秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2023/02

2626/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌④。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
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 第一章②
 (05) このような経緯によって、〈主要潮流〉の特徴がいくぶんか明らかになる。
 第一巻の〈生成者〉(ドイツ語版、成立)は、思想史として伝統的手法で執筆されている。すなわち、弁証法のキリスト教的淵源、ドイツのロマン派哲学での完全な解決の構想、その若きマルクスへの影響から、マルクスとその同僚のFriedrich Engels の成熟した文献までを辿っている。
 第二巻は、元々は(皮肉ではなく私は思うのだが)素晴らしい、〈黄金の時代〉というタイトルだった。(注4)
 彼は、1889年まで存在した第二インターナショナルから1917年のロシア革命までの歴史を叙述している。
 ここでもKolakowski は、とりわけ、急進的なヨーロッパの思想家の目ざましい世代が高度の精神的水準に導いた思想や論争を扱う。
 この時代の指導的マルクス主義者たち—Karl Kautsky、Rosa Luxemburg、Eduard Bernstein、Jean Jaures、そしてWladimir Iljitsch Lenin—、彼らはみな正当に一つの章を与えられ、それらの章は慎重にかつ明晰に彼らの歴史上の主要な議論と位置を概括している。
 このような総括的叙述では大して重要な位置を占めてこなかったためにさらに大きな関心を惹くのは、イタリアの哲学者のAntonio Labriola、ポーランドのLudwik Krzywicki、Kazimierz Kelles-Krauz、Stanislaw Brzozowski や「オーストリア・マルクス主義者」のMax Adler、Otto Bauer、Rudolf Hilferdinng、に関する章だ。
 Kolakowski の叙述で比較的に多くのポーランド人が登場するのは、疑いなく、部分的には著者の地域的観点によるのであり、それまでは軽視されたものを補うものだ。
 しかし、オーストリア・マルクス主義者たち(この巻の最も長い章の一つが割かれている)のように、彼らは、ドイツとロシアのマルクス主義が忘却して長らく抹消した、中世ヨーロッパの〈世紀末〉を呼び起こしてくれる。(注5)
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 (06) 〈主要潮流〉の第三巻—多くの読者が「マルクス主義」と理解するもの、すなわちソヴィエト共産主義の歴史と1917年以降の西側マルクス主義者の思想を扱う—は、明けすけに〈瓦解〉と題されている。
 この部の半分弱はスターリンからトロツキーまでのソヴィエト・マルクス主義を扱い、残りは他諸国の選び抜いた理論家を論じている。
 彼らのうち若干の者、とくにAntonio Gramsci とGeorg Lukacs は、20世紀の思想史にとって継続的な関心の対象であり、Ernst Bloch やKarl Korsch(Lukacs のドイツの同時代者)には古物的な魅力がある。
 さらに他の者たち、とくにLucien GoldmannとHerbert Marcuse は1970年代半ばよりも今日ではさらに関心を惹かなくなったようなのだが、Kolakowski は数頁で済ませている。
 この著作は、「近年のマルクス主義の変遷の概観」で終わっている。これはスターリン死後のマルクス主義の展開に関する小論であり、Kolakowski は、自分の「修正主義」の過去に短く触れたあとで、ほとんど一貫した調子で、時代のはかない流行(Mode)を取り上げる。そして、Sartre の〈弁証法的理性批判〉やその〈余計な新造語〉から、毛沢東の「農民マルクス主義」やその無責任な西側の賛美者までがきわめて愚昧であることを語る。
 この部分の読者は、第三巻の緒言で警告される。この著者は、最後の章は数巻へと拡張できただろうと認めつつ、「ここでの主題がそのように詳細な叙述をする意味があるのかどうか、確信がなかった」と付記しているのだ。
 最初の二巻は1987年にフランス語で出版されたが、Kolakowsk の代表著作の第三巻はそこでは今日まで公にされていない、ということにここで触れておく価値がたぶんあるだろう。
 ここでKolakowski によるマルクス主義的教理の歴史の驚くべき射程範囲を紹介するのは、不可能なことだ。
 彼の叙述を上回ることは、ほとんどどの後継者によっても行なわれ得ない。この領域をこれほど詳細にかつこれほどの巧みさをもってあらためて掘り返すことができるために、いったい誰がもう一度十分な知識を得るだろうか? あるいは、いったい誰がもう一度十分な関心を呼び醒ますだろうか?
 〈マルクス主義の主要潮流〉は、社会主義の歴史ではない。
 この著者は、政治的論脈または社会的制度には表面的な注目だけを示した。
  これは動かされない思想史であり、かつて力をもった理論や理論家の一族の勃興と崩壊に関する教養小説(Bildunfsromane)であって、懐疑的で濾過したした時代に、残存している最後のその末裔たちについて、語っている。
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 (07) 1200頁にわたるKolakowski の論述は、率直であり、明晰だ。
 彼の見解では、マルクス主義は真摯に受けとめられるべきものだ。
 それは、階級闘争に関する宣明(しばしば正しいが、新鮮な何かではない)のゆえにではなく、また不可避の資本主義の破滅とプロレタリアによって導かれる社会主義への移行(完全に挫折した予言)の約束のゆえにでもなく、マルクス主義が、唯一の—そして本当に独自性をもつ—プロメテウス的なロマン派的幻想と妥協なき歴史的決定論の混合物を提示しているからだ。
 このように理解されるマルクス主義の魅惑は明白だ。
 それは、世界がどのように〈作動している〉(funktionieren)かを説明する。資本主義と階級関係の経済的分析だ。
 それは、世界はどう作動〈すべき〉かの態様を提示する。若きマルクスの唯心論的考察がそうだったような人間関係の倫理だ(そして、Kolakowski が、その妥協的な人生を軽蔑したものの、相当に一致したGeorge Lukacs のマルクス解釈)。(注6)
 最後に、マルクス主義は、マルクスのロシアの支持者たちがその(およびEngels の)文献から導き出した歴史的必然性に関する一連の主張に支えられたのだったが、世界は将来にそれに応じて作動する〈だろう〉との信仰を告知した。
 経済的記述、道徳的命令、政治的予見のこうした結合は、途方もなく魅力的である—かつ目的に適している—ことが分かる。
 Kolakowski が気づくように、マルクスは、なおも一層、読む価値がある。—その伝統の膨大な多面性を理解するためにだけであっても、別の者がそれに秘術をかけて、そこから飛び出してくる政治システムを正当化するためにも。(注7)
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 注記
 (04) ドイツ語訳書では、三つの巻は〈成立、発展、瓦解〉と区分された。
 (05) 歴史家のTimothy Snyder は、その書物、〈Nationalism, Marxism and Modern Central Europe: A Biography of Kazimierz Kelles-Krauz, 1872-1905〉(1997年)でもって、Kelles-Krauz を少なくとも忘却から救い出した。
 (06) Kolakowski は別の箇所でLukacs について書く—この人物は、Bela Kun ハンガリーRäte共和国で短期間に文化委員として働き、のちにスターリンの要請にもとづき、かつて書き記していた全ての興味深い言葉を放棄した—。彼は「優れた知識人の相当に尋常ではない例」だった、「生涯の最後まで…その精神は党に奉仕することにあったが、彼の著作は我々にもはや思考の衝動を与えない、彼は自らハンガリーに生き残った」。「文化形成としての共産主義」を参照。Gesine Schwan (編)所収の、〈Leszek Kolakowski, Narr und Priester. Ein philosophisches Lesebuch〉,S187-209, 1995年。
 (07) 「社会主義に残るものは何か」を参照。最初に出版されたときのタイトルは、「Po co nam pojecie sprawiedliwosci spolecznej ?」。〈Gazetta Wyborcza〉6-8号所収、1995年5月。〈My Correct View on Everything〉上掲に、再録された。
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 つづく。

2625/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌③。

 Tony Judt の論稿から、試訳を始める。
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 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 第一章①
 (01) Leszek Kolakowski は、ポーランド出身の哲学者だ。
 だが、このような性格づけは、全く適切ではない—または、十分ではない—と思える。
 Czeslaw Milosz やその前のその他の人々においてそうだったように、Kolakowski の知的および政治的な軌跡は、彼の反対派的立場によって明確になり得る。伝統的なポーランドの文化の深く根づいた経緯、すなわち聖職者主義、差別主義、反ユダヤ主義によって特徴づけられるものに対する立場によって。
 1968年に出国を強いられたのち、Kolakowski は、彼の故郷に戻ることも、そこで自分の著作を出版することもできなかった。
 1968年と1981年のあいだ、彼の名前はポーランドの検索対象になることが禁じられた著者だった。そして、彼はそのあいだに、今日に彼が最も知られている著作の大部分を執筆し、外国で公にした。
 亡命中のKolakowski は、ほとんどをイギリスで過ごした。彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。
 しかし、会話の際に言っていたように、イギリスは島であり、オクスフォードはイギリスの中の島であり、All Souls(学生のいないCollege)はオクスフォードの中の島だった、そして、Leszek Kolakowski 博士は、All Souls の中の島、四重に囲まれた島だった。(注1)
 イギリスの文化生活は、ロシアや中央ヨーロッパからの移民知識人たちに対して、かつては一つの場所を提供した。—Ludwig Wittgenstein、Arthur Koestler、あるいはIsaiah Berlin を想起することができる。
 だが、かつてのマルクス主義的カトリックのポーランド出身哲学者は、さらに異国者的で、彼の国際的な名声にもかかわらず、イギリスではほとんど知られていなかった。そして、驚くべきほどに低い評価を受けていた。//
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 (02) しかし、他の国では、Kolakowski は有名だった。
 彼の世代の多くの中央ヨーロッパの学者たちと同様に、彼は複数の言語を用い—自宅でのポーランド語や英語と同じようにロシア語、フランス語、ドイツ語を使った—、とくにイタリア、ドイツ、フランスで栄誉と賞を受けた。 
 Kolakowski がシカゴ大学の社会思想委員会で4年間教育したアメリカ合衆国では、彼の業績は惜しみない評価に恵まれた。その絶頂は2003年で、連邦議会図書館の第一回のJohn Kluge 賞が与えられた。—この賞は、ノーベル賞の対象になっていない学問分野(とくに思想科学)での生涯にわたる研究に対して付与されたものだった。
 しかし、一度ならずパリにいるときが最も落ち着くと述べていたKolakowski は、イギリス人以上にアメリカ人ではなかった。
 おそらく、20世紀の学者共和国の最後の輝かしい市民だと彼を叙述するのが、最も適切だろう。//
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 (03) 彼の本当の故郷のほとんどで、Leszek Kolakowski は、とくにその著名な三巻のマルクス主義の歴史書、〈マルクス主義の主要潮流〉で(そして多くのところではそれだけで)知られている。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版されたこの著作は、1年後にドイツで、2年後にイギリスで出版され、現在のアメリカ合衆国では一巻本の書物として再発行されている。(注2)
 この著作は、疑いなく、最大の高い評価を得ており、現代の人文学の記念碑的傑作だ。
 もちろん、Kolakowski の著作の中でのこの作品の卓越さには一定の皮肉がなくはないが、この著者は「マルクス学者」(Marxologe)では決してない。
 彼は、哲学者であり、哲学歴史家であり、カトリック思想家だ。
 彼は初期キリスト教の教派と異端派の研究を行ない、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史に最後の四半世紀の大部分を捧げた。これは、最良の哲学的神学的研究と称し得るものだろう。//
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 (04) 戦後ポーランドの同世代の中での洗練されたマルクス主義哲学者という高名から始まる、1968年の離国までのKolakowski の「マルクス主義」段階は、実際は全く短いもので、この時期の大部分で、彼はすでに異端者だった。
 すでに1954年、彼が27歳のときに、「マルクス=レーニン主義からの逸脱」を非難されていた。
 彼は1966年に、Posenでの労働者抗議運動(「ポーランドの十月」)10周年記念日のために、有名な批判的講演をワルシャワ大学で行ない、党指導者のWladyslaw Gomulka から公式に「いわゆる修正主義運動の主要イデオローグ」と咎められた。
 Kolakowski が講座を剥奪されたとき、その理由とされたのは、「国の公式の方向に逆らって」歩むという「若者の考え方」を作り出している、ということだった。
 西側に到着したとき、彼は、(我々には今でもそう思えるように、贔屓の者たちを困惑させることには)もはやマルクス主義者ではなかった。そして、そのあとで彼は、最近の半世紀のマルクス主義に関する最も重要な書物を執筆し、二年後に、ポーランドのある研究者が奥ゆかしく表現したところでは、「この主題に関するなおもささやかな関心だけ」を掻き集めた。(注3)//
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 注記
 (注01) Leszek Kolakowski とDanny Postel の対話、〈追放、哲学、未知の深淵での不安定なよろめきについて〉。〈Daedaulus〉2005年夏号所収、S.82.
 (注02) Leszek Kolakowski, 〈Glowne Nurty Markzmu〉1976, Paris. ドイツ語版、〈マルクス主義の主要潮流、成立・発展・瓦解〉1977-79, München. 再版、1981.
 英語訳の初版は、Oxford で1978年に出版された。ここで言及した新版は、著者の新しい緒言とあと書き付きで2005年にNew York で刊行された。タイトルは、〈マルクス主義の主要潮流、生成者・黄金時代・崩壊〉。
 (注03) Andrzey Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom :The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995, S. VII.
 楽観的正統派から懐疑的反対派への転遷について、Kolakowski は、つぎのようにだけ言った。
 「たしかに、20歳のとき、(完全にでなくとも)ほとんど知ったつもりだった。けれど、お分かりのとおり、年をとるにつれて、人々は愚かになる。28歳で、ほとんど分からなくなり、今でも一層そうだ。」
 以上、最初は〈Socialist Register〉(1974)に発表された〈My Correct Views on Everything. E. P. Thompson への返答〉。〈My Correct Views on Everything>、上掲書、S.19.
 ——
 つづく。

2624/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌②。

 雑誌<Transit—Europäische Revue>第34号・2007年/2008年冬季号。原語は、もちろんドイツ語。
 編集者まえがき(「編集の辞」、Editorial)
 (01) 2007年10月に、Leszek Kolakowski は80歳になった。
 彼は、1940年代の学問上の経歴を、正統派マルクス主義者として始めた。 
 この哲学者は、1956年以降の雪解けの時期にワルシャワ大学に1959年に招聘され、1966年に党から除名されるまで共産主義の改革の支持者になっていたが、1968年にその講座を失い、西側へと亡命(emigrieren)した。
 彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。 
 Krzysztof Michalski は、Kolakowski 思想の中心主題の軌跡を追っている。
 Tony Judt とJohn Gray は、1970年代に執筆された彼の最高傑作である〈マルクス主義の主要潮流〉から新しい意味を見出している。
 Kolakowski によるマルクス主義の思想史的再構成は、グローバル化への抵抗者のかたちを採るのであれ、Gray が驚くべき診断を下しているような、軍事力を媒介として民主主義政体を拡大するという新保守主義的な構想のかたちを採るのであれ、今日の夢想主義(Utopismus)の亡霊たちを見れば、完全に現在的であることが分かる。
 Marci Shore は東欧共産主義におけるユダヤ人の役割に関する論稿で、「夢想主義の慢性的な病理」(Gray)というとくに今日的な章を想起させている。//
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 (02) Kolakowski は、早くから社会主義思想に取り組んできた。
 彼は、1957年に書いて検閲により発禁となった皮肉たっぷりの小冊子「社会主義とは何か?」で、共産主義体制を映しだした。
 この—この雑誌に再録した—政治風刺の傑作の後のほとんど50年後に、Kolakowski は、「社会主義から残るものは何か」(注1)という小論で、もう一度確認した。
 世界中に広がる不平等に鑑みれば、社会主義は今日再び、道徳的信頼を獲得しているように見える。 
 Kolakowski は、こう続ける。マルクス主義が全てについて間違っていたということは、まだ永らくは、社会主義の伝統を時代遅れのものにはしない。
 また、社会主義思想が悪用されたということは、まだその思想を失墜させはしない。
 結局は、社会主義的諸価値はリベラルな諸価値と結びついて、民主主義的な市場経済の範囲内で実現されたのだ。
 社会主義運動は、我々の社会の政治的風景を変え、今日には自明のことになっている福祉国家を生む、そのような改革を誘発した。
 Kolakowski は、さらにこう書き続ける。
 「たしかに、『代替可能な社会』の構想としての社会主義思想は、死んだ。
 しかし、被抑圧者や社会的に不利な者との連帯を表現するものとして、社会的ダーウィン主義に対抗する動機づけとして、競争とは少しは離れたところにあるものを我々に思い出させる光として、こうした理由でもって、社会主義は—システムではなく、その理想は—、今だになおも利用され得るのだ。」//
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 (03) ロシアのジャーナリスト、Anna Politkowskaja は2001年に、…。
 <以下、省略>
 2007年12月、ウィーンにて。
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 (注1) 「社会主義に残るものは何か」, in: L. Kolakowski, My Correct Views on Everything (2005).
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2623/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌①。

 ドイツ・フランクフルト(am Main)のNeue Kritik という出版社が、<Transit>と題するおそらく季刊雑誌を発行している(または発行していた)。
 その第34号=2007年/2008年冬季号は、二つの特集を主内容にしており、その第一は、「レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の80歳の誕生日に寄せて」だった(試訳者注1)。L.Kolakowski、1927.10生〜2009.07没。
 巻頭の編集の辞はほとんどをL.Kolakowskiへの言及で費やしており、特集は、そのKolakowski の1957年のエッセイ「社会主義とは何か?」(試訳者注2)を再録しているほかは、つぎの四つの論稿で成っている。番号数字は原雑誌にはない。日本語は、試訳。
 1/Krzysztof Michalski, 全体の裂け目。
 2/Tony Judt, 全てのお別れに?—今日に読むKolakowski の〈マルクス主義の主要潮流〉。
 3/John Gray, 共産主義から新保守主義へ。
 4/Marci Shore, 家族のドラマ—ユダヤ人とヨーロッパの共産主義。
 興味深いのは、この4名のうちの2名がTony Judt(トニー・ジャット)とJohn Gray(ジョン・グレイ)だ、ということだ。
 この二人が書いたものの一部は、この欄で何回にも分けて試訳を掲載したことがある。(試訳者注3)
 この二人の政治的立場は同一ではないだろうが、いずれも明確な反共産主義者で、L・コワコフスキを高く評価している(かつ敬愛の念を抱いている)ことでは共通していた。(試訳者注4)
 二人の著書の邦訳書はあり、とくにJohn Gray 著には多い。だが、ジョン・グレイ(London大学教授)の邦訳書が多いのは「新保守主義」、「自由原理主義」ないし「新自由主義」に対するこの人の批判的立場が日本の出版業界隈で「左翼(的)」だと受けとめられた可能性があるからだろう、と私は思っている。明確な「反共」の立場の欧米の書物は、日本では翻訳書が出版され難い。
 現に、この欄にかなり(と言っても半分にはるかに満たないが)試訳を掲載した〈マルクス主義の主要潮流〉は、邦訳書が出ないままで終わりそうだ。日本の近年のいわゆる「保守」派も、「反共」を唱えつつ、欧米の共産主義・反共産主義に関する文献に興味を示さない。
 以下、「編集の辞」のほとんどのLeszek Kolakowski に関する部分と、上の四つの論稿をできるだけ邦訳してみる。
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 (試訳者注1) もう一つの特集は、「Anna Politkowskaja 追悼」だ。
 この女性はロシア人ジャーナリストで、第二次チェチェン紛争、RSB(ロシア連邦保安庁)、プーチンに対して批判的だった。2006年に暗殺された。Anna Politkowskaja、1958.8生〜2006.10没、満48歳。
 (試訳者注2) この小論は、加藤哲郎・東欧革命と社会主義(花伝社、1990)の表紙裏に掲載された。「ポーランドの哲学者・コラコフスキー」と執筆者名を記しているが、加藤は「コラコフスキー」へのそれ以上の関心を継続させなかったようだ。参照→No.1976/2019.09.13「加藤哲郎著とL・コワコフスキ」
 (試訳者注3) それぞれに言及した最初は、→トニー・ジャット(No.1525/2017.05.02)、→ジョン・グレイ(No.1565/2017.05.29)。
 (試訳者注4) いずれにもその点が分かる論稿があるが、とくにT・ジャットは、〈マルクス主義の主要潮流〉(原著、1976(パリ)。第一巻独訳書、1977。全巻英訳書、1978)のアメリカでの再発行決定を歓迎する文章を2006年に書き、Kolakowskiの死の直後の2009年に哀惜感溢れる(と私は感じる)文章を書いた。彼自身が、翌2010年に難病のために死亡したのだったが。Tony Judt、1948.01生〜2010.08没、満62歳。
 上の雑誌への寄稿は亡くなる2-3年前で、すでに病魔と闘っていたのではないかと思われる。
 コワコフスキ追悼文、参照→No.1834・2018年7月30日付。この追悼文はのちに、つぎの邦訳書の中に収載された。当然ながら、訳は上と同じではない。
 T・ジャット=河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時—ベルリンの壁崩壊から9.11まで(慶応大学出版会、2019.04)。原書は、Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015)
 妻のJenniffer Homans が編者で、「まえがき」を彼女が書いている。そして、「人と思想」は区別しなければならないと冒頭に書きつつ、結局はT・ジャットの著作と人物像が入り混じった追悼の文章になっている(と私には思えた)。その点が興味深く、かつ感動的でもあって、いつか試訳してみたいと思っていたが、上の邦訳書に含まれている。
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