秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2023/08

2670/1892年の日本音階研究—上原六四郎②。

  上原六四郎・俗楽旋律考(岩波文庫、1927。第8刷/1992)
 上原がこの著で示した二種の音階は、この人が考案したものではなく、明治前半期に彼が当時の日本で実際に「聴いた」諸音楽を検討して「発見」した結果の音階だ。
 このことは、「一 緒言」に語られている。
 原文の文語体・旧仮名遣いではない「現代文」化を「一 緒言」について秋月瑛二が勝手に試みると、つぎのとおり。p.29-p.30。一文ずつ改行する。
 ——
 「そもそも世に言う俗楽とは、社会の上流なると下流なるとを問わず、あまねく世間に行なわれる、俚歌、童謡をはじめ、浄瑠璃、端歌、琴歌、謡曲、尺八本曲の類を総称するものである。
 現今にその流派はきわめて多いけれども、その一二を除く他はおおむね同一であり、その発達とともにようやく分岐してきたけれども、曲節はまた相類している。
 しかしとりわけ、都府で行なわれているものと田舎間で行なわれているものとは、大いにその趣味を異にし、あるいは来源が同じではないようにみえる。
 よって、ここでは前者の類を都節と称し、後者の類を田舎節と名づける。
 〈改行〉
 雅楽には呂律等の旋法、西洋音楽(「西楽」)には長短の二音階があって、それぞれその曲節を律している。
 俗楽でもまた、そのような旋法がないはずはない。
 しかしながら、古来これを論ずる者なく、わずかに近時、伊藤脩二、瓜生寅等の両三氏がこれを論じているだけである。
 自分はもともと音楽に精しくはないけれども、明治8年以来少しだけこれの攻究を試みた。
 しかして、自分がもっぱら攻究したのは都節中の俗箏、長歌および京阪地方のいわゆる地歌ならびに尺八の本曲であって、田舎節、謡曲等はわずかにしかこれを玩味していない。
 加えて、すでに講究に年月を費やしたが、なお疑惑の箇所が少なくないので、これを書物に論載するようなことは他日に譲ろうと考えていた。
 しかるに、今回東京音楽学校長村岡範爲馳氏の命があったので、あえていささかこの論説を今日に試みるだけである。
 その足らない所は、怠らず討究して、他日に補うこととする。」
 ——
  もう一つ、「十八 都節と田舎節との関係の事」を「現代文」化してみよう。「陰旋」、「陽旋」という言葉の由来の一端が書かれている。p.86-p.88。
 内容には難しい部分があるが、①「一」とは最も単純には今日に言う「一半音」に当たる(または、近い)と思われる。②「」とは、最初の一定の音、つまり「基音」のことだ(「絶対音」の呼称ではない)。この二点以外は、そのままにしておく。
 「十日戎のように田舎節を都節に変唄し、また沖の大船のように田舎節と都節を混用するものについて、田舎節音階と都節音階との関係を求めると、左図<前回に言及したのと同じ—秋月>のごとくであって、主として両音階の性質を変えるものは、その第二音と下行第五音との位置にある。
 すなわち、田舎節のこれら二音を一律低くすればただちに都節となり、都節のこれらの二音を一律高くすればただちに田舎節になることを知ることができる。
 〈改行〉
 田舎節と都節とにはこのような親密な関係があるがゆえに、これを譜表に示そうとする場合には、かりに田舎節を記入するに*dを宮とするときは都節もまたこれを宮としなければならず、あるいは都節を記入するに*eを宮とするならば田舎節もまたこれを宮とする必要がある。<一文、省略>
 〈改行〉
 田舎節の曲節は都節に比べるとおおむね爽快で、きわめて力がある。
 このことが、ややもすると、その曲節が野鄙に聞こえる理由であって、普通〔平凡〕である弊に陥りやすい。
 これに対して、都節はきわめて柔和な性質をもっている。
 このことが淫猥に傾きやすい原因であって、また普通である弊がこれに伴ないやすい。
 しかして、西洋音楽に長短の二音階があるように俗楽にもまた二旋法があり、両者は全く性質を異にするのだから、自分は、都節の音階に陰旋の名を与え、田舎節の音階に陽旋との呼称を与えて、この区別を試みる。」
 以上。
 ——

2669/私の音楽ライブラリー⑧。

 私の音楽ライブラリー⑧。
 一つを除き、「Yoshiki」名義でuploadされているものの中から選んだ。
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 22 →X Japan, Art of Life 〔Yoshiki〕.

 23 →Yoshiki, Tears 〔Yoshiki〕.

 24 →Yoshiki, Requiem 〔Yoshiki〕.

 25-01 →Yoshiki, Angel 〔Yoshiki〕.
  Yoshiki が歌唱している。

 25-02 →X Japan, Angel 〔X Japan official〕
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2668/西尾幹二批判071—全集第8巻②。

 西尾幹二全集第8巻(2013)の「後記」の第一頁(p.787)には、前回に触れたいくつかの点以外に、注目を惹く文章がある。
 第一に、1980-90年の約10年、「思想家としても、行動家としても、限界までやったという思いももちろんないではない」、とある。
 これは2013年時点の感慨なのか、1990年初頭にすでに抱いたものなのかは明確ではない。
 しかし、少なくとも2013年の時点ですでに、自らのことを「思想家」かつ「行動家」だと書いている。
 秋月瑛二は、2019年1月の文春オンライン上で(私には)「『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家」としての思いがある(だから椛島有三と妥協できなかった)と語った部分が、最初かと思っていた。
 2013年に、何の限定も付けずに、かつ自らの文章で「思想家」(かつ「行動家」)と称していたのだ。
 なお、いつの時点であれ、西尾を本当に「思想家」だと見なしている人は何人いるのだろうか。
 ——
 第二に、「人生で一番よいものの書ける、体力もある充実した歳月に私は教育改革のテーマに集中していた」約10年が経った後について、こうある。一文ずつ改行する。
 「フッと憑きものが落ちたかのように、この世界から離れてしまった。
 そのあと二度とこの種の教育論は書いていない
 日本の教育の行方に絶望したからだともいえるし、教育を考えること自体に飽きたからともいえる。」
 これは、じつに驚くべき文章だ。1990年前半での述懐ならばまだ分かる。
 しかし、西尾幹二はその後、「教育学」研究者の藤岡信勝と出会い、1996-1997年に〈新しい歴史教科書をつくる会〉を設立し(記者会見は1996年12月)、自分が「初代会長」になったのではないか。
 この「つくる会」とその運動は、名称上も「歴史教科書」に関係するもので、日本の「歴史教育」を正面から問題にしていたのではないか。当然に、「教育改革」と関連する。
 それにもかかわらず、いかに「会」とは直接の関係がなくなっていたとは言え、2013年に、1990年初頭以降は「日本の教育の行方に絶望した」または「教育を考えること自体に飽きた」、という旨(こうとしか読めない)を書けるとは、いったいどういう<神経>のもち主なのだろうか。
 この人にとっては、「教科書」も「教育」も大した問題ではなく、これらとは別の次元の「思想」・「精神」または「歴史哲学」に、あるいは自分が「会長」として目立っていて〈有名〉であることに、最も大きな関心があったのかもしれない。
 ——
 第三に、「人生の重要な時間を費やした貴重な体験からもパッと離れ、たちまち遠くなってしまう」ことについて、こうある。
 「ある意味で悪い癖で、私は感動だけを求めていて、これはその後の人生でも繰り返されたパターンである」。
 これは、西尾が「その後の人生」や自己の「癖」について語っていて、興味深い文章だ。
 そして、最も気になる重要な言葉は、「私は感動だけを求めてい」た、という部分だと思われる。
 西尾がそれだけを求めていた(その後でもそうだったとする)「感動」とは何か
 「真実」でも、「正義」でもない、「感動」だ。
 この「感動」は、教育改革に自分の見解が採用された、それに影響を与えた、というものではないだろう。
 そして、教育改革(そのための「臨教審」・「中教審」答申等)をめぐって(当時は2013年時点よりも多様な全国紙を含む)諸情報媒体から、西尾幹二個人の発言または原稿執筆が求められ、西尾の名前が知られ、注目され、〈有名になった〉こと、これこそがこの人にとっての「感動」であったように思われる。
 すでにこの欄に書いたことだが、「真実」、「正義」、「合理」性は、西尾幹二が追求してきたものではない〈有名〉・〈高名〉な「えらい人」と多数の人々に認知されるという「陶酔感」、「感動」を得ることこそが、この人が追求してきた最大の価値だった、と考えられる。
 もちろん、そうした「願望」が実現されたかは、別の問題になる。
 ——
 つづく。

2667/西尾幹二批判070—全集第8巻①。

 西尾幹二全集(国書刊行会)について、「グロテスク」とか「複雑怪奇」と評したことがある。以下の巻に即して、これを見てみよう。
 西尾幹二全集第8巻・教育文明論(国書刊行会、2013。全804頁)。
 ——
  目次を概観し、さっそくに「後記」を見てみる。
 冒頭に、こうある。p.787。
 「『教育文明論』という題で編成した本全集第8巻は、私の45歳から55歳にかけての10年間、…私が情熱を注いだ教育改革をめぐる論考の集大成である」。
 『教育文明論』という単著がすでにあるのではないことが、分かる。
 しかし、上の文章にはすでに、「大間違い」または「ウソ」がある。
 西尾は1935年生まれなので、「私の45歳から55歳にかけての10年間」とは、ほぼ1980年から1990年の10年間を意味しているはずだ。
 しかし、この巻に収載された個々の論考類には、上の範囲を逸脱しているものがある。決して、ごく一部ではない。
 「I 」の中にまとめられている6つの小論考の発表年月は、順に、1974年3月、1976年8月、1978年4月、1978年6月、1979年3月、1979年5月。
 「VI」の中に収められている3つの論考の発表年月は、順に、1991年1月、1993年3月、1995年5月。
 全てが1980年〜1990年の範囲を超えている。なお、「I 」の表題が「…を書く前に…考えていたこと」であることでもって釈明することはできないだろう。「I 」もまた、この「巻」の一部だからだ。
 さらに、上の「後記」冒頭の文章には、驚くべき「大ウソ」がある。
 計16頁ある「後記」の最後の方の15頁めになってようやく、各個別論考、最初に収載した単行本、そしてこの全集との関係についての記述が出てくるのだが—後述のとおり、この点こそ「異様」なのだが—、そこで初めにこう書かれている。
 「…以外の文章を収録した単行本名と各作品名を記すと次の通りである」。
 「…」で記載された文章(単著)は、そのままこの巻に収載した、との趣旨なのだろう。
 「…」の部分に記された単著の名、本巻での符号、当初の発行年月は、つぎのとおりだ。発行年月は「後記」には記載がなく、この巻での最終頁に記されている。
 ①『日本の教育 ドイツの教育』、「II」、1982年3月。
 ②『教育と自由』、「V」、1992年3月
 何と、かつての単行本を単独の「II」・「V」との数字番号を当ててそのまま収録したらしき二つの単行本のうち一つは、「私の45歳から55歳にかけての10年間」に刊行されたものではない。
 また、以下で「C」と略記するものについて、上二つに似た紹介をすれば、こうなる。
 C=『教育を掴む』、「III」の一部と「IV」、1995年9月
 この1995年9月は刊行年でそれに収録した個別論考類の発表年ではない。しかし、これに収録されたと各論考類の末尾に記載された①〜⑤のうち、②〜⑤の発表年は、それぞれ1991年1月、1991年4月、1991年4月、1991年5月だ。
 いずれにせよ、これらも1990年よりも後に書かれている。
 ——
 西尾は、かつての自分自身の書物や文章がいつ書かれて発表されたかをきちんと確認しないままで、「後記」を書いているのだ。「大まかには」、「おおよそ」といった副詞を付けることもなく。
 以上は、西尾幹二の文章は「信頼することができない」ことの、まだ些少な一例だ。
 ——
  西尾は「後記」で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 くどくも、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
 しかし、第一に、こうした趣旨を西尾自身が破っており、「余計な解説」以上のことを彼自身が「後記」で書いている。この点は、別の回で扱う。
 第二に、「そのまま」「素直に」読んで、とか、「いわば10年間にわたる一つの精神のドラマ」だといった文章自体が、2013年時点での、自分のかつての書物や論考についての読者に対する「読み方ガイド」であり、2013年時点での「誘導」になっている。
 —-
  上のことも西尾の自己「全集」観を示していて、重要だろう。 
 だが、全集の読者・利用者が「編集者」に期待するのは、上のような<贅言>をくどくどと記すことではなく、最初に発表した論考、それらを収載してまとめたかつての単行本、この全集の巻での掲載の仕方の関係を、きちんと、丁寧に明らかにしておくことだろう、と思われる。全集の「緒言」・「まえがき」または「後記」・「あとがき」類は、そのためにこそあるべきだろう。
 だが、西尾の「全集」観は、自分の「全集」については、明らかにそうではない。
 ——
 計16頁の「後記」の15頁めを見てようやく分かるのは、この巻に収められている主要部分は上記の二つの単行本であることのほか、ほとんどの文章(「作品」)は三つの単行本にかつて収録されていた、3つだけはこの全集が初めて収録した、ということだ。
 しかし、第一に、これら三著(上記の二著以外)に収録されていたものは全てこの巻にあるのか、それとも別の巻に入っているものもあるのかは、明記されていない。
 かつまた、第二に、これら三著に収録されていたものが、全集のこの巻でどのように配置されているのかは、「後記」のこの箇所では全く記されていない。
 したがって、この巻の読者は、目次と「後記」のこの箇所(p.803-4)を自ら照合させて、かつての収録関係を理解するしかない。
 ①最初に発表した雑誌や新聞等々の特定、②それらをかつて刊行したどの単行本にすでに収録したのかの特定は、一覧表的に明らかにされておくべきだと思うが(それが「全集」の第一の役割だと思うが)、西尾「全集」のこの巻では、なされていない。かつての一冊の著書をそのまま全集の一巻とした例外的場合を除いて、その他の各巻と同様に、<複雑怪奇>な「構造」になっている。この巻での個々の論考等の末尾には、①しか記載されていないのだ。
 ——
 秋月において、この「複雑さ」を解消する作業を行なってみよう。一部についてに限られる。
 「I」、「III」、「IV」はこの巻での番号、「A」、「B」、「C」はかつての単行本(各々、1981年、1985年、1995年刊)、①・②・…はこの巻の「I」等の中の順の番号(この巻にはこれらの数字は目次にもない)。この巻に「初出」のものもある。
 「I 」①〜③→全集に初出。④・⑤→「A」、⑥→「B」。
 「III」①〜⑯→「B」。⑰〜⑳→「C」。
 「IV」①〜⑤→「C」
 以上。
 なお、つぎのコメントが「後記」に付されているものがある。
 「III」③—「(『…』に改題して収録)」。
 これはどういう意味だろうか。「…」の部分はこの巻にはないからだ。
 おそらく、この巻では元に戻したが、「B」に収録したときは「…」と改題した、という意味なのだろう。表題自体が、最初の発表時、過去の単行本時、全集収録時で異なり、「B」でだけ異なる、というわけだ。
 一方、個々の論考類の出典について、全集のこの巻に、それらを掲載した末尾に「改題」と明記しているものがある。
 例、「III」④、同⑤、同⑥、同⑨、同⑬、同⑰。
 これらはおそらく、全集収録時ではなく、上の④〜⑬はかつての単著「B」に収録する際に、上の⑰はかつての単著「C」に収録する際に、「改題」した、という意味なのだろう。
 「改筆」と明記されている場合もある。「III」⑮。
 おや?と感じさせるが、おそらく、全集収録時ではなく、かつての単著「B」に収録する際に「改筆」した、という意味なのだろう。
 全集に収載するときに、かつての「B」で示した出典や「改筆」の旨を、全集時点でも何ら変更なく<そのまま>使って示しているわけだ。
 ——
  以上は、読者・利用者に対する「編集者」としての「親切さ」または「丁寧さ」の欠如だ、と論評できるだろう。「複雑」であり、「紛らわしい」ことの原因になっている。
 しかし、それ以上に<いいかげんさ>を感じさせるところが、「後記」にはある。
 第一に、上に言及した、各論考等とかつての単行本との収録関係に関する箇所(p.803-4)には、<「IV」①〜⑤→「C」>という旨の記載が、いっさい存在しない。
 第二に、この巻の「III」の内容の紹介の一部として、「後記」に、「臨教審の答申が出るたびに『毎日新聞』がそのつどつききりで私の批判的所見を掲載した。四度に及ぶ同紙の答申直後の私の記事を全部収めて、記録としておく」と書いている。p.791。
 これは相当に恣意的だ。なぜなら、まず、「III」の中にはもう一つ(5つめ)の「毎日新聞」寄稿文がある(⑳)。ついで、「III」の中には、「日本経済新聞」と「サンケイ新聞」への寄稿文も一つずつある。さらに、「IV」のなかには、「産経新聞」、「読売新聞」、「朝日新聞」への寄稿文が一つずつある(「IV」③〜⑤)。
 西尾はおそらく、当時に「毎日新聞」に多数寄稿したことを、2013年に振り返って思い出したのだろう。その結果として、他の新聞については「後記」に書かなかったわけだ。
 また、「文藝春秋」と「月刊正論」の名だけ出しているようだが(p.791)、実際には「諸君!」、「中央公論」、「週刊文春」等もあるので、決して網羅的に言及してはいない(言及するか否かは読者・利用者には分からない「恣意」によるのだろう)。
 ——
 ところで、ここでの主題から逸脱することを承知のうえで書くが、この当時に西尾幹二が寄稿した(執筆を依頼された)新聞や雑誌等の名を見ていると、興味深いことに気づく。
 すなわち、政府関係の「臨教審」や「中教審」の答申に批判的だった西尾幹二は、幅広く、多様な情報媒体に登場していた。「毎日新聞」や「朝日新聞」は当時にどういう基本的性格の新聞だったかを詳しく正確には知らないけれども、やはりどちらかと言えば「左翼的」だっただろう。
 このような状況は、1996-97年のいわゆる「つくる会」設立と西尾の初代会長就任後から全集のこの巻発行の2013年頃のあいだにこの人が寄稿した新聞や雑誌等とは、大きく異なっていた、と思われる。
 言い換えると、およそ1980年前後から1990年代の初頭まで、西尾幹二は決して「保守」を謳う評論家ではなかったように推察される。
 「反共産主義」者またはマルクス主義に無知でそれに影響を受けなかった「非共産主義」者だったかもしれないが、この時期の西尾はまだ今日的に言う「保守」を標榜していなかった、と思われる。
 のちの2020年刊の同・歴史の真贋(新潮社)のオビに言う「真の保守思想家」というものとは大きくかけ離れていた、と言ってよいだろう。
 1990年代後半には「保守」の立場を明確にし、「つくる会」会長として協力団体の「日本会議」ともいっときは良好な関係を築いた。
 「私の45歳から55歳にかけての10年間」(「後記」冒頭)を2013年に振り返って、西尾幹二は以上のようなことを全く想起しなかったようであることも、じつに興味深い。
 ——
 つづく。

2666/「ドレミ…」はなぜ「7音」なのか⑦。

 結果としてはほとんど意味をもたせないのだが、行きがかり上、掲載する。
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  XX-01/M、XX-02=ZZ-01/N、ZZ-02/Pとして行なった作業を、XX-03/Q、ZZ-03/Rについても、行なってみよう。
 Q/XX-03について。各音を①〜⑧と表現する。「β」は「(32/27)の2乗根」のことだ。
 Q。①1、②9/8、③(9/8)×β、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦(27/16)×β、⑧2。
 間差は、つぎのとおり。
 Q。①-②9/8、②-③β、③-④β=(4/3)÷(9/8)β=(32/27)/β、④-⑤9/8、⑤-⑥9/8=(27/16)÷(3/2)、⑥-⑦β=(27/16)β÷(27/16)、⑦-⑧β=2÷((27/16)×β)=(32/27)/β=βの2乗/β。
 最大は①-②、④-⑤、⑤-⑥の3箇所にある9/8(=1.125)で、残り4箇所はβ だ。。 
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 R/ZZ-03について。各音を①〜⑧と表記する。「β」は「(32/27)の2乗根」のこと。
 R。①1、②β、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥(3/2)β、⑦16/9、⑧2。
 間差は、つぎのとおり。
 ①-②β、②-③β=(32/27)÷β、③-④9/8=(4/3)÷(32/27)、④-⑤9/8、⑤-⑥β=(3/2)β÷β、⑦-⑧9/8=2÷(16/9)。
 最大の間差は9/8(=1.125)で、3箇所ある。残りの4箇所はβ(=約1.0887)だ。
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  最大の間差は3箇所にある9/8なので、これを二分割しよう。
 そうすると、新しく3音が得られ、10音(11音)音階が形成されるだろう。3箇所全てについて二分割すること以外(いずれかを選択して分割すること)は、考え難い。
 さて、9/8より小さい数値で、これらの方式でこれまでに出てきているのは、β だ。
 そこで、9/8=β×θ、またはθ×βとなるθを求める。(9/8)÷βの計算で求められる。
 これは、1.125/βだが、βはもともと(32/27)の2乘根なので、1.125/約1.0887という計算式になる。答えは、θ=約1.0333になる。
 これを利用することにし、β とθ ではβ を先に置いて計算した結果を示し、かつ小さい順に並べると、こうなる。<>は間差。
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 Q/XX-03。①1—<β>—②β—<θ>—③9/8(②)—<β>—④(9/8)×β(③)— <β>—⑤(9/8)×(32/27)=4/3(④)— <β>—⑥(4/3)×β—<θ>—⑦(3/2(⑤)=(4/3)(9/8)—<β>—⑧(3/2)β—<θ>—⑨27/16(⑥)—<β>—⑩(27/16)β(⑦)—<β>—⑪(27/16)×(32/27)=2(⑧)。
 間差は、β が7箇所、θ が3箇所(=かつて9/8があった3箇所内)。
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 R/ZZ-03。①1—<β>—②β—<β>—③(32/27)—<β>—④(32/27)β—<θ>—⑤4/3=(32/27)×(9/8)—<β>—⑥(4/3)β—<θ>—⑦(3/2)=(4/3)×(9/8)—<β>—⑧(3/2)β(⑥)—<β>—⑨16/9=(3/2)×(32/27)(⑦)—<β>—⑩(16/9)β—<θ>—⑪(16/9)×(9/8)=2。
 間差は、β が7箇所、θ が3箇所(=かつて9/8があった3箇所内)。
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  若干のコメントを付す。
 第一に、Q、Rで10音(11音)音階を作ることができるが、最大の三つの間差箇所を全て二分割するかぎり、8音(9音)音階や9音(10音)音階はできない
 このかぎりでは、M、N、Pの場合と同じだ。
 第二に、M、N、Pで最後に得られる12音は「ドレミ…」という「7音」音階よりもむしろ、十二平均律、純正律、ピタゴラス音律に共通する<計12音>構造に対比できるもので、これらでの12音との差異を考察するのは意味がないわけではないと思われる。しかし、QやRは「10音」(11音)音階であるので、こいうした対照ができない。
 第三に、Q、Rは「β」=「(32/27)の2乗根」という数値を用いるもので、「θ」もこの2乗根を要素としている(θ=(9/8)÷((32/27)の2乗根))。
 この点で、全ての音を通常の整数による分数で表記することのできる純正律、ピタゴラス音律とは性格がかなり異なる。限定的だが、〈平均律〉と似ている側面がある。
 このことから、Q、Rは 「7音」および「10音」音階であることを否定できないが、以下では視野に入れないことにする。
 —- 
  M、N、P、それぞれの「7音」音階—いわば「私的」7音音階—および「12音」については、なお言及しておきたいことがある。
 各音の1に対する周波数比と、あえて1=「ド」とした「ドレミ…」を使った場合のこれらの音階を表記すると、既述のことだが、こうなる。再記する。
 M—①1、②9/8、③81/64、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦243/128、⑧2。
   =ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド。
 N—①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
   =ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド。
 P—①1、②256/243、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥128/81、⑦16/9、⑧2。
   =ド、レ♭、ミ♭、ファ、ソ、ラ♭、シ♭、ド。
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2665/西尾幹二批判069。

 全集刊行の時点での〈加筆修正〉の例は、一見明白ではないものの、つぎに見られるだろう。唯一ではないと見られる。
 西尾幹二全集第17巻/歴史教科書問題(国書刊行会。2018)には、目次上で「二大講演・新しい歴史教育の夜明け」と題された項がある。この巻の第三部・IIの第三の項として位置づけられている。
 一見「二大」の講演録が収載されていると思いきや、目次上ですでに上の題の下に「(一本化)」と記載されている。
 「二つの」講演内容を収載しているのではない。
 実際の掲載箇所の末尾には、つぎのように書かれている。
 「講演『新しい歴史教育の夜明け』(2000年8月21日、狭山市市民会館)と広島原爆慰霊祭記念講演『教科書問題の本質』(2000年7月30日、広島法念寺)を再編集した。」—第17巻p.507。
 これは何を意味するのか。
 表題からすると二つの講演の趣旨・内容は全く同じだとは思えないが、好意」的に解釈すれば相当によく似たものだったのだろう。そして、二つを別々に全集に掲載する必要はない、と判断したのだろう。
 しかし、その場合、上の「二つ」のうち一つだけをそのまま収載し、類似または同趣旨の講演を他に〜でも行なった、と残りのもう一つに関して注記して触れておけば十分だろう。
 しかるに、なぜ「一本化」したのか。
 それは、全集刊行の時点で、つまり講演時から8年後に、二本を併せて「加筆修正」したかったからだ、と考えられる。
 西尾幹二はこれを「再編集」と称することによって、「編集」レベルでの変更にすぎないと理解させたいようだ。これは、相当に愚劣、あるいは些細であれ「卑劣」だ。
 確実に、全集刊行の時点での「加筆修正」が行なわれている。しかも、どのように加筆修正されたかは、読者にはいっさい分からない。
 西尾幹二全集の読者・利用者は、こういうこともあるので、注意しなければならない。
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2664/私の音楽ライブラリー⑦。

 私の音楽ライブラリー⑦。
 ChaconneJ. S. Bach, Partita f. Solo Violin No.2, -V (BWV1004).
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 21-01 Sayaka Shoji, Bach, Chaconne〔lovesayakaori6hiro〕.

 21-02 Itzhak Perlman, Bach, Chaconne.

 21-03 Isabelle Faust, Bach, Chaconne 〔topic〕.

 21-04 Seiji Ozawa: Saito Kinen, Bach, Chaconne〔Bar MUSICA〕
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2663/1892年の日本音階研究—上原六四郎①。

  1892年(明治25年)に執筆が完了した原稿は1895年(明治28年)8月付で「金港堂」から出版された。
 岩波文庫に加えられたのは1927年(昭和2年)で、兼常清佐という校訂者の緒言は、その際に加えられたように推察される。
 上原六四郎・俗楽旋律考(岩波文庫、第8刷/1992)。
 この書物は貴重だ。最近にこの欄で日本独自の音階論はなかったようだと書いたり、三味線・尺八・和琴、長唄・浄瑠璃・義太夫、神道での「祝詞」等々を思い浮かべることなく、寺院での「声明」での音階は仏教界以外に広まらなかったようだと書いたりして、日本の「伝統的」音階や音階論の存在を知らなかったのは、素人とは言え、相当に恥ずかしい。
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  上原六四郎(1848〜1913)という人物の経歴、生涯については今回は省く。
 注目すべきは、この人は、130余年前の1892年の段階で、「日本の音楽」を関心と研究の対象とし、「陽旋」と「陰旋」(「陰陽二旋法」)—長音階と短音階に相当すると見られる—の存在を発見し、それらの音階(「5音」音階)の各音の位置を明らかにし、さらに各音の、一定の音(いわば「基音」)との関係での周波数比まで示していることだ。
 すでにこの欄に書いたが、私の中学生時代の音楽の教科書には、「日本音階」または「和音階」での長調(長音階)と短調(短音階)が、音階の五線譜での楽譜付きで紹介されていた。
 「律音階」、「民謡音階」、「都節音階」、「琉球音階」が日本の「伝統的」音階の四種として挙げられることがある。しかし、私がこれを知ったのは比較的最近のことだ。
 そして、日本音階での四種ではなく長音階・短音階という二種の取り上げ方は、少なくとも結果としては、上原六四郎の研究・考察の結果と符号している。
 現在の(とくに義務教育課程での)音楽教科書の内容を全く知らないが、私の中学生時代の文部省告示「教育指導要領」には、「音楽」教科の内容として、上の四種ではなく、「長音階」と「短音階」の二種だけが明記されていたのだろうと推察される。
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  上原の上の著は三味線の三線での位置から音階や音程の考察を始めていて、私にはほとんどか全く理解できない。
 結論的叙述が、西洋音楽の五線譜ではなく、12段の枡形のような図で示されている。第一音が一番下、最後の1オクターブ上の(第六)音が一番上にくる。数字番号しか書かれていない。
 強引に一番下の第一音を(Cでもよいが)「ド」として、現在に支配的な音・音階の表示方法に倣って各音の位置を表記すると、つぎのようになる(岩波文庫、p.105の図表による)。
 第五音だけが、上行と下行で異なる。
 「陽旋」
 ①ド、②レ、③ファ、④ソ、⑤ラ#、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ラ、④ソ、③ファ、②レ、①ド。
 上原著自体が、「律」音階—「所謂雅楽の律旋」(p.113)—と、この「陽旋」は「全く同物」だと明記している(同上等)。
 この点は、私自身が音階の形成を試みる中で出現した、ド—レ—ファ—ソ—ラ—ドという「5音」音階について記したことがある(各音は上の下行の場合と同じ)。
 これをさらに強引に、第一音を「レ」に替えて表現し直すと、つぎのようになる。
 ①レ、②ミ、③ソ、④ラ、⑤ド、⑥レ。
 下行—⑥レ、⑤シ、④ラ、③ソ、②ミ、①レ。
 これは、上行・下行ともに、かつての教科書上の「長音階」と全く同じだ。
 既述のように、<君が代>は、下行も含めて、この音階による。
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 「陰旋」
 ①ド、②ド♯、③ファ、④ソ、⑤ラ♯、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ソ♯、④ソ、③ファ、②ド♯、①ド。
 これをさらに強引に、第一音を「ミ」に替えて表現し直すと、つぎのようになる。
 ①ミ、②ファ、③ラ、④シ、⑤レ、⑥ミ。
 下行—⑥ミ、⑤ド、④シ、③ラ、②ファ、①ミ。
 これは、上行・下行ともに、かつての教科書上の「短音階」と全く同じだ。
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  上に見た図表において、各段の段差(周波数比)は同一だと考えられているのだろうか。同じ数値で等分されているのが前提ならば、<平均律>になってしまう。
 だが、同一ではない。上原著でますます注目されるのは、各音の周波数比(これは弦の長さの比率でも表示され得る)を明記していることだ。
 次回に、続ける。
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2662/「ドレミ…」はなぜ7音なのか⑥。

 「音階あそび」を続ける。
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  これまでに導き出した1オクターブ内7音(最後を含めて8音)音階は、つぎの五種だった。便宜的に、M、N、P、Q、Rと称する。すでに見たように、XX-02とZZ-01は同じ結果になる。
 M/XX-01。①1、②(9/8)、③(81/64)、④(4/3)、⑤(3/2)、⑥(27/16)、⑦(243/128)、⑧2。
 N/XX-02=ZZ-01。①1、②(9/8)、③(32/27)、④(4/3)、⑤(3/2)、⑥(27/16)、⑦(16/9)、⑧2。 
 P/ZZ-02。①1、②(256/243)、③(32/27)、④(4/3)、⑤(3/2)、⑥(128/81)、⑦(16/9)、⑧2。
 XX-03とZZ-03はβ=(32/27)の2乗根=√(32/27)という数値を使い、分数表記ができないので、同列に扱い難い。いちおうは「7音(8音)音階」に含めつつ、叙述の対象としては後回しにする。
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  さて、新しい音を発見する手がかり・方法にしてきたのは、第一に、各音の間差(周波数比の差異)が最も大きい箇所を見出すこと、第二に、その間差をすでに得ている数値を用いて二分割することだった。2音を二つに分割すれば、新しい1音が得られる。
 最大の間差は、3→5の第一段階では、(4/3)だった。
 最大の間差は、5→7の第二段階では、(32/27)だった。
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 そこで、上の五種の7(8)音音階について、隣り合う各音の間差を求めてみる。最後の音を含めて8音があるので、間差は7箇所で見られることになる。まず、上のM、N、Pについて確認する。
 M/XX-01について。各音を①〜⑧と表現する。
 間差。①-②(9/8)、②-③(9/8)、③-④(256/243)=(4/3)÷(81/64)、④-⑤(9/8)、⑤-⑥(9/8)、⑥-⑦(9/8)、⑦-⑧(256/243)=2÷(243/128)。
 最大の間差は9/8で、5箇所ある。残りの2箇所の③-④と⑦-⑧はいずれも(256/243)だ。
 M①1—<9/8>—②9/8—<9/8>—③81/64—<256/243>—④4/3—<9/8>—⑤3/2—<9/8>—⑥27/16—<9/8>—⑦243/128—<256/243>—②2。
 なお、9/8=W、256/243=h、と略記すると、間差の並びは、WWhWWWh。
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 N/XX-02=ZZ-01について。各音を①〜⑧と表現する。
 間差。①-②(9/8)、②-③(256/243)=(32/27)÷(9/8)、③-④(9/8)=(4/3)÷(32/27)、④-⑤(9/8)、⑤-⑥(9/8)=(27/16)÷(3/2)、⑥-⑦(256/243)=(16/9)÷(27/16)、⑦-⑧(9/8)=2÷(16/9)。
 最大の間差は9/8で、5箇所ある。残りの2箇所の②-③と⑥-⑦はいずれも(256/243)だ。
 N①1—<9/8>—②9/8—<256/243>—③32/27—<9/8>—④4/3—<9/8>—⑤3/2—<9/8>—⑥27/16—<256/243>—⑦16/9—<9/8>—⑧2。
 なお、9/8=W、256/243=h、と略記すると、間差の並びは、WhWWWhW。
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 P/ZZ-02について。各音を①〜⑧と表現する。
 間差。①-②(256/243)、②-③(32/27)÷(256/243)=(9/8)、③-④(4/3)÷(32/27)=(9/8)、④-⑤(9/8)、⑤-⑥(128/81)÷(3/2)=(256/243)、⑥-⑦(16/9)÷(128/81)=(9/8)、⑦-⑧2÷(16/9)=(9/8)。
 最大の間差は9/8で、5箇所ある。残りの2箇所の①-②と⑤-⑥はいずれも(256/243)だ。
 P①1—<256/243>—②256/243—<9/8>—③32/27—<9/8>—④4/3—<9/8>—⑤3/2—<256/243>—⑥128/81—<9/8>—⑦16/9—<9/8>—②2。
 なお、9/8=W、256/243=h、と略記すると、間差の並びは、hWWWhWW。
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  間差についての結論はいずれも、<最大の間差は5箇所ある9/8、残りの2箇所はいずれも(256/243)>だ。
 これまでの新しい音発見の方法は最大の間差を二分割することだったが、ここでは、最大の間差である同じ9/8の箇所が5つもある。
 この9/8を二分割することは、つぎのとおり、不可能ではない。
 これまでに用いてきた数値で9/8よりも小さいのは(256/243)だ。よって、(9/8)=(256/243)×γまたは(9/8)=γ×(256/243)となる「γ」の数値を求めれば、新しい音が得られる(ちなみに、γ=(2187/2048)=約1.0679だ)。
 しかし、五つある(9/8)のうちどの箇所を二分割するか、という重大な問題に直面せざるを得ない。
 そしてまた、ある(9/8)の箇所は二分割し、残りの(9/8)の箇所は二分割しないとすれば、常識的にはきわめて不均衡または無秩序な、一貫性・合理性のない音階になってしまうだろう。
 とすると、五箇所ある(9/8)の間差を全て二分割するしかない、と考えられる。
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  五箇所ある(9/8)の間差を全て二分割すれば、その結果はどうなるか?
 7音(8音)音階に新たに5音が加わって、「12音(13音)」音階が形成されるだろう
 「ドレミ…」7音音階というのは「主要」7音(8音)と「副次」5音との計12(13)音で1オクターブを構成するものだった。
 これに対して、上では、「主要」12音(13音)自体が1オクターブ内の「音階」を構成することになる。
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 五箇所ある(9/8)のうち1箇所、2箇所、または3箇所だけ選んで新しい音を一つ、二つまたは三つ加えて8音(9音)音階、9音(10音)音階または10音(11音)音階を作るようなことは不可能だと考えられる。
 「7音(8音)音階」はこれを生み出した方法を継続して新しい音を発見しようとすると、結局は「12音(13音)音階」になるしかない。「8音(9音)音階」や「9音(10音)音階」はできない。
 以上のことは、<「ドレミ…」はなぜ7音か>の一つの答えになっている、と考える。
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  なお、実際に、計算作業を行なっておこう。なお、乗じる数値に(256/243) とγの二種があり得る場合、つねに(256/243)を先に置くこととする。< >内は間差。

 (1) M①1—<256/243>—②256/243—<γ>—③9/8—<256/243>—④96/81—<γ>—⑤81/64—<256/243>—⑥4/3—<256/243>—⑦1024/729—<γ>—⑧3/2—<256/243>—⑨128/81—<γ>—⑩27/16—<256/243>—⑪16/9—<γ>—⑫243/128—<256/243>—⑬2。
 間差12箇所のうち、(256/243)が7箇所、γが5箇所。
 (2) ①1—<256/243>—②256/243—<γ>—③9/8—<256/243>—④32/27—<256/243>—⑤8192/6561—<γ>—⑥4/3—<256/243>—⑦1024/729—<γ>—⑧3/2—<256/243>—⑨128/81—<γ>—⑩27/16—<256/243>—⑪16/9—<256/243>—⑫4096/2187—<γ>—⑬2。
 間差12箇所のうち、(256/243)が7箇所、γが5箇所。
 (3) ①1—<256/243>—②256/243—<256/243>—③65536/59049—<γ>—④32/27—<256/243>—⑤8192/6561—<γ>—⑥4/3—<256/243>—⑦1024/729—<γ>—⑧3/2—<256/243>—⑨128/81—<256/243>—⑩32768/19683—<γ>—⑪16/9—<256/243>—⑫4096/2187—<γ>—⑬2。
 間差12箇所のうち、(256/243)が7箇所、γが5箇所。
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 これらの数値は、ピタゴラス音律や純正律のいずれかの1オクターブ12音の各数値と全てが同じではない。〈十二平均律〉とは、1、2以外は全て異なる。
 (256/243)=約1.0535、γ=(2187/2048)=約1.0679。ちなみに、〈十二平均律〉での「半音」=12√2=2の12乗根=約1.059463
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 つづく。

2661/西尾幹二批判068—四つの特質。

 西尾幹二について、掲載し忘れのないように、いつか総括的な論評をしておこうと思っていた。私の長期的な生存自体の可能性が曖昧なので、書き忘れたままになるのは避けたい。もう一つ、<日本共産党の大ウソ>シリーズも完了していない。こちらの方も、別に急ぐことにしたい。
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 西尾幹二とは何か。この人が「やってきた作業」、「全仕事」の本質的性格は何か。総括的に論評すればどうなるか。
 2の2乗の4とか3乗の8という数字が好きだから(1000よりも1024の方を「美しく」感じるたぶん少数派の人間だから)、上の点を四つにまとめてみたい。
 第一は、すでに書いた。→「2646/批判66」
 多数の人々に「えらい」、「すごい」と認めさせ、自分に屈服させること。これがこの人の作業の、最大かつ最終の目的だったと思われる。
 単純に「えらい」、「すごい」ではなく、西尾幹二がとくに意識した「ライバル」たちがあって、その者たちよりも「優れている」とできるだけ多数の人々に承認されたい、というのが正確かもしれない。
 この点には立ち入らず、つぎの点に進む。
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 誰でも、自分自身についての何らかの自己イメージ、自己評価、自画像を描いているだろう。そのイメージが他者による自己の評価または「客観的」評価と一致しないことは、よくあることだろう。
 だが、西尾幹二の場合、第二に、<西尾自身による自己イメージと第三者多数によるまたは「客観的な」評価との乖離がきわめて大きい>、と考えられる。これが、西尾幹二の全作業の評価にかかわる基本的特質だ。西尾は「客観的」評価などは存在せず本人の強い主張によって「評価」自体が変動するのだ、と考えているのかもしれないが、この問題にはここでは触れない。
 詳細は省くが、この人は自分は「思想家」だと明言している(正確には対象の一定の限定が付く「思想家」)。西尾幹二本人と、「思想家」だと宣伝して西尾本を売りたい出版社、その編集担当者を除いて、<表向きであっても>西尾幹二は「思想家」だと評価している者は皆無だと思われる。
 むろん「思想家」なる言葉の意味、外延にもかかわる。しかし、西尾幹二自身は、相当に限定された、「優れた」人間にのみ与えられる呼称だと思っているはずだ。
 また、例えばつぎの、この人が書いた2018年の次の文章を引用するだけでも、西尾幹二が関係した「運動」や書物についての自己イメージ・自己評価が、<誇大妄想>という以上の「異様」なイメージであることは明らかだと思われる。なお、以下での「つくる会」運動は、西尾が会長であった時期のものに限られている。そして、①はその時期の著作物は「歴史哲学」上の成果物だと主張しているとみられる。②は、まさに自分の著作『国民の歴史』に関するものだ。
 ①・②ともに、全集第17巻・歴史教科書問題(2018年)「後記」所収751頁。秋月による下傍線の意味については後述。
 ①『国民の歴史』等の「著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう。はっきり言ってこの観点〔おそらく「日本人の歴史意識を覚醒させる」こと—秋月〕を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」。
 ②古代から江戸時代まで「中国を先進文明と見なす指標で歴史を組み立てる」という観念をもつ歴史学の「病理」を「克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えていて、…、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
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 第三に、<意味不明・無知>と表現しておく。この人の作業あるいは仕事は、要するにほとんどは「文章書き」だ。その「文章」はいったい何をしようとしていたのか、じつははなはだ不明だ。また、幼稚な「誤り」も、しばしば看取される。
 性格について言うと、小説や詩等の「創作物」・「フィクション」ではない。では、何かを解明しようとする「学問研究」なのかと問うと、ほとんどが学問研究ではないと考えられる。
 「評論」という名のもとで行なってきたこの人のほとんどの作業の性格は、いったい何だったのだろう。
 別により具体的には言及したい。
 一例だけ上げると、安倍晋三首相退陣直前の西尾「安倍晋三と国家の命運」月刊正論2020年7月号37頁以下は、いったい何を目的とし、何を論じているのだろうか。また、西尾幹二は<保守の立場から安倍政権を批判する」と表紙に明記する書物を刊行したことがあるが(『保守の真贋』2017年)、この2020年7月号の文章では、最後にやや唐突に「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが」という、そのかぎりでは好意的に評価する言葉が出てくる。そもそもの「一貫性」自体が、この人には脆いのだ。安倍政権について、民主党政権から日本を救い、「長期の安定」をもたらしたとの趣旨は、2017年著のどこに出てくるのか。
 「無知」は、すでに「根本的間違い」と題するなどをしてこの欄で何回も取り上げた、西尾幹二の「国際情勢」の認識・判断において顕著だ。再度は立ち入らないが、アメリカより中国はまだましだ、アメリカは中国・韓国の支持を得て日本を攻めてくるだろう旨を、何回も述べていた。<反米>を強調するあまり、アメリカが第一の<敵」であるかのごとき主張を繰り返していた。なお、憲法改正を含む日本の対米自立、自衛・自存を説きながら、<日米安保の解消>をひとことも主張しないという、大きな矛盾すら抱えていた。
 <哲学・歴史・文学>を統一すること、いずれにも偏らないことを理想としてきたと、西尾は述懐したことがある(全集「後記」。—正しくは、同・歴史の真贋(2020、新潮社)「あとがき」後日に訂正した)。これは、いずれも専門にすることができないという「性格」の不明さとともに、いずれの観点からも「無知」であり得ることを、自己告白しているようなものだ。
 以上のことは、西尾幹二がすでに50歳になる頃には、<アカデミズム>の中で生きていくことを諦めたことと、密接な関係があるだろう。
 なお、<意味不明・無知>は迷った末の表現だ。
 <たんなるヒラメキ・思いつきを堂々と活字にしていること>も、第二点とも関連するが、「意味不明」の原因になっていること(実証・論証がなされていないこと)として、ここに含めておきたい。
 また、西尾幹二には「言葉」・「観念」と「現実」の関係について、私から観るとやや<倒錯>している考え方があるように見える。哲学的・認識論的問題に立ち入ることを得ないが、「言葉」・「観念」が生み出されて存在すれば、「現実」自体も変動する、というような考え方だ。「客観」性・「真実」性・「合理」性の存否ではなく、ともかくも「言葉」で強く主張する者が「力」をもつ、といった考え方に傾斜しやすい人ではないか、と思われる。
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 第四は、<大衆蔑視>意識、「ふつうの人々を馬鹿にする心情」を基礎にしていることだ。
 西尾幹二がどれほど十分かつ正確にF・ニーチェの文献を読んでいるかは、疑わしい。
 しかし、「大衆」=「愚民」=「愚衆」と区別される<エリート>、たぶん「超人」あるいは「力への意思」をもつ者、の一人だと、西尾幹二が自分のことを強烈に意識していた(いる)ことは疑いないだろう。
 「この観点を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」との文章は不思議な文章だ。
 まるで「運動の具体的関与者」は「歴史哲学」とは関係がないかのごとくだ。「歴史哲学」という高尚な?価値とは無関係な「運動の具体的関与者」とは会議資料をコピ—して用意したり、理事等に諸連絡を行ったりする「会」の事務職員を含んでいるだろう。
 そして、西尾幹二は、そのような事務職員を「蔑視」または「見下して」いることを、上の文章の中で思わず吐露してしまった、と読めなくはない。
 こういう「大衆蔑視」意識・心情を形成した一つは、東京大学文学部独文学科出身(かつ大学院修士課程修了)という「学歴」にあるのだろう。だが、戦後日本の「教育」や「学歴主義」の問題点が西尾幹二にも現れているようだ。
 たしかに、西尾の世代からするとかなり少数の「高学歴」のもち主かもしれない。しかし、そのことは、自分はきわめて「えらい」、「すごい」<人間>だと認められる(はずだ、べきだ)ということの何も根拠にもならない。
 また、この人は、文章執筆請負を長らく業とした(しかし、国立大学教員という「職」・「地位」を「定年」まで放棄しなかったことも西尾幹二を観察する際に無視できない)。そういう西尾幹二にとって、「先生々々」と呼んで「持ち上げて」くれる戦後日本の出版業・その編集担当者の存在が身近にあったことも、意外に大きいかもしれない。
 この第四は第一の特質とかなり重なっている。また、第二のそれの背景になっている、と考えられる。
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 以上は、秋月瑛二が西尾幹二について描く総括的「イメージ」だ。相互に関連し合っており、今回に詳しく論じたわけでもない。とりあえず、こういう全体像を示しておくと、今回以降のより具体的な、「例証」にもなる文章を書きやすいだろう。
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2660/私の音楽ライブラリー⑥。

 私の音楽ライブラリー⑥。
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 18-01 Schubert, Camille Thomas, Schwannengesang -IV. Ständchen.

 18-02 Schubert, Anne Gastinel, Schwannengesang -IV. Ständchen. 〔Harmonico101〕

 19-01 Brahms, Abbado-WienPO, Hungarian Dance No.4.

 19-02 Brahms, Barenboim-BerlinPO, Hungarian Dance No.4. 〔Irie 1948〕

 20-01 Dvorak, Masur-Leipzig GhO, Slavonic Dance op.20-2.〔EuroArtsChannel〕

 20-02 Dvorak, Ririko Takagi, Slavonic Dance op.20-2.〔高木凛々子ViolinChannel〕
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2659/「ドレミ…」はなぜ7音なのか⑤。

  前回までに作り出す事のできた二種の「5音」音階とは、つぎだ。便宜的に、それぞれX、Zと称しておこう。
 X—①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 Z—①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
 間差の広い箇所に新しい音を設定する。5つある間差の数値は、つぎのとおり。
 X—①②9/8、②③32/27(=(4/3)÷(9/8))、③④9/8、④⑤9/8(=(27/16)÷(3/2))、⑤⑥32/27(=2÷(27/16))。
 最大は32/27で、2箇所ある。残りの3箇所は、9/8。
 Z—①②32/27、②③9/8(=(4/3)÷(32/27)、③④9/8、④⑤32/27(=(16/9)÷(3/2))、⑤⑥9/8(=2÷(16/9))。
 最大は32/27で、2箇所ある。残りの3箇所は、9/8。
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  この最大の(間差が広い=周波数比が最も大きい)32/27を二つの部分に分割しよう。Xでは、②③の間と、⑤⑥の間。Zでは、①②の間と④⑤の間。
 そうすると、32/27は2箇所にあるので、新しい音が二つ増える。そして、既存の5音に加えて、計7音になるはずだ。
 分割方法は無限にあり得るが、つぎの三つの方法を合理的なものとして選択できる、と考えられる。
 まず、すでに9/8という数値を利用していることを参照して、32/27を9/8と残余の部分に分ける方法が考えられる。こも場合は、厳密には二つに分かれる。
 第一に、9/8を先に置き、(9/8)×α=32/27とする。この場合のα=256/243であることが容易に計算できる。
 第二に、9/8を後ろに置き、(256/243)×(9/8)=32/27とする。
 既存の音(の数値)にこれら二つの数値のいずれを乗じるかを決めておく必要があるので、上の第一と第二は区別しなければならない。
 これら以外に第三に、32/27の「中間値」で二つに分割することが考えられる。この「中間値」はもちろん「16/27」ではなく、32/27と64/27の「中間値」である48/27でもない。
 正解は、<2乗すれば32/27となる数値>、すなわち<(32/27)の2乗根>だ。後述もするように、この数値を「β」と称することにする。これを分数表示することはできないし、「無理数」なので、小数化すると無限に数字がつづく。
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  上の三つの方法の順序で、二分割作業を、以下に行なう。結果として計「7音」を得ることができる。その場合の「7音」音階を、便宜的にそれぞれ、XX、ZZと表記しよう。
 第一のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が、32/27だ。
 (1) 9/8(②)×(9/8)=81/64。なお、(81/64)×(256/243)=4/3で、元の③の数値となる。
 (2) (27/16)(⑤)×(9/8)=(243/128)。なお、(243/128)×(256/243)=2で、元の⑥に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(81/64)と(243/128)の二つの数値が得られた。
 元のXの「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの01
 ①1、②9/8、③81/64、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦243/128、⑧2。
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 次いで、第一のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が、32/27だ。
 (1) 1(①)×(9/8)=(9/8)。なお、(9/8)×(256/243)=32/27で、元の②の数値となる。
 (2) 3/2(④)×(9/8)=(27/16)。なお、(27/16)×(256/243)=(16/9)で、元の⑤に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(9/8)と(27/16)の二つの数値が得られた。
 元のZの「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの01
 ①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
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  次に、(256/243)を先に乗じる、第二の方法を採用する。
 第二のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が、32/27だ。
 (1) (9/8)(②)×(256/243)=(32/27)。なお、(32/27)×(9/8)=4/3で、元の③の数値となる。
 (2) (27/16)(⑤)×(256/243)=(16/9)。なお、(16/9)×(9/8)=2で、元の⑥に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(32/27)と(16/9)の二つの数値が得られた。
 Xの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの02
 ①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
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 次いで、第二のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が、32/27だ。
 (1) 1(①)×(256/243)=(256/243)。なお、(256/243)×(9/8)=(32/27)で、元の②の数値となる。
 (2) (3/2)(④)×(256/243)=(128/81)。なお、(128/81)×(9/8)=16/9で、元の⑤に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(256/243)と(128/81)の二つの数値が得られた。
 Zの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの02
 ①1、②256/243、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥128/81、⑦16/9、⑧2。
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  第三の方法は、32/27を、「2乗すれば(32/27)になる数値」で分割する。この「(32/27)の2乗根」を、「β」と簡称する。この方法による場合は、間差の32/27を構成する大小のどちらの数値からβでの乗除を行っても、結果は異ならない。
 なお、この「β」=「(32/27)の2乗根」は1.088662…なので、「9/8」(1.125)よりも小さい。
 第三のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が32/27だ。
 (1) (9/8)×β=(9/8)β。なお、(9/8)β×β=(4/3)。
 (2) (27/16)×β=(27/16)β。なお、(27/16)β×β=2。
 以上で、元の「5音」とは異なる、新しい、(9/8)β、(27/16)βを得られた。
 Xの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの03
 ①1、②9/8、③(9/8)β=約1.225、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦(27/16)β=約1.838、⑧2。
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 次いで、第三のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が32/27だ。
 (1) 1(①)×β=β。なお、β×β=(32/27)。
 (2) (3/2)×β=(3/2)β。なお、(3/2)β×β=(16/9)。
 以上で、元の「5音」とは異なる、新しい、βと(3/2)βを得られた。
Z の元の「5音」にこれらを挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの03
 ①1、②β、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥(3/2)β、⑦16/9、⑧2。
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  これで、最初のXとZの「5音」音階を基礎にして、計6種の「7音」音階を、秋月瑛二なりに作り出すことができた。
 種々の数字・数値が登場しているが、振り返って、重要な数字・数値を挙げると、つぎのとおりだ。
 第一に、4/3と3/2。この二つは古代人もすみやかに気づいた、核となる数字だっただろう。当初はあるいは(3と1/3ではなく)3/2と2/3だったかもしれない。後者の2/3は容易に4/3に転化した。
 第二に、(3/2)÷(4/3)で得られる、9/8という数字。
 私は<ピタゴラス音律での全音>が(9/8)で<ピタゴラス音律での半音>が(256/243)であることをすでに知っているので、(9/8)から出発すればピタゴラス音律での音階と似たものができるだろうと想定はしていた。
 しかし、9/8とは上記のとおり<(2/3)と(3/2)>という原初的二音の間差(周波数比)なのであり、この数字は論理的には必ずピタゴラス音律につながるものではないように思われる。
 第三に、「5音」設定終了の段階で生じた、相互の音の間差のうち最大の間差(周波数比)を示す、「32/27」という数字。
 第四に、(32/27)を二分割する場合に登場した、(32/27)÷(9/8)の結果としての、256/243という数字。
 最後に、(32/27)から生じる、「(32/27)の2乗根」=「β」。
 これらの数字・数値を組み合わせて、六種の「7音」音階ができたわけだ。ピタゴラス音律での計算方法である、3または3/2を乗じつづけて、かつ2の自乗数で除する(「シャープ系」の場合)ようなことをしなかった。
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  正確には、6種ではない。それぞれの音階を、①数値、②1=ド=Cとした場合の十二平均律での近い数値の音(ドレミ)の順に、並べてみよう。第三の方法による場合は除く。
 ①XX01—1、9/8、81/64、4/3、3/2、27/16、243/128、2。
   —ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド
 ②ZZ01—1、9/8、32/27、4/3、3/2、27/16、16/9、2。
   —ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド
 ③XX02—1、9/8、32/27、4/3、3/2、27/16、16/9、2。
   —ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド
  これは②と同じ。「移調」すると、ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラになる。これの並び方を—「移調」することなく—変更すると、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドにもなる。
 ④ZZ02—1、256/243、32/27、4/3、3/2、128/81、16/9、2。
    —ド、レ♭、ミ♭、ファ、ソ、ラ♭、シ♭、ド
  これは、ラ♭がドになるよう「移調」して全体を並べると、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミになる。さらにこれの並び方を変更すると、ド〜ドにも、ラ〜ラにもなる。
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 以下は参考として再び付記。
 ⑤XX03—1、9/8、(9/8)×β、4/3、3/2、27/16、(27/16)×β、2。 
 ⑥ZZ03—1、β、32/27、4/3、3/2、(3/2)×β、16/9、2。
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  検討作業がこれで終わったのではない。
 つぎの問題は、これまでの発想や検討作業の過程を継続して、「8音」音階や「9音」音階を作ることはできないのか、できないとすればそれは何故か、だ。
 <「ドレミ…」はなぜ7音なのか。
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2658/私の音楽ライブラリー⑤。

 私の音楽ライブラリー⑤
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 17-01 Albinoni, Hauser, Adagio.

 17-02 Albinoni, Lara Fabian, Adagio.

 17-03 Albinoni, Copernicus ChamberO, Adagio.〔Music Artstrings〕

 17-04 Albinoni, Band Sinfonica, Adagio.〔Banda National De Ukrania〕
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2657/日本の教育②—学歴信仰の悲劇の例。

 伊東乾のブログ上の記事の一部や、伊東乾・バカと東大は使いよう(朝日新書、2008)の一部を読んだ。後者は、第二章・76頁まで。いずれ言及するだろう。
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 2021/04/06に、→「2334/『知識』・『学歴』信仰の悲劇—山口真由」と題する投稿を行なっている。
 当時の山口真由に関する知識からすれば、修正の必要を感じない、
 但し、2年以上経過した現時点でのこの人に関する論評として的確であるかは、別の問題だろう。
 こう断ったうえで、2021年4月の文章を、(当時もそうだったが)山口ではなく<日本の教育>に関するものとして、以下に再掲する。
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 (以下、再掲)
 ネット上に、山口真由の興味深い述懐が掲載されている。週刊ポスト(集英社)2021年4月9日号の記事の一部のようだ。おそらく、ほぼこのまま語ったのだろう。
 「東大を卒業したことで“自分はダントツでできる人間だ”との優越感を持ってしまったのだと思います。その分、失敗をしてはいけないと思い込み、会議などで質問をせず、変な質問をした同期を冷笑するようになった。東大卒という過剰なプライドが生まれたうえに、失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させることができませんでした」。 
 山口真由、2002年東京大学文科一類入学とこのネット上の記事にはある。
 別のソースで年次や経歴の詳細を確かめないまま書くと、2006年東京大学法学部を首席で卒業、同年4月財務省にトップの成績で入省、のち辞職して、司法試験に合格。
 上のネット記事によると、同は「財務省を退職して日本の弁護士事務所に勤務した後、ハーバード大大学院に留学。そこで『失敗が許される』ことを学び、『東大の呪縛」を解くことができたという」。
 山口真由、1983年年生まれ。ということは、2021年に上の述懐を公にするまで、ほとんど38年かかっている。
 2016年にハーバード大・ロースクールを修了したのだとすると、ほとんど33年かかっている。
 33-38年もかかって、「失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させること」ができなかったことに気づいた、というのだから、気の毒だ。
 東京大学入学・卒業までの年月は除外すべきとの反応もあるかもしれない。しかし、一冊だけ読み了えているこの人の書物によると、この人は大学入学まで(たぶん乳児期を除いて)<東京大学信仰>または<学歴信仰>を持ったまま成長してきている。つまり、少年少女期・青春期を、<よい成績>を取るために過ごしてきていて、「東大卒という過剰なプライド」を生んだ背景には間違いなく、おそらく遅くとも、中学生時代以降の蓄積がある。
 読んだ本は(手元にないが、たぶん)同・前に進むための読書論—東大首席弁護士の本棚(光文社新書、2016)。
 「知識」・「学歴」信仰の虚しさ、人間はクイズに早くかつ多数答えたり、難しいとされる「試験」に合格したりすること<だけ>で評価されてはならない、ということを書くときに必ず山口真由に論及しようと思っていたので、やや早めに書いた。
 正解・正答またはこれらに近いものが第三者によってすでに用意されて作られている問題に正確かつ迅速に解答するのが、本当に「生きている」ヒト・人間にとって必要なのではない。「知識」や「教養」は(そして「学歴」も)、それら自体に目的があるのではなく、無解明の、不分明の現在や未来の課題・問題に取り組むのに役立ってこそ、意味がある。勘違いしてはいけない。
 ーー
 付加すると、第一。テレビのコメンテイターとして出てくる山口の発言は、全くかほとんど面白くないし、鋭くもない。
 <キャリアとノン・キャリアの違いがあることを知ってほしい>との自分の経歴にもとづくコメントとか、サザン・オールスターズの曲でどれが好きかと問われて、<そういうのではなくて、論理・概念の方が好きだったので…>と答えていたことなど、かなり奇矯な人だと感じている。これらの発言は、2016-2020年の間だろう。
 第二。一冊だけ読んだ本での最大の驚きは、「試験に役立つ・試験に必要な知識」を得るための読書と、その他一般の読書をたぶん中学生・高校生のときから明確に区別していたこと。
 大学入学後も、受講科目についての「良い成績」取得と国家公務員試験の「良い成績での合格」に必要な知識とそれらと無関係な(余計な?)知識とを峻別してきたのではないか。
 これでは、<自分の頭で考える>、茂木健一郎が最近言っているようなcreative な頭脳・考え方は生まれない。
 山口真由だけに原因があるというのではなく、その両親や友人、出身高校等、そして「戦後教育」の全部ではないにせよ、重要な一定の側面に原因があるに違いない。
 よってもちろん、こうした<信仰>にはまった人々は、程度や現れ方は違うとしても、多数存在している。
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 (以上で再掲終わり。以下、2023年夏での秋月瑛二の言葉。)
  学校での成績は、そもそもその人間の全体や「人格」とは関係がない。
 「いい高校」入学・出身、「いい大学」入学・出身。これらでもってその個人の「えらさ」が判断されるのではない。
 正答のある、限られた範囲の、第三者が作った「試験」にうまく対応しただけのことだ。
 正解・正答のない、または複数の「解」があり得る現実の社会に役立つことのできる、何の保障にもならない。
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 特定の大学に入学しただけでは、何の意味もまだない。
 特定の大学・学部を「首席」で卒業したとしても、それだけではまだ何の意味もない。
 むつかしいとされる中央省庁にトップの成績で採用されたとしても、まだ何の意味もない。
 この人は、何かの社会的「痕跡」を何ら残すことなく、その中央省庁を辞めてしまった。
 むつかしいとされる司法試験に(外国も含めて)合格しただけでは、まだ何の意味もない。
 この人は、「法曹」資格をどのように社会・世界のために生かしているのだろう。
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  ときにテレビ番組でこの人を観る機会が2021年以降もあったが、「知識人・専門家」枠か、「弁護士」枠か、それとも「女性」枠か。いずれにしても、大したことを語っていない。
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  上に再掲したようなこの人の「読書歴」を読んだときの衝撃は、今でも覚えている。
 女子・男子にはこだわらない方がよいだろうが、私の同世代の女性たちは、全員ではないにせよ、<アンの青春>シリーズとか、M・ミッチェル「風とともに去りぬ」あたりを熱心に読んでいた。後者は高一のときに私も読んだ。
 <人生論>、<青春論>の類を、この人はその「思春期」に読んだのだろうか。
 <学校の勉強や試験に必要な>読書と、それらには役立たない<その他の(無駄な?)>読書に分けることができる、という発想自体が、私にはとても理解できない。
 この人は、大学生時代もそうだったのだろうか。教科書と講義ノートだけ見ていると、他の読書はできなくなるし、サザンの音楽に関心を持つこともできなくなるだろう。
 やや書きすぎの感があると思うので、一般論にしておくが、「合格」すれば」目標を失い、資格・試験に関するつぎの「目標」をさらに求める、という人生は、いったい何だろうか。<合格するという目標>がなくなれば、「生きがい」もなくなってしまうに違いない。
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  山口の生年からして1950年代生まれなのだろうか、この人の両親も<学校に毎日まじめに通い、かつ学校での成績が(とても)よい>といことで満足し、子どもに助言したり注文をつけることをしなかったのだろう。この人の<読書傾向>が問題視されなかったのは、おそらくはその両親を含む大多数の「戦後の親」、広くは「教育環境」に背景があるのだろうと思われる。
 伊東乾とは相当に異なる山口の成育ぶりに、種々の感慨を覚える。
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2656/ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定・第二。

 ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定方法の第二は、3で割り続け、2の自乗数を乗じるという計算を12回行うことだ。
 これを論理的には後からできた「五度圏(表)」を使って表現すると、「反時計(左)まわり」の12音設定方法と称することができる。あるいは、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「下旋回」・「下行」方式とも言える。さらに、論理的には後から生まれた表示方法を用いると、「下降」系の意味での「フラット(♭)系」の12音の設定方法だ。以下、「第二方式」とも呼ぶ。
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  計算結果を示すと、つぎのとおり。基音を⓪とする。①〜⑫が何回めの計算かを示す。関係資料を見てはいるが、過半は秋月瑛二が自ら行なって確認している。
 ⓪1
 ①1x1/3x4=4/3。
 ②4/3x1/3x4=16/9。
 ③16/9x1/3x2=32/27。
 ④32/27x1/3x4=128/81。
 ⑤128/81x1/3x2=256/243。
 ⑥256/243x1/3x4=1024/729。
 ⑦1024/729x1/3x4=4096/2187。
 ⑧4096/2187x1/3x2=8192/6561。
 ⑨8192/6561x1/3x4=32768/19683。
 ⑩32768/19683x1/3x2=65536/59049。
 ⑪65536/59049x1/3x4=262144/177147。
 ⑫262144/177147x1/3x4=1048576/531441
  =2の20乗/3の12乗
 この⑫を小数で表現すると、1.97308073709…となる。2とこの数値の差異で<マイナスのピタゴラス・コンマ>が生じる。1に対する比率は、0.9865036854…だ。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉。
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  上の12音(基音を加えて13音)を小さい(周波数比の小さい=高さの低い)順にならべると、つぎのとおり。小数はほとんどに「約」がつく。
 先立ってしまうが、便宜のために、基音1=Cとして、C〜C'の12音階の今日的表示を、右に付す。「第一方式」、純正律、十二平均律の場合と、基音以外の数値は一部を除いて異なる。「第一方式」とはGもFも異なる。また、C♯=D♭等々が成り立たない。
 ⓪1。C。
 ①(上の⑤)256/243=1.053497。D♭。
 ②(上の⑩)65536/59049=1.109857。D。
 ③(上の③)32/27=1.185185。E♭。
 ④(上の⑧)8192/6561=1.248590 。E。
 ⑤(上の①)4/3=1.333333。F 。
 ⑥(上の⑥)1024/729=1.404663。G♭。
 ⑦(上の⑪)262144/177147=1.479810。G 。
 ⑧(上の④)128/81=1.580246。A♭。
 ⑨(上の⑨)32768/19683=1.664786。A。。
 ⑩(上の②)16/9=1.777777。B♭。
 ⑪(上の⑦)4096/2187=1.872885。B 。
 ⑫(上の⑫)1048576/531441=1.973080。C’ 。
 繰り返しになるが、⑫の小数はより正確には1.97308073709…で、1に対する比率は0.98654036854…だ。1とこの数値の差異を<マイナスのピタゴラス・コンマ>と言う。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉だ。
 <プラスのピタゴラス・コンマ>は約0.0136であり、<マイナスのピタゴラス・コンマ>は約0.0135だ。
 ——
 

2655/ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定・第一。

 ピタゴラス音律の考え方での1オクターブ内12音の設定方法の基本は、一定の音(基音)を1として、これに3を「乗じる」(掛ける)または3で「徐す」(割る)ことを12回し続けることだ。
 その際に、例えば3や1/3ではすでに「1オクターブ内」(1とほぼ2の間)という条件を充足しないので、1〜ほぼ2の間になるように、絶えず2の自乗数で「徐」したり、2の自乗数を「乗」じる
 3→3/2、9→9/8、1/3→4/3、2/3→4/3のごとし。
 ここで、例えば3/4、3/2、3はオクターブは違うが「同じ」音、また例えば1/3、2/3、4/3はオクターブは違うが「同じ」音、ということが前提にされている。
 なぜ12音かという問題にはもう立ち入らない。簡単には、12回めの計算でヒト・人間の聴感覚にとって「現実的な」(1に対する)ほぼ2の数値が得られるからだ。
 ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定方法の第一は、3を乗じ続け、2の自乗数で割るという計算を12回行うことだ。
 これを論理的には後からできた「五度圏(表)」を使って表現すると、「時計(右)まわり」の12音設定方法と称することができる。あるいは、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」・「上行」方式とも言える。さらに、論理的には後から生まれた表示方法を用いると、「上昇」系の意味での「シャープ(♯)系」の12音の設定方法だ。以下、「第一方式」とも呼ぶ。
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  計算結果を示すと、つぎのとおり。基音を⓪とする。①〜⑫が何回めの計算かを示す。関係資料を見てはいるが、秋月瑛二において自ら確認している。
 ⓪ 1。
 ① 3x1/2=3/2。
 ② 3/2x3x1/4=9/8。
 ③ 8/9x3x1/2=27/16。
 ④ 27/16x3x1/4=81/64。
 ⑤ 81/64x3x1/2 =243/128。
 ⑥ 243/128x3x1/4=729/512。
 ⑦ 729/512x3x1/4=2187/2048。
 ⑧ 2187/2048x3x1/2=6561/4096。
 ⑨ 6581/4096x3x1/4=19683/16384。
 ⑩ 19683/16384x3x1/2=59049/32768。
 ⑪ 59049/32768x3x1/4=177147/131072。
 ⑫ 177147/131073x3x1/2=531441/262144
  =3の12乗/2の18乗
 この⑫を小数で表現すると、2.0272865295410156…となる。この端数を<プラスのピタゴラス・コンマ>と言う。1に対する比率は、1.01364376477…だ。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉。

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  上の12音(基音を加えて13音)を小さい(周波数比の小さい=高さの低い)順にならべると、つぎのとおり。小数はほとんどに「約」がつく。
 先立ってしまうが、便宜のために、基音1=Cとして、C〜C'の12音階の今日的表示を、右に付す。「第二方式」、純正律、十二平均律の場合と、基音以外の数値はほとんどについて異なる。 
 ⓪ 1 。C。 
 ①(上の⑦)2187/2048=1.067871。C#。
 ②(上の②) 9/8=1.125。D。
 ③(上の⑨)19683/16384=1.201354。D#。
 ④(上の④)81/64=1.265625。E。
 ⑤(上の⑪)177147/131072=1.351524。F。
 ⑥(上の⑥)729/512=1.423828。F#。
 ⑦(上の①)3/2=1.5。G。
 ⑧(上の⑧)6561/4096=1.601806。G#。
 ⑨(上の③)27/16=1.6875。A。
 ⑩(上の⑩)59049/32768=1.802032。A#。
 ⑪(上の⑤)243/128=1.898437。B。
 ⑫(上の⑫)531441/262144=2.027286。C’。
 繰り返しになるが、⑫の小数はより正確には2.0272865295410156…、1に対する比率は1.01364376477…で、この端数を<プラスのピタゴラス・コンマ>と言う。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉だ。
 ——

2654/「ドレミ…」はなぜ7音なのか④。

 以下の一部ずつだけを読んだ。衝撃的に面白そうだ。
 ①小泉文夫・日本の音—世界のなかの日本音楽(平凡社文庫、1977)。
 ②小泉文夫・歌謡曲の構造(平凡社文庫、1996)。
 小泉文夫、1927〜1983。元東京芸術大学教授(民族音楽)。
 日本の音楽・音階についてこの欄に既に記述したことは、書き直しが必要になりそうだ。
 →「2635/<平均律>はなぜ1オクターブ12音なのか②」で、日本の古歌も「西洋音楽」の楽譜で表記され得ることは「西洋音楽」の「広さ・深さを感じさせる」と書いたが、「西洋音楽」を高く評価しすぎかもしれない。
 また、→「2652/私の音楽ライブラリー④」で1963年の「恋のバカンス」は「画期的だった」と(むろん主旋律だけでなく前奏・伴奏を含めての)素人的印象を語ったが、これも単純だったかもしれない。
 すでにこの項の「③」で「律音階」に触れており、今回も「民謡音階」に言及するが、日本の伝統的音階が叙述の主対象ではない。このテーマは、別途、上の小泉文夫著等をふまえて扱いたい。
 このテーマは、「日本音楽」とは何か、「日本民族」とは何か、「日本とは何か」という大きな問題に関連しそうだ。「日本語の成立」過程に関する問題とも、少しは類似性がある。
 ——
  さて、この項の<「ドレミ…」はなぜ7音なのか>は「西洋音楽」での1オクターブ12音をふまえた「ドレミ…」の7音構造の背景に関心をもつものだ。
 1オクターブ内での4/3と3/2の「発見」による1、4/3、3/2(、2)の3音構造の成立に続く9/8と27/16の設定による「5音」音階の成立まで、私ならばどのようにして音階を作るか、を叙述してきた。
 だが、このように迂回しつつ、「西洋」の「ドレミ…」の音階が7音(最後のドを含めて8音)で構成されざるを得なかったことを、「証明」することができる可能性がある、という見通しをもっている。
 ---
  「5音」からさらに数を増やすことを急がず、立ち止まってみよう。
 前回に9/8と27/16を新たに加えたが、それは1×(9/8)と(3/2)×(9/8)の計算結果の採用による。1-(4/3)、(3/2)-2、といういずれも4/3または3対4という広い間差(周波数比)の間に、「小さい」方の数値に9/8を乗じたものだった。
 だが、4/3および2という「大きい」方の数値から9/8だけ小さい数値を計算することによっても、新しい二つの数値が得られるはずだ。次もように、それぞれの「大きい」数値に8/9を掛けることでよい。
 (4/3)×(8/9)=32/27。2×(8/9)=16/9。
 これら二つを1、4/3、3/2、2という「3音」構造に挿入して小さい順に並べると、以下のようになる。
 Z①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
 これは、前回に記した「5音」(最後を含めて6音)音階の数値と異なっている。前回に記したのは、つぎだった。
 X①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 このX は、前回に記したように、今日の〈十二平均律〉の場合に近い音を選んで1=ドとして表現すると、「ド・レ・ファ・ソ・ラ・ド」だ。そして、伝統的音階のうち雅楽に使われる「律音階」にきわめて類似している。
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  上のを、今日の〈十二平均律〉の場合に近い音を選んで1=ドとして表現し直すと、つぎのようになる。
 「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」。Xの②と⑤よりもこのZの②と⑤の方が数値が大きいこと(かつその割合は同じだろうこと)は、設定の仕方からして当然のことだ。
 念のための確認すると、つぎのとおり。
 Z②(32/27)÷X②(9/8)=256/243。(=ミ♭とレの間差)
 Z⑤(16/9)÷X⑤(27/16)=256/243。(=シ♭とラの間差)
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  ところで、興味深いことだが、Zの5音(6音)音階の「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」=「C-E♭-F-G-B♭」は、日本の伝統的音階のうち、「民謡音階」に相当する、と見られる。
 日本の伝統的音階として四つを挙げること、そして各音階をどう説明するかには、あるいは一致がないのかもしれない。
 ここでは、ネット上で前回に触れた「律音階」とともに「民謡音階」についても以上の叙述と同じ説明をしているサイトを挙げ、その説明を一部抜粋引用しておく。冒頭で記した小泉文夫の著も結局は同様なのだが(というより、小泉の説の影響を受けているように見られるが)、今回は小泉著には直接には触れない。
 →「文化デジタルライブラリー」
 民謡音階—「わらべ歌や物売りの声、日本民謡の中でよく使われている…」。「楽譜の通り、…『ド—♭ミ—ファ—ソ—♭シ—ド』で構成されます」。
 律音階—「『律』という言葉は、中国から入ってきました」。「楽譜の通り、…『ド—レ—ファ—ソ—ラ—ド』で構成されます」。
 →「メリー先生の音楽準備室」
 「民謡音階の構成音は、ド、ミ♭、ファ、ソ、シ♭の5音。わらべ歌や日本の民謡の多くで、この音階が使われています。」
 「律音階で使われている5つの音は、ド、レ、ファ、ソ、ラです。中国から伝来した音楽の基本的な音階で、雅楽にも用いられています。」
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 さらに追記すると、「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」=「C-E♭-F-G-B♭-C」をド→その下のラ、C→その下のAへとそのまま「移調」すると、つぎのようになり、「♭」記号は消える。
 「ラ・ド・レ・ミ・ソ・ラ」=「A-C-D-E-G-A」
 「ラ」を主音とする、今日にいう7音(8音)の<短調音階>のうち、「ファ」と「シ」が欠けている。
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  こうして、二種の「5音」音階を作ることができた。
 次回に、「7音」音階に接近してみよう。

2653/池田信夫のブログ030-03。

 (つづき)
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 第三。「内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、ひとつのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している」。
 「必要なのは法律をモジュール化して個々の法律で完結させ、重複や矛盾を許して国会が組み替え…」。
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 現在(2023年8月1日時点)に有効なものとして「e-Gov 法令」に登載されているのは、一つの名称(表題)をもつ一本ずつを数えて、法律2120政令2288府省令4161、計8569。
 他に、政令としての効力を今でももつ「勅令」71、国家公安委員会・公正取引委員会、海上保安庁等々の「規則」433。これら504を加えると、総計・9074。上の政府サイトによる。
 およそ10000本(1万本)と理解して、大きな間違いではない。
 これらの中には「民法」、「刑法」、「民事訴訟法」、「刑事訴訟法」、「商法」、「会社法」等々も含まれている。したがって、全てではないが、「ほとんど」、おそらくは95パーセント以上が、「行政諸法」だろう。
 なお、以上には、地方公共団体の「条例」と「規則」は含まれていない。47都道府県・全市町村の「条例」等の総数は旧自治省の総務省が把握しているかもしれないが、公表・情報提供されているのかどうか。
 地方公共団体のこれらは、<ほぼ全て>が「行政」関連だと考えられる。地方公共団体は、「民法」や「刑法」、各「訴訟法」の特別規定(特則)を定める権能を有しない。
 政令や府省令は上位の1本の法律のもとに体系化できるはずだが、一つの法律の下に政令が1つだけ、府省令が1つだけでは通常はないだろう。「府令」とは、内閣総理大臣に策定権限がある「内閣府令」のことをいう。
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 「行政法規」である法律に限っても、諸法律が錯綜していることは顕著なことだ。池田信夫の言う「スパゲティ化」の正確な意味は不明だが。
 有名なのは都市計画法分野で、「都市計画法」という法律は一般的に「建築基準法」と連結している。同法にいう「都市計画」の内容や策定手続の特則定める、「都市計画法」から見れば「特別法」にあたる「都市再生特別措置法」、「文化財保護法」、「明日香特別措置法(略称)」等々もある。同じく「都市計画法」から見れば「特別法」にあたるが、同法にいう「都市計画事業」に関して定める「土地区画整理法」、「都市再開発法」等々がある。
 これらを概観するのは、ほとんど不可能だ。一冊の書物が必要になる。安本典夫・都市法概説第三版(2017)参照。
 都市計画法という名前の法律は国土交通省(旧建設省)所管で、関係諸法令に詳しい職員がいるはずだ。それでも関連諸条項の全てを知っているはずはない。まして関連「通達」類を熟知しているはずがない。
 全「行政」諸法に詳しいのは法律(内閣提出のもの)と政令を事前に「審査」する内閣法制局の職員だろうが、担当する分野が区分されており、また長期にわたって担当するのでもない。
 したがって、日本の<行政諸法>・「行政法規」の内容の全体に関する知識をもつ者は、かりに全てについて「ある程度」であっても、日本の中に誰一人存在しない。
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 分かりにくいのは確かだが、「重複」は別としても、「矛盾」があれば問題で、その矛盾は発生が防止され、あるいは事後に是正・解消される必要があるのではないだろうか。
 「法治主義」ではなく「法の支配」原理に立つと池田信夫が理解するアメリカやイギリスで、法律または法令間の「矛盾」は公然と承認されているのだろうか。一般論としては、なかなか想定し難い。
 もっとも、イギリスでは三国(国?、イングランド・ウェールズ・スコットランド)ごとに議会があり、アメリカには各州法があるので、連邦法とそれらの間、または諸州法相互の間に「差異」が存在するのはむしろ自然で、適用法令の発見自体が司法部(・判例)に委ねられるのかもしれない。
 ドイツ、フランスのこともよく知らないが、日本では、「矛盾」が正面から承認されることはないと思われる。
 しかし、何らかの特殊な事案が発止して、「矛盾」が明らかになることはあるだろう。但し、その場合、とりあえずは、適用条項の「選択」・「発見」の問題として処理される可能性が高い。
 「矛盾」しているか否かがときに重要な法的問題になるのは、国の法律(+法令)と、「法律の範囲内」でのみ制定可能な(憲法94 条参照)地方公共団体の「条例」との間の関係だ。独自に土地利用や建築を規制しようとする条例と都市計画法・建築基準法等との関係など。
 一般論としては「矛盾」は許容されず、法律に違反する条例は、違法・無効だ。だが、「違反」しているか否かの判断が必ずしも容易ではない。「地方自治の本旨」(憲法92条)に反する法律の方が違憲で無効だ、という議論を始めると、ますますそうなる。
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 池田信夫の問題関心は、「法治主義」と「法の支配」の違い、<レガシーシステム>からの脱却、<モジュラー>化しての弾力的?運用、「最終的判断は司法に委ねる法の支配への移行」にあるのだろう。
 したがって、今回に以上で書いたことも、そうした関心に対応していないことは十分に承知している。
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  いつか書こうと思っていたのは、「法学」という学問分野の特性だ。経済学と異なり、諸「文学」とも異なる。
 法令類の有効性を前提とした<法解釈学>の場合、「真実」の発見が目的なのではない。「正しい」・「正しくない」という議論も、厳密には成り立ち難い。法的主張、法学説それぞれの間での決定的な「差異」は、裁判所、とくに最高裁判所の判決によって支持されているか否かだ。
 「正しい」解釈が最高裁判例になっているのではない。逆に、最高裁判所の判例になっている法学説こそが「正しい」という語法を使うことは(きっと反対が多いだろうが)不可能ではない。
 では、最高裁判例とは何か? 科学の意味での「真実」ではない。社会管理のために立法者が定めた基準類を具体的事案に適用するために必要な「約束事」を、立法者の判断を超えて示したもの、とでも言えようか。
 裁判所、とくに最高裁判所の判決という「指針」、「手がかり」のあること、これは<法(解釈)学>の、経済学等々とのあいだの決定的な違いだ、と考えられる。
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ギャラリー
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