秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/06

2908/R.Pipes1990年著—第16章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会”②。
 (09) ボルシェヴィキは、怯むことなく、軍事作戦行動を進めた。
 数千人のボルシェヴィキ党員とボルシェヴィキ同調者が、煽動し、組織し、そして村落ソヴェトの抵抗を抑えるために、田園地帯に送られた。
 この手段がどのように機能したかを、つぎの出来事が示している。
 「1918年7月26日に開催された、 volost’ および村落ソヴェトのSaransk 地区大会の議事概要から。
 決定された。貧民委員会の機能は、volost’ および村落ソヴェトに委ねられるものとする。
 票決後に、Kaplev 同志(副議長)は、共産党・ボルシェヴィキ地方委員会の名で大会に対して、大会出席者の明らかに多数派は、誤解によって中央の権威に反対する票決を行なった、と伝えた。
 この理由で、この問題に関する布令と指示を基礎にして、党は地方組織に、代表者たちを派遣するだろう。この代表者たちは民衆に対して、貧民委員会の意義を説明し、(政府の)布令に適合してこれを組織するに至るだろう。」(注110)
 このようなやり方で、党官僚たちは、貧民委員会の設立を拒否する農民の投票を無効化した。
 このような強引な方法を用いて、ボルシェヴィキは1918年12月までに、12万3000のkombedy(貧民委員会)を組織した。この数は、2村落ごとに1つを僅かに上回っていた(注111)。
 これらの組織が現実に機能したか、あるいはそもそも存在したのか、を語るのは不可能だ。ある者は、多くの場合は紙の上でのみ存在した、と疑っている。
 多くの場合、貧民委員会の議長は、党員であるか、自らを「同調者」だと称する者だった(注112)。
 後者は、外部者、主として都市部の<apparatchiki>の言いなりに行動した。この頃には、共産党の中に農民はほとんどいなかったからだ。中央ロシアの12州についての統計調査は、村落地域には共産党員が1585人しかいなかったことを、示している(注113)。
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 (10) ボルシェヴィキは、貧民委員会を過渡的な制度だと見ていた。それをソヴェトへと改変させるのが、レーニンの意図だった。
 1918年11月に、彼はこう宣告した。
 「貧民委員会をソヴェトと融合させる。我々は、貧民委員会がソヴェトになるように、準備するだろう。」(注114)
 ジノヴィエフはその翌日に、この問題に関してソヴェト大会に向けて書き送った。
 彼は、こう述べた。村落のソヴェトを都市のソヴェトに似ているものに、すなわち「社会主義の建設」の機関になるように再形成するのが、貧民委員会の任務だ。
 このためには、中央執行委員会が決定する規則にもとづく、国土全般にわたる村落ソヴェトの「再選挙」が必要だった(注115)。
 この規則は、12月2日に発表された。
 そこでは、村落ソヴェトは「社会主義革命」が田園地帯に到達する前に選出されているがゆえに、「クラク」によって支配され続けている、と述べられた。
 今や必要になったのは、村落ソヴェトを都市ソヴェトと「完全に調和する」ようにさせることだった。
 村落およびvolost’ レベルでの全国土的再選挙は、貧民委員会の監督のもとで行なうこととされていた。
 新しい村落ソヴェトが適切な「階級的」性格をもつのを確保するため、州の都市ソヴェトの執行部は、選挙を監督し、必要な場合には、望ましくない者を排除することになる(脚注1)
 クラクおよびその他の投機者や搾取者は、選挙権がないものとされた。
 国家の全ての権力はソヴェトに帰属するとの1918年憲法の条項を無視して、布令は、新たに選出された村落ソヴェトの「主要な任務」は「ソヴェトの権威のうちの対応する上級機関の全ての決定を実現すること」にある、と明言した。「ソヴェトの権威」とはすなわち、中央政府のことだ。
 村落ソヴェト自体の権威—帝制ロシア時代の<zemstva>のそれをモデルにした—は、各々の地域の「文化的、経済的水準」を高めることに限定されるとされた。統計資料を収集する、地方の工業を推進する、政府が穀物を獲得するのを助ける、といった手段によって。
 言い換えると、村落ソヴェトは、第一に官僚による決定の連絡者に、第二に民衆の生活条件の改善に責任をもつ機関に、改変されることになった。
 こうした使命が達成されるとすぐに、貧民委員会は解体されるともされた(脚注2)
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 (脚注1) これは、帝制時代の知事に付与された権限に似ている。この権限によって、「信頼性」という帝制の規準を満たすことのできない、選挙されたzemstvo の役人を排除することができた。
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 (脚注2) E. H. Carr(The Bolshevik Revolution, II, London, 1952, p.159)がこう述べるのは、したがって、誤りだ。貧民委員会は最初から過渡的な組織として意図されていたのだから、解散命令は貧民委員会の失敗を証明した、と。
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 (11) 1918-19年に実施されたvolost’ と村落のソヴェトの再選挙は、以前にボルシェヴィキが都市部で形成したやり方を、ほとんど踏襲していた(注117)。
 全ての執行部の職は、共産党員、「同調者」、「非党員」(partyless)に予め割当てられていた。
 農民が自分たちの候補者を頑なに選出し、さらに再選出したので、政府は望んだ結果が得られるように、方法を修正した。
 ほとんどの地域で、投票は公開で行われ(注118)、脅迫的な効果をもった。指示されたとおりに投票しない農民は、「クラク」との烙印を捺される危険があったからだ。
 共産党以外の政党は、参画が許されなかった。これは、「ソヴェトの権威の基盤に立つ」政党や党派だけが候補者を擁立することができる、と定める条項によって保障されていた。
 1918年憲法はソヴェトの選挙に参加できる政党については何も言及していない、との異議は、すげなく却下された(注119)。
 多くの地域で、共産党の細胞は、立候補した者全員の承認を強く主張した。
 こうした事前の警戒にもかかわらず、「クラク」その他の望ましくない者が、依然として執行的職を獲得することがあった。これはしばしば起きたと思われるのだが、そのような場合、共産党は、選挙を無効と宣言し、再選挙を命じる、という彼らが好んだ技巧に頼った。
 これは、望ましい結果が得られるまで、必要な回数だけ行なわれることがあった。
 あるソヴィエトの歴史家は、三回または四回あるいはそれ以上の「選挙」が連続して行なわれることは異例でなかった、と述べている(注120)。
 それでもなお、農民たちは「クラク」を選出しつづけた。「クラク」、すなわち非ボルシェヴィキや反ボルシェヴィキ。
 かくして、Samara 州では1919年に、新しいvolost’ ソヴェト構成員の40パーセントを下回らない数の者が「クラク」であことがあった(注121)。
 共産党はこのような不服従を終わらせるために、1919年12月27日、ペテログラード地域の党組織に対して、「承認された」候補者たちの単一名簿に村落ソヴェトを服従させることを指示する命令を発した(注122)。
 やがて他の地域へも拡大されたこの方法が実施されることによって、自治機関としての村落ソヴェトは終焉を迎えた。
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 第六節、終わり。

2907/法(法学)という「ものの考え方」004—「法」と「現実」①。

 この表題でもともと書こうと思っていたことの一つを書く。
 覚書のようなもので、特段の思い入れはない。
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  「法」というものに関する概説書に初めて接したとき、そこに書かれていたのは、現在でもたいていそうだと思うが、「法」は「規範」の一つであり、かつ「法」を含む「規範」と「現実」とは峻別されなければならない、ということだった。
 まだドイツ語を知らない頃のことだが、前者はsollen の世界、後者はsein の世界、というようなことも書かれていた。
 以下、かなりの程度、「法」規範と「現実」または「事実」の区別、というふうに単純化する。
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  この区別は「法学」分野に限らない、人間の諸活動全般にとって必要な区別で、半ば以上に<常識的>なことだろう。
 人間の精神活動の一環として種々の「〜しなければならない、〜すべきだ」という<意識>が生じることがあるが、そう<意識>したからと言って、その内容が「現実」になる、「現実」だ、とは言えない。
 「規範」という語の厳密な意味に関係するので概念設定に関する議論の余地はあるが、「現実」ではないものとして他に、「計画」、「構想」、「目標」といったものがある。これらが「現実」と区別されるべきものであることは論じるまでもないだろう。個人でも団体でも、私企業でも公共的団体でも、「計画」、「構想」、「目標」等はそれらの「現実」化を目指して策定・設定されるが、むろん「現実」そのものではない。
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   上の区別をふと思い出す、あるいは「意識」することがある。それは、典型的に言ってしまえば例えば西尾幹二等の「文芸評論家」的著述者の文章について、これは「現実」に関する自分の「認識」を書いているのか、「現実」とは関係ない自分の「見方」・「見解」あるいは「主張」・「願望」を書いているのか、判別し難いときだ。
 日本に「言霊」という言葉がある。それは、「言葉」によって何かを表明すれば、それは「現実」になる、あるいは「現実」そのものに変わる、という意識ないし考え方だろう。
 むろん明確に表明されているわけではないが、極論すれば、強く、熱狂的に「主張」すれば、それは<正しい>「認識」を示していることになる、といった「ものの考え方」にある程度は嵌まってている、または嵌まることがある、そういう人々がいるのではなかろうか。
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  種々の「学問」分野あるいは「精神活動」の分野がある。上に言葉だけ出した「文芸評論」において、あるいは「学問」の一つとされているらしき(狭義の)「文学」において、研究または評論の対象は「現実」ではない「文芸」・「文学」作品だ。
 したがって、これらは、「現実」をそもそも対象としていない。作品の背景等として間接的に関心の対象になることがある(いかに重要であっても)、というにすぎないだろう。
 したがってまた、これらの作業を評価する規準は「現実」適合性ではなく、どれだけ「うまく」書けているか、どれだけ「感動を与える」か、といったものにならざるを得ない、と考えられる。
 西尾幹二は文章に「人格」が現われる、と言い、「文章にキレがある」とか「文章が光を放っている」とか等々の側面を重視しているようだ。
 ある「文章」が「現実」の正しい「認識」を示しているか、「現実」の改変という「実践」に寄与しているか、といったことに西尾幹二は少なくとも大きな関心を持たなかったに違いない。
 何と言っても、西尾幹二にとって重要なのは「自己」であって、「現実」の認識や改変ではなかったからだ(これらに触れることはあっても)。
 ところで、ここで記しておいてしまうと、上の「文章が光を放っている」というのは、つぎの中に引用されている、古田博司のある文章に対する西尾幹二の「絶賛」の言葉だ。
 古田博司「追悼・西尾幹二氏」月刊WiLL2025年1月号
 ついでに、上の古田の文章の中に、つぎがある。全く偶然にだが「言霊」が出てくるので、また西尾幹二論にも関係することもあり、引用しておく。
 「でも、実際に話をしてみると、どうも会話がかみ合わない。言葉が通じないのです。だから、西尾さんと会話をするときは言霊(精神レベルの非線形言語)でするような印象でした。
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  上述のようなことから、「歴史(学)」や「哲学」はまだよいのだが、「狭義の文学」の「学問」性とか、研究の評価の「客観」性の程度について、私はどうもよく分からない。
 「発想」方法あるいは「ものの考え方」自体が、私には馴染めない(小説を読むのが嫌いなわけではないが)。西尾幹二の「取り巻き」にいた出版社の編集者たちの「発想」・「視点」そのものは、私とは大きく違うようだ。
 ふと思い出したが、再論は省略して、大江健三郎は、沖縄に関する本来はノン・フィクションの文章(『沖縄ノート』)の中に、「文学」的作業という「創作」を紛れ込ませたのではなかったか。
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 「歴史(学)」におけるsollen とsein の区別の問題も、興味深い主題だ。
 とり急ぐ。「歴史(学)」は本来は、<人文・社会・自然>全体を対象とする「総合的」学問だろう。
 だいぶ違う面があるかもしれないが、「医学」も、似たところがあると思われる。例えば「社会倫理」を無視できないし、全体として<社会>に関連する。
 これらと比べると、「法学」のうち憲法を含む実定法(・制定法)に関する「法解釈学」は、<ちまちま>とした、<技術的>なものだ。
 「法解釈学」の「学問」性は別論として、しかし、それでも、「法規範」と「現実」・「事実」の違いくらいは、初心者でも自然に理解できるだろう。
  奇妙な「妄想」と「現実」の混淆など、絶対に生じ得ない、と考えられる。
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 ある程度は予期したように、一回では終わらない。つづける。  
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2906/R.Pipes1990年著—第16章⑭。

 Richard Pipes, Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16勝・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会“①。
 (01) 既述のとおり、この貧民委員会が意図していたのは、敵の陣営内部で「第五列」〔潜在破壊者〕として機能することで、赤軍と調達派遣隊を助けるだろうと考えられた。
 レーニンは、最も窮乏した村落住民の経済的不満に乗っかって活動することで、彼らを富者に対抗して結集させ、そして、衝突させて、ボルシェヴィキの村落への政治的な侵入を可能にしようとした。
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 (02) レーニンの期待は、二つの理由で、失望に変わった。
 ロシアの村落の現実の構造は、彼が出発点に置いたものとは何ら似ていなかった。つまり、農民の四分の三は「貧民」だとする彼の認識は、全くの幻想だった。
 「土地のないプロレタリアート」という村落の貧民の中核部分は、中央ロシアでは村落人口の多くて4パーセントだった。残りの96パーセントは、「富者」が入り混じった「中層農民」だった。
 かくしてボルシェヴィキには、村落で階級を扇動する現実的な社会基盤が欠けていた。
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 (03) さらに悪いことに、その4パーセントですら、協力しようとしなかった。
 当局によりまたは外部地域の農民から威嚇された場合に、農民たちは仲間内で言い争うことも多かったが、彼らは団結を固めた。
 このような場合、富農、中農、貧農は、一つの家族になった。
 あるエスエルの言葉によると、こうだ。
 「食料派遣隊が村落に現われても、もちろん、食料を獲得しなかった。
 何を遂行するのか?
 彼らは、クラクから君たちの言う土地なき農民までからなる、統合前線を作り、都市部の村落に対する、見せかけだけの闘争を行なった。」(注106)
 無謀にも仲間の農民たちに反抗する情報屋になった農民は、体制側が約束した報償を得ることを期待していたのだが、社会的な死の、さらには肉体的な死すらの、証明書に自ら署名することになった。食料派遣隊が撤退した瞬間、そのような情報屋は、かりに殺されなくとも、地域共同体から追放された。
 このような状況では、「貧農」を「富農」に対する「容赦なき」階級戦争に駆り立てるという考えは、全く非現実的だった。
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 (04) レーニンはこうした事実を知らなかったか、政治的配慮を優先して無視することを選んだかのいずれかだった。
 Sverdlov が5月に認めたように、ボルシェヴィキ政府は田園地帯では弱く、「内戦を煽る」ことでのみその地方に徐々に浸透することができた。
 もともと都市部で発生したソヴェトは、農民のあいだでは人気がなかった。村落集会という、自治の伝統的な形態を模倣したものにすぎなかったからだ。
 1918年の夏、ほとんどの村落地域にはソヴェトがなかった。存在する地域では、エスエルの支持者である、率直な農民または村落知識人の指導のもとで、表面的にだけ機能していた。
 レーニンは、このような状態を変えようと決意した。
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 (05) 貧民委員会の表向きの目的は、食料派遣隊や赤軍部隊が隠蔵された穀物を発見するのを援助することだった。
 しかし、本当の使命は、信頼できる都市部の共産党員の指揮を受け、政府の諸指令に厳格に忠実に行動する、新しい村落ソヴェトの核として役立つことだった。
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 (06) Ispolkom(全国ソヴェトの執行委員会〔形式上はソヴナルコム=政府の上位機関—試訳者〕)は、5月20日に、この貧民委員会、あるいは<kombedy>の設立について討議し、6月11日、ロシア全土でのこれの設置を布令した(注107)。
 この議題がIspolkom の討議に付されたとき、メンシェヴィキと左翼エスエルからの激しい批判があった(注108)。これを、多数派のボルシェヴィキが抑えた。
 政府は、村落の貧民の「組織と食料供給に関する布令」を発した。この布令は、全てのvolost’ と大村落(selo)での、現存するソヴェトと並びかつソヴェトの監督を受ける、貧民委員会の設置について定めた。この委員会は地方農民と新しい移住者によって構成されるが、後者からは、「悪名高いクラク、富者」、穀物その他の産物の余剰を保有する家族の長、商業および工業用の施設の所有者、労働者を雇用する者、は排除された。
 委員会の任務は、赤軍部隊と調達派遣隊が隠蔵食料の場所を突き止め、それを没収するのを助けることだった。
 これらの協調を確保するため、kombedy 〔貧民委員会〕構成員には、6月15日まで無償で、その日以降は形だけの代償で、没収された隠蔵物の一部が分け前として約束された。
 komedy の一員であることの魅力をさらに高めるために、貧民委員会には、「村落ブルジョアジー」からその備品や在庫を没収し、自分たちのあいだで分ける権限が与えられた。
 こうして、村落の住民の一部は、他人を非難し、他人から奪い取るよう奨励された。
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 (07) 適用がある者にとっての結果は確実に膨大だとされていたけれども、布令の定めは曖昧だった。
 「悪名高いクラクと富者」とはいったい誰か?、それらは、余剰の穀物をもつ他の農民とどのようにして区別されるのか?
 どのような意味で、地方政府の任が与えられ、食料分配の責任をもつ地方ソヴェトに、貧民委員会は従属するのか?
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 (08) のちに判明したように、工業労働者が調達派遣隊に加入したがらなかったのと同様に、貧農は貧民委員会に入会する気がなかった。
 強い圧力をかけられたにもかかわらず、布令が発せられた三ヶ月あとの1918年9月の時点で、6村落のうち1つだけが、貧民委員会の成立を報告した。
 多くの州、とくにモスクワ、Pskov、Samara、Sinbirsk—大きな農業地域—には、一つもなかった(注109)。
 政府は貧民委員会設立のために巨額の金銭を計上しつづけたが、成功しなかった。
 村落ソヴェトが存在しないところでは、指令は、無視された。
 存在するところでは、ソヴェトは通常は貧民委員会を余計なものだと宣告し、代わりに、ソヴェト自身の「食料調達委員会」を設置した。このことで、政府の企図の目的全体が、挫折した。
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 ②へとつづく。

2905/R.Pipes1990年著—第16章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱③。
 (10) 調達派遣隊の残忍な行動があったにもかかわらず、僅かばかりの食料しか諸都市には供給されなかった。彼らがどうにかして調達した少量の食料は、隊員たちによって消費された。
 食料派遣隊が組織されて二ヶ月後の1918年7月24日、レーニンはスターリンに対して、食料はまだペテログラードにもモスクワにも届いていない、と伝えた(注96)。
 考えられ得る最も残忍な政策が大失敗を喫して、レーニンは、激怒の感情に陥った。
 収穫の時期が近づき、村落「前線」へ派遣された者たちが失敗を継続していたとき、レーニンはボルシェヴィキの司令官たちの優柔不断さを難詰し、さらに苛酷な復讐を行なうことを命令した。
 8月10日、彼はTsiurupa に電報でこう伝えた。
 「1. Saratov にはパンがあり、我々がそれを徴集することができないのは、酷い、気狂いじみた醜聞だ。…
 2. 布令案。全てのパン生産地区に、<富者>の中から25-30人の人質を取る。この人質たちは、<全ての>余剰の収集と配送について、<生命>でもって答える。」(注97)
 Tsiurupa は、こう答えた。「現実の力があって初めて、人質を取ることができる。そんな力は存在するのか? 疑わしい。」
 レーニンは、こう返答した。「私は人質を『取る』ことではなく、『指名する』ことを提案している」(注98)。
 これは、人質取りを行なうことに、最も早く言及したものだった。そして、4週間のちに、「赤色テロル」のもとで、大規模に実行されることになる。
 レーニンがこの野蛮な政策に真剣だったことは、農民反乱が進行中のPenza 州に対する彼の指示から、明白になる。
 「5つの地区での蜂起を弾圧するあいだ、全ての穀物の余剰を所有者から奪うために、全ての努力を傾注し、全ての措置を採用せよ。そうして、蜂起の弾圧と同時にこの目的を達成せよ。
 この目的達成のために、全ての地区で人質を指名(人身拘束をするのではなく指名)せよ。氏名を明確にして、クラク、富者、搾取者の中から。そして、この者たちに、指定された施設または穀物集積地点への徴集と配送について、および例外なく全ての穀物の余剰の当局への引渡しについて、責任を負わせるものとする。
 人質たちは、この引渡し物の正確で迅速な提供について、自分たちの生命でもって答えることができる。…」(注99)
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 (11) 1918年8月6日、レーニンは、「ブルジョアジー」の「反革命」部分に対する「容赦なき大量テロル」および飢えを「武器」として用いる「裏切り者の容赦なき根絶」に関する布令を発した。
 余剰の穀物の奪取に抵抗する全ての者は、「運び屋」を含めて、革命審判所へと送致するものとされた。また、かりに武装したままで逮捕されれば、その場所で射殺されるものとされた(注100)。
 レーニンは、憤怒の感情に魅せられたごとく、「クラク」からはその余剰穀物のみならず、翌年の収穫のために必要な穀物〔種〕も剥奪せよ、と命令した(注101)。
 彼のこの時期の演説や文書による指示は、農民の抵抗に対する怒りによって理性的に思考する力をなくしている、ということを示している。
 このことは、1918年8月の工業労働者に対する訴えによっても明確だ。その中で彼は、つぎのように、「最後の、決定的闘争」に立ち上がることを呼びかけた。
 「クラクは狂って、ソヴィエトの権威を嫌悪し、数十万の労働者を窒息させ、切り刻もうとしている。…
 クラクが無数の労働者を切り裂くか、労働者たちが、勤労者の権力に反抗する、民衆の中の不正な少数派の蜂起を容赦なく粉砕するか、のいずれかだ。
 ここには、中間の立場はあり得ない。…
 クラクは、最も野獣的で、最も粗暴で、最も苛酷な搾取者だ。…
 この吸血鬼たちは、戦争中に民衆の欠乏に乗っかって富を固めてきた。こいつらは、幾千万も蓄えてきた。…
 この蜘蛛野郎たちは、戦争で困窮した農民と飢えた労働者を犠牲にして太ってきた。
 この寄生虫は、勤労者の血を吸っており、都市や工場の労働者が飢えるほどに豊かになってきた。
 この吸血鬼たちは、地主の土地をその手に集めたし、集め続けている。そして、貧しい農民を繰り返して隷従させている。
 これらクラクに対する容赦なき戦争に決起せよ! クラクに死を!」(脚注)
 ある歴史家が適切に観察したように、「これはおそらく、近代国家の指導者が、民衆をジェノサイド〔集団虐殺〕と社会的に同義のものへと掻き立てた、最初の例だった」(注102)。
 攻撃的行動を自衛活動と偽装するのは、レーニンに特徴的なことだった。この場合には、「クラク」が肉体的に労働者階級を殲滅するという、完全に空想上の脅威に対する自己防衛だ。
 この問題に関するレーニンの狂信的考えには、際限がなかった。
 1919年12月に、彼はこう言った。「我々」は—この代名詞はこれ以上明確化されていないが、彼自身やその仲間たちを含んでいそうにない—、穀物の自由取引を許容すれば「すぐに死に絶えるだろう」(注103)。
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 (脚注) Lenin, PSS, XXXVII, p.39-41. ロベスピエールのつぎの言葉を参照せよ。「富農が執拗に民衆の血を吸いつづけるならば、我々は民衆自体を彼らに引き渡そう。裏切り者、陰謀者、不当利得者に対して正義を実行するのにあまりに多数の障壁があるならば、民衆に彼らを処断させよう。」Ralph Korngold, Robespierre and the Forth Estate(New York, 1941), p.251.
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 (12) 農民の抵抗に対処するため、ソヴナルコム〔人民委員会議〕は8月19日に、戦争人民委員のトロツキーに、民間人派遣隊を含めて、関係する全ての部隊に関する責任を委ねた。このときまでは、これらの部隊は供給人民委員部に従属していた(注104)。
 Tsiurupa はその翌日、食料徴発活動を軍事化する指令を発した。
 食料派遣隊は、州と軍事当局の司令下に置かれ、軍事紀律に服した。
 各派遣部隊は最少で75人の隊員と2または3の機関砲を有するものとされた。
 これらは、近傍の騎兵部隊との連絡を維持し、農民の抵抗の強さに応じて必要とあれば、複数の部隊は一つに合同されるべく編成変えするものとされた。
 正規の赤軍部隊に対してと同じく、これらの各部隊には政治委員が任命された。貧民委員会(the Committees of the Poor)を組織することは、この政治委員の責任だった。
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 第五節、終わり。

2904/R.Pipes1990年著—第16章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱②。
 (06) 1918年の後半に村落地域で起きた出来事については、つぎの当時の新聞紙の記事が代表的に示している。
 「調達派遣隊がOrel 州のGorodishchenskaia volost’ に着いたとき、女性たちは、引き渡すことをしないで、穀物を水の中に投げ込み、予期せぬ訪問者が去ったあとで、掬い上げた。
 同じ州のLavrov Volost’ では、農民たちが『赤色派遣隊』を武装解除した。
 Orel 州では、徴発が最も広い規模で実施された。
 通常の戦争のためのごとくに、準備がなされた。
 『ある地区では、パンの徴発のあいだ、個人の全自動車、乗用馬、馬車が動員された』。
 Nikolskaia Volost’ とその近傍では、通常の戦闘が起きる。両者の側に死傷者が出る。
 派遣隊は、Orel に弾薬と機関砲を送るよう電信で要請した。…
 Saratov 州から、『村落は警戒し始め、戦闘の用意をしている』との報告が入る。
 Volskii 地区のいくつかの村落は、三又鋤で赤軍兵団に抵抗し、兵団を解散させた。
 Tver 州では、『食料探索のために村落に送られたパルチザン派遣隊は、至るところで抵抗に遭遇した。多くの場所からこうした遭遇に関する報告が来ている。徴発から穀物を守るために、農民たちは森の中に隠れ、穀物を地中に埋めている。』
 Simbirsk 州のKorsun の市場では、穀物を徴発しようとしている赤軍と闘うために農民たちがやって来た。一人の赤軍兵士が殺害され、数人が負傷した。」(注89)
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 (07) 1919年1月、Izvestia は、Kostroma 州の一村落で蜂起している『白衛クラク』に関する政府による調査の報告を掲載した。これは、村落「ブルジョアジー」に対する攻撃が現実にどのようなものであったかを示している。
 この調査は、村落の〔ソヴェト〕執行委員会の議長が農民の請願者たちをいつも殴ったこと、ときには杖で叩いたことを、明らかにしていた。
 犠牲者たちの中には、靴を剥ぎ取られ、雪の中で座らされる者もいた。
 いわゆる食料徴発は、現実にはふつうの強盗だった。その過程で、農民たちは、コサック式鞭で懲らしめられた。
 ある村落に接近すると、食料派遣隊は農民を脅かすために機関砲を撃つ。
 そして、闘争が始まることになる。
 「農民たちは、打撃から身を守るために5枚かそれ以上のシャツを着なければならなかった。だが、笞には鉄線が入っているので、それは大して役立たない。鞭打ちのあと、シャツが肌にくっつき、乾いた。それで、その部分を温水に浸してほどく必要があった。」
 派遣隊員は兵士たちに、「ソヴィエトの権威を忘れないようにさせるために」、手にする何でも持って殴打するよう命じた」(注90)。
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 (08) 政府がその軍事行動作戦を進ませるにつれて、田園地帯での反乱は大きくなった。
 これは、ロシアの歴史上、先例のないことだった。Razin の反乱やPugachev の反乱のような従前の蜂起は、地域的な事件で、東部や南東部の国境地域に限定されていたからだ。
 ロシアの中心地域では、今のような反乱はかつて一切起きなかった。
 1918年の夏に勃発したボルシェヴィキに対する農村の抵抗は、地域的な範囲と関与した人数のいずれについても、かつて発生した最大の農民反乱をはるかに上回るものだった(脚注1)
 しかしながら、その経緯は、依然として不完全にしか知られていない。ソヴィエトの文書類を所管する当局が重要な書類の公開を拒否しており、また、西側の研究者たちにこの主題についての不可解な関心のなさがあるがゆえにだ(脚注2)
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 (脚注1) ある学生は、この問題に関して、関与者の数と与えられた脅威から見て、内部的前線での対農民のボルシェヴィキの戦争の大きさは、前線での白軍との内戦をはるかに凌駕した、という説得的な主張を行なっている。Vladimir Brovkin, 「内部戦線について—ボルシェヴィキと緑党」.
スラヴ研究の前進のためのアメリカ協会の第20回全国大会で発表された論文。1988年11月、p.1.
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 (脚注2) 労働者と農民のいずれによるのであれ、「騒擾」に関する情報は検閲され、公表する新聞紙はしばしば罰金刑を受け、停刊させられたりした。1919年の初めまでに、全てのこのような情報は軍部の検閲によって排除された。軍部の検閲は、発行がまだ許容されていた一握りの非ボルシェヴィキ新聞から定期的に削除した。DN, No. 2(1919年3月21日), p.1.
 この主題に関する唯一の学問的論文集は、Mikhail Frenkin, Tragediia krest’ianskikh vosstanii v Rossi 1918-1921 gg.(Jerusalem, 1988)だ。1918-19年の蜂起は、この書物の第四章、p.73-p.111で扱われている。
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 チェカの報告によると、1918年に245件の村落「蜂起」(vosstaniia)があり、これらにより875人のボルシェヴィキと1821人の反乱者の生命が奪われた。
 加えて、2431人の反乱者が、処刑された(注91)。
 しかし、こうした数字は、被害者数の一部だけを、おそらくはチェカ自身の人員によって犠牲になった者たちの数だけを反映できるだろう。
 共産党員の歴史研究者の最近の成果は、こう述べる。1918年の7月と9月の間だけの不完全な数字資料から判断すると、22の州で、およそ1万5000人のソヴィエト「支持者」(storonniki)が殺された。この語が意味するのは、赤軍兵士、調達派遣隊員、共産党の役人たちだ(注92)。
 Chelyabinsk の共産党のある歴史書は、機関銃の周りでポーズをとる300人の赤軍分隊の一枚の写真を掲載している。
 説明書きによると、一人の生存者を除く全隊員が、「クラクの蜂起」によって殺戮された(注93)。
 他の地方や州でも、両者の側に同様の被害が発生したに違いないのは、明らかだろう(注94)。
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 (09) 1918-19年の反共産党農民蜂起は、経緯が概略すら知られていないのだが、最後には鎮圧された。
 農民反乱者たちは多くの点で政府の武力に優っていたけれども、射撃力の不足、とりわけ組織化のなさ、という点で劣っていた。それぞれの蜂起は自然発生的で、かつ局所的だったのだ(注95)。
 エスエルは、村落では支配的役割を果たしていたが、農民たちを組織するのを拒んだ。ほとんど確実に、白軍の手中に入って行動することの恐れからだった。
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 ③へつづく。

2903/R.Pipes1990年著—第16章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱①。
 (01) 前年の冬以来、ときには赤衛隊に組み入れられた武装部隊が、食料を求めて村落を襲撃してきていた。
 彼らは通常は、農民たちの激しい抵抗に遭った。農民たちを強力にしていたのは、武器をもって前線から故郷に帰還した兵士たちだった。ふつうは手ぶらで戻っていたのだが(注75)。
 レーニンは1918年1月に、各々10-15人の労働者がおり、厄介な農民を射殺する権限をもつ「数千の食料調達派遣隊」の結成を提案していた。だがこれは、支持を得られなかった(注76)。
 ボルシェヴィキが村落へのテロル行使部隊の体系的組織化へと進んだのは、ようやく1918年春になってからだった。
 最初の措置は、レーニンの署名付きで5月21日に発せられた、ペテログラードの労働者に対する訴えだった(注77)。
 その他の訴えや指示が、これにつづいた。
 実力を用いて食料を奪い取るという考えは、明らかに<armee revolutionnaire>を範としていた。これは、フランスの公安委員会がその最初の措置として 1793年6月に作ったもので、生産物の隠蔵を禁止する法令が伴なっていた。
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 (02) ロシアの労働者はこのような手段を好まなかった。
 彼らは、<burzhui>または地主に対して動員されることがあり得た。地主と労働者のあいだには超え難い文化的な懸隔があった。
 しかし、彼らの多くが生まれて、親戚がなお住んでいる村落に対しては、そうでなかった。
 彼らは、農民たちには階級的悪意を何ら感じなかった。レーニンやその支持者たちが責任があるとした、比較的に良い暮らしの農民に対してすら。
 ペテログラードの労働者たちにかなりの支持を得ていた左翼エスエルは、労働者と農民の間に階級的憎悪を焚きつけるボルシェヴィキの措置に、異議を唱えた。
 左翼エスエルの中央委員会は実際に、その党員たちに、食料派遣隊に応募するのを禁止した。
 ジノヴィエフは、志願者たちを寛容に誘いはしたが、5月の布令を実施するときには、相当の困難に陥った。
 彼は5月24日に、派遣隊は食料を求めて2日以内に出発すると発表したが、ほとんど誰も集まってこなかった。
 労働者全権委員団で組織されたペテログラードの工場委員会の集会は、この手段に反対する決議を採択した(注78)。
 ジノヴィエフは5日後に訴えを繰り返し、食料派遣隊を「ブルジョアジー」の脅威と結びつけた。
 「我々は、彼らがパンの匂いを忘れないように、一日当たり16分の1ポンドを与えるべきだ。
 だが、我々が麦藁粉を食べなければならないとしたら、それをまず最初にブルジョアジーに与えるべきだ。」(注79)
 労働者たちは動かず、ボルシェヴィキ知識人には全く欠けている常識的感覚をもって、穀物の取引を自由化することで食料不足を解決することを主張した。
 しかしながら、そのうちに、ジノヴィエフは脅威と報奨を結びつけて、何とか若干の食料派遣隊を組織することができた。その第一号の400人の兵団は、6月に田園地帯へと出発した(注80)。
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 (03) 食料派遣隊は、失望させた。
 善意の労働者たちはとどまったので、入隊した者たちの多数は、略奪するために村落へ行く都市のごろつきだった。
 このような結果への不満を、レーニンはすぐに受け取った(注81)。
 最初の調達派遣隊が村落に姿を現した後にすぐに、彼は、工業界の労働者に対して、つぎの挨拶文を送った。
 「私は、Vyksa の同志労働者たちが、本当の革命家として機関銃をもって、食料を求める大きな運動に着手するという立派な計画を実行することを、期待する。
 すなわち、飢えている全員を飢餓から救うという共通の任務のために、かつ自分たち自身のためだけではなく、Tsiurupa に完全に同意して、指示に従って活動する、えり抜きの、信頼できる、略奪しはしない者たちが派遣隊に配置されることを、望んでいる。」(注82)
 農民の不満から判断すると、つぎのことがふつうの現象だった。つまり、都市部から来た武装兵団は、盗んだ生産物の上に乗り込み、徴発した密造酒で酔っ払っている(注83)。
 厳しい制裁を受ける怖れがあったにもかかわらず、このような振舞いは継続したので、最後に政府は、食料派遣隊の隊員に、20ポンドまでの食料を個人のために使うことを、許さなければならなかった。これには、最大限2ポンドのバター、10ポンドのパン、5ポンドの肉が追加して含まれていた(注84)。
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 (04) しかし、制裁による威嚇も、自分のための使用の容認も、機能しなかった。そして、やがて体制は、新しく設立する赤軍に目を向けなければならなかった。
 ソヴィエト・ロシアに強制的軍役を導入する、1918年5月29日の布令が、食料派遣隊の設立と同時だったことは、決して偶然ではない。
 5月26日に案が作成され、翌日に中央委員会によって承認されたレーニンによる指令があった。これは、新しく構成された赤軍の最も早い任務はロシアの農民に対する戦争を繰り広げることであることを、示した。
 「1. 戦争人民委員部は、軍事的供給人民委員部へと改変される。—すなわち、戦争人民委員部の活動の十分の九は、軍が食料を求めることに適合させることに集中すること、および三ヶ月間この戦争を指揮することだ。
 2. 同じ期間、全国土に戒厳令を敷く。
 3. 軍を動員する。健全な分隊を選抜する。少なくとも一定の同じ地域の19歳の者たちを、収穫物を獲得し食料と燃料を集める体系的作戦に就かせる。
 4. 紀律の欠如に対して、死刑を導入する。/…
 9. 調達派遣隊全体について、集団的責任制、および10回の略奪事件ごとの処刑の威嚇を、導入する。」(注85)
 赤軍全体が農民層との闘いに割当てられるのを妨げたのは、チェコ人の反乱だけだった。
 そうであっても、赤軍は、この軍事作戦についてかなりの役割を果たした。
 赤軍が形成されていたとき、トロツキーは、次の二、三ヶ月のその任務は、「飢餓と闘う」ことだろう、と表明した(注86)。これは、「農民と闘う」ということの微妙な表現だった。
 この軍事作戦には褒章は発行されなかったけれども、<muzhik>に対する戦争は、赤軍にとって最初の戦闘体験を与えた。
 最終的には、全国家的な食料調達の闘いで、7万5000人の常備軍〔赤軍〕兵士が、5万人の武装民間人に加わった(注87)。
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 (05) 農民は、力には力で対抗した。
 当時の新聞紙は、政府と農民のあいだの戦闘に関する記事で充ちている。
 村落を行進する軍人および民間人部隊の司令官たちは、「クラクの蜂起」を定期的に報告した。しかし、証拠資料が明確にしているのは、彼らが
遭遇した抵抗は、「富農」のみならず村落農民全体を含む農民層の、自分たちの財産についての自発的な防衛活動だった、ということだ。
 「慎重に検討すればするほど、いわゆるクラクの反乱は、ほとんどつねに一般農民の蜂起だったように思われる。そこにはいかなる階級の区別も見出され得ない。」(注88)
 農民層は都市部での必要物の少なさを気にしておらず、「階級分化」について何も知らなかった。
 農民たちが見たのは、都市部からの武装部隊だった。その構成員は、しばしば、皮ジャケットか何かの軍服かを着た元の農民で、自分たちの穀物を奪うためにやって来ていた。
 彼ら農民たちは、農奴制のもとですら自分たちの収穫物を引き渡すことを強いられなかった。そして今も、そうするつもりがなかった。
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 ②へとつづく。

2902/R.Pipes1990年著—第16章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月②。
 (07) エンゲルスはこう言った。貧しく土地をもたない村落プロレタリアートは、一定の条件のもとで、工業労働者階級の同盟者になり得る。
 レーニンは、この考え方を採用した(注65)。
 この前提を今、用いようとした。
 1918年8月、彼は、ロシアの村落の階級構造について、恐ろしい結末となる統計に大まかに取り組んだ。
 レーニンは、こう言った。
 「強奪者が我々からウクライナなどを引き離す前に、従前のロシアを考慮するとロシアにはおよそ1500万の農民がいる、と認めよう。
 この1500万のうち、約1000万人は確実に貧農だ。そして、彼らの労働力を売るか富農に隷属するかして生きているか、それとも、l余剰の穀物をもたず、とくに戦争の負担で破滅してきたかのいずれかだ。
 約300万は、中農として計算されなければならない。
 そして、ほとんど200万を超えないのが、クラク、富者、パン投機者だ。」(注66)
 これらの数字は、現実とは少しの関係もなかった。レーニンが革命前にロシアの村落の「階級分化」に関して行なった計算を、概数で繰り返したものにすぎなかった。
 1899年に彼は、富農、中農、貧農の割合を2—2—4と計算していた。
 1907年には、農民世帯の80.8パーセントが「貧農」、7.7パーセントが「中農」、11.5パーセントは裕福(well-to-do)だ、と結論づけた(注67)。
 レーニンの最も新しい数字は、農業革命の結果として貧農と富農の数は減少した、という事実を無視していた。
 彼は半年後には農民の三分の二は「貧農」だと宣告し、中層農民は「最も強力な勢力」だと叙述した(注68)。
 明らかに、彼の数字は統計上のものではなく、エンゲルスに由来する政治的スローガンだった。エンゲルスは1870年に、ドイツについて、「農業労働者は田園地方での最多数の階級を形成している」と述べた(注69)。
 このような一般化が19世紀後半のドイツについていかに有効であろうとも、1917年以降のロシアについては何の意味もなかった。ロシアでは、「田園地方での最多数の階級」は、自己雇用の中層農民だった。
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 (08) ロシアの村落での「階級分化」が吹聴されたが、それは、統計上の抽象概念から情報を得た都市部の知識人の想像力による幻想だった。
 村落の資本主義をどのようにして明確にしたのか?
 レーニンによると、農業における資本主義の主要な兆候でありそれを指し示すものは、被雇用労働だった(注70)。
 だが、1917年の農業統計によれば、情報が利用された19の地方では、ほとんど500万の農業世帯のうち10万3000だけが労働者を雇用していた。これは、村落の「資本主義者」の割合は2パーセントに等しいことを示している。
 しかし、この数字ですら、この10万3000世帯が総計で12万9000人の労働者、つまり世帯当たり1人以上を雇用していたことを考慮すると、重要性を失う(注71)。
 この労働者たちは、世帯のうちの誰かが病気になったり軍に徴兵されたりしたのが理由で、雇用されたのかもしれない。
 いずれにせよ、農業世帯の2パーセントだけは平均して一人を雇用していたので、これを最大限に拡張したとすれば、ロシア村落への「資本主義」の浸透を語ることができるだろう。ましてや、200万人のクラクが1000万人の「貧農」を雇用していたと主張することはできる。
 別の基準を用いて—村落共同体の土地に行けなかったので—、共産党員統計学者は、村落人口の4パーセント以下が「貧民」だと決定した(注72)。
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 (09) レーニンは、こうした経験的証拠資料を無視した。そして、都市と村落の間の「階級戦争」を開始すると決めた。その際に、村落地帯を侵攻する口実とするために、村落の社会経済的状態について、現実離れした構図を描いた。
 村落で誰が「ブルジョア」かを決定する彼の本当の規準は、経済的でななく政治的なものだった。彼の目からすると、全ての反ボルシェヴィキの農民はクラクと性格づけられた。
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 (10) ボルシェヴィキが1918年の5月と6月に発布した農業布令は。四つの目的をもっていた。
 1. 政治的に積極的な農民を破壊すること。エスエルに忠実な農民のほとんどに「クラク」というラベルを貼ることによって。
 2. 村落共同体の土地保有を切り崩して、国家が運営する集団農業の基礎を築くこと。
 3. エスエルを排除して村落ソヴェトを改造し、都市のボルシェヴィキや非党員支持者と交替させること。
 4. 都市と工業中心地のために食料を徴発すること。
 食料を集めることは、政府のプロパガンダで最大の重要性をもった。しかし、ボルシェヴィキの計画では優先順は最後だった。煙が晴れてみると、農民からの食料徴発の量は、瑣末な問題だった。政治的な効果が、別の重要性をもった。
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 (11) 村落に対する軍事力を伴う攻撃は、軍事作戦と同じく正確さと残虐さをもって行なわれた。
 主要な戦略的決定は、ソヴナルコム〔人民委員会議〕の是認を5月8-9日に得た。これはおそらく、その前に、ボルシェヴィキの中央委員会で票決されていた。
 ソヴナルコムは、穀物の国家独占を再確認した。
 供給人民委員であるTsiurupa は、5月13日の布令の諸条項を実施する臨時の権限を得た(中73)。この布令は、全農民に、固定価格の支払いに応じて余剰穀物を指定された集積地点へと運ぶよう、要求した。
 これをしないで余剰を隠蔵したり、密造酒を作るために用いたりした農民たちは、「人民の敵」だと宣告された。
 レーニンは大衆に対して、「農民ブルジョアジーに対する容赦なきテロル戦争」を展開することを呼びかけた(注74)。
 この軍事作戦行動は、「クラク」に対する二方向の攻撃として構想された。内部からは貧民委員会(<kombedy>)へと組織された貧農で構成される第五列(潜在破壊者)による、そして外部からは、村落を行進して、クラクに銃を突きつけて隠蔵物を強制的に吐き出させる武装労働者で成る「食料派遣隊」(prodovol’stvennye otriady)による攻撃として。
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 (12) 5月13日の布令の前文は、戦争で富裕さを増やし、投機的価格で闇市場で食料を処理することができるように政府に売ることを拒んでいる、と非難した。
 主張された富農の狙いは、穀物取引における国家独占の放棄を政府に強いる、ということだった。
 布令はさらに言う。かりに政府がこの脅迫に屈服するならば、供給と需要の関係を無視して、パンの価格は急上昇し、食料は完全に労働者の手に届かなくなる。
 村落の「クラク」の「頑強さ」を破壊しなければならない。「次の収穫時まで、種を撒いたり家庭が食べたりするのに必要な穀物を除いては、1 pud の穀物であれ、農民に残してはならない」。
 穀物を奪い去る方法については、詳しい手続が案出された。
 全農民は例外なく、布令から一週間以内に余剰の穀物全部を運び込むこととされた。
 これをしない者は、革命審判所に送られるものとされていた。審判所で農民たちは、10年以上の刑、全財産の没収、村落共同体からの追放といった制裁を受ける危険に晒された。
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 第四節、終わり。

2901/藤岡信勝と日本共産党。

  兵庫県・斎藤元彦問題に関心をもつ人の中には同程度に「日本保守党」にも関心をもつ人がいるようで、後者に関するものの一つを読んでいると、「藤岡信勝会長」という言葉が出てきた。
 日本保守党(2023.10〜)に大きな関心はなかった。最初は自民党全体よりも「右」からある程度集票する党として期待する者もいたはずだ。最近は「内紛」に陥っているらしい(詳細に関心はないので、正確さを欠く)。
 きっとその「内紛」に関連しているのだろう、藤岡は「日本保守党の言論弾圧から被害者を守る会」の会長であるらしい。
 この会は、厳密さを欠くまま書くと、2025年4月1日に発足したようだ。
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 中身を読んでいないのだが(こんな言い訳ばかりだ)、月刊正論等の「保守」系有力月刊雑誌は、「保守」を謳う政党ではなく、藤岡信勝等々の側に立っているようだ。
 <やれやれ>という気もする。
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  西尾幹二逝去をうけて藤岡は、「西尾幹二氏の教科書への思い」と題する文章を書いた。産経新聞2024年11月18日付。<つくる会>のOffial Web にも掲載。
 「新しい歴史教科書をつくる会」のでき方、西尾と藤岡の結びつき方には関心があった。西尾・全集17巻/歴史教科書問題(2018年)ではよく分からなかった、と思う。
 上の藤岡の文章によると、こうだ。
 1996年1月、西尾と初めて逢う。明記はないが、西尾が自分の主宰する会に藤岡を講師として呼んだように読める。藤岡ら「自由主義主義史観研究会」による産経新聞紙上の連載が同月に始まっていた。
 同年の検定結果で、全教科書に「強制連行」による「従軍慰安婦」の記載があると分かった。「私は許せなかった」。
 藤岡によると、「全教科書に嘘が書かれているなら、…自分達でつくるほかはないではないか。歴史教科書問題は、こうして始まったのである」。
 以下、時期に関する記述はない。
 高橋史朗と(たぶん新教科書について)相談した。「高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し」、三人で会合した。西尾(のたぶん主導・示唆・提案)により、「坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした」。
 「こうしてこの四人で幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった」。
 以上。のち、1996年12月に、会設立の記者会見。翌1997年1月正式発足
 これによると、第一に、高橋は上記の西尾主宰の「会」の一員だったからこそ藤岡は相談したとみられることを含めて、中心的・核的な人間群の形成について、西尾幹二の影響力は大きかった。
 第二に、西尾が10年余後に<つくる会>について、「<反共>だけでなく<反米>を唱えた運動だった」旨を書いたのは(全集7巻p.711-2参照)、おそらく「大ウソ」だったことも分かるだろう。
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  藤岡信勝には、期待していることがある。
 藤岡信勝(1943〜)は、Wikipedia によると、1963年に日本共産党入党。その後、1991年のアメリカに留学。「司馬遼太郎の著作や渡米経験を通じて…を感じた」。「帰国後に保守派に転向した」。
 ところで、同じくWikipedia による「新しい歴史教科書をつくる会」の項は「日本共産党員だった藤岡信勝が…」から始まる。
 先の「保守派に転向」という「転向」という語の用い方も「優しく」ないが、上の元共産党員が作ったという説明の仕方も、おそらくは(「左翼」ではなく)「日本会議系」の分裂後の反「つくる会」派の執筆者によると推察される(かつてはもっと露骨に批判的・揶揄的だった)。
 なお、「元共産党員」に注目するのは、本当は的外れだ。共産党から離れて「まとも」になった者を「元」を理由に揶揄する、批判的に見る(そう感じさせようとする)のは、心が健やかではない。
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 元に戻る。20歳(入党要件)に日本共産党員となった藤岡が、マルクス主義・共産主義、あるいはマルクスとレーニン、日本共産党の綱領類とその「理論」に詳しくなかったはずはないだろう。
 それがなぜ、「司馬遼太郎の著作や渡米経験」(上記)で日本共産党を離党することになったのか。30年間近くの「党員」生活は、藤岡にとって、いったい何だったのか
 <つくる会>の歴史教科書は一度検定不合格だったことがあり、また約20年あいだで最大の採択率は1.1パーセントにすぎない(2009年。同会Web による)。分裂後のもう一つの教育再生機構系教科書と合計しても、一回なりとも3パーセントを超えていないだろう。
 華々しかった「記者会見」後の約30年後にある、この凄まじい、無様で惨めな現状をどう総括するかも、長いあいだ幹部だった藤岡が行なっておくべき仕事だろう。余計ながら、<方針は正しかったが、力不足でした>という日本共産党が繰り返す総括で済ませることができるはずはない。
 さらに、上のこと以上に、「日本保守党」との闘いにエネルギーを注ぐくらいなら、なぜ、日本共産党を離党したのかを、離党決意後の経緯を含めて、詳細に記述して、後世に残していただきたいものだ。
 1991年の夏から冬、ソ連共産党が解体し、かつソヴィエト連邦も消滅した(この二つは全く別の次元の問題だ)。
 このことの影響が大きかった、と推察することはできる。日本共産党・宮本顕治がこの頃突然に丸山真男批判を開始したのは、離党または党に抵抗しようとする「知識人」に対する<見せしめ>の意味が、少しはあったのではなかろうか。
 だが上のことはきっかけで、突如ソ連は社会主義国でなかったとか主張し始めた党中央(不破哲三にほぼ等しい)に対する不満があったかもしれない。日本共産党の歴史観、とくに日本の歴史の捉え方に疑問をもったのかもしれない。マルクス主義そのものの(当時の党文献が伝えるかぎりでの)に種々の点で幻滅したのかもしれない。司馬遼太郎の歴史・日本史「観」も影響を与えたらしくある。
 日本共産党を離党した者(除名を含む)の書物をある程度は所持しているが、個人的エピソードは分かっても、日本共産党の理論と政策を批判的に立ち入って論じているものは少ない、と感じられる。
 「日本保守党」とのあいだの(私には、あるいは歴史的に見ても)瑣末な問題にかかわるよりも、のちに「保守運動」の有力者の一人になった者が、かつて、なぜ日本共産党を捨てたのかを詳細に語っておくことの方が、歴史的にも、日本の「保守」のためにもはるかに有意義であるのではないか。
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2900/R.Pipes1990年著—第16章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月①。
 (01) Sverdlov は、1918年5月20日に、新しい政策を発表した。
 「革命的ソヴィエトの権威が都市部で十分に強いと言えるとしても、…同じことは村落については言うことができない。…
 この理由で、我々は、村落を分裂させるという問題、村落に二つの対照的で敵対的な勢力を作り出すという問題に、最大限に真剣に、立ち向かわなければならない。…
 村落を二つの回帰不能の敵対的陣営に分裂させることに成功すれば、最近まで都市部で起きていたのと同じ内戦を村落で燃え上がらせることができれば、…その場合にのみ、我々は、都市部でできていたものを村落との関係でも行なうことができる、と言えるようになるだろう。」(注57)
 この異常な声明は、つぎを意味した。ボルシェヴィキは、隣り合って平穏に過ごしている農民のあいだに内戦を解き放つことによって、村落にこれまでは存在しなかった権力基盤を獲得するために、村落住民の一部が別の部分に対抗するよう誘い込むことを決定したのだ。
 この軍事作戦のために指定された攻撃兵団は、都市労働者および貧しく土地を持たない農民で構成されるとされた。「敵」は、富裕な農民、あるいはクラク、村落「ブルジョアジー」だった。
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 (02) レーニンは、ヒトラーのユダヤ人への憎悪と完全に等しい破壊的な感情でもって、彼が「ブルジョアジー」と感知するものを憎悪した。肉体的に消滅させれば、レーニンはきっと満足しただろう。
 都市部の中間層—職業人、金融業者、貿易商人、実業家、年金生活者—は、レーニンをほとんど煩わせなかった。彼らはすぐに従ったからだ。彼らは、東に行くほどブルジョアジーは無関心になるという、1898年のロシア社会民主党の創設綱領の命題の正しさを証明していた。
 彼らは、雪を掻くよう言われれば、雪を掻いた。写真のためにポーズをとるときでも、弱々しく微笑んだ。
 「寄付」が求められれば、忠実に支払った。
 彼らは意識的に、反ボルシェヴィキ軍隊や地下組織との接触を避けた。
 彼らのほとんどは、奇跡が起こることを望んでいた。おそらくは、ドイツの介入、あるいはおそらくは、ボルシェヴィキの政策が「現実主義」へといっそう向かうこと。
 そのうちに、彼らの本能は、身を隠すよう告げた。
 1918年春に、ボルシェヴィキが生産性を高める努力の一つとして、彼らを工業企業に再雇用し始めたとき、彼らの希望は高まった。
 <prauda>が述べたように、このような「ブルジョアジー」を恐れる必要は何もなかった(注58)。
 同じことは、ボルシェヴィキが「プチ・ブルジョア」と呼んだ社会主義知識人についても言えた。彼らもまた、自分たちの理由で、抵抗するのを拒んだ。
 彼らはボルシェヴィキを批判したが、闘う機会が提示されるといつも、別の方向を向いた。
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 (03) 状況は、村落地域によって異なっていた。
 西側の基準では、ロシアにはもちろん「村落ブルジョアジー」がおらず、数ヘクタールの追加の土地、追加の馬または牛、いくばくかの現金および臨時の労役提供のおかげで、僅かに暮らしが良い農民という階級だけがあった。
 しかし、レーニンは、ロシアの村落での「階級分化」というイメージに取り憑かれていた。
 彼は若いときに<zemstvo>の統計を研究し、種々の村落世界の経済的状況の僅かな変化に注目した。
 いかに些細であれ、富裕な農民と貧困な農民の間の分岐が大きくなっていることを示す統計資料は、彼にとっては、革命が利用することができる社会的紛争の潜在的にあることを示すものだった(注59)。
 村落に浸透するために、彼は、村落地域で内戦を起こさなければならなかった。そうするためには、階級敵が必要だった。
 その目的のために、「プロレタリアート」を破壊しようとしている、強力で多数の「反革命的」なクラクという階級を、彼は作り出した。
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 (04) 困惑することに、ヒトラーはユダヤ人か否かを決定する血統上の(「人種」的な)標識を作ることができただろうが、レーニンにはクラクを明確に区別する規準がなかった。
 クラクという術語には、厳密な社会的または経済的な内容がなかった。実際に、革命時代を村落で過ごしたある観察者は、農民たち自体がこの用語を用いない、ということを知った(注60)。
 この言葉は1860年代にロシア語の語彙の中に入ってきた。当時はその言葉は、経済的範疇ではなく、個性によって村落共同体の多数の農民から傑出している農民の一類型を指し示していた。クラクという語は、アメリカ人の俗語では「やり手」(go-getter)と呼ばれる者たちを表現するために用いられた。
 このような農民が村落集会や<volost’>の法廷を支配する傾向にあった。
 彼らはときには金貸しとして行動したが、これは、彼らの明確な属性ではなかった。
 理想的な完全に平等な社会に夢中になった19世紀遅くの急進的な文筆家や小説家は、クラクという語を、村落の搾取者という悪い名称として用いた。
 しかし、仲間の農民たちがこの語が当てはまる者たちを敵意をもって扱った、という証拠資料は存在しない(注61)。
 実際に、1870年代に「人民へ」と向かった急進的な煽動者たちは、全ての農民がクラクになることを心の奥底から切望していることを、発見した。
 ゆえに、1917年の以前も以後も、何らかの客観的基準を使って中間農民をクラクと区別するのは不可能だった。—誠実である瞬間には、レーニンも認めざるを得ない事実(注62)。
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 (05)  「クラク」という術語に厳密で有効な意味を与えることがいかに困難であるかは、ボルシェヴィキが村落地域で階級戦争を開始しようとしたときに、明確になった。
 クラクに抗して「貧困な」農民を組織する任務を与えられた人民委員たちには、これはほとんど不可能な仕事だった。なぜなら、彼らが接触すべく入った村落共同体には、この概念に対応する農民がいなかったからだ。
 そのような官僚の一人は、Samara 地方では農民の40パーセントがクラクだ、と結論づけた(注63)。
 一方、Veronezh 地方のボルシェヴィキ官僚は政府に対して、「民衆の多数を占めているために、クラクや富裕者たちに対する闘争を展開するのは不可能だ、と報告した(注64)。
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 (06) しかし、レーニンは、村落の階級敵を作らなければならなかった。村落がボルシェヴィキによる支配の外にあり、かつエスエルの支配下にあるかぎりは、都市部でのボルシェヴィキの政治基盤は、きわめて脆弱だった。
 農民たちは、固定価格で食料を譲り渡すのを拒んだ。このことは、都市部の民衆を農民層に対抗して結集させる機会を、レーニンに与えた。表向きは食料を引き出させるための、しかし実際には、農民層を屈服させるための好機を。
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 ②へとつづく。

2899/R.Pipes1990年著—第16章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓④。
 (16) ボルシェヴィキの中には、このような方法を支持する者もいた。
 国家計画委員会の長のRykov は、強制的な穀物配送と、村落協同組合や私的企業との協力を結び付けることを主張した(注46)。
 別の者たちは、政府が市場価格に近い価格(最低で1pud 60ルーブル)で購入し、国民に割引して販売することを提案した。
 しかし、これら全ては、政治的理由で、却下された。
 メンシェヴィキの<Socialist Coulier>が説明することになるように(注48)、穀物の国家独占は、共産主義者独裁が生き残るには必要不可欠だった。ボルシェヴィキは大量の村落労働者を統制外に置いていたので、穀物生産を支配することに頼らざるを得なかった。
 実際に、この資料によると、1921年の初めまでにボルシェヴィキは、農民を国家の被用者にするというOsinsky の提案について、討議していた。この国家被用者は、あらかじめ当局が決めた土地に種を播き、余剰の全てを国家に引き渡す、という条件のもとでのみ土地の耕作が認められることになる。
 但し、この提案は、Kronstadt 暴乱の発生と新経済政策の採用によって、棚上げされざるを得なかった。
 かりに穀物の取引が自由になっていれば、農民はすぐに富を蓄積し、より大きい経済的自立性を獲得し、かつ深刻な「反革命」の脅威を示していただろう。
 このような危険性を含む措置は、体制が疑いなくロシアを征圧したあとでのみ採られることができた。
 レーニンの政府は、国家権力を保持するために必要であるならば。数百万分人の生命を犠牲にする飢饉に、国を委ねる心づもりでいた。
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 (17) 政治的現実はこうであったので、ボルシェヴィキが1918年の前半に食糧事情を改善しようと執った全ての経済的措置は、役に立たなかった。
 ボルシェヴィキは布令を発しつづけた。食料の収集と配送の過程を修正するか、食料「投機者」を威嚇するかのいずれかだった。
 ボルシェヴィキは執拗に、食料「投機者」を、食料不足の結果ではない、最も過酷な制裁を課すべき原因だと見なした。
 このような布令の中で最も見当違いだったのは、レーニンが1917年12月末に草案を作成した布令だった。レーニンは、こう書いた。
 「食料供給の危機的状況、投機を原因とする飢饉の危険、資本家や官僚層の妨害行為、広く覆う混沌が必要とするのは、悪魔と闘う革命的な非常措置だ。」
 しかし、この「措置」は食料不足とは何の関係もなかった。そうではなく、ロシアの銀行の国有化とロシア政府の国内および国外債務の不履行の宣言を内容としていた(脚注)
 Alexander Tsiurupa によれば、供給人民委員部の1300人の職員のストライキはボルシェヴィキ独裁に抗議するもので、仕事を知らない官僚たちと交替させされたために、状況をいっそう悪化させた(注49)。
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 (脚注) Dekrety, I, p.227-8. これの最後に発せられた版では、財政措置についてのレーニンの怪しい理由づけは、割愛された(p.230).その馬鹿々々さをレーニンですら知ったように見える。
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 (18) ボルシェヴィキは穀物の国家独占を放棄するつもりがなく、当時のプレスが予見していた飢饉を防止するための措置をいっさい何も執らなかった。
 国内の危機に直面した帝制時代のように、官僚機構の改造や手続の変更に頼った。
 これらは彼らが本当に関心をもつ問題に直面した際に採用したものではなかったので、飢餓は彼らの関心対象に含まれないとの結論から脱するのは困難だった。
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 (19) 2月13日、トロツキーが、供給非常委員会の長に任命された。
 彼の任務は、「供給独裁者」として、革命的な非常措置によって都市への食料の流路を整えることだった。この場合に「革命的」とは、婉曲に軍事力の行使を意味していた(注50)。
 しかし、彼が戦時大臣に任命されていたとき、ほとんど責任を負わなかった。供給非常委員会で彼が何かをしたとの記録は、残っていない。
 体制は、国じゅうに、飢えているペテログラードとモスクワを助けよとの訴えを発しつづけた(注51)。国内および外国の「ブルジョアジー」が食料不足の責任があるとする激しい非難で彩られた訴えだった。
 1918年2月、政府は、「運び屋」に対する死刑を命じた(注52)。
 3月25日には、交換の助けで村落地域から食料を引き出そうと試みた。
 政府は、200万トンの穀物と交換に消費用品を購入するために、11億6000万ルーブル—ソヴィエトの出版業の産額の二週間分—を計上した(注53)。
 しかし、この計画が想定する消費用品を見つけることができなかったので、この企ては失敗した。
 4月、現実主義に多少は似た考えから引き出して。政府は、余剰がある地域から穀物を運ぶ新しい鉄道線路を建設する計画を立てた(注54)。
 だが、1メートルの線路も敷かれなかった。かりに敷設されていても、何の違いにもならなかっただろう。
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 (20) 1918年5月の初めまでに、ボルシェヴィキは食料不足の解消のためにもう何もすることができなかった。都市部や工業地域での供給の状況は、警告を発する段階にまで達していたからだ。
 最も多い配給を受けていた労働者たちが飢えてきている、と報告する電報が、クレムリンにどっと届いた(注55)。
 ペテログラードで、1月には自由市場で5ルーブルだった一塊の1ポンド・パンは、今では6〜12ルーブルを要した(注56)。
 何かがなされる必要があった。
 専門家は主張し、工業労働者が要求したのは、穀物の取引を市場の力の自由な働きに委ねることだったが、これは政治的理由で、受け入れ難かった。したがって、別の解決方策を見出す必要があった。
 解決策は、軍事力を用いて村落を侵略し、征圧することだった。
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 第三節、終わり。第四節「村落への軍事作戦の開始・1918年5月」へ。

2898/R.Pipes1990年著—第16章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓③。
 (13) 1918年前半の村落地域の写真を当時のプレスが掲載しているが、それは救いようのない恐怖だ。
 Riazanskaia zhizn’ の3月初めの記事は、Riazan の食料不足はとくに酷かったので、代表的だとは言えないかもしれない。しかし、ロシアの村落がボルシェヴィキによる支配のもとで急速に劣悪化し、原始的アナーキーへ突入したことを示している。
 この地方の農民たちは、政府の酒類店舗から強奪し、長らく泥酔の状態にあった。
 彼らは老人や少女たちに助けられて、酒を飲んで大騒ぎをしつつ、闘い合った。
 静かにさせておくため、子どもたちにはウォッカが無理に与えられた。
 没収あるいはインフレによって貯蓄を失うのを怖れて、通常はブラックジャックで夢中になって賭けをした。ふつうの1人のmuzhik が一晩で1000ルーブルを失うのは、珍しくなかった。
 「老人は、最後の審判の絵を買う。
 農民たちは、心の奥深くで、『世界の終わり』は近い、と信じた。…
 そして、地獄が来る前に、地上に存在し、努力して最近に築かれたもの全てが、破壊されつつある。
 彼らは全ての物を粉砕したので、騒音が地区じゅうに鳴り響く。」(注42)
 食料事情がとくに絶望的な地帯では、農民は「飢餓騒乱」を展開し、視野に入る全ての物を破壊した。
 Novgorod 地方の一地区でのそのような騒乱のあとで、地方の共産党当局は、1万2000人の住民に対して、450万ルーブルの「寄付」を命じた。農民たちはまるで、征服された植民地の原住民であるかのごとくに(注43)。
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 (14) 飢餓は危険をもたらした。しかし、ボルシェヴィキの立場から見ると、積極的な面もあった。
 第一に、食料取引に関する国家独占は。食料供給のためには有害だったとしても、体制が配給制度を保持し続けるのを可能にした。配給制度は、都市住民を統制し、体制支持者を有利に扱うのに役立った。
 第二に、飢餓は住民の意気を沈滞させ、抵抗する意思を奪った。
 飢餓の心理学というものは、よく知られていない。だが、ロシアの観察者たちは、飢餓は民衆を権威ある当局により従う気持ちにさせる、と記した。
 あるボルシェヴィキはこう観察した。
 「飢餓は、創造性の貧しい同伴者だ。
 盲目的破壊性、陰鬱な恐怖、屈服したい気分、連れて行き組織してくれる誰かに運命を委ねたい気持ち、これらを飢餓は掻き立てる。」(注44)
 飢えている者たちは、かりに闘うことができも、食料を求めてお互いに競い合うことに活力を費やした。
 このような政治的無関心は、政治的抑圧以上に、従属性を高めるのに役立つ。
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 (15) ボルシェヴィキは、飢餓がもたらす政治的利益に気づいていた。このことは、唯一の実現可能な方法で飢餓から救うことを彼らは拒んだことで、証明されている。その方法とは、のちにロシアを支配する自信を得た1921年に採用することになる方法、すなわち穀物の自由市場の再導入だ。
 この措置が実施されるとすぐに、生産は増大し、戦争前の高さを回復した。
 これが実施されるだろうというのは、後知恵でのみ分かるのではない。
 1918年5月、穀物専門家のS. D. Rozenkrants はジノヴィエフに対して、食料不足は「投機」によってではなく生産する動機の欠如によって起きている、と説明した。
 穀物の国家独占のもとでは、農民は、自分たち自身の直近の必要以上に穀物を栽培する動機をもたなかった。
 余剰の耕作地に根菜類(じゃがいも、にんじん、ビート)を植えて自由市場に出すことで、それは当局も認めたことだったが、農民はそれらの処理に関してかつて知っていた以上の金銭を稼いだ。
 このようにすれば自由市場で根菜類1pud当たり100ルーブルを得られた。1desiastina の耕作地で5万〜6万ルーブルを稼いだ。
 馬鹿げた固定価格で国家に没収させるだけのために、いったい誰が穀物に手を煩わせるだろうか?
 Rozenkrants は、もし政府がより事業経営的感覚をもつ政策を採用すれば、食料問題は二ヶ月で解決するだろう、と自信をもって表明した(注45)。
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 ④につづく。

2897/西尾幹二批判082—「反共」性。

  西尾幹二・ソ連知識人との対話(文藝春秋、1979)。正確な同一性を確認していないが、同・全集第7巻(2013)の冒頭に収載されているようだ。
 いつまで続いたか知らないが、「日本文芸家協会とソ連作家同盟」との間の取り決めに従ってソ連が毎年3名の日本人「文学者」を招待して<親善旅行>をさせるということが行なわれた。西尾は1977年に作家の加賀乙彦、高井有一とともに参加した。
 日本側は多くは作家・小説家で、西尾のような<文芸評論家>は少なかったこと、しかしなお、政治や歴史等とは異なる、これらの枠外の分野でこの時期に西尾は活動していたことは、注記されておいてよいだろう。
 この旅行(1977年は例外的に約一ヶ月)は、1980年に参加した入江隆則によると、「(ロシアにいる間は)通訳付きの大名旅行」だった。
 入江隆則・告白(洋泉社、2008年)、244頁。
 西尾らの場合もずっと一人の「エレナ・レジナ」という名の通訳が同行したほか、ホテル宿泊費、ソ連内の交通費、基本的な食事費は全てソ連側が負担したようだ。
 そのような元来の「負い目」に関係なく、西尾はあれこれと旅行記、旅行中に感じたことを書いて、一冊の書物にしている。
 対ソ連認識・意識あるいは「反共」感覚という観点から見た場合、なかなか簡単には形容、叙述できないが、当時の西尾幹二の<純朴さ>(<幼稚さ>)が際立っているだろう。
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 第一に、上記の女性通訳は、日本の作家類の「親善使節団」?のために用意された、ソ連共産党の党員、そしてソ連作家同盟に関係のある党員だったと推察されるが、そのような属性について、西尾幹二はまるで関心を示していない。
 スターリン批判後のブレジネフの時代で、スターリン支配下に比べて統制は緩和され、1989年以降に向かってソ連の国家と社会は破綻へと進んでいただろうが、それでもソ連共産党が「一党支配」し、社会各層の幹部層にはなお多く共産党員が配置されていただろう。
 従って、エレナおばさんの言動には、その本来の人柄とともに、党員であること自体や、作家同盟やさらに上部の共産党の意向が反映されていると思われる。しかし、1960年の<安保学生>ではなく、三島由紀夫との若干の交流があったとは言え、西尾幹二はもともとソ連について平均的レベルの知見しか持たないでソ連を訪れたようだ。従って、遭遇し、会話するソ連の人々のうちどの程度が共産党員なのか、その問題を考慮して言動や発言を理解すべきだ、といった問題関心が西尾には全くなかった、と思われる。
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 第二に、従ってまた、ソ連各地のソ連作家同盟または関係団体の人たちとの「会話」も、<ソ連知識人との対話>というほどの次元にまでは達していない。
 多少は相手側に耳の痛いことも西尾は言ったり質問したりしたようだが、ソ連の「政治体制」の<本質>に抵触するものでは全くない。
 それどころか、「死や実存に直面する『個』の危機の主題」(p.26)、「ソ連に“個”の危機は存在するか」(p.197、第9章の表題)、「ソ連人の精神生活の中に、『個』の危機という主題がはたして存在したことはあるのだろうか」(p.206-、p.210)といった関心をもって、接触した「知識人」らしき者たちと「対話」しても、ほとんど成果がなかっただろうことは明らかだ。
 そしてつまるところは、例えば、「個」が不分明になり、「技術文明に寸断された現代世界は、その調和ある統一性がついに失われたことに特徴づけられている」のではないか(p.207)、等々と述懐しておくことに自分の文章の意味を求めているように見える。これは「二つ」の世界を<現代>という語で相対化する議論で、ソ連解体後にひとしきり流行したものだ。
 危機にあったのはソ連、社会主義・共産主義だけではない、「自由主義」・「資本主義」も同様の問題を抱えている、というわけだ。
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 ところで、西尾幹二は、トルストイ、ドストエフスキー、さらにソルジェニーツィンに言及しながら、<ドクトル・ジバゴ>で1956年にノーベル文学賞を(本人は辞退したはずだが)受けたボリス・パステルナークには何ら言及していないようだ。パステルナークと<ドクトル・ジバゴ>(の叙述内容)に立ち入った方が、西尾の文章よりも「ソ連」についてよく理解できるのではないか。
 例えば、→1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル·ジバゴ(1919年1月)。
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  つぎの中に、ソルジェニーツィンに関する叙述がある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。同・全集第22巻A(2024)所収。
 前後に同旨の文章がつづく。それは、「過度の自由社会はかえって『自由』を破壊する」という文章に象徴されているかもしれない。それはまた、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」などの文章を含んでいる、同・国民の歴史(扶桑社、1999)の最終章と共通性がある。
 もっとも、西尾における「自由」論は、何やら深遠なことを言っているように見えて、「自由」概念の意味が明確でなく、適当に使われている、気分だけのレトリックにすぎないから、騙されてはならない。
 こうした、じつは訳が分からない「自由」論は、1978年頃の側ではソルジェニーツィンの文章のうち、あえて以下のような部分をとくに引用する西尾の心理とも共通しているだろう。「反共」か否かとは関係がないのだ。
 「たとえどんな場合でも社会主義を選択するよう提案する気はさらさらない」が、「われわれの社会を改造する理想として、諸君の社会を推奨することはできない」。
 「現在の精神的枯渇状態にある西側の制度は、魅力あるものではない。…西側では人間性が酷薄になり、東側ではそれが強固になっていることは、まぎれもない事実である。わが民族は60年の間、…、西側の経験を遥かに凌ぐ精神的学校で学んだのである。艱苦と死によって抑圧された人生が、西側のおざなりな法規で規定された人生よりも、ずっと強力で、深い人間性をつくりだしたのである。」
 「われわれの国のような底無しの無法状態に社会はとどまることはできないが、諸君の国のような無精神の法律的安穏にどっぷり漬かることも無益なことである。何十年もの間、圧政の下に呻吟してきた人間の魂は、広告の醜悪な圧力や、テレビによる愚昧化、…ている今日の西側の大衆生活がわれわれに提示できるものよりも、何かもっと高邁で、温かく、純潔なものに惹かれているのである。」
 「ここ(西側社会)では自発的な自己規制になどはほとんど出会うことはない。法律の枠が割れはじける音を出すまでは、誰もが皆、我が道をゆくのである。…私は今までの生涯を共産主義の下で暮らしたが、次のようにいいたい。公平な法的秤が全く存在しない社会は恐ろしい。しかしだからといって、法的秤以外の、別の秤の存在しない社会も、同じように人間にとって価値がないものである。」
 西尾による引用はもっと長文だが、割愛する。
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 興味深いのは、長々と引用するだけあって、西尾はこのようなソルジェニーツィンの主張を、つぎのように、基本的には肯定的に評価していることだ。
 「現代のわれわれの自由主義文明の弱点に対する一個の徹底的批評としてみたとき、…相当に挑発的であり、説得的でもあります。直接的衝撃性を備えた言葉です。…ひとつひとつに、稲妻のような瞬発的迫力があります。それは結果的に、西側自由主義社会の弱点と矛盾を白日の下にさらすリアリティを秘めているのです。/共産主義社会には自由がなかった、私たちには自由がある、といった素朴な反共思想では世界史は説明がつかないことは以上で明らかです。」
 西尾幹二は、「西側自由主義社会の弱点と矛盾」を指摘されるのに共感を覚える者であり、既述のように、そのかぎりでは、「左翼」とされるアドルノらフランクフルト学派(ドイツ)と似ている
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  西尾幹二は<新しい歴史教科書をつくる会>10周年集会に、この会は「反共」だけではなく「反米」も掲げた最初の運動団体だった旨の文を寄せた。
 <保守派>であれば「反共」を前提とするのは当然だとの物言いだ(同・保守の真贋(徳間書店、2017)も参照)。しかし、この人物がそもそもどの程度に「反共」だったのか、共産主義・社会主義をどの程度理解していたのかは、相当に疑わしく思っている。この人物がマルクス、レーニン等の「マルクス主義者」とされる者やその「思想」内容に論及していたのを読んだことがない(この点、谷沢永一と異なる)。
 また、上の西尾自身の言葉では、少なくとも「素朴な反共思想」だけ持ってはいけないのだ。この人は、心理の奥底では共産主義・社会主義を容認する部分があったのではなかろうか。
 もちろん、この人はいろいろなことをその場かぎりで(頼まれ文章ごとに)書いたので、共産主義等に対して一貫した「思想」をもっていたなどという、幻想を抱いてはいけないのだが。
 なお、上でも触れた同・国民の歴史(原書1999年)の最終章には、今後の我々の時代には何も良いことは起こらず、「共産主義体制と張り合っていた時代を、懐かしく思い出すときが来るかもしれない。私たちは否定すべき対象さえももはや持たない」との断定的文章がある。
 これによると「反共」攻撃、「反共」闘争はもはや必要がない。そして、現在も<日本会議>が設立趣旨で謳っているのと同じ見解が示されている。
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  L・コワコフスキはポーランド共産党員(統一労働者党員)になったあと、その有能さのゆえに、早くも1950年にモスクワ「視察」旅行へと派遣された、という。明確に「反党」的になり、除名されたのは1960年代だが、共産主義・社会主義への不信は、現実のモスクワを見てすでにモスクワ旅行の際に芽生えた、とされる。
 私事だが、この欄で既述のように、私は社会主義国家時代の東独・ドレスデンを訪れたことがある。その際、団体・グループから離れて勝手に「ドレスデン新都市」駅へ行ってその待合室で見た勤労大衆(?)の様子を衝撃をもって憶えている(1980年頃)。
 時代は同じではないが、西尾幹二は「ソ連知識人」と交流したことはあっても、社会の隅々まで、あるいは共産党官僚機構の実態まで、ソ連との「親善」旅行では知り得なかったのだろう。
 「自由」概念がそもそも同じでないだろうから、「共産主義社会にはなく、われわれにはある」と単純には言えないだろう。
 しかし、ポーランド育ちのL・コワコフスキですら幻滅させるものが、私ですら「愕然とする」ものが、社会主義社会にはあったと思われる。そのかぎりで、人々の精神構造も含めて(これは遺伝子ではなく出生後の教育・社会環境による。「国家」への意識・人間関係意識も含む)、やはり両体制は「質的に」異なっていた(異なっている)と感じる。
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2896/R.Pipes1990年著—第16章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓②。
 (07) ブレスト=リトフスク条約の結果として、ロシアは、従前は穀物類の三分の一以上を国に供給していたウクライナを失った。また、1918年6月にはチェコスロヴァキア軍団の反乱がシベリアへの途を切断した。これらをさらに認めるならば、1918年半ばに中央および北部ロシアの住民を襲った悲劇的な状況が、明確になる。
 全ての都市と工業中心地、および生産が少ない、あるいは成長途上の家内工業のある多数の村落は、飢えに苦しみ、かりに天候が悪化すれば厄災的な飢饉の可能性がほとんど確実に見込まれる事態に直面した。
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 (08) ボルシェヴィキにとって、この状況は、危険であるとともに、好機だった。
 都市部と工業地域での飢餓は不満を掻き立て、ボルシェヴィキの政治基盤を奪った。
 1918年、ロシアの都市部では、食料不足を原因とする騒擾が恒常的に起きた。
 状況はペテログラードではとくに破壊的で、1918年1月後半には、毎日の配給は、麦藁の粉を混ぜた4オンスのパンだった(注33)。
 これだけの配給では生活を維持できなかったので、住民は自由市場に頼らなければならなかった。そこでの価格は、食料行商人に対するチェカの嫌がらせによって、人為的に高くされていた。
 自由市場では、パンの価格は1ポンド当たり2ルーブルと5ルーブル超の間で揺れ動いた。この価格では、かりに幸運に雇用されていても、一月に多くて300-400ルーブルを稼ぐにすぎない労働者の手には届かなかった(注34)。
 1918年の1年間、ペテログラードでのパン配給量は、数日ごとに上下した。武装した逃亡者や待ち伏せる農民の攻撃を受ける列車の供給量に依存していたからだ。攻撃者が警護者の力を上回れば、彼らはすぐに列車の内部を剥ぎ取った。そして、列車は空でペテログラードに到着した。
 3月にペテログラードでのパン配給は、僅かに上がって6オンスになり、4月末には2オンスまで落ちた。
 地方の諸都市でも、状況は変わらなかった。
 例えばKalugaでは、1918年初頭の毎日の配給割当量は、5オンスに設定されていた(注35)。
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 (09) 飢えを回避するために、住民は群れをなして都市部から逃亡した。逃亡者の中には、戦時中は防衛産業で働き、軍を除隊された者もいた。
 当時の統計資料は、ペテログラードの人口の劇的な減少を示している。すなわち、1917年1月にペテログラードで雇用されていた工業労働者の60パーセント(36.5万人のうち22.1万人)が、1918年4月までに村落地域へと逃亡した(注36)。
 ほとんど同じ割合の逃亡が、モスクワでも起きた。
 革命と内戦のあいだに、モスクワは人口の二分の一を失い、ペテログラードは三分の二を失った(注37)。これは、ロシアの都市化傾向を劇的に逆転させ、その田園的性格を強めた(脚注)。
 ロシアの統計学者は、こう推算している。1917年と1920年の間に、88万4000世帯の家庭、あるいは500万人が、地方に向かって都市部を捨てた(注38)。
 この数は、戦争中に都市部へと移住した農民の数(600万人)にほとんど匹敵している。
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 (10) 残った者たちは、食料不足について、不満を言い、示威活動をし、ときには騒動を起こした。
 下層の男女は、飢餓に狂乱し、食料倉庫や店舗から略奪した。
 新聞紙は、「パンをよこせ!」と叫びながら街頭を駆け抜ける主婦たちに関する報告を掲載した。
 並み外れた価額を要求する行商者たちは、リンチに遭う危険があった。
 多くの都市は、外部者を排除する条例を制定した。
 ペテログラードは、厳格に封印された。レーニンは、1918年2月に、非居住者が首都やロシア北部の一定の地域に入ることを禁止する布令に署名した。
 その他の諸都市も、同様の命令を採択した(注39)。
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 (11) 飢餓と無法の雰囲気の中で、都市部では犯罪が増加した。
 警察の記録は、ペテログラードの住民による報告数についてこう示している。ボルシェヴィキによる支配の三ヶ月め、住居侵入1万5600件、店舗略奪9370件、スリ20万3801件、殺人125件(注40)。
 どの程度の犯罪数が報告されなかったのかは、定かでない。だが、きわめて多数だったはずだ。当時は、通常の強盗犯罪が「収用」を実施するとの言い分のもとで行なわれるのは普通だったからだ。そうした犯罪の犠牲者は、恐怖に怯えて報告できなかった。
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 (12) 村落地域もまた、無法で覆われていた。
 若干の地方(Voronezh等)では、食料は豊富だった。その他の地方(Riazan等)では、絶望的に不足していた。ある地区には十分な余剰があるが、その近傍の諸地区は飢餓に瀕している、ということは珍しくなかった。
 通常は、余剰をもつ者は、自由市場で売却するか、穀物の国家独占は終わるだろうと期待して貯蔵するかのどちらかだった。
 慈善活動は、知られていなかった。十分な食料のある農民は、飢えた者に与えるのを拒んだ。乞い求める者がやってくれば、追い払った(注41)。
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 ③へとつづく。

2895/私の音楽ライブラリー058。

 私の音楽ライブラリー058。
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 128 →小椋佳・とき—1976年。〔motoko takeuchi〕
  小椋佳・歌唱、同・作詞、同・作曲。

 129 →小柳ルミ子・恋の雪別れ—1973年。〔hirornn728〕
  小柳ルミ子・歌唱、安井かずみ・作詞、平尾昌晃・作曲。

 097〈再〉→五輪真弓・雨宿り—1981年。〔itchelielie〕

 033〈再〉→井上陽水・ジェラシー—1981年。 〔kantarokanna〕
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2894/R.Pipes1990年著—第16章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓①。
 (01) 革命の経済的社会的推移は、こうして、ボルシェヴィキが最初から直面していた諸問題を悪化させた。
 ボルシェヴィキはすでに圧倒的に「プチ・ブルジョア」である国で「プロレタリアートの独裁」を宣言したのみならず、彼らの政策をいっそうその方向に向けた。
 政府は1918年の初夏に村落を攻撃する決定を下した背景には、以上のことがあった。
 この決定がなされた正確な事情は知られていないが、利用可能な情報は十分で、その先例と内容について概述することは不可能でない。
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 (02) 十月のクーの場合もそうだったように、ボルシェヴィキは、村落地帯への攻撃を開始するに際して、偽りの目標を掲げて行動した。
 彼らの本当の目的は、農民層を支配することによって十月のクーを完了させることだった。
 しかし、これは知られるスローガンにはならなかっただろうから、ボルシェヴィキは農民層に対する実力行使を伴なう運動(campaign)を、飢えている都市部のために「クラク」〔富農〕から徴発する、という表向きの目的でもって、実行した。
 もちろん、食料不足はきわめて現実的な問題だった。しかし、後述するように、村落地帯から供給を引き出す、容易で効果的な方法があった。
 ボルシェヴィキ内部の議論では、権限ある機関は率直に、食料徴発は副次的な仕事だ、と認めていた。
 こうして、ボルシェヴィキの秘密報告書は、全ての村落に貧民委員会を設置することを命じる布令に言及して、採られるべき措置を、つぎのように説明した。
 「村落の貧民委員会の組織化に関する7月11日の布令は、組織化の性格を明確にし、それに供給するという役割を与えた。
 しかし、その本当の目的は、<純粋に政治的>だ。
 村落での階層化を実現すること、この層に積極的な政治生活を送らせること。この層はプロレタリア社会主義革命に適合しそれを実現するする能力をもつ。また、村落ソヴェトの支配権を握って、ソヴィエトの社会主義建設に反対する機関に変えている、そのようなクラクや豊かな農民の経済的社会的影響力から自由にすることで中間的勤労農民をこの途へと導くことすらできる。」(注30)
 言い換えると、都市部のための食料の摘出(「供給という役割」)は、社会的憎悪に火をつけてボルシェヴィキを村落に送り込む、という政治的活動を覆い隠す偽装(camouflage)だった。
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 (03) 革命前のロシアでは、市場に届く大量の食料は、大規模の私的な土地と富裕な農民の農場のいずれかから来ていた。いずれも、労働者を雇用していた。
 中間のおよび貧しい農民は、生産する食料のほとんど全てを自分たちで消費した。
 全ての貴族の土地や農民が私的所有物として保持した土地の多くが没収され、村落共同体に配分された。これは政府が雇用労働を禁止したことで(広範囲で無視されたとしても)いっそう進められた。そして、村落共同体への土地配分は、非農業国民への食料の主要な供給源を奪い去った。
 田園地帯のロシアが自己充足的な前資本主義時代に移行するに伴ない、非農業国民は飢餓に直面した。
 このことだけで、ボルシェヴィキのクーの後で起きた過酷な食料不足に寄与した(脚注1)
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 (脚注1) かつて私的に所有された農業用地の約三分の一—耕作されている土地面積の3.2パーセント—は主として「技術的」文化に用いられた大規模不動産だったが、国家が運営する集団農場のために奪い取られた。それらは、理論的には、都市部での食料不足を緩和するのを助けることができただろう。しかし、その在庫は地方の農民によって奪われていたので、できたとしても、ほとんど助けにならなかった。
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 (04) このような逆境にあっても、農民は都市住民に食糧を供給できていたかもしれない。主な理由がどのように見えようとも、ボルシェヴィキが、農民から余剰を手放すという気持ちを奪わなかったならば。
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 (05) 臨時政府が採択してボルシェヴィキが維持した数少ない措置の一つは、1917年3月25日の法律(law)だった。これは、穀物取引の国家独占を定めていた。
 この法律の条項によると、生産者が個人的な需要を充足し、種として備えたあとで残った全ての穀物は国家に帰属し、固定の価格で国家機関に売却されなければならなかった。
 引き渡されなかった余剰の穀物は、半額で徴発された。
 臨時政府はこうして収穫の14.5パーセントを獲得した。だが、そうであっても、臨時政府に権力があるあいだは、穀物取引は従前どおりに行なわれた。
 しかし、ボルシェヴィキは、この規則をいっそう無慈悲に実施し、穀物やその産物を消費者に販売する行為全てを、厳格な制裁に服すべき「投機」として扱った。
 ボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月、チェカはその活動のほとんどを、「運び屋」農民(meshochmiki)を追及し、彼らの商品を没収することに費やした。チェカはときには、行商する農民を投獄し、処刑すらした。
 妨害されなければ、農民たちは続行し、数百万人に食糧を与えた。
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 (06) ボルシェヴィキ政府は、農民が余剰の穀物を、インフレによっていっそう馬鹿げたものになっている価格で政府機関に売却するよう、強く要求した。
 1918年8月に公定価格は、ライ麦1pud(16.3キログラム)当たり(地域によって異なり)14〜18ルーブルと設定された。一方、自由市場では、1pud 当たりモスクワで290ルーブル、ペテログラードで420ルーブルで売れていた(脚注2)
 1919年1月に統制下に入った肉やジャガイモのようなその他の食品についても、公定価格と自由市場の価格には同様の乖離があった。
 農民たちは、このような価格政策に対して、穀物を隠蔵するか、耕作地の面積を少なくすることで抵抗した。
 穀物の収穫量が低下したのは、しごく当然のことだった(注32)。
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 (脚注2) Kabanov, Krest’ianskoe khoziaistvo, p.159. 生産物に対してこのような非現実的な価額を受け取った農民たちは、毎日少なくなっている工業製品(マッチ、釘、灯油等)を自由市場の価格で購入しなければならなかった。
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 ②へとつづく。

2893/R.Pipes1990年著—第16章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-1918年に得たもの·失ったもの③。
 (13) レーニンの土地布令は、「ふつうの農民およびふつうのコサック」の所持物を収用から除外した。
 しかし、中央ロシアの多数の区域で、共同体の農民はこの条項を無視して、地主の持つ土地とともに仲間の農民に帰属する土地を奪うにまで進んだ。そして、それらを配分のための村落共同体の貯え地にした。
 <khutora>と<otruba>のいずれも、農民によるこの奪取の中に含まれた。また、Stolypin の立法を利用して村落共同体から離脱した耕作者の、かつての共同体の土地も含んでいた(脚注1)
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 (脚注1) <otruba>は、共同体用の細片土地と混ぜられた割当土地のことだった。<khutora>は、分離した農場をいう。いずれも、私的財産として所持された。
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 結果として、すぐさま、農民たちはStolypin の農業改革の成果の多くを消滅させた。村落共同体の原理が、それ以前の全てを一掃したのだ。
 共同体の農民は、その構成員が共同体の外部から購入した土地を同じように取り扱った。このような土地も、村落共同体の留保分に追加された。
 あちこちで、村落共同体は、その割当土地の大きさまで狭くするという条件で、その財産を農民たちに委ねた。集団化の直前の1927年1月、ロシア共和国(RSFSR)にある農地の2億3300万<desiatiny>のうち、2億2200万、あるいは95.3パーセントは、共同体が所持していた。そして、800万、あるいは3.4パーセントだけが、<otr uba>または<khutora>として、つまり、私的財産として所持されていた(注24)。
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 (14) このような事実を見ると、ロシアの農民層は、無償で、大量の農地を革命から獲得した、と言うのは、誤解を招くものだ。
 得たものは、寛容でも、無料でもなかった。
 ロシアの農民層を同質のものとして扱うことはできない。「ロシアの農民層」という言葉は、数百万の個人を覆い隠す抽象的なものだ。
 個々の農民の中には、勤勉、節約、事業感覚の力で資本を蓄積するのに成功した者もいた。この資本は現金で所持されるか、または土地に投資された。
 この全ての現金とほとんど全ての土地を、彼らは今や失った。
 こうした要因を考慮すると、共産党が支援するduvan のもとで獲得した財産のために、muzhik は過大な支払いをした、ということが明らかだ。
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 (15) 農業革命は、農民をより平等にした。
 1917-18年にロシアで行なわれた大分配で、村落共同体は、標準よりも大きかった保有物を減らした。割当土地を分配するため共同体の主要な規準は、家族ごとの edoki または「食べる者」の数だったので。
 このような方法を採ることによって、広い割当土地(4 desiatiny 以上)をもつ家族の数は、ほとんど三分の一にまで(30.9から21.2パーセントへと)減った。一方で、4 desiatiny 未満だけを保有する家族の数は顕著に増加した(57.6から72.2パーセントへ)(脚注2)
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 (脚注2) Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100; O zemle: sbornik statei, I(1921), p.25 は、若干異なる数字を示す。大規模な所持の減少は、ある程度は、核家族が増えたことによる、共同家族の解体の加速によった。核家族は19世紀遅くにすでに始まっていたが、ボルシェヴィキの土地政策がそれを促進した。農民は没収された資産の配分に加わりたいと考えるが、家族の長であれば最善を尽くすことができるからだ。
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 この数字が示すのは、「中間農民」の数のかなりの上昇が起きた、ということだ。この層の数の上昇は、土地の豊かな農民の数の減少と、従前は土地を持たなかった農民に割当土地が与えられたことによって、生じた。土地を持たない農民の数は、ほとんど半分に減った(注25)。
 このような平準化の結果として、ロシアは、かつて以上に、小農民たち、自己充足的農民たちの国になった。
 当時のある者は、革命後のロシアを、「小さな商品生産者が…分割された土地を平等に管理し、規模がおおよそ同等の小区画の網を形成することを成し遂げた、ハチの巣」になぞらえた(注26)。
 マルクス主義の専門用語での「中間農民(中農)」—労働力を雇用せず、自らのそれを売りもしない者—が、農業革命の最大の受益者として出現した。これは、ボルシェヴィキが承認するには時間を要した事実だ。
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 (16) もちろん、誰もが黒の大分配から利益を得たのではなかった。それの主要な受益者は、1917年にすでに共同体の割当土地を持ち、村落共同体の集会を支配した者たちだった。
 1917年と1918年に割当土地を求めて都市部から村落へと流れるように戻っていた農民の多数は、再配分から排除されなかったし、標準以下の土地を受け入れるのを強いられることもなかった。同じことは、無収入を終わらせた土地を持たない農民(batraki)の半数についても言えた。
 暮らし向きのよい農民たちは、ボルシェヴィキ当局の意向を、無視した(注27)。当局は、土地社会化布令によって、村落ソヴェトに対して土地を持たないまたは土地の少ない農民への特別の配慮を示すよう指示したのだったが。
 ロシアには要するに、「社会化」という名のもとで要求する全員に標準的な規模の土地を与える、十分な農地がなかった。
 その結果として、土地を持たないまたは土地の乏しい村落共同体の農民は、せいぜい小さな割当土地しか得られなかった(注28)。
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 (17) ロシア革命は、村落共同体を歴史的な遠い地点まで運んだ。逆説的に言えば、ボルシェヴィキが農民を軽蔑していたとしても、村落共同体に黄金時代をもたらしたのは、ボルシェヴィキだった。
 「この数十年のあいだ削り取られてきた共同体は、国の事実上は全ての農業用地の上で花咲いた」(注29)。
 これは、ボルシェヴィキがただちには反対しなかった自然発生的な過程だった。反対しなかったのは、村落共同体はボルシェヴィキのために帝制時代と同じ機能を果たしたからだ。—すなわち、国家への義務を遂行するのを保障すること。
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 ③終わり。つぎの第三節へ。

2892/R.Pipes1990年著—第16章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき、
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの②。
 (08) しかし、この少ない数字ですら、配分からの利益を過大評価していた。
農民が1917-18年に得た土地のかなりの部分(3分の2)は、彼らは以前から賃借りしていたからだ。
 したがって、土地の「社会化」は、地代の支払いを免除したほどには、利用できる耕作可能地を増加させなかった(注17)。
 一年で7億ルーブルと推算されている地代支払いの免除に加えて、共産党体制によって、農民土地銀行への債務も農民たちは取消された。それで得た利益は、140万ルーブルに昇った(注18)。
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 (09) 農民たちは土地への新しい権利を懐疑的に見ていた。新政府はいずれ集団制を導入するつもりだ、と聞いていたからだ。1918年4月に発せられた土地の社会化に関する布令は、村落共同体への土地の移行は「暫定的」または「一時的」(vremennoe)だと述べていた。
 農民たちはいつまで所持し続けることができるかと懸念し、まるで翌年の収穫が終わるまでのように行動することに決めた。
 そのゆえに、村落共同体が獲得した土地を一括するのではなく、別々に維持した。新しい土地の引き渡しが要求されても、彼ら自身の古くからの割当土地を保持できるようにするためだった(脚注1)
 その結果として、嘆かわれもした細片農業(strip farming, cherespolositsa)は増大した。
 多くの農民たちが、新しい割当土地に行くために、15、30、そして60キロメーターも、移動しなければならなった。その距離があまりに大きすぎれば、彼らは単直にその割当土地を放棄した。
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 (脚注1) 1918年10月から1920年11月までTambov 地方の村落に住んだある知識人によると、農民たちは、皇帝によって与えられたのではないがゆえに、獲得した土地が本当に彼らのものであるかを疑っていた。A. L. Okni nskii, Dva goda sredi krest’ian(Riga, 1936), p.27. 得た土地を分け与えることが強要された場合、貧しい農民に割当てられた土地がそれに使われた。
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 (10) ロシアの農民が革命に由来して得た経済的利益について、述べた。
 彼らは、決して自由ではなかった。
 歴史家たちは、農業革命が農民にもたらした代価を、通常は無視する。それは相当に大きかったと言えるにもかかわらず。
 この代価には、二つの性格があった。第一は、インフレによる貯えの喪失。第二は、農民に(村落共同体のではなく)私的所有権があるとして所持していた土地の喪失。
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 (11) ロシアの農民層は、革命以前に、相当の貯えを蓄積してきた。そのいくぶんかを家で所持し、残りを国立貯蓄銀行(sberegatel’nye kassy)に預けた。
 こうした貯蓄は、農民が高騰する食糧価格から利益を得た幸運な戦時と革命の第一年のあいだに、相当に大きくなった。
 十月のクーのときに農民の貯蓄がいかほどだったかを正確に計算することは不可能だ。
 だが、伝えられる推算を補完するものとしての公式の資料から、若干の考えが生じる。
 1914年の初めに、国立貯蓄銀行は、15億5000万ルーブルを預かっていた(注21)。
 1914年7月と1917年十月の間に、50億ルーブルを追加した、と推計され、かつ、これのうち60-75パーセントは村落の預金者に由来すると考えられている(注22)。
 十月のクーの時点で、農民は、貯蓄銀行におよそ50億ルーブルを預けていたと推計し得る。これに、家庭で所持していた金銭が加えられなければならない。
 ボルシェヴィキは、民間銀行を国有化する布令の対象から貯蓄銀行を除外した。そのために理論上は、農民その他の小預金者は、自分たちの金銭を出し入れすることができた。
 しかし、ほどなくして、インフレが預金を無価値にした。まるで完全な没収があったごとくに。
 前の章で述べたように、ボルシェヴィキは、貨幣の価値を下げることを意図的にかつ体系的に進めた。彼らが支配した最初の5年間で、ルーブルの購買力は、100万分の1に下落した。このことで、紙幣はただの色が付いた紙になった。
 この結果として、ロシアの農民たちは、地主の土地を無料で受け取った以上にはるかに、犠牲を払った。
 農民たちは、使用することが認められた2100万<desiatiny>の代わりに、銀行預金だけで推計で50億ルーブルを失った(脚注2)
 現金を家の中に隠したり、地中に埋めたりして加えて70-80億を持っていた、との当時の推計を受け入れるとしても、1エーカーの耕作可能地(0.4 desiatiny)という平均的な割当土地の代わりに、農民たちは、1918年以前の64.4ルーブルを支払っていた。
 革命前、この土地の平均的価格は、64.4ルーブルだっただろう(脚注3)
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 (脚注2) 戦前のルーブルは金0.87グラムの価値があったので、この貯蓄で3900トンの金塊を購入できただろう。
 (脚注3) 1906年〜1915年に土地銀行が地主から購入した資産には、平均して、1 desiatina 当たり161ルーブルを要した。P. I. Liashchenko, Istoriia narodnogo khoziaistva SSSR, II, 3rd ed.(Leningrad, 1952), p.270. 農民家庭内の貯蓄の推計は、つぎによる。NZh, No. 56/271(1918年3月31日), p.2.
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 (12) 農民たちが新しい割当土地を得るためには、もうひとつの態様の犠牲を払わなければならなかった。
 ロシアでの私的に所有された土地について語るとき、土地布令が没収と配分の対象として指定した地主(landlord,pomeshchiki)、帝室、商人の土地を思い浮かべがちだ。
 しかし、革命前のロシアでの私的な農業用地(耕作地、森林、牧草地)の多く(三分の一以上)は、農民層の財産だった。それらは個人によって、またはより通常は団体によって、所持されていた。
 実際に、革命の直前には、農民とコサックたちが「地主」とほとんど同じ広さの土地を保有していた。
 1915年1月のヨーロッパ・ロシアでの土地(耕作地、森林地、牧場)である9770万<desiatiny>のうち、3900万、あるいは39.5パーセントは地主(貴族、官僚、将校)が、3400万(34.8パーセント)は農民とコサックたちが所持していた(注23)。
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 ③へとつづく。

2891/R.Pipes1990年著—第16章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第16章・村落への戦争>の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの①。
 (01) ボルシェヴィキによる村落への攻撃の成功と失敗を理解するためには、ロシアの村落経済への革命の影響を考えることが必要だ。
 以前に記述したように、ボルシェヴィキは1917年十月に、自らの農業綱領は傍に置いて、土地の国有化に集中した。それは農民層にもっと人気があったエスエルの土地綱領を支持していたからでもあった。エスエルの土地綱領は、補償なしでの土地の収用、小農民の帰属資産を除く、私的に所持された全ての土地の村落共同体への配分、を訴えていた。
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 (02) 中央ロシアの農民たちが土地布令を歓迎したことに、争いはない。それは、彼らの古くからの夢だった「黒の分配」を実現するものだった。
 私的な所持物が取り去られそうだったがゆえに迷っていた農民たちですら、避け難いこととして従った。
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 (03) しかし、このような基本的に煽動的で戦術的な措置がロシア農民の経済的地位を有意義に改善したのか、あるいは国全体の利益になったのかは、全く別の問題だ。
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 (04) 動かない客体である土地は、もちろん、たまたま存在している場所でのみ分配され得る。
 革命前のロシアでは、土地布令によれば収用の対象となる大量の私的な(非村落共同体の)土地は中央の大ロシア地域にではなく、帝国の周縁部に位置していた。前者はボルシェヴィキが支配しており、人口過剰の影響を最も受けていた。後者はBaltic 地域、西部地方、ウクライナ、北コーカサスで、これら全てが1917年十月以降はボルシェヴィキの支配から外れていた。
 その結果として、ボルシェヴィキ支配地域で分配可能な土地がある部分は、農民の期待を充足するには相当に不足していた。
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 (05) しかし、この地域でも、農民は奪取した土地を外部者(inogorodnye)にも近隣の村落共同体出身の農民にも分け与えることを拒んだので、公正な土地の配分を行なうのは困難だった。
 以下は、土地の配分が実際にどのように行なわれたかを示す、当時の文章だ。
 「農業問題は、単純な方法で解決することができる。
 地主が持つ土地の全体は、村落共同体の財産になる。
 全ての村落共同体は、従前の地主から土地を受け取る。そして、かりにある共同体には多すぎ、近隣の共同体には不足しているとしても、いかなる外部者にも、一片なりとも譲り渡さない。…
 (余剰の)土地があれば、別の村落共同体出身の農民の手に移るのでないかぎり、元の地主に譲る方をむしろ選ぶ。
 農民たちは、地主はその土地を使用するかぎりはなおも何がしかを稼ぐことができ、必要となれば土地を手放すだろう、と言う。」(注09)
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 (06) ロシアの農民層が1917-18年に耕作可能な土地をどの程度獲得したのかを決定するのは、容易でない。見積りの幅は広く、小さくて2000万から大きくて1億5000万<desiatiny>〔土地面積の単位—試訳者〕に及ぶ(注10)。
 大きな障害は、「土地」(zemlia)という言葉の曖昧な使用方法にある。
 革命後に行なわれた種々の統計調査で採用されているように、「土地」はきわめて異なる物を指し示している。耕作可能な土地(pashnia)というのが最も有益な使用方法だが、しかし、牧草地、森林、経済的価値のない土地(荒野、沼地、ツンドラ)も指し示していることがある。
 1億5000万<desiatiny>という狂信的な数字に辿り着くことができる、というのは、「土地」という意味のない項目の中に以上のような雑多な対象を一まとめにすることにすぎない。
 この1億5000万という数字は1936年に初めてスターリンによって採用され、長らく、共産主義の文献上は拘束的だった。革命の結果としてロシアの農民が獲得した、と主張されている(注11)。
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 (07) 信頼できる統計資料は、はるかに穏便な結果を示している。
 1919-20年に農業人民委員部が編集した数字が示しているのは、農民たちは全部で2115万<desiatiny>(2327万ヘクタール)を受け取った、ということだ(注12)。
 この土地は、きわめて不公平に分配された。
 ロシアの村落共同体の53パーセントは、革命によっていかなる土地も獲得しなかった(注13)。
 これはほとんど、村落数(54%)に対応している。同じ資料元によると、これらの村落は土地の再配分の結果について、「不幸だ」と感じた、と言ったという(注14)。
 村落のうち残る47パーセントは、きわめて不平等な分け前で、耕作可能な土地を獲得した。
 数字が存在する34の地方のうち、6地方の村落共同体は、一人当たり10分の1<desiatiny>以下しか受け取らなかった。
 12地方の村落共同体は、10分の1から4分の1を得た。
 9地方では、4分の1から2分の1を得た。
 4地方の農民たちは、2分の1から1<desiatina>を得た。
 残る3地方でのみ、農民たちは一人当たり1から2を得た(注15)。
 全国的には、農民一人当たりの平均的な耕作可能土地の共同体への配分は、革命前は1.87であったところ、2.26<desiatiny>へと上がった(注16)。
 これは、成人(edok)一人当たりの耕作可能土地が0.4<desiatina>または23.7パーセント増加したことを示しているだろう。
 最初に1921年に引用されたこの数字は、最近の研究で確認されてきている。
 その中で最も権威のある研究は、いくぶんか曖昧に、平均的な農民が受け取ったのは0.4<desiatina>を「超えなかった」、おおよそ1エーカーだった、と述べている(脚注)。この数字は、黒の大分配から農民が期待したよりもはるかに少なかった。
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 (脚注) V. R. Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100. V. P. Danilov, Pereraspredelenie zemel’nogo fonda Rossii(Moscow, 1979), p.283-7 〔引用元省略—試訳者〕は、革命の結果として農民の所持分は増加した、と言う。しかし、この数字からは、集団農場やその他のソヴィエト農場が取得した土地を控除しなければならない。19世紀後半の急進的知識人は、農民たちは黒の大分配によって5から15 desiatiny を得られると望んでいる、という農民の声を収集した。V. L. Debagorii-Mokrievich, Vospominaniia(St. Petersburg, 1906), p.137.および、G. I. Uspenskii, Sobranie Sochinenii, V(Moscow, 1956), p.130.
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 第二節・②へとつづく。

2890/R.Pipes1990年著—第16章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳。
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 第16章・
 1918年春まで、村落共同体は、二月革命以降に手にした資産をその構成員に分配した。
 その後の分配は、ほとんどなかった。動員解除された兵士や遅れて到着した工業労働者たちは、土地割当てを稀にしか受けることがなかった。
 しかし、奪取した土地を平穏裡に享有することができると期待した農民たちは、やがて間違っていたと知った。
 ボルシェヴィキにとっては、1917-18年の「大分配」(Grand Partition)は、集団化への迂回路にすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、農民たちが自分たちの消費と播種用に必要とする量以上の穀物は国家のものだとするかつての勅令を依り所として、収穫物についての権利を主張した。
 穀物についての自由市場は、廃止された。
 農民たちは、予期していなかった状況の変化に当惑し、その資産を守るために激しく戦った。暴乱となって立ち上がったのだが、それは、数と領域の点で、帝制ロシアで見られたものを超えていた。
 だが、ほとんど役に立たなかった。
 農民たちは、「強奪する」と「強奪される」はたんに同じ動詞の異なる様態にすぎないことを知るようになった。
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 第16章・第一節/農民を階級敵とするボルシェヴィキの見方。
 (01) 十月のクー・デタの最大のパラドクスは、おそらく、一国での「プロレタリアートの独裁」を確立するためにそれが追求されながら、労働者(自己使用の職人を含む)は有給の被用者のせいぜい10パーセントを構成するだけで、十分に80パーセントは農民だったことだ。
 そして、社会民主党の見方では、農民層—土地のない農業労働者という少数者を除く—は、「ブルジョアジー」の一部であり、そのような者として、「プロレタリアート」の階級敵だった。
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 (02) 自己雇用の(または「中間の」)農民の階級的性格の認識は、社会民主党と社会革命党の間で一致していない中核的問題だった。後者の社会革命党は、「勤労者」(toilers)として工業労働者に随行する農民と位置づけた。
 しかしながら、マルクスは、農民を労働者の階級敵、「古い社会の防波堤」と定義した(注01)。
 カール・カウツキーは、農民層の目標は社会主義のそれとは反対だ、と主張した(注02)。
 1896年に社会主義インター大会で提起された農業問題に関する声明で、ロシア社会民主党代表団は、農民は社会主義思想に閉ざされた遅れた階層で、放っておくのがよい、と述べた(注03)。
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 (03) レーニンも、このような評価に賛成だった。
 1902年に、こう書いていた。
 「小生産者で小耕作者の階級は、<反動的>階級だ」(注04)。
 しかし、彼は、何らかの理由で現状に不満をもっている全ての集団と階級を革命の過程へ引き込むという彼の一般的な政策方針に沿って、「プロレタリア」の教条を助ける「プチ・ブルジョア」の農民層を許容した。
 この点で—戦術の問題にすぎないのだが—、レーニンは他の社会民主党員と違っていた。
 レーニンは、ロシアの村落は大部分はまだ「封建的」関係に支配されている、と想定した。
 農民層がこのような秩序と闘うかぎりでは、「進歩的」役割を果たした。
 「我々は、完璧で無条件の、改革的ではない革命的な、農奴制の残存の廃止と破壊を要求する。
 我々は、地主政府が奪い取って彼らを今日まで事実上の農奴制のもとに置き続けている土地は農民のものだ、と承認する。
 このようにして、我々は、—例外を設け、特殊な歴史的状勢を理由として—小資産者の擁護者になる。
 しかし、我々は、『旧体制』を残存させるものに対する闘争のかぎりでのみ、農民層を防衛する。…」(注05)
 レーニンが1917年にエスエルの土地綱領を採用し、ロシアの農民に私的に所持している土地を奪い取るよう勇気づけたのは、このような純粋に戦術的な考慮からだった。
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 (04) しかし、この戦術の目的—「旧体制」と「ブルジョア」継承者の崩壊—が達成されると、レーニンから見れば、農民層は、「プチ・ブルジョア」反革命という伝統的役割へと立ち戻った。
 反動的な農民の海で溺れている、ロシアでの「プロレタリア」革命の危険性が、ロシアの社会民主主義者に強迫観念を植え付けた。彼らは、フランスの農民層がとくに1871年に都市の急進主義を抑圧したような役割を、ロシアの農民層が果たしている、と意識していた。
 可能なかぎり早く西側の産業諸国に革命を拡散しようとするボルシェヴィキの強い主張は、相当な程度で、このような運命に陥るのを避けたいという思いでもって掻き立てられていた。
 農民を土地の永続的な所持者の地位に置いたままにすることは、都市部への食糧供給者、革命の要塞として管理するのと同じことを意味した。
 レーニンは、ヨーロッパの諸革命は「村落ブルジョアジー」を排除しなかったがゆえに失敗した、と記した(注06)。
 より狂信的なレーニン支持者の何人かにとっては、レーニンがエンゲルスに従って同盟者と見なそうとした土地を所持しない村落プロレタリアですら、信頼することができなかった。彼らもまた、結局は農民だった。—つまり、潜在的には、クラク〔富農〕だった(注07)。
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 (05) レーニンは、歴史を繰り返させない、という気でいた。
 彼が西側での革命の勃発を強く当てにしても、彼が支配することのできない外国での情勢発展にロシアの革命を依存させようとはしなかった。
 彼は、ソヴィエト・ロシアでの農民問題を熟慮して、二段階の解決方法を考えた。
 長期的には、唯一の満足し得る結果は、集団化だった。—すなわち、全ての土地と生産物の国家による収奪および農民の賃労働者への移行。
 この措置だけが、共産主義という目標と最初に権力に到達したという社会的現実のあいだの矛盾を解消するだろう。
 レーニンは、1917年の土地布令とボルシェヴィキが十月後に導入したその他の農業上の措置を一時的で便宜的なものと見なした。
 情勢が許すかぎりで速やかに、村落共同体は土地を剥奪され、国家が運営する集合体に変わるだろう(脚注)。
 この長期の目標には、何ら秘密がなかった。
 1918年と1919年の多くの場合に、ソヴィエト当局は、集団化は不可避だと確認した。1918年11月の<prauda>の一記事は、体制がそうできるようになると、「中間農民」は「叫んで蹴飛ばす」(volcha i ogryzaias)集団農業へと引き摺り込まれるだろう、と予見した(注08)。
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 (06) そのときまで、レーニンの考えでは、1. 厳格に実施される穀物取引の独占による、食糧供給への国家統制を主張すること、2. 村落地域に共産主義者の権力基盤を導入すること、が必要だった。
 これらの目標を達成するために要求されたのは、村落への戦争に他ならなかった。
 ボルシェヴィキはこの戦争を、1918年夏に開始した。
 農民層に対する活動は—西側の歴史文献では事実上無視されているが—、ボルシェヴィキによるロシアの征圧の、最も重要な段階だ。
 レーニン自身が、農民との闘争が村落反革命を防止し、西側の先行者と違って、ロシア革命が中途で終わって「反動」へと後退することを阻止するだろう、と信じていた。
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 第二節へとつづく。 

2889/R.Pipes1990年著—第15章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第10節/戦時共産主義の結果。
 (01) のちに戦時共産主義と名づけられた政策は、かつてない頂上にまで経済力を高めるために企図された。それは、市場の力を排除して、生産と分配を完全に合理化しようとする、そのときまで存在しなかったきわめて野心的な試みだった。
 はたしてそれは、想定した結果を生み出したのか?
 明らかに、そうでなかった。
 この政策の最も狂信的な擁護者ですら、実験の3年後には ソヴィエト経済は滅茶苦茶になったと、認めざるを得なかった。
 体制が感知し得る全てを急速に国有化するにつれて、違法な自由市場は膨張し、ロシアの富として残っていたものを吸収してしまいそうだった。
 そしてまた、吸収できるものは大して多く残っていなかった。
 1920年のロシアの国民総収入は、1913年のそれの33〜40パーセントだった。
 その頃までに労働者の生活水準は、戦前のそれの三分の一へと劣悪化した(注152)。
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 (02) 事実は、争う余地のないものだ。しかし、その解釈は異なる。
 左翼共産主義者や他の即時の社会主義化を支持する者たちは、自分たちが生んだ破綻のど真ん中で、切迫している飢餓の見通しに直面しながら、失敗を認めるのを拒んだ。
 1920年に公表した論文で、ブハーリンは、ソヴィエト経済の崩壊を、勝ち誇って語った。
 彼の見方では、破壊されているのは「資本主義」の遺産だ。彼は誇ってこう語る。「このような大災害はかつては起きなかった」。それは全て、「歴史的に不可避で、歴史的に必要だった」。
 マルクス主義の術語で満ちた彼の書物には、ソヴィエト・ロシアの経済の実際の状態に関する、いかなる事実も、いかなる統計その他の資料も含まれていなかった。
 事実は、元凶は「資本主義」ではなく「ボルシェヴィズム」だということを、示していただろう(脚注)
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 (脚注) N. Bukharin, Ekonomika Perekhodnogo perioda, Pt. 1(Moscow, 1920), p.5-6, p.48. 経験的データを提示するとされた第二部は、出版されなかった。
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 (03) その他の共産主義者たちは、経済の厄災的状態の原因を、私的部門の残存に見た。
 彼らは決まって、部分的な国有化の条件では社会主義は達成させられない、と主張してきた。そして今でも正当だと感じていた。問題は、政府があまりに急速に社会主義を押し進めたことにあるのではなく、押し進め方が不十分だったことにある。
 このような考え方で戦時共産主義を擁護する典型的な主張は、まさにそれが放棄されようとしている1921年初頭に<prauda>に現れた。
 著者のV. Frumkin は、ソヴィエト経済の欠陥を、「その機構全体が、我々の階級敵であるブルジョアとプチ・ブルジョアの手にある」ことに求めた。
 この欠陥は「経済の前線にいる赤色司令官たちの、十分に大きな隊列」の形成によってのみ克服することができる。
 彼はこの任務は「多少とも遠い将来にある」ものと見ていた(注153)。
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 (04) もっと真っ当な頭脳のもち主は、1918-20年の社会主義の実験の失敗についての責任は全く別として、「資本主義」がこのような実験をもともと可能にしたのだ、と認識していた。
 本質的には、戦時共産主義のもとでのボルシェヴィキは、ブルジョア・ロシアが蓄積していた人的および物質的な資産で何とか生きてきた。
 しかし、これらには限界があった。
 1920年の夏に主導的なロシアの経済新聞紙に発表された分析は、こう結論づけた。
 「我々は、資本主義ロシアから遺贈された重要な資源や原料を完全に消費し尽くした。
 したがって今後は、我々自身の現在の生産から、全ての経済的利益を獲得なければならない。」(注154)
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 (05) この課題は、1921年の春に、新経済政策のもとで採用されることになる。すなわち、レーニンの元来の「国家資本主義」という観念に範をとった、継続期間は不確定の移行期。
 この期間に、政府は政治権力を維持しつつも、国の経済力を回復させる中で私的企業に限定的な役割を認めることになる。
 この期間に、「経済の前線にいる赤色司令官たち」の隊列が用意されることになった。
 生産力が十分に回復し、人員も利用可能な状態になると、新しい攻撃が着手されることになった。階級敵である「ブルジョア」と「プチ・ブルジョア」を廃絶し、真剣に社会主義の建設へと進むための新しい攻撃だ。
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 第15章、終わり。第16章は、<村落への戦争>。
ギャラリー
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