Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗①。
(01) ドイツ大使館の責任者になっていたRiezler は、同僚の何人かから、混乱していて上の空だと見なされていた(注167)。
彼は日常的な外交事務にはほとんど時間を使わず、ロシアの対抗グループとの交渉に多くの時間を費やした。その仕事を、ドイツ政府は、7月1日でやめるよう指示した。
彼は指示に従ったが、ボルシェヴィキは長く続かず、ドイツはボルシェヴィキの潜在的な後継者とのあいだの接触を必要とする、という変わらない信念があった。
Mirbach 殺害への彼の最初の反応は、ロシア政府との関係を切断することを促すことだった(注168)。
この助言は、却下された。そして、ボルシェヴィキを助けるのを継続するよう指示された。
彼は1918年9月に、十分に考察することなく、こう述べることになる。ドイツは、ボルシェヴィキを救うべく、三つの場合に「政治的」手段を用いた、と(注169)。
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(02) Riezler は、ドイツ政府からの命令を履行しながら、外務当局を、ボルシェヴィキは消耗し果てた軍隊だ、と電信で伝えて責め立てた。
7月19日の電信では、こう送った。
「ボルシェヴィキは死んでいる。
埋葬すべき者に墓掘り人が同意できないがゆえに、ボルシェヴィキの遺体は生きている。
協商国とともに現在わが国がロシア領土で展開している闘争は、もはやこの遺体のためになってはいない。
この闘争は、後継に関する闘争へ、将来のロシアの方向に関する闘争へと変わっている。」(注170)
ボルシェヴィキはロシアを無害にしてドイツに譲り渡した、ということに彼は同意したが、同様に、ボルシェヴィキは、無益なものにしてそうした(注171)。
彼が推奨したのは、ドイツが「反革命」を担当し、ロシアのブルジョア勢力を援助することだった。
このためには、ボルシェヴィキを排除する最小限度の努力が必要だ、と彼は考えた。
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(03) 自分一人で考えて、Riezler は、反ボルシェヴィキのクーのための基礎作業を設計した。
第一段階は、モスクワに制服を着たドイツ人の大隊を駐屯させることだった。
この大隊の表向きの任務は、大使館を将来のテロリズム行為から防御すること、新しい反乱が起きたときにボルシェヴィキを助けること、になるだろう。
本当の目的は、ボルシェヴィキの権力が崩壊する、またはドイツ政府がボルシェヴィキを権力から排除すると決定するときが来る場合に、モスクワの戦略的地点を占拠することだろう(注172)。
--------
(04) ドイツ政府は、大隊をモスクワに派遣することに同意したが、それはソヴィエト政府がそれを承認する場合に限られた。
ドイツ政府はまた、Riezler に、ラトビア人ライフル兵団の意図を探るために彼らとの控えめな会話を開始する権限を与えた。
ラトビア人と良好な関係を築いていたRiezler は、寝返る用意はあるか、と尋ねた。
ある、というのが答えだった。
ラトビア人の司令官のVatsetis は、1918年の夏の彼の考えを次のように叙述している。
「奇妙に感じられるかもしれないが、当時、つぎのことが語られていた。中央ロシアは内戦の舞台になるだろう。ボルシェヴィキの権力保持はほとんど不可能だろう。飢餓に陥る犠牲者が発生し、国の内部に一般的な不満がある。
ドイツ軍、Don コサック、チェコ人の白軍がモスクワで行動する可能性を排除することはできなかった。
この最後の見方は、当時にとくに広がった。
ボルシェヴィキはその権力のもとに、戦闘可能な軍事力を有しない。
最高軍事会議の軍指導者のM. D. Bonch-Bruevich が知的かつ賢明にその編成を作り上げた部隊は、ヨーロッパ・ロシアの西部地域の飢餓のために、食糧を求めて散在し、ソヴィエトの権威にとって危険な強盗団に変わっている。
このような軍隊は—かりにこの立派な言葉を使うとすれば—、ドイツ兵のヘルメットを見るや否や逃亡した。
西部国境では、反抗的な赤色部隊を鎮圧するためにドイツ軍が求められるという事例が起きた。…
このような考察や風聞の全てとの関係で、私は、ドイツの介入がさらにあれば、またコサックと白軍がロシア中央部に出現すれば、ラトビア人兵団にはいったい何が起きるのかという問題にひどく苦悩していた。
このような可能性は、当時は真剣に考慮されていた。
ラトビア人ライフル兵団は完全に壊滅するに至るかもしれなかった。…」(注173)
Riezler は彼が語ったことから、以下を知った。すなわち、ラトビア人はドイツが占領する彼らの故郷に帰還することを不安に感じている、そして、恩赦と本国帰還が保証されれば、ドイツがボルシェヴィキに反対して介入した場合に、彼らは少なくとも中立を維持する(注174)。
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(05) Riezler は右派センターとの会話も再開した。
新しい代表者のGrigorii Trubetskoi 公—帝制ロシアの戦時中のSerbia 大使—は、ロシアからレーニンを排除するためのドイツの迅速な援助を要請した。
彼はそのグループの協力について、いくつかの条件を付けた。
第一。ドイツは、ロシアがウクライナに軍事力を集結させることを許容すべきだ。そうしてこそ、モスクワはドイツ人によってでなくロシア人によって解放される。
第二、ブレスト条約の改訂。第三、ボルシェヴィキに替わる政府に圧力を加えないこと。第四、世界戦争でのロシアの中立(注175)。
Trubetskoi は、そのグループには、武器だけを必要とする、戦闘意欲のある4000人の将校がいる、と主張した。
時間の問題が、最重要だった。ボルシェヴィキは、定期的な将校の「人狩り」を行なっており、毎日数十人を処刑していた(注176)。
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(06) Mirbach の後継者のKarl Helfferich がモスクワに着く(7月28日)までに、Riezler は、本格的なクー・デタの計画を立てていた。
いったんドイツの大隊がモスクワを掌握すれば(市を警護するラトビア人ライフル兵団は恩赦と本国帰還の誓約があるので中立化している)、ボルシェヴィキ政府の崩壊をもたらすには大した時間を要しない。
これに続くのは、ウクライナのHetman Skoropadski 体制に範をとった、完全にドイツに依存したロシア政府の樹立だ(注177)。
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(07) Riezler の計画は、無に帰した。
計画の重要な事前想定であるモスクワへのドイツの大隊の配置は、レーニンに拒否され、ドイツ政府によって中止された。
Hindenburg の圧力に屈して、ドイツ政府はソヴィエト政府に対して、一通の覚書を送った。それは7月14日夕方に、Riezler からChicherin に手渡された。
覚書は、制服を着た大隊をモスクワに派遣することを提案するにあたって、ドイツにはソヴィエトの主権を侵害する意図はない、ということを保証した。派遣の唯一の目的は、ドイツの外交人員の安全を確保することだ。
覚書は、さらにつづく。新たな反ボルシェヴィキ蜂起が生起すれば、ドイツの大隊はロシア政府がそれを鎮圧するのを助ける(注178)。
Chicherin は、街の外で休んでいるレーニンにドイツの覚書を伝えた。
レーニンはすぐに、ドイツの策略を見抜いた。
その夜にモスクワに戻り、Chicherin と協議した。
これはレーニンが譲歩することのできない問題だった。彼は、ドイツが自分の権力を脅かすことをしないかぎりでこそ、望むものはほとんど何でもドイツに与えただろう。
レーニンは翌日、中央執行委員会で覚書を発表した(注179)。
そして、ロシアはその領土内に外国の兵団を認めるよりもそれと戦うことを欲するのだから、ドイツはその提案に固執しないことを望む、と言った。
彼は、ドイツ大使館の安全を確保するために必要な全ての人員を提供することを約束した。
そして、広範囲の通商関係という餌を提示した。それは、ドイツの事業界の利益が影響を受けるように彼に代わって誘導するするための手段だった。それを実体化したのは、翌月に締結された補足条約だった。
ドイツが本当に決意していた場合に、レーニンが抵抗できたかどうかは疑わしい。今では、ドイツの全ての要求に応えていた2月よりも、さらにレーニンは弱かった。
しかし、レーニンは試されなかった。ドイツの外務当局は、彼の反応を知らされて、すぐにRiezler の提案を却下したからだ。
ドイツ政府はRiezler に、「ボルシェヴィキを支援することを継続し、それ以外の者たちとはたんなる『接触』を維持する」よう命令した。
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<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗①。
(01) ドイツ大使館の責任者になっていたRiezler は、同僚の何人かから、混乱していて上の空だと見なされていた(注167)。
彼は日常的な外交事務にはほとんど時間を使わず、ロシアの対抗グループとの交渉に多くの時間を費やした。その仕事を、ドイツ政府は、7月1日でやめるよう指示した。
彼は指示に従ったが、ボルシェヴィキは長く続かず、ドイツはボルシェヴィキの潜在的な後継者とのあいだの接触を必要とする、という変わらない信念があった。
Mirbach 殺害への彼の最初の反応は、ロシア政府との関係を切断することを促すことだった(注168)。
この助言は、却下された。そして、ボルシェヴィキを助けるのを継続するよう指示された。
彼は1918年9月に、十分に考察することなく、こう述べることになる。ドイツは、ボルシェヴィキを救うべく、三つの場合に「政治的」手段を用いた、と(注169)。
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(02) Riezler は、ドイツ政府からの命令を履行しながら、外務当局を、ボルシェヴィキは消耗し果てた軍隊だ、と電信で伝えて責め立てた。
7月19日の電信では、こう送った。
「ボルシェヴィキは死んでいる。
埋葬すべき者に墓掘り人が同意できないがゆえに、ボルシェヴィキの遺体は生きている。
協商国とともに現在わが国がロシア領土で展開している闘争は、もはやこの遺体のためになってはいない。
この闘争は、後継に関する闘争へ、将来のロシアの方向に関する闘争へと変わっている。」(注170)
ボルシェヴィキはロシアを無害にしてドイツに譲り渡した、ということに彼は同意したが、同様に、ボルシェヴィキは、無益なものにしてそうした(注171)。
彼が推奨したのは、ドイツが「反革命」を担当し、ロシアのブルジョア勢力を援助することだった。
このためには、ボルシェヴィキを排除する最小限度の努力が必要だ、と彼は考えた。
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(03) 自分一人で考えて、Riezler は、反ボルシェヴィキのクーのための基礎作業を設計した。
第一段階は、モスクワに制服を着たドイツ人の大隊を駐屯させることだった。
この大隊の表向きの任務は、大使館を将来のテロリズム行為から防御すること、新しい反乱が起きたときにボルシェヴィキを助けること、になるだろう。
本当の目的は、ボルシェヴィキの権力が崩壊する、またはドイツ政府がボルシェヴィキを権力から排除すると決定するときが来る場合に、モスクワの戦略的地点を占拠することだろう(注172)。
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(04) ドイツ政府は、大隊をモスクワに派遣することに同意したが、それはソヴィエト政府がそれを承認する場合に限られた。
ドイツ政府はまた、Riezler に、ラトビア人ライフル兵団の意図を探るために彼らとの控えめな会話を開始する権限を与えた。
ラトビア人と良好な関係を築いていたRiezler は、寝返る用意はあるか、と尋ねた。
ある、というのが答えだった。
ラトビア人の司令官のVatsetis は、1918年の夏の彼の考えを次のように叙述している。
「奇妙に感じられるかもしれないが、当時、つぎのことが語られていた。中央ロシアは内戦の舞台になるだろう。ボルシェヴィキの権力保持はほとんど不可能だろう。飢餓に陥る犠牲者が発生し、国の内部に一般的な不満がある。
ドイツ軍、Don コサック、チェコ人の白軍がモスクワで行動する可能性を排除することはできなかった。
この最後の見方は、当時にとくに広がった。
ボルシェヴィキはその権力のもとに、戦闘可能な軍事力を有しない。
最高軍事会議の軍指導者のM. D. Bonch-Bruevich が知的かつ賢明にその編成を作り上げた部隊は、ヨーロッパ・ロシアの西部地域の飢餓のために、食糧を求めて散在し、ソヴィエトの権威にとって危険な強盗団に変わっている。
このような軍隊は—かりにこの立派な言葉を使うとすれば—、ドイツ兵のヘルメットを見るや否や逃亡した。
西部国境では、反抗的な赤色部隊を鎮圧するためにドイツ軍が求められるという事例が起きた。…
このような考察や風聞の全てとの関係で、私は、ドイツの介入がさらにあれば、またコサックと白軍がロシア中央部に出現すれば、ラトビア人兵団にはいったい何が起きるのかという問題にひどく苦悩していた。
このような可能性は、当時は真剣に考慮されていた。
ラトビア人ライフル兵団は完全に壊滅するに至るかもしれなかった。…」(注173)
Riezler は彼が語ったことから、以下を知った。すなわち、ラトビア人はドイツが占領する彼らの故郷に帰還することを不安に感じている、そして、恩赦と本国帰還が保証されれば、ドイツがボルシェヴィキに反対して介入した場合に、彼らは少なくとも中立を維持する(注174)。
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(05) Riezler は右派センターとの会話も再開した。
新しい代表者のGrigorii Trubetskoi 公—帝制ロシアの戦時中のSerbia 大使—は、ロシアからレーニンを排除するためのドイツの迅速な援助を要請した。
彼はそのグループの協力について、いくつかの条件を付けた。
第一。ドイツは、ロシアがウクライナに軍事力を集結させることを許容すべきだ。そうしてこそ、モスクワはドイツ人によってでなくロシア人によって解放される。
第二、ブレスト条約の改訂。第三、ボルシェヴィキに替わる政府に圧力を加えないこと。第四、世界戦争でのロシアの中立(注175)。
Trubetskoi は、そのグループには、武器だけを必要とする、戦闘意欲のある4000人の将校がいる、と主張した。
時間の問題が、最重要だった。ボルシェヴィキは、定期的な将校の「人狩り」を行なっており、毎日数十人を処刑していた(注176)。
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(06) Mirbach の後継者のKarl Helfferich がモスクワに着く(7月28日)までに、Riezler は、本格的なクー・デタの計画を立てていた。
いったんドイツの大隊がモスクワを掌握すれば(市を警護するラトビア人ライフル兵団は恩赦と本国帰還の誓約があるので中立化している)、ボルシェヴィキ政府の崩壊をもたらすには大した時間を要しない。
これに続くのは、ウクライナのHetman Skoropadski 体制に範をとった、完全にドイツに依存したロシア政府の樹立だ(注177)。
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(07) Riezler の計画は、無に帰した。
計画の重要な事前想定であるモスクワへのドイツの大隊の配置は、レーニンに拒否され、ドイツ政府によって中止された。
Hindenburg の圧力に屈して、ドイツ政府はソヴィエト政府に対して、一通の覚書を送った。それは7月14日夕方に、Riezler からChicherin に手渡された。
覚書は、制服を着た大隊をモスクワに派遣することを提案するにあたって、ドイツにはソヴィエトの主権を侵害する意図はない、ということを保証した。派遣の唯一の目的は、ドイツの外交人員の安全を確保することだ。
覚書は、さらにつづく。新たな反ボルシェヴィキ蜂起が生起すれば、ドイツの大隊はロシア政府がそれを鎮圧するのを助ける(注178)。
Chicherin は、街の外で休んでいるレーニンにドイツの覚書を伝えた。
レーニンはすぐに、ドイツの策略を見抜いた。
その夜にモスクワに戻り、Chicherin と協議した。
これはレーニンが譲歩することのできない問題だった。彼は、ドイツが自分の権力を脅かすことをしないかぎりでこそ、望むものはほとんど何でもドイツに与えただろう。
レーニンは翌日、中央執行委員会で覚書を発表した(注179)。
そして、ロシアはその領土内に外国の兵団を認めるよりもそれと戦うことを欲するのだから、ドイツはその提案に固執しないことを望む、と言った。
彼は、ドイツ大使館の安全を確保するために必要な全ての人員を提供することを約束した。
そして、広範囲の通商関係という餌を提示した。それは、ドイツの事業界の利益が影響を受けるように彼に代わって誘導するするための手段だった。それを実体化したのは、翌月に締結された補足条約だった。
ドイツが本当に決意していた場合に、レーニンが抵抗できたかどうかは疑わしい。今では、ドイツの全ての要求に応えていた2月よりも、さらにレーニンは弱かった。
しかし、レーニンは試されなかった。ドイツの外務当局は、彼の反応を知らされて、すぐにRiezler の提案を却下したからだ。
ドイツ政府はRiezler に、「ボルシェヴィキを支援することを継続し、それ以外の者たちとはたんなる『接触』を維持する」よう命令した。
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