秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/03

2850/私の音楽ライブラリー050/クラシック。

 いわゆる「クラシック」音楽曲を全て渉猟して聴くのは不可能だ。
 私には、以下の22曲を繰り返し聴くので十分だろう。
 Mahler、Shostakovich、Schoenberg は選んでいない。
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 Bach, Violin Concerto No.1 in A-minor, MWV1041.
 Beethoven, Symphony No.5 in C-minor, op.67.
 Beethoven, Piano Concerto No.5 in Es, op.73.
 Brahms, Symphony No.1 in C-minor, op.68.
 Brahms, Symphony No.4 in E-minor, op.98.
 Brahms, Hungarian Dances No.1 in G-minor
 Chopin, Piano Concerto No.1 in E-minor, op.11.
 Chopin, Nocturn No.20 in C♯-minor, op.posth.
 Dvorak, Cello Concerto No.2 in B-minor, op.104.
 Dvorak, Slavonic Dances in E-minor, op.72-2.
 Mozart, Symphony No.40 in G-minor, K.550.
 Mozart, Violin Concerto No.3 in G, K.216.
 Mendelssohn, Symphony No.3 in A-minor, op.56.
 Mendelssohn, Violin Concerto in E-minor, op.64.
 Saint-Saens, Cello Concerto No.1 in A-minor, op.33.
 Saint-Saens, Introduction & Rond Capriccioso, op.28.い
 Schubert, Schwannengasang, D957, IV, Serenade in D-minor.
 Schumann, Symphony No.1 in B♭, op.38.
 Schumann, Cello Concerto in A-minor, op.129.
 Schumann, Piano Concerto in A-minor, op.54.
 Tchaikovsky, Piano Concerto No.1 in B♭-minor, op.23.
 Tchaikovsky, Strings Serenade in C, op.48.
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2849/R.パイプス1990年著—第15章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標②。
 (07) 戦時共産主義には、いくつかの源泉となる着想があった。
 商品と労働の生産・配分の国家統制(国家所有でなかったが)は、第一次大戦中のの帝政ドイツで導入されていた。
 「戦時社会主義」(Kriegessozialismus)として知られるこの緊急措置は、レーニンとその経済助言者のIurii Larin に深い印象を与えた。
 商品の自由市場を国家経営の分配センターで置き換えるというのは、Louis Blanc の思想と彼の影響のもとで1948年にフランスに導入された<ateliers>に倣っていた。
 しかしながら、精神では、戦時共産主義が最も似ていたのは、中世ロシアの父権的体制(tiagloe gosudarstvo)だった。父権的体制のもとでは、君主制は、住民や資源も含めて、国全体を君主の私的領域のごとく扱った(注08)。
 西欧の文化に本当に全く接したことがなかったロシアの大衆にとって、経済の統制は、抽象的な財産権や「資本主義」と称される複合現象全体よりも、はるかに自然だった。
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 (08) かりに1918年と1921年の間のソヴィエトの経済布令を額面どおりに理解すれば、この時期の終わりには国家の経済は完全に国家が管理するものになると、おそらく間違いなく結論づけるだろう。
 実際には、ソヴィエトの布令群は、しばしば意図を示したものにすぎなかった。法と現実との不一致はより大きくはならなかった。
 恒常的に膨大化する国家セクターと並んで、その廃止の企てに抵抗する私的セクターが盛んに活動していた証拠は、豊富に存在する。
 通貨は、言うところの「貨幣なき」経済においてすら流通しつづけた。
 そして、パンは、体制は穀物独占を主張しているにもかかわらず、公開の市場で販売された。
 中央経済計画は、実施されなかった。
 言い換えると、戦時共産主義が放棄されなければならなかった1921年に、それはきわめて不完全ながらようやく実現していた。
 戦時共産主義が失敗した理由は、ごく一部は、法令を政府が実施できなかった、能力のなさにある。
 これ以上に、可能であったときですら、厳格に強制的に施行すれば経済的大厄災をもたらしただろう、と気づいていたことによる。
 共産主義者の文献は、パンの総量の三分の二の多さを都市住民に提供していた非合法の食物取引がなければ、都市は飢餓に陥っていただろう、ということを認めていた。
 新しい名前とスローガンにあった戦時共産主義は、ようやく10年後に現実になった。スターリンが、レーニンが中止させていたときに経済的編成を再開したからだ。
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 (09) 戦時共産主義の目標は、社会主義だった。あるいは、共産主義ですらあった。
 唱導者たちはいつも、社会主義国家は私有財産と自由市場を廃止し、中央集権化した、国家が経営する、計画経済システムがそれらに代わる、と信じていた。
 ボルシェヴィキがこの構想を実現しようとして直面した主要な困難さは、マルクス主義は資本主義の発展の長期の経緯の結果として私有財産と市場を廃棄することを想定していた、ということに由来していた。資本主義の発展こそが、法令によって国有化することができるまでに生産と配分を集中させることができたのだ。
 しかし、ロシアでは、革命の時点で、資本主義はまだその幼年期にあった。
 ロシアの圧倒的な「プチ・ブルジョア」経済は数千万の自己雇用の自治組織の農民と職人に支配されていたのだが、それは、農民に配分し、労働者に工業企業の統制権を付与するために大規模の資産を破壊するというボルシェヴィキの政策によってさらに強化された。
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 (10) レーニンが十分に証明しているのは、異常に明敏な政治家だったということだ。しかし、こと経済問題については、きわめて未熟だった。
 彼の経済に関する知識は、全体として、ドイツの社会主義者のRudolf Hilferding の諸著作のような文献に依拠していた。
 影響力ある<金融資本論>(1910)でHilferding は、資本主義はその最も発展した段階、「金融資本主義」の段階に入った、それは全ての経済力を銀行の手に集中させる、と主張した。
 その段階に到達した資本主義の論理的帰結はこうだ。
 「この趨勢は一銀行または銀行群が貨幣資本全体を支配する状況を生むだろう。
 このような『中央銀行』はそれによって社会的生産の全体に対する支配を確立する。」(注09)
 「金融資本主義」という観念と結びついていたのは、シンジケートやトラストの役割に関する誇張した見方だった。
 レーニンとその仲間たちは、ロシアではシンジケートやトラストが事実上は産業と取引を支配すると信じ、市場の力には小さいかつ消失していく役割しか認めなかった。
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 (11) このような前提からは、銀行やシンジケートを国有化することは国の経済の国有化と同じことである、という帰結が生じ、そのことは次いで、社会主義の基礎を築くことを意味する。
 レーニンは、ロシアでの銀行制度とカルテルの手への経済諸力の集中によって、金融と商業の布令による国有化を可能にする次元を獲得した、と論じた(注10)。
 彼は、十月のクーの直前に、単一の国有銀行を創設すればそのこと自体だけで「<社会主義>制度の十分の九」が達成されるだろう(注11)、という驚くべき言明を述べた。
 トロツキーは、レーニンのこのような楽観主義を確認している。
 「1918年早くに書いた『平和に関するテーゼ』で、レーニンは、『ロシアでの社会主義の勝利には、一定の期間が、<数ヶ月程度(no less than)> が必要だ』と述べる。
 現在〔1924年〕では、この言葉は完全に理解し難いように思える。
 これはペンのすべりだったのか、彼は数年または数十年を意味させたかったのではなかったか?
 だが、否だ。これは、ペンのすべりではなかった。…
 私はとても明瞭に憶えている。最初の時期の、Smolnyi での人民委員会議の会合で、レーニンはいつも変わらずに、我々は半年で社会主義を達成し、最強の国家になるはずだ、と繰り返した。」(注12)
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 (12) 権力を掌握していた最初の6ヶ月のあいだに、レーニンは、彼が「国家社会主義」と呼んだシステムをロシアに導入することを考えた。
 これはドイツの「戦時社会主義」を範としたものだったが、直接に戦争遂行に関連性があるセクターや「資本主義者やユンカーたちの利益となる作業のみならず、「プロレタリアート」のための利益となる作業も包括する、という違いがあった。
 1917年9月、十月のクーの直前に、かくしてレーニンはこう考えていた。
 「常備軍、警察、官僚制の圧倒的に『抑圧的な』諸装置に加えて、現在の国家には、とくに緊密に銀行やシンジケートと結びついて、言ってみれば、大量の会計や記帳の作業を実行している諸装置が存在している。
 これらの装置を粉砕できないし、粉砕してはならない。
 これらは、資本家たちに対する服従から解放されなければならない。影響力をもつ資本家たちから切り離されなければならない。
 プロレタリア・ソヴィエトに対して服従させなければならない。
 そうなれば、諸装置はより総合的に、より多くを包括するものに、より国民的なものになる。
 そしてこのことは、大規模の資本主義によってすでに成し遂げられている達成物に依拠して、行なうことが<できる>。…
 銀行、シンジケート、商業社会等々の大量の被雇用者は、(資本主義と金融資本主義のおかげで)技術的にも、<ソヴィエト>による統制と監視のもとで政治的にも、十分に「国有化」を行なうことができる。」(注13)
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 (13) 1917年11月、レーニンは、経済綱領の概略を、こうメモした。
 「経済政策の諸問題。
  1. 銀行の国有化。
  2. 義務的なシンジケート化。
  3. 外国取引の国家独占。
  4. 略奪と闘う革命的手段。
  5. 金融や銀行の略奪の公表。
  6. 金融産業。
  7. 失業。
  8. 動員—軍の?、工業の?
  9. 供給。」(注14)
 この案は、国内取引の国家独占や工業または輸送の国有化、そして貨幣なき経済については、何ら言及していない。これらは、戦時共産主義の特徴になるはずなのだけれども。
 この時期のレーニンは、金融制度の国有化と工業、商業企業のシンジケート化で、社会主義経済をその途上に乗せるには十分だ、と信じていた。
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 ③につづく。 

2848/R.パイプス1990年著—第15章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳。
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 第15章・第一節/起源と目標①。
 (01) ”戦時共産主義“という言葉は、共産主義者および非共産主義者の文献で、長年にわたって、正確な意味を与えられてきた。
 <ソヴィエト歴史百科事典>の文章によると、こうだ。
 「戦時共産主義:ソヴェト社会主義共和国連邦の1918-20年の内戦と外国の干渉の時代の経済政策に与えられる名称。
 戦時共産主義の政策は、内戦と経済破綻によって生じた特別の困難さに支配された。」(注01)
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 (02) 戦時共産主義は情勢によって「支配された」という考えは、しかしながら、言葉の由来が示すように、歴史上の記録を破壊するものだ。
 「戦時共産主義」という言葉が最も早く公式に使われたのは、1921年の春だ。—すなわち、そのように称された政策が、よりリベラルな新経済政策によって放棄されているときだ。
 共産党政府が突然の方向転換を正当化するために、統制できなかった情勢下での直近の過去の大災害を非難しようと試みたのは、そのときだった。
 かくして、レーニンは、1921年4月にこう書いた。
 「『戦時共産主義』は、戦争と破綻によって強いられたものだった。
 それは、プロレタリアートの経済的責務に対応した政策ではなかったし、そうあり得ることもなかった。
 それは、一時的な措置だった。」(注02)
 しかし、これは後知恵だった。
 戦時共産主義の措置のいくつかは、実際に、緊急事態に対応するために採用された。だが、戦時共産主義は全体として、「一時的な措置」ではなく、本格的な共産主義を生み出すための、野心的な、そしてのちに判明したように、時期尚早の、企てだった(注03)。
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 (03) 体制の最初の数年のボルシェヴィキの経済政策は、即興でも反発でもなかったことは、トロツキーによっても確認されている。
 トロツキーは、戦時共産主義は「包囲された要塞での消費の体系的な編成」を必要とすることを認めたうえで、つぎのように叙述を進める。
 「その元来の観念では、戦時共産主義はより広い目的を持つものだった。
 ソヴェト政権は、こうした編成の手法を直接に、生産並びに配分における計画経済のシステムへと発展させることを望み、その方向で尽力した。
 言い換えると、ソヴェト政権は戦時共産主義から徐々に、だがシステムを破壊することなく、純粋な共産主義へと到達することを望んだ。」(注04)
 こうした見解は、別の共産主義者の権威によって裏付けられている。
 「戦時共産主義は、戦争という状況やその他の自発的に動く諸力の所産であるにとどまらない。
 それはまた、全く新しい原理のもとで国の経済生活を建設するための明確なイデオロギーの所産であり、社会政治的な構想を実現するものだ。」(脚注)
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 (脚注) L. N. Iurovskii, Denezhnaia politika sovetskoi vlasti 1917-1927 (Moscow, 1928), p.51. 見解が一致する当時の専門家は、左翼共産主義者のL. Kritsman だ(Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii, 2nd ed., Moscow-Leningrad, 1926)。彼は「いわゆる戦時共産主義」を、「プロレタリア自然経済での最初の偉大な企て、社会主義への移行の第一歩を進む企て」と称する(p.77)。
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 (04) 私有財産という制度に対する体系的な攻撃、ということ以上に、内戦期にボルシェヴィキが追求した政策がもつ長期間に及ぶ共産主義者の目標を説得的に確言するものはない。
 この目的をもってボルシェヴィキ体制が生存のために闘っていたときに採択された、そしてその生き残りには何ら寄与しなかった諸法令は、つぎのイデオロギー的な信念によって惹起されていた。すなわち、彼らの政治的自立の源であるがゆえに、市民たちから処分可能な資産の所有権を剥奪する必要がある、という信念。
 財産収用の過程は、不動産から始まった。
 1917年10月26日のいわゆる土地布令は、農民以外の所有者から土地所有権を剥奪した。
 これに続いたのは、都市の不動産に関する布令だった。都市不動産はまず商取引から排除され(1917年12月14日)、のちに国家へと没収された(1918年8月24日)(注05)。
 1918年1月に、全ての国家債務が否認された。
 1918年4月20日の布令は、商業および工業企業の購入、売却、貸借を禁止した。
 その日の別の布令は、私有の証券や債券が登録されることを要求した(注06)。
 私有財産の廃止への大きな一歩は、1918年5月1日の、相続を非合法化する法令によってとられた。
 これらはいずれも、「緊急措置」の範疇には含まれない。
 いずれも、私人や私的団体から生産財その他の資産に対する権利を剥奪することを意図していた。
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 (05) 1920-21年の冬にようやく得られた完成形において、戦時共産主義は、つぎの企図をもつ多数の凄まじい措置を含むものだった。すなわち、ロシアの経済全体—労働力、生産力、分配機構—を、国家の、より正確には、共産党の、排他的管理のもとに置く、という企図。
 これはまた、共産主義体制に対する反対派の経済的基盤を切り削ぐ、その体制が完全に「合理的な」態様で国民経済を再組織するのを可能にする、という二つを意図していた。
 こうした措置は、つぎのとおり。
 1. 生産手段の国有化。農業、輸送、極小の企業という重要な例外がある(一時的にだが)。
 2. 小売、卸売の国有化による私的取引の廃絶と政府が統制する分配システムへの置換え。
 3. 国家が規整する交換システムのための、交換や会計の単位としての通貨の廃止。
 4. 単一の計画を国民経済全体に課すこと。
 5. 健康な成人男性についての強制労働の導入。場合によっては、女性、子ども、高齢者についても。
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 (06) 内戦を理由としてではなく、あるいは内戦にもかかわらず、追求されたこれらの先行例なき措置は、最も効率的な生産性と配分の公正性に寄与する首尾一貫しかつ合理的な経済システムをソヴィエト・ロシアにもたらすために企図された。
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 ②へとつづく。

2847/R.パイプス1990年著—第14章㉝。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第20節/外国の「干渉」の問題。
 (01) ロシア革命は、ロシアという一国に限られた出来事ではなかった。
 二月革命の勃発から、そしてとくにボルシェヴィキがペテログラードを掌握した後では、ロシア革命は国際化するようになった。そしてこれには、二つの理由があった。
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 (02) ロシアは、戦争の大きな舞台だった。
 ロシアが一方的に戦争から撤退したことは、二つの交戦ブロックのいずれにも、致命的な利害に大きな影響を与えた。
 中央諸国にとっては、勝利への期待が高まった。
 連合諸国にとっては、敗北する不安の根源になった。
 そのゆえに、戦争が継続しているかぎり、どちらの側も、ロシアに起きていることに無関心ではおれなかった。地理的な位置だけでは、ロシアは世界的な激動から免れることができなかったのだ。
 ボルシェヴィキは、相互に交戦する二大ブロックから離れることによって、この対立へのロシアの関与に影響を与えた。
 1918年の春、ボルシェヴィキは、反ドイツの多民族軍を領土内に形成することを連合諸国と議論した。そして、Murmansk の占領に同意し、赤軍設立への助力を求めた。
 1918年の秋、北部の港湾を連合諸国から解放し、ロシアの義勇軍を粉砕するために、ドイツの軍事干渉を要請した。
 ドイツは何度も何度も、ボルシェヴィキ体制が崩壊しないように、政治的支援や金銭によって介入しなければならなかった。
 Helfferich は、1918年7月-8月のソヴィエト体制の危機について、その回想録で、「意識的でなくまた意図的でもなかったとかりにしても、この危機的期間のボルシェヴィキ体制の最大の支援者はドイツ政府だった」ということを認めた(注224)。
 この事実に鑑みれば、1917-1918年の外国のロシアへの干渉はボルシェヴィキを権力から下ろすために行なわれた、などと真面目に主張することはできない。
 諸外国は、まず第一には、西部戦線での均衡状態を自分たちに有利に変更するために、干渉した。連合諸国の場合にはロシアでの戦線を活性化することによって、中央諸国の場合はロシアでの戦線を静穏なままにしておくことによって。
 ボルシェヴィキはこうした諸外国の干渉に積極的に関与し、あるときはこちらの勢力から、あるときは別の勢力から、干渉を招来した。そのときどきのボルシェヴィキの利益にとって何が必要かに依存していたわけだ。
 ボルシェヴィキが歓迎し懇願したドイツの「干渉」は、ボルシェヴィキが臨時政府の運命を辿るのを阻止した蓋然性が高い。
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 (03) 第二に、ボルシェヴィキは最初から、社会主義革命と国際的階級戦争の時代には国境は無意味になった、と宣言した。
 ボルシェヴィキは、外国の国民に対して、立ち上がって自国政府を打倒しようとの訴えを発した。この目的のために彼らは、各国家に資金を配分した。
 そして、外国の国民がそうできる状態にあれば—当面は主としてドイツだったが—、ボルシェヴィキは積極的に革命を促進した。
 全ての外国政府の正統性に挑戦することによって、ボルシェヴィキは、全ての外国政府がボルシェヴィキ政府に挑戦するよう招来した。
 かりに現実にはいずれの国もその権利を行使しなかったとすれば、どの国にもそうする利益がなかったからだ。
 ドイツはボルシェヴィキが自分たちのために役立つと考え、ボルシェヴィキが苦境に陥ったときはいつでも、彼らをを支えた。
 一方で連合諸国は、自国の生存のために励んでいた。
 ある歴史家が問題を提起した。—「人類史上最も破壊的だった戦争のまっ最中に重大な軍事力を失ったソヴィエト政権が、いかにして、革命の最初の年を生き延びることができたのか?」(注225)
 自ら答える。すなわち、この最も破壊的な戦争が、ロシアの出来事をすっかり覆い隠した。
 ドイツはボルシェヴィキ体制を支援した。
 連合諸国には、他に関心があった。
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 (04) したがって、1917-1918年のロシアへの外国の関与を敵対的な「干渉」という言葉を使って理解するのは、誤っている。
 ボルシェヴィキ政府は、この干渉を招くとともに、自分自身のために積極的に介在しもした。
 元の状態への回帰を切望していた諸大国は承認しようとはしなかったけれども、ロシア革命は決してロシアの純然たる国内的事件ではなく、戦争の結末に影響を与えるというだけでも重要なものだった。
 ロシアの新しい支配者は、世界じゅうに影響を及ぼすだろうと明確に述べた。
 1918年11月の停戦によって、ボルシェヴィキには、ドイツ、オーストリア、ハンガリーおよびそれが可能な国で、革命を組織するというかつてなかった機会が与えられた。
 この闘いは当面は失敗したけれども、彼らが確実にしたのは、世界には休止期間はなく、1914年以前の生活に戻ることはできない、ということだった。
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 (05) ロシア国内への1918年の外国の干渉については、もう一つ書いておく必要があることがある。
 連合諸国がロシア<において>何をしたかに関する議論—それは大して多くはないが—では、ロシアの<ために>何をしたか—通常はきわめて多かった—、ということが忘れられている。
 ロシアが戦争に参加するという約束を破り、ドイツと自分たちだけで戦闘するよう離れた後で、連合諸国は、莫大な人的および物質的損失を被った。
 ロシアが戦争から脱落した結果として、ドイツ軍は不活発な東部戦線から撤兵し、西部戦線での実働兵力をほとんど四分の一(150分団から192分団へ)増加させることができた(注226)。
 この勢力増強によって、ドイツ軍は激烈な攻撃を行なうことができた。
 1918年の春と夏の西部戦線での大きな戦闘—St.Qentin、Lys、Aisne、Matz、Marne、Chateau-Thierry—で、イギリス、フランス、アメリカの各軍は総計数十万の兵士を失った。
 こうした犠牲は、ついにはドイツの降伏をもたらした。
 ドイツの敗北にボルシェヴィキは何ら寄与しなかったが、ドイツの敗北は、ソヴィエト政権にブレスト=リトフスク条約を廃棄して、ブレストで放棄を強いられた領土のほとんどを回復するのを可能にしただけではない。ドイツの敗北によって、ソヴィエト・ロシアは、ドイツはそうなることを意図していたのだが、一つの植民地、一種のユーラシア・アフリカ、になる運命から救われもした(脚注)
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 (脚注) この点を、Brian Pearce, How Haig Saved Lenin (London, 1987) は熱心に、かつ説得的に論述している。
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 第20節、終わり。第14章全体も終わり。<第15章・“戦時共産主義”>へとつづく。

2846/兵庫県議会「百条委員会」報告書・<総括>全文。

 兵庫県議会・文書問題調査特別委員会(「百条委員会」)が2025年3月4日にとりまとめた調査報告書の「目次」は、つぎのとおり。
 「Ⅰ 文書問題調査特別委員会について
  Ⅱ 任意調査について
  Ⅲ 文書の7項目にかかる調査の内容と結果について
  Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
  Ⅴ 総括
  Ⅵ 提出を求めた資料一覧」
 上のうち、「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について」の全文はこの欄にすでに掲載した。
 以下、「Ⅴ 総括」の全文をそのまま掲載する。下線は掲載者。
 出所—兵庫県議会ホームページ
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 Ⅴ 総括
 調査結果のとおり、調査項目のうち、「令和3年の知事選挙における県職員の事前選挙活動等について」、「次回知事選挙に向けた投票依頼について」は文書の真偽について事実確認ができなかったが、以下の項目については一定の事実が確認された。
「五百旗頭真理事長ご逝去に至る経緯について」は、片山氏から副理事長解任を伝えられた五百旗頭理事長が憤りを覚えていたことが認められる。よって、公社や外郭団体の再編や人員削減において、憶測や不信感が生まれないよう、対象団体の状況を公平公正に判断し、当事者をはじめ関係者に十分な理解を得る努力を怠ることのないように求める。
 「知事が贈答品を受け取っていることについて」は、PR等でなく齋藤知事個人として消費していたと捉えられても仕方がない行為もあったと言わざるを得ない。昨年 12 月 11 日発表の「県民の信頼確保に向けた改善策の実施」において、一定の措置が講じられているが、受け取らない一定の基準を客観的に示すことや接待対応についてのルールの明確化も図るべきである。
 「知事の政治資金パーティー実施にかかるパーティー券の購入依頼について」は、片山氏の依頼により経済界に影響力のある県信用保証協会理事長が疑念を抱かれる行動をとっていたことは否めず、一般職だけでなく役員も含めた政治活動や選挙活動に関わる倫理規程等を定めることが必要である。
 「阪神・オリックス優勝パレードにかかる信用金庫等からのキックバックについて」は、資金調達が難航し、パレード後も継続して資金調達をする特異な状況に追い込まれていたことが認められるため、県が利害関係のある企業団体に寄附金や協賛金を依頼するにあたっては、行政運営に不信感を抱かれることのないよう細心の注意を払うことを求める。また、刑事告発されている背任容疑について、県関係者が起訴され有罪となる事態となった場合は、齋藤知事自らの管理・監督責任を重く受け止め対処することを求める。
 「知事のパワーハラスメントについて」は、「パワハラを受けた」との証言は無かったものの、パワハラ防止指針が定めるパワハラの定義である「①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものであり、①から③までの要素を全て満たすもの」に該当する可能性があり、パワハラ行為と言っても過言ではない言動があった。前述の「県民の信頼確保に向けた改善策の実施」において、一定の措置が講じられているが、知事、副知事などの特別職を含む管理職等へのアンガーマネジメント研修の実施など、さらに踏み込んだ対策に取り組むことを求める。
 公益通報者保護については、元県民局長の文書は公益通報者保護法上の外部公益通報に当たる可能性が高く、県の初動は、文書内容の調査をせずに通報者の特定を行うなど、不適切な対応に終始しており、現在も体制整備義務違反の疑いが指摘されている。初動対応のほかにも、調査方法や3月 27 日の記者会見、公益通報者保護法に対する関わり方についても問題なしとはいえない。
 この度の兵庫県の対応は、組織の長や幹部の不正を告発すると、告発された当事者自らがその内容を否定し、更に通報者を探して公表されたうえ、懲戒等の不利益処分等により通報者が潰される事例として受け止められかねない状況にある。
 今後は、知事を含めた幹部職員が公益通報者保護法に対する理解を深めるとともに、組織内の不正行為や違法行為に関する告発に対しては、常に公益通報の可能性を念頭に対応することが不可欠である。さらに、外部公益通報に対応できる体制づくりを進めるとともに、告発内容の調査に当事者は関与しないこと、通報者探索及び範囲外共有等は行わないことの明確化が必要である。
 井ノ本氏による元県民局長のプライバシー情報の漏洩については、告発者潰しを企図していたと言われかねない状況がうかがえる。弁護士による調査の結果を速やかに公表するとともに、県として刑事告発も含め、適切かつ早急な対応を求める。
 知事は、3月 27 日の記者会見で元県民局長の文書を「事実無根」、「うそ八百」と評したが、約9ヵ月に及ぶ本委員会の調査により、文書には一定の事実が含まれていたことが認められた。
 今回の文書問題を振り返ると、文書に記載の当事者である知事や幹部職員による初動対応や内部公益通報後の第三者機関の検討、元県民局長の処分過程など全体を通して、客観性、公平性を欠いており、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関の行うべき対応としては大きな問題があったと断ぜざるを得ない。
 最後に、齋藤知事におかれては、本報告書の期するところを重く受け止め、兵庫県のリーダーとして厳正に身を処していかれることを期待する。また、文書問題に端を発する様々な疑惑によって引き起こされた兵庫県の混乱と分断は、いま、憂うべき状態にあることを真摯に受け止めなければならない。これを脱却し、一刻も早く解消するために、県民に対して過不足のない説明責任を果たすとともに、先導的かつ雄県の名にふさわしい進取の気質に富んだ兵庫県政を取り戻すことを切に願うものである。
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 以上。

2845/R.パイプス1990年著—第14章㉜。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第19節/ロシアがドイツ敗戦と決定。
 (01) ボルシェヴィキは1918年の9月末まで、友人であるドイツの勝利を信じていた。
 その9月末、その考えを変更せざるを得ないことが起きた。
 9月30日に宰相Hertling が辞任し、数日後にHinze が解任された。これらにより、ベルリンにいるロシアに最も忠実な支持者たちが排除された。
 新宰相のMaximilian 公はアメリカ大統領Wilson に対して、アメリカ政府が停戦に向けて調整するよう要請した。
 これは、崩壊が切迫していることの紛れなき兆候だった。
 暗殺の企て(後述参照)による負傷から回復するために当時はモスクワ近郊の別荘〔dacha〕にいたレーニンは、ただちに行動に移った。
 彼はトロツキーとSverdlov に、中央委員会を開催するよう指示した。外交政策上の緊急問題を議論するためだった。
 10月3日、レーニンは〔ソヴェト〕中央執行委員会に、ドイツの情勢の分析文を送った。そこで、ドイツで革命が切迫していると熱烈に語った(注216)。
 彼の勧告にもとづき、10月4日に中央執行委員会は、決議を採択した。それは、全世界に対して、ドイツの革命政府を助けるためにソヴィエト・ロシアは全力を捧げる、と宣言する、というものだった(注217)。
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 (02) ドイツの新宰相には、転覆を求めるこのような鉄面皮の訴えは我慢できなかった。
 今や外務省ですら、ボルシェヴィキにうんざりしていた。
 10月の省庁間会合で、外務省は初めて、ボルシェヴィキと決裂することに同意した。
 その月の末までに外務省の官僚たちが作成した覚書は、政策変更をつぎのように正当化した。
 「ボルシェヴィズムを発明したことやそれをロシアに対して自由にさせたことについて評判が悪い我々は、今は最後の土壇場で、将来のロシアに対する共感を完全に失わないためにも、少なくとも、ボルシェヴィキを保護するのをやめるべきだ」(注218)。
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 (03) ドイツには、ロシアと断絶するのを正当化する十分な根拠があった。1918年の春と夏にすら領土内で破壊工作活動行っていたIoffe が、今や公然と革命の火を煽り立てているのだから。
 のちにIoffe が誇って書いたように、この時期に彼の大使館が行なっていた煽動的な政治的虚偽宣伝活動は、「武装蜂起のための決定的な革命的準備活動の性格をいっそう帯びてきている」。
 「スパルタクス団という陰謀集団は別論として、ドイツ、とくにベルリンには、[1917年]1月のストライキ以降、—むろん非合法に—労働者代議員ソヴェトが存在している。…
 大使館はこれらソヴェトとの連絡関係を継続的に維持した。…
 [ベルリンの]ソヴェトは、ベルリンの全プロレタリアートが十分に武装していてこそ蜂起は時宜にかなったものになる、と想定していた。
 我々は、これと闘わなければならない。
 そのようなときを待っていれば蜂起は永遠に生起せず、プロレタリアートの前衛だけが武装するので十分だ、と主張しなければならない。…
 それにもかかわらず、ドイツのプロレタリアートの武装しようとの努力は全体として合法的で、分別があり、大使館はそれらをあらゆる面で援助した。」(注219)
 この援助は、金銭と武器の供与のかたちで行なわれた。
 ロシア大使館がドイツから離れたとき、不注意で一つの記録文書を忘れて残していた。その文書は、大使館が9月21日と10月31日の間に10万5000ドイツマルクを払って210の短銃と2万7000の銃弾を購入したことを、示していた(注220)。
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 (04) ドイツでの革命政府の勝利を援助することを目ざすとのソヴィエトの最高立法機関〔ソヴェト中央執行委員会〕の宣言やこの意図を実現しようとするIoffe の努力は、ロシアとの外交関係を断絶するには十分であるはずだった。
 しかし、ドイツの外交当局は、もっと議論の余地のない根拠を求め、そのためにある事件を引き起こした。
 ソヴィエトのクーリエは数ヶ月間、ドイツで散布する扇動文書を大使館に持ってきていた。このことをドイツ外務当局は知っていて、ロシアからの外交箱がベルリン市内の鉄道駅で下ろされるあいだに偶然にのごとく落ちて壊れるように、手筈を整えた。
 11月4日の夕方、これが行なわれた。
 壊れた箱枠から、ドイツの労働者と兵士が決起してドイツ政府を打倒するよう激励する多数の煽動文書が出てきた(注221)。
 Ioffe は告げられた。ただちにドイツを去らなければならない、と。
 彼は適度の憤慨を示したけれども、モスクワに向かって出立する前に、〔ドイツ〕独立社会主義党のOskar Cohn 博士、実質的にソヴィエトの使命をもつ在住者に、50万ドイツマルクと15万ルーブルを残すことを忘れなかった。これらの金銭は、「ドイツ革命の必要のために」従前から配分されていた総計1000万ルーブルを補充するものだった(脚注)
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 (脚注)  Ioffe, VZh, No. 5 (1919), p.45. トロツキーとの親密な関係を理由として、Ioffe はのちに屈辱を受けた。彼は1927年に自殺した。Lev Trotskii, Portrety revoliutsionerov (Benson, Vt, 1988). p.377-p.401.
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 (05) 11月13日、西部戦線の停戦から二日後、ロシア政府は一方的に、ブレスト=リトフスク条約と補完条約を廃棄した(注222)。
 連合諸国もまた、Versailles 合意の一部として、ドイツにブレスト条約を廃棄させた(注223)。
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 第20節(最終節)へとつづく。
 

2844/法(法学)という「ものの考え方」001。

  およそ五ヶ月前、昨年10月下旬から11月上旬に「NHK というものの考え方」(①〜③)という表題の稿を掲載したことがあった。
 この奇妙なまたは意味不明部分のある表題は、のちに<法(法学)という「ものの考え方」>という表題でいくつかの文章を書こうと予定していたからだ。「もの」は「NHK というもの」ではなく、「ものの考え方」という語の一部だ。
 再び思い起って、<法(法学)という「ものの考え方」>を書いてみよう。但し、当初に想定していたものとは内容または掲載順序が異なる。
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 こんな表題で何か書いてみようと思った動機はいくつかある。
 第一に、「法学」というものが基礎にしている論理または「ものの考え方」には、「法学」に限られないその他の「学問」分野にも共通する(その意味では<普遍的な>)、さらには人間が生活していくうえで漠然と前提にしている、あるいは少なくとも「生活」していくうえで役立つ、「ものの考え方」があるのではないか、という何となくの思いがあるからだ。
 第二に、かなり具体的には西尾幹二や江崎道朗等々々の多数の「文学部」出身者の書く文章には、あるいは「文学評論」から出発したような論者またはたんなる「もの書き」の文章には、<法(法学)という「ものの考え方」>が決定的に欠けている、そしてそれは「致命的だ」と感じるところがあるからだ。
 この点と分離して整理しておかないが、上の点はまた、わが国における、またはマスメディアを含む日本の「社会」における、「法」(法学)や「政治」(政治学)に関する<リテラシー>というものの欠如または著しい不十分さと通底していると感じられる。
 「法」や「政治」全般に関する専門家では全くないが、随筆ふうに、気軽にいくつか書いていってみよう。
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  さっそくだが、兵庫県・斎藤元彦問題に関係する、兵庫県記者クラブの面々を中心とする<マスメデイア>の「法リテラシー」の欠如は著しいのではなかろうか。
 3月19日に兵庫県知事(斎藤元彦)設置の「第三者委員会」の一つの最終報告書が提出され、委員による(委員長を中心とする)記者発表と会見が行われた。途中からライブ放映を見ていたら、記者たちの諸質問から推察される彼らたちの<能力不足>に感じ入るところがあった。
 そもそも当該「第三者委員会」に課されていた任務に関する無知または基礎知識の不十分さも垣間見えた。もっと究極的には、国や自治体の「記者クラブ」制度の功罪という論点もあるだろう(さらに大手新聞における記者の採用・養成やその配置の問題も)。
 上の後者は別論として、つぎの趣旨の質問が、某大手新聞社のたぶん兵庫県庁記者クラブ配属記者から発せられていた。
 なお、告発文書作成・配布者に対する懲戒処分(停職三月)の適否に関わる。この処分には事由(理由)が4つ挙げられていたらしいが、第一を除く第二〜第四の理由による部分は「有効」という委員会の判断に関する質問だった。第一の理由による部分は「違法」でかつ「効力がない」=「無効」という判断は、容易に理解できたらしい。
 ①「違法」であるかまたは問題があるが「有効」ということの意味を知りたい。
 ②<手続>は「違法」だが<結果>は「有効」という意味か。そうだとすれば何故か。
 これに対する委員の一人の回答には不十分な部分もあると直感したが、つぎの回答部分は全く適切だ。
 単純に、「適法」=「有効」、「違法」=「無効」、ではない。
 つまり適法・違法と有効・無効は同列の問題ではない。
 元裁判官だった者を含むという弁護士たちが叙述した報告書に含まれる「法的」または「法学的」な論点に関する判断の意味を、この記者は(ふつうの日本語文として何度読んでも)理解できないに違いない。
 刑事法上の(原則的な)「違法収集証拠排除」の法理に回答は言及していたが、回答されていたように、県知事による公務員の「懲戒処分」にそのまま適用されるものではない、というのは、一般論としては「正しい」。
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 「効力」の有無の問題以前に、もともと「違法」とは何か、という問題がある。
 法学部出身者の半分くらいは、以下のことを、何となくであれ、知っているだろう。
 きわめて大雑把に言って、憲法・行政法という「公法」系と民法・民事訴訟法という「民事法」系、刑法・刑事法という「刑事法」系とで、「違法」の意味、位置づけは全く異なる。いや、民法と民事訴訟法、刑法と刑事訴訟法とでも大きく異なる(例えば、「行為規範」性の有無によって)。
 だから、適法・違法と有効・無効という問題のあらわれ方自体が、<法分野>によって大きく異なるわけだ。
 「民事の問題」と「刑事の問題」の違いくらいは、新聞記者であれば(少なくとも何となくであれ)知っているだろう。
 だが、この程度の素養だけで、官公庁(この概念にも少なくともかつては「法学」的意味があった)に関係する新聞記者あるいは「フリー」の記者、「ジャーナリスト」であり得るのだとすると、日本の「社会」は相当に恐ろしい。
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2843/R.パイプス1990年著—第14章㉛。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第18節/ドイツとの補足条約②。
 (07) 三つの秘密条項の一つは、補完条約5条を綿密にしたものだった。5条では、ロシア軍がMurmansk から連合諸国軍を排除することを約束していた。
 秘密条項では、かりにロシアがこれを行なうことができなければ、フィンランド・ドイツの合同軍によって達成されることが明記されていた(脚注)
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 (脚注) この条項を最初に公にしたのは、Europaesche Gespraeche, IV, No. 3 (1926), p.149-p.153. Wheeler-Bennett, Fogotten Peace, p.436 に再掲されている。
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 (08) この作戦計画を実施するため、ペテログラード軍事地区司令官のVladimir Antonov-Ovseenko は、8月末にベルリンの戦争人民委員部代表団の団長のもとへ行った(注206)。
 彼は、予定されるMurmansk 攻撃がドイツ兵団によって実行されるだろうことに同意した。
 従前に提案されていたように、ロシア軍の任務は、イギリス軍がArchangel からペテログラードへに向かって進軍した場合に、これを遮断することだった。
 両軍はペテログラードで衝突する。
 Ludendorff は、ドイツ軍はMurmansk に対する作戦行動の基地としてペテログラードを占拠しなければならない、と強く主張した。だが、ロシア政府はこれを受け入れようとしなかった。
 ロシアの領土を横切るドイツ兵団の動きが生むだろう悪い印象を最小限にすべく、ロシア政府は種々の欺瞞的措置を講じた。そのうちの一つは、ドイツ兵団をロシア人将校の「名目的な」指揮のもとに置くことだった(注207)。
 ロシア軍が同意する実際の司令官は、ドイツの将軍が務める。この点に付いてソヴィエトの側が示唆したのは、1915年にGalicia でロシア軍を粉砕した、皇帝の副将軍のAugust von Mackensen 陸軍元帥だった(注208)。
 この作戦は、ドイツが降伏したとき、進行中だった(注209)。
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 (09) 第二の秘密条項は、外国ではなくロシア人に対するドイツ軍の行動に関係するために、より機密的ですらあった。これは、ロシア国内の義勇軍に対する作戦行動を始めるようにとのボルシェヴィキの要請をドイツが受容れたことを確認するものだった。
 ドイツ軍は、つぎのように述べて、このような行動を約束した。
 「ドイツはロシアに対して、Alekseev 将軍とチェコスロヴァキア人の蜂起をただちに鎮圧するための、全ての使用可能な手段を行使するよう期待する。他方で、ドイツもAlekseev 将軍に対する利用可能な全ての戦力の行使をし続けることを承認する。」(脚注)
 ドイツ軍も、この約束を真摯に受け取っていた。
 8月13日、Ioffe はロシア政府へと、補完条約が批准された後でドイツ軍は義勇軍を粉砕するための強力な手段を取るだろう、と伝えた(注210)。
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 (脚注) Europaesche Gespraeche, IV, No. 3 (1926), p.150. Ioffe の受容は、同, p.152. H. W. Gatzke in VZ, III, No. 1 (1955年1月), p.96-7 参照。
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 (10) ドイツは、ソヴィエトの要請に応えて、イギリスとDemikin軍に介入することを約束した。
 第三の秘密条項は、ドイツの強い主張によるもので、不本意のロシアの側に押し付けられたものだった。
 この条項はソヴィエト政府に、8月4日以来駐留しているイギリス軍をBaku から排除することを義務づけた。
 他の二条項と同様に、かりにソヴィエトが任務に耐えられないことが判れば、ドイツ軍が責任を引き受ける、と定めていた(脚注)
 この条項も、実行されなかった。ドイツ軍が行動準備をする前の9月16日に、トルコ軍がBaku を占拠したからだ。
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.203. この第三条項は、第二次大戦の後になってようやく一般的に知られるに至った。最初に公にしたのはBaumgart だった。Historisches Jahrbuch, LXXXIX (1969), p.146-8.
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  (11) 三つの秘密条項は、かりにドイツが崩壊していなければ、ドイツがロシアに対する経済的のみならず軍事的な支配権をも有することを確実にするものだった。
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 (12) 補完条約に関する帝国議会への報告書の中で(むろん秘密条項への言及はない)、Hinze は、補完条約はロシア・ドイツの「共存」(Nebeneinanderleben)の基礎を築いた、と主張した(注211)。
 Chicherin も同様の言葉を、9月2日の中央執行委員会あて文書で用いた。この委員会は、補完条約を満場一致で批准した。
 Chicherin は、こう書いた。「ロシアとドイツのシステムの間、両政府の基本的志向の間には大きな差異があるにもかかわらず、つねに我々の労働者と農民の政府の闘いの目標である二つの国家の平和的共存は、目下において、ドイツの支配階層にとっても望ましい」(注212)。
 この文章は、公式の文書の中で「平和的共存」という言葉が使われた最も早い記録の一つだ。スターリンの死後に、ソヴィエト政府がもう一度用いることになるのだが。
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 (13) ロシアとドイツの両政府は、着実に緊密になっていた。ドイツが崩壊する一週間前、両政府は事実上の政治的、経済的、軍事的な同盟関係にあった。
 Hinze は熱狂的に、ボルシェヴィキへの支援を約束した。
 数千人の人質を虐殺する赤色テロルをロシアが開始した9月初め、彼は、ドイツのプレスがロシアにいる通信員から送られてくる残虐行為についての全文を発表するのを妨げた。両政府のいっそうの協力関係を傷つける、嫌悪の世論が巻き起こることを怖れてだった(注213)。
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 (14) ドイツは9月に、ロシア政府の要請に応えて、ロシアに燃料と武器を提供し始めた。
 石炭を求める切迫した訴えに反応して、ドイツ外務省は10月後半に、ドイツの25隻の船舶が7万トンの石炭とコークスを載せてペテログラードに向かうよう調整した。
 両国の関係断絶のために船舶輸送が中断する前に、およそ半分だけが何とか目的地に届けられた。
 ペテログラードで降ろされる燃料は、赤軍のための兵器を製造する工場群へと向かった(注214)。
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 (15) Ioffe は9月に、20万本のライフル、5億個の弾丸、2万丁の機関銃をドイツに要請した。
 外務省から圧力を受けて、Ludendorff は、機関銃を候補から外した上で、気乗りしない同意を与えた。
 この取引は、Hinze と宰相(首相)のHertling が離れたために、実現しなかった。新しい帝国宰相のMaximilian von Baden公は、親ボルシェヴィキ政策について、はるかに熱心でなかったからだ(注215)。
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 (16) 中央諸国は大敗北をしたにもかかわらず、ロシア政府は、時期を順守して、補完条約による財務上の義務を履行した。
 9月10日、ロシアは、一回めの償還として、2億5000万ドイツマルクの価値のある金をドイツに送った。9月30日には、二回めの償還として、一部は金で、一部はルーブルで、3億1250万ドイツマルクを支払った。
 10月31日の予定だった三回めの償還分を、ロシアは支払わなかった。ドイツが降伏する間際だったからだ。
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 第19節へとつづく。

2842/R.パイプス1990年著—第14章㉚。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。1918年の数ヶ月間に関する叙述が続く。
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 第14章・第18節/ドイツとの補足条約①。
 (01) ブレスト条約は、ロシア・ドイツの経済関係を調整する補完的協定を必要とした。
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 (02) ドイツは、1914年以前は大きな貿易相手だったロシアとの通商関係を再開しようと熱心だった。かつてロシアは、その輸入のほとんど半分をドイツに依っていた。
 ドイツは原料はもちろんだが、まずは食糧を求めた。そして、ロシアの外国通商をほとんど独占したかった。
 1918年6月、ロシア政府は、輸出できると主張する物品の一覧表をドイツに提示した。その中には、穀物があった。但し、実際には穀物の余剰はなかった。
 Krasin は、ソヴィエト・ロシアがドイツの製品業のために用意することのできる巨大な市場についての、目も眩むような絵画を描いた。また、それを証明すべく、電気製品の輸入について、かつての雇用者であるSiemens と交渉した。
 現実には、ロシア側の提案にはいかなる根拠もなかった。諸提案は、政治目的を達成するための餌だった。
 ドイツはやがて、ロシアが約束した物品の供与ができないことに我慢できなくなった。
 Bleichroeder 銀行のためにモスクワに来ていたAlfred List 博士は、6月にChicherin に対して、ロシアからの物品納入の遅れは「大ロシアがその政治的欲求に対する共感を最も期待できそうな」仲間たちを含むドイツ人社会を失望させている、と言った(注201)。
 レーニンは、その「仲間たち」—銀行家と実業家たち—を他のドイツ人、主として自分を排除したい軍部を、弱体化させるために利用できることを、十分に知っていた。
 そのゆえにレーニンは、補完条約の交渉の経緯を詳細に報告させた。彼はその補完協定には最大の政治的重要性があると考えていた。
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 (03) 交渉のための会談は、7月初めにベルリンで始まった。
 ソヴィエトの代表団を率いたのは、Ioffe だった。彼は、Krasin とモスクワから派遣された種々の分野の専門家に支えられた。
 ドイツは、外交官、政治家、実業家から成る大きな代表団を編成した。
 ドイツ側の重要人物はJohaness Kriege という名の外務省の官僚だったように見える。歴史家のWinfried Baumigart はこの人物を、ボルシェヴィキ・ロシアに対するドイツの政策の「灰色の高官」と呼んでいる(注202)。
 Ioffe は指示を受けてドイツの諸要求によく順応していたが、ドイツの要求が合理的でなくなれば、ロシアの従順さにも限界があることを理解させることになっていた。
 Ioffe がベルリンからレーニンに確認したように、「我々の全政策の中心は、かりにドイツが過度に我々を追いつめると、両国は戦闘をしなければならなくなりドイツの得るものは何もなくなる、とドイツに示すことである必要がある」(注203)。
 関係する問題点の複雑さを考慮して、同意はすみやかに達成された。
 ドイツは、厳しい要求を出した。
 Ioffe は何とか譲歩を引き出しかったが、しかし、そう努力しても、補足条約として知られる協定が、8月27日に調印された。これは、ほとんどドイツの側に利益をもたらした。
 議論されたのは、領土問題と財務問題だった(脚注)
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 (脚注) 条約の条文は、三つの秘密条項の一つを除いて、J. Wheeler-Benett, Brest-Litovsk: The Fogotten Peace (New York. 1956), p.427-p.446 で再現されている。
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 (04) 領土問題についてドイツは、ロシアとその境界領域の間の関係に干渉しないと約束した。
 この条項はとくに、「南部同盟」の名のもとでコーカサスおよび接続するコサック地域を保護領にしようとするドイツ軍部の姿勢を否認するものだった(注204)。
 ロシアはウクライナとジョージアの独立を承認し、更にEstonia およびLivonia に降伏することに同意した。ブレスト条約ではこの二つのいずれも認められていなかった。
 代わりに、ロシアは、Baltic 海の港湾への通行権を獲得した。ブレスト条約で失っていたものだ。
 ドイツは当初はBaku、すなわちロシアの石油産業の中心地、を要求したが、やがてBaku での毎年の生産の四分の一を受け取る約束と交換に、ロシアの手に委ねることに同意した。
 Baku は、8月初めにPersia から派遣されたイギリス軍が占拠していた。
 ドイツがボルシェヴィキにBaku を委ねるための条件は、ボルシェヴィキがイギリス軍をそこから駆逐することだった(注205)。
 ロシアはまた、Murmansk から連合諸国軍を排除することを約束した。一方、ドイツは、クリミアから撤退することに同意し、ロシアの西部国境についてのその他若干の小さな領土の調整を行なった。
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 (05) 財務に関しては、ロシアはドイツとドイツ人に帝制政府とソヴィエト政府が行なった措置の結果として生じた損失を完全に補償することに同意した。ロシア人の戦争捕虜たちの保護のために被ったとドイツが主張した費用についても同じ。
 ドイツはこれらの総額を700億〜800億ドイツマルクと査定した。
 ロシアからの反論が考慮されて、この額は600億に減じられた。100億ドイツマルクはフィンランドとウクライナによって支払われるものとされた。
 ロシアは500ドイツマルクの借款の半分を18ヶ月以上かけて返済することを約束した。これは、同意されたルーブルの量である24.5トンの金、販売価値のある100億ルーブルの金をドイツへと移すことによって行われる、とされた。
 残りの半分は、ドイツで発行される45年間債券で支払うものとされた。
 これらの支払いは、公的にせよ私的にせよ、ドイツのロシアに対する全ての要求を満足させるものだった。
 ロシア政府は、つぎの旨のブレスト条約の諸条項の履行を再確認した。すなわち、ドイツの所有者へと全ての国有化または公有化された財産を、没収した現金や有価証券を含めて、返却する。また、彼らがこれらの資産をドイツへと送還するのを認める。
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 (06) ボルシェヴィキは権力を奪取したとき、秘密外交をきわめて強い言葉遣いで非難した。また、「帝国主義諸大国」の多数の秘密条約を公にした。それにもかかわらず、自分たち自身の利益に関係がある場合には、そうした実際上の取扱いを何ら嫌悪しなかった。
 補完条約には、三つの秘密条項が付いていた。それらは、Ioffe がロシアのために、Hinze がドイツのために署名したものだった。
 これらの条項は一年のちには知られるに至ったが、今日までソヴィエト同盟では公刊されていない。
 三条項は、8月1日のドイツによる軍事干渉をロシア政府が要請したのをドイツが受諾したことを公認し、正当化するものだった。
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 ②へとつづく。

2841/兵庫県議会調査報告書・<公益通報保護>全文②。

 兵庫県議会・文書問題調査特別委員会(百条委員会)が2025年3月4日にとりまとめた調査報告書のうち、「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について」のみの全文掲載の二回め。体裁・様式は全く同じではないが、内容はそのまま。
 出所—兵庫県議会ホームページ
 ————
 「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
  1 委員会としての判断
  ア 認められる事実
  ————
 以上、前回
 以下の見出しはつぎのとおり。
 1 委員会としての判断
  イ 事実に対する評価
  1 公益通報者保護法違反について
   (1) 外部公益通報
   (2) 体制整備義務違反
  2 行政として取るべき対応
   (1) 初動対応
   (2) 調査方法の問題点
   (3) 齋藤知事の対応
   (4) 公益通報者保護法に対する齋藤知事や幹部の関わり方について
   (5) 文書問題の対応について
   (6) 情報漏洩
   (7) まとめ
 2 提言」
  —————
 以下、全文掲載
 「イ 事実に対する評価
 1 公益通報者保護法違反について
  (1) 外部公益通報
 元県民局長は、議員、マスコミ、警察の特定の者に文書を配布している。 齋藤知事は真実相当性が認められないと再三説明をしているが、真実相当性は公益通報に当たるか否かとは関係がなく、保護要件にとどまる。
 元県民局長の公用メール及び公用パソコンに保存された資料に基づき、クーデターや転覆といった言葉が並んでいたことや、元県民局長作成の人事案や知事を貶める資料があったことなどをもって、文書配布は不正な目的の行為に当たり、公益通報ではないと判断したという証言がある。しかし、当該文書入手(3 月 20 日)、協議時点(3 月 21 日)ではまだ公用メール及び公用パソコンの調査は行われておらず、当該文書の内容から不正な目的が明らかでない限り、公益通報ではないとの判断は調査後に行われるべきものであり通報時ではない。仮に公用メール及び公用パソコンの調査も含めて3月 22 日に作成者の特定を開始したことの正当性を主張するのであれば、公益通報者保護法に基づく指針に定められた「通報者探索防止措置」は事実上意味がなくなり、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関がとってよい行為とは考えられない。さらに「通報者探索防止措置」を認識せず行われた調査の中で、公用 PC の中の情報から非違行為を認定し懲戒処分にしたことは、違法収集証拠排除法則の法理に反するものであり、告発者潰しを行う材料にしたことは非常に不適切であると考える。
 なお、人事当局は特別弁護士に相談の上、不正の目的があったと判断したことはないと証言しており、県として不正の目的があったと公に認めていない。また、複数の参考人は、「専ら」公益を図る目的の通報と認められる必要はなく、交渉を有利に進めようとする目的や事業者に対する反感などの目的が併存しているというだけでは、「不正の目的」であるとは言えず、不正目的の認定は慎重に行う必要があるとしている。
 「通報対象事実」については、少なくとも阪神・オリックス優勝パレードにかかる信用金庫からのキックバックについて背任罪の可能性があり、通報対象事実が含まれている。なお、刑法の背任行為として刑事告発され県警に受理されている。
 以上のことからすると、今回の調査では、元県民局長が齋藤県政に不満を持っていた事情はうかがえるものの、元県民局長は今回の文書作成については後輩職員のためを思い行ったと主張しており、人事課調査による判断と同様に、不正な目的であったと断言できる事情はないと考える。
よって、元県民局長の文書は公益通報者保護法上の外部公益通報に当たる可能性が高い。
 (2) 体制整備義務違反
 公益通報者保護制度を所管する消費者庁は、公益通報者保護法に基づく指針第4の2(1)不利益な取扱いの防止に関する措置及び(2)範囲外共有等の防止に関する措置は内部通報した場合に限定せずに、処分等の権限を有する行政機関やその他外部への通報が公益通報となる場合も公益通報者を保護する体制の整備が求められるとしている。他方、今回の文書の場合には、通報の探索が例外的に許容されるのではないかという参考人の意見もあった。
 しかし、上記のとおり、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関としては、公益通報者保護法に基づく指針を原則通り遵守すべきと考えられる。
 文書内容の事実確認よりも通報者の特定を優先した調査や3月 27 日の記者会見での文書作成者を公にしたこと、元県民局長のプライバシー情報の漏洩などは、公益通報者保護法に基づく指針第4の2(2)「範囲外共有等の防止に関する措置」を怠った対応であり、現在も違法状態が継続している可能性がある。
 2 行政として取るべき対応
 (1) 初動対応
 3月 21 日の協議時点で齋藤知事及び参加者は当該文書を誹謗中傷の文書であると認識しており、公益通報の議論はなかったという証言があることから、初動対応において公益通報に関する認識はなかったと考えられる。そのため、3月 22 日には作成者の特定のために元県民局長らの公用メールの調査等に着手し、3月 25 日に作成者を元県民局長と特定、3月 27 日には知事が記者会見で本人が認めていなかったにもかかわらず、事実無根だと認めているような発言のほかにも「公務員失格」と通報者を侮辱するような発言をしている。
  しかし、当該文書の内容は、本委員会でも一定の事実認定ができており、全くの事実無根とは言えないため、齋藤知事らは公益通報に該当しうるかもしれないという前提に立ち、作成者の特定を行う前に、まずは当該文書の内容を調査すべきであった。
 また、3月 27 日の記者会見で県民局長の職を解き、通報者を公表したことは、告発者潰しと捉えられかねない不適切な対応であった。同日に元県民局長から告発文にある内容を精査してから対応して欲しいと片山氏に要請があったが、この時点から内部公益通報としての手続が必要であった。
 さらに言えば、齋藤知事らは当事者である自分たちだけで当該文書が公益通報に該当するか否かを判断するべきではなかった。法令を遵守することは当然のことながら、それが、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関がとる立場であると言える。
 また、参考人によると、公益通報事案については、受付、調査、是正措置等の対応全てを通じ、不利益取扱、範囲外共有、通報者探索が禁止され、これに違反すると体制整備義務違反状態となるため、調査結果が判明する前にこれらの扱いをすることは原則として許されないし、調査結果が判明し、たとえ通報者の指摘する事実関係が認められなかったとしても、これらの扱いをすることが許されない場合があり得るとしている。加えて、告発の対象となった権力者が通報者探しを指示する場合、あるいはそれを承認する場合、その者の責任も厳しく問われるとの参考人意見もある。
 さらに、本年2月 18 日の衆議院総務委員会で政府参考人は、「法定指針の1号通報の対応体制において、事実に関係する者の公益通報対応業務に関与させない措置を求めているが、一般論として外部から不正行為について指摘された事業者は、自らが行う調査、是正に当たり、事実に関係する者を関与させないことなど、適切な対応が取ることが望ましい」と答弁している。 初動対応時の調査は、当事者である齋藤知事の指示の下、同じく当事者である片山氏が中心となって行っているが、調査は当事者が関与せずに行うべきであったと考えられる。通常であれば、このような案件の調査は人事課や各部総務課が調査を実施することになるが、利害関係者中心で調査を行うのは不適切である。これは内部公益通報時だけでなく、外部への公益通報の際にも同様である。今回のような知事及び県幹部が当事者である場合は、告発文に記載のあった当事者が調査に関わることのないよう利益相反を排除し、独立性を担保するためにも県以外の第三者に調査を委ねるべきであった。そのことが調査の過程及び結果の客観性・公平性・信頼性を高めることになる。県当局は後日、第三者委員会を設置することとしたが、本来は元県民局長の処分前に設置し、もし処分をするのであればその調査結果に基づいて処分を行うべきだったと考えられる。
 加えて、参考人によると、真実相当性の要件は、通報者の通報時点における状況から判断することや通報者の供述内容は、調査主体への信頼感により影響を受けるため誰が調査するのかが重要としている。元県民局長は、県当局の調査に対し、文書の内容を誰から聞いたかについて、単なるうわさ話と話しているが、元県民局長の立場からすれば、文書に記載されている当事者が調査に関わっている限り、情報提供者を守るために真実を話せなかったと考えられる。
 以上のように、県の一連の文書問題に対する初動対応は、県民の不信感を招く不当なものであったと考える。
 (2) 調査方法の問題点
 当該文書の作成者の特定はすべきではなかったという判断である。その上で、作成者特定に当たっての今回の調査方法には、今後の県政の信頼回復のために考慮しておく必要がある幾つかの問題点があったと考える。
 公用メールの調査について、公用パソコンは県から貸与されたものであり、業務以外の使用は禁じられているものの、そのメール内容の調査はその必要性や方法について慎重に検討を行った上で行うべきである。地裁レベルだが判例でも社内メールの調査が無条件に認められているわけではない。当委員会の調査では、メール調査に当たってのルール及び実施の記録がないことが判明している。これではメール調査を恣意的に実施でき、適正な調査であったかの事後の検証もできないと言わざるを得ない。
 今回の調査の中で行われた私用スマートフォンの内容確認は任意だったが、作成に関与したと疑われた人物の私物スマートフォンのLINEのやり取りを確認したことが証言と資料から確認されている。これは職員の人権への配慮を欠いた調査であり、しかも、その人物は結果的に当該文書作成に関わっていなかった。このような調査を人事当局が行う可能性があるということは、職員の萎縮、ひいては県政運営への信頼低下を招くものと言わざるを得ない。
 (3) 齋藤知事の対応
 3月 27 日の記者会見では、齋藤知事は調査の対象者を特定したり、処分を予告すること、さらには「うそ八百」「元県民局長は認めている」と発言した。片山氏や人事当局は、「これから調査する」という認識で齋藤知事とも話をしたつもりであったため、その発言に驚いた。この時点においては当該文書の存在は広く知られておらず、実害も生じておらず、人事当局が予定していたとおりの人事異動の発表にとどめておくべきであった。今回の文書問題が大きく取り上げられることになったのは、この記者会見によることが大きいことを踏まえると、このような部下の進言や意見に真摯に耳を傾ける姿勢が必要であったと考えられる。
 なお、そのことは第三者による調査の進言、公益通報の結果を待ってから処分を行うことの進言に対する態度についても言える。
 (4) 公益通報者保護法に対する齋藤知事や幹部の関わり方について
 公益通報者保護法が目指すのは、徹底して不正行為を告発する人々を守り、社会の正義と透明性を維持することが目的であり、兵庫県としては立法趣旨を踏まえ、まずは公益通報に該当する可能性がないかを慎重に検討すべきであったが、初動対応時の齋藤知事や幹部は公益通報の認識がなかったと証言しており、公の立場として大きく思慮に欠ける点があったと言える。
 また、齋藤知事は証人尋問や記者会見で何度も法的に問題ないことを主張しているが、行政機関は法律に違反しなければいいのではなく、法律の趣旨を尊重したうえで遵守する姿勢を示すことが重要である。
 (5) 文書問題の対応について
 この度の兵庫県の対応が全国から注目される中、組織の長や幹部の不正を告発すると、権力者が当事者にも関わらず自ら告発内容を否定し、更に通報者を探して公表し、懲戒等の不利益処分等で通報者が潰される事例として受け止められかねない状況にある。そのことが公益通報の抑制につながらないか危惧される。公益通報者保護法に違反しているかどうか見解が分かれるとはいえ、「組織の長その他幹部からの独立性の確保」や「利益相反の排除」といった原則にのっとった対応が必要であったと考える。
 また、元県民局長の処分には、退職保留決裁が終わる前に、退職保留が本人に通知されたことも問題がある。
 (6) 情報漏洩
 県の個人情報保護管理の総括保護管理者である井ノ本氏は証言を拒否しているが、同氏が元県民局長のプライバシー情報を複数の議員に見せていることが聞き取り調査によって明らかになっている。当該文書の価値を貶めようとする発言を行っていた証言も得られており、「告発者潰し」があったと言われかねない状況がうかがえる。この行為は地方公務員法の守秘義務違反、さらには県における個人情報管理の問題である。告発者である元県民局長をおとしめることによって、当該文書の信頼性を毀損しようとしたこともうかがわれ、地方公務員法違反を否定できる要素は皆無に等しいと考える。この漏洩問題はその背景や関係者等を明らかにしなければならない問題と考える。
 (7) まとめ
 以上のように、一連の県の文書問題への対応には看過できない問題があったと言わざるを得ない。
 また、井ノ本氏による元県民局長のプライバシー情報の漏洩問題は、公益通報者保護法に反する問題にとどまらず、県組織としてのガバナンス、マネジメントが適正に行われているのかという疑問を抱く。この問題への対応に関しては、元県民局長への処分と比較し、あまりにも大きく異なっている。
 2 提言
 法令を遵守するだけでなく、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関が、公益通報の認識を欠き、また、後になって公益通報に該当しないから問題ないと主張して通報したことを非違行為として認定し懲戒処分にまで至ったことは大変遺憾であり、県当局は責任の重さを痛感すべきである。
 今後は、県行政・県組織の不正行為や違法行為に関する告発に対しては、常に公益通報の可能性を念頭に対応することが求められ、知事を含めた幹部が公益通報者保護法に対する理解を深める機会を定期的に設けることが不可欠である。体制整備に関しては、指針第4に掲げる内部公益通報対応体制の整備は当然のことながら、外部公益通報に対応できる体制づくりを進める必要がある。
 あわせて、告発の調査に当事者は関与しないこと、通報者探索及び範囲外共有等は行わないことの明確化が必要である。今後、受付段階、調査段階、是正措置等において、告発者の不利益処分が行われていないか、第三者による常設の検証機関の設置が必要である。知事、副知事をはじめ組織の長は、就任に当たり、公益通報者保護法及び個人情報保護法に関する研修を受講するなどして、法の趣旨や責務を改めて認識することが重要である。
 なお、有益な公益通報が守られるよう、公益通報に当たっては個人のプライバシーへの配慮や公益通報の濫用を防ぐことなど、職員にも公益通報者保護法の理解を深めることが重要である。
 また、不正調査等で必要な場合も想定されるため、メール調査そのものを否定はしないが、その判断基準の整備及び調査実施記録の作成・保存を確実に行うべきである。そのことによって、今回のような疑念を持たれるメール調査を防ぐとともに、事後的な検証が可能となる。職員の私用スマートフォン等の調査についても、今後一切行わないよう県当局として宣言する必要がある。
 さらに、綱紀委員会の運営は当事者が関わることのないよう、一定のルールを設けるべきである。 井ノ本氏による元県民局長のプライバシー情報の漏洩については、現在、第三者(弁護士)による調査が進められているが、調査結果は速やかに公表するとともに、県として刑事告発も含めた厳正な対応を早急に求める。
 なお、一連の県の対応は、公益通報者保護法に違反している可能性が高いと考えられることから、県自らの対応として公益通報者保護法の法定指針で定める「不利益な取扱い、範囲外共有や通報者の探索が行われた場合には、適切な救済・回復の措置をとる。」や「不利益な取扱い、範囲外共有や通報者の探索が行われた場合に、当該行為を行った労働者及び役員等に対して、行為態様、被害の程度、その他情状等の諸般の事情を考慮して、懲戒処分、その他適切な措置をとる。」という規定に基づいた措置を行う必要があると考える。
 最後に、齋藤知事は周囲の進言や意見に真摯に耳を傾ける姿勢を持つ必要があり、県職員が上層部へ必要な進言を行うことを躊躇しない組織風土を醸成するとともに、兵庫県のリーダーとして共感やいたわりの姿勢を持ち、透明性のある兵庫県政の確立に努めるべきである。」
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2840/R.パイプス1990年著—第14章㉙。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第17節/ボルシェヴィキがドイツに干渉を求める。
 (01) しかし、全ては将来のことだった。
 8月1日にクレムリンがArchangel に連合国が上陸したとの報せを受けたとき、状況は見込みがないように見えた。
 東部では、チェコスロヴァキア軍団が次から次に都市を占拠し、中央 Volga 地域を完全に支配していた。
 南部では、Denikin の義勇軍が、Krasnov将軍が指揮するDon コサックに率いられて、Tsaritsyn へと前進していた。そこが掌握されれば、チェコスロヴァキア軍団との連絡線ができることになり、妨害のない反ボルシェヴィキ戦線が中部Volga からDon 地域まで生まれるだろう。
 そして今、相当規模のアングロ・アメリカ軍が北部に集結しており、明らかにロシアの内部へと攻撃を開始しそうだった。
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 (02) ボルシェヴィキには、苦境を脱する一つだけの方法があった。それは、ドイツによる軍事干渉。
 これを要請することを決定したのは8月1日で、Helfferich がChicherin に、継続してロシアを支援することを告げた後だった。
 この決定を下した会合は、共産主義者の文献によると、ソヴナルコムの一会議だった、と叙述されている。
 しかし、その日に内閣の会議があったとする記録は存在しないので、レーニンがおそらくChicherin と協議して、個人的に決定した、というのが事実上は確実だ。
 ロシアは、連合諸国軍と親連合国軍に対抗するドイツとの共同軍事作戦を提案した。当時は基本的にはラトビア人兵団で構成されていた赤軍は、モスクワの北西部に位置を占めることになる。予期される連合諸国軍の急襲からモスクワを守るためだ。一方で、ドイツ軍は、アングロ・アメリカの遠征隊に対抗してフィンランドから、また義勇軍に対抗してウクライナから前進することになる。
 我々はこの決定を、主としてHelfferich の回想録によって知っている。Helfferich は、8月1日の遅くにもう一回、Chicherin の予期せぬ訪問を受けていた。
 外務人民委員のChicherin はHelfferich に対して、内閣の会議の後で直接に、内閣を代表して、ドイツによる軍事干渉を要請するためにやって来た、と言った(脚注)
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 (脚注) この出来事に関する短い回想で、Chicherin はこう述べる—ソヴィエトの文献の中で唯一の言及のようだ。Helfferich の説明を確認しつつ、案件はレーニンによって個人的に解決された、と。「Lenin i vneshniaia politika」, Mirovaia politika v 1924 godu (Moscow, 1925), p.5. 彼の論考も見よ。Izvestiia, No.24/2059 (1924 年1月30日), p.2-3.
 ——
 Helfferich によると、Chicherin は、こう言った。
 「世論の状態に鑑みると、ドイツとの公然たる軍事同盟は可能ではない。
 可能であるのは、現実的な平行的作戦行動だ。
 ロシア政府は、モスクワを守るためにその戦力をVologda に集中しようとした。
 ペテログラードを占拠しないことが、平行的な行動の条件だった。同様に我々はPetropavlovsk も避けるのが望ましかった。
 実際上、この方策が意味するのは、モスクワを守ることができるように、ロシア政府は、我々に対して、ペテログラードを防衛するよう要請しなければならなかった。」
 ボルシェヴィキの提案が意味したのは、バルト海地域と(から)フィンランドにいるドイツ軍はソヴィエト・ロシアの領域に入り、ペテログラードの周囲を防衛する戦線を構築する、そして、連合諸国を排除すべくMurmansk とArchangel へと前進する、ということだった。
 しかし、これで全てではなかった。
Chicherin は「南東部についてひどく心配していた。
 私の質問に答えて、彼はついに、我々に求められた干渉の性格を述べた。
 『Alekseev に対する積極的な猛攻撃。Krasnov のドイツによる支援は問題外。』
 この点だ。北部の場合のように、そして同じ理由で、可能であるのは公然たる同盟ではなく、事実上の協力にとどまる。だが、これこそが必要だった。
 このように判断して、ボルシェヴィキ体制は大ロシアの領土でのドイツによる武装干渉を要請した。」(注197)
 -------- 
 (03) Helfferich は、この要請をベルリンへと送った。彼はこの要請を、「我々の干渉への(ボルシェヴィキによる)静かな受容と現実的な平行的作戦行動」と要約した。
 彼はこれと一緒に、ロシアの情勢の悲観的な見通しを書き送った。
 彼はこう書いた。ボルシェヴィキの権威の主要な源は、ドイツの支援を受けている、という信頼の広がりだ。
 しかし、このような感覚は、政策を遂行するための適切な基盤にならなかった。
 彼が推奨したのは、親協商国ではない反ボルシェヴィキのグループとの会話を追求することだった。とりわけ、右派センター、ラトビア人、およびシベリア政府との(注199)。
 彼の意見は、かりにドイツがボルシェヴィキへの支援を抑制するならば、反ボルシェヴィキの者たちは立ち上がり、転覆させるだろう、というものだった。
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 (04) ドイツのモスクワ大使館の助言は、再び却下された。今度は、Hinze によって。
 Hinze はボルシェヴィキは友人ではないことを認めたけれども、彼らはロシアを軍事的に無力にすることによって、ドイツへ利益を「豊富に」もたらしている、と考えた(注200)。
 彼は、Helfferich の推奨文書に不満だったので、8月6日に彼をベルリンへと召喚した。
 大使のHelfferich は二度とその職に就かなかった。在任期間は二週間に満たなかった。
 Hinze はこうして厄介なドイツ大使館を弱体化し、ドイツ・ロシア関係に二度と介入しないよう、モスクワから帰ることを命じた。
 Helfferich が出立後数日を経て、大使館は荷造りを終え、最初はPskov へ、次いでRevel へと向かった。いずれも、ドイツの占領下にあった。
 在ロシアのドイツ代表部がなくなって、ロシア・ドイツ関係の中心はベルリンへと移った。ベルリンにはIoffe がおり、ドイツ政府の広報官、および8月末に両国が締結した通商かつ軍事協定の主要な交渉人として務めていた(脚注)
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 (脚注)この時点で舞台から消えていたKurt Riezler は、戦争後にFrankfurt で教授職に戻った。ヒトラーが権力を奪取したとき、アメリカ合衆国に移住し、1955年に死ぬまで、New York 市の社会研究の新しい学校で教育職に就いた。
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 (05) ボルシェヴィキを打倒しようと虚しい努力をしたドイツ人について、一つの後日談がある。
 9月初め、在モスクワのドイツ領事の将軍、Herbert Hauschild は、Vatsetis の訪問を受けた。
 ロシア軍の最高指令長官に任命されたばかりのラトビア人将校はHauschild に対して、自分はボルシェヴィキではなくラトビア民族主義者だ、彼の兵士たちの恩赦と本国送還が約束されるならば、自分たちはドイツが自由にするままに任せる、と言った。
 Hauschild はベルリンに知らせた。ベルリンは彼に、問題にしないよう命じた(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.315-6. Vatsetis は、1919年夏までソヴィエトCIC として務めた。そのあと、「反革命的陰謀」に関与したとの罪で逮捕された。釈放されたのち、ソ連軍事アカデミーで教えた。1938年、教室の休み時間のあいだに再び逮捕され、のちに処刑された。Pamiat’, No.2 (1979), p.9-10.
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 第17節、終わり。

2839/兵庫県議会「百条委員会」調査報告書・<公益通報者保護>全文①。

 兵庫県議会・文書問題調査特別委員会(百条委員会)は2025年3月4日に最終の調査報告書を取りまとめ、翌日の県議会全体会議でも承認された(報告内容は行政当局に対する議会自体の 「報告」になった)。
 この報告書の目次の概要(秋月による。全文ではない)は、つぎのとおり。
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「Ⅰ 文書問題調査特別委員会について
  1 概要
  2 開催状況について
 Ⅱ 任意調査について
  1 職員アンケートによる調査
  2 聞き取りによる調査
  3 書面による調査
 Ⅲ 文書の7項目にかかる調査の内容と結果について
  1 五百旗頭真理事長ご逝去に至る経緯について
  2 令和3年の知事選挙における県職員の事前選挙活動等について
  3 次回知事選挙に向けた投票依頼について
  4 知事が贈答品を受け取っていることについて
  5 知事の政治資金パーティー実施にかかるパーティー券の購入依頼について
  6 阪神・オリックス優勝パレードにかかる信用金庫等からのキックバックについて
  7 知事のパワーハラスメントについて
 Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
 Ⅴ 総括
 VI 提出を求めた資料一覧」
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 以上のうち、「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について」のみの全文を掲載する。罫線の省略など、体裁・様式は全く同じではないが、内容はそのまま。下線のみ掲載者。
 出所—兵庫県議会ホームページ
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 「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
  1 委員会としての判断
  ア 認められる事実
  事実経過
 R6.3.12(火)  元県民局長が文書をマスコミ、県会議員、警察に配布。
  3.20(水) 齋藤知事が当該文書を民間人から入手。
  3.21(木) 当該文書に関する協議のため、齋藤知事が片山氏、小橋氏、井ノ本氏、原田氏を招集し、片山氏らに文書の作成者や目的を含め、調査するように指示。この際、公益通報者保護の議論はなかった。
  3.22(金) 人事当局から元県民局長の公用メール1年分を調べるように指示を受けた担当課長はデータを人事当局に提出。公用メールの調査にあたって本人の同意は得ていない。(4月下旬に元県民局長の公用パソコンのファイルの操作ログ3年分も提出した。)
  3.23(土) 齋藤知事は、片山氏から元県民局長の事情聴取を行うという提案を受け、それを了承。調査については片山氏に一任された。
  3.25(月) 片山氏及び人事当局が元県民局長及び職員2名の聞き取り調査を実施した。片山氏は元県民局長の調査の際、公用パソコンに私物USBがあったが、取り外すように指示し、公用パソコン1台だけを県庁に持ち帰った。なお、職員1名の私用スマートフォンのLINEの調査も行った。
 元県民局長から人事当局に電話があり、「自分単独で作成し、噂話をまとめたもので、周囲の者を巻き込まないように」との要請があった。
  3.26(火) 元県民局長の退職保留が決まった。
  3.27(水) 小橋氏は、齋藤知事に対し、教育委員会ではこのような問題の時には第三者に調査させることが多いと進言。
 人事当局の用意した知事記者会見での想定問答は、内容の詳細については調査が必要なので言えないという説明だったが、齋藤知事は元県民局長が作成した文書について「嘘八百」「元県民局長本人は認めている」と発言。
  4.1(月) 人事当局は、県の特別弁護士に、第三者機関調査やSNSでの当該文書の拡散、公益通報としての取扱いの要否などを相談。
 特別弁護士からは、公益通報の手続がされた段階でいったん判断する必要がある、第三者機関調査については、費用や時間を要することから内部調査で十分との見解を得る。
  4.4(木) 元県民局長が公益通報受付窓口に通報。
 人事当局によれば、4 月 4 日に元県民局長が公益通報受付窓口に通報した時点で、公益通報の調査結果を待たないと処分はできないと考え、すぐに小橋氏と井ノ本氏に進言し、齋藤知事も了承したとのこと。なお、齋藤知事はこうした進言を受けた記憶がないと否定している。
  4.15(月) 齋藤知事は、「風向きを変えたい」との理由から、処分をできるだけ早くしたほうがいいと指示。
 人事当局によると、井ノ本氏から公益通報の調査結果を待たずに処分できないか検討を指示されたが、公益通報の結果を待つべきと進言した。
 なお、齋藤知事は人事当局に対して流れを変えるために公益通報の調査結果を待たずに処分できないかと指示した記憶はないと否定している。
  4.17(水) 人事当局によると知事の指示による井ノ本氏と人事当局との元県民局長の処分スケジュールのやりとりは下記のとおり。
  ・4月 24 日に処分する案の作成を井ノ本氏が指示
  ・4月 24 日に処分する案を井ノ本氏に提出し、齋藤知事が了解
  ・人事当局が 4 月 24 日処分案は現実的に無理と判断し、5月 17 日処分案を井ノ本氏に相談。井ノ本氏からは5月 10 日を案1、5月 17 日を案2とする指示があり、齋藤知事は5月 10 日で了解した。
  4.24(水) 人事当局によると、井ノ本氏から連休明けの5月7日処分案の指示があり、弁護士と相談して処分日を5月7日に決定した。
 井ノ本氏は、人事当局との処分日のやり取りは自分の判断ではなく、知事と話をした上で日程を決めたと証言している。
 なお、齋藤知事は5月7日処分の決定事項を報告されたと証言している。
  5.2(木) 元県民局長に対する綱紀委員会が開催された。
  5.7(火) 元県民局長の処分を公表。」
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 以上、「1 委員会としての判断」のうち「ア 認められる事実」が終わり。以下、「イ 事実に対する評価」へとつづく。

2838/R.パイプス1990年著—第14章㉘。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第16節/連合諸国によるロシアでのいっそうの諸活動②。
 (07) Archangel の占拠のあと、イギリスの将軍C. C. M. Maynard が指揮する第二次の連合諸国軍が、Murmansk に上陸した。そこにはすでに6月以来、イギリスの小さな分遣隊がいた。
 Maynard の軍団はやがて1万5000人の兵士をもつに成長した。うち1万1000人が連合諸国の兵士で、残りはロシア人その他だった。
 Noulens によると、Archangel-Murmansk 遠征軍(当時に2万3500人)は、東部前線を再活性化するのに十分だった。東部前線では、西側代表団の見解では、3万の兵士が必要だった(注191)。
 --------
 (08) 連合諸国には不運なことに、最終的に十分な兵団をロシア北部に配置するまでに—ようやく9月のことだった—、チェコ軍団は目に見える攻撃部隊としては存在しなくなった。
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 (09) 既述のとおり、チェコスロヴァキア人は元々は、Vladivostok に至る通路を邪魔されずに確保するために、武力に依拠した。
 しかし、連合国司令部が、再活性化された東部前線での、予定された連合諸国軍の前衛だと見なすに至ったからだ(注192)。6月に、彼らの使命は変化した。
 かくして、チェコスロヴァキア軍団への6月7日の挨拶文書の中で、将軍のCecek は、彼らの任務をつぎのように明確に述べた。
 「以下のことを我々の兄弟全員に知らしめたい。チェコスロヴァキア軍大会の決定にもとづき、国民会議の同意を得て、かつ全ての連合諸国との協議によって、我々の軍は協商国軍隊の前衛だと称される。また、軍隊参謀部から発せられた諸指令は、それらの唯一の目的として、全ロシア民族および我々の同盟とともに戦うロシアでの反ドイツの前線を生み出す。」(注193)
 この構想に合致するように、チェコスロヴァキアの司令部は、その能力にも動機づけにも合わない任務をチェコスロヴァキア兵団に与えた。
 --------
 (10) チェコスロヴァキア軍団がドイツに対抗する戦線を構築するには、西から東への水平線に展開する部隊をVolga 地方とUral 地方に沿って北から南へと垂直に再配置しなければならなかった(注194)。
 それに対応して、まだ西部シベリアにいたおよそ1万人から2万人のチェコスロヴァキア軍団は、Samara の北と南で攻撃作戦に着手した。
 7月5日、Ufa を掌握した。7月21日、Simbirsk。8月6日、Kazan。
 Kazan 攻撃は、彼らのロシアでの作戦行動の最高点に位置した。
 チェコ軍団は、都市防衛に任じる、ひどく消耗した400人の第五ラトビア人連隊に退却を余儀なくさせたあと、2018年2月にボルシェヴィキが撤退していた場所でロシア帝国の財産である650万ルーブルの金の退蔵物を掌握した。それがあれば、ボルシェヴィキは、課税または強制適用穀物徴発に頼ることがなくとも、大規模の軍事作戦を行なうことができた。
 --------
 (11) チェコスロヴァキア軍団は、活力と技量をもって戦った。
 しかし、前衛とだけしか認められていなかった。—いったい何の前衛だったのだろう?
 連合諸国は進んで助けようとはしなかった。チェコスロヴァキア軍団は寛容に指令や助言に従ったけれども。
 反ボルシェヴィキのロシア人たちも、彼らには役立たなかった。
 チェコスロヴァキア軍団は、連合諸国に急かされて、Volga 地域とシベリアのロシア人政治グループを統合しようとした。だが、これは見込みなき企てだった。
 7月15日、Komuch 代表部とOmsk 政府はCheliabinsk で会合したが、合意に達しなかった。
 意見の相違は、8月23-25日に開かれた第二回のロシア政治会議も潰した。
 ロシア人の言い争いは、チェコ軍団を憤慨させた。
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 (12) Komuch は、チェコスロヴァキア人および他の連合諸国部隊とともに戦う軍を立ち上げようとした。だが、限られた成功しか収めなかった。
 7月8日、Komuch は、将軍のCecekの総括指揮のもとにある義勇人民軍(Narodnaia Armiia)の設立を発表した。
 しかし、ボルシェヴィキも設立したとき、ロシア軍を義勇的な基盤のもとで創出することができなかった。
 農民たちは激烈に反ボルシェヴィキだったが、革命は国家に対する農民の義務を全て免除したという理由で、入隊して協力するのを拒んだ。これは、Komuch にとって、農民との関係でとくに苛立たしいことだった。
 自発的意思による3000人が入隊したあと、Komuch は徴兵へと進み、8月末には5万〜6万人を新規兵とした。そのうち3万人だけが武器をもっており、1万人だけが戦闘の訓練を受けていた(注195)。
 軍事史家のN. N. Golovin 将軍の推定では、9月初めに西部シベリアの親連合国兵団は2万人のチェコスロヴァキア人、1万5000人のUral とOrenburg のコサック、5000人の工場労働者で成っていた。そして人民軍には、1万5000人の兵士がいた(注196)。
 この多民族軍隊には中央司令部はなく、政治的指導部もなかった。
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 (13) そのあいだに、トロツキーは、東部で部隊を設立していた。
 ソヴィエト・ロシアを危うくはしないとの6月のドイツ皇帝の誓約があったために、彼は、ラトビア人連隊を西部からUral 地域へと移動させることができた。そこで彼らは、チェコ軍団と接触する最初の部隊となった。
 そしてトロツキーは、赤軍へ、数千人の旧帝制軍将校と徴兵による数十万人の兵士を入隊させた。
 トロツキーは、脱走に対する死刑の制度を再び導入し、任意に適用した。
 赤軍のチェコスロヴァキア軍団に対する勝利は、ラトビア人兵団によって最初にもたらされた。ラトビア人兵団は9月7日にKazan を再び奪取し、5日後にSimbirsk をそうした。
 これらの勝利の報せは、クレムリンを歓喜させた。これが、ボルシェヴィキにとって、心理的には、潮の変わりめだった。
 ————
 第16節、終わり。

2837/兵庫県知事2024/03/27記者会見への前県民局長反論文(2024/04/01)全文。

 兵庫県知事・斎藤元彦の2024/03/27記者会見に対する前西播磨県民局長の反論文(2024/04/01)全文。
 出所=さとうしょういちブログ(選挙ドットコム)、2024/12/11に再掲載された。
 ●は元の掲載のまま。様式が少し変わっている可能性があるが、文章自体はそのまま引用している。最大の見出し項目のみ当欄において太字化した。
 →原掲載。
 ———
 「報道機関各位元兵庫県西播磨県民局長です。この度はお騒がせしており申し訳ありません。先日の知事記者会見の場で欠席裁判のような形で、私の行為をほとんど何の根拠もなく事実無根と公言し、また私の言動を事実とは異なる内容で公にされましたので、以下の通り、事実関係と、自分の思うところをお伝えします。
  今回の行為に及んだ背景このことについては色々と申し上げたいことがありますが、書けば書くほど「名誉毀損だ。訴える」とまた言われる可能性がありますので省略します。一言で言うと、今の県政運営に対する不信感、将来に対する不安感、頑張って働いている職員の皆さんの将来を思っての行動です。なお、私がそう思うに至った個別の事象については、告発にある内容の調査が実施される中で明らかにされることと思います。 
 2 経緯 
 ①現体制になって、一部の職員による専横、違法行為がなされているという話を多く仄聞しました。西播磨の地にいても、そうしたことは耳に入ってくるものです。このままでいいのかなぁ、困っています、なんとかならないのかという嘆きの声として。
 既に速攻で消去(理由不明)されましたが、県のホームページの県民局長メッセージ(FB、X上には一部残っています)に後輩たちへのエールを掲載しました。ほんとに沢山の後輩達から頑張りますという心温まる返事をいただきました。その度に「ああ、彼らはこれからも兵庫県を背負っていくのだな」と。
 今の僕に彼らに対して何が出来るのかを考えた結果、役職定年前のタイミングでありながら、今回の行動に出たのです。これを機に兵庫県という組織がより良いものになる事を願って。
  ②決して自分の処遇への不平不満から出たものではありません。メッセージにも書きましたが自分自身の県庁生活にはとても満足しています。特に最後の3年間を西播磨で過ごせた事はこの上もない喜びです。ほんとに素晴らしい地域で住民の皆さんには感謝しかないです。なのに、ご迷惑をおかけし、また心配もしてくださっていることになんとお詫びを申し上げたらいいか。 既に退職後の行き先も県とは無関係のところに決まっていましたが、先方には迷惑をおかけしてしまいました。
 ③また、今回の内部告発の文章作成を一部勤務時間(3時間程度)に行ったことについては職務専念義務違反の認識はありました。この点については言い訳いたしません。県民の皆さん、申し訳ありませんでした。(でも、県民局長は土日休日出勤がかなり多いのに代休が取れない中で、平日の合間時間を3時間ほど活用させてもらったと言ったら大目に見ていただけませんか? それに年休も有り余っているんです)
 ④情報収集から告発文作成、配付まで、全ての作業を私一人で行いました。もっとスマートにやる方法もあったとは思いますが、誰にも相談せずにやりましたので野暮ったいやり方になってしまいました。(今時、職場のPCを使ってこんなことをするなんてアホかと何人もの人から言われました)
 ⑤本来なら保護権益が働く公益通報制度を活用すればよかったのですが、自浄作用が期待できない今の兵庫県では当局内部にある機関は信用出来ません。
 ⑥今回の内部告発の内容については、情報の精度には差があり、中には一部事実でないものもあるかも知れません。ただ、事実でないものについては配付先から世間に出回ることはないだろうという判断から、可能な限り記載することにしました。
 守秘義務違反とは職務上知り得た秘密を漏らすことであり、秘密とはすなわち真実です。内部告発の中の真実については、それは即ち私の違法行為となる可能性が高いです。それは十分に理解しての行動です。
 真実でない内容については名誉毀損の疑いがあるものの、公然と不特定多数への周知を行った訳ではありませんし、文章末には配付先の皆さんへ取扱注意をお願いしています。また、真実の公表についても公益性の観点から名誉毀損の問題はないだろうと判断しました。
 マスコミ関係者の配付先を極端に絞ったことは、配付されなかった方々にはとっては心外と思われたことと思います。名誉毀損となる可能性(公然の基準)を少しでも抑えようとしたためであり、ご理解をお願いします。関係者の皆さん申し訳ありませんでした。
  3 手続き・記者会見での問題点
 ①今回の事案について、私と人事当局間でなされた意味のあるやり取りは、私の職場PCが押収された直後の3月25日午前11時30分頃に、●●職員局長へ電話で「告発文は自分一人で作成した。他に関係者はいない」と伝えたことのみ。26日電話により情報の入手経路についての漠然としたやり取り(この資料上は論点外)があったのみです。
 いつ作業したか、どこにどんな方法で送ったか、告発文の内容の真偽についてどう思っているのかなどは全く聴取されていません。一番肝心の動機ですら聴取されていません。
 ②3月27日9時30分からの人事異動の辞令交付の際、私から片山副知事、●●総務部長に「内部告発文にある内容をきちんと精査してから対応してくれ」と要請しました。
 一方、その際、この事案に係わる記者発表があることも私に告知しませんでした。にも関わらず、この段階で、
 《問題点》③私への事情聴取も内部告発の内容の調査も十分なされていない時点で、知事の記者会見という公の場で告発文書を「誹謗中傷」、「事実無根」と一方的に決めつけ、かつ信用失墜行為である、名誉毀損の告訴・(守秘義務違反の)被害届を検討するなどの発言をしたこと・そもそも名誉棄損の要件である「公然と事実等を適示」していません。・信用失墜したのは、私なのか、告発文に出てくる者達なのかは全ての事実が判明した後でないと判断できないはずです。・このような生煮えの状態で公にしなければよかったのではと思いますが。
  ④事実無根かどうかは現時点では不明ですし、私はメールしていないにもかかわらず、MBSが「事実無根のメールを流布した疑い」と報道したこと 根拠のない報道ならMBSを名誉毀損の相手方にしますし、MBSが職員の誰かからの情報に基づくものなら、「それが誰か」を問題とします。また現にメールが届いた職員がいるなら証拠を公表して下さい。
 {参考}MBSネットニュース「事実無根のメール流布した疑い」兵庫県が幹部職員の退職を先送りする異例の人事異動 調査を継続へ兵庫県によりますと、男性幹部職員は、業務時間中に仕事用のパソコンで、職員らの人名をあげて、その尊厳を傷つけるような内容などの文章を作成、メールなどで送り、一部は名指しされた職員ら本人にも届いていたということです。3月22日に県が文章を確認、聞き取ったところ、男性職員が行為を認めたということです。
 ⑤「ありもしないことを縷々並べた内容を作ったことを本人も認めている」という知事の発言がありました。また、それを受けての報道もありますが、私自身がそのことを認めた事実は一切ありません。そもそも告発文はできるだけ事実に基づいて書いたつもりです。
 ③~⑤について、・これらの知事発言により、記者会見の場では、告発文の内容の真偽について、私が事実無根であると認めていることが前提となってしまったのではないでしょうか。告発内容が大半のマスコミの方は分からない訳ですから当然です。
 ・これらの行為こそ、私に対する名誉毀損である可能性が高いのではないでしょうか。
 ・一連の人事考査の手続きのどこに重大な瑕疵があったのでしょうか。私が人事課に在籍していた頃はこのような事務処理はあり得ませんでした。
 ・私の反論する場も設けずに、現時点で一方的に公にされるのは不当ではないでしょうか。
 ・特にMBSについては徹底的な事実確認を求めます。
 ・ここまで言い切ったのですから、直ちに事実無根を証明できる根拠を示して下さい。
 ・なお、人事課が発表した「文書を作成したと本人が認めたので、懲戒免職の対象となる可能性がある」ということと、知事の「(懲戒免職の対象となる)誹謗中傷・事実無根の文書を作成したと本人が認めている」ということは全く異なります。
 ・知事は必要な情報の開示を全くせず、曖昧かつ誤解を与える発言を行うことにより、事実とは異なる内容をそれこそ“流布”したことになります。このような杜撰な会見で、人間が一人、社会的に抹殺されようとしています。そのことを十分に理解すべきです。
 ⑥パソコンを押収され、また、今の自分の状況から、告発文を皆さんに配付することが難しい状況です。
 内部告発内容にやましい所がないのであれば、正々堂々と人事当局から報道機関に資料配付を行うべきです。(取扱いの協定を結べば可能なはずです。)
 この状態が続くと私がいかにも事実無根の誹謗中傷を撒き散らしたかのように世間で思われ続け、不公平です。心配して連絡を頂いた方にも告発内容は伏せ続けています。「内容は分からないが、君がやったことやから信じるわ」と言われると心が痛みます。
 ➆人事当局は私の行為に関する調査ではなく、もっと大きな違法行為、信用失墜行為についての事実関係を早急に調査すべきです。関係者に人事当局に関わる職員が在籍しているのであれば、無実が証明されるまでは人事上の措置(この事案からの排除など)が必要と思います。調査にあたっては、第三者委員会を設立するか、司法による調査・捜査をすべきです。お手盛り調査、お手盛り処分は御法度です。
 名誉毀損罪については告訴を、地方公務員法違反(守秘義務違反)については被害届を一刻も早く警察に提出し、司法の捜査に委ねませんか。これが一番合理的かつ効果的です。
  ➇守秘義務違反で罪を問われるのは私一人です。 今回の内部告発の秘密にあたる部分は県職員、元県職員に関するものであり、対外的な漏洩を行った私の責任です。
 私のところに情報が届くまでのプロセスは問題にすべきではないと考えます。 
 一般県民とは関わりのない事柄についてのローカルエリアの職員間の世間話、内輪話についてまで厳密に守秘義務違反を問うことは明らかにやり過ぎです。ましてや違法行為、不適切行為に対する義憤からなされたことならば。
 この点の全庁調査を実施したり、厳密に禁止する事は「綱紀粛正」ではなく「恐怖政治」の始まりです。そうなると職員は委縮し、組織が疲弊し ます。職員に良かれと思ってやったことが逆に職員を苦しめる結果になることは辛すぎます。
 私が言うのも筋違いですが、常識的な判断・行動を人事当局にはお願いします。  
 私が行った内部告発の内容のような行為こそが綱紀粛正されるべきことです。  
 全ての職員が元気に楽しく仕事出来る健全な職場になることを心から願っています。それが長年お世話になった兵庫県という組織への私の恩返しになると思っています。  
 以上が私の申し上げたいことです。現在置かれている状況もご配慮いただき、適切に取扱っていただけたらと思います。よろしくお願いします。
  令和6年4月1日元西播磨県民局長 ●●●●
 連絡先:●●●●●●@docomo.ne.jp※問い合わせはメールアドレスまでしていただけたら幸いです。
 (追記)全てを書き終え、傍らの新書からこぼれ出た栞をふと見ると、そこには人の心のありようについて説いた「ニーバーの祈り」が 神よ、変えてはならないものを受け入れる冷静さを、変えるべきものは変える勇気を、そして変えてはならないものと変えるべきものとを見分ける知恵を我に与えたまえ。 こんなタイミングにこんな言葉に出会うなんて…。後輩職員達への最後のエールとしてこの言葉を送ります。」
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2836/R.パイプス1990年著—第14章㉗。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗②。
 (08) 恩赦と本国帰還の約束でもってラトビア人の中立を確保するという提案をしても、Riezler にも好い事がなかった。
 この計画は、多数の者の中でとくに、Ludendorff によって否定された。彼は、ボルシェヴィキのプロパガンダがラトビア人を「汚染」するのを怖れていた。
 外務省の新しい大臣のPaul von Hinze は、Kuelmann を継承し、レーニンとの協力にさらに深く関与していて、もう聴取する必要がなかった。
 彼はモスクワの大使館に対して、ラトビア人との会話を止めるよう指示した(注181)。
 --------
 (09) ボルシェヴィキの崩壊という事態に備えておくために、外務当局は、それ自身の非常時対応計画を策定した。
 親連合国の左翼エスエルがロシアで権力を掌握すれば、ドイツ軍はフィンランドから立ち上がり、Murmansk とArchangel を奪取する。そして、ペテログラードおよび Vologda を占拠する。
 言い換えると、悲観主義者の予測が正しかったことが判ると、ボルシェヴィキにとどめの一撃を加えたり、別のロシア人グループに置き換えるのではなく、ドイツは進軍して、おそらくはボルシェヴィキに権力を回復させる(注182)。
 --------
 (10) Helfferich は、自らの政府の親ボルシェヴィキ政策を実行すると決意して、モスクワに着いた。
 しかし、すぐに、大使館員はほとんど全員が、その考えに反対していることに気づいた。
 到着した夕方に大使館員から受けた状況説明と限られた個人的観察によって、彼はその考えを変えるようになった。
 7月31日の午後、短い滞在中で初めて厳格に警護された大使館地区の外に出て、Chicherin を訪問した。そして、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Eichhorn 殺害と、大使館員に対して左翼エスエルからの脅迫が継続していることに、抗議した。
 同時に彼はChicherin に、ドイツ政府は支援を継続するつもりだと保証した。
 彼がのちに知ったことだが、Chicherin との会談の数時間後に、クレムリンで会合が行なわれ、レーニンは同僚たちに、信頼は「一時的に」失われた、モスクワを退避するのが必要になった、と言った。
 この会合が進行しているあいだにChicherin が到着し、Helfferich がついさっきドイツの後援を保証した、と伝えた(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.237-8. レーニンは政府の所在地をNizhnii Novgorod へ移すことを計画していた、と見られる。同上, p.237,注38。
 レーニンは1920年にBertrand Russell に対して、2年前には自分も同僚たちも自分たちの体制が生き残る可能性があるとは思っていなかった、と語った。Bertrand Russelll, Bolshevism: Practice and Theory (New York, 1920), p.40.
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 第16節/連合諸国によるロシアでのいっそうの諸活動①。
 (01) 8月1日にクレムリンがイギリス海軍がArchangel への射撃を開始したとの報せを受けたとき、クレムリンの雰囲気はすでに十分に絶望的だった。
 この砲撃は、連合諸国による大規模なロシアへの干渉の始まりだった。
 ドイツの意図に関する情報以上に連合諸国のそれに関する情報をもっていなかったロシア政府は、連合国は確実にモスクワへと前進するつもりだと考えた。
 ロシア政府は完全に動転し、ドイツの腕の中に飛び込んだ。
 --------
 (02) 思い出されるべきことだが、連合諸国は1918年3月にボルシェヴィキ政府と、北部(Murmansk とArchangel)と極東(Vladivostok)でロシア領土に上陸することを議論していた。これらの港湾をドイツから守ること、ロシアで予定された連合諸国の基地を確保すること、が目的だった。
 その見返りに、連合諸国はロシアが赤軍を組織し、訓練するのを助けるものとされた。
 しかしながら、連合諸国は行動するのが遅かった。
 彼らは三都市に僅かばかりの派遣部隊を上陸させ、トロツキーが長である戦争人民委員部に僅かばかりの将校を配属した。だが、ドイツの攻撃の全力が彼らに向けられているときに、大規模の兵士をそこに割くことはできなかった。
 アメリカ合衆国だけに、必要な兵士がいた。しかし、Woodrow Wilson 大統領はロシアへの介入に反対しており、そうである限り、何もすることができなかった。
 --------
 (03) 実質的にはWilson 大統領がチェコ人の蜂起を知って考えを変化させた6月の初めに、極東の状況が再び活性化する展望が開けた。
 アメリカ合衆国にはチェコとスロヴァキアの送還者を助ける道徳的義務があると感じて、彼は、イギリスからの要望に従い、Murmansk-Archangel およびVlaivostok への遠征のための兵団を派遣することに同意した。
 この作戦実行のためのアメリカ兵団には、ロシアの国内状況に干渉するな、との厳格な命令が発せられた(注183)。
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 (04) ヴェルサイユの連合国最高司令会議は、アメリカ政府の決定を知って、イギリスの将軍であるF. C. Poole の指揮する連合国遠征軍を派遣することを命じた。
 Poole は、港湾都市の防衛、チェコ軍団との接触、そのチェコ軍団の助けを借りてのArchangel 南方の鉄道の支配、親連合国軍隊の組織、を指示した。
 ボルシェヴィキと戦闘することについては、何も語られなかった。Poole の兵団に言われたのは、「我々は内政には干渉しない」、だった(注184)。
 --------
 (05) この連合諸国の決定は、その後、ロシア北部の港湾にはドイツの本当の脅威は存在しなかった、脅威となる行動のできるフィンランドのドイツ軍はいずれにせよ8月初旬に撤退して西部前線へと投入されていた、といった理由で、批判されてきた。
 こうした批判が含意しているのは、ロシア北部への遠征の本当の理由は、ボルシェヴィキ体制を転覆させることにあった、というものだ(注185)。
 この責任追及は、擁護することができない。
 ドイツの文書資料から、つぎのことが知られている。ドイツの最高司令部は実際に、ドイツ兵団だけによるにせよフィンランドとボルシェヴィキの兵団と合同してにせよ、北部の港湾への攻撃を考えていた。
 この攻撃作戦は、Murmansk とArchangel を支配することでドイツは連合諸国がロシア領土に入ることを拒むことができ、そうして極東の状況を再活性化する計画を挫折させたであろうから、きわめて合理的なものだった。
 ドイツ政府はこうした目的をもって、1918年5月遅くにIoffe との交渉をし始めた。
 この会談はやがて決裂した。その理由は、一つはボルシェヴィキとフィンランドが協力する条件に同意できなかったことにあり、もう一つは、ドイツが作戦行動の基地として、ロシアが同意しないだろうペテログラードの占領を強く主張したことにあった(注186)。
 しかし、こうしたことを、連合諸国は予見できなかった。2ヶ月のちにドイツはフィンランドから兵団を撤退することを連合諸国は6月に知った、ということ以上に、予見できなかった。
 連合諸国が1918年にロシアに兵団を派遣するに際して、彼らはロシア・ボルシェヴィキ政府の打倒を意図した、ということを示す証拠はない。
 この作戦で重要な役割を果たしたイギリスは、公的にも私的にも、ロシアを統治している政府の性格に関する関心を、完全に欠如させていた。
 イギリス首相のDavid Lloyd George は、1918年7月22日の戦時内閣の閣議で、ロシア人がいかなる種類の政府を樹立したかはイギリスの関心事ではない、と素っ気なく宣言した。共和国、ボルシェヴィキ国家、あるいは君主制のいずれであれ(注187)。
 Wilson 大統領も同じような見解だったことが、示されている。
 --------
 (06) 連合諸国の遠征隊は、最初は8500人の兵団で、うち4800人はアメリカ人だったが、8月1-2日にArchangel に上陸した。
 Poole 将軍は8月10日に、つぎの指令を受け取った。「ドイツによる影響と浸透に抵抗する目的をもってロシアを復活させることに協力せよ」、そして、彼らの国を回復するために「ロシア人が連合諸国と一緒になって闘いに参加するのを助けよ」(注188)。
 彼はさらに、チェコ軍団との連絡手段を確立せよとの指令も受けた。東部に向かう鉄道路線を彼らとともに確保し、ドイツと戦う軍隊を組織するためにだ(注189)。
 これらの指令の言葉遣いは広く解釈され得るもので、6月3日の指令よりも曖昧な目的を示していた。そしてまた、「北部ロシア遠征隊の将来は、ドイツではなくボルシェヴィキと戦うことにある」と述べる根拠を何ら提示していなかった(注190)。
 当時、ボルシェヴィキは、相当の程度において、ドイツの協力相手だと見られていた。ボルシェヴィキはドイツから資金を受け取り、一度ならずドイツに対して、ロシアの世論だけがドイツと正式に同盟するのを妨げている、と述べた。
 イギリスとフランスは、それらのモスクワの工作員を通じて、ドイツ大使館の役割はボルシェヴィキを生かし続けることにあるとの情報を得ていた。
 1918年の連合諸国のボルシェヴィキに対する行動をドイツに対するそれと別のものとして理解するのは—対比させるはむろんのこと—、当時の認識状況と雰囲気をいずれも誤解することになる。
 かりにPoole の任務がボルシェヴィキと戦うことだったとすれば、彼にはきっとその趣旨の、紛らわしくない指令が発せられていただろう。そして、彼は、モスクワの反ボルシェヴィキ集団との意思疎通手段を確立していただろう。これを示す証拠はない。
 存在する証拠が示しているのは、逆に、連合諸国のロシア北部への遠征部隊の任務は、チェコスロヴァキア人や日本、および参加する意欲のあるロシア人と協力して、ドイツと戦う新しい前線を構築することにあった、ということだ。
 この任務は、世界大戦の最終段階と密接に関連した軍事活動だった。
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 第16節②へつづく。

2835/菅野完の(と)「市民」運動①。

  この欄の「菅野完」への言及を検索してみると、つぎの著を前提にし、かつ「日本会議」または<保守>・<左翼>を主題にした文章投稿で、三回、この人の名を付随的に出している。
 菅野完・日本会議の研究(扶桑社新書、2016)。著者・菅野完、1974年生まれ。
 この著は20-30万部売れ、「日本会議」本の先駆になったともされる。
 おそらく少なくとも概略は全部読んだ。そして、当時の私はすでにある程度は、この本の叙述内容について知っていたような気がする。
 →No.1377(2016/07)→No.1629(2017/07)→No.1660(2017/07)
 --------
 当時に気にしていたのは、上の著が扶桑社新書の一つとして刊行されていることの不思議さだった。
 当時は<新しい歴史教科書をつくる会>の分裂に関心があった。そして、その名を継承した団体の新教科書の発行元は自由社で、分裂したもう一方の八木秀次らの新団体の教科書の発行元は育鵬社になった、という知識があった。
 また、育鵬社の上部会社は「扶桑社」で、かつ産経新聞社グループは、雑誌「月刊正論」も含めて、ときには西尾幹二や藤岡信勝を起用しつつ、主としては新団体=教育再生会議の側の味方をした、という知識もあった。むろん、「日本会議」は明確に後者の側に立った。西尾幹二は、日本会議や日本青年協議会を、少なくとも「分裂」の数年後までは、激しく批判・罵倒していた。
 ついでながら、安倍晋三が後者の側に立って八木秀次らを厚遇したのは屋山太郎らの働きかけと安倍の無知・無関心に起因するのだろうと、当時は何となく推測していた。
 しかし、当時とその後に書かなかったが、安倍晋三は小泉純一郎に重用され、彼の後継者として登場したのだから、小泉を「狂気の宰相」と称した書物を刊行した(かつ「郵政選挙」で城内実らの<反小泉・造反>グループを支持した)西尾幹二の名を知らなかったはずはなく、良い印象を持っていなかっただろう。むしろ、「日本会議」の支援を受ける自らに対する「敵」だと、西尾幹二・藤岡信勝グループを意識した可能性も高い(安倍晋三と産経グループの日枝久との関係もあったかもしれない)。
 余談を挿入したが、ともあれ、菅野完の「日本会議」に関する批判的分析本が、親日本会議と推察されなくもない産経グループの扶桑社から出版されているのは、当時の私には奇妙だった。日本会議批判者=「左翼」だと二元的に判断して、菅野完を「左翼」の一人だと想像したような気もする。
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  上の時期から10年近く経て、菅野完を「斎藤元彦(兵庫県知事)批判者」として知るようになった。
 かつまた、2025年2月24日に神戸市で「県民集会」を成功させた、「兵庫県政を正常に戻す会」の「相談役」は、菅野完だった。
 むしろ、「正常化する会」設立の唯一の発起人であり、その会の規約(会則)の草案すら用意していたのは、菅野完だった。したがって、彼自身はかなり遠慮した話し方も設立後はしているが、私には、菅野完はかなりの程度、上記の会(菅野によると「市民」運動団体だとされる)の創設者だと思える。
 じつは私は、上記の団体の主張・見解あるいは感覚に、ほとんど賛同している。仔細はむろん省略して、斎藤元彦も、立花孝志も、「異常」だ。だから、菅野完のYouTube発信・投稿も、かなり熱心に視聴してきた(なお、伊東乾のブログでの早くからの斎藤元彦批判・分析も、読んでいる)。
 だから、「兵庫県政を正常に戻す会」の今後に、大いなる関心を持っている。一度だけの、2月24日の「県民集会」開催で終わるのではないことが明言されてもいるからだ。
 上の関心は、純粋な?「市民」運動、「市民」団体が日本の政治状況(政党・既存の「政治」団体の環境)の中でどの程度成立するのだろう、という関心と幾ばくかの危惧につながっている。
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 2025年2月24日の「県民集会」は成功裡に終了したようで、準備会開催からわずか40日でこれができたのは、兵庫県民(および日本国民)の兵庫県政への関心の強さとともに、これを主導した菅野完等々の非凡な能力とこれまでの経験の蓄積によるところが大きいと思われる。
 だが、100パーセント、無条件で支持するというのではなく(「反カルト思考」からすると当然だろう)、全国に同時配信されていたこの「県民集会」の内容、とくに登壇者の選定には、奇妙さと懸念を感じるところもある。
 菅野完という人物にも、強い興味と関心をもっている。なかなかの人だ。
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