秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2023/09

2682/西尾幹二批判075・トニー·ジャット。

  Tony Judt(トニー·ジャット)の文章を最初に読んだのは、つぎの著の、Leszek Kolakowski=レシェク・コワコフスキに関する章だった。
 Tony Judt, Reappraisals -Reflections on the forgotten 20th Century, 2008.
 L・コワコフスキの大著がアメリカで一冊となって再刊されることを知って、歓迎するために書いたものだった。L・コワコフスキに対する関心が、私をT・ジャットにつなげた。
 この著にはつぎの邦訳書があった。
 トニー·ジャット=河野真太郎ほか訳・失われた20世紀(NTT出版、2011)。
 原書も見たが、この訳書にほとんど依拠して、L・コワコフスキに関する章をこの欄に引用・紹介したこともあった。→No.1717/2018年1月18日·①、以下。
 T・ジャットの最後の著は、つぎだった。
 When the Facts Change -Essays 1995-2010, 2010.
 L・コワコフスキ逝去後の追悼文がこの中にあった。敬愛と追悼の念が込められたその文章には感心した。それで、この欄に原書から翻訳して、この欄に掲載した。→No.1834/2018年7月30日。
 のちに、つぎの邦訳書が刊行された。
 T・ジャット=河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時(慶應大学出版会、2019)。
 この訳書にも書かれているように、上の2010年著は著者の死後に妻だったJennifer Homans(ジェニファー·ホーマンズ)により編纂されて出版されたもので、冒頭に‘Introduction :In Good Faith’ という題の彼女の「序」がある。
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  この「序」の文章を読んで、日本の西尾幹二のことを想起せざるを得なかった。
 私(秋月)はT・ジャットの本を十分には読んでおらず、L・コワコフスキについての他は、Eric Hobsbawm とFrancois Furet に関する文章の概略を読んだにすぎない(前者は2008年の著、後者は2010年の著にある)。
 したがって、J. Homans が書くT. Judt の評価が適切であるかどうかを判断する資格はない。
 だが、その問題は別としても、彼女の文章の中のつぎの二点は、日本の西尾幹二を思い出させるものだった。その二点を、以下に記そう。
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  第一。編者で元配偶者だったJ. Homans はまず冒頭で、T·ジャットの人物と「思想」(the ideas)は区別されなければならないとしつつ、彼の「思想」は「誠実さをもって」または「誠実に」書かれた、と指摘する。冒頭にこの点を指摘するのだから、よほど強く感じていたことに違いない(私にその適否を論じる資格はないが)。
 「誠実さをもって」、「誠実に」とは、原語では、「序」の副題にも用いられている、’In Good Faith’ だ。
 邦訳書にほとんど従うと、そして編者によると、これはT・ジャットの「お気に入り」の表現(favorite phrase)だった。そして、編者は、これをつぎのような意味だと理解している。
 「知的なものであろうとなかろうと、計算(caluculation)や戦略(maneuver)ぬきで書かれた著述」のことであり、「純粋(clean)で、清明で(clear)、正直な(honest)記述」だ。
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 秋月瑛二は、西尾幹二について、こう感じている。
 西尾自身は「書けることと書けないことがある」と明言し、「思想家」も「高度に政治的に」なる必要がある旨を明言したこともある。また、月刊正論では安倍内閣批判が許容されたとか語ったことがあるように、雑誌の性格によって執筆内容の範囲や限界を「忖度」していたことを認めている。
 西尾幹二の「評論家」生活、「売文」業=「自営文章執筆請負」業生活は、<計算>と<戦略>にたっぷりと満ち満ちていたのではないだろうか。
 当然ながら、「純粋」でも「清明」でもなく、重要なことだが、「正直」ではない。
 西尾幹二の<戦略>についてはほとんど触れたことがないが、この人は、とくに2000年頃以降、広い意味での<保守>派の中で、どのような立場を採れば、どのような主張をすれば、目立つか、際立つか、注目されるか、という「計算」を絶えず行なってきた、と思われる
 西尾の反安倍も、反原発も、その他も、このような観点からも見ておく必要がある。近年ではやや薄れてはきているが、少なくとも一定の時期は、<産経>または<月刊正論>グループの中でも、櫻井よしこ・渡部昇一ら(八木秀次はもちろん)とは異なる立場にいることを<戦略>として選んできた気配がある。
 J. Homans が書いているとおりだとすると、T. Judt は、西尾幹二とは真反対の著述家だったようだ。たしかに、この人のL・コワコフスキ追悼の文章は、「計算・戦略」など感じられない、一種胸を打つようなところがある。彼はあの文章を、自分自身の<ゲーリック病>による満62歳での死の10ヶ月前に書いたのだった(病気のことを全く感じさせない文章だった)。
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  第二。「序」の最後に編者、J.Homans が書いているところによると、T・ジャットは死の直前の1ヶ月に「来世」(the Afterlife)と題する小論を書き始めた。だが完成しなかったようで、2010年著にも含まれていないと見られる。
 編者に残された断片的原稿の中に、つぎの文章があった、という。ほぼ邦訳書による。
 「影響や反応(impact, response)に関する何らかの見込みをもって、ものを書いてはならない。
 そうすれば、影響や反応は歪められたものになってしまい、著作そのものの高潔さ(integrity)が汚されてしまう。」
 「無限の可能性が将来にある読者の動機(motives)が生じる文脈(context)も、予期することはできない。
 だから、それが何を意味していても、きることはただ、書くべきことを書くことだけだ。
 読者や出版社・編集者の「反応」、彼らへの「影響」を気にして文章を執筆してはならない。書くべき(should)ことを書くだけのことだ。
 西尾幹二は、かりに知ったとして、T・ジャットの死の直前に書かれたこの文章をどう読むだろうか。
 自分の文章の読み方、解釈の仕方は、読み手に任せる他はないのではないか。前回に記したようなこの人の<足掻き>、あるいは<妄執>は、いったい何に由来するのだろうか。
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 書きたいことを書くだけだ。影響などないに決まっているし、反応を気にしても仕様がない。—これは全く、この欄についての秋月瑛二の心境でもある。
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2681/西尾幹二批判074—第8巻③。

  西尾幹二全集(2011〜)の最も「グロテスク」なところは、各巻の「後記」にある。
 とりわけ、それぞれの巻にすでに収載している自らの文章の一部を、決して少なくない範囲で「後記」の中で再び引用し、掲載していることだ。
 この「くどさ」、「執拗さ」には、唖然としてしまう。
 顕著な例は、第8巻(2013年9月刊)の「後記」だ。
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  西尾は上の「後記」の最初の方で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 この点でもくどく、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
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 しかし、「時間の流れに沿って」、「素直に」読んでもらえればよく、「余計な解説をあまり必要としないだろう」というのは、あくまで表面的な言辞(あえて言えば「ウソ」)で、執拗な「読み方ガイド」や「自らによる要点の指摘」をくどくどと行なっている。
 (1) 西尾は当時の臨時教育審議会の動向への批判等を「後記」で再びあれこれと書いたあと、その趣旨はこの巻(第8巻)には全体を収載していない別の書物に書いたとし、その著の「序にかえて」だけを収載したこの巻(第8巻)のその部分(293-299頁、ふつうの大きさの活字・二段組で計7頁)の、そのまたその一部(1985年)を、「後記」で、わざわざ二箇所に分けてそのまま引用している。第8巻「後記」、p.791-3。
 最初は、小活字で、13行。「本書293-294ページ」と最後にある。
 つぎは、小活字で、19行。「本書296-297ページ」と最後にある。
 「本書」293-299頁を、あるいは293-294頁と296-297頁を読めば済むことを、西尾は「後記」でもう一回記載しているわけだ。その再掲部分は、それが最初に書かれた1984年ではなく、最も重要な部分だと西尾が全集刊行の時点で判断した部分なのだろう。つまり、2013年の時点での「判断」が入っている。
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 (2) 西尾の「後記」は、編集上の注記なのではなく、主としては2013年時点での「回顧」論考になっている。
 そして、(1) と同様に、すでにこの巻に収載している1992年の著の一部を「後記」の中で長々と引用している。第8巻「後記」、p.796-7。
 小活字で、6段落、35行。「本書649-650ページ」と最後にある。
 なぜ、こんなことをするのか。西尾は、こう記載している。
 「論理的に…最も深く考えてもらいたいという箇所」を「あえて抜き出し、お示しする」。
 「大量のページ数の多さに紛れてどこが私の主張の重点ポイントかを読者が見失うのを恐れてのことである」。
 西尾幹二は、とても親切であり、あるいはとても心配症なのだ。
 しかし、同時に「グロテスク」でもある。
 別の巻に収載している文章の紹介・引用ならば、まだ理解できなくはない。だが、西尾は、この巻に収載の文章についても、読者の理解、解釈に委ねようとはしない。別言すれば、読者を信用していないのだ。「私の主張の重点ポイントかを読者が見失う」のを懸念している、と明記している。
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 (3) 以上にとどまらない。西尾はこの巻の「V」の一部(1992年)を、長々と「後記」中で再引用している。第8巻「後記」、p.798-800。
 小活字で、5段落、40行。「本書666-668ぺージ」と最後にある。
 これは、第8巻「後記」時点での西尾のコメントを挟んで、さらにつづく。第8巻「後記」、p.800-1。
 小活字で、1段落、5行。「本巻668ページ」と最後にある。
 小活字で、1段落、4行。「本巻669ページ」と最後にある。
 小活字で、1段落、3行。「本巻669ページ」と最後にある。
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  緒言または後記で全集各巻の編集者が記述すべきことは、その巻に収載している個々の論考類が最初にどこに発表され、のちにどのように単行本にまとめられたのち、その巻ではどのように配置されているか等を、一覧表的に正確に明らかにしておくことだろう、と思われる。
 しかし、編集者・西尾幹二は、この点で不十分で、不親切であることは、すでに書いた。→批判070—第8巻①。
 一方で、この人は冗舌にも、小活字の計約120行も費やして、同じ巻に収録した文章を「後記」で再び引用している。いささか<異様>ではなかろうか。最初に読んだときだろう、私が所持するこの巻の「後記」の余白には、「くどい」と書いたサインペンでの文字が二箇所にある。
 「時間の流れに沿って」、「素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」と言いつつ、読者が「大量のページ数の多さに紛れてどこが私の主張の重点ポイントかを読者が見失うのを恐れて」いるのが理由だ、というわけだ。だから、<くどくどと>何度も書きたくなっている。
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  こういう<グロテスクさ>は、たんに「饒舌すぎる」とか、「くどすぎる」とかの印象以上の重大な問題を胚胎している。
 すなわち、1980年代や1990年代にすでに発表した文章の一部だけを2013年にことさら再度引用することは、かつての文章の意味・趣旨を数十年後の2013年になって実質的には<改変>した、<修正>した、ということになっているのではないだろうか。
 なぜならば、1984-85年や1992年の最初の発表時にあえて選べば重要な箇所だと西尾自身は考えていた部分と、2013年に振り返って西尾がそう判断する部分は、同じではない可能性があるからだ。
 西尾は、2013年刊行のこの巻で、「私の主張の重点ポイント」とか、読者に「最も深く考えてもらいたいという箇所」とかと記している。
 その「箇所」や「ポイント」がかつての初出時での思いと全く同一でないとすれば、そうした「箇所」・「ポイント」だけを新たに指摘して引用することは、実質的には2013年時点で「加筆修正」の一種をすることに他ならないのではないか。
 西尾幹二は、なぜいけないのか、文章の書き手は同じ自分だ、と言い張るのかもしれない。
 しかし、1980年代半ばや1990年代初頭と2013年とは、時代が大きく異なる。そのあいだには、ソ連邦の解体、「新しい歴史教科書をつくる会」の発足と分裂、西尾『皇太子さまへの御忠言』の刊行等々があった。西尾幹二自身が、かつての『教育文明論』(全集第8巻のテーマ)の時期と同じ考えを持っているはずはない、と推察するのが、むしろ常識的ではないだろうか。「教育」をめぐる状況も、20年以上のあいだに変わらなかったはずはない。
 このように、西尾幹二は、全集の「後記」の執筆を通じて、かつての自分の論考類の意味・意義の修正・変更を図っている可能性がある。西尾幹二の自分編集による同・全集とはそのようなものだと(今回は各巻への主題の「作為的な」配分には触れていないが)、読者・利用者は注意しておかなければならない。
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2680/私の音楽ライブラリー⑭・M. Skoryk。

 私の音楽ライブラリー⑭。
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 Myaslav Skoryk(1938〜2020)、Lviv(Lwow, Lemberg)生れ。Lvivは今はUkraine、かつてはPoland。

 042-01 M. Skoryk, Norwegian Chamber O, Melody.
 042-02 M. Skoryk, Lviv National O, Melody.
 042-03 M. Skoryk, G. Capuçon, Melody. 〔francois paris〕
 042-04 M. Skoryk, C. Thomas, Sofia PhO, Melody.

 043 M. Skoryk, Carpathian Rhapsody. 〔Artem Lohninov〕

 044 M. Skoryk, Spanish Dance. 〔Cadenza European Art〕
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2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。

 岡山県真庭市・木山寺—2023年6月
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 神仏混淆(・習合)や神仏分離について学校や家庭でとくに教えられないままで育った。歴史教科書の明治維新の項に書いてあったかもしれないが、記憶していなかった。
 だから、この15年ほどの間に神社仏閣、とくに寺院を訪れて、驚き、また興味深く感じることもあった。
 談山神社(奈良県桜井市)を訪れて、拝礼のときに、ここは寺だったか神社だったか一瞬迷ったことがあったことは、だいぶ前にこの欄に書いた。小ぶりの十三重塔の存在は原因の一つだった。豊川稲荷(愛知県)は今は寺院だと訪問時に知って驚いた。そのうちに、今は寺院だが、境内や本堂のすぐ前に「鳥居」があるのにも慣れてきた。「聖天」と付く寺院はそうだろう。宝山寺(奈良県生駒市)、世義寺(伊勢市)など。
 今年になって、神社本庁が「本宗」としている神宮(伊勢神宮)にもかつては一体だった寺院があった、五十鈴川を挟んだ丘陵の中腹にかつてはあって今は破壊されたままだ、と書いてある文献を読んで、驚いた。伊勢神宮にすら、江戸時代には、ペアとなる仏教寺院があったのだ。
 今年2023年の6月に特段の大きな期待なく木山寺(岡山県真庭市、高野山真言宗)を訪れてみて、神仏が物理的にも一体になっている、正確には仏教的本堂のすぐ後ろに神道的建物(「鎮守社」)がくっついて存在しているのをこの目で見て、驚くというよりも、感心した。神仏混淆そのままだ、と。
 下の写真のように、仏教上の本尊は薬師如来と観音菩薩、「鎮守社」の祭神は「木山牛頭天王」と「善覚稲荷明神」。本堂・鎮守社の建物の他に、境内には四つの「稲荷大明神」を祀る「末社」の祠等々もあった。
 この寺院はもともと現在もある木山神社と一体だったようで、山の上の方の木山寺に対して、下の方に今の木山神社の本殿等がある。
 しかし、かつては神社の本殿(正殿)だったらしい現在の「奥宮」は、一つだけ道を隔てて、木山寺のすぐ近くにある(下の写真の8枚めが「奥宮」)。
 木山神社の現在の本殿の祭神は「須佐之男命」で、その隣の別の大きい木造建物は「善覚稲荷神社」とされている。両者のあいだに「天満宮」(菅原道真が祭神)もある。牛の石像が前にある。
 「牛頭天王」とは現在の京都・八坂神社の祭神と同じで、元々は中国・朝鮮半島由来の「神」だったところ、諸説があるようだが、日本的に「素戔嗚」に転じることがあるらしい。そして、アマテラス系の神を祭る神社(全国の数の上では少ない)とは別のグループの神社群を形成している。スサノオ(>牛頭天王)系を祭神とする神社に限っている、八坂神社を含む<朱印帳>がある(正確には、かつて八坂神社の朱印が捺されたその朱印帳を所持していた)。
 京都・八坂神社(祇園社)の境内には、かつて薬師如来を本尊とした仏教建築物もあるはずだ(確認しない)。
 牛頭天王・蘇民将来命は「疫病」から人々を守ってくれる神だったはずなのに、昨年までコロナ禍の数年間、「祭り」である「祇園祭り」自体が挙行されなかったのだから、その「ご利益」は本当は信じられていないのではなかろうか。最も健康のための仏神であるはずの(左掌に薬壺を乗せる)薬師如来を本尊とする京都の著名寺院も、数年間は「拝観」停止にしていたのだから、似たようなことが言えるだろう。
 肝心のときに祭りが行われず、拝礼も遠慮させるとは、いったい何のための宗教なのか、と問題にしたくもなる。本格的に立ち入るつもりは全くない。比叡山延暦寺と北野天満宮の僧侶・神職者は、同日・同場所で<ご霊会>を開催したり(2020年9月4日、500年以上ぶり)、関西薬師霊場(49+α)構成寺院は同日に一斉に<祈願法要>をした(2020年5月2日)、といったことはあったのだけれども。逸れてしまったので、元に戻ろう。
 木山寺の「鎮守社」の造形は見事だ(と素人には感じさせる)。かつて見た、高千穂神社(宮崎県)の本殿を思い出した。それが寺院の本堂に接続して後ろにひっそりと?存在しているわけだ。これほど明確に、神仏混淆の名残りを感じさせられたことは、これまで他にない。
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2678/私の音楽ライブラリー⑬。

 私の音楽ライブラリー⑬。
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 039-01 M. Legrand, Parapluies de Cherbourg. 〔Sound Track, 8823 macaron〕 <シェルブールの雨傘>

 039-02 M. Legrand, M. Oppert, Parapluies de Cherbourg. 〔Warner Classics〕 <シェルブールの雨傘>
 
 040 Maurice Jarre, Lala's Theme from Dr. Zhivago. 〔Muchahit Icek〕 <ドクトル·ジバゴ—「ララ」のテーマ>
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 041 B. Smetana, Prague City PhO, Ma Vlast Moldau, 〔EMHClassicalMusic〕 <スメタナ・モルダウ>
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2677/私の音楽ライブラリー⑫・Yiddishe Mame 02.

 私の音楽ライブラリー⑫。
 ⑩のつづき。A Yiddishe Mame. My Jewish Mother.
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 034-07 →Connie Francis, Yiddishe Mame. 〔- Topic〕

 034-08 →P. Leschennko, Yiddishe Mame.〔Jurek46pink〕

 034-09 →Svetlana Portnyansky, Yiddishe Mame. 〔berlinberlin131〕

 034-10 →R. Zylberberg, Yiddish Mame. 〔albertdiner〕

 034-11 →C. Aznavour, Yiddishe Mame. 1997.〔Charles Aznavour〕

 034-12 →D. Fischer & S. Avramson, Yiddishe Mame. 〔Jewish Remembrance〕
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2676/西尾幹二批判073—「歴史」と安倍晋三内閣。

 思想家か、「売文業者」か。
 こういう問題を設定すれば、西尾幹二が後者であることは、はっきりしている。「自営の文章執筆請負業者」なのだ。63歳までは国立大学教員の「安定した」地位と「電気通信大学教授」という肩書きだけでは西尾は満足せず、「売文」を通じて世間的に「有名に」なりたかった、強い「自尊心」を満足させたかったわけだ。
 だが、文章を執筆して原稿料や印税を得ることを主たる生業とする者は全て「売文業者」なのだから、問題は、西尾幹二は<どのような>文章執筆請負業者であるのか、だ。
 その文章が示す主張・見解に一貫性がないこと、しばしば「無知」であること、単純幼稚な「思いつき」をさも深遠な内容をもつかごとくに堂々と書ける「神経」をもつこと、これらは、西尾幹二の諸文献・文章を少しはまとめてきちんと読んでいると、容易に気づくことができる。
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  先日に2019年の<文春オンライン>上の西尾の発言に言及した。
 あらためて読んでみると、言及した以外にも興味深いことに気づく。
 幼稚な「歴史」観を、単純には論じきれない「歴史」叙述とは何かの問題を、つぎのように語って<得意になって>いるようであるのも面白い。内容にここで検討し、論議するつもりはない。インタビュアーは辻田真佐憲。一行ずつ改行する。「歴史と物語の関係」に入る前に、として、こう述べている。
 「さきに私の考える『歴史』の定義をお話しした方がよいでしょうね。
 私がまず申し上げたいのは『過去』と『歴史』を一緒に考えるのは根本的な間違いであるということです。
 過去というものはもはや動かないものですね、一度起こったことは不可逆。
 たとえば人生におけるなんらかの事故で失明という災いが生じれば、それはもう元には戻らない出来事ですね。」
 「しかし、人は動かしようのない過去に対しても心を動かします。
 人生の災いに対して自殺するほどの苦しみを感じるかもしれない、あるいは事故の責任を他に求めて社会的正義を訴えようとするかもしれない。
 あるいは時が経って事故を神が与えた試練ないしは慰めとさえ感じ、宗教的に浄化させるようになるかもしれない。
 ある出来事に対する人の心の動きは、その時その時によって違うわけです。その心の動きによって変わって見える過去が『歴史』です
 つまり『歴史』とは動くものなのです。」
 少しは具体的例への言及があるが、省略する。
 いずれにしても、「はぁ?」、「それで?」という感想が多くの人々に生じるだろう、あるいは、人の「心の動き」をえらく大切にする人なのだな、という感想も生じるかもしれない。
 2011年頃に遠藤浩一との対談で、これまでの自分の仕事は全て「私小説的自我」の表現でした、と語った人物だけのことはある。
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  安倍晋三首相(当時)について語っていることも、関心を惹く。インタビュアーの辻田真佐憲が「『保守の真贋』(2017年)で日本会議や国民文化研究会、日本政策研究センターといった安倍首相を運動的・思想的に支える組織を『保守系のカルト教団』と強い言葉で批判」、安倍首相自身についても「拉致に政権維持の役割の一端を担わせ、しかし実際にはやらないし、やる気もない」と「厳しく批判」と、さらなる発言を求めたのに対して、こう答えている。一行ずつ改行。
 「安倍さんについては、私にだけではなく多くの人の目に、その正体が現れたという思いが年々強くなっていますね。
 人たらしって言うのかな、威厳はないけれども敵は作らない絶妙さを持っている一方、旗だけ振って何もやらない無責任さがあります。
 憲法改正がいかに必要であるか、炉辺談話的に国民に腹を割って説明をしたことが一度でもありますか。
 中国の脅威について、世界地図を広げながら国民に説明したことはありますか。
 憲法改正についても安全保障についても、やるやるとぶち上げておきながら、はっきりしたことは示さないまま時間切れを迎える。
 私はかつて安倍さんに“言葉を持つ政治家として”大きな期待を持っていたんですが、今となってはあと10年経たないうちに歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろうと思っています。」
 ―それでも西尾さんの言う「安倍さん大好き人間」がいっぱいいる。
 「ええ、バカみたいにたくさん。
 何があの『大好き人間』の悪いところかというと、彼らの目的は政治ではなく安倍さんを頭目として首相の位置に置き続けること自体が、自己目的化していることです。
 もっぱらその目的のために彼らが言論を戦わせているところ。最近の保守系の雑誌をめくればすぐにわかりますよね。『月刊Hanada』にしろ『WiLL』にしろ『Voice』にしろ。」
 ―『正論』はいかがですか。
 「『正論』は辛うじて私の安倍批判を載せますから。
 もっと安倍批判を保守の立場から堂々と論じることのできる人が、僕以外にもたくさんいるはずなのに、メディア側が抑えている。」
 このように、安倍晋三に対しては批判ばかりをし、安倍支持者・同雑誌も弾劾している。
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  批判または擁護は、それはそれでよいとして、秋月にはきわめて不思議に感じることがある。
 西尾幹二は、上から約一年半後の月刊正論2020年7月号に「安倍晋三と国家の命運」と題する文章を寄せた。この主題で何を言いたいのか、よく分からないまま「たらたらと」、どちらかと言うと批判的に安倍首相の時代を追っているが(なお、直後に安倍内閣は退陣した)、最後の一文の一つ前の文はこうだった。
 「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが、今や現実が見えなくなり、変化をこわがっている」。
 たしかに批判的なトーンで終わってはいるが、上に見た2019年1月での発言とはまるで異なる。
 2019年1月には、安倍内閣について、「歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろう」とまで言っておきながら、この2020年7月号では、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という積極的・肯定的側面を明記している。
 これでは、<矛盾>または<一貫性の欠如>と指摘されても仕方ないだろう。
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 しかし、西尾幹二においては、「一貫性」の維持など、大した問題ではない。見解や評価を何の理由を示すことなく変化させることくらいは、平気のことだ。
 2019年の初めには、<保守の立場からの安倍内閣批判>と銘打った自分の書物に言及されたために、あえて批判だけ述べたのかもしれない。2020年の夏には、月刊正論に掲載予定のの原稿であることを意識して、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という、同編集部や月刊正論の読者(の多数?)を意向を「忖度」した文章を挿入したのかもしれない。
 そのときごとに微妙に表現の仕方や内容それ自体を変えること、掲載予定の新聞や雑誌の<傾向>を考慮(・忖度)しつつ文章を書くこと、これは「自営の文章執筆請負業者」=「売文業者」である西尾幹二の本質に属する
 なぜ、それでよいのか。理由を示さないままでの趣旨の変更は、ときには「ニュアンス」の変更ですら、「良心のある」文章執筆者ならば、避けたいところだろう。
 そのような「良心」は、西尾幹二にはない。そう断言してよい。
 西尾にとっては、注文に即して、所定の枚数(・字数)の原稿を書いて編集者に渡し(メールを送信し?)、ともかくも雑誌や新聞に掲載されて、<自分の名前>が知られつづけることこそが重要なのだ。
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  上の2019年のインタビューへの回答の中に、西部邁・小林よしのり等々は「国民の歴史』がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう」(だから私と対立したのでしょう)、というのがあった。この書の売れ行きが良かったことを、この人は何度も述べている。
 しかし、購入者の全てが西尾著の内容を支持したわけではない。だいぶ昔に、当時に流行した羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房、1968年12月)を私も購入したが、少しだけ捲って、あとは全く読まなかった記憶が私にはある。だから、購入されても(売れても)読まれなかった場合も少なからずあった、と推測される。
 しかし、西尾幹二にとって重要なのは、自分の書物がきちんと読まれること、さらにはその内容としての見解・主張が共感され、支持されることではない。
 そのようであるにこしたことはないだろう。しかし、この人にとって重要なのは、多数の購入者によって、著者である<自分の名前>が広く知られることだ。「西尾幹二」の名が「有名」になれば、それで十分に満足なのだろうと推察される。
 全集の「後記」でも含めて、この人はしばしば、<この本は〜部売れた>とか書いている。販売部数は、自分の見解・主張が支持された数量とは一致しない。だが、<名前が知られた>、「有名」になった、「えらい人」だと何となく思わせた、という数量とはかなり一致しているかもしれない。だからこそ、西尾幹二は、「売れ行き」・販売部数にひどく執着しているのだと考えられる。その<全集>がどの程度売れているのかは、私は全く知らないけれども。
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2675/私の音楽ライブラリー⑪。

 私の音楽ライブラリー⑪・J. S. Bach
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 035 J. S. Bach, Mass in G-minor, BWV235. 〔Netherlands Bach Society〕

 036 J. S. Bach, Toccata &Fugue, BWV538. 〔Luciano Zecca〕

 037 J. S. Bach, Toccata &Fugue, BWV565. 〔LieneAndreta Kalnciema〕
 
 038 J. S. Bach, K. Buniatisvill, Concerto in D-minor, BWV974 -II. 〔Marcia M〕
 ——

2674/西尾幹二批判072—小林よしのり論

  西尾幹二という人物、その人が書く文章を信用してはならない、ということは、諸々のかたちでこれまでこの欄で示してきた。
 再述だが、「真面目に受け取る」ことの危険性を示すものとしてとくにつぎの二つを取り上げたことがある。
 ①月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 ②月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
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 だいぶ昔の文章だと感じられるかもしれない。
 しかし、すでにかなり昔の文章ではあるが、これらを読んで、当時の西尾幹二の関係者、とくに出版社の編集担当者や表向きの「仲間たち」が、この人物の<本質>に気づかなかったようであることが、不思議でならない。
 上の②は、率直に公に書けば「狂人」と見なされるだろう「私的な心の暗部」を、西尾幹二もまたもっていることを告白?するものだ。当時の誰一人、このことを訝しく感じなかったのだろうか。例のごとく、<レトリック>だとして済ませたのだろうか。
 なお、「世には書けることと書けないことがあります」という明言も、さすがに「文章執筆請負」を業としてきた、<空気>を気にせざるを得ない者の言葉ではある。
 以下は、上の①についてに限る。
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  思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も」「かなぐり捨てる」、「そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう」。等々。
 これは一般論としても興味深いが、西尾幹二が「つくる会」の会長をしていて、かつ西部邁と小林よしのりが同会を退会した直後に書かれたものだ。
 小林らはアメリカの対応に批判的だったが、西尾幹二はそうではなく、日本政府の対応も容認した。これを不満として小林は西尾幹二らを批判したが、西尾をはじめ月刊正論・産経新聞社グループは、小林よしのりへの全面的批判・攻撃をするに至った。
 ①の西尾の文章は、小林を批判し、自己の立場を正当化する文章の中で出現した。
 月刊正論2002年6月号での表題はこうだった。
 「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」
 なお、西尾は西部邁に対しては「保守派の反米主義に異議あり—おゝブルータスよお前もか!」(月刊正論2002年3月号)を書き、産経新聞2月19日付紙上には「嘆かわしい保守思想界の左翼返り」を書いた(上記の単行本所収に際して「保守思想界一部」に変更)。
 西尾幹二の、「思想家」は「高度に政治的」であるべきだ、日本が「国益」のために外国に「土下座」するのを「われわれ思想家が思想的に支持する」時期はくるだろうし、すでに来ているかもしれないとの論述は、こうした状況の中で書かれた。
 つまりは、自らの「容米」の立場を正当化し、当時の「反米」論を批判するために、当時「つくる会」会長だった西尾が書いた。
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 ここで、西尾幹二が「つくる会」について、のちに2017年にはこう語ったことを、想起せざるを得ない(全集第17巻/歴史教科書問題、p.712)。「つくる会」20周年集会での「挨拶」(代読)の中でだ。
 「つくる会」は、「反共だけでなく、反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。竹山道雄・福田恆存に「反米」の思想はなかった。三島由紀夫・江藤淳が先鞭をつけたが、「はっきりした自覚をもって反共と反米を一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です」。「反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出した」。たんに「敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれの本来の理想の表われだったということを、今確認しておきたい」。
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  日本共産党やその幹部・不破哲三と同じく、<何とでも言える>ものだ。
 それはともかく、「反共だけでなく反米の思想も」初めて言い出したというのは、「つくる会」に関する歴史的事実だろうか。西尾は、「つくる会」の歴史も、自らの現在(この場合は2017年)に都合のよいように<捏造>しようとしている、と思われる。
 「つくる会」発足当時の諸文書の中に、<反共+反米>の思想を実証できるものはあるのだろうか。
 むしろ、「反米」姿勢の強かった西部邁や小林よしのりに対する西尾の厳しい批判は、上のような叙述と完全に矛盾しているのではないか。
 いや、「思想」と「政治」は別だ、だから上の①のように書いておいたのだ、と西尾は釈明するのかもしれない。
 だが、「正しい『思想』」を放擲して「高度に政治的に」、「政治」を優先する必要があり得ることを明言して承認する「思想」とは、あるいは「思想家」とは、そもそも「思想」や「思想家」の名に値するのだろうか。
 ともあれ、西尾幹二は、その程度の「思想家」なるものであることを、2002年の時点ですでに自ら認めていたことに注目しなければならない。
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 なお、小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002)の第166章が、西尾の上の論考に対する反論になっている(初出はSAPIO(平凡社))。表題は、つぎのとおり。
 「小林を排除せよと叫ぶ西尾ポチ」。p.69。
 小林よしのりは、「今回、西尾の文章で、つくづくもう手の施しようがないなと思った部分を紹介しておく」として、最後に、上記の①の西尾の第二の文章を引用している。p.75。
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  2017年の時点で、西尾幹二は、「つくる会」会長だった2002年の頃に西部邁や小林よしのりと対立したことを、きちんと記憶していたのだろうか。自分は彼らに対する「容米」派だった時期のことだ。
 こんな疑問を抱くのも、内容的に矛盾していることのほか、つぎのような理由がある。
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 2019年1月に<文春オンライン>上で、西尾幹二は、インタビューへの回答・対談記事を載せた。
 その中で、2002年頃の小林よしのりの「つくる会」脱会に関して触れている部分を、全て以下に引用する。西部邁だけが関係する部分は省略する。
 「 ――1996年12月に『つくる会』は“日本に誇りが持てる教科書づくり”を目的として発足します。初期の主なメンバーには伊藤隆、藤岡信勝、小林よしのり、西部邁、坂本多加雄、高橋史朗などの各氏。会長は西尾さんでした。しかし、会はその後、幹部の対立と分裂を繰り返してしまいます。今、振り返ってどのようなことを思われますか。
 西尾 2002年に西部と小林が会を去った原因は、私たち幹部の対立に他なりません。もっと言えば、みんな『西尾憎し』だったのかもしれない。「国民の歴史」がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう。」 〈以下、中略〉
 「 ――同じく2002年に脱会する小林よしのりさんとはどんな関係だったのでしょう。
 西尾 彼とは今も付き合いがありますが、『つくる会』時代も仲が良かった。小林としては『俺は宣伝マンじゃない』という気持ちがあったのかもしれないが、協力者としては非常に便利でしたし、ありがたかった。叙述もうまいんだよ。だから私は歴史教科書の執筆の多くを彼に任せました。太平洋戦争開幕のところや、特攻隊について、それから日本神話の部分も小林のライティングです。
 ――西尾さんによるキャスティングだったんですね。
 西尾 そうです。彼の才能を買っていましたから。市販本の歴史教科書自体は40万部くらいのベストセラーになったと思いますが、これには小林に対する人気もあってのこと。だから、その頃までは蜜月だったの。
 ――西尾さんが『国民の歴史』を書かれるときにも、小林さんは後押しされたとか。
 西尾 そうですね、版元の扶桑社がああだこうだと私に要求ばかりしてきたときに、小林は『俺は西尾さんの仕事を待っている』『どれだけ遅れたって構いはしない』と、一貫して私の支持者でいてくれた。彼はね、物を作ることの困難をよく知っているんですよ。
 ――漫画家としての経験があるからですか。
 西尾 そう。自分で人を雇って、アシスタントをまとめる責任感を持っている。その苦しみも知っている。他のメンバーは学校の先生だから無責任で、外側からワイワイ言っているだけだったが、小林には男らしいところがあった。
 ――それほどの信頼関係がありながら、なぜ別れることになったのでしょうか。
 西尾 私にも明確にはわからない。ただ一つだけ、私も態度を硬くしてしまったと思うのが、小林に漫画を描かれたとき。小林は私の顔を犬にして『アメリカべったりのポチ保守』と描いたんだったかな。
 ――ありましたね。
 西尾 それで僕、怒ったんだよね。
 ――そりゃそうですよね。
 西尾 我慢すりゃいい話だったかもしれないが、そうもいかなかった。加えて2006年に八木が脱会した分裂紛争というのは、…〈以下、省略〉」。
 以上。
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 以上が、全て。
 西尾幹二は自分が月刊正論2002年6月号で「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」と題して書いたことを、すっかり忘れていると思われる。
 <思想家は「高度に政治的に」なければならない>等々と書いたことを明らかに忘れているようだ。
 また、小林よしのりと「別れ」た理由は「私にも明確にはわからない」とのうのうと語っている。
 西部邁との対立についてもそうなのだが、「『国民の歴史』がベストセラーになったことが悔しかったのでしょう」などと言いつつ、<対テロ戦争>の発生にも、西部邁と小林よしのりがこの点で「反米」派だったこと、自分はこの点で「容米」派だったことには全く触れていない。すっかり忘れてしまっていたのだろう。
 その代わりに、小林よしのりが自分の顔を漫画で戯画化した、それで怒った、ということだけはよく憶えている。
 こんな調子だから、西尾が2017年に「つくる会」は「反共+反米」を初めて明確に打ち出したと語ったとき、かつて2002年頃に「反米」派と対立したことを全くかほとんど忘却していたとしても、何ら不思議ではない。
 のちには、西尾幹二は、「高度の政治的」判断を忘れて?、<保守>派の中では際立って「反米」性の強い主張をするようになった。
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 政治的認識や見解の変化は、もちろんあり得る。しかし、とても容赦することができない、と感じるのは、かつて「会長」だった2002年頃の自分の主張・見解をすっかり忘れて、2017年になって、「会」は「反共+反米」を初めて明確に打ち出したと、ぬけぬけと語っていることだ。
 なぜ、こういうことが生じるのか。
 西尾幹二にとって、見解・主張の内容やその変化などは、本質的問題ではない、どうでもよいことなのだ。
 この人にとって重要なのは、自分が「有名」であること、「えらい人」だと感じさせること、自分が関係した「運動」の意義を自分が理解するように理解し解釈させること、自分の「面子(メンツ)」が維持されていること、なのだ。
 誰にもある程度はこういう面があるかもしれない。しかし、西尾幹二の場合は、異様に大きすぎる。
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2673/私の音楽ライブラリー⑩・Yiddish Mame。

 私の音楽ライブラリー⑩。
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 A Yiddishe Mame. My Jewish Mother.
 この曲を初めて聴いたとき(下の-01と同じもの)、日本の「赤い靴」という童謡か唱歌と似ていると思った。全体ではなく、「赤い靴はいてた」(「ラシドレミ/ミファレミ」)とほとんど同じ旋律が冒頭にあり、やや離れて、「異人さんに連れられて行っちゃった」(「ララファファミミレファ/ミファミラ」)に似た旋律も出てくるからだ。
 ドイツ・イタリア・フランスといった「西洋音楽」の(たぶん)中心地域ではなく、東欧、トルコ、イランあたりの民衆音楽の方が日本のものに似ていると小泉文夫が書いているのを最近に読んだ。イスラエル、または「ユダヤ人」の音楽も元々、日本の音楽、または日本人の「音楽感性」と類似性がより多くあるのではないか。
 下の0203に歌詞の英語が、両者で全く同じではないが、字幕で出ている。02に従うと、大まかには日本語では以下のように歌っていることになるだろう。なお、下の各曲の原題は正確には同一でないが、Yiddishe Mame に統一した。日本語では「私のユダヤの母さん」がいいかもしれない。 
 「あなたがたに、私は尋ねたい。
  答えられる者は、私に伝えてくれ。
  何と貴重な宝物を、神は我々みんなに授けているのか?
  このために、金銭を払いはしない。ただで頂くことができる。
  しかし、失ったとき、どれほど多くの涙が流されるのか。
  代わりになる者は、誰にもいない。どれほど嘆き悲しもうとも。
  ああ、失った者は誰でも、私の言いたいことが分かるだろう。
  ユダヤの母さん。世界にこれほど素晴らしいものはない。
  ユダヤの母さん。ああ、母さんがいなくなったときほど、辛いときはない。
  母さんがいる家は、なんと美しく、輝いているのか。
  神がつぎの世界に母さんを連れて行くときは、なんと暗くて陰鬱なことか。
  母さんは、子どものために、水と炎の中を通り抜けるのだろう。
  最大の罪悪はきっと、母さんを愛おしく抱擁しないことだ。
  神が下さるあんな美しい贈り物を持つ者は、なんと幸せで豊かなことか。
  愛おしい、老いたユダヤの母さん! 母さん、母さん、母さん。…。」
  ——
 034-01 →I. Perlman, Yiddishe Mame. 〔IonutCucuViolin〕

 034-02 →Cantor Helfgot, I. Perlman, Yiddishe Mame 〔JewishLife〕

 034-03 →Cantor Azi Schwartz, Yiddishe Mame. 〔Azi Schwartz〕

 034-04 →Neil Sedaka , Yiddishe Mame. 〔Chabad Telethon〕

 034-05 →Sirba Octet, Yiddishe Mame. 〔Sirba Octet〕

 034-06 →Marion Rung, Yiddishe Mame. 〔Juha Lindfors〕
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2672/私の音楽ライブラリー⑨。

 私の音楽ライブラリー⑨。
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 26 →Marie Laforêt, La tendresse, 1964. 〔Marie Laforêt〕

 27 →舟木一夫, 夜霧のラブレター, 1965. 〔舟木一夫公式YouTubeChannel〕
    安部幸子・歌詞、山路進一・作曲。

 28 →Gigliola Cinquetti, La Rosa Nera, 1967. 〔Jose Almeida〕

 29 →布施明, 愛の終わりに, 1971.
    島津ゆう子・歌詞、クニ河内・作曲。ミ→上のミ、次いでレ→上のレという運びは単純で、ありそうだが、この曲のようにまで大胆に用いるのは「勇気」があるだろう。ミ→ラ→ドに次いでミ→ソ♯→シと上昇の仕方を変化させる曲もある。

 30 →小椋佳, 冬木立, 1978. 〔eisin555〕

 31 →Barbra Streisand, Woman in Love, 1980. 〔just73〕

 32 →Sylvie Vartan, Nicolas, 1979. 〔Officiel〕

    →天地真理. 初恋のニコラ, 1980。 〔3366 Mari〕
        訳詞/麻木かおる。 

 33 →井上陽水, ジェラシー, 1981. 〔kantarokanna〕
 ——

2671/1892年の日本音階研究—上原六四郎③。

  前々回(→①・No.2663)に、上原の「結論的叙述」は西洋音楽の五線譜ではなく「12段の枡形のような図」で示されていると書いたが、より正確な描写はつぎのとおり。
 長方形(枡形)が12個積み上げられている。接する箇所を一つの線とすると、下に何もない線(一番下の1個めの長方形の下部の線)から上に何もない線(一番上の12個めの長方形の上部の線)まで、13の横線がある。長方形の中にではなく、それらの線上の6箇所に「1」(一番下の第1線上)、「2」、「3」、「4」、「下5」、「上5」の表記があり、一番上の第13線の上には再び「1」の表記がある。
 一番下の「1」を「ド」とした「5音」音階の並びを、<陰旋>と<陽旋>について、前々回にすでに記載した。
 <陰旋>。
 上行—①ド、②ド♯、③ファ、④ソ、⑤ラ♯、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ソ♯、④ソ、③ファ、②ド♯、①ド。
 <陽旋>。
 上行—①ド、②レ、③ファ、④ソ、⑤ラ#、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ラ、④ソ、③ファ、②レ、①ド。
 これらでの各音の表示は〈十二平均律〉等によるものではないので、誤解も生じ得るだろう。
 ——
 各音の(1に対する)周波数比と各音間の周波数比の比率(間差)が明記されているので、これを紹介する。「下行」の場合も、小さい順に並べる。「⑥2」は秋月が追加した。
 <陰旋>。(p.97-p.98)
 上行—①1、②16/15、③4/3、④3/2、⑤7/4※、⑥2。
 下行—①1、②16/15、③4/3、④3/2、⑤8/5、⑥2。
 (上行⑤※についてはなお後述参照—秋月。)
 「間差」(p.106-7)。「各音間の音程」と称されている(同左)。上行と下行を一括する。
  ①-②16/15、②-③5/4、③-④9/8、④-下⑤16/15、④-上⑤7/6、下⑤-⑥5/4、上⑤-⑥8/7。
 原著p.107は、①を「第一音」と称し、ここでの⑥を「第一音甲」と称している。
 なお、上行⑤7/4※については、以下の旨の叙述がある。p.98。
 「上行第五音」に数種がある主因は流派にある。12/7と7/4は「西京地歌」に9/5は「関東の長歌」に用いられ、「山田流」は三種を「混用」する。但し、「音の一定不変なる楽器」では「上高中の中間」で代えるのが「適度」だ。
 要するに、諸音があって一定していないが、「中間」の7/4を選ぶのが適切だ、ということだと思われる。
 いずれを選ぶかによって、上行⑤の④や⑥との「間差」も変わってくる。p.106-7。
 上行⑤12/7の場合。④-⑤=8/7、⑤-⑥=7/6。
 上行⑤9/5の場合。④-⑤=6/5、⑤-⑥=10/9。
 ——
 <陽旋> (p.101-2)
 上行—①1、②10/9、③4/3、④3/2、⑤9/5、⑥2。
 下行—①1、②10/9、③4/3、④3/2、⑤5/3、⑥2。
 「間差」=「各音間の音程」(p.107)。上と同じく、①を「第一音」と、ここでの⑥は「第一音甲」と称されている。上行と下行を一括する。
 ①-②10/9、②-③6/5、③-④9/8、④-下⑤10/9、④-上⑤6/5、下⑤-⑥6/5、上⑤-⑥10/9。
 ——
  いろいろな数字が出てきた。上原の著での〈西洋音楽〉観や中国・日本での各音の呼称には立ち入らず、表面的な比較考察の結果だけを、とりあえず、示しておく。
 ——
 既述のように、〈十二平均律〉での呼称に似た言葉を使うと、<陰旋>、<陽旋>の並びは、以下のように表現することができた。上行と下行を一括する。
 <陰旋>。
 ①ド、②ド♯、③ファ、④ソ、⑤ラ♯(下行はラ♭)、⑥ド。
 →①ドを「ミ」に替えての上行。①ミ、②ファ、③ラ、④シ、⑤レ、⑥ミ。
 <陽旋>。
 ①ド、②レ、③ファ、④ソ、⑤ラ#(下行はラ)、⑥ド。
 →①ドを「レ」に替えての上行。①レ、②ミ、③ソ、④ラ、⑤ド、⑥レ。
 ——
 以上の「レ」、「ミ」等々はそもそも〈十二平均律〉での呼称に近いものとして選んでいるので、かりに〈十二平均律〉での呼称に従うと、元に戻って同じことになる。
 しかし、〈十二平均律〉では13音の12の「間差」は全て同じ数値であるのに対して、上に見たように上原の言う<陰旋>、<陽旋>での「間差」は大いに異なる。
 ——
 周波数比はつぎのとおりだった、上行・下行を一括する。
 <陰旋>。
 ①1、②16/15、③4/3、④3/2、⑤7/4(下行は8/5)、⑥2。
 <陽旋>
 ①1、②10/9、③4/3、④3/2、⑤9/5(下行は5/3)、⑥2。
 〈ピタゴラス音律〉での「ド」に対する「レ」、「ミ」等々はつぎのとおりだ。この音律での全12音、「7音」音階での周波数比はじつは確言できない(私は説明の仕方に疑問をもっている)のだが、「定説」的なものに従って、上の6音の対1の周波数比を示すと、つぎのようになる。A=上の<陰旋>での①ド〜⑥ドの6音、B=上の<陽旋>での①ド〜⑥ドの6音について、ピタゴラス音律での各音の周波数比を示したもの。
 A/①1、②2187/2048(または256/243)、③4/3、④3/2、⑤128/81(ラ♭)、⑥2。
 B/①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16(ラ)、⑥2。
 ——
 〈純正律〉での「5音」音階については省略する。
 私が頭と計算だけで作り出した「私的」音階の、M、N、Pの三種の「7音」音階+〈12音階〉の元はXとZだったが、そこでの「5音」音階の並びは、つぎのようだった。
 1、(4/3)、(3/2)、2という「3(4)音」のうちの最大の「間差」である4/3を小さい方から(9/8)で分割してXを、大きい方から(9/8)で分割してZを、作ることができた。
 X—①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 Z—①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
 ——
  このように、既存のものとして知られているものの若干(+「私的」音階での途中)と「5音」が一致しているものは一つもない。日本の伝統的音階とされる四種との異同は、「日本の伝統的音階」は別の主題としたいので、ここでは取り上げない。
 しかし、〈十二平均律〉は別として、<陰旋>・<陽旋>、ピタゴラス音律、「私的」なX・Zにおいて、明らかに一致していることがある。
 それは、③と④の数値がそれぞれ全く同じ、ということだ。
 すなわち、第3音=4/3、第4音=3/2
 これらは、第1音を「ド」とすると、それぞれの「ファ」と「ソ」に当たる。
 また、〈十二平均律〉的に言うと「ファ」と「ソ」の二音が(4/3)と(3/2)になるということに限っては、これまでに言及したことがたぶんないが、〈純正律〉でも全く同じだ。
 ----
 この、(3/2)と(4/3)がつねに使われているということは、きわめて感慨深い。
 1とその1オクターブ上の2のあいだに新しい音を設定しようとした古代からの人々がまず思い浮かべたのは、1に対する(2/3)と(3/2)の周波数比の音だろう、と想像してきたからだ((2/3)は容易に「同」音の(4/3)に転化する)。(3/2)と(4/3)の二音を、(1と2に次ぐ)「原初的」な音ともこの欄で称した。
 (3/2)と(4/3)は〈ピタゴラス音律〉での音の設定でも発生するが、この二音は〈純正律〉でも同じく使われる。
 周波数比が2対3または3対4ということは、1または2ときわめて「調和」または「協和」しやすいことを意味する(2との関係では3対4または2対3)。
 古くからヒト・人間はそう感じてきた。日本の人々もまた、おそらく明治期以前からとっくにそうだったのだ。
 ——
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
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  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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