一 池田信夫が「左翼」として批判的に論及してきたのは圧倒的に、のちの国民民主党と分岐した立憲民主党だった。日本共産党にはほとんど言及してこなかったように見える。
その池田が珍しく共産党に言及している。
池田信夫ブログマガジン2024年1月22日号—「共産党が選ぶことのできた『もう一つの道』」。
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田村智子の「スターリン的」体質うんぬんはさて措く。「レーニン主義」の共産党・組織原理をこの党が維持していることは間違いないだろう。
池田信夫のこの小文章に触れたくなったのは、つぎによる。
松竹伸行の書物に影響を受けつつ書いたようでもある(戦後・宮本顕治以降の)日本共産党の、とくに指導部・幹部の「歴史」のイメージは、私のそれとは相当に異なる。
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二 松竹伸幸の最近の話題の?書物は、私は読む気がない。
だから、池田の文章を読んでの推測になるが、松竹伸幸は自らと直接に対峙した日本共産党の最高幹部だった志位和夫に焦点を当てて、同党幹部批判をしているのではないだろうか。
池田自身の文章たる性格がどの程度あるのか分からない。但し、こんなことが書かれている。
<宮本顕治は権力を手放さなかった。
宮本が議長退任後に上田兄弟(不破哲三・上田耕一郎)は党内人事で「リベラル派」を起用しようとしたが、宮本は「阻止し」、「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」。
「志位はスターリンに対するベリアのような役割を果たして党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。
この人事も宮本が主導した」。
上田兄弟の路線は最終的に挫折した。>
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三 秋月は熱心な日本共産党ウォッチャーでないし、共産党(に関する)評論家ではない。
しかし、上の叙述は「上田兄弟の路線」なるものを重視しすぎているだろう。
決定的には、不破哲三の位置づけが小さすぎる、という印象が強い。
私のイメージでは、1991年12月末のソ連解体から1994年7月の党第20 回大会までのあいだに、「ソ連」の見方に関する激しい論議とともに、宮本と不破の間での激烈な対立があった。
そして、「ソ連」は社会主義国家でなかったと新しく定義されるとともに、党内人事でも、不破哲三が宮本に対して最終的にも勝利した。
少しく、年表的に追ってみよう。
1994年党大会のとき、宮本は満85歳。不破哲三は、満64歳。
1990年の第19回党大会の時点で、不破哲三は幹部会委員長。宮本は、中央委員会議長。なお、この大会後、志位和夫が書記局長になった。
宮本顕治は1994年党大会後も中央委員会議長だったが、1997年の第21回党大会で退き、なお維持した「名誉議長」職も2000年の第22回党大会で失った。
この2000年、不破哲三が中央委員会議長となり、幹部会委員長に志位和夫が選ばれた。
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松竹伸幸の影響を受けてか、池田信夫は、1990年に志位和夫を書記局長に「抜擢」したのは宮本であり、その後実力をつけて、不破哲三とは無関係に?、2000年の志位・委員長と不破・議長への就任があった、と叙述しているようだ。
志位の書記局長職には幹部会委員長だった不破の同意・了解が少なくともあっただろう。
また、不破70歳、宮本92歳、志位46歳のときの不破から志位への幹部会委員長職の委譲?は、もはや宮本はほとんど関係なく、不破の判断または二人の合意でもって行われたように推測される。
志位和夫が委員長になるまでは、不破が委員長だった。そして、委員長交代後も不破哲三が党内に影響を持ち続けたことは、不破はその後も中央委員会委員であることはもちろん、幹部会かつ常任幹部会の委員の一人だったことでも明らかだろう(党の社会科学研究所所長という要職?にもあった)。
秋月は志位に対して凡庸だという印象しかもっていなかったので、幹部会の中でずっと不破哲三が「にらみ」を効かしている、と感じていたものだ。
以上からして、宮本が「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」、志位は「党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。この人事も宮本が主導した」という叙述は、かなり奇妙だ。
1994年以降、宮本顕治にいかほどの「実権」があったのだろうか。この時期にそもそも、「反宮本派」はいかほどいたのだろうか。宮本に<人事を主導する>力があったのか。
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四 ひょっとすると、松竹伸幸は、<志位和夫憎し>のあまり、「党史」を正しく叙述していない、あるいは正しく記憶していない、のではないか。
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その池田が珍しく共産党に言及している。
池田信夫ブログマガジン2024年1月22日号—「共産党が選ぶことのできた『もう一つの道』」。
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田村智子の「スターリン的」体質うんぬんはさて措く。「レーニン主義」の共産党・組織原理をこの党が維持していることは間違いないだろう。
池田信夫のこの小文章に触れたくなったのは、つぎによる。
松竹伸行の書物に影響を受けつつ書いたようでもある(戦後・宮本顕治以降の)日本共産党の、とくに指導部・幹部の「歴史」のイメージは、私のそれとは相当に異なる。
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二 松竹伸幸の最近の話題の?書物は、私は読む気がない。
だから、池田の文章を読んでの推測になるが、松竹伸幸は自らと直接に対峙した日本共産党の最高幹部だった志位和夫に焦点を当てて、同党幹部批判をしているのではないだろうか。
池田自身の文章たる性格がどの程度あるのか分からない。但し、こんなことが書かれている。
<宮本顕治は権力を手放さなかった。
宮本が議長退任後に上田兄弟(不破哲三・上田耕一郎)は党内人事で「リベラル派」を起用しようとしたが、宮本は「阻止し」、「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」。
「志位はスターリンに対するベリアのような役割を果たして党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。
この人事も宮本が主導した」。
上田兄弟の路線は最終的に挫折した。>
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三 秋月は熱心な日本共産党ウォッチャーでないし、共産党(に関する)評論家ではない。
しかし、上の叙述は「上田兄弟の路線」なるものを重視しすぎているだろう。
決定的には、不破哲三の位置づけが小さすぎる、という印象が強い。
私のイメージでは、1991年12月末のソ連解体から1994年7月の党第20 回大会までのあいだに、「ソ連」の見方に関する激しい論議とともに、宮本と不破の間での激烈な対立があった。
そして、「ソ連」は社会主義国家でなかったと新しく定義されるとともに、党内人事でも、不破哲三が宮本に対して最終的にも勝利した。
少しく、年表的に追ってみよう。
1994年党大会のとき、宮本は満85歳。不破哲三は、満64歳。
1990年の第19回党大会の時点で、不破哲三は幹部会委員長。宮本は、中央委員会議長。なお、この大会後、志位和夫が書記局長になった。
宮本顕治は1994年党大会後も中央委員会議長だったが、1997年の第21回党大会で退き、なお維持した「名誉議長」職も2000年の第22回党大会で失った。
この2000年、不破哲三が中央委員会議長となり、幹部会委員長に志位和夫が選ばれた。
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松竹伸幸の影響を受けてか、池田信夫は、1990年に志位和夫を書記局長に「抜擢」したのは宮本であり、その後実力をつけて、不破哲三とは無関係に?、2000年の志位・委員長と不破・議長への就任があった、と叙述しているようだ。
志位の書記局長職には幹部会委員長だった不破の同意・了解が少なくともあっただろう。
また、不破70歳、宮本92歳、志位46歳のときの不破から志位への幹部会委員長職の委譲?は、もはや宮本はほとんど関係なく、不破の判断または二人の合意でもって行われたように推測される。
志位和夫が委員長になるまでは、不破が委員長だった。そして、委員長交代後も不破哲三が党内に影響を持ち続けたことは、不破はその後も中央委員会委員であることはもちろん、幹部会かつ常任幹部会の委員の一人だったことでも明らかだろう(党の社会科学研究所所長という要職?にもあった)。
秋月は志位に対して凡庸だという印象しかもっていなかったので、幹部会の中でずっと不破哲三が「にらみ」を効かしている、と感じていたものだ。
以上からして、宮本が「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」、志位は「党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。この人事も宮本が主導した」という叙述は、かなり奇妙だ。
1994年以降、宮本顕治にいかほどの「実権」があったのだろうか。この時期にそもそも、「反宮本派」はいかほどいたのだろうか。宮本に<人事を主導する>力があったのか。
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四 ひょっとすると、松竹伸幸は、<志位和夫憎し>のあまり、「党史」を正しく叙述していない、あるいは正しく記憶していない、のではないか。
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