秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2024/09

2768/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑥。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一章②
 (07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
 10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
 11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
 ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
 1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
 Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
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 (08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
 多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
 ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
 講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
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 (09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
 内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
 1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
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 (10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
 軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
 兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
 戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
 このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
 一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
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 (11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
 白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
 しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
 『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
 農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
 赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
 だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
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 (12) 内戦は、凶暴な事態だった。
 いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
 どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
 赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
 『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
 ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
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2767/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑤。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節①
 (01) ボルシェヴィキは、革命的社会主義国家に関する矛盾する考え方を抱いて、権力を掌握した。
 一方には、一般民衆の欲求とエネルギーを解き放つことによる、大衆参加という解放と民主主義の考えがあった。
 Lenin は1917年春のペテログラードへの帰還の後で述べたのだが、ロシアを『崩壊と破滅』から救う唯一の方途は、抑圧された労働者大衆に『自分たち自身の強さへの自信を与える』こと、民衆の『エネルギー、主導性、決断力』を解き放つこと、だった。こうして、彼らは動員された状態のもとで、『奇跡』を行なうことができる(1)。
 これは、新しいタイプの国家の理想、大衆が参加する権力という『コミューン国家』(1871年のパリ・コミューンを参照している)、『大きな金額』のためではなく『高い理想のために』奉仕する『百万の人々の国家装置』だった(2)。
 コミューン国家という理想は、1918年に『ロシア社会民主主義労働者党』から『ロシア共産党(ボルシェヴィキ)』へと党の公式名称を変更したことに反映された。
 権力掌握から最初の1ヶ月間に、Lenin は繰り返して、『歴史の作り手』としての『労働大衆』に対して、『今やきみたち自身が国家を管理している』こと、だから『誰かを待つのではなく、下からきみたち自身が率先して行動する』こと、を忘れないよう訴えた(3)。
 この語りを良くて実利主義的だと、悪ければ欺瞞的だと解釈した歴史家がいた。—Orlando Figes の見解によれば、『古い政治体制を破壊し、そうして彼自身の党による一党独裁制への途を掃き清めるための』手段にすぎない(4)。
 しかしながら、多数のボルシェヴィキが解放と革命権力の直接参加主義的考えを信じていた、ということを我々が見るのを妨げないよう、慎重であるべきだ。
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 (02) しかし、以上は、ボルシェヴィキの国家権力に関するイデオロギーの一面にすぎなかった。
 Lenin がボルシェヴィキは『アナキストではない』と主張したのは正当だった。
 ボルシェヴィキは、強い指導力、紀律、強制、実力の必要性を信じてはいた。
 『プロレタリアートの独裁』と理解され、正当化された『独裁』は、いかにして革命を起こし、社会主義社会を建設するかに関するボルシェヴィキの思想の最も重要な部分だった。
 ボルシェヴィキには、権力を維持し続け、彼らの敵を破壊する心づもりがあった。そして明示的に言ったことだが、大量逮捕、略式手続での処刑、テロルを含む最も『残酷な手段』(Lenin の言葉)を使う用意があった。
 Lenin は、『裕福な搾取者たち』に対してのみならず、『詐欺師、怠け者、フーリガン』に対して、そして社会へと『解体』を拡散する者たちに対しても警告した。
 革命への脅威になるものとして『アナーキー』を非難するのは、今度はボルシェヴィキの番だった(5)。
 しかし、独裁は、必要物以上のものだった。
 それは美徳〔virtue〕でもあった。すなわち、プロレタリアートの階級闘争は、暴力と戦争を生む階級対立を克服することを意図する闘争として、歴史における唯一の闘争だった。Lenin が1917年12月に、それは『正当で、公正で、神聖だ』と述べたように(6)。
 さらに言うと、これは戦争になるべきものだった。
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 (03) 最初の数ヶ月、新しいソヴェト政府は、一般民衆に力を与え、より平等な社会を築くよう行動した。ソヴェトに地方行政の権能を与え、農地の農民への移譲による農民革命を是認した(7)。また、日常の工場生活を支配する決定に参画する労働者の運動を支持して、『労働者支配』を必要とする法制を作り(8)、『全ての軍事単位内部での全権能』を兵士委員会とソヴェトに付与して兵士の運動を支持して、全将校が民主的に選挙されるようになった(9)。さらに、民族や宗教にもとづく特権や制限を廃止して、ロシアの帝政的要素の優越に対する闘争を支持し、全ての帝国国民の『平等と主権性』を主張した。これには民族自決権も含まれていて、分離や独立国家の結成にまで及ぶものだった(10)。
 ソヴェト政府は、全ての民衆を『市民』と単一に性格づけることに賛成して、資産、称号、地位のような公民的不平等の法的な性格づけを廃止しもした(11)。既存の法的装置を『民主的選挙にもとづいて設立される法廷』に変えもした(12)。
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 (04) こうした急進的な民主主義化のほとんどは、内戦という非常の状況の中で実行されないことになる。効率的な動員と紀律を妨げる、事宜を得ないものとして、放棄された。
 しかし、ボルシェヴィキによる国家建設は、最初からすでに、ボルシェヴィキ・イデオロギーの権威主義的様相を明らかにしていた。
 一つの初期の兆候は、単一政党による政府を樹立しようとする意欲だった。これは、『全ての権力をソヴェトへ』は『民主制』の統合的代表者への権力移譲を意味すると民衆のあいだで広く想定されていた中で、それにもかかわらず、見られた。
 しかしながら、一党支配は、直接のまたは絶対的な原理ではなかった。
 新しいソヴェト政府が非ボルシェヴィキを包含することには、実際的な理由があった。とくに補充されるべき多数の政府官僚のための有能な個人が、不足していたことだ。
 政治的な理由もあった。とくに、労働者と兵士の委員会、国有鉄道労働組合(重要争点に関して全国的ストライキでもって威嚇した)、独立した左翼社会主義者たち、そして不満を抱いているボルシェヴィキ、これらからの圧力。
 上の最後の中で最も有名だったのは、ボルシェヴィキの中央委員会委員の、Grigory Zinoviev とLev Kamenev だった。この二人は、労働者や兵士の多数派の意思に反するとして、『政治的テロル』によってのみ防衛可能だとして、また『革命と国家の破壊』に帰結するだろうとして、一党政府を公然と批判した(13)。
 1917年12月、Lenin は、限られた数の左翼エスエル(エスエル主流派から離脱した党派)の党員を内閣(人民委員会議またはSovnarkom)に含めることに同意した。
 しかし、これは長くは続かなかった。
 数ヶ月のちに、ボルシェヴィキの政策に影響を与えようとして政府に参加した左翼エスエルは、不満の中で内閣を離れた。彼らが反対した、ドイツとの講和条約の締結が契機となった。
 そのあと数ヶ月、左翼エスエルはボルシェヴィキの権威主義に対する批判を継続した。—ある左翼エスエル指導者は、1918年5月に、Lenin は『凶暴な独裁者』だと非難した。そして、ボルシェヴィキは左翼エスエルの活動家に引き続いて妨害されたことに苛立ち、決定的な分裂へと至った。
 ある左翼エスエル党員が、ドイツの大使を暗殺した。これはソヴェト権力に対する『反乱』の一部だと見られたのだったが、ボルシェヴィキは、全てのレベルでの政府各層から左翼エスエルを排除〔purge〕した。そして、エスエルと同党員を厳格に壊滅させた。
 ボルシェヴィキによる一党支配はこうして完成し、永続することとなった(14)。
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 (05) 長く待たれ、長く理想化された憲法会議を散会させる決定が下された。これは多くの者によって、ボルシェヴィキの権威主義を示す、とくに厄介な兆候だったと考えられている。
 1917年11月に実施された憲法会議の選挙の結果は、革命的だった。—ロシア民衆の大多数が、公開の民主的投票でもって、将来の社会主義への道を選択した。
 エスエルが全投票数の38パーセントを獲得した(分離していたウクライナのエスエルを含めると44パーセントだった)。ボルシェヴィキは24パーセント、メンシェヴィキは3パーセント、その他の社会主義諸政党も合わせて3パーセントだった。すなわち、社会主義者たちには(分かれていても)、全投票の4分の3という輝かしい数が与えられた。
 非ロシアの民族政党は、社会主義に傾斜した党もあったのだが、多く見て全投票数の8パーセントを獲得した。
 リベラルなKadet(立憲民主)党は、5パーセント未満だった。
 その他の非社会主義諸政党(右翼主義者と保守派を含む)には3パーセントだけが投じられた。
 ボルシェヴィキは、全国の投票数の4分の1という相当大きい割合を獲得した。とくに都市部、軍隊、北部の工業地域で多かった。—ボルシェヴィキは本当に労働者階級の党だと証明された、と言うのが公正だ(15)。
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 (06) 同時にまた、選挙結果は、ボルシェヴィキによる政府の圧倒的な支配を正当化するものではなかった。—彼らが政府から去ることはほとんど期待できなかったけれども。
 Lenin は、ソヴェト権力をボルシェヴィキが握った最初の日に、憲法会議選挙は従前に予定されたとおりに11月12日に実施される、と確認した(16)。そのときですでに、Lenin の文章の注意深い読み手であったならば、つぎのことに気づいただろう。すなわち、『憲法幻想』〔constitutional illusions〕への早くからの警告、『階級闘争の行路と結果』が憲法会議よりも重要だという強い主張(17)。
 この議論は、選挙のあとで、憲法会議を『偏愛』する〔fetish〕ことに反対する公然たる主張へと発展した。—選挙の立候補者名簿は時期にそぐわない(とくに名簿登録後の左翼エスエルの立党による)。『人民の意思』は選挙後にさらに左へと変化した。ソヴェトは『民主主義の高度の形態』であって、憲法会議が設立したかもしれない政府はそれより後退したものだろう。内戦の蓋然性のゆえに緊急の措置が必要だ。
 イデオロギーとして憲法会議を攻撃する最も重要な主張は、階級闘争に関する歴史的論拠だった。すなわち、議会の正統性は、形式的な選挙によってではなく、歴史的闘争の中で占める位置によって判断されるべきだ。この位置は、どの程度において『労働者民衆の意思を実現し、彼らの利益に奉仕し、彼らの闘いを防衛する』か、によって定まる。
 憲法会議がたとえ圧倒的に社会主義派によって占められていても、この歴史的審査に耐え難い、とボルシェヴィキは結論づけて、憲法会議に機会は与えられない、と主張した。歴史と階級闘争の論理が、反革命的な憲法会議が解散することを『強い』た。それは、1918年1月の最初の会合で行なわれた(18)。
 だが、この動議に若干の穏健なボルシェヴィキは反対したこと、ほとんどの左翼エスエルは会議の閉鎖を是認したこと、は記憶しておく価値がある。
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 つづく。

2766/M. A. シュタインベルク・ロシア革命④。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節④
 (17) 『コルニロフ〔Kornilov〕事件』は陰謀と混乱の奇妙な混合物で、騒擾の危険性、紀律と強い国家の必要性に関して激論が交わされている中で、それに煽られるようにして起きた。
 新しい最高司令官は、自分をロシアを救う人間だと見ていた。これは、保守的プレス、右翼政治家、軍将校や事業家の組織、地主たちから勇気づけられての自画像だった。
 Kornilov は、Kerensky も、おそらく一時的な軍事独裁によって、ソヴェトとその支持者たちの言論を封じるのを望んでいると、根拠なく信じていたように思われる。
 何が現実に起きたかに関する歴史上の諸記録は、矛盾した証拠と主張で充ちている。
 我々に分かるのはつぎのことだ。Kerensky は8月26日に、Kornirov が政府全大臣の辞職、首都での戒厳令の発布、全ての公民的、軍事的権限の自分の手中への移行を要求したこと、これらの要求を支援すべく兵団を首都へ動かしていること、を知った。
 Kornilov を擁護する者たちはのちに、Kerensky 自身がこの権力集中を命令していたのであり、兵団を動かしたのは、噂されたボルシェヴィキのクーからKerensky と政府を防衛するためだったにすぎない、と主張した。
 Kerensky は国民に対して、軍事クーからロシアと革命を『救う』のを助けるように呼びかけた。
 ソヴェト指導部は、地方ソヴェト、労働組合、工場委員会、ボルシェヴィキを含む左翼諸政党(ソヴェトはボルシェヴィキ指導者たちの監獄からの釈放のための調整を助けてすらいた)を動員することでもって、首相の訴えに応えた。
 行進しているKornilov の兵団は、前進を停止するよう簡単に説得された。とりわけ、Kerensky は自分たちの行動を支持していない、と聞いたために。
 こうして、『反乱』は数日で終わった。
 しかし、危機は始まったばかりだった。
 右派は、Kerensky を、Kornilov を騙して、裏切った、と非難した。
 左派は、Kerensky は最高司令官と共謀していた、のちに反対に回った、と疑った。
 結果として、二番めの連立内閣が崩壊した。リベラル派と社会主義派の間の相互不信が深まって、分裂したのだ。
 ようやく9月遅くに、新しい連立の臨時政府が形成された。—第三の、そして最後の内閣。これを率いた首相はKerensky で、10人の社会主義者大臣(多くはメンシェヴィキとエスエルの党員。但し、公式には個人として行動した)と6人のリベラルな大臣(多くはカデット〔立憲民主党、Constitutional Democratic Party, Kadets〕)で成っていた。
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 (18) ボルシェヴィキは、政府に加わらなかった唯一の主要な左翼政党として、民衆の不満解消のための逃げ場所になった。
 そして、階級を明瞭に基礎にしたその基本政策は、ますます両極化している社会的雰囲気にうまく適合した。
 ボルシェヴィキは、富者に負担となり貧者に利益となる税の再配分が目標だ、と宣言した。また、農民の土地所有者に対する闘争、労働者の雇用者に対する闘争、兵士の将校に対する闘争を支持することも。さらに、死刑のような『反革命的』措置を採用しないことも(18)。
 とは言え、とくに魅力的なのは、彼らが繰り返したスローガンだった。すなわち、『パン、平和、土地』、『全ての権力をソヴェトへ』。—全ての不満を捉え、一つの単純な解決策を提示する化身たち〔incarnations〕。
 ボルシェヴィキの人気が増大していることは、Kornilov 事件の前にすでに明らかになっていた。工場委員会や労働組合での投票で、地区や市のソヴェトへの代議員の新または再選挙で、ボルシェヴィキの演説者や決議に対するソヴェト内部での受け入れの仕方で、そして市議会の選挙においてすら(19)。
 Kornilov 事件は、反革命への恐怖、穏健な社会主義者たちとの妥協への不満を掻き立てた。その後、ボルシェヴィキはいっそう急激に影響力を増した。もっとも、エスエルの中で同様に宥和的でない『左翼エスエル〔Left SRs〕』のそれも似たようなものだったが。
 8月31日、ペテログラード・ソヴェト代議員の多数派は、有産階層を除外した社会主義者政府を樹立しようとのボルシェヴィキの決議案を採択する議決を行なった(20)。
 9月の後半に、ボルシェヴィキは、ペテログラードとモスクワの両都市で、ボルシェヴィキを多数派とする新しいソヴェト指導部を選出するのに十分なかつ信頼できる多数派を獲得した。
 Lev Trotsky は最近にボルシェヴィキ党に加入したのだったが、ペテログラードでは彼が、議長に選出された。
 同じことは全国で起きていた。
 最も重要なことは、ボルシェヴィキは今や、大胆な政治的ギャンブルのために増大している人気を利用する用意がある、ということだった。政治的賭け—国家権力を奪取するための蜂起〔insurrection〕。
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 (19) 労働者兵士代議員ソヴェトの第二回全ロシア大会は10月25日に開催され、全国の数百のソヴェトから代議員が出席した。
 ボルシェヴィキは代議員たちの中で最大の単一党派で、左翼エスエルの支持を得れば有効な多数派を形成することができた。
 14人のボルシェヴィキと7人の左翼エスエルで、新しい幹部会が構成された。
 メンシェヴィキには4人が割り当てられていた。しかし、のちには政治的自殺と見なされた動議を出して、幹部会の議席を受け取るのを拒否した。この拒否は、ボルシェヴィキによる蜂起が街路上で進行中であることに対する抗議の意思を示す行動だった。
 大会は、ボルシェヴィキのスローガンである『全ての権力をソヴェトへ』を是認した。但し、ほとんどの代議員は、ソヴェト権力とはボルシェヴィキによる一党支配ではなく、社会主義者の民主的な統一的政府を意味すると理解していたけれども。
 メンシェヴィキの指導者のYuly Martov は、ソヴェト大会の直前に『陰謀』という手段で国家権力の問題を決着させようとするボルシェヴィキの企ては、『内戦』と反革命につながる可能性が高い、と警告し、『全ての社会主義諸政党と組織』のあいだで『統一した民主主義的政府』を樹立するための協議をただちに開始することを提案した。この提案は、満場一致で承認された。
 ボルシェヴィキですら、『展開している事態に関するそれぞれの見解を、全ての政治的党派が表明することに、多大の関心を寄せる』と宣言した(21)。
 しかしながら、複数政党による社会主義者政府、『革命的な民主主義的権威』を目ざす構想は、事態の進行に間に合わなかった。他『党派』とともに活動することに対してボルシェヴィキに深く染み込んでいた強い疑念によって、その構想は実現しなかった。
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 (20) 10月24日から25日にかけての夜、ペテログラードの労働者『赤衛隊〔Red Guards〕』と急進的兵士たちは、主要な街路と橋梁、政府関連の建物、鉄道駅、郵便局と電報局、電話交換所、発電所、国立銀行、警察署を掌握し、臨時政府の大臣たちを逮捕した。
 この武装蜂起は、ソヴェトの軍事革命委員会の秘密会議で練り上げられていた、詳細な計画に従っていた。このソヴェト軍事革命委員会をボルシェヴィキは支配しており、Trotsky が議長に就いていた。もっとも、タイミングの問題はボルシェヴィキ党内での激しい議論の対象だった。—タイミングはすぐれて政治的意味合いを持つ問題だったので。
 Trotsky は、蜂起は『ソヴェト権力』のために、そして政府による弾圧に抵抗する革命を『防衛』するために、ソヴェトの行動を正当化する外套をまとうべきだ、ということに拘泥していた。
 しかし、Lenin は、全く理性的なことに、つぎのように心配していた。ソヴェト全国大会は、全ての社会主義者政党を包含する政府、あるいは有産階層のみを排除した、より広範囲の『民主主義的政府』をすらに固執し続けて、ボルシェヴィキの手を縛るかもしれない、と。そのゆえに彼は、臨時政府の打倒を既成事実〔fait accompli〕としてソヴェト大会に提示する必要がある、そうすれば大会での議論は無意味になるだろう、と強く主張した。
 ソヴェト大会が10月25日に開会したとき、臨時政府の大臣たちがいる冬宮に対するボルシェヴィキの武装攻撃が進行していた。
 メンシェヴィキとエスエルの発言者たちは激しく怒り、ボルシェヴィキの行動は『犯罪的な政治的冒険』だ、と非難した。一つだけの政党による日和見主義的な権力ひったくりだ、その背後にはソヴェトの後援があるとし、そのソヴェトの名前でボルシェヴィキは二枚舌を使って行動している、と。
 彼らは、ボルシェヴィキの行動はロシアを内戦へと突入させ、革命を破滅させる、と予見した。
 ほとんどのメンシェヴィキと右翼エスエルたちは、ボルシェヴィキの行動の『責任を負う』ことをしたくなくて、大会の会場から退出した。—有名になったTrotsky の侮蔑の言葉がこれに投げつけられた。彼らは、『歴史のごみ箱』に入る運命だけが残る『破産者』だ。
 10月26日の夜明け前、ソヴェト全国大会は、レーニンのつぎの宣言を承認した。全ての国家権力はソヴェトの手中にある、全ての地方権力は、労働者兵士農民代議員の地方ソヴェトへと移譲される。
 大会はまた、全ての諸国に講和を即時に提案すること、全ての土地を農民委員会に移譲すること、兵士の権利を守ること、工業の『労働者支配』を確立すること、憲法会議の召集を確実にすること、を誓約した。
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 第一節、終わり。

2765/M. A. シュタインベルク・ロシア革命③。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節③
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 (12) これは実際には、2週間後の『七月事件』に比べると『瞬時の一打ち』にすぎなかった。
 7月3日、数万人の兵士、海兵、労働者たちが、大部分は武装して、首都の街路を行進した。
 彼らは市の中心部を占拠し、自動車を奪い、警察やコサックと闘った。そして、頻繁に銃砲を空中に放つことで、彼らの蜂起のごとき雰囲気を強調した。
 午前2時頃、6万人から7万人の男性、女性、子どもたちが路上にいた。そのうちのほとんどはTauride 宮にあるソヴェト司令部の近くだった。群衆は、その規模と戦闘的気分を増大し続けた。
 大衆集会で採択された決議は、戦争の即時停止、『ブルジョアジー』と今以上妥協しないこと、そして『全ての権力をソヴェトへ』を要求した。
 いかにしてこれらの目標を実現するかについて、ほとんどの示威行為者には分かっていないように見えた。とくにソヴェト指導部は自分たちが『全ての権力』を握るという発想自体を拒絶していたので。
 七月事件の最も有名な場面で、ソヴェト指導者たちは、群衆を静めるためにエスエル〔Socialist Revolutionary〕のVictor Chernov を街頭へと派遣した。
 彼の訴えに応えたのは、拳を振ってChernov に向かって『手渡されたら権力を取れ』と叫ぶ、示威行為者の怒りだった。
 ソヴェトの穏健な指導者たちは、この事件全体についてボルシェヴィキを非難した。
 そして、ボルシェヴィキ自体が、間違いなくこの運動を助長していた。
 しかし、彼らはこの運動を権力奪取へとつなげる用意をしておらず、そうしようとしなかった。
 指導者を欠いたので、反乱は解体した。
 7月4日夕方の激しい雨が、路上の群衆の最後の一人を追い払った(11)。
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 (13) 歴史家たちは、今でも議論している。七月事件は、慎重かつ巧妙に計画され、だが失敗した、ボルシェヴィキによる権力奪取の企てだったのかどうか。
 あるいは、のちのクーのために試験をするという、ボルシェヴィキの戦術の一部だったのか。
 あるいは、躊躇している指導部を行動へと強いようとする、ボルシェヴィキ党員たちの努力だったのか。
 あるいは、急進化した兵士や労働者たちの調整済みでない行動ですら、党は最初は支援することに同意しており、のちに瞬時に権力奪取のために使おうと考えたが、成功しないことが明瞭になったので撤退した、のだったか。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点では同意している。ボルシェヴィキの一般活動家がこの事件できわめて大きな役割を演じたこと、大多数の労働者や兵士たちは指導を求めて党を見つめていたこと。
 そして、臨時政府の打倒がボルシェヴィキの課題〔agenda〕になっていたことに、ほとんど疑いはない。
 問題は、いつ行なうか、だった。
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 (14) 地方〔provinces〕の後進性というステレオタイプ的見方とは矛盾するが、臨時政府への支持や階級を超えた統合が解体していった早さは、ペテルブルクやモスクワよりもむしろ、地方で急速だった。
 例えば Saratov では、Donald Raleigh が資料文書を示したように、地方のリベラルな新聞は6月に、『都市部だけではなく地方全体で、権力は現実には労働者、兵士の代表者の(地方)ソヴェトへと移った』と報告した。
 穏健な社会主義者と急進的なそれのあいだの断裂もまた、中心部以上に急速に進んだ。例えば、ボルシェヴィキは5月に、リベラル・ブルジョアジーとの協働に抗議して、Saratov ソヴェトから脱退した。
 同様に、地方の労働者、兵士、農民たちはもっと早くに妥協に耐え難くなり、即時のかつ直接的な諸問題の解決に賛成した。これが意味したのは、ボルシェヴィキに傾斜する、ということだった(12)。
 Kazan やNizhny-Novgorod のような別の地方の町々では、またそれらの周囲の農村地帯では、Sarah Babcock が示したように、ほとんどの民衆にとっての地方『政治』の本質は、政党への帰属や選挙への関与ではなく、経済的、社会的な必需品のための直接的な闘いだった。
 エリート全員に対する不信は、主要な諸都市で以上に、おそらく地方の一般民衆のあいだで、より強いものがあった(13)。
 紀律ある国家の最も熱烈な支持者だと広く考えられているDon 地域の多数のコサックですら、中央の権力よりも地方の権力を支持した(14)。
 このような地方主義と権力の断片化は、ペテルブルクでの政治的決定や国家権力をめぐる闘争より以上にではかりになくとも、それと同等に革命を規定した。
 臨時政府の権威は急速に低下し、地方ソヴェト、委員会、労働組合その他の諸制度の力の増大によって掘り崩された。
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 (15) ロシアじゅうの社会的権威が突如として断片化してきた。それは、直接的行動が唯一の解決方法だと思わせるような、経済的危機のさらなる悪化によって促進された。だがまた、『ブルジョアジー』とそれと結びついた政治的エリート層に対する不信によっても。
 兵士たちは将校を無視し、選出された兵士委員会にのみ耳を傾けた。
 農民たちは、自分たちが土地を奪ったり地主を追放するのを妨げるものはほとんどないと分かって、土地改革を待つのをやめた。
 労働者たちは、作業場の条件を直接に統御する直接的行動をとった。—多くの工場では、『労働者支配』—理論を適用したのではなく実践の中で生まれて発展した考え—が、進展していった。工場委員会が、管理者側の決定を監視し始めたのみならず、重要な経営上の決定を自ら行ない始めるようになるとともに。
 雇用者または経営者が例えば燃料不足を理由とする一時解雇〔lay-off〕で威嚇したとき、工場委員会は、新しい燃料供給源を探して、輸送と支払いについて取り決めすることがあり得た。また、利用可能な燃料のより経済的な使用方法を取り決めたり、会社の経費支出への監督権を要求したり、全員の労働時間を平等に削減することを裁可したり、あるいは、一時解雇される者を選定する、労働者の集団的権利を要求したりすることがあり得た。
 稀な場合、通常は雇用者が工場の閉鎖を選ぼうとした場合だが、労働者委員会は、自分たちで工場の操業を決定した(15)。
 多くの観察者にとって、こうした事態は『アナーキー』で『カオス』だった。
 多くの別の観察者にとっては、これは下からの『民主主義』だった。
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 (16) 七月の危機の後で、臨時政府は社会主義者が多数派になるよう再構成され、社会主義者で法律家であるAlexander Kerensky が率いた。この臨時政府は、このような権力の断片化と国家の弱体化を許容できなかった。
 臨時政府は、『アナーキー』に対する戦争を宣告した(16)。
 しかし、政府の、当時に称された『国家主義』〔statism〕は、状況を悪化させたにすぎなかったかもしれない。次の政治的危機を誘発し、そうしてさらに、国家の権威を弱いものにした。
 七月事件は、間違った危険を明らかにし、間違った解決策を生んだものだったかもしれない。すなわち、容易に判別できるボルシェヴィキによる騒乱の脅威によって、より大きい、より困難な、社会的、民族的、地域的な両極化と断片化の脅威が、覆い隠された。
 臨時政府は7月に、それが理解する脅威に応じて、数百人のボルシェヴィキ指導者を逮捕した(逮捕を逃れて隠れた多数の中にレーニンがいたけれども)。
 市民的自由は公共の秩序のために制限された。
 死刑が前線にいる兵士について復活した。叛逆、脱走、戦闘からの逃亡、戦闘の拒否、降伏への煽動、反抗、あるいは命令への不服従すらあったが、これらにより野戦法廷で有罪と宣告された者たちについてだった。
 ペテログラードでの街頭行進は、つぎの告知があるまで禁止された。
 そして、将軍のLavr Kornilov が、この人物は軍事的かつ公民的な紀律の擁護者として保守的界隈で尊敬されていた、屈強な気持ちをもつコサックだったが、新しい最高司令官に任命された。
 Kerensky 首相は、騒擾を克服できる強い政治的実行者だと見られるのを望んだ。
 彼は七月事件の際に暴徒と闘って殺されたコサックたちの葬儀で演説をし、こう宣言した。「アナーキーと無秩序を助長する全ての企ては、この無垢の犠牲者たちの血の名において、容赦なく処理されるだろう」(17)。
 おそらくは象徴的な動きとして、また安全上の理由から、Kerensky は、臨時政府の役所を冬宮(Winter Palace)へと移した。
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 つづく。

2764/M.A.シュタインベルク・ロシア革命②。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節②
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 (06) 総じて、とくに1917年の初めは、他者に対する優越をめざす闘いと同様に、権力こそが理解すべき問題だった。
 臨時政府とソヴェトはいずれも、正統性と権威の範囲について、不確かさを感じていた。
 強く正当性を信じた臨時政府のリベラルな指導者たちは、悲しくも、自分たちの本質は閉鎖されたドゥーマによる自己任命の委員会だと分かっていた。自分たちは限定的な、偏った基盤のもとで選出されていた。
 『臨時』という(新しい政府について彼らが選んだ)名前は、適正な民主的選挙が実施されるまでの一時的なものとしてのみ彼らは国家権力を受け取った、ということを完全に明瞭にしていた。民主的選挙の実施は、正統性のある国家秩序を確立する基盤を形成する憲法会議〔憲法制定会議, Constituent Assembly〕の選出のために必要だった。
 ソヴェトはそれが代表する社会集団のために政府の諸政策と行動に決まって反対し、労働者と兵士たちを街路上に送り込む力は彼らを現実的な政治的権力に変えることになる。しかし、社会主義者の指導者たちは、自分たちの役割は全国民を代表することではなく、特定の階級を擁護するすることだと、強く主張した。
 彼らにとって、『ソヴェト権力』を語ることは受け容れ難いもので、馬鹿げてすらいた。
 社会主義指導者たちの政治的躊躇を生んだのは、イデオロギー上の信念、歴史に関する思想、現実に関する見方だった。
 彼らは、革命のための自分たちの当面の任務は民主制と市民権を確立することだと考えていた。伝統的に(とくにマルクス主義の歴史観で)リベラル・ブルジョアジーの歴史的役割と想定されてきた諸任務だ。
 この階級を打倒して社会主義を樹立するという考えは、せいぜいのところ時期尚早で、自殺するようなものですらあった。進行中の戦争を考慮しても、また、そのような急進的な実験をするにはロシアは社会的、文化的にきわめて未成熟であるがゆえに。
 ソヴェトの指導者たちは、政府を支配するのではなく政府に影響を与えようとしていると明確に述べた。躊躇しているが適切に力づけられた『ブルジョアジー』を共和国の建設、市民権の保障へと、そして将来の憲法会議のための選挙の準備へ向かわせることが必要だ、と。
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 (07) 臨時政府は、市民的、政治的改革の大胆な政策を打ち出した。—数千人の政治的犯罪者や流刑者を釈放した。言論、プレス、集会、結社の自由を宣言した。労働者がストライキをする権利を是認した。笞打刑、シベリアへの流刑、死刑を廃絶した。民族または宗教による法的制限を撤廃した。フィンランドに憲法を回復した。ポーランドに独立を約束した。ロシアと帝国全土の地方行政の仕組みにより大きな権限を付与することに一般的に賛成した。女性に投票する権利や役職に立候補する権利を保障した(当初は若干の躊躇いがあったが、女性労働者の路上示威行進を含む女性たちの抗議にすみやかに屈した)。そして、普通、秘密、直接、平等の選挙権にもとづく憲法会議選挙の準備を開始した。
 こうした改革は確かに、当時の世界で最もリベラルなものだった。言葉だけではなく、行動の点でも。
 しかし、政府は、三つの深刻な問題を解決するのは、イデオロギー的と実際的の両方の理由で困難であることも分かった。
 第一に、より多くの土地を求める農民たちの要求を、ただちには満足させることができなかった。
 臨時政府はたしかに、土地改革の作業を始めた。
 しかし、財産権の再配分に関する最終的決定を行なうには本当の民主主義的権威をもつ政府の樹立を待たなければならない、とも主張した。
 第二に、経済的な不足と混乱を解消することができなかった。
 これには少なくとも、リベラル派としては受け容れられない、社会的、経済的な政府による統制をある程度は必要としただろう。
 第三に、戦争を終わらせることができなかった。
 それどころか、ロシアを戦闘から一方的に撤退させるするつもりはなかった。彼らは戦闘を、民主主義諸国のドイツの軍国主義と権威主義に対するものだと見なしていた。
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 (08) ペテルブルクはロシアではない。Nikolas 二世はそう言うのが好きだった。国内の農民や町の住民は忠実な民衆で、厄介な首都居住者のようではなかった。
 しかし、二月の革命はただちにかつ強いかたちで、ロシアと帝国じゅうに広がった。
 地方の町々では、熱狂的な示威行動者が街路を埋め尽くした(最初は地方警察とコサックが解散させた)。彼らは、革命的な歌をうたい、新しい秩序を支持する旗を掲げ、長時間の抗議集会に参加した。
 諸政党とソヴェトが設立された。
 新しい地方政府は、旧体制を維持しようとする軍隊や警察を武装解除させた。そして、地方の官僚組織を新政府を支持する行政担当者に変えた。
 帝国の非ロシア地域では、少数民族の自治を要求するという重要な事項が加わって、同様のことが展開した。
 実際のところ、首都以外での最も直接の革命の効果はおそらく、強い地方主義〔localism〕だった。その理由はなかんずく、ペテログラードにある政府には地方で権力を行使する手段がなかったことだ。
 民衆のほとんどが住んでいる村落では、農民たちは、彼らなりの支持方法と熱狂でもって、革命の報せに反応した。旧体制の役所と警察を掌握し(ときには叩きのめし)、村落委員会を組織し、とりわけ、聞こうとする者全てに対して、革命の主要な目標は現実に耕作している者たちの手に全ての土地を譲渡することであるべきだと語った(7)。
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 (09) 1917年の危機的事件のいずれにも、直接的かつ具体的な原因があった。すなわち、外交文書の漏洩、急進者による路上示威運動、軍事クーの企て、ボルシェヴィキの蜂起。
 しかし、全ての危機のより深原因は、多数の当時の人々およびのちのたいていの歴史家の見解によれば、教養あるエリート層と一般民衆のあいだの『越え難い亀裂』にあった。
 あるリベラルな軍事将校は3月半ばに、各層の兵士たちの中での経験にもとづいて家族に対して、一般民衆の考えをこう説明した。「起きたのは政治的革命ではなく社会的革命だった。そこでは、我々は敗北者で、彼らは勝利者だ。…以前は我々が支配したが、今では彼ら自身が支配しようとしている。彼らが語る言葉の中には、過去何世紀にもわたる、仕返しされていない侮蔑がある。共通する言語を見つけることはできない。」(8)
 この階級間の亀裂は、『二重権力』という編成体制をますます脅かすことになった。この体制自体がこの分裂を具現化したもので、1917年の経過と結果を形づくることになる。
 --------
 (10) 戦争は、新しい革命政府にとって、最初の危機の主題だった。
 臨時政府は、帝制政府の併合主義的戦争遂行の放棄を求めるペテログラード・ソヴェトの圧力を受けて、3月後半につぎの宣言文を発した。「自由ロシアの目標は他国民衆の支配ではなく、彼らの財産の奪取でもなく、外国領土の力づくでの掌握でもない。これらではなく、民族自決を基盤とする安定した平和を支えることだ。」(9)
 同時に、外務大臣の Paul Miliukov は連合諸国に外交文書を送って、勝利するまで戦い抜くと決意していること、敗戦国に対しては通常の『保証金と制裁』を課すのを用意していること、を伝えた。これは多くの人々の想定では、1915年に連合諸国と協定したように、ロシアがDardanelle 海峡とConstantinople を支配することを含んでいた。
 この文書の内容がプレスに漏れ、4月20日に報道されたとき、その効果は爆発的なものだった。なぜなら、ペテログラード・ソヴェトと臨時政府自身が発した宣言が示す外交政策方針と直接に矛盾していると見えた。政府の宣言はソヴェトに対する偽善的な休止のようだった。
 武装兵士を含む、激怒して抗議する大群衆が、『Miliukov-Dardanelskii』、『資本主義者大臣』、『帝国主義戦争』を非難して、ペテログラードとモスクワの路上を行進した。
 Miliukov は辞任を余儀なくされ、内閣は社会主義者を含むように改造されなければならなかった。このことは民衆の政府への信頼を回復するのに役立った。しかしまた、ソヴェトを指導する諸政党を、政府の将来の失敗について責任のある立場に置いた。
 主要な社会主義政党の中で『ブルジョア』連立政府に加わることを全党員に許さなかった政党が一つだけあった。レーニンがまだ主流派でなかった、ボルシェヴィキだ。
 --------
 (11) ソヴェト指導部は、彼らへの支持を高めるべく、6月18日の日曜日に、ペテログラードでの『統一』示威行進を組織した。
 掲げられたスローガンは、『革命的勢力は団結せよ』、『内戦をするな』、『ソヴェトと臨時政府を支持する』等だった。
 この反面で起こったのは、あるソヴェト指導者の回想によると、『ソヴェト多数派とブルジョアジーの顔への、ピリッとした瞬時の一打ち』だった」(10)」。
 ソヴェト支持のスローガンがあちこちにある真っ只中で、行進者が掲げる旗の多くには、ボルシェヴィキのスローガンが書かれていた。例えば、『10人の資本主義者大臣はくたばれ』、『彼らは闘う用意をするよう約束して我々を騙した』、『あばら小屋に平和を、宮殿に対しては戦争を』、そして徐々に有名になっていた『全ての権力をソヴェトへ』。
 ——
 つづく。

2763/M.A.シュタインベルク・ロシア革命①。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 この書物の構成・内容はつぎのとおり。
  *謝辞
  *目次
 序説—ロシア革命を経験する
 第一部・史料と物語
  第一章/自由の春—過去を歩む
 第二部—歴史
  第二章/革命・不確実性・戦争
  第三章/1917年
  第四章/内戦
 第三部—場所と人々
  第五章/街路の政治
  第六章/女性と村落での革命
  第七章/帝国を打倒する
  第八章/夢想家たち
 結語—未完の革命
  *文献
  *索引 p.371-p.388.
 --------
 第三章から始める。
 原書にはない段落番号を付す。一行ごとに改行する。原書での” ”は『』で表現し、イタリック体強調の文字は<>で挟む。
 注記(章のあいだにある)の内容は訳さず、注番号だけ残す。
 章のあいだに「* * *」の一行が挿入されていることがある。章内の大きな区切りと理解して、前後を「節」で分ける。
 ——
 M. A. シュタインベルク・ロシア革命 1905-1921 (Oxford, 2017)
 第三章/1917年
 第一節①
 (01) 歴史家は多様なかたちで1917年の物語を記述してきた。
 とくに、学問分野としての歴史学の進展は、1917年をどう理解し、解釈し、叙述するかを変化させてきた。—この「科学的」理性は、政治的およびイデオロギー的な好み(革命、社会主義、リベラリズム、国家、民衆の行動—むろんソヴィエト同盟自体—について歴史家がどう考えるか)や、また倫理的価値観(歴史家が例えば不平等性、社会的公正、暴力についてどう考えるか)とすら、不可分に絡み合ってきたけれども。
 我々が研究する人々にとってもそうだが、歴史家たちには、『歴史』と称している記述はどのような性格のものであるかにについて、考え方に分かれがある。
 近年に変わった主要なことは、一般の人々(とくに兵士、労働者、農民)、女性、少数民族、地方、帝国の辺境に対してもっと注意を向けるべく、政治指導者たち、国家制度、地理的中心部、男性、ロシア民族からいくぶんか焦点を逸らしたことだ。
 さらにもっと最近では、学者たちの関心は主観的なもの〔subjectivities〕へと向かっている。—人々が語る考え方や要求へとのみならず、価値観や感情という曖昧な領域へと。このことは、歴史という記述の様相をさらに豊かにし、かつ複雑にしている。
 しかしながら、学者たちは最近でも、歴史を形づくるに際しての大きな構造〔structures〕の重要性をあらためて強調している。すなわち、経済の近代化、資本主義、法制、イデオロギーや思想の世界的潮流、国際関係、戦争。
 もちろん、こうした異なる研究方法は相互に排他的なものではない。
 これらは多様なかたちで結びついてきた。—私がこの書物でそうするように。
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 (02) 1917年の大きな危機的事件、それはとくに首都ペテログラードで発生したのだったが、革命に関する標準的な記述の基礎になっている。すなわち、帝制を転覆させた二月革命、戦争継続に関する四月危機、蜂起に近かった七月事件、八月に起きたKornilov の反乱の失敗、そして、ボルシェヴィキが権力を掌握した十月革命。
 これらの事件の背後にあるのは、因果関係〔causation〕の物語だ。戦争の推移、経済の崩壊、社会的格差の拡大、政府の失敗。
 この因果関係は、我々には最も馴染みのある、歴史の記述の方法だ。—説明可能な原因と重要な結果を結びつけて諸事件を語ること。
 除外したことも含めて、このような方法に馴染みがあっても、このことは諸事件の必然性を語るのと矛盾はしない。
 のちの章では、別の観点から1917年に立ち戻ることにしよう。
 しかし、これら諸事件と諸経緯は、最も重要な構造と基盤だ。
 そして、珍しいことに、たいていの歴史家は、何が起こったか、なぜ、何が変わったかについては合意している(1)。
 --------
 (03) 最初の危機は2月23日(3月8日)に始まった。その日、ペテログラードの数千の女性織物労働者たちが工場から路上に出た。パンと食糧の不足に抗議するためだった。また、国際女性デーを記念してだった。これに加えて、首都その他の都市のきわめて多数の男女がすでにストライキに入っていた。
 この危機は都市と国土じゅうにすみやかに広がった大混乱であり、数日を経て、政府は打倒された。このことは、権力をもつ者たちには驚きではなかったはずだ。
 首都に潜入していた秘密警察の要員たちが1917年1月頃に報告書で述べていたのは、「市民の広範囲で権限をもつ者たちに対する憎しみの波」(2)が高まっていたことだった。
 増大する民衆の怒りは、戦争による損傷により、悪化する絶望的な経済状況により、とくに食糧不足と物価高騰により、いっそう激しくなった。また、無関心であるか無能であるかのいずれかと見えた国家の諸政策によっても。
 大衆の雰囲気に敏感だった支配エリート層の中には、民衆の不満を反映した思いが生まれた。すなわち、戦争遂行や自分たちの政治的、社会的な地位の維持は下級の階層の騒擾によって危うくなる可能性がある、という恐怖。
 数を増やしつつ労働者男女が首都の街路に出てくるとき、連呼の声、旗、演説はパンを要求したが、同時にまた、戦争の終止と専制の廃止も要求した。
 学生、教師、ホワイトカラーの労働者たちが、民衆に加わった。
 暴力行使が散発して起きた。とりわけ店舗のショーウィンドウは破壊された。
 棒や金物の一部、岩石、そしてピストルをもつ者も、行動者の中にはいた。
 社会主義活動家はそうした運動を激励したけれども、彼らには現実の指導力または方向指示能力がなかった。
 運動は、不安を解消する熟慮した行動であるというよりは、不満の発現だった。
 そのようなものとして、社会主義者たちは諸行動を、『革命』ではなく『騒擾〔disorder〕』だと見なした(3)。
 あるいは、前線にいるNicholas 二世に書き送った皇妃 Alexandra の侮蔑的な見方によれば、示威行動者たちの行動は自分たちのために耳障りな騒乱を起こしている『フーリガン運動』だった(4)。
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 (04)  皇帝は情報を十分に与えられず、何が起きているかを理解することができなかったので、その反応は過信と不寛容が致命的に入り混じったものだった。
 皇帝は2月25日、ペテログラード軍事地区司令長官に対して電報を打った。それには、つぎの致命的な文章があった。—「貴君に命令する。明日、首都の騒擾を終焉させよ。この騒擾は、ドイツ、オーストリアと戦争している困難な時期には受け容れ難い」(5)。
 警察と地方連隊兵士たちはこの命令に従い、民衆を攻撃し、傷つけ、殺害した。
 政府官僚たち、そして社会主義指導者たちは、これで事態は鎮静化したと思った。
 しかし翌日、兵士たちが示威行動者たちの側に立って街路上に出現した。
 首都の軍事的権力の有効性が崩壊したとなって、権力空間にパニックが生まれた。とくに、混乱が国土じゅうの諸都市に広がり、各地方の連隊兵士たちがしばしば路上の示威運動者たちに加わったので。
 2月27日、内閣はドゥーマ〔State Duma, 議会〕を延期し、ドゥーマの指導者(政府の改革だけがロシアを鎮静化でき、戦争継続を可能にすると執拗に主張し続けた)を、大混乱の責任があると非難した。そのあと、内閣の大臣たち自身が辞職した。
 おそらく最も決定的だったのは、最上層の軍事指導者たちがこうNicholas二世を説得したことだ。ドゥーマが支配する新しい政府のみが『気分を鎮める』ことができ、『全国土に拡大する無政府状態』を止めることができる。今の状態は、軍の解体、戦争遂行の終焉、『極左〔extreme left〕分子による権力の掌握』(6)につながるだろう」、と。
 自分の将軍たちにまで反乱が及んでいる事態に直面し、Nicholas は裏切られたと感じた。だが、自分には選択の余地がないことを理解した。
 戦争を継続し、君主制を守ることを望んで、彼は3月2日に退位し、弟のMikhail を後継者に指名した。弟は妥協をより好むと考えられていたのだったが。
 Mikhail は皇位の継承を拒んだ。これが、300年続いたRomanov 王朝を劇的に終わらせ、ロシアを事実上の共和国にする、静かな意思表示だった。
 しかし、革命は始まりにすぎなかった。
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 (05) 1917年の残りの期間は、誰が権力を握り、維持するかに関する闘いが生んだ、一続きの危機だった。
 この闘いの大部分は、『二重権力』という独特の装置によって具体化された。『二重権力』とは、ペテログラードの労働者と兵士の代表者のソヴェト(評議会)と新しい臨時政府のあいだの、緊張した政治的関係を意味した。
 (前者は工場と連隊での選挙によって選出されるのだが、すみやかに労働者、兵士、農民の代表者の全国ソヴェトになった。そして、全国の地方ソヴェトによって、首都へと代議員が派遣された。後者はペテログラード・ソヴェトと協定をしたドゥーマの議員たちによって設立された。)
 しかしこれは、『二重権力』の最も主要な側面にすぎなかった。それは本当は、帝国全体の現象であり、国家のほとんど全ての政治的関係で具現化された。すなわち、軍隊では将校層と兵士委員会のあいだ、工場では経営側と労働者委員会のあいだ、村落では伝統的共同体と農民委員会のあいだ、学校では学校管理者と学生評議会(ソヴェト)のあいだ、の政治的関係。
 世代は、この物語の一部だ。つまり、委員会、これはソヴェト『階級』とも称されるが、若者で構成される傾向があり、その若者はしばしば前線から帰還した兵士たちだった。
 二重の権力は、実際にそうだったよりも単純なものに見えている。実際には、両者のあいだの協力や対立の程度は、国じゅうで、また時期によって変化したし、変更可能なものだった、というだけではない。帝国の広い部分で、地方の少数民族あるいはその他の集団を代表する団体は、以上のような政治的関係をさらに複雑にしていた。
 ——
 つづく。

2762/ChatGPTとロシア革命本。

 ChatGPT-4o というものを利用している。あるいは、利用できる状態にある。
 「Generative」=「生成」と言っても、蓄積している情報の「収集」・「検索」が前提になる。したがって、ある主題について、いったい何をどの程度に蓄積しているかによって、質問に対する回答の正確さ・適切さも異なる。
 一般に、自然科学系の、かつ各種「辞書」類に記述されているような情報については相当に正確だと思える。
 例えば、ヒトの「DN A」も「ゲノム」(ヒトゲノム)も(各個体で)「99.9パーセント同じ」というのは「正しい」と、瞬時に回答してくる。「0.1パーセントの違い」が重要な違いをもたらすとも、付記してくる。「エクソン」と「イントロン」の違いも知っている(但し、この二つが「遺伝子」を構成するとの説明は適切だったか?)。細胞分裂時に二倍化した「染色体」群が「赤道」上に整列して両極に引っ張られる場合の上下(または左右)は一方が父親由来でもう一方が母親由来なのかという素朴な確認的質問には、「否」とこれまた瞬時に回答してくる(どちらに由来かは偶然または「なりゆき」だ)。
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 一方で、人文系・社会系問題または主題については、それこそ「収集」し「検索」対象としている情報の内容・範囲に依存してしまうので、正確なまたは適切な回答を期待するのはそもそも無理があるだろう。
 例えば、Leszek Kolakowski の「マルクス主義の主要潮流」の日本語翻訳書が出版されていない理由は何か、と問うてみても、想定または期待しているような回答は得られず、外国語著の日本語翻訳書がない事情一般に傾斜した回答しか出てこない。ChatGPTの情報が英米語中心でLeszek Kolakowski がポーランド人であることによるのかもしれないが、この人物がアメリカ連邦議会図書館が授与するKluge賞の第一回受賞者だったと知っているか(その情報を蓄積しているか)も疑わしい。
 なお、とくに日本での事情として<冷戦後にマルクス主義への関心が低下した>ことを理由の一つにしていたので、1970年代後半(英米語・ドイツ語翻訳書あり、フランス語の1-2巻翻訳書あり)に出版された上掲書にはあてはまらない(「的はずれ」)と再度書き送ったら、一部に「的はずれ」なことを書いて「お詫びします」と反応してきた。なんと、ChatGPT-4oと「会話」、「議論」ができるのだ。少なくとも<ヒマつぶし>には十分になるだろう。
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 ロシア革命に関する英米語文献で代表的なものは何か、邦訳書が存在していなくてよい、と質問してみたときの回答は興味深いものだった。
 ①Richard Pipes②Orlanndo Figes、の著書(大著)に加えて、③Mark D. SteinbergのThe Russian Revolution 1905-1921(2017)の三つだけが挙げられていた。
 ①と②は原書を所持していて、この欄に一部または相当部分の「試訳」を掲載したこともある。これらが英米語圏で代表的・標準的とされている書物であることに間違いないだろう。Orlanndo Figes の著は、"A Peoples Tragedy: The Russian Revolution: 1891-1924 "(1996)。
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 ③のMark D. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921(2017)を入手してみると(この本はいわゆる編年的な概説書ではない)、「1917」と題する章(第二部/第3章)の冒頭の最初の注記にこうある。
 「私の記述は1917年に関する多数の学術的文献による」、「それらの文献の多くは、注記で参照を示す」。
 「英語による、革命に関するとくに影響力のある概説書(general histories)には、つぎがある」。
 そのあとに著者だけが8名挙げられている。以下のとおり(たぶんABC順)。
 ①O. Figes、②Sheila Fitzpatrick、③Bruce Lincoln、④R. Pipes、⑤Alexander Rabinowitch、⑥Christpher Reed、⑦S. A. Smith、⑧Rex Wade
 ①O. Figes、④R. Pipes は上記。②Sheila Fitzpatrick の本(日本の新書2冊分くらいか)はたぶん全部の試訳をこの欄に掲載した(1931年頃の「大テロル」期まで扱う)。⑦S. A. Smith の著は1917年刊で、所持しているが一部しか読んでいない。あとの4名(4冊)は知らない。
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 具体的な著者名・文献名も興味深いが、日本と日本人にとって重要なことは、つぎのことだ。
 ChatGPT による三冊にせよ、Mark D. Steinberg によるこの本人以外の8名の著書にせよ、日本語翻訳書=邦訳書は、(おそらく)まったくない。
 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、ロシア革命に関する文献としてトロツキー・ロシア革命史(角川ほか/原著・1931)を挙げる。
 出口治明・教養が身につく最強の読書(PHP文庫、2018)は、100冊以上の本のうち、ロシア革命に関するものとして、ジョン·リード・世界をゆるがした十日間/上下(岩波文庫/原著・1919)を挙げる。
 上は若干の例にすぎないが、日本のロシア革命の歴史に関する翻訳書の出版状況は、英米語が通用する諸国に比べて、相当に異様、異常だと考えられる。
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 一部の例とはいえ、1919年や1931年に出版された本等の翻訳書しか挙げられないようでは、戦後あるいは1989-1991年以降の英米語通用諸国ではより定着しているだろう<ロシア革命>の具体的イメージが枯渇していてもやむを得ないだろう(なお、E. H. カーの本を山内は敢えて避けた旨を書いている)。一方で、1917年に資本主義からの離脱が始まったとか、レーニンは1921年の「ネップ」によって新しい社会主義への路線を確立したとかの、<日本共産党・「ロシア革命」観>が平然と語られているのもむろん異常・異様だ。
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2761/レフとスヴェータ31—第11章②。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag- (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
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 第11章②。
 (06) レフは恩赦が「政治的」犯罪者へと拡大されることを望んだ。
 発電施設の技術者たちの中には、内務省から釈放申請をするように言われた者もいた。
 彼らはみな58条11号(反ソヴィエト組織への加入)にもとづく判決を受けていたのだが、これはレフの場合ほど重大でなかった。にもかかわらず、彼らに恩赦が与えられればレフも解放されるだろうという希望を抱かせるのに十分だった。
 彼は4月14日に、スヴェータにこう書き送った。
 「現地の警護官が間違いをしていたと分かった。
 恩赦の対象の拡大なんてないだろう。…。
 なんと残酷な手違いであることか!
 みんな希望で胸をいっぱいにし、家族たちも彼らの解放を期待していたというのに。」//
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 (07) 受刑者の人数の減少によって、木材工場で働く労働者の数が徐々に少なくなっていった。
 材木を切って引き摺り出す収監者が満足にいなかったので、燃料や原材料の供給が劇的に低下した。
 1953年5月に収容所から輸送省へと移管されていた労働収容所当局は、ペチョラで新たに解放された収監者をそのまま雇用することで、人力の損失を埋め合わせようとした。
 受刑者の釈放を監理していた内務省の官僚たちは、いくつかの戦略を使った。
 釈放用書類を与えるのを拒み、鉄道切符を買う金を与えるのを拒んだ。また、どこへ行っても職を見つけられないと警告して、雇用労働者としてとどまり続けることができる誘引材料を提示した。
 彼らのうち何人かは、恩赦によって釈放された熟練工、職人、技術者の後継者となる訓練を受けた。
 この年の末まで、従前の受刑者たちは、運転手、大工、機械操作者、機械工および電気工として訓練を受けていた(レフは、発電施設での仕事を交替して行って、彼らの仕事の一部を行なうよう余儀なくされた。
 しかし、こうして努力してみても、木材工場の生産は急激に減少した。
 計画は達成されず。賃金や手当は減り、ほかの(同様の問題を抱えていた)労働収容施設でのよりよい条件を求めて、自由労働者たちは消え失せていった。
 レフは。こう書いた。
 「ここペチョラでは全体に減少した。とくに手荷物に古いレインコートをもつ者(すなわち従前の受刑者)は、どうすればよいか分からなかった。」(注50)
 (注50) レフとスヴェータは、雨に関係する言葉(例えば「傘」、「レインコート(Mackintosh)」)を強制労働収容所(Gulag)の暗号として用いていた。//
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 (08) 故郷に帰った新しい釈放者たちは、仕事を見つけるのにじつに苦労した。
 ソヴィエトの役人たちは一般に以前の受刑者を信頼していなかった。また、多くの雇用者たちは依然として、潜在的な問題惹起者で「人民の敵」だという疑念をもって彼らを判断し続けた。
 失業の問題は切実だったので、従前の受刑者の中には、あきらめて労働収容所に戻る者もいた。
 自力で何とかやっていくのを助けてくれる家族や友人がいない場合には、彼らに残された選択の余地はほとんどなかった。
 労働収容所は、自由なまたはそれに準じた労働者(賃金が払われるが区画を離れることは認められない)として仕事を確実に得ることのできる、唯一の場所だった。
 1953年の7月頃までに、100人以上の従前の受刑者が準自由労働者として木材工場に雇用されていた。
 1954年の末には、この人数は456人にまで増えた。
 多くは、工業区域の垣根のすぐ外側にある、以前の第一居留区の営舎で生活していた。
 彼らには一月あたり約200ルーブルが支払われた。これは、極北地帯へと自由労働者を呼び寄せるための「北方特別手当」を含まない、最低限の賃金だった。だが、労働収容所の管理機関に週に二度報告した場合にだけ、この手当を受け取った。
 このような労働者の一人は、Pavel Bannikov だった。レフと同じ営舎にいて、モスクワ地方で仕事を見つけられないで木材工場に戻ってきていた。
 レフはスヴェータにこう書いた。
 「彼はここを一時的な停留地と考えていて、この秋に再びよりよい場所を求めて出ていくことを計画している。
 彼は僕にモスクワの印象を語ったよ。記憶で飾られた細々としたことの思い出として、そして新しいものの描写物として。」//
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 (09) Bannikov はスヴェータに会ったことがあった。
 スヴェータはペチョラから釈放されてモスクワへ来る多数の受刑者たちを宿泊させてやった。
 レフは彼らにスヴェータの住所を知らせ、彼女にはモスクワで彼らを助けてやってほしいと告げたものだ。
 6月12日に彼は書き送った。
 「愛しいSvetloe、きみにKonon Sidorovich〔Thachenko〕は、Vitaly Ivanovich Kuzora がきみの家を訪れると言っただろう。—そうでないとしても、僕がきっとそうした。
 そう、ここに彼はいる。彼はとてもきちんとしていて、穏やかでもある。
 僕には、モスクワの事態がどうなっていくのか分からない。
 彼には一晩か二晩の宿泊が必要かもしれない。
 とくに今の時点では、それがきみには不便なことだと分かっている。
 でも、そう長くは続かないだろう。もう一年か、せいぜいあと一年半のことだ。」
 レフには、判決で宣せられた服役期間があとまだ18ヶ月あった。そんなときに収容所からの見知らぬ人々を受け入れるのは、スヴェータには当惑と困惑が増大することに間違いなかった。
 スヴェータはレフと、二年間会っていなかった。これは、1946年に再会したあとでの、最も長い別離の期間だった。//
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 つづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
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  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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