秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2024/03

2722/私の音楽ライブラリー039。

 F. Mendelssohn, Symphony No.3 in A-minor op.56. 1830〜42.

 002 (既)→No.2639—Karajan, Berlin Pho. 〔Berlin PhilharmonicOrchestre-Topic〕

 002-02 →Claudio Abbado, London SO. 〔The Just Sound〕

 002-03 →Paavo Järvi, Tonhalle O Zürich. 〔Tonhalle-Orchester Zürich〕

 002-04 →Kurt Masur, Leibzig GewandthausO. 〔EuroArtChannel〕
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2721/「文科系」評論家と生命科学・脳科学—佐伯啓思。

  池内了×佐伯啓思(対談)「科学の現在と行方を見つめて」佐伯啓思監修・雑誌/ひらく第2号(A &F、2019)、p.166以下。
 この号の二つある特集の一つが<科学技術を問う>で、上の対談は体裁上重要なものだ。
 佐伯発言によると、池内了・科学の限界(ちくま新書、2012)という書物があり(秋月は未読)、科学の「あり方」を問題にしているようだ。それを理由として、佐伯は対談相手として選んだのかもしれない。
 但し、佐伯の希望どおりの内容になったかは疑わしい。
 そもそもが、一読者としての印象では、二人の発言内容は、うまく噛み合っていないところが少なくない。単純系・複雑系の区別も秋月自体がよく分かっていないが、池内が単純系の科学ではよく分からないと言っているのを、佐伯は科学そのものの問題・限界だと理解したがっているようなところもある。この単純系・複雑系に加えて、佐伯は 現代を<科学と技術>の区別の曖昧化だと把握したいがためにこの二語を使い出してくるので、錯綜が増している。
 決してつまらない対談ではないが、最も興味深く感じたのは、「文系」と自認する佐伯啓思の、科学(・自然科学)、とくに生命科学・脳科学に対する<不信>、批判・揶揄したい気分を感じさせる諸発言だ。
 佐伯啓思はまだよく知っている方で、西尾幹二、長谷川三千子、小川榮太郎、江崎道朗あたりは、生命科学や脳科学の動向に関心すらないかもしれない。
 だが、これらの者たちも発言しそうな、「文科系」評論家らしき言明を、佐伯は行っている。
 長くなりそうなので、2回に分ける。長々と論じるほどでもないので(それだけの明瞭な内容が示されていないので)、発言を引用し、ごく簡単な感想を記す。対談相手の発言が不明だと佐伯発言の意味も不明だろうものもあるので、必要に応じて、池内の発言も記す(ほとんどが引用ではない)。
 「〜と思います」は省略し、口語体を文語体に改めたところがある。。
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 ①「つまり、自然を物質的な組成の組み合わせとみる、これが我々が考える、いわゆる自然科学的な意味での自然だ。
 すると、問題は生命科学が対象とするのは人体で、人間というのは、これは自然と考えていいのかという問題がある。」
  佐伯は、「自然」=「物質的な組成の組み合わせ」とすることの意味、さらに「物質的」なる表現の意味を、そして「自然」と「物質」をほとんど同一視する、または同系列の語としてこれら二語を用いることの理由を、より厳密に明らかにしておく必要がある。
 従って言葉の使い方の問題になるかもしれないが、「人体」も、「人間」も、「自然」の一部だろう、というのが、秋月瑛二の理解だ。
 米米 地球上(内)での「生命」の誕生や、のちの「ヒト」または「ホモ・サピエンス」の誕生は、<自然>の営みそのものではないか。
 米米米 私も佐伯啓思も、その新たに誕生した「生命」や「ホモ・サピエンス」を祖先とする後裔に他ならない。これを否定するなら、佐伯は〈自己〉の本質を理解していないのではないか。
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 ②「われわれ文系の人間からすると、人間の持っている感情とか記憶とか思考作用とか、快感のメカニズムとか、こういう種類のことは、果たして脳現象に持ってきていいのか、という疑問がどうしてもわいてしまう」。
  佐伯は、感情・記憶・思考作用・快感のメカニズムの四つを明記して、「脳現象」には還元できない旨を語る。思考や記憶はふつうの生物にないもので、「脳現象」ではない、と言いたいのかもしれない。全くの<無知>であるか、「脳」を「物質」と見て〈記憶・思考〉と無関係とする完全な間違いを冒している。〈感情・快感〉となると、より身体的側面を持ち、これまた「脳」の制御化にある。ともかく、「感情」に「脳」が深い関係のあること、中でも<扁桃体>が重要な役割を果たしているらいことくらい、初歩的な概説書にも書かれている。
 米米 「脳」神経あるいは「ニューロン(神経細胞)」に作用して、興奮したり緊張したりする「感情」を抑制する薬剤が、ごく初歩的には「睡眠」を助けるものも含めて、(ほぼ自由にまたは医師による処方を通じて)一般に流通していることを、佐伯は知らないのだろうか。
 これら薬剤は、〈セロトニン〉、〈ドーパミン〉等々の「神経伝達物質」(・「化学物質」)の(ニューロン間の)〈シナプス間隙〉への放出や回収にかかわっている。
 米米米 「快感」まで挙げているのは信じ難い。ひどい暑さ・寒さ、高湿度、痛み、等々からの解放、これらは人間にとって「快感」そのものだろう。そして感覚細胞を制御する「脳」の現象そのものだ。佐伯は特殊で独特の「快感」概念を使っているのかもしれない。
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 ③「文科系の人間は、人間というのは複雑系だと最初から思っているし、きれいに分析できないとあきらめている」。
 脳科学も生命科学も、「僕らのような文系の方からすると、そもそも人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」。
 「仮に脳科学で、人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートしまうとして、仮にそうだとして、それは、一体何が起きたのだろう」。
 「何かが進歩したと言えるのか、それで人間がわかったことにそもそもなるのか、という気」がする。
  「脳科学」と「生命科学」を明記して、「人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」と明言している。秋月瑛二もどちらかというと「文系」だが、このようには考えない。
 米米 「人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートし」て、いったい何の意味があるのか、というようなことを語っている。「無知」だ。
 米米米 「脳科学」者も「AI」によるシミュレート者も、それによって「人間がわかったことに…なる」とは、そもそも考えていないだろう。「人体」や「人間の神経・精神」を対象としていても、それで「人間」なるものが「わかる」ことには絶対にならない。但し、「人間」なるものの複雑さ・繊細さ・不可思議さを少しは理解することにつながる可能性がある、と考えられる。
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 ⑥〔池内—シミュレートしているだけで、わかったことにはならない。〕
 「そうですね。では、この種の科学とは何だろう」。「何か分かったことになるのか、という意味で」。
 〔池内—本質的に新しい法則の発見で「人間が実に複雑で、多様な側面がどういうメカニズムの下で発生しているのかということがある程度分かるんじゃないか」。「すぐに分かる」のではないが、「複雑系という非線形の非常な多体システムの扱い方がだんだん分かってくる」。
 「そういう意味では、根本的なところは物理のそれと今の生命科学はそれほど変わりはないということですね」。
 この部分で重要なのは、池内が「ある程度」分かる、「だんだん」分かっていると言っていることだ。秋月も、そうだろうと思う(但し、100%・完全にかは、??)。それに対して、佐伯が何やら不満げであることも重要だ。
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 ⑦「仮にそういう複雑系がある程度解析できるようになってきて、それで、人間の感情の動きと脳の作動の対応関係がある程度わかってきたら、すぐに、そのままそれを適用、応用されてしまうでしょう。つまり、脳科学は即技術になるのではないか。」
 〔池内—「いやいや」、その点では「応用」できない。但し、現時点ではできていないが、「複雑系の技術はあるのではないか」。〕
 「ただ、たとえば、すでに遺伝子工学がこれだけ急に展開してきて、それで遺伝子の組み合わせを操作すれば、癌を予防できるとか、癌にならないような子供を作れるとか、といった話が出てきて、それはもうすぐに現場に行ってしまいませんか」。
 この部分で佐伯は突然に、「ある程度わかってきたら」、「脳科学は即技術になるのではないか」と発言する。この性急さの意味は、ほとんど不明だ。
 米米かりに「即技術になる」として、なぜそれでいけないのか、という気がする。それに、「即技術」の意味が問題で、〈科学と応用〉または〈科学と技術〉のあいだには何段階もの中間段階がある(単純に二分できない)、と考えられる。
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 ⑧〔池内—癌は多くの組み合わせで、かつ「個体の反応は異なる」から、簡単には退治できない。〕
 「そこに生命科学の大きな問題があって、生命現象は物理現象とはやっぱり根本的に違う
 ところが、それを無理やりに単純系に砕いてやろうとするから、うまくいかない。」
 米じつに興味深い佐伯の発言だ。「生命現象は物理現象と…根本的に違う」。
 「物質的な組成の組み合わせ」が「自然」なのだから(上の①)、「生命」現象も「自然」現象ではない、または<たんなる物理現象>ではない、と言いたいのだろう。
 はたして、そうか。「生命」・「本能」の根幹を掌るとされる「脳幹」の作用に「化学物質」は関係していないのか。デカルト流に<我思う、ゆえに我あり>ということを言いたいのか。M·ガブリエルの著書の題である『「私」は脳ではない』(Ich ist nicht Gehirn)(秋月は未読)と言いたいのか。
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 ⑨「いくら生命過程の根本がDNAとか、それから、細胞レベルである程度のことが分かっても、それが具体的にどういうふうに働くかというのは個体によって全然違う、ということですね」。
 〔池内—人体は複雑系だから「個体によって全部違う」。「むろん、物質系としてはみんな同じなんです。本質的に」。「本質的には人体は同じ作りにできているんだけれども、反応は全部違う」。〕
 佐伯は<個体によって違う>ということを強調したいようだ。一方、池内の発言で重要なのは、「物質系としてはみんな同じ、本質的に」、「本質的には人体は同じ作りにできている」の部分だろう。この「本質」性を、佐伯は認めたくない、または、認めることができないのだろう。
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 ⑩〔池内—癌の要因に遺伝と環境の二つあり、両者の関係は複雑だから「なかなかわからないと思う」が、「むろんある程度解析できる要素はある」。〕
 「いや」、しつこいが、「僕が危惧するのは、逆に生命科学が進歩していって、癌の要因がかなりわかる、100%とはいかないまでも、80%くらいまで解析できる、となるとしましょう」。遺伝要因・環境要因、食べ物、人間関係、「それらがどう作用するか、ある程度わかってくる。で、わかってくれば、そのこと自体が我々を変えていってしまうのではないですか」。
 「我々の生活の仕方を変え、食生活を変え、という話になる。その延長の上に、先程の遺伝的な要因もやっぱりある程度はあるとなって、遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる、という話になる」。
 「そうすると、その科学の成果、科学の発展というものが、何らかの形で、ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくるのではないか」。
 佐伯が言いたいことは、よく分からない。なぜなら、「癌の要因」が「80%くらいまで解析でき」て、諸要因の「作用」が「ある程度わかって」くる、そして、「遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる」ということが、ここでは「癌」防止に限っておくが、なぜいけないのか?? 佐伯は、「科学の成果」が「ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくる」として問題視する。なぜ??
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 ⑪〔池内—それは「科学ではなく技術」だ。〕
 「先程から問題にしたかったのはそこ」だ。
 「科学的にいろんなことがわかってきた。遺伝子の構造がわかった。
 で、遺伝子の中に癌に関する遺伝子もある。
 そうすると、癌に関する遺伝子が完全に特定できる。
 これを除けば癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまうし、さらにいえば、技術として応用されることを目論んで、現代科学は展開されているのではないか」。
 ⑩のつづきだ。遺伝子に関する科学によって「癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまう」と、佐伯は問題視する。
 遺伝子等に関する科学の進展によって「癌の可能性が減る」ことは、佐伯にとって望ましくないことなのだ。これは癌の罹患・発症を免れたい圧倒的多数の人々に対して、「科学の成果」を享受することなく<癌で死んでしまえ>と言っているのと同じなのではないか。
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 ⑫「だから、科学上の発見といっても、それが応用に直結している限り、現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる
 何か今そういうことの途上にいて、そこで我々、何か打つ手はあるのか」。
 「少なくとも自覚する必要はあ」る。
 「科学上の発見」が「応用に直結」する限り、「現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる」。これは一般論としてはそのとおりだろうが、なぜしつこくこう強調するのか?
 米米「自覚する必要がある」。これは佐伯啓思という評論家の常套句。他に、「もう一度、〜について考えてみる必要がある」、「あらためて〜を問題とすることから始めなければならない」等々。
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 ⑬「生命科学の発展が、無条件でよいとは簡単には言えなくなってくる。
 遺伝子の解析が、そのままで無条件でいいとは言えなくなってくる。
 AIも同じことだと思いますし、情報分野の革新も同じことです。」
 「それは今たまたま始まった問題なのか、それとも20世紀の科学、特に物理学でもそういう構造ができてしまったのか。何か科学の構造が変わってしまったのか」。
 「生命科学の発展」、「遺伝子の解析」、「AI」、「情報分野の革新」について、さらにはおそらく<科学の発展>について、佐伯は懐疑的だ。しかし、もちろん、佐伯が具体的な代案を示すことはない。<問題だ、問題だ>、<自覚せよ、自覚せよ>とだけ騒いで、いったい何になるのか。
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2720/人類の「感情」の発生—300万年前〜3万年前。

  アントニオ·R·ダマシオ=田中三彦訳・感じる脳—情動と感情の脳科学·よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005)。
 この著(原題、Looking for Spinoza)は冒頭で、<感情の科学>の未成立または不十分さを強調している(感覚、感情、情動、情緒、感性といった語との異同には留意する必要はある。但し、さしあたりはこの点を無視してよい)。
 だが、脳神経学者(?)ダマシオも、以下のような進化生物学(?)の叙述または説明を、大きくは批判しないのではないだろうか。
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  科学雑誌NEWTON-2016年6月号「脳とニューロンシリーズ第3回/喜怒哀楽が生まれるわけ」。
 以下、上の一部の引用。一文ずつで改行、本来の改行箇所に/の記号を付す。
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 「喜怒哀楽は基本的に、自分のおかれた環境に対して生じるものだといえる。
 一方で、感情には、自分と他人の関係において見られるものも数多くある。
 いとおしさや、嫉妬、うらみ、といったものだ。
 これらは、『社会的感情』とよばれる。/
 現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。
 とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという。/
 また私たちは、感情を自覚するだけでなく、ほかのだれかにおきた出来事をわがことのように怒ったり、悲しんだりすることがある。
 つまり、他人の感情に共感できる。
 共感のしくみに深くかかわっているかもしれないと考えられているニューロンに、『ミラーニューロン』というものがある。
 …… 」
 <以下、略> 
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  20万-30万年前というのは、アフリカ東部でホモ・サピエンスが誕生したとされている時期だ。そして、上のNEWTON編集者のいう300万年前〜3万年前に入っている。
 この叙述に従うと、人類はその「共通祖先」や「原人」たちの長い時代のあいだに、「感情」を形成しつつあった。あるいは、人類は、「感情」というものをほとんど備えて生まれてきた。「日本」や「日本人」の成立よりはるかに昔のことだ。
 ホモ・サピエンスが地球各地へ分散していっても、同じような状況では、<かなりの程度>、きわめてよく似た「感情」をもち、そしてきわめてよく似た「感情」表現をする、これらも当然のことだ、と言えるだろう。
 もちろん、人種や民族による、さらには各個体による、差異は完全にない、全く同じだ、などと言うことはできないとしても。
 そしてまた、他人の感情との<共感性の欠如>という一種の「心の病気」が人間のごく一部には生じている、ということを否定できないとしても。
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2719/私の音楽ライブラリー038。

 A. Mozart は〈純正律〉をさらに修正した〈中全音律〉で自らの曲を弾いていた、と書いている文献もある。
 以下のBach の曲はMozart より前で、1708年に作曲されたとされる。
 この時期には〈十二平均律〉はまだ支配的でなかった(支配的になるのは19世紀以降)。楽譜は残っていても「録音」は残っていない。
 興味をそそられるのは、どのような音律、音階だったか、だ。
 以下は全て〈十二平均律〉によっているだろう(それでも、ピアノと弦楽器では少しだけ違って感じるのは気のせいだろうか)。J. S. Bach 自身の旋律では、より透明で、和音も〈より美しい〉ものだった、という可能性はないのだろうか。
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 J. S. Bach, Adagio from Conzert in D-minor, BWV924-II.
 038 〈再〉→Khatia Buniatshvili.〔Marcia M.〕
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 038-02 →Glenn Gould. 〔Irina Bazhovka〕
 038-03 →Irina Lankova. 〔Official Channel〕
 038-04 →Mstislav Rostropovich. 〔Topic〕
 038-05 →Mischa & Lily Maisky. 〔Mischa Maisky〕
 038-06 →Stringspace String Quartet. 〔StringspaceLive〕
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2718/生殖細胞系列のゲノム編集—J・ダウドナらに関する書物。


  W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)
 読み終えておらず、およそ80パーセント近くまで進んだ。
 全く付随的に、と先日には書いた同じ(元)研究所長が、人種や民族と遺伝子との関係を、かつ「優れた」・「劣った」という対比のもとに、あらためて発言して顰蹙を買っている、というような話を、サイエンス·ジャーナリストであるこの本の著者は、この80%めくらいのところで書いている。
 そして、この著の主要部分は、もう済んだような気が秋月にはしている。
 主人公と多数の副主人公の一人の二人(ともに女性)は2020年のノーベル化学賞を受賞した、ということを、最近に知った。
 というくらいだから、私の専門的知識の欠如は著しいのだが、なかなかの難問を突きつけている書物だ。
 最初は日本とアメリカの研究者や研究環境の違いにも興味をもった。しかし、科学技術と人間・社会のあいだには難題が多くある、という感想の方がはるかに強くなった。
 上の旨は、登場人物の発言や諸報告書類の紹介によっても頻繁に語られている。既知の日本人読者も多いだろう。
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 以下では、著者のW·アイザックソンが他人や諸団体の言葉・文章ではなく、自分の文章として書いている部分を引用だけして、備忘としたい。
 著者が「まとめ」または結論として書いているところではない。J·ダウドナらのノーベル賞受賞に関する叙述は、まだない(最終の第56章にあるようだ)。ただ、一かたまりで要領よく書いている、と感じられた。
 以下に引用する文章は、全体で計56章(計9部)あるうちの第40章(第7部)にある。
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 第32章(第4部)の最初の方に、著者のつぎの文章があるのに気づいた。
 「今日、クリスパーが注目されているのは、それを使えば、次世代に受け継がれる(生殖細胞系列の)編集をヒトゲノムに施すことができるからだ。
 編集されたゲノムは将来の子孫の全細胞に継承され、やがては人類という種を変える可能性さえある。」
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 Jennifer Doudna(ダウドナ)とEmanuelle Charpentier(シャルパンティエ)の二人は、「クリスパー・キャス9」(CRISPR-Cas9)を開発したことによって、ノーベル賞を授与された(対象論文は2017年のもののようだ)。
 J·ダウドナら=櫻井祐子訳・クリスパー—究極の遺伝子編集技術の発見(文藝春秋/文春文庫、2017/2021)で、ダウドナ自身が CRISPR-Cas9 についてこう書いている。
 「最新の、またおそらくは最も有効な遺伝子編集ツールである『CRISPR-Cas9(略してCRISPR)』を使えば、ゲノム(全遺伝子を含むDNAの総体)を、まるで文章を編集するように、簡単に書き換えられる」。
 しかし、その使用方法または目的について、J·ダウドナもまた決して楽観的なのではない。
 W·アイザックソン著のどこかに、こんな文章があった。「最高の教育」の内実をここでは問わない。
 <親が「最高の教育」を自分の子どもに与えたいと考えてよいのと同様に、子どもに「最高の遺伝子」を与えたいと思って、どこがいけないのか? そうした個人の「自由意思」の実現を助ける医師たちや事業体があって、どこがいけないのか?>。
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  以下、引用。秋月において段落ごとに番号を振った。第一の段落は、あえて途中から引用を始めている。
 「 細菌が何千年もかけてウイルスに対する免疫を発達させてきたように、わたしたち人類も発明の才を発揮して、同じことをするべきではないだろうか。/
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  もし自分の子どもがHIVやコロナウイルスに感染しにくくなるよう、ゲノムを安全に編集できるとしたら、そうすることは間違っているのだろうか?
 それとも、そうしないことが間違っているのだろうか?
 そして、〈中略〉他の治療や身体の強化についてはどうだろう?
 政府はその使用を妨げるべきなのだろうか?/
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  この問いは、わたしたち人類がこれまでに直面した中でも最も深遠な問いの一つだった。
 地球上の生物の進化において初めて、一つの種が、自らの遺伝子構造を編集する能力を身につけた。
 それには、多大な利益が期待できる。
 多くの致死的な病気や消耗性疾患を排除できるかもしれない。
 そしていつの日か、自分や赤ん坊の筋肉、精神、記憶力、気分を強化するという希望と危険の両方を、わたしたち、あるいはわたしたちの一部に、もたらすだろう。/
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  この先の数十年で、自らの進化を促進する力を持つようになると、わたしたちは深遠な道徳的問いや精神的な問いに直面するはずだ。
 自然は本質的に善いものなのだろうか?
 天与の運命を受け入れるのは正しいことなのだろうか?
 神の恵み、あるいは自然のランダムなくじ引きがなければ、自分は別の才能を持って生まれたかもしれないという考えに、共感が入る余地があるだろうか。
 個人の自由を強調すると、人間の最も基本的な側面を、遺伝子のスーパーマーケットでのショッピングに変えてしまうのではないだろうか?
 お金持ちは最高の遺伝子を買うことができるのだろうか?
 そのような決定を個人に委ねるべきなのか、それとも何を許可するかについて、社会が何らかのコンセンサスを図るべきなのだろうか?/
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  しかし、わたしたちはこうした出口のない問いを、大げさにとらえすぎてはいないか?
 わたしたちの種から危険な病気を取り除き、子どもたちの能力を強化することで得られる恩恵を、なぜ手に入れようとしないのか?/
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  主に懸念されているのは、生殖細胞系列でのゲノム編集だ。
 それはヒトの卵子、精子、初期胚のDNAに変更を加えるもので、生まれてくる子ども—およびそのすべての子孫—の全細胞が、その改変された特徴を備える。
 一方、体細胞編集はすでに行われていて、一般に受けいられている。
 それは患者の標的細胞に変化を加えるもので、生殖細胞への影響はない。
 治療で何か間違いが起きたとしても、その害が及ぶのは患者個人であって、人類という種ではない。/
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  体細胞編集は、血液、筋肉、眼などの、特定の細胞で行うことができる。
 しかし、高額な費用がかかるものの、効果はすべての細胞に及ぶわけではなく、おそらく永続的でもない。
 一方、生殖細胞系列のゲノム編集は、身体のすべての細胞のDNAを修正できる。
 そのため、寄せられる期待は大きいが、予想される危険も大きい。」
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 以上。

2717/私の音楽ライブラリー37。

 私の音楽ライブラリー37。
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 097<再>→五輪真弓, 雨宿り, 1983. 〔hgwctu〕

 113 →五輪真弓, 運命, 1981.〔キッキ --〕
 114 →五輪真弓, 時計, 1983.〔Janet Lee〕
 115 →五輪真弓, 密会, 1985.〔Kurume Kuru〕
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2716/M·ウェーバー叙述へのコメントの詳述。

 以下、No.2715に再掲したかつてのコメントを詳しくしたもの。
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  前々回のNo.2714に再掲したM·ウェーバーの叙述を、秋月瑛二はたぶんほぼ正確に理解することができた。M·ウェーバー<音楽社会学>に接する前に、ピタゴラス音律、純正律、十二等分平均律について、すでにかなり知っていたからだ。
 だが、日本の音楽大学出身者も含めて、いかほど容易にM·ウェーバーの、1911年〜12年に執筆されたとされる文章(のまさに冒頭)〔前々回に再掲〕の意味を理解することができるか、かなり怪しいと思っている。
 上のコメントをさらに詳しくしておこう。
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   n/(n+1)では(前者が分母だと理解しないかぎりは)「過分数」にならないから(この点、M·ウェーバーは「逆数」で語っているとの説明もある)、(n+1)/nのことだと理解しておこう。
 M·ウェーバーはこう叙述する。「いま或る開始音から出発して、まず最初はオクターヴで、次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で「圏」状に上行または下行すると、この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」。
 「最初はオクターブで」とは、「ある開始音」の音波数(周波数)を2倍、4倍、〜、1/2倍、1/4倍、〜、としてみることだろう。これらの場合、音の(絶対的)「高さ」は変わっても、「オクターブ」の位置が変わるだけで、ヒトの通常の聴感覚では、きわめてよく「調和」・「協和」する<同じ>音に聴こえる。これは、ホモ・サピエンス(人類)の生来の<聴覚>からして、自然のことだろう。
 だが、「同じ」音ではなく、「異なる」音を一オクターブの中に設定しようとする場合に、種々の問題が出てくる。
 M·ウェーバーが「次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で」という場合の「5度」とは<3/2>を、「4度」とは<4/3>を、意味していると解される。
 脱線するが、興味深いことに今日の〈十二平均律〉の場合でも、日本の音楽大学出身者ならよく知っているだろうが、「完全5度」、「完全4度」という概念・言葉が用いられている(「完全2度」や「完全3度」等々はない)。しかし、その数値は「完全1度」(=従前と同じ音)の音波数の<3/2>や<4/3>ではない。もっとも、このような用語法が残っているということ自体、〈ピタゴラス音律〉が果たした歴史的意味の大きさを示しているだろう、と考えられる。
 M·ウェーバーがつづけて「過分数によって規定された他の何らかの関係で」というのは、上の(n+1)/nのn が2、3の場合が<3/2>、<4/3>だから、nを増やしていって、<5/4>、<6/5>等々を意味しているのだろう。但し、主要な場合として<3/2>、<4/3>を、とくに<3/2>を、想定していると見られる。
 さて、M·ウェーバーによると、これらの新しい数値を選んで、①<「圏」状に上行または下行すると>、②「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」。
 この①の明記が、日本でよく見られる〈ピタゴラス音律〉に関する説明には欠けている観点だ。
 だからこそ、「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」との部分は「今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える」、とNo.2641で記した。
 その趣旨を詳しく記述しなかったのだが、以下のようなことだ。
 わが国で通常に見られる〈ピタゴラス音律〉に関する説明は、ほぼもっぱら「上行」の場合のみで説明をし、「下行」の場合をほとんど記述していない。
 上の②にあるように、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」のだが、「『圏』状」での「上行」の場合は「ピタゴラス・コンマ」は必ずプラスの数値になる。「圏」という語を使うと、「圏」または「円環」上の位置が進みすぎて、元の音よりも(例えばちょうど1オクターブ上の音よりも)少し「高く」なる。
 したがって、日本でのほとんどの説明では、「ピタゴラス・コンマ」はつねにプラスの数値になる。
 しかし、「『圏』状」での「下行」の場合は「ピタゴラス・コンマ」は必ずマイナスの数値になる。すなわち、「圏」または「円環」上の位置が元の音よりも(例えばちょうど1オクターブ上の音よりも)少し「低く」なる。「圏」または「円環」上の位置が進み「すぎる」のではなく、進み方が少し「足らない」のだ。
 なお、今回は立ち入らないが(すでに本欄で言及してはいるのだが)、「上行」と「下行」の区別が明確でないと、「ある開始音」をC=1とした場合のFの音の数値を明確に語ることができない。「下行」を用いてこそFは4/3になるのであり、「上行」では4/3という簡素な数値には絶対にならない。
 **「下行」の場合の計算過程と「マイナスのピタゴラス・コンマ」について、→No.2656/2023-08-04
 ——
  M·ウェーバーはこう叙述した。「例えば、(2/3)12乗にあたる第十二番目の純正5度は、(1/2)7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである」。
 上の「(2/3)12乗」は<3/2>の12乗のこと、「(1/2)7乗」は<2/1=2>の7乗のこと、だと考えられる。また「第七番目の8度」とは<7オクターブ上の同じ音>だと解される。たんに「8度」上の音とは1オクターブだけ上の「同じ」音を意味するからだ(こういう「8度」の用語法は、〈十二平均律〉が支配する今日でも見られる)。
 こう理解して、実際に上の計算を行ってみよう。本当に「…よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」のか。
 ここで先に、秋月がすでに行っている、(プラスの)ピタゴラス・コンマの計算結果を示しておく。
 昨2023年年の8月に、この欄に示したものだ。そのまま引用はせず(×(3/2)ではなく×3÷2という表記の仕方をしていることにもよる)、表記の仕方をやや変更する(計算結果はむろん同じ)。参照、→No.2655/2023-08-03
 M·ウェーバーの叙述の仕方と異なり、わが国で通常のように、(3/2)を乗じつつ、<1と2の間の数値になるように>、必要な場合にはx(1/2)の計算を追加する。但し、⑫は2を少しだけ超えるが、ほとんど2だとして、そのままにする。
 ********
 ⓪ 1。
 ① 1x(3/2)=3/2。
 ② 3/2x(3/2)x(1/2)=9/8。
 ③ 9/8x(3/2)=27/16。
 ④ 27/16x(3/2)x(1/2)=81/64。
 ⑤ 81/64x(3/2) =243/128。
 ⑥ 243/128x(3/2)x(1/2)=729/512。
 ⑦ 729/512x(3/2)x(1/2)=2187/2048。
 ⑧ 2187/2048x(3/2)=6561/4096。
 ⑨ 6581/4096x(3/2)x(1/2)=19683/16384。
 ⑩ 19683/16384x(3/2)=59049/32768。
 ⑪ 59049/32768x(3/2)x(1/2)=177147/131072。
 ⑫ 177147/131073x(3/2)=531441/262144。
 ********
 この⑫が、「(3/2)の12乗にあたる『第十二番目の純正5度』」の数値に該当する。
 ところで、迂回してしまうが、上のような計算の過程で、ほぼ1オクターブ(1とほぼ2)のあいだに、異なる高さの12個の音が発見されていることになる。⓪〜⑪の12個、または①〜⑫の12個だ。このことこそが、1オクターブは12の異なる音から成る、という、今日でも変わっていないことの、出発点だった。
 その異なる12個の音は任意の符号・言語で表現できる。⓪=1を今日によく用いられるC〜G,A,BのCとし、さらに(説明としては飛躍するが)C〜G,A,Bの7「幹音」以外の5音を♯を付けて表現すると、つぎのようになる。以下のアルファベット符号(+♯)が示す音の高さ(音波数)は、今日で支配的な〈十二平均律〉による場合と(C=1を除いて)一致していない。また、以下は〈上行〉系または〈♯〉系の12音階だ。
 ⓪=C、⑦=C♯、②=D、⑨=D♯、④=E、⑪=F〔注:♯系だと4/3ではない〕、⑥=F♯、①=G、⑧=G♯、③=A、⑩=A♯、⑤=B、⑫=C'
 *********
 迂回してしまったが、あらためて、⓪と⑫の比、同じことだが上に記したCとC'の比、を求めてみよう。
 分数形の数字はすでに出ている。つまり、531441/262144
 これを電卓で計算すると、小数点以下10桁までで、こうなる。2.0272865295
 2にほぼ近く、2と「見なして」よいかもしれない。しかし、正確には少し大きい。
 ちょうど2との比は、小数点以下10桁までで(以下切り捨て)、2.0272865295/2=1.0136432647.
 これの端数、つまり 0.0136432647 が、プラスのピタゴラス・コンマだ。
 M·ウェーバーにおける①「(3/2)の12乗にあたる『第十二番目の純正5度』」と②「第七番目の8度」という表現の仕方に忠実に従うと、つぎのようになる。 
 小数点以下9桁までで区切る。
 ①「(3/2)12乗」=3の12乗/2の12乗=531441/4096=129.746337891.
 ②「第七番目の8度」=「2/1(=2)の7乗」=128.
 これら①と②は、相当に近似しているが同一ではない。
 差異または比は、つぎのとおり。小数点以下10桁まで(以下切り捨て)。
 129.746337891/128=1.0136432647.
 端数は、0.0136432647. これは、上での計算の結果と合致している。
 ——
  以上のとおりで、「5度」=(3/2)の乗数音は2(1オクターブ)の乗数音とは、「手続をたとえどこまで続けても、…同一の音に出くわすことはけっしてありえない」。
 そして、「〔3/2の〕12乗にあたる第十二番目の純正5度は、〔2の〕7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである」(M·ウェーバー)。
 だがしかし、(3/2)の12乗数が2の7乗数に相当に近づくことも確かだ。
 言い換えると、1と2の範囲内に、またはほぼ2になるように、(3/2)の乗数に1/2を掛ける、ということを続けると、12乗めで、2に相当に近づく。
 このことが、繰り返しになるが、1オクターブは異なる12音で構成される、ということの、「12」という数字の魔力・魅力に助けられての、出発点になった。10音でも、15音でもない
 ——
  以上では、引用した(再掲した)M·ウェーバーの叙述の三分の一ほどを扱ったにすぎない。
 彼はつづけてこう叙述する。
  「西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法は、オクターヴを5度と4度に、次に4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割することである。
 以上の音程は、いずれも、2、3、5という数を基にした分数によって構成されている。」
 さて、「4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割する」とは、いったいどういうことか。
 No.2641のコメントでは、こう触れた。「純正律は『2と3』の世界であるピタゴラス音律に対して『5』という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または『和音』を形成することができる」。
 つまり、上のM·ウェーバーの叙述は、(1を除けば)2と3という数字のみを用いていた〈ピタゴラス音律〉に対して「『5』という数字を新たに持ち込む」ことでさらなる「合理化」を図る方法が発展した、と言っている。
 この「西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法」とは、M·ウェーバーはこの用語を用いていないが、〈純正律〉という音律のことだ。
 M·ウェーバーは詳しく、こう説明している。
 「5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割する」。
 さらに、つぎのようにも補足している。
 「まず『主音』と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な『三和音』を構成する。
 そして次に、三和音を構成する諸音(ないしそれらの8度音)を一オクターヴ内に配列すれば、当該の主音を出発点とする『自然的』全音階の全素材を、残らず手に入れることになる。」
 --------
  以上の叙述の意味を詳細に説明することは必ずしも容易ではない。
 ここでは、つぎのようにコメントしておこう。
 「4度はいちおうどけておいて」とは、とりあえず(4/3)には拘泥しないで、という意味だ。
 そして、この〈純正律〉では、あくまで今日によく用いれれている符号を利用するだけだが、C-E-G(ド-ミ-ソ)の和音を重視する。
 なぜそうしたかの理由は、秋月の推測になるが、〈ピタゴラス音律〉でのC-E-G(ド-ミ-ソ)の和音に満足できなかった人々も多かった、ということだろう。
 〈ピタゴラス音律〉でC-E-G(ド-ミ-ソ)の和音の三音は、上に示した表から導けば、つぎのような音波数(高さ)の並びになる。①C(ド)=1、②E(ミ)=81/64、③G(ソ)=3/2
 とくに②E(ミ)について、これ以上に簡潔に表現される数値にすることができない。
 これに対して、〈純正律〉は、これら三音を、つぎのように構成する。
 ①C(ド)=1、②E(ミ)=80/64=10/8=5/4、③G(ソ)=3/2
 ①と③は変わらないが、②を、81/64ではなく、80/64=10/8=5/4へと、1/64だけ小さくする。
 そうすると、①C(ド)、②E(ミ)、③G(ソ)の三音は、①1、②5/4、③3/2、という並びになる。
 各音の比に着目すると、②5/4=①1×(5/4)、③3/2=②5/4×(6/5)、だ。三音はそれぞれ、1、1×(5/4)、(5/4)×(6/5)。
 つまり、①C(ド)、②E(ミ)、③G(ソ)の三音は、4-5-6という前者比関係に立つことになる。
 これが、秋月のかつてのコメントで、「純正律は『2と3』の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ」と記したことの意味だ。
 この4-5-6という三音関係は、〈純正律〉では、α①C(ド)、②E(ミ)、③G(ソ)のみならず、β①F(ファ)、②A(ラ)、③C(上のド)、θ①G(ソ)、②B(シ)、③D(上のレ)へも適用される。
 余談ながら、秋月が学んだかつての音楽教科書には、ドミソ・ドファラ・シレソが<長調の三大和音>だとされていた。
 だが、上に記したように、この「三大和音」は実質的には同じ三音関係だ。すなわち、4-5-6の三音関係の順番を少し変更しただけのことだ(ファラド→ドファラ、ソシレ→シレソ)。
 M·ウェーバーは、「5度音」を「二種類の3度で算術的に分割された5度」という叙述の仕方をし、「二種類の3度」を「長3度」と「短3度」と称している。
 ここで、「長3度」=5/4「短3度」=6/5、であることが明らかだ。
 もう一度、M·ウェーバーの叙述を引用しておこう。
 「和音和声法は、まず『主音』と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な『三和音』を構成する」。
 これは、「下方5度音」を前提にする場合の「短調」の場合に関する叙述を含んでいる。
 「長調」の場合は、要するに、4、4×(5/4)=5、4×(5/4)×(6/5)=6の三音が「和音」となる。
 この三音から成る「和音」は〈ピタゴラス音律〉の場合と同じではない。
 既述のように、〈ピタゴラス音律〉では、C-E-G(ド-ミ-ソ)三音は、1、81/64、3/2。
 これに対して〈純正律〉では、1、5/4、3/2。
 どちらが「美しい」かは主観的な感性の問題だが、どちらが「調和的」・「協和的」かと問えば、答えは通常は〈純正律〉になるだろう。音波(周波数)比がより簡潔だからだ(なお、同じことはますます、〈十二平均律〉と比べても、言える)。
 -------
 このような長所、優れた点を〈純正律〉はもつが、欠点も大きい。
 この欠点を、かつての秋月のコメントはこう書いた。
 「純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)『半音』で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに『幹音』に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。」
 上の趣旨をM·ウェーバーがかつて淡々と述べていたと見られるのが、引用(・再掲)したつぎの文章だ。
 「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在し、いずれの場合にも、二番目の全音が小全音で、それ以外はすべて大全音である」。
 「オクターヴの内部に次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。
 「全音には二種類あるので、二つの半音階音のあいだには、大きさの異なる二種類の剰余音程が生ずる。
 しかも、全音階的半音と小半音の差は、さらに別の音程になるのであるから、ディエシスは、いずれも2、3、5という数から構成されているとはいえ、三通りのきわめて複雑な数値になる」。
 ----
 現在のわれわれのほとんどは、「半音」、つまり〈十二平均律〉では全12音の隣り合う音のあいだの間隔は一種類の「半音」だ、ということを当たり前のことと考えている。「全音」は半音二つで成るのであって、これも一種類しかない、ということも同様だろう。
 したがって、「全音」には二種がある、「半音」には①「大全音での残余」、②「小全音での残余」、③「元来の〔純正律での〕半音」という三種類がある、という音階・音律を想像すらできないかもしれない。
 しかし、これが、「5」という数字を導入し、かつC-E-G(・F-A-C・G-B-D)という三音関係の「調和」性・「協和」性を重視した(ある意味では「執着した」)結果でもある。
 --------
 二種の「全音」、三種の「半音」の発生の〈仕組み〉、計算過程を説明することは不可能ではないが、立ち入らないことにしよう。
 また、〈純正律〉はまったく使いものにならない、というのでもない。
 移調や転調をする必要がない場合、ということはおそらく間違いなく、ピアノやバイオリンによる一曲だけの独奏の場合、発声による独唱の場合は、むろん事前の調律・調整が必要だが、使うことができる。また、訓練次第で、そのような独奏や独唱の集合としての合奏や合唱もまた可能だと思われる。
 現に、〈純正律〉(や〈十二平均律〉以外)による楽曲はCDになって販売されているし、YouTube でも流れている。
 ——
 以上。

2715/M·ウェーバー・音楽社会学(No.2641)—部分的再掲②。


 No.2641での秋月の「若干のコメント」の再掲。
 —— 
 若干のコメント
  〔No.2715において省略〕
  「音楽理論」との関係に限定すれば、つぎのことが興味深く、かつ驚かされる。すなわち、この人は、ピタゴラス音律および純正律または「2,3,5」という数字を基礎とする音律の詳細を相当に知っている。
 そして、上掲論文(未完)の冒頭で指摘しているのは、ピタゴラス音律および「2,3,5」という数字を基礎とする音律が決して「合理的でない」ことだ。
  ピタゴラス音律に関連して、3/2または2/3をいくら自乗・自除し続けても「永遠に」ちょうど2にならないことは、この欄で触れたことがある。
 M・ウェーバーの言葉では、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」、「12乗にあたる第十二番目」の音は1オクターブ上の音よりも「ピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」。
 さらに、以下の語句は、今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える
 「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」。
 この「上行・下行」は、ここでは立ち入らないが、「五度圏(表)」における「時計(右)まわり」と「反時計(左)まわり」に対応し、「♯系」の12音と「♭系」の12音の区別に対応していると考えられる。
 さらに、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」上の12音と「下旋回」上の12音に対応しているだろう。
 そして、M・ウェーバーが言うように「二つの音程は必ず大きさの違うものになる」であり、以下は秋月の言葉だが、「#系」の6番めの音(便宜的にF♯)と「♭」系の6番めの音(便宜的にG♭)は同じ音ではない(異名異音)。このことに、今日のピタゴラス音律に関する説明文はほとんど触れたがらない。
  <純正律>、<中全音律>等に、この欄で多少とも詳しく触れたことはない。
 だが、上記引用部分での後半は、これらへの批判になっている。
 純正律は「2と3」の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または「和音」を形成することができる。
 しかし、M・ウェーバーが指摘するように、純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)「半音」で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに「幹音」に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。
 なお、「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在」する、という叙述は、つぎのことも意味していることになるだろう。すなわち、鍵盤楽器において、CとEの間には二個の全音が(そしてピアノではそれらの中間の二個の黒鍵)があり、Fと上ののCの間には三個の全音(そしてピアノではそれらの中間の三個の黒鍵)がある、反面ではE-F、B-Cの間は「半音」関係にある(ピアノでは中間に黒鍵がない)、ということだ。
 彼は別にいわく、「次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。二個というのは、純正律でもピタゴラス音律でも同じ。
 また、長調と短調の区別の生成根拠・背景に関心があるが、この人によると、「長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ『長』音列か『短』音列のいずれかが得られる」。これは一つの説明かもしれない。
 ——
 以上。
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