avdeev の随行なくして」姿を見せず、したがって「彼〔ニコライ〕に一言でも話しかけるのは不可能だった」と書いていたからだ。
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 (06) こうして見ると、文書はチェカによって捏造され、策略に関与した警護者によって囚人たちに送られた、と想定するのが合理的であるように思われる(脚注3)
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 (脚注3) つぎのことが最近に明らかになった。すなわち、自称君主制主義救出者からの最初およびその後の手紙は、Ural 地方のIspolkom〔ソヴェト執行委員会〕の委員で、Geneva 大学の卒業生のP. Voikov という人物が執筆し、別のボルシェヴィキ党員のきちんとした手書きで書き写された。E. Radzinskii, Ogonek, No.2(1990年)、p.27.
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 (07) Avdeev によると、ニコライは受け取ってから二、三日後に、最初の手紙に返答した(注62)。この日付は、6月21日と23日の間になる。
 返書は、もちろん途中で奪われ、チェカの謀略が動き始めた。
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 第七節②へとつづく。

2922/R.Pipes1990年著—第17章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第六節/観測気球としてのMichael 殺害。
 (01) 1918年の春、ニコライとその家族をEkaterinburg に、残りのロマノフ一族をPerm 地方の別の街に幽閉したとき、ボルシェヴィキは、安全だと見られる場所に、彼らを置いていた。ドイツの前線と白軍からは遠く離れており、ボルシェヴィキの本拠地の真ん中だった。
 しかし、チェコ軍団による反乱が勃発して、この地域の状況は劇的に変化した。
 6月半ばまでに、チェコ軍団は、Omsk、Chelia binsk、Samara を支配した。
 チェコ人の軍事行動によって、これらの都市のすぐ北に位置するPerm 州は危険に晒された。そして、ロマノフ一族がいる場所は、ボルシェヴィキが後退している戦場の近くになった。
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 (02) 彼らをどう扱うべきか? トロツキーは6月に、見せ物的になる〔革命審判所での〕審理をまだ支持していた。
 「私がモスクワを訪れた何度かのうちの一つの時期に—ロマノフ家の処刑の数週間前だったと思う—、政治局へ行っていたとき、Ural の悪い状況を考えて、皇帝の裁判を急ぐ必要があることに気づいた。
 私は、〔前皇帝の〕全治世の絵(農民政策、労働者、諸民族、文化、二つの戦争等々)を広げることができるように、公開で審判を行なうことを提案した。
 審判の経緯は、ラジオで全国土に放送されるだろう。
 Volosti では、審理の過程に関する記事が、毎日、読まれ、論評されるだろう。
 レーニンは、実現できるととても良い、という趣旨の答えをした。
 しかし、…時間が十分でなかったかもしれない。…
 私が提案に固執せず、別の仕事に集中していたので、議論は起きなかった。
 そして、政治局には、三、四人しかいなかった。私自身、レーニン、Sverdlov、…。思い出すに、カーメネフはいなかった。
 レーニンはそのとき、むしろ陰鬱で、成功裡に軍を建設することができるかどうか、自信をもってなかった。…」(注49)
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 (03) 1918年の夏までに、〔前皇帝を〕審判にかけるという考えは、現実的でなくなっていた。
 チェコ人の蜂起のすぐ後に、レーニンはチェカに対して、「逃亡」が仕組まれていたとの言い分を使って、Pern 州のロマノフ一族を全員殺害する準備をする権限を与えた。
 レーニンの指示にもとづいて、チェカは、3つの都市で、徴発を捏造した。その3都市、Perm、Ekaterinburg 、Alapaevsk では、ロマノフ一族は幽閉されるか、監視のもとで生きるかのいずれかの状態にあった。
 計画は、Perm とAlapaevsk ではうまくいった。
 Ekaterinburg では、放棄された。
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 (04) 皇帝とその家族の殺害の予行演習が、Perm で行なわれた。Perm は、Mihael 大公が追放された場所だった(注50)。
 3月に、秘書である英国人Nicholas Johnson を同行させてPerm に到着したとき、Mihael は監獄に入れられた。
  しかし、彼はすぐに釈放され、Johnson、侍従、運転手とともにホテルに住居を構えることが認められた。そこで彼は、比較的に快適かつ自由に生活した。
 チェカの監視下にあったが、かりに彼が逃亡しようと思ったならば、大した困難なくそうできただろう。自由に街の中を動くことが許されていたからだ。
 だが、他のロマノフ一族と同じく、彼は服従の意向を示した。
 彼の妻は、復活祭の休日期間に訪れた。彼の望みに従って、ペテログラードに戻り、そこからのちに逃亡して、イギリスへ行った。
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 (05) 6月12-23日の夜、5人の武装者が三頭馬車に乗ってきてMihael のホテルに入ってきた(注51)。
 彼らはMihael を起こし、衣服を身に着けて、従うよう告げた。
 Mihael は、彼らの身分証明を求めた。
 彼らが何も提示できなかったとき、Mihael は現地のチェカに確かめるよう要求した。
 この時点で(と、処刑される前に侍従は仲間の在監者に言った)、訪問者たちは我慢できなくなり、実力行使に訴えて威嚇した。
 一人がMihael かJohnson の耳に何かを囁いて、二人は疑いを解消したように見えた。
 彼ら3人が、救出の使命をもった君主制主義者を装ったことは、ほとんど確実だ。
 Mihael は服を着て、Johnson に付き添われながら、ホテルの正面に停まっていた訪問者たちの車に入った。
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 (06) 三頭馬車は、Motovilikha の産業居留地の方向へと過ぎ去った。
 町を出て、森の中に入り、停まった。
 乗っていた二人は出るように言われた。従ってそうしたとき、この当時のチェカの習慣だったように、二人は弾丸で撃ち倒された。おそらくは背後から射殺された。
 遺体は、近くの溶鉱炉で焼かれた。
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 (07) この殺害のすぐ後で、Perm のボルシェヴィキ当局は、ペテログラードと地域の諸都市に対して、Mihael は逃亡しており、探索中だと伝えた。
 同時に、Mihael は君主制主義者に誘拐された、という噂を拡散した(注52)。
 地方新聞紙の<Permskii Izvestiia>は、出来事についてつぎの報告記事を掲載した。
 「5月31日[6月12日]の夜、偽造の命令書をもった白軍の組織立った一隊がMihael Romanov とその秘書のJohnson が住むホテルに現われて、二人を誘拐し、不明の目的地へと連れ去った。
 探索隊は、夜のため痕跡が分からない、と発表した。探索は継続している。」(注53)
 これは、連続したウソだった。
 Mihael ら二人は実際には、白軍に誘拐されたのではなく、元錠前屋で職業的革命家であり、Motivilikha ソヴェトの議長であるG. I. Miasnikov が率いるをチェカによって誘拐された。
 彼を手伝った4人の共犯者は、同じ都市の親ボルシェヴィキの労働者だった。
 「白衛軍」の陰謀という神話は、翌年にMihael ら二人の遺体の場所がSokolov 委員会によって突き止められると、維持することができなくなった。
 そのあとの公式の共産党の見解は、〔チェカの〕Miasnikov と共犯者たちは、モスクワからも現地のソヴェトからも権限を与えられることなく、自分たちで勝手に行動した、というものだった。—これは、最も騙されやすい者ですらその軽信さを疑問に感じるであろうような説明だ(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.121. Miasnikov はのちに労働者反対派の一人になり、そのために党を1921年に追放され、1923年に逮捕された。1924-25年にパリに現われ、Mihael 殺害を叙述する原稿を売り歩いた。それを1924年にモスクワで出版した、と言われている(Za svobodu!, 1925)。
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 (08) 6月17日、モスクワとペテログラードの新聞は、Mihael の「行方不明」を報告し(脚注2)、ニコライはIpatev の家宅に押入った一人の赤軍兵士によって殺されている、との風聞が同時に広がっている(注54)、と伝えた。(脚注2)
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 (脚注2)例えば、NVCh, No.91(1918 年6月17日), p.1. 一ヶ月後にソヴナルコムのプレス局は、Mihael はOmsk へと逃亡し、おそらくロンドンにいる、との声明を発表した。NV, No.124/148(1918年7月23日), p.3.
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 この風聞はもともとは自然発生的なものでもあり得たが、つぎのことの方がはるかに大いにありそうだ。すなわち、ニコライの殺害とそのために進行している準備に対するロシア民衆と外国諸政府の両方の反応を試してみるために、ボルシェヴィキが意図的に流布した。
 このような仮説に信憑性を付与するのは、レーニンの異常な振舞いだ。
 レーニンは6月18日に、日刊紙<Nashe slovo>のインタビューを受けて、こう語った。すなわち、Mihael の逃亡を確認することはできるが、政府は前皇帝が死んでいるか生きているかを決定することができない、と(注55)。
 レーニンが<Nashe slovo>のインタビューを受けたのは、きわめて異例のことだった。この新聞紙はリベラル派で、状況が許す範囲内でボルシェヴィキ体制に批判的であって、ボルシェヴィキはこれとは通常は接触しなかったのだ。
 同様に不思議であるのは、前皇帝の運命についての無知を弁明していることだった。なぜなら、政府は簡単に事実がどうであるかを確定することができたからだ。6月22日、ソヴナルコム(人民委員会議)のプレス局は、Ekaterinburg と毎日交信していることを認めつつ、ニコライの運命に関してはまだ分からない、と述べた(注56)。
 政府のこうした行動によって、企てている前皇帝の殺害に対する公衆の反応を試すためにモスクワが風聞を流布した、という仮説は、強く支持される(脚注3)
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 (脚注3) P. Bulygin, Segodnia(Riga), No.174(1928年7月1日), p.2-3. ようやく6月28日、ソヴィエト当局は、ニコライとその家族は安全に生存していることを確認した。その際、Ekaterinburg にいる北部Ural 戦線の最高司令官から、6月21日にIpatev 邸を調査して、生存している居住者たちを見つけた、という電信を受けた、と表向き主張した。NV, No.104/128(1918年6月29日), p.3. つぎを参照。M. K. Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi, sem’i i chlenov doma Romanovykh na Ural e, I(Vladivostok, 1922), p.46-48. この情報が一週間遅れたことは、意図的な偽装という文脈を除外しては説明不可能だ。
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 (09) 貴族制や君主制に親近的な者たちは別として、ロシアの民衆、知識人層、「大衆」は同様に、ニコライの運命に関する一方あるいは他方の立場を示さなかった。
 外国の諸見解も、紛糾したものではなかった。
 London の<Times>紙のペテログラード特派員が6月23日に送り、7月3日に公にされた通信文は、不吉な暗示を伝えていた。
 「ロマノフ一族がこの種の公的な著名さを与えられるときはいつでも、人々は何か重要なことが起きている、と考える。
 退位があった王朝に関して頻繁にこのような驚きが生じることに、ボルシェヴィキはますます我慢できなくなっている。そして、ロマノフ家の運命の解決が賢明であるかについて、そしてきっぱりとロマノフ一族の問題を処理してしまうことについて、そのような問題が再び提起されている。」
 もちろん、「ロマノフ家の運命の解決」とは、彼らを殺害することのみを意味している。
 このむしろ粗雑な問題提起は、すげなく無視された。
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 (10) ロシアと外国での、このような風聞への無関心さによって、皇帝家族の運命は話題にされなくなった、と思える。
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 第六節、終わり。

2921/R.Pipes1990年著—第17章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第五節/「特殊任務の家」②。
 (06) 1918年5月末、Ipatev 邸には11人が住んでいた。
 ニコライとAlexandra は、角部屋を占めた。
 Alexis は最初は姉たちと寝室を共有していたが、のちに述べる理由で、6月26日に、両親と同じ部屋に移った。
 娘たちは真ん中の部屋におり、そこで折りたたみ式の簡易ベッドで寝た。
 侍女のA. S. Demidova は、ただ一人、テラスの隣に、自分だけの一部屋をもった。
 Botkin 博士は、客間を占めた。
 台所では、三人の侍従が生活した。料理人のIvan Kharitonov、その弟子の、Leonid Sednev という名前の少年(逮捕された使用人の甥)、娘たちの侍従のAleksei Trup だ。
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 (07) 家族は単調な生活に慣れてきた。
 9時に起床し、10時に茶を飲んだ。
 昼食は午後1時で、主食は4-5時、茶が7時で、夕食は9時。
 11時に就寝した(注45)。
 食事の時間を除いて、彼らは自分の部屋に閉じ込められた。
 ニコライは、日記をつけるのを省略し始めた。
 聖書、ロシアの古典を声を出して読むことに、多くの時間が費やされた。しばしば停電したので、ときには蝋燭の光で読んだ。ニコライは、<戦争と平和>を初めて読む機会を得た。
 家族は、何度も祈祷した。
 彼らは長くて15分ほど庭を散歩するのが許された。だが、ニコライには困難だった肉体運動は、認められなかった。
 ニコライは、障害のある息子を庭に連れ出した。
 二人はトランプ(bezique)やtrickyrack と言うロシア風すごろく(backgammon)で遊んだ。
 教会に行くことは許されなかったが、日曜日と祝日に、客間の即席の礼拝堂で、警護者の監視のもとで、一人の僧侶が礼拝の仕事を行なったものだ。
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 (08) 警護者たちによる皇帝家族の粗暴な扱いについては、多数のおぞましい話がある。
 警護者たちは昼と夜のいつでも娘たちがいる部屋に入ってきた、ニコライが要求した結果として家族が侍従たちと一緒に一つの食卓で食べるつもりだった食料を勝手に奪っていった、前皇帝を乱暴に突くことすらした、と言われている。
 こうした話は、根拠が全くなくはないとしても、誇張されがちだ。
 指揮者と警護者たちの振る舞いは疑いなく、粗暴だった。だが、実際の虐待についての証拠資料は存在していない。
 そうであっても、皇帝家族が耐えた状況は、きわめて痛ましいものだった。
 二階に配置された警護者たちは、つぎのようにして楽しんだ。娘たちが洗面室へ行くのに同行し、なぜそこに行くのか教えろと要求し、出てくるまで外で待つ(注46)。
 淫らな絵や彫刻物を洗面室や浴室で見つけられるように置いておくことは、珍しくなかった。
 Faika Safonov という名のプロレタリアの少年は、皇帝家族の窓の下で卑猥な歌をうたって、友人を楽しませた。
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 (09) ロマノフ一族は、際立つ平静さでもって、幽閉状態、不愉快さ、屈辱に耐えた。
 Avdeev は、ニコライは「自然の陽気さ」を示して、少しも囚人のようには振る舞わない、と思った。
 この出来事に関する共産党員歴史家のBykov は、「自分の周りで起きていることに関する愚かな無関心」について、苛立ちをもって語っている(注47)。
 しかしながら、前皇帝とその家族の行動は、無関心のゆえではなく、礼儀の感覚と、宗教信仰に根ざす宿命論によっていた。
 もちろん我々は、ニコライの「自然の陽気さ」、Alexandra の横柄さ、子どもたちの活気ある精神という表面の背後で、幽閉されている者たちの心に何が動いているかを、知ることができるはずはない。彼らは誰も信用しなかったのだから。
 ニコライとAlexandra の日記は、個人的な日記というよりも、機械的記録だった。
 しかし、「祈り」と題される、彼らの持ち物の中から発見された詩は、彼らの内心の感情を、思いもかけず洞察させてくれる。
 この詩は、Zinaida Tolstoy の兄弟でAlexandra の友人のS. S. Bekhteev によって1917年10月に書かれ、Olga とTatiana に献じてTobolsk へ送られた。
 皇帝家族の文書の中から、この詩が二つ見つかった。一つはAlexandra の手に、もう一つはOlga の手にあった。
 つぎのような詩だ。
 「神よ、我々そなたの子どもに忍耐を授けよ
  この耐えるべき暗い嵐の日々に
  我々人民への迫害と
  拷問が我々に降りかかる。
  神よ、必要な我々に力を授けよ
  迫害者を許し、
  我々の重く痛ましい十字架をもち
  そしてそなたの偉大なる柔和さを得る。
  我々が掠奪され侮辱されるときに
  反乱が起きる不安な日々に
  我々はそなたキリスト救済者に助けを求める
  辛い試練に我々が耐え抜けるようにと。
  創世の神よ、創造の神よ
  祈りを通じて我々にそなたの恵みを授けよ
  我々に心の平穏を授けよ。おお主よ
  耐え難きこのおぞましい恐怖の時間に。
  そして、墓園の入口で
  我々の肉体に聖なる力を吹き込み給え
  我々そなたの子どもが強さを見出すように
  我々の敵が祈る従順さの中に。」(注48)
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 第五節、終わり。

2920/R.Pipes1990年著—第17章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第五節/「特殊任務の家」①。
 (01) 退役した軍の技術者、Nicholas Ipatev は暮らし向きのよい事業家だった。
 わずか数ヶ月前に居宅を購入し、一部は住居に、一部は事務所として使っていた。
 石造りの二階建てで、昔の様式に戻ったモスクワの大貴族が好んだ華美な形で、19世紀末に建築されていた。この家には、給湯装置や電灯のような、普通にない贅沢物が付いていた。
 彼は二階にだけ、家具をしつらえた。そこには、三台のベッド、食事室、居間、応接室、台所、浴室、洗面室があった。
 低層階は半分地下で、空いていた。
 小さな庭と若干の付着構造物があった。その一つは、皇帝家族の持ち物を保管するために使われた。
 列車がEkaterinburg とOmsk の間を往復し、作業員が、街路から家を隠し、内部からの展望を阻止するために、粗雑な塀を建設した。
 6月5日に、もう一つの高い塀が付け加えられた。
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 (02) その家は、高度に安全が確保された監獄に変わった。
 塀は、外部世界との連絡を全て遮断した。
 そして、まだ十分でないかのごとく、5月15日に、被膜の窓は、上部の狭い細片部分を除いて、白ペンキで塗られた。
 在監者たちには、限られた量の範囲内で手紙を出し、受け取ることが認められた。その文通は主として子どもたちとの間のものだったが、チェカとソヴェトの検閲を通過しなければならなかった。しかし、この文通の特権は、やがてなくなった。
 一度短い間、外部者—聖職者と家政婦—が入ることが許されたが、会話は禁止された。
 警護者たちは、在監者と話すことができないという指示を受けていた。
 しばらくの間、新聞が届けられたが、6月5日に終わった。
 食べ物は、警護者の検査を受けて、町から運ばれた。最初はソヴェトの食堂から、のちに近くの修道会から。
 在監者たちの隔離は、完璧だった。
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 (03) 2人のポーランド人以外はロシア人の75人の警護者は、現地の工場労働者から募集され、内部と外部に班分けされていた。
 彼らの給料はよく、一ヶ月で400ルーブルで、食事と衣服付きだった。
 数の少ない内部班が、Ipatev の家に住んだ。
 外部班の警護者は最初は低層階の床で寝ていたが、のちに通りの反対側の私人の住居へと移った。
 彼らは職務中は、回転銃と手榴弾をもっていた。
 二、三人が上層階に配置され、在監者を常に監視していた。
 4台の機銃砲が、家を防衛した。二階の床、テラス、一階の床、屋根裏、にあった。
 警護者は外部にも配置されて、入り口を守り、権限のない者が近づかないようにした。
 Avdeev が、全般を指揮した。
 彼は事務所を設け、上層階の応接室の一画で寝た。
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 (04) ニコライとAlexandra は、子どもたちのことで悩んだ。だが、かれらの苦悩は、5月23日の朝に3人の娘とAlexis が突然に顔を見せたときに終わった。
 彼らはTiumen までTobolsk 川の蒸気船で旅行し、そこからは列車で来た。
 娘たちは、特別の下着の中に、総計で8キログラムの貴重な石を隠していた。
 到着したとき、侍従たちが荷物について助けるのを、警護者は禁止した。
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 (05) チェカは、4人の家臣を逮捕した。ニコライの庶務将校だったIlia Tatishchev 公、皇妃の使用人だったA. A. Volkov、結婚式の名誉女性だったAnastasia Gendrikova 皇女、Court Lectrice のCatherine Schneider。
 彼らは地元の監獄へ勾引され、Tobolsk から前皇帝夫妻に同行したDolgorukii 皇子に加わった。
 一人の例外を除き、これらの者は全員が殺された。
 皇帝一族の残りの者たちのほとんどは、Perm 地方を去るように言われた。
 Alexis の個人的付添人のK. G. Nagornyi、侍従のIvan Sedenev は、Ipatev の屋敷へと移った。
 Alexis の医師のVladimir Derevenko 博士は、私人としてEkaterinburg に滞在することが許された。
 彼は週2回、Alexis を訪問した。つねにAvdeev が同行したが。
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 (06) Tobolsk の一行は大量の荷物を持ってきていた。それらは庭の物置に保管された。
 皇帝家族たちは頻繁に、警護者に随行されて、そこに物品を取りに行った。
 警護者たちは、物品の中身を勝手に扱った。
 Nagornyi とSednev が窃盗に抗議したとき、関係警護者は逮捕され(5月28日)、監獄へ送られ、4日後にチェカによって殺された。
 こうしたこそ泥行為によって、前皇帝夫妻は大いに不安になった。荷物の中には、個人的な文通文書やニコライの日記のある二つの箱が含まれていたからだ。
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 第五節②へつづく。

2919/R.Pipes1990年著—第17章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送④。
 (18) Ekaterinburg は、その日の朝早くに、皇帝家族が乗る列車が走行中だと知らされた。
 その日の遅くにAvdeev からの電報によって、Iakovlev の策略についてだけ知った。
 〔Ekaterinburg〕ソヴェト幹部会は、Iakovlev は「革命に対する裏切り者」だと宣告し、彼を「法の外」に置いた。
 この趣旨の電報が、あらゆる方向へと発せられた(注37)。
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 (19) この情報を受けて、Iakovlev の列車がKulomzino 交差点に着く前に止めようと、Omsk は、軍事部隊を派遣した。その交差点で、列車は、西に方向を変え、Omsk を回避して、Cheliabinsk へ向かうことができた。
 自分の任務を誠実に履行していないと責任追及されていることを知って、Iakovlev は、Liubinskaia 駅で列車を止めさせた。
 モスクワと連絡をとろうと、機関車を切り離して第四の客車に乗ってOmsk へと進んだ。三つの客車は護衛たちに残してきた。
 このことが起きたのは、4月28-29日の夜間だった。
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 (20) Iakovlev のSverdlov との会話の内容は、Bykov による、きわめて怪しい二次的資料によってのみ知られている。
 「(Iakovlev は)Sverdlov を電話に呼び出し、旅程を変更せざるを得なかった状況を説明した。
 モスクワからは、ロマノフ家をEkaterinburg へ連れていき、Ural 地方ソヴェトへと引き渡せ、との提議(proposition, predlozhenie)があった。」(脚注1)(注38)
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 (脚注1) 文書記録を利用したある歴史家の最近の説明によると、Iakovlev はSverdlov と会話したが、後者はEkaterinburg に連絡し、おそらくは皇帝家族の安全の「保障」を要請した。Ekaterinburg は、囚人たちについて責任をもつことが許される、という条件のもとで、この保障を与えた、と言われている。Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No.161/9,412(1987年7月12日), p.4.
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 この叙述は、ほとんど確実に、虚偽だ。三つの理由がある。
 第一に、Iakovlev は「旅程を変更」しておらず、Sverdlov が以前の会話のあいだに指示したのと同じように動いていた。
 第二に、全ロシア[ソヴェト]中央執行委員会の有力な議長とレーニンが信任している者は、より下位の活動家に対して「提議」しようとはせず、「命令」するだろう。
 第三に、かりにSverdlov が実際に、Iakovlev に対して皇帝家族をEkaterinburg ソヴェトに引き渡すことを望んでいたとすれば、翌日の、Iakovlev と現地ボルシェヴィキの間のEkaterinburg での激論は生じなかっただろう。
 最ももっともらしい説明は—推論にすぎないけれども—、こうだ。
 Sverdlov はIakovlev に対して、Ekaterinburg のソヴェトと論争を始めることを避けるように、また彼は前皇帝を誘拐しようとしているとの疑いに終止符を打つために、Ekaterinburg を経てモスクワへと進むように、言った。
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 (21) Sverdlov と会話したあとIakovlev は、鉄道運転者に対して、方向を逆にするよう命令した。
 夜に起きたこうした全てのあいだ、ニコライとその家族は眠っていた。
 4月29日の朝に目覚めて、ニコライは、列車が西へと走っていることに気づいた。このことは、モスクワへと移送されているとの従前の考えの正しさを確認するものだった。
 Alexandra は、Ialevkovから与えられた情報に依っていそうだが、日記にこう記した。「Omsk のソヴェトは我々をOmsk に通させようとはしない。我々を日本に連れていこうとする者がいるとすると、怖いものだ。」
 ニコライは、その日にこう書いた。「みんな、とても気分が良い」。
 こうして、彼らを苦しめる者の手によって外国に送られるという予想は嬉しいものではなかったけれども、ロシアのかつての都、今のボルシェヴィズムの主要な砦へと連れていかれることは、彼らの気分を高めた。
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 (22)  彼らは、Omsk とEkaterinburg の間の850キロを、ときどき停まりながら、一昼夜をかけて進んだ。
 平穏無事だった。
 Iakovlev は、前皇妃は痛ましいほど臆病で、車両に見知らぬ人がいなくなるまで何時間も洗面室へ行くのを待ち、廊下に誰もいないことを確認するまで座席にとどまった、と思い出す(注39)。
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 (23) 4月30日午前8時40分、列車はEkaterinburg 中央駅に入った。
 そこには多数の敵意に満ちた群衆が集まっていた。Iakovlev にその責任を熟考するよう圧力をかけるべく、この地域のボルシェヴィキによって集められていたようだ。
 列車がそこにあった3時間、乗客は離れることを禁止された。そして、その間の事態は、混乱に包まれていた。
 Iakovlev は、Ekaterinburg では安全でないという理由で、ニコライとAlexandra を引き渡すのを拒んだ、と思われる。
 ニコライの日記によると、こうだ。
 「我々は駅で3時間待った。大きな紛議が、この地の人民委員と我々の間で起きていた。前者が、最後には勝った。」
 ニコライは単純に、どの駅で降ろすかに関して論争が行なわれた、と考えた。正午の直後に、二級の商業車庫地である第二Ekaterinburg 駅へと列車が移行させられたからだ。
 Alexandra はより十分に分かっていて、日記にこう書いた。「Yakovlev は、Ural 地方ソヴェトへと我々を引き渡なければならなかった」。
 Iakovlev と現地の人民委員のあいだの対立は、実際には、一行をモスクワへと行かせるかどうか、に関してだった。
 Iakovlev は、おそらくはモスクワ〔政府・党中央〕が介入した後で、論争に敗れた。
 モスクワは、Ekaterinburg のボルシェヴィキたちと敵対したくなかった。そして、いずれにせよ、ロマノフ一族の扱い方について、確固たる方針がなかった。
 いつかの将来にある前皇帝の審判まで、安全にEkaterinburg に彼らをとどめておくことは、レーニンやSverdlov にとって、決して悪い妥協ではなかった、と十分に言えるだろう。
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 (24) 第二Ekaterinburg 駅に列車が入ると、Iskovlev は、Beloborodov にとっての罪人に変わった。彼から、この案件に関する責任から解除する、という手書きの文書を受け取ったのだ(注40)。
 Iakovlev は、おそらく群衆の暴力から皇帝家族を守るために、護衛を要求した(注41)。
 モスクワへと出発する前に、彼は、Ekaterinburg ソヴェトに自分の行動について説明しなければならなった。これは満足を得たようだ(注42)。
 モスクワにいる上司の目から見て彼は間違ったことを何らしなかった、ということは、つぎのことで示されている。すなわち、彼は一ヶ月のちにSamara の赤軍部隊の長に、さらに続いて、東部(Ural)戦線の第二赤軍の司令官に、任命された(脚注2)
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 (脚注2) A. P. Nena rokov, Vostochnyi front, 1918(Moscow, 1969), p.54, p.72, p.101. その年ののちに白軍へ走ったあと、彼はチェコの諜報機関に逮捕された。中国へと逃亡し、ソヴィエト同盟に戻り、逮捕された。Solobetskii の強制収容所でいくらかを過ごした後で釈放され、NKVD(ソ連内務人民委員部)のある収容所の司令官に任命された。しばらくのちに再逮捕され、処刑された。私はこうした情報を、ソヴィエトの作家、Vladimir Kashits 氏に負うている。
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 (25) 午後3時、ニコライ、Alexandra とMaria は、Beloborodov とAvdeev に付き添われて、二台の無蓋車で、市の中心まで連れていかれた。これらには、Alexandra が「完全武装」の兵士たちで満たされたと描写した、貨物自動車が従っていた。
 Avdeev によると(注43)、Beloborodov はニコライに対して、モスクワの〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は、ニコライとその家族を来たるべき前皇帝の審判まで拘留すると命じた、と告げた。
 車は、大きい、漆喰で塗られたIpatev の邸宅で停まった。この家は、所有者が一日前に空けていた。そして、ボルシェヴィキが今では「特殊任務の家」と呼ぶ屋敷だった。
 皇帝とその家族は、ここから生きて出ることはできないことになる。
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 第四節の全体が、終わり。

2918/R.Pipes1990年著—第17章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送③。
 (10) 一行は予定どおり出発し、<tarantassy>(四輪馬車、シベリアでは<koshevy>として知られる)で進んだ。二頭または三頭の馬が牽引する、長い、バネのない四輪車だ。
 35人の護衛たちが随行していた。
 先頭にはライフルで武装した2人の男が乗り、2個の機関砲と2人のライフル武装者が乗る車が続いた。
 その次が、ニコライと、前皇帝のそばに座ることにこだわったIakovlev を運ぶ<tarantass>だった。
 その後ろが2人のライフル武装者、Alexandra とMaria が乗る四輪馬車で、それにさらにライフル武装者が続いた。
 一行の中には、家族医師のEvgenii Botkin 博士、Court Martial のAlexander Dolgorukii 皇子と3人の侍従たちが、含まれていた。
 Alexandra はお気に入りの娘のTatiana に、息子と2人の妹たちの世話を任せてきた。
 Iakovlev は、川が氷結しなくなるとすぐに—二週間以内と予期された—、子どもたちは両親に加わることができる、と約束した。
 彼は、最終目的地を秘密にしたままだった。前皇帝夫妻は、Tiumen に連れていかれている、ということだけ知っていた。そこは、230キロ離れた、最も近い鉄道路線の結節点だった。
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 (11) Tiumen への道路は酷い状態だった。冬の後で轍がいっぱいで、部分的には汚泥がぬかるんでいた。
 Tobolsk を出立してから4時間後、Irtysh 川の浅瀬を渡った。馬は、氷のような水に嵌まりつつ苦労して進んだ。
 半分くらい進んだIevlenko で、彼らはTobol 川の中に入った。川の水が氷となって浮かんでいて、木の厚板に乗って歩いた。
 Tiumen の直前で、Tura 川を横切った。一部は脚で、一部は小船で。
 Iakovlev は、途上ずっと馬の中継を管理していた。交替しての中継の回数は、最小限に抑えられた。
 ある地点でBotkin 博士が気分が悪くなり、回復してもらうために彼らは2時間、小休止した。
 第一日の夕方、出立後16時間、Bochalino に到着した。そこで、夜を過ごすための調整が行なわれた。
 Alexandra は、休憩する前に、こう書き留めた。
 「Marie は四輪馬車に。ニコライは人民委員Yakoblev と一緒に。
 寒く、暗く、風が強い。馬を替えたあと8時にIrtish 川を渡り、12時にある集落に着いて、冷たい提供物と一緒に茶を飲んだ。
 道路は完璧に酷かった。凍った地面、泥、雪、馬の胃に入る水。恐ろしく揺れて、身体じゅうが痛い。
 4回めの馬の取替えの後で、車体にあるポールがなくなった。それで、別の車によじ登って乗り込まなければならなかった。
 5回めの馬替え…。
 8時にYeblenko に着いた。以前は村の店だった家で夜を過ごした。
 一つの部屋で3人で寝た。我々はベッドで、Marie は床の上のマットレスで。…
 Tiumen からどこへ行くのか、誰も言わない。モスクワだと想像している者もいる。
 川が通れあの子が元気なら、すぐに子どもたちは我々と同行することになっている。」(30)
 Iakovlev は途中で、Alexandra に子どもたちに手紙を投函することや電報を打つことを許した。
 停まったある所で、農民が近づいてきて、ニコライはどこに連れていかれるのかと尋ねた。
 モスクワだと答えられたとき、その農民は、「王に栄光あれ。…モスクワへ。今やここロシアにもう一度秩序が生まれる」と反応した(注31)。
 --------
 (12) 一行に随行する護衛たちは、Iakovlev が丁重に前皇帝と接しているために、ますます彼への疑念を募らせた。
 彼らは、なぜニコライが上機嫌であるのかを理解できず、Iakovlev は東部シベリアへ、あるいは日本にすらへとニコライを神隠ししようとしているのでないかと、不思議に思い始めた。
 彼らは、途中に配置されていた巡視者を通じて、Ekaterinburg に対する懸念を伝えた。
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 (13) 4月27日午前4時、事件もなく一晩が過ぎて—予期された待ち伏せ攻撃は実行されなかった—、旅が再開した。
 一行は正午に、Pokrovskoe で停まった。
 シベリアに数千とある中のこの村は、Rasputin の故郷だった。
 Alexandra は、こう記した。「旧友の家の前で長くとどまった。窓から外を見ている彼の家族や友人を見た」。
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 (14) Iakovlev によれば、ニコライは運動と新鮮な空気で元気になっているように見えたが、Alexandra は「寡黙で、誰にも話しかけず、誇り高く、接近し難いように振る舞った」(注32)。だが、二人とも、彼にはきわめて印象的だった。
 彼はのちに、ある報道記者にこう語った。「この人たちの謙虚さに感心した。何も不平を言わなかった。」(注33)
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 (15) 混乱している証拠資料から決定できるかぎりでだが、Iakovlev は、できるだけ早くEkaterinburg に着き、そこを早く後にして、モスクワへ向かうことを意図していた。
 しかし、彼は、Ekaterinburg を通って安全に彼の責任を履行できるかについて、いっそう不安になった。
 つぎのことを知ったならば、さらにいっそう警戒しただろう。彼の一行が後半の歩みを始めていた頃、Ekaterinburg ソヴェトからの人民委員が技師のNicholas Ipatev の家にやって来て、Ipatev の家はソヴェトの必要のために収用される、48時間以内に退去せよ、と伝えた(注34)。その家は、Voznesenskii 大通りとVoz-nesen 通りの角にあった。
 Ekaterinburg は、ロマノフ一族について、自分たちの案をもっていた。
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 (16) Iakovlev の一行は、4月27日午後9時に、Tiumen に着いた。
 そこでただちに、騎兵部隊に囲まれた。騎兵部隊は鉄道駅まで随行した。駅には、一台の機関車と四台の乗客車が待っていた。
 Iakovlev は、皇帝家族、職員たち、持ち物の移動を監視した。
 そのときにNemtsov が現われ、ロマノフ家関係者が眠りに就いているとき、二人の人民委員は電信局へ向かった。
 Hughes 装置を使って、Iakovlev はSverdlov に対して、現地のボルシェヴィキの意図に関する懸念を伝え、皇帝家族をUfa 地方の安全な場所に移動させることの許可を求めた。
 5時間の会話の末、Sverdlov はこの提案を拒否した。
 しかしながら、Sverdlov は、Iakovlev が直接にではなくEkaterinburg を通って移動することには同意した。但し、Tobolsk へ同じその月に彼が通ったのと同じ遠回りの—つまり、Omsk、Chelia binsk 、Samara を通る—行路によってだった。
 Iakovlev は、彼の計画を隠すために、駅長に対して、列車をEkaterinburg の方向へ向かわせ、次の駅で新しい機関車を付け、方向を転換させて、全速力でTiumen を通過してOmsk の方向へ走らせるよう、指令した(注35)。
 4月28日、日曜日の午前4時半、皇帝家族を乗せた列車はEkaterinburg へと向かい、そして方向を転換させた。
 Iakovlev は、説明として、Zaslavskii の同僚のAvdeev に対して、Ekaterinburg は列車を突然に攻撃するつもりだ、との情報を得ている、と伝えた(注36)。
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 (17) 朝に目覚めたとき、ニコライは、列車が東に向かって走っていることに、驚きをもって気づいた。
 彼は、日記にこう書いて不思議がった。「Omsk の後で、どこへ連れていくつもりなのか? モスクワへ、それともVladivostok へ?」(脚注)
 Iakovlev は、言おうとしなかった。
 Maria は護衛たちとの会話を始めたが、彼女の美しさと魅力をもってしても、彼らから何かを引き出すことができなかった。
 彼らもまた、知らなかったのだろう。
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 (脚注) 1918年のニコライの日記は、以下。KA, No.1/26(1928), p.110-p.137.
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 第四節④へとつづく。

2917/R.Pipes1990年著—第17章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送②。
 (06) Iakovlev の命令は、前皇帝夫妻に、とくにAlexandra に、激しい動揺をもたらした。
 Iakovlev によると、Alexandra は叫び出した。「残酷すぎる。そんなことをするとは信じない。…!」(注24)
 彼はニコライをどこに連れていくかを言おうとしなかった。そして、のちに、白軍の新聞に、知らなかった、と主張した。
 もちろんこれは、本当ではない。そしておそらく、彼が白軍へと移ったあとの時期には彼には好ましい、彼は本当は白軍が支配する地域にニコライを移すつもりだったと、との風聞に信憑性を与えることを意図していた(脚注)
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 (脚注) Iakovlev は、1918年10月に白軍へと走り、新聞紙のUral’skaia zhi’zn のインタビューを受けた。これは君主主義雑誌のRL, No.1(1921), p.150-3 に再録されている。
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 (07) Iakovlev が去ったあと、ニコライ、Alexandra、Kobylinskii は状況について議論した。
 ニコライは、ブレスト条約に署名するためにモスクワに連れて行かれるという点で、Kobylinskii に同意した。
 かりにそうであれば、使命は無駄だった。「そんなことをするくらいなら、首を刎ねてもらう」(注25)。
 ニコライがボルシェヴィキはブレスト条約を正規のものにするために自分の署名を必要としていると信じることができた、ということは、彼の退位後にロシアで起きたことについて、自分が重要でなくなっていることについて、ほとんど何も知っていなかったことを示している。
 それがIakovlev の任務の目的だとやはり信じたAlexandra は、夫の不動の地位についてははるかに確信がなかった。彼女は夫が退位したことを決して許しておらず、あの運命の日に自分がPskov にいたなら、きっと彼の行動を止めようとしただろうと思っていた。
 彼女は、ニコライには、主に家族に対する威嚇でもって、モスクワで不名誉な条約に署名するよう耐え難い圧力が加えられるだろう、自分が彼の側に立たなければニコライは崩壊してしまうだろう、と懸念した。
 Kobylinskii は、Alexandra が親しい知人のIlia Tatishchev にこう言うのをたまたま聞いた。「ニコライが独りなら、彼は愚かなことをするだろう、と思って怖い」(注26)。
 彼女は取り乱しており、病気の我が子への愛情とロシアへの務めだと感じているもののあいだで切り裂かれていた。
 そして最後には、長年にわたり養い国を裏切っていると責められてきた女性は、ロシアを選んだ。
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 (08) 子どもたちのスイス人家庭教師のPeter Gilliard は、Alexandra に午後4時に会ったのだが、つぎのように叙述した。
 「皇妃は、…Iakovlev は皇帝を移送するためにモスクワから派遣された、彼は今晩に出発する予定だ、と確認した。
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 『人民委員は、皇帝には危害は加えられない、誰かが同行したいのなら反対はしない、と言う。
 皇帝を独りで行かせることはできない。
 前もそうだったように、彼らは彼を家族から引き離したいのだ。…』
 『彼らは、彼の家族のことを心配させて、強引に行かそうとしている。…
 彼らには皇帝が必要だ。彼だけがロシアを代表している、と感じている。
 我々は一緒に、彼らに抵抗する良い立場にいるべきだ。私は審判のときに、彼の傍にいるべきだ。…』
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 『しかし、子どもは病気だ。…
 面倒なことになっていると想像してほしい。…
 ああ、神よ。何という恐ろしい拷問か。…
 人生で初めて、自分がすべきことが分からない。決定しなればならないときはいつでも、啓示を感じてきた。今は、考えられない。…
 しかし、神は皇帝の出発をお許しにならないだろう。そうできないし、そうあってはならないはずだ。きっと今晩に、雪解けが始まるだろう。…』
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 Tatiana Nikolaevna がここで割って入った。
 『でも、お母さん、我々が何と言ってもお父さんは行かなければならないなら、何かを決める必要がある。…』
 私はTatiana を弁護し、Alexis は良くなっている、我々は彼の世話をきちんとすべきだ、と言った。
 皇妃は不決断に明らかに苦しんでいて、部屋の中を行きつ戻りつした。そして、自分にではなく、我々に対して語りかけていた。
 最後に私に近づいて来て、こう言った。
 『よし。これが最善だ。私は皇帝と一緒に行く。Alexis は貴方に委ねよう。』
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 すぐのちに、皇帝が入ってきた。皇妃は彼に向かって歩き、こう言った。
 『決めた。私は貴方と一緒に行く。Marie もそうする。』
 皇帝は答えた。『望むなら、大変けっこうだ』。…
 家族全員が、午後いっぱいを、Alexis のベッドの周りで過ごした。
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 この日の午後10時半に、我々は茶を飲みに上がった。
 皇妃は、二人の娘とともにソファに座っていた。
 彼らの顔は、泣いたことでふくらんでいた。
 我々はみんな、悲しみを隠し、外面上の静穏さを維持すべく最善の努力をした。
 誰か一人が離れれば全員が壊れる原因になる、とみんなが感じていた。
 皇帝夫妻は、静かで、落ち着いていた。
 神が深遠な知恵でもって国の福祉のために要求するならば、いかなる犠牲をも、生命ですらも覚悟している、ということが明らかだ。
 彼らは、優しさや気遣いを示さなかった。
 この素晴らしい静穏さ、この素晴らしい忠誠さは、伝わりやすい。
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 午後11時半、侍従たちが大広間に集まった。
 皇帝夫妻とMarie は、別れを告げた。
 皇帝は全男性と、皇妃は全女性と、抱擁した。
 ほとんど全員に、涙があった。
 皇帝、皇妃が去った。我々は私の部屋へと降りた。
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 午前3時半、乗り物が中庭に入ってきた。
 恐ろしい、<長い四輪馬車>(ratantass)だった。一台にだけ、覆いがあった。
 裏庭に小さな麦わらがあるのに気づいた。それを四輪車の床に撒いた。
 皇妃が使う車の中に、マットレスを入れた。
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 午前4時、上がって皇帝と皇妃に会いに行き、Alexis の部屋を出たばかりだと気づいた。
 皇帝夫妻とMarie は、我々に別れを告げた。
 皇妃と大公爵夫人〔Elizabeta Fedorovna—試訳者〕は、涙で濡れていた。
 皇帝は平静そうで、我々への勇気づけの言葉を述べた。そして、我々を抱擁した。
 さよならと言った皇妃は、上がってAlexis の側にいるよう私に頼んだ。
 私が少年の部屋へ行くと、彼はベッドで泣いていた。
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 数分後、車輪が動くのが聞こえた。
 大公爵夫人は彼らの部屋へ戻る途中でその弟の部屋を通った。私は彼らがむせび泣くのを聞いた。」(注27)
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 (09) Iakovlev は、ひどく急いでいた。
 雪解けが始まったその瞬間に、道路は通れなくなる。
 彼はまた、待ち伏せの危険も知っていた。
 彼の受けた命令は、前皇帝の生命を守り、安全にモスクワまで移送することだった。
 しかし、その使命について多くのことを準備して、Ekaterinburg のボルシェヴィキは異なる計画をもっている、と確信した。
 まさにこの時期に行なわれたUral 地方のボルシェヴィキの大会は、前皇帝の逃亡と君主制復活を阻止するために、ニコライのすみやかな処刑に賛成する票決をしていた(注28)。
 Iakovlev には、Tobolsk のボルシェヴィキ人民委員の一人の Zaslavskii は彼が到着した日にEkaterinburg に来ていた、という情報があった。
 Zaslavskii は、ニコライを捕え、必要があれば殺害するという意図をもって、Ievlenko に待ち伏せ部隊を設置した、との風聞があった。そこはTiumen の鉄道交差点につながる道路がTobol 川を渡る箇所だった(注29)。
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 第四節③へとつづく。

2916/桑原聡・元月刊正論編集代表(産経新聞社)①。

  桑原聡は、かつて月刊正論(産経新聞社)の編集代表だった。2010年12月号〜2013年11月号。
 この人物の「出身学部」を知りたいものだ、とこの欄に書いたことがあった。2018年7月8日付(No.1825)。
 「特に文系」の大学・学部のひどさに主として言及したときのことで、「桑原聡を含む月刊正論の代々の編集代表者…」の「出身学部」を知りたい、という文脈で桑原の名前を出した。
 おそらく桑原聡が産経新聞社を退職し、しかし同社を諸活動(講演等?)の事務所代わりに使うようになって以降ではないだろうか。産経新聞関係のネット上に桑原聡の経歴も記載されるようになり、「早稲田大学(第一)文学部」卒業ということが分かった。遅くとも2023年には、知った。
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 この人も「早稲田大学(第一)文学部」出身というのは、なかなかに感慨深いことだった。
 というのは、西尾幹二逝去に伴なう月刊正論の追悼特集(2025年1月号)に、湯原法史・元筑摩書店と力石幸一・現徳間書店のいずれも編集者の対談が掲載されているのだが、この二人ともに「早稲田大学文学部卒」だったからだ。
 月刊正論上のこの両名の写真は大きくて、出身学部が同じであることも目立つ(しかも出生年まで同じ1951年だ)。
 わずか数名でもって判断してはいけないだろうが、桑原聡も含めて、「早稲田大学文学部」出身者が出版関係者に少なくないことは確かだろうと推察される。松岡正剛も早稲田大学文学部出身だから、概括的で単純な予断をもっているわけではない(但し、松岡は「編集工学」を謳っても既存の出版社類の編集者でなかった)。
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  桑原聡が編集代表時代の月刊正論の論調の特徴の一つは、<反橋下徹>だった。なお、橋下徹は早稲田大学政経学部卒。
 桑原聡自身が編集代表執筆欄(「操舵室から」)の中で、「編集長個人の見解だが、橋下徹はきわめて危険な政治家だと思う」と明記した。
 これは、月刊正論2012年12月号の巻末。
 この号の巻頭で、橋下徹批判を展開したのは、適菜収だった。
 秋月の知る限りで、これは適菜収の雑誌デビュー論考だったのではないか。冒頭の一文は、「橋下徹大阪市長は、文明社会の敵だと思う」。
 そして、桑原聡が「早稲田大学文学部」出身者だとのちに知って、「適菜収」を冒頭で起用した背景の(ひょっとすれば重要な?)一つが判ったような気がした。
 適菜収もまた、「早稲田大学文学部」出身者であるからだ。
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 出身大学や学部によって人物の評価・判断を変える、というのは秋月瑛二が最も嫌悪することの一つなので、推奨するわけでも、当然視するわけでもない。
 だが、当時の桑原聡の心理において、適菜収が同じ大学の同じ学部出身(の後輩)だということは、ある程度は大きな意味をもったのではないか。適菜収が例えば「慶應大学文学部」卒だったとすれば、桑原聡は月刊雑誌の冒頭論考の執筆者として採用しただろうか。
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 出身大学(・学部)意識は、日本社会において根強いようにも思える。
 主張者・発言者の出身大学(・学部)によって評価、さらには賛否まで決めるような風潮(極論的には「学閥」意識)は、簡単な記述に馴染まないが、おそらくは「戦前」と同様に、日本の国家と社会を奇妙な方向に向かわせる有力な一因になるのではないかと、憂いている。
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  適菜収に関する論評を繰り返さない。近年はずっと、この人の文章を読んでいない。ニーチェ「研究」者のなれの果ての一人だろう。月刊正論に登場した「保守」派だと思いきや、「右」・「左」の分からない、むしろ「上」・「下」の「下」の文章執筆者(もの書き)だろう。
 そのような適菜収を雑誌デビューさせたのは、まさに桑原聡だったように思われる。大学・学部の先輩・後輩の関係だ。
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 この適菜収について、「産経新聞愛読者倶楽部」というサイトが、2012年4月7日付で、批判文を掲載していた。かつて引用したことがある。
 →2012年4月10日(No.1101)。 
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  桑原聡について、かつて一時期、この欄に批判的な文章を数多く投稿していた。
 少なくとも15回は書いている。つぎに、一覧表がある。
 →2013/11/15(No.1226)「桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧」
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 つづく。

2915/R.Pipes1990年著—第17章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送①。
 (01) 1918年4月22日、モスクワからの密使、Vasilii Vasilevich Iakovlev が、Tobolsk に姿を現した。
 長いあいだ神秘的な人物で、イギリスの諜報員と疑われもしたが、彼は最近に、本当の名前はKonstantin Miachin という。古くからのボルシェヴィキだと特定された。
 1886年にOrenburg の近くで生まれ、1905年に社会民主党に加入し、多数のボルシェヴィキによる強奪(「収用」)に参加した。
 1911年に偽名(Iakovlev)で出国して、ベルギーで電気技師として働いた。
 二月革命のあとでロシアに戻った。
 1917年十月、〔ペテログラード〕軍事革命委員会の一員で、第二回全国ソヴェト大会の代議員になった。
 1917年12月、チェカの役員に任命された。
 立憲会議の解散にも、関与した(注18)。
 要するに、彼は、試練済みの、信頼されるボルシェヴィキだった。
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 (02) Iakovlev-Miachin は、その使命の最終的な目的について、口を噤んだ。共産党の文献資料も、寡黙でありつづけた。
 しかし、彼の任務は、ニコライと、もし実行可能ならば、彼の家族を、前皇帝が審判を受けるべきモスクワへと送り込むことだった、と確実に言うことができる。
 このことは、状況上の証拠資料から確定することができる。すなわち、常識はこう指し示している。政府は、モスクワからほとんど2000キロ離れたTobolsk へ、そこから近くのEkaterinburg までだけ皇帝家族に随行させるために、密使を派遣しはしなかっただろう。とくに、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、皇帝家族を監禁状態に置くことに熱心だったのだから。
 だが、この趣旨の直接的な証拠資料もある。これは、Tiumen 出身の政治委員でPerm Guberniia の中央執行委員会の議長だったN. Nemtsov によって与えられた。
 Nemtsov は、4月にIakovlev の訪問を受けた、彼は42人の「モスクワ派遣員」と一緒に現れた、として、こう詳述する。
 「[Iaklevは]私に、ニコライ・ロマノフのTobolsk からの『退去』とモスクワへの移送についての命令書を提示した。
 命令書には、人民委員会議議長、Vladimir Ilich Lenin の署名があった。」(脚注1)
 ロマノフ一族に関する情報全てに対するきわめて厳しい検閲を何とか免れたこの証言は、Iakovlev はロマノフ家族をEkaterinburg へ移送せよとの命令を受けていたのか、それとも誘拐して安全圏に送り込む白軍の工作員だったのか、等の憶測に終止符を打った。
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 (脚注1) Krasnaia niva, No.27(1928), p.17. Avdeev, KN, No.5(1928), p.190 は、Iakovlev がレーニンからの命令書を携帯したことを確認している。Koganitskii によると(PR, No.4, 1922, p.13)、Iakovlev はニコライをモスクワに移送せよとの命令を受けており、このことは、疑念をもった現地ボルシェヴィキがモスクワと連絡して正しいものと確認した。
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 (03) Tobolsk への途中で、Iakolev はUfa で止まって、Goloshchehko と逢った。
 Iakovlev は命令書を示し、追加の人数を求めた。
 そこから、直接にEkaterinburg を通ってではなく、Chelyabinsk やOmsk を迂回して、Tobolsk へと向かった(注19)。
 彼がそうしたのは、ニコライを確保したがっているEkaterinburg が自分に成功させる責任がある使命を挫折させる、という怖れがあったからだったように見える。
 実際に、彼がTobolsk へ向かっているあいだに、Ekaterinburg は、前皇帝を「生きているか死んでいるか」はともかく持ち帰るための一隊の兵士を派遣して、彼に先行しようとしていた。
 Iakovlev は、この派遣隊にほとんど追いつき、二日後にTobolsk に着いた(注20)。
 彼には150人の騎兵でなる警護団があった。そのうち60人は、Goloshchekin から提供されていた。
 この一団は、機銃砲で武装していた。
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 (04) Iakovlev は、2日間をTobolsk で過ごし、情勢を知った。
 地方連隊と会い、未払いの給与を払って、気に入られた。
 知事の居宅内の状況も、知った。
 Alexis が重病であることを、知った。
 1912年の秋以降は血友病の症状を示さなかった皇帝の子息は、4月12日に自ら打ち傷を作り、それ以来ベッドを出られなくなっていた。
 彼はひどく痛み、両脚は膨らんで、麻痺した。
 Iakovlev は二度、前皇帝の居宅を訪問し、子息はモスクワまでの危険な旅行に耐えられる状態にはない、と確信した。
 (「聡明で、きわめて神経質な職人で技師」というのが、彼についてのAlexandra の印象だった。)
 四月は、Ural 地方を旅行するには最悪の時季だった。その頃までに雪が解けて橇や荷車の動きを邪魔し、かつ海運のために川を自由に利用できるわけでもないからだ。
 4月24日、Iakovlev は、モスクワと電話で連絡を取った。彼は、ニコライだけを移送し、当分は家族は残しておくように、指示された(注21)(脚注2)
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 (脚注2) 安全確保のため、Iakovlev とクレムリンとの間の連絡は、前皇帝とその家族を「商品」と言及して行なわれた。モスクワの官僚はIakovlev に、「荷物の主要部分だけ運ぶ」ように伝えた。Iakovlev, Ural, No.7(1988), p.160.
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 (05) このときまで、Iakolev は皇帝家族に対して丁寧で、ほとんど慇懃ですらあったので、随行の兵士やTobolsk 連隊には疑念が巻き起こっていた。
 ボルシェヴィキが「血のニコライ」と握手をするまでにへり下るのは、きわめて疑わしい、と彼らは感じた(注22)。
 新しい指示を受けたあとでもIakolev は礼儀正しくしていたが、官僚に変わった。
 彼は4月25日の朝に、知事の居宅の指揮者であるKobylinskii に対して、前皇帝を移送させなければならない、と言った。どこへかを言おうとしなかったけれども、行先はモスクワだと口を滑らしたようだ。
 彼は「聞き手」に、その日の午後2時に予定されている、と要請した。
 知事の居宅に着いて、彼はニコライがAlexandra、Kobylinskii と一緒にいるのに気づいて困惑した。
 彼は立ち去るよう求めたが、Alexandra は、そのままとどまるのに同意されているかのように振る舞った。
 ニコライに対して、こう言った。翌日早くに一緒に出立せよと、中央執行委員会から指令を受けている、と。
 彼の受けた命令は最初は家族全員とともにニコライを召喚することだったが、Alexis の病状を考慮して、ニコライだけを移送するのが新しい指令になっていた。
 Iakovlev の知らせに対するニコライの反応については、二つの種類の記録がある。
 翌月にIzvestiia が掲載したIakovlev へのインタビュー記事によると、ニコライはたんにこう尋ねた。「どこへ連れて行くのか?」。
 しかし、Kobylinskii はこう思い出す。ニコライは、彼らしくない言い方なのだが、「私はどこへも行かない」と言った。
 Kobylinnskii によると、Iakovlev は、さらにこう反応した。
 「そうしないで下さい。私は命令を実行しなければならない。
 貴方が拒めば、実力を行使するか、それとも任務遂行を諦めるかのどちらかをしなければならない。
 その場合には、より人間的でないことをする誰かと私は交替させられるでしょう。
 安心して下さい。貴方の生活を気遣います。
 独りで旅行するのが嫌なら、誰でも好みの者を連れていって構いません。
 明日の朝4時、我々は出発します。」(注23)
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 第四節②へつづく。

2914/私の音楽ライブラリー059。

 1969年の楽曲。

 130→時には母のない子のように/カルメン・マキ
  作詞・寺山修司、作曲・田中未知 〔Sho Fukamachi〕

 131→何故に二人はここに/Kとブルンネン
  作詞・山上路夫、作曲・鈴木邦彦 〔。おいちゃん〕

 132→涙の季節/ピンキーとキラーズ
  作詞・岩谷時子、作曲・いずみたく 〔四季守〕

 133→ときめき/布施明
  作詞・山上路夫、作曲・村井邦彦 〔Ka Fu〕
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2913/R.Pipes1990年著—第17章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第三節/Ekaterinburgのボルシェヴィキは監禁を望む。
 (01) Tobolsk には鉄道路線がつながっていなかったので、革命の騒乱にただちには巻き込まれなかった。この時期には「革命」は主として、鉄道を使って移動する武装した者たちによって拡散されたのだ。
 このことは、つぎの説明になる。すなわち、1918年2月まで、Tobolsk には共産党の細胞がなく、そのソヴェトはエスエルとメンシェヴィキの支配下にあった。
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 (02) Tobolsk の隔離状態は、近くのEkaterinburg とOmsk のボルシェヴィキが皇帝家族の居宅に関心を示したときに、終わった。
 Ekaterinburg は2月に、Ural 地方のソヴェト大会を開催し、ボルシェヴィキが支配する、5名で成る幹部会を選出した。
 その議長の26歳のAlexander Beloborodov は、その職業は錠前屋または電気技師だったのだが、かつて立憲会議へのボルシェヴィキ代議員だった(脚注1)
 しかし、幹部会で最も影響力をもったのは、Sverdlov と友人関係があったために、Ural 地方の軍事人民委員のIsai Goloshchekin だった。
 1876年にユダヤ人家庭にVitebsk で生まれ、1903年にレーニンに参加し、1912年に中央委員会の委員になった。
 Goloshchekin はまた、Ekaterinburg のチェカの一員としても務めた。
 この人物とBeloborodov は、皇帝家族の運命に対して重大な役割を果たすことになった。
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 (脚注1) この人物について、Granat, XLI, Pt. p.1, p.26-29 を見よ。反ユダヤ主義君主制主義者たちは、皇帝家族の殺害を非難しようと決意していて、Beloborodov の本当の名前は「Weissbart」だと決定した。これにはいかなる根拠もないけれども。
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 (03) 1918年の春と夏のEkaterinburg の政治状況に関して我々が知っていることは、ほとんどただ一つの共産党文献から来ている。Ekaterinburg の悲劇に関する最も初期の共産党の見方を提示してもいる、P. M. Bykov の文書だ。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキは、前皇帝がTobolsk で享受している快適さに立腹し、前皇帝とその周囲の者たちに認められた自由の程度を警戒した。
 彼らは、春の雪解けの到来とともに皇帝家族は逃亡するのではないかと、怖れた(注11)。
 その当時、あらゆる種類の疑わしい者たちがTobolsk やその周りに集まっている、という根強い風聞が広まっていた(脚注2)。
 Ekaterinburg の共産党員たちの中には、皇帝の警察に迫害されたための素直な感情をもって、ニコライ二世—血のニコライ—を憎悪する過激な者もいた。
 しかし、多くの共産党員たちは、君主制の復活を怖れていた。何らかの抽象的な政治的考慮からというより、自分たちの生命についての恐怖からだった。
 彼らは、Robespierre がLouis 16世に対して国民公会が死刑判決を下すよう申立てた—「もし国王が有罪でないならば、彼から王冠を奪った者たちはどうなるのだ」(注12)—ように、判断した。
 彼らは、ロマノフ家が一刻も早く迅速に退去することを望んだ。そして、前提皇帝が逃亡しないことを確実にするために、Ekaterinburg で彼らの統制下に置こうとした。
 このために、1918年の3月-4月に、Sverdlov と接触した。
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 (04) Omsk も同様の考えだったが、モスクワとの連絡関係がなく、最後には敗れた。
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 (05) Ekaterinburg にあるUral 地方ソヴェトは、1918年2月に早くも皇帝家族について討議したが、そのときに川の氷が解ける5月までに逃亡するか誘拐されるだろう、という怖れを表明する者もいた。
 3月初め、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、Sverdlov の許可を得て、皇帝家族を移動させることを要請した(注13)。
 同様の要請は、Omsk からもあった。
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 (06) 全ての可能性を排除すべく、Ekaterinburg は3月16日に、Tobolsk へ、そこの状況を探索する秘密使節団を派遣した。
 使節団が戻って報告書を提出したあと、Ekaterinburg はTobolsk へ、皇帝家族を移送するための基礎作業を行なう武装部隊を派遣した。
 また、想定される逃亡経路に、巡視兵を配置した。
 この武装部隊が3月28日にTobolsk に着くと、同じ目的でOmsk が派遣した武装共産党員の一グループが先にいることに気づいた。
 2日前に到着したOmsk グループは、市議会(Duma)を解散させ、現地のソヴェトからエスエルとメンシェヴィキを追放していた。
 両グループは、どちらに権限があるかを論争した。
 弱かったEkaterinburg 派遣隊は、撤退せざるを得なかった。しかし、4月13日にボルシェヴィキのS. S. Zaslavskii が率いる増強部隊とともに戻ってきて、権限を掌握した。
  Zaslavskii は、皇帝家族を監禁するよう要求した(注14)。
 このために。監獄内に小部屋が用意された(注15)。
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 (07) こうした出来事によって、それまで皇帝家族が享受していた静穏さは破られた。
 Alexandra は、彼女の日記の3月28日/4月10日に、子どもたちの助けを借りて、宝飾品を衣服に「縫い合わせた」と記した(脚注2)
 皇帝家族は逃亡する計画を立てていた、と明らかにする証拠資料はない。また、支持者がこのために案出した謀略的構想なるものも、根拠がないことが判った。しかし、追放されるのではなく幽閉されるのだという重苦しい感覚が、皇帝家族の居宅に充満した。
 どんなに微かで非現実的なものであれ、ボルシェヴィキから逃れる全ての可能性が、今や消失した(注16)。
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 (脚注2) 特異な英語で書かれた前皇妃の日記の全体は、公刊されていない。アメリカの報道記者のIsaac Don Levine は、日記の写真と範囲が広い抜粋を、つぎで公表した。Chicago Daily News, 1920年 6月22-26日,28日。Eyewitness to History(New York, 1963)。
 --------
 (08) 3月末、Goloshchekin は、モスクワへと向かった。
 彼はSverdlov にTobolsk の状況を報告し、皇帝家族が逃亡するのを阻止する緊急の措置が必要だと警告した。
 ほとんど同時期に—4月第一週に—、モスクワのソヴェト中央執行委員会の幹部会も、地方警備の代表者からTobolsk の状況に関する報告を聞いた。
 5月9日にSverdlov が中央執行委員会に行なった説明によると、地方に関するこの情報によって、政府は前皇帝をEkaterinburg へと移送するのを是認するよう説得された。
 しかしながら、この説明は、政府の意図に反して展開した事態を事後的に正当化する試みだった。
 なぜなら、〔中央執行部委員会〕幹部会は4月1日に、「可能ならば」ロマノフ家をモスクワに移動させると決定したことが、知られている(注17)。
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 第三節、終わり。

2912/聴覚・音・楽譜について。

  この欄ですでに書いたことがあるように、人間が(耳・鼓膜を通じて)聴くことができる音の範囲(可聴領域)は、20Hz〜20,000(=20k)Hzだと、たいてい記述されている。
 ここでHz は、音の周波数(他に電波等)の単位で、1Hz とは1秒間に1回振動すること(=1周波数)を意味する。
 したがって、20Hzとは1秒間あたり20周波数、20kHzとは20,000周波数を意味する。このHz の数、周波数が大きくなればなるほど、「音」は「高く」なる(大きさ・強さとは別)。
 上記のとおり、どの人間にも全く聴こえないとされる高さ・低さの音もある(20kHz以超、20Hz未満)。生物としてのヒト・人間の限界だろう。
 健康診断での「聴力検査」は左右の耳についてかつ高低二音について行なわれるが、その高低二音は、1,000Hzと4,000Hz(1kHzと4kHz)であるらしい。この範囲(1,000Hz〜4,000Hz)を聴くことができれば、日常生活にほぼ支障はない、ということではないかと思われる。
 この範囲は、上記の20Hz〜20,000Hzと比べると、かなり範囲が狭い。
 --------
  88腱(白鍵の他に黒鍵を含む)のピアノは、腱ごとに叩いて出す音の高さが国際的に決められているようで、その周波数は、最も左の腱は27.5Hz、最も右の腱は4186.009Hzであるらしい。
 最も左の腱による音の高さ(低さ)を「A0」と称しており、その音から右へ12音ごとに1オクターブずつ高くなっていく。
 12番め(最初を含めると13個め)は55.000Hz(A1)、24番め(25個め)は110.000Hz(A2)、36番め(37個め)は220.000Hz(A3)、48番め(49個め)は440.000Hz(A4)、60番め(61個め)は880.000Hz(A5)、72番め(73個め)は1,760Hz(A6)、84番め(85個め)は3,520Hz(A7)になる。
 周波数が2倍になるごとにちょうど1オクターブずつ高くなっていくことは、これまでに何度も触れている。
 まだ87番め(88個め=最右端)まであり、この最右端の腱の高さが上記の4186.009Hzで、「C8」になる。
 27.5Hz〜4186Hz余という範囲も、上記の20Hz〜20.000Hと比べて狭く、だいぶ小さい方に偏っている。また、最低音部もそうだが、カタカタとだけ鳴る最高音部がピアノで弾かれることは、ほとんどなさそうに見える。
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 以上のうち演奏上重要な基準となる音は、中央やや左のA3=220Hzか、中央やや右のA4=440Hzだろう。
 この440Hzは、音の高さ・音程を調整する場合の基本音として使われているようだ。とくに、ピアノを含む、その他の諸楽器との合奏との場合には。
 但し、国際的取決めと言っても、ピアノ一台による単独の演奏の場合には、各音の高さの「関係」は重要だが、中央やや右の「A」を440Hzに厳格に設定することにこだわる必要はない。「調律」の際にやや高い442Hzに設定することも多い、とか言われる所以だ。電子機器による音楽・楽曲の作成等の増加に伴い、「440Hz」が支配化しつつあるともされるけれども。
 A0〜A7というように「A」という符号が使われるのは、それらがいわゆる「イ短調」の基音だからに違いない。例えば、A=「ラ」と仮定すると、A3からA4へと、「白鍵」はラシドレミファソラシドと上がって行く。
 なぜ「C」(=ド)ではなく「A」に区切りのよい数字のHz数が与えられたかは、私には不明だ。もっとも、「A」も音楽上重要ではあることは間違いないだろう。
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  混声合唱曲において男声部と女性部それぞれの楽譜が作られているだろう。その場合、それぞれの楽譜に「A」や「C」等々の音が記載されているとしても、「同じ」高さの音ではない、と考えられる。
 男声と女声とでは、1オクターブ程度の高さの違いがあると思われるからだ。
 そうだとすると、同じ「下のA」に楽譜上は記載されていても、男声の場合は110Hz(A2)、女声の場合は220Hz(A3)の音なのではないだろうか。「上のA」は、それぞれ220Hz(A3)と440Hz(A4)ではないか。
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 楽譜上一定の音として指定されていても、楽器によっては、「下のA」とか「上のA」とかの音が国際的指定どおりに発せられない、演奏されない、ということがある。
 比較的によく知られているのは、理由・経緯を私は知らないが、ブラスバンド(吹奏楽団)だろう。多くの楽器の場合(トランペット、トロンボーン等)、「B♭」で書かれている。
 「B♭」で書かれている、というのは、楽譜上は「C」と記載される音であっても、その楽器を演奏すれば実際には、あるいは「正確には」、「B♭」の音が発せられる、ということをいう。「C」に限らず、全ての音が「C」→「B♭」のように一音ずつ下げられるので、演奏全体に支障はない。
 ブラスバンドの楽器にはホルンのように「E♭」で書かれる楽譜を利用するものもあり、「F」で書かれる楽器もある、と聞いたことがある。
 このように、「楽譜」が示す音というのはかなり便宜的で、融通性があり、相対的なものだ。
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  「楽譜」と言えば、ト音記号のものであれ、へ音記号のものであれ、「五線譜」と言って、左右に五つの線が平行に書かれて、その上または中間に「音符」が記載されるものが、いわば「定番」だ。
 なぜ1オクターブはドレミは7音(8音)で、なぜ全てで12音(13音)なのかと疑問に感じる者である私は、やはり疑問に思う。
 なぜ「楽譜」は「五線譜」なのか
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 この「五線譜」には、じつは奇妙なところがある。
 よく目にするト音記号の楽譜を想定する(へ音記号のものもそうだが)。
 イ短調かハ長調でなければ、♯または♭が用いられる。楽譜内とだけいうよりも、楽譜の冒頭の左上にも記載されて、「調」を指定する働きをする。
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 ドレミ…はイタリア語でCDE…と同じ意味らしいから全く不正確で、厳密には誤りかもしれないが、「絶対音」を表記する場合に「CDE…」を、「相対音」を表記する場合に「ドレミ…」を用いることにしよう。
 上の後者は、各々の音楽・楽曲の「調」の違いごとに揺れ動く相対的音階の一部を表記するものだ。私は「絶対音感」が全くないが、「調」ごとの(相対的)音階はほんの少しは理解できるので、上の区別は重要だ。
 「絶対」音とは別に、各「調」での基音や途中での(相対音としての)例えば「ミ」が分かったりすると、簡単な曲だと、「相対音階」(ドレミ化された旋律)をほぼ理解できることがある。
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 さて、「五線譜」で不思議なのは、ハ長調・イ短調だと、E♯、B♯およびF♭、C♭という音が、五線譜の一番下の線および中央の三番めの線の上で表記されないことだ。また、これら以外の「調」の場合は、「ミ♯」、「ファ♭」、「シ♯」、「ド♭」を線上または線間に表記することができない(又はしない)ということだ。
 その他の音(音符)の場合は、♯と♭のいずれも付かない場合といずれかの一つが付く場合の二つがある。「楽譜」から見ると、楽譜の線上や線間が二つの役割を果たすことが予定されている。
 しかし、上に挙げた場合は、そうではない。
 これは不公平・不平等?ではないだろうか。ともかくも、音(音符)によって扱いが異なっていることは、明確だと考えられる。
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 このようになった背景には、やはり<ピタゴラス音律>以来の、音楽にかかわった人間の歴史がある、と考えられる。私が試みた「ドレミ…7音(8音)の作り方」でも、(ドレミの7-8音に限ると)E-F、B-Cの間が「間差」が最も小さくなる。
 また、音律設定の歴史を継承している<十二平均律>において、E-F、B-Cだけが「半音」になる。
 このような歴史を色濃く反映しているのが、現在に圧倒的支配的な「五線譜」という楽譜だろう。決して、自然の、あるいは必然的に生じたものではない、と思われる。
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 上の点はさて措き、1オクターブ12音(13音)を前提としつつ、「歴史から」全く自由に楽譜の構成方法を探ると、どういうものが考えられるだろうか。
 それは、<六線譜>にすることだ。
 1オクターブに12音(最後を含めて13音)あるのだから、「6線」があると、♯や♭を全く用いることなく、「6線」の線上か線間または線に沿って、全ての音(音符)を指定することができる。
 例えば、一番下の線(第一線)の下に線に沿って「C」の音符を書くと、第一線上はCとDの中間音になり、第一線と第二線の間が「D」になる。こうして上に進むと、第六線の上に線に沿って「上のC」を指定することができる。
 「6線」あれば足りる、と言えないだろうか。
 五線譜の楽譜で冒頭の左上に♯または♭を何個か記すことで、楽譜の途中に♯や♭をいちいち記載するのを省略することはできる。だが、いちいちそれを見たり、思い出したりしなくとも、<六線譜>ならば差し支えないだろう。
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 以上はかなりの「お遊び」だ。
 現在の「五線譜」だと、補助線を下に二つ、上に一つ引けば、何と2オクターブを表現することができる。上に提案?した<六線譜>だと、1オクターブ以上を表記するのはなかなか困難だ(補助線が多くなりすぎる)。
 また、楽曲によって「基音」が同じではないので、あるいは「調」が異なり得るので、そうした「変化」にどう対応するかという問題もある。
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 だがしかし、現在の「五線譜」も決して自然に、または不可避的に誕生したのではなく、<ピタゴラス音律>を含む種々の「音律」の設定の試みに並行して「歴史的に」生まれたものであることに、留意しておきたい。
 音・旋律・楽曲を「紙」・「文書」の上で再現する、表現するのは、決して簡単なことではない。
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2911/R.Pipes1990年著—第17章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳。
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 第一節/ロシアの国王殺しの独特さ。
 (01) 1918年7月16-17日の夜、およそ午前2時半、ウラル地方のEkaterinburg で、チェカの一隊が、前皇帝のニコライ二世、妻、子息と4人の娘たち、家族の医師、3人の召使いを、地下室で、殺害した。
 これに関する多くのことが、確実さをもって知られている。
 しかしながら、この悲劇へと至った歩みは、莫大な文献があるにもかかわらず曖昧で、適切な全ての文書資料が公にされるまで、研究者たちに残されたままだろう(脚注)
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 (脚注) Kolchak 提督が犯罪の調査のために任命した特別委員会の長のNicholas A. Sokolov に関する、基礎的な文書は残っている。Ubiistvo tsarskoi sent’i(Paris, 1925)(仏語と独語でのみ利用できる).
 二次文書のうち最良なのはつぎだ。Paul Bulygin, The Murder of the Romanovs(London, 1935); S. P. Melgunov, Sud’ba Imperatova Nikolai a II posle otrecheniia(Paris, 1957).
 その他のロマノフ一族の運命について、主要な資料はつぎだ。Serge Smirnov, Autour de l’Assassiant des Grands-Ducs(Paris, 1928).
 P. M. Bykov のボルシェヴィキ文書の最初の版・‘Poslednie dni poslednego tsar ia’ in Rabochaia revoliutiia na Urale(N. L. Nikolaev, ed.)(Ekaterinburg, 1921), p.3-p.26 は役立つ。
 Harvard Uni. のHoughton 図書館に預託されたSokolov 委員会の関係資料一式は、不可欠だ。
 学術上の選集には、Nicholas Ross により編集されたつぎがある。Gibel’
tsarskoi sem’i (Frankfurt, 1987).
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 (02) 二人のヨーロッパの君主が、革命的激変の結果として生命を失なった。1649年にCharles 1世、1793年にLouis 16世。
 だが、ロシア革命に関する多くがそうであるように、皇帝家族の殺害に関する表面的なことはよく知られているが、多くのその他のことには独特なところがある。
 Charles 1世は、公式に責任を提示し、彼に防御の機会を与えた、特別の司法裁判所によって尋問を受けた。
 審理は公開で行なわれ、その記録は審理が進行中でも公にされた。処刑も公衆の目の前で行なわれた。
 同じことは、Louis 16世についても言えた。
 彼は国民公会の面前で審判され、法律家が王を弁護する長い審理の後の過半数以上の票決によって、死刑に処せられた。
 審理の記録も、公刊された。
 パリの中央部で昼間に、処刑は実行された。
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 (03) ニコライ二世は、訴追もされず、裁判にかけられもしなかった。
 彼に死を宣告したソヴィエト政府は、関係する文書記録を一度も公刊しなかった。事件に関して知られている事実は、主として、一人の熱心な調査者の努力の結果だ。
 ロシアの場合は、犠牲者は退位した君主だけではなく、妻、子どもたち、補佐者たちもそうだった。
 真夜中に実施された殺害行為は、正規の処刑以上に、ギャングが実行する虐殺のごときものだった。
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 第二節/ボルシェヴィキ支配の最初の一ヶ月の前皇帝と家族。
 (01) ボルシェヴィキが権力を奪取しても最初は、Tobolsk で生活する前皇帝、その家族と補佐者たちに大きな変化はなかった。そこに追放したのは、臨時政府のケレンスキーだった。
 1917-18年の冬、知事の居宅とその別館での生活は以前と同様に送られていた。
 一族は、散歩、近くの教会での宗教活動への出席、新聞の受け取り、友人との文通が許された。
 1918年2月、政府からの補助金が削減され、受け取る額は一ヶ月に600ルーブルへと減った。だがそれでも、彼らはなお相当に快適に生活していた。
 より切迫した問題を多数抱えていたボルシェヴィキは、全員が公的案件から離れていたロマノフ一家について、考えを及ぼすことがほとんどなかった。
 彼らは1917年11月初めに前皇帝の扱いを議論したけれども、何も決定しなかった。
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 (02) ブレスト=リトフスク条約の締結と結びついて、状況が変わり始めた。
 条約はボルシェヴィキ体制に対して、激しい憎悪をもたらした。
 この雰囲気の中では、皇位復活の企てを排除することができなかった。ボルシェヴィキがドイツ人将校のあいだにある親君主主義感情に気づいたので、なおさらそうだった。
 混乱を避けるために、ロマノフ家を舞台から引き下ろす用意がなされた。
 3月9日、レーニンは、ロシアの王位と噂された相続人であるMichail大公を追放する布令を発した。
 Michael は、1917年3月にニコライから提示された王位を拒否して以来、政治には何の関心も示さなかった。
 彼は、ペテログラード近くのGatchina にある所有地で、静かに暮らしていた。政治を避け、公衆の目から離れるようにしながら(注02)。
 政治的出来事に関係しなかったことは、王位を断ったあとで驚くペテログラード・ソヴェトの役人たちの前に姿を現し、自分の土地で猟をする許可を求めた、ということからも理解できるかもしれない(03)。
 1917年の夏、彼はイギリス大使館に英国へのヴィザの発給を求めた。しかし、「閣下の政府は、皇帝家族の一員が戦争中に英国へ行くのを望んでいない」との説明とともに却下された(脚注1) (注04)。
 1917年の末、彼はレーニンに、自分の貴族名を妻のBrasoba 伯爵夫人のものに変えたいと申し出た。だが、返答はなかった(注05)。
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 (脚注1) Michail の友人のO. Poutianine がつぎのように主張するのは、ゆえに、不正確だ。Michail は、ロシアの民衆は自分を害さないだろうと信じて、イギリスへの政治的亡命を希望しなかった、と。Revue des Deux Mondes, XVIII(1923年11月15日), p.297-8.
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 (03) Michail は、今は拘禁されていた。最初はSmolnyi で、のちにはチェカ本部で。
 3月12日、レーニンと政府の残余がモスクワに出発したあとで、彼は、Tobolsk から遠くないPerm へと、警護付きで送られた。
 ボルシェヴィキは、ドイツ軍がペテログラードを占領して皇帝家族を捕まえるのを怖れて、この無防備の地域から移すことに決めたのだ。
 3月16日、ペテログラード・チェカの長のUritskii は、ペテログラードとその近傍にいる一族全員に、登録するよう命じた(06)。
 その月ののち、彼は、これら全員をPerm、Vologda、Viatka の各州のいずれか好きな所に追放する、と命令した。
 いずれかに到着すれば、彼らは、その地方のソヴェトに報告し、住居に関する許可を受けなければならなかった(注07)。
 のちに判ったように、在監中の者やボルシェヴィキ支配の外部での生活者を除く全てのロマノフ家一族は、Perm で死んだ。
 この地域にはペテログラードとモスクワに次いでボルシェヴィキ党員が集中していたので、信頼して皇帝一族に厳しい目を向けさせ続けることができた。
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 (04) これらは、予防的措置だった。ボルシェヴィキ指導層は、前皇帝とその親戚をどう扱うかについて、まだ決めていなかった。
 レーニンは1911年に、「少なくとも100人のロマノフたちの首を刎ねるのが必要だ」と書いていた(8)。
 しかし、このような大量殺戮は危険だっただろう。村落には、強い君主主義心情があったからだ。
 一つの可能性は、ニコライを革命審判所で審理させることだった。
 司法人民委員として当時に知り得る立場にあったIsaac Steinberg は、こう書く。君主制の復活を阻止するために、1918年2月にそのような審判が考慮された、と。—復活すれば、一般に歓迎された退位から一年後に、不人気のニコライが、ボルシェヴィキを煩わせる訴えをロシア人にするのを暗黙に承認することになる。
 Steinberg によると、中央執行委員会の会議で、Spiridonova は、Tobolsk からの経由地でニコライはリンチに遭うだろうという理由で、審判に反対した。
 レーニンは、前皇帝に対する法的手続を進めるのはまだ早すぎる、と決定した。但し、審判のための資料を集めておくように命じた(脚注2)。
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 (脚注2) Steinberg, Spiridonova, Revolutionary Terrorist(London, 1935), p.195. 1918年1月12日/25日に、Vechernii Chas は、Steinberg へのインタビュー記事を掲載した。そこで彼は、審判が行なわれることについて自信を表明した。「知られているように、前皇帝は立憲会議で裁かれることが提起されていた。しかし今では、彼の運命は人民委員会議で決定されるように思われる」。これは、人民委員会議が1918年1月29日にニコライ二世を裁判所に引き渡す決定を採択して以降、確認されてきた。G. Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No. 161/9,412(1987年7月12日), p. 4.
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 (05) 4月半ば、ロシアの新聞は、「ニコライ・ロマノフ」の審理が始まりそうだ、との報告記事を掲載した。
 これは、最高調査委員会の長としてKrylenko が準備していた、旧体制の重要人物に対する一連の審判の最初だろう、と言われた。
 前皇帝は、国制上の支配者として—つまり1905年10月17日以降に—冒した「犯罪」についてのみ訴追されるだろう。
 それらの諸「犯罪」の中に、選挙法を恣意的に変更して基礎的諸法律を侵犯した、いわゆる1907年6月3日のクーデタが含まれるだろう。予算の「予備」部分を用いた国費の不適切な支出その他の、権力濫用(注09)。
 しかし、4月22日、プレスは、ニコライが審理されることをKrylenko は否定した、と伝えた。
 Krylenko によると、風聞は誤解にもとづいている。政府が本当に意図したのは、ロマノフの名前を使って、諜報徴発者を裁判にかけることだった。
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 第二節、終わり。第三節へつづく。

2910/人間の「感覚」と<哲学者>。

   「五感」というのは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五つを言うらしい。だが、最後の「触覚」には、圧せられるという感覚、気温の高低の感覚、揺れ動くという感覚等も入るらしいので、これはかなり広い。
 だが、ともあれこうした「感覚」(sense)でもって、ヒト・人間は「外界」を認識する、あるいは感知、知覚する(know, perceive, cognize, recognize 等)。
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  話題は飛ぶが、私は(適当に名を出せば)カント、ヘーゲル等々の「哲学」というものを信頼できない、そしてまともに読んでみる気になれない。なぜなら、「客体」と「主体」、「客観」と「主観」、「外界」と「自己」という場合、当然に人間の「認識」活動を前提とするはずなのだが(きっと)、「客体」・「外界」を認識・知覚・感知する「主体」の<感覚(器)>としていったい何を想定しているかが、よく分からないからだ。
 「文字」または文章というものをヒト・人間が生み出して、文字・文章を「読解」する、あるいは「認識」するという作業を行なうようになった。この場合、文字・文章に対する「視覚」が(通常は)必要だが、読解し理解するためには、ヒト・人間の「脳」神経の活動が必要だ(と思われる)。
 過去の著名な?「哲学者」たちは、人間の「精神」活動をあるいは脳神経・脳細胞(ニューロン)について、あるいはもっと手前で「言葉」・「言語」というものの働きについて、いかほど知って、あるいはいかほど考察して、いたのだろうか。
 さらに、ヒト・人間そのものについて(も)語るなら、生まれて死ぬ存在のことをどう考えていたのだろう。そして、例えば<遺伝>と<生育環境>の違いについてどう考えていたのだろう。
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 正確な記憶ではないが、あるテレビ番組で山中慎弥が人間はまだ「細胞」に関して10パーセントも分かっていない、という旨を言っていた。そのとおりだろう、と思われる(「DNAの90%は謎」とかも関係する)。
 さらに「細胞」の一種である「神経細胞」についても(とくにその「脳内」活動について)、じつはほとんど何も分かっていないのではなかろうか。
 「脳科学」というのは、ようやく端緒についた、というのが正確ではないか。
 そして、再述になるが、(一人につき)800-1000億個のニューロンの複雑怪奇な結合・離反が生み出すはずの(きっと)、「思想」(idea, thought)とはそもそも何かも、かつての著名な?哲学者たちは何も知らなかったのではないだろうか。
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  西田幾多郎『善の研究』(1911年)
  第一編の第一章の冒頭から引用する。但し、ひらかな化したりなど私なりに「現代語」化している。ほとんどに、改行も加えている。
 「経験というのは、事実そのままに知るの意味である。
 全く自己の細工を棄てて、事実に従って知るのである。
 純粋というのは、ふつうに経験と言っている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
 例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるかという判断すら加わらない前をいうのである。
 それで、純粋経験は直接経験と同一である。
 自己の意識状態を真下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象が全く合一している。これが、経験の最醇なるものである。」
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  これだけで区切るのが乱暴なことは分かっているが、すでに看過できない点がある。
 「主と客」、「外物」と「自己の意識」あるいは「対象と知識」が対比されているようであることは、この「哲学者」についても見られるようで興味深い。
 「純粋経験」という語が出てくるが、カントもまた、「純粋認識」・「純粋判断」そして「純粋理性」等を語っているらしい。もっとも、カントの一著(1780年代)の冒頭をこれまた一瞥だけしたのだが、西田のいう「純粋」と(似ていても)同じではないだろう。
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 さて、上だけで立ち止まるのは、「色を見る、音を聞く」という感覚に言及があり、これが「考え」・「判断」等が生じる前に発生する(し得る)、ということをしきりと言っているように見えるからだ。どうやらこれが、「純粋経験」らしい。
 しかし、端的に書いてしまおう。
 第一に、そんな現象がヒト・人間に生じ得ることは、<当たり前>のことではないか。音を快く感じ、光景を「美しく」感じることは、空腹感を抱いたとき等と同じく、「考え」や「判断」あるいは(別次元になるが)「言葉」を必要としないで、いくらでもあり得る。近づく自動車を感じて、咄嗟に「回避」するという動きもそうかもしれない。
 なお、西田が人間に全ての「認識」(の少なくとも基礎)にこの「純粋経験」があると言いたいのだとすると、「認識」や「純粋経験」の意味の問題にもなってしまうが、疑問だ。
 第二に、いったいどのような人間の、どのような感覚(とくに聴覚と視覚)が想定されているのだろうか。つまり、全てのヒト・人間が西田と同じとは限らないのだ。
 極論めくかもしれないが、多くの人々がもつ視覚や聴覚を持たない人々もいる。後者の人々にとって、「見えない」、「聞こえない」人々にとって、「純粋経験」とはいったい何のことか
 視覚についても、いわゆる「色盲」の人は外界を(そうでない人々とは)異なって見ているはずだ。聴覚についても高音部または低音部だけは聞こえ難い、という人々もいるはずだ。
 さらに、いわゆるAIあるいは人工ロボットはどの程度を標準としているのだろうと思っているのだが、視覚能力(視力)には裸眼で0.001〜2.0まである。全員が「同じ」ものを見ているのではない。モニター画像の精度にも(省略するが)いろいろある(テレビの「4k」はどの程度普及したのだろう)。
 同様のことは聴覚能力(聴力)についても言える。音楽を聴く場合に「ハイレゾ」(あるいはこれ相当のApple-Lossless)でないと嫌だ、それ以外は「雑音」と感じる、という人もきっとごく一部にはいるだろう。
 もともとは、音再生機・聴覚機器の機能によって、「何が聞こえているか」の程度も、異なるのだ。1秒間あたりの音波の振動数等の「切り取り」の方法・程度は、耳によって、そして種々の機器によって(いずれを人間が用いているかによって)同じではないのだ。
 そうだとすると、「純粋経験」との語で表象されるものは、いったい何か。
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 というようなことに思い至ると、「純粋経験」の意味、この言葉や概念の存在意義はさっぱり分からなくなる。
 <認識>を問題とする「哲学者」の文献をまともに読むことができない、という旨を上(今回の初めの方)で書いたのは、こういった理由でだ。
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2909/R.Pipes1990年著—第16章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第七節/軍事行動作戦の評価。
 (01) 村落に対するボルシェヴィキの軍事行動作戦の結果を査定するならば、村落が勝者だったと宣しなければならないだろう。
 ボルシェヴィキは若干の政治的目標を達成したが、農民層を分裂させること、農民から意味ある量の穀物を奪いとることのいずれにも、失敗した。
 政治的成果ですら、すぐに消えた。赤軍部隊が1919年に白軍の脅威に備えて召喚されたとき、村落は再び元の状態に戻ったからだ。
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 (02) 食料の調達も、体制側をほとんど満足させなかった。
 共産党側の文献は、実力による手段で獲得した食料の量に関して、珍しく口が重い。だが、それらが提示する証拠資料によると、きわめて少なかった。
 1918年の収穫期(8月半ばから11月初めまで)のあいだ、赤軍に助けられた食料派遣隊と貧民委員会は、12の州から、穀物の余剰3500万pud あるいは57万トンを調達した、と言われている(脚注1)
 1918年の収穫は30億pud あるいは4900万トンだったので(注123)、努力と残忍さの全てをもってしても—機関砲を撃つ兵団、戦闘、首を吊っての死刑判決付きの人質—、収穫のわずか100分の1しか得られなかったことになる。
 当局は、田園地帯を襲撃する政策の失敗を認めた。1919年1月に、現物課税(prodovol’stvennaia razverstka あるいはprodrazverstka)を導入したときには。この現物税導入によって、余剰分全ての没収は、農民が引き渡すべき量を明記する厳格な規範に変更された。
 この量は、生産者の配送能力とは無関係に、国家の需要に応じて決められた。
 政府は配送を確保するために、地区と下部地区に割当て量を課し、ついで負担分を村落や農村共同体に配分する、中国・モンゴル制度に変更した。
 後者は、すでに帝制時代にそうだったように、義務に応じる集団責任制(krugovaia poruka)で拘束されていた。
 少なくとも何らかの順序を導入するこの制度は、もともとは穀物と飼料に適用されたが、のちには事実上全ての食料を含むよう拡張された。
 引き渡すよう強いられた物品について、農民は金銭を受け取ったが、それでは何も買えなかった。レーニンは1920年に、訪れているBertrand Russel に対して、くすり笑いをしながら、政府がいかにしてmuzhik に穀物の対価として無価値の紙幣を受け取らせているかを叙述した(脚注2)(注124)。
 だが、こうしたことがあっても、レーニンは、穀物の自由取引を認めるよりも全員を餓死させると言ったことがあったものの、ほとんど2年後の1921年春には、確固たる現実に屈服し、非を認めて、穀物独占を放棄しなければならなかった。
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 (脚注1) LS, XVIII, p.158n. しかし、レーニン(PSS, XXXVII, p.419)は、体制は6700pud を獲得した、と主張した。
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 (脚注2) Bertrand Russell, Unpopular Essays(New York, 1950), p.73-p.111.「私が[レーニンに]農業の社会主義について質問したとき、彼はほくそ笑みつつ、いかにして貧農を富農に対して煽動したかを説明した。『そして、彼らはすぐに最も近くの樹木に首を吊らせた。—ハ、ハ、ハ』。虐殺された者たちを考えての彼の高笑いは、私の血を冷たくさせた。」
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 (03) ボルシェヴィキ体制はまた、村落で階級戦争を巻き起こすこともできなかった。
 少数派の「富裕な」農民と同じく少数派の「貧困な」農民は「中層」農民の広い海に溺れ、三層の農民は仲間で殺し合う戦争をするのを拒んだ。
 ある歴史家の言葉によれば、「クラクは村落の側に立ち、村落はクラクの側に立った」(注125)。
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 (04) 二ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは誤りに気づいた。
 レーニンとTsiurupa は、1918年8月17日に、中層農民を説得し、彼らを貧農と一緒に富農に対抗して統合させる積極的努力を命じる特別の指令を発した(注126)。
 レーニンはその後に繰り返して、体制は中層農民の敵ではない、と主張した(注127)。
 しかし、このような言葉だけの譲歩は、ほとんど意味がなかった。中層農民は食料をもっており、したがってボルシェヴィキの食料奪取政策の主要な犠牲者だったのだから。
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 (05) 農民たちは、ボルシェヴィキの農業政策によって、完全に混乱させられた。
 彼らは、「革命」とは国家に対する全ての義務から自分たちを解放する、voia あるいはアナーキーを意味すると理解していた。
 農民たちがこう言うのが聞かれた。「彼らは、全ての土地を引き渡すと約束した。税金を徴収するとは、軍隊に徴兵するとは言わなかった。そして今は何を…?」(注128)。
 実際に、共産主義国家に対する農民の義務は、帝制時代よりもはるかに苛酷だった。すなわち、共産党員研究者たちの計算によると少なくとも二倍重かった。義務には税だけではなく、強制労働、および木材を伐採して運搬するなどの、きわめて負担になるその他の義務があったのだから(注129)。
 農民たちが称した<sutsilism>は都市の煽動者たちが彼らに課そうとしたものだったが、この語彙は農民たちにはさっぱり分からなかった。そして、彼らはつねに、外国語を馴染みのある言語に再翻訳して、類似の環境のもとでそれを行なうように反応した。
 農民たちは与えられたものを疑い始めたが、それでも保持するつもりでいた。自分たちは必要不可欠であり、そのゆえに、侵され得ない者たちなのだ。
 そのうちに、「常識」が彼らに告げた。余剰の穀物を自由市場で処分することができないかぎり、余剰を生産しても何の利益にもならない、と。
 この意識こそが、食料生産が着実に減りつづけ、1921年に飢饉が発生する大きな原因になることになる。
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 (06) ボルシェヴィキは、村落に彼らが指揮するソヴェトの網の目を持ち込むことで最後には村落に浸透した、という功績を主張することができた。
 しかし、これは、ある程度は幻想だった。
 1920年代初めに行なわれた研究は、村落は共産党のソヴェトを無視したことを明らかにした。
 その頃までに、権威は、家族の長によって運営される村落共同体の組織へと移っていた。まるで村落には革命はなかったかのごとくに。
 村落ソヴェトは、それらの決定への同意を共同体から獲得しなければならなかった。それらには自分たちの予算すらなかった。
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 (07) こうした事実に照らして見ると、村落に対する軍事行動作戦は完全な成功であるばかりか、歴史的重要性において十月のクーを凌駕する、とレーニンが主張したのは、驚くべきことだ。
 彼は1918年12月に、「以前の革命では社会主義を目指す作業に対する大きな障害だった」問題を、この一年間で解決した、と豪語した。
 こうも言った。ボルシェヴィキは革命の初期の段階で、地主に対する貧農、中農、富農の闘いに加わった。
 これらの同盟は、村落「ブルジョアジー」を無傷なままに残した。
 この状況が永続するのを認めれば、革命は中途で止まり、後退するのは必至だろう。
 このような危険は、「プロレタリアート」が貧農を覚醒させ、貧農とともに村落ブルジョアジーを攻撃することによって、回避される。
 かくして、ロシア革命は、西側のブルジョア民主主義革命を超えて進化し、都市と村落のプロレタリアートの合同の基盤を生み出し、ロシアに集団農業を導入する基礎を築いた。
 レーニンは、つぎのように勝ち誇った。
 「こうしたことが革命の意義だ。そして、今年の夏と秋に村落ロシアの人里離れた箇所のほとんどで起きたことだ。
 このことは、昨年の十月革命ほどには騒がれず、明瞭には語れれず、誰もの注目を受けているのではない。しかし、比較できないほど大きい、深い重要性がある。」(注131)
 これはもちろん、狂気じみた誇張だった。
 レーニンが誇った村落のボルシェヴィキ化は、ようやく10年後に、スターリンによって達成されることになる。
 しかし、その他の多くの面でそうであるように、スターリンの路線は、レーニンによってあらかじめすでに、概略が描かれていた。
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 第七節、終わり。第16章全体も終わり。つぎの章は皇帝家族の殺害
 
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