秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/05

2888/私の音楽ライブラリー057/クラシック㉗〜㉚。

 クラシック㉗〜㉚。
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 ㉗Tchaikovsky, Symphony No.4 in F-minor, op.53.
 →Herbert von Karajan, Berlin Phil. 〔Arig Sallehuddin〕

 ㉘Tchaikovsky, Violin Concerto in D, op.35.
 →Janie Jansen, Paavo Järvi, Berlin Phil. 〔Torns B.〕

 ㉙Tchaikovsky, Piano Concerto No.1 in B♭-minor, op.23.
 →Anna Fedorova, Yves Abel, Deutsche Nordwest Phil. 〔AVROTROS Klassiek〕

 ㉚Tchaikovsky, Serenade for Strings in C, op.48.
 →Seiji Ozawa, Saito Kinen O. 〔Korean.neri92〕 *第1楽章のみ.
 →Concertgebow Chamber O. 〔AVROTROS Klassiek〕
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 以上で、「クラシック30曲」終わり。

2887/R.Pipes1990年著—第15章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第九節/労働組合政策②。
 (06) 大会が労働組合に注意を向けたとき、メンシェヴィキはボルシェヴィキと袂を分かった。
 メンシェヴィキは最大の全国的労働組合のいくつかから強い支持を受けていたので、自立した労働組合という考え方に賛成だった。
 ボルシェヴィキは、労働組合は「生産を組織」し、「疲弊している国の経済力を再生 」させるために国家の機関、その代理者として奉仕すべきだ、と主張した。
 労働組合の任務の中には、労働をするという普遍的な義務を履行させることがある。
 ボルシェヴィキの決議案にはこうあった。
 「大会は、労働組合は必ずや社会主義国家の機関へと改変されるだろう、と確信する」。
 「労働組合の国家当局機関との完全な融合の全過程(いわゆる<ogosudarstvleniia>の過程)は、これら両者の合同の緊密した調和ある活動と、国家装置および経済に責任をもつ全ての機関を指揮するという任務のための広範な労働者大衆の労働組合による鍛錬の完璧に不可避の結果として、起きなければならない」(注145)。
 これは、ロシアの歴史的伝統ときわめてよく合致していた。国家は早晩に、ときにはそれら自身が主導して独立した自治的団体として形成された全ての諸機構を、自らのうちに吸収し、従属させる、という伝統とだ。
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 (07) 個々の工場委員会は全ロシア労働者支配会議に従う、次いでこの会議は諸労働組合とそれらの大会に説明責任を負う、労働組合の本来の役割は「社会主義国家の機関」として奉仕することだ、と布令されると、工場委員会の運命は、覆い隠された。
 第1回労働組合大会のあとの労働者支配機構の歴史は、容赦のない下降だった。すなわち、一つずつ、縮小し、衰退し、死んだ。
 労働者の全権幹部会の全国的な網を作ろうとする1918年春の運動は失敗したが、これは、運動の最後の喘ぎだった。
 1919年までに、工場委員会とそれによる労働者支配は、記憶の中の存在になった。
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 (08) 労働組合について述べると、その権威が内戦時に頂点近くに達したり政府が労働紀律の施行のために頼るに至ったりしたことがなくとも、その影響力を増大させた。
 党は、労働組合官僚を任命する権利をますますもつようになり、党官僚が是認しない、選挙された役員を追放した(注146)。
 1919年と1920年には、国家と党の諸決議は、労働組合は国民経済を作動させるのを助けているという基本的原則を、口先だけで依然として述べていた。
 しかし、実際にはその頃、労働組合の主要な任務は、政府の諸指令の伝達者として寄与することだった。
 これは、トロツキーが1920年4月に、労働組合の役割をつぎのように明確に語ったことだった。
 「建設途上の社会主義国家では、労働組合は、労働条件の改善にむけて闘うために必要とされるのではない。労働条件の改善は、社会的政治的諸組織全体の任務だ。
 そうではなく、生産目的のために労働者階級を組織するために必要とされる。つまり、教育し、訓練し、割当て、寄せ集め、一定の期間ごとの彼らの仕事を個々の範疇の労働者群や個々の労働者に与えるためにだ。
 ひとことで言うと、政府と連携して、権威をもって、労働者たちを単一の経済計画の枠組みの中へと送り込むためにだ。」(注147)
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 (09) 労働組合は、短命の工場委員会よりも、噛み砕くには固い胡桃だった。すなわち、内戦後の1919-20年に、選挙で選出された役員を党が指名した官僚で置き換えるという実務に関する爆発的論争が、党員内部で巻き起こることになる。
 この係争は大きな摩擦を生み、レーニンに、党内での分派を非合法化する口実を与えることになる。
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 (10) 労働組合の役割は構成員の利益を守ることではなく国家に奉仕することだ、といったん確定すると、組合への加入が義務的なものになることはその論理的帰結だった。
 強制的加入は布令によったのではなく、労働組合ごとに徐々に導入された。そして1918年の末には、労働者の四分の三が義務的な労働組合に加入していた(注148)。
 構成員数が大きくなればなるほど、労働組合はそれだけ重要になった。
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 (11) 同盟罷業(ストライキ)をする権利は労働者の利益にとって基本的なものと考えられ、1917年6月の第3回全ロシア労働組合大会でも再確認された(注149)。
 共産党政権はずっと、ストライキを非合法とする布令を発することがなかった。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキが国家企業に反抗する労働の停止を許容しようとしなかったことは、明白だ。
 工業企業の圧倒的多数が私人の手にあった場合には、立法的命令によってストライキを非合法化することができなかった。
 しかし、ボルシェヴィキは、この権利を認めるつもりはなかった。
 1918年1月の労働組合大会で、労働組合主義者のG. Tsyperovich は、
「生産の労働者支配という新しい条件」のもとではストライキを「より健全に実行することができる」と理解して、「以前と同じく、職業的労働者運動は、ストライキを労働者の利益を防衛する手段だと考えつづける」、 という動議を提出した。
 ボルシェヴィキが支配しているこの大会は、この決議案を黙殺した(注150)。
 実際には、存在しているかぎりにおいてだが、私人が所有する企業に対してはストライキが許容され、国有企業に対しては認められなかった。
 進展した企業国有化は、ストライキを違法とする効果をもった。
 ソヴィエト・ロシアでのストライキをする権利の事実上の廃止は、かくして、ある研究者によって、つぎのように明言されている。
 「(ソヴィエト政府が)最初に採用した考え方は、集団交渉と労働組合の強さは、労働休止を呼びかける権利にではなく、国家や党との政治的関係に依存している、ということだった。
 いかなる場合でも、ストライキを回避し、終結させる責任があるという負担は、今では労働組合へと、ストライキの権利が最も重要だったはずの組織へと、移された。
 労働組合は、自分たちに強さを与え、構成員を防衛することを可能にするまさにその力を、拒否しなければならないという信じ難い地位に、とどめ置かれた。」(注151)
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 (12) これは、ソヴィエト・ロシアでの労働組合主義の終焉を叙述していた。
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 第九節、終わり。

2886/R.Pipes1990年著—第15章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第九節/労働組合政策①。
 (01) 強制労働にもとづく体制には、もちろん、自由な労働組合が存在する余地はない。
 「労働者」国家では、その定義上、労働者は彼らの雇用者と分離した利益を受け取ることができないのだから、労働組合が認められないことには論理的な理由があった。
 トロツキーが述べたように、ロシアの労働者は、「ソヴィエト国家に対して、全ての問題について服従するよう義務づけられていた。なぜなら、ソヴィエト国家は<労働者の>国家なのだから」。そのゆえに、服従するということは自分自身に服従していることになる。かりに異なる考え方をもったとしても。
 自立した労働組合が許容されない実際的な理由もあった。それは、中央の計画と両立し難いのだから。
 したがって、ボルシェヴィキはすみやかに、二つの主要な労働者組織—工場委員会と労働組合—から独立性を剥奪した。
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 (02) 二月革命が勃発したあと、ボルシェヴィキによる激励もあって、工場委員会が、労働者による統制機関として影響力を広く獲得した、ということが想起されるだろう。
 無政府状況が広がっている中で、工場委員会は、全国的に技術ごとに組織された労働組合を犠牲にして、拡大していった。労働者たちは、別の場所で働く同じ技術を持つ労働者仲間よりも、同じ工場施設群で働く仲間たちに共感をもったからだ。
 サンディカリズムの刺激を受けて、工場委員会は左翼方向に重心を移し、1917年の秋には、ボルシェヴィキの強さを支える主要な勢力の一つになった。
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 (03) しかし、ボルシェヴィキが権力を握ると、利用する価値がほとんど認められなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちの私的利益を追求し、産業関係の既存のものを資産だと見なすようになって、生産に干渉し、経済計画を妨害した。
 権力はまだ不安定だった十月のクーのあとの数週間のあいだは、ボルシェヴィキは工場委員会の機嫌を気にしていた。
 1917年11月27日の布令は、5人以上を雇用する全ての企業に労働者委員会を設置することを定めた。
 この委員会は生産を監督し、最小限の生産高を決定し、生産費を設定し、会計帳簿を自由に見ることができるものとされた(注141)。
 これは、純粋で単純なサンディカリズムだった。
 しかし、レーニンには、農民がロシアの農地を所有し、兵士がその連隊を動かす、あるいは少数民族を排除することはともかく、労働者にロシアの工業を運営させるつもりがなかった。
 これらは目的のための手段であり。目的は権力を奪い取ることだった。
 そのゆえに、レーニンは工場委員会に関する布令の中に、当時はほとんど気づかれなかった二つの条項、工場委員会を廃止する権限を政府に与える乗根、を挿入した。
 一つの条項はこう定めた。労働者またはその代表者の決定が企業の所有者を拘束しているとき、その決定は「労働組合やその大会」で取消すことができる。
 もう一つの条項は、こう要求した。国家的重要性があるとして指定された—すなわち防衛産業と「生存に必要な」物品製造業のいずれかの—企業では、労働者委員会は、「厳格な秩序と紀律の維持について」、国家に対して説明責任を負う。
 ある歴史家が観察したように、これらの曖昧な諸規定はすみやかに労働者支配に関する布令を、「それが書かれた紙の価値がない」ものにした(注142)。
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 (04) やがて工場委員会は、政府と党の官僚制による監督の対象になることによって、弱体化した。
 労働者支配に関する布令は、各委員会に対して地域労働者支配会議に財政報告をすることを要求していた。この地域会議は、つぎに、全ロシア労働者支配会議に従属した。
 これらの監督機関を作動させている官僚たちは共産党によって任命されており、共産党の指令を実施する義務があった(注143)。
 これらの機構によって、工場委員会は、国家から独立した自分たち自身の全国組織を設立することが妨げられた。
 最高経済会議を設立する布令(1917年12月)は、全ロシア労働者支配会議を含めて、存在する全ての経済関係機関に対して及ぶ権能を、この経済会議に認めた。
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 (05) アナクロ・シンディカリスト的で労働組合のかたちをとった、ロシアの労働者運動の運命は、1918年1月にペテログラードで開催された第1回労働組合大会で、大部分は決定されていた(注144)。
 この大会で、社会主義知識人、ボルシェヴィキ、メンシェヴィキなどは、工業労働者のサンディカリスト的傾向を批判し、労働者支配のための要求を、生産と社会主義にとって有害だとして拒否した。
 労働者支配を支持する熱気ある議論があったにもかかわらず、大会は、生産に対する労働者支配を行使する手段を工場委員会から労働組合へと移す決議を採択した。この大会は、この決議についてメンシェヴィキとエスエルの支援を得たボルシェヴィキが多数派だった。
 工場委員会は、11月に得た権限の多くを、財政問題に干渉する権限も含めて、今や失った。
 決議はこう述べた。「生産の支配は、企業を労働者の手に移すことを意味<しない>」。
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 ②へとつづく。

2885/R.Pipes1990年著—第15章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法③。
 (13) どのように経済的に正当化しようとも、強制労働の実際はモスクワ公国時代の<tiaglo>への回帰を意味した。それによってかつて、農民層その他庶民である全ての成人男女を、国家のための辛い仕事をするよう召喚することができた。
 そして今では、主要な仕事は、物品運搬、材木切断、建築作業になった。
 燃料提供という1920年代に農民に課された義務がつぎのように叙述されたことは、モスクワ公国のロシア人には完全に理解できることだっただろう。
 「政府が期待した一種の労働役務として…、農民たちは、指定された森林で木材から多数の丸太を切断することを…命じられた。
 家屋を所有する農民は全て、一定の量の木材を輸送しなければならなかった。
 この木材は農民によって、河川の突堤、諸都市、そして最終地点へと配送されなければならなかった。」(注135)
 モスクワ公国時代の強制労働である<tiaglo>と共産主義のロシアでのそれとの違いは、主につぎにあった。すなわち、中世では特定の需要を充足させるために課された散発的(sporadic)な義務だったが、今では永続的な義務になった。
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 (14) 1919-20年の冬、トロツキーは、「労働を軍事化する」という野心的な構想を抱いた。それによって、制服着用の兵士は生産的な経済作業を行ない、民間人労働者は軍事紀律に服するだろう。
 一世紀前にAlexander 1世とArakcheev によって開始された悪名高い「軍事植民地」へのこの後戻りは、懐疑心と敵愾心でもって迎えられた。
 しかし、トロツキーは固執し、思いとどまるよう説得されはしなかった。
 内戦での勝利から帰還し、自分の重要性の感覚に満ちて、また新しい栄誉を得たいと熱望して、彼は、赤軍が外部の敵に打ち勝ったのと同じ大まかな手段によってのみロシアの経済問題を解決することができる、と強く主張した。
 1919年12月16日、トロツキーは、中央委員会のために一組の「テーゼ」を起草した(注136)。
 彼は、経済の諸問題は、十分な紀律のない労働者の軍隊によって処断されなければならない、と主張した。
 ロシアの労働者は、軍隊の様式でもって編成されなければならない。義務の忌避(割当てられた仕事の拒否、長期欠勤、仕事中の飲酒、等)は、罪悪として、軍事法廷へと送られるべき犯罪として扱われなければならない。
 トロツキーはさらに、赤軍の分団はもう戦闘する義務を負わず、動員が解除されて故郷に戻るのではなく、「労働軍」(<trudarmii>)へと改変されるべきだ、と提案した。
 こうした「テーゼ」は、公表されることが意図されてはいなかった。だが、<pravda>の編集長のブハーリンは、不注意で(彼の主張では)またはトロツキーを貶めるために(他者が信じたところでは)、機関紙に印刷した。
 1920年1月22日付の<pravda>で公表されたトロツキーの「テーゼ」へへは、激しい抗議の声が上がった。その中にはたいてい、「Arakcheebsh 陶器」という添え句が付いていた。
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 (15) レーニンは、説得された。国の経済のいっそうの悪化を阻止するという切迫した必要があったからだ。
 1919年12月27日、彼は労働義務委員会の設置に同意した。これの委員長は、戦時人民委員部の長官の地位を維持していたトロツキーだった。
 トロツキーの構想には、2組の手法が含まれていた。
 1. 前線にはもはや不要な軍団は、動員解除されない。そして、平時の労働軍へと改変され、線路床の改修、燃料の輸送、農業機具の修理のような任務が割当てられる。
 ウラルで戦闘をしていた第三軍団は、この改変が行なわれる最初の軍団だ。のちに、その他の軍団が、改編される。
 1921年3月には、赤軍の四分の一が、建設と輸送に雇用された。
 2. 同時に、全ての労働者と農民が軍事紀律に服する、とされた。
 この政策が激しい異論を生じさせた1920年の第9回党大会で、トロツキーは、政府は、必要な場合はいつでも、民間の労働者を自由に使えなければならない、と強く主張した。軍隊でと全く同じく、労働者の個人的な選好は考慮してはならない。
 「動員された」労働者は、労働人民委員部を通じて、要請している企業へと配置される。
 1922年にこの実験を振り返って、労働人民委員部のある官僚は、こう述べた。
 「我々は、計画に応じて、従って労働者の個別的な特性やあれこれの種類の仕事をしたいという希望を考慮することなく、労働力を供給した」(注137)。
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 (16) 労働軍も軍事化された労働者たちも、この政策の主唱者たちの期待を満足させなかった。
 元兵士の労働者たちは、訓練された民間人と比べてごく僅かの生産しかしなかった。彼らは、群れをなして脱走した。
 政府は、軍事化された労働者を管理し、食料を与え、輸送するということを企画するのに、克服し難い技術的な困難に直面した。
 したがって、スターリンやヒトラーによる奴隷労働の組織化の原型だったこの政策は、放棄されざるを得なかった。工業への動員は1921年10月21日に廃止され、労働軍も数ヶ月のちに解体された(注138)。
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 (17) この実験はトロツキーの信用を傷つけ、レーニンの後継者争いでの彼の地位を弱めた。失敗したという理由によるだけではなく、「ボナパルティズム」という追及に彼が傷つきやすくなったことにもよった。
 実際に、ロシアの経済がかりに軍事化されていれば、トロツキーに従った官僚たちは、民間部門で支配的な地位を獲得していただろう。
 悪態の言葉としての「トロツキズム」は、このような企図と関連して1920年代に頻繁に用いられた。
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 第八節、終わり。

2884/斎藤元彦②—法というものの考え方003。

  兵庫県知事定例記者会見(2025年5月20日)の一部。
 「フリー記者/県保有情報の漏洩の第三者委員会〔「三つめ」委員会のこと—秋月〕の推薦依頼をした文書が去年12月に出ていますが、これ斎藤知事名で書かれていてですね、その調査対象には週刊文春電子版も入っている。
 これ、依頼するときに斎藤知事は知っていたということですね。
 知事名で出された文書で知事が知らないはずはないと思うんですが、知っていたということで間違いないでしょうか。」
 「斎藤元彦知事/あの、私は存じ上げてません。
 「フリー記者/えっ。斎藤知事名で出した文書の内容を知らなかったということですか?
 その中に週刊文春の電子版を調査対象にするということが書かれて、依頼しているんですが、知らないということですか?」
 「斎藤元彦知事/あの、行政というものはですね
 知事名や大臣名で出される文書っていうおはたくさんあるんですけれど、それの決裁権者というのは全て知事名で出されるから、知事が決裁ではなくて、…決裁権者というのは部長さんであったりとか課長さんとか、それぞれ委任されていることがありますので、全てのことが私の名前で出されているからといって、私が全て決裁しているっていうわけではないことは、ご理解いただけると思います。」
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 以上の部分は、斎藤元彦が自分にではなく部下に(週刊文春電子版を調査対象とした)責任を押し付けた部分として話題になっているようだ。
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  斎藤元彦は「行政というものはですね」などと言って、「行政」のプロ・専門家らしき口吻だが、上の説明には、斎藤元彦における「行政・行政法」に関する無知がある。
 「決裁」と「委任」というのが上の発言に出てくる専門述語のようだ。
 しかし、斎藤元彦は、「専決」およびこれと同義の「内部委任」という語をなぜか使っていない。
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 宇賀克也・行政法概説III—行政組織法·公務員法·公物法(有斐閣、2012年)p.52.にこうある。
 「専決/国·地方公共団体をとわず、実務上広く行われている行政事務の処理方法として、専決と呼ばれるものがある。これは、内部委任とも呼ばれるが、権限を対外的には委任せず、また代理権も付与せずに、実際上、補助機関が行政庁の名において権限を行使することをいう。
 行政庁Aの決裁権限を補助機関である課長Bが最終的に行使することを内部的に認め、BがAの名において当該権限を行使する方式である。形式的にはA の名において権限が行使されるので、Aが処分庁として扱われる。」
 斎藤元彦の説明に真実性があるとすれば、同知事(行政庁)が課長(法務文書課長。補助機関)に「専決」権限を認めた(=「内部委任」)、ということだろう。
 しかし、どのような権限・事務処理を「補助機関」の「専決」とするかは、あらかじめ「〜県専決(・代決)規程」というような規定を「行政庁」(県の場合多くは県知事)が定めておかなければならず、それがあってはじめて「課長」は自己の判断で「決裁」することができる。斎藤元彦は、自分が定めた(ことになっている)「専決規程」を見てみるがよい。
 さらにまた、「専決」規程により「決裁」権が「課長」にあるとかりにしても、知事—課長の指揮監督権が消失するわけでは全くない。知事は「専決」権者を指揮することができ、事後的に事務処理の結果を「報告」させることもできる。これらは<拘束力>をもつ。
 したがって、「課長」が「専決」したので、私(知事)は知りません、責任はありません、などと県知事は絶対に言うことができない
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 だがそもそも、「三つめ」の調査のための委員(弁護士)の推薦を県弁護士会に依頼するという場合、そのような事務は頻繁にある事務、あるいは定型的な事務ではないので、「専決」規程があらかじめ定めているとは考え難い。
 とすると、斎藤元彦の言う「委任」を「内部委任」と理解しないかぎり、課長の「専決」だったという斎藤元彦の説明は、信用できない。
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 ついで、「委任」とは、行政庁の権限の別の機関への「委任」であって当初の行政庁Aの権限が別の機関(新しい行政庁になる)に移ってしまうことをいう(前掲・宇賀p.41-42)。
 そして、この委任には「法的」根拠が必要であり、斎藤元彦は上で「委任」をどういう意味で用いているのか分からないものの、そもそも部長や課長等の「補助機関」への「(外部)委任」の例などは存在しないと考えられる。常識的にあり得ないし、そもそも「法的」根拠が必要だ。
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  以上からする結論は、何だろうか。
 おそらく確実に、斎藤元彦は<ウソをついた>ということだ。
 実際的に見ても、知事のもとに置かれる「第三者委員会」の設置あるいは「第三者弁護士への調査委託」に関して、かつまたマスメディア上も注目されてきたこの「委員会」の「調査対象」について、斎藤元彦の意思・意向が反映されなかったとは、つまり課長レベルでだけ決められていたとは、到底考えられない。
 斎藤元彦はそこまで「あほ」ではないだろう。
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2883/R.Pipes1990年著—第15章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法②。
 (08) 強制労働を導入する公式の理由は、計画化経済の必要条件だったことだ。
 経済計画は、決して気まぐれに議論されたのではないが、労働が他の全ての経済資源と同じ統制を受けるのでなければ、達成することができなかった。
 ボルシェヴィキは、権力掌握前の1917年4月にすでに、強制的労働義務の必要を語っていた(注126)。
 戦争中の資本主義国ドイツでは強制労働の導入は労働者に対して「不可避的に制裁的な軍事上の労働役務(katorga)を意味した」のに対して、ソヴィエトによる支配のもとでは、同じ現象は社会主義に<向かう巨大な一歩>を示すものだ(注127)。こう言うことに、レーニンは何ら矛盾を感じていなかったようだ。
 ボルシェヴィキは、彼らの言葉に忠実に、その最初の日に役所での労働徴用の意図をもっていることを宣告した。
 1917年10月25日、臨時政府の打倒を発表したのとまさにほとんど時を措かずに、トロツキーは、第二回全国ソヴェト大会でこう言った。
 「普遍的な労働義務の導入は、本当に革命的な政権の最も直近の目標のひとつだ」(注128)。
 おそらく代議員のほとんどは、この言明は「ブルジョアジー」にのみ適用されると考えた。
 そして、実際に、その独裁の最初の数ヶ月、レーニンは、個人的な敵愾心に駆られて、「ブルジョアジー」に屈辱を与えることから出発し、人々に慣れないまま退屈な雑用的手作業をすることを強いた。
 銀行を国有化する布令(1917年12月)の草案に、彼はこう書いた。
 「第6条: 普遍的労働義務。第一歩—消費者労働、富者のための安価労働による小冊子、彼らの統制。彼らの義務—指示どおりに働くこと、その他—『人民の敵』」。
 欄外にこう付け加えた。「前線への派遣、強制労働、没収、逮捕(射撃による処刑)」(注122)。
 のちに、着飾った者たちが監視されながら単調な義務を履行するのを見るのは、モスクワやペテログラードでの普通の光景になった。
 こうした強制労働の利益はたぶん無に近かった。だが、「教育」目的に役立つこと、つまり階級憎悪を掻き立てることが意図されていた。
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 (09) レーニンが示したように、これは第一歩にすぎなかった。
 やがて、強制労働の原理は別の社会階層へも拡張された。
 これが意味したのは、全ての成人が生産活動に従事しなければならないということだけでなく、全ての男女が命令を受けながら働かなければならない、ということだった。
 ロシアを17世紀の実務へと戻すこの義務は、1918年1月に「労働者、被搾取階級の権利の宣言」として布令された。
 これには、次の条項があった。
 「民衆の中の寄生虫的分子を破壊するために、普遍的労働義務が導入される」(注130)。
 この原理は1918年の憲法に挿入され、国の法となり、それ以来ずっと、「寄生虫」として国家による雇用を回避する者に対処する法的基礎として機能した。
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 (10) 労働徴用の原理は、1918年の末には、実際的な詳細にまで練り上げられた。
 1918年10月29日の布令は、「労働力を配分する」ための機関の全国的な網を定めた(注131)。
 1918年12月10日、政府は詳細な「労働法典」を発した。これは、16歳から60歳までの間の全ての男女について、若干の例外はあるが、「労働役務」を履行すべきことを定めた。
 すでに常勤の仕事に就いている者は、それにとどまるものとされた。
 その他の者は、労働割当て部署(ORRS)に登録するものとされた。
 この機関は、適当と考える誰をも、どこにでも割り当てる権限をもった。
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 (11) 強制労働に関する布令は少数者(16歳から18歳までの子ども)に適用されたのみならず、特別の命令が、国家に対して特別の重要性をもつ工業または企業に雇用されている子どもたちに、超過労働をさせることを認めた(注132)。
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 (12) 1918年の遅くまでに、ボルシェヴィキ当局が労働者や多様な分野の専門家をちょうど赤軍入隊者を徴兵するように動員することは、日常的な実務になった。
 このような実務は、政府が労働者や経済の特定の分野の技術的専門家を「軍務のために動員」し、軍事裁判所に服させると発表することを意味した。つまり、割当てられた仕事を放棄した者は脱走兵として扱われた。
 きわめて重要な分野の技術を持っているが今はそれを使わうことのできない仕事に雇用されている者は、登録して、召喚を待たなければならなかった。
 「動員」されるべき最初の民間人は、鉄道労働者だった(1918年11月28日)。
 その他の範疇は、つぎのとおり。
 技術の教育と経験がある者(1918年12月)、医療従事者(1918年12月20日)、河川や海洋の船舶の被雇用者(1919年3月15日)、石炭労働者(1919年4月7日)、郵便・電信・電話の被雇用者(1919年5月5日)、燃料工業の労働者(1919年6月27日と11月8日)、綿工業労働者(1920年8月13日)、金属労働者(1920年8月20日)、電気工(1920年10月8日)。
 このようにして、工業関係職業は徐々に「軍事化」され、兵士と労働者のあいだ、軍役者と民間人のあいだの区別は不明確になった。
 工業労働者を軍隊を範型にして組織しようとする努力は、この問題に関する大量の布令があったことを見れば、十分に達成され得ることはなかったのだろう。氏名の公表から強制労働収容所への拘禁にまで及ぶ、「労働脱走者」に対するかつてない新しい制裁を設定したのだったが。(注134)
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 ③へつづく。

2882/兵庫県·「二つめ」の委員会の対象・週刊文春2024年7月25日号。

  兵庫県の「二つめ」の第三者委員会の調査対象は、一般に<元西播磨県民局長(告発者)の公用パソコン内の「私的情報」の前総務部長による漏洩>だとされてきた。これが誤りであることは、すでに記した。
 →兵庫県人事課·「二つめ」の第三者委員会の任務全ては「週刊文春の情報元」捜し〔No.2871/2025年5月5日〕
 兵庫県人事課の記者発表によると、正しくはつぎだ。令和6年は2024年。
 「週刊文春令和6年7月25日号に掲載された本県職員が秘密を漏えいしたと疑われる事案の調査
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 上の週刊文春2024年7月25日号の記事のうち「県職員」の発言(要旨を含むと見られる)が、「」付きで紹介・引用されているのは、つぎの4カ所だ。
 「X氏が告発したのは斎藤知事だけではない。
 片山副知事、県職員の総務部長、産業労働部長、若者·Z世代応援等調整担当理事の四人への言及がある。
 この“四人組“は、みんなもともと人事課出身。
 2013〜16年に冬至総務官僚だった斎藤知事が宮城県に出向していたころ、東海日本大震災の復興関連で、兵庫県も職員を派遣することが多かった。
 するとこの4人組と斉藤知事は仲良くなり、いつも仙台でつるんでいた。
 兵庫県では知事以下五人を『牛タン倶楽部』と呼んでいます」(県職員)
 「この頃、県庁周辺で、ある動きが確認されている。
 人事課を管轄する総務部長が、大きなカバンを持ち歩くようになった。
 中には、二つのリングファイルに綴じられた文書が入っており、県職員や県議らにその中身を見せて回っていたようです」(前出・県職員)
 前出の県職員が語る。
 リングファイルの中身は、押収したPCの中にあったX氏の私的な文章。
 どうやらその文章は、四人組によって、県議会や県職員の間に漏れていたそうです。
 事実、私もこの産業労働部長から文章の内容を聞かされました
 その際、産業労働部長はこう話していたという。
 もしアイツ(X氏)が逆らったら、これの中身、ぶちまけたるねん
 「なぜ岸口、増山両県議はPCの公開にこだわるのか。
 Xさんの秘密を暴露することで、Xさんの人間性を貶め、告発文書の信頼性を下げるのが狙いでしょう(前出・県職員)
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 以上。
 同じ「県職員」という語が用いられているので、一人の、同一の職員である可能性がある。だが、複数である可能性を排除できないだろう。
 但し、重要なことだが、記事はこの(これらの)「県職員」からの取材・情報提供によって成り立っているのではない。
 「県OB」も登場していて、つぎの二つの文章部分の基礎・きっかけになっているようだ。
  「「知事になった斎藤は『牛タン倶楽部』のメンバーを側近として重用。
 同時に『根回しは嫌い』を公言し、県庁職員殿コミュニケーションを拒み、四人組への依存を深めていくばかり。
 敵対的と見なされた者は次々と排除された。
 最近は、斎藤に意見できる職員は誰もいなくなっていた」(県OB)」
  「「しかし、知事が勢い任せに『嘘八百』と口にしてしまったことで、県はあの文書を『嘘八百』と結論づけるための内部調査しかできなくなった」(同前)」
 内容の引用を省くが、つぎの人々も登場している。
 「ある県議」「自民県議」「百条委員会理事」「県関係者」「兵庫県職員労働組合の関係者」
 そして、記事のタイトルの「元局長を自死に追い込んだ『七人の脅迫者』」とされた7名(上記「牛タン倶楽部」5名と岸本・増山の2名の県議)も取材対象になっていて、増山誠以外はこれに応じている。斎藤元彦は質問書に対して「代理人」を通じて回答した。
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 このように、斎藤元彦自身がこの記事の「取材源」の一部になっている。
 そして、前出の「県職員」からの情報が基礎になっているのは、秋月の概略計算では、20%に満たない
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  上記「二つめ」の第三者委員会の任務である調査対象は、「週刊文春令和6年7月25日号に掲載された本県職員が秘密を漏えいしたと疑われる事案」(調査実施要綱1条)だとされている。
 ここにいう「本県職員」を正確に限定すると、「県関係者」の中に存在するかもしれないが、「県OB」や「県議会議員」などは含まれないだろう。
 むしろ、明確に「県職員」に該当するのは、総務部長(当時、井ノ本某)・産業労働部長・…等調整担当理事の3名だ。
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 さて、人事課担当のこの「二つめ」の第三者委員会—「三つめ」のそれと同じ3名の弁護士で構成されたとされる—は、いったい誰を、「秘密漏洩」の疑いがある者として調査の対象にしたのだろうか。
 特定できない「本県職員」は、上記の「県職員」だけだ。
 とすると、この「二つめ」の委員会はこの特定職員の<探索>を実質的な任務としていた、と理解してよいように考えられる。
 だが、振り返って、上掲の①〜④のような「外部提供」は、はたして兵庫県の「秘密」の「漏洩」だと言えるのか
 斎藤元彦県知事が「懲戒権」をもつのは、(県議等は入らないので)「県職員」と当時の2部長ら3名だけだ。斎藤は<懲戒処分>をこれらに対して行なうつもりなのだろうか。
 あるいは、記事に登場した者全てを(自身も含まれるのだが)、<刑事告発>するつもりなのだろうか。
 週刊文春の側の「取材の自由」・「報道の自由」や県民の「知る権利」等には、もう触れない。
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 こう執筆していて、ますます「気分が悪く」なる。斎藤元彦が立花隆志の「表現の自由」に言及していることを知って、尚更だ。
 異世界に住む人物に拘泥していると、こちらまで異世界に引き込まれそうになる。知事にかかわらざるを得ない県職員たちは、本当に気の毒だ。
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2881/R.Pipes1990年著—第15章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法①。
 (01) 1917年十月、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の名において、ペテログラードで権力を奪取した。
 この経緯のために、ボルシェヴィキは労働政策を大きく改善すると期待されたかもしれなかった。かりに、「ブルジョア」的帝制と臨時政府のもとでのそれと、産業労働者の経済的な、そして確実に社会的で政治的な地位を比較する必要が必ずしもなかったとしても。
 しかし、この点でも、結果は、宣せられた意図とは全く反対だった。つまり、ロシアの労働者階級の地位は、象徴性以外の全ての点で顕著に悪化した。
 とくに、彼らは今や、やっと手にした団結し、罷業をする権利を失った。これら二つは、労働者の自己防衛のための不可欠の武器だったが。
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 (02) もちろん、革命と内戦のもとで経済を稼働させ続けるべく、ボルシェヴィキは労働者の権利を制限する以外に選択の余地はなかった、と論じることはできるし、そのための論拠も示されてきた。「プロレタリア」革命を救うために、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の権利を停止しなければならなった、というのだ。
 こう解釈すれば、戦時共産主義の残りがそうであるように、ボルシェヴィキの労働政策は遺憾なものだが、避けることのできない便宜的な措置だったことになる。
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 (03) ボルシェヴィキ体制がその生存を賭けて闘っているときに導入された反労働者的諸措置は、一時的にだけ考案されたものではなく、情勢が緊急措置として正当化したが緊急事態を超えて永続する社会哲学全体を表現したものだった。このことは、上のような解釈を困惑させる。
 ボルシェヴィキは、強制労働、ストライキ権の廃止、労働組合の国家機関への移行を、内戦勝利に必要なものみならず、「共産主義の建設」に不可欠のものだと考えた。これが、内戦に勝利して体制への危険はもうなくなった後でも、ボルシェヴィキが反労働者政策を維持した理由だ。
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 (04) 強制労働という観念は、マルクス主義の中に埋め込まれている。
 1848年の<共産主義者宣言>第8条は、「労働に対する全ての者の責任、とくに農業のための産業軍の設立」を謳った。
 明らかに、自由な商品市場のない規整された経済では、労働に関する自由な市場を存続させるのは馬鹿げている。
 この主題にしばしば言及したトロツキーは、心理学的意味を加えた経済的根拠を強く主張した。すなわち、人間は元来的に怠惰で、餓死の恐怖によってのみ労働へと駆り立てられるのだ、と。国家が市民に食糧を与える責任を引き受ければ、この恐怖は消失するので、強制に頼ることが必要になる。(脚注)
 トロツキーは基本的に、強制労働は社会主義の分離し難い特質だという見方を提示した。彼はこう言った。
 「人間はむしろ怠惰な生物だと言ってもよい。一般論としては、人は労働を避けようと懸命になる。…
 経済的任務にために必要な労働力を惹きつける唯一の方策は、<強制労働役務>を導入することだ。」(注120)
 強制労働は危機が存続しているあいだの経過的手段だと勘違いされないように、トロツキーは、そうではないと注意したうえで、上のように述べた。
 「もちろんこれは、強制という要素を排除することを意味していいない。
 強制という要素が歴史の記述から消えることはない。
 いや、強制は、歴史の重大な時期に、重要な役割を果たすだろう。」(注121)
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 (脚注) 人間は飢餓を避けるためにのみ労働するとの考え方を、トロツキーはマルクスから採用した。トロツキーは、Reverend J. Townsend のthe poor of laws:Das Kapotal I, Chap.,25, Sect. 4 の記述にそれを見出した。
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 (05) トロツキーは、1920年4月の第三回労働組合大会で、とくにあからさまに、この主題を語った。
 自由な労働よりも生産性が低いという理由で強制労働の廃止を訴えるメンシェヴィキの動議に応えて、トロツキーは隷属労働を擁護した。
 「メンシェヴィキがその決議で強制労働はつねに生産性が低いと言うとき、彼らは、ブルジョア・イデオロギーに囚われており、社会主義経済のまさに基盤を拒否している。…
 農奴制の時代には、強制労働は全ての農奴に対してそびえ立つ憲兵ではなかった。
 農奴が慣れるようになる、一定の経済的様式があった。それを当時は公正なものと見なし、ときどきだけ反抗した。…
 強制労働は非生産的だと言われる。
 経済の中心機関による、全国的経済計画の要求に合致した労働力全体の割当てによる以外に社会主義を達成する方法は存在しないのだから、そういう言明は、社会主義経済全体を解体させるものだ。」(注122)
 要するに、強制労働は社会主義に不可欠であるのみならず、実際上有益なものだ。
 「強制的隷従労働は、封建階級に悪意があったゆえに出現したのではない。それは、進歩的な現象なのだ。」(注123)
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 (06) 労働者は「社会主義」国家の無賃従僕者に—つまり表向きは、国家の「主人」だとされているのだから、自分自身の奴隷に、—にならなければならない、という考え方は、中央集権的で組織的な経済および人間の本性に関する悲観的な見方というマルクス主義の中に嵌め込まれていた。また、ボルシェヴィキ指導者たちがロシアの労働者について抱く極端に低い評価によって強化された。
 ボルシェヴィキは、革命の前は、ロシアの労働者を理想化していた。しかし、労働者たちと接触して、たちまちのうちに幻想に変えた。
 トロツキーは農奴制の良さを称揚した一方で、レーニンは、ロシアの「プロレタリアート」を却下した。
 1922年3月の第11回党大会で、レーニンはこう語った。
 「『労働者』と言うときしばしば、この言葉は『工場労働者』を意味すると考えられている。
 戦争以降のわが国では、工場や工場施設群に働きに行く者たちは少しもプロレタリアではなく、戦争から逃げるためにそうしていた。
 そしてまた、我々は、本当のプロレタリアートを工場や工場施設群に働きに行く気にさせる社会的、経済的条件をもっているだろうか?
 そのような事情にはない。
 マルクスによれば適正な言辞だが、しかしマルクスは、ロシアについてではなく、15世紀から始まる資本主義全体について書いた。
 600年間は適正だったが、今日のロシアについては適正でない。
 工場に行く者たちは、徹頭徹尾プロレタリアートではなく、あらゆる種類の偶然的要素で成っている。」(注124)
 この驚くべき告白が意味していることは、ある程度のボルシェヴィキたちも共有していた。
 レーニンにとって、上のような言明は、十月革命は『プロレタリア』によって成し遂げられたのではなかった、かつ『プロレタリア』のためになされたのですらなかった、という意味に他ならなかった。
 Shriapnikov にだけは、この点を明言する勇気があった。
 「Vladimir Ilich 〔レーニン〕は昨日、マルクスが認めた意味でのプロレタリアートは存在しない、と言った。…
 存在しない階級の前衛であることに、きみたちをお祝いさせてくれ」(注125)。
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 (07) レーニンとトロツキーが抱いていたような、一般には人間の本性についての、特殊にはロシアの労働者についての見方からすると、かりに他の考慮によれば反対するに至らなかったとしても、自由な労働や自立した労働組合は耐え難いものだった。
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 ②へとつづく。

2880/私の音楽ライブラリー055/クラシック㉓〜㉖。

 ライブラリー056/クラシック㉓〜㉖
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 ㉓Schumann, Symphony No.1 in B♭, op.38. 〔Avrotros kiassiek〕
 →Gerald Oskamp, Phil. Südwestfalen.

 ㉔Schumann, Cello Concerto in A-minor, op.129.
 →Jacqueline du Pre. 〔Araks Gyulumyan〕
 →Kian Soltani, Christoph Esschenbach, SWR SymphO.〔Kian Soltani〕

 ㉕Schumann, Piano Concerto in A-minor, op.54.
 →Helene Grimaud, Thomas Hengelbrock, NDR Elbphil. 〔ARD Klassik〕

 ㉖Skoryk, Melody (the High Pass).
 →Daniel Hope, Alexey Botvinov. 〔Deutsche Grammophon〕
 →Camille Thomas, Nayden Todorov, Sophia PhilO. 〔Camille Thomas〕
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2879/兵庫県·「三つめ」第三者委員会は言論·報道弾圧に加担。

 兵庫県の(法務文書課が担当した)「三つめ」の第三者委員会は、2025年3月13日に、すでに提出していた「報告書」を法務文書課長とともに公表し、記者会見にも応じた。
 この委員会はずっと、立花隆志らへの県情報の「漏洩」過程を調査しているとされたが、今年3月31に公表された「委託契約」、「設置要綱」よって、週刊文春のいくつかの記事の「情報元」からの「外部提供」過程も対象とされていることが突然に一般に明らかになった
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 この委員会および兵庫県総務部法務文書課の対応に関する基本的な疑問は、つぎのとおり。
 第一に、問題設定の仕方、調査方法等につき、立花隆志・丸山穂高と文藝春秋・週刊文春を同列に扱っている。
 そもそも「委託」契約の締結時点で、週刊文春を含むことは明示されていたはずだが、弁護士たち(委員長・工藤涼二)は週刊文春の「情報元」・「取材源」にかかわる調査をすることについて、何ら疑問に感じなかったようだ。次に指摘する点とともに、「法的」感覚が少しずれているのではないか。
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 第二に、立花隆志・丸山穂高に提供された情報と週刊文春に提供された情報とは性格が相当に異なることを一切考慮していないようだ。
 各情報ごとには書かないが、大雑把に言って、前者は斎藤元彦にとって<有利>であり、後者は<不利>なものだ。
 情報流布のこうした「政治的」機能の差異を弁護士たち(委員長・工藤涼二)は無視するのが<法的専門家>だとむしろ自負しているのかもしれないが、次の点も含めて、「法的技術者」に堕しているのではないか。
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 第三に、上記の前者の情報は元県民局長の「私的情報」であり、後者の情報は、兵庫県政(・斎藤元彦)の動向にかかわる「公的」情報だ。
 かりに国民・県民が国政・県政についての「知る権利」をもつとすれば、むろん個別の検討が必要ではあるのだろうが、この「知る権利」に奉仕し得るのは後者であり、前者は基本的には「公共性」の乏しいプライヴァシー情報にとどまる
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 第四に、したがってまた、公務員の「秘密漏洩」罪成立との関係でも、上の前者(対立花・丸山)と後者(対週刊文春)とでは異なる考察が必要だと考えられるが、この委員会と法務文書課は、この重大な問題を看過している。
 すなわち、県保有情報=「秘密」ではない
 公務員法上保護されるべき「秘密」であるためには、実質的に「秘密」として保護されるべき価値のある情報でなければならない(「秘」とのスタンプだけで「秘密」になるのでもない)。
 「知る権利」との関係では、積極的に、あるいは受動的にでも、「公開」されるべき(マスコミによって報道されてよい)情報がある、と考えられる。
 この点を無視して、「外部への情報提供」が全て「秘密漏洩」にあたると理解しているとすれば、「法的無知」が甚だしい。
 法務文書課(ひいては知事の斎藤元彦)が主導したのかもしれないが、第三者委員会の弁護士たち(委員長・工藤涼二)は、<憲法>の人権論、「知る権利」や報道(・放送)の自由に感覚を及ぼさせて、法務文書課(・兵庫県自体)に警告的助言をするくらいのことは、「法的専門家」として、可能であったのではないか
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 この「三つめ」の委員会を構成したのと同じ弁護士たちが「二つめ」の委員会も担当したらしい。
 全て又はほとんどのマスメディアが気がついていないようだが、「二つめ」の委員会の調査対象の関係情報は、週刊文春2025年7月25日号p.21-p.23の記事であって、この「二つめ」はこのいくつかの部分の「情報元」を探索したものだ。
 ますます<気持ち悪く>なっている
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 なお、「三つめ」の第三者委員会「報告書」は、提供されネット上にあった情報と県保有情報が同一性を確認した、としている。
 念のために書いておくが、この「情報」中に、前回言及した、立花隆志の「二回めの選挙ポスター」の内容は含まれていない
 すなわち、立花某のいう「元県民局長は10年間で20人以上もの女性県職員と不適切な関係を結んで」いたことを示す情報、「おびただしい数の不倫写真」、増山文書のいう「不倫相手とのわいせつ画像」は、含まれていない。
 むしろ、これらは存在しなかったことが公式に確認された、と言ってよい。
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2878/立花隆志・第二の選挙ポスター(2024/11兵庫県知事選)。

 2024年11月31日に告示され、運動期間を経て11月17日に開票された兵庫県知事選挙に、立花隆志という「N国」党(「NHKから国民を守る党」)「党首」が立候補した。
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  11月の前半だろうが、この立花某は、公営のポスター掲示板に、第二番めの「ポスター」を貼った。写真や絵はなく、文字だけのポスターだ。
 出所/「NHK党_春日部市議」を投稿者とする「立花孝志ポスターの第2弾『自●の真相』が完成しました。」と題するYouTube 動画。
 上から全文を秋月の責任で「読み取った」。下の最初の5行は文字の大きさが大きいが(その大きさは同一でない)、この欄では適切に表現できない。太字化、下線は秋月瑛二による。
 ——
 「正義か悪か」
 「衝撃スクープ」
 「元県民局長 自殺の真相
 「あなたは知っていましたか?
  自殺した元県民局長は前知事のパワハラが原因ではなかった!」
 「元県民局長の自殺の本当の理由は、前知事によるパワハラでなかったことが立花孝志の取材で判明した。
 実は、自殺した元県民局長は10年間で10名以上もの女性県職員と不適切な関係を結んでおり、不同意性交等罪が発覚することを恐れての自殺だと思われる
 つまり、前知事は悪くなかった
 悪いのは公用パソコンの中身を公開しない百条委員会である。
 元県民局長が使用していた公用パソコンにはおびただしい数の不倫の証拠写真が保存されており、それはどうも不同意性交等罪という、5年以上の拘禁刑が科される重罪の証拠である可能性が高まった。
 妻子の有る人間が約1年に1人のペースで不倫を続けることは難しいだろうと通常感じることに加え、自ら命を絶った元県民局長が強い人事権を持っていたことからも、不倫ではなく不同意性交等罪である可能性が高いことをご理解いただけるだろう。
 このようなことを県議会議員たちがひたすらに隠している中、次々と暴いているのが立花孝志である。
 あなたの正義はなんですか?
 今回の選挙のきっかけとなった前知事は本当に悪人だったのでしょうか?
 テレビは国民を洗脳する装置であり、核兵器に勝る武器です。テレビの情報だけではなく、インターネットで調べてみてください。」
 ——
 一見して「異様な」内容であるが(他の候補者と同じ広さの枠が与えられて「堂々と」掲示された)、今日まで、県選挙管理委員会も、警察も何の行動も取らなかった。マスメディアも「知って」いただろうが、この内容をそのまま報道することは勿論としても、このポスター記載内容の「真偽」を、あるいは立花某はいかなる根拠(裏付け)をもってこの内容の選挙ポスターを作成し掲示したのかを、問題意識をもって報道した新聞社やテレビ局はまったく存在しなかったように思われる。そして、そういう姿勢は、少なくともこの<立花ポスター>について、半年後の今日まで続いているようだ。
 朝日は、読売は(新聞とテレビ含めて)、そしてNHKは、恥ずかしくないのだろうか。先日5/11の読売テレビ「そこまで言って委員会」の登場者と編成内容を一見すると、読売テレビ(大阪)には何の問題意識もないようだ。何しろ、立花隆志の行動の「謎」や<二馬力選挙>には全く触れなかったのだから。
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  立花某の上のポスターでの表記につながる情報を与えた、主要な人物の一人は増山誠(兵庫県議会議員)だとされる。一定の情報を提供したこと自体は本人も認めている。
 この「情報漏洩」の経緯等は「三つめ」の第三者委員会の調査対象だったはずだが、提出されたはずの「報告書」は、まだ公表・公開されていない。
 〔2025/03/13午後に公表・記者会見があったようだ。未読。増山に何かを伝えた(・見せた)県職員はいただろう。以上、後記〕
 なお、上記の読売テレビ番組に増山は「ゲスト」として登場し、番組司会者2名はこの人物を<丁寧に>送り迎えした。
 さて、増山誠が立花隆志に提供した情報の内容の少なくとも一部は、つぎのごときものだった、とされる。下記の投稿者を信頼すると、立花隆志が2025年2月20日に自分の「X」に投稿した、とされる。また、昨年10月31日(選挙告示日)に増山から提供された、という。
 ——
 増山誠が立花に提供した文書の冒頭。
 「・公用PCに保存されていたプライベートファイルについて
  不倫相手とのわいせつ画像、10年間に渡る複数の職員との不倫日記が保存されていた。」
 出所/「西脇享輔チャンネル」2025年5月12日付
 これによると、「不倫相手とのわいせつ画像、10年間に渡る複数の職員との不倫日記」が元県民局長の「公用PCに保存されていた」。「不同意性交罪」への言及はないが(立花某が「不倫」から上へと「妄想」したのかもしれない)、基礎的出発点は立花某のポスターと同じだ。
 ——
 なお、提供文書のこの詳細まで増山某が自認しているのでは(たぶん)ない。
 増山誠には他にも論ずべき点はある(いわゆる百条委員会の「報告書」の議会での採択に反対した少数者の一人。元日本維新の会所属、等々)。
 また、立花隆志の主張は、その後変わっていることも知っている。10人から7人に減ったり、「不同意性交等罪」にはもう触れなくなっていたりしているようだ。
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2877/R.パイプス1990年著—第15章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力②。
 (08) そうしているうちに、私的部門は急成長した。
 考え得る全ての物品を、とりわけ食料品を、売買した。
 戦時共産主義のもとで非農業国民が消費した大量の食糧は、国家の販路ではなく、自由市場から来ていた。
 1918年9月、ボルシェヴィキ体制は、1.5 pud(25キログラム)までの穀物を市場に持ち込み、市場価格で販売することを農民に認めるのを余儀なくされた(注112)。
 この<polutorapudniki>あるいは「1.5 puder」は、都市部で消費されるパンと農産物の大部分の取引を占めた。
 1919-20年の冬に実施されたソヴィエトの統計調査によると、都市住民は彼らのパンの36パーセントだけを国家の販路から入手していた。
 その調査が責任逃れ的に述べるように、残りは「別の出所から」取得していた(注113)。
 1919-20年の冬にロシアの都市部で消費された全ての食料品(穀物、野菜、果物)のうち、カロリー価で測って、自由市場は66〜80パーセントを提供した、ということが確認されている。
 田園地域では、「消費者共同体」によって提供された食品の割合は、たった11パーセントにすぎなかった(注114)。
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 (09) 1920年の春にロシアを訪れた外国人は、ほとんど全ての店舗が閉店している、あるいは板囲いで閉鎖されていることに気づいた。
 あちらこちらで小さな店が、衣類、石鹸その他の消費用品を売るために開いたままだった。
 Narkomprod(供給人民委員部)の店舗はほとんどなく、あっても遠く離れていた。
 一方で、違法な路上取引がにわかに流行していた。
 「モスクワは生きている。
 だが、一部は配給品で、一部は稼いだ金で生きている。
 大部分は、モスクワは、闇市場で生計を立てている。行動的に、そして受動的に。
 闇市場で売り、闇市場で買っている。むさぼり儲ける、むさぼり儲ける、…。
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 モスクワでは、貨幣はあらゆる物でできている。あらゆる物が闇市場で取引される。ピンから乳牛まで。
 家具、ダイアモンド、白いケーキ、パン、肉、あらゆる物が闇市場で売られている。
 モスクワのSukharevka 地域は闇市場の商店街で、闇市場の大店舗だ。
 ときどき警察が急襲を実行する。しかし、警察は闇市場を抑圧しない。
 闇市場は増殖するヒドラで、1000本の手を持って再出現する。
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 モスクワには自由市場がある。多くは役所から黙認された市場で、補完のための市場で、高級品用の市場だ。
 例えば、劇場広場の近くには補充用市場があり、きゅうり、魚、ビスケット、卵、あらゆる種類の野菜を扱っている。
 これは長い歩道上の大騒ぎだ。
 歩道の角には小部屋がある。商売人がうずくまり、商売人の囁きが買い手の耳に入る。
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 一本のきゅうりは200-250ルーブル、一個の卵は125-150ルーブルする。
 他の品物はそれぞれに対応する値段だ。
 西ヨーロッパの通貨、とくにドルに変えられることは多くない。
 モスクワに滞在していたあいだ、通貨相場師は1ドルに対して1000ボルシェヴィキ・ルーブルを支払った。
 あるアメリカ人は3000ドルを900万ボルシェヴィキ・ルーブルと交換した、と聞いた。
 思惑買いは禁止されている。…
 だが、流通貨幣での投機がある。
 利潤はあらゆる物にあり、当然に貨幣についてもある。…
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 利潤稼ぎ、闇商売。退蔵は作業の邪魔になる。
 利潤稼ぎは働き手の精神だ。
 働いている間に儲け、働くべき間に儲ける。」(注115)
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 売り手の多くは、軍服を処分している兵士だった。このことが、この時期に多くのモスクワ市民が軍服を着て現れていた理由だった(注116)。
 高貴な淑女たちを、見ることができた。彼女たちは、かつての幸福な時代の個人的な品物を、歩道に自意識が強そうに立って、販売していた。
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 (10) 「小生産者の不屈の頑固さによる商品経済の方法についての強い主張」は、あるソヴィエトの経済学者が自由市場の活力について叙述したように(注117)、分配を独占しようとする政府の全ての努力を打ちのめした。
 私的取引の禁止を厳格に実施すれば全都市住民を餓死させることになる、そういう馬鹿げた状況の中にいることを政府は知った。
 1920年初めのソヴィエトの経済関係出版物は、私的(「投機的」)市場が国家の供給システムを犠牲にして、かつその助けを借りて繁茂していることを、痛ましくも認めた。
 その書物はこう書いた。
 「我々が直面する現在の経済の現実のうち最も衝撃的な矛盾の一つは、「モスクワ・ソヴェトの雑貨店」、「書店」等々の看板を掲げたソヴィエトの店舗のガラ空きさと、Sukharevka、Smolensk 市場、Okhotonyi Riad、その他の投機的市場の中心地の間の著しい差異だ。
 [後者にある物品の]出所はもっぱらソヴィエト共和国の倉庫で、犯罪的経路を通ってSukharevka まで届いている」(注118)。
 私的部門がこうも力強くなったので、政府が1921年についに現実に直面して、(一時的に)新経済政策(NEP)のもとで取引の独占を諦めたとき、それは既成の現状(status quo)を追認しただけだった。
 E. H. Carr は、こう書く。
 「一定の事項については、NEP は、戦時共産主義のもとで、政府の抑圧を前にして、政府の諸布令に抵抗して自発的に成長した取引に対して行なった、制裁の手段に他ならなかった」(注119)。
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 第八節(「反労働者立法」)へとつづく。

2876/R.パイプス1990年著—第15章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力①
 (01) トロツキーの言葉では、「経済の社会主義的組織化は、市場の廃絶でもって始まる」。
 マルクス主義者にとってはじつに、市場、商品の交換のための広場は、資本主義経済の心臓部だった。貨幣が生命体の血液であるように。
 市場なくしては、資本主義は作動することができない。
 したがって、産物と役務の自由な交換を塞いでしまうことは、ボルシェヴィキの経済政策の中心目標だった。
 市場の国有化と分配の中央集権化は、しばしば誤って論じられているようにではなく、すなわち革命と内戦が惹起した食糧不足に対する反応ではなく、不足を生み出す資本主義という敵に対して向けられた積極的で先導的な行為だった。
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 (02) ボルシェヴィキは、商品の自由な交換を排除するという極端な途を歩んだ。
 彼らは、1919年の党綱領でその意図を明確に説明した。
 「分配の分野では、現在のソヴィエト政権の任務は、産物の計画的で国家により組織された分配でもって取引を置き換えることを着実に追求することにある。
 目標は、全国民を単一の消費者共同体へと組織することだ。この共同体は、極めて急速に、計画的やり方で、経済的にかつ労働を最小限にだけ使って、全ての必要な産物を分配し、分配の全ての機構を厳格に中央集権化することができる。」(注103)
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 (03) ボルシェヴィキは、この目標をさまざまな方法で追求した。食糧以外の物品の生産手段の廃絶、食品その他の日常用品の強制的な徴発、取引の国家独占、交換を媒介する貨幣の廃止、等。
 物品は、配給カードという手段で国民に分配される。最初(1918-19年)は名目上の価額で、のち(1920年)には無料で。
 住居、実用役務、輸送、教育、娯楽もまた市場から撤退し、やがて無料で利用できるようになる。
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 (04) 工業用品の生産は最高経済会議の手に委ねられ、商品の分配についての責任は、供給人民委員部(- po Prodovolstviiu)、自分自身の<glavki>や分配機関網という隊列をもつ別の官僚機構、が受け持った。
 供給人民委員部の長のAlexander Tsiurupa はわずかな事業経験しかもたず、1917年以前は土地不動産の管理者として雇用されていた。
 彼の人民委員部は、経費がきわめて少ないままで活動していた。
 Komprod として広く知られたこの人民委員部は、何よりもまずは、政府が購入、物々交換や強制的徴発によって何とか集めた食料品を収受し、分配された。
 また、国有化された工業団体や家族的工業体から物々交換用に消費用品を収受することが想定されていた。
 分配については、国家管理の店舗という自分自身の網にある程度は依拠していたが、主としては、消費協同組合に依っていた。これは革命以前から発達し、エスエルとメンシェヴィキを監督職員から排除したあとで、ボルシェヴィキがさして気乗りもせず維持したものだった(注104)。
 1919年の春。この消費協同組合は国有化された。
 1919年3月16日の布令(注105)は、全ての都市と地方中心地に、「消費者共同体」(potrebitel’skie kommuny)の設立を命じた。所定の地域の住民たちは、例外なく、これに加入しなければならなかった。
 この共同体は、配給カードの提示にもとづいて食糧その他の基本的な必需品を供与することが想定されていた。
 このカードにはいくつかの種類があり、最も有利なものは、重工業の労働者に発行された。一方で、「ブルジョアジー」は、せいぜい労働者への配給の四分の一を受け取った。そして、しばしば何も受け取れなかった。(注106)(脚注)
 この制度は、恐るべき濫用を許すものだった。
 例えば、1918年のペテログラードで、通常の住民よりも三分の一増しの配給カードが発行された。供給人民委員部は1920年に、2190万人の都市居住者に配給カードを発行したが、住民の実際の数は1230万にすぎなかった(注107)。
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 (脚注) 最も少ない配給(paek)を示すカードの所有は、チェカにとっては「ブルジョアジー」の一員を識別する手段として役立った。このカードの所持者たちは、テロルや強奪の自然な犠牲者だった。
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 (05) Milton Friedman の言葉では、経済理論が意味深長になればなるほど、「前提条件はますます非現実的になる」。
 取引の国有化というソヴィエトの実験は、この言明を十分に裏付けている。
 戦時共産主義の措置は、市場を排除したのではなく、市場を二つに分裂させた。
 1918-20年、ソヴィエトの国家部門は、配給カードによって固定価格で、または無料で、物品を分配した。一方、これに並んで、需要と供給の法則に従う不法な私的部門があった。
 ボルシェヴィキの理論家が驚いたことに、国有化された部門が膨張すればするほど、ある者が「動かせられない影」と呼んだ自由部門がますます大きく出現してきた。
 実際に、私的部門は国家部門を侵食した。その単純な理由は、消費用品の大部分が闇市場に流れたからだ。労働者たちは、消費用品をきわめて安価で購入するか、国家部門または「消費者共同体」から無料で受け取っていた(注108)。
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 (06) 政府は、1920年10月に電信、電話、郵便の支払いをソヴィエト諸機関に免除する法律(law)を制定して、無料の公共サービスを開始した。
 これらは翌年には、全ての市民に適用された。
 この期間のあいだに、政府職員にも、全ての公共サービスが無料になった。
 1921年1月、国有または公有になった住宅の住民は、賃料の支払いを免除された(注109)。
 1920-21年の冬、供給人民委員部には、3800万人の国民に対して事実上は無料で基本的必需品を提供する責任があった、と見られている(注110)。
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 (07) 明らかに、このような気前よさは、ボルシェヴィキ体制が旧帝制から継承した資本を使うことができたあいだ、一時的にのみ可能だった。
 政府が賃料を徴収しないで済ますことができたのは、家屋を建設することもそれを維持するために出費することもしなかったからだ。
 ロシアの都市部の住居用建物は約50万棟あったが、ほとんど全てが1917年以前に建築されていた。
 戦時共産主義の期間中、政府は、全国で2601件だけの建物を建築し、修繕した(注111)。
 無料での分配を可能にしたもう一つの要因は、農民からの食糧徴発だった。これは補償金の支払いなしで、または無価値の貨幣による偽の補償金付きで行なわれた。
 明瞭なことだが、建物は古くなり、農民は余計な食糧の生産を拒むので、このような状態は永続することができなかった。
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 ②へとつづく。

2875/R.パイプス1990年著—第15章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき
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 第15章・第六節/農業生産の低下
 (01) 農業生産の低下は、より劇的ではなかった。しかし、食糧の余剰にはほとんど余裕がなかったので、農業生産低下の国民生活に対する影響は、より破壊的だった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府は農民層を階級敵と見なし、赤軍の一団や武装暴漢たちの一隊によって通常の方法で戦った。
 1918年綱領—農業生産物の私的取引の排除が目的—は、激烈な農民の抵抗があることに鑑み、緩和されなければならなかった。
 1919年と1920年、ボルシェヴィキ政府は、多様な手段でもって農民から食糧を奪い取った。強制的引渡し、製造物品と食料の交換、実際の価額よりもいくぶん高い購入。
 1919年、政府は、限定された量の食糧が自由市場で売却されることを認めた。
 日常用品、肉、果物、ほとんどの野菜、そして全ての野生の食料は、最初は国家の統制から免れており、のちに通常の食料と同じように規整された。
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 (03) 規整と誘導の連携を通じて、政府は何とか、都市部、工業地区、むろん赤軍に、食料を提供することができた。
 しかし、農民たちは自分たちが必要とする以上に多く生産する動機がなかったので、将来には破綻するだろうとの見込みから、農民たちは耕作面積を減少させ続けた。
 穀物を栽培する地方では、1913年と1920年のあいだに、耕作されている土地面積は、12.5パーセント減少した(注97)。
 しかしながら、種が撒かれた農地面積の減少は、穀物生産の低下を十分には明らかには示していない。
 第一に、農民たちは産物を自分たちで消費するか収穫の四分の三を種として残しておくので、作付け面積の12.5パーセントの減少は、非農業の国民のための余剰生産に使える農地が半分にまで落ちていることを意味した。
 第二に、作付け面積の減少と同時に生産は低下し続けたのだが、それは主としては、四分の一が軍隊のために没収された牽引馬の不足によるものだった。
 1920年のエーカー当たりの収穫高は、戦争前のそれの70パーセントにすぎなかった(注98)。
 収穫高の30パーセント減少を伴なう農地面積の12.5パーセント減少が意味したのは、穀物生産が戦前の数字の60パーセントにすぎなくなった、ということだった。
 ある共産党員経済学者が統計資料を示しているが、これは、現実に何が起きたかを示している。
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 「中央ロシアでの穀物生産(100万トン単位)(注99)
  1913年  78.2
  1917年  69.1
  1920年  48.2」
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 (04) 飢餓の次元にまで落下するのに必要だったのは、少しのあいだの、収穫にとっての悪天候だけだった。
 ボルシェヴィキによる経営のもとでは余剰はなく、そのゆえに、収穫減少の結果を吸収することができなかった。
 やがて近いうちに災難がやってくるだろうことは、1920年の秋には、ほとんど確実に感じられていた。
 その1920年秋、党の諸文書は、新しい「敵」—<zaskha>、すなわち干魃、が起きるという警告を報じ始めた(注100)。
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 (05) 本当の飢饉、ロシアも残りのヨーロッパも未だ経験したことがなく、数百万人が死亡することになるアジア的飢饉は、まだ先のことだった。
 しばらくの間は、飢えがあり、栄養不十分の永続的状態があった。これにより、活力、働く力、そして生きようとする意思がすっかり奪われた。
 ボルシェヴィキのある指導的経済学者は、1920年に工業生産の低下を分析して、主に食糧不足にその原因を求めた。
 彼の計算によると、1908年-1916年の平均的労働者は一日に3820カロリーを消費したが、1919年までに摂取量は2680カロリーまで落ちた。この量では、激しい手作業には十分でなかった(注101)。
 彼の見解では、カロリー摂取量の30パーセント低下は、大都市での労働者生産性の40パーセント減少の主要な原因だった。
 もちろんこれは、過度に単純化したものだが、まさに現実の問題を衝いていた。
 もう一人の共産党員専門家は、一年間で180-200キログラムのパン消費は飢餓だとする革命前の基準を用いて、1919-20年の北部地域のソヴィエトの労働者は134キログラムしか消費しておらず、これは飢餓だと評価した(注102)。
 ロシアの諸都市がこの時点で飢餓のために崩壊しなかったとすれば、それは、時期の幸運な合致によっていた。すなわち、まさに崩壊しようとするときに、ボルシェヴィキは内戦に勝利し、北部コーカサス、ウクライナおよびシベリアを再制圧した。これらの地方は、非ボルシェヴィキが支配していて、穀物を豊かに貯蔵していた。
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 第七節につづく。

2874/R.パイプス1990年著—第15章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第五節/工業生産の低下
 (01) 戦時共産主義のもでのソヴィエト工業の狭い意味での目標は、もちろん、生産性の向上だった。
 しかし、統計上の証拠が示しているのは、この政策の効果は反対だった、ということだ。
 ボルシェヴィキによる経営のもとで、工業生産性はたんに低下したのではなかった。すなわち、かりに同じ過程が進行していたならば、1920年代半ばまでにソヴィエト・ロシアにはどんな工業もなくなってしまうことを示唆する、そのような割合で落ち込んだ。
 このような現象を示す、いくつかの統計資料がある。
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 「I. 全国の大工業生産(脚注1)
  1913 100
  1917 77
  1919 26
  1920 18」
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 「II. 1920年の特定工業製品の生産量(1913=100)(注94)
  石炭 27.0
  鉄鋼  2.4
  綿糸  5.1
  石油 42.7」
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 「III. ロシアの労働者の生産性(固定のルーブルで)(注95)
  1913 100
  1917 85
  1918 44
  1919 22
  1920 26」
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 「IV. 被雇用工業労働者数(脚注2)
  1918 100
  1919 82
  1920 77
  1921 49」
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 (脚注1) Kritsman, Geroicheskii period, p. 162. Narodnoe Khoziaistvo SSSR v 1958 god u(Moscow, 1959), p. 52-53 の数字によると、1921年の全工業生産は1913年比で69パーセント減少し、重工業生産は79パーセント減少した。
 (脚注2) A. Alu f, cited in S. V Olin, DeiateVnosf menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti, Inter-University Project on the History of the Menshevik Movement, Paper No.13(New York, 1962),p. 87. もちろん、ここで基礎年にしている1918年までに、被雇用労働者の数は、1913-14年と比べて、相当に減少していた。
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 (02) 要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」数は二分の一に、工業生産高は四分の三に落ち、工業生産性は70パーセントが失われた。
 この破滅を見て、レーニンは1921年にこう叫んだ。
 「プロレタリアートとは何だ?
 大規模工業に就労する階級だ。
 そして、どこに大規模工業があるのか?
 どんな種類のプロレタリアートなのか?
 おまえの(原文ママ)工業はどこにあるのか?
 なぜ、怠惰なのか?」(注96)
 これらの修辞的質問に対する回答は、レーニンが承認していたユートピア的構想が、ロシアの工業を破壊し、ロシアの労働者階級を殺した、ということだった。
 しかし、この工業力低下の時期のあいだに、経済に責任を負う官僚機構の維持のための出費は、飛躍的に増大した。1921年までに、それは予算の75.1パーセントを占めた。
 ロシアの工業を管理した最高経済会議の人員について言えば、それはこの期間に100倍に増えた(脚注)
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 (脚注) Buryshkin, EV, No. 2(1923), p. 141. 最高経済会議の被雇用者の数字は、1918年3月に318人、1921年に3万人だ。
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 第六節につづく。

2873/斎藤元彦兵庫県知事・2025年4月23日(水)記者会見・一部②。

 斎藤元彦兵庫県知事・2025年4月23日(水)記者会見・一部②
  出所/兵庫県庁「知事記者会見(2025年4月23日(水曜日))」
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 フリー記者A:公益通報者保護法の有権解釈権って誰が持っているんですかね。
 知事:法律を所管している省庁がひとつ持っていると思いますし、最終的な違法性等の判断については、司法の場だったというふうに思います。
 フリー記者A:それは司法の法解釈であって、それは、個別具体の事案に基づいた解釈であって、それは法解釈と呼びません。
 法解釈というのは、有権解釈か学理解釈のどちらかしかないわけですが、有権解釈権は誰が持っているか、もう一度、法律的に言うと誰が持っていますか。
 知事:先ほど申し上げたとおりですね。
 フリー記者A:消費者庁が持っているんですよね。
 知事:消費者庁であり、そして個別の話も含めて、最終的には司法だということです。
 フリー記者A:有権解釈権を保有する消費者庁が、4月17日の衆議院消費者特別委員会で、3号通報も法定指針の中に入っているって答弁しているんです。
 ということは、有権解釈権を持っている消費者庁が、その見解を大臣答弁として述べている以上、あなたが先ほど毎日新聞の記者や神戸新聞の記者に言った、「私の考えです」といったところで、それは法解釈として認められないんじゃないですか。
 知事:ご指摘は、真摯に受け止めたいと思います。
 フリー記者A:これは指摘じゃなくて、雨が降ったら地面が濡れるんじゃないですかって聞いているんです。
 知事、あなたは行政のトップですよ。
 有権解釈権を有している機関が法の解釈はこうだと、言っている内容と、違うことを言って、行政の長が務まるんですか。
 知事:我々が、私が、これまで述べさせていただいたことは、3月26日の会見で述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:それは法解釈として間違っていますよねと申し上げているんです。
 知事:それはご指摘としては、受け止めます。
 フリー記者A:ご指摘じゃないんですよ。
 これは国会答弁であり、法の解釈なんです、中央省庁の。
 いつから兵庫県は斎藤人民共和国になったんですか。
 知事:兵庫県における対応、問題については、個別具体の話として兵庫県として今の対応をしており、そして、対応については適切だったと考えています。
 フリー記者A:ちょっと待ってください。
 それは重大問題発言ですよ。
 消費者庁の法解釈が、兵庫県では通用しないんですか。
 知事:消費者庁が法を所管しているってことは承知しています。
 兵庫県の問題については、兵庫県の方で、我々としては、これまで述べさせていただいたとおり、対応としては適切だったということです。
 その説明については、3月26日の会見を含めて、これまで述べさせいただいたとおりです。
 フリー記者A:知事、それはクーデターですよ。
 知事:はい、ご指摘は真摯に受け止めますけれど、我々としては、これまで述べさせていただいたとおりです。

 フリー記者A:道路交通法が、大阪府と兵庫県では違うみたいなこと言っているんですよ。
 知事:それはよく分からないですけども。
 フリー記者A:そう言っているんですよ。
 無茶苦茶すぎるでしょ、それは。
 法の解釈は、内閣が閣議決定に基づいて、有権解釈権を行使して、提示していてて、なおかつ、法定指針には内部通報も外部通報も含まれるとされているんです。
 そう解釈していない都道府県は、兵庫県だけなんです。
 その矛盾点を、今般の公益通報者保護法改正の審議の中で、消費者庁は問われて、与野党の各議員から、当然当たり前のように、有権解釈権は消費者庁が有していて、法定指針の中に、3号通報も含まれる、と言われているんですよ。
 かつ、元県民局長の文章は、3号通報だったという解釈が、大臣答弁及び審議官答弁で閣議決定済みの答弁として積み上がっているんです。
 あなた、中央政府に反旗を翻すんですか。
 知事:ご指摘は真摯に受け止めますけれども、兵庫県としての今回の文書問題に対する対応に、これまで述べさせていただいたとおり、適切だったというふうに考えています。
 フリー記者A:兵庫県の解釈は存在する余地がないって言っているんです。
 いつから斎藤元彦人民共和国になったんです、兵庫県は。
 知事:ご指摘は真摯に受け止めます。

 フリー記者A:なぜ日本中で通用する法律を。
 知事:兵庫県としては、これまでの対応は適切だというふうに、これまで述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:法律違反ですよね。
 知事:今回の公益通報に関する対応、これについての考え方や見解については、3月26日の会見などで述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:藤本政府参考人が、14日の衆議院の消費者特別委員会で、個別の事案には答えられないけれども、3号通報が法定指針の対象であることは明らかですって明言されておられるんですよ。
 それと、3号通報は、要は体制整備義務等々の法定指針の対象じゃないという兵庫県は、なぜそんな立場を取れるんですか。
 周りに職員さんいてはんねんで。
 法律守らへんって長が言うてええんですか。
 知事:3月26日の会見などで述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:3月26日の会見の内容は、法律を守らない宣言だと解釈していいんですね。
 知事:様々なご指摘、ご解釈というものはあると思います。
 フリー記者A:そうとしか解釈できないじゃないですか。
 これクーデターですよ。
 あなたがやっていることはクーデターですよ。
 元県民局長がクーデターをしたんじゃない。
 あなたが東京に対してクーデターを企てているんだ。
 知事:県の対応としては適切だったという考え方でおります。

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 フリー記者B:情報漏えいに関する報告書の中にですね、斎藤知事の6月29日の既読LINEは入っているんでしょうか。
 週刊文春が報じてですね、斎藤知事が元県民局長の情報漏えいを把握していたと。
 岸口県議が不倫をばらすぞと言って口封じをしようとしたけれども、その工作が失敗に終わったという、報告の既読LINEなんですが、これ報告書の中に入っていたんでしょうか。
 知事:報告書の内容については、今担当課の方が精査しているというふうな状況です。
 フリー記者B:LINEは提出したんですか、第三者委員会から要請があって。
 これ入ってないとおかしいと思うんですけど。
 知事:第三者委員会については、適切に調査対象も含めて。
 フリー記者B:斎藤知事が、今、持っているLINEを提出したのかどうか聞いているんです。
 第三者委員会に内容を見せたのかどうか。
 知事:第三者委員会が、適切に調査対象をどうするか含めて判断して、対応したというふうに考えています。
 フリー記者B:片山元副知事への聞き取り内容は報告書の中に入っていたんでしょうか。
 知事:どういったことを対象とされているかということについては、第三者委員会が報告書出されましたので、そこを精査した上で。
 フリー記者B:概要も報告ないのはおかしいと思うんですが、次の質問に移ります。
 立花孝志氏についてですね、姫路市の高見市議はですね、県知事選の選対会議で、「立花氏は別に勝手にやってもらってもいいんじゃないか」と斎藤知事が発言したというふうにインタビューで語ってくれたんですが、これ間違いないですよね。
 違いますか。
 知事:どういうやりとりされたかっていうのは、承知してないので、私はコメントをしようがないですね。
 フリー記者B:記憶ないですか。
 今まで立花氏について知らんぷりしていましたけど、選対会議で話題になって、斎藤知事が、勝手にやってもらう分にはいいじゃないか、という趣旨の発言をした、と高見市議が言っているんですが、これ全く記憶ないんですか。
 知事:どういったやりとりを、ご指摘された方がされたかっていうのは、ちょっと承知してないですので、コメントのしようがありません。
 フリー記者B:斎藤知事が発言したかどうか、全く記憶ないんですか、立花氏の2馬力選挙について。
 知事:選挙戦については、17日間、しっかり頑張って選挙活動をさせていただいたということです。
 フリー記者B:高見市議が選対会議で話題になって、斎藤知事が勝手にやってもらったらいいんじゃないかと言った、というふうに証言しているんですが、これは事実じゃないんですか。
 知事:ですから、何度も繰り返しますけど、やりとりを承知してないので、コメントのしようがないですね。
 フリー記者B:あと、最後にメルチュが主体的にSNS選挙に関わっていたということについても、高見市議が話してくれたんですが、これも違いますか。
 Xのアイコンとか、スローガンをこうしたらいいというのを、折田さんが中心的に提案して、選対メンバーはそれに沿って動いたと。
 まさに主体的、中心的に動いたのがメルチュで、買収疑惑の可能性が高いと思うんですが、その辺、奥見弁護士が言っている内容と全く違うんですが、再度調べて会見をやり直す考えはないんですか。
 知事:その点については、代理人の弁護士に対応をお願いしております。
 フリー記者B:代理人の弁護士が言った内容と、高見市議が言った内容が全く違っているんで、再度調べないんですかと聞いているんですが。
 調べる考えはないということですか。
 知事:対応については、代理人の弁護士に一任しております。
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 フリー記者C:先ほどのやりとり中で、第三者委員会について、公平、客観的なものであるというふうなふうに受け止めている、というお答えでした。
 ということは、その正当性は認めているということだと思うんですけど、しかし、その結果は、公益通報について違法性があるという指摘については、受け入れないという、そこに論理矛盾があるように思うんですけれども。
 公平公正に審議されたけれども、だけれども結果受けいれないというのは成り立たないと思うんですが。
 それは、斎藤さんの中で、どんなふうに成り立っているんですかね。
 知事:それは、質問された方のご意見としては承りますけども、私が述べてきたことはこれまでの会見で言ってきたとおり、報告書については真摯に受け止めていくということです。
 フリー記者C:先ほどの記者の法解釈の話もそうですけども、その指摘を受けながら、ご自分では全く違う解釈を主張され、もっと言えば、県職員の方々からも翻意を説得されているにもかかわらず、最終的に知事の独断で問題なかったという結論を出されているわけです。
 先ほどの比喩で言うと、本当に独裁国家、独裁と言われても仕方がないと思うんですけども、その状態で良いというふうに思ってらっしゃるわけですか。
 知事:ご指摘はしっかりと受け止めたいと思いますけども、県政については着実に日々の業務も含めて進んでおります。
 フリー記者C:パワハラというのは、これの第三者委員会の報告で指摘されたパワハラを、私が聞いている限り、斎藤知事は認めているというふうには聞こえないのですが、それはともかくとしても、パワハラというのは、当該の社員とか職員だけではなくて、周りを萎縮させたりとか、あるいはJRの事故のように、多くの人を巻き込む、命を奪う可能性すらあるというふうな、そういう重大な結果を招くというようなご認識はありますでしょうか。
 知事:やはりハラスメントのない職場づくりというものは、先ほど来、今日も質問が出ましたけど、そういった職場環境づくりをしっかりと作っていくということが大事だというふうに思っています。
 フリー記者C:今日の話、SNSの誹謗中傷のやつを聞いていても、斎藤知事の発言が、非常に他人事に、ご自身に関わりのないことで、こういう仰っているように聞こえますので、その辺は「真摯に」とおっしゃるのであれば、ご自身の問題として受け止めていただきたいと、県民として思います。
 以上です。
 知事:記者さんのお考え、お気持ちとして、受け止めたいと思います。」
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2872/斎藤元彦兵庫県知事・2025年4月23日(水)記者会見・一部①。

 斎藤元彦兵庫県知事・2025年4月23日(水)記者会見・一部①
  出所/兵庫県庁「知事記者会見(2025年4月23日(水曜日))」
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 毎日新聞:4月17日の衆議院の消費者委員会で、兵庫県の文書問題の公益通報者保護の件が取り上げられました。
 質疑の中でですね、第三者委員会が元県民局長の文書が公益通報に当たると、斎藤知事は当たらないというふうに意見が分かれているということで、消費者担当大臣に対してですね、「大臣どう思いますか」というようなことを聞きました。
 伊藤大臣からはですね、「県議会と第三者委員会でですね、長時間にわたり審議されていたものだと、その解釈と結論に関しては一定納得をしなければならない」という答弁をされてですね、これは事実上の知事と兵庫県に対して、解釈の変更を促すような答弁だったと思います。
 この法律を所管する大臣がこういうふうにおっしゃっているんですけれども、知事として、兵庫県として、これまでの見解を変更するお考えはありますでしょうか。
 知事:消費者庁の担当大臣が、国会において、発言をされたということだと思います。
 大臣なりのご指摘というものは、重く受け止めるということが大事だと思います。
 一方で、報告書の提言というものも大変重いというもので、私としてはこれまで述べさせていただいたとおり、しっかり受け止めさせていただきたいというふうには考えておりますけれども、対応については、これまで述べさせていただいたというとおりです。

 毎日新聞:となると、所管する消費者庁とですね、兵庫県の間で法律についての解釈が違ってきていると、見解が違うということになるとは思うんですけれども、その場合に、今後、法解釈を正すような技術的助言が来る可能性もあるんですが、もし、見解を撤回しないということであれば、兵庫県としてですね、行政組織として、ちゃんと兵庫県の見解はこうだというものをまとめる必要があるんじゃないかと思うんですけれども、単に知事が記者会見でそうじゃないというふうにおっしゃるだけじゃなくてですね、例えば、専門家がこう言っている判例はこうある、現状はこうだと、だから、兵庫県は消費者庁の見解を受け入れることができないというようにそれをちゃんと主張する必要があると思うんですけれども、そういったことはお考えありますでしょうか。
 知事:消費者庁、消費者大臣のご指摘などは、しっかり重く受け止める必要があると思いますけども、私としての、県知事としての、県としての見解というものは、先般より述べさせていただいているとおりということですね。
 毎日新聞:私がお聞きしているのは、知事及び兵庫県の見解がですね、変わらないということであれば、それをどういう理由でそうなのかということを、きっちりとした物を作ってですね、主張するべきじゃないかと思うんですけれども。
 国と都道府県の見解が違うということは結構あって、これまでも、いろんなケースでそれに対してはちゃんとそれぞれが主張してずっと論争していると思うんですけれども、そういうことをせずに、知事が記者会見で一方的に、兵庫県の見解としては違うというようなことだけで済ませるというのは、それは行政組織としてはどうかと思うんですけれども、そのあたりはどう思われていますか。
 知事:記者のご指摘は真摯に受け止めたいと思いますけども、私としては、県としては、3月26日の会見で述べさせていただいたということが、兵庫県としての見解ですね。
 毎日新聞:もう1点、今の関連なんですけれども、この法律の解釈を巡って、県と消費者庁と何らかの協議をするようなお考えというのはありますでしょうか。
 消費者庁の見解と兵庫県の見解が明らかに違うと。
 それについて、何がどう違うのかとかですね、見解をすり合わせるとか。
 そうでないと、実際に今、公益通報をしようと思っている方が、県庁内もいらっしゃるかもしれませんけれども、この宙ぶらりんな状況でですね、やろうと思ってもできないと思うんですけれども、そういう協議というのは、やるお考えはありませんか。
 知事:特に考えてはいません。
 県としての考えは、3月26日、そしてそれまでも、そしてそれ以降の記者会見などでも述べさせていただいたとおりです。」
 ②
 NHK:先週に引き続き、3月5日の「わいせつ」発言について伺います。
 まず、ひとつずつ確認をさせていただきたく思います。
 元県民局長を懲戒処分した1つの理由は、勤務時間中に業務と関係ない私的な文書を多数作成した、これが非違行為の1つに当たるということで懲戒処分をした、この理解でまず間違ってないですか。
 知事:はい。
 NHK:間違ってないですか。
 知事:はい。
 NHK:つまり、内容については関係ないということでよろしいですか。
 知事:業務上、勤務時間中に業務と関係ない文書を作成したということで処分をしています。
 NHK:つまり、中身ではなくて、勤務時間中に業務と関係ない行為をしていた、そこが懲戒処分の1個の理由になっているという理解でよろしいですか。
 知事:勤務と関係ない、業務と関係ないということは、どういう文書をどういう行為だったということだと思いますね。
 そこは、中身がやはり関係してくると思いますね。
 NHK:ただ、今、手元に懲戒処分の理由について書かれている紙を見ているんですけども、中身についての言及は一言もない。
 知事:ですから、勤務時間中に勤務と関係ないことをすると懲戒処分の対象になるということです。
 そして、今回、なぜそれが当たったかというと、やはり、勤務時間中に適切でない文書を作っていたということは、やはり中身がどういうものかということが、処分の1つの理由になってきますよね。
 NHK:それは、初めて今言われましたね、中身についても理由が必要ということは。
 知事:勤務時間中に業務と関係ないことを、例えば、文書の作成をしたということが理由で、業務と関係ないということはどういったことをしていたのかということがはっきりしないと、その業務と関係ないことをしていたということにならないので、それはやはり作成された文書が、業務と関係ないどういった文書だったかということで、ご指摘させていただいた文書だったということですね、中身は関係ありますよね。
 NHK:でも、それは、中身は関係ありますと今おっしゃいました。
 それ最初、5月だったかと思いますが、懲戒処分をされたとき、同様の今の答弁なかったと思うんですけども、業務あくまでも業務と関係ないことをしていたという行為のことについての。
 知事:ですから、業務と関係ない行為すなわちどういった文書かというと、私がこれまで述べさせていただいた文書だったということですね。
 それが業務と関係ないので、懲戒処分の対象になったということです。  
 NHK:その中で、先週も同じ質問をさせてもらったんですけども、総務常任委員会の方で処分に関係なく必要がない説明だった、はっきりさせるためにあえて申しますけれども、「わいせつ」という言葉を使ったことに対してですね、それについて総務部長が「必要がない説明」と答弁しています。
 先週も、百条委員会の報告書が出たということも踏まえて、「新たな局面だったから説明をした」ということをこれまでも一貫して知事おっしゃっていますけども、報告書の中には別に「わいせつ」という言葉はないわけで、新たな局面というところは何を指しているんですか。
 知事:百条委員会で報告書が了承された後の、新たな局面ですね。
 そこで、当時産経新聞の記者から、懲戒処分の取扱いどうするんですかという話だったので、そこで、新たな局面での説明を求められましたんで、説明をさせていただいたということですね。
 NHK:私が伺っているのは、新たな局面と「わいせつ」とがどうリンクするんですかということです。
 知事:ですから、百条委員会の報告書が議会において了承されたという新たな局面において、懲戒処分の取扱いをどうするんですかというふうに聞かれましたんで、それは、新たな局面ですよね。
 NHK:了承されたから、「わいせつ」という表現をしていいんですか。
 知事:だから、新たな局面になっているから、その中で懲戒処分の取扱いをどうするんですかということで説明をさせていただいたとおりで、この点については、説明は、これまでさせていただいていることと変わらないので、これ以上ご質問いただいたとしても、私の回答は同じ答えになると思いますので、そこはご理解いただきたいと思います。
 適切だったというふうなことで、これまで述べさせていただいているとおりですね。
 NHK:「適切だった」と、今お言葉がありますけども、行き過ぎた表現だったとそこは考えられないですか。
 知事:新たな局面での説明だったということで、私としては必要な説明をさせていただいたということです。
 NHK:重ねてになりますが、謝罪とか撤回、行き過ぎた表現だった、それは弊社の取材の中でも行き過ぎた表現だったんじゃないかと。
 それこそ、総務部長が自ら総務常任委員会という公の場で、説明する必要がなかったとはっきり言っているわけです。
 それでも、知事は必要だったというふうに思われているんですか。
 知事:そうですね。
 私の判断としては、これまで述べさせていただいたとおりです。
 NHK:いずれにせよ、先週の会見でもどういった言葉で説明するかは私の判断だということ。
 ただ、それこそ、事務方のある種トップである総務部長がそういった必要はなかったとおっしゃっている。
 弊社の取材の中でも他の職員さんもあの答弁は必要なかったというようなことを取材の中では把握しています。
 そうした中で、やはり、行き過ぎた表現だったとかですね、そういったご自身が発信した言葉に対してですね、振り返って、行き過ぎた表現だった、そこを間違ったものを正していきたいとそこを述べるのも、知事の役目なんじゃないですかね。
 知事としては間違っていないけども、ただ、事務方トップの総務部長の方がおっしゃっている、「県としても行き過ぎた、必要なかった」と公式見解として述べられているわけですから、そこについての一言、何か行き過ぎた表現だったとか、そういうことも必要なんじゃないでしょうか。
 知事:それは、記者のご意見としては承ります。
 私としてはこれまで述べさせていただいたとおりですね。
 神戸新聞:まず、弊社で先週末に行った県内有権者向けの調査なんですが、斎藤知事を支持するかどうかを尋ねたところ、支持する人が34%、支持しない人が55%で、不支持の方が20ポイント上回りました。
 この数字について、まず受け止めをお聞かせください。
 知事:1つのアンケート調査ということで、真摯に受け止めたいと思います。
私としては、しっかり県政運営を、これからも改革も含めて、続けていくということで、県民の皆さんのご負託などに応えていきたいというふうに考えています。
 神戸新聞:同じ調査の数字なんですけども、告発文書問題に関して、第三者委員会が県の対応が公益通報者保護法違反であると指摘したことを受けて、斎藤知事がどう対応すべきかという設問も設けたんですけども、それに対して、辞職すべきというのが42%、現状の対応で十分だとおっしゃる方が23%だったので、大きく上回ったということで、これについてはどのように受け止められますか。
 知事:それについても、しっかり受け止めていきたいというふうに考えています。
 私としては、先ほど申し上げたとおり、県政をしっかり前に進めていくと。
 そして、様々な施策を着実に実行していくということが、自分としての責務だというふうに考えています。
 神戸新聞:今のところ数字だけじゃなくて、いろんな報告書の指摘を受け止めるべきというような意見も含めても、辞職を考えられたりとか、パワハラの認定を受けて、ご自身に何らか減給などの処分を科すとか、そのあたりのお考えは今のところはないということですか。
 知事:私の考え方、そして果たすべき責務というものは、これまで述べさせていただいたとおりですね。
 神戸新聞:第三者調査委員会について、SNS上などで、委員が利害関係者であるとかですね、違法性まで指摘するのはガイドライン違反だ、などといった言説が飛び交っていまして、それに関して、弊社で取材したところ、専門家も含めてですけども、そういった言説は誤りであると、公平で中立に調査した結果であるということだったんですけど、改めて知事から見てですね、第三者委員会の調査結果というのは、公平で中立性が保たれていたというふうに思われていますでしょうか。
 知事:その通りだとは思いますね、はい。
 神戸新聞:その上で、その調査結果に対して、公益通報者保護法違反については受け入れない、という考えは今も変わらないということですか。
 知事:私の考えは、これまで、3月26日の会見を含めまして、述べさせていただいたとおりです
 神戸新聞:公益通報者保護法違反に当たらないという、知事の反論の根拠の1つになっていました、特別弁護士にも相談した上で通報者の特定を行ったと、問題ないというアドバイスを受けたので、通報者探索をしたと。
 その点については、第三者調査委員会の方で、知事の見解も含めて、最終的に通報者探索は違法であると、告発文書は公益通報に該当すると、そういう結論が出されているんですけども、何かその新たな反論の根拠というのは、その調査委員会の知事の見解を踏まえた第三者委員会の調査結果に対して、新たな反論の根拠というのは何か示される予定はあるのでしょうか。
 知事:ですから、3月26日の会見で述べさせていただいたこと、そしてこれまで、私が百条委員会も含めてですね、いろんな場面で議会も含めて述べさせていただいたというとおりですね。
 県の対応としては、適切だったという考えです。
 神戸新聞:先ほどの質疑でもあったんですけど、消費者庁の見解として、大臣だったりとか審議官の答弁でですね、知事がこれまでおっしゃっていた体制整備義務には、基本的には内部通報に限られるという考え方もあるとか、そのあたりも含めて否定されていたやりとりがあったと思うんですけども、それを踏まえても、県としての見解はこれまでと変わらないという、念のため確認なんですけど、変わらないということですか。
 知事:そうですね。

 3月26日の会見含めて、これまで述べさせていただいたとおり、県としての対応は適切だったというふうに考えています。
 神戸新聞:既に消費者庁の方から、何か技術的助言とかという話もあったんですけど、何か指導が入っていたりとか、そういう事実はないですか。
 知事:技術的な助言というものは、一般的にガイドラインなどの技術的助言はあるというふうには聞いていますけども、今回、何かその大臣の発言を受けて、技術的助言が来たということはないというふうに聞いています。

 朝日新聞:第三者委員会の報告書の内容についてお聞きします。
 パワハラに関する項目の中で、ひょうごっ子ココロンカードの発行事業をめぐる問題の項目がありまして、この中で事実認定として、カードは本来小学1年生に配るものであるところ、2024年度は県内すべての小中学生のカードが斎藤知事の名前が入った新デザインに差し替えられたと。
 そのために費用が例年よりも約140万円多くかかったということが指摘されています。
 それで、この全面差し替えの出発点として、知事の指示があったということも総括で認定されています。
 教育委員会にも取材しましたが、結果として全面差し替えをしていて、事実関係としては、報告書のとおりであるということでした。
 ただ、知事は百条委員会の証言などですね、「随時、差し替えをしていくように指示した」とかですね、「全部かどうか対象範囲は指導していない」ということで証言されておられますけれども、ちょっと食い違っているなと感じておりまして、改めてその差し替えについては、どのような指示をされたのか、経緯とともに教えていただければと思います。
 知事:報告書に含まれた内容についての個別のことについては、コメントの詳細をここの場で言うということは差し控えたいと思います。
 ご指摘いただいたものについては、予算措置の範囲内で適切に教育委員会が執行したということです。
 朝日新聞:全学年分、斎藤知事の名前が入ったカードに差し替えるように指示したか、していないかはお答えいただけないということでしょうか。
 知事:ココロンカードのあり方については、適切に名称が知事で、今の知事が斎藤元彦だということを踏まえて、対応を検討した方がいいんじゃないかという話があったということで、それを踏まえて、教育委員会の方が対応したということです。
 朝日新聞:全学年分なのかその随時、毎年、徐々に差し替えていくかどうかというのは、どちらだったんですか。
 知事:いずれにしても、今回、それを踏まえて、その対応について教育委員会が予算執行について、適切に対応しているということですね。
 それがどのように差し替えたか含めて、これは予算の範囲内で、適切に対応しているということで、問題ないというふうに思います。
 朝日新聞:報告書がですね、例年より140万円多くかかったことについて、県民にとっては不利益で、必要性のない支出だったというふうに評価されておりますけれども、知事としてこの支出については適切なのかどうかは、どう評価していらっしゃいますか、改めてなりますが。
 知事:それはその時の判断として適切だったというふうに考えています。
 朝日新聞:第三者委員会のヒアリングにも裁量の範囲であって、余分な費用だとは考えていないということだったんですけども、既に使っているカードを新しいものに変えるということで、無駄が出ているのかなと考えたりもするんですが、余分な経費ではなかったという根拠としては、背景にどういう考え方があるということなんでしょうか。
 知事:それは、予算を適切にその時々で執行するということが、それは今回、ご指摘の点についても、問題ないというふうに考えています。
 いろんなご指摘そして記者がおっしゃったような論点などがあるということは真摯に受け止めますけども、ココロンカードの対応については問題ありません。
 産経新聞:先ほどから出ているんですけれど、念のため確認させてください。
 消費者問題の特別委員会で、審議官が法定審については3号通報に関する体制整備義務について、否定している部分があるというふうにおっしゃっていて、知事の3月26日の会見の発言と真逆の考え方なんですけど、撤回、修正はしないということですか。 
 知事:3月26日に述べさせていただいたとおりですね。
 産経新聞:適切だとおっしゃるのであれば、先ほど毎日新聞もおっしゃっていましたけど、具体的に判例だったり、誰が言っているのかとか、学説とか、そういうのを具体的に示して、反論していただいたほうがいいと思うんですけれど、それによって新たな議論の余地も生まれると思うんですけれど、そこについて示していただけないのでしょうか。
 知事:そういった考え方ややり方については、真摯に受け止めますけれども、県としては、3月26日の会見、それからこれまで議会や委員会などで述べさせていただいた考え方ですね。
 産経新聞:適切だとおっしゃいますけれども、これだけ各方面から違法性が指摘されていますけれど、その違法性が指摘されている状態の行政機関というか、そのあり方としてどうなんだという声もありますけど、議員含めてそういう声を聞きますけれど、こういうふうに行政機関が各方面から違法性を指摘されている状態、そのものについて、適切だと思いますか。
 知事:ご指摘というものは真摯に受け止めますけれども、県としての対応は適切だったと考えていますし、今、きちっと行政については、新年度入って、着実に政策も含めて進められているというふうに思っています。
 産経新聞:違法性が指摘されるという余地を残した状態でも、問題ないと考えていますか。
 知事:そういった指摘というものは真摯に受け止めます
 それは第三者委員会の報告書というものも真摯に受け止めるということですね。
 ただ、3月26日の会見を含めて、県としての考えというものはこれまで述べさせていただいたとおりですので、そこは真摯に受け止めるということでも、やはり考え方についての違いがあったということですので、それはいろんなご指摘というものは受け止めつつも、県としては、県政運営をきちっとこれからもしっかりやっていくということが大事だと思います。
 産経新聞:受け止めると結構おっしゃっていますけれど、受け止めた結果どうなっているのか教えてください。
 知事:受け止めた結果、3月26日などの会見で述べさせていただいたというとおりですね。
 産経新聞:風通しの良い職場づくりに向けて努力するというふうに、知事は何回もおっしゃっていますけれども、具体的に風通しの良い職場というのはどういう状況か具体的に教えてください。
 知事:まさにその風通しの良い職場だということだと思いますね。
 職員がそれぞれ意見を闊達に知事と政策に関する議論をし合うという意味で、風通しの良い職場を作っていくことが、私は大事だというふうに考えていますね。
 産経新聞:これだけ違法性が指摘されている行政機関ということになりますけど、現状の評価として知事の言う、風通しの良い職場というふうになっていると考えていますか。
 知事:それはいろんなご指摘、いろんなまだまだ不十分だというご指摘もあるかもしれないですけど、私としては新年度が始まって、新たな体制のもとで幹部含めて、日々の業務から含めて、風通しの良い職場づくりに向けて、全力で対応させていただいています。
 産経新聞:現状、風通しの良い職場になっていますか。
 知事:それは私としてはそうなるように、これからも努力していくということが大事だと思いますね。」
 
 「関西テレビ:実際、奥谷議員だったり丸尾議員に対して、誹謗中傷を行っている人に対して、何かお伝えされたいことというのはありますでしょうか。
 知事:先ほど申し上げているとおり、すべての利用されている方に、やはりどなたに対してのSNSの誹謗中傷というものもやるべきではないということが大事ですので、それをお伝えしたいと思いますね。

 読売テレビ:先ほどの17日の消費者問題特別委員会の件なんですけれども、審議官からこれまでも国と兵庫県の間で公益通報の法解釈についての助言をしていると答弁があったんですけれども、その助言の内容については知事に報告入っていますでしょうか。
 知事:百条委員会などに対してとかで消費者庁の方から議会が法解釈の確認などを行って、そういったやりとりがあったということなどは聞いてはいますけれども、大臣の発言を受けた後、技術的助言は来てはないというふうに聞いていますね。

 読売テレビ:一応、その答弁の質問内容とその答弁の文脈が3号通報についてだったんですけれども、その公益通報の解釈についての助言はこれまでにも来てないということでいいでしょうか。
 知事:私は、そこは存じ上げていないので、また確認していただければと思います。
 読売テレビ:その答弁で大臣が、今後、3号通報の法解釈について、県にどのような指導・助言ができるか今後も検討しますというふうな発言がありました。
 公益通報に当たるかどうかの最終的な県の判断は、最終的には知事が担うことになると思うんですけれども、今後、何か国から指導・助言があった場合、知事の判断もしくはその県の判断というのは、変わる余地というのは今もあるんでしょうか。
 知事:仮定の質問になりますので、詳細はお答えできないですけれども、県としての考えは、これまで述べさせていただいたとおりです。」
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 ②につづく。

2871/兵庫県人事課·「二つめ」の第三者委員会の任務全ては「週刊文春の情報元」捜し。

 兵庫県議会のいわゆる<百条委員会>とは別に、知事に指揮監督権があるいわば行政部には、三つの「第三者委員会」が設置されていた。
 「一つめ」の委員会は、長いが正確には「令和6年3月に職員が作成・配布した『「齋藤元彦兵庫県知事の違法行為等について(令和6年3月12日現在)』と題する文書」に関する調査を行ってきた「文書問題に関する第三者調査委員会」は、今年2025年3月19日に、県当局に対して「調査報告書」を提出した。
 <残り二つの>、つまり「二つめ」と「三つめ」の第三者委員会はいずれも、今年度末日の2025年3月31日に「報告書」を提出した
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 これら二つの委員会について、その設置根拠の問題がある。条例上の根拠はなく、「要綱」がそれに代わっているか、個別の委員(弁護士)との<委託契約>が法的根拠であるか、のいずれかなのだろう。この問題については、ここでは言及しない。
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  これらの、「二つめ」と「三つめ」の第三者「委員会」の簡単な経緯と調査対象について、マスメディアはつぎのように報道している(引用等はいずれもネット上の3/31付けの情報から)。三つにだけ触れる。
 ①/朝日新聞デジタル。執筆者名/添田樹紀(神戸総局・県政担当)。
 「情報漏洩疑惑めぐる第三者調査終了/兵庫県、内容は処分時に公表」
 「兵庫県は31日、斎藤元彦知事らが内部告発された問題をめぐる情報漏洩疑惑を調べていた二つの第三者委員会の調査が終了し、報告書が提出されたと発表した。…<中略>…
 二つの第三者委は、それぞれ①前総務部長が告発者の元西播磨県民局長の公用パソコン内の私的情報を県議らに漏洩した疑惑、②政治団体『「NHKから国民を守る党』党首の立花孝志氏らがSNSで拡散した県保有情報の漏洩疑惑、を調べてきた。いずれも地方公務員法違反が指摘されている。
 ①の疑惑をめぐっては昨年7月、週刊文春が前総務部長が告発文書とは関係のない私的情報をファイルにとじ、県職員や県議に見せて回っていた、と報道。県は10月に第三者委を設置し、真偽を調べていた。…<以下、省略>…」
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 ②/日経オンライン
 「告発者の情報漏洩疑惑、兵庫・第三者委が調査報告書提出」
 「兵庫県の斎藤元彦知事のパワハラ疑惑などを内部告発した元県幹部の私的情報が漏洩した疑惑を巡り、2つの第三者委員会は31日、県に調査報告書を提出した。…<中略>…
 情報漏洩疑惑は2つあり、それぞれ第三者委が設置された。1つは告発文書を作成した元幹部の私的情報を、元総務部長が県議などに漏らしたとされる疑惑。もう1つは、元幹部が公用パソコンに保存していたとされる情報がSNS上で拡散された経緯に関する疑惑だ。いずれも地方公務員法(守秘義務)違反の恐れがある。…<中略>…
 同日、2つの第三者委の調査実施要綱を初めて公表した。兵庫県弁護士会から推薦された弁護士3人がそれぞれ委員を務めた。」
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 ③/サンテレビNEWS
 「知事らの疑惑告発/元県民局長の私的情報漏えい問題で第三者委が調査結果提出」
 「兵庫県は、斎藤知事の告発文書を巡り、告発者の私的な情報などが漏えいした問題について、設置していた2つの第三者委員会の調査が終了したと発表しました。…<中略>…
 兵庫県は3月31日、残る2つの委員会が報告書を県に提出したと発表しました。
 2つの委員会は、告発者の元県民局長の公用パソコンにあった私的な情報が県の前の総務部長から県議に流失した疑惑と、元局長の私的な情報を含む県保有の情報が、政治団体党首の立花孝志氏に漏えいした疑惑を調査していました。」
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 以上によると、「二つめ」の「第三者委員会」に問題を限るが(最後のものに疑問・問題がないわけではないが)、この二つめの「第三者委員会」が調査したのは、それぞれ、①「前総務部長が告発者の元西播磨県民局長の公用パソコン内の私的情報を県議らに漏洩した疑惑」、②「元幹部が公用パソコンに保存していたとされる情報がSNS上で拡散された経緯に関する疑惑」、③「告発者の元県民局長の公用パソコンにあった私的な情報が県の前の総務部長から県議に流失した疑惑」だ。
 表現は同一でないが、同一のものを指している、と考えられる。すなわち、<元西播磨県民局長(告発者)の公用パソコン内の「私的情報」の漏洩>だ。しかも、この「漏洩」者は、①・②「前総務部長」、 ③「前の総務部長」と、すでに特定されている。
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  しかし、不思議なことにこれらの「報道」の前提になっているはずの「記者発表」の内容は異なる。
 「二つめ」を担当した(総務部)人事課の「発表」は、つぎのとおり(兵庫県のウェブサイトから引用)。発表者は、課長・上田真也、主幹・桑原真知子。課内の担当班は、「人事課人事班」。
 「秘密漏えい疑いに関する第三者調査委員会の調査終了について
 週刊文春令和6年7月25日号に掲載された本県職員が秘密を漏えいしたと疑われる事案の調査を行ってきた『秘密漏えい疑いに関する第三者調査委員会』の調査が終了し、本日、県に対して調査報告書が提出されました。 …<以下、省略>…」 
 同日に併せて、「秘密漏えい疑いに関する第三者調査委員会調査委託契約書」の内容も公表された。
 その第1条は「委託」の対象を、つぎのように定めていた(この対象のことをこの契約書は「事案」と称している)。
 「週刊文春令和6年7月 25 日号に掲載された兵庫県職員が秘密を漏えいしたと疑われる事案に関する事実確認調査」。
 同じことは、同様に3月31日に公表された「秘密漏えい疑いに関する第三者調査実施要綱」にも記載されている。冒頭の第1条は、つぎのとおり。
 「(目的)第1条 週刊文春令和6年7月25日号に掲載された本県職員が秘密を漏えいしたと疑われる事案(この実施要綱において「秘密漏えい疑い」といい、以下「本件事案」という。)について、公平かつ中立な観点から専門的な知見を持つ第三者による客観的な調査等を、調査委員会を設けて実施する。」
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  以上のとおり(秋月瑛二が勘違いしているのではない)、「報道」内容と「記者発表」内容は異なっている。
 強いて言えば、前者での<元西播磨県民局長(告発者)の公用パソコン内の「私的情報」>と、後者での「週刊文春令和6年7月25日号に掲載された」情報は同じだ、という説明があり得るのかもしれない。
 たしかに、重なっている部分はあり得る。しかし、同一の対象を指しているとは考えられない。
 前者によると、情報「漏洩」者は<前総務部長>と特定されている。井ノ本某だ。
 しかし、週刊文春2024/7/25号の記事の「漏洩」元、あるいはこの記事の「取材先」である、または週刊文春への情報「提供者」は、井ノ本某をかりに含むとしても、兵庫県の関係職員一般に広く及ぶと見られ、したがってまた、(「漏洩」した)対象「情報」自体がかなり異なるように考えられる。
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 そうすると、「二つめ」の委員会(弁護士3名。人事課所管)が担当したのは、週刊文春という雑誌メディアに<どの職員がどのような情報をどのように提供したのか>だった、と思われる。
 <元西播磨県民局長(告発者)の公用パソコン内の「私的情報」の前総務部長による漏洩>の経緯・内容とは、大きく異なる。
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 予約投稿後に、週刊文春2024年7月25日号の関係記事(p.21-p.23)を実際に見て、上記のことを確認した。以下の叙述も含めて、もっと断定的に書いてよいが、そのままにする。
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  まとめると、第一に、マスメディアによる兵庫県(人事課)発表内容のネット上の「報道」は<誤報>である可能性が高い。少なくとも、「記者発表」の内容に忠実であるとは言えない。
 第二に、週刊文春という雑誌メディアへの「情報提供」または「取材への応答」を行なった兵庫県職員を明らかにする調査を、この「二つめ」の委員会(弁護士3名)は行なった。この点は、3月末および今日までの一般的な?、およびマスメディアの理解と異なる、と考えられる。
 上の第二点について、さらに触れる。
 週刊文春側が「情報源」を明らかにするとは思えない。
 「三つめ」の第三者委員会の調査対象となる項目の過半数(13項目のうち9項目)に「週刊文春」のいくつかの号の記事が挙げられていた(「要綱」別表による)ことが、すでに話題になり、問題視されている。
 同じことは、「二つめ」の委員会が調査対象とした(漏洩)「情報」全体についても言えるだろう。つまり、「週刊文春」の特定号の記事となった情報を提供した兵庫県職員の探索がなされた、と考えられる。
 なお、兵庫県に関する情報の(内部職員からの)「外部提供」と「秘密漏洩」とは、むろん、同じではない。
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 ついでに。「二つめ」の委員会による調査を担当した人事課(職員)に対しても(「三つめの」それを担当した法務文書課(職員)に対しても)、兵庫県知事・斎藤元彦の指揮監督権が及ぶ
 上記の契約内容や「要綱」について、斎藤元彦が全く知らなかった、何ら報告されず何の指示もしなかったとは、到底考えられない。
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2870/R.パイプス1990年著—第15章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立③。
 (13) 外国には、この巨大な「社会主義建設」の企ては、大きな印象を与えた。
 西側でのソヴィエトの政治宣伝は、全てを見通す政府の慈悲ある目のもとでのロシア産業の「合理化」について、熱情的に語った。しかし、強調されたのは実績ではなく、内容だった。
 ロシアの産業がいかに規整されているかを示す図表は、戦後世界の混乱に対処している多くの西側の人々の称讃を掻き立てた。
 しかし、ロシアの内部では、新聞や雑誌、そして党大会での報告から、全く異なる像が浮かび上がった。
 経済計画という主張は、茶番劇だったと判った。すなわち、1921年に、トロツキーは、中央計画は存在しないこと、「中央化」はせいぜい5-10パーセントしか実現されていないこと、を確認した(注83)。
 1920年遅くの<プラウダ>上の一論考は、明け透けに、こう認めた。<khoziaistvennogo plana net>(「経済計画は存在していない」)(注84)。
 最高経済会議の<glavki>は、それが責任をもつべき産業の諸条件について、きわめて漠然とした考えしかもっていなかった。
 「一つの<glavka>または<tsentr>ですら、国の産業と生産を正しく規整することを可能にする適切で包括的なデータをきちんと処理していない。
 数十の組織が、似たような情報を収集するという平行で同じ作業を行なっている。その結果として、全体としては、似ていないデータを掻き集めている。…
 会計は不正確に行なわれ、ときどきは記帳された物品の80-90パーセントが、関係する組織の管理を免れている。
 会計処理がなされていない物品は、乱暴で無制限の投機の対象になり、最終的に消費者に届くまで、何十回も手から手へと渡される」(注85)。
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 (14) 最高経済会議の地域支部については、これらとモスクワの本部との間には恒常的な摩擦がある、と言われていた(注86)。
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 (15) 要するに、当時の説明文書によると、最高経済会議は、管理されずに干渉し合う、主要な役割は数千人の知識人への生活の糧の提供である、そのような奇怪な官僚制的混乱物だった。
 1920年の初頭に、会議の地域支部と地方ソヴェトの経済担当部署は、ほとんど2万5000人に雇用を提供していた(注87)。その圧倒的大部分は、知識人だった。
 官僚制的膨張のそのままの例は、ベンゼン・トラスト(Glavanil)だった。これの職員名簿には、150人の労働者を雇用する工場施設を監視するための、50人の官僚たちが載っていた(脚注)
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 (脚注) Litvinov, in Prau da, No. 262(1920年11月21日), p.1. Scheibert 教授(Lenin, p. 210)は間違って、「ヴァニラ・トラスト」を意味する頭文字だと解読している。
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 最高経済会議の官僚の一人は、彼が所属した部署の類型について、彩り豊かな叙述を残した。
 共産主義政府の他の機関については知られていない叙述なので、引用しておくに値する。
 「下級の職は、主として多数の若い女性、男性、以前の帳簿係、店員、書記、あるいは大学、高校や『外部の』学生に占められていた。
 この若者たちの集団は、比較的に高い給料でかつ要求される労働量の少ない業務に魅かれていた。
 彼らは一日じゅう、大きな建物の多数の廊下でぶらぶらしながら過ごした。
 彼らはいちゃつき、共同施設でキャンディやナッツを買うために走り出し、1人だけが何とか手にするだけの劇場券や肉の煮付けを仲間うちで配り、こうした商業的行為に付きもの一種として、ボルシェヴィキを呪った。」…
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「つぎの最も数の多い[被雇用者の]類型は、帝制時代の省庁の一時的な官僚で成っていた。
 ソヴィエトの業務に加わるに際しての彼らの動機は、物質的必要か、それ以上に、手慣れた仕事をしたいという願望か、のいずれかだった。そのような仕事に、彼らは人生の10年間以上を捧げてきたのだ。
 『発出』または『受取』の素材、『備忘録』、『報告書』、書記上の些細な知恵に、彼らはどのような情熱を持って取り組んだのかを、把握しなければならない。パンや靴がないままで生活することよりも、事務作業の雰囲気がない所で生きていくことの方が困難だと彼らは知ったということを、理解しなければならない。
 このような人々は、実直に業務を遂行しようとした。
 彼らは、最も早く来て、最も遅く去る人々だった。彼らは、鎖で縛られているように、その職に執着した。
 しかし、おそらく正確には、信じ難い愚かさ以外に彼らの仕事の実直さは存在しなかった、という理由でだろう。
 上級機関の無秩序と衝動性が、彼らが取り組んだ『受取』素材や『備忘録』等の全てに、愛情溢れた気配りを混ぜ込んだ、という理由でだろう。…」
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 「最後に、中間層の官僚たちのうちの非共産党多数派やより上級の官僚たちの一部は、さまざまなタイプの知識層で成っていた。
 そこには、いわばロマンティックな性質があり、そのために敵の要塞の中で行なう業務には、大きな冒険の風味があった。
 原理をもたず、自分たち自身の幸福以外には世界の全てに無関心な人々が、そこにはいた。
 暗黒と混乱の覆いのもとで、価値があるもの全てを略奪することができるように、ボルシェヴィキの混沌に身を寄せる、そのような普通のいかがわしい人々が、そこにはいた。
 別のタイプの人々もいた。貴重だと考える仕事を回収することを望む専門家たち。また、私自身のように、『体制を柔和にする(soften)』ことを目的として、加わった者たち。」(注88)
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 (16) レーニンの、「単一計画」にもとづき作動する「単一の巨大な機構に国家の経済機構全体を変える」という考えについては、多くのことを語り得る。
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 (17) ボルシェヴィキは、労働者支配の広がりのあとの経営者による混乱を、いくぶんかうまく克服するのに成功した。
 1917年十月直前および直後の、体制のサンディカリズム的政策は、労働者をメンシェヴィキから切り離す道具だった。これは、ボルシェヴィキが工場委員会で多数派になるのを助けた。
 ブレスト条約の調印のあとでは、「ブルジョア専門家」を雇用しての個人による工業経営という伝統的手法へ回帰することが、決定された。
 トロツキーは1918年3月に、レーニンは5月に、これについて語った(注89)。
 実際に、以前の所有者や経営者の多くは彼らの仕事を決して捨てなかったが、1918年6月28日の国有化布令の条件で、それは禁止された。
 最高経済会議は、これらの人々で充ちた。
 シベリアからのある訪問者は、つぎのことに気づいた。
 「多くのモスクワの<tsen try>や<glavki>の長には、以前の雇用者、経営者および権限ある官僚が就いている。…」。
 「個人的に従前の商業や工業の世界を知っていた、準備のない訪問者は、従前の皮革工場の所有者がGlavkozh[皮革シンジケート]にいること、大製造業者が中央織物組織にいること、等々を見て、驚いただろう」(注90)
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 (18) レーニンとトロツキーは、「社会主義」の信条で「ブルジョア専門家」の技巧を利用する必要性を主張しつづけた。しかし、これは、左翼共産主義者、労働組合官僚、工場委員会からの抵抗に遭遇した、
 かつての「資本主義」エリートたちが彼らの専門性のゆえにソヴィエトの産業界で享有している権力や特権を不愉快に感じて、彼らは、旧エリートたちに嫌がらせを行ない、彼らを威嚇した(注91)。
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 (19) 内戦が終了するまで、政府には、個人による管理という原則を実施するのに多大の困難があった。
 1919年に、工業施設の10.8パーセントだけに、個人の管理者がいた。
 しかし、1920-21年に、政府は力強く運動を再開し、1921年末には、ロシアの工場の90.7パーセントは、個人管理者のもとで稼働していた(注92)。
 しかしながら、「合議制の」管理を擁護する主張は消え去ることがなかった。その主張者たちは、個人の管理は労働者を体制から遠ざける、「資本主義者」が、国家に奉仕しているという偽装のもとで、収用された工場施設の支配権を保持するのを許している、と議論した(注93)。
 やがて、こうした議論は、いわゆる労働者反対派によって全国レベルにまで高められることになる。
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 第四節、終わり。

2869/R.パイプス1990年著—第15章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立②。
 (07) 最高経済会議は、巨大な私的部門がその統制の外に残ったままだったということだけでも、「国民経済と国家財政を組織する」という課題を、部分的にすら実現しなかった。
 供給人民委員部に譲歩しなければならなったので、食糧その他の消費用品を配分するという任務を全うすることもしなかった。
 実際のところ、最高経済会議は、ソヴィエト・ロシアの国有産業を管理する—いや正確には、管理することを試みる—主要な機関になった。換言すると、異なる名前をもつ産業人民委員部だった。
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 (08) ボルシェヴィキは、十月のあとすぐに、企業の国有化を開始した。
 ほとんどの場合、所有者または経営者が「破壊活動(sabotage)」に従事したという理由で、工場施設を剥奪した。
 剥奪したそれらを、ボルシェヴィキは工場委員会に委ねた。
 ときには—従前の臨時政府の地方政府閣僚だったA. I. Konovalov の織物工場について生じたことだが—、政治的復讐を動機として収用が行なわれた。
 国有化された企業の所有者は、補償を受けなかった。
 国有化のこうした任意で無計画の段階が最高に達したのは、1917年12月のPutiov 工場の収用だった。
 ほとんどの収用は、政府の指示によってではなく、地方機関自身の主導でもって行なわれた。—最初は地方ソヴェトによって、のちには最高経済会議の地域支部によって。
 1918年8月に行なわれた調査によれば、国有化された567企業のうち、そして没収された214企業のうち、五分の一だけが直接にモスクワによる指令にもとづいていた(注72)。
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 (09) ロシア産業の体系的な国有化は、1918年1月28日の布令でもって始まった(注73)。
 これを起動させたのは、Lari n だった。
 ベルリンでの通商交渉に出席したLarin は、ドイツの実業家たちはロシアの大企業の支配権を握るつもりだ、と結論づけた。
 ボルシェヴィキは、ブレスト=リトフスク条約で、ソヴィエトの経済諸法の規制から中央諸国の会社を除外することに同意し、それらがロシア領土内で資産をもち、事業活動を行なうことを認めた。
 国有化された資産の所有者には、適正に補償がなされるものとされていた。
 ロシア人がその企業をドイツ人に売却する場合、当該ドイツ人は支配権を握るか補償を受けるかの選択をするのを可能にする、そういう条項があった。
 Lari n はレーニンに、国有化措置を一挙に行なうことだけがドイツがロシアの産業の支配者になるのを阻止することができる、と説得した(注74)。
 レーニンがそうするのを躊躇したとすれば、ドイツの反応を懸念したからだった。多数のボルシェヴィキはそうした措置がドイツとの外交関係に亀裂を生み、反ボルシェヴィキ「十字軍」を形成する刺激になることを怖れていたのだ。
 この恐怖には、結局は根拠がなかった。「不誠実だ」と不満を述べながらも、「[ドイツは]全ての[ロシアの]産業の国有化を黙認し、ロシアに対して宣戦を布告することはなかった」(注75)。
 国有化される資産についてドイツの利害関係者には完全な補償が保証され、連合諸国のそれには否認された、というのがその理由だった。
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 (10) 1918年6月28日の布令は、100万ルーブルの資本をもつか、それ以上を会社か組合が所有している全ての企業と鉄道の国有化を、補償なくして、命じた。
 国有化された事業の施設その他の資産は、国家に移された。
 経営者たちは、厳しい制裁で威嚇されつつ、その地位にとどまるよう命じられた。
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 (11) それ以降、国有化の過程が進行した。
 1920年の秋までに、最高経済会議は、総計200万人の労働者のいる、3万7226企業を、名目上は管轄した。
 国有化された企業の13.9パーセントは1人しか雇用せず、ほとんど半分には機械装備がなかった。
 しかし、実際には、最高経済会議はこれら企業の一部しか管理せず(ある権威によると4547企業)、残りが国有というのは、名前だけにすぎなかった(注76)。
 1920年11月、政府は、ほとんどの中小企業を国有化する追加の布令を発した(注77)。
 1921年の初めに、書類上は、政府は、一人の作業場から巨大な工場まで、ほとんど全ての製造施設を所有し、経営した。
 現実には、一部しか支配せず、管理したのはさらに少なかった(脚注)
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 (脚注) 防衛産業の組織化については、明確でない。1918年8月、最高経済会議は、Krasin の指揮のもとに軍需用品の生産に関する委員会を設立した。この委員会は、拘束力のある軍部からの命令を受け取り、企業へと渡した。やがて、軍需用品の供給の責任は防衛会議(Sovet Obolony)がもつことになった
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 (12) 最高経済会議—かつて「トラストのトラスト」と呼ばれた—は、幹部会によって指揮される、巨大な官僚機構を発展させた。
 それは、垂直に(機能面で)また水平に(領域面で)組織される諸機関へと分割されていた。
 垂直の諸組織は、<glavki>または<tsentry>と呼ばれた。これらは1920年遅くで42を数え、それぞれが産業生産の一分肢に責任をもち、委員会によって指揮された。
 それらは、塗料、塩、紙について各々Glavlak、Glavsol、Glavbum のように、頭文字化された名称をもった(注79)。
 この会議の構造や活動を企画するのに大きな役割を果たしたLari n は、のちに、その発想を外国から得ていたことを承認した。
 「私はドイツの<戦争社会>に注目し、ロシア語に翻訳し、労働者精神を混ぜ、<glavki>の名前で通用させた」(注80)。
 <glavki>に加えて、最高経済会議には、1920年にほとんど1400の、地方支部の網があった(注81)。
 会議の組織図は、幹部会が太陽を、<glavki>、<tsentry>や地方諸機関は惑星とそれらの月を示す、天界図に似ていた(注82)。
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 ③へとつづく。

2868/私の音楽ライブラリー055/クラシック⑱〜㉒。

 ライブラリー055/クラシック⑱〜㉒。
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 ⑱Mendelssohn, Symphony No.3 in A-minor, op.56.
 →Paavo Järvi, TonhalleO Zürich. 〔TonhalleO Zürich〕

 ⑲Mendelssohn, Violin Concerto in E-minor, op.64.
 →Anne-Sophie Mutter, Kurt Masur, Leipzig GewandhausO. 〔GreatPerformers1〕
 →Maria Duenas, Gustavo Gimeno, Luxembourg PhilO. 〔Maria Duenas Violin〕

 ⑳Saint-Saens, Cello Concerto No.1 in A-minor, op.33.
 →Mischa Maisky, Gabor Takaks-Nagi, Verbier Festival ChamberO. 〔DW Classical Music〕

 ㉑Saint-Saens, Introduction & Rond Capriccioso, op.28.
 →Kristine Balanas, Jean Claud Casadesus, Latvian National SimphO.

 ㉒Schubert, Schwannengasang, D957, IV, Serenade in D-minor.
 →Stjepan Hauser. 〔HAUSER〕
 →Khatia Buniatishvili. 〔Catia Luis〕
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2867/R.パイプス1990年著—第15章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立①
 (01) すでに記したように、ペテログラードでの権力奪取のあと、レーニンは、ロシアの産業上の資産を収用するつもりでなかった。
 彼には産業経済を運営することの複雑さを単純化し過ぎる強い傾向があったけれども、職業的革命家の党が自分たちだけで産業経済を稼働させるのは不可能だ、ということを理解できる現実主義者だった。
 政治的圧力によって「国家資本主義」という考えを放棄せざるを得なくなったが、彼は、国民経済には中央計画による紀律が必要だ、と考え続けた。
 1918年3月、レーニンは、政府の直面する任務を、つぎのように語った。
 「会計の組織化、大企業の統制、国家経済全体の、億万の人民が単一の計画によって指導されるのを可能にするよう機能する巨大な機構への移行」(注61)
 トロツキーは、同意した。
 「経済の社会主義的組織化は、市場の廃絶でもって始まる。これが意味するのは、調整者—すなわち供給と需要の法則の『自由な』展開—の廃絶だ。
 不可避の結末—すなわち社会の需要への生産の従属—は、原理的には生産の全分野を覆う<統合した経済計画>によって達成しなければならない。」(注62)
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 (02) Larin は、レーニンの依頼に応じて、ロシアの経済を指揮する中央の行政および計画の機関を設立する案を作成した。
 若干の修正のあと、1917年12月2日に、国家経済最高会議(Vysshyi Soviet Narodnogo Khoziaistva, VSNKh)を設置する布令が発布された(注63)。
 1921年に国家計画委員会(Gosplan)と改称されるこの機関は、共産党が政治分野を支配するのと同じ独占的地位を国の経済について(少なくとも理論的には)与えようとするものだった。
 「理論的には」と言うのは、私的な農業部門と大きくかつ増大している物品のブラック市場の存在を考えれば、VSNKh は決してソヴィエト・ロシアの経済を統制することすらできなかったからだ。
 ソヴナルコムの指揮を直接に受けるこの機関の公式の任務は、「国民経済と国家財政を組織する」ことだった。
 基本計画を策定し実施するものとされたが、そのために、生産、配分、金融の全ての分野を国有化し、シンジケート化する権能が与えられた。
 トロツキーによれば、もともとは、供給、農業、輸送、財政、貿易の各人民委員部を、最高経済会議の一部門にすることが意図されていた(注64)。
 この会議はさらに、地方ソヴェトの経済部門について責任をもち、それが存在しない場合は会議の支部を設置するものとされた。
 最高経済会議は、概念上は、社会主義経済の条件であるHilferding の観念での「総合カルテル」に適合しようとするものだった。
 それは実際には、はるかに穏健なものに変わった。
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 (03) レーニンは、会議の指揮をAleksei Rykov に委ねた。この人物について、ある知人は、「温かい心をもつ知識人」、むしろ「古い時代の地方出身の親切な医師」と叙述した。
 別の者は、彼は地方<zemstvo>にいる農学者か統計学者を思い出させる、と書いた(注66)。
 たしかに彼は、ロシアの経済を上から下まで知っている人物でも専門家でもなかった(注67)。
 彼はBonn の農民家庭に生まれ、大まかな教育を受けたあと、レーニンのための職業革命家の仕事をした。
 身なりは貧しく、手入れは行き届かず、小声でゆっくりと話した。このような癖のおかげで、力強いとの評判を得た。
 しかし、のちに判ったように、彼は決定が要求されるときに全く無力だった。
 そのような行政的才能の欠如によって、始めるのが困難で全く不可能な仕事が、彼に任された。
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 (04) 最高経済会議の背後にいる真の実力者—「ロシア経済のSaint-Just」—は、Iurii Larin だった。
 専門家にすらほとんど知られていないが、この半身が麻痺していてつねに痛みを感じていた人物は、独特の歴史的業績の評価を要求できる資格があった。たしかに、30年という信じ難く短い期間に大国の国家経済を破綻させた、と他の誰も主張できなかった。
 Larin は、レーニンに大きな影響を与えた。レーニンは、その独裁の最初の2年半のあいだ、他のどの経済助言者に対してよりも、彼の語ることに注意深く耳を傾けた。
 Larin は、困難な諸問題についての迅速で急進的な解決方策を、つねに用意していた。そのことで、経済の「魔術師」との評価を得た。
 Metropole ホテルの高級室にある彼の事務所は、きわめて狂信的な経済構想をもつロシア人たちにとって、巡礼の聖地だった。
 そうした構想はいずれも鼻にもかけずに却下されることはなく、多くは真摯に検討され、いくつかは採用された。
 レーニンが彼の助言に幻滅を感じるようになり、最高経済会議の幹部会から追放したのは、ようやく1920年の初めだった。
 そのときまでLarin は、その考え方と人柄によって最高経済会議を支配した(脚注)
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 (脚注) Lenin, Khronika, XIII, p. 243, p. 267. この時期の経済計画家のほとんどはスターリンと衝突し、射殺された。だが、小児麻痺の犠牲者のLari n は、幸運にも1932年まで生き、自然死を遂げた。
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 (05) Larin は1882年にクリミアで、ユダヤの知識人家庭にMichael Aleksandrovich として生まれた。そして、自ら「反目的雰囲気」と称したものの中で少年期を過ごした(注68)。
 18歳の年に、ある急進的組織に加入した。そのときから、典型的なロシアの革命家の人生を歩み、地下活動、違法な労働組合の組織、監獄か流刑地での服役のあいだを繰り返した。
 政治的には、メンシェヴィキの側にいた。
 高等教育を受けなかった。経済に関する知識は、新聞、多量の雑誌、小冊子を読むことで獲得した。
 戦争中に報道記者になり、Stockholm からリベラルな新聞の<Russkie Vedomosti>のために、ドイツの国内発展に関する報告を提出した。
 革命後に書籍としてまとめられた、彼のよく読まれた論考類は、ドイツの「戦争社会主義」に魅惑されていたことを示していた(注69)。
 1917年の春にペテログラード・ソヴェトで働き、同年9月に、ボルシェヴィキへと移った。
 ボルシェヴィキ独裁の最初の数ヶ月、彼は、多数の重要な布令の草案を作成し、ときには布令を発した。
 ソヴィエト・ロシアが最高経済会議を設立し、経済計画の策定を始め、外国債務をデフォルトにし、産業を国有化し、実際的諸目的がありつつ、通貨を廃止したのは、大部分はLarin に依っていた。
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 (06) 最高経済会議は、知識人たち、主としてメンシェヴィキや独立派の専門家を魅きつけた。政治的帰属を問わない仕事を提供し、体制反対者にも自分たちは人民に役立っているという感覚をもつのを許したからだ。
 最高経済会議はすぐに、官僚制的ヒドラへと膨大化した。モスクワの、かつては二級のホテルが位置したMiasnitskaia 通りの大きなビルに本部があった。その専門家たちは、全国へと広がった。
 設立から10ヶ月後(1918年9月)、6000人の職員を雇用していた。彼らには、一日あたり20万ルーブルが俸給として支払われた(注71)。
 この職員数と給与総額は、過大ではなかっただろう。かりに、最高経済会議が、企図されたこと—すなわち国家の経済の指揮—を行なっていたならば。
 しかし、現実には主として、誰も注意を払わない布令を発することや、誰も必要としない官僚制的機関を形成することに専念した。
 ————
 ②へとつづく。
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