秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2024/05

2740/末期癌の若き脳神経外科医の死②。

 つづき。Cady は夫妻の幼い子ども(8ヶ月)。
 ——
 「それとも、ここに家を再現できないかしら?
 BiPAP が空気を送り込む合間に、彼は答えた。
 『Cady』。/
 友人…がすぐに家からCady を連れてきてくれた。
 Cady はPaul の右腕に居心地よさそうに抱かれ、そしてCady らしい無頓着さでご機嫌な付き添いを始めた。
 空気を送りつづけ、Paul の命をつないでいるBiPAPの機械など気にも留めずに、Cady は小さな靴下を引っぱったり、病院の毛布を叩いたり、にこにこしたり、喉を鳴らして喜んだりした。」
 「Paul の急性呼吸不全はがんの急速な進行によるものと思われた。
 血液中の二酸化炭素濃度はいまだに上昇しつづけており、挿管の必要を揺るぎないものにしていた。
 家族の意見は分かれた。」
 「わたしは、急速に悪化した彼の容態を改善できる可能性を少しでも信じているなら、そう言ってほしいと医師たちに懇願した。/
 『Paul は奇跡の大逆転にかけたいとは思っていません』とわたしは言った。
 『意味のある時間を過ごせる可能性が残されていないのなら、マスクを取ってCady を抱きしめたいと思っています』。/
 わたしはPaul のベッド脇に戻った。
 彼はわたしを見て、はっきりと言った。
 BiPAPのマスクの上の目は鋭く、その声は静かだけれど揺るぎなかった。
 『用意ができたよ』(I 'm ready)。
 呼吸器を外す用意が、モルヒネ(morphine)を開始する用意が、死ぬ用意ができたということだった。/
 家族が集まった。
 Paul の決意のあとの貴重な時間に、わたしたちはみんな、愛と尊敬を彼に伝えた。
 Paul の目に涙が光った。」
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 「一時間後、マスクが外されてモニターが切られ、モルヒネの点滴が始まった。
 Paul の呼吸は安定していたものの、浅かった。
 苦しそうな様子はなかったけれど、わたしがモルヒネを増やしてほしいかと訊くと、彼は目を閉じたままうなづいた。…。
 そして、とうとう、Paul は意識を失っていった。」
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 「Paul の両親、兄弟、義理の姉、娘とわたしは9時間以上、彼のそばを離れずにいた。」
 「親しいいとこと叔父、そして司祭が到着した。」
 「北西向きの窓から暖かな夕陽が斜めに差し込むころ、Paul の呼吸はさらに静かになった。
 寝る時間が近づくと、Cady はぽっちゃりとした拳で目をさすり、彼女を家に連れて帰ってくれる友人がやってきた。
 わたしはCady の頬をPaul の頬につけた。
 ふたりのそっくりな黒髪には同じような寝ぐせがついていた。
 Paul の表情は静かで、Cady の表情は不思議そうだけれどもおだやかだった。
 彼の愛する娘はこれが別れの瞬間だとは思ってもいなかった。」
 「部屋が暗くなって夜が訪れ、低い位置の壁灯が暖かな光を放つころ、Paul の呼吸は弱々しく、そして、途切れがちになった。
 体は休んでいるように見え、四肢に力ははいっていなかった。
 もうすぐ9時だった。
 Paul は目を閉じて唇を開いたまま、息を吸い、そして、最後の、深い息を吐いた。」
 ——
 死亡日、2015年03月09日。37歳。

2739/末期癌の若き脳神経外科医の死①。

 Paul Kalanithi, When Breath Becomes Air (2016年1月)。
 =P·カラニシ=田中文訳・いま希望を語ろう—末期がんの若き医師が家族と見つけた『生きる意味』(早川書房、2016年11月)。
 若き脳神経外科医のPaul Kalanithi が末期癌に罹り、自らネット上に情報発信していて、その文章も一部掲載されているが、その妻だったLucy が書いた文章(死亡の過程やその後のこと)が主だと思える。舞台はアメリカだが、Paul Kalanithi という名を持つ夫の出身地等は不明。
 田中文の日本語訳がうまくて(そう感じられ)、それが理由になって最近にS·ムカジーのいくつかの著の邦訳書を手にすることになった。
 途中から途中まで、一部のみを紹介する。Lucy の文章だ。()は原書による。
 ——
 「日曜の早朝、わたしがPaul の額をなでると、燃えるように熱かった。」
 「肺炎(pneumonia)の可能性を考慮して抗生物質(antibiotics)の投与が開始されたあとで、わたしたちは家族の待つ家に帰ってきた(…)。
 でもひょっとして、これは感染(infection)ではなく、がん(cancer)が急速に進行しているせいなのだろうか?
 その午後、Paul は苦しむ様子もなくうとうととしていたけれど、病状は深刻だった。
 彼が寝ている姿を見ながら、わたしは泣いた。
 居間へ行くと、義父も泣いていた。/
 夕方、Paul の状態が突然、悪化した。
 彼はベッドのへりに腰掛けて、息をしようと喘いでいた。
 はっとするほどの変化だった。
 わたしは救急車を呼んだ。
 救急救命室にふたたびはいっていくところで(…)、彼はわたしのほうを向いてささやいた。
 『こんなふうに終わるのかもしれない』(This might be how it ends)。」
 --------
 「病院のスタッフはいつものようにPaul を温かく迎えてくれたけれど、彼の容態を把握したとたん、忙しく動きはじめた。
 最初の検査の結果、医師らは彼の鼻と口をマスクで覆ってBiPAP で呼吸を助けることにした。」
 「Paul の血液中の二酸化炭素濃度は危険なまでに高く、呼吸する力が弱くなっていることを示していた。
 血液検査の結果から示唆されたのは、血液中の過剰な二酸化炭素のうちのいくらかは、肺の病変と体の衰弱が進行していくにつれて…蓄積していったということだった。
 正常より高い二酸化炭素濃度(carbon dioxide level)に脳が順応したために、Paul の意識は清明なままだったのだ。
 Paul は検査結果を見て、そして医師として、その不吉な結果の意味を理解した。
 ICU へ運ばれていく彼のうしろを歩きながら、わたしもまた理解した。」
 「部屋に着くと、彼はBiPAP の呼吸の合間に、わたしに訊いた。
 『挿管が必要になるだろうか? 挿管(intubate)した方がいいだろうか?』」
 「BiPAP は一時的な解決策だと彼は言った。
 残る唯一の医学的介入はPaul に挿管すること、つまり人工呼吸器(ventilator)につなぐことだった。
 Paul はそれを望んでいるだろうか?」
 「問題の核心」は「この急性呼吸不全を治すことができるかどうかだった」。
 「心配されたのは、Paul の容態がよくならず、人工呼吸器を外せなくなることだった。
 Paul はやがてせん妄状態(delirium)に陥り、それから多臓器不全(organ failure)をきたすのではないだろうか?
 最初に心(mind)が、次に体(body)がこの世を去っていくのではないだろうか?」
 「Paul は別の選択肢を検討した。
 挿管ではなく、『コンフォートケア(comfort care)』を選ぶこともできるのだと考えた。
 死はより確実に、より早くやってくるけれど。
 『たとえこれを乗り越えられたとしても』、脳に転移したがんのことを考えながら、Paul は言った。
 『自分の未来に意味のある時間が残されているようには思えないんだ』。
 義母が慌てて割ってはいった。
 『今晩はまだ何も決めなくていいのよ、Pabby。…。』
 Paul は『蘇生(resuscitate)を行わないでほしい』という意思表示を確定的なものにし、それから義母のいうとおりにした。」
 ——
 つづく。

2738/生命・細胞・遺伝—10。

 細胞核内のDNAの最小単位のヌクレオチドは、リン酸、糖(五炭糖)、塩基で成る。
 五角形をしている五炭糖に5つある炭糖には、1‘〜5’の番号が振られている。
 数字の順はあくまで便宜的になのだろうが、リン酸(H3PO4)とまず結合するのは、五炭糖(の炭素)のうちの「5‘」だ。
 一方で、五炭糖(の炭素)のうちの「1’」が、塩基と結合する。
 したがって、ヌクレオチドは、五炭糖を真ん中にして、 <リン酸—糖(五炭糖)—塩基>という結合の仕方をしている、
 なお、五炭糖のうちの「2‘」だけがDNAとRNAで異なり、前者は水酸基(O)を持たないが(全体として→「デオキシリボース」)、後者は持つ(全体として→「リボース」)。日本語では「デオキシリボ核酸」等の語になって「核酸」が付いているのは、リン酸が「核」内にある「酸」だからだ。英語は、deoxiribonucleic acid。
 塩基(base)には4種がある。Adenine(アデニン、A)、Thymine(チミン、T)、Guanine(グアニン、G)、Cytosine(シトシン、C)だ。簡単にA、T、G、Cと称され、塩基(配列)の「文字情報」と言われたりされるが、むろん、塩基の表面にこれらの文字が刻印されているのではない。
 なお、RNAでは、上のうちTだけはUrasil(ウラシル、U)に代わる。
 DNA内の塩基にはプリン塩基とピリミジン塩基の二つがある。上のAとGはプリン塩基で、上のCとT(そしてRNAの場合のU)はピリミジン塩基だ。
 この塩基部分は、生物や細胞にとって必要不可欠の「情報」・「設計図」の作成に関係する<本体>だと言える。
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 一個のヌクレオチドだけでは「縄ばしご」、遺伝子あるいはDNAにならない。
 第一に、便宜的な言い方をすると、「下」へ延びなければならない。タテの「握り縄」を長くしなければならない。
 この場合、上のヌクレオチドの五炭糖(の炭素現象)のうちの「3‘」が「下」にある別のヌクレオチドの「リン酸」と結合し、さらに「下」のヌクレオチドへと繋がっていく。
 それぞれの「リン酸」には最初のものとは異なるそれぞれの五炭糖が結合している。また、その五炭糖の「1’」にそれぞれの「塩基」が接合している。
 大まかに言えば、ヌクレオチドが鎖のように上から下へと繋がっている。「リン酸」を介して接合しているのだが、二つの「リン酸」を繋ぐのは五炭糖の「5‘」または「3’」で、この二つだけを上から順に見ると、「5‘」→「3’」→「5‘」→「3’」→「5‘」…という順になる。また、それぞれのヌクレオチドに「塩基」を接合するのは、つねに、それぞれの五炭糖の「1’」だ。
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 第二に、「横」へと、広がらなければならない。
 この場合、「踏み板」(踏み縄)にあたる「塩基」を、<隣>にあるヌクレオチドの「塩基」と結合させることになる。あるいは、<噛み合わせる>ことになる。
 ここで重要なこと、不思議なことがある。
 塩基には上記のとおり4種類があるが、「隣」のヌクレオチドの塩基ののうち、接合する、あるいは「噛み合う」種類があらかじめ(不思議なことに)決まっている。
 すなわち、A-T、T-A、G-C、C-G、という4種の対応関係のみがある(4文字のあり得る組み合わせは4の4乗だが)。左右のセットで考えると、2種類しかない。
 なぜこうなっているかというと、A-T、G-Cの組み合せが必要なエネルギーが少なくて済む、という理由らしい。また、別の塩基と接合するに際してに必要な「水素結合」の個数(本数)がAとTの場合は2、GとCの場合は3と違っている、と指摘されている。
 こうして「隣の」ヌクレオチドの塩基との接合・結合(あるいは「対合」)によって、一つの「塩基」は一つの「塩基対」になる。「対合」する塩基のことを、「相補塩基」とも言う。
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 一つのヌクレオチドが「鎖」状になって「下」に繋がっていくと、塩基もまた、種類を変えながら、ずっと続いていく。
 この塩基の並び方を「塩基配列」という。片方だけではなく双方があって塩基対が出来上がっているとした場合も、やはり「塩基配列」と言ってよいのかもしれない。
 重要でかつ不思議なことは、「相補」関係にある、向かい合った、または隣り合ったヌクレオチドの塩基の配列の仕方には、一定の<法則>があることだ。
 すなわち、片方の塩基配列6個分がかりに「CATTGA」だったとすると、「相補塩基」の塩基配列は必ず「GTAACT」になっている。
 これは上記の、A-T、G-Cの対応関係しかない、ということの延長の説明になるだろう。6個はつぎのような相補塩基と対の配列に変わる。
 C→G、A→T、T→A、T→A、G→C、A→T。こうして、「GTAACT」になる。
 また、別の話題になるが、「相補」関係にあるヌクレオチド、つまり、リン酸・糖・塩基の繋がり方は、五炭糖(の炭素)の位置について上に述べた片方のそれとは逆、すなわち、「3‘」→「5’」→「3‘」→「5’」→「3‘」…になっている、という。不思議で、絶妙なことだ。
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 さて、生命に関する「情報」・「設計図」はリン酸や糖(五炭糖)の部分ではなく、A・T・G・Cという「塩基」(または塩基対)に記載されている。正確には、これらの塩基の独特で複雑な「配列」関係によって示されている。
 それらの<情報>は、DNAからRNAへ「転写」され、そのRNAが細胞質内のリボソームにより「翻訳・読解」されて、その指示情報に従って新たに「タンパク質」が作られる(ホモ・サピエンスのみならず、細菌・バクテリアを含む全ての生物に共通する、セントラル・ドグマ)。
 従って、生命に関する「情報」はタンパク質作りのための「設計図」であり、「レシピ」である、と言って差し支えない。
 そのタンパク質は多様なもので、諸種の「アミノ酸」がつながり合ったものだ。
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 アミノ酸は、20種類がある、とされる。それらが組み合わさって、一定のタンパク質が生まれる。
 塩基には4種類があるが、そのうち2種類を使っただけでは、正確には2列の塩基配列を使っただけでは、16種の異なるアミノ酸しか指定することができない。AA、AG、AC、…と、4×4=16が限界だ。
 そこで、塩基は、3種のそれで、一つの性格のアミノ酸を指定している、とされている。
 GGA、CTT等々の組み合わせ、または配列の違いで、4の3乗の64とおりの異なるアミノ酸を指定することができる。しかも、64と20の間には相当の余裕がまだあるので、複数の三「文字」の組み合わせを一つのアミノ酸のために利用することができる。
 4種の塩基のうち3つの配列はアミノ酸の、ひいてはタンパク質の生成のための「暗号」のようなもので、塩基3個の配列は「コドン」(codon)と称される。
 64種類の「コドン」がいかなるアミノ酸に対応しているかを一覧できる表は、<コドンの暗号表>とも呼ばれる。
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 塩基配列はしかしDNAの長さの範囲内で長々と続く可能性があるので、生命の維持または狭義の「遺伝」に関する「情報」として、何らかの一かたまりの区別が必要になってくるものと思われる。「複製」と「分化」を繰り返して維持されたり生成されたりする器官や臓器等々には違いがあるからだ。またそもそも、塩基配列の始めと終わりが明確でないと、作成が指示されるアミノ酸の並び方、ひいてはタンパク質を特定することができない。
 そこで、ATG(メチオニンというアミノ酸のためのコドン)を始まりと見なすことになっている、とされる。一方で、終わりを指定する「コドン」には、TAA、TAG、TGAの3つがある、とされる。
 以上の「コドン」以下は、主として森和俊・細胞の中の分子生物学—最新·生物科学入門(講談社ブルーバックス、2016)による。
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 上の一区切りまたは一かたまりは、秋月には一個の「遺伝子」に該当するように見える。当然に、この点でも、一個の遺伝子はDNA全体の一部にすぎない。
 「ヌクレオチドが多数つながりあったものは、化学的にはDNA(デオキシリボ核酸)と呼ばれる」としたあと、続けてこう書く文献もある。
 「したがって、一つの遺伝子は、ある長さをもったDNA(あるいはDNAの一断片)と言ってもよい」。
 小林朋道・利己的遺伝子から見た人間(PHP研究所、2012)
 また、「非コードDNA」という概念があるように、DNAが全て「遺伝」情報を保持しているわけではない。「DNAの98%が謎」という書名の文献もある。もっとも、正確には、DNAの全ての部分が「情報」・「設計図」を〈直接に〉示しているわけではない、〈間接的に〉、つまり設計図どおりの作成に移るべきか否か、いつ始めるのか、いわゆる遺伝子の<発現>をさせるか否か、といった重要問題に関与している可能性が高い、と言うべきだろう。むろん、〈無駄な〉部分もある。さらに、のちに触れる。
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 以上のDNAの構造に関する叙述またはノートに、「染色体」という言葉・概念は全く必要がない。
 染色体は<細胞分裂>(これによって「核」も「DNA」も(遺伝子群も)「分裂」するのだが)の過程で出現する構造体にすぎない。但し、核膜の一部または内面にあらかじめ「染色質」が用意されている、とされる。
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2737/西尾幹二批判076—「ひらめき」。

 「生命・細胞・遺伝—01」(2024/04/04)の最後にこう書いた。
 「文筆家、評論家、あるいは『もの書き』にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の『つながり方』またはその変化によって生じている」。
 このときに思い浮かべていた「もの書き」の文章はつぎだった。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。p.37。
 (その問題は)「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域に入ります。それは各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定という問題です」。
 西尾におけるアダム·スミスの「自由」概念の理解は、既述のように、間違っている。それはともかく、西尾幹二は、生活条件の整備等の物質的・経済的問題ではなく各自の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の<自由>の問題が重要だ旨を力説する。
 「ひとつひとつの瞬間の心の決定」は、脳内の、神経細胞(ニューロン)の働き、多数のそれの複雑なつながり方によって生じる。
 そして、西尾は「各自における」と書いて「各個人」のそれの重要性を面向きは強調しているようだが、じつは、西尾幹二という「自分」の<自由>こそが重要であり、保護され、尊重されるべきものだと考えていることは明らかだ。
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 西尾幹二にとって、文章作成の際に言葉や語句が「ひらめき」出てきて、それを選定する場合の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」がきわめて重要で、そこにこそ、<西尾幹二らしさ>、自分が高く評価されるべき根拠があるのだろう。
 物質的・経済的問題ではない、それと峻別されるべき<精神>の領域に属する問題なのだ。
 この部分にも、幼稚で単純な「物心(心身)二元論」が見え隠れしている。
 「物」よりも「精神」が大切、「精神」・「心」を表現する言葉・文章が大切。—さすがに「文学部的」または「文芸評論家的」なモノ書きの文章だ。
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 もっとも、西尾が語る趣旨を全く理解できないのではない。、またむしろ、陳腐な物言いでもある。
 西尾幹二がいっさい参照していないと間違いなく見られるのが「法学」または「憲法学」上の<自由>論なのだが、憲法(学)上は「経済的自由」よりも「精神的自由」が優先されるべきとされ、後者の中核は「内心の自由」にあるとされる。
 西尾は知らない単語・概念だろうが、この人が語っているのは要するに「内心の自由」の重要性に他ならない。特段に新しい深遠な考え方が示されているのでは全くない。
 (但し、「内心」の形成は<本当に自由に>行われているのか、という問題はある。この問題は「意識」・「こころ」の本質や<自由な意思>の存否という「ハードな」問題にかかわる)。
 上の()部分をあえて注記しておくが、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」が重要だなどという言辞は、ある意味ではほとんど自明のことを、何やら勿体をつけて、長々と書いているものに過ぎない。
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 だがしかし、「生活条件の整備」等の個々の人間が生きていく上で重要な課題と仕事を、西尾幹二は一貫して<馬鹿にしてきた>、という面が、一方にはあると考えられる。
 旅行中にふと思ったことだが、急傾斜の地域に鉄道を通すために、またその鉄道の速度を早めて人や物質を運送・運搬する時間を短くするために、日本で100年以上のあいだ、多数の人々が努力し、また工事等を行なってきた。そんな、無名だろう人々を含む多数の人々の、「便利さ」を追求する懸命の努力など、西尾幹二の意識には、ほとんど昇ってきたことがないに違いない。
 「生活条件の整備」は「精神的自由」と比べて価値あるものではないとしつつも、前者が獲得された以上は、西尾はその利便性を平然と利用してきたのだろう。
 西尾幹二が住んだ住宅にも、電気・上水道等々の種々の利便性が及んでいただろう。西尾が杉並区から中央線・市谷駅に着くまでのあいだ、あるいはその反対の帰路のあいだ、間違いなく西尾も、都市の交通施設・制度の恩恵を享受してきたわけだ。
 にもかかわらず、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の問題が重要だ、その<自由>にこそ価値がある、とぬけぬけと書けるのは何故だろう。かつまたその<自由>は、西尾幹二という「自分」のそれで十分であって、この人は、日本国民一般、世界の人々のことなど全く考慮していない。
 いびつな、「観念」好きの、自分が良ければよい、と考えるもの書きの姿が、ここにはある。
 「科学は敵だ」とか、「神話は無条件に信じるべきものだ」とか等々の狂信じみた物言いが西尾幹二にはあることは、すでにこの欄で記した。
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2736/生命・細胞・遺伝—09。

 DNAの構造(・形態)を理解しようとするとき、まずは木製のハシゴを思い浮かべるとよいかもしれない。
 登り降りするために足を乗せる横棒・横板の部分が「塩基」(正確には「塩基対」)だ。左右の手で握る部分は、「糖」と「リン酸」が繋がってできている。
 だが、「木製のハシゴ」では<二重らせん>構造を想像することが難しいかもしれない。左右の握り棒部分を強く「ねじって」、<らせん>階段のようにしなければならないからだ
 だから、勝手に、<縄ばしご>の方が近い、と秋月は思っている。「縄」でできたハシゴならば、左右にあるタテの縄を容易に「ねじって」、<らせん>状にすることができるだろう。
 左右の握り縄の部分は、長い「鎖」とか、長い「糸」と表現されることが多い。
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 DNA(とRNA)の最小の構成単位は、「ヌクレオチド」(nucleotide)というらしい。この「ヌクレオチド」は、一個ずつの「リン酸」と「糖」(正確には「五炭糖」)と—4種ある「塩基」のうちの—1種の「塩基」で成る。DNAの「糖」は「デオキシリボース」だ(だから、DNA=「デオキシリボ核酸」という)。RNA(リボ核酸)は「リボース」なので、DNAと異なる。
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 ヌクレオチドは、「縄ばしご」のごく一部だ。横棒部分の全体の、半分しか持たない。したがって、これだけでは、「はしご」にならない。また、左右にある握り縄部分のうちのごく短い一部分にすぎず、上記の通り計2個のつらなった分子構造しか持たない。
 ではなぜ、横棒=横板部分がもう半分くっついて(逆の形で「相補的に」)結合して、左右に一対の握り棒(握り縄)になっているのだろうか。一対の(計2種の)塩基を「塩基対」と言う。
 もともとタテの(ヌクレオチドの)長さが短いと生命体にとって必要な「情報」を記載する(正確には「情報」を記載する「塩基」部分を保持する)ことができないから、左右いずれかの「リン酸基」・「糖」部分は長く繋がって、「鎖」状にまたは長い「糸」状になっている。
 その左右いずれかの部分を長くすれば、塩基がもつ<情報>を十分に支えることができるのではないか。
 この問題について、DNAの<情報>がRNAに「転写」されるときに「コピーミス」が生じ得るので、その場合に備えて、もう一本(もう一鎖)、元来は「同じ」はずの「予備」を用意しているのだ、との説明がある。
 田口善弘・生命はデジタルでできている—情報から見た新しい生命像—(講談社ブルーバックス、2020)
 (なお、この一対は、有性生殖生物の場合の雌雄という一対に由来するのでは全くない。後者に由来するのは一対で成る<染色体>だ。)
 なるほど、無駄になるかもしれないのに丁寧なことだ、と思う。これに比べて、RNAは、「ヌクレオチド」が最小単位であることは同じだが、「はしご」状(二本の長い鎖の「らせん」状)ではなく、一本の長い「鎖」・「糸」なのだ。
 しかし、さらに疑うと、「予備」もまた「ミス」を含んでいる可能性が全くないとは言えないだろう。そうすると、「三本め」もまた用意しておかなければならないのではないか。
 日本の神社にたいていはある鳥居には一本の柱ではなく、左右一対の二本の柱がある(それらの上に「笠木」がある)。そうであってこそ、「安定」している(また、「美しい」のかもしれない)。
 だが、ごく稀には、二本の柱の中央の奥にもう一本柱があって、三本の柱をつないでいる鳥居がある(三柱鳥居。例、京都市の木嶋坐天照御魂神社)。上から見ると、正三角形の形状をしているはずだ。二本よりも、三本の方が「安定」性が(鳥居の場合はきわめて)高いだろう。
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 こんな雑考をしていると、興味深い記述を思い出した。すなわち、DNAの「二重らせん」構造を解明したJ·ワトソンとF·クリックは(他の一研究者グループも)、当初は「二重」と想定しておらず、「三重」と予想した時期もあったという。らせん状にヒストンに巻き付くのは何本と決まっているわけではないので、三本でも四本でもあり得ることだ。なお、他にも想定違いはあった(塩基がくっつく方向等)が、それらを打ち破ったのが、ロザリンド·フランクリンによる「写真」だったという。
 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子—親愛なる人類史—/上(2021)
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 生命体(生物)にとって最も基礎的な数字は、2、次いで4であって、3ではないような気がする。多言はしない。人間に身近な「音楽」についても。
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 そんな数字マニアックなことよりも、以下のことの方が、はるかに重要なことだろう。
 細菌(バクテリア)を含む全ての生物にDNAがあり(ウイルスの中にもDNAを持つものがある、という)、「ヌクレオチド」を(「分子」レベルでの)共通する最小単位にしている。細菌(バクテリア)もホモ・サピエンス=人類も同じだ。
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2735/生命・細胞・遺伝—08。

 生命・細胞・遺伝—08。
 細胞や個体・人間の「死」についてまず書こうと漠然と想定していたが、<Y染色体論>なるものをふと思い出して、染色体や遺伝子等に進んでしまった。「細胞死」と個体の「寿命死」の差異や関連についてがまだ触れていない。「読書ノート」のようなものを、行きがかり上、さらに進める。
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 生命体・細胞の(とくに遺伝子関連の)研究の発展史のようなものに05でごく簡単に触れた。以下、重なるところもある。
 1860年代のメンデルによるほとんどの生物に共通する遺伝関係「因子」と遺伝にかかる「法則」の発見から20世紀になってからの(ドイツのW·ヨハンセンによるドイツ語を経ての)「遺伝子(gene)」という言葉の出現や若きサットンの研究までの間に重要だったのは、「染色体(chromosome)」の発見とこの言葉の定着だった。
 なぜ「染色体」が遺伝子やDNAに先行したかの理由は、まずはその「大きさ」と「染色」されやすさ、にあっただろう。
 遺伝子やDNAよりもサイズが大きいために、当時の顕微鏡による「細胞」観察でもより容易に発見することができた。
 加えて、「染色体」は青い「アニリン染料」によく「染まる」性質を持ち、その大きさとともに明瞭に「目立つ」ものだった。
 「染色体」という呼称は、1888年に始まった、とされる。その「染色」性に由来していることは間違いない。
 このように「染色体」が目立った重要な背景には、しかし、<細胞分裂>の際の「挙動」こそがあった。
 1882年に、ドイツのW·フレミングは、<細胞分裂>の各段階ごとに、「よく染まる構造体」の「奇妙で特徴的な挙動」の「精緻なスケッチ」を残した(「」引用は、中屋敷均・遺伝子とは何か(2022)から)。このスケッチは現在でも利用されている。
 大きさも、「染色」性も、じつは、<細胞分裂>の過程での不思議な「挙動」によってこそ明らかになったものだった。
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 1875年にヘルトヴィヒが、ウニの「生殖」過程で「核」内の精子が別の核内に入っていって二つの「核」が融合する、ということを発見した。
 そんなこともあって、二つの「核」の融合を経る(狭義の)「遺伝」には「核」内の(その他の物質や構造体ではなく)「染色体」が重要な役割を果たしていることを、20世紀初頭にサットンが発見し、主張するに至る(既述、05)。
 こうして、メンデルによる「遺伝」に関する「因子」は「染色体」に該当する、またはこの二つは重要な関連がある、と考えられた。そしてまた、同時期にドイツのW·ヨハンセンの造語を経て「遺伝子」(gene)という語・観念も作られていた。サットンは、「染色体」=「遺伝子」と見なすとメンデルの「法則」をうまく説明できる、と気づいた、という(この部分、小林武彦・DNAの98%は謎(2017)による)。
 だが、「遺伝子」の正体・「性質」については、「染色体」との関連も含めてまだ不明確だった。
 一方ですでに1869年に、細胞内、とくに「核」内には「DNA」という物質があることが知られていた(スイスのF·ミーシャによる)。
 だが、「遺伝子」は「タンパク質」なのか「DNA」なのか、といった議論があり、「DNA」等の単純な成分をもつ「核酸」(nucleic acid)ではないとする説も有力だった。多数説だった、ともされる。人体を構成する主要な高分子化合物(生体高分子)は20種類のアミノ酸が複雑に結合した種々の「タンパク質」だから、「遺伝」・生存の基本を形成するのも「タンパク質」だろう、というわけだ。
 その後、1928年、その物質は「タンパク質」以外の何かだと判った(グリフィスの実験)。
 ついで1944年(第二次大戦中)、「遺伝子」の正体・本体または物質的性格は「DNA」だと解明された(アベリーの実験)。
 では、「DNA」はどのような形態・構造をしているのか。これが明らかにされたのが、1953年。J·ワトソンとF·クリックによる。その年から、まだ70余年しか経っていない。
 なお、「二重らせん」構造という結論に影響を与えたのはロザリンド·フランクリンという女性による観察・解析だった、という。この人はのちに38歳で夭折した(中屋敷・上掲書等々)。
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 以上の最後の方ですでに、「遺伝子」の本体または物質的性格が「DNA」だ、という旨を叙述した。これは、両者の差異に関する、つぎの説明の仕方に符号しているだろう。「視座」の違いによるとも言える。
 すなわち、「遺伝子」とは<情報>(を記載したもの)であり、「DNA」とはその<物質>(的性格)だ。
 だが、種々の説明の仕方があるようだが、すでに(<八木秀次の「Y染色体論」②>)で触れたように、「核」内のDNAのむしろ広い範囲は、「遺伝子」が示す情報(・設計図)を持たないようだ。「染色体」が出現する「細胞分裂」の過程でも同じ。
 したがって、「遺伝子」とDNAの関係・差異については、さらにもう少し立ち入る必要がある。
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2734/八木秀次の<Y染色体論>②。

 「細胞」は大きく「再生系」と「非再生系」に分けられる。
 上の後者は神経細胞、心筋細胞だ。おそらく、「iPS細胞」を使った再生 もあり得ない。爪も肝臓という臓器等も「再生」できるけれども。
 多数の細胞は前者の「再生系」だ。その中に、生殖細胞および生殖関連細胞も含まれる。
 この区別は、「細胞」の「分裂」があるか否かに対応している、と見られる。元の神経細胞が「分裂」によって消失してしまえば(そして新しい神経細胞に取って代わられれば)、各個体に固有の<記憶>や<自我意識>等もまた消滅してしまうのではないか。全ての細胞が「分裂」・増殖するかのような叙述は、厳密なものではない。
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 細胞の「分裂」の態様には、「有糸分裂」(有糸「核分裂」による細胞分裂)と「減数分裂」とがある。おおよそは「紡錘体」(糸)出現の有無によって区別されるとも言われるが、それはともかく、「減数分裂」で生み出されるのは、ヒトについて言うと、精子(男子)と卵子(女子)だ。
 これらを作り出す精巣や卵巣という細胞組織の個々の細胞も、「有糸分裂」(と「分化」)によって作り出される。
 上の区別に対応するのが、おそらく、「体細胞」と「生殖細胞」の区別だ。後者は正確には、精子(男子)と卵子(女子)のみを意味する。
 精子と卵子は「細胞」ではあるが、「体細胞」が23対・46本の「染色体」をもつのに対して、半分の23本の染色体しか持たない。「減数」分裂と称される理由だ。
 精子と卵子が一体となった「受精卵」は、両者から受け継いで、23対・46本の染色体をもつ。
 その受精卵は順調に分化・増殖すれば胎児になり、新生児となり、成長して再び精子(男子)または卵子(女子)を体内で(「減数分裂」によって)作り出す。
 元に戻ると、あるいは上から再出発すると、精子と卵子がもつ23本の「染色体」の中には、1本の「性染色体」がある。残りの22本の「常染色体」は少なくとも直接には生殖細胞の生成に関与しておらず、精巣・卵巣も含む、それ以外の圧倒的多数の諸「体細胞」の生成に関わっている。
 精子がもつ1本の「染色体」はいわゆる「X染色体」か「Y染色体」かのいずれかで、卵子がもつ1本の「染色体」は通常はつねに「X染色体」だ。
 「受精卵」・胎児・新生児・個々の人間がもつ23対・46本の「染色体」のうちの1対・2本の「性染色体」には、したがって、いわゆる「XY型」と「XX型」の違いがあることになる(生物上の「性」の区別)。
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 「染色体」はしかし、それ自体が「体細胞」や「生殖細胞」の生成に関する<情報・設計図>をもってはいない。
 「染色体」は、「DNA」や「遺伝子」を「細胞分裂」の際に整序させて<(一時的に)包み込む>「包装物」のようなものだ。こう理解するようになった。
 子孫への狭い意味での「遺伝」、個体みずからの「存続」の両者に関する<情報・設計図>は、「染色体」にではなく、「DNA」または「遺伝子」が示している。
 さらに、上の後の二つは同義ではなく、より決定的なのは最後の「遺伝子(gene)」だと見られる。
 下の書物によるとだが、「全ゲノム」=「DNA」全体のうち98%は「非コードDNA領域」だ。つまり人間の身体の生成・維持にとって重要なタンパク質を指定する等の情報をもっていない。また、同じく80%は、「遺伝子を含まない領域」だ、とされる。
 この数字は、アメリカを中心にして行われた(日本も少しは関与した)「ヒトゲノム計画(プロジェクト)」が完了した2003年の報告書にもとづくもので、「多くの研究者の予想以上の」ものだったとされる。
 小林武彦・DNAの98%は謎(講談社ブルーバックス、2017)。
 「全ゲノム」とは(ヒト一人についての)「30億塩基対」だとされるが、「塩基」等のDNAの構成要素は、別に触れる。
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 八木秀次・本当に女帝を認めてもいいのか(洋泉社新書、2005)。
 この書物で八木は、「Y染色体」としきりに書きつつ、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念を自らでは(たぶん)いっさい用いていない。これはなぜなのか。
 「ヒトゲノム計画」とその結果について知らなかったとしても容赦できる。しかし、2000年頃にはとっくに、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念があることくらいは知られていただろう。
 八木は、信じ難いことだが、「染色体」=「DNA」=「遺伝子」と単純に理解していたのだろうか。
 問題にされてよいのは、「染色体」ではなく、「遺伝子」だ。
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 他にももちろん、八木の議論の問題点は、多数ある。
 ①継承されるものはもともと全て<複製(コピー)>なので、「まったく同じ」染色体も遺伝子もあり得ない。
 ②「遺伝子」レベルでの<複製(コピー)ミス>(=「変異」)がありうる。
 ③「男系」で継承されてきた、という「科学的」根拠がない(「継体」以降にかぎっても)。子どもの父親は本当は誰なのか、という問題は、現代でも起きる。最もよく知っているのは受胎し、出産した母親だけ、ということはあり得る。また、「神武」天皇は本当に「男性」だったのか(その前に、「実在」性自体の問題はむろんある)。「継体」は本当に「応神」天皇の「Y染色体」を継承しているのか? あくまで若干の例だが、これらを肯定できる、「科学的」・「実証的」根拠はどこにあるのか。
 ④「血」・「血統」・「血筋」といった語が、厳密な意味が不明なままで使われている。まさか、「Y染色体」=「血」、ではないだろう。等々。
 以上は、「女系」または「女性」天皇の歴史上の存在とは直接の関係がない。
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 ついでながら、有性生殖生物である哺乳類の場合のオス(人の場合は男子)という「性」を決定する、正確にはたぶん「精巣」(→精子)を作り出すことのできる、そういう遺伝子は、近年の研究により、「SRY(Sex determining-region Y)遺伝子」と称されるものだと特定されている。そして、「XX型」染色体の中にも稀には、この「SRY遺伝子」をもつものがある、という。
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2733/私の音楽ライブラリー041。

 私の音楽ライブラリー041。
 Frederic Chopin, Nocturn No.20 in C-sharp Minor, op.posth.
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 003<再掲> →Nobuyuki Tsujii. 〔Classical Vault 1〕
 003-02 →Alice Sara Ott. 〔音楽の灯〕
 003-03 →Maria J. Pires.〔- Topic〕
 003-04 →Wladyslaw Szpilman. 〔profslump20〕
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2732/生命・細胞・遺伝—07。

 生命・細胞・遺伝—07。
 「染色体」というものは、(秋月瑛二には)把握し難い。
 「染色体」は「遺伝子」や「DNA」を「内部に含む」、より「大きい」構造体だ、といちおう書いた(02)。
 そして、「染色体」は、細胞の中の「核」の中にある。
 これらは、完全に間違っている、というわけではない。
 こう理解して差し支えないだろう叙述は、すでに0206で引用または紹介した、S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(2018)のつぎの中にもある。
 「①遺伝子は染色体上に存在している。
 ②染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体で、そこには鎖状につながった何万もの遺伝子が含まれている。」
 また、同じ著者・訳者による、細胞/上(早川書房、2024)の序文にも、つぎの文章がある。
 「①…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)という、二重らせん構造を持つ分子内に物理的に存在している。
 ②DNAはさらに、糸の束のような構造をした染色体の中にパッケージされている。」
 後者によると、「遺伝子」は「DNA」という分子内に「物理的に存在」し、そのDNAは「染色体の中」に「パッケージされて」いる。
 どう読んでも、「遺伝子」<「DNA」<「染色体」という関係にある、と理解したくなる。
 また、前者の第二文は、「染色体」の中に「遺伝子が含まれている」と読むのが通常だろう。
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 だが、やや不思議なのは、上の前者の第一文が明らかに「遺伝子は染色体上に存在する」として、「の中に」ではなく「上に」としていることだ。これは原著で確認してもそうで、「in」ではなく「on」が使われている。
 遺伝子<染色体という関係にあるなら、なぜ「in」になっていないだろう、という気もする(in でもon でも、包含関係は変わらないかもしれないが)。
 さらに不思議であり、問題を孕んでいると感じるのは、上の前者の第二文と、上の後者の第二文の、日本語訳だ。原著の英文を見ていると、訳者の「医師」資格を問題視するのではないが、異なる日本語の文章に訳すことのできる可能性がある、と考えられる。なお、前者と後者の①と②は、原文ではいずれも、関係詞でつながった一続きの一文章だ。
 すなわち、つぎのように翻訳できる可能性があるだろう。
 前者の①・②。→「遺伝子は染色体上に存在している。—この染色体は細胞の中に含まれる(buried)長い線状の構造体で、細胞は、鎖状につながった何万もの遺伝子を含んで(contain)いる」。
 関係詞の主語を染色体ではなく細胞と理解できる可能性があり、その場合は、「遺伝子」<「染色体」ではない。たんに「遺伝子」<「細胞」を前提とした叙述であるにすぎない。
 後者の①・②。→「…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)と称される二重鎖のらせん状分子の中に(in)物理的に位置している。それ〔DNA〕はさらに、人間の諸細胞では、染色体と称される、群れた〔綛(かせ)のような〕(skein-like)構造体へと(into)パッケージ〔包装〕されている。
 この部分では(関係詞の主語ではなく)「packaged into」の意味の理解が問題になる。「〜へと包装」される、「〜に包み込まれる」とは、必ずしも大小ないし包含・被包含の関係を意味しないと理解できる可能性はあるだろう。また、「染色体」が「包装」するではなく、厳密には、「染色体」と呼ばれる「〜構造体」が「包装」する、と叙述されていることも気になる。〔原文追記—DNA which is further packaged in human cells into skein-like structures called chromosomes.〕
 要するに、「遺伝子」または「DNA」<「染色体」と単純に理解してはいけない、という気がする。
 そして、この理解の方がむしろ、別途に種々の文献を一瞥した後での秋月の理解に合致する。
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 一つの巨大な「細胞」に宇宙船のようなもので「細胞膜」を通過して入り、内部を探検して、「内部」の諸物体(ミトコンドリア、リボソーム等々)を紹介しているかのごとき叙述が、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)にはある(すでに、02での叙述の基礎にした)。
 上で記したことに関係して興味深いのは、上の紹介では一番最後に「(細胞)核」が取り上げられながら、「染色体」は「核」の中で独立した位置づけを与えらていない、ということだ。そのかぎりでは、著者は「遺伝子」や「DNA」等と同様の扱いを、「染色体」についてしている。
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 何となく不可解のままでいたところ、なるほど、と理解できた気になったのは、つぎの文章による。
 「細胞分裂が始まると、DNAが巻きついているヒストンはそれまでよりもさらに密に折りたたまれて、『染色体』という棒状の構造にまとまっていきます。
 染色体は、細胞分裂のときにしか見られないDNAの姿です。
 雑誌Newton 2011年11月号/生命の設計図·DN A(ニュートンプレス、電子化2015年)。
 これによると、DNA=染色体だ、とも言える。
 そのことよりも重要なのは、「染色体」は「細胞分裂」のときに(正確には、その過程で)出現する構造体だ、ということだ。
 「細胞分裂」は次から次へと頻繁に発生しているだろうから、「染色体」も<ほとんど常時>「核」(<「細胞」)内に存在していると感じられて不思議ではないだろう。
 しかし、論理的には、または時間軸を厳密に見れば、「染色体」は<一時的に>存在するものにすぎない。
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 かつまた、今回はほとんど立ち入らないが、「染色体」は、その形状、(「核」内での)「位置」や、(「遺伝子」・「DNA」との)「関係」を、「細胞分裂」の過程で頻繁に(だがリズミカルに)変化させる
 <空間軸>のみならず<時間軸>を取り込んで、あらためて「細胞分裂」の過程に触れる必要がある。その過程での「染色体」の様相は、「常染色体」と「性染色体」とで同じではない
 おそらくは「生殖細胞」や「性染色体」について明確には顧慮されていないが、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)の中には、つぎの叙述がある。
 ここでは、「染色体」の形状等の変化のほか、「(細胞)核」もまた一時的には消滅する旨も語られている。
 「細胞が分裂する際、すべての染色体は複製されて二倍になり、その後、二つに分かれる。
 ヒト細胞では、核膜が消え、分裂してできたばかりの娘細胞の中にフルセットの染色体が一組ずつ入ると、核膜がふたたび現れて染色体のセットを取り囲む。
 こうして、染色体がおさめられた新しい核を持つ娘細胞ができあがる。
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2731/生命・細胞・遺伝—06。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018/文庫2021)は「プロローグ」で、「われわれはすでに遺伝子を非常に詳しく、深く理解してい」る、とする。そして、こう続ける。
 「遺伝子〔genes〕は染色体〔chromosomes〕上に存在(reside)している。
 染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体〔long, filamentous structures〕で、そこには鎖状に〔in chains〕つながった何万もの遺伝子が含まれている。
 ヒトの染色体は全部で46本で、父親と母親から23本ずつ受けついでいる。」
 また、小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2012)には、つぎの叙述がある。
 「地球上で見られる生物のほとんどでは、遺伝子は、たがいにより集まり群れをつくって存在している。
 …、人間の場合、遺伝子は約2万個であることが知られている。
 これら2万個の遺伝子は、23個の群れに分かれて細胞の中に入っている。
 平均すれば、一つの群れには約870個の遺伝子が入っていることになる。
 約870個の遺伝子が乗ったバスが23台あると表現してもいい(それぞれのバスの中では、遺伝子はたがいにつながりあって、一本の長い紐のようになっている)。
 このときの一台一台のバス、あるいは一本一本の紐を染色体と呼ぶ。」
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 人間の染色体数は46だと確定、または判明したのは、1956年だとされる。
 上の②だと染色体の本数は23本のようでもあるが、一台のバス=一つの「群れ」であり、その「群れ」は2本の染色体で成ると理解すると、染色体の数(本数)はやはり46だ。
 なぜ「2本の群れ」ができるかというと、①が述べるように、<一定の種類の>染色体を父親から1本、母親から1本継承し、その2本が「群れて」いるからだ。
 23組(群れ・対)の染色体のうち22組の各染色体は「ほとんど同じ形質」をもつ(「相同」)。しかし、1組だけは異なる。その組み合わせ(セット)の染色体(2本)を<性染色体>とも言う。
 ところで、上の①と②は一つの「細胞」(>核)に関する叙述で、全ての「細胞」に当てはまる。
 したがって、人間の細胞数を約38兆個だとすると、人間の個々の個体は、46×38兆個=1748兆本の染色体を体内に持っている(細胞数約60兆個だと2760兆本)。全細胞・全ての核の中に、「長い線状」、「鎖状」の構造体あるいは「一本の長い紐」になった、これだけの数の「染色体」がある。
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 染色体ではなく、遺伝子の数となると、もっと膨大になる。
 上の①は「何万もの」(tens of thousands)と書き、②は「約2万」と書く。
 <性染色体>を除く染色体を「常染色体」と呼び、それは22組・対・セットの染色体で成る。1963年の国際会議を経て、各「常染色体」はその「大きさ」(正確には総「塩基対」数の多さ)の順に番号が振られることになった、とされる。第1番染色体、第2番染色体、…第22番染色体というように。
 それぞれが父親由来と母親由来の染色体の合計2本の「染色体」から成るのだから、2本ずつをセットにしてこう称するのは、やや紛らわしい。
 各番の「染色体」について、遺伝子数を正確に(または正確らしく)記載している文献がある。それによると、つぎの数字だ。1番〜22番まで列挙する。
 ①2610、②1748、③1381、④1024、⑤1190、⑥1394、⑦1378、⑧927、⑨1076、⑩983、⑪1692、⑫1268、⑬496、⑭1173、⑮906、⑯1032、⑰1394、⑱400、⑲1592、⑳710、㉑337、㉒701。
 以上、雑誌Newton2013年9月号・XとY—男女を決めるXY染色体(ニュートンプレス、電子化2016)。
 上のうち計6組は奇数だ。これは父親由来か母親由来かいずれかの遺伝子数が1つ少ない(または多い)ことを意味するのだろうが、理由・意味は分からない。
 血液のABO型に関与するのは血液型についてのA遺伝子、B遺伝子、O遺伝子だとされ、それらは第9番染色体上にある、という。但し、個々の染色体(群)には血液型については二つ(父親由来と母親由来)の遺伝子しか存在し得ないとされる。そこで、当該両親からは生まれ得ない血液型の子どももあることになる。
 ともあれ、上の各数字の合計を単純に計算すると、2万5412になる。これを22等分すると、平均は約1155だ。なぜか、上の小林朋道②のいう「約870」に比べて、やや多い(とはいえ、桁外れに異なる、という程ではない)。
 これは1細胞あたりの遺伝子数だから、個体全体での数は、2万5412×38兆の計算をしなければならない。これは1兆の96万5656倍で、96京5656兆になる。
 これだけ膨大な数の遺伝子が個体の「生存」のために用意されている(常染色体は「性」・生殖に関与しないと仮にしておく。いわゆる「性染色体」の遺伝子数は下記)。
 もっとも、「情報」または「設計図」が用意されていても「現実化」しない、あるいは「発現」しない、そういう遺伝子も、少なくない。メンデルは19世紀に、<顕性(優性)>と<潜性(劣性)>の区別があることを示したのだった。
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 ついでに、ここで確認しておく。
 「常染色体」と言われる父親由来と母親由来の2本の染色体は<きわめてよく似たものだ(正確には「塩基配列」がほとんど同じだ)。両親がその祖先から継承してきたものを仮に「血」と呼んでおくとすると、子どもには確率的には父親系統の「血」と母親系統の「血」が半分ずつ継承される
 したがって、子どもが「女子」であっても、確率的には半分、父親系統の「血」が伝わっている。使いたくない言葉だが、仮に(母親系統ではなく)父親系統の「血」が<高貴>だとしても、その<高貴>な「血」は、「女子」にも伝わる。このことはしごく常識的で、当たり前のことだろう。
 繰り返しだが、子どもの身体・体質等々々の個体の「形質」一般に密接に関係する「常染色体」のうち、子どもが女子であれ男子であれ、確率的には半分が母親由来であり、半分が父親由来だ。常識的で、当たり前ではないか。
 「常染色体」は22組(対・セット)で、「性染色体」は1組だけ。「性染色体」だけが子どもに「遺伝」する、あるいは「継承」される、のでは全くない。それによって、女子か男子かが運命的に(?)定まるのだとしても。
 なお、父親を含む両親が生後に獲得した形質は子どもに「遺伝」しない、「遺伝子」によって「継承」されることはない、ということも確認しておく必要があるだろう。
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 いわゆる「性染色体」、いわば(秋月用語だが)「第23番染色体」にも、遺伝子はある。そのうちの、父親由来と母親由来の2種があるいわゆる「X染色体」には、1098の遺伝子があり、父親由来のものしかない、いわゆる「Y染色体」には、かなり少ない78の遺伝子がある、とされる(上掲の雑誌Newton による。ちなみに、「第23番〜」を加えた総遺伝子数は、女子が2万5412+1098×2=2万7608、男子が2万5412+1098+78=2万6588)。
 さて、「Y染色体」の全体が、つまりは実質的には78の遺伝子の全てが、「男子」という「性」の決定に参画しているのだろうか。「参画」ではなく「関与」でもよい。
 上の問いは厳密には誤りだ。父親がもった「X染色体」もまた、「男子」にしないというかたちで、「性」の決定に「参画」・「関与」しているのだから。
 いや、そもそも、男女いずれかへの「性」の「決定」とはいったい何のことだろうか。あるいはさらに、それに遺伝子が「参画」または「関与」するとは、どういうことを意味しているのだろうか。
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2730/生命・細胞・遺伝—05。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 38兆個とも60兆個ともいわれる、ホモ・サピエンスの個体を構成する基本単位である「細胞」は、増殖または分化する(加えて、これらの結果として元の「細胞」は「死ぬ」)。
 「増殖」は「分裂」によって生じる。「増殖」とは、一つの細胞が二つに「分裂」して同じ「細胞」の数が2倍、4倍と増えていくことだ(10回で2の10乗の1024倍になる)。細胞レベルで同一のものの「クローン」を多数生み出していくこと、と言って間違いでないだろう。
 「分化」とは異なる性質の細胞に「変化」・「変質」することだ。増殖を伴わないかぎり、数は増えない。おそらくは増殖と分化が同時に並行して一挙に行われていって、多様な機能に特化した「細胞群」、「細胞集団」、「組織」といったものが出来てくるのだろう。
 既述のように、ほとんどの生命体では(=少なくとも真核生物であれば)、「細胞」の中に「(細胞)核」があり、全てのその中に(われわれの個体では38-90兆個の細胞の全てに)「DNA」が格納されている。
 なお、「神経細胞(ニューロン)」という細胞について、樹状突起、軸索、核、の他に「細胞体」がある、と01で書いた。この「細胞体」とは、細胞質、ミトコンドリア、リボソーム等を含む。ニューロンも「細胞」なのでこれらを含んでいて当然なのだが、「神経細胞」に特有の説明がされる場合にはこれらに逐一言及されず、「細胞体」として一括されることがある(と見られる)。
 神経細胞(ニューロン)の「核」の中にも、もちろん「DNA」が存在する。
 さて、「DNA」と「遺伝子」や「染色体」とは、どのような関係に立つのだろうか。これまで、後二者については、言葉としてもほとんど触れたことがない。
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 「遺伝子」という語は、ダーウィンもまだ使って使っていなかったようだ。最初は20世紀に入ってから1909年にドイツの研究者の書物の中に「Gen」として出てきたらしい。それが1911年に、英訳語でgene(複数形はgenes)と記述された(参照、下記の中屋敷著)。ゲノム(genome、ジーノウム)は、gene に由来する言葉だ。
 日本語の「遺伝子」という語では、親または先祖から子どもまたは子孫に同一のものを「継承」させる因子、という意味だけに理解される、そう誤解させる、そういう可能性がある。この意味での「遺伝」や「継承」は、英語ではheredity という。
 これに対して、英語のgen(独語のGen)には、「生み出す」、形質を発現させる、という意味があるとされる。秋月が付記するが、generate (生む、生成する)は、この語幹をもっていると思われる。
 そして、欧米語での「遺伝子」も、「遺伝」や「継承」の意味のみならず、自らの形質・形態や機能・役割を「生む」または「支配する」・「決定する」という意味ももっている。これは、「細胞」レベルでも「個体」レベルでも言える。
 ヒトの「個体」に即して簡単に言えば、ヒトの「身体」(正確には「脳」も含む)を「生み」、「支配」・「決定」しているのは、当該人間の「遺伝子」だ、ということだ。この意味では、子どもや子孫は何の関係もない。なお、「支配」・「決定」と言っても、ヒトの個体の「運命」があらかじめ「遺伝子」によって100%決まっている、という意味ではない。
 ともかく、「遺伝子」は、子ども・子孫への「遺伝」・「継承」にのみかかわるものではない。「自ら」に密接に、直接にかかわっている。
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 「遺伝子」、「染色体」、「DNA」は、ある意味では、それぞれの「発見」時代の科学または自然科学・生物学・遺伝学等の発展段階に則したもので、基本的には同じものを指している、とやや乱暴に言ってよいのかもしれない。つぎのような意味でだ。主として、中屋敷均・遺伝子とは何か—現代生命科学の新たな謎(講談社ブルーバックス、2022)による(粗雑な概括なので、叙述の責任は秋月にある)。
 1865年頃、明治改元の直前にG·J·メンデルがエンドウマメを使って<遺伝>に関する「法則」を発見したとき、親から子への形質の継承に関わる共通の「因子」があるに違いない、ということを明らかにしただけだった。その後彼とその「法則」は忘れられ、20世紀に入ってから、基本的考え方の「正しさ」が確認または再発見された。
 その再発見のためには、19世紀半ば以降の「高性能な複式顕微鏡」の量産等の技術や関連科学分野の発展が必要だった。つまり、まずは、「細胞」の「分裂」の際に特徴的な挙動をする「染色体」が発見された。その構造体は、「細胞」内に特定の染色剤を注入すると「よく染まって」見えたがゆえに、「染色体」(chromosome=色+体)と名付けられた。
 20世紀初頭に、アメリカの若い研究者(W·S·サットン)が、「染色体」はメンデルが指摘していた「因子」にほぼ該当するとした上で、つぎのことを明らかにした。
 ①「染色体」は2本の対で成り、1本は父親にもう1本は母親に由来する、②生殖細胞の形成の際に通常の細胞(=「体細胞」)とは違って「減数分裂」が起こり、1本ずつになった「父親由来の染色体」と「母親由来の染色体」がランダムに結合して、多様な組み合わせの2本の対から成る新しい「染色体」が生まれる。
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 上のことを詳細に確認し、「染色体」説に立って「染色体」のヒト等の生物の生存と子孫へ継承にとっての重要性を解明した研究者(T·H·モーガン)には、1933年にノーベル生理学·医学賞が付与された。
 「染色体」の実体の解明には、さらに時間が必要だった。
 メンデルには「因子」しかなく、のちに「遺伝子」という用語もできていたが、「染色体」の中にあるに違いない、という<観念的>なものだった。
 まだ「電子顕微鏡」、「超遠心分離機」、「電気泳動装置」等がないまま、「細胞」(>「核」>「染色体」)の研究が進められた。そして、遺伝子とその本体である「DNA」の存在自体は突き止められた。
 遺伝子と「DNA」の具体的様相の解明はまだだった。しかし、ようやく1953年(2024年から70年余前)に、J·ワトソンとF·クリックによって、「DNAの二重らせん構造」が明らかにされた。二人には、1962年にノーベル生理学·医学賞が授与された。
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 以上のとおり、「染色体」は各細胞かつ各核内にある「遺伝子」や「DNA」を内部に含む(これらよりも大きい)構造体だ。
 例えば、つぎの叙述が、シッダールタ·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018)の最初の方にある。形容詞、限定句は今回はほとんど省略。
 「遺伝子は染色体上に存在している。染色体とは、…構造体で、そこには…何万もの遺伝子が含まれている。」
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2729/八木秀次の<Y染色体論>。

  生命体(生物)や「細胞」等について勉強(?)していたら、ふと、八木秀次という、かつて私が「あほ」とみなしたグループの一人による、<Y染色体論>というものがあった、と思い出した。
 これは、<神武天皇(男性)と同じY染色体をもって(継承して)いてこそ、「天皇」である資格がある>という議論であるようだ。
 この程度の議論で決着がつくなら、明治新政府下での旧皇室典範制定過程での皇位継承の仕方に関する論議はほとんど不要であり、無益だった。
 また、小林よしのりや高森明勅らがとっくに批判しているようだ。だが、きちんと読んだつもりはないが、まだ本質を衝いていないようにも感じる。
 今回のこの投稿は、予告のようなものだ。
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 八木秀次は「染色体」という言葉・概念を使う。
 すでに最近にこの欄で触れたことがある。すなわち、「染色体」と「遺伝子」、「D NA」、さらに「ゲノム」は、どう違うのか。あるいは、これらの差異に拘泥しても無駄なのか。
 八木は、これらをどう区別しているのだろうか。あるいは、なぜ「染色体」だけを取り上げるのだろうかか。これらは同一のもの(こと)だ、と思っているのだろうか。
 さらに言うと、「Y染色体」なるものは、「染色体」自体の種別の一つなのか。それとも、「Y因子」を含む染色体のことを便宜的にそう称しているのか。
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  これまた少し異なる主題の予告にもなるが、つぎのことにも言及してみたいものだ。
 第一に、例えば<男系を通じてでなければ、天皇・皇室の「血」が伝わらない>と言われることが、たまにではあれ、ある。その場合の「血」とは、いったい何のことか。
 「血統」・「血族」等の語はまだ生きており、「血がつながる」とか「血が濃い」とかの表現も十分に通用している。
 だが、いまだにかなり多くの人々に、世代間(親から子への)継承に関するじつは単純で幼稚な<錯覚>があるようにも、私には感じられる。
 第二に、上に関連するが、<獲得形質は遺伝しない>という、遺伝学・生物学上の「公理」となっている「事実」だ。つまり、親からの継承の意味での「遺伝」または「遺伝子」に比べて少なくとも同等に子どもにとって重要なのは、「環境」ではないだろうか。幼年期には、学校等の<社会>環境のほかに、<家庭>環境がきわめて重要になることがある。
 「血」。「(生後の)獲得形質は遺伝しない」。興味深い主題が、まだ多く存在している。
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ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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