秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2023/07

2652/私の音楽ライブラリー④。

 私の音楽ライブラリー④。
 日本の<ポピュラー音楽>または<J-POP>はすでに世界的レベルに達していて(但し、下の16追のコメントも参照)、あえて欧米のポップスを渉猟するような時代遅れのことをする必要はない、と考えられる。
 GHIBLI=宮崎駿のアニメ映画=久石譲の音楽という等式が成り立つのかは、宮崎映画を一つも真面目に観ていないのだから全く自信はない。だが、久石譲の音楽は世界の多くの人々の心を捉えているようだ。「専門」教育を受けている久石譲は国際標準の知識と技量をもつとともに、どこか「日本的」な味わいの旋律を作る。たいていを、好ましく感じている。

 13 美空ひばり「東京キッド」1950年〔Mei Wang〕。
 作詞/藤浦洸、作曲/万条目正。
 美空ひばりはこのとき、「専門的・音楽教育」を受けていない。楽譜も読めず、第三者の歌唱かピアノ演奏でこの歌を覚えたのではないか。
 聴いた音楽・旋律を自分の身体と喉で再現し、かつ自分らしく歌唱することに、この人はすこぶる長けていたに違いない。

 14 ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」1963年〔H. Shigeoka1〕。
 作詞/岩谷時子、作曲/宮川泰。
 1960年前後に平尾昌章(昌晃の旧名)らの「ロカビリー」が流行していたが、アメリカからの直輸入だったと思われる。
 単純な旋律の坂本九「上を向いて歩こう」(中村八大作曲)の世界的ヒットとほぼ同時期に、この日本製楽曲が登場した。私は、画期的だった、と感じている。
 この曲は決して「日本的」でなく、国際的な普遍性をもっていたと思われる。作曲者の宮川泰は、クラシック以降の欧米の種々の旋律を知っていて、それらにinspire されていたのだろう。

 15 ペギー・マーチ「忘れないわ」1969年〔HKD Japan〕
 作詞/山上路夫、作曲/三木たかし。
 日本人作詞・作曲の曲を、外国人少女が歌い、ある程度はヒットした。この女性の日本語は、ほとんど違和感がない。

 16 井上あずみ「君をのせて」in 天空の城ラピュタ1989〔hamuhamu aki〕。
 久石譲・作曲。歌詞・宮崎駿。
 「地球はまわる 君をのせて
  いつかきっと出会うぼくらをのせて」
 この歌詞は〈ナショナリズム〉ではない。人種・民族等に関係なく、ヒト・人間は一つの地球の上で生きている。
 「父さんが残した熱い想い
  母さんがくれたあのまなざし」
 親に対する想いは、人種・民族等に関係なく、きっと相当に普遍的だ。 

 16追 森麻季「Stand alone」NHK『坂の上の雲』2009主題歌〔Soprano Channel〕。
 「うじゃうじゃした」または多数の女の子や男の子の合唱?曲に接していると、こんな歌が聴きたくなる。久石譲・作曲、作詞・小山薫堂。
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2651/池田信夫のブログ030-02。

 (つづき)
 第二。「ルールもほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ…」。「省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義…」。
 これらのフレーズから生じ得るイメージは、(官僚が実質的にはつくる)「法令」によって、またはそれらにもとづいて「行政」は行なわれている、というものではないだろうか。
 法律でもって「法令」を代表させれば、「法律による行政」または「法律にもとづく行政」というイメージだ。
 あるまだ若い憲法研究者から、行政は全て「法律」に根拠をもって行われている(はず)でないのか、と問われて驚いたことがある。
 これは誤解だ。実際にはそうではない。また、こちらの方が重要だが、日本(および諸外国)の憲法学、行政法学、ひっくるめて「公法学」で、全ての「行政」が議会制定法規という意味での「法律」によって根拠が与えられかつ制約されてなければならない、とは考えられていない(余談だが、立憲民主党議員の中には素朴かつ幼稚な<国会・行政>関係のイメージをもっている者がいるようだ)。
 「法律による」や「法律にもとづく」の意味によって多少は異なってくるが、しかし、重要なことは、「法令」=「行政法規」と無関係の、または「法令」=「行政法規」上の多少とも具体的な規定が存在しない「行政」が実際には存在する、ということだ。
 全ての行政が「憲法」に違反してはならない。<関連行政法規>が存在すれば、全ての行政はそれに違反してはならない。これらは間違いではない。
 しかし、上の後者は<存在していれば>の叙述であって、<関連行政法規>が存在しないならば、「違反」することもあり得ない。
 あえて単純化していうと、具体的な行政には、つぎの二つがある。
 ①憲法—法律—政令・省令等→行政。
 ②憲法—予算—配分基準を定める「通達」類→行政。
 法律または条例がなく、正確には多少とも具体的な規定のある法律・条例がなく、あっても「責務」規定、行政「目的」規定だけがあり、別途財源措置だけが「予算」によってなされていて、その一定の額の財源の配分先・金額の上限、交付・助成決定にいたる「手続」等が「行政法規」に定められておらず、「通達」類(<内部的>だが「公表」されていることも多い)が定めている、そういう「行政」がある。
 池田信夫も用いている言葉である「業法」というものがある行政分野ではない。
 定着した概念はないと思うが、手段に着目すれば「補助金行政」であり、目的に着目して「助成」行政とも言える。社会保障分野に多いかもしれない。だが、特定の産業、起業あるいは研究・開発を誘発・誘導しようとするものもある。
 池田信夫がよく用いている「裁量」という語は、本来は、①の行政の場合に行政法規に制約されつつも行政担当者になおも認められる「自由な判断・選択の余地」を意味する。当然に、広狭があり得る。
 だが、広くは②でも使われ得る。もともと行政法規による「制約」がなく法令との関係では「自由」なのであり、憲法とせいぜい「法の一般原理」に制約されるだけだからだ。
 ところで、上につづくとして、「関連行政法規」がなく、「予算」上の財源措置とも無関係な「行政」もあるだろう。現実にも存在すると思われる。
 この分野ではしかし、「法令」によらないでそんなことをしてよいのか、そもそも「(公)行政」ではないのではないか、という「国家」・「行政権」の存在意義に関わる深遠な(?)問題が生じることもあると考えられる。
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 さて、関連して想起してしまうのは、<行政指導>という「行政手法」だ。
 「お願いベース」という言葉が、コロナ対策に関連しても使われた。
 お願い、要請、奨励、指導。全て「法的」拘束力はない。これらは、「行政法規」が正規に国民あるいは「私人」に要求する以上のことを「求める」。上の①の行政でもあり得る。②の行政では、これらはもともと「セット」の一部のようなものだ。
 しかし、これらに国民・「私人」が従えば、正確には「任意に」従えば、「お願い」行政もまた現実化する。あるいは、<機能する>。
 反コロナワクチンを打たれる際には、あれこれのことに「同意」する旨の署名が求められていた。だが、医学上の専門用語を使った「副反応」等の説明をいったい何%の人々が「十分に」理解して「任意に同意」して(署名して)いるのか、と感じたものだ。
 諸外国と比べての相対的な意味でだが、「任意」性の曖昧さ、「意思」の曖昧さこそが、そしてその点を利用?して行なわれる<行政指導>、「お願い」、「要請」の盛行こそが、英米の他に仏独とも異なる、日本の「行政スタイル」の特徴の一つではないだろうか。
 この問題は、簡単には論じ尽くせられない。
 なお、<行政指導>概念には特定の様式に関する意味は付着していない。文書によることも、メディアを通じることもあり、個別に「口頭」で行われることもある。
 行政手続法という法律(1993年第88号)は、口頭による場合の一定の「行政指導」について、相手方私人の文書(書面)交付請求権を認めている。一種の「文書主義」だ。
 行政手続法35条第3項「行政指導が口頭でされた場合において、その相手方から前二項に規定する事項を記載した書面の交付を求められたときは、当該行政指導に携わる者は、行政上特別の支障がない限り、これを交付しなければならない」。
 その他、35条全体、32条〜36条の2も参照。「行政指導」は、一般的・世俗的用語にすぎないのではなく、ここに見られるように、法律上の(法的)概念だ。
 これ以上は立ち入らない。
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2650/池田信夫のブログ030—官僚機構・日本の行政。

 池田信夫ブログマガジン2023年7月24日号。
  この号にある、フランクフルト学派(アドルノ、ホルクハーイマーら)と啓蒙・合理主義の関係に関する叙述も興味深いのだが、秋月瑛二にとって面白いのは、<名著再読「Cages of Reason」>の中の文章だ。
 最初にある、英米法と大陸法、英米型と日仏型の官僚機構の違いは1993年の原本著者の、日本についての研究者でもあるらしいSilberman の叙述に従っているのかもしれない。
 だが、「日本の官僚機構は『超大陸法型』」という中見出しの後の文章は、池田信夫自身の考えを述べたものだろう。
 以下、長くなるが、引用する。一文ごとに改行。本来の段落分けは----を挿入した。
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  「日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティックな超大陸型だという。
 ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。
 法律は『業法』として縦割りになり、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに作られる。
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 このように省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義という点では、日本の統治機構は法治主義である。
 これはコンピュータのコードでいうと、銀行の決済システムをITゼネコンが受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。
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 しかも内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、一つのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している、
 一つの法律を変えると膨大な『関連法』の改正が必要になり、税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で10以上のパーツを別々に担当する担当官が10数人ずらりと並ぶという。
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 こういうレガシーシステムでは、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があるが、これはコンピュータでいえば、デバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。
 優秀な官僚のエネルギーの大部分が老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。
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 問題はこういう官僚機構を超える巨視的な意思決定ができないことだ。
 実質的な立法・行政・司法機能が官僚機構に集中しているため、その裁量が際限なく大きくなる。
 国会は形骸化し、政治家は官僚に陳情するロビイストになり、大きな路線変換ができない。
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 必要なのはルールをモジュール化して個々の法律で完結させ。重複や矛盾を許して国会が組み換え、最終的な判断は司法に委ねる法の支配への移行である。
 これは司法コストが高いが、官僚機構が劣化した時代には官僚もルールに従うことを徹底させるしかない。」
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  学術研究論文の一部として書いたものではない、印象、感想にもとづく提言的文章だろう。
 だが、テーマは重くて、多数の論点に関係している。
 これを素材にして、思いつくまま、気のむくまま、雑文を綴る。
 第一。「ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め…」。
 法律の重要な一つである刑法について、法務省?の「解釈通達」はない。刑法施行政令も法務省令〈・国家公安委員会規則)もない。法律の重要な一つである民法をより具体化した、その施行のための政令も省令もない。民法特別法の性格をもつことがある消費者保護関係法律には、関係省庁の「解釈」または「解説」文書があるかもしれない。かりにあっても、民法とその特別法の最終的解釈は裁判所が判断する。
 池田信夫が念頭に置くのは、雑多な<行政関係法令>だろう。つまり、「行政」執行を規律する「法令」だろう。<行政法令>を適用・執行するのは(あとで司法部によって何らかの是正が加えられることもあるが)先ずは「行政官僚」・「行政公務員」あるいは中央省庁等であることが、行政諸法が刑事法や民事法と異なる大きな特色だ。
 その<行政法令>・<行政関係法令>を、私は「行政法規」と称したい。
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 「行政法規」は、法律、政令、省令に限られない(憲法典は除外しておく)。
 伊東乾はかつて団藤重光(元最高裁判事、東京大学教授)と交流があって「法的(法学的)」思考にも馴染みがあるようだ。そして、いつか、「告示」で何でも決められるものではないと、「告示」の濫用を疑問視していた。安倍晋三の「国葬」決定の形式に関してだったかもしれない。
 発想、着眼点は正当なものだ。だが、「告示」を論じるのはむつかしい。ここでは、「告示」には、「法規」たるものと、たんに<伝達・決定>の形式にすぎないものの二種がある、とだけ書いておく。
 学校教育法33条「小学校の教科に関する事項は,第29条及び第30条の規定に従い,文部科学大臣が定める」→学校教育法施行規則(文部科学省令)52条「小学校の教育課程については,この節に定めるもののほか,教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする」。
 こんな包括的で曖昧な根拠にもとづいて「学習指導要領」が文部科学大臣「告示」の形式で定められている。そして、最高裁判所判例は「学習指導要領」の「法規」性を肯定している。中学校・高校にはそれぞれ同様の規定が他にある。<日本の義務教育の内容>は、この「告示」によって決められている。
 教科用図書(教科書)「検定」についても似たようなもので、省令でもない「告示」が幅をきかし、最高裁判所も「委任」・「再委任」のあることを肯定し、その「法規」性を前提にしている。
 「都市計画」その他の一般的に言えば<土地利用・建築の規制のための「地域・地区」指定行為>の法的性格も怪しい。最高裁判所判例は都市計画の一類型の「処分」性(行政事件訴訟法3条参照)を否定しているので、そのかぎりで、「法規範」に類したものと理解していると解される。
 以上のほか、地方公共団体の議会が制定する「条例」や知事・市町村長の「規則」もほとんどが「行政法規」だ。条例には、法律(または法令)の「委任」にもとづくものと、そうでない「自主条例」とがある(憲法94条参照)。
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 これら「行政法規」に行政官僚は拘束される。但し、その原案を「行政官僚」が作成することがほとんどだろう。法律ですら、内閣の「法律案提出権」(内閣法5条参照)を背景として、行政官僚が作成・改正の任に当たっていることは、池田信夫が書いているとおり。
 なお、日本国憲法74条「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする」
 これは、興味深い、かつ重要な憲法条項だ。
 法律・政令には「主任の国務大臣」が存在し、それの「署名」のあとで「内閣総理大臣」が「連署」すると定めている。憲法は「法律の誠実な執行」を内閣の職責の一つとするが(憲法73条第一号)、法律・政令の「所管(主任)の国務大臣」の責任が実質的には「内閣総理大臣」よりも大きいとも読める憲法条項であって、各省庁「縦割り」をむしろ正当化し、その背景になっている(ある程度は、明治憲法下からの連続性があるだろう〉。
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2649/私の音楽ライブラリー③。

 バイオリンという楽器は、演奏がとてもむつかしそうだ。左右両手は全く別の動きだし、ギターにある「フレット」なしで音程を決める必要がある。
 弦を押さえる左指先の位置で音程が変わることは、伴奏や交響楽団つきではない、つまりソロ・「独奏」でならば、〈十二平均律〉以外の音律で、例えばピタゴラス音律や純正律等で音程を調整できることを意味する。練習と訓練次第で、不可能ではない。そうでなくとも、バイオリン協奏曲(Violin Concerto)の場合は背後の音よりも目立たせるために少し高めに「弦を押さえて」弾くことがある、と何かで読んだことがある。
 さて、下の10の日本人少女、村田夏帆の演奏は「見事」ではないか。
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 09 Hilary Hahn, Bach, Sonata f. Violin Solo No.1 in D-minor -4.Presto (BWV1001)。

 10 Natsuho Murata, Saint-Saens, Introduction & Rondo Capriccioso op.28〔International Music & Arts〕。

 11 Sayaka Shoji, Sibelius, Violin Concerto in D-minor (Israel PhO)。

 12 Julia Fischer, Tchaikovsky, Violin Concerto in D (France Radio PhO)〔Classical Vault 1〕。
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2648/「ドレミ…」はなぜ7音なのか③。

 伊東乾には笑われそうだが、「音階あそび」を続けよう。
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  1オクターブの間に、どのように諸音を設定するか。
 基音を1、その1オクターブ上を2とすると、1と2の間にどのような周波数比の音を選定するか。
 これを、1オクターブ12音とか<ドレミ…>の7音音階とかの知識なく行なえばどのようなことになるだろうか。
 もっとも、1オクターブ12音以外に、なぜ「音階」(または「調」)というものが必要になったのか、「調」の長調と短調への二分はどういう意味で自然で合理的なものなのかは、じつは根本的な所ではまだ納得し得ていないのだが。
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 前回に記したように、3/2、4/3の二つの数値が容易に得られて、1・4/3・3/2・2の3音(最後を含めて4音)音階が得られる。
 一定の弦の長さを1/2にして周波数(振動数)を2倍にすると1オクターブ高い音になる。これを古代の人々が知ったならば、つぎに行なったのは、その一定の弦の長さを1/3または2/3にすることだっただろう。すると、周波数比は3倍、3/2倍になる。そして、1と2の間に、3/2と4/3の数値が得られる。
 なお、弦の長さを3/2倍、2倍、3倍…と長くしていくのは実際には必ずしも容易ではないだろうが、一定の長さの弦の下に支点となる「こま」を置くことによって、周波数(振動数)を3倍、3/2倍等にすることがきる。そのような原理の「モノコード」という器具は、—日本列島にはなかったようだが—紀元前のギリシアではすでに用いられていたと言われる。
 この3/2と4/3の設定までは、結果としてピタゴラス音律や純正律と同じ。
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  ①1、②4/3、③3/2、④2。
 これらの間差は、①-②が4/3、①-③が3/2、①-④が②。
 そして興味深いことに、またはしごく当然に、②-④は3/2(2÷(4/3)=6/4=3/2)で、③-④は4/3(2÷(3/2)=4/3)だ。
 あと一つ、明らかになる数字がある。9/8だ。
 すなわち、(3/2)÷(4/3)=9/8。②-③が9/8だ(③-②は8/9)。
 この9/8を「素人」は利用しようと考える。
 上の4つの音の間の3つの間隔のうち広いのは、①-②と③-④の、いずれも4/3だ。
 この4/3を二つに分割しよう。その際に容易に思いつくのは、①の9/8倍、③の9/8倍の音を設定して、上の二つの間隔をいずれも二つに分割することだ。
 得られる数値は、1×9/8=9/8と、(3/2)×(9/8)=27/16。
 この二つを新たに挿入して、低い(周波数比の小さい)順に並べると、つぎのようになる。
 ①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 これで、5音音階(最後を含めて6音音階)を作ることができた。
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  ところで、面白いことにここで気づく。
 先入観が交じるのを避けるために「ABC…」とか「ドレミ…」という表現を避けてきているのだが、上の5音(6音)音階は、①1を「ド」として今日的に(〈十二平均律〉の場合の数値に近いものを選んで)表示し直すと、こうなる。
 ド・レ・ファ・ソ・ラ(・ド)。=C-D-F-G-A(-C)。
 これは、日本の伝統的音階の一つとされる<律>音階(・旋律)と同じだ。この「律」音階は「雅楽」の音階ともされ、日本固有というよりも、大陸中国の影響を受けた音階だとも言われている。
 余計ながら、現在の天皇の即位の礼をかつてテレビで見ていて、古式の「雅楽」の旋律や、たなびく(漢字が記された)幟によって、「和」風というよりも「漢」風を私は感じた。先日のG7サミットでも宮島で「雅楽」が演奏されていたが、「雅楽」というのは、平安時代の「みやび」とも室町時代の「わび・さび」とも少し違うような気が、私にはする。日本のとくに天皇家または「朝廷」に継承されてきた音楽ではないだろうか。
 さらに進むと、上の5音(6音)音階は、日本国歌・君が代の音階でもあるようだ。
 〈十二平均律〉の影響をすでに受けた叙述になるのだが、上の「ド·レ·ファ·ソ·ラ·ド」(C-D-F-G-A-C)は、「一全音」ずつ上げると(=ここでは各音に9/8を掛けると)、♯や♭を使うことなく、同じ周波数比関係を維持したまま「レ·ミ·ソ·ラ·ド·レ」と表現し直すことができる(D-E-G-A-C-D)。「レ」が「主音」になる。
 私が中学生時代の音楽の教科書には、この「レ·ミ·ソ…」は「日本音階」(または「和音階」)での<長調>だと記述されていた。「ミ·ファ·ラ·シ·レ·ミ」が<短調>だった。
 「君が代」の旋律の「レドレミソミレ…」は、まさに日本音階の<長調>であり、近年に知った言葉によると、「雅楽」の音階である「律」音階(旋律)そのものだと思われる(但し、上行ではなく下行の場合は「レ·シ·ラ·ソ…」と「ド」が「シ」に変わる「理屈」は私にはよく分からない)。
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  ともあれ、9/8を利用して、5音(6音)音階ができた。数の上では、あと二つで、「ドレミ…」と同じ7音(8音)音階になる。
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2647/伊東乾のブログ001—「正しい解答」なき問題の思考—日本の教育①。

 一 伊東乾の文章は、ネット上のJBpressで興味深く定期的に読んでいる。
 私よりかなり若くて、参考にもなる刺激的な文章を書く。「学歴」等々の無意味さを<日本の教育>に関して述べたいのだから矛盾してはいるが、この人の経歴と現職には驚かされる。
 東京大学理学部物理学科卒業、現職は東京大学教授で「情報詩学研究室/生物統計・生命倫理研究室/情報基礎論研究室」に所属。作曲家・指揮者でもあり、『人生が深まるクラッシック音楽入門』(幻冬社新書、2012)等々の書物もある。
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  比較的最近のものに、2023年6月29日付「タイタンの乗客をバラバラにした深海水圧はどれほど脅威か」がある。
 これによると、水深2.4キロで240気圧が乗員・乗客を突然に襲ったとすると、「ぺちゃんこになる」どころか、おそらく「瞬時にしてバラバラ」になり、「海の藻屑となって四散した」だろう、という。
 関連して想像したくなるのは、その死者たちは自分の「死」を意識する余裕があったのかだ。たぶん、意識する「脳・感覚細胞」すら、「瞬時に」破壊されたのだろう。
 マスメディアでは報道されないが、「死」または「死体(遺体)」については、楽しくはない想像をしてしまうことが多い。
 だいぶ前に御嶽の噴火で灰に埋まった人々がいて、中には翌年以降に発見された遺体もあったはずだが、その遺体はどういう状態だったのだろう。
 知床半島近くの海に船の事故のために沈んでまだ「行方不明」の人々もいるはずだが、彼らの「遺体」はどうなっているのだろう。同じことは、東日本大震災のときの津波犠牲者で、まだ「行方不明」の人々についても言える。
 まだ単純な家出と「行方不明」ならばともかく、ほとんどまたは完全に絶望的な「行方不明」者について、「遺体」またはせめて「遺品」でも見ないと、「死んだという気持ちになれない」というのは、理解することはできても、生きている者の一種の「傲慢さ」ではなかろうか。
 2011年春の東日本大震災のあと一年余りあとに、瓦礫だけはもうなくなっていた(そして病院・学校の建物しか残っていなかった)石巻市の日和山公園の下の海辺を、自動車に乗せてもらって見たことがある。このときの感慨、不思議な(私の神経・感覚の)経験は、長くなるので書かない。
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 三 2023年6月23日付は「東大程度が目標の教育なら日本は間違いなく没落する」という、種々の意味での「東大」関係者には刺激的だろう表題だ。
 伊東乾が言っているのは、おそらく、正解・正答のある問題への解答ばかり学習して身につけた「知識」では役に立たない、あるいは「1945年以降の戦後教育が推進し、ある意味、明治~江戸幕藩体制期に先祖返りしていま現在に至る先例墨守、前例遵守の思考停止で共通の唯一正解しか求められないメンタリティ、能力とマインドセット」に落ち込んではダメだ、ということだ。
 そして、「正解がない問題ではない複数の正解がありうる問題に、より妥当な解を目指して漸近していく、そういう知性」が求められる。「19世紀帝国大学的な唯一解教育の全否定」が必要だ。「人々の意識の底に潜む唯一の正解という亡霊を一掃」する必要がある。
 このような旨の主張・指摘は、東京大学出身者である茂木健一郎がしばしば行なっている。特定大学名を出してのテレビ番組や同じくその番組類での出演者の「学歴表示」を、この人は嘲弄している(はずだ)。
 同じく東京大学出身者である池田信夫の印象に残った言葉に(しごく当然のことなのだが)、<学歴は人格を表示しない>旨がある。
 また、池田は<学歴のシグナリング機能>という言葉を、たぶん複数回用いていた。
 これらに共感してきたから、伊東乾の文章も大きな異論なく読める。
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  だが、「学歴」または「出身大学」意識は、日本社会と人々に蔓延していそうだ。いずれ書くが、「早稲田大学(第一)文学部卒」というのを、一つの重要な価値基準とする者も(とくに出版業界隈には、桑原聡等々)いるらしい。
 しかし一方で、「大学教育」というものはほとんどの大学と学部で「すでに成立しなくなっている」こともまた、多くの人々にとって(大学教員にすら)自明のことだと思われる。 
 その「大学教育」を形だけは目指して、高校(・中学校)や予備校・塾での「教育」と「学習」が行なわれているのだから、こんなに「無駄」、「人的・経済的資源の浪費」であるものはない。
 「大学授業料」無償化と叫ぶのは結構だとしても、そのいう「大学」での教育・学習の実態を無視した「きれいごと」の議論・主張では困る。
 とりあえず、第一回。
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2646/西尾幹二批判067。

  1965年に三国連太郎主演で映画化された『飢餓海峡』の原作者は、水上勉だ。この原作は、1962年に新聞で連載され、1963年に加筆されて単著化、1969年に文庫化されたようだ。だが水上勉はこの小説への「思い入れ」が深かったようで、のちに<改訂決定版>を書き、没後の2005年に刊行された。
 新聞または週刊誌に連載された当初の発表原稿が単著になったり文庫化されたりするときに加筆修正されることは、珍しくはないのだろう。 
 水上勉『飢餓海峡』の場合、単著になるときに加筆修正されていることは明記されていたはずだし、のちの<改訂決定版>も、このように明記されて出版された(所持している)。
 松本清張全集や司馬遼太郎全集(文藝春秋)に収録された諸小説類は、これらの全集は生前から逐次刊行されていたこともあって、新聞・週刊誌での発表原稿か、すみやかに単行本化された場合はその単著を「底本」としていたと思われる。三島由紀夫全集(新潮社)の場合は、全集刊行の事前に本人の「加筆修正」があったはずもない。
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  当初の発表原稿が単著化される、または単著の一部とされて出版される場合に「加筆修正」があるならば、その旨が明記されることが必要であって、通常の著者や出版社はそうしているだろう。
 さらに厳密に、「加筆修正」の箇所や内容もきちんと記載されることがあるかもしれない。
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 雑誌に発表した文章をその他の文章とともに単著化するに際して、<加筆修正した>旨を明記することなく、実際には「加筆修正」している例が、西尾幹二にはある。
 たまたま気づいたのだが、『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』(徳間書店、2017)と、その一部として採用されている「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)
 上の前者は6部に分けられて「書き下ろし」と既に発表したものの計18の文章で成っているようだ(18なのか、例えば20を18にまとめているのかをきちんと確認はしない)。
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 こういう場合、「初出一覧」を示す一つの頁を設けて、どの雑誌・新聞の何月(何日)号に当初の原稿は発表した旨を一覧的に示すものだが、西尾幹二『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』には、そういう頁はない。
 そうではなく、本文と「あとがき」の間に小さい活字で、「オリジナル」以外の「初出雑誌、並びに収載本は各論考末にあります」とだけ書かれている。すでに別の単行本になっているものの一部も転載されているようだ。
 それはともあれ、「各論考」の末尾をいちいち見ないと、その文章が最初はいつどこに発表されたかが、分からないようになっている。
 少なくとも、親切な「編集」の仕方ではない。
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  「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)は、は「II」の「五」に収録され、その末尾にカッコ書きで「(『WiLL』2016年9月号、ワック)」と記載されている(p.110)。
 但し、A・雑誌発表文章とB・上の単著収録文章には、若干の差異がある
 第一。タイトル・副題自体が同じでない。Aは「安倍首相への直言・なぜ危機を隠すのか—中国の脅威を説かずして何が憲法改正か、首相の気迫欠如が心配だ」。
 Bでは、「安倍首相、なぜ危機を隠すのか—中国軍機の挑発に対して」。
 第二。小見出しの使い方が同じではない。
 Aには「中国の非を訴えるべきだ」と「米中からの独立」が二つめと最後にあるが、Bにはこれら二つがない。
 第三。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、明らかに文章が変わっている。「修正」されている。
 「軍事的知能が落ちた」という小見出しの位置を変更した辺り、Aでは「…いかに現実のものとなっているかがお分かりいただけると思います」(雑誌p.60)、Bでは「今やいかに現実のものとなっているかは、考えるヒントになろうかと思います」(書籍p.108)。
 第三の二。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、単著化の際に明らかに付け加えられた文章がある。「加筆」だ。
 Aの「安倍首相への直言、…」は、「…。アメリカと中国の両国から独立しようとする日本の軍事的意志です」で終わっている(雑誌、p.61)。
 これに対してBの「安倍首相、なぜ…」は、上のあとで改行して、つぎの二段落を加えている。
 「中国軍機の挑発をいたずらにこと荒立てまいと隠し続ける日本政府の首脳は、国民啓発において立ち遅れてしまいました。…〔一文略—秋月〕。
 意識を変えなければなりません。やるべきことはそれだけで、ある意味で簡単なことなのです。」
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  このような不一致、および「加筆修正」を問題視しなくてよい、そうする必要はない、実質的に同じだ、趣旨を強化しているだけだ、と擁護する向きもあるだろう。
 しかし、決定的に問題なのは、上のようなことが(他にもあるかもしれないが)「ひとことの断わりもなく」、「加筆修正した」と明記することもなく、単著化の段階で行なわれている、ということだ。
 何の「断わり」も「注記」もないのだから、単著『保守の真贋』の読者は、各文章の末尾に付された雑誌類と同じそのままの文章が掲載されていると思って読むだろう。
 これは一種の「ウソ」で、「詐欺」だ。一部であっても全体の一部なのだから、ある文章の全体を単著化の時点で黙ったままで「書き直した」に等しい。
 そして、このような「加筆修正」等が<全集>への収載の時点で行なわれていない、という保証は全くない。
 著者・編集者が、西尾幹二だからだ。
 元の文章を明示的に修正しなくても、西尾自身の「後記」によって後から趣旨の変更を図るくらいのことは、「知的に不誠実な」西尾幹二ならば行ないかねないし、行なっていると見られる。
 当初の(雑誌・新聞等への)発表文章、単著化したときの文章、全集に収録された文章、これらの「異同」等に、読者は、あるいは全く存在しないかもしれないが、西尾幹二文献に「書誌学」的関心をもつ者は、注意しなければならない。
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2645/高森明勅のブログ③—2023年6月11日。

 一 高森明勅の2023年6月11日付ブログ。
 この記事は「旧宮家系男性」が現存するのは「久邇・賀陽・竹田・東久邇の4家」としたうえで、こう書く。
 「なお、これらの諸家は…、全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)である。
 ところが、現在の皇室典範では“一夫一婦制”を前提として、皇族の身分を厳格に嫡出・嫡系(正妻に出自を持つ系統)に“限定”している(皇室典範第6条)。
 よって、非嫡系の男子に新しく皇族の身分を認めることは、制度上の整合性を欠くとの指摘がある(大石眞氏)。
 「現行法が採用する強い嫡出制原理との整合性という点から考えると、『皇統に属する男系の男子』がすべてそのまま対象者・適格者になるとするのは問題であろう」(大石氏、第4回「“天皇の退位等に関する皇室典範特例法に対する附帯決議”に関する有識者会議」〔令和3年5月10日〕配布資料)
 この指摘を踏まえると、(仮に「門地差別」や当事者の意思などの問題を一先ず除外しても)旧宮家系男性に「対象者・適格者」は“いない”、という結論になる(非嫡系の旧宮家が、現行典範施行後、皇籍離脱までの僅かな期間〔5カ月ほど〕、皇族の身分を保持できたのは、典範附則第2項の“経過規定”による)。」
 以下、秋月の文章。これで、旧皇族系男性の皇族復帰(・養子縁組)が法的理屈上ほぼ不可能であり、絶望的であることは「決まり」だ。後記のことを考慮すると、正確には「ほとんど決まり」。
 秋月が気づくのが遅れたので、上の資料上の大石眞の文章をもう少し長く抜粋的に引用しておく。
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 皇室典範特例法附帯決議有識者会議(2021年5月10日)・配布資料3—大石眞。
 皇族数の減少をもたらす「制度上の潜在的な要因」がある。養子縁組ができないこと(典範9条)、「明治典範とは異なって(旧典範4条参照)、三后を除いて皇族であるためには、すべて『嫡出の皇子』と『嫡男系嫡出』の皇孫・子孫とされて嫡出原則が強く求められ(典範6条)、庶出・庶系の者はすべて排除される」こと、婚姻により皇族女子が「皇族を離脱」するとされること(典範12条)、の三つだ、
 「とくに皇位継承という面から見ると、嫡出制原理のもつ意味は大き」い。
 継続的な継承資格者確保のための「立法論としては、(1) 「皇統に属する男系の男子」、及び、(2) 『嫡出』である皇族」という要件の「いずれか又は両方を緩和することによって、その範囲の拡大を図るほかはない」。
 このうち、「(2) の庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」。この点から考察すると、「皇庶子孫の皇位継承」を明治典範は認めたが(旧典範4条)、そこには夭折する皇子が多かったこと、光格・仁孝・孝明のほか明治天皇や嘉仁親王(のち大正天皇)も皇庶子だったこと、という事情がある。「我が国の庶出を断たざるは実に已むを得ざるに出る者なり」(旧典範4条義解)なのだった。
 「現行典範の制定過程では、嫡出子に限ると皇位継承資格者を十分に確保できないのではないかとの懸念が示された。しかし、立案者側は、『庶出子は正しい系統ではない』とする国民の間における『道義心』を理由に庶出・庶系を外したと説明している。しかも、いわゆる正配・嫡妻のほか側室を正面から認めるような国民意識の乏しい現在では、上記(2) の嫡出要件を外す途は建設的な議論といえない」。
 「そのため、結局、上記(1) の男系・男子要件を外すことにより皇位継承資格者の拡大を図るしかない」。
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 この大石眞の見解と、「旧宮家系男性」は「全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)」だとの高森明勅の認識が結びつくと、「旧宮家系男性に〔皇族「復帰」・皇位継承の〕「対象者・適格者」は“いない”」との高森の結論となる。
 「庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」ので秋月も十分に意識していなかったが、大石の見解は妥当と思われる。
 旧皇族の後裔者が現存していても、現皇室典範の<嫡出原理>もとでは、「皇族」化するのはきわめて困難であり、かつ現典範上のその原理を廃止するのは現実的・建設的ではない、ということだ。
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  しかし、上は厳密には、現皇室典範のレベルでの議論だとも思われる。
 そこで、これまでの議論にやや奇妙な思いももってきたので、この機会に、若干のことを付言したい。憲法レベルでの議論は完全に尽くされているのだろうか。
 第一。数年前に青山繁晴ら自民党国会議員有志が男子に限っての旧皇族(の後裔たち)の皇族「復帰」を目指す提言(または法案)を発表したとき、不思議に思ったのは、当該旧皇族個々人の「同意」・「合意」が必要であることを前提にしていることだった。
 西尾幹二も、「皇族」となる意思のある旧皇族(の子孫)はいるかと、竹田恒泰に訊ねていたことがある(二人の対談書で)。
 しかし、将来に皇位を継承する(=天皇となる)か否かが「皇族」化に関する当事者の<意思>に依存するというのは、つぎの意味で適切でない、と考える。
 世襲たる天皇位はその「血統」を理由として継承される。ときどきの、または関係個々人の「意思」によるのではない。「皇族」化に同意した者には皇位継承の可能性が開かれ、同意しない者にはその可能性は一切なくなる、というものではないだろう。
 「同意」を要件とするのは、一方的・強制的でなく「合意・同意」にもとづいて穏便に、という戦後の「風潮」に合致し、つぎに触れるが、一般国民となっている者の「人権」に配慮しているのかもしれない。
 第二に、国民の一部の「皇族」化は、—上で出てくる高森の表現では—「門地による差別」であって憲法上絶対に許されない、と言い切れるのかどうか、なおも疑問とする余地がある。高森はこの点を疑っていないようだが。
 全ての「人権」も、「平等取扱い要求」も、絶対的なものではなく、「公共の福祉」による制限を課し得ることは憲法自体が許容している(この点に一般論としては争いはない)。
 問題は、制限する、問題に即してより具体的に言えば国民の一部を一方的(・強制的)に「皇族」化して「身分」を変更し「自由」を制限することを正当化することができるだけの「公共の福祉」はあるのか、その「公共の福祉」とはいったい何か、だ。
 このように問題を設定しなければならないのではないか。
 その「公共の福祉」として考えられるのは、現憲法も「価値」の一つとしている<天皇位>の保持だ。つまり、<安定的・継続的な皇位就任資格者の数の確保>だ。
 これが個々の一定の国民を「門地により差別」し、「平等」には取り扱わない根拠・理由になり得るならば、そのための(一方的な)法律策定・改正もまた憲法上許容される、と考えられる。
 このような議論をしてほしいものだ、と感じてきた。
 こう書いたからといって、上の具体的な「公共の福祉」を持ち出すことによる憲法上の正当化ができる、と秋月は主張しているのではない。
 男系天皇制度護持を強く主張する者たちこそが、「同意」要件などを課さずに、こういう議論をし、こういう「論法」を採用すべきだ、と感じてきただけだ。<男系天皇の保持>はこの人たちにとって、日本国家の存立にかかわる、絶対的な「公共の福祉」ではないのか。
 「国民意識」や国民の「道義心」を理由として<嫡出原理>の廃止は困難だとする大石の議論の仕方も参照すると、結論的に言って、法律(典範)改正等による一定範囲の男性国民だけの「皇族」化は、世論の支持を受けず、法的にも<安定的な(男性皇族による)皇位継承>という「公共の福祉」による正当化を受けそうにないと思われる。
 したがって、結論は、おそらく高森明勅と異ならない。
 なお、以上のようなことはすでに誰かが書いているかもしれない、と弁明?しておく。
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2644/西尾幹二批判066。

  西尾幹二全集は完結したのだろうか。最後の方は購入をしなくなったので知らない。また、全ての単著および発表論考を、そのまま、全集に収載したのだろうか。
 日本会議批判を含む『国家と謝罪』(2007)・『保守の怒り』(2009)等や『皇太子様への御忠言』(2008)は全集にそのまま忠実に収録されているのだろうか。
 いかほど売れているのだろうか。しばしば自著の販売部数に触れてきた西尾幹二は、<全集>の売れ行きも気になるに違いなく、概数を知っているだろう。人文社会系書籍でも大学等の研究機関や公立図書館が購入してくれるので最小限のある程度の部数は捌けると聞いたことがある。これ以外に、西尾幹二全集を「個人で」金を払って購入している人はいったい何人いるのだろうか。
 真剣に思うのだが、100人もいるのだろうか。
 多くの読者、いや所持者は、西尾幹二から「無償で」送付されているのではなかろうか(そして、ろくに読んではいない)。
 <西尾幹二批判>を書き続けつつ、こんな人物を論評しても意味がないという虚しさも感じる。本人が思っているのとは異なり(あるいは本人も深いところでは悟っているかもしれないように)、西尾幹二とは「まともに相手にする必要のない」、またはごく少数のマニアからを除いて、本当は「まともに相手にされていない」人物なのだ。
 だが、いっとき渡部昇一や八木秀次等々に比べて西尾幹二は「ましな保守」論客だと勘違いしていた「恥ずかしい」経験が私にはあるので、その「負い目」をなおも意識せざるを得ない。
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  より本格的な分析・検討は別に行ないたいが、<西尾幹二全集>は、日本の「全集」出版史上、稀に見るグロテスクなものになっていると思われる。実質的な編集者の西尾幹二本人のもとで小間使いをさせられている(いた)国書刊行会の「編集」担当者は気の毒だ。
 三島由紀夫全集(新潮社)には評論類や私的「手紙」まで収載され、じつに詳細な索引まで付いている。
 三島由紀夫全集と比較すること自体が無謀あるいは愚昧なのかもしれない。
 西尾幹二は、自らの詳細な「年譜」とともに、「公にした」文章(①新聞・雑誌論考、②それらを中心にまとめた単著、③収載した(はずの)<全集>)の「差異」を、自ら詳細かつ明確に記しておくことができているのだろうか。「索引」(可能ならば人名と事項の二種)を付す「誠実さ」はあるのだろうか。
 とりあえず分類した上の①・②・③は基本的には同じはずであり、少なくとも③の段階では「加筆修正」はもはや存在しないだろうと理解するのが常識的だと見られる。常識的な読者はそう理解して読むだろう。しかし、全集の各巻発行の時点で西尾は「加筆修正」しているのではないか、との疑いを拭うことができない。
 具体的指摘は別にするが、西尾は、かつての二つの文章(講演記録だったかもしれない)を、<全集>の段階で一つの文章に「合成」していたことがある。実質的には同じだという釈明をすることはできない。<全集>の段階で元の文章を書き直しているのと同じだ。
 個々の文章の「加筆修正」ならば全体には直接には波及しないかもしれない。
 しかし、編集者・西尾幹二にとって「好ましい」ように各巻が配置され、現在の西尾にとって「好ましい」ようにかつての文章が選ばれている。そして、かつては同じ一つの単著の中の文章だったものが、全集段階で別の巻に分散して収められていることもある。上の②の時点での「あとがき」やその当時の第三者による「書評」が収載されていることもある。したがって、いつ書かれたのかという基本的な点も含めて、きわめて分かりにくく、複雑怪奇なものになっている。なお、同じ文章が全集の別々の巻に収められていたことがあった(それを詫びていた記事があった)。
 これを解消するには、上に触れたように、諸文章、各著書、「全集」段階での収録の各関係等々を詳細かつ丁寧に説明する、全集段階での一覧表的記述をしておくことが必須だ。だが、西尾幹二にそのような「知的誠実さ」を求めること自体が無理なのかもしれない。
 西尾幹二全集の最大の特徴は、各巻末尾の西尾自身の「後記」の存在だろう。
 この「後記」の内容の異様さを見ると、全集「月報」上以外に、西尾幹二以外の第三者のかつてのまたは全集刊行時点での文章が(「追補」等として)堂々と掲載されていることの異様さもかすんでしまう。
 西尾幹二は「後記」で、自らのかつての文章を論評し(多くはその積極的意義を述べ)、かつまた読者に対して、かつての自らの文章の「読み方」をガイドまでしようとしている。その中には、かつてとは異なる、全集刊行時点での自分自身の評価(意義の理解の変更を含む)をも紛れ込ませている。
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  結局のところ、西尾幹二の文章執筆(そしてこの人の人生そのもの)の最大の目的は、西尾幹二の「偉さ」を多数の人々に認めさせること、多くの人々に「えらい」、「すごい」と称賛されることにあった。この人にとって、「自分の存在意義」こそが全てだ。
 全てはそのための「手段」にすぎない。自分の文章作りとともに、ときには他人の存在までもが。
 真実、良心、誠実、…。こうした「美徳」は、西尾自身の「顕名」に比べれば、何の価値もない。。
 現天皇即位の際に月刊正論に寄稿した文章を冒頭に置く西尾『日本の希望』(徳間書店、2021)の表紙にこうある。
 「私は、日本のあり方をずっと考えてきた!」
 大笑いだ。そして、ウソをつくな、と言いたい。書いたものは全て「自己物語」で、「私が主題」だった、「私小説的自我のあり方で生きてきた」と、2011年の全集刊行開始頃に遠藤浩一との対談で語っていたではないか。
 「日本」もまた、この人にとっては「手段」だった。あるいは、ヒト・人間、人類、地球・世界ではなく、「日本」としか語れないところに、西尾幹二の本質と致命的な限界があるのかもしれない。
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  多くの人々が西尾幹二に「だまされてきた」。この人の文章をきちんと読み、きちんと分析・検討することなく、「だまされてきた」。
 なぜそうなったのか。例えば、なぜ、西尾幹二はいわゆる「つくる会」の初代会長に「まつり上げ」られたのか。日本の戦後の、少しは限定して言えば日本の戦後の<保守>界隈の、一つの興味深い現象だ。
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2643/私の音楽ライブラリー②。

 ①で取り上げた、01のSchumann の冒頭和音のあとの旋律と02のMendelssohn の冒頭の旋律は、相対音でどちらも「ミラシド…」だった。Tchaikovsky, “Swan Lake”の「情景」も、「ミラシド…」だ。むろん、各音符の長さは違うし、上昇と下降の違いもある。
 このたった4つの短い音節は若いときからなじみのあるもので、舟木一夫「高校三年生」、小椋佳「春の雨はやさしいはずなのに」、井上陽水の「心もよう」も、冒頭は相対音で「ミラシド…」だ。他にもあるだろう。
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 05 J. S. Bach, St. Mattäus Passion (マタイ受難曲)(Netherlands Bach Society)。

 06 Beethoven, Symphony No. 5 in C-minor (運命)(Seiji Ozawa,NHK SymO)〔小林一夫〕。

 07 Brahms, Symphony No. 4 in E-minor(Tatsunori Numajiri, NHK SymO)。

 08 Mozart, Lacrimosa -平均律·純正律聴き比べ-〔渡邊秀夫〕。
 特定の一曲の演奏が、主要音の周波数比の簡潔さが顕著な純正律による方が「調和性」が高い(表現によれば「より美しい」)ことははっきりしている。日本の戦前の唱歌について純正律によるものがuploadされてもいる。しかし、〈十二平均律〉と比較での優劣をこの点だけをもって判断することはできない。これら二つの音律は「次元」が異なるのだ。なお、Lacrimosa を含む、Mozart, Requiem in D-minor はMozart の中では最も好みの一つだ。
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2642/「ドレミ…」はなぜ7音なのか②。

  1オクターブが12音で構成されるのならば、それら各12音には低い(周波数の小さい)順にA-B-C-D-E-F-G-H-I-J-K-L(イロハニホヘトチリヌルヲ)という符号をあててもよかったのではないか。
 楽譜を五線譜ではなく六線譜にすれば、♯や♭を用いなくとも全12音を線上または線間に表記できるのではないか。
 以上は、素人が感じる疑問。〈十二(等分)平均律〉から音律の歴史が始まっていたとすれば、ひょっとすれば上のようだったかもしれない。しかし、現在の音楽界を圧倒的に支配する〈十二平均律〉もまた、「歴史と伝統」を引き摺っているのだ。
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  「No.2638/「ドレミ…」の7音と白鍵・黒鍵」のつづき。  
 マックス·ウェーバー・音楽社会学(邦訳書1967)でM·ウェーバーは「『圏』状に上行または下行すると…」という表現を用いていたが、同著に付された「音楽用語集」によると、この「」はcircle, Zirkel の訳語であることが分かる。「円環」あるいは「周円」のことだ。
 そして、「圏」はこう説明される。①「ある音を出発点として、上方または下方に向かい、決められた度数によって順次得られる諸音によって作られる圏をいう。… 諸音を得ることの外に、調の近親関係を見わたすための便利な図として利用される。」
 また、「5度圏」はこう説明されている。②「或る音から上方・下方に完全5度音を次ぎ次ぎにとって行くことにより諸音を得る。これを図にしたのが5度圏である。出発点から十二番目の音は、例えばCから出発した場合His〔B♯—秋月〕の様な非常に近い音になる。平均律5度音の場合は十二番目は異名同音的に重なる。」
 少し挿むと、②の最後部分が述べているのは、〈十二平均律〉だとちょうど1オクターブ上の2となって重なるが、(おそらくは)ピタゴラス音律においては重ならない(ピタゴラス・コンマぶんの誤差が生じる)、ということだと考えられる。
 ともあれ、「5度圏(表)」は〈十二平均律〉についてのみ意味があったものではないこと、「5度」または「完全5度」等は〈十二平均律〉におけるそれら(例えば、十二平均律での<今で言うC-G>の間差)を元来は意味したのではなかったということ、が重要だ。
 また、上の①に「諸音を得ることの外に…」とあるが、これは「5度圏」を含む「圏」の表・図の第一の目的が「諸音を得る」ことにあったことを示している。②もまた、「…諸音を得る」とだけ断じている。
 従って、〈十二平均律〉を前提として、「5度圏(表)」を用いて五線譜冒頭の♯や♭の数によってある曲の「調」が分かる(加えて近親「調」が分かる)というのは、「5度圏(表)」の歴史的な本来の役割からすると些細なことだ。トニイホロやソレラミシを「覚える」だけでは空しい。You Tube上の例えば以下のサイトは、「5度圏(表)」の歴史的意味を理解していないと見られる。この人たちには「圏状の上行・下行」(あるいは「螺旋上の上行・下行の旋回」)という表現に当惑するのではないか。
 「音大卒が教える」「音大卒があなたのお困り助けます」
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 以下の文献はピタゴラス音律に関して「音のらせん」という節をもち、「らせん上で3倍することを繰り返す」と題する図も付して、「圏状の上行・下行」あるいは秋月の表現だが「螺旋上の上行・下行の旋回」を、明確に説明している。
 小方厚・音律と音階の科学(講談社ブルーバックス、2018)、p.45-46、p.59。
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  音の周波数が2倍、4倍、8倍、…になるとともに音の高さはちょうど1オクターブ、2オクターブ、3オクターブ、…高くなる。弾く弦の長さを1/2、1/4、1/8、…にするとともに、と言っても同じ。
 このことに、人々は太古から気づいただろう。
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 では、1オクターブ内にどのように音を設定すればよいか。—オクターブだけ異なる「同じ」音では満足できず、「異なる」高さの音によって何らかの「旋律」を生みたい人々は、こう問うたに違いない。
 そして、すみやかにつぎのことを知ったと思われる。
 すなわち、一定のある音と異なり、かつ1オクターブ上(・下)の「同じ」音でもない音は、一定のある音を1とすれば、その1に3/2および2/3を掛けることによって得られる(2/3を掛けるとは3/2で割ると同じ)。
 これは、弦の長さで言うと、ある音が出る弦の長さを2/3倍および3/2倍にするのと同じ(弦の長さと音の高さ(周波数の大きさ)は反比例する)。弦の長さを1/3および3倍にすると表現しても、本質は同じ。
 そして、1×(3/2)=3/2と、1÷(3/2)=2/3の二つの数値が得られる。このうち後者も1と2の間の数値になるように2倍すると(2倍してもオクターブは異なる「同じ」音だ)、3/2と4/3の二つの数値を得ることができる。
 1と2を加えて小さい順に並べると、1、4/3、3/2、2
 オクターブだけ異なる「同じ」音に次いで得られた二つの音は一定の音(1、2)との関係での周波数比が簡潔であるために、一定の音ときわめてよく調和または協和するはずだ。
 さて、音の「度」数表示は〈十二平均律〉の採用以前の古くから行われていたようで、池宮英才「音楽理論の基礎」マックス·ウェーバー・音楽社会学(1967)所収294頁は、ちょうど1オクターブだけ離れた音(2)を「8度」と呼び、「絶対協和音」とする。
 かつ、上の3/2と4/3をそれぞれ「5度」、「4度」と呼び、この二つを「完全協和音」とする。また、両者をそれぞれ、「完全5度」、「完全4度」とも称している。
 ここに見られるように、「完全5度」、「完全4度」とは〈十二平均律〉の場合にのみ語られる用語ではない。
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 〈十二平均律〉を前提とした音程の説明の中で「完全5度」や「完全4度」といった概念を用いている人々がどの程度自覚しているのかは疑わしいが、上の3/2と4/3の二つは、〈十二平均律〉における「(完全)5度」や「(完全)4度」の周波数比の値と異なる。
 ピタゴラス音律および純正律において、オクターブだけが異なる音に次いで最初に設定されると考えてよいと思われる二つの音の周波数比の値は、3/2と4/3だ。どちらの音律でも同じ。
 これに対して、〈十二平均律〉では、「完全5度」、「完全4度」の対1周波数比は、つぎのようになる。
 「完全5度」=1.49830…、「完全4度」=1.33484…。
 これらは「無理数」で、整数を使って分数化することができない。
 対比させるために、少数を使ってピタゴラス音律や純正律での「完全5度」、「完全4度」をあらためて表記すると、つぎのとおり。
 「完全5度」=1.5、「完全4度」=1.33333…。
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 〈十二平均律〉ではこうなるのは、この音律は、1オクターブを隣り合う各音の周波数比が全て同一になるように周波数比を「等分に分割」しているからだ。
 いつか触れたように、Xを12乗すれば2となる数値が最小の単位(「一半音」の周波数比)になり、このXは「2の12乗根」のことだから、(この欄での表記はやや困難だが)「12√2」だ(1√2はいわゆる「ルート2」のこと)。
 「12√2」=「2の12乗根」は、約1.059463
 これをここで勝手にたんに「α」と表記すると、「完全5度」、「完全4度」はそれぞれ、αの7乗、αの5乗であり、計算すると、上に掲記の少数付き数値になる。
 そして、低い順に、αの0乗=1、αの5乗、αの7乗、αの12乗=2、という音の並びになる。
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  以上のかぎりで、ピタゴラス音律と純正律では、1、4/3、3/2、2という「音階」ができることになる。
 「ドレミ…」を<7音音階>と言うとすれば、単純だが素朴な<3音音階>だ。
 さらに新しい音を設定(発見)しようとして、ピタゴラス音律では3/2または3を乗除し続ける。純正律では5/4、6/5という簡潔な分数を見出し、これを全体に生かそうとする(「2と3」から「2、3と5」の世界へ)。
 この二つの音律の歴史的前後関係については、前者の欠点を是正しようとして生まれたのが後者だと理解していた。この場合、ピタゴラス・コンマは最初からないものとされ、<今日にいうC-E-G>の和音の「美しさ」が追求される(但し、純正律では「シントニック・コンマ」※が生まれる等の問題が生じる)。
 但し、両者はほぼ同時期に成立していた旨の説明もある。その場合、2、4、8または3ではない5という自然「倍音」が古くから着目されていたともされる。
 また、今回に言及した池宮英才「音楽理論の基礎」音楽社会学所収も、3/2、4/3の設定・「発見」の叙述のあとで、すでに純正律も考慮したような叙述をしている。
 ※「シントニック・コンマ」。純正律における「大全音」と「小全音」の差で、(9/8)÷(10/9)=81/80。または、ピタゴラス音律での「長3度」と純正律での「長3度」の差で、(81/64)÷(80/64)=81/80。
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 さて、秋月瑛二は、素人的に考えて、つぎの2音を選ぼうとする。
 すると、<5音音階>を簡単に作ることができる。<7音音階>までもう少し、あと2つだ。
 ——
 つづく。

2641/マックス·ウェーバー・音楽社会学(1911-12)。

  マックス·ウェーバー・音楽社会学=安藤英治·池宮英才·門倉一朗解題(創文社、1967)は、創文社刊のM・ウェーバー<経済と社会>シリーズの、第9章のあとの「付論」で、独立した一巻を占める。
 <音楽社会学>というのはいわば簡称で、正式には「音楽の合理的社会学的基礎」と題するらしい(独語)。また、未完の著作だったとされる。
 上掲著は計約400頁で成るが、二つの解説論考(「マックス·ウェーバーと音楽」・「音楽理論の基礎について」)、訳者後記、第二刷あとがき、音楽用語集、人名索引・事項索引等が「解題」者によって付されているので、それらを除くと、本文は約240頁になる。
 しかもまた、本文中の「各章末」の「訳註」は訳者たちによるので、それらを除くと、きちんと計算したのではないが、M・ウェーバー自身の文章は、約240頁のうちの100頁以下だと思われる。
 この<音楽社会学>(「音楽の合理的社会学的基礎」)が執筆された時期は明確でない。安藤英治1911-12年に「草稿として書き上げられ」ていた、とする(p.244)。ウェーバーの死の翌年の1921年7月付の「緒言」が別の学者(Theodor Kreuer)によって書かれており、これも上掲書に訳出されている。
 20世紀前半のドイツの「社会科学者」、少なく見積もっても「社会学者」による「音楽理論」に関する文章は、それだけで興味をそそる。また、一読だけしても、きわめて興味深い。
 以下、冒頭の一部だけ、上掲書からそのまま引用する。訳者によって挿入されたと見られる語句の引用・紹介はしない。
 原訳書と異なり、一文ごとに改行する。「過分数」という語もあるように、分数表記の仕方は前後ないし上下が逆だと思われるが、そのまま引用する。下線は引用者。 
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 〔=第一章冒頭—秋月〕
 和声的に合理化された音楽は、すべてオクターヴ(振動数比1:2)を出発点ととしながら、このオクターヴを5度(2:3)と4度(3:4)という二つの音程に分割する。
 つまり、n/(n+1)という式で表される二つの分数—いわゆる過分数—によって分割するわけで、この過分数はまた、5度より小さい西欧のすべての音程の基礎でもある。
 ところが、いま或る開始音から出発して、まず最初はオクターヴで、次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で「圏」状に上行または下行すると、この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない
 例えば、(2/3)12乗にあたる第十二番目の純正5度は、(1/2)7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである。
 このいかんとも成し難い事態と、さらには、オクターヴを過分数によって分ければそこに生じる二つの音程は必ず大きさの違うものになるという事情が、あらゆる音楽合理化の根本を成す事実である。
 この基本的事実から見るとき近代の音楽がいかなる姿を呈しているか、われわれはまず最初にそれを思い起こしてみよう。
 ****〔一行あけ—秋月〕
 西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法は、オクターヴを5度と4度に、次に4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割することである。
 以上の音程は、いずれも、2、3、5という数を基にした分数によって構成されている
 和音和声法は、まず「主音」と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な「三和音」を構成する。
 そして次に、三和音を構成する諸音(ないしそれらの8度音)を一オクターヴ内に配列すれば、当該の主音を出発点とする「自然的」全音階の全素材を、残らず手に入れることになる。
 しかも、長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ「長」音列か「短」音列のいずれが得られる。
 オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在し、いずれの場合にも、二番目の全音が小全音で、それ以外はすべて大全音である。
 ----〔改行—秋月〕
 音階の各音を出発点としてその上下に3度と5度を形成し、それによってオクターヴの内部に次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの「半音階的」音程が生ずる
 それらは、上下の全音階音からそれぞれ小半音だけ隔たり、二つの半音階音相互のあいだは、それぞれ「エンハーモニー的」剰余音程(「ディエシス」)によって分け隔てられている。
 全音には二種類あるので、二つの半音階音のあいだには、大きさの異なる二種類の剰余音程が生ずる。
 しかも、全音階的半音と小半音の差は、さらに別の音程になるのであるから、ディエシスは、いずれも2、3、5という数から構成されているとはいえ、三通りのきわめて複雑な数値になる。
 2、3、5という数から成る過分数によって和声的に分割する可能性が、一方では、7の助けを借りてはじめて過分数に分割できる4度において、また他方では大全音と二種類の半音において、その限界に達するわけである。
 ----〔改行、この段落終わり—秋月〕
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 以下、省略。
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  若干のコメント。 
  M・ウェーバーと音楽・芸術一般の問題には立ち入らない。 
 M・ウェーバーの「学問」において音楽・芸術が占める位置の問題にも立ち入らない。
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  「音楽理論」との関係に限定すれば、つぎのことが興味深く、かつ驚かされる。すなわち、この人は、ピタゴラス音律および純正律または「2,3,5」という数字を基礎とする音律の詳細を相当に知っている。
 そして、上掲論文(未完)の冒頭で指摘しているのは、ピタゴラス音律および「2,3,5」という数字を基礎とする音律が決して「合理的でない」ことだ。
  ピタゴラス音律に関連して、3/2または2/3をいくら自乗・自除し続けても「永遠に」ちょうど2にならないことは、この欄で触れたことがある。
 M・ウェーバーの言葉では、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」、「12乗にあたる第十二番目」の音は1オクターブ上の音よりも「ピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」。
 さらに、以下の語句は、今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える
 「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」。
 この「上行・下行」は、ここでは立ち入らないが、「五度圏(表)」における「時計(右)まわり」と「反時計(左)まわり」に対応し、「♯系」の12音と「♭系」の12音の区別に対応していると考えられる。
 さらに、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」上の12音と「下旋回」上の12音に対応しているだろう。
 そして、M・ウェーバーが言うように「二つの音程は必ず大きさの違うものになる」であり、以下は秋月の言葉だが、「#系」の6番めの音(便宜的にF♯)と「♭」系の6番めの音(便宜的にG♭)は同じ音ではない(異名異音)。このことに、今日のピタゴラス音律に関する説明文はほとんど触れたがらない。
  <純正律>、<中全音律>等に、この欄で多少とも詳しく触れたことはない。
 だが、上記引用部分での後半は、これらへの批判になっている。
 純正律は「2と3」の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または「和音」を形成することができる。
 しかし、M・ウェーバーが指摘するように、純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)「半音」で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに「幹音」に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。
 なお、「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在」する、という叙述は、つぎのことも意味していることになるだろう。すなわち、鍵盤楽器において、CとEの間には二個の全音が(そしてピアノではそれらの中間の二個の黒鍵)があり、Fと上ののCの間には三個の全音(そしてピアノではそれらの中間の三個の黒鍵)がある、反面ではE-F、B-Cの間は「半音」関係にある(ピアノでは中間に黒鍵がない)、ということだ。
 彼は別にいわく、「次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。二個というのは、純正律でもピタゴラス音律でも同じ。
 また、長調と短調の区別の生成根拠・背景に関心があるが、この人によると、「長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ『長』音列か『短』音列のいずれが得られる」。これは一つの説明かもしれない。
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  引用部分にはなかったが、M・ウェーバーはいわゆる<十二平均律>についても知っており、その「究極的勝利」についても語っている(p.199-p.200)。但し、その弊害にも触れている。
 彼によると、「不等分」平均律と区別される「等分」平均律の一つであり、こう説明される。「これは、オクターヴを、それぞれ1/2の12乗根になるような十二の等しい等間隔に分割することであり、したがって十二個の5度をオクターヴ七つと等置すること」である。「12」という音の個数自体は、ピタゴラス音律や純正律の場合と異ならない。
 なお、完全「5度」、完全「4度」、「長3度」、「短3度」等の表現をM・ウェーバーもまた当然のごとく用いていることもすこぶる興味深い。詳細とその評価に言及しないが、こうした言葉は、1オクターヴは8音の「幹音」で構成される(両端を含む)として、それぞれに1〜8の番号を振って二音間の隔たりを表現する用語法だ。「5度」の一半音上の音は「増5度」になる。馬鹿ばかしくも、一半音は、「減2度」と言う。
 今日の日本の「音楽大学」等での「専門」的音楽理論教育で用いられている術語は、20世紀初頭のドイツでとっくに成立していたようだ(明治期・戦前の日本の「専門」音楽界はそれを直輸入した)。
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