Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第三節/通貨廃止の試み③。
(17) その頃までに、全ての実際的目的について、ソヴィエトの通貨は無価値になった。
5万ルーブル銀行券は、戦前のアルミ硬貨ほどの購買力しかなかった(注46)。
価値がまだある唯一の紙幣は、帝制時代のルーブルだった。しかし、この紙幣は隠匿され、ほとんど流通しなくなった(註47)。
だが、人々は価値を測る何らかの単位なくしては生活することができなかったので、通貨代替物を求めた。その中で最も一般的だったのは、パンと塩だった(注48)。
つぎの表が示すように、インフレは天文学的規模に達した。
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「流通しているロシア貨幣の現実の価値(注49)(10億ルーブルにつき)
1917年11月 1日 1,919
1918年 1月 1日 1,332
1919年 1月 1日 379
1920年 1月 1日 93
1921年 1月 1日 70
1921年 7月 1日 29」
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「ロシア、1913年〜1923年の物価(注50)(各年10月1日)
1913年 1.0
1917年 7.55
1918年 102
1919年 923
1920年 9,620
1921年 81,900
1922年 7,340,000
1923年 648,230,000」
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ある経済史学者の言葉では、「1917年1月1日から1923年1月1日までに、〔ロシアでの〕貨幣の量は20万倍増加し、物価は1000万倍に高騰した」(註51)。
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(18) 左翼共産主義者たちは、狂喜乱舞した。
インフレが頂点に達する前の1921年3月に開催された第10回党大会で、Preobrazhenskii は、フランス革命で発行された通貨は最低で500分の1に価値を下落させたのに対して、ソヴィエトのルーブルはその価値をすでに2万分の1に落とした、と誇った。
「このことが意味するのは、我々はフランス革命の40倍を獲得した、ということだ」(注52)。
彼は、より真剣な覚書で、こう観察した。
無制限の量の紙幣を印刷する政府の政策によって惹起された莫大なインフレは、農民層から食糧その他の生産物を掴み出すのを助けた。
ボルシェヴィキ革命を3年間支えるのに重大な役割を果たしたのは、一種の間接税だった(注53)。
第11回党大会で、G. Ia. Sokolnikov は、驚きを込めて、党大会でこの主題について初めて長い報告をする、と注意を向けた。
彼は、それまでの政策は通貨と財政は廃止されたものと見なすことだった、と述べた。
この目的のための手段は、意図的なインフレだった(註54)。
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(19) 経済史の研究者たちは長く、通貨は、「資本主義」の形態にとどまらない全ての経済活動に不可欠の要素だ、と警告してきた。
Max Weber はこう書いた。
「貨幣なき社会の問題に勇気をもって取り組むならば、何らかの会計制度が何とかして『発見される』だろうとの前提的想定は、何ら役に立たない。
これは、全ての『社会化』の根本問題だ。
この最も決定的な点に合理的に策定される計画の手段をもたないかぎりは、合理的な『計画経済』について語ることはできない。」(脚注)
ロシアでは、Peter Struve が、革命の前にも後にも、経済活動は最小の費用で最大の利得を得ようとすることを意味するので、名前や物理的形態がどうであれ、計算単位または「通貨」を必要とする、と主張した。
貨幣を廃止することはできない。貨幣がその自然な機能を果たすことを政府が妨げようとするときはつねに、その結果は市場の分裂だ(規制市場と自由市場)(注55)。
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(脚注) M. Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, I (Tübingen, 1947), Pt. 1, Chap. 2, p. 12. この批判は、Otto Neurath に向けられていた。Neurath は、通貨とは無関係に帳簿を記入する制度を案出した、と考えていた。
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(20) ボルシェヴィキはようやく、こうした観察が真実であることに気づいた。
貨幣なき経済の擁護者が予見できず、最終的に彼らの運命を決めた困難さがあった。それは、国有化された企業と他の国家組織との間の会計を処理する方法を提示することに失敗したことだった。
1918年8月30日の布令(注56)は、ソヴィエトの諸機関に対して、当面必要な出費分を除いて、それらの金銭資産を全て人民銀行に預けることを指示した。
それら諸機関はまた、生産物を国家経済最高会議(後述)の適切な機関(glavki)に預託し、代わりに、備品や原料を受け取るものとされた。
これらの業務は、貨幣に頼ることなく、帳簿への記入の方法で実施されるものとされた。
しかし、この手続は機能しなかったようだ。というのは、翌年に追加の布令が発布されていて、その布令は、国有企業間の、および国有企業と国家諸機関の間の業務執行に関する貨幣なき帳簿記入について、それらを実行する仕方を複雑なほどに詳細に、定めているからだ(注57)。
Osinskii は、ソヴィエト諸機関と諸企業の間の財務関係を規律する布令に政府官僚たちは最初から反対し、その制定から逃げてきた、と主張した。
彼は、そうした制度がそもそも機能しないものであることを、認めようとしなかっただろう(注58)。
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(21) Ossinskii とその急進派の仲間たちは、慌てなかった。
1920年2月、Larin とその同僚たちは、次回の党大会のために、正式に通貨を廃止する決議の草案を作成した。
レーニンは、原則的に同意しつつ、さらなる議論を求めた。
1年後(1921年2月)、布令を発表する準備ができた。かりに実施されていれば、その布令は歴史上初めて、租税を廃止することになっただろう(注60)。
しかし、施行されることはなかった。政府はその翌月、新経済政策(NEP)の導入に合わせて、さらに貨幣を消し去ろうとしつつも、財政上の責任へと戻る措置を講じた。
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第三節、終わり。
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第三節/通貨廃止の試み③。
(17) その頃までに、全ての実際的目的について、ソヴィエトの通貨は無価値になった。
5万ルーブル銀行券は、戦前のアルミ硬貨ほどの購買力しかなかった(注46)。
価値がまだある唯一の紙幣は、帝制時代のルーブルだった。しかし、この紙幣は隠匿され、ほとんど流通しなくなった(註47)。
だが、人々は価値を測る何らかの単位なくしては生活することができなかったので、通貨代替物を求めた。その中で最も一般的だったのは、パンと塩だった(注48)。
つぎの表が示すように、インフレは天文学的規模に達した。
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「流通しているロシア貨幣の現実の価値(注49)(10億ルーブルにつき)
1917年11月 1日 1,919
1918年 1月 1日 1,332
1919年 1月 1日 379
1920年 1月 1日 93
1921年 1月 1日 70
1921年 7月 1日 29」
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「ロシア、1913年〜1923年の物価(注50)(各年10月1日)
1913年 1.0
1917年 7.55
1918年 102
1919年 923
1920年 9,620
1921年 81,900
1922年 7,340,000
1923年 648,230,000」
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ある経済史学者の言葉では、「1917年1月1日から1923年1月1日までに、〔ロシアでの〕貨幣の量は20万倍増加し、物価は1000万倍に高騰した」(註51)。
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(18) 左翼共産主義者たちは、狂喜乱舞した。
インフレが頂点に達する前の1921年3月に開催された第10回党大会で、Preobrazhenskii は、フランス革命で発行された通貨は最低で500分の1に価値を下落させたのに対して、ソヴィエトのルーブルはその価値をすでに2万分の1に落とした、と誇った。
「このことが意味するのは、我々はフランス革命の40倍を獲得した、ということだ」(注52)。
彼は、より真剣な覚書で、こう観察した。
無制限の量の紙幣を印刷する政府の政策によって惹起された莫大なインフレは、農民層から食糧その他の生産物を掴み出すのを助けた。
ボルシェヴィキ革命を3年間支えるのに重大な役割を果たしたのは、一種の間接税だった(注53)。
第11回党大会で、G. Ia. Sokolnikov は、驚きを込めて、党大会でこの主題について初めて長い報告をする、と注意を向けた。
彼は、それまでの政策は通貨と財政は廃止されたものと見なすことだった、と述べた。
この目的のための手段は、意図的なインフレだった(註54)。
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(19) 経済史の研究者たちは長く、通貨は、「資本主義」の形態にとどまらない全ての経済活動に不可欠の要素だ、と警告してきた。
Max Weber はこう書いた。
「貨幣なき社会の問題に勇気をもって取り組むならば、何らかの会計制度が何とかして『発見される』だろうとの前提的想定は、何ら役に立たない。
これは、全ての『社会化』の根本問題だ。
この最も決定的な点に合理的に策定される計画の手段をもたないかぎりは、合理的な『計画経済』について語ることはできない。」(脚注)
ロシアでは、Peter Struve が、革命の前にも後にも、経済活動は最小の費用で最大の利得を得ようとすることを意味するので、名前や物理的形態がどうであれ、計算単位または「通貨」を必要とする、と主張した。
貨幣を廃止することはできない。貨幣がその自然な機能を果たすことを政府が妨げようとするときはつねに、その結果は市場の分裂だ(規制市場と自由市場)(注55)。
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(脚注) M. Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, I (Tübingen, 1947), Pt. 1, Chap. 2, p. 12. この批判は、Otto Neurath に向けられていた。Neurath は、通貨とは無関係に帳簿を記入する制度を案出した、と考えていた。
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(20) ボルシェヴィキはようやく、こうした観察が真実であることに気づいた。
貨幣なき経済の擁護者が予見できず、最終的に彼らの運命を決めた困難さがあった。それは、国有化された企業と他の国家組織との間の会計を処理する方法を提示することに失敗したことだった。
1918年8月30日の布令(注56)は、ソヴィエトの諸機関に対して、当面必要な出費分を除いて、それらの金銭資産を全て人民銀行に預けることを指示した。
それら諸機関はまた、生産物を国家経済最高会議(後述)の適切な機関(glavki)に預託し、代わりに、備品や原料を受け取るものとされた。
これらの業務は、貨幣に頼ることなく、帳簿への記入の方法で実施されるものとされた。
しかし、この手続は機能しなかったようだ。というのは、翌年に追加の布令が発布されていて、その布令は、国有企業間の、および国有企業と国家諸機関の間の業務執行に関する貨幣なき帳簿記入について、それらを実行する仕方を複雑なほどに詳細に、定めているからだ(注57)。
Osinskii は、ソヴィエト諸機関と諸企業の間の財務関係を規律する布令に政府官僚たちは最初から反対し、その制定から逃げてきた、と主張した。
彼は、そうした制度がそもそも機能しないものであることを、認めようとしなかっただろう(注58)。
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(21) Ossinskii とその急進派の仲間たちは、慌てなかった。
1920年2月、Larin とその同僚たちは、次回の党大会のために、正式に通貨を廃止する決議の草案を作成した。
レーニンは、原則的に同意しつつ、さらなる議論を求めた。
1年後(1921年2月)、布令を発表する準備ができた。かりに実施されていれば、その布令は歴史上初めて、租税を廃止することになっただろう(注60)。
しかし、施行されることはなかった。政府はその翌月、新経済政策(NEP)の導入に合わせて、さらに貨幣を消し去ろうとしつつも、財政上の責任へと戻る措置を講じた。
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第三節、終わり。



























































