中北浩爾・日本共産党—「革命」を夢見た100年(中公新書、2022)。
出版直後ではなく、数ヶ月あとに読了している。あまり記憶には残っていないが、この書の一部を再読して、日本共産党やこの書自体に関して、感想等を述べておく。
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一 上の中北著は「はじめに」で、欧州の「急進左派政党」との比較、「ユーロコミュニズム」と日本共産党の「宮本路線」の異同の検討がその歴史も含めて必要だとし、それら等をふまえて「終章」で現状分析と当面する「選択肢」を論じる、とする。
矛盾してはいないのだろうが、しかし、「終章」では欧州の「急進左派政党」や「ユーロコミュニズム」に言及することは少ない。但し、「社会民主主義への移行」と著者が推奨するらしき「民主的社会主義への移行」という選択肢の提示に役立っているのかもしれない。
そうすると「社会民主主義」と「民主的社会主義」の区別が重要になる。そして、日本共産党の現在の綱領の骨格を維持した日本「共産党」という名称のままで可能なのか、も問題になる。中北は後者には論及していないようだ。
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二 「ユーロコミュニズム」と日本共産党「宮本路線」が同じではないのは共産主義政党の成立以来の歴史から明瞭なことで、あらためて指摘するまでもない。
封建制→(絶対主義)→資本主義→社会主義という「歴史の発展法則」が(マルクス・エンゲルスによって提示されたように)存在するとすれば、封建制・絶対主義以降の国家・「革命」政党にはこれらから決別する「(ブルジョア)民主主義革命」とそれはもう遂行されたとみて「社会主義革命」を目指すかの選択が強いられたはずだ。フランスやイタリア等では「社会主義」革命という一段階だけが残っていた。
日本共産党はいわゆる「講座派」の立場から前者の<二段階>革命論を創立時から採用していたのは、諸テーゼからも明らかだ。
戦前の綱領的文書は日本共産党が独自に策定したのではなく、ロシア・ソ連の共産党(・コミンテルン)に「押しつけられた」面が決定的だっただろう。ロシア帝制は1917年2月に崩壊したにもかかわらず天皇制がまだ残っている戦前の日本にはまだ「(ブルジョア)民主主義革命」だ必要だ、とロシアのボルシェヴィキたちは容易に判断したのかもしれない。
もっとも、第一に、レーニン「帝国主義論」(1917年9月刊行)によると、「帝国主義」とは資本主義の「最高の」、「独占主義的」段階のようなのだが、そうすると、日本は「半封建的絶対主義天皇制」のもとで「帝国主義」戦争を遂行していたことにになる。これは、概念または語義に矛盾をきたしていたのではなかろうか?
第二に、帝政崩壊を招来したロシア「二月革命」が、「(ブルジョア)民主主義革命」だったかは、疑わしい。
それ以降も、来たるべき「革命」の性格や担うべき政党・運動の性格や共産党とプロレタリアートや農民の役割分担等々について、メンシェヴィキとボルシェヴィキの間等で、議論があった。
中核にいるべきは「自分(たち)」だという点でレーニンは一貫していただろう。しかし、上の点に関するレーニンの主張・理解が明瞭だったとはいえない。「全ての権力をソヴェトへ!」とのスローガンを1917年四月から「十月」までずっと掲げたのでもない。
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中北著もまた、100年間で日本共産党が「変わらない部分」は、「日本が当面、目指すべき革命の内容として民主主義革命を位置づけ、その後に社会主義革命を実現するという、二段階革命論をほぼ一貫して採用してきてこと」だ、と明記している。この点は現在の同党綱領を読んでも明らかだ。
戦前の労農諸派、戦後の日本社会党との対抗の意味もあっただろうが、中北も頻繁にこの概念を用いているらしき「二段階革命論」の採用こそが、欧州のかつての共産党のほとんどとの違いであり、1991年12月以降も日本共産党がなおも勢力を残存できた根本的な「理論的」背景だったと考えられる。そしてまた、「民主主義」科学者協会法律部会(民科)の会員のような、「民主主義」のかぎりで一致する者たちを党(・日本共産党員学者)の周囲に置くことができた原因でもあった。
なお、ロシアでのこの問題に関する事情の判断は容易ではないが、連続する(永続的)「二段階革命」論というのはトロツキーのほか、「革命の商人」とのちに言われた、レーニン・ボルシェヴィキへのドイツ帝国からの資金援助を媒介したともされるパルヴス(Parvus)によって唱えられていた、ともされている。トロツキーは1917年7月に遅れて入党したボルシェヴィキで、弁舌に秀でていたともに「理論家」でもあったようだ。
なお、以下を参照。R・パイプスの著(試訳)→No.1453・→No.1551、L・コワコフスキの著(試訳)→No.1610・→No.1661。
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つづく。
出版直後ではなく、数ヶ月あとに読了している。あまり記憶には残っていないが、この書の一部を再読して、日本共産党やこの書自体に関して、感想等を述べておく。
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一 上の中北著は「はじめに」で、欧州の「急進左派政党」との比較、「ユーロコミュニズム」と日本共産党の「宮本路線」の異同の検討がその歴史も含めて必要だとし、それら等をふまえて「終章」で現状分析と当面する「選択肢」を論じる、とする。
矛盾してはいないのだろうが、しかし、「終章」では欧州の「急進左派政党」や「ユーロコミュニズム」に言及することは少ない。但し、「社会民主主義への移行」と著者が推奨するらしき「民主的社会主義への移行」という選択肢の提示に役立っているのかもしれない。
そうすると「社会民主主義」と「民主的社会主義」の区別が重要になる。そして、日本共産党の現在の綱領の骨格を維持した日本「共産党」という名称のままで可能なのか、も問題になる。中北は後者には論及していないようだ。
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二 「ユーロコミュニズム」と日本共産党「宮本路線」が同じではないのは共産主義政党の成立以来の歴史から明瞭なことで、あらためて指摘するまでもない。
封建制→(絶対主義)→資本主義→社会主義という「歴史の発展法則」が(マルクス・エンゲルスによって提示されたように)存在するとすれば、封建制・絶対主義以降の国家・「革命」政党にはこれらから決別する「(ブルジョア)民主主義革命」とそれはもう遂行されたとみて「社会主義革命」を目指すかの選択が強いられたはずだ。フランスやイタリア等では「社会主義」革命という一段階だけが残っていた。
日本共産党はいわゆる「講座派」の立場から前者の<二段階>革命論を創立時から採用していたのは、諸テーゼからも明らかだ。
戦前の綱領的文書は日本共産党が独自に策定したのではなく、ロシア・ソ連の共産党(・コミンテルン)に「押しつけられた」面が決定的だっただろう。ロシア帝制は1917年2月に崩壊したにもかかわらず天皇制がまだ残っている戦前の日本にはまだ「(ブルジョア)民主主義革命」だ必要だ、とロシアのボルシェヴィキたちは容易に判断したのかもしれない。
もっとも、第一に、レーニン「帝国主義論」(1917年9月刊行)によると、「帝国主義」とは資本主義の「最高の」、「独占主義的」段階のようなのだが、そうすると、日本は「半封建的絶対主義天皇制」のもとで「帝国主義」戦争を遂行していたことにになる。これは、概念または語義に矛盾をきたしていたのではなかろうか?
第二に、帝政崩壊を招来したロシア「二月革命」が、「(ブルジョア)民主主義革命」だったかは、疑わしい。
それ以降も、来たるべき「革命」の性格や担うべき政党・運動の性格や共産党とプロレタリアートや農民の役割分担等々について、メンシェヴィキとボルシェヴィキの間等で、議論があった。
中核にいるべきは「自分(たち)」だという点でレーニンは一貫していただろう。しかし、上の点に関するレーニンの主張・理解が明瞭だったとはいえない。「全ての権力をソヴェトへ!」とのスローガンを1917年四月から「十月」までずっと掲げたのでもない。
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中北著もまた、100年間で日本共産党が「変わらない部分」は、「日本が当面、目指すべき革命の内容として民主主義革命を位置づけ、その後に社会主義革命を実現するという、二段階革命論をほぼ一貫して採用してきてこと」だ、と明記している。この点は現在の同党綱領を読んでも明らかだ。
戦前の労農諸派、戦後の日本社会党との対抗の意味もあっただろうが、中北も頻繁にこの概念を用いているらしき「二段階革命論」の採用こそが、欧州のかつての共産党のほとんどとの違いであり、1991年12月以降も日本共産党がなおも勢力を残存できた根本的な「理論的」背景だったと考えられる。そしてまた、「民主主義」科学者協会法律部会(民科)の会員のような、「民主主義」のかぎりで一致する者たちを党(・日本共産党員学者)の周囲に置くことができた原因でもあった。
なお、ロシアでのこの問題に関する事情の判断は容易ではないが、連続する(永続的)「二段階革命」論というのはトロツキーのほか、「革命の商人」とのちに言われた、レーニン・ボルシェヴィキへのドイツ帝国からの資金援助を媒介したともされるパルヴス(Parvus)によって唱えられていた、ともされている。トロツキーは1917年7月に遅れて入党したボルシェヴィキで、弁舌に秀でていたともに「理論家」でもあったようだ。
なお、以下を参照。R・パイプスの著(試訳)→No.1453・→No.1551、L・コワコフスキの著(試訳)→No.1610・→No.1661。
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つづく。