秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2025/02

2834/R.パイプス1990年著—第14章㉖。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗①。
 (01) ドイツ大使館の責任者になっていたRiezler は、同僚の何人かから、混乱していて上の空だと見なされていた(注167)。
 彼は日常的な外交事務にはほとんど時間を使わず、ロシアの対抗グループとの交渉に多くの時間を費やした。その仕事を、ドイツ政府は、7月1日でやめるよう指示した。
 彼は指示に従ったが、ボルシェヴィキは長く続かず、ドイツはボルシェヴィキの潜在的な後継者とのあいだの接触を必要とする、という変わらない信念があった。
 Mirbach 殺害への彼の最初の反応は、ロシア政府との関係を切断することを促すことだった(注168)。
 この助言は、却下された。そして、ボルシェヴィキを助けるのを継続するよう指示された。
 彼は1918年9月に、十分に考察することなく、こう述べることになる。ドイツは、ボルシェヴィキを救うべく、三つの場合に「政治的」手段を用いた、と(注169)。
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 (02) Riezler は、ドイツ政府からの命令を履行しながら、外務当局を、ボルシェヴィキは消耗し果てた軍隊だ、と電信で伝えて責め立てた。
 7月19日の電信では、こう送った。
 「ボルシェヴィキは死んでいる。
 埋葬すべき者に墓掘り人が同意できないがゆえに、ボルシェヴィキの遺体は生きている。
 協商国とともに現在わが国がロシア領土で展開している闘争は、もはやこの遺体のためになってはいない。
 この闘争は、後継に関する闘争へ、将来のロシアの方向に関する闘争へと変わっている。」(注170)
 ボルシェヴィキはロシアを無害にしてドイツに譲り渡した、ということに彼は同意したが、同様に、ボルシェヴィキは、無益なものにしてそうした(注171)。
 彼が推奨したのは、ドイツが「反革命」を担当し、ロシアのブルジョア勢力を援助することだった。
 このためには、ボルシェヴィキを排除する最小限度の努力が必要だ、と彼は考えた。
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 (03) 自分一人で考えて、Riezler は、反ボルシェヴィキのクーのための基礎作業を設計した。
 第一段階は、モスクワに制服を着たドイツ人の大隊を駐屯させることだった。
 この大隊の表向きの任務は、大使館を将来のテロリズム行為から防御すること、新しい反乱が起きたときにボルシェヴィキを助けること、になるだろう。
 本当の目的は、ボルシェヴィキの権力が崩壊する、またはドイツ政府がボルシェヴィキを権力から排除すると決定するときが来る場合に、モスクワの戦略的地点を占拠することだろう(注172)。
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 (04) ドイツ政府は、大隊をモスクワに派遣することに同意したが、それはソヴィエト政府がそれを承認する場合に限られた。
 ドイツ政府はまた、Riezler に、ラトビア人ライフル兵団の意図を探るために彼らとの控えめな会話を開始する権限を与えた。
 ラトビア人と良好な関係を築いていたRiezler は、寝返る用意はあるか、と尋ねた。
 ある、というのが答えだった。
 ラトビア人の司令官のVatsetis は、1918年の夏の彼の考えを次のように叙述している。
 「奇妙に感じられるかもしれないが、当時、つぎのことが語られていた。中央ロシアは内戦の舞台になるだろう。ボルシェヴィキの権力保持はほとんど不可能だろう。飢餓に陥る犠牲者が発生し、国の内部に一般的な不満がある。
 ドイツ軍、Don コサック、チェコ人の白軍がモスクワで行動する可能性を排除することはできなかった。
 この最後の見方は、当時にとくに広がった。
 ボルシェヴィキはその権力のもとに、戦闘可能な軍事力を有しない。 
 最高軍事会議の軍指導者のM. D. Bonch-Bruevich が知的かつ賢明にその編成を作り上げた部隊は、ヨーロッパ・ロシアの西部地域の飢餓のために、食糧を求めて散在し、ソヴィエトの権威にとって危険な強盗団に変わっている。
 このような軍隊は—かりにこの立派な言葉を使うとすれば—、ドイツ兵のヘルメットを見るや否や逃亡した。
 西部国境では、反抗的な赤色部隊を鎮圧するためにドイツ軍が求められるという事例が起きた。…
 このような考察や風聞の全てとの関係で、私は、ドイツの介入がさらにあれば、またコサックと白軍がロシア中央部に出現すれば、ラトビア人兵団にはいったい何が起きるのかという問題にひどく苦悩していた。
 このような可能性は、当時は真剣に考慮されていた。
 ラトビア人ライフル兵団は完全に壊滅するに至るかもしれなかった。…」(注173)
 Riezler は彼が語ったことから、以下を知った。すなわち、ラトビア人はドイツが占領する彼らの故郷に帰還することを不安に感じている、そして、恩赦と本国帰還が保証されれば、ドイツがボルシェヴィキに反対して介入した場合に、彼らは少なくとも中立を維持する(注174)。
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 (05) Riezler は右派センターとの会話も再開した。
 新しい代表者のGrigorii Trubetskoi 公—帝制ロシアの戦時中のSerbia 大使—は、ロシアからレーニンを排除するためのドイツの迅速な援助を要請した。
 彼はそのグループの協力について、いくつかの条件を付けた。
 第一。ドイツは、ロシアがウクライナに軍事力を集結させることを許容すべきだ。そうしてこそ、モスクワはドイツ人によってでなくロシア人によって解放される。
 第二、ブレスト条約の改訂。第三、ボルシェヴィキに替わる政府に圧力を加えないこと。第四、世界戦争でのロシアの中立(注175)。
 Trubetskoi は、そのグループには、武器だけを必要とする、戦闘意欲のある4000人の将校がいる、と主張した。
 時間の問題が、最重要だった。ボルシェヴィキは、定期的な将校の「人狩り」を行なっており、毎日数十人を処刑していた(注176)。
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 (06) Mirbach の後継者のKarl Helfferich がモスクワに着く(7月28日)までに、Riezler は、本格的なクー・デタの計画を立てていた。
 いったんドイツの大隊がモスクワを掌握すれば(市を警護するラトビア人ライフル兵団は恩赦と本国帰還の誓約があるので中立化している)、ボルシェヴィキ政府の崩壊をもたらすには大した時間を要しない。
 これに続くのは、ウクライナのHetman Skoropadski 体制に範をとった、完全にドイツに依存したロシア政府の樹立だ(注177)。
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 (07) Riezler の計画は、無に帰した。
 計画の重要な事前想定であるモスクワへのドイツの大隊の配置は、レーニンに拒否され、ドイツ政府によって中止された。
 Hindenburg の圧力に屈して、ドイツ政府はソヴィエト政府に対して、一通の覚書を送った。それは7月14日夕方に、Riezler からChicherin に手渡された。
 覚書は、制服を着た大隊をモスクワに派遣することを提案するにあたって、ドイツにはソヴィエトの主権を侵害する意図はない、ということを保証した。派遣の唯一の目的は、ドイツの外交人員の安全を確保することだ。
 覚書は、さらにつづく。新たな反ボルシェヴィキ蜂起が生起すれば、ドイツの大隊はロシア政府がそれを鎮圧するのを助ける(注178)。
 Chicherin は、街の外で休んでいるレーニンにドイツの覚書を伝えた。
 レーニンはすぐに、ドイツの策略を見抜いた。
 その夜にモスクワに戻り、Chicherin と協議した。
 これはレーニンが譲歩することのできない問題だった。彼は、ドイツが自分の権力を脅かすことをしないかぎりでこそ、望むものはほとんど何でもドイツに与えただろう。
 レーニンは翌日、中央執行委員会で覚書を発表した(注179)。
 そして、ロシアはその領土内に外国の兵団を認めるよりもそれと戦うことを欲するのだから、ドイツはその提案に固執しないことを望む、と言った。
 彼は、ドイツ大使館の安全を確保するために必要な全ての人員を提供することを約束した。
 そして、広範囲の通商関係という餌を提示した。それは、ドイツの事業界の利益が影響を受けるように彼に代わって誘導するするための手段だった。それを実体化したのは、翌月に締結された補足条約だった。
 ドイツが本当に決意していた場合に、レーニンが抵抗できたかどうかは疑わしい。今では、ドイツの全ての要求に応えていた2月よりも、さらにレーニンは弱かった。
 しかし、レーニンは試されなかった。ドイツの外務当局は、彼の反応を知らされて、すぐにRiezler の提案を却下したからだ。
 ドイツ政府はRiezler に、「ボルシェヴィキを支援することを継続し、それ以外の者たちとはたんなる『接触』を維持する」よう命令した。
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2833/R.パイプス1990年著—第14章㉕。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第14節/Iaroslavl の蜂起。
 (01) Perkhurov には、Iarosval 反乱を綿密に準備する時間がほとんどなかった。にもかかわらず、突然に、ボルシェヴィキの諸機関を奪取した(注159)。
 行動開始は7月6日の午前2時で、将校たちの分遣隊が、市内の重要地点を掌握した。兵器庫、軍事司令部、銀行、郵便局。
 別の分遣隊は、ボルシェヴィキの指導者とソヴィエト官僚の逮捕へと進んだ。彼らの中には、射殺された者もいた、と言われている。
 地方の赤軍学校の教師として雇われていた将校たちは、すみやかに反乱者の味方になり、若干の機関銃と装甲車を提供した。
 Perkhurov は、北部義勇軍のIaroslavl 支部の司令官だと称した。
 この最初の作戦行動には、ほとんど抵抗がなかった。そして、日没までには、市の中心部は反乱軍の手に落ちた。
 まもなく、他の者たちも、反乱軍に降伏した。この者たちの中には、軍隊員、学生、労働者、農民がいた。
 ある共産主義歴史家の見積りでは、Iaroslavl 蜂起への6000人の参加者のうち、1000人程度だけが将校だった(注160)。
 これはボルシェヴィキ体制に対する純粋な民衆蜂起であり、近傍の村落からの農民たちはとくに友好的だった。
 反乱軍は、迂回して母国に戻る途中でちょうどIaroslavl を通っていた、ドイツの戦争捕虜団の協力を得ようとした。だが、断られたので、彼らを市立劇場に収容した。
 7月8日、Perkhurov は彼らに対して、自分の軍は中央諸国と戦争状態にある、と知らせた(注161)。
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 (02) ともに300〜400人が関与していたMurom とRybinsk での蜂起は、数時間で壊滅した。これに対して、Iaroslavl のPerkhurov は、16日間、持ちこたえた。
 郊外に集結した親ボルシェヴィキ軍は、次の夜に反攻を企てたが、市の再掌握をすることに失敗した。
 親ボルシェヴィキ軍は市街に激しい爆撃を行ない、水の供給施設を破壊した。赤軍がVolga 河への道路を支配しており、それが唯一の水源だったので、反乱軍に対しては厄災的な効果があった。
 一週間程度の断続的な戦闘のあと、トロツキーは、Iaroslavl での作戦行動の任務を、A. I. Gekker に委ねた。この人物は、十月のクーの前夜にボルシェヴィキに屈した旧帝制軍の大尉だった。
 Gekker は、歩兵、砲兵および航空機で市街を攻撃した。
 激烈な砲撃によって、市街のほとんどが、名高い中世の教会や修道院を含めて、完全に破壊された。
 反乱軍は、水不足でどぶ溝から掬って飲んでいたのだが、最終的には降伏しなければならなかった。
 7月20日、彼らの代表はドイツ帰還委員会に近づいて、降伏したいと宣言した。ドイツとの戦争状態にあったために、戦争捕虜として扱われるのを望んだわけだ。
 ドイツ帰還委員会は条件を受け入れて、反乱軍を赤軍へと引き渡さないと約束した。
 7月21日、反乱軍は武器を置いた。そして、数時間で、Iaroslavl は、ドイツ戦争捕虜団が占拠するところとなった。
 しかしながら、その夜、ボルシェヴィキからの最後通告に直面したドイツ人は、約束を破り、収監者としてボルシェヴィキに引き渡した。
 赤衛軍は、およそ350人を元将校、裕福な市民、学生に振り分けて、市の外に行進させ、そこで彼らを射殺した(注163)。
 これは、ボルシェヴィキが行なった、最初の大量殺戮だった。
 Iaroslavl 蜂起の一つの帰結は、ロシア政府が旧帝制軍の将校たちの無差別の逮捕を命じたことだった。彼ら将校の多くは、審問なしで射殺された。他の者たちであれば赤軍へ入隊させられていたのであっても。
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 (03) Savinkov は、Rybinsk から何とか逃げた。
 のちに、提督Alexander Kolchak の軍に加わり、ボルシェヴィキの後方からする襲撃を組織した。
 Kolchak が敗北したあと、彼は西ヨーロッパに逃亡した。そして、反ボルシェヴィキ運動を熱心に組織し、ソヴィエト同盟へと工作員を送り込んだ。
 1924年8月、レーニン主義の後のソヴィエト・ロシアで重要な役割を果たすという幻想を抱いていたが、GPU(チェカの後身)によって誘い込まれ、非合法に国境地帯を横断した。
 すみやかに、逮捕された。
 その年ののちの公開の審問で、彼は冒した犯罪の全てを告白し、自分の破壊活動には連合諸国の関与があると強調し、容赦を求めて弁明した。
 死刑判決は、10年間の収監に変更された。
 彼は翌年に、監獄で死んだ。きわめて疑わしい状況のもとで。
 公式には、自殺した、とされた。しかし、GPUによって殺害された蓋然性が高い。—若干の報告によると、窓から突き落とされた(注164)。
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 (04) Perkhurov も、Kolchak 軍に加入した。そこで、将軍の地位にまで昇り、Perkhurov-Iaroslavskii という通称を得た。
 ボルシェヴィキに捕えられたとき、彼は何とか人物を偽装し、赤軍の中で仕事を得た。
 本当の素性は、1922年に暴露された。
 最高審問所の軍事部で審理され、死刑の判決を受けた。
 彼は監獄で告白書を書かされ、それはのちに公刊された(注165)。
 GPUは、地下牢で彼を殺すことをしないで、Iaroslavl へと送った。
 Iaroslavl は蜂起の四周年記念日で、Perkhurov は、群衆に罵倒されながら、岩を投げつけられながら、街路を行進した。そのあとで、処刑された。
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 第14節、終わり。

2832/増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)②。

 増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)②。
 出所—当日のYouTube ライブ配信(2025/02/23)。
 太字化、最終文責は掲載者(秋月)
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 記者「当時、知事選の前に、その斎藤さんのパワハラで、元県民局長が亡くなったという、これはデマだと思いますけれども、それを打ち消したいが為に、公用パソコンの中にあった情報を今回事実として提供された、ということなんですけど、なぜこの事実を提供すると、前段の。そのデマの部分が否定されるのか、というのが繋がらないんですが、どうリンクするのか、教えてもらってもよいでしょうか」。
 増山「それは私なりの感覚、というか思いでありまして、やはり、…パワハラではないというところが、まったく事実と違うということで、一つの要因として、…何でしょうね、そういった、…まあ公用PCの内容についてクーデターですとかそういったいたものがあったということで、何か否定される可能性があるのではないかというふうに感じたまでですので、これがあれが絶対に否定できるという確たるものがあって言うことではなく、まあ広く情報を提示していくことによって、クーデターですとか、そういったことの〔を〕県民の皆さんが広く知ることができることがいい事だと思っていた、ということですね」。
 記者「今の説明だとやっぱり繋がらないんですけど。斉藤さんのパワハラで元県民局長が亡くなったというデマを打ち消すために、より強いファクトをぶつけることでそちらに意識が行くようにしたかった、ということなのか、それとも先ほどから出ている女性関係の話が、これ立花さんの言い分ですけど、表に出ることを恐れて元県民局長が亡くなった可能性があるからそちらを知らしめたかったのか、増山さんはどちらの意図、もしくはまた別の意図があるんでしょうか? ちょっと繋がらないので教えてください」。
 増山「何かこの情報を出したからこの情報をピンポイント出打ち消せるということではなく、例としてパワハラの話は出しましたけれども、例えば県民局長というか元パレード担当課長についての情報も、私、お伝えはしています。あれは元局長が完全に否定されておりますので、その情報をもってパレード担当課長の方がお亡くなりになられたという情報は否定できるのではないかなというふうに、思っております」。
 記者「そこは分かります。だけど、斎藤さんのパワハラで元県民局長が亡くなったっていうことを、そういう情報が間違っているからそれを打ち消したいからっておっしゃったのは増山さんなので、じゃあそのために、なぜこの情報を出したのかっていう理由を教えてほしいんですけれども」。
 増山「はい、そこについては、ピンポイントでこれ出したからこれが否定されるというようなところまでの思いはありませんけれども、全体像を把握することによってその認識が変わってくる可能性もあるな、というところで、お話をさせていただいた、というところですね」。
 記者「文書の冒頭に女性関係の話が出てきますけれども、要するに、こういうふうな事実というかですね、スキャンダルと言いますか、そういう話が出ることで、これが事実かどうか分かりませんけれども、それが出ることで言われているデマを打ち消すっていう、そういうことでもないんですか? ちょっと説明が、すいません、分からなくて。もう一度お願いします」。
 増山「スキャンダラスなことで打ち消す、という意図はないですね」。
 記者「ではなくて、より強い事実っていうものをぶつけて、そちらの方も知ってほしい、そっちに意識が行く、じゃないですけど、そっちも知ってほしいと。ただそこは、自分なりのファクトだと思っている所だけどって、そういうことですかね? イメージとして」。
 増山「そうですね、はい。私の認識としてそういう部分はあったので、はい」。
 記者「あと増山さん、もう一つ。リハックの中でですね、10月25日の百条委員会のやり取りはですね、いずれ公表されるものであったものだから、それを事前に出すと、いうふうなつもりだった、ということでした。先ほど岸口さんがご説明いただいてましたけども、元県民局長が亡くなられた翌日のですね7月8日の朝の百条委員会の理事会で、このプライバシーに関する資料、これについては、出すか出さないかの議論になったと思います。最後までこれを公表しましょうと言っていたのは増山さんだけでした。しかしながら、多数決でこれ出さないということが正式に決まりました。これに、先ほどをもってですね、7月2日の段階では、県民局長からですね、プライバシー情報については扱わないで下さいと言って、代理人を通じて書類が出てますよね。ということは、先ほど増山さんもおっしゃってましたけれども、そういうプライバシーの部分については、おそらくカットされるか、議事録から削除されるんじゃないかってもうおっしゃってましたから、削除されるっていうことは十分に想定されたわけなのに、なぜその部分も含めて、音声データを立花さんに提供されたんでしょうか? 教えてください」。
 増山「はい。カットされるというのも、百条委員会も中でカットされるということでしたが、まああのう、今、なんて言うんでしょうね…。マスコミの皆さんの報道の中で出ている情報と違う重要な情報である、という認識がありましたので、そういう意味で、公共の利になる、という認識から出した、ということですね」。
 記者「女性関係の話と、文書の中身を、正しいかどうか調査するという百条委の目的とは別個のものだと思いますけれども、増山さんのその主張で行かれると、この文書を書かれた人がどういう人かっていうのもバックグラウンドで知っとかないと、百条委としては議論できないよ、だから公益性があるよって、そういうことをおっしゃってるんでしょうか? 教えてください」。
 増山「そういうことではないですね、百条委員会においては」。
 記者「じゃあなぜ、この女性関係の話が公益性があるっていう、このいわゆる文書問題に関わってですね、いわゆる懲戒処分してに関わって、これが必要だ、公益通報だっていう理屈は、少なくとも僕の中で、そうかなというふうな認識ははありますけれども、今話しているのは文書問題に関して、まさにそれを話し合う百条委員会の場で出た話です。これをなぜ、公益性があるものというふうに言ってらっしゃるのか、というのが、すいません、ちょっと分からないので、教えていただきたいです」。
 増山「はい。7月8日のお話をされていると思うんですが、あの当時私の方で、何がプライベート情報に入っているのか、というのは、全く分からない状態でした。やはりその中には、クーデターに関する文書がたくさん含まれていた、ということですから、今だもってその情報について開示を要求したことについては間違っていない、というふうに考えております」。
 記者「私が話しているのはクーデターの部分ではなくて、女性関係の部分…。クーデターの部分は先ほど岸口さんが説明されたように、不正な目的というのを調べるためには必要じゃないかと。そこの部分はご主張としては分かりました。女性関係の部分については、いかがでしょうか?」
 増山「ですから、プライベートの中に女性関係のものがあるのかクーデターのものがあるのか、というのが、いっさい伏せられた状態で議論が行なわれておりましたので、プライベートということで一括りになっていたんですね。ですから、そこは開示する必要があるのではないか、という主張をさせていただいた、ということです」。
 記者「で、10月25日に、そこで片山さんがそこについて触れられたわけですけれども、プライベート情報については出さないということを皆さん申し合わせていたんだから、当然そこについては削除される可能性があることは、増山さんだってその理事会には参加していたんだから、分かっていたはずなのに、なぜ出されたんですか、という質問なんですけど。教えてもらってもいいでしょうか」。
 増山「そうですね。百条委員会の中では削除される可能性はあると思いましたけれども、先ほども申し上げましたが、より広く事実を知ってもらう意味で、そこの部分までは必要な情報であると思ったので提供をした、ということですね」。
 記者「いわゆる、今回の内部文書、公益通報に関しては関係ないけれども、いわゆる懲戒処分であったりとか、倫理上、いわゆるさっきから出てた信用失墜行為であるとか、そういう部分で知ってもらう必要があるから出そうと思ったって、そういうことですか?」
 増山「そうですね。より広く情報を知ってもらう、という意味において、ここまでは必要だろうという私の判断がありましたので、提示をした、ということですね。

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 記者「だから、どっちですか? 文書問題で必要だからなのか…」。
 増山「いや、文書問題じゃないです」。
 記者「信用失墜行為で出さないといけない、というふうなことで、広く知ってもらいたいということで…。すみません、噛み合っていないですかね」。
 増山「信用失墜行為…」。
 記者「なぜこの行為を知ってもらわなければならないのか、という所が、文書問題の誰が書いたか、どういう意図で書いたかは別として、誰が書いたか、その人の属性がどういうものかということと、文書の中身が事実かどうかというのは切り分けて考えるべきだ、という話ではないのでしょうか。それも含めて知ってもらうというのが、増山さんのお立場ということなんですかね」。
 増山「なんかごめんなさい。質問がちょっと分からなかったんですが…。百条委としては削除される可能性はあるけれども、全体の…なんて言うんでしょうね、概要を把握するうえで、今ちまたに言われていることの補完として必要な情報であると。片山副知事もそういう意図をもって、どういう意図をもって発言されたかは分かりませんが、必要な情報だと思って言われたんだと思うので、私としても必要な情報かなと判断した、ということですね。」
 記者「増山さん、分かっていると思うんですけど、噛み合ってなくて。
女性関係の部分がどういう公益性があるか、というのを、ちょっともう一度教えてもらっていいですか。それを世に広く知らしめることで、どういう公益性があるか、というのを、端的に教えてもらっていいでしょうか」。
 増山「そうですね。県民局長の方が、処分内容にある所にもあるので、それの事実としてありますよね、ということですね」。
 記者「懲戒処分の内容として知ってほしかった、ということですね、そうすると」。
 増山「…そうなりますね。そうなると思います」。
 記者「公益通報とは無関係だということは分かっていた、ということですね? 公益通報、文書問題とは無関係だという認識だ、ということですか?」
 増山「そう先ほどから申し上げているつもりだったんですが」。
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2831/増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)①。

 増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)。
  出所・当日のYouTubeライブ配信(2025/02/23)。
 太字化・下線、最終の文責は掲載者(=秋月)。
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 記者「増山さんが備忘録として作っていた文書についてですが、公用パソコンの中身について、増山さんは実際にご覧になっているんですか? それとも、どなたかからお聞きした内容をまとめている、という内容だったんですか?」
 増山「見てないです」。
 記者「すべて聞いた情報ということですか?」
 増山「はい、そうです」。
 記者「元県民局長の私的な情報などをを含む、その音声などを、立花氏に提供したことについてですが、根底として、その告発文書を作成した方はこういう方だ、っていうのを広めることで、例えば、告発文書の信頼、信用度を下げるというか、そういった意図はなかったですか?
 増山「そういう意図はないですね」。
 記者「あくまで県民の方により広く知ってほしい、ということでしょうか?」
 増山「そうですね、はい」。
 記者「間違った情報が、例えば流れていたとして、それを打ち消すために、ということがあったとして、それは間違った情報を流している所に伝えるとか、そういうことは考えられていなかったですか?」
 増山「マスコミを全て調べて、そこに送付するというのもかなり非現実的ですし、そういう意味で私はマスコミよりもSNS等の媒体で広める必要があるのかな、と思った次第です。」
 記者「音声提供されたのは、立花氏にだけでしょうか?」
 増山「そうですね、はい」。
 記者「なぜ、知事選の期間中にお渡しになったんですか?」
 増山「それまでの誹謗中傷が、タイミング的に、その時がタイミングだったので…」
 記者「提供することで、例えば民意がどういうふうになってほしいとか、そういう思いは、その時にあったんですか?」
 増山「どういうふうになってほしいというより、広く知ったうえで、行動してほしい、という思いですね。よりたくさんの情報に触れた方が、正しい決断につながる、と思っておりますので」。
 記者「結果的に、民意の部分については、増山さんが思っているようになったというか、その民意については、最終的に、ご自身としては納得されていらっしゃる、ということでしょうか?」
 増山「結果については、県民の皆さんが下した結論ですので、尊重したいと思います」。
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 記者「立花さんが発信されていることがデマだとは認識していない、という冒頭の発言があったと思うのですが、立花さん、候補として二枚めのポスター、自殺の真相というポスターがありましたけれども、そこで不同意性交等罪が発覚することを恐れての自殺だと思われる、というふうに書かれていますけれども、この内容についての真偽については、増山さんとしては今、どう思っていらっしゃいますか?」
 増山「ちょっと私、二枚めのポスターというものを詳しく見ていないんで、分かんないんですけど…」。
 記者「このポスターでは自殺の真相というタイトルが付いていて、不同意性交等罪が発覚することを恐れての自殺だと思われる、と書いてあるんです」。
 増山「なるほど、はい。どこかのソースにもとづいてそれを書いてあるのであれば、私がそれをデマだと認定することはできないと思いますけれども」。
 記者「正しい認識だと?」
 増山「正しいか正しくないかはちょっとわからないんですが、デマと認定することは、立花氏がどういう情報をもとにそのことを書いているのか知りませんので、認定できない、という意味で申し上げております」。
 記者「続けてすみませんけれどもお話を伺うと、立花さんが不同意性交について発信を始めたきっかけは、やはり増山さんとの会話にあるようにも理解したんですけれども、そういうことでよろしいでしょうか?」
 増山「私にはその認識はないですけれども」。
 記者「そういう情報提供をした認識はないこと…」。
 増山「認識はないですね」。
 記者「はい、なるほど。ただ、今も増山さんは不同意性交の可能性はあると、思ってらっしゃると…」。
 増山「そうですね。あると思う。可能性はあると思う。それを完全否定するような情報を私、持ち合わせておりませんので、例えば、全部パソコンの中を見て、同意だったというような証拠を見ていませんので、なかなか、その蓋然性というんですかね、60歳間近の人事課長、局長、教育次長を務められていた方が、短期間のうちに、複数の女性と倫理的に不適切な関係を結んでいるということの情報を得るにあたって、それが同意だったのか否かというものを、一般常識から照らし合わせると、なかなか難しいのではないか、ということから、可能性は否定できない、というふうに感じておりますが、はい」。
 記者「それが。可能性が否定できないとおっしゃってる根拠なんでしょうか。その他に具体的な情報源があって、真実と信じるに足る相当の理由が増山さんの中にあるんでしょうか?」
 増山「不同意性交だという断定はしておりませんので。その可能性を示唆するような、真実相当性のある情報を聞いておりますので。ただ、その可能性が十分にあるのか、少しあるのか、ということに関しては、それぞれの判断なので、私としても…」。
 記者「その情報を聞いてらっしゃるというのは、十年間で複数というところから類推して、ということではまさかないですよね。それとは別に情報源がある、ということですね?」
 増山「はい、そうです」。
 記者「不同意性交とおっしゃるからには、これはかなり名誉を傷つける発信だと思うんですけれども、それなりに信頼のできる、それなりにどころかかなり信頼のできるものだ、というように理解してよろしいでしょうか?」
 増山「私、不同意性交だということは言っておりませんので。可能性を否定することはできない、ということを言っておりますので」。
 記者「不同意性交である可能性がある、ということをおっしゃっているわけですね?」
 増山「可能性は否定できないですね」。
 記者「そういうふうな発信をされるからには、相当の根拠がないと、法的な責任が出てくると思いますけど」。
 増山「私から不同意性交だという発信をしたことはないんですが。今お訊きされているので、私の認識を述べたまでであって、私が、不同意性交だと断定しているわけでもなければ、可能性が高いと言っているわけでもないです」。
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2830/R.パイプス1990年著—第14章㉔。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第13節/Savinkov の秘密組織②。
 (09) Savinkov には、一つの計画が、いやむしろ複数のいくつかの計画があった。だが、そうした計画に彼はほとんど重要性を認めなかった。政治的議論をすれば、目の前の活動を考えている支持者を分裂させたり、彼らの気を逸らせることになったからだ。
 彼が強調したのは、愛国主義だった。
 同盟の一つの綱領は、当面する目標と長期の目標に分かれていた(脚注)
 当面する目標は、ボルシェヴィキを信頼できる国民的権力でもって置き換え、中央諸国と戦う、紀律ある軍隊を創ることだった。
 長期的目標は曖昧だった。
 Savinkov は、ロシアを民主主義政体にするために、憲法会議の新しい選挙をおそらくは戦争後に実施することを想定した。
 1923年にWarsaw で出版された回想録で、彼は、自分の組織には君主主義者から社会主義革命党員までの全ての党派の者を加入させた、と強調した(注148)。
 Savinkov は全員にとっての全てであり得たのであり、将来に関する独自で正式の計画を彼に期待するのは無益だっただろう。
 コルニロフがそうだったように、堅固な国民的権威の必要性と戦争の継続を主張した、という点だけは確かだった。
 Savinkov の同盟に加入するためには、ただ一つ、ドイツとボルシェヴィキの双方との闘争に参加しなければならなかった。
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 (脚注) Krasnaia Kaiga VChK, I (Moscow, 1920), p.1-p.42.
1924年のSavinkov の審問の際に(Boris Savinkov pered Voennoi Kollegiei Verkhovnogo Suda SSSR, Moscow,1924,p.46-47.)、彼は、正式の綱領があったことを否定した。
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 (10)  Savinkov は、チェカから隠した自分のテロリスト経験を生かして、その組織の構造のモデルを軍隊に求めた。
 彼の司令部のもとに、モスクワと地方諸都市に、職業的将校が配置される、骨格となる数十の「連隊」があった。
 これらの分団は相互に分離していて、直接の上部機関だけに知られていた。逮捕されたり裏切りがあったときに、チェカが組織全体を捕捉することができないようにするためだった(注149)。
 同盟員の一人に振られた女性が警察に訴え出た5月半ばに、このような編成でよかったことが証明された。
 チェカは、彼女に導かれて、医院を偽装していた、モスクワの同盟司令部を発見した。
 チェカは100人以上の同盟員を逮捕した(彼らは7月に処刑された)。しかし、この発見があっても、同盟は活動を二週間休止しただけで、チェカは、Savinkov を逮捕できなかったし、同盟を廃絶させることもできなかった(注150)。
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 (11) Perkhurov は自分のもとに、精巧な指揮命令の構造体のある、150〜200人の将校をもった。
 募集、諜報、対抗諜報、連合諸国との関係、軍隊の主要な分野(歩兵、騎兵、砲兵、兵術)のそれぞれ責任をもつ部門があった(注151)。
 チェカはのちに、「時計のような正確さ」で組織を動かしていたことについて、Savinkov とPerkhurov を褒めた(注152)。
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 (12) Savinkov は組織を築き上げたが、具体的な戦略構想がなかった。
 6月までに、行動すべきとの心理的圧力が増してきた。
 チェコ人とフランス人が援助金支給を止めたために、資金が枯渇していっており、彼の支持者たちの神経も、常にある裏切りの可能性を感じて擦り減っていた。
 宣誓証言によると、Savinkov は最初はモスクワでストライキをすることを考えていたが、ドイツ軍のそれに対する反応は首都モスクワの占領だろうと怖れて、この考えを放棄した(注153)。
 彼は、絶えざる噂を聞き、また、連合諸国は7月初めにArchangel とMurmansk への上陸を追加するとフランス代表部からの確認を受けて、蜂起の場所を中部または上部Volga の地域にすると決した。その地域から、チェコスロヴァキア軍とMurmansk にいる連合国軍の双方と連絡することができた。
 彼の計画が意図したのは、ボルシェヴィキを北部の港およびKazan や極東に接する地域から遮断することだった。
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 (13) ソヴィエトの法廷での審理に立った1924年、Savinkov は、こう主張した。何とか4日間持ちこたえることができれば、Archangel の連合国軍によって救出される、その後にフランス・イギリス・ロシア連合軍はモスクワへと前進する、とフランス人から固い約束を貰っていた、と。
 彼は、その約束がなければ、自分の蜂起は無意味だ、と言った(注154)。
 さらに、こう主張した。領事のGrenard は、連合国の上陸は7月3日と8日に行なわれる、またその期日のあいだに行動するのが絶対必要だ、というNoulens からの電信を、彼に見せた、と(注155)。
 この審理で彼が行なった証言によると、彼の活動の全てはフランス代表団と調整されていた。
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 (14) 残念ながら、Savinkov の言明は、額面通りに受け取ることはできない。彼は経験ある陰謀家として真実を全て語ることはない、という理由によるだけではなく、彼には完璧なウソを語る能力がある、という理由にもよる。
 そういうわけで、ある時に彼は、Fannie Kaplan によるレーニン殺害の企て(後述)について自分の功績の承認を要求した。だが、彼はそれと何の関係もなかった、ということが知られている。
 彼はまた、1918年7月にモスクワ国民センターの指示によって行動した、と述べたが、これも本当ではなかった(注156)。
 ボルシェヴィキは、母国の外国人恐怖を煽るために、自分たちに対する抵抗を全てを外国の陰謀と結びつけた。
 1924年にソヴィエト・ロシアでSavinkov が逮捕された後、彼は訴追官と取引をして1918年のフランス代表部でのクー未遂の責任を転嫁しようとした、ということはほとんど確実だ。なぜなら、研究者が利用できる連合諸國のこの期間の文書記録からは、この主張を支持できるに至る証拠は出てこないからだ。
 かりにフランス代表部が実際に反ボルシェヴィキ反乱を展開することを正当化していたのみならず、彼が主張するように、彼がモスクワを掌握するのを助けるという約束がさらに行なわれていたとすれば、そのような企ては確実に文書上の証拠を残しただろう。
 そのような証拠は存在しないので、Savinkov は、おそらくは自分の生命を救いたくてウソをついた、と結論しなければならない。
 指摘してきたように、Savinkov の、フランス人のGrenard との主要な連絡関係は、彼は「自分一人で」行動したことを証明した(脚注)。
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 (脚注) Michael Carley の最近の研究、Revolution and Intervention: The French Government and the Russian Civil War, 1917-1919 (Kingston-Montreal, 1983), p.57-60, p.67-70 は、むしろ、より直接的な責任をフランスに負わせる。しかし、Savinkov がその蜂起に関与した場合の一般的な援助の意味を混乱させるだろう。
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 (15) Savinkov はIaroslavl を、彼の蜂起の主要な場所に選んだ。これには、二つの理由があった。
 一つは、この都市の戦略的な位置で、鉄道によってArchangel をモスクワとつないでいた。このことは、攻撃的、防御的のいずれの作戦も容易にした。
 もう一つは、Savinkov が偵察のために派遣したPerkhurov は、Iaroslavl から、一般民衆の支持があるという勇気づける報告をもたらしていた(注157)。
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 (16) 最終的な作戦計画は、チェコ軍団の蜂起が最高に達していた6月末に作成された。
 Iaroslavl を指揮したPerkhurov には、組織するのに辛うじて10日間があった。
 Savinkov は、近傍のRybinsk での第二の蜂起を個人的に指揮した。
 第三の行動は、モスクワ・Kazan 鉄道路線上にあるMurom で行なうことが予定された。
 Savinkov は、Perkhurovによると、将校たちに、Archangel から連合諸国が援助するという固い約束がある、4日間を持ちこたえることができれば救出されるだろう、と語った、とされる(注158)。
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 (17) Savinkov は、Iaroslavl での蜂起を7月5-6日の夜に行なうと予定した。これは、左翼エスエルが彼らの反乱を実施する時刻に、数時間だけ先行していた。
 このような合致にもかかわらず、二つの反乱は調整されていた、ということを示すものは何もない。
 左翼エスエルとSavinkov は、全く異なる目的を追求した。左翼エスエルは、ボルシェヴィキが権力を保つことを意図していた。一方、Savinkov は、ボルシェヴィキの打倒を狙っていた。
 さらに、左翼エスエルが「反革命」将軍たちの代表と何らかの交渉をしただろう、というのは想定し難い。
 Savinkov は、もしも左翼エスエルの計画を知っていれば、きっと彼の最初の意向に従って、Iaroslavl ではなく、モスクワでクーを行なっただろう。
 レーニンがMirbach に語った、このような調整の欠如は、反ボルシェヴィキの対抗運動に典型的にあったことで、その運動が最終的には失敗した大きな原因だった。
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 (18) 敵を混乱させ、勢力の分散を強いるために、Savinkov とPerkhurov は、自分たちの複数の反乱がずらされた時間帯に起きるよう計画した。すなわち、Rybinsk での作戦行動は7月7-8日の夜に始め、Murom でのそれは翌日の夜に始める。
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 第13節、終わり。

2829/斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月22日記者会見(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月22日記者会見(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年5月22日(水曜日))」。
 太字化、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
 藤原弁護士=藤原正広氏(兵庫県弁護士会)。
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 ①
 記者:文書問題に関して、先日、丸尾議員から出されたアンケートの中に、「はばタンPay+」について書かれた告発がありました。
 その中で、第1弾で知事の顔写真が掲載されていなかったことに知事が激怒し、第2弾と第3弾の「はばタンPay+」のチラシデータには、知事の顔写真が載ったという、要約するとそのような事実が書かれていました。
 実際にそのような指示をされたのか、もしくは激怒された事実があったのか、改めてお伺いします。 
 知事:丸尾議員のアンケートの件は、私自身は詳細を見ていないので、現時点では個別の回答は控えておいたほうが良いかと思っています。
「はばタンPay+」のポスターやチラシの作成は、産業労働部がしっかり議論をして、効果的に事業効果を発信するために、どうすれば良いかということを考えて、その中で、おそらく知事の写真を使うという提案をされたと認識しているので、それが現時点の事実です。 
 記者:その説明であれば、知事の指示ではなく、産業労働部からの提案として上がってきたものを知事が採用したという説明でよろしいですか。
 知事:基本的には、産業労働部が部長を中心にして、効果的な事業発信をするにはどうすれば良いかということをしっかり議論して、その中で私とコミュニケーションしながら決めていったと認識しています。
 記者:そのアンケートに関連して、今年3月に尼崎の森で行われたユニバーサルマラソンの会場に設置されていた授乳室が、知事の意向で知事専用の控え室になって、実際に一般の利用者が使えなかった事実があることも書かれていました。
 職員の方に聞き取りをして、実際にそこの授乳室が知事の控え室になっていた事実があった上で、一般の方が利用できなかった事実も認められました。
 知事の意向とは言われなかったのですが、知事の受け止めをお願いします。
 知事:この件もアンケートの中で出てきたということですね。
 詳細については、個別にお答えすることは控えたいと思っていますが、事実としては、3月30日に尼崎の森中央緑地でユニバーサルマラソンがありました。これは世界パラ陸上のプレイベントとして開催しました。
 私は当日、公務がいろいろあったので、確かスーツで行き、そこで着替える必要があったので、担当部局が着替えるスペースを用意してくれたのだと思います。
 施設のスペースを一時使用したことは事実です。
 ただ、着替える部屋が用意されることは伺っていましたが、その部屋が授乳室であることは、私は正直認識していなくて、到着もかなりぎりぎりになって、バタバタと着替えて、外に行ったので、今回の取材等の指摘の中でそこが授乳室だったことを初めて認識したのが正直なところです。
 ただ、私が着替えた授乳室の代替場所も用意していたと担当からも伺っていますが、結果的に県民の皆さんに、ご迷惑、ご不便をかけたことはお詫び申し上げたいと思っています。
 今後は、担当部局ともしっかり連携して、県民の皆さんが普段利用されているような設備や施設は使わないようにすることを徹底していきたいですし、そのように指示をしているので、今回は本当に申し訳なかったと思っています。
 ②
 記者:最初に出た告発文の関連で、第三者機関での再調査を明言されたかと思いますが、それについての詳細など、現時点で決まっていることはありますか。
 知事:昨日、第三者機関の設置をする方向は示しました
 これについては、人選をどうするか、調査方法などについては、議会の意見も踏まえながら、検討していくことになるので、現時点でどのようにするかは、決まっていないと認識しています。
 これからだと思います。
 記者:第三者機関の設置はこれからだと思いますが、調査が進んで、知事がこれまで否定されてきていた事実がある意味、一転して認定されるようなことになれば、政治的責任を取るお考えはありますか。 
 知事:これから第三者委員会を開催して、外部の有識者の観点から調査していくことになりますので、まずはそこでしっかり調査をしていただくことが大事かなと考えています。
 記者:政治的責任についてはどのようにお考えですか。
 知事:そこは調査をしっかりやっていただくことが大事だと思っているので、現時点では、仮定の話はなかなか答えられないと思っています。
 大事なのは、昨日も申し上げましたが、県民の皆さんに、客観的な調査をしていくことが、県政の信頼性をより高めていくことにつながると思っています。
 そのために、今回、第三者委員会を設置して、しっかり調査をして、事実関係を改めて確認していくことが、大事なポイントと私自身は思っています。
 -------- 
 ③
 記者:文書問題に関してお伺いします。
 昨日、ひょうご県民連合から県の内部調査は、客観性や中立性が損なわれているということで、前県民局長への処分撤回と弁護士費用の支払いを公費以外から支払うよう求めると提出されたと思いますが、受け止めをお願いします。 
 知事:今回、実施した懲戒処分の調査は、昨日も申し上げましたが、人事当局が主軸となって実施して、そこに弁護士の助言なども受けて行いました。
 弁護士は県の調査の助言やサポートをする形で関わっていただきましたが、調査内容自体は適正なものだと考えています。
 記者:弁護士に関してですが、内部調査に協力した藤原弁護士は、疑惑の調査対象の団体の顧問弁護士であったことも明らかになっています。
 その中で、改めて知事自身は、弁護士が利害関係者に当たるか当たらないかという認識はどのように考えていますか。 
 知事:今回の件に関しては、人事当局が行った調査ですが、藤原弁護士の助言をいただきながら、適切に調査をしてきたという意味では問題ないと考えています。
 いずれしても、これから第三者機関を立ち上げて、実際どのようにするかはこれから決まっていくと思いますが、改めて、文書についての調査をしていくことになるのではないかと思っています。 
 記者:その弁護士が利害関係者かどうかは、すごく内部調査の疑義に関わるところだと思います。
 弁護士が利害関係者かどうかについて、知事としては県の調査に100%影響がないと考えていますか。 
 知事:繰り返しになりますが、懲戒処分の調査ですので、あくまで主軸は人事当局が行っています。
 懲戒処分の調査主権者は人事当局なので、そこは調査していく中で、弁護士のサポートをいただきながら、いろいろ調査してきたということです。
 調査内容や処分に関しても、適正であったと考えています。
 記者:弁護士に関して、今後、もし第三者委員会や第三者機関が設置された場合に、県民から疑惑が持たれていることもあるので、藤原弁護士を第三者委員会のメンバーに入るかどうか、どのように考えていますか。 
 知事:実際にどの方がメンバーに入っていただくかは、これから準備をしていく中で決まっていくと思います。現時点では何とも言えません。
 客観性、中立性を担保できるような人選になっていくのだと考えています。
 記者:入れるかもしれないということですか。 
 知事:わかりませんが、基本的には、今まで人事当局の調査はそこでやってきました。
 今回、知事部局から独立して第三者機関を設置することが、昨日の議会からの申し入れもあったので、私自身はそれが良いと判断しました。
 そのような意味では、この流れの中で適切な弁護士など、どのようなメンバーにするかは、今の指摘もおそらく踏まえながら、適切にどのようなメンバーにするかは、皆さんが客観的に見て、このような人であれば、合理性、客観性があるという方に決まっていくと思っています。
 記者:文書問題に関して、改めて第三者機関を設置することになった経緯を改めて説明していただけますか。
  知事:今回の件に関しては、人事当局が調査をして懲戒処分を行いました。
 この調査は、私自身としては問題なく適正であったと考えています。処分内容についても適当なものだと考えています。これは今でもそうです。
 一方で、先日、議長や県議会からも要請がありましたが、県民の皆さんにより十分に説明責任を果たしていくこと、県政をさらに前に進めていくために、より信頼を高めていくことが大事だと思います。
 これまでも、様々な指摘を受ける中で、外部の方に入っていただいて調査することも必要ではないかと考え、熟慮、検討を重ねてきました。
 昨日、改めて議会から第三者機関の設置の要請を受けました。
 基本的に私が判断しましたが、二元代表制の一翼である議会からも要請を受けたことを重く受け止めて、今回の文書問題を調査する第三者委員会を設置することが必要だと判断したのが経緯です。
知事:スケジュールや委員の人選、どのような調査をするのかなどは、どこが準備していくかも含めて、これからだと思います。
 知事部局から独立したところが、議会の意見も踏まえながら、準備をしていきます。
 昨日、議長からは監査委員という一つの提案もいただきましたが、その点も含めて、これから準備作業をするための準備をどうするかが決まっていくのではないかと思っています。 
記者:第三者機関は、なるべく早めに早急に設置するべきだという指摘もある中で、いつまでに設置するなど、考えはありますか。 
 知事:昨日、設置をする方針を示したので、できるだけ速やかに設置することが望ましいとは思います。
 具体的にどのタイミングで設置するか、メンバー、スケジュールは、これから決まっていくことになるのではないかと思っています。
 記者:第三者機関の設置は、昨日の話では、事前に準備会などを開いてという話が内藤議長からもありましたが、今後、どのような対応を取っていくのか、お聞かせください。
 --------
 ④
 記者:先ほど丸尾議員のアンケート調査についてのお話がありました。
こちらの内容については、知事は確認されていないということですか。
 知事:詳細については、私は拝見していない状況です。 
 記者:ただ、丸尾議員が調査を行って職員からのアンケートでこのような指摘が、21件出てきたということで、知事の言動や幹部職員の言動についての疑惑がアンケートで集まったことについての受け止めは何かありますか。
 知事:丸尾議員のアンケートについては、詳細はまだ承知していませんが、そのような意味でもコメント自体は差し控えたいなと思っています。
 いずれにしても、今回の文書問題に関して、これから第三者機関を設置していくので、そこでこの文書問題に関する調査が改めて行われることになるのではないかなと思っています。 
記者:知事の発言の中で、先ほど議会からの意見も踏まえてという話もありました。
 丸尾議員も1県議としての申し入れを、2回ほどしていて、内容を詳細まで見ないのは何か理由があるのでしょうか。
 知事:今の状況として、詳細は見ていないというところです。
 いずれにしても議会からは、より客観的に調査するために、第三者委員会を設置するべきだという要請をいただいたので、それに沿って、これから準備と対応をしていく形になります。
 --------
  ⑤
 記者:今回の文書問題について伺います。
 メンバーや設置時期、監査委員会などの声もある中で、これから検討を進めていくという発言があったと思います。
 現時点で、藤原弁護士の件も出ており、いろいろ疑義が持たれてしまったこともありますが、知事としては、第三者機関の委員やメンバーは、どのような方が一番望ましいと現状で考えていますか。
 知事:具体的にこのような方が良いとかは、言及することは差し控えた方が良いと思います。中立性の確保が大事だと考えています。
 事務局をどのようにするか、昨日は監査委員という話もありましたが、それ以外にも委員の選定などをきちっと一つ一つ手続きを踏まえながら、委員のメンバー選定も含めて決めていくことが大事だと考えています。
 一歩一歩やっていくことが、県民の皆さんへのより十分な説明をしていくことにつながっていくと考えています。
記者:できるだけ速やかに設置時期などを議論していくという話がありました。
 知事として、これだけいろいろと世間を賑わせている話題でもあり、早く真相を知りたい方もいると思います。
 知事としては、いつまでにこの問題の結論を出したいなど、何か考えていることはありますか。
 知事:第三者委員会がどのような調査期間でやるかにもなると思います。
 これから第三者委員会が設置されて、どのように調査していくかという中で決まっていくことなので、現時点で私がこれだけのタイミングの中でなどを言及するということは、差し控えたいと思っています。
 一方で県の業務を、しっかり前に進めていくことも大事だと思いますので、毎日の県政の政策立案や行事やイベントについては、きちんと全力で対応していきたいと考えています。
 記者: 昨日の要請書の件に関して、内藤議長から準備会の立ち上げを内藤議長の任期中(6月)にして欲しいというような要望もありました。
 知事として、準備会を立ち上げるつもりがあるかお伺いします。
 知事:今回の第三者委員会が、より客観的に調査をしていく意味でも、どのような委員構成や内容にしていくかが大事だと思います。
 そのような意味でも、何らかのこの準備をするための枠組みが重要だということが議長のご指摘だったと思います。
 その辺りどうするか含めて、これからの検討になるかと思っています。 
 記者:スケジュール的には、議長からは6月までにはというようなお話がありました。準備の枠組みとして、時期など考えていますか。
 知事:できるだけ速やかに設置していくとことが大事だと思っています。
 それに向けて関係する方々としっかり協議をしながら、準備を進めていくことになると思っています。
 記者:昨日のぶら下がりの中で、準備の進め方や設置の検討過程など必要なプロセスは県民にしっかり説明していくと言われていました。
 一方で議員がそのような準備組織に参画するのであれば、県民の皆さんへの説明が一定オープンになっているのではないかということも言われていました。
 議会の議員を準備組織に選んだ場合、県民への検討過程の説明は、それに変わるようなニュアンスに捉えたのですが。
 県民の信頼性を高める意味であれば、議会のみならず、記者会見の場でも説明していただくことが望ましいのかと思います。
 議会以外にも説明される場は予定されているのでしょうか。
 知事:決定プロセスをどうするかを含めて、これから議論をして、決めていくことになるかと思います。
 もし準備組織を作るのであれば、そこが主体となって、作っていく形になるので、その準備組織自体が、どのように説明をしていくのかも大事だと思います。
 それを私が改めて言うのが良いのか、それか中立性の観点から好ましいかは、しっかり議論しなければと思っています。
 記者:文書問題で、これまで手続きについては、適切だったという認識を示されていたかと思います。
 昨日、県議会が無所属や共産党を含む全会一致で第三者機関を設置するべきだとの要請があり、二元代表制の一翼を担う議会の決定は重いと言われていたと思います。
 全会一致というのは珍しいケースかと思います。知事の最初の第三者委員会を設置しない方針について異議を唱えられたと部分があると思います。
 昨日は吉村知事も疑義があるなら内輪で判断すべきではないと言われていました。
 これまでも指摘されていますが、3月の会見で知事が嘘八百という発言されたことに対して、撤回すべきであるというような県議会からの意見もあり、知事の初動ミスであるような指摘が高まっている気がしますが、この初動ミスであることに対する知事の受け止めをお聞かせください。 
 知事:人事当局の調査や処分も含めて、その都度、私自身は適切に判断して対応してきたと考えています。
 いろいろな指摘があることは事実で、そこは真摯に受け止めなければと思っています。
 今でも、やはり今回の人事当局の調査、対応は適切だったと考えています。
 様々な議会からのご指摘、そして昨日の議長からの要請を受ける中で、第三者機関の設置が必要だということを、私自身もこれまでも熟慮、検討を重ねてきましたが、今回、改めてそこを判断させてもらったということなので、一つ一つのプロセスを私自身は適切に積み重ねてきたと捉えています。
 記者:反省点というのは、基本的にはなかったと考えているのでしょうか。
 知事:いろいろな指摘があるので、この問題をきちっと調査、これからまたしていく中で、最終的に振り返ったときにどう捉えるかは、また改めて考えていく形になると思います。

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 ⑥
 記者:先週、総務常任委員会で一部の県議が、阪神・オリックス優勝パレードを担当していた課長が自死されたことを指摘されていましたが、県としてはその件については認められないのでしょうか。 
 知事:個人情報に関する事柄なので、お答えができないということです。
 記者:個人情報というのは、個人情報保護法に基づく個人情報のことを言われているということでよろしいですか。 
 知事:詳細は、人事当局から答えさせますが、いずれにしても、個人情報に関することなのでお答えできないというのが、今の私のスタンスです。 
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 ⑦
 記者:先ほど話に出た、藤原弁護士の件でお伺いします。
 関係性だけ見れば疑惑で指摘されている団体の顧問弁護士で、いわゆる利害関係者に当たると見えるのですが、改めて利害関係者に当たるかどうかは、どうお考えでしょうか。
 知事:私としては、人事当局が行った調査は、懲戒処分の調査としては適正にやっていただいていると考えています。
 調査の主軸は人事当局なので、そこに弁護士の助言を得て処分を行ったというものです。プロセスについても適正であったと認識はしています。
 記者:弁護士は、あくまでも調査の中の主ではなく、サブ的な役割だというご説明だと思うのですが、改めて伺います。
 お聞きしているのはそこではなく、利害関係者に当たるのかどうかをお尋ねしているのですが。
 知事:私としては法的な問題もあるので、今の時点で明確に答えることはできないということです。
 後程、必要があれば人事当局から調査をした担当部局ですから、そこから説明をしていただくことが良いかと思っています。
 いずれにしても、人事当局の主となる調査としては、対応としては適切であったと私自身は捉えています。 
 記者:法的な問題というのは、後日、裁判などになった時に、利害関係者に当たるかどうかが一つの論点になりうるから答えられないということなのでしょうか。
 知事:そのような意味よりも、利害関係者というのが法的な言葉なので、そこがどうなるのかというところは、私としては今の時点で答える材料がないのでコメントできないということです。
 そのような観点から、より詳細に人事当局の方から、後程、説明をさせていただきたいと思います。
 記者:なぜ詳しくお尋ねしてるかというと、もし利害関係者であるということになれば、今回の内部調査に問題があったということに繋がると思います。
 そうなれば、今回の内部調査自体を撤回する可能性も出てくるのではないかと思うのですが、そこについて、お答えいただけないですか。 
 知事:繰り返しになりますが、調査の主軸は人事当局が行ってるということです。
 そこに弁護士のサポートをいただいたということなので、あくまで人事当局が調査した結果としての対応ということです。
 様々な項目について、あくまでメインは人事当局が調査して、そのサポートを弁護士がやったことになるので、現時点では適正であったと考えています。
 記者:先ほどの弁護士の件ですが、利害関係者かどうか、今は答えられないということですが、そもそも、兵庫県信用保証協会の基金の4割弱が兵庫県から出資されていると聞いています。
 普通の株式会社などと単純比較はできないと思うのですが、兵庫県のお金が大きく入っている、かつ、兵庫県の幹部職員の天下り先で、現理事長、専務理事も兵庫県の職員のOBであり、片山副知事もそこの理事長の出身であると聞いています。
 兵庫県の幹部職員やお金も入っている組織の中で、20年間顧問弁護士を務めてきた方が、兵庫県に対して、いわゆる公正で中立的な判断ができるかといったら、一般企業の考え方からすると難しいと思いますが、そこに対して、斎藤知事のお考えをお聞かせください。
 第三者的に見て、そうした利害関係がある所に20年勤めてきた顧問弁護士が公正にジャッジできると思われますか。 
 知事:今回は、弁護士が調査の主体としてやっているというものではなく、あくまで人事当局が懲戒処分の調査権限があるので、そこが、多分、大事なところだと思います。
 あくまでも、人事当局が調査をしてジャッジをしていくことになっていきますが、そこに弁護士が法的な指摘も受けてサポートいただきました。
 その上で委員会にかけて、調査を決定したことになりますので、そのような意味では人事当局がきちっと主となって調査をして、そして処分内容を決定した意味では、適切だったと考えています。
 人事当局:人事当局が行った調査の内容や手続き、処分の量定等に疑義がある場合の制度としては、被処分者、今回の場合であれば元西播磨県民局長になりますが、その被処分者が、人事委員会に審査請求を行うことができるような制度はあります。
 もし疑義等があれば、そのような対応がなされるものと認識しています。
 記者:そのような通報制度があるのはわかりますが、改めて最初に選ぶ弁護士として適切だったかどうかで言うと、今も適切だったとお考えですか。
 知事:私がどの弁護士を選んだかということではないのがまず1点です。
 人事当局が、調査をする中で、様々な方の意見を聞きながら、当該弁護士をサポートの対象として選んだということです。
 いろいろな指摘があると思いますが、現時点では人事当局の調査対象のプロセス含めて適切であったと考えています。 
記者:藤原弁護士は斎藤知事を聴取していると思いますが、聴取をした段階で斎藤知事は県信用保証協会の弁護士である藤原弁護士が聴取をしているという認識はありましたか。
 知事:認識はなかったです。
 記者:どの段階で顧問弁護士だとご存じになりましたか。
 知事:報道を見てです。
 記者:聴取を受けている段階では、知らずに聴取されていたということですか。
 知事:そうです。
 記者:県信用保証協会は、先ほども指摘がありましたが、公金で保証する協会で、幹部職員の天下り先の顧問弁護士だということも、聴取を受けた段階では知らなかったということですか。
 知事:県信用保証協会の人事は、当然私自身も認識しているところはありますが、顧問弁護士がどなたかは、そもそも承知はしていません。
 記者:お名前を聞いても知らなかったということですか。
 知事:今回、聴取を受ける段階等で初めてお会いした方です。
 そして、聴取を受けている段階では、協会の顧問になっていることは存じ上げていなかったので、報道で初めて知ったということです。
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2828/R.パイプス1990年著—第14章㉓。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第13節/Savinkov の秘密組織①。
 (01) 全く偶然の一致だったのだが、まさに同じ日に、もう一つの反ボルシェヴィキ反乱が勃発した。1918年7月6日の朝、北東部の三つの都市、Isroslavl、Murom、Rybinsk でだ。
 Boris Savinkov によるもので、この人物は反ボルシェヴィキの陰謀者として、最も組織立った、最も企画に富んだ者だった。
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 (02) Savinkov は1879年にKharkov で生まれ、ワルシャワで二次教育を受けた。そのあと、ペテルブルク大学に入学した。
 彼は1989年のストライキを含む大学騒擾に関与し、すみやかに戦闘組織で指導者たる地位まで昇った。その組織の能力を利用して、彼は、Plehve やSergei Aleksandrovich の暗殺といった大きなテロリストの任務を実行した。
 1906年に、警察工作員だったEvno Azef に裏切られてOkhrana〔チェカの後継の秘密警察〕に売られたとき、彼のテロリスト活動は止まった。
 Savinkov は死刑判決を受けたが、外国に逃亡し、地下の革命家に関する小説を書いて、二月革命が勃発するまでそこにいた。
 戦争は、彼の愛国心を刺激して覚醒させた。
 1917年二月までフランス軍に務め、そのあとロシアに戻った。
 彼は、臨時政府によって前線の政治部員に任命され、ますます民族主義的で保守的になった。そして、既述のように、ケレンスキーの下で戦争省の部長だった1917年の夏に、コルニロフとともに軍隊の紀律の回復のために働いた。
 ロマンティックな冒険体験に包まれて、彼は、明確で説得的だとの強い印象を与えた。Winston Churchill に対しても。
--------
 (03) 1917年12月、Savinkov は、Don 地方へ向かった。そこで、義勇軍の設立に参加した。
 Alekseev の頼みに応えて、有力な公的人物と接触すべく、ボルシェヴィキ・ロシアへと戻った(注139)。
 その任務は、政党帰属いかんを問わず、ドイツおよびその傀儡と戦い続けたいと考えている将校や政治家たちの協力を得ることだった。
 彼は、過激な過去と最近の愛国主義の履歴のおかげで、この任務に理想的なほど適していた。
 Plekhanov、N.V. Chaikovskii、「防衛主義者」を支持するその他の社会主義著名人と、彼は話した。だが、ほとんど協力を得られなかった。少しの例外はあるが、彼らは、民族主義的将校たちに協力するよりも、ボルシェヴィキが自ら崩壊していくのを待っていたからだ。
 Plekhanov は、「私は人生の40年間をプロレタリアートに捧げた。プロレタリアートが間違った途を歩んでいるとしてすら、労働者を射とうとしはしない」と言って、Savinkov を受け入れることすら拒んだ(注140)。
 除隊した将校、とくにエリート護衛兵や近衛連隊に勤務した者たちを選んだ方がよかった。
 --------
 (04) 主要な問題は、金がなかったことだった。貧しくて、路面電車の切符すら購入できなかった。
 軍隊を設立するために、彼は、将校たちに手当を支給しなければならなかった。彼らを雇用しようとする者はいなかったので、ほとんどの将校たちは極貧だった。
 Savinkov は、資金を得るために、連合諸国の代表部へと向かった。
 彼の私的な計画では、ボルシェヴィキ体制に反対するクーの手始めとして、レーニンとトロツキーの暗殺が謳われていた。
 しかし、彼は知ったことだが、ロシアが中央諸国と戦闘しているかぎり、誰がロシアを統治するかに、連合諸国は大した関心を持っていなかった。
 実際に、まさにこの頃(1918年3-4月)、フランスはトロツキーが赤軍を組織するのを援助していた。
 Savinkov はそのゆえに、連合諸国代表部に自分の本当の政治的目的を隠し、唯一の目標はロシアの軍事能力を回復して対ドイツ戦争を再開することにあると考えるロシア愛国者だと自称した。
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 (05) 最初に助けたのは、Thomas Masaryk だった。
 このチェコの指導者がSavinkov を援助した動機は明確ではない。Masaryk は1918年早くに、チェコ人をロシアから退避させるためにボルシェヴィキと交渉していたからだ。また、反ボルシェヴィキ活動に関与することの利益は想定し難かっただろう。
 彼の回想録では、こう書いている。Savinkov と逢うことに、好奇心から同意した。だが、「革命」と「テロリスト行為」の区別を理解できないように見える人物で、その道徳的基準は「血の復讐という原始的レベル」を超えていないことに、きわめて失望した(注141)。
 しかし、これは後知恵だっただろう。
 Masaryk が1918年4月にSavinkov に最初の金、20万ルーブルを与えたのは、確かなことだ(注142)。
 このような交渉についての考えられ得る説明は、偽装に長けたSavinkov がMasaryk を、ロシア中部で反ドイツ部隊をAlekseev の義勇軍が設立するのを助けるために使用される、と説得した、というものだ。
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 (06) Savinkov は、Lockhart やNoulens とも接触した。
 Lockhart は、ボルシェヴィキの鼻先で反ドイツ部隊を設立するというSavinkov の提案に、懐疑的に反応した。だが、Savinkov の魔法にかかりすぎていたので、外務長官のArthur Balfour から「Savinkov の計画といかなる関係も持つな、その計画をさらに検討することを避けよ」、という絶対的な指示がなかったならば、Savinkov を助けていたかもしれなかった(注143)。
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 (07)  Noulens はロシア領土内に多民族の反ドイツ部隊を設立すべきという考えの主唱者で、より協力的だった。
 彼は、Savinkov はとても印象的な人物だと見た。
 「無感情を不思議に表現していた。僅かに開いたモンゴル的まぶたの下から光る動かない目つきをしていて、唇はじっと閉じたまま。まるで彼の秘密の思いを隠したいがごとくに。
 対照的に、彼の経歴と外貌は西洋的だった。
 彼の中には、一つの人種の全てのエネルギーともう一つの人種の巧妙さや神秘さとが結びついていた。」(注144)
 Noulens は5月初めに、50万ルーブルをSavinkov に与えた。それに追加の援助金もあって、総額では250万ルーブルに昇った(注145)。
 確定できるのはこうだ。この資金は軍事目的のために、主としては義勇軍の経費のために使われたが、いくらかは連合諸国の軍事諜報のためにドイツ戦線の背後での仕事のためにも用いられた(注146)。
 Noulens はボルシェヴィキ体制打倒のためにSavinkov と共謀した、彼はSavinkov の革命的謀略を知ってすらいた、ということを示す信頼し得る証拠はない。
 Noulens はSavinkov から、ロシアのその他の諸政党、たぶん親連合国の民族派の中央、と彼とのあいだを調整する、という約束を引き出していた。
 しかし、Savinkov はこの約束を守らなかった。自分の計画を秘密にしておくために、親連合国派を信頼できなかったからだ。
 Grenard は、その回想録でこう書いた。Savinkov が1918年7月に反乱の狼煙を上げたとき、「ロシアのその他の諸政党と協力して行動する以外には何も企てないという約束を破って、自分自身のために行動した」(注147)。
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 (08) Savinkov は、チェコ人とフランス人からの資金に助けられて、募集活動を拡大し、1918年4月までに、5000人以上を、自分の組織、祖国と自由防衛同盟、へと入隊させた。うち2000人はモスクワにおり、残りの者たちは34の地方都市にいた(脚注)
 彼らのほとんどは将校だった。Savinkov は武装行動を計画しており、知識人、そして知識人のお喋り(boltovniia)はほとんど役立たなかったからだ。
 Savinkov は副官として、24歳の職業的砲兵将校で帝国総合幹部学校の卒業生のA. P. Perkhurov 中尉を選んだ。優秀な戦歴と伝説的勇気をもつ人物だった。
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 (脚注) Boris Savinkov, Bor’ba s Bol’sheviksmi (Warsaw, 1923), p.26.
 A. I. Denikin, Ocherki Russkoi Smuty, III (Berlin, 1924), p.79. は、実際の数字は2000〜3000だった、とする。
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2827/斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月14日記者会見(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月14日記者会見(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年5月14日(火曜日))」。
 太字化、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者:
  文書問題に関して、今月9日にひょうご県民連合が第三者機関の設置を申し入れて、本日も石井秀武議員が申し入れをされました。
  改めて第三者機関の設置についてのお考えをお伺いします。 
 知事:
  今回の案件について、5月9日にひょうご県民連合から申し入れがあったことは承知しています。今日も石井議員から申し入れがあったことも承知しています。
  繰り返しになりますが、今回の件に関して、人事当局が懲戒処分にあたって弁護士にも相談しながら、文書に関する調査、対応を行いました。
  一定の第三者性が保たれてますし、客観性があるということで、処分の実施や内容については問題ないと私自身は考えています
  一方で、県民の皆さんにより十分に説明責任を果たしていくことも必要だという意見も見受けられます。
  我々としては、人事当局の行った調査は十分客観性があると今でも認識していますが、より説明責任を果たしていくべきだという意見もあります。
  今日もいろいろな施策を説明しましたが、県政をさらに前に進めていくためには、より信頼を高めていくことも大事だと思っており、今回の調査結果等について、外部の方に調査をしてもらうなり、しっかり説明責任を果たしていくことも大事だと思っています。
  この件は、県議会の動きなども踏まえながら、今後、どのような形で行うのが良いのかを、熟慮、検討していきたいと考えています。
 記者:
  議会の動きを踏まえつつというのは、例えば百条委員会など、具体的にどうなれば検討をしていくか、考えはありますか。 
 知事:
  議会の動きも踏まえながらです。
  まずは我々としてどうするべきかをしっかり熟慮、検討していくことになるのかと思っています。 
 記者:
  今回、公益通報を元西播磨県民局長がされて、吉村知事が9日の会見で第三者の通報機関を設置すべきだというご意見も出てきました。
  また、通報内容も、第三者の弁護士や専門家の意見を踏まえることが重要だという意見も出ましたが、改めてこのような意見を踏まえての知事の考えをお聞かせください。 
 知事:
  今の公益通報は、庁内に窓口を置いており、調査をして、是正が必要であれば、外部の委員に諮ってから是正措置をしていくことで、一定の客観性や外部性はあるとは思っています。
  そのような中で、今回、公益通報の窓口そのものについて、いろいろな指摘があることも承知しています。
  今回の事案をしっかり、見定めながら、今後、公益通報の窓口は外部に置いていくことを含めて、しっかり検討していきたいと思っています。
 記者:
  第三者機関の設置に関して、熟慮、検討していくということですが、設置すると決定されたわけではないのでしょうか。 
 知事:
  その可能性も含めて、今後、熟慮、検討していくということです。
  当然、二元代表制の一翼である議会側からも、既に複数の申し入れがありますし、議会側の動きも見据えながら、まずは私として、どのように対応していくかということです。
  やはり、先ほど申し上げましたが、今回の人事当局の調査自体は、弁護士にも入ってもらって、十分調査としては対応できていると思っています。
  より前を向いて、今後、県政を進めていくためには、県民の皆さんへの十分かつ丁寧に説明責任を果たしていくことも大事だと指摘もされていますし、私自身もそのように感じつつあるところなので、そのような観点から、外部の方に入っていただき、調査をしてもらうことも、一つの必要な説明責任の果たし方だと思っており、その辺り含めて、熟慮、検討していきたいと思っています。 
 記者:
  先週の会見では、第三者機関を設置しない、弁護士の先生もそのように仰っているので、そうだと思うと発言されていました。
  この判断を変えられた理由は、県議会からの意見があったところが大きいのでしょうか。
 知事:
  そこも一つありますが、県議会側にも様々な意見があります。
  正式に申し入れが来たもの以外にも、多様な意見もあるといろいろな形で伺っています。
  そもそも今回の事案について、より一層の説明責任を果たしていくためにも、そのような外部の方を交えて、我々が今回行った調査結果の内容も含めて、見てもらうことが、大事かと私も日々、考えたりします。
  そのような中で、今後さらに熟慮と検討を進めていきたいと思っています。 
 記者:
  熟慮、検討されて、概ね結論を出される時期の見通しありますか。 
 知事:
  そこはまだ決まっていません。 
 記者:
  第三者機関を設置するにあたり、一番重要なのは、委員の選定だと思いますが、委員の選定など、知事の中でイメージはありますか。 
 知事:
  まだ、熟慮、検討してる状況なので、具体的なものがあるわけではありません。
 記者:
  公益通報に基づく調査自体も進められていると思います。
  その調査との関連ですが、人事当局の調査があって、公益通報に基づく調査も続けていくのか、さらに第三者機関による調査も行うのかお聞かせください。 
 知事:
  公益通報についても、私が直接関与しているわけではありません。
  財務当局が実施していますが、基本的には、そのプロセスを止める理由がないので続けていく形になると思っています。
  そこに関しては、財務当局に聞いてもらえばと思います。 
 記者:
  第三者機関が調査するかどうかにもよりますが、基本的に公益通報の調査結果は公表されるケースがほぼ無いと思います。
  今回は注目を集めているケースで、公益通報についても通報者が公表されている異例の事態かと思いますが、公益通報の結果を公表するのか、今後、調査を始められると思いますが、第三者機関の調査自体は公開になるのかお聞かせください。 
  知事:
  そこも、まずは公益通報のプロセスは、財務当局に確認していただいたら良いと思います。
  また、第三者機関の公開は、熟慮、検討していく中で、どうしていくかになると思うので、具体的にどうするかまでは定まっていないと思います。 
 記者:
  公益通報の調査結果は、おそらく通常のやり方だと非公表のままだと思います。
  今回は、知事の判断にも関わってくると思いますが、関与するつもりはないのでしょうか。 
 知事:
  おそらく関与する余地がないのかと思います。
  改めて財務当局に確認をしてもらえればと思いますが、今、決められているルールに沿って調査をし、調査結果をどのように公表するのかも含めて、財務当局が委員の方と議論をしていくと思います。
  確か是正の必要性が何か出てくれば、委員に諮って公表されると思います。そういうことが出てくれば、公表することもあると思います。 
 記者:
  説明責任に関して、第三者機関が調査することが決まれば、第三者関からの報告書等が出てくるかと思います。
  先週の段階では、どのような発表の仕方をするかは検討したいということでした。現時点ではどの段階で知事から説明しようと思っているのか教えてください。
 知事:
  現在、公益通報の調査があって、今後、外部の方に入っていただいて、調査をしてもらうことも含めて、熟慮、検討していくことになります。
  どの段階で私自身が説明するのかは、現時点では決められないと思います。 
 記者:
  調査中の段階では説明はできないということですか。 
 知事:
  基本的に調査をしてる時には、調査の当事者が説明することは、よほどの何かがあれば別ですが、基本的には難しいと考えています。
  今後、どのような形で進めていくかによって変わってくると思います。 
 記者:
  第三者機関を設置するのであれば、調査の対象となるのはどの範囲なのか、挙がっている7項目なのか、懲戒処分全体の話なのかを教えてください。
  また、懲戒処分結果に対してもおそらく影響が出てくると思いますが、その見解を教えてください。
 知事:
  そこは、たぶん、私が、内容や調査の立て付けをどうしてくかを、あまり言う立場ではないと考えています。
  今後、外部の方に入っていただいて、調査をしていただくことを熟慮、検討していく中で、より客観性を保つためにはどうすれば良いかを、関係者の方で話し合ってもらう。そこには、議会が一定このような方向が良いのではないかということも一つあるかもしれません。
  二元代表制なので、県政全体をしっかり前に進めていくために、このような形で合意形成していくのも一つのあり方かと思いますが、私自身がこうして欲しいという立場ではないと、今は、思っています。 
 記者:
  処分が覆るかもしれないという結果についてはどうですか。 
 知事:
  現時点で人事課の調査は十分されて、処分を決定したと思っているので、仮定の話については、明確にお答えするのはなかなか難しいと思っています。 
 記者:
  文書問題に関して、先日、ひょうご県民連合が記者に対して説明を行った際に、兵庫県の財務規則では、寄附で物品を受け取る際には、寄附申出書を徴収しなければならないが、コーヒーメーカーの時は寄附申出書が提出されていない可能性があるというお話がありました。
  実際に原田産業労働部長がコーヒーメーカーを受け取った際には寄附申出書を、実際に処理していたかどうかを教えてください。
 知事:
  私は知りません。その辺りは担当の方から。
  社会通念上の儀礼の範囲内で、一定そのような地域の産品などをいただくとことはあるとは思います。
その都度、そのような手続きをしていたかどうかは、ケース・バイ・ケースだと思います。
  今後、今回の事案を含めて、いろいろ調査をしていますが、最終的には贈答品などのルールをきちっと定めていくことが、私は大事だと思っており、しっかり検討していく課題だと思います。
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 記者:
  文書問題に関して、先ほど第三者機関の設置を熟慮、検討するというお話がありました。
  逆に言えば今の段階で設置すると言い切れない、引っかかっている理由は何があるのでしょうか。 
 知事:
  先ほど申し上げたとおり、私としては、人事当局が行った調査は十分調査をして対応してきたものだと今でも思っています。
  繰り返しなりますが、より十分な県民の皆さんへの説明責任が必要だという意見もあるので、県政の信頼をこれから回復していくためにも、そのような外部の方に入っていただいて、調査結果をしっかり調査してもらって説明責任を果たしていくことが大事だと考えつつあります。
  これから議会側も、既に5月9日に申し入れをされていますが、議会側もどのような考えがあるかをしっかり伺って、そこを踏まえて対応していくということが大事だと思います。
  特に二元代表制になるので、当局側の知事と議会がしっかり今回の問題も含めて意思疎通をして、どのような形でやっていくべきかを、一定、合意形成をして、きちっとやっていくことを検討していきたいと思っています。
  今の時点で、どうこうと言うよりも、しっかり熟慮、検討していくにはもう少し時間がかかるのではないかというのが率直な思いです。 
 記者:
  第三者機関を設置することは考えているけども、具体的な中身ややり方などは、これから熟慮していく考えでしょうか。
 知事:
  中身やどのようにするかは、多分、私がこのようにしたいとか、このようにしてということを最終的に決められる立場では無くなってくると思います。
  繰り返しになりますが、県議会の中にもいろいろな意見があると思います。今の時点で調査は十分に尽くされており、もう良いのではないかという意見もあれば、やはり説明責任をしっかり果たしていく意味でも、作った方が良いのではないかなど、いろいろ意見があると思います。
  それを伺って、どうするかを、最終的に、熟慮、検討して定めていきたいと率直に思っているところです。 
 記者:
  知事が最終的に全体像を考えるのではなく、議会との対話の中で、第三者機関のあり方、中身をどうするか、対話を通じて考えていくということですか。 
 知事:
  最終的には、県が執行者なので、中身をどうするかは別にして、どうするかはおそらく知事が予算も含めた執行権者なので、どうするかを判断していかなければいけないと思います。
  その過程の中で、議会側も含め、ご意見を伺いながら最終的に判断をしていくことになると思います。 
 記者:
  先ほどの質問に関連して、前回の会見までは、第三者機関は一切考えていないとのことでした。
外部の方を含めた第三者機関を設置することの必要性を一番強く感じられたのは、どのようなやりとり、どのようなきっかけだったのですか。
 知事:
  元々、完全に否定していたというよりも、今やっているプロセス、人事当局の懲戒処分に関する調査が、弁護士を入れた中できちっとやっているので、そこで一定の客観性と第三者性、公益通報のプロセスも含めれば、今の時点ではこれで十分ではないかとの見解を述べてたというのが事実だと思います。
  今でもそこは、そのような考えもありますが、やはり日々、自分の中でもいろいろ考えていく中で、議会側もいろいろなご意見があります。
  そして、県民の皆さんの中でも、斎藤県政をもっと前に進めて、若者・Z世代対策を含めて、どんどん施策を前に進めていくためにも、今よりも、もっと十分な説明責任を果たしていくことが大事ではないのかなど、いろいろなご意見もあります。
  そのような中で、私自身もこれからしっかり説明責任を、すでに調査結果が出ていますが、その内容も含めて、外部の方に見てもらうことが必要かどうかを議会側の意向も踏まえながら、熟慮、検討していきたいという心の内になってきたというのが、現在の状況です。 
 記者:
  今回、7点の指摘の中で、県庁内部からの声で、いわゆるパワハラに当たるのではないかという行為が様々なところから声があるとの指摘がありました。
  熟慮するにあたって、県庁内部からの声、ご自身の部下からの言動や行為が、もう一度見直すことに繋がったということはありますか。
 知事:
  そのようなことというよりも、報道であったり、県議会の意見、あとは自分の中でいろいろ考えたりすることがある中で、より説明責任を果たしていくため、外部の方に今回の調査結果を含めて対応していくことも大事なポイントではないかと考え始めたところです。
  これから、県議会からの意見なども伺いながら、最終的に熟慮、検討して判断していきたいと考えています。 
 記者:
  熟慮、検討していくために、議会との対話の場を知事として設けられるのか、どのような形で検討を進めていくのか、何か考えがあればお聞かせください。 
 知事:
  今のところ具体的なものはありませんが、議会からもいろいろな会派が申し入れをされつつある中で、おそらく議長含めて各会派の方々は、どうすべきかを考えていく状況になる可能性もあります。
  その中で、どのタイミングで誰とどうすべきか、おのずと定まっていくと思っています。
  今の段階で、こうしたい、このタイミングでしたいことがあるわけではありません。 
 記者:
  説明責任という言葉が出てきましたが、知事は3月末の会見で事実無根という発言をされました。
  知事自身が、文書内で書かれている疑惑は、その一つ一つをこれまで説明はされてこなかったかと思います。
  その説明責任はどう考えているのでしょうか。
 知事:
  説明責任は、私自身が説明するというよりも、県民の皆さんに対してしっかり県が説明していくことが、県というものはやはり組織ですから、大事という意味で申し上げています。
  これは私の口からが良いのか、それとも今回も人事当局の調査結果で、このような方向性を皆さんとともに説明をしたこともあります。
  そのような意味での説明責任をどう果たしていくかが、今でも大事だと思っています。そこは前回の人事当局の調査結果が、一定客観性も入れて調査をしたと私は思っており、一定の説明責任は果たしていると感じています。
  それでも、より客観的に説明責任を果たしていくべきだという声がある中で、外部の方の調査をしてもらうことを含めて、これから熟慮、検討していくことになります。
  外部の方が調査する方向であれば、その方々が最終的には説明をしていくこともあるかと思いますが、そこはこれからどのような形でやっていくかがベースになるかと思っています。 
 記者:
  自身がその疑惑について説明されることも含めて検討されるのでしょうか。 
 知事:
  そこはやはり調査の対象となっている当事者なので、ここがすごくこの問題のポイントにもなっています。
  最初の方に、私は虚偽が多いと言いましたが、それはその時点で、私自身が当事者として、そのような事実が無いことが多いので、そこを申し上げましたが、その後、調査を進めていく中で、私自身が個別のことについて、コメントや評価をしていくことは適切ではないということだったので控えてきました。
  今後、人事当局の調査が終わったとはいえ、公益通報のプロセス、外部の方も入れたプロセスが進んでいくことになれば、当面、私の方から個別のことについてお答えをすることは、どの段階かはありますが、今の時点では、そこはできないと考えています。
 記者:
  調査の段階で、知事自身が、自身の疑惑について一つ一つ説明するのは適切ではないという考えでしょうか。 
 知事:
  客観性を持って説明していくためには、私以外の方が調査することなので、まずは人事当局の内部調査を実施し、公益通報の調査も進んでいきます。
  それが私以外の方が調査をして発表していくことが、一番客観性を持ったものなのではないかと思っています。 
 記者:
  そのご意見も踏まえて、3月末での自身が当事者として書かれていることに事実無根だという発言をされたことについて、人事当局の調査中でしたが、あの発言は今の段階でも適切だとお考えでしょうか。 
 知事:
  適切か適切でないかは、コメントはなかなかできませんが、当時としては、公益通報がされていない段階で、私自身も内容について書かれた当事者として、そうでは無いということが多々含まれていたので、そこをあのような形で、指摘させていただいたということです。 
 記者:
  3月に、文書問題が出てきて、2カ月近くこのような状態が続いているかと思います。
  そのような状況は、県民の皆さん、全国的にも、不安やどうなっているのだろうという状態が続いていることについて、知事の受け止めをお願いします。 
 知事:
  懲戒処分が決まった時にも申し上げましたが、このような状況になったことについて、県民の皆さんにお詫びを申し上げなければならないとお伝えしました。
  これから県政を前にしっかり進めていくためにも、今回の事案について、適切に対応して、信頼回復につなげていき、前に進めていくことが大事だと思っています。 
 記者:
  知事のこれまでを振り返って、あの時このような対応をしておくべきだったなど、反省すべき部分とかはありますか。 
 知事:
  プロセスとしては、人事当局の調査、そして、結果的に公益通報というプロセスになっているので、対応としては現時点では適切な対応をしてきたと認識しています。
  ただ、先ほど申し上げたとおり、より県民の皆さんに対して、客観的な説明を果たしていくことも大事なポイントだと思います。
  これから、前を向いていく意味でも、外部の方に入っていただいて、調査をしてもらうことを含めて、これから県議会の意向なども聞きながら、熟慮、検討していく、そして判断していく形になると思っています。
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2826/斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月8日記者会見(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月8日記者会見(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年5月8日(水曜日))」。
 太字化、下線、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者:
  昨日の懲戒処分で、元西播磨県民局長の処分を決めましたが、知事の受け止めをお伺いします。
 知事:
  元西播磨県民局長と産業労働部長の処分を行いました。服務規程に違反した職員に対する懲戒処分等です。
  職員一丸となって、県政の推進に取り組んでいる中で、このような事案が起きたことは、改めて、大変遺憾であります。県民の皆さんにお詫びを申し上げたいと思っています。
  改めて公務員倫理の徹底を図るとともに、今後、より風通しの良い県庁組織を作る、風通しの良い職場づくりに向けて、私としても最大限取り組んでいきたいと考えています。
 記者:
  元西播磨県民局長は、公益通報もされていますが、なぜ、今の段階で人事処分の決定をされたのかをお伺いします。 
 知事:
  昨日、人事当局、同席いただいた藤原弁護士からも同様の説明があったと思いますが、確かに公益通報されていますが、通報以前に行われた本人の非違行為に対して、懲戒処分を行う判断を、今回、人事当局と協議しながら決めました。
  処分に関しては、昨日、弁護士含めて問題はないとの見解もいただいているので、それに沿って対応させていただきました。
 記者:
  人事当局からはどのような説明が知事にありましたか。
  調査方法や調査内容の説明はあったのでしょうか。 
 知事:
  最終的に懲戒処分を決めるにあたって、綱紀委員会で議論して、非違行為があったので、懲戒処分に相当する旨の説明がありました。
  過去やこれまでの例に沿って、懲戒処分の内容についても報告があり、私自身も内容を聞いて了承しました
 記者:
  3月27日の定例会見で、知事は「名誉毀損、法的な課題がある」と発言されましたが、調査を終えた現在の認識としてはどのように思われていますか。
  また、刑事告訴などを考えているのでしょうか。
 知事:
  昨日、人事当局から発表させていただいたとおり、今回、当該者の行為には、幾つもの非違行為があり、懲戒処分に相当するため処分をしました。
  調査内容の一つ一つについては、今後、公益通報があるので、コメントは少し差し控えたいと思っていますが、当該文書には、虚偽内容が含まれていた旨は、昨日、説明されたとおりだと考えています。
  そのようなことから今回、懲戒処分を行いました。
  今後の刑事的な手続きは、公益通報の手続きが進んでいる状況ですが、昨日、懲戒処分を行い、当該文書の内容は事実ではないことも示されたと受け止めているので、私としては現時点では刑事告訴などは考えていません。 
 記者:
  今回の件は、懲戒処分前に内容が公になってしまった異例の事態だったと思います。
  この件により、県政への不信感に繋がりかねない問題となったと思っていますが、この点について知事はどのように考えていますか。 
 知事:
  先ほども申し上げたとおり、職員一丸となって県政の推進に取り組んでいる中で、このような事態が起きたことは大変遺憾だと考えています。
 記者:
  前例に沿えば、懲戒処分は人事課の調査で実施することになると思います。
  先ほども不信感という発言もありましたが、一方で知事も日頃から開かれた県政という透明性を確保した運営を掲げていると思います。
  県民の疑念を解消するためにも、知事と利害関係のある職員や弁護士の調査ではなく、内外から外部の第三者委員会を設置するべきではないかとの意見もありますが、その点についてはどのようにお考えですか。 
 知事:
  今回は、人事当局が、まずは懲戒処分に相当するということで調査をしました。
  以前から申し上げているとおり、弁護士の意見も聞きながら、今回の調査をしたので、一定客観的な調査が実施されたと考えています。
  今後、公益通報に基づく手続きになるので、公益通報委員会もあり、一定の第三者性は担保できていると私自身は考えています。
  また、第三者委員会の設置の必要性は、昨日、藤原弁護士などからも、考え方が示されたと伺っています。私としては適当ではないかと考えているので、それを踏まえて対応していきます。
  
 記者:
  懲戒処分問題に関してお伺いします。
  昨日のレクで人事当局は、調査を尽くしたので、これ以上事実は出てこないため、第三者委員会は不要だというような趣旨を話されたと思います。
  今回、処分権者が行政トップである知事で、行政トップが決めた組織決定を、公益通報は県政改革課が内部で実施されるかと思いますが、行政トップが決めた組織決定を、内部調査が縛られずに客観性を持った調査ができるのかについては疑問の声も上がっているかと思います。
  この辺の公益通報に関してその調査が客観性を持てる根拠についてお伺いします。
 知事:
  そこはきちっと客観性を持ってやることが大事ですし、そうすべきだと考えています。
  今回は、人事当局が弁護士の意見も聞きながら、内部調査を客観的にやったということで、昨日発表して、それに基づいて、懲戒処分等をした形になっています。
  今後は、公益通報がされているので、それに沿って、弁護士等で構成される公益通報委員会で調査結果に基づく是正措置があれば、そこに対して意見を述べていくことになると考えています。
 記者:
  公益通報で、虚偽ではなく、誹謗中傷でもなく、公益通報として事実関係についても事実が認められるという、仮に真逆の事実が認められた場合、その懲戒処分の根拠が覆るかと思うのですが、そのあたりのご見解はいかがでしょうか。
 知事:
  仮定の話ですので、なかなかコメントしづらいと考えています。
  現在、当該者から公益通報があり、ここはプロセス、事実としてあるので、これに基づいて調査をしていく。
  そして、必要に応じて是正措置などを弁護士等で構成する通報委員会に付議しながら、決めていく形になります。 
 記者:
  今回の調査手法には、知事は関わっておられないということでした。
  昨日の人事当局の説明では、人数や期間なども調査手法に関することですので、明らかにしないとのことでしたが、第三者委員会などが設置されている場合では、透明性や客観性を持たせる意味でも、個人情報にかかわらない部分は明らかにすることが一般的かと思います。
  このあたり調査手法については、どのように評価をされていますか。 
 知事:
  懲戒処分に関する内部調査が、これまでのやり方に沿って、まずはやってきたことに加えて、今回は、当該文書の内容が一つの懲戒処分の構成要件としてあったので、そこは弁護士をきちっと入れさせていただいて、客観的にしっかり調査したことが、昨日の人事当局、それから藤原弁護士の見解だったと思っているので、そのような観点ではきちっと対応されたと認識しています。 
 記者:
  人数・期間等を明かさないこと、報道機関に対する聴取もあったかと思うのですが、調査手法に関することは、今回、調査を終えられてみて、知事としてどのように評価されているのかお聞かせください。
 知事:
  従来の人事当局の調査の中で実施されたものではあるので、もちろん報道機関への調査は、私自身は調査対象になっているので、指示などができなかったことはありますが、やはり報道の自由をしっかり尊重しながらやるべきだという思いはあります。 
 記者:
  人事調査の結果が出たので、個別事案について伺います。
  1つ目の調査結果で、ひょうご震災記念21世紀研究機構の副理事長である御厨さんと河田さんの解任について、片山副知事が打診したことは事実だと、今回の人事当局の調査では認定があったかと思います。
  2人とも震災分野の第一人者で、今回発表もあった創造的復興サミットに関しても要になられるのだと思ったのですが、震災30年を前にこのような人事のお話をされたことに関する趣旨をお聞かせください。 
 知事:
  そこは、人事当局の調査は現時点で昨日終わりましたが、これから公益通報の方でも調査が進むので、個別の当該文書に関する是非や内容のコメントをするのは、現時点では差し控えておいた方が良いというのが私の今の感覚です。
  指摘されていることについて、もし必要があれば、担当課を含めて、所管するところに聞いていただいたら良いのかもしれないです。
 
 記者:
  昨日、藤原弁護士が、知事を聴取するのは、十数年間の経験でも極めて異例だということでした。
  県議さんから言わせると、ガバナンスの問題や前回の知事選が影響しているのではないかといった、いろいろな声があります。
  知事として聴取を受け、今回、綱紀粛正を図る、風通しの良い組織にするためには、具体的にどのように改善していかれようと考えているのでしょうか。 
 知事:
  先ほど申し上げたとおり、懲戒処分が一旦決定されて、今後、公益通報の手続き等が進んでいくので、その経過を見た後に、具体的にどうするかを考えていくことも大事だと思っています。
  そのような中で、今回の懲戒事案が発生したことを踏まえると、職員倫理の徹底を図っていくことと、そのために必要なルールづくり、贈答品や公益通報の窓口をどうするかなども、きちっとやっていきたいと思っています。
  それから風通しの良い職場づくりというものを、私自身ももっと努力をしていかなければと考えています。
  先ほども言いましたが、この3年間、コロナ対応もそうですが、若者Z世代を応援する様々な施策を中心に、いろいろなことをさせてもらいました。
  職員には、一緒にやってきたことに改めて感謝を申し上げたいと思います。
  選挙などいろいろな指摘はあるのかもしれないですが、大事なのは、やはり、県民の皆さんにとって、一番良い施策をやっていくことが大事だと思います。
  そのために、県庁一丸となって、良い施策をみんなで作っていくような組織風土に私自身が先頭になってやっていくことを、これまでも努力してきましたが、今一度、働き方改革も含めてやっていきたいと考えています。
 記者:
  知事ご自身が、今回の懲戒処分に至る調査を通じて、反省すべき点、改善すべき点はどのように考えていますか。 
 知事:
  具体的に何かということよりも、今回、このような事態に至ったことは、県民の皆さんにお詫びを申し上げなければいけないと思っています。
  懲戒処分に至るようなことがあったことで、今一度、公務員倫理、服務規律の徹底をきちっとしていくこと。これは私自身も、やはり疑念を持たれないようないろいろなルール、それからそれを是正するような仕組みを作っていくことが大事だと考えています。
  先ほども言いましたが、風通しの良い職場づくりに向けて、より職員とのコミュニケーションを密にしていく。そして、良い施策を県民の皆さんのために実現できるような、そんな県庁づくりに努めていくことが大事だと思っています。
 
 記者:
  懲戒処分の問題で伺います。
  3月27日の定例会見で、知事は文書内容について事実無根が多々含まれている嘘八百、と言い切られていたかと思いますが、その影響で、この人事課の調査を受ける職員の中に萎縮する人がいたという可能性は考えられませんでしょうか。 
 知事:
  当時は、公益通報等される前の段階で、私としては当事者でもあって、事実ではない内容が多々含まれているという意味で発言をしました。
  その後、昨日、発表したとおり、人事課が内部調査として弁護士の助言やサポートをいただきながら、かなり関係者へのヒアリングや客観的な証拠も含めて、積み上げをしたと思いますので、そのような指摘は当たらないような調査結果になっていると私自身は捉えています。 
 記者:
  3月27日時点で公益通報はまだされていなかったと思いますが、確か懲戒処分に向けての人事課の調査は始まっているということだったと思います。
  その調査がある中で、定例会見で言い切ったことは、今でも適切だったと思われますか。
 知事:
  あの当時は私自身が、そのような形で指摘されている中で、そのような発言をさせていただいたというふうに考えています。
  その後、先ほど申し上げたとおり、人事当局が弁護士も入れながら、きちっと客観的な聞き取りや証拠などを集めて調査をしていたと私自身は受け止めています。 
 記者:
  懲戒処分の件で、先ほどから客観的な証拠がある、客観的な聞き取りが行われたという話だったのですが、人事当局からどのような調査をして、何をもって客観的と思われているのか
  内部調査ですので、知事の下で働かれている職員が調査を行っていて、何をもって客観的と考えられているのかお伺いします。 
 知事:
  昨日の調査結果の内容で、一つ一つの項目について説明がされているかと思います。そこで何が事実でないかどうかというところが、きちんと核心的なところを含めて説明をしたと認識しています。
  その際には、人事当局がきちっと弁護士のサポート、助言を受けながら、一つ一つの項目について、関係者の聞き取りなどしていたと考えているので、そこで一定の客観性はある調査になったと認識しています。 
 記者:
 今回の処分を決定した委員会に、この文書で疑惑として挙がっている幹部職員も委員長として入られていますが、その処分への中立公平性が担保されていると考えられていますか。
 知事:
  綱紀委員会の話だと思いますので、そこは人事当局としてもう一度説明してもらえますか。 
 人事当局:
  綱紀委員会の委員長が総務部長であるということで、昨日も申し上げましたが、調査の結果、事実認定をしたことを綱紀委員会で申し上げて、事実に基づいて非違行為の処分の量定について綱紀委員会で意見を聞くという形になります。
  調査過程では、総務部長を外しており、最後、処分権者の1人ではあるので、そのような意味で、認められた非違行為について、委員会に諮るということであり、問題ないものと考えています。 
 記者:
  調査には、委員長はもちろん入っていないと思いますが、調査対象として入っている方が、その処分、事実に基づいてという話ではありますが、処分決定するというところで、公平性をどのように担保されているんでしょうか。
  決定する上で、自分自身の疑惑が書かれているものを、どのように公立公平に扱っているのかは、もう少し説明をお願いします。
 人事当局:
  文書に書かれていることが基本的に事実ではないという調査結果が出ております。
  本人も当然のごとく、身に覚えのないことを書かれているということであるので、その点では処分に恣意的な思いが入る余地はありませんし、そのような意味では処分権者、知事はじめ、処分の決裁権者であり、当然、その処分を決定していくにあたっては必要な手続きになるので、そこの点では問題ないと考えています。 
 記者:
  文書の内容について、知事は以前、一つ答えると次も次もとなる。全体を精査した上で説明したいと会見でお話をされていました。
  今回、人事当局の調査でも一つ一つどれが事実ではないと説明をしていただいたので、全体の精査をされているのではないかと思います。
  人事当局の調査でも一定されていると考えられるかもしれないですが、どの段階で説明していただけるものなのかをお伺いします。 
 知事:
  私自身が調査内容について、一つ一つ説明することが、今の段階で良いのかどうかはあると思います。
  今は、人事当局が弁護士を入れて調査をしていたので、その間、私は調査対象でもあり、答えてはいません。
  かつ、昨日、調査結果を懲戒処分の中で説明をしたということになるので、そこを踏まえてこれから公益通報の手続きの中で、文書の内容が調査や精査されていくと考えています。
  私としては、今の段階で、文書の内容のことについて、コメントすることは控えたいと思っています。
  ある程度公益通報の調査が終わった後も、私自身が説明するのが良いのか、それとも昨日のように、私ではないという意味での第三者、人事当局の方から、昨日も弁護士が説明を補足しましたが、そのような形で内容の説明することの方が適切であれば、それを持って説明したことになると思っています。 
 記者:
  知事は、3月27日の段階で嘘八百というふうな発言をされています。
  何をもって嘘八百と会見の場で発言されたのかというところも、改めて説明が必要なのではないかと思いますが、そこはいかがでしょうか。 
 知事:
  そこは昨日の調査結果を踏まえた項目についての説明です。
  そこと、これからの公益通報のプロセスを経た後の結果を踏まえて対応は検討したいと考えています。 
 記者:
  先ほども質問があった法的手続きを進めているというような発言を3月27日にされていましたが、それはもう、撤回されるといいますか、法的手続きはしないということで良いのでしょうか。
 知事:
  昨日の時点で、懲戒処分の内容が一定決定され、そこで、内容について、真実でないということが一定示されたこともあり、懲戒処分されていることから、現時点では、刑事告訴などは考えていない状況です。
 ⑤ 
  記者:
  懲戒処分の問題でお伺いします。
  元西播磨県民局長は内部通報が信頼できないため、公益通報より先に文書を配布する方法をとったと言っています。
  他県では、庁外に公益通報窓口を設定している県も多いそうですが、公益通報の窓口を庁外に設置することは検討していますか。 
 知事:
  先ほど申し上げたとおり、今後の検討課題になると考えています。
  現時点では、公益通報の窓口は庁内に設置していますが、今回の事案を踏まえて、今後、窓口を外部に設置することも含めて検討課題と認識しています。 
 記者:
  今回、2人が処分されましたが、元西播磨県民局長は懲戒処分でも上から2番目に重い停職。産業労働部長は懲戒処分には当たらない戒告の事実上一つ下にあたる訓告という処分でした。文書による指導に過ぎないものではありますが、処分の軽重について、知事が思うことあればお伺いします。
 知事:
  まずは、人事当局の方から。 
  人事当局:
  昨日も申し上げたとおり、地方公務員法上の処分ではありませんが、本県の考査規程で訓告という処分を行うことができると規定されています。そのような意味では、訓告も懲戒処分に当たります。
   それぞれの処分は比較するものではなく、それぞれの職員が行った非違行為そのものを、過去の処分事例や本県の懲戒処分指針に基づいて、非違行為について処分の量定を検討するものです。
  今回、元西播磨県民局長と産業労働部長の処分の量定を比較することは、適切な比較の対象にならないと言いますか、それぞれ行った非違行為について、妥当な処分の量定を検討していくことになります。 
 記者:
  知事はどう思われていますか。
 知事:
  今、人事当局から説明させてもらったとおり、処分の量定は、それぞれの非違行為について、本県の懲戒処分の指針や過去の処分事例を踏まえて決定したものです。私としては今回の対応は適切なものだと考えています。 
 記者:
  先ほども、記者の方から質問がありましたが、改めて3月の定例会見の際に、当初から嘘八百、事実無根としていた告発文が、内部調査の結果、核心的な部分において全て事実無根と認定されたことについて、改めて受け止めをお願いします。 
 知事:
  現時点では、公益通報の手続きが進んでおり、それぞれの内容へのコメントは差し控えますが、改めて、職員一丸となって県政の推進に取り組んでる中で、このような状況になったということは、極めて遺憾であります。県民の皆さんに改めてお詫びを申し上げたいと考えています。
  改めて公務員倫理の徹底を図るとともに、私自身も、より風通しの良い職場づくりに向けて努力して参りたいと考えています。
 記者:
  弊社の情報番組や系列の報道番組において、橋下徹さんが発言していた言葉を一つ拝借させていただきますが、「斎藤知事は確かにパワハラがないと言いたいのは分かるが、それを今、調査中の段階で言ってしまうと、適正な調査ができないし、以後職員も告発がやりにくくなる」といった発言をしています。
  当初、人事当局の調査が始まっている段階で、事実無根や嘘八百と言ったことは、今振り返ってみて適切だったと考えているのでしょうか。 
 知事:
  今回の文書については、私としては、3月27日の時点では、文書に書かれた当事者として、事実でないことが多数書かれていたので、その中で、そのような表現をしたということになっています。
  昨日、人事当局が弁護士を入れて行った一定客観的な調査の中で、結果的に懲戒処分に該当する事案の一つとして、文書の内容に非違性が含まれたことが示されたことになっているのでないかと考えています。
 記者:
  先ほどの他の記者の方の質問にもありましたが、調査が始まっている段階で、知事の見解を言ってしまうと、内部の調査ですので、言いづらくなってしまう職員の方もいるのではないかという懸念がある中で、そのような発言があったことは、適切だったということで大丈夫ですか。
 知事:
  表現が適切であったかどうかは、今後、よく吟味をしていきたいと思っていますが、今回については、3月27日の時点で文書に書かれた内容が当事者として様々な事実ではない内容が含まれたということで、私自身もあのような表現をしました。 
 記者:
  先ほどから話題になっている過去の知事の発言で嘘八百や事実無根と言ってる思いや認識は今も変わりないということでしょうか。 
 知事:
  3月27日の時点で文書が出ていて、文書に書かれた内容について、当事者として、事実ではないことを書かれたことで、あのような表現をしたということです。
 
 記者:
  当時の思いや考えはわかりましたが、今回の人事当局の調査結果を受けて、改めて文書の評価をする時に、文書の中身は、やはり嘘八百であって、事実無根であるというのは変わりないのでしょうか。 
 知事:
  昨日、人事当局が発表したとおり、弁護士を入れた人事当局の調査によって、記載内容の核心的な部分が事実でないと明らかになった発言。
  それから、記載内容の各項目を、全体として見れば7つの項目全てが事実に反していると、昨日、人事当局、それから弁護士もそれを踏まえて評価されているということだと思います。
 
 記者:
  第三者委員会の件ですが、今のところ設置をしない考えだと思います。
  議員さんや一般の県民の方からも、やっぱり、第三者委員会を設置した方が良いのではないか、この内部調査だけで終わるのはどうなのか、というご意見も多々あるように見受けられます。
  これまでの説明を聞くと、弁護士に話を聞いて、法的には問題ないという意見は一定理解できますが、失礼な言い方ですが、ある意味、盾にとって強引に幕引きを図ろうとしているようにも見えます。
  今のこのやり方で、実際に県民に理解が得られると考えているのでしょうか。 
 知事:
  今回の内容は、そのような文書が出て、その後、公益通報という形で提出がされ、人事当局の調査が始まった形になります。
 b調査の内容は、昨日、発表しましたが、人事当局が弁護士とも相談しながら、きちっと客観的な内容を調査したと受け止めています。一定の第三者性、客観性というものは、これからやる公益通報のプロセスと含めて担保されているのではないかと考えています。
 県民の皆さんに、昨日も説明したとおり、今日も会見しているとおり、きちっとご理解をいただけるように、これからも努力していくことだと思います。
  第三者委員会の設置については、昨日、藤原弁護士からも見解が示されましたが、法的な専門家の観点から設置の必要はないと示されたので、私としてはそれを踏まえて、これから適切に対応していくことに尽きると考えています。 
  記者:
  弁護士の意見で法的に正しいかどうかという意見とは別に、一般の県民の方からすると、客観性が本当にあるのかどうか、いわゆる納得感や理解ができるかが非常に行政のあり方として大事ではないかと思います。
  今の発言では、やはり第三者委員会は何があっても設置しないというように聞こえます
  今後の展開によっても、全く設置する考えはないということでしょうか。 
 知事:
  まずは客観的な調査をきちっと実施していくことが大事だと思います。
  そのような意味で、私たちが、今、進めているのは、繰り返しなりますが、懲戒処分に関して、人事当局が調査をしていく。そこで弁護士のサポートをいただきながらできるだけ客観的にやってきました。
  それを、昨日、弁護士同席の下、内容の説明をしたことで、調査内容の説明や客観性は、一定担保できてるのではないかと私自身は考えています。
  これから公益通報の中で、今一度、プロセスが進んでいくことになります。
  委員会の委員の中には、弁護士とかも入っており、是正措置などが必要であれば、その意見を聞きながらやっていく形になるので、そのプロセスをきちっとやっていくことで、県民の皆さんに対する客観性を示していくことができるのではないかと私は考えています。
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2825/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月26日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月26日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月26日(金曜日))」。
 太字化、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者:
  前西播磨県民局長の文書問題でお伺いします。
  丸尾議員が、第三者調査機関を設置するよう要望を出されました。
  これまで知事は、まず人事当局が調査をしてからという見解を繰り返し示されています。
  改めて、人事当局ではなく、外部の第三者が調査を、という申入れ書を受け取った知事の見解をお聞かせください。 
 知事:
  先日、丸尾議員が申入れをされたことは承知をしています。
  私は、詳細な内容を把握できていません。
  今回の件に関しては、繰り返しになりますが、現在、人事当局が懲戒事案にも関する可能性があるため、弁護士と相談しながら客観的な事実を含めて詳細調査をしているところですので、そこがまずは県としては大事だと思っています。
  一方で、文書の内容は、公益通報もされています。
  公益通報は、是正の必要等あれば、第三者からなる公益通報委員会にも付議される形になっています。
  そこには、弁護士や公認会計士、学者の先生が入った委員会ですので、そのプロセスをきちんとやっていくことで、一定、第三者性が担保されると考えています。
  いずれにしても、現在、人事当局が、弁護士を入れて調査をしているので、しっかりやってもらうことが大事だと考えています。
 記者:
  公益通報の制度で外部有識者が入っているため、それが、第三者に当たるという見解でよろしいでしょうか。 
 知事:
  第三者性は、そこが一定あると私自身は考えています。
  片山副知事が入っていましたが、今回は外すことにします。
  現在、すでに人事当局の調査は、弁護士を入れてやっています。
 そ れと併せて、公益通報の制度の2つをきちんとやっていくことが大事だと考えています。 
 記者:
  第三者調査機関を新たに作る必要はないということでしょうか。 
 知事:
  繰り返しになって申し訳ありませんが、人事当局が弁護士と相談しながら行っている詳細な調査だと思います。
  内容について、私は、タッチはしていません。
  それとともに、公益通報を受けた上での、公益通報での調査をきちんとやっていくことが大事だと思います。
  人事当局の調査には、弁護士を入れており、公益通報の委員会にも、弁護士などの第三者も入っているので、一定の第三者性も担保されていると考えています。
  まずは、人事当局の調査が大事なポイントだと考えています。
 記者:
  前西播磨県民局の文書問題で、先ほど、新聞労連から、県庁と県知事に対する抗議声明が出されています。
  人事課が報道機関に対して聞き取り調査をしたことは、速やかにやめるべきだという内容でした。
  先週の会見では、知事は人事課の調査には関与していないとのことでしたが、本日、新聞労連の委員長からは、知事がリーダーシップを持って制止すべきだというようなご意見を述べられています。
  この抗議声明に対する受け止めをお伺いします。 
 知事:
  人事当局が、今、行う調査方法は、私自身も把握をしていないのが今の正直なところです。
  懲戒処分の可能性があるため、事実確認などをきちんと行うことは、そのような処分や調査の信頼性を確保するためにも大事なポイントだと思っています。
  一方で、事実確認をする際には、ご指摘のとおり、報道の自由を侵害しない範囲で適切に対応していくことは必要だと考えています。
  調査をどこにするなどは、調査方法に関することですので、私が直接指示をすることはできないことはご理解いただきたいと思います。
  報道の自由を侵害しない範囲で適切に対応していくことが必要だということは、前回も述べさせていただいてるところですので、一定ご理解いただきたいと考えています。 
 記者:
  人事課は、報道機関の聴取を続けるような意向なんですが、知事からも制止すべきだということは言いにくいということでしょうか。
 知事:
  調査方法をどこにするようにということは、私が当事者になっているので。
  もし、私が当事者でない立場であれば、そのようなこともできる可能性があるかもしれませんが、私が当事者になっている以上、調査をどこにする、しない、ということを指示することは難しいと思っています。
  何度も繰り返しになって申し訳ないですが、報道の自由を侵害しない範囲で適切に対応していくことは大事だと考えています。 
 記者:
  丸尾県議からの要望書で、本日、市川町から丸尾県議の要望書に対する抗議文のようなものが出ています。
  事実関係と違う、という話でゴルフクラブの件だったかと思いますが、我々も知事表敬などで知事応接室に入ったときに、アイアンクラブを見ることがあります。
  そもそも、アイアンクラブ自体がどこから提供があったもので、どのような目的で提供があったものなのかお聞かせください。 
 知事:
  市川町がどのような抗議をしたのか承知はしていません。
  アイアンクラブの件も含めて、個別の内容になりますので、繰り返しになりますが、人事当局、公益通報の調査も含めて、今、調査が進んでいる段階ですので、個別の事案の内容は、私自身が当事者にもなっており、現時点では、コメントすることを差し控えた方が良いと考えています。
 記者:
  知事応接室にあるものはPR目的で置いているのでしょうか。 
 知事:
  今回の文書の事案と離れて、もし答えるとすると、知事応接室に置いているものは、アイアンの製造工程が分かるように、最初は鉄の塊から完成品になるものです。市川町の鍛造アイアンで、地域の地場産業として大事なものだということをPRするために置いています。
 ————
 
 記者:
  前西播磨県民局長の文書問題ですが、丸尾議員からの申入れは、知事は見られてないのでしょうか。
 知事:
  詳細は見ていません。申入れは把握していますが、中身は詳細には見ていません。 
 記者:
  丸尾議員の指摘の中で、公益通報の窓口を外部の有識者(弁護士)を入れた窓口を設置すべきということで、弊社の報道にも掲載しましたが、有識者からも外部有識者の窓口を設置した方が組織として自浄作用が発揮できるという意見もあります。
  公益通報の窓口のあり方をどのように考えていますか。 
 知事:
  今回は、今ある制度の中で、できるだけきちんと外部委員会の委員の意見を聴取しながら、客観性を持って調査していくことは、一定担保されており、担保していかなければいけないと考えています。
 今後、改善すべき点があれば、他府県の運用状況などもしっかり踏まえて、改善すべきところは改善していきたいと考えています。 
 記者:
  告訴の法的手続きを進めていくと、3月27日の会見で発言がありました。その法的手続きの認識について改めてお伺いします。
 知事:
  繰り返しになりますが、現在、当該文書も含めた内容について、人事当局が弁護士と相談しながら詳細な客観的な調査を実施している状況です。
  また、併せて、公益通報での客観的な調査が進んでいるので、その調査を進めることが大事だと思っています。 
 記者:
  調査結果を踏まえて、考えていくということですか。 
 知事:
  まずは、人事当局の調査結果がどのようになるかが大事だと思っています。 
 記者:
  3月27日には、「法的手続きを進める」と知事は発言がありました。
  ホームページで公開されている会見録には、「検討を進める」となっています。

  知事の認識として、あの時点では法的手続きを進めていたのか、それとも検討の段階だったのかを聞かせてください。 
 知事:
  そこは、内部のどのような状況かによるので、今の時点ではコメントは避けたいと思います。
  当時の発言としては、そういうことだったと認識しています。
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2824/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月18日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月18日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月18日(木曜日))」。
 太字化・下線は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して伺います。
 先日、産業労働常任委員会で部長が、加西市の企業に対して、6万円相当の物品提供を依頼してたと認められました。
 部長の言い分としては、知事に使ってもらうことで、地元企業の商品をPRしてもらいたかった、知事の指示ではなかったとの発言でした。
 調査中だと思いますが、改めて知事の見解や知事から指示があったのかなかったのかを教えてください。」
 知事「現在、人事当局が全体の調査を行っているところですので、詳細なコメントは差し控えますが、コーヒーメーカーの件に関して、原田産業労働部長がそのような対応をしたことは報道等で承知しています。
 私自身が、コーヒーメーカーを秘書課に送るように指示したとか、最終的に私がコーヒーメーカーを受け取った事実はありません。そこは明確にお伝えしておきたいと思います。
 昨日、報道等で出ていますが、原田産業労働部長の対応も含めて、いずれにしても、現在、人事当局が全体の調査を行っている最中ですので、調査結果を踏まえて、人事当局が、調査を完了した時点で報告をしてもらえると考えています。」
 記者「原田産業労働部長は、当日に提供の依頼があったが、その場で知事から、これは受け取れないというお話を2人でされたと思いますが、拒否した事実自体はありますか。」
 知事「その場でもその後も、私自身は受け取るべきではないと伝えています。」 
 記者「原田産業労働部長が受け取った後に、秘書課と相談して、受け取らないと改めて決まったというお話だったと思いますが、その件に関して知事のご判断は入っていましたか。」 
 知事「その件に関しては、調査していますが、少なくとも、私からは、秘書広報室長に対して、コーヒーメーカーについては受け取らないと指示をしているので、その指示に沿って対応してくれてたと認識しています。」
 記者「知事ご本人の口から拒否されたといいますか、受け取りを断ったのは一度だけという認識ですか。」
 知事「その場と、改めて秘書広報室長にも、受け取りはしないと指示した記憶はあります。」
 記者「昨日、今回の問題に関して、私にも人事課から聴取がありました。
 報道機関に対して人事課の聴取が行われることはほとんどないかと思いますが、聴取をされた目的や意図を改めて知事にお伺いします。」
 知事「本件に関する調査は、現在、私が指示をして調査していることはありません。私自身も当事者ですので、人事当局が現在調査中だと思います。
 どのような方法で調査を行っているかは承知していません。報道の自由など含めて、適切に対応していくことが大事だと思っています。」
 記者「我々としては、個別取材に関する問い合わせや聴取をされることは、報道の萎縮や取材の制限に繋がる可能性があると思っており、非常に違和感がありますが、このような聴取は他の報道各社にもされているのか、また、補助金を出しているような団体や県以外の団体に対しても行っているのか教えてください。」 
 知事「繰り返しになりますが、今回の調査については人事当局が対応しているので、調査のやり方に関しては、私自身は承知をしていませんので、答えとしては、分からないということになります。
 いずれにしても報道の自由など様々なことも含めて、適切に対応していくことが大事だと考えています。」 
 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して、部長が産業労働委員会で、ご自身のことについて、経緯を説明されました。
 その説明の中で、県の商品をPRしたいという思いがあり、商品を受け取ったと発言されたと思います。
 知事は断られたということですが、これまでにもPRを目的に受け取っている事実はありますか。
 また、PRするために受け取ることが大事だという話などを各部長などに言ったことはありますか。」
 知事「地域や県産品のPRは、県の政策目的として大事な取り組みであり、適正なものだと思います。そのような県産品のPRは様々な場面でやっています。
 例えば、牛乳の消費拡大のPRのために知事応接室で牛乳をみんなで飲んだこともあり、そのような観点は決して否定をするものではないと思います。
 これまでもそのような観点に立って適正に行ってきましたので、今後も行っていくものだと考えています。」 
 記者「一方で、県の綱紀粛正通知では、民間においては慣例的な取り扱いとされていても、業務に関連する贈答品を受け取らないことと記載があると思います。
 今回の件は、未開封だったという話もありましたが、実際に高額な商品を受け取っていた事実があります。
 個別の商品に関することですが、知事として、部長級の方が依頼して受け取っていた事実についてはどのように考えていますか。」
 知事「PRの観点と服務規定の観点の中で、どのような事案として、判断するのかになるので、今回の件に関しては、当該文書の中にも書かれていることですので、人事当局が弁護士等と相談もしながら、服務規定の観点や県産品のPRなどの観点でどのように判断するのか、調査結果を待ちたいと考えています。
 現時点で今回の行動が良い悪い、全体としてどうかなどのコメントは差し控えておいたほうが良いと考えています。」 
 記者「一般的には、県にそのような商品を受け取る場合の区分あるのでしょうか。
 PRのために受け取って良いものとそうでないものの違いは、県としてどのような区分がされていますか。」
 知事「その件も含めて、人事当局が、まずは今回の事案を確認した上で、県としてのこれまでの対応方法に関して、改善すべき点があれば改善すべきだと思います。
 現時点で、私が現在の状況に言及するよりも、しっかりと今回の事案を調査した上で、どこが問題だったかなどの部分を改善することが大事だと思っています。」
 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して、産業労働部長ご自身は、先日の議会答弁の中でも処分があれば受け入れるとおっしゃっていました。
 今回の件に関して、県の内規に照らせば、ルール違反ではないかと思いますが、現段階で処分についてはどのように考えていますか。」
 知事「まずは、事実関係をしっかりと調査した上で、県の内規やPRの目的を踏まえて、どのように判断するかが大事だと思います。
 その上で、今回の産業労働部長の対応が、適切かどうかをしっかりと判断する必要があり、人事当局と協議しながら、処分も含めて適切に検討していくことになると考えています。」
 記者「現時点では処分ありきではない、処分するかどうかも含めて検討していくということですか。」
 知事「そうです。
 いずれにせよ、私自身は受け取っていませんし、受け取れないので返却したものだと考えていましたが、結果的に失念をして、長期間返却を怠っていた点は問題があると思います。その点も踏まえて今後、まずは人事当局が適切に検討していくと考えています。」
 記者「元西播磨県民局長が作成された文書の中にも、今回のコーヒーメーカーなどのことが書かれていました。
 文書の中では、知事が指示したという中身になっていますが、産業労働部長のお話では知事の指示はなかった、あくまでも自身の判断で行ったということでした。
 ただ、双方の意見をまとめると、元西播磨県民局長が作成した文書の内容は、全てではないが一部は事実であったことになると思います。
 そうすると知事が以前批判されていた文書の中身が嘘八百や事実無根であることは、必ずしもそう言い切れなくなってきているのではないかという気がしますが、ご見解はいかがでしょうか。」
 知事「様々な捉え方があると思います。
 全てのことが事実か事実でないかと同時に、核心的なところが本当か本当でないかも大事ですので、一概には言えないと思います。
 その辺りも含めて、現在、人事当局が全体の調査をしているので、まずはその結果を待ちたいと考えています。」
 記者「元西播磨県民局長の作成された文書の一部とはいえ事実の部分も出てきたことで、県民目線で見ると、文書の中身がどこまでが本当でどこまでが嘘なのか、疑念が深まっているのではないかと思います。
 今回は、非常に特殊な事案だと思っています。県民の納得を得るために、改めて外部の目を入れるということで、第三者委員会を設置されないのか素朴な疑問として思っています。
 設置しないのであれば、どのようにして県民に納得していただけるのかなどご見解をお願いします。」
 知事「今回は懲戒処分にあたる事案ですので、まずは人事当局が中心となって、弁護士とも相談しながら、客観的な事実として、文書内容のどのようなところに問題があるのか、虚偽なのかを含めて、現在調査しているところですので、まずはそこが大事だと考えています。」
 記者「繰り返しになりますが、人事当局で調べるのは、通常の調査手法だと思いますが、どうしても疑念が深まっているのではないかと思います。
 今の調査手法で、県民の納得感が得られるかどうかについて、どのように考えていますか。」
 知事「調査手法も含めて、どのように行っているのかは、現在、人事当局が対応しています。
 私はその中身は承知していませんが、適切に対応していると思っています。
 まずは人事当局が、弁護士と相談しながら、客観的な事実をきっちりと調査することが大事で、調査結果を県民の皆さんに説明することにより、県民の皆さんの不安などを払拭していくことが大事だと思います。」
 記者「元西播磨県民局長の文書問題に関して、先日、産業労働部長が認めたコーヒーメーカーの件ですが、知事は、受け取ってはいけない、お返しをしなければいけないという認識を持たれていましたが、部長はその認識がなかったということでした。
 職員の間での贈答品に関する意識など、共通の認識はないのでしょうか。」
 知事「基本的には服務規程等に基づいて対応をこれまでも適切にしていると思っていますが、今回の事案は、調査を進めているので、その結果を踏まえて、現在の服務規程が適正なのか、それとも、より県民の皆さんにご心配などを抱かせないために、改善すべき点があれば、改善すべきところは改善していくことが大事だと考えています。」
 記者「現時点で部長級の方が、一旦受け取ってしまっているので、改善すべきではないかと思いますが、知事として、今後、結果はともかく、改めて周知していくことは必要かと考えていますか。」
 知事「必要だと思います。
 今回の事案がありましたが、それ以前の問題として、やはり職員として公務含めて、服務規律を遵守することは、当然大事なことです。
 現在の規定がこれまでどのように成り立って、改善されてきたか、修正されてきたかは、もう一度見なければいけませんが、その過程の中で、より改善すべき、適正にすべきところがあれば、もちろん修正すべきだと私自身も思っていますし、そうしたいと考えています。」
 記者「先ほどの質問にも、第三者委員会の話でまずは相談しながらというような説明がありましたが、これは問題が発覚したという場合は検討される、というお考えでしょうか。」
 知事「そこは今の段階で調査中ですので、予断を持ったことはコメントできないと考えています。
 まずは、今回のコーヒーメーカーの件は、報道の個別取材の中で出てきたということで、結果的にこれが委員会等で明らかになった面があります。これについて私も先ほどコメントしたとおりです。
 全体としては、今回の文書の件に関しては、現在、人事当局が中心になって調査をしているので、まずは結果をきちんと整理していくことが大事で、そこで、職員に対する懲戒事案ですから、必要であれば適正にやっていきます。
 その上で、先ほど質問もありましたが、より改善すべき服務規程の内容等あれば改善していくことが大事だと思いますので、現時点では、人事課の調査を待つことだと考えています。」
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2823/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月10日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月10日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月10日(水曜日))」。
 太字化は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「前西播磨県民局長の問題でお伺いします。
 前県民局長が県の内部調査の調査方法が余りに非常識、不適切で、真相究明を期待できないというご主張があり、それを受けて、別途、公益通報されたということです。
 前県民局長のご意見に対する受け止めと、公益通報に対してどう答えられるのかお聞かせください。
 知事「当該文書の内容等は、改めて人事当局が弁護士と相談しながら、事実関係の調査を行っている状況です。
 私としては、調査をしている状況を受け止めているということです。
 公益通報に関しては、一応内容等について、私がお答えするということはできないので、公益通報が来ていることは報道等では拝見していますが、内容について私は承知していない状況です。
 もし、公益通報が届いているのであれば、基準に従って調査等がなされていくものだと認識しています。」
 記者「県の内部調査では、先ほど申し上げたように、『非常識、不適切』と問題視する発言を前県民局長がされています。
 県の内部調査ですので、知事のご意向も一定働くのではないか疑念が残ってしまうと思いますが、改めて、第三者委員会を設置するなどのお考えはありますか。」
 知事「現時点では、懲戒処分に該当する可能性があるということですので、人事当局が弁護士と相談しながら適正に調査をして対応していくことになります。
 一方で、公益通報があれば、基準に沿って適正に公益通報委員会を開いていくことが現時点での方針だと考えています。」
 記者「外部有識者を入れた公益通報委員会にその意見を求めることで、一定の客観性が担保できるのではないかというお考えでしょうか。」
 知事「公益通報があるのであれば、必要に応じて公益通報委員会が関与をしていくことになりますので、それに沿って対応していくことになると考えています。」 
 記者「公益通報委員会のメンバーに副知事も入っています。
 基本は、外部の有識者ですが、一部内部の方も入られていますが、今回の件については、副知事は除斥されることになるのでしょうか。」 
 知事「詳細は、財務部が説明します。
 基本的に該当する者は除くことになると聞いています。」 
 記者「公益通報文書問題ですが、人事当局が行っている調査と公益通報の調査は全く別物として、調査を行っていくということでしょうか。」 
 知事「人事当局の調査は、懲戒処分に該当する可能性があるので、内容を弁護士と相談しながら事実関係の調査を行っている状況です。
 もし、公益通報があれば、財務部が調査等を行っていくので、別の物になります。」 
 記者「被害届を検討されていると、3月27日の会見でも発言がありましたが、現在はどのような状況でしょうか。」
 知事「現在、懲戒処分の該当性を人事当局が中心になって、事実関係の調査を行っているので、そこを踏まえてどう対応するかになると思います。」 
 記者「処分をしてからの対応になるということですか。」
 知事「事実関係の調査結果が、どのような内容であるか、事案の内容によって、その後の対応がどうなるかということになると思います。
 今の段階では調査中ですので、調査が終わった後の対応はどうするかは、今の段階では未定です。」
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2822/R.パイプス1990年著—第14章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧③。
 (18) 実際には、ボルシェヴィキは、尋常ではない寛容さでもって左翼エスエルを処理した。
 数日後にボルシェヴィキがすることになるIaroslavl での場合のように、ボルシェヴィキに対して一致して戦った者を大量に殺戮しはしなかった。そうではなく、収監者を簡単に尋問しただけで、ほとんどの者を釈放した。
 ボルシェヴィキは、Popov の派遣団からの12人の海兵を処刑した。
 むろん、逃亡しようとしていた鉄道駅で捕えたAleksandrovich はそうした。
 Spiridonova と一人の同僚はクレムリンに連行され、ラトビア人警護兵が監視する暫定の監獄に収容した。
 彼女は2日後にクレムリン内の二部屋の区画に移され、1918年11月に行われた審問の日まで、比較的快適に過ごした。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを非合法化せず、機関紙の発行を許した。
 <プラウダ>は、左翼エスエルを「放蕩息子」と称し、やがて復帰するという希望を表明した(注128)。
 ジノヴィエフはSpiridonova を「黄金の心」をもつ「素晴らしい女性」と褒めちぎり、彼女が収監されたときは一晩中起きていた(注129)。
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 (19) このような寛大さをボルシェヴィキが敵に対して示したことは、前にも後にも、一度もなかった。
 こうした異様な行動によって、じつに、歴史家の中にはつぎのように疑う者も出現した。Mirbach 殺害と左翼エスエル反乱は、ボルシェヴィキによって演出された、と。しかし、このような手の込んだ欺瞞を行なう動機を見出したり、関係者からこれを隠し通した方法を説明するのは困難だ(注130)。
 しかしながら、何らかの陰謀理論に頼らなくとも、説明は不可能ではない。
 ボルシェヴィキは7月に、展望の見えない状況にあった。チェコ軍団に攻撃され、Iaroslavl とMurom では武装蜂起に直面し、ロシア人労働者と兵士は離反し、ラトビア人兵士の忠誠さすら確かでなかった。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルの支持者を敵に回しそうだったのではなかった。
 しかし、とりわけ、彼らが畏れたのは、自分たちの生命だった。
 Radek は、ドイツの友人に打ち明けたときに、ボルシェヴィキは復讐を恐れて左翼エスエルを寛大に扱った、と語りはしなかった(注131)。
 左翼エスエルの党員たちは、教条のために自分たちを犠牲にすることを全く厭わない狂信者でいっぱいだった。Spiridonova 自身も狂信主義的だった。彼女は、監獄から出したボルシェヴィキ指導部への書簡で、自分の死によってボルシェヴィキが「正気に戻る」ことを怖れたがゆえに処刑されなかった、それは残念だった、という旨を表明するまでした。
 Mirbach の後継者のKarl Helfferich も、ボルシェヴィキは左翼エスエルを根絶させることを恐れていた、という見解だった(注133)。
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 (20) 1918年11月に、革命審判所は左翼エスエル中央委員会の審理を行なった。もっとも、ほとんどのメンバーは逃亡するか地下活動に入っていたのだが。
 審理を受けたSpiridonova とIu. Sablin は、一年の有期刑を受けた。
 Spiridonova は最後まで服することなく、1919年4月に左翼エスエルの助けでクレムリンの監獄から脱出した(脚注)。
 彼女は残りの人生を監獄に入ったり出たりして過ごした。
 1937年、「反革命行為」の罪で25年の刑を受けた。
 1941年、収監されていたOrel にドイツ軍が接近した。ドイツ軍は彼女を連れ出し、射殺した(注134)。
 Mirbach 暗殺者たちのいずれも、老齢になるまで長くは生きなかった。
 Andreev は、翌年に、ウクライナでチフスのために死んだ。
 Bliumkin は地下にいたが、1919年5月に自首した。
 悔い改めて、許されたばかりか、共産党への入党を認められ、トロツキーの補佐に任命された。
 1930年後半、ロシアにいるトロツキー支持者に連絡文書を伝えるという誤った判断をし、逮捕され、処刑された(注135)。
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 (脚注) Spiridonova は脱出する前に、ボルシェヴィキ中央委員会あてに長い手紙を送った。それは翌年に支持者によって、Otkrytoe pis’mo M. Spiridonovi Tsentral’monu Komitetu partii bol’shevikov (Moscow, 1920)との表題で公表された。フーヴァー研究所図書館にa copy がある。
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 (21) 七月蜂起のさ中、左翼エスエルは、二つの派に分裂した。一方はこれを是認し、他方は離脱した。
 両派はやがて共産党に合流した。但し、地下活動を続けた、ごく少数の集団を除く。
 ジェルジンスキは、職務を停止された。
 のちのMirbach 暗殺犯の審問で証人となるために、公式にはチェカの議長とその一員であることを辞した(注137)。だが、ボルシェヴィキが通常のように法的厳密さに拘泥せず、またそのような審問も行われなかったので、辞職は体面を保つ儀礼にすぎなかった。
 ジェルジンスキの職務停止は、ほとんど確実に、彼は左翼エスエルの陰謀に関与していたのではないかとのレーニンの疑いによっていた。
 Latsis が秘密警察を指揮したが、8月22日にジェルジンスキが復職した。
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 (22) 左翼エスエルがぶざまに失敗したのは、明確な目標をもたず、政治的帰結への責任を負う意欲がなかった、という理由だけによるのではない。彼らは、ボルシェヴィキとドイツの反応を、完全に見誤っていた。
 のちに分かったように、ボルシェヴィキとドイツは、あまりにも多くの問題を抱えていたため、左翼エスエルによるドイツ大使の殺害によって挑発さるというほどではなかった(このことは、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Hermann Eichhorn 殺害でも続いた)。
 ドイツ政府はMirbach の殺害を事実上無視し、その指示を受けたドイツのプレスも重視しなかった。
 実際には、1918年の秋、ロシアとドイツはかつて以上に緊密になった。
 ボルシェヴィキは、対抗相手の選択について、きわめて幸運だった。
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 第12節、終わり。

2821/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第27期(2023年11月~2026年10月)等。

 民科(民主主義科学者協会)法律部会/役員名簿・第27期(2023年11月~2026年10月)等。
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 理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)
 副理事長/愛敬浩二(名古屋大学)、豊崎七絵(九州大学)
 全国事務局事務局長/塚田哲之(神戸学院大学)
 理事(49名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、安達光治(立命館大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、植松健一(立命館大学)、大河内美紀(名古屋大学)、大沢光(青山学院大学)、岡田正則(早稲田大学)、岡田行雄(熊本大学)、緒方桂子(南山大学)、小川祐之(常葉大学)、奥野恒久(龍谷大学)、緒方賢一(高知大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、門脇美恵(広島修道大学)、金澤真理(大阪公立大学)、彼谷環(富山国際大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、木下智史(関西大学)、清末愛沙(室蘭工業大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(元日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、清水雅彦(日本体育大学)、徐行(北海道大学)、新屋達之(福岡大学)、白藤博行(専修大学)、鈴木静(愛媛大学)、高田清恵(琉球大学)、高橋満彦(富山大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(愛知大学)、田淵浩二(九州大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、永山茂樹(東海大学)、新屋達之(福岡大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、人見剛(早稲田大学)、広渡清吾、本庄武(一橋大学)、本多滝夫(龍谷大学)、増田栄作(広島修道大学)、松宮孝明(立命館大学)、三成美保(追手門学院大学)、本秀紀(名古屋経済大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山田希(立命館大学)、和田真一(立命館大学)
 監事(3名) 今村与一(横浜国立大学)、桐山孝信(大阪公立大学)、和田肇(名古屋大学)
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 機関紙『法の科学』55号編集委員会11名のうち、上記の理事以外。
  北見宏介(名城大学)、西村智朗(立命館大学)、篠田優(北海学園大学)
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 機関紙55号『法の科学』55号に、報告・論考・書評類を掲載している者で、上記の者以外。
 小松浩(立命館大学)、杉田和正(早稲田大学)、笹倉香奈(甲南大学)、高良沙哉(沖縄大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、下山憲治(早稲田大学)、丹羽徹(龍谷大学)、大野友也(愛知大学)、鈴木賢(明治大学)、長利一(元東邦大学)、松浦陽子(東北学院大学)、金井幸子(愛知大学)、岩本一郎(北星学園大学)、長岡徹(関西学院大学)
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 出所-同会機関誌『法の科学』55号(日本評論社、2024年9月)。

2820/R.パイプス1990年著—第14章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧②。
 (11) 午後11時30分頃、レーニンは、Vatsetis の司令部付きのラトビア人政治委員を自分の役所に呼びつけ、政治委員たちは司令官の忠誠性を保証できるか否かと尋ねた(注121)。
 肯定する回答があったので、レーニンは、Vatsetis を左翼エスエルに対する戦闘作戦の任務に就かせることに同意した。
 だが、警戒を加えるために、通常は2名のところ、4名の政治委員をVatsetis 付きにした。
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 (12) Vatsetis は深夜に、レーニンと逢うようにとの電話を受けた。
 この出会いがどのようなものだったかを、彼は以下のように叙述している。
 「クレムリンは真っ暗で、空っぽだった。
 我々は、人民委員会議〔=内閣〕の会議室へと導かれた。そして、待つよう言われた。…
 私が今初めて入った本当に広大な部屋は、一つの電灯で明るく照らされていた。その電球は天井のどこかの隅から吊るされていた。
 窓のカーテンは下りていた。
 その雰囲気で、自分が軍事作戦という舞台の正面にいることを思い起こした。…
 数分後に、部屋の反対側の端の扉が開き、同志レーニンが入ってきた。
 彼は早足で歩いて私に近づき、低い声で私に訊いた。『同志、我々は朝まで耐えられるだろうか?』
 そう尋ねているあいだ、レーニンは私を見つめ続けた。
 私はその日に、予期しない出来事に慣れてきていた。しかし、レーニンの問いは、その鋭い言葉遣いでもって私を困惑させた。…
 朝まで持ちこたえることが、なぜ重要だったのだろう?
 我々は最後まで耐えられないのか?
 我々の状況はたぶんきわめて不安定だったので、私の政治委員たちは、私に本当の事態を隠蔽していたのだったか?」(注122)
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 (13) レーニンの問いに返答する前に、Vatsetis は、情勢を概観する時間が欲しいと言った(注123)。
 クレムリンを除いて、モスクワは反乱者の手の内にあった。クレムリンは、包囲されている要塞のごとくだった。
 Vatsetis がラトビア人分団の司令部に着いたとき、補佐官の長は彼に対して、「モスクワの連隊の全部」がボルシェヴィキに反対する側に回った、と言った。
 いわゆる人民の軍隊(People’s Army, Narodnaia Armiia)、すなわちモスクワの連隊のうち最大で、フランスおよびイギリスの軍団とともにドイツ軍と戦うべく訓練を受けてきた分団は、中立を維持すると決定していた。
 別の部隊は、左翼エスエルを支持すると宣言していた。
 ラトビア人兵団は、何とか残っていた。すなわち、第一連隊の一つの大隊、第二連隊の一つの大隊、そして第九連隊。
 第三連隊もあった。但し、忠誠心には疑問もあった。
 Vatsetis はまた、ラトビア人砲兵隊や若干のより小さい部隊を計算に入れることもできた。後者の中には、Bela Kun が率いた、親共産主義のハンガリー戦争捕虜の一団もあった。
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 (14)  Vatsetis は、このような情報を得て、翌朝早くまで反攻を遅らせることに決めた。その頃には、ラトビア人分団がKhodynka から戻ってくることになっていた。
 彼は、中央逓信局を奪い返すべく、第九ラトビア人連隊の二つの中隊を派遣した。しかし、能力がなかったか、欠陥があった。左翼エスエルは、何とか彼らを武装解除した。
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 (15)  午前2時、Vatsetis はクレムリンに帰った。
 「同志レーニンは同じ扉から入ってきて、同じ早足で私に近づいた。
 私は数歩だけ彼に向かい、報告した。『我々は、7月7日の正午までに、全線にわたって勝利するはずです』。
 レーニンは私の右手を彼の両手で掴み、強く握りながら、こう言った。
 『ありがとう。君は私を喜ばせた』。」(注124)。
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 (16) 午前5時に、湿った霧の気候の中で反攻を始めたとき、Vatsetis の輩下には3300人の兵士がおり、そのうち、ロシア人は500人もいなかった。
 左翼エスエルは激しく闘い抜いた。それで、ラトビア人兵団が反乱の中央を降伏させ、無傷でジェルジンスキ、Latsis、その他の人質を解放するには、ほとんど7時間を必要とした。
 Vatsetis は、首尾よく済ませた仕事への特別手当として、1万ルーブルを受けた(注125)。
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 (17) 7月7日と8日、ボルシェヴィキは反乱者たちを逮捕し、尋問した。反乱者の中には、Spiridonova、その他の全国ソヴェト大会の左翼エスエル代議員もいた。
 Riezler は、左翼エスエル中央委員会メンバーも含めて、ドイツ大使の殺害に責任のある者全員を処刑するよう、政府に要求した。
 政府は二人の委員を任命した。一人は左翼エスエル蜂起を捜査し、もう一人は、連隊の非忠実な行動について調査する。
 650人の左翼エスエル党員が、モスクワ、ペテログラード、地方諸都市で勾留された。
 数日後、それらのうち200人が射殺された、と発表された(注126)。
 Ioffe は、ベルリンにいるドイツ人に、被処刑者の中にはSpiridnova もいた、と語った。
 このことはドイツ人を大いに喜ばせ、ドイツのプレスは処刑のことを大きく取り上げた。
 この情報は間違いだった。しかし、Chicherin が否定したとき、ドイツの外務当局は、その影響力を使って、その否定の報道を彼らの新聞紙から閉め出した(注127)。
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 ③へつづく。

2819/R.パイプス1990年著—第14章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧①。
 (01) 暗殺犯たちは、逃げたときに文書を忘れていた。その中には、大使館への入館許可書があった。
 Riezler から提供されたこの資料と情報から、ジェルジンスキは、銃撃者はチェカの代表者だと名乗ったことを知った。
 彼は完全に驚愕し、Pokrovskii 営舎へと急いだ。そこに、Bol’shoi Trekhsviatitel’skii Pereulok 1番地のチェカ闘争分団があった。
 営舎は、Popov の指揮下にあった。
 ジェルジンスキは、Bliumkin とAndreev を自分の前に突き出すよう命じた。その際、左翼エスエル党の中央委員会全員を射殺させると威嚇した。
 Popov の海兵たちは、服従しないで、ジェルジンスキを拘束した。
 彼は人質となって、Spiridnova の安全を保障するために役立つことになっていた。彼女は、ロシアはMirbach から解放されたと発表すべく、ソヴェト全国大会へと行っていた(注109)。
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 (02) この事件は、雷鳴が伴なう激しい雨の中で起きた。モスクワはやがて、濃い霧に包まれた。
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 (03) レーニンは、クレムリンに戻る途中で、ジェルジンスキがチェカで捕えられたことを知った。Bonch-Bruevich によると、彼がこの報せを聞いたとき、「レーニンは青白くならなかった。白くなった」(注110)。
 レーニンは、チェカが自分を裏切った、と疑い、トロツキーを通じて、チェカの解体を命じた。
 M. La. Latsis が新しい治安警察を組織することになった(注111)。
 Latsis はBolshaia Lubyanka のチェカ本部へと急いで行き、建物もまたPopov の統制下にあることを知った。
 Latsis をPopov のいる本部まで護送した左翼エスエル党員は、その場で彼を射殺しようとした。だが、左翼エスエルのAleksandrovich が間に入って、救われた(注112)。
 役割が逆になってAleksandrovich がチェカの手に落ちた数日後にLatsisが返礼しようとしなかったのは、仲間としての素ぶりだった。
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 (04) その夕方、左翼エスエル党員の海兵と兵士たちは、人質を取ろうと街路に出た。自動車が止められ、それらから27人のボルシェヴィキ活動家が排除された。
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 (05) 左翼エスエルが利用できたのは、2000人の武装海兵と騎兵、8台の大砲、64本の機関銃、4ないし6の装甲車だった(注113)。
 モスクワのラトビア兵分団が郊外で休憩しており、ロシア人連隊の兵士は反乱者側にいるか中立であるかだったことを考えると、このような武力は、恐るべきものだった。
 レーニンは、かつての十月のケレンスキーと同じ屈辱的な苦境に陥っていると感じた。国家の長でありながら、自分の政府を防衛する武力をもっていなかったのだ。
 この時点で、左翼エスエルが望んでいたならば、彼らがクレムリンを掌握し、ボルシェヴィキの指導部全員を逮捕するのを妨げるものは何もなかっただろう。
 左翼エスエルは、武力を行使する必要すらなかった。彼らの中央委員会構成員は、クレムリンへの通行証を携行していたからだ。かつまた、それによって、レーニンの役所と私的住宅へも入ることができた(注114)。
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 (06) しかし、左翼エスエルにはそのような意図がなかった。ボルシェヴィキを救ったのは、左翼エスエルの権力に対する嫌悪だった。
 彼らが狙ったのは、ドイツを挑発し、ロシア人「大衆」の意気を掻き立てることだった。
 左翼エスエル指導者の一人は、捕えられているジェルジンスキに、こう言った。
 「君の前には既成事実がある。
 ブレスト条約は無効だ。ドイツとの戦争は回避できない。
 我々は、権力を欲しない。ウクライナのようになるとよい。
 我々は、地下に入る。
 君たちは権力を維持し続けることができる。だが、Mirbach の下僕であるのはやめなければならない。
 ドイツにロシアを、 Volga まで占領させろ。」(注115)
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 (07) こうして、P. P. Proshian が率いた左翼エスエルの軍団は、クレムリンへと行進してソヴィエト政府を打倒しないで、中央逓信局へと進んだ。そこを彼らは無抵抗なままで占拠し、そこから、ロシアの労働者、農民、兵士ならびに「全世界」に対して、訴えを発した(脚注)
 この訴えは混乱し、矛盾していた。
 左翼エスエルはMirbach 殺害について責任があるとし、ボルシェヴィキを「ドイツ帝国主義の代理人」だと非難した。
 彼らは、「ソヴェト制度」を擁護すると宣言したが、他の全ての社会主義政党は「反革命的」だとして拒絶した。
 一つの電報では、「権力にある」と宣言した。
 Vatsetis の言葉では、左翼エスエルは「優柔不断に」行動した(注116)。
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 (脚注) V. Vladimirova in PR, No. 4/63(1927), p.122-3; Lenin, Sochi neniia, XXIII, p.554-6; Krasnaia Kniga VChK, II (Moscow, 1920), p.148-p.155. Proshian は、その年の前半、逓信人民委員だった。
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 (08) Spiridonova は、午後7時にボリショイ劇場に到着し、大会に対して、長い、散漫な演説を行なった。
 別の左翼エスエルの演説者が、それに続いた。
 彼らは、完全に混乱していた。
 午後8時、代議員たちは、武装したラトビア人兵団が建物を包囲し、入り口を封鎖していることを知った。その入り口から出て、ボルシェヴィキは去っていた。
 Spiridonova は、支持者たちに対して、休憩して二階に集まるよう求めた。
 そこで彼女は、テーブルに跳び上がって、叫んだ。「ヘイ、君たち、国よ、聞け!、君たち、国よ、聞け!」(注117)。
 劇場の一翼に集まったボルシェヴィキ代議員たちは、自分たちが攻撃しているのか、それとも攻撃されているのかを、判断できなかった。
 ブハーリンはのちに、Isaac Steinberg にこう言った。
 「我々は君たちが我々のいる部屋に来て、我々を逮捕するのを待っていた。…
 君たちはそうしなかったので、我々は代わりに、君たちを逮捕することに決めた。」(注118)
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 (09) ボルシェヴィキが行動する好機だった。しかし、数時間が過ぎ去り、何も起きなかった。
 政府は恐慌状態にあった。信頼できる真面目な実力部隊がいなかったからだ。
 政府自身の推測によると、モスクワに駐在していた2万4000人の武装兵士のうち、三分の一は親ボルシェヴィキで、五分の一は信頼できず(つまり反ボルシェヴィキで)、残りは不確定だった(注119)。
 しかし、親ボルシェヴィキ兵士たちですら、動員することができなかった。
 ボルシェヴィキ指導部は絶望的な苦境にあり、クレムリンから避難することを考えた。
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 (10) ラトビア人ライフル兵団の司令官、I. I. Vatsetis は、モスクワ軍事地区司令官のN. I. Muralov から、司令本部へと召喚された。
 Podvoiskii もそこで、彼を待っていた。
 二人は状況を要約して伝え、作戦計画を立案するよう求めた。
 同時に、衝撃を受けているラトビア兵団長に対して、別の将校に作戦実行の任務を課すつもりだ、と言った。
 このように信頼が措かれていなかった理由は、確実に、クレムリンの側のVatsetis に関する知識にあった。彼はドイツ大使館と接触していると考えられていたのだ。
 別のラトビア人に指揮権を委ねるという試みに失敗した後で、Vatsetis は、彼の兵団に、「自分の長」とともに勝利することを保障した。
 このことは、クレムリンに報告された(脚注)
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 (脚注) ドイツ大使館は左翼エスエルに反対して行動するようラトビア人兵団に賄賂を送らなければならなかった、ということが、Riezler の回想録から知られている(Erdmann, Riezler, p.474.)。
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 ②へとつづく。

2818/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月2日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月2日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月2日(火曜日))」。
 太字化・下線は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「西播磨県民局長が解任された問題の関係でお尋ねします。
  昨日、前県民局長から、文書の内容は、事実無根とは認めておらず、内部告発という趣旨、事実関係を早急に調査すべきだという反論がありました
  その点についてご見解をお願いします。」
 知事「その文書は、報道等で承知していますが、内容そのものを承知していません。
  本件の対応は、今後、しっかり調査していくことが大事だと思います。まずは県の関係している弁護士の意見なども聞きながら、これから文書の内容等について、しっかり調査を進めていきたいと考えています。」
 記者「前回の記者会見では、調査中という段階でしたが、知事から内容は事実無根である、誹謗中傷に当たるというお話があったと思います。
  前回、逆に言えば、なぜ調査中であるのに、そこまで言い切られたのでしょうか。」
  知事「いわゆる文書を見た時に、やはり明らかに事実と異なる内容が多々含まれていることを私自身も感じましたし、それについて、私は公人ですが、一般職の職員に対するプライバシーの課題、虚偽の内容による県自身に対する信用失墜の可能性も高いと考えたので、そこは一定説明したところです。
  なぜかと言うと、西播磨県民局長(幹部職員)の人事異動を行ったので、その時に言える範囲で説明することが必要だと思ったので説明しました。
  今後は、先ほど申し上げたとおり、内容について、本人からの聴取も含めて、しっかり弁護士とも相談しながら、精査を進めていくことになります。」
 記者「県の弁護士の意見も聞いて内容を精査するお話がありました。
  今回の件は、知事に関する内容も含まれている文書だったと思います。
  その意味では、調査の客観性を担保するため、例えば、弁護士なりを入れた第三者委員会のようなものに調査をお願いするなど、一定の客観性の担保が必要ではないかと思います。その辺はどうお考えでしょうか。」
 
 知事「まずは、懲戒処分に該当する事案ですので、人事当局がきちんと懲戒事案に関しては調査をしていくことが大事だと思っています。
  その中で、一定の客観性を担保する意味で、弁護士を入れて調査していくことが大事だと考えています。」 
 記者「あくまで調査の主導をするのは人事当局であって、外部の第三者委員会のようなものを特別に設置して調べるなどの考えはないということですか。」 
 知事「今の時点では、このような懲戒処分は、人事当局が最終的にはすることになるので、人事当局で内部調査をしっかりやっていく。
  ただ、一定の客観性を担保する意味で、弁護士の意見を聞きながら、アドバイスを受けながらやっていくことになります。」 
 記者「元西播磨県民局長の問題ですが、昨日の文書では、本人は、ふさわしくない行為をしたことについては認めていないと記載があり、あくまでも内部告発だということでした。
 窓口は異なると思いますが、公益内部通報制度などであれば調査が必要だと思いますが、知事としてはこの文書の取り扱いをどのように考えていますか。」 
 知事「現時点で確認したところ、当該文書は、兵庫県の公益内部通報制度では受理はしていませんので、公益通報には該当しないと考えています。
  文書を作成し、一定流布がされている、かつ、内容も虚偽や信用失墜の内容が含まれているので、まずは、先ほど申し上げましたが、人事上の対応をした段階で、私から言える範囲と分かる範囲の説明をしましたが、改めて、文書内容の調査精査について、弁護士に相談しながら進めていきたいと考えています。」 
 記者「最初の文書の中で複数の項目を挙げて指摘していたと思います。
  職員に関わる部分や誹謗中傷だと受け取られる部分にはなかなか触れづらいと思いますが、知事ご自身にかけられている疑惑もあったかと思います。
  知事ご自身でもこれが虚偽であると判断している部分もありますか。」 
 知事「ありますが、現段階では個別で説明するよりも、全体を通じて弁護士の協力を得ながら精査をして、懲戒処分を行う段階で、改めて話せる範囲で説明をすることが大事だと思っています。」 
 記者「文書には、言動や人事的な取り扱いを指摘している部分と、違法性を指摘している部分もあると思います。弁護士に依頼するのは、懲戒処分に該当するもの全てですか。
  それとも、公益内部通報制度では違法性があると思われたものに関しては、公務員には通報する義務があると思いますが、違法性に該当するかもしれない部分について、弁護士に調査を依頼することになると考えているのですか。」 
 知事「調査方法は今後精査していかなければいけませんが、文書の内容には正しくない情報が多々含まれていると私は認識しています。
  客観的に裏付けをしていくことから始めたいと思っています。その過程で、文書の内容に関して、名誉毀損や違法性などがどのように出てくるのかも、調査になると思います。」 
 記者「弁護士の調査をもって被害届や違法性があるのかどうかを判断される予定ですか。」 
 知事「まずは人事管理上の懲戒処分の案件になるので、内部調査をして、当該職員の懲戒処分をどうするのかを精査していくことになると思います。
  その先どうするかは、今後の検討になると考えています。」 
 記者「就任から2年半が経ちますが、斎藤県政はボトムアップ型の県政を掲げていたと思いますが、現職の幹部から今回のような批判の文書が出てくることに対して、知事はどのように受け止めていますか。」 
 知事「残念です。若者・Z世代応援パッケージ含めて、今後、新たな一歩を踏み出して、一丸となって進めていこうとした矢先ですので、残念です。
  ご本人がどのような意図と経緯、方法で、今回の文書を作ったのかは、本人への聴取だけではなく、客観的な資料含めて、人事課が調査をしています。
  なぜ今回の行動をしようと思ったのか、どのように行ったのか、内容はどうだったのかが明らかになってくると思うので、その過程で判明してくると思います。
  どちらにしても、県庁一丸となって、今後も仕事を進めていくことが大事だと思っています。」 
 記者「元西播磨県民局長に関連して、前回の会見で先ほどの話と重複しますが、事実無根や嘘八百など、結構厳しい言葉で告発を糾弾されていました。
  少なくともご自身に関わる告発に関して明らかに事実と異なる点について、この場で明言していただけませんか。」 
 知事「文書にはたくさんのことが記載されており、全体の精査をしているので、調査をしていくことが大事だと思っています。
  調査が終わった段階で、私に関することで、事実ではない部分などを説明できる範囲で説明する方が良いと考えています。」 
 記者「少なくとも調査の主導が人事課であると、知事についての事実確認が難しいのではないかと思いますが、その点はいかがですか。」 
 知事「公務中にどのような対応をしたかは、私に関することでも調査はできると思います。
  全体の調査をする中で、一つ一つ精査をしていく方が良いと思います。」 
 記者「先ほど文書見られた話と見ていない話が混在していたと思いますが、告発文書は確認されましたか。」 
 知事「当該文書は見ました。見ていないと言ったのは、昨日出された文書ですので、混在はしていません。」 
 記者「知事がパワーハラスメントしたという文言も告発文書にはあったかと思いますが、その点に関して、事実関係や心当たりはありますか。」 
 知事「その点も含めて、内容を調査・精査してから説明する方が良いと思っています。一つを答えると、次も次もとなるので、全体を精査した上で、伝えた方が良いと考えています。」 
 記者「人事の調査が終わった段階で、知事の疑惑に関しても、明確に説明を果たしていただけるということですか。」 
 知事「私も当事者ですので、人事当局で、弁護士を入れて、ある程度の客観性を含めて調査をしていきます。
  その上で、私は公人ですが、一般職の方はプライバシーもあるので、全体の中で説明できる範囲でしっかりと説明していくことになると思っています。」 
 記者「懲戒処分が行われた段階で知事自身が疑惑に対しても説明される理解でよろしいですか。」 
 知事「可能性としてはあると思いますが、懲戒処分の際には、人事当局で、弁護士を入れて調査していき、結果を説明することが原則だと思います。」
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2817/R.パイプス1990年著—第14節⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第11節/左翼エスエルによるMirbach の殺害。
 (01) 全国ソヴェト大会がボリショイ劇場で始まったとき、左翼エスエルとボルシェヴィキはすぐに互いに激しく非難した。
 左翼エスエルの発言者は革命を裏切ったとしてボルシェヴィキを責め、都市と農村の間の戦争を扇動した。一方でボルシェヴィキは、ロシアとドイツの戦争を挑発しているとして、左翼エスエルを非難した。
 左翼エスエルは、ボルシェヴィキ政府の不信任、ブレスト=リトフスク条約の廃棄、対ドイツの戦争宣言を呼びかけて動議を提出した。
 ボルシェヴィキは多数でこれを却下した。このあと、左翼エスエルは会場から退出した。
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 (02) Bliumkin によると、7月4日の夕方にSpiridonova が彼に会いたいと言ってきた(注104)。
 彼女は、党は彼がMirbach を暗殺するのを望んでいる、と言った。
 Bliumkin は、必要な準備のために24時間の猶予を求めた。
 彼とAndreev に必要だったものの中には、二人がドイツ大使に聴取することを依頼する、ジェルジンスキの偽造署名のある文書、二本の回転式拳銃、二発の爆弾、Popov が運転手を雇う、チェカの自動車、があった。
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 (03) 7月6日の午後2時15分から30分頃、チェカの二人の代表者がDenezhnui Pereulok にあるドイツ大使館に姿を現した。
 一人は、Iakov Bliumkin、チェカ反対諜報局の職員だと自己紹介した。
 もう一人は、Nicholas Andreev、革命審判所の職員だと。
 二人は、信用証明書を提示した。それらにはジェルジンスキとチェカの書記の署名があり、「大使に直接の関係のある問題」を議論する権限を二人に与えていた(注105)。
 その問題とは、チェカがスパイ行為の嫌疑で勾留した、大使の親戚だと信じられた、Robert Mirbach 中尉の事案のことだと分かった。
 訪問者二人は、Riezler と通訳のL. G. Miller 中尉に迎えられた。
 Riezler は、自分はMirbach 公に代わって語る権限をもつ、と言った。だが、ロシア人たちは、ジェルジンスキから大使と個人的に話すよう指示されていると強く主張して、Riezler を相手にするのを拒んだ。
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 (04) 在モスクワ・ドイツ大使館は、しばらくの間、暴力が加えられる可能性があるという警告を受けてきていた。
 差出人不明の手紙がきた。また、完璧に機能している照明設備を点検するという電気技師の訪問とか大使館の建物の写真を撮っている者などの怪しい出来事があった。
 Mirbach は、訪問者と逢うことに気乗り薄だった。しかし、チェカの長からの信用証明書が提示されたので、彼らと逢うために降りて来た。
 ロシア人二人は大使に対して、Mirbach 中尉の事案に興味を持たれるだろう、と言った。
 大使は、情報は文書でもらう方がよい、と答えた。
 このとき、Bliumkin とAndreev は、それぞれの鞄に手を伸ばし、回転式拳銃を取り出した。銃は、Mirbach とRiezler を目指して火を噴いた。
 どの銃弾も、命中はしなかった。
 Riezler とMirbach は、床に倒れ込んだ。
 Mirbach は立ち上がり、居間を通って階上へと逃げようとした。
 Andreev は追いかけて、後頭部に向かって発射した。
 Bliumkin は、部屋の中央へと爆弾を投げた。
 二人の暗殺企図者は、開いた窓から跳んで外へ出た。
 Bliumkin は負傷したが、何とかAndreev に追いつき、大使館を取り囲む二メートル半の高さの鉄屏を昇り、エンジンを噴かせて外で待つ自動車に乗った。
 大使のMirbach は、意識を回復することなく、午後3時15分に死亡した(注106)。
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 (05) 大使館の館員たちは、大使への急襲はより一般的な攻撃の前兆ではないかと怖れた。
 軍事要員が、安全を保つ責任を引き受けた。
 ソヴィエト当局に連絡しようと試みたが、無益だった。電話線が切断されていたからだ。
 軍事担当官のBothmer は、外務人民委員部が所在しているMetropole ホテルへと走った。
 そこで、Chicherin の副官であるKarakhan に、起きたことを告げた。
 Karakhan は、クレムリンに連絡した。
 レーニンは3時30分頃に報せを受け、ただちにジェルジンスキとSverdlov に知らせた(注107)。
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 (06) その日の午後遅く、ボルシェヴィキの要職者の一行が、ドイツ大使館を訪れた。
 最初に到着したのは、Radek だった。彼は武器を携行しており、それをBothmer は、小さな攻撃用拳銃と叙述した。
 続いたのは、Chicherin、Karakhan、そしてジェルジンスキだった。
 一団のラトビア人ライフル兵たちが、ボルシェヴィキ要職者の後に来た。
 レーニンは、クレムリンにとどまった。だが、大使館に責任をもつRiezler は、説明と謝罪をするためにレーニン自身が現れるよう強く主張した。
 外国の外交官が国家の長に対して要求するのは、きわめて特異なことだった。だが、これは、レーニンが従わなければならなかった当時のドイツの影響力を示していた。
 レーニンは、Sverdlov を伴なって、午後5時頃にやって来た。
 ドイツ側の目撃者によると、レーニンは事件について純粋に技術的な関心を示し、殺害の場所、家具の正確な配置、爆弾による被害を示すよう求めた。
 彼は、死者の遺体を見るのは固辞した。
 レーニンは、あるドイツ人の言葉では、「犬の鼻のように冷たく」詫びの言葉を発し、犯罪者は罰せられると約束した(注108)。
 Bothmer は、ロシア人たちはきわめて怯えているように見える、と思った。
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 第11節、終わり。

2816/司馬遼太郎・三〇回忌。

 1875年(明治7年)から150年、1925年(昭和元年)から100年、1945年(敗戦)から80年、1970年(三島由紀夫の自決)から55年。
 そして毎日新聞(電子版)の2025年2月のある記事によると、「まもなく歴史作家・司馬遼太郎の三十回忌が来る」。
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 2020年に三島由紀夫の死後50年が経過するので、著作権が失効して無料の電子テキスト版全集でも出るかと期待していた。だが、著作権有効期間が延長されて、そうはならなかった。
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 司馬遼太郎が逝去したのは、1996年2月12日だった。
 突然の<腹部大動脈瘤破裂>による死。かかりつけ医師からは<坐骨神経痛>と言われていたらしいから、本人(および周辺の関係者)は予想していなかっただろう。
 異常の発生または「大動脈瘤破裂」の瞬間に、患者の意識は喪失するのだろうか、それとも激しい痛みを感じたままで意識の混濁と死へ向かっていくのだろうか。
 前者であったならば、司馬遼太郎は、自分の死を何ら意識または予期することなく、亡くなったことになる。
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 かねて不思議だったのは、司馬遼太郎のつぎの文章だった。
 「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
 例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

 このあとに「君たちは、ちがう」とつづく。
 これは司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」(原本/1985年、大阪書籍)の一部だ。
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 これを執筆したとき、1923年生まれの司馬は62歳になろうとしていた。
 そして、あと15年余り生きれば、2001年1月の21世紀を見ることができていた。
 「21世紀というものを見ることができないにちがいない」というのは、77-78歳まで生きることができないに違いない、と予想していることを意味する。
 言い換えると、司馬遼太郎は62歳くらいの時点で、77-78歳までは生きられない、それまでには死んでいるだろうと自分の将来を予測していたわけだ。
 これが不思議だった。
 1985年頃は、平均寿命は77-78歳以下だったのかもしれない。
 しかし、すでに60歳を超え、まだ腰の痛みもなかったとされ、その他とくに死につながり得るような「持病」をもっていなかったはずの司馬が、なぜ、自分の寿命を77-78歳以下と見切っていたのだろうか。
 実際には、1996年2月に満72歳で逝去した。予測は結果としては当たっていたことが、何やら悲しい。
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2815/R.パイプス1990年著—第14節⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図②。
 (06) 決定の直後に、左翼エスエルは動き始めた。
 モスクワとその郊外の連隊に煽動者を派遣した。いくつかでは党の側に引き込み、残りは中立化することに成功した。
 チェカ内部で活動する左翼エスエル党員は、ボルシェヴィキが反攻した場合に闘う軍事部隊を集結させた。
 ドイツ大使に対するテロリズム行為を実行する準備が行なわれた。ドイツ大使の暗殺は、全国民的な決起の合図として役立つものとされた。
 十月前夜のボルシェヴィキの戦術を模倣して、左翼エスエルは、その計画を隠さなかった。
 6月29日、機関紙の<Znamia truda>は第一面で、活動可能な党員全員に対して、7月末までに党の地域事務局へ報告するよう訴えた。党地域委員会は、軍事訓練を行なうよう指示された(注101)。
 その翌日、Spiridonova は、武装蜂起のみが革命を救うことができる、と宣言した(注102)。
 ジェルジンスキ〔Dzerzhinskii〕とそのラトビア人仲間がなぜ、この警告を無視して、7月6日に突然に身柄を拘束されたのかは、不可解な謎のままだ。
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 (07) この問題に対する部分的な、かつ部分的だけの回答は、陰謀者たちの何人かはチェカの指導機関で働いていた、ということだ。
 ゼルジンスキーは彼の代理人として、左翼エスエル党員であるPetr Aleksandrovich Dmitrievskii —一般にAleksandrovich として知られた—を選んでおり、この人物を完全に信頼して広い権限を与えていた。
 チェカに雇用され、陰謀に関与した他の左翼エスエル党員には、逆スパイとドイツ大使館への浸透を責務としていたIakov Bliumkin、写真家のNicholas Andreev、チェカの騎兵軍団の長官のD. I. Popov がいた。
 これらの人物が、秘密警察の本部の内部で、陰謀を企てた。
 Popov は、ほとんどが親左翼エスエルの海兵である、数百人の武装人員を集めた。
 Bliumkin とAndreev は、ドイツ大使のMirbachを暗殺する責任を請け負った。
 この二人はドイツ大使館の建物をよく知っており、大使殺害の後で辿る逃走経路の写真を撮っていた。
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 (08) こうした準備を監督していた<三人組(troika)>は、7月4日夕方に予定されていた第五回全国ソヴェト大会の第二日か第三日のいずれかに、蜂起を実行しようと計画した。
 Spiridonova は、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦布告を呼びかける動議を提出することとされた。
 大会での発言を決定する幹事委員会は、左翼エスエルに、寛大に議席の40パーセントを割り当てていた。また、多くのボルシェヴィキ党員がブレスト条約に反対していることが知られていた。これらの理由で、左翼エスエル指導部は、自分たちが多数派となる十分な可能性がある、と考えた。
 しかしながら、かりにそれに失敗するならば、ドイツ大使に対するテロリズム行為でもって反逆の旗を掲げることになるだろう。
 7月6日は偶然に聖ジョン日(<Ivanov den’>)だったので、行動には好都合だった。この日はラトビアの祝日で、ラトビア人ライフル兵団はモスクワ郊外のKhodynka 広場へと遠足して祝うことになっていた。そして、クレムリンには最小限の同僚のみを残すのだった(脚注)
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 (脚注)  彼らの指揮者のI. I. Vatsetis によると、その頃、ラトビア兵団のほとんどは、Volga-Ural の戦線へと派遣されていた。Pamiat’, No. 2(1979)
, p.16.
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 (09) 引き続く事態が進行したとき、モスクワの状況は弱々しいものだったので、左翼エスエルが権力奪取を望んだならば、ボルシェヴィキが十月にそうだった以上にはるかに簡単に、それができただろう。
 しかし、左翼エスエルは、断固として、統治する責任を負いたいと考えなかった。
 彼らの反逆は、クー・デタではなく、クー・劇場(coup de theatre)、すなわち、「大衆」に衝撃を与え、彼らの沈滞している革命精神を活性化するための、大規模の政治的示威行為、だった。
 左翼エスエルは、過ちを冒した。その過ちをレーニンは、彼の支持者に対して永遠に、革命で「演劇する」ことの過ちとして警告し続けた。
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 第10節、終わり。

2814/R.パイプス1990年著—第14章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図①。
 (01) 1918年の夏が近づくにつれて、左翼エスエル(社会主義革命党)の不安は増した。
 情熱的な革命家たちだったので、絶え間なく興奮してきた。十月の高揚、1918年2月の陶酔。
 国民がドイツの侵略に対抗して立ち上がったとき、忘れ難い日々は、左翼エスエルの詩人、Alexander Blok によって祝われた。二つの最も有名な革命詩、「十二」と「スキタイ人」によって。
 しかし、これらは全て過去のものになり、左翼エスエルは自分たちが今や計算高い政治家たちが作る体制の協力者であることに気づいた。その政治家たちは、ドイツと連合諸国の両方と取引して、工場を稼働させるために、また軍隊を指導するために、「ブルジョアジー」を再び招いた。
 革命にいったい何が起きたのか?
 1918年2月の後、ボルシェヴィキは彼らを満足させることを何一つ行なわなかった。
 左翼エスエルはブレスト条約を侮蔑した。彼らから見るとこの条約は、ドイツをロシアの主人にし、レーニンをMilbach の従僕にした。
 ドイツと仲間になるのではなく、彼らが望んだのは、必要とあらば素手でもってすら、大衆をこの帝国主義者に対して立ち上がらせ、革命をヨーロッパの中心へと送り込むことだった。
 ボルシェヴィキが左翼エスエルの抗議を無視してブレスト条約に調印し批准したとき、左翼エスエルはソヴナルコム(内閣、Sovnarkom)から離脱した。 
 彼らは、穀物を収奪するために武装部隊を派遣するという、1918年5月にボルシェヴィキが採用した政策に反対した。農民と労働者間に反目を生じさせると考えたからだった。
 死刑判決の再導入に反対し、チェカが政治的収監者に言い渡した全ての死刑判決に対して党員に拒否権を行使させて、多数の生命を救った。
 彼らは断固として、ボルシェヴィキは革命の裏切り者だと見なすようになった。
 指導者のMaria Spiridonova は、こう述べた。「私は今まで一緒に活動してきた。同じ防柵の上で闘ってきた。ともに目標に向かって栄光ある闘いを行なってきた。そのようなボルシェヴィキが、ケレンスキー政権の政策を採用していると認識することは、今ではつらい。」(注96)
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 (02) 1918年の春、左翼エスエルは、1917年にボルシェヴィキが臨時政府と民主主義的社会主義者たちに対してとったのと同じ態度を、ボルシェヴィキに対してとった。
 彼らは、革命の良心として、日和見主義と妥協主義の体制に対して、高潔な代替案を提示した。
 工業労働者に対するボルシェヴィキの影響力は低下していたので、左翼エスエルは危険な対抗者になった。左翼エスエルは、ボルシェヴィキが権力奪取の過程で利用したがいったん権力を握ると全力で抑圧したのと同じ、ロシア人大衆の無政府主義的で破壊的な本能に訴えたのだから。
 彼らは、ある程度の騒々しい市民たちから支持された。その中には、急進的なペテログラードの労働者や、バルト海および黒海の艦隊の海兵たちもいた。
 彼らが訴えたグループは基本的には、十月にボルシェヴィキが権力を掌握するのを助け、今では裏切られたと感じている者たちだった。
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 (03) 4月17日〜25日、左翼エスエルはモスクワで大会を開催した。
 大会は、6万党員を代表していると宣言した。
 ほとんどの代議員は、ボルシェヴィキとその<komissaroderzhavie>(「人民委員の統治」)との明確な決裂を望んだ(注97)。
 2ヶ月後(6月24日)の秘密会議で、左翼エスエルの中央委員会は、謀反の旗を掲げると決定した(注98)。
 ブレスト条約が追求した「息つぎ」は、終わらなければならない。
 彼らは、7月4日に予定されている来たる第四回全国ソヴェト大会で、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦を呼びかける動議を提出することになる。
 その動議が通過しなければ、ロシアとドイツの断絶をもたらすテロリズムによる挑発を開始するだろう。
 秘密会議で採択された決議には、つぎのように書かれていた。
 「左翼エスエル中央委員会は、共和国の現在の政治情勢を検討したうえ、ロシアの利益ならびに世界革命の利益のために、ブレスト=リトフスク条約が生んだいわゆる息つぎに対して、即時に終止符が打たれなければならない、と決議する。//
 中央委員会は、ドイツ帝国主義の指導的代表者たちに対して、一続きのテロリズム行為を組織することが実践的でありかつ可能であると信じる。
 これを実現するために、党の全力が組織され、全ての策が講じられなければならない。そうすれば、農民層と労働者階級はこの運動に参加し、積極的に党を助けるだろう。
 そのゆえに、テロリズム行為を行なうときには、ウクライナでの諸事件、農民のあいだでの煽動、兵器庫の爆発への我々の関与者に、全ての文書が知らされなければならない。
 これは、モスクワが合図する後でなされなければならない。
 この合図はテロリズムの一行為であり得るが、あるいは別の形態をとることもできる。
 党の全力の投入に寄与すべく、三人委員会(Spiridonova、Maiorov、Golubovskii)が任命された。//
 党の望みとは逆に、これがボルシェヴィキと衝突し得るという事実にかんがみ、中央委員会はつぎのとおり宣言する。
 我々は、人民委員会議の現下の政策に対する攻撃だと我々の政策を見なす。しかし、決してボルシェヴィキそれ自体に対する闘いではない。
 我々の政策に対してボルシェヴィキが攻撃的な反対攻撃を行なうということがあり得るので、我々は、必要とあらば、武力でもって我々の立場を防衛しようと決意している。
 党が反革命分子によって利用されるのを阻止するために、我々の政策は明白にかつ公然と言明されることが決議された。そうしてこそ、世界的な社会主義革命的政策は、やがてソヴィエト・ロシアによって用いられることができる。」(注99)
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 (04) この決議が示すように、左翼エスエルは、1917年十月のボルシェヴィキの行動を多くの点で模倣しようとしているにすぎない。一つのきわめて重大な違いは、左翼エスエルは権力の奪取を望まなかったことだ。
 権力はボルシェヴィキの手に残されるものとされた。
 左翼エスエルは、反ドイツのテロリズムへの反応としてドイツがロシアを攻撃するよう挑発することによって、ボルシェヴィキがその「日和見主義」政策」を放棄するよう仕向けることだけを欲した。
 この計画は全く非現実的だった。それが依拠していたのは、つぎのような賭けのごとき期待だった。
 ドイツはブレスト条約で獲得した莫大な利益を衝動的に放棄するだろう、そして、ドイツとロシアを結びつける共通の利益をすっかり無視するだろう。
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 (05) 左翼エスエルの三人委員会のうち最も有力な人物であるSpiridonova は、前世紀に特徴的な宗教的殉教者がもつ勇気を持っていた。だが、常識に似たものは何一つ持っていなかった。
 この時期の彼女を観察していた外国人は、全く褒め言葉のない報告を残した。
 Riezler にとって、彼女は「干上がったスカート」だった。
 ドイツの報道記者のAlfons Paquet は、こう彼女を見た。
 パンセネ〔鼻固定眼鏡〕を付けた、飽くなき発作者。語っているあいだいつも見えないハープに手を伸ばしているように見える、また、会場が称讃と憤激で充満しているときに焦ったそうに足を踏み鳴らして、落ちている服の肩紐を上げている、そのようなアテナを戯画化した人物。」(注100)
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 ②へとつづく。

2813/R.パイプス1990年著—第14章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定②。
 (09) このような考えを抱いて、Kühlmann は、ロシアでの厳格な不干渉政策を主張した。
 おそらくボルシェヴィキの探索だったものに応えて、彼はロシア政府に対して、ドイツもフィンランドもペテログラードには何の腹案も持っていないと、保証した。このような保証があったため、ラトビア人兵団を西部から、チェコ軍団と戦うことがひどく熱望されていた東部へと移動させることが可能になる(注91)。
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 (10) いつか最も「歴史的」な日々があると信じていた者たちにとって、1918年6月28日は、近代の最も「歴史的」な日の一つとして光るはずだ。
 なぜと言うに、ドイツ皇帝が衝動的な決定をして、ボルシェヴィキ体制を死刑判決から救ったのは、この日だったからだ。
 ロシア問題に関する報告書が、提示用に彼に送られてきた。
 彼の前には二つの文書があった。一つは、首相のGeorg von Hertling が著名した外務省からの文書だった。もう一つは、Hindenburg から。
 報告担当官の男爵Kurt Von Grünau は、皇帝補佐官に対して外務省を代表した。
 このような事態の経験を積んでいた者は全て、このような場合に報告担当官がもつ力を知っていた。
 報告担当官は、主要な政策案、被報告者が事態の不完全な知識にもとづいて選ぶために必要な政策の選択肢、を提示する。そのときに彼は、微妙な操作を行なって、自分が好む方向へと決定を誘導することができる。
 Grünau は、外務省の利益を促進するために、この機会を最大限に利用した。
 皇帝は、大部分について、Grünau が彼に提示した政策案の様式の結果として、重大な決定を下した。
 「瞬間的な気分と突然の閃きに従う皇帝の衝動的性格にとっては、助言者が彼に提示した最初の論拠を結論だ(<schlussig>)と思うほどに支持するのは、本質的特徴だ。
この場合も、それが起きた。
 助言者のGrünau は、Hindenburg が選考した案を皇帝に提示する直前に、Hertling からの電信(Kühlmann 推奨書も)を皇帝に知らせることに成功した。
 皇帝はすぐに首相〔Hertling〕に同意すると宣言し、とくに、まず、ドイツはロシアで軍事行動を行なってはならない、と述べた。また、ソヴィエト政府には、第一にペテログラードから安全に撤兵できること、第二に、「将来の機会を排除することなく」チェコ軍団に対抗して戦線を展開できること、最後に第三には、ブレスト条約を受諾した唯一の党派としてのソヴィエト政府には支援が拡大されること、を知らせなければならない、と述べた。(注92)」
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 (11) 皇帝による決定の直接的効果として、トロツキーは、ラトビア人連隊を西部国境からVolga-Ural 前線へと移動させることができた。
 ラトビア人兵団は戦闘可能な唯一の親ボルシェヴィキ軍団だったので、この行動によって、東部のボルシェヴィキ体制は完全な崩壊から救われた。
 7月末に、ラトビア人連隊と第四分団はKazan 近くでチェコスロヴァキア兵団と交戦し、第六分団はEkaterinburg で彼らを攻撃した。また、第七分団はIzhevsk-Botkin で、武装労働者の反ボルシェヴィキ蜂起を鎮圧した。
 これらの作戦行動は、戦況をボルシェヴィキに有利に変えた。
 ドイツの諜報機関が傍受したIoffe あての電報で、Chicherin は、ロシアがその兵団をドイツの戦線から撤退させ、その兵団をチェコスロヴァキア兵団に対抗して投入することができたことがきわめて役立った、ということを強調した(注93)。
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 (12) 皇帝の判断の長期的な効果は、ボルシェヴィキがその歴史の最も危機的な時期を乗り切ることを可能にしたことだった。
 ドイツがペテログラードを掌握するのに少しの努力も要らず、モスクワを占拠するにはほんの少し多くの努力しか必要としなかっただろう。二都市ともに事実上防衛されていなかったのだから。
 そしてドイツは、そのウクライナ作戦を繰り返すことができ、ロシア全土に傀儡政府を樹立しただろう。
 誰も、ドイツのそうした能力を疑っていなかった。
 ボルシェヴィキがより強固な地位にあった4月に、トロツキーはSadoul に、ドイツに後援された政党によってボルシェヴィキが排除されることはあり得る、と語った(注94)。
 6月末の皇帝の決定は、この可能性を永遠に消滅させた。
 西部での攻勢が終わりを告げた6週刊後、ドイツはもはや、ロシアの国内情勢に決定的に干渉する立場にいることはなくなった。
 ドイツがボルシェヴィキを支持し続けていることが知られるようになって、ロシアの反対派は落胆した。
 Kühlmann は皇帝の意向を伝達するとき、在モスクワ大使館に対して6月末に、レーニンと協力することを指示した。
 7月1日、Riezler は、右派中央派との会話を断絶した(注95)。
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 第10節へとつづく。

2812/斎藤兵庫県知事・2025年2月5日定例記者会見の一部。

 斎藤元彦兵庫県知事/2025年2月5日(水)定例記者会見の一部。
 MBS NEWS(YouTube)による。文責・太字化は聴き取り、引用をした掲載者。後日により正確化することがありうる。
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 ①39分05秒あたり以降。
 質問者「フリーの記者の松本と言います。
 さっき読売新聞さんが訊いていた二馬力選挙のことなんですけれども、これは知事戦の期間中に私が直接斎藤さんに伺ったときに、本人が認識していないことを言われた記憶があります。
 しかし、陣営の関係の複数の方とか応援されている方からは当然認識していて、しかし連絡はもちろんとっていないんだけれども、悪い影響は出ていないようなのでそのままにしているんです、みたいな話を複数聞いています。
 で、先ほど以来指摘があるように、首相だけでなく総務大臣だったり、兵庫県選管も、公選法に違反する疑いがあるという認識を示しています。
 そもそもこれまでずっと、自分の選挙に専念してきたのでそのことは認識していないし、それを何か言う立場にない、ということを仰言っているのですけれども、周りの方々は皆認識していて、ご自身だけエアポケットのように認識していないというのはどう考えても無理がありますし、選挙後になってこれだけ問題視されている中で、何も仰言られないというのは、かなり無責任だというふうに思うのですが。
 あらためて、二馬力選挙というものについての認識をお聞かせ願えないでしょうか。」
 斎藤知事「これまで申し上げてきたとおりです。…」
 質問者「なぜその…」
 斉藤知事「私としては、選挙というものは、今回の兵庫県知事選挙は候補者ですから、候補者として…」
 質問者「候補者…、当事者だからこそ…。」
 斎藤知識人「私は当事者、候補者として戦わせていただきました。私はあの、繰り返し言ってますけれども、立花さん自身も知らなかったですし、直接会ったこともなかったです。もちろん、あのー、討論会の場でご挨拶させていただいたことはありましたけれども、私自身は自分自身ができる選挙、自分自身がやれることを精一杯やってきたということですから、そういったことはない、というふうに申し上げてきましたので、同じ考え方です。」
 質問者「選挙中はそれでよかったとしても、選挙後です。首相のご答弁もそうですし、選管の反応も総務大臣も全部、選挙後です。選挙後にこれだけ社会問題になっている、その社会問題の当事者である知事としての立場で、何も、自分は一候補者だったというのでは話が通らないと思うのですが。」
 知事「それは、今ご指摘いただいているご質問者の考えだと思います。私としては、先ほど来申し上げているとおり、自分としては自分が当事者、候補者である選挙戦を精一杯自分自身として、斎藤元彦としてやらしていただいた、ということです。
 質問者「それで、社会的な理解が得られる、とお考えですか?」
 知事「それはあのー、私自身はそのように思っていますが、そのように考えているというのは、今の斎藤元彦としての考えです。」
 質問者「わかりました」。
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 ②55分25秒あたり以降。
 質問者「フリーの菅野です。今日質問するつもりはなかったのですが、一時間の約束も守られそうにないので、5分間だけ質問させてもらいます。
 先ほど…、時事通信さんからの指摘もありましたように、同じ答えしかできないから皆さんの質問が荒れるんです。空虚な記者会見になる責任の帰するところは、知事です。我々ではありません。…
 先ほど、松本さんの質問、および朝日新聞さんの質問、共同通信さんの質問で、二馬力選挙の話が出ました。それは当然だと思います。昨日の衆議院の予算委員会で二馬力選挙のことが議論されましたので。
 そのときに、記者の側からは二馬力選挙という言葉しか出ていないのですが、松本さんの質問に対して、知事はやおら、立花さんの名前を出されたんです。昨日の国会の議論でも、立花さんの名前は出てなかったと思います。
 ということは、知事、立花さんが二馬力選挙をしていることをご存知だったのですか。」
 斎藤知事「ちょっと、よく分からないです。
 質問者「いや、すごく単純な質問じゃないですか。誰も立花さんと言っていないにもかかわらず、二馬力選挙という主語であなたに質問しているにもかかわらず、あなたの返答には立花さんという名前があった、ということです。
 ということは、あなたは、二馬力選挙の当事者は立花さんだったということをご存知だったということですか、と問うているのです。」
 斎藤知事「私は先ほど来申し上げましたとおり、候補者として、—いろいろな候補者がおられたと思います—もちろん討論会とかもやらせてもらってますし、どういった候補者がおられるかということは分かっています。そんな中で、私としては、自分ができる選挙戦をしっかりやらせていただいたということだけですので、そういった認識はありません。」
 質問者「いや、司会者の方ね、僕が言ってるのはこういうことです。
 知事に問わずに司会者の目を見て訊きますが、僕の問いは、共同通信さんも朝日新聞さんも松本さんも、二馬力選挙という主語で語っているのです。にもかかわらず、知事からのご返答が、やたら立花さんだった。
 ということは、二馬力選挙の片方の当事者は立花さんだという認識があるんですか、という問いなんです。
 これ、記者会見を短く答えようと思うならば、イエスかノーかで答えられる質問なんです。
 もう一度問いますが、立花さんが二馬力選挙の当事者であったというご認識があった、というご認識で間違いないですか。」
 斎藤知事「私は、自分ができる選挙を、自分が一人でしっかり、候補者としてやらせていただいた、ということが答えです。」
 質問者「その言い訳は、僕の質問が、立花さんの二馬力選挙で助けられたと思っていますか、というときには成立する言い訳です。
 昨日国会で議論された二馬力選挙、松本さんの言葉を借りれば、いま社会問題になっている二馬力選挙のうちの一馬力は立花さんだった、という認識があるのですか、という問いです。」
 斎藤知事「いや、私は、だから、さっきから申し上げているように…」
 質問者「主語はあなたではないんです。」
 斎藤知事「私自身が、自分ができる選挙戦を…」
 質問者「それは存じあげています。僕が問うているのは—あと2分ほどあります—、僕が問うているのは、立花さんが二馬力選挙のうちの一馬力だったという認識があるのですか、という問いです。」
 斎藤知事「あのー、特定のことについて答える義務はありません。
 私は、先ほど来申し上げているとおり、あのー前回の兵庫県知事選挙というものは、自分ができること、自分が候補者としてやることをやってきた、ということです。
 私以外の方がどうだったか、ということについては、コメントする立場にない、ということです。」
 質問者「先ほどの時事通信の方の質問、憶えておられます?」
 斎藤知事「あの、質問に答えるということを、お互いにしっかりやりましょう、という…」
 質問者「はい。その舌の根も乾かないあいだに、僕の質問に対する回答は、先ほどの時事通信さんへの回答と平仄すると思います?」
 斎藤知事「えーと、私自身は、自分が質問に答えるということをしっかり答えさせていただいているつもりです。」
 質問者「では、先ほどの、特定の質問に答える義務はない、とはどういうことですか?」
 斎藤知事「あの、私自身は選挙戦で、繰り返しになりますが、一候補者として、他の候補の方がたくさんおられたということは存じあげているけれども、他の方がどうだったかについて、答える立場にはないし、自分自身は候補者として選挙戦を懸命に戦っただけです。」
 質問者「最後に一問だけ。
 その兵庫県知事選挙に出馬された当事者として、あなたは、国会や兵庫県選管やさまざまな機関が警鐘を鳴らしている二馬力選挙について、考えたり、コメントを述べたりする立場にはない、というふうに思ってらっしゃるんですか?」
 斎藤知事「選挙戦のあり方というのは、制度について、国や国会が、法改正などでしっかり対応していく必要があれば、法改正などで対応することだと思いますです。その議論の推移をしっかり見守る、…」
 質問者「いや、僕の問いとは全く答えがズレているんです。兵庫県知事選挙に立候補した者として、国会で議論までされている二馬力選挙という問題について、あなたは、考える必要がない、と考えてらっしゃるんですか、と問うているんです。
 斎藤知事「私自身は、選挙に立候補した者として、コメントすることは差し控えたい、ということです。
 質問者「コメントを求めているのではないのです。考えるべきか、考えるべきではないのか、どちらですか、と問うているのです。
 斎藤知事「選挙制度については、国において議論されるべきものだと思います。」
 質問者「なるほど、あなたは、考える立場にない、ということですね。…ありがとうございました。」
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2811/R.パイプス1990年著—第14章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定①。
 (01) 1918年の6月まで、将軍たちは、ボルシェヴィキとの決裂を要求する〔ドイツ国内の〕唯一の党派だった。
 彼らは、外務省当局と一緒になって動く産業家や銀行家によって抑えられていた。
 しかし今や、期待していなかった同盟相手を見つけた。
 チェコスロヴァキア兵反乱のあと、Milbach とRietzler はレーニン体制の存続可能性について確信を失い、ロシアで支持される別の基盤を探すようにさらに強く主張した。
 Rietzler の勧告は、印象にだけもとづいてはいなかった。
 彼には、チェコ軍団を阻止するためにボルシェヴィキが当てにできる勢力はボルシェヴィキを見捨てつつある、という直接の知識があった。
 彼は6月25日、ドイツ政府に対して、在モスクワ大使館はチェコ軍団と国内の対抗者に対するボルシェヴィキの行動を助ける全てのことをしているけれども、この努力は無駄なように見える、と助言した(注87)。
 こう思っていたことは、数年のちに初めて知られるようになった。
 内戦の東部戦線での赤軍の司令官だったM. A. Muraviev 中佐がチェコ軍団と戦うよう説得するために、Rietzler は彼に、資金援助(賄賂)をしなければならなかった(脚注)
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 (脚注)  Baumgart, Ostpolitik, p.227; Erdmann, Rietzler, p.474; Alfons Paquet in Winfried Baumgart, ed., Von Brest-Litovsk zur deutscheh Novemberrevolution (Goettingen, 1971), p.76. Muraviev は、ともかくも7月初めに脱落し、かれの兵団のもとで死んだ。
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 さらに厄介なことに、ラトビア人兵団はボルシェヴィキのために闘う意気を低下させていた。
 彼らは、後援者たるボルシェヴィキの運命が衰退傾向にあるのを感じ、孤立するのを怖れて、別の立場に替わることを考えた。
 ラトビア人兵団を説得して7月のIaroslavl でのSavinkov 反乱の鎮圧を助けさせるために、Rietzler にはより多くの援助資金が必要だった(注88)。
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 (02) チェコ軍団はそのあいだ、次々と都市を奪取していた。
 6月29日、Vladivostok を掌握し、Ufa の7月6日がつづいた。
 Irkutsk ではボルシェヴィキの抵抗に遭ったが、それを打倒し、7月11日にその街を掌握した。
 この時点までに、Penza から太平洋まで、東部シベリアの支線部を含めて、シベリア横断鉄道の全線は、チェコ軍団の手に落ちた。
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 (03) チェコ軍団が妨げられずに前進し、ボルシェヴィキ党員が離脱していく恐れも高まって、Mirbach とRietzler には不吉な予感が生まれた。
 彼らは、連合諸国がこの危機を利用して、エスエルによるクーを企むのではないか、そしてロシアは連合諸国の側に再び戻るのではないか、と懸念した。
 この大厄災の発生を阻止するために、Rietzler はドイツ政府に対して、ロシアのリベラル派および保守派と接触するよう強く主張した。これらの派は、右派中心派、カデット党〔立憲民主党〕、Omsk 政府、Don コサックに代表されていた(脚注)
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 (脚注) Erdmann, Rietzler, p.711-2. Rietzler は、ドイツの潜在的な同盟者の中にカデットを含めていた。その指導者のMiliukov は、当時ウクライナにいたが、親ドイツの志向を表明していたからだ。その他のカデット党員は連合諸国に忠実なままだった。
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 (04) 在モスクワ大使館からの警告的報告書によって、軍部の不満はさらに大きくなった。そして、ドイツ政府がもう一度「ロシア問題」を検討するよう動かした。
 ドイツ政府が直面していた問題は、つぎのように整理することができる。まず、終始一貫してボルシェヴィキに執着すべきか。その理由は、1)ボルシェヴィキは長期間の脅威としてのロシアを排除するするためにロシアを完全に壊滅させた、2)ボルシェヴィキはブレスト=リトフスク条約に黙従することによってロシアの最も富裕な地域をドイツの自由に委ねた。
 あるいは、それとも、ドイツの軌道の範囲内のロシアを維持する、もっと陳腐だがもっと生存可能性のある体制を選ぶために、ボルシェヴィキを振りほどくべきか。これがブレスト=リトフスク条約で獲得した領域の一部を放棄することを意味する、としても。
 これらそれぞれの立場の主張者たちは、手段について一致しなかった。
 だが、それらの目的は、同一だった。—すなわち、ロシアがフランスとイギリスがドイツを「包囲」するのを二度と助けないように、ロシアを弱体化すること。そして、ロシアを経済的浸透に対して広く開くこと。
 反ボルシェヴィキの党派は、こうした目標をロシアを従属した政治体に作り上げることによって達成したかった。しかし、一方で、外務省当局は、ロシアを内部から消耗させるためにボルシェヴィキを利用することによって、そうすることを選んだ。
 この問題をいずれかに決着させることは、ボルシェヴィキは衰亡しようとしているという在モスクワ大使館の見方からすると、かなりの緊急性を帯びた課題だった。
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 (05) ドイツ政府の誰も、ボルシェヴィキが長く権力を保持するのを望まなかった。論議は、戦争継続中の、短期間についてのものだった。
 論議に決着をつける困難さには、皇帝の気紛れさも加わっていた。皇帝はある日、「ユダヤ」ボルシェヴィキに対して激しく怒り、そのボルシェヴィキに対する国際十字軍を結成するのを望んだ。だが、次の日には、同じボルシェヴィキについて、ドイツの最良の友人だと語った。
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 (06) Ludendorff は、ボルシェヴィキを消滅させることを主張した。
 ボルシェヴィキは裏切り者だ。「我々のおかげで生きているとしても、ソヴィエト政府からは何も期待することができない」。
 彼がとくに困惑していたのは、ドイツの兵士たちのボルシェヴィキの政治宣伝への「感染」だった。そのプロパガンダは、東部の数十万の兵士たちの移動にともなって、西部前線へと広がっていた。
 彼は、ロシアを弱体化し、「力でもってロシアを[ドイツのために]奪う」のを欲した(注89)。
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 (07) 在モスクワ大使館は軍部の側にいたけれども、ロシアの政治集団から相当の支援を受けた見返りとして、ブレスト条約の改訂を推奨した。
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 (08) 反対する点がKuhlmann と外務省(在モスクワ大使館を除く)から申し立てられた。これには、多数の政治家とほとんどのドイツの事業家団体からの支持があった。
 5月に提出された外務省の覚書は、ボルシェヴィキとの協力を継続する論拠を定式化した。
 「ロシアの多様な所—主として反動的分野—から発せられているドイツの援助を求める理由は、資産階級の、ボルシェヴィキが彼らの所有物や資産を脅かしているという恐怖によって、最もよく説明することができる。
 ドイツは、つぎのような執行補佐人の役割を果たすべきだ。すなわち、ボルシェヴィキをロシアの家から引きずり出し、ドイツに対してツァーリ体制が過去数十年間追求してきたのと同じ政策を追求する反動家たちを復活させる、そのような執行補佐人。
 大ロシアに関して、我々は一つの最重要の利益をもつ。つまり、分解する力を促進し、その国を長いあいだ、弱いままにしておくこと。1871年の後にフランスに関して、Bismarck公が行なったのとまさに全く同じように。…
 その国の経済を掌握するためにロシアとの関係を正常なものにすることは、喫緊の我々の利益だ。
 その国の国内情勢に巻き込まれるほど、すでに我々とロシアを分けている亀裂は拡大するだろう。…
 ブレスト=リトフスク条約はボルシェヴィキによってのみ批准され、かつボルシェヴィキの全員ですらなかったことを、看過してはならない。…
 ゆえに、当面はボルシェヴィキを国家の指導的地位にとどまらせることが、我々の利益だ。
 ボルシェヴィキは当分の間、権力を維持するために、我々に対して忠誠の外貌を維持し、講和を保つために、行なうことのできる全てをするだろう。
 一方で、その指導者たちは、ユダヤ実業家なのだから、やがては、商業上および輸送実務の利益のために、彼らの理論を捨て去るだろう。
 よって我々は、ゆっくりと、しかし目的意識をもって、進まなければならない。
 ロシアの輸送、産業、そしてその国民経済全体は、我々の手中に握られなければならない。」
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 第九節②へとつづく。

2810/R.パイプス1990年著—第14章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第八節・チェコ軍団の前進。
 (01) チェコスロヴァキア兵の反乱は、ボルシェヴィキに対して、軍事的に挑戦したのみならず政治的脅威も与えた。
 Volga-Ural 地方やシベリアの諸都市は、リベラルなおよび社会主義的な知識人で溢れた。彼らは、ボルシェヴィキに対して立ち上がる勇気はなかったけれども、他者が与えてくれた機会を利用する心づもりはあった。
 彼ら知識人は、Samara とシベリアの街のOmsk に集中した。
 立憲会議の解散の後で、およそ70人のエスエル代議員はSamara へと旅行して、自分たちがロシアの正当な政府だと宣言した。
 Omsk は、カデットが率いた、より中央主義の知識人たちの司令地だった。ここにいた政治家たちは、シベリアをボルシェヴィズムと内戦から分離することに賛成だった。
 チェコ軍団が中央ヴォルガとシベリアの主要都市からボルシェヴィキを一掃するとすぐに、これら知識人たちは活動し始めた。
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 (02) チェコ軍団が(6月8日に)Samara を奪取したのち、ボルシェヴィキのもとで陰謀的存在になっていた立憲会議代議員たちは、公然化し、5人の幹事会によって率いられる、立憲会議委員会(Komitet Uchreditel’nogo Sobrania またはKomuch)を結成した。
 その綱領は、「全ての権力を立憲会議へ」とブレスト=リトフスク条約の廃棄を訴えた。
 その数週間後、Komuch はロシアの民主主義的社会主義の基本方針に適合した布告を発した。それには、個人的自由への制限の廃止、革命審判所の解体、が含まれていた。
 Komuch は、一般的自治政府の機関として、かつての<zemstva>と村議会を復権させた。だが、ソヴェトも維持して、その再選挙を命じた。
 銀行を非国有化し、ロシアの国債を尊重するつもりだと表明した。
 エスエルの農業綱領を模倣したものだったボルシェヴィキの土地に関する布令は有効なままだとされた(注81)。
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 (03) Komuch は自らをボルシェヴィキ体制に代わるものと見ていたが、Omsk にいるシベリアの政治家たちは、より穏健な地域的目標をもっていた。
 彼らは、チェコ軍団がボルシェヴィキを一掃した諸地域で合同し、1918年6月1日に、自らを西シベリア政府だと宣告した。
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 (04) チェコスロヴァキア兵たちは最初は、ロシアのボルシェヴィキへの対抗者に共感していなかった(注82)。
 エスエルが支援を求めて彼らに接近したとき、拒否した。理由は、彼らの唯一の使命はVladivostok への安全で迅速な移動を確実にすることにあったからだ。
 しかしながら、望むか否かを問わず、彼らはロシアの政治に巻き込まれざるをえなかった。目標を実現するためには、地方当局と交渉しなければならず、それはKomuch やシベリア政府との関係を増大させることを意味したからだ(注83)。
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 (05) チェコスロヴァキア兵団が反乱を起こしたとき、ボルシェヴィキ政府は、彼らは連合国の諸政府の指示のもとで行動している、と考えた。
 共産主義歴史家たちは、この見方に執着してきた。支持する証拠はなかったにもかかわらず。
 フランスの側から見た、ある歴史家の言葉が知られている。彼は関連する文書資料の全てに目を通し、「フランスが[チェコスロヴァキア兵の]蜂起を扇動していたことを示すものは何もない」と書いた(注84)。
 このことは、当時のSadoul の見方の適切さを確認する。Sadoul は、首尾はよくなかったが、友人のトロツキーに対して、フランス政府はチェコスロヴァキア軍に対して何の責任も負わないことを納得させようとした(注85)。
 実際に、少なくとも最初は、チェコスロヴァキア兵の反乱は、フランスにとっては不愉快な驚きだった。チェコ軍団を西部前線に移動させるというフランスの計画を転覆させるものだったからだ(注86)。
 イギリスが介入していた証拠もない。
 共産主義歴史家はのちに、Masaryk に責任を負わせようとした。しかし、彼は実際には、最も不幸を味わった人物だった。チェコスロヴァキア兵団がロシア情勢に巻き込まれることになって、チェコ国民軍をフランスに集めようとする彼の計画は妨害されたのだ(脚注)
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 (脚注) 「結論として一つのことが帰結される。すなわち、連合諸国からであれ地下の白軍の中央司令部からであれ、外部からの刺激または奨励は、ソヴィエト権力に対抗して武器を取るとのチェコ軍団の決定に対して、いかなる役割も果たさなかった。こうした敵対関係の発生は、偶発的なものだった。関係当事者の誰も望んでいなかった」。G. F. Kennan, The Decision to Intervene (Princeton, N.J., 1958), p.164.
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 (06) しかし、歴史の真実はどうだったのであれ、事態の激しい推移の中で、ロシア政府が〔チェコ軍団の〕Gajda 将軍の背後に連合諸国の意図を見るのは自然なことだった。チェコ軍団が、自分たちを武装解除させようとする命令の中に、ドイツの圧力を見るのは自然だったように。
 チェコスロヴァキア兵反乱事件は、ボルシェヴィキにあった連合諸国との経済的および軍事的協力の可能性を奪い、—完全に不本意というのではなく—ロシアをドイツの腕の中へと押しつけた。
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 第八節、終わり。 

2809/R.パイプス1990年著—第14章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第七節/ボルシェヴィキによる徴兵制度の採用。
 (01) 直接に向けられたのではなかったが、チェコスロヴァキア兵の反乱はボルシェヴィキ政府にとって、ブレスト=リトフスク条約以降の最初の深刻な軍事的挑戦だった。
 数ヶ月の検討をしたにもかかわらず、まだ赤軍はほとんど紙の上の存在だった。
 シベリアでのボルシェヴィキの実働人員は、数千人の「赤衛隊」およびそれと同様の数の親共産主義のドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人の戦争捕虜で成っていた。
 中央の司令部のないこの混成部隊は、チェコスロヴァキア兵よりも劣っていた。絶望的になったソヴィエト政府は、ドイツに対して6月末に、チェコスロヴァキア兵に対して用いるべく、ロシアにいるドイツ人戦争捕虜を武装させる許可を求めた(注71)。
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 (02) ボルシェヴィキを真剣に軍隊の設立に取り組むよう最終的に強いたのは、チェコスロヴァキア兵の反乱だった。
 最高軍事会議で帝制時代の元将軍たちは、もっぱら「プロレタリア」分子で構成される全てが自由意思の軍隊という想念を放棄して、一般的な徴兵制度の採用へと移ることを強く主張してきていた。
 ロシアの人口構造からすると、徴兵軍では、農民が圧倒的多数を構成することになる。
 現実的な選択的判断をすることができていなかったが、レーニンとトロツキーはやっと、職業的な将校団と多量の農民徴用兵をもつ常備軍に対する嫌悪を克服した。
 政府は4月22日に、18歳から40歳までの全男子が8週間の軍事訓練を受けるべきことを命令した。
 この指令は、労働者、学生、「開発」に従事していない、つまり賃労働者を雇用していない農民に適用された(注72)。
 これは、最初の一歩だった。
 政府は5月29日に、段階的に総動員が実施されるべきことを命令した。
 最初に、モスクワ、Don、Kuban の、1896年および1897年生まれの労働者が召集されることになる。
 その次はペテログラードの労働者。そのあと、鉄道労働者と事務従事被雇用者へと広がった。
 これらの被召集者には、6ヶ月間の服務が課せられた。
 農民たちはまだ、召集されなかった。
 6月に、兵士の給料が1ヶ月150ルーブルから250ルーブルに上げられた。また、標準の制服を用意する最初の試みが行なわれた(注73)。
 同時期に、政府は、帝制軍の旧将校たちの自発的登録を開始し、総合幕僚アカデミーを開設した(注74)。
 最後に7月29日、政府は、二つの布令を発した。これらは、これ以来赤軍として知られるようになる軍隊の基礎になった。
 第一の布令は、18歳から40歳までの男子全員の軍事労役の義務を導入した(注75)。
 この布令の定めにより、50万人以上の男子が徴兵された。
 第二の布令は、革命審判所による制裁で威嚇されたのだが、指定された地域で、旧軍隊の全ての将校(1892年から1897年までに生まれた者を含む)の登録を命じた(注77)。
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 (03) こうしたことが、赤軍の起源だった。
 構造と紀律について、職業的将校たちの助けでもって組織され、すみやかにほとんどもっぱら彼らによって司令されるものとなって、赤軍は不自然にではなく、帝制軍をモデルにしていた(注78)。
 赤軍の唯一の新規さは、「政治委員」(political commissars)、すなわち全てのレベルの指令者への忠誠性に責任を負う、信頼に足るボルシェヴィキの<政治局員〔apparatchiki〕>に託された地位、を導入したことだった。
 トロツキーは、〔1918年〕7月29日の中央執行委員会で、彼を不人気にした威張り方でもって、今では「軍事専門家」とも称されるかつての帝制将校たちの信頼性を懸念する者たちに対して、ソヴィエト・ロシアを裏切ることを企図する者は全て、ただちに射殺される、と保証した。
 彼はこう言った。「全ての専門家の隣には、政治委員が、一人は右に、もう一人は左に、拳銃を手にして、立っている」(注79)。
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 (04) 赤軍はすぐに、新しい体制の甘やかされた子どもになった。
 1918年春には早くも、兵士たちは工業労働者よりも多い給料と配給を手にした。これに工業労働者は声高に抗議した(注80)。
 トロツキーは、伝統的な軍事紀律に即した苦役を再導入した。
 5月1日にモスクワのKhodynka 広場で行なわれた赤軍の最初のパレードは元気がないもので、主としてラトビア人兵士によっていた。
 しかし、1919年とそれ以降の数年、トロツキーは赤の広場で、綿密に組織された、かつてなく手の込んだパレードを演出した。それはかつての老将軍たちの目に涙を滲ませた。
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 第七節、終わり。

2808/R.パイプス1990年著—第14章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱②。
 (09) 予期せぬ事件が、全ての計画をひっくり返した。
 5月14日、西部シベリアの町のCheliabinsk で、チェコの兵士と本国へ送還中のハンガリーの戦争捕虜のあいだで、争論が起きた。
 叙述できるかぎりでは、一人のハンガリー人が鉄の棒または何かの金属物体を鉄道のプラットホームに立っていたチェコ人に投げ、うち一人が重傷を負った。
 喧嘩が勃発した。
 Cheliabinsk のソヴェトが騒擾に参加した数人のチェコスロヴァキア人を勾引したとき、別のチェコ人が地方の武器庫を掌握し、仲間の即時釈放を要求した。
 上回る力に負けて、ソヴェトは屈服した(注64)。
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 (10) この時点まで、チェコスロヴァキア兵にはボルシェヴィキ政府に対抗して武力を取り上げる意図はなかった。
 実際に、チェコスロヴァキアの政策の大きな趨勢は友好的な中立の立場だった。
 Masaryk も親近的だったので、連合諸国に対してソヴィエト政府に事実上の承認を与えるよう主張していた。
 チェコ軍団について、共産主義者のSadoul は、彼らの「ロシア革命への忠誠心は争う余地がない」と書いた(注65)。
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 (11) こうした状態は全て、トロツキーの愚かな行為によって変わることになる。
 トロツキーは、新たに任命された戦争人民委員として、その地位を示威したかった。自らの指揮のもとにある兵団を実質的には何一つもっていなかったのだが。
 この野望によってすみやかに、適切な規律をもったチェコスロヴァキア人の一団は「反革命的」軍隊に変えられた。これはボルシェヴィキにとって、権力掌握以降で最も深刻な軍事的脅威になっている、というのだ。
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 (12) トロツキーは、Cheliabinsk で明らかになったこと、そしてチェコ人が「チェコスロヴァキア革命軍大会」を開催したことを知った。そしてただちに、モスクワ在住のチェコスロヴァキア国民会議の代表の逮捕を命じた。
 驚愕したチェコの政治家たちは、チェコ軍団の解体を含む、トロツキーの全ての要求に同意した。
 トロツキーは5月21日、チェコ軍団が東へとさらに進むことを中止させた。軍団の兵士たちは、赤軍に加わるか、または「労働大隊」へと徴用されなければならない。—後者は、ボルシェヴィキの強制労働部隊の一部になる。
 服従しない者は強制労働収容所(concentration camps)へと拘禁されるものとされた(脚注)
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 (脚注)これは、ソヴィエトの諸発表の中で最も早い強制労働収容所への言及だと見られる。
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 5月25日、トロツキーはつぎの命令を発した。
 「鉄道沿いの全てのソヴェトは、重い責任のもとで、チェコ人を武装解除することを指示される。
 鉄道路線沿いの武器を持って発見される全てのチェコ人は、その場で処刑されるものとする。
 <ただ一つ>であっても武器を持つチェコ人を運んでいる全ての列車(echelon)は、積荷を降ろされ、(列車内の人員は)戦争捕虜収容所へと収監されるものとする。」
 これは、際立って不適切な命令だった。不必要な挑発だったというだけではなく、トロツキーはこれを強制的に執行する手段を有していなかったからだ。チェコ軍団は、シベリア地方で最も強力な軍事部隊だったのだ。
 同時に、トロツキーはドイツからの圧力を受けて行動した、と広く信じられた。だが、これらの5月の諸命令についてドイツには責任がない、ということが確定されてきている(注67)。
 トロツキーによるまさに非ボルシェヴィキ的な「力の相互関連」の無視だったのであり、これはチェコスロヴァキア人の反乱を誘発した。
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 (13) チェコスロヴァキア兵は、5月22日、武装解除せよとのトロツキーの命令を拒否した。
 「チェコスロヴァキア革命軍大会は、Cheliabinsk に集まって、…革命の強化のための困難な闘争を行なうロシアの革命的人民に対する共鳴の感情を宣言する。しかしながら、大会は、我々の兵団のVladivostok に向かう自由で安全な通行を保障するにはソヴィエト政府は無力であると確信して、満場一致で、兵団が出発することを許され、反革命的な列車からの保護を保障されるまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した。」(注68)
 この決議をモスクワに伝達するに際して、チェコスロヴァキア兵大会は、こう言った。大会は「満場一致で、安全な旅行の保障が考慮されて、Vladivostok に到着するまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した」。
 これが表明しているのは、チェコスロヴァキア兵団が出発するのを妨害するいかなる企てもなされないだろう、という希望だった。「あらゆる紛争は、シベリアの地方ソヴェト機関の地位を損傷するだけ」なのだから(注69)。
 チェコ軍団はMurmansk やArchangel へと再迂回せよとの連合諸国の指令は、単直に無視された。
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 (14) トロツキーの指示が知られるようになったとき、1万4000人のチェコスロヴァキア兵はすでにVladivostok に着いていた。だが、2万500人は、シベリア横断鉄道と中央ロシアの鉄道の長さで連なっていた(脚注)
 ボルシェヴィキは自分たちをドイツに渡そうとしていると確信し、また地方ソヴェトに脅かされて、彼らは、シベリア横断鉄道の支配権を握った。
 しかし、そうしているときであっても、自分たちはソヴィエト政府と闘ういかなる組織とも交渉しない、ということを彼らは再確認していた(注70)。
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 (脚注) M.Klante, Von der Wolga zum Amur (Berlin, 1931), p.157.トロツキーから情報を得たかもしれなかったSadour は5月末に、軍団を異なって配分した。Vladivostok は5000、VladivostokとOmskの間に20000、Omsk の西のヨーロッパ・ロシアに20000。J. Sadoul, Notes sur la Revolution Bolchevique (Paris, 1920), p.366.
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 (15) チェコスロヴァキア兵団が鉄道を奪取してしまうと、鉄道沿いの都市のソヴェトは崩壊した。
 そして、その崩壊が起きるとすぐに、ボルシェヴィキに敵対するロシア国内の対抗者たちが、真空を埋めるべく入ってきた。
 チェコスロヴァキア兵は5月25日に、Mariinsk、Novonikolaevsk にある鉄道線路の交差点を占拠した。これは、シベリアの広い地域との線路や電信でのモスクワとの連絡を切断する効果をもった。
 2日後、彼らはCheliabinsk を掌握した。
 5月28日、彼らはPenza を奪取した。6月4日にはTomsk、6月7日にはOmsk、6月8日にはSamara。Samara は、ラトビア兵団によって防衛されていた。
 彼らの軍事作戦が拡張するにつれて、チェコスロヴァキア兵団は司令部を中央化し、最高司令官として、自己流の「将軍」、Rudolf Gajda を選出した。この人物は野心的な術策家で、もっている相当の軍事的才能は、政治感覚と釣り合ってはいなかった。
 彼の仲間たちは、際限なくこの人物を信頼した(脚注)
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 (脚注) オーストリア・ハンガリー軍の医療助手で、チェコスロヴァキア兵団で大尉のランクまで昇格した。1919年に、彼はKolchak 提督の軍にいて戦闘した。チェコスロヴァキアが独立を達成した後、軍事機密の漏洩の咎で逮捕されるまで、幕僚長として働いた。逮捕後の判決では無罪が言い渡された。さらにのち、彼はナツィスに協力した。
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 第七節へとつづく。

2807/R.パイプス1990年著—第14章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱①。
 (01) ロシアの状況はまだ十分に複雑でないかのごとく、春に、彼らはウラルとシベリアの広大な地域でボルシェヴィキの支配を脱していた、チェコスロヴァキアの従前の戦争捕虜たちの反乱が起きて、状況はさらに複雑になった。
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 (02) ロシア軍はオーストリア=ハンガリー帝国に対して1914年に勝利したが、そのあいだに、数十万人を戦争捕虜にしていた。その中には、5ないし6万人のチェコ兵とスロヴァキア兵がいた。
 ロシア帝国政府は1914年12月に、多くは熱心に反ドイツ的で反ハンガリー的なこれら捕虜たちに、自分たちの軍団を形成し、ロシアの兵団とともに戦闘すべく前線に戻る機会を与えた。
 この機会を活用したチェコ人は、ほとんどいなかった。
 たいていの者は、この軍団(Druzhina と呼ばれた)を中央諸国は裏切り者として扱い、捕えた後で処刑するだろう、と怖れた。
 にもかかわらず、1916年には、二つのチェコスロヴァキア連隊が出現していた。これらは、将来の独立チェコスロヴァキア軍の中核になるべきものだった。
 パリにあったチェコスロヴァキア国民評議会の長のThomas Masaryk は、ロシアその他に在住する民間人や戦争捕虜たちを西部前線で戦う正規の国民軍に編成する、という考えを抱いた。
 彼は、ロシア帝国政府と、チェコの戦争捕虜たちをフランスに避難させるよう交渉を開始した。しかし、ロシア政府は協力しなかった。
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 (03) Masaryk は、〔1917年2月以降に〕臨時政府にその案を再提示した。臨時政府は、好意的に反応した。
 チェコ軍団の編成は迅速に進み、1917年春には、2万4000人のチェコ人とスロヴァキア人は一つの兵団を組織し、東部戦線で戦った。彼らは1917年6月に攻勢に出た。
 この兵団とロシアの収容所にいる残りの捕虜たちを西部前線へと移送する計画が立てられた。だが、これを妨害したのは、ボルシェヴィキのクー〔1917年10月〕だった。
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 (04) 連合諸国は1917年12月に、ロシアにいるチェコスロヴァキア軍団を、最高連合国司令部の傘下にある分離した軍隊だと承認した。
 Masaryk はその翌月にロシアに戻り、もう一度交渉した。このときはボルシェヴィキ政府との交渉で、軍団のフランスへの避難が主題だった。
 中央諸国とウクライナ間の条約締結によって、チェコスロヴァキア兵が最も多く抑留されていたウクライナをドイツが占領しそうになったために、今やこの問題は相当の緊急性をもつことになった。
 ボルシェヴィキは、ブレスト条約に調印するまで、結論を遅らせた。そしてようやく3月半ば、連合諸国との関係が最も友好的だったときに、ボルシェヴィキは同意を与えた(注57)。
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 (05) Masaryk と連合国司令部は最初は、チェコスロヴァキア兵の避難をArchangel とMurmansk を経由して行なうつもりだった。
 しかし、北部の港湾への鉄道路線がフィンランドのパルチザンによって脅かされ、加えてドイツの潜水艦による危険もあったので、彼らをVladivostok で乗船させることが決定された。
 Masaryk は、チェコ軍団(Czech Legion)として知られることになる兵団の司令官たちに対して、「軍事的中立」の政策(注58)を採用すること、絶対にロシアの国内問題に干渉しないことを指示した。
 チェコスロヴァキア人が迂回してVladivostok へと到達しなければならない地域はアナーキーの状態にあったので、Masaryk とボルシェヴィキ当局とのあいだで、彼らは自衛のために十分な武器を携行することが取り決められた。
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 (06) チェコスロヴァキア人は十分に組織されており、早く出立したかった。
 彼らはボルシェヴィキ政府から許可を得るとすぐに、大隊(battalion)規模の、1000人編成の分団を形成し、ロシアで<echelon>として知られた特別の列車に乗った。
 最初のechelon がPenza に着いたとき、スターリンから1918年3月26日付の電報が届いた。それには、〔チェコスロヴァキア人の〕避難が行なわれるべき条件が列挙されていた。
 「戦闘部隊」ではなく「自由市民」として旅行すべきこと。武器は「反革命者たち」から身を守るために必要なものとして携行されるべきこと。
 チェコスロヴァキア人には、Penza ソヴェトが用意した政治委員が同行するものとされた(注59)。
 彼らは、ドイツの圧力の存在が疑われたこの命令に不満だった。訓練が行き届いていない急進的な親ボルシェヴィキ勢力、とりわけ、ハンガリーとチェコの戦争捕虜たちの中から募集された狂信的共産主義者に、信頼を措けなかったからだ。
 Penza を出る前に、彼らはやむなく武器の一部を放棄した。いくつかは公然と持ち続け、残りは隠した。
 そして、避難が再開した。
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 (07) 彼らは愛国心を強くもち、そのゆえにボルシェヴィキが中央諸国と分離講和条約を締結したのに不満だったけれども、政治的見解としては、断固として中央の左側に立っていた。ある歴史家の推測によると、彼らのうち四分の三は社会主義者だった(注60)。
 Masaryk の指令に従って、彼らは義勇軍〔白軍〕とボルシェヴィキのいずれの側からの接近も無視した。ボルシェヴィキはチェコの共産主義者を媒介者として使っていたのだけれども(注61)。
 彼らの心の中にあった目的は、一つだった。ロシアから抜け出ること。
 そうであっても、内戦の最中の地域を横切っていたので、ロシアの政治に巻き込まれるのを完全に避けることはできなかった。
 シベリア横断鉄道沿いの街を通過していたときに、地方の協力者たちとの接触を確立した。協力者たちは、食糧や必需品を彼らに与えてくれた。これは大半は、シベリアの第一党派であるエスエルによって行なわれていた。
 同時にまた、ときには都市ソヴェトやその「国際的」軍団と争論することもあった。後者のほとんどは、チェコスロヴァキアを革命に参加させたいハンガリーの戦争捕虜たちで構成されていた。
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 (08) 1918年5月末時点でのチェコ軍団のロシア情勢への関与は、中立政策の重要な転換ではなかった。
 ドイツがロシア政府に対して、チェコスロヴァキア人の避難を止めるよう求めたとき、その転換が始まった。ドイツは、数万人の新規のかつ士気高いチェコスロヴァキア人が西部前線で連合諸国の兵団に加わるとの見込みを不快に思ったのだ。
 ロシア政府は、ドイツからの要望の趣旨で命令を発した。しかしこれを履行させる手段はなく、チェコ軍団は前進し続けた(注62)。
 続いて、連合諸国が介入した。
 ロシア領土にいる連合国軍の編成に関して4月初めに届いた理解に従って、連合諸国は、ロシアにとどまって日本軍が大量の兵員を備えようとするこの軍隊に加わることもできるときに、チェコ軍団を地球を半周してフランスに送る意味はない、と結論づけた。
 連合諸国は、5月2日に大部分はイギリスの主張にもとづいて、Omsk 西方に位置するチェコ軍団はVladivostok へと進むのではなく、北へ、Murmansk とArchangel に向かう、そこで次の命令を待つ、と決定した(注63)。
 ロシア政府は、反対しなかった。だが、この決定はチェコスロヴァキア人に多大の苦難をもたらした。
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 ②へとつづく。
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