秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2022/10

2598/R・パイプス1994年著第9章第八節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退③。
 (11) 1923年12月、トロツキーはついに党内階層から離れ、「新路線」と称されるPravda 上の論文で、自分の事案を公にした。
 彼はこの論文で、民主主義の理想に燃える若い党員層と、凝固した古参党員を対比させた。
 それが強調した結論は、「党はその諸機構に従属しなければならない」だった。(注215)
 スターリンは、こう回答した。
 「ボルシェヴィズムは、党を党諸機構に対峙させるのを受け入れることができない」。(注216)//
 ----
 (12) トロツキーも賛成して第10回党大会〔1921年3月〕で採択された党規約によれば、今や、彼が行なっていることは、とくにグループ46と協議していることは、争う余地なく、「分派主義」だった。
 この罪責は、トロツキーの二通の手紙が—偶然にか意図的にか—公に漏出した内容によって生じた。
 1924年1月に開催された党会議には、したがって、トロツキーと「トロツキー主義」を「小ブルジョア」的逸脱と非難する十分な権利があった。(注217)//
 ----
 (13) トロツキーの舞台は終わっていた。残りは拍子抜けするものだった。
 党多数派に対して、彼は防御しなかったからだ。1924年に彼自身がこう認めることになったように。
 「我々の誰一人として、党に逆らうのを望まないし、誰一人として正当に党に逆らうことはできない。
 結局のところ、我々の党はつねに正しいのだ。」(注218)
 1925年1月、トロツキーは戦争人民委員の辞任を強いられることになる。
 続いたのは党からの除名と追放で、後者はまず中央アジアへ、ついで国外へだった。
 そして最後には、暗殺された。
 ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンその他の黙認でもってスターリンが取り仕切ったトロツキーを排除する諸行為は、党員層の支持を受けて実行された。党員層は、利己的な策略者から党の統一を守るためにそれらは役立つと考えた。//
 ----
 (14) 敗北者が、勝利者よりも道徳的に優れていると見なされるがゆえに、後世の人々の同情を引きつける、という事例が、歴史上には多数存在する。
 トロツキーにこのような同情を掻き集めるのは、困難だ。
 確かに、彼はスターリンやその同盟者たちよりも教養があり、知的にはより興味深く、個人的にはより勇敢で、仲間の共産党員たちとの対応はより高潔だった。
 しかし、レーニンがそうであるように、彼が持つこのような美徳は、もっぱら党内部でのみ示された。
 外部者や民主主義の拡大を追求した内部者との関係では、トロツキーはレーニンやスターリンと同一だった。
 彼は、自らを破滅させる武器を作るのを助けた。
 心から同意しつつ、レーニン独裁への反対者たちが味わったのと同じ運命に陥った。
 カデット〔立憲民主党〕、社会主義革命党(エスエル)、メンシェヴィキ、赤軍で戦おうとしなかった帝制時代の将校たち、労働者反対派、Kronstadt の海兵たち、Tambov の農民たち、〔ロシア正教〕聖職者たち、と同じ運命にだ。
 トロツキーは、自分自身が脅威にさらされたときにのみ、全体主義の危険を呼び醒まそうとした。
 党内民主主義への彼の突然の転向は、原理を擁護したのではなく、自己保身の手段だった。//
 ----
 (15) トロツキーは、自分をジャッカルの群れに襲われた誇りある虎だと叙述するのを好んだ。
 そして、スターリンはより怪物的だと示そうとした。レーニンのボルシェヴィズムの理想的範型を救済したいロシアや外国の者たちにとっては、このイメージはより説得的だと感じられた。
 しかし、記録が示しているのは、当時のトロツキーもまた、ジャッカルの群れの中の一頭だった、ということだ。
 彼の敗北には、この点を高貴にするものは何もなかった。
 トロツキーは、政治的権力を目ざす下劣な闘争で自分の首を絞めたがゆえに、敗北した。//
 ----
 後注
 (215) Pravda, No. 281 (1923.12.11), p.4.
 (216) I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.16.
 (217) Kommunisticheskaia Partiia Sovetskogo Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh …7th ed., I (1953), p.778-785.
 (218) Trinadtsatyi S"ezd RKP(b) (1963), p.158.
 ——
 第八節、終わり。最後の第九節の目次上の表題は、<レーニンの死>。

2597/R・パイプス1994年著第9章第八節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退②。
 (08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
 (ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
 突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
 この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
 彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
 彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
 「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
 政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
 自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
 彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
 「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
 党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
 ----
 (09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
 新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
 しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
 長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
 「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
 国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
 中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
 しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
 同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
 同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
 同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
 彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
 同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
 しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
 彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
 彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
 彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
 同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
 この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
 この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
 ----
 (10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
 歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
 また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
 政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
 スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
 のちに、こう説明することになるように。
 「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
 隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
 いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
 ----
 (脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
 ----
 後注
 (205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
 (206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
 (207) Ibid., p.170.
 (208) Ibid., p.173.
 (209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
 (210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
 (211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
 (212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
 (213) Ibid., p.188-9.
 (214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
 ——
 ③へと、つづく。

2596/R・パイプス1994年著第9章第八節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機の試訳のつづき。第八節へ。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退①。
 (01) レーニンが舞台から退いても、スターリンはまだトロツキーに勝たなければならなかった。トロツキーは、ジョージア問題の処理についてスターリンを非難するようレーニンに指示されていた。
 トロツキーがレーニンから託された責任を回避したので、スターリンのこの責務は意外にも緩やかなものになった。
 トロツキーは、レーニンからの任務を実行しないで、ジョージア人を見棄てた。一人の秘書が電話で3月5日のレーニンの手紙を読んだとき、体調が悪いと言って、中央委員会総会でジョージア人のために発言することをそっけなく拒んだ。ほとんど動けない、と主張した。
 しかし、少しだけ躊躇してこう追加した。自分は今や完全にジョージア人反対派の側に立つようになった、と。(注190)
 そう言ってすら、トロツキーは、第12回党大会の開会を延期するとのスターリンの自己のための決定を支持した。(注191)
 彼は大会の直前に、スターリンの書記長への再任を支持する、Dzerzhinskii とOrdzhonikidze の追放に反対する、とカーメネフに保障した。(注192)
 彼は、伝統的にレーニンが行なってきた中央委員会報告を行なってほしいとの、仲間に組み込もうとしてのスターリンの提示を断わった。
 彼は、書記長であるスターリンの方が適格だと思った。 
 スターリンは穏やかに固持して、報告する栄誉はジノヴィエフに移った。彼は、レーニンの地位は望めば自分のものになると信じて、うかうかと前へと進み出た。(注193)//
 ----
 (02) トロツキーとスターリンの経歴上この重大な分岐点でのトロツキーの行動は、現代人および歴史家のいずれをも不可解にさせてきた。
 トロツキー自身は、満足できる説明をいっさい行わなかった。
 多様な解釈が示されてきた。トロツキーはスターリンを過小評価した。あるいは反対に、書記長の地位は固く揺るぎないので挑戦しても失敗すると考えた。闘って確実に党を分裂させるという意欲がなかった。(注194)
 トロツキー信奉者の何人かは、彼は政治的内紛を自分の威厳よりも重視せず、個人的な政治的策謀をする考えが全くなかった、と主張する。(注195)
 彼の伝記作家のIsaac Deutscher は、トロツキーの消極性を彼の「度量」と「英雄的性格」に起因させた。この点でDeutscher は、トロツキーは「歴史上きわめて稀な人物」だと主張する。(注196)//
 ----
 (03) トロツキーの行動は、探り出すのが困難な多数の絶望的要因によるものだったように思われる。
 彼は疑いなく、自分はレーニンの指揮権を継承する資格が最もある、と考えていた。
 だが、彼に立ち向かう険しい障害があることに十分に気づいていた。  
 彼には党指導部に支持者がなかった。指導層はスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの周りに群がっていた。
 よそよそしい個性とボルシェヴィキでなかった過去を理由として、党員のあいだで人気がなかった。
 彼を妨げたもう一つの要因—その性質からして評価し難いけれども確実に重みがあった—は、彼がユダヤ人であることだった。
 この点は、1990年に1923年10月の中央委員会総会に関する詳細が公刊されたことによって浮かび上がってきた。この総会でトロツキーは、代理職へのレーニンの提示を拒否したことに対する批判から防衛した。 
 彼は言った。ユダヤ人出自は自分には何ら意味がないが、政治的には大きな意味がある、と。
 レーニンが提示した高位の職に就くことで、自分は「この国はユダヤ人に支配されているという根拠を、敵に与える」だろう。
 レーニンはこの論拠を「ナンセンス」として却下した。だが、「彼の心の奥深くで、彼は私に同意していた」。(注197)//
 ----
 (04) トロツキーはこのように考えて、1922-23年に大いに矛盾する行動をした。多数派から独立して行動しようと努め、同時に、致命的な「分派主義」との汚辱を避けるべく多数派に協力した。
 結局は、政治闘争に敗北したばかりか、もっと勇気のある立場をとっていたならば得ただろう道徳的敬意をも失った。//
 ----
 (05) トロツキーの黙認によって、スターリンの破滅の舞台になる可能性があった第12回党大会は、彼の勝利で終わった。
 3月16日、スターリンは自信を滲み出して、Tiflis にいるOrdzhonîkidzeに電話して、「いろいろあったけれども」、大会はトランスコーカサス委員会の行為を承認するだろう、と伝えた。(注198) 
 彼は正しかったことが判明した。
 大会で彼は、より民主主義的な手続を40万人の党に導入すれば、党は「帝国主義の狼たち」の継続的な脅威のもとにあるときに行動することができない「おしゃべりクラブ」に変質する理由を、辛抱強く説明した。(注199)
 スターリンは、新しい人員でもって中央委員会を拡大することの有用性について、レーニンに同意した。一方で、構造の変化や人物の交替についての彼の提案は無視した。
 民族問題に関するレーニンの覚書は代議員たちには配布されたが、公表されなかった。(*)
 この問題に関する報告の中で、スターリンは、賢くも中庸の方向を歩んだ。ジョージア人反対派と緩やかな同盟を擁護するレーニンの議論を帳消しにした。一方で、無謀にも、レーニンが彼を追及した「大ロシア民族排外主義」を非難すらした。(注200)
 詳細な記録によれば、彼の組織に関する報告が終了すると、代議員たちは「大きい、長い拍手」でスターリンを讃えた。(+)
 (党大会でのレーニンの演説は、通常は「大きい拍手」とだけ書かれた。)
 トロツキーは、ソヴィエト工業の将来について報告するにとどめた。—これはこの大会での彼の唯一の登場で、たんなる「拍手」を受けた。
 スターリンは容易に、書記長の地位を再確認された。//
 ----
 (脚注*) 1923年4月16日、Fotieva は彼女自身の責任で、民族問題に関するレーニンの小論の複写物をスターリンに送った。スターリンは、こういう仕方で「自分がかかわる」(〈vmeshivatsia〉)のをしたくないという理由で、受け取るのを拒んだ。そして、その複写物は中央委員会に送付された。
 スターリンは、その夜にFotievaから、レーニンの妹の手紙の趣旨をつぎのように引用する手紙を確保した。妹の手紙によると、レーニンはそれを公表せよとの指示を出さなかった、彼女自身も公表するにはまだ適さないと考える。
 スターリンは、Fotieva の手紙を受け取って、中央委員会に対して、レーニンのこのような重要な言明を秘密にしたままだったとしてトロツキーを責める文書を送った。その文書はこう結んでいた。
 「私は、同志レーニンの(民族問題に関する)論文はプレスで公表されるべきだ、と信じる。
 同志Fotieva の手紙によって、同志レーニンがまだ全部を見直していないので公表することはできない、と分かったのは、ただ残念なことだ。」
 公表される代わりに、レーニンの小論は「彼らの情報として」代議員たちに配布された。
 この問題の関係文書は、RTsKhIDNI, F.5, op.2, delo 34 に保管されており、IzvTsK, NO.9 (1990.9), p.153-161 に 再現されている。
 ----  
 (脚注+) Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.62. このような栄誉を受けた他の唯一の報告者は、ジノヴィエフだった(同上、p.47)。—これは、ジノヴィエフがレーニンの後継者だと予想(tout)されていた、さらなる証拠だ。
 ----
 (06) トロツキーの融和的姿勢は、彼のためにはほとんど役立たなかった。
 彼は回想録に、レーニンが無力のあいだにスターリンの仲間たちは彼を除く全ての政治局委員が関与する陰謀を行なっていた、彼らは決定を行なう前に討議し、揃って行動した、と書いている。
 任命される資格を得るために、党員は唯一の基準を充たす必要があった。すなわち、自分(トロツキー)に対する憎悪だ。(注201)
 40名で成る新しい中央委員会で、トロツキーが自分の支持者に含めることができたのは、3人にすぎなかった。(注202)//
 ----
 (07) 情勢は自分に圧倒的に不利で、失うものは何もないと意識して、トロツキーは敵に媚びるのをやめて、反対攻勢に出た。
 彼は、ぐらついている将来を立て直すべく、党員大衆の代弁者を装った。
 固く団結する古参党員たちが自分を外部者と扱うならば、自分は外部者たちの代表者になろう。
 外部者は党員の大多数だった。1922年の調査によれば、37万6000人の党員のうち1917年以前に入党していたのは、2.7パーセントだけだった。そしてそのゆえに、古参党員には有利な資格があった。(注203)
 しかし、その2.7パーセントが党の指導機関を独占し、その機関を通じて国家の諸機構を独占していた。(**)
 トロツキーの友人たちは、トロツキーは影響力のある共産党指導者であり、その名前はレーニンと分かち難く結びついている、と言った。(注204)
 ではどうして、一般党員たちはトロツキーに味方しようとしなかったのか?
 道徳的観点から言っても、1923年10月に開始されたトロツキーの反攻は、絶望的な賭け事にすぎなかった。
 1917年10月以降、誰もがこの時期ほど党の統一の至高の重要性を強く主張したことはなかった。労働者反対派や民主主義的中央主義者がしたように党内民主主義を強く呼びかけるのを、誰もが嘲笑して拒絶した。
 党内民主主義へのトロツキーの転換は、党の運営方法に関する根本的変化が動機となったものではあり得なかった。そのような変化は起きていなかったのだから。
 変化したのは党内でのトロツキーの立ち位置だった。かつては内部者だったが、今や彼は浮浪人(outcast)になった。
 ----
 (脚注**) Leonard Schapiro によると、1920年初頭に党の要職を占めていた者たちの圧倒的多数は、革命以前からのレーニン主義者だった。「革命後の組織上の構造は、したがってこの点で、革命前の地下組織の構造にきわめて近かった」。Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union (1960), p.236-7.
 ----
 後注。
 (190) IzvTsK, No. 9 (1990:9), p.149; Pravda, No. 225/25, 577 (1988.8.12), p.3.
 (191) Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (192) Trotskii, Moia zhizn', II, p.224-5.
 (193) Ibid., II, p.228-9.
 (194) E.g., ibid., II, p.217-8; Deutscher, Prophet Unarmed, p.93.
 (195) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.17.
 (196) Deutscher, Prophet Unarmed, ix. 同上、p.91も見よ。
 (197) V. P. Danilov in Ekonomika i Organizatsiia Promyshlennogo Proizvodstva (EKO), No. 1/187 (1990), p.60.
 (198) RTsKhIDNI, F. 558, op.1, ed. khr. 2518.
 (199) Dvenadtsatyi S"ezd, p.181-2.
 (200) Ibid., p.479-p.495; Pipes, Formation, p.289-293.
 (201) Trotskii, Moia zhizn', II, p.241.
 (202) Deutscher, Prophet Unarmed, p.106.
 (203) I. P. Trainin, SSSR i natsional'naia problema (1924), p.27.
 (204) Trotskii, Moia zhizn', II, p.230.
 ——
 ②へと、つづく。

2595/R・パイプス1994年著第9章第七節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機第七節の試訳のつづき。
 ——
 第七節/レーニン・スターリン・トロツキー②。
 (07) 民族問題に関するレーニンの小論をスターリンが知っていたか否かは、明瞭でない。だがいずれにせよ、レーニンが自分に対する全面的な闘いを準備していることを、今や疑うことができなかった。その闘いによって、自分は全てでないとしてもほとんどの役職を失うことになりそうだった。
 (レーニンはトロツキーに対して、第12回党大会でスターリンに対する「爆弾を用意している」と打ち明けていた。)
 スターリンは、自らの政治生命を賭けて闘っていた。今はいかに権力のある地位に就いていたとしても、レーニンが個人的に戦場を掌握してしまえば、自分には可能性がない。
 スターリンの一つの望みは、レーニンが自分を引き降ろす前に、彼が完全に無能力になることだった。//
 ----
 (08) Dzerzhinskii は、二度めのジョージアでの仕事から、1923年1月に戻った。
 資料を求めるのがレーニンの要請だったが、その資料を携帯しつつ、ごまかしてスターリンに渡すという対応方策をとった。
 スターリンを見つけることが二日間はできなかった。ようやくたどり着いたとき、スターリンはFotieva にこう言った。政治局の許可があるときにのみ、レーニンが求めることに同意するすることができる。
 ついでに彼はFotieva に、「レーニンに何か余計なことを語っていないか」どうか、「レーニンは今どのようにしているのか?」と尋ねた。
 Fotieva は、レーニンに何を告げるのも拒んだ。実際、彼女はスターリンに全てを話していた。
 レーニンはのちに、彼女の面前で、背信を疑っている、と言った。(注180)
 彼は正しかった。
 自分の口述筆記は「絶対に」、「完全に秘密にする」という命令を、彼女は無視した。そして、やがて、Fotieva が得た文書資料から彼女がその内容をスターリンと若干のその他の政治局委員に決まって伝える、という慣行が出来上がった。(*)//
 ----
 (脚注*) Volkogonov, Triumf, I/1, p.153. 褒賞として、スターリンは彼女を1930年代の粛清の対象外にした。彼女は、スターリンよりも長生きし、1975年に死んだ。
 ----
 (09) 2月1日、政治局はようやくレーニンの要請に応じて、Dzerzhinskii が二度めの使命のときに収集した資料を、彼の秘書たちに渡した。
 レーニンは、その資料を読める状態ではなかったので、文書類を秘書団に配布し、情報の所在に関する厳密な指示を発した。
 その作業は終了すれば、ただちにレーニンに報告されることになっていた。
 スターリン、Dzerzhinskii、Ordzhonokidze に対する党大会での責任追及を行うためなので、レーニンは秘書団の作業の進展を強い関心をもって見守った。Fotieva によれば、彼のジョージア問題への関心が絶頂にあったのは1923年2月のあいだだった。(注181)
 3月3日に、報告が彼に届けられた。
 それを熟読したのち、レーニンは、ジョージア人反対派を全力で支援することに決した。
 3月5日、彼はトロツキーに民族問題に関する自分の覚書を送った。それには、中央委員会でジョージア共産党を擁護する責務を担ってほしい、とのトロツキーに対する要請が付いていた。
 「事案はスターリンとDzerzhinskii によって『処理され』ている。その客観性を、私は信頼することができない。全くの逆だ」。(注182)
 ----
 (10) たまたま同じその日、3月5日だった。レーニンは、漏れ聞いた電話での会話についてKrupskaia に質問したところ、彼女は前年12月のスターリンとの出来事を話した。(注183)
 レーニンはただちに、スターリン宛てのつぎの手紙を口述筆記させた。
 「敬愛する同志スターリン!
 きみは厚かましく私の妻に電話して、妻を侮辱した。
 彼女はきみが言ったことを忘れる気持ちだと言ったけれども、このことは彼女を通じてジノヴィエフやカーメネフにも知られている。
 私は自分に対して行なわれたことを簡単に忘れるつもりはない。そして、言うまでもなく、私の妻に対して行われたことは全て、私自身へも向けられていた、と考える。
 この理由により、私はきみに、きみが言ったことを取り消して謝罪するか、それとも我々の関係を断絶させるのを選ぶか、いずれであるかを私に教えてくれるよう求める。」(+)
 Krupskaia はこの手紙を発送するのを止めようとしたが、無駄だった。この手紙は3月7日に、Volodichevaにより個人的にスターリンに配達された。カーメネフとジノヴィエフ宛ての複写物とともに。(注184)
 ----
 (脚注+) Lenin, PSS ,LIV, p.329-330. レーニンは同僚たちに宛てて「敬愛する」(〈Uvazhaem yi〉)という形容詞を用いなかった。これが使われていることは、スターリンはもはや同僚ではない、ということを示唆する。
 手紙の文章からは、トロツキーがのちに主張するようには(例えば、Portrety, p.42)、レーニンがスターリンとの「全ての個人的、同志的関係を断絶」したのではなく、かりにスターリンが謝罪しなければそうするとたんに威嚇していることが、明確だ。—スターリンは謝罪した。
 ----
 (11) スターリンは冷静にその手紙を読み、そして返事を書いた。その内容は1989年に公にされたが、まさに条件つきの謝罪だとのみ叙述できるものだった。
 彼はKrupskaia を攻撃するつもりはなかったと強調し、彼女のレーニンの健康についての責任を想起させたにすぎないと述べつつ、結論的にこう書いた。
 「あなたが『関係』の維持のためには私が先の言葉を『謝罪』すべきだと感じているなら、私は先の言葉を撤回することができる。しかしながら、いったいどうなっているのか、どこに私の誤りがあったのか、何が本当に私に求められているのか、私は理解することができない。」(**)//
 ----
 (脚注**) IzvTsK, No. 12 (1989.12), p.193. Maria Ulianova によれば、レーニンの健康は急速に悪化していたので、彼はスターリンの「謝罪」を読む機会がなかった。同上、p.199。
 ----
 (12) レーニンは翌日、もう一つの覚書を口述した—彼の生涯の最後の意思表明になった—。それはジョージア人反対派の指導者たちに宛てたもので、トロツキーとカーメネフ用の複写が付いていて、ジョージア問題について彼らを「心から」支持する、スターリンとDzerzhinskii の「黙認」に驚愕している、この主題に関する演説を準備している、と知らせた。(注185)//
 ----
 (13) スターリンは、政治的破滅の見込みに直面した。
 レーニンが彼との関係の断絶を提示し、トロツキーには責任追及が依頼されているなら、スターリンが書記長にとどまり続ける可能性は、皆無に近かった。
 しかし、報せは全てが悪いものではなかった。というのは、スターリンが継続的に連絡を取り合っているレーニンの医師団は彼に、患者の健康はいっそう悪くなっていると知らせてくれたからだ。
 それでスターリンは、時間稼ぎをすることに決めた。
 3月9日、〈Pravda〉は、スターリンからの、説明なしの短い一行の発表文を掲載した。三月半ばに予定されていた次期党大会は、4月15日に延期される。(注186)//
 ----
 (14) 賭けは実を結んだ。
 翌日(3月10日)、レーニンは大きな発作を起こし、話す能力を奪われた。10ヶ月後の彼の死まで、〈vot-vot〉(ここ・ここ)、〈s"ezd-s"ezd〉(大会・大会)のような単音節の言葉しか発することができなかった。(注187)
 レーニンに付き添っている医師団—若干のドイツからの専門家を含めて40名—は、彼はもう二度と政治に関して積極的役割を果たすことはないだろう、と結論づけた。
 5月、レーニンは永遠にGorki へと転居した。そこで、好天の日には公園の中で車椅子に座っていた。
 全ての実際的な目的に関して、彼は生きている亡骸だった。何と言われたかを理解し、文章を読めるようにも見えたけれども、彼には意思疎通の能力がなかったからだ。
 8月、Krupskaia は彼に、左手で書くことを教えようとした。しかし、結果は勇気づけるものではなく、彼女は諦めた。(注188)//
 ----
 (15) このレーニンの生涯最後の時期、彼は失敗の感覚で圧倒されていたように見える。
 それを証拠立てているのは、彼が歴史に残した結果の全てについての、陳腐な賞賛や安心への渇望だった。
 かつては好意的であれ敵対的であれ他者の意見には注意を払わなかったレーニンが、1923年と1924年初頭には、賞賛の言葉を切望した。
 彼は明らかな喜びをもって、レーニンをマルクスになぞらえるトロツキーの論文、レーニンなくしてロシア革命は勝利しなかっただろうとのGorky の主張、そしてHenri Guilbeaux、Arthur Williams のような外国の崇拝者の賛辞を、読んでいた。(注189)/
 ----
 後注
 (180) Lenin, PSS, XLV, p.477.
 (181) L. A. Fotieva in VIKPSS, No. 4 (1957), p.162-3.
 (182) Lenin, PSS, LIV, p.329.
 (183) Rogovin, Byla li, p.75.
 (184) IzvTsK, No. 9/308 (1990.12), p.151.
 (185) Lenin, PSS, LIV, p.330.
 (186) Pravda, No. 53 (1923.3.9), p.1; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39; IzvTsK, No. 9 (1990.9), p.152.
 (187) V. P. Osipov in KL, No. 2/23 (1927), p.236-p.247; Petrenko in Minuvshee, No. 2 (1986), p.146; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (188) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1289 &1290.
 (189) Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.279-284; Trotskii, Moia zhizn', II, p.251-2.
 ——
 第9章第七節、終わり。

2594/R・パイプス1994年著第9章第七節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第七節へ。
 ——
 第9章第七節/レーニン・スターリン・トロツキー①。
 (01) レーニンはその月の遅くに戻り、頭脳の明晰さが残っていた二ヶ月のあいだ、仕事が許された合間に、短い文章を口述した。それらの文章の中で、彼は、自分が病気中のソヴィエトの政策がとった方向について絶望的な気持ちを表現し、改革の道筋を構想した。
 これらの小論で顕著なのは、まとまりの悪さ、本筋から逸れる書き方、繰り返しの多さだ。これら全てが、精神状態の悪化の兆候だった。
 きわめて有害なものは、スターリンの死まで、ソヴィエト同盟で公刊されなかった。
 レーニンの小論は最初はスターリンの継承者たちによってスターリンの信用を落とすために使われ、のちの1980年代には、ミハイル・ゴルバチョフの〈perestroika〉を正当化するために用いられた。
 これらは、経済計画、協同組合、労働者農民観察局の再編成、党と国家の関係を対象にしていた。
 全てを通じて、レーニンの晩年の文章や演説は共通する主題を扱い、ロシアの文化的後進性に対する絶望の感覚で溢れていた。彼は今や、文化の程度の低劣さがロシアでの社会主義建設の主要な障害だと見なすにいたった。
 「我々はかつて、活動の中心を政治的闘争に、革命に、権力の征圧に置いたし、そうしなければならなかった。
 しかしながら、今では、中心は平和的な『文化的』作業に広がり、それへと変化している。(注174)
 レーニンは、こうした言葉によって、暗黙のうちに自らの過ちを承認していた。すなわち、30年前に、ロシアは社会主義を達成する前に文化の貧困さを認めて資本主義の学校を卒業しなければならない、とのPeter Struve の議論を「ブルジョア的」として拒絶した、という過ちを冒した、ということを。(注175)
 ----
 (02) レーニンの晩年の文章が扱った最も重要な主題は、後継者と諸民族の問題だった。
 12月23日と26日の間に、のちに1月4日付の補遺が付くが、小さい爆発物のように、彼は口述した。それは、来る第12回党大会〔1923年〕に配布される予定の同僚たちに関する一連の彼の論評だった。—やがてレーニンの「遺書」として知られることになる。(*)
 スターリンとトロツキーの対抗関係を心配して、レーニンは、中央委員会を27名から100名ほどにまで拡大することを提案した。新入者は、農民層と労働者階級から選抜される。
 この拡大は、党と「大衆」の間の懸隔を埋め、今はスターリンがしっかり握っている党を指導する機関の権力を弱める、という二重の効果をもつことになるだろう。//
 ----
 (脚注*) Lenin, PSS, XLV, p.343-8. Krupskaia は1924年春に、レーニンの望みに従って晩年の文書類を彼の仲間たちに渡した。カーメネフは1924年の第13回党大会の上級者会議で、この「遺書」を読んだ。スターリンはこれが代議員たちに配布されていれば自分に生じたかもしれない窮迫事態から救われた。ジノヴィエフの、過去の者は過去へ、との示唆もあった。
 Krupskaia の反対意見をめぐって、この「遺書」は代議員たちに知らせるが公刊はしない、との合意が、トロツキーも一致してなされた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/116 (1989.1.22), p.8-9.
 この文書の内容は、つぎの記事で最初に公的に知られた。Max Eastman in the New York Times 1926年1月5日付。
 レーニンが「遺書」を残したことを1925年には全く信じなかったトロツキーは(Boolshevik, No., 1925, p.68)、10年後にThe Suppressed Testament of Lenin を出版した。この書物で彼は、「遺書」が党指導者たちに読まれたとき、自分に関する論評を聞いてスターリンは、レーニンに関する彼の本当の感情を表現する「語句」を口からすべらした、と想起した。その語句は発したことのないものだった。Suppressed Testament, p.16.
 「遺書」は1956年に、ソヴィエト連邦で初めて公表された。
 ----
 (03) レーニンはあれこれと求めたが、文書が厳格に秘匿されることに全てが関係していた。彼は、文書は自分かKrupskaia のどちらかだけが開けられるよう、封印された封筒に入れるよう命令した。
 しかしながら、12月23日に口述を筆記した秘書のM. A. Volodicheva は、自分に委ねられた重要な文書を知っていることの責任に困惑し、Fotieva に相談した。するとFotieva は、その文書を書記長に見せるよう助言した。 
 スターリンは、ブハーリンとOrdzhonikidze がいる所でその文書を読んで、彼はVolodicheva に焼却するよう命じた。彼女はそうした。Gorki にある金庫にあと四つの複写物を入れていることを明らかにしないままで。(注176)//
 ----
 (04) Volodicheva の不謹慎さに気づくことなく、翌日にレーニンは彼女に、党の指導的人物に関するいっそう爆弾的な言葉を口述した。(注177)
 書記長になっているスターリンは、「無制限の」(neob'iat-noia)権力を蓄積した。「私は、彼がこの権力を十分に慎重に行使する仕方をつねに知っているとは、確信していない」。
 1月4日〔1923年〕、つぎの補遺がFotieva に口述された、/
 「スターリンは粗暴[grub]すぎる。そして、この欠点は我々中央の内部や我々の関係では共産党員として十分に耐え得るものだが、書記長という役職にいれば耐え難いものになる。
 私はこの理由で、同志諸君はスターリンを今の役職から外し、同志スターリンよりもただ一点の長所、すなわち忍耐力、忠誠心、丁寧さ、同志の対する気配りをもっと持ち、もっと気紛れでない等の誰かと交替させることを考えるよう提案する。」(注178)/
 レーニンはかくして、スターリンの小さな悪癖、行為と気質の欠陥だけを指摘した。加虐的冷酷さ、誇大妄想、全ての優越者への憎悪が含まれる。そして、最後まで、スターリンを理解しなかった。//
 ----
 (05) トロツキーについては、「現在の中央委員会で最も有能な人物」だが、「あまりにも自信に陥りやすく、仕事の純粋に管理的観点にあまりにも執着している」と論評した。
 後者の点でレーニンが意味させたのは、書類仕事ではない、非合議的な指令様式による運営への耽溺だった。
 1917年十月に、権力奪取に反対したカーメネフとジノヴィエフの恥ずべき行為を思い出した。
 だが、ブハーリンとPiatakov については、条件付きで良いことを叙述できた。—前者は党の最も傑出した理論家で、党のお気に入りだ。しかしなおも全くマルクス主義者でなく、スコラ哲学ふうだ。(+)
 いったい誰が書記長にふさわしいと思っているかに関しては、何も示されなかった。だが疑いなく、スターリンは去るべきだった。
 こうした散漫な論評を読んで受ける印象は、レーニンは誰一人として自分の権威を継承する資格がない、と考えていた、ということだ。
 Fotieva はすぐさま、こうした論評をスターリンに伝えた。(注179) 
 ----
 (脚注+) レーニンは一年前に、カーメネフを叙述する四つの形容詞を書き留めていた。「貧素なやつ((bednenkii〉)、弱い、陽気な、怯えている」。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 22300.
 ----
 (06) レーニンはつぎに、民族問題に取りかかり、この主題について、12月30-31日に三つの覚書を口述した。
 ここで、共産党機構が少数民族に対処した態様を激しく批判した。(**)
 彼の論評の主旨は、「自治化」というスターリンの案—今は放棄されていた—は完全に時機を失しており、その目的はほとんどが帝制時代から残っているソヴィエトの官僚制が国全体を支配するのを可能にすることだ、ということだった。
 レーニンは、同化した非ロシア人であるスターリンとDzerzhinskii を、「民族排外主義」だと非難した。
 彼はスターリンについて、「純粋で本当の『社会主義的民族主義者』であるばかりか、粗雑な大ロシアDzerzhimorda でもある」と評した(Dzerzhimorda とは、Gogol の〈検察官〉に登場する警察官で、その名前は「大鼻の黙らせ屋(snout muzzler)」を意味する)。
 スターリンとDzerzhinskii は、ジョージア人に対する「この本当に大ロシア民族主義的な活動」について、個人的な責任を取るべきだ。
 レーニンは、実際的結論として、同盟は強化されるべきだが、少数民族の人民にはnational な統合と共存できる最大限の権利が与えられなければならない、と要求した。但し、彼はこうも言った。民族少数派共和国の一部の独立を企てるいかなる試みも、「党の権威によって適切に弱体化することができる」。
 これは、いかにも典型的なレーニン主義的解決だった。彼においては、民主主義の前景(facade)によって、全体主義の実質は隠されなければならない。//
 ----
 (脚注**) つぎで最初に出版された。SV, No. 23-24/69-70 (1923.12.17), p.13-15. 後述する理由で、諸小論はソヴィエト同盟では1956年の第20回党大会まで公表されなかった。Lenin, PSS, XLV, p.356-362.
 その二年前の1954年に公刊した私の翻訳(Formation of the Soviet Union, p.273-7)は、Trotsky Archive at Harvard にあった複写物にもとづいていた。
 ---- 
 後注
 (174) Lenin, PSS, XLV, p.376.
 (175) P. B. Struve, Kriticheskie zametki k vopros ob ekonomicheskom razvitii Rossii, I (1894), p.288; Richard Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), Ch. 6.
 (176) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8; Genrikh Volkov in Sovetskaia kul'tura, No. 9/6577 (1989.1.21), p.3.
 (177) Lenin, PSS, XLV, p.344-6.
 (178) Ibid., p.346.
 (179) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8-9.
 ——
 ②へと、つづく。

2593/R・パイプス1994年著第9章第六節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
 ——
 第六節・ジョージア紛議②。
 (08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
 また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
 スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
 スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
 ----
 (09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
 スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
 レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
 その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
 彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
 レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
 彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
 ----
 (脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
 ----
 (10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
 一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
 彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
 ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
 しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
 このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
 三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
 ----
 (11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
 スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
 スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
 10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
 これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
 これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169) 
 Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
 スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
 ----
 (12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
 しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
 彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
 スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
 書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
 レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
 ----
 (13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
 レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
 Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
 レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
 (彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
 彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
 翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
 レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
 ----
 (14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
 1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
 彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
 親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
 ----
 後注
 (163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
 (164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
 (165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
 (166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
 (167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
 (168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
 (169) Pipes, Formation, p.274-5.
 (170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
 (171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
 (172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
 (173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
 ——
 第9章第六節、終わり。

2592/R・パイプス1994年著第9章第六節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機、の試訳のつづき。第六節へ。原書、p.471〜。
 ——
 第六節・ジョージア紛議(the controversy over Georgia)①。
 (01) レーニンのスターリンに対する敵対意識は強いものだったが、少数民族に対処するスターリンの高圧的方法によって、さらに増大した。
 レーニンは、ロシアの少数民族への適切な対応を重要視した。それはソヴィエト国家の結合にとって重要なだけではなく、植民地諸民族への影響をもちそうだったからだ。
 本質問題について、スターリンと対立してはいなかった。つまり、民族主義(nationalism)は「プロレタリアート独裁」においては「ブルジョア的」遺物だった。
 ソヴィエト国家は中央志向であり、諸決定は民族的選好を考慮することなく行われなければならなかった。
 スターリンとの違いは、方法だった。
 レーニンは、民族少数派はロシア人の過去の虐待を理由としてロシア人への不満を説明してきた、と考えた。
 彼は、制限された文化的自治をもつ連邦上の外装を認めたり、とりわけ最大限の如才なさでもって対応するといった、本質的には形式上の譲歩をすることで、この不満を緩和しようとした。
 民族的情緒を全く欠く人物を軽蔑し、大ロシア排外主義は共産主義の世界的利益にとって危険だと見ていた。//
 ----
 (02) 奇妙な外国訛りでロシア語を話すジョージア人のスターリンは、異なって考えていた。
 彼は早くに、共産党の権力基盤は大ロシアの民衆にあると理解した。
 1922年に登録された37万6000人の党員のうち、ゆうに27万人あるいは72パーセントがロシア人だった。そして残りの党員たちのうち高い割合の者たちが、ロシア化していた。ウクライナ人党員の半分、ユダヤ人党員の三分の二。(注156)
 さらに、内戦の過程で、かつ対ポーランド戦争の間ですら、共産主義とロシア民族主義の間の微妙な融合が起きた。
 それが最も顕著に発現したのが、いわゆる「Smena Vekh」または「目印の変化」だった。これは保守的なエミグレ(国外脱出者)の中で人気を博した運動で、ソヴィエト国家をロシアの民族的偉大さを示すものと把握し、エミグレたちに帰国するよう説いた。
 第10回党大会(1921年)で、ある代議員は、ソヴィエト国家の成果は「ロシア革命に関係した者たちの心を誇りで充たし、特有の赤色ロシア愛国主義を引き起こした」、ということに気づいた。(注157)
 スターリンのような野心的政治家には、より大きい関心は、世界を転覆させることではなく、地元(home)で権力を獲得することにあった。そして、このような民族にかかわる推移は、危険ではなく好機だった。
 彼の経歴の最初から、そしてより公然と彼の独裁の年月とともに、彼は民族少数派を犠牲にする大ロシア民族主義者だと自認した。//
 ----
 (03) 1922年までに、共産主義者は非ロシア人が住む境界諸国のほとんどを再征服していた。
 この帝国主義的拡大の決定的要因は、赤軍だった。
 しかし、本国の共産党員たちも、プロパガンダと破壊活動によって、貢献した。そして、新しい体制が樹立されると、地方の事情について発言しようとした。
 このような要求に、中央は十分な注意を払わなかった。スターリンは、民族問題人民委員と書記局長の職に就いていたが、各々のいわゆるソヴェト共和国を、帝政時代にあったのとよく似たロシアに固有の一部だと見ていた。
 その結果として生じたのは、〔中央に対する〕憤慨であり、地方の共産党員とモスクワの中央機構の間の対立だった。レーニンはこのことに、1922年遅くに注意を向けるに至った。//
 ----
 (04) この点に関する最も暴力的な対立が、ジョージアで発生した。
 スターリンは、鎮圧したメンシェヴィキの本拠は自分の個人的な管轄区域だと見なし、ジョージアが占拠されたあとで、地方党員を越えて、ジョージア人仲間で共産党コーカサス事務局長のSergei Ordzhonikidze の助けを安直に求めた。
 トランスコーカサスの経済の統合というレーニンの指示を実行するために、Ordzhonikidze は、ソヴィエト・ロシアへと一体化する予備段階として、ジョージアをアルメニア、アゼルバイジャンとともに一つの連邦に合併させた。
 Budu Mdivani とPhlip Markharadze が率いた地方党員たちはこれに抵抗し、Ordzhonikidze の高慢な措置についてモスクワに対して不満を述べた。(注158)
 レーニンは彼らの異議に従って、トランスコーカサスの政治的および経済的統合を一時的に延期した。
 その後、1922年3月に、彼は合併を進めるよう命令した。
 そして、Ordzhonikidze は、トランスコーカサス・ソヴェト社会主義共和国連邦同盟の設立を発表した。三共和国の政府が行使していた権力のほとんどは、新しいトランスコーカサス連邦へと移管された。
 Tiflis〔ジョージアの首都—試訳者〕からの異議申立ては、レーニンには効果がなかった。彼はこのような問題について、スターリンの助言を信頼していた。//
 ----
 (05) 1922年の夏、共産党の領域は、四つの共和国で構成されていた。
 ロシア(RSFSR, ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦)、ウクライナ、ベラルーシ、およびトランスコーカサス。
 これらの形式的関係は双務的条約で規定された。
 だが現実には、四つの共和国全てがロシア共産党によって管理された。
 今決定されたのは、これらの共和国の関係をより整理されたものにする、ということだった。
 レーニンは、連邦同盟の基本的考え方を検討する任務を、1922年8月に、スターリンを長とする委員会に委託した。(注159)
 スターリンは、驚くほどの簡潔さをもつ結論に至った。
 すなわち、三つの非ロシア人共和国は、RSFSR〔ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦〕に自治的団体として加盟する。ロシア共和国の中央国家機関が、連邦的権限を引き継ぐ。
 このような制度では、ウクライナまたはジョージアと、Iakutiia またはBashkiriia のようなRSFSR内部の自治共和国との間の国制上の区別が消滅してしまう。 
 これは、全ての重要な国家機能をロシア共和国に与えるという、きわめて中央集権的な制度編成だった。(注160)
 じつに、帝制時代の「一つで不可分のロシア」という原理を復元させるものだった。//
 ----
 (06) これは、レーニンが想定していたものでは全くなかった。
 彼は1920年に早くも、二種のソヴェト的政体を構想していた。すなわち、大民族集団のための、形式上の主権をもつ「同盟」諸共和国と、少数派民族集団のための「自治」諸共和国。
 スターリンは、今のモスクワは行政の実際の観点から大民族と小民族を区別していないように、こう区別するのは学者的だと考えた。(注161) 
 レーニンの命令を受けて、スターリンは自分自身の考えに従って新しい国家構造を考案しようとした。//
 ----
 (07) 「自治化」(autonomization)という観念にもとづくスターリンの提案の草稿が、同意を求めて各共和国に送られた。
 それは、敵対的に受けとめられた。
 最も不満をもったのは、ジョージア共産党だった。彼らは1922年9月15日に、スターリンの提案は「未熟」だと宣明した。(注162)
 Ordzhonikidze はこれを却下し、トランスコーカサス連邦に賛成して草稿は〔ジョージア共産党に〕同意されたと、スターリンに知らせた。
 ウクライナは判断を保留し、ベラルーシはウクライナの決定に従うと宣言して、両方に肩入れした。
 スターリンの委員会は、事実上の全員一致で、彼の案を採択した。//
 ----
 後注
 (156) Richard Pipes, Formation of the Soviet Union, rev. ed. (1964), p.278.
 (157) V. P. Zatonskii in Desiatyi S"ezd, p.203.
 (158) Pipes, Formation, p.266-9.
 (159) Ibid., p.270; IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191.
 (160) スターリンの提案は、1964年に初めて公刊された。Lenin, PSS, XLV, p.557-8. 彼の「自治化」提案をめぐる論争に関するその他の文献資料は、つぎにある。IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191-p.218.
 (161) Lenin, Sochineniia, XXV, p.624. 
 (162) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.196.
 ——
 ②へと、つづく。

2591/R・パイプス1994年著第9章第五節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第五節・レーニンの孤立③。
 (12) 官僚機構上の小さな敗北、そしてレーニン・トロツキー連合という妖怪。これらは三人組に警戒を促した。彼らが生き残るには、政府案件からレーニンを完全に隔絶することが必要だった。
 トロツキーが勝利した12月18日〔1922年〕、スターリンとカーメネフは中央委員会総会で、レーニンの健康と摂生に関する権限をスターリンに全権委任する決定を獲得した。
 スターリンがその秘書のLydia Fotieva に伝えたように、この決定はきわめて重要な意味をもった。その条項はつぎのとおり。
 「同志スターリンに対して、共産党員との接触と文通のいずれについても、Vladimir Ilich Lenin の隔離(isolation,〈izoliatsiiu〉)に関する個人的な責任を付与すること」。(注142、/
 スターリンの指示によると、レーニンは短い時間ごとに仕事をし、そのうちの一人はスターリンの妻のN. I. Allulieva である秘書たちに、口述筆記させることができた。
 これは驚くべき方法で、レーニンと彼の妻を精神的無能者として扱うものだった。
 レーニンはただちに、中央委員会は医師団の助言にもとづいて決定しておらず、反対に、医師団にどう語るべきかを伝えている、と疑った。(注143)//
 ----
 (13) レーニンは、その中心にスターリンがいるとますます疑った、その計略の罠に嵌ったと感じて、助けを求めてトロツキーへと向かった。トロツキーもまた、同様の窮地にいた。
 トロツキーによると、我々にはこの彼の言葉しか手がかりがないのだが、レーニンは、ソヴナルコムの副議長の地位を受諾するようもう一度彼に要請した。—12月前半のいつかの私的な会話のことで、二人が直接に接触した最後となった。
 しかし、トロツキーが言うには、この場合はレーニンはさらに進んで、官僚機構一般に、とくに組織局に対抗する「陣営」(bloc)に彼も加わるよう求めた。
 トロツキーはこれを、スターリンに対抗する連合(coalition)を意味していると理解した。(注144)//
 ----  
 (14) 1922年12月15-16日の夜、レーニンは、二度めの発作を起こした。その後、医師団は強制的な休息と全ての政治的活動の自制を命令した。
 レーニンは、服従を拒んだ。(注145)
 彼は、完全な身体的無能力になる、また、あり得る死の危機に瀕していると感じた。そして、全てを良い状態で残すのを確実にしたいと思った。
 12月22日、話す力を失ったときは青酸カリを渡すようにFotieva に頼んだ。(注146)
 レーニンは五月に早くもスターリンに似たような頼みをしていた。これは、彼はスターリンに特別の信頼を寄せていた証拠だと、Maria Ulianova が理解する事実だ。(*)//
 ----
 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198. 彼女の叙述は、スターリンの命令に応えたブハーリンの依頼で書かれた。また、ブハーリンの手書き文書も残されていており、真実性にはある程度の疑問を生じさせる。Rogo vin, Byla li, p.71.
 トロツキーは、殺害される直前の1939年に、1923年2月の政治局会議での出来事を思い出した。その会議でスターリンは邪悪な目つきをして、レーニンが希望のない状態を終わらせるために自分に毒を求めた、と報告した。L. D. Trotsky, Portrety (1984), p.45-49.
 トロツキーはその生涯の最後に、レーニンは書記長〔スターリン〕が与えた毒で死んだと信じていたようだ。Houghton Library, Harvard Uni,, Trotsky Archive, bMS Russian 13 T-4636, T-4637, T-4638.
 トロツキーの主張には不誠実なところがあった。なぜなら彼は、レーニンの血液には毒素の痕跡はなかった、とする検死結果を知らせるDzerzhinskii からの電話を受ける地位にあったからだ。RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 322.
 Fotieva によると、スターリンはレーニンに決して毒を与えなかった。MN, No. 17 (1989.4), p.8.
 ----
 (15) 12月21日、レーニンは秘書たちを信頼できなかったようで、妻のKrupskaia にトロツキーへの暖かいメモを口述した。それは、「一発の砲弾も打つことなく戦術的妙計だけでもって」外国通商の独占をめぐる闘いに彼が勝利したことを祝うものだった。
 彼はトロツキーに、攻撃を強めるよう強く迫った。(注147) 
 このメモの内容は、すみやかにスターリンに伝えられた。彼は今では、レーニンとトロツキーが自分に対抗する勢力に加わっているという疑いに確信をもった。
 彼はその翌日に、Krupskaia に電話をかけ、彼女の夫の口述ををしたのは党の権限でもって自分が決めた摂生方法に違反していると、激しく叱責した。そして、中央統制委員会の調査にかける、と彼女を脅かした。
 電話が終わったあと、Krupskaia は激怒の発作に陥り、泣きながら床を歩き回った。(注148)
 その夜〔12月22日〕、彼女が夫にこの出来事を告げる前に、レーニンはさらにもう一回、発作を起こした。 
 Krupskaia はカーメネフに対して、党員であった全期間を通じて誰もスターリンがしたようには自分に話しかけなかった、と書き送った。
 自分以上に誰が、夫の健康の世話をするのか?、彼にとって良いことを自分以上に誰が知っているのか?(注149)
 スターリンは、この手紙について知らされて、Krupskaia に電話をして詫びるのが分別ある態度だと考えた。しかし、カーメネフと相談をして、レーニンの隔離を実行すべくいっそう警戒する措置をとった。
 12月24日、政治局(ブハーリン、カーメネフ、およびスターリン)の指示に従って、医師団はレーニンに対して、口述の時間を一日に5分ないし10分に限定するよう命じた。
 彼の口述は回答を必要とする意向伝達ではなく、個人的なメモ書きだと見なされることとされた。これは、レーニンが国家の諸問題に介入したり、トロツキーに通信したりするのを禁止する、巧妙な方策だった。
 指示書には、こうある。「いかなる友人も家族も、レーニンに考察や興奮の素材を与えないように、政治生活に関してはいっさい彼に伝えてはならない」。(注150)
 かくして、健康を守るためという装いのもとで、スターリンとその仲間たちは、レーニンを事実上は家屋内監禁の状態にした。(+)
 ----
 (脚注+) この措置には30年後に奇妙な反応があった。1952年の秋、スターリンの医師は彼が健康でないと知り、ただちに全ての仕事をやめるよう迫った。スターリンは、おそらく先例を忘れておらず、その医師の逮捕を命じた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1), p.9.
 ----
 (16) レーニンは、その政治的習癖への高い対価を払っていた。
 20年間、彼はその同僚たちを支配してきた。だが今や、彼らは権力を味わい、自分たちが権力を握ろうと焦っていた。
 彼らは、党内につぎのようなつぶやきを流布する運動をして、静かなクー・デタに至ることを正当化した。「老人」とは連絡が取れない、彼は精神状態が正常ではない。(注151)
 トロツキーは、不誠実にも、この運動に加わった。
 1923年1月、レーニンは迫っている党大会に備えてPravda 用に論文を書いた。その中で彼は、党の分裂の可能性について懸念を述べ、これを阻止する方策を提案した。(注152)
 政治局と組織局は合同会議を開き、一般党員に衝撃を与えそうな論文の公表の是非を、長々と議論した。党員からは、指導部との不一致は語られてないなかったのだ。
 レーニンは自分の論文が掲載された〈プラウダ〉を見たいと要求していたので、V. V. Kuibyshev は、レーニンが目にする一部だけの発行を提案した、
 結局、政治局の会議には中央統制委員会(TsKK)の代表者が同席すべきだとする一節を除いて、論文は公表されると決定された。中央統制委員会は、とりわけ書記長を含む、どの「有名人たち」の影響下にもなかった。(注153)
 同時に、指導部は論文の潜在的に有害な影響を弱めるために、地方や地区の党組織に対して、秘密の回覧書を配布した。
 1月27日付のその文書は、トロツキーが起草し、スターリンを含む政治局と組織局のメンバーが手書きで署名した。そして、レーニンの体調は良くなく、政治局の会議に出席することができない、と忠告するものだった。
 このことから分かるのは、実際には党が分裂する危険性は少しもなかった、ということを、レーニンは認識していなかった、ということだ。
(注154)
 この文書の内容を知ったならば、レーニンは、ニコラス二世が退位を強いられた後で日記に書いた言葉を思い出したかもしれない。
 「あたり一面、裏切り、臆病、欺瞞ばかりだ!」。//
 ----
 (17) トロツキーが協力した褒賞として、スターリンは彼に対して1月に、VSNKh(最高経済会議)またはGosplan(国家計画委員会)のいずれかを所管する〈zamy〉の職をもう一度提示した。
 トロツキーは、再び断わった。(注155)//
 ----
 (18) レーニンは、追いつめられた動物のように抵抗した。
 発作の間の明晰なときに三人組がしていることを知り、それに対抗する大きな運動を準備した。
 明らかにそうできる状態ではなかったけれども、トロツキーの助けを借りて、3月に予定されている第12回党大会で、国の政治的および経済的運営の劇的な変化を貫徹しようとした。
 トロツキーは、この闘いの当然の同盟者だった。彼もまた、政治的に孤立していたからだ。
 かりにレーニンが成功していたならば、スターリンの経歴は大幅に後退していただろう。破滅しはしなかったとしても。//
 -----
 後注
 (142) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo, list 88.
 (143) Lenin, PSS, XLV, p.485.
 (144) L. Trotsky, The Real Situation in Russia (1928), p.304-5; Moia zhizn', II, p.215-7.
 (145) Khronika, XII, p.542-3.
 (146) Maria Ulianova in IzvTsK, No. 6/317 (1991), p.190.
 (147) Lenin, PSS, LIV, p.327-8.
 (148) Ulianova in IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (149) Lenin, PSS, LIV, p.674-5.
 (150) Ibid., XLV, p.710.
 (151) Leon Trotskii in Biulleten Oppozitsii, No. 46 (1935), p.4.
 (152) Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (153) Pravda, No. 16 (1923.1.25), p.1. PSS, XLV, p.387を参照。
 (154) 初出は、IzvTsK, No. 11/298 (1989.11), p.179-180.
 (155) Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n-199n.
 —
 第9章第五節、終わり

2590/R・パイプス1994年著第9章第五節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
 ——
 第五節・レーニンの孤立②。
 (07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
 彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
 誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
 彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
 彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
 これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
 スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
 彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
 そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
 討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
 スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
 スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
 社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
 彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
 ----
 (08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
 この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
 トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
 現実は、他愛のないものだった。
 レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
 実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
 政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
 トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
 彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
 彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
 提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
 しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
 ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
 ----
 (脚注*)
 , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
 -----
 (09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
 二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
 しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
 いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
 9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
 これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
 ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
 レーニンの反応は、激怒だった。
 「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
 きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
 ----
 (脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
 トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
 ----
 (10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
 9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
 10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
 不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
 トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
 「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
 レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
 彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
 証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
 彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
 翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
 レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
 また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
 ----
 (11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
 これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
 レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
 Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
 レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
 この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
 トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141) 
 トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
 ----
 後注
 (132) Carr, Interregnum, p.270.
 (133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
 (134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
 (135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (136) TP, II, p.831.
 (137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
 (138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
 (139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
 (140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
 (141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
 ——
 ③へと、つづく。

2589/R・パイプス1994年著第9章第五節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第五節へ。
 日本共産党「創立」は1922年とされている。そして同党2020年綱領も従来の綱領と同趣旨で、「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別し、後者のあとでは「スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨て」た、と明記する。レーニンの死の1924年が画期のようだ(より正確にはその死は1924年1月21日)。なお、叙述されているように、スターリンの書記長就任は1922年4月で日本共産党「創立」・コミンテルンによる承認よりも前、レーニン生前もスターリンを含む「トロイカ」体制があった。
 ——
 第五節・レーニンの孤立①。
 (01) レーニンは、自分が作った体制の結果としてロシアが単独者支配になるとは、予想していなかった。
 そのようなことは不可能だと、考えていた。
 1919年1月、メンシェヴィキの歴史家のN. Rozhkov はレーニンに手紙で独裁的権力を掌握するよう、熱心に勧めた。これに対して、レーニンは、こう書き送った。
 「こう表現するのを許してくれるなら、『個人的独裁』に関しては、全くナンセンスだ。
 党機構はすっかり巨大になった、—ある意味では過剰なほどだ。
 このような状況では、『個人的独裁』は(一般に)実現し難い」。(注123)
 実際には、党機構がどれほど巨大になったか、それがどれほどの費用を要しているのか、レーニンはほとんど知らなかった。
 彼は、党の予算は過去の九ヶ月で4000万金ルーブルを要している、という1922年2月にトロツキーがもたらした情報を信用しなかった。(*)//
 ----
 (脚注*) RTsKhIGNI, F. 2, op. 1, delo22737. この総額は、この時期にドイツがソヴィエト・ロシアに提供した信用借款額とほとんど等しい(上掲, p.427)。
 ----
 (02) レーニンは、別のことに悩んでいた。すなわち、党は最上層部で抗争が激しくなり、下層からの官僚主義によって弱体化する、という見通しに恐れていた。 
 彼はどちらも脅威だとは思ってこなかった。共産主義者は、自分たちの誤りを除いて、生じたこと全てを不可避で科学的に説明し得るものだと見た。この点では、きわめて主意主義的(voluntarist)になっていて、人為的誤りによる間違いを非難した。
 公平な観察者からすると、レーニンが悩み、彼の革命を危うくしている問題は、彼の体制の諸前提に内在していたように見える。
 彼らが生み出した矛盾に関するDeutscher の分析を受け入れるためには、ボルシェヴィキがもった願望についての彼のロマンティックな見方に同調する必要はない。Deutscher はこう書いた。
 「ボルシェヴィキ党の夢想によると、党は紀律をもつが内部では自由な、献身的な革命家の集団であって、権力によって腐敗するはずはない。
 自分たちはプロレタリア民主主義を遵守し、少数民族の自由を尊重する。なぜなら、これらなくして、社会主義への真の前進はあり得ないからだ。
 こうした夢想を追求して、ボルシェヴィキは、巨大な中央志向の権力機構を築き上げた。そして、この機構のために、彼らの夢想を次第に潰してきた。プロレタリア民主主義、少数民族の権利も、そしてひいては彼ら自身の自由も。
 彼らは、その理想の達成を目ざして運動するとするなら、権力なしで済ませることはできなかった。
 しかし今や、彼らの権力が自分たちの理想と対立し、それを曇らせるに至った。
 きわめて深刻な矛盾が発生した。
 また、夢にしがみつく者と権力にしがみつく者との間に、深い溝も生まれた。」(注124)/
 論理的前提と現実的結果の間の連結を、レーニンは失った。
 生涯の最後の数ヶ月、彼は、体制を守るための方策として、諸制度を再構築し、人員を再配置する以外のことを考えつかなかった。//
 ----
 (03) 彼は、権力掌握以降に、権力は一人に、つまり彼自身に依存し、彼がソヴナルコムの議長かつ党政治局の名義なしの指導者という二つの役割を果たしてきた。だが、彼一人に依拠するこのような党と国家機関の融合を、永続的なものとして制度化することはできない、とやむなく結論づけた。
 いずれにせよ、国家機構から提出された、重要な問題と些細な問題への対応で、ほとんどが瑣末な多数の案件の事務処理で、党の政策形成機関が停滞していて、組織機構は作動しなくなっていた。
 レーニンが部分的に引退したのち、古い組織編成は改められた。
 彼は1922年3月に、全てがソヴナルコムから党政治局に持ち込まれていると不満を述べ、「ソヴナルコムと党政治局の間の連結にかかわる多くのことを自分自身が行なってきた」のだから、結果として生じている混乱の責任は自分にある、と認めた。また、「私が去らなければならないとき、二つの車輪は協調して回ることはないことが明らかになった」と述べた。(注125)//
 ----
 (04) 1922年4月、スターリンが総書記の役職に就いたその月、レーニンは、二人の信頼できる同僚を国家機構の監視者として指名することを思いついた。
 彼は政治局に対して、二人の代理者(deputy、〈zamestiteli〉、短くは〈zamy〉)を設けることを提案した。一人はソヴナルコムを動かし、もう一人は労働国防評議会(Truda i Oborony ソヴェト、またはSTO)を動かす。(+)
 どちらの機関でも議長であるレーニンは、ソヴナルコムのために農業専門家のAlexander Tsiurupa、STOのためにRykov を、多数の人民委員部職員を監督させるために用いることを提案した。(**)
 経済運営について何の権限も与えられていなかったトロツキーは、この提案を激しく批判し、〈Zamy〉の職責はあまりに広くて無意味なほどだ、と主張した。
 トロツキーは、経済は党の介入をなくして、中心からの権威主義的方法に従わせないかぎりは、満足できない実績を生み続けるだろう、と考えていた。(注126) これは、経済の「独裁者」になりたいというトロツキーの願望を意味していると、広く解釈された。
 レーニンはトロツキーを「根本的に誤っている」と評し、間違った判断を言い募ったと責めた。(注127) //
 ----
 (脚注+) Lenin, PSS, XLV, p.152-9. この評議会はソヴナルコムの最も重要な委員会だった。主として経済問題を扱い、一種の「経済内閣」(Alex Nove, An Economic History of the USSR, 1982, p.70)を形成していた。E. B. Genkia, Perekhod sovetskogo gosudarstva k Novoi Ekonomicheskoi Politike (1954), p.362 を参照。
 この提案の背景について、T. H. Rigby, Lenin's Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), 第13章を見よ。
 (脚注**) Isaak Deutscher (The Prophet Unarmed, 1959, p.35-36) は、トロツキー文書庫を一般的に参照しつつ、1922年4月11日の政治局の会議で、レーニンはトロツキーに第三の代理者の職を提示した、と主張している。
 しかしながら、その日の政治局の会議の記録は存在しない。そして、トロツキー文書庫には、この叙述を確認できる文書はない。
 また、トロツキーが言うところのこの提示を「政治的に抹消されてしまう」との理由で拒否したことを彼は正当化した、とのDeutscher の主張を支持する何の証拠資料もない。Deutscher, ibid., p.87. さらに、Rigby, Lenin's Government, p.292-3 を見よ。
 ----
 (05) 1922年5月25-27日、レーニンは最初の発作を起こした。これによって、彼の右腕と右脚は麻痺し、一時的に会話し執筆する能力が失われた。
 その後二ヶ月、彼は職責を免ぜられ、ほとんどの時間をGorki で休んで過ごした。
 医師たちは今では診断を脳の動脈硬化、おそらくは遺伝性のそれ、へと変更した。(レーニンの二人の姉妹と兄は同じようにして死ぬことになる。)
 強制的なこの不在の期間、彼の最も重要な職務—党政治局とソヴナルコムを主導的に運営すること—は、モスクワの党組織の長だったカーメネフに移された。
 スターリンは、書記局と組織局を主宰した。それらでの仕事として、彼は、党機構の日常的な業務をこなした。
 ジノヴィエフは、ペテログラードの党組織の長、かつコミンテルンの議長だった。
 これら三名は「トロイカ」体制、政治局を支配し、それを通じて党と国家機構を支配する指導部、を形成した。
 三人のいずれにも、トロツキーの義兄であるカーメネフにすら、彼らの共通の好敵であるトロツキーに対抗する勢力に加わる理由があった。
 彼らは、レーニンの発作の時期に休暇中だったトロツキーに、情報を提供するという手間すらとらなかった。(注128)
 彼らは、継続的にレーニンと意思疎通を行なった。
 この期間のレーニンの活動の記録(1922年5月25日から10月2日まで)が示しているのは、スターリンが最も頻繁なGorki への訪問者で、12回レーニンと逢っている、ということだ。
 ブハーリンによると、レーニンが自らの病気の最も深刻な時期に会うことを求めた唯一の中央委員会メンバーは、スターリンだった。(++)
 Maria Ulianova によると、二人の出会いはきわめて愛情のこもったものだった。  
 「V. I. レーニンは、友好的に(スターリンと)逢った。冗談を言い、笑い、私に彼をもてなすよう、ワインを出す等々を、頼んだ。
 何度もの訪問の際、私がいるところでトロツキーについて議論していた。
 その際、レーニンがスターリンの味方で、トロツキーには反対していることが明らかだった。」(注129)
 レーニンはまた、手紙を書いてしばしばスターリンに連絡した。
 彼の文書資料庫には、外交政策を含めて考えられ得るあらゆる問題について、スターリンの助言を求める多数のスターリン宛ての文書が残されている。
 彼は、スターリンの過重労働を心配して、毎週二日間は田舎で休暇をとるよう政治局はスターリンに指示するよう求めた。(注130)
 Lunacharsky からスターリンはみすぼらしい区画に住んでいることを教えられて、彼にもっとましな所が見つかるよう取り計らった。(注131)
 レーニンと他の政治局員との間には、このような親密さを示す記録はない。//
 ----
 (脚注++) IzvTsk, No. 12/299 (1989.12), p.200, note 19. しかしながら、のちにブハーリンは、メンシェヴィキの歴史家のBoris Nicolaevsky に、自分は1922年後半に頻繁にレーニンを訪問した、そして彼と真剣に会話をした、と打ち明けた。Boris I. Nicolaevsky, Power and the Soviet Elite (1965), p.12-13.
----
 (06) レーニンの同意を得て、そして自分たちで問題を決定して、三人組は政治局とソヴナルコムに、これらが当然の事として同意する決議を提出することになる。
 トロツキーは多数派とともに投票するか、保留をした。
 当時は7人の委員しかいなかった政治局での三人の協力によって、トロイカ体制は全ての案件を通過させ、政治局に支持者を一人ももたなかったトロツキーを孤立させることができた(7人とは、3人の他に、欠席中のレーニン、トロツキー、Tomskii、ブハーリンだ)。//
 ----
 後注
 (123) RTsKhiDNI, F. 5, op. 1, d. 1315, 1.p.1-4; F. 2, op. 1, d. 8492.
 (124) Deutscher, Prophet Unarmed, p.73.
 (125) Lenin, PSS, XLV, p.113-4.
 (126) Trotsky Archive, Houghton Library, Harvard Uni., T-746 &T-747. それぞれ、1922年4月18日付と19日付。上掲、note 108.
 (127) Lenin, PSS, XLV, p.180-2.
 (128) Trotskii, Moia zhizn', II, p.207-8.
 (129) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (130) Ibid., No. 4/291 (1989), p.185.
 (131) RTsKhiDNI, F. 2, op.1, delo 24699.
 ——
 第五節①、終わり。②へと続く。

2588/R・パイプス1994年著第9章第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
 ——
 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
 (05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
 レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
 レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
 スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
 そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
 ----
 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
 彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
 ----
 (06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
 今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
 しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
 ----
 (脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
 トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
 ----
 (07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
 ----
 (08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
 レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
 彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
 書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
 この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
 この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
 しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
 「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。 
 スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
 書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
 同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
 ----
 (09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
 スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
 彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
 レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
 スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
 彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
 Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
 1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
 スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
 彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
 スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
 中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120) 
 ----
 (10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
 トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
 レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
 スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。 
 のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
 この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
 複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
 そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
 ----
 後注
 (110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
 (111) Ibid.
 (112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
 (113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
 (114) LS, XXIII, p.228.
 (115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
 (116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
 (117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
 (118) Pethybridge, One Steo, p.155.
 (119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
 (120) Ibid., delo 270.
 (121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
 (122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
 ——
 第9章第四節、終わり

2587/R・パイプス1994年著第9章第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節へ。
 ——
 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭①。
 (01) レーニンの病気の最初の兆候は、1921年の2月に現れた。その頃、彼は頭痛と不眠を訴え始めた。
 それらは、全てが肉体に起因するものではなかった。
 レーニンは、連続した屈辱的な敗北を被っていた。ヨーロッパへの革命の拡大という望みが断ち切られたポーランドでの軍事的大失敗、市場の力への屈辱的な降伏が必要になった経済破綻、など。
 身体上の兆候は、1900年に生じたものに似ていた。そのときは、社会民主主義運動が内部分裂で崩壊しそうに見えた、党の歴史上のもう一つの危機的な時期だった。(*)
 1921年夏を経て、頭痛は徐々に治まったが、レーニンは、眠れないで困っていると言い続けた。(+)
 秋には、政治局が、レーニンの仕事のし過ぎを心配し、仕事の予定を軽くするよう求めた。
 12月31日には、彼の状態をなおも心配して、政治局は6週間の休暇をとるよう命令した。書記局の許可がないかぎり、職務に復帰してはならない。(注96)
 このような命令は奇妙に思えるかもしれないが、党の最高機関から共産党員に対して、機械的に発せられていた。レーニンの主要な秘書のE. D. Stasova がS. S. Kamenev 将軍に言ったように、ボルシェヴィキ党員たちはその健康が「宝のような資産」だと見られていた。(注97)//
 ----
 (脚注*) N. K. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine. 2nd ed. (1933), p.35. このときには、愛人のInessa Armand のコレラによる突然死(1920年12月)によっても動揺した。
 (脚注+) レーニンは、クレムリンの薬局に自分で精神安定剤(Sumnacetin とVeronal)を注文することになる。
 ----
 (02) レーニンの体調は、改善を示さなかった。
 昔には二つの仕事をすることができたのに今はほとんど一つもできないと、こぼした。
 彼は、1922年3月のほとんどを田舎で休養して過ごした。そこで、事態の推移を詳細に辿り、第11回党大会用の演説の草稿を書いた。
 どら声になり、苛立っていた。医師たちは、問題は「極度の疲労からの神経衰弱」だと誤診した。(注98)  
 この当時、彼の習慣的な辛辣さは極端になり、異常なほどだった。エスエルや(正教会の)聖職者の逮捕、裁判、そして処刑を命じたのは、この時期だった。//
 ----
 (03) レーニンの身体状態の悪化は、彼が出席するのが最後になる、1922年3月に開かれた第11回党大会で明らかになった。
 彼はとりとめのない二つの演説を行なった。防衛的な性格のもので、自分に同意しない全ての者の人格をやたらに攻撃した。最も親密な仲間の何人かも愚弄した。
 奇妙な動き、記憶間違い、ときに生じる発話障害を見て、何人かの医師たちは今では、より深刻な病気、すなわち進行性麻痺に罹っていると結論した。それには治療法はなく、やがては全身不随になり、死ぬ。
 最近の2月にカーメネフとスターリンへの私的な手紙で自分の病気には「客観的兆候」がないと否定していたレーニンは (注99)、この診断を受け入れたようだった。きちんとした権限の移行の準備を開始したのだから。
 この準備は彼には苦痛となる仕事だった。他の何よりも権力が好きだっただけではなく、1922年12月のいわゆる「遺書」で明確にしたように、自分の権威を継承する資格が本当にある者はいないと考えたからだった。(**)
 彼はさらに、現実政治から自分が退去すれば、仲間たちの中に破壊的な個人的抗争を解き放つことになるのではないかと懸念した。//
 ----
 (脚注**) 1922年3月21日付のレーニンの不思議なメモがある。これは、訪問中のドイツ人専門家に、Chicherin、トロツキー、カーメネフ、スターリンその他のソヴィエト高官たちの「神経疾患」を検査させることの同意を、中央委員会に求めていた。RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, delo 22960.
 ----
 (04) 当時は、トロツキーがレーニンの自然の相続者だと思われた。
 Radek が称した「勝利の組織者」(注100) であるトロツキー以上に、誰がレーニンの継承者たる権利を持つだろうか?
 しかし、トロツキーの立場は、実質よりも表面だった。レーニンに数多く逆らってきたのだから。
 トロツキーは、長年にわたってレーニンとその支持者たちを冷笑し、批判したあとで、十月のクーの直前にボルシェヴィキ党に加入した。
 古くからの支持者たちは、トロツキーの過去を理由として彼を決して許さなかった。1917年以降の彼の技量がどうであれ、党の内部社会からすれば外部者のままだった。
 トロツキーの主な対抗者であるジノヴィエフ、スターリン、カーメネフとは違って政治局員だったけれども、党の執行的役職に就いたことはなく、ゆえに後援する勢力はもちろん一般党員たちに支持基盤を持たなかった。
 第10回党大会(1921年)の際の中央委員会選挙で、トロツキーは第10位で、スターリンよりも、相対的には無名のViachevlav Molotov よりすらも、下位だった。(注101)
 つぎの大会で、若きアルメニアの党員、Anastas Mikoyan は、トロツキーを軽蔑して、党が地方でどのように活動しているかを知らない「軍人」だと称した。(注102)  
 トロツキーの個性も、利点ではなかった。
 彼は、傲岸さと気配りの欠如のために広く嫌われていた。自分自身が認めたように、「非社交的、個人主義的、貴族主義的」という評判があった。(注103)
 トロツキーを称賛する自伝作家すら、彼は「他人にその過ちを思い出させる、 自分の優越性を言い張って分からせようとする、そのような誘惑に、ほとんど抵抗できなかった」と認めた。(注104) 
 彼は、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者たちの合議スタイルを侮蔑して、国の軍隊の司令官のように、自分への絶対的な服従を要求し、「ボナパルティスト」的野望が語られもした。
 かくして1920年10月、Wrangel に直面した赤軍兵団の中にあった不服従の報告に怒って、彼は、つぎの文章を含む命令を発した。
 「私は、つまりは政府に任命された、人民の信任を得ている、きみたちの赤色指導者は、私自身への完全な忠誠を要求する」。
 彼の命令を疑問視する全ての企ては、即決の処刑で対処されることになっていた。(注105)
 その高圧的な管理手法は中央委員会の注意を惹くことになり、中央委員会は1919年7月に厳しく批判した。(注106)  
 1920年の労働の軍事化という彼の無謀な企ては、その判断力に疑問を生じさせただけでなく、ボナパルティズムの疑いを強めた。(注107)
 1922年3月、トロツキーは、政治局に対して声明文を送り、党は経済運営への直接の介入をやめるべきだと強く主張した。
 政治局はトロツキーの提案を拒絶し、レーニンは、トロツキーの書簡についての慣例だったように、その上に「文書庫へ」と走り書きした。しかし、トロツキーの対抗者たちは、この文書を、彼は「党の指導的役割を廃絶しようとした」証拠として利用した。(注108)
 彼は、日常的な政治に巻き込まれるのを拒み、しばしば内閣の会議やその他の行政的討議に欠席した。喧嘩を超越した政治家というポーズをとったのだ。
 「トロツキーにとって主要なのはスローガン、話し手の基盤、印象的な身振りであって、決まりきった作業ではなかった」。(注109)
 彼の行政的能力は、実際に、低いレベルのものだった。
 Harvard 大学のトロツキー文書資料庫にある文書の蓄えが示しているのは、その中にはレーニンへの多数の連絡文書もあるのだが、トロツキーには簡潔で実際的な解決策を文章化する能力がもともとないことだ。レーニンは、原則として、そうした文書にコメントしなかったし、それらに依拠して行動しもしなかった。//
 ----
 後注
 (96) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, ed. khr. 4376.
 (97) G. A. Kamevev in Revvoensovet Respubloki (1991), 115. IzvTsK, No. 4/291 (1984.4), p.191-8.を参照。
 (98) N. Petrenko, in MInuvshee (Paris), No. 2, 1986, p.198.
 (99) RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, ed. khr. 24760.
 (100) Pravda, No. 56 (1923.3.14), p.4.
 (101) Desiatyi S"ezd, p.402.
 (102) Odinadtsatyi S"ezd, p.430.
 (103) L. Trotskii, Moia zhizn', II (1930), p.246.
 (104) Deutscher, Prophet Unarmed, p.34.
 (105) RevR, No. 3 (1922.2), p.7.
 (106) Iu. I. Korablev in REvvoensovet (1991), p.51.
 (107) RR, p.707-8.
 (108) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1164; Dvenadtsatyi S"ezd, p.817.
 (109) Volkogonov, Triumf, I/1, p.116.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2586/R・パイプス1994年著第9章第三節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
 ——
 第三節・「労働者反対派」③。
 (14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
 この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。 
 問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
 労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
 伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
 モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*) 
 Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
 「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
 我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85) 
 ----
 (脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
 ----
 (15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
 前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
 ----
 (16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
 これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
 労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
 反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
 ----
 (17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
 支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
 党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
 後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
 レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
 レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
 そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
 ----
 (18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
 「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
 「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
 除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
 ----
 (脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
 ----
 (19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
 Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
 トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88) 
 これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
 反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
 決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
 「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
 なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
 分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
 労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
 Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
 1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
 このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
 敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
 第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
 モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
 ----
 (20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
 金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
 中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
 労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
 ----
 (21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
 レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
 彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
 そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
 意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
 今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
 1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
 スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
 Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
 これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
 Shliapnikov は、1937年に射殺された。
 ----
 (脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
 この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
 —
 後注。 
 (84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
 (85) Ibid., p.361.
 (86) Ibid., p.571-6, p.769.
 (87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
 (88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
 (89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
 (90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
 (91)  Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
 (92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
 (93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
 (94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
 (95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
 ——
 第三節、終わり

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
 ----
 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
 ----
 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
 ----
 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
 ----
 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
 ----
 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
 ----
 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
 ----
 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
 ----
 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
 ----
 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
 ----
 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
 ----
 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
 ——
 ③へと、つづく。

2584/R・パイプス1994年著第9章第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第三節へ。
 ——
 第三節・「労働者反対派」①。
 (01) 1920年夏、共産党は反対派(heresy)によって揺さぶられた。その反対派を党支配層は「労働者反対派」(Workers' Opposition)と名付けた。
 これは、ボルシェヴィキの工業労働者の不満を反映していた。知識人たちが国を支配しているという不満、より明確には工業の官僚主義化と、それと同時に生じている、労働組合の権限と自立性の縮小、に対する不満を内容としていた。
 報道担当者は古くからの共産主義者だったけれども、この運動は、党に所属したりメンシェヴィキに傾斜したりもしていない労働者の多数派の気分をも表現していた。
 主要な支持基盤は、労働者反対派が〈gubkom〉を握ったSamara、ドンバス地域、ウラルだった。
 大きな影響力をもったのは、冶金、鉱業、織物工業だった。(注64)
 長のAlexander Shliapnokov は、国で最強の労働組合で伝統的にボルシェヴィキにはきわめて友好的な、金属労働者の組合を動かしていた。
 労働者を基盤とする上級のボルシェヴィキ活動家で、第一次大戦中にShliapnokov は、ペテログラードの地下活動を指揮し、1917年十月に労働人民委員部を掌握した。
 彼の愛人のAlexandra Kollontai は、この運動の最も明瞭な理論家だった。
 労働者反対派とともに、「民主主義的中央派」として知られる第二の反対派が出現した。
 著名な共産主義知識人で構成されていて、党の官僚主義化と「ブルジョア専門家」の工業界への採用に反対した。
 これの支持者たちは、ソヴェトがもっと権力をもつことを望み、経済運営での主要な役割を要求する労働組合には反対した。
 指導者の一人で、やはり労働者出身の古くからのボルシェヴィキであるT. V. Sapronov には、党大会でレーニンを「無学」(〈nevezhda〉)で「独裁的」だと呼ぶ向こうみずさがあった。(*) 
 ----
 (脚注*) 記録が印象に残って、この形容句はスターリンが1924年に初めて公にした。Stalin, Ob oppozitsii (1928), p.73.
 ----
 (02) 労働者反対派は、熱烈なボルシェヴィキだった。
 彼らは、党の独裁、労働組合での党の「指導的役割」を承認していた。
 「ブルジョア的」自由の廃棄や諸政党に対する抑圧にも、同意した。
 農民層への党の対応には何も間違いはない、と考えていた。
 1921年のKronstadt 暴乱のときには、彼らは、暴乱鎮圧のために形成された赤軍軍団に最初に自発的に加わった。
 Shliapnokov の言葉によると、レーニンとの違いは目標にではなく、手段にあった。
 彼らは、新しい官僚機構に組み入れられている知識人層が国の支配階級である労働者を遠ざけているのは受け入れ難い、と感じた。
 なぜなら、国の「労働者」政府はじつに一人の労働者も権限ある地位につけていない。指導的役人たちのほとんどは、工場や農場で働いたことがないばかりか、しっかりした仕事に就いたことがない。(注65) //
 ----
 (03) レーニンは、この異論をきわめて深刻に受け取った。彼は「労働者の自発性」を無視するつもりはなかった。それはボルシェヴィキ党の創立以来つねに闘ってきたものだったが。
 彼は、労働者反対派はメンシェヴィズムとサンディカリズムの一種だと非難して、すみやかにそれを粉砕した。
 しかし、そのために、共産党内に残っていた民主主義の要素を最終的に破壊する手段を用いた。
 レーニンは、労働者の望みを無視しつつボルシェヴィキ独裁制は労働者の政府だというフィクションを維持する一方で、本来の支持者からすら政府を確実に離反させた。//
 ----
 (04) 労働者反対派は、第9回党大会(1920年3月)で出現した。それは、工業に単独者経営を導入するというモスクワの決定に関係していた。
 それまでは、ソヴィエト・ロシアの国有化された企業は、委員会によって運営されていた。その委員会には、技術的専門家や党職員と並んで、労働組合と工場委員会の代表も加わっていた。
 このような仕組みは非効率であることが分かり、工業生産の崩壊の原因だと批判された。
 党指導部はすでに1918年に、単独者による経営への移行を決定していた。だが、労働者側の抵抗があったため、その実施は困難だった。
 内戦が終わった今や、第9回党大会は、「上から下まで、所定の仕事については所定の人間が責任を負うという、頻繁に語られた明確な原理」を実施することを決議した。「審議や決定の過程である程度の位置を占める〈合議制〉は、執行の過程では無条件に〈個人主義(独任制)〉に道を譲らなければならない」。(注66)
 この決議を予期して、ソヴィエト労働組合中央評議会は、1920年1月に、単独者管理に反対することを票決していた。
 レーニンは、この要求を考慮しなかった。 
 同様に、ドンバスの労働者たちの意向も無視した。彼らの代議員たちは、20対3で、工業の運営での合議制を維持することに賛成票決をしていた。(注67)
 ----
 (05) 1920年と1921年に全国的に導入された新しい制度のもとで、労働組合と工場委員会はもはや決定には参画せず、職業的経営者が下した決定の執行にのみかかわった。
 レーニンは、労働組合が経営に干渉することを禁止する決議を、第9回党大会に採択させた。
 彼は、このような推移をつぎのような論拠で正当化した。搾取階級を排除した共産主義のもとでは、労働組合は労働者の利益をもはや守る必要がない。それは政府によって行なわれるからだ。
 労働組合の固有の役割は、生産を改善し、労働紀律を維持して、政府の代理者として行動することにあった。
 「プロレタリアート独裁のもとでは、労働組合は資本家という支配階級に対する労働の売り手の闘争のための組織から、支配する労働者階級の道具へと変容したのだ。
 労働組合の任務は主として、組織化と教育の領域にある。
 これらの任務を労働組合は、自己完結的な、組織的に離れた勢力としてではなく、共産党に導かれるソヴィエト国家の道具として、履行しなければならない。」(注68)
 換言すれば、ソヴィエトの労働組合は、これ以来、労働者ではなく、政府を代表すべきものになった。
 トロツキーはこのような見方に賛成し、「労働者国家」では労働組合は雇用主を敵と見る習癖から脱して、党の指導のもとで生産性を高める要因に変質しなければならない、と論じた。(注69)
 労働組合の役割に関するこのような見方が現実に意味したのは、労働組合の役員は組合員によって選出されるのではなく、党が指名した、ということだった。
 ロシアの歴史過程でしばしば生じたように、自分たちの利益を守るためにある社会集団が設立した組織は、国家によってその国家自体の目的のために奪い取られた。//
 ----
 後注。
 (64) Shliapnikov to Lenin, 1921.8.21, RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 24625.
 (65) Rigby, Lenins' government, p.149-p.156.
 (66) Deviatyi S"ezd Rkp(b): Protokoly (1960), p.411.
 (67) Ibid., p.177.
 (68) Ibid., p.417.
 (69) Desiatyi S"ezd, p.813-5.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2583/R・パイプス1994年著第9章第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第二節へ。
 ——
 第二節・国家の官僚主義化
 (01) 党官僚制について、多くのことを書いた。
 ----
 (02) 国家官僚機構も、より目ざましい早さで膨張した。
 国全体のソヴェト組織は、ボルシェヴィキの政策で有していたわずかの影響力も急速に失い、1919-20年までに、人民委員会議とその支部から伝えられる党の決定にゴム・スタンプを捺すだけの機関に変質した。
 ソヴェトの「選挙」は、党に選抜された者たちを承認する儀式となった。適格さを考えて投票する者は4人に一人もいなかった。(注44)
 ソヴェトは、国家官僚機構に権能を奪い取られた。その背後には、全能の党があった。
 1920年、ソヴェトが公開で討論することが許された最後の年、官僚主義の蔓延に関する不満が語られるのは、ふつうのことだった。(注45)
 1920年2月に労働者農民調査局(Rabkrin)が、国家機構による濫用を監視するために、スターリンを長として設置された。
 しかし、二年後にレーニンが認めたように、この機関は期待に応えなかった。(注46)//
 ----
 (03) 政府官僚機構の膨張は、まずはとりわけ、1917年十月以前は私人の手中にあった諸装置の運営を政府が行なうようになった、ということで説明され得る。 
 金融や産業に私企業が関与するのを排除することで、またzemsivoや市議会を廃止することで、さらに全ての私的団体を解散させることで、政府は、代わりに、それに応じた役人層の膨張が必要となる諸活動について責任を担うようになった。
 一例で十分だろう。
 革命前の国民の諸学校は一部は公教育省によって、一部は正教会や私的団体によって監督された。
 1918年に政府が全ての学校を啓蒙人民委員部のもとに国有化したとき、従前は非政府系の学校に職責があった書記的または私的な人員を埋め合わせる職員を作り出さなければならなかった。
 やがて、啓蒙人民委員部は、従来はほとんど全く私人に任せられていた田舎の文化生活の指導や検閲についても責任を担わされた。
 その帰結として、1919年5月に早くも、有給の3000人の職員がいた。—これは、対応する帝制時代の省の職員数の10倍だった。(注47) //
 ----
 (04) しかし、行政上の責務の増大は、ソヴィエト官僚機構の膨張の唯一の理由ではなかった。
 公務に従事する最も下の階梯にいる被雇用者にすら、ソヴィエト生活の過酷な条件のもとで生き残るための貴重な有利さがあった。ふつうの市民では利用できない物品を使え、賄賂や心づけを受けとる機会があるのはもちろんのこととして。//
 ----
 (05) 結果は、大量の水増し要求だった。
 ホワイト・カラーの業務は、生産が落ち込んでいたときでも、ソヴィエト経済を指揮する多様な機構で膨らんだ。
 ロシアの工業界で雇用される労働者の数は1913年の85万6000から1918年には80万7000へと下がった一方で、ホワイト・カラー被雇用者の数は5万8000から7万8000へと増えた。
 かくして、共産党体制の最初の年にすでに、産業労働者のうちホワイト・カラーのブルー・カラーに対する割合は、1913年に比べて三分の一増えていた。(注48)
 その次の三年間には、この割合はもっと劇的に高くなった。1913年には100人の工場労働者に対して6.2人のホワイト・カラー被雇用者がいたが、1921年の夏には、この割合は15パーセントに上がった。(注49)
 運輸の部門では、鉄道輸送は80パーセント減退し、労働者の数は変わらないままだったが、官僚機構の人員は75パーセント増加した。
 1913年に鉄道路線の一キロ(一マイルの8分の5)に対してホワイト・カラーとブルー・カラーともに12.8人の被雇用者がいたが、1921年には、同じ仕事を20.7人で行なうよう要求された。(注50)
 1922-23年に実施されたKursk 地方のある農村地区の調査によると、帝制時代に16人の被雇用人がいた地方的農業部門には、今では79人がいた。—これは、食料生産が落ちていた時期のことだった。
 同じ地区の警察官署は、革命前と比較して、二倍の人員を有していた。(注51) 
 最も凄まじかったたのは、経済運営を所掌する官僚機構の膨張だった。1921年春、国家経済最高会議(VSNKh)は22万4305人の職員を雇用しており、そのうち2万4728人はモスクワで、9万3593人はその地方機関で、10万5984人は地区(〈uezdy〉)で勤務した。—これは、職責のある工業生産性が1913年のそれよりも5分の1低くなっていた頃のことだ。(注52) 
 1920年、レーニンが驚きかつ憤慨したことには、モスクワは23万1000人の常勤職員を雇っており、ペテログラードでは18万5000人だった。(注53)
 全体としては、1917年と1921年半ばの間に、政府職員の数は、5倍近く、57万6000から240万へと増加した。
 その頃までに、ロシアには労働者数の二倍の官僚たちがいた。(注54)//
 ----
 (06) 役人の需要が増大し、かつその自分たちの働き手の教育レベルが低いとすると、新体制は、多数の帝制時代の元職員、とくに省庁を運営する能力のある人員を雇う以外には選択の余地はなかった。
 以下の表は、人民委員部での1918年時点でのそのような職員の割合を示している。(注55)
  ****
  内務人民委員部/48.3%。
  国家経済最高会議/50.3%。
  戦争人民委員部/55.2%。
  国家統制人民委員部/80.9%。
  運輸人民委員部/88.1%。
  財務人民委員部/97.5%。
  ****
 「示されているのは、人民委員部の中央官署の職員の半数以上、そしておそらく上層の管理的職員の90パーセントが、1917年十月以前に何らかの行政的地位に就いていた、ということだ」。(注56) 
 チェカだけは19.1パーセントが元帝制時代の職員であり、外務人民委員部では22.9パーセントがそうだった(この二つは1918年の数字)。これらでは、主として新しい人員が配置された。(注57)
 このような証拠資料を根拠にして、ある西側の研究者は、ボルシェヴィキにより最初の5年間になされた政府職員の変化は「おそらく『猟官制度』(spoils system)が全盛のワシントンで起きたことと同様だと見なせるだろう」という驚くべき結論に到達した。(注58)//
 ----
 (07) 新しい官僚制度は、帝制時代をモデルにしていた。
 1917年以前のように、役人たちは、敵対的だと見なしたnation ではなく、国家に奉仕した。
 アナキストのAlexabder Berkman は1920年にロシアを訪問して、新体制のもとでの典型的な政府官署をこう描写した。
 「(ウクライナの)ソヴィエト機関は、モスクワ型のよくある光景を示している。疲れきった人々の集まり。空腹で、無感動に見える。
 特徴的で、悲しい。
 廊下や事務室は、あれこれの行為やその免除の許可を求めている申請者で混み合っている。
 新しい布令の迷路は、とても難解だ。役人は困惑する問題を解消する安易な方法を好んで選び取る。彼らの『良心』にもとづく『革命的方法』を。そしてふつうは、申請者の不満となる。/
 長い列が、どこにでもある。そして、どの事務室にも多数いるハイ・ヒール靴を履いた〈baryshni〉(若い女性)による『用紙』や文書の書き込みや処理。
 彼らは煙草をふかし、ソヴィエトの存在の象徴である、配られるpaek (手当)の量で推測する、一定の官署の有利さを熱心に議論している。
 頭がむき出しの労働者や農民が、長い台に近づく。
 丁重に、卑屈にすら、彼らは情報を求め、衣類についての『指示』や長靴用の『切符』を嘆願している。
 『分からない』、『隣の事務室で』、『明日来い』は、いつもの回答だ。
 抗議や愁嘆があり、注意や指導を乞い求める姿もある。」(注59)//
 ----
 (08) 帝制時代のように、ソヴィエトの役人制度は精巧に階層化されていた。
 1919年3月、当局は公務を27の範疇に分け、各々を細かく定義した。
 俸給の違いは、比較的大きくなかった。かくして、若いドアマンや掃除人のような最下級の被雇用者は、毎月600(旧)ルーブルを受け取り、第27等級の者たち(人民委員部の部局の長など)には、2200ルーブルが支払われた。(注60)
 しかし、基本給与は大して重要ではなかった。ハイパー・インフレがあったからだ。
 意味のある俸給は、臨時収入だった。その中で、食料配給が最も重要だった。
 かくして、レーニンは1920年、その給与月額である6500ルーブルでは生きていけなかった。その額では、ふつうの市民が利用できる唯一の場所である闇市場で、30本のキュウリが買えただろう。(注61)
 Paek に加えて、最下級の役人たちにすら、賄賂という手段で基本給を補充する方法があった。賄賂は、厳しい法律に違反していたにもかかわらず、さかんに行われていた。(注62)//
 ----
 (09) レーニンは、ソヴィエトの国家組織の不満足な状態の原因を、それが雇用している元帝制時代の官僚層に求めようとした。そして、こう書いた。
 「外務人民委員部を例外として、我々の国家機構には、そのほとんどに古い機構が残存しており、わずかの変化すら認められない。
 少しばかり最頂部が飾られているだけだ。他の部分は、我々の古い国家機構のうちの最も典型的に古いものだ。」(注63)
 しかし、この主題に関するとりとめのない混乱した言及が示しているように、レーニンは、何が間違っていてなぜそうなのかについて、全く何も理解していなかった。
 官僚制度の規模は、彼の政府がしようとしていることによって決定される。それが腐敗しているのは、民衆による統制から自由だからだった。
 ----
 後注
 (44) Pethybridge, One Step, p.158.
 (45) V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, Pt. 2 (1929), p.57, p.68, p.97-p.100.
 (46) Pethybridge, One Step, p.161-8; Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (47) Sheila Fitzpatrick, The Commissariat of Enlightenment (1970), p.24.
 (48) L. N. Kritsman, Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii (1926), p.197.
 (49) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii kiass, 1918-1920 gg. (1974), p.122.
 (50) Gimpelson, Ibid., p.81; Kritsman, Geroicheskii period, p.198.
 (51) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.121.
 (52) V. P. Diachenko, Istoriia finansov SSSR (1978), p.87.
 (53) SV, No. 1 (1921.1.1), p.1. Cf. Alfons Goldschmidt, Die Wirtschaftsorganisation Sowjet-Russlands (1920), p.141; Lenin, PSS, LII, p.65.
 (54) Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obshchestva: Oktiabr' 1917-1920 (1976), p.268; Kritsman, Geroicheskii period, p.198; EZh, No. 101 (1922.5.9), p.2.
 (55) M. P. Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva v pervye gody sovetskoi vlasti: Sbornik Statei (1973), p.54.
 (56) T. H. Rigby, Lenins' Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), p.62.
 (57) Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva, p.55.
 (58) Rigby, Lenins' Government, p.51.
 (59) Berkman, Bolshevik Myth, p.219-220.
 (60) Dewar, Labour Policy, p.179-180.
 (61) Alfons Goldschmidt, Moskau 1920 (1920), p.62, p.88.
 (62) SUiR, 1917-18, NO. 35 (1918.5.18), Decree No. 467, p.436-7.
 (63) Lenin, PSS, XLV, p.383.
 ——
 第二節、終わり

2582/R・パイプス1994年著第9章第一節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第一節・共産党の官僚主義化③。
 (15) いつの間にか、新しい支配者たちは、古い支配者たちの習慣にのめり込んでいた。
 Adolf Loffe はトロツキーに対して、腐敗の蔓延について不満を述べた。
 「頂上から底まで、そして底から頂上まで、どこでも同じだ。
 最下級のレベルでは、一足の靴か兵士のシャツ[gimnasterka]。
 上になると、自動車、鉄道車両、ソヴナルコムの食堂、クレムリンや『国営』ホテルの部屋。
 そしてこれらを全て利用できる最高の段階では、威厳であり、傑出した地位であり、名声だ。」(注32)
 Loffe によると、「指導者たちは何でもすることができる」と考えることが心理的に受容されるようになっていた。
 民衆の奉仕者のこのような貴族的習慣のどれ一つとして、マルクス主義は何の関係もなかった。だが、ロシアの政治的伝統とは大きな関係があった。//
 ----
 (16) 新体制のもとでの地方の行政官の鍵は、広くgubkomy として知られた、地方の(〈guberniia〉)党委員会の長だった。
 ピョートル大帝以来、guberniia はロシアの基礎的な行政単位で、その長である知事は、広汎な執行と警察の権力を持ち、帝国の権威を代表していた。
 ボルシェヴィキ体制は、この伝統に従った。つまり、gubkomy の書記局長が、事実上、帝制時代の知事の継承者になった。
 ゆえに、この長を任命する権限は、相当の恩寵の淵源だった。
 革命前には、ツァーリが内務大臣の推薦にもとづいて知事を任命していた。
 今では、レーニンが、組織局と書記局の推薦にもとづいて知事を任命した。
 1920年に設置された書記局内のUcharaspred(Uchetno-Raspredetil'nyi Otdel)と呼ばれる特別部署が、党人員を選抜し、配転させた。
 1921年12月、gobkom 長に任命されるためには1917年10月以前に入党していなければならない、と定められた。
 地区(〈uezd〉)の党委員会(〈ukomy〉)の書記局長は、最少限度3年間の党員履歴をもっていなければならなかった。
 このような任命は全て、より上級の党機関によって承認される必要があった。(注33)
 これらの条項は、紀律と正統性を守るのを助けたかもしれない。しかし、党の細胞から自分たち自身の職員を選出する権利を剥奪する、という対価を払ってのことだった。
 当時はほとんど気づかれなかったけれども、これらの条項は、中央機関の権力を巨大なものにした。「組織局または書記局がもつ承認する権利は…、実際には、『推薦』や『指名』をする権利と同一になった」。(注34)
 これら全てのことは、スターリンが1922年4月に書記長の職を掌握する以前に、起きていたことだった。//
 ----
 (17) こうした実務の結果として、地方での党の要職の任命は、ますます党員によってではなく、「中央」によって行われるようになった。
 1922年のあいだに、37人の〈gubkom〉長が解任されるか配転され、42人が「推薦」にもとづき任命された。(*)
 今や、帝制時代のように、忠誠心が、任用されるための最高の資格だった。中央委員会が配った回状「同志の党への忠誠について」では、これが役職に就くための第一の規準として挙げられていた。(注35)
 1922年に、書記局と組織局は1万件以上の任用を行なった。(注36) 
 政治局は多くの仕事に忙殺されていたので、任用の多くは、書記長と組織局の裁量でなされた。
 調査団がしばしば地方に派遣され、〈gubkomy〉の 実績について報告した。—帝制ロシアでの「是正」の模倣だった。
 1921年3月の第10回大会で、〈gubkom〉長は三ヶ月毎にモスクワに来て、書記局に報告すべきものとされた。(注37) 
 書記局で仕事をしていたViacheslav Molotov は、彼らに任せれば〈gubkomy〉はほとんど自分たちの地方的案件にかかわり、national な党の問題を無視する、という論拠でもって、このような実務を正当化した。(注38)
 こうして実際に、〈gubkomy〉は「モスクワの指令の運び手」に変わった。(注39)//
 ----
 (脚注*) Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed. (1963), p.633, note 10.
 1923年にE. A. Preobrazhenskii は、〈gubkom〉長の30パーセントは中央委員会によって「推薦」された、と語った。これを彼は「国家内部の国家だ」と称した。(Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), 1968,p.146.)
 ----
 (18) 書記局は、名目上は党の最高機関である党大会の代議員を選抜するという、追加の権限も獲得した。
 1923年までに、代議員は〈gubkom〉長の推薦にもとづいて任命された。その〈gubkom〉長自身が、相当程度に書記局に任命された者たちだった。(注40)
 この権限があることによって、書記局は、一般党員の反対を封じることができた。
 かくして、いわゆる「労働者反対派」や「民主主義的中央派」が中央委員会を追及する辛辣な討論を行なった第10回党大会(1921年)で、代議員たちの85パーセントは、反対派を非難する中央委員会を支持した。利用できる証拠資料によって判断するならば、党員全体の気分をほとんど反映していない票決だった。(注41)
 二年後の第12回党大会では、反対派は無力な辺縁部にまで減った。
 その次の大会〔1924年〕では、もはや、反対それ自体が存在しなかった。//
 ----
 (19) かくして、共産党職員階層の中に、貴族制度が出現した。
 権力奪取後5年後に採用された実務は、体制の初期からははるかに遠ざかっていた。当時は、党は党員たちに対して、平均的労働者よりも安い俸給を受け取れ、生活区画は一人あたり一部屋に限定せよ、と強く言っていたのだった。(注42)
 これはまた、工場に雇用される共産党員に特権を与えず、むしろより重い義務を課す、という決まり事を捨て去ることも、意味していた。(注43) 
 ----
 後注
 (32) Volkogonov, Trotskii, I, p.379-p.380.
 (33) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.277n-278n: Odinadtsatyi S"ezd, p.555.
 (34) Carr, Interregnum, p.278n.
 (35) Pravda, NO. 64 (1921.3.25), p.1.
 (36) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.182.
 (37) Kommunisticheskaia Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh, I (1953), p.576.
 (38) Odinadtsatyi S"ezd, p.156-7.
 (39) Roger Pethybridge, One Step Backwards, Two Sieps Forward (1990), p.154.
 (40) Aleksandrov, Kto upravliaet, p.22-23.
 (41) Desiatyi S"ezd, p.137.
 (42) M. Dewar, Labour Policy in the USSR, 1917-1928 (1956), p.162-3.
 (43) Desiatyi S"ezd, p.881.
 ——
 ③、終わり。第一節も、終わり。

2581/R・パイプス1994年著第9章第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第一節・共産党の官僚主義化②。
 (09) 1920年にすでに、組織局が地方の党職員を指名することは一般的だった。彼らが運営すべく選出される、その地方党組織に諮ることのないままで。(注15) これは〈naznachenstvo〉、「任命制」と称されるようになった。
 数世紀にわたって官僚の支配と上からの指令の雨に慣れてきた国では、このような成り行きは正常に見え、これに対する反対は少なく、あっても影響力がなかった。//
 ----
 (10) 理想主義的な理由で入党した共産主義者は疑いなくいたけれども、大多数の者は、党員であることによって得られる有利さのために入党した。
 党員たちは、19世紀には郷紳(〈dvorianstvo〉)の地位と結びついていた特権、すなわち政府の執行的(「責任ある」)地位に就けるという保障を享受した。
 トロツキーは彼らをダイコンと呼んだ(外側は赤く、内側は白い)。 
 共産党の階層で十分に高い者たちは、現金の手当のほかに食料配給の追加を受け、専門店舗を利用した。
 彼らは、逮捕や訴追から事実上は免れていた。これは無法のソヴィエト社会では決して小さな特権ではなかった。
 ソヴィエト政府は、帝制時代の実務を凌ごうとして、1918年に早くも、党職員は職務の遂行として行なった行動については訴追されない、という原則を打ち立てた。(注16)
 帝制時代には、直接の上司との意見不一致という理由だけで役人は裁判に付されることがあり得た。これに対して、共産党の役人は、「党で占めている等級に対応する党組織が知り、承認したうえでのみ」逮捕され得た。(注17) 
 レーニンは、このような実務に熱心に反対し、共産党員が間違った行動をしたならば他者よりも厳しく罰せられるべきだ、と主張した。だが、慣習を変えるには、彼は無力だった。(注18) 
 支配の最初から、法を超越する共産党の地位は、その党員たちへも移し換えられた。//
 ----
 (11) 法的免責と結びついたこのような権力は、不可避的にその濫用を生じさせた。
 第8回党大会(1919年)が始まると、党職員の汚職や彼らの民衆からの離反に関する不満が語られた。(注19)
 共産党のプレスの紙面は、党職員が清廉という最も基礎的な規範を破っているという記事で埋められた。
 いくつかから判断すると、共産党幹部たちは、18世紀の奴隷所有者のごとく振る舞っていた。
 かくして、1919年1月、共産党のAstrakhan 機関は、Kliment Voroshilov の訪問に関して報告した。この人物はスターリンの戦友で、Tsaritsyn の第1十軍の司令官だった。 
 Voroshilov は豪奢な〈shesterka〉、6頭の馬に牽引された馬車で現れた。随行員たちの10台の馬車、トランク、樽その他の物品を高く積み上げた50ほどの荷車が、続いた。
 このような突然事には、地方の住民は訪問する賓客に対して全ての態様の人的サービスを行なうことが要求され、拒否すれば拳銃で威嚇された。(注20)//
 ----
 (12) このような不面目な振舞いを終わらせるべく、党は1921年に、遅くと1922年早くに、粛清(purge)を実施した。
 表向きは内戦中の緩やかな受入れ手続で入党した出世主義者に向けられていたが、本当の攻撃対象は、他の社会主義政党、とくにメンシェヴィキから移ってきた者たちだった。レーニンは、共産党の隊列の中に民主主義思想その他の異端思想を注入しているとして、メンシェヴィキを非難していた。(注21)
 多くの者が除名された。
 そして、とくに不機嫌になった労働者たちなどに自発的に離党した者があって、党員数は、65万9000から50万に下がった。そしてさらに、40万人以下になった。(*) 
 このときに、「党員候補」の指名が制度化された。彼らは、入党資格を得る前に見習い期間を経験しなければならなかった。
 つぎの粛清(purge)では、より多くの者が除名されるか離党し、党のほとんど半分が変転した。(注22)
 こうした過程によって党はメンシェヴィキや他の「小ブルジョア社会主義者」を取り去ったかもしれなかった。しかし、腐敗した共産党員をそうしたのではなかった。
 共産党の特権的地位と法的責任からの完全な自由に内在しているがゆえに、権力の濫用は継続した。
 かりに市民が投票者または資産所有者のいずれかとして自分に関する事務処理を是正させる手段をもたないならば、また加えて、かりに党員は法的責任を免れているならば、行政集団は自制的になるか、居座り続けるか、あるいは自己満足の集団になってしまうだろう。
 党の倫理を監督するために1920年に設置された統制委員会は、党職員はその業務の遂行について自分たちを任命した者に対してのみ説明責任があり、「党員大衆」に対してはではない、ましてや国民全体にではない、と感じている、と報告した。(注23)
 これは、帝制時代の役人たちに広くあった態度を引き継いだものだった。(注24) //
 ----
 (脚注*) 1922年9月の党組織部署のスターリンへの報告書は、地方によっては1921-22年に離党者が6.8から9.2パーセントに及んだ、と記した。: RTsKhIDNI, F. 558, op. 1 delo 2429.
 Kalinin によれば、党を去った者たちの大半は農民や労働者だった。RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9. 
 ----
 (13) さらに悪いことに、党自体が官僚機構を腐敗させ始めた。
 1922年7月1日、組織局は、無害に感じさせる、「積極的党労働者の生活条件の改善について」という裁定を下した。これはもともと、省略した形で公にされた。(注25)
 この裁定は、党役人の給与体系を定めた。数百(新)ルーブルが受領される。家族手当、超過勤務手当が加えて支払われる。これで、全部では、基礎俸給の二倍になる。—この額は、工業労働者は平均して10ルーブルを得ていたときのものだった。
 上級の党官僚はさらに、代金を支払うことなく、追加の食料配給を受ける権利があった。他にもちろん、住居、衣服、医療、そして一定の場合には、運転手付きの自動車。
 1922年夏、党の中央機関に採用された「責任ある労働者たち」には、補足の食料配給が行われ、一月あたり26ポンドの肉、2.6ポンドのバターが配られた。
 彼らは、布張りで蝋燭の灯った特別の鉄道車両で旅行した。一方で庶民たちは、幸運に切符を入手できても、混み合った三等の客室か貨物車に詰め込まれた。(注26)
 最高級の役人には、外国の保養地で一ヶ月から三ヶ月の休暇または静養期間をとる権利があった。その費用は、党が金ルーブルで支払った。
 1921年11月、少なくとも6名のトップ・レベルの共産党員はドイツでの医療を受けていた。その一人(Lev Karakhan)は、痔の手術のためにドイツへ行った。(注27)
 このような利益の割当ては、スターリンの書記局が決定した。彼が採用したそこの職員は、600人いた。(注28)
 1922年の夏には、特別の恩恵を受ける者の数は、1万7000を超えた。
 同年の9月、組織局はその数を6万に増やした。//
 ---- 
 (14) 党指導者たちは、別荘をもつ資格があった。
 田舎の家屋を得た最初の人物は、レーニンだった。彼は、1918年10月にモスクワの南西35キロメーターのGorki に、かつては帝制時代の将軍の資産だった屋敷を手に入れた。
 他の者たちも、レーニンに倣った。
 トロツキーは、ロシアで最も贅沢な不動産、Akhangelskoe を手に入れた。かつて、Iusuoov 王子の屋敷だった。
 スターリンは、Zubalovo の石油王の田舎家屋を自分のものにした。(注29)
 レーニンはGorkiで、GPUが操作する6台のリムジン車を自由に使用した。(注30)
 彼は自分のためには稀にしかそれを利用しなかったけれども、家族や友人たちのために利用させるのに反対ではなかった。例えば、妹とブハーリン家族がほとんど確実に休暇のためにクリミアへ旅行する私的車両には、彼らの旅の早さを上げるべく軍事列車が随行するように指示したように。(注31)
 劇場またはオペラに行ったとき、新しい指導者たちは、当然のこととして、皇帝用だった特別席を占めた。//
 ----
 後注
 (15) Refail[R. B. Farbman]in Desiatyi S"ezd, p.97.
 (16) I. Zaitsev in Novyi den', No. 16 (1918.4.12), p.1; RR, p.63.
 (17) Konstantin Shteppa in Simon Wolin & Robert M. Slusser, The Soviet Secret Police (1957), p.86-87.
 (18) Lenin, PSS, XLIV, p.398; XLV, p.53.
 (19) E. g., N. Osinskii in Vos'moi S"ezd RKP(b): Protokoly (1959), p.27-28, p.164-7; A. A. Solts in Desiatyi S"ezd, p.57-58.
 (20) Kommunist (Abstrakhan), No. 6 (1919.1.11). Izvestiia, No. 12/564 (1919.1.18), p.4 が引用。
 (21) Lenin, PSS, XLIV, p.122-4.
 (22) "Aleksandrov", Kto upravlaet Rossiei ? (1933), p.28.
 (23) Solts in Desiatyi S"ezd, p.60.
 (24) RR, p.61-p.75. 〔RR=R. Pipes. Russian Revolution〕
 (25) A. Podshchekoldin in AiF, No. 27/508 (1990.7.7-13), p.2.
 (26) Alexander Berkman, The Bolshevik Myth (1925), p.43.
 (27) RTsKhIDNI, F.2, op.2, delo 1005.
 (28) S. K. Minin in Desiatyi S"ezd, p.92.
 (29) Svetlana Alliluyeva, Twenty Letters to a Friend (1967), p.26-27; Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/I (1989), p.190.
 (30) Lenin, PSS, LIV, p.649, p.266.
 (31) TP, II, p.444-7.  
 ——
 第一節②、終わり。③へ。

2580/R・パイプス1994年著第9章第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第9章
 第一節・共産党の官僚主義化①。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たち、なかんずくレーニンは、進行しているその体制の官僚主義化(bureaucratization)に苛立った。
 指導部は、党と国家はともに、その役職を個人的な利益を高めるために使う役人という寄生階層に圧迫されている、と感じていた(そして、これを支持する統計上の証拠もあった)。
 さらに悪いことに、官僚制が膨張するほど、それが吸い込む予算は増大し、得られるものは少なくなった。
 このことは、チェカについてすらも言えた。Dzerzhinskii は1922年9月に、チェカの人員が行なっていることの完全な会計の提示を要求し、調査すれば「致命的な」(〈ubiistvennye〉)結果が出るだろうと付け加えた。
(注5)
 人生の最終期のレーニンにとって、官僚制はつきまとって離れない問題になっていた。//
 ----
 (02) 彼らがこの現象に驚いたということは、つぎのことを示しているだろう。すなわち、ボルシェヴィキの強固な現実主義には、際立つ無邪気さが内在していた。(*)
 経済活動を含めた組織生活全体の国有化は必然的にホワイト・カラー労働者の数を膨張させる、ということは、彼らに明らかだったはずだろう。
 彼らが決して十分にはもたなかった「権力」(〈vlast'〉)が意味したのは機会だけではなく、責任でもあった、ということを彼らは考えなかったようだ。その責任の履行は、対応して大人数の職業人を必要とする常勤者の仕事だ、ということを。また、その職業人はもっぱらまたは主としてですら公共の福利のためだけに従事するのではなく、彼ら自身の利益のためにも勤務するのだ、ということを。
 共産党支配に伴なう官僚主義化は、事務的経歴しか有しない者たちが従来は不可能だった中間層へと上昇する、これまでにはなかった機会を与えることとなった。彼らこそが、官僚主義化の主要な受益者だった。(注6)
 労働者ですらも、工場の床を離れて役所へと向かえば、労働者であることをやめ、官僚層の中に混じり込んだ。党の統計上はしばしば、まだ労働者として記録されていたけれども。Kalinin はレーニンへの私的な手紙で、肉体労働に従事する者だけが労働者として表記され、一方で「監督者、監視者、評価者」は役人(office personnel、〈sluzhashchie〉)に分類されるべきだ、と強く迫った。(注7)
 以下は、メンシェヴィキのエミグレ機関紙がNEP の直前における現象について記述したものだ。
 「ボルシェヴィキ独裁…は、統治および公行政の全領域から帝制期の官僚機構のみならず、ブルジョア社会の学位制度を伴った知識人層を排除し、そのようにして、小ブルジョアジー、農民層、労働者階級、軍隊等々の無数の人々に『上昇する途』を開いた。彼らは従前は、富と教育をもつ者の特権的地位のために下級階層に所属させられていたが、今では巨大な『ソヴィエト官僚制』を構成している。—この新しい都市的階層の本質と野心は小ブルジョアであり、彼らの利益の全てがこの層を革命につなげている。革命こそが彼らを今ある地位に昇らせ、過酷な生産労働から逃れさせ、国民大衆の〈上に〉立つ国家行政機構に含み込んだからだ。」(注8)//
 ----
 (脚注*) 1921年4月、レーニンは、体制の最初の一年半の間には官僚主義化の危険に気づかなかった、と認めた。彼は1919年にようやく、新綱領を採択した第8回党大会でそれを承認した。その綱領は遺憾さをもって「ソヴィエト・システム内部での官僚主義の部分的な復活」と記した。Lenin, PSS, XLHI, p.229.
 しかし、そのときでもレーニンは、この現象の原因は内戦が必要にさせた原始的な生産の方法と取引活動にあると批判した。Ibid., p.230. 
 ----
 (03) ボルシェヴィキは、彼らの歴史哲学によれば政治はもっぱら階級闘争の付随物であり、政府は支配階級の道具にすぎなかったがゆえに、このような展開を予想することができなかった。この考え方は、国家とその公務員層は、そられが奉仕すると言われてきた階級利益とは異なる利害を有する、ということを見逃していた。
 その同じ哲学が、気がついたときに問題の性質を理解するのを妨げた。
 レーニンは、帝制時代の全ての保守主義者のように、「統制」委員会を積み上げ、監視者を派遣し、「善良な者たち」を制裁できるような濫用はないと要求する、といったこと以外には、官僚機構による濫用を抑止するための装置を考え出すことができなかった。
 問題の制度上の根源を、彼は最後まで、理解しなかった。//
 ----
 (04) 官僚主義化は、国家と同様に党でも生じた。//
 ----
 (05) 高度に中央志向の構造だったが、ボルシェヴィキ党はその党員層内部で、一定程度の非公式の民主主義を伝統的に育ててきた。(注9)
 「民主主義的中央集権主義」の原理のもとで、指令部門による諸決定は、疑問を抱くことなく下級機関によって実行されなければならなかった。
 しかし、決定は、全員が発言できる機会のある討論を経たあとで多数票決によって行われた。—まず中央委員会、次いで政治局。
 地方の党細胞の意見聴取が、機械的に行われた。
 国の独裁者ではあったが、レーニンは党内部では〈同輩中の首席〉にすぎなかった。政治局にも、中央委員会にも、正式の議長はいなかった。
 党の最高機関である党大会への代議員たちは、地方の諸組織から選出された。
 地方の党役員は、同輩たちによって選ばれた。
 実際には、レーニンはほとんどつねに、その個性と党創設者たる名声でもって支配した。だが、勝利は保障されておらず、ときには彼から外れた。//
 ----
 (06) 党は国の運営という大きな責任をつねに負ったので、党員数も管理的機構も膨張した。
 1919年3月まで、Iakov Sverdlov という一人の人物が、その頭の中に、党組織と党員の全ての詳細を抱えていた。
 彼は、レーニンとその仲間が政治的決定や軍事的決定を自由に行うことができるよう、毎日党内を走り回った。(注10) 
 ともあれ、このようなシステムは、1919年3月に党員数は31万4000になったので、長くは続かなかった。
 この頃のSverdlov の突然の死によって、党をより公式に管理することが必須となった。
 このために、1919年3月の党第8回大会は、中央委員会に二つの新しい機関を設置した。一つは政治局で、中央委員会全体に諮ることなしで迅速に決定をすべく、最初は5人で構成された(レーニン、トロツキー、スターリン、カーメネフ、Nikolai Krestinskii)。もう一つは組織局でやはり5人で構成され、実際には人的任命を意味する組織問題を扱った。
 第三の機関、1917年3月に設置されていた書記局は、スターリンが1922年4月にその長に任命されるまでは、主として書類を捲るのに忙殺されていたように見える。
 その長である書記長は、組織局の一員である必要があった。
 スターリン以降の組織局と書記局の任務から判断すると、両者の間には厳格な所掌事務の区別はなく、ともに人事問題を扱った。但し、組織局は、党員の実績評価についてより直接的な責任をもっていたように思われる。(注11) 
 これらの機関の設置によって、党の事務の、モスクワにある頂点の権威への集中が始まった。//
 ----
 (07) 共産党には、内戦が終わるまでに、もっぱら文書作業を行う手頃な規模の職員がいた。
 1920年の末頃にかけて行われた統計調査は、その構成に関して興味深い数字を明らかにした。
 職員の21パーセントだけが工業または農業での肉体労働に従事していた。
 残りの79パーセントは、多様なホワイト・カラーの職に就いていた。(+)
 職員の教育レベルはきわめて低くて、彼らの責任や権限と釣り合っていなかった。1922年では、0.6パーセント(2316人)だけが高等教育を修めていて、6.4パーセント(2万4318人)が第二次学校を終えていた。
 あるロシアの歴史家はこの資料にもとづいて、当時の党員の92.7パーセントは仕事上わずかしか識字能力がなかった(1万8000人または4.7パーセントは完全に識字能力がなかった)と結論づけた。(注12)
 ホワイト・カラー職員の一団から、共産党の中央機関にモスクワで採用される活動家エリートが出現した。
 1922年の夏、この集団は1万5000人以上を数えた。(注13)
 「党生活の官僚主義化は、不可避の結果を生んだ。…
 もっぱら党の仕事に従事した党職員は、工場や政府官署で常勤で働いている一般党員に比べて、明らかに有利だった。
 党の運営に職業として没頭できることは強い力となって、党職員層に対して、立案、指導、統制の中心部たる位置を与えた。
 党の階層の全てのレベルで、権限の移行が見えるものとなった。まずは大会または会議から、名目上は大会等が選出した諸委員会へ、次いで、諸委員会から、表向きは諸委員会の意思を執行する党書記局への移行。」(注14) 
 ----
 (脚注+) N. Solovev in Pravda, No. 190 (1921.8.28), p.3-4. 完全ではないけれども—統計調査はロシア共和国の三分の二にしか及んでいない—、党の代表者全体について想定される。
 数字には、首都のモスクワは含まれていない。モスクワに関する統計は「信頼できない」と宣せられた。かりにこれを計算にいれれば、ホワイト・カラーの仕事をもつ共産党員の割合は、相当により高くなっただろう。首都は官僚制帝国の中枢なのだから。
 ----
 (08) 当然のこととして、中央委員会組織は徐々に、そしてほとんど感知されることなく、ほとんどの諸決定のみならず全てのレベルでの執行人員の選抜についても、党の地方機関から権限を奪い取った。
 中央集権化への推移は止まらず、冷酷な論理を伴って進行した。
 まず、共産党は、全ての組織立った政治生活を掌握した。次いで、中央委員会は、自発性を抑え込み、批判を沈黙させて、党の指揮権を自らの手に握った。さらに、政治局は、中央委員会のための全ての決定を用意し始めた。
 そして、三人の男たち—スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ—が、政治局を支配するに至った。
 最終的には、一人だけが、つまりスターリンだけが、政治局のために決定をした。
 一人の独裁への途がいったん極まると、もうどこにも進む途はなく、スターリンの死によって、党とその国家の権威が漸次的に解体していく、という結果となった。//
 ----
 後注
 (05) RTsKhIDNI, F. 76, delo 265.
 (06) Daniel Orlovsky in Diane P. Koenker, et al., eds., Party, State and Sosiety in the Russian Civil War (1989), p.180-p.209.
 (07) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9.
 (08) SV, No. 2 (1921.2.16), p.1.
 (09) 共産党の中央集権化と官僚主義化に関する最良の議論は、以下に見られる。Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed., (1963), Chap. 6.; Leonard Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy (1977), Part III.
 (10) Krestinskii in DesiatyiS"ezd, p.499.
 (11) RTsKhIDNI, F. 17, op. 112.
 (12) Pravda, No. 17 (1923.1.26), p.3.; A. V. Pantsov in VI, No. 5 (1990), p.80.
 (13) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.181.
 (14) Ibid., p.181. 
 ——
 第一節①、終わり。

2579/R・パイプス1994年著第9章序。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、へと試訳を進める。
 第9章の構成は、つぎのとおり。数字は本文にも目次にもなく、表題は目次にだけ見られる。
  
  第一節・共産党の官僚主義化。
  第二節・国家の官僚主義化。
  第三節・「労働者反対派」。
  第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭。
  第五節・孤立するレーニン。
  第六節・ジョージアに関する論争。
  第七節・レーニン・スターリン・トロツキー。
  第八節・トロツキーの衰退。
  第九節・レーニンの死。
 ——
 第9章/新体制の危機。 
 あなたはつぎの問題を、どのように解くか。
 農民層は我々の味方でなく、労働者階級は多様なアナーキズムの影響下にあって我々を放棄しようとしているとすれば、いま共産党はいったい何を基盤にすることができるのか?
 以上、共産党第10回大会で、Iurii Milonov (1921年3月)。(注1) 
 中央の政府を妨害する障害は何もなくなっていたが、同時に、それを支えてくれるものも何もなかった。
 以上、Alexis de Tocqueville. (注2)
 ----
 序。
 1921-23年に共産党を襲った政治的危機の原因は、対抗諸政党の弾圧によっても不満は消失せず、党員内部へと不満が移ったにすぎなかった、ということにあった。
 このような展開は、ボルシェヴィズムの主要な教義、紀律のある統一、を侵すものだった。
 第11回党大会の諸決議は、起きていることを遠回しに認めていた。
 「きわめて緊張していた内戦という状況下で、プロレタリアートの勝利を確固たるものにするために、その独裁を維持するために、プロレタリアートの前衛は、ソヴィエトの権威に敵対する全ての政治集団から組織する自由を剥奪しなければならなかった。
 ロシア共産党は、ロシアの唯一の合法的政党として残った。
 もちろん、このような状況は、労働者階級とその党に多くの優越性をもたらした。
 しかしそれは、他方で、党の仕事をきわめて複雑にする現象も生み出した。
 不可避的に、唯一の合法的政党の党員たちには、自分たちの影響力を行使しようとする気分が生じてきた。別の状況であれば共産党員のみならず、社会民主党またはその他の小ブルジョア社会主義の政党の党員たちにも出現するだろう集団や層だ。」(注3)
 トロツキーが、こう述べたように。「我々の党は今やロシアの唯一の政党だ。あらゆる不満が、我々の党を通じて昇って来る」。(注4)
 かくして、党指導部は、苦痛の選択を迫られた。すなわち、党内部での不満に寛容になることで、統一とそれから生まれる利点を犠牲にするか、それとも、党指導機構の硬化と党員たちの指導部からの離反という両者の危険をともに冒してでも、統一を維持するか。
 レーニンは、躊躇することなく、後者を選択した。彼はこう決意することによって、スターリンの個人的独裁の基礎を築いた。//
 ----
 後注
 (01) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.84.
 (02) Alexis de Tocqueville, The Ancient Regime and the French Revolution, Chap. 12.
 (03) OdinadtsatyiS"ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1961), p.545.
 (04) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.352.
 ——
 序、終わり。

2578/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第14節

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第14節へ。
 ——
 第14節・ドイツとソヴィエトの軍事協力の開始。
 (01) Rapallo 条約は、二つの国の軍事的協力関係を促進した。
 1922年7月29日、ソヴィエト軍事革命評議会メンバーのA. P. Rozengolts とSeeckt 将軍の代表者たちとの間で、協定が締結された(今のところ文書の所在が分からない)。
 内戦中はトロツキーの副官だったE. M. Sklianskii が率いたソヴィエト使節団が、1923年1月にベルリンに到着した。
 使節団は、3億金マルクで兵器を購入する、ドイツの信用借款で支払われる、と提示した。しかし、ドイツ側は、製造能力が自分たちの需要に合わないという理由で、拒んだ。(注270) 
 ロシア側は、ロシア領域内でヴェルサイユ条約により禁止されている兵器の製造をドイツが行ない、ドイツが財源を負担し、管理する、ということに同意した。
 また、ドイツの軍事要員がロシアで訓練されることにも、同意した。(注271) 
 ドイツ側は、代わりに、ソヴィエトの将校たちを教育することを引き受けた。(注272)
 その翌年、ドイツ帝国軍は7500万金マルクをこの目的のために予算計上し、モスクワに支部を開設した。(注273)
 両国の代表団は、ポーランドに対する、さらには連合諸国に対してすらの、共同軍事作戦について、秘密裡に議論した。(注274) 
 ----
 (02) ソヴィエト経済の未成熟さと非効率さのために、ドイツ側にとっては、兵器生産は失望に近いものだった。
 この軍事的協力関係による両当事者の主要な利益は、来たる世界戦争用に設計された先進兵器の試験と訓練から生まれるものだった。//
 ----
 (03) 1924年までに、ドイツのいくつかの主要な兵器製造会社がロシアでの権利を得た。
 ドイツの三つの軍事施設の存在が、ソヴィエト・ロシアで確認されていた。一つは、Junker 航空機製造のためにFili に、もう一つは辛子ガスや無色有毒ガスの生産のためにSamara 地方に、三つめは戦車製造のためにKazan に。(注275) 
 民間人のふりをしたドイツの将校たちが、戦闘訓練のためにロシアへと旅行した。(注276)
 1924年初めから、ドイツの操縦士たちがLipetsk で訓練を受け、オランダで秘密に購入したFokker 戦闘機を飛ばした。そこで120人の操縦士と450人の航空機人員が教育を受けた。
 彼らは、ヒトラーの空軍の中核を形成した。(注277)
 「特別集団 R」の一人だった将軍Helm Speidel によれば、Lipetsk での訓練は、将来のナツィス空軍の精神的基盤」を作った。(注278)
 ロシアで得た経験は、連合諸国に対する10年の有利さをドイツ空軍に与えた、と言われている。(注279)
 ロシアの操縦士と地上人員もまた、Lipetsk 基地で訓練を受けた。//
 ----
 (04) ドイツの将校たちも、Kazan とSamara で、戦車と化学兵器の経験を積んだ。
 ソヴィエト・ロシアで生産された知られていない数の兵器は、こっそりとドイツへ輸出された。
 1926年、ドイツの平和主義たちは、ソヴィエト・ロシアで生産された30万発の砲弾を積み込まれた三隻のソヴィエト船をStettin 港で発見することになる。
 これを発見して、社会主義指導者のPhilipp Scheidemann は、両国間の軍事協力関係を暴露し、ドイツの労働者に対してソヴィエトの武器を用いようとしていると政府を責め立てることができた。(*)
 しかし、禁止されている装備をロシアで大規模に生産しようというドイツの期待は、失望に終わった。
 毒ガスの生産は、困難になった。
 より大きい問題すらが、Fill の航空機製造工場を苦しめた。ロシア人が発注どおりの仕事をできなかったので、ドイツ国防軍はそれを閉鎖した。(注280)
 潜水艦計画は、設計図から次に進むことは決してなかったようだ。//
 ----
 (脚注*) F. L. Carsten in Survey, No. 44-45 (1962), p.121; Freund, Unholy Alliance, p.211; Müller, Das Tor, p.146. 前もって警戒していたようで、ソヴィエトのプレスは同日の12月16日に、ソヴィエト連邦にドイツの軍事施設があることを認めたが、防衛的なものだと説明した。Pravda, NO. 291/3, p.520 (1926.12.16), p.1. これは、ワイマール・ドイツとの軍事協力にソヴィエト・プレスが言及した唯一のものだと見られる。
 ----
 (05) ソヴィエトの将校たちは、1925年の初めに、さまざまに装って、ある者はブルガリア人だと偽って、ドイツ国防軍の演習を観察した。
 他の者たちは、参謀本部で教えられる秘密課程に参加すべくドイツへと派遣されていた。その参謀たちは、Model、Brauchitsch、Keitel、Guderin といった将軍たちとともに、初代のナツィ防衛大臣のWerner von Blomberg 陸軍元帥を含む、将来のヒトラーの将軍たちだった。
 生徒の中にはTukhachevskii とIakir もいた、と言われている。
 「ロシア人はこの課程のあいだに、全ての指令、戦術や作戦の研究書、募兵や訓練の方法、そして違法な再軍備の組織上の計画すら、を見て学習することができた。
 彼らに秘匿されたものは何もなかったように思える。」(注281)
 ----
 (06) 明らかなことだが、このような規模での協力関係が、気づかれないままで進行することはなかった。
 実際に、ポーランドとフランスの情報機関はそれを知っていて、Scheidemann が暴露した後で、公に知られることになった。
 しかし、連合諸国は何らかの理由で、警戒しなかった。
 連合諸国は、それを止めようとは何らしなかった。そして、続く年月の間に、両国の技術的協力関係は、遮られることなく継続した。//
 ----
 (07) このようにして、ソヴィエト・ロシアは再生するドイツ軍が基盤を築くのを助けた。このドイツ軍を、ヒトラーが自分のために使うことになる。
 急降下爆撃、自動車兵器、陸空軍の連結作戦、これらの戦術は、ソヴィエトの領土内で最初に試された。そして、ヒトラーの〈電撃作戦(Blitzkrieg)〉の基礎となった。
 赤軍の側について言うと、この協力関係のおかげで、第二次大戦中に連合国軍よりも十分に、ドイツの攻撃に対応することができた。//
 ----
 (08) ソヴィエト・ロシアとの協力にかかわったドイツの将軍たちは、第二次大戦を準備していた。これは、ヴェルサイユ条約を廃棄し、第一次大戦で失った大陸での覇権をドイツに与えることになる。 
 ドイツの将軍たちは明らかに、ロシアが将来の敵対国になると予期していれば、彼らの軍事機密にロシアを関与させはしなかっただろう。
 かくして、1939年のナツィ・ソヴィエト協定の原型が、1920年代に、すなわちレーニンがまだ生きていて責任を担っていたときに、生まれた。この1939年協定は、ドイツがモスクワの好意的中立のもとでヨーロッパの大部分を占領する、第二次大戦を勃発させることになる。//
 ----
 後注
 (270) Müller, Das Tor, p.105-6.
 (271) Kochan, Russia and the Weimar Republik, p.60-61; Fischer, Stalin, p.515-p.536; Raphael R. Abramovitch, The Soviet Revolution (1962), p.247-p.258.
 (272) Freund, Unholy Alliance, p.125.
 (273) Hans W. Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.573-6.
 (274) Müller, Das Tor, p.113-4.
 (275) Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.578; Müller, Das Tor, p.144-5.
 (276) Freund, Unholy Alliance, p.207-8.
 (277) Ibid., p.209.
 (278) Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953.1), p.28.
 (279) Freund, Unholy Alliance, p.209.
 (280) Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistskii mech kovalsia v SSSR (1992), p.20-23.
 (281) Freund, Unholy Alliance, p.210; Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953), p.35.
 ——
 第14節、終わり。第8章全体も、終わり。

2577/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第13節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第13節へ。
 ——
 第13節・1923年-共産主義者のドイツ・ナショナリストとの同盟(1923 Communist alliance with German nationalists)。
 (01) モスクワにとっては、連合諸国とドイツを引き裂いたままにしておくことが最も重要だった。そして、これを達成するための手段を、ヴェルサイユ条約の中に見出した。
 ドイツの指導的な社会主義政党の社会民主党は、この条約の条件の範囲内で活動し、連合諸国との友好関係を築こうとした。これに対して、共産党は、ドイツの最も反動的でナショナリスト的部分に目を向けた。
 レーニンは、1920年12月に、ドイツの「ブルジョアジー」はソヴィエト・ロシアとの同盟に向かって駆り立てられている、と宣言した。
 「ドイツは、ヴェルサイユ条約に従わされて、存在が不可能な条件の中にいると感じている。
 そして、この状況下で自然に、ロシアとの同盟へと進んでいる。
 あの息苦しい国のロシアとの同盟は…、ドイツに政治的な狼狽を生み出した。ドイツの黒の百人組は、ロシアのボルシェヴィキとスパルタクス団への共感へと動いている。」(注258)
 本当は、共産主義者に求愛しているのが「黒の百人組」ではなく、黒の百人組に、つまりナツィスとその同族の精神に、媚びているのが共産主義者だった。
 共産主義者・「ファシスト」協力関係は、1923年1月以降に最高潮に達した。そのとき、フランスとベルギーは、ドイツの賠償金支払いの不履行を宣言して、ルール地方を占領した。
 コミンテルン執行部はフランスと対立したドイツをただちに支持し、モスクワは、フランスの要請を受けてポーランドが攻撃するならばドイツを助けると約束した。(注259)
 1923年5月、ドイツ共産党(KPD) は、民族主義的大衆を徴兵する可能性を承認する決議を採択した。(注260)//
 ----
 (02) ドイツの保守層や極右社会と交渉するレーニンの主な代理人は、Karl Radek だった。 
 Radek は、ドイツ共産党が孤立状態から離れる唯一の方途はナショナリスト部分との同盟関係の形成だ、と考えていた。
 彼は、このような変化を、「被抑圧国家」の場合はナショナリズムは「革命的」現象だ、という(ジノヴィエフと同様の)論拠で正当化した。(注261)
 気落ちしているドイツ人に対して、彼は、連合諸国に対抗する統一戦線を提案した。
 ドイツ政府に対して、フランスとの戦争の場合は、ソヴィエト・ロシアは「好意的中立」政策を採るだろう、ドイツ共産党は積極的に支持するだろう、と助言した。(注262)
 1923年6月、彼は、コミンテルン執行部に対して演説を行ない、ルール地方での輸送を妨害したとしてフランスに射殺されたナツィ一族のAlbert Schlageter を褒めちぎった。Schlageter は「ドイツ・ナショナリズムの殉教者」で、「革命の兵士へ真摯な敬意」を払う「反革命の勇敢な戦士」だ、と。
 彼はこう明確に述べた。「ドイツの愛国主義層が自国の民衆の大多数の意向になると決意し、そうして連合諸国の資本主義者とドイツ資本に対する戦線を形成しないならば、Schlageter の意思は虚しいものになるだろう」。(注263) 
 Radek はのちに、この扇情的な演説の文章は政治局とコミンテルン執行部の同意を得ていた、と明らかにした。(注264)
 ドイツ共産党(KPD)の機関紙の〈赤旗〉は今や、ナショナリストのためにその紙面を割いた。
 ナツィスは共産党員の集会で語り、共産党はナツィス党員の集会で語った。
 ドイツ共産党は、鉤十字を赤い星と混ぜ合わせたポスターを掲示した。(注265) 
 スパルタクス団のRuth Fischer は、彼女自身ユダヤ人だったが、ドイツの学生たちに、ユダヤ資本家を「踏みつぶし」、「首をつるす」ように熱く訴えた。(注266)
 このような協力関係は、ナツィスが離れた1923年8月に終わった。//
 ----
 (03) 状況をさらに混乱させることだが、モスクワは、その対ドイツ政策の二つの立場—政府との同盟とその右翼の敵との協力関係—を、第三の、社会革命に伴わせた。
 政治局は、1923年8月23日に、新首相Gustav Streseman の政府を打倒する、と決定した。新首相 が、財政援助とヴェルサイユの条件の緩和を求めて、連合諸国と交渉するのを阻止するためだった。これは、ドイツを固く西側陣営につなぎとめることになるだろう。(注267)
 トロツキーは、当時にドイツで勃発していたストライキの波を利用しょうと望んで、クーを組織するために、Alexis Skoblevskii 将軍を長とする軍事使節団をドイツに派遣した。(注268)
 100万トンの穀物が、予期される連合諸国の封鎖にドイツが抵抗できるように、ペテログラードと前線地点に貯蔵されていた。
 2億金ルーブルの救済基金も、別に用意されていた。(注269)
 トロツキーはドイツ共産党と、革命戦術について討論した。その助言に基づいて、ザクセンとテューリンゲンでクーを開始する、と決定された。
 しかし、ドイツの労働者は、革命的訴えに反応できなかった。そして、右翼のKapp 蜂起と同時に起こったクーは、惨めな失敗に終わった。
 1923年11月から1924年3月まで、ドイツ共産党は非合法化された。//
 ----
 後注。 
 (258) Lenin, PSS, XLII, p.104-5. Ost-Information, No. 81, 1920.12.4.—Dennis, Foreign Policies, p.155 が引用—を参照。
 (259) Freund, Unholy Alliance, p.153; Louis Fischer, The Soviets in World Affairs, I (1930), p.451; Gustav Hilger, The Incompatible Allies (1953), p.120.
 (260) Arthur Spencer in Survey, No. 44-45 (1962), p.139.
 (261) Leonid Luks, Entstehung der kommunistischen Faschismustheorie (1984), p.62.
 (262) Ruth Fischer, Stalin and German Communism (1948), p.265.
 (263) Karl Mielcke, Dokumente zur Geschichte der Weimarer Republik (1951), p.46, p.48.
 (264) Protokoll: Fünfter Kongress der Kommunistischen Internationale, II (1925). p.713; Die Lehren der deutschen Ereignisse: Das Präsidium des Exekutivkomitees der Kommunistischen Internationale zur deutschen Frage (1924), p.18; Braunthal, Historzy, II, p.277.
 (265) Braunthal, History, II, p.277.
 (266) Ossip K. Flechtheim, Die Kommunistische Partei Deutschlands in der Weimarer Republik (1948), p.89.
 (267) Braunthal, History, II, p.278-9; Freund, Unholy Alliance, p.172.
 (268) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.209-212.
 (269) Ibid., p.218; G. Z. Besedovskii, Na putiakh k Termidoru (1930), p.123.
 ——
 第13節、終わり

2576/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第12節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第12節②へ。
 ——
 第12節・ラパッロ(Rapallo)②。
 (12) レーニンは、ドイツとの交渉をいったん決断すると、スターリンが1939年にいっそう巧く模倣した策略を用いた。すなわち、連合諸国との合意を追求しているふりをしつつ、ドイツに対して分離協定に署名するよう圧力を加えた。 
 この戦術が、フランスやイギリスを怒らせるのを怖れる政府内や実業界の親西欧派の反対を抑えるのに役立った。//
 ----
 (13) 1922年1月遅く、Radek 〔ロシア・ボルシェヴィキ〕は、驚くべき報せを持ってベルリンに現れた。ソヴィエト・ロシアの法的承認と商業信用を呼びかけ、その代わりにモスクワはヴェルサイユ条約の実施を助ける、とするフランスとの間の協定をモスクワはまさに締結しようとしている、との報せだ。
 Radek は、かりにロシアがそうするつもりならば、フランスはポーランドとの関係を断つかもしれない、とすら主張した。(*)
 彼は、Rathenau 〔ドイツの政治家〕に対して、ロシアと折り合うことでそのそうな進展を阻止するように迫った。
 また、これには多額の金銭がかかわっていた。
 Rathenau は、50億紙幣マルクの借款を提示し、ロシアは自分を恐喝していると抗議した。しかし、Radek は、ソヴィエトの政策に影響を与えるにはこの額(金での5000-6000マルク)では少なすぎるとして、それを却下した。(+)
 Rathenau は言葉を濁し、連合諸国の反応を心配し、輸入代金を支払うロシアの能力に懐疑的になった。
 フランスとの協定が迫っているとの主張には、実体がなかった。しかし、ドイツの外務当局からRathenau を追い出した点では、究極的にはRadek とその仲間たちの役に立った。かりにドイツが1914年以前のフランス・ロシア同盟の復活を避けたかったとすれば、ドイツは行動すべきだった。それもすぐに、行動しなければならなかった。
 Radek は、近代的軍需産業の建設を早くするために、Seeckt 〔ドイツの陸軍軍人〕に対して、赤軍は春にポーランドを攻撃する準備をしている、と内密に打ち明けた。ポーランドは猛烈に航空機を必要としている。
 騙されやすいドイツ人たちはこの作り話を信じ込み、1922年4月に、モスクワの近傍のFili でのJunker 航空設備の開設を急がせた。
 彼らはまた、空想上のポーランド侵攻にもとづいて、赤軍との職員間の討議を始めた。(注240)
 Radek は、Genoa 経由で4月初めにベルリンに着いたChicherin の支援を受けた。
 彼は、提示されているソヴィエト・ドイツ協定案を持ってきていた。ドイツ外務省の専門家の助けでのちに修正されたのだが、それは、Rapallo 条約の基礎文書として役立つことになる。(注241)// 
 ----
 (脚注*) Wipert von Blücher, Deutschlands Weg nach Rappallo (1951), p.154-5. Gerald Freund はこの情報を引用し、彼自身が主導して行ったと示唆しつつ、Radek を「無責任」と称する。
 しかし、このような重大な問題については、政治局とレーニン個人の是認なくして何も行なうことができなかった。これがまさにその事案に該当することの証拠は、Chicherin が率いたGenoa へのソヴィエト代表団は二ヶ月後に、全く同じ戦術を用いて、ドイツをRapallo 条約の署名へとさせた、ということだ。Freund, loc, cit., p.116-7.
 (脚注+) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1124. ベルリンからの報告の日付は、1922年2月14日。1922年2月22日のレーニンの覚書では、Genoa の戦術に下線があり、Chicherin が外国資本なくしてはソヴィエトの輸送と工業の再建の見込みはない、と強く主張していた。Ibid., delo 1151.
 ----
 (14) 1922年2月28日、政治局は、Genoa 会議に関する、経済協定を中心とするレーニンの基本方針を是認した。これは、「平和主義」派を分つことで、「ブルジョア」陣営の分裂を促進するものだった。
 「我々は、その(ブルジョア)陣営(または特に選んだ別の丁重な表現を用いよ)の『平和主義的部分』は、小ブルジョア、平和主義者、準平和主義的民主主義派の第二インターナショナルか二・五インターナショナル、ゆえにKeynes タイプのそれ、等々だと見なして、呼称すべきだ。
 我々の原則の一つは、原則でなければGenoa での政治的課題は、ブルジョア陣営のこの派を全体として切り離して、いい気分にさせ、我々が締結を受容できかつそれは望ましいと考えていることを知らしめることだ。我々の観点からして、取引上のみならず、政治的な合意の点でも。
 (資本主義が新しい秩序へと進む平和的な移行の数少ない機会の一つとして。これに関して我々共産主義者は、全く楽観的ではないが、敵対的な他の多数派諸国の面前で、その試みを助ける気はあり、それが我々の義務だと、一つの大国を代表する者の義務だと見なしている。)/
 全ての可能なことを、ブルジョアジーの平和主義派を強くしたり、少しでも選挙の見通しを明るくするのは不可能な何がしかのことをせよ。
 これが、第一だ。
 第二に、Genoa で一緒に我々に抵抗するだろうブルジョア勢力を分裂させよ。
 これが、Genoa での我々の二つの任務だ。
 どのような状況でも、共産主義者の見方を促進しなければならない。」(注242) 
 Genoa でのレーニンの戦術にとって重要な平和主義は「小ブルジョア幻想」だということにChicherin が異論を述べたとき、レーニンは、苛立ちを包み隠さず、まさにそのとおりであって、「敵であるブルジョアジーを破壊する目的で平和主義者を利用」しないのは正気でない、と説明した。(注243)//
 ----
 (15) Genoa 会議は、4月10日に開会した。
 ソヴィエト代表団は、レーニンではなく、Chicherin に率いられていた。レーニンは出席しようと思っていて、かつ議長になることを想定していたが、Krasin から暗殺に遭う危険があると警告された後でとどまることに決めた。
 レーニンは、トロツキーまたはジノヴィエフが自分の代わりをすることも、拒否した。(注244) 
 Chicherin は第一日め、一般的な武装解除に関する包括的な「平和主義」綱領を発表した。
 これは、ソヴィエト・ロシアが当時、ドイツの助けで近代化しつつある世界で最大の軍隊(武装兵80万人以上)(注245) を有していたことからすると、皮肉な案だった。
 フランスの要請により、その提案は会合の議題とは関係がないものとして握りつぶされた。//
 ----
 (16) Genoa での原理的なソヴィエトの経済的目標は、外国の借款と投資を確保することだった。
 1918年にドイツ外務省とソヴィエト大使のAdolf Loffe の間の連絡者だった同調者のHarry Kessler 公は、ドイツ外務当局の東部支所の長から、「ロシア人が興味をもつのは金、金、金だ」と言われていた。(注246)
 レーニンは実際に会議の前日の〈プラウダ〉に、ロシア人はGenoa へと、「共産主義者としてではなく、商売人として行く」と書いていた。(注247)
 Genoa でのソヴィエトの政策方針は、ドイツに集中することだった。指導的なソヴィエトの新聞は、こう論じた。「自立したドイツのロシアでの経済政策は、ドイツ資本の合理的な利用への途を開く。ロシア自身でだけではなく、さらに東へと、目ざす途はロシアを通り抜け、ドイツが別の経路では到達することのできない領域へとつづく途だ。」(注248) //
 ----
 (17) 連合諸国は、ソヴィエト政府に対して、ロシアの外国債務を承認し、その「行動または不注意」によって発生した損失を外国人に補償することを求めた。
 外国の請求権は、ソヴィエト債券の外国での発行によって埋め合わされるべきだ。(注249)
 Chicherin は、きわめて条件付きの言葉で示唆して、再建に必要な融資はもちろん外交上の国家承認を受けるならば、損失を外国人に補償する、という意向を表明した。(注250)
 この問題について交渉するふりをしながら、ロシア代表団は、ドイツとの分離条約の締結に向かって静かに動いていた。//
 ----
 (18) こうした努力をするについて、ロシア代表団は、Lloyd George の外交的愚かさに助けられた。
 自らを〈最高の人物(primus inter pares)〉だと示そうとして、この首相は、ソヴィエトを含む多くの代表団と会食をした。
 彼のロシア人との私的な遭遇がさりげなく仕組まれ、Radek とChicherin は、連合国・ドイツ協定をドイツが結ぼうとしていると、警告した。(注251)
 Rathenau は、穏当でないことが起きそうだとの助言に納得しつつ、疑念を拭い去り、4月16日に、Rapallo 近くのSt. Margherita ホテルで、本質的にはモスクワが草案を書いたソヴィエト・ロシア協定に署名をした。(**)
 すぐのちに、二枚舌だと非難されて、ドイツは、連合諸国もまたモスクワと分離協定を結ぶべく動いていたと論じて、自分たちの行動を正当化した。(注252)//
 ----
 (脚注**) 二ヶ月後、Rathenauは、Rapallo 条約のために人生を捧げたのち、「親共産主義のユダヤ」だとしてナショナリストに殺害された。
 ----
 (19) 協定が定める条件により、署名によって相互の外交的承認がなされ、最恵国待遇の地位が与えられた。(注253)
 両国は、戦争に起因する請求権を相互に放棄し、友好的な経済関係を促進することを誓約した。
 ドイツはさらに、ソヴィエトの国有化措置によって政府や国民が受けた損失に対する請求権も放棄した。
 Rapallo 協定は、ドイツが外交政策について連合諸国とは別個にかつ本来の望みとは反対に行動した、休戦以降の三番めの事例になった。いずれの場合も、ドイツは、ロシアに有利に行動した。—最初は、1919年に、封鎖に参加することを拒んだ。次いで、1920年に、ドイツを横切ってポーランドへと軍需資材を送るのをフランスに対して許可しなかった。//
 ----
 (20) 連合諸国は驚いて、ドイツに対して集団的抗議団を送り、国際的交渉が従うべき問題に関する一方的な決定だと非難した。ドイツは対等な相手国として招かれているが、一体性という精神を侵犯することで応えたのだ。
 ドイツはその行動によって、ソヴィエト・ロシアとの共同討議への参加を排除された。(注254)
 Genoa 会議は、解散した。
 西側はおそらく、Rapallo 条約の諸条項をその含意ほどには警戒しなかった。その意味とは、「怒れるドイツと貧しいロシアの同盟」がうっすらと出現した、ということだ。(注255)
 ----
 (21) Rapallo 条約は、ヴェルサイユの後でドイツが初めて締結した国際条約だった。
 ほとんどのドイツの政治家は、ロシアをドイツの経済的、政治的浸透に対して開くものだという理由で、この条約を支持した。
 社会民主党は反対し、ロシアは世界革命のためにドイツを利用している、と警告した。(注256) 
 ----
 (22) この条約は、ロシアのイギリスとの取引を犠牲にして、ソヴィエト・ドイツ間の取引を増大させた。
 1922-23年、ソヴィエトの輸入の三分の一は、ドイツからだった。
 1932年、この数字は47パーセントにまで上がった。(注257)
 ----
 後注
 (240) Freund, Unholy Alliance, p.99; F. L. Carstein in Survey, No. 44-45 (1962), p.119.
 (241) Herbert Helbig, Die Träger der Rapallo-Politik (1958), p.79-81.
 (242) Lenin, PSS, XLIV, p.407-8.
 (243) 初出、Literaturnaia gazeta No. 45 (1972.11.5), p.11.
 (244) TP, II, p.656-9; RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 27069.
 (245) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 74.
 (246) Harry Kessler, In the Twenties (1971), p.176.
 (247) Lenin, PSS, XLV, p.70.
 (248) EZh, No. 71 (1922.3.29), p.1.
 (249) Dennis, Foreign Policies, p.427.
 (250) Ibid., p.431-2.
 (251) Freund, Unholy Alliance, p.116-7.
 (252) Sovetsko-Germanskie otnosheniia ot peregovorov v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skgo dogovora, II (1971), p.485-6.
 (253) Text in NYT, 1922.4.18, p.1.
 (254) Sovetsko-Germanskie otnosheniia, II, p.486-7.
 (255) Dennis, Foreign Policies, p.430.
 (256) Freund, Unholy Alliance, p.148.
 (257) Müller, Das Tor, p.84. Walter Laqueur, Russia and Germany (1965), p.132.
 ——
 第12節、終わり

2575/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第12節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第12節へ。
 ——
 第8章
 第12節・ラパッロ(Rapallo)①。
 (01) 1920年代の(そしてこの問題では1930年代の)ソヴィエトの外交政策は、ドイツに焦点があった。ドイツは、つぎの革命の地域で、かつソヴィエト・ロシアの原理的敵対国のイギリスやフランスに対抗する潜在的な同盟相手だと見られていた。
 モスクワは同時にこの二つの目標—転覆と協力—を追求した。これらは相互に排他的で、そのことによってヒトラーによる権力への進軍への途を掃き清めたのだったとしても。//
 ----
 (02) ヴェルサイユ後の国際関係の最も重要な事件は、アメリカが国際連盟への加入を拒んだことに次いで、Rapallo 条約だった。この条約で、ソヴィエト・ロシアとヴァイマール共和国は、Genoa での国際会議を経て、予期していなかった世界を驚かせた。//
 ----
 (03) Genoa での会議は、二つの目的をもって開催された。
 ヴェルサイユで未解決のまま残された東欧と中欧の政治的、経済的問題を処理すること、ロシアとドイツとを国際社会へと再統合すること。—両国への招待状は第一次大戦の終焉以降それらが初めて受け取ったものだった。
 同盟政治家たちの副次的な関心は、ロシア・ドイツの潜在的な親交関係の成立を事前に防止することだった。彼らには、それは懸念すべき脅威だった。
 そのように判明したが、Genoa 会議は目標を一つも達成できなかった。その唯一の成果は、まさに阻止しようとしていた、ソヴィエト・ドイツの親交関係の成立だった。//
 ----
 (04) ドイツには、ソヴィエト・ロシアと妥結すべき大きな理由があった。
 一つは、通商上の望みだった。
 ドイツは伝統的に、ロシアの主要な取引相手だった。
 二つの経済は、ロシアには豊富な原料があり、ドイツにはロシアが必要とする高い技術と経営技量がある、という点で、よく適合していた。
 ドイツの実業界は、戦後世界が「アングロ-サクソン」諸国に支配されているのは確かだが、ドイツが発展余地のある経済を維持していくための唯一の希望はモスクワとの緊密な関係のうちにある、と感じていた。
 NEP の導入は、このような協力関係を展望する見込みを可能にした。
 ドイツの実業家たちは、1921-22年に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係の発展に関する野心的な計画を立てた。ロシアを潜在的な植民地のごとく位置づけるものだった。(注229) 
 彼らは、北部ロシアとシベリアの広大な森林、シベリアの鉄鉱や炭鉱を利用する見通しに夢中になった。それらは、Alsace とLorraine の喪失を埋め合わせてくれるだろう。(注230)
 ペテログラードをドイツの技術的、財政的援助でもって海運と工業の中心地に変える、という壮大な企画が語られた。
 両国の通商交渉は、1921年早くに始まった。それは、ロシアに投資する外国企業をレーニンが招待したことに由来した。(注231)
 ドイツの産業界の幹部たちはKrasin に、ロシアの基幹部門のいくつかの管理と引き換えに、ソヴィエト経済の再建を助ける大規模の投資を呼びかける提案を行なった。(注232)//
 ----
 (05) しかし、通商上の利益は、地政学的な考慮、すなわち、ソヴィエト・ロシアの助けがあって初めてドイツはヴェルサイユで課された足枷を断ち切ることができるという確信、に次ぐ位置にあった。
 ドイツ人の多数、おそらく大部分は、講和条約の条件は屈辱的かつ重いもので、免れるためには何でもする用意があると、考えていた。
 条約が課した義務履行をしたがらないこと(あるいは、ドイツが言ったように、その能力がないこと)は、フランスの報復を挑発した。これが、親西欧のドイツの政治家の立場をさらに悪くした。
 このような状況のもとで、ドイツのnationalist 社会は協力者を探し求めた。そして、共産主義ロシア以外に、連盟諸国からよそ者として非難されていたもう一つのこの大国以外に、この役割をよりよく果たす者があっただろうか?//
 ----
 (06) Genoa 会議は、ソヴィエトの外務人民委員のGeorge Chicherin の声明によって促進された。1921年10月28日のそれは、こう述べた。
 ロシア政府は、一定の条件のもとで、「1914年以前にツァーリ政府が締結した国家借款から生じる他の国家や国民に対する義務の存在を認める」用意がある。
 彼は、「国際会議に、…ロシアに対する諸大国の請求権を考慮し、それらとの間の明確な条約を作成する」ことを提案した。(注233)
 Lloyd George は、この宣言はロシア革命で生じている問題を最終的に解決する魅力的な機会になる、と考えた。
 1922年1月6日、連盟最高会議は、押収や留保によって侵害された財産上の権利の回復も含めて、中欧と東欧の経済再建を考える国際会議を開催すると決議した。//
 ----
 (07) 既に述べたことだが(第四章)、Hans von Seeckt が率いたドイツの将軍たちは、1919年の冒頭に共産主義ロシアに対する裏口の回路たる役割を果たした。
 ソヴィエト・ドイツ軍事協力関係へと至る決定的歩みは、NEP 政策導入とポーランドとの戦争終結のためのRiga 条約の締結がつづいた1921年の春に、すでに採られていた。
 レーニンは、赤軍がポーランドに対して示す無気力さに驚きかつ心配して、ドイツに軍隊の近代化への助けを求めた。
 この分野では、両国の利害は合致した。ドイツにとって、軍事的協力関係に入るのは望ましかった。
 ドイツは、ヴェルサイユ条約の条件として、近代戦争に不可欠の兵器を製造することを禁じられていた。
 ソヴィエト・ロシアの側は、そのような兵器も欲しかった。
 こうした共通する利害にもとづき交渉が行われ、やがてつぎのようになった。ロシアは、ドイツが先進兵器を製造して検査する安全な場所を提供する。その代わりに、ドイツは、赤軍が使う装備を提供し、訓練を行う。
 この協力関係は、1933年9月まで、すなわちヒトラーが権力を掌握して9ヶ月後まで、続いた。
 両国の軍隊にとって、多大なる利益だった。
 協定期限がついにやってきたとき、当時は戦時人民委員代理だったTukhachevskii は、モスクワにいるドイツの臨時代理公使に、「ドイツの遺憾な進展にもかかわらず、ドイツ国軍が赤軍の組織を決定的に助けてくれたことは、決して忘れ去られないだろう」と言った。(注234)(*)
 ----
 (脚注*) すぐ前の1933年5月、ナツィ・ドイツとの軍事協力関係がまだ現実的に見えていたとき、Tukhachevskii は訪問したドイツ代表団に、こう言った。「あなたがたと私たち、ドイツとロシアは、我々が協同するならば世界を我々の考え方で支配することができるということを、つねに心に留めておこう」。Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistkii mech kovalsia v SSSR (1992), p.25.
 ----
 (08) レーニンは、1921年3月半ばに、赤軍の再編成を助けてくれるよう、ドイツ軍に正式に要請した。(注235) 
 Seeckt は、このような進展を予期して、いくぶんか前に、ドイツ国防軍の内部に「特殊集団 R」を組織していた。これは、ロシア人と付き合った経験のある将校たちに補佐された内密の部隊だ。
 レーニンが要請したあとで、交渉は迅速に進んだ。
 4月7日、Kopp はベルリンからトロツキーに、ドイツ「集団」は生産のための技術人員と製造設備を用意するために、三つのドイツ兵器製造会社をかかわらせることを提案した、と伝えた。—Blöhm & Voss、Albatrosswerke、Krupp。三社それぞれが、潜水艦、航空機、大砲と砲弾の生産。
 ドイツはモスクワに対して、これらの工業の建設のための信用借款と技術的援助の両方を提供した。これらは、赤軍とドイツ軍の双方に同時に役立つはずだった。
 レーニンは、Kopp の報告を是認した。(注236) 
 やがて、「特殊集団 R」の代表者たちがモスクワに到着して、支局を開設した。
 ドイツ側は、厳格な秘密性を強く要求した。
 この協力関係は首尾よく隠蔽されたので、一年半の間、ドイツの社会主義者大統領のFriedrich Ebert は知らなかった。彼がSeeckt から聞いて知ったのは1922年11月で、そのときに遅れて同意した。(注237)//
 ----
 (09) ソヴィエト・ドイツの政治的協力関係は、1921年5月に決定的な方向へと向かった。連合国がドイツの賠償金支払いの改訂要請を拒否したあとでだ。
 ドイツのほとんどの保守主義者と民族主義者たちは上機嫌で、ロシア共産主義者と共通する信条を掲げることで、連合国に制裁を加えようとした。//
 ----
 (10) このような友好関係へのソヴィエトの関心には、明確な動機があった。すなわち、政治や軍事に加えて、経済だった。
 レーニンは、ソヴィエト経済の再建には西側の資本とノウハウが必要であり、これらを最も容易にドイツから得ることができる、と考えた。
 連合諸国はソヴィエト・ロシアとの通商を望んだが、借款問題が満足な結果を得て解決するまでは、信用貸しをするつもりがなかった。
 この問題はロシア・ドイツ関係には大きな障害ではなかった。ソヴィエトの債務不履行と国有化によって被ったドイツの損失ははるかに少ないもので、いずれにせよ、両国の1918年〔ブレスト=リトフスク〕条約の定めでもって実質的には補償されていた。
 連合国・ソヴィエト間の通商のもう一つの障害は、ソヴィエト各省は西側の個々の会社ではなく合弁企業と交渉をすべきだ、という連合諸国の主張だった。  
 これはモスクワの気には全く召さなかった。外国企業を相互に競わせるのを好んだからだった。
 連合諸国とは対照的に、ドイツは、ロシアが一対一でドイツの企業と交渉することに異議を挟まなかった。Rathenau は実際に、ドイツはモスクワの同意なしにはどの合弁企業にも参加しない、とRadek に約束した。(注238)//
 ----
 (11) 9月21日と同24日、Krasin は、Seeckt の副官の一人である参謀部からのドイツ人将校と、ロシア・ドイツの軍事協力に関する詳細を詰めるために逢った。(注239)
 Krasin は、レーニンに報告したとき、金儲けだけ考えて連合国に簡単に脅かされるドイツの銀行家や実業家を巻き込んでも無駄だ、という考えまで述べた。「真剣に復讐を考えている」ドイツ人と交渉するのが最も好い。
 協力関係は、ドイツ政府からは厳格に秘密にされ、その情報は軍部にだけに限定された。
 ドイツは、ソヴィエト・ロシアで企画されている軍需産業を動かす技術者
や経営要員はもとより、財政援助も提供することになるだろう。彼らの公式な監督は、ソヴィエトの「トラスト」に委ねられる。 
 Krasin によると、計画の全体が赤軍の近代化の努力だと偽装されており、現実的かつ直近の目的は、ドイツが数百万人の軍に先進的で禁止されている兵器を装備させないことにあった。//
 ----
 後注
 (229) Rolf-Dieter Müller, Das Tor zur Weltmacht (1984), p.50-p.60.
 (230) Ibid., p.46-47.
 (231) Lenin, PSS, XLII, P.55-p.83; 初出、1963年。
 (232) R. G. Himmer in Central European History, Vol. 9, No. 2, (1976), p.155.
 (233) Correspondence with Mr. Krasin Respecting Russia's Foreign Indebtedness, Parliamentary Papers, Russia, No. 3, Cmd. 1546 (1921) , p.4-5.
 (234) Dispatch of 1933.12.6. in Department of State Documents on Germn Foreign Policy, Series C, Vol. II (1959), p.81.
 (235) Gerald Freund, Unholy Alliance (1957), p.92n. さらに、E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, III (1953), p.361-4 を見よ。また、Deutscher, Prophet Unarmed, p.57-58.
 (236) TP, II, p.440-3.
 (237) Freund, Unholy Alliance, p.149.
 (238) PTsKhIDNI, F. 5, op.1, delo 2103, list 84, F. 2, op.2, delo 1124.
 (239) Ibid., F. 2, op.2, delo 897,933,939.
 ——
 ②へと、つづく。

2574/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第11節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第11節へ。1922年12月、コミンテルン第4回大会で、日本共産党は正式にコミンテルンの支部となった。
 ——
 第8章/第11節・外国共産党に対する統制の強化。
 (01) 新経済政策は、ソヴィエトの外交政策にも、影響を与えた。外交は今ではかつて以上に、異なって相反する次元で機能していた。在来の外交通商と、非在来的な転覆活動の二つの次元。
 モスクワは、NEP の統合部分だった通商と投資を促進するために外国と通常の関係に入ることを懸念していた。
 軍事行動は、放棄された。性急で即興的だった1923年のドイツでの蜂起の失敗は別として、ヨーロッパで蜂起を起こすという企てはもうなかった。
 その代わりに、コミンテルンは、西側の諸組織に徐々に浸透するという戦略をとった。//
 ----
 (02) ソヴィエト内部では経済自由化の一環として政治的抑圧が強化された、と叙述してきた。
 同じことは、国際共産主義運動についても言えた。
 その運動に課された21項目の条件は、外国の共産主義組織をモスクワに従属させた。だが、コミンテルンは対等な共産党の連合体だという幻想は維持された。
 この幻想は、1922年12月のコミンテルン第四回大会で一掃された。
 同大会決定は、つぎのことを明確にした。第一に、外国の諸共産党は独自の見解をもつ権利を有しない、第二に、双方が衝突した場合は、ソヴィエト国家の利益が外国の共産主義運動よりも優先する。//
 ----
 (03) ヨーロッパでの革命の切迫性についての考えは、逆説的に、外国のコミンテルン支部に対するモスクワの立場を高めた。
 「まさに世界革命にはもはや今日的可能性がないがゆえにこそ、(外国の)諸共産党は、その希望をソヴィエト・ロシアへとつなぎ止めなければならない。
 ロシアだけが革命時代の階級闘争に勝利して出現した。また、無数の敵から自らを防衛することにも成功した。
 ロシアは、来たる世界革命の象徴であり、世界資本主義に対する力強い防波堤だった。
 外国の諸共産党にその国の権力の奪取が困難に思われれば、それだけ固く、諸共産党はソヴィエト・ロシアに結集しなければならない。
 この憂鬱な世界情勢のもとで、ソヴィエト・ロシアこそが世界じゅうの共産党員の祖国であるべきであることほど、当然のことはない。」(注216)
 戦後世界の安定は「憂鬱な」報せだった者たちには、ともかくもこの文章の執筆者にはそうだったが、モスクワはじつに唯一の希望だと思えた。
 そしてモスクワは、この現実から適切な結論を導きだした。//
 ----
 (04) この第四回大会を準備して、モスクワは、コミンテルンの組織構造から、連邦主義の痕跡を全て排除することを決定した。
 責任者だったブハーリンは、21項目の第14項について、これはソヴィエト・ロシアが「反革命」を撃退するのを外国の諸共産党が助けることを要求するものだったが、外国諸共産党はいかなるときでもソヴィエト政府の外交政策を支持する義務がある、ということを意味すると解釈した。(注217)
 要するに、共産主義者はソヴィエト・ロシアという唯一の祖国をもち、ソヴィエト政府という一つの政府をもつのだ。
 共産主義者は、この政府が外交関係上の行為としてしたことを、ソヴィエト同盟と「ブルジョア国家」—自国を含む—との同盟であっても、同意しなければならなかった。ロシア共産党の政治局が決定した、ソヴィエト・ロシアの必要に応えるのならば。 
 この項目は、1922年にRapallo で締結されたソヴィエト・ドイツ条約に対して、無言の批判があり得ることをとくに意識してのものだった。//
 ----
 (05) コミンテルンの最高の名義上の決議に外国の党が疑問を持ったり口出ししたりするのを阻止するために、コミンテルン第四回大会は、これ以降は構成諸党はコミンテルンの大会が行われた後でのみそれらの各大会を開催する、と決定した。
 こうした手続によって、各諸党の代議員は独立した決議を動議として提出する権利を持たないことが確実になった。
 コミンテルンへの代議員たちは、各自の党からの拘束的な命令を携えて来ることが禁止された。そのような命令は、「国際的で、中央志向のプロレタリア政党の精神と矛盾する」がゆえに、無効であり、無意味とされた。
 各国の共産党大会にオブザーバーを送ることが、1919年以降のコミンテルンの慣例となった。これは今ではつぎの規定によって公式に承認された。すなわち、「例外的状況では」、「最も包括的な権限」を与えられて外国党が21項目の条件や大会決定を履行しているかを監督する代理人を各国の党に派遣する権能を、コミンテルン執行部に与える規定。つまりは各国の党を支配し、服従しない構成党を除名する、そのような権能だ。
 各国の党は、それらが選んだ代表をコミンテルン執行部に送る権利も、剥奪された。執行部メンバーは、大会によって選出された。
 コミンテルンの役職を辞任することは、コミンテルン執行部の承認がなければ認められなかっただろう。その理由は、「共産党の全ての執行部の役職は、それを担う個人に帰属するものではなく、全体としての共産主義インターナショナルのものだ」、ということだ。
 新しい執行部の25名のうち15名は、モスクワに居住することが要求された。(注218)//
 ----
 (06) こうした全てのことは、すでに1903年以降のボルシェヴィキ党の慣例であり、第二回大会で採択された規約にも黙示的には存在した。
 1922年の決議で新しかったのは、その曖昧さだった。すなわち、ロシア人とその外国の支持者は形式的には対等だとの見せかけすら、全て欠落させていた。
 モスクワが代弁者として使っていたドイツの代議員のHugo Eberlein は、ロシア人の優越性についての不満を、つぎのように切り捨てた。//
 「将来的にも、コミンテルンの運営では、その最高幹部会と執行部において、ロシア人同志にはより力強い、最も力強い影響力が与えられなければならない。国際的な階級闘争の領域で最大の経験を積み重ねてきたのは、まさに彼らだからだ。
 彼らだけが、革命を現実に実行した。そのような背景の結果として、彼らは、経験について、他の地域からの代議員の誰よりもはるかに優っている。」(注219)
 第四回大会は、ブラジルからの代議員の反対を除く満場一致で、新しい規則を採択した。
 「共産主義インターナショナルは今や、厳格に中央志向の、軍型の紀律をもつ、ボルシェヴィキ世界党へと、変質した。(第四回)大会が示したように、疑うことなくロシアの命令を進んで受け入れる用意のある組織へと。
 そして、世界じゅうの諸共産党は今や、実際には、ロシア国家も支配している政治局によって支配される、ロシア共産党の一支部となった。 
 諸共産党はかくして、ロシア政府の代理機関へと零落した。」(注220)
 この変質はしばしばスターリンによるものとされるが、レーニンがコミンテルン政策の設定の責任者だったときに起きたことだ。//
 ----
 (07) GPU は、外国の従属者たちを監督するのを助けるべく、今やコミンテルン執行部との緊密な作業関係に入った。
 GPU は、外国の9首都に支所を開設した。ほとんどはソヴィエトの外交使節として。
 各支所は、いくつかの隣接諸国についても責任をもった。
 かくして、GPU のパリ事務局は、イギリスとイタリアを含む、フランス以外の七つの西欧諸国での秘密行動を指揮した。
 GPU 支所の活動の中には、コミンテルン工作員を監視することがあった。(注221)
 コミンテルンの活動は、多様だった。
 1922-23年には、24の言語での298冊の出版を財政援助した。(注222)
 また、植民地諸国からの学生たちを扇動的技術で訓練する学校を運営しもした。//
 ----
 (08) このような進展に失望したのではなく苦悩したヨーロッパの社会主義者たちは、コミンテルンと協働するという希望を捨てなかった。
 彼らは、コミンテルンが自分たちを「社会ファシスト」と扱ってその隊列を分断しているのを無視しようとした。そのことはむしろ、国際的な社会主義運動を弱体化させた。
 社会主義者たちは、つねに宥められようとした。
 しばらくの間は、その希望は実を結ぶように見えた。
 1921年のドイツ反乱の大失敗の後、レーニンは社会主義者との「統一戦線」戦術を定式化した。共産主義者は西側では弱すぎて、自分たちだけで行動することができなかったからだ。
 レーニンは、ある程度までは、労働組合主義者や社会主義者と協働しようと決定した。
 彼はこの考えをコミンテルンの執行委員会に提示した。その執行委員会では、ジノヴィエフ、ブハーリンその他からの強い反対に遭った。
 レーニンは、トロツキーの助けで、何とか抵抗を克服し、その考えをコミンテルン第三回大会(1921年6-7月)に提示した。
 「社会帝国主義者」や「社会主義裏切り者」との協働という考えは強い憤激を生んだが、大会は最終的にはそれを認可した。(注223)
 レーニンは同時に、ロシアの社会主義者たち(メンシェヴィキとエスエル)との協働は許さなかった。表向きは「ソヴィエト当局の敵」だったからだが、本当は、外国の社会主義者とは違って、彼らは権力を目指す重大な競争相手だったからだ。(注224)//
 ----
 (09) 新しい戦術の結果は、1922年4月の第二回(社会主義)インターナショナルの会合へのコミンテルンの参加だった。この会合はベルリンで開かれ、「資本主義」の力の増大に対する闘争の共同綱領の策定と、ソヴィエト・ロシアの承認を目的としていた。(注225)
 1923年5月、ヨーロッパの社会主義諸党は、別途、ハンブルクに集まった。
 それらは、630万の党員と2560万の投票者を代表していた。—この数字は、コミンテルンに加盟した諸党の何倍もの強さを示していた。(注226) 
 新しい組織が設立され、労働者・社会主義インターナショナル(LSI)と称された。
 この組織は、構造的には連合的(federated)で、構成諸党は自由に国内問題について決定することができた。
 メンシェヴィキとエスエルは、集合した者たちのために、ソヴィエト・ロシアの状態とそこでの社会主義者の運命を示す荒廃した絵を描いた。
 彼らは丁寧に拝聴されたが、しかし、無視された。
 イギリスからの代議員は、嵐のごとき喝采を浴びたのだったが、この大会をつぎのように思い出した。
 「ロシアの収容施設での犠牲者や処刑されたり国外追放されたりした人々に対する責任が追及されたのは、主として西側の資本主義諸政府だった!」(注227)
 ソヴィエト・ロシアに関する決議は、ロシアの内部問題への外国の干渉の全てを非難した。
 その決議は、ソヴィエト政府の「テロリスト的手段」を非難する一方で、こう主張した。
 「(資本主義政府による)いかなる干渉も、ロシア革命の現在の段階での過ちを是正させることではなく、革命それ自体を破壊することを意図している。
 干渉すれば、本当の民主主義の樹立からははるかに離れて、血に飢えた反革命家たちの政府を設立させるにすぎないだろう。それは、西側資本主義によるロシア人民の搾取を促進する手段たる行動になる。
 ゆえに、本大会は、全ての社会主義諸党に対して、…干渉に反対するだけではなく、ロシア政府の完全な外交的承認とロシアとの正常な外交関係および通商関係の迅速な回復を、呼びかける。」(注228)//
 ヨーロッパの社会主義諸政党と諸労働組合は、言葉上は彼らが何もすることができないロシアの共産党支配を非難しつつ、彼らが影響力を発揮できる立場にある諸政策を是認することによって、本質的には、モスクワと同盟した。
 ボルシェヴィズムをロシア革命の一「段階」と理解することによって、彼らはそうした。これは、ボルシェヴィズムの不愉快な特質は一時的なものだ、という意味を包含していた。
 そして、それに代わる唯一の選択肢は「血に飢えた反革命者」による政府だ、と主張した。
 また、ソヴィエト・ロシアの外交的承認とロシアとの正常な通商関係の回復を、要求したのだ。//
 ----
 (10) 「統一戦線」は、その内部矛盾から—かつて分裂に関係していた社会主義者たちとの統合が、いかにして可能だっただろうか—、そして第二および第三の両者のインターナショナルの隊列内部での強い反対によって、ほとんど直ちに崩れ落ちた。
 まもなく、コミンテルンは、社会主義者を再び「社会ファシスト」として扱うようになった。//
 ----
 後注
 (216) Julius Braunthal, History of the International, II (1967), p.258.
 (217) Bukharin in Izvestiia, No. 6/1,743 (1923.1.11), p.3.
 (218) Protokoll des Vierten Kongresses der Kommunistischen Internationale (1923), p.994-7.
 (219) Ibid., p.807.
 (220) Braunthal, History, II, p.263.
 (221) Dennis, Foreign Policies, p.366.
 (222) Ibid., p.369.
 (223) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed (1959), p.61-65.
 (224) Lenin, PSS, XLV, p.131.
 (225) Braunthal, History, II, p.245-250; TP, II, p.704-5.
 (226) Braunthal, History, II, p.264.
 (227) Ibid., II, p.269. Protokoll des Internationalen Sozialistischen Arbeiterkongressen in Hamburug (1923), p.80 を引用.
 (228) Brainthal, History, II, p.270. Ibid., p.105, p.107 を引用。
 ——
 第11節、終わり

2573/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第五節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第五節。原書、p.386〜。
 ——
 第五節・タンボフでのテロル支配(the Reign of Terror in Tambov)
 (01) レーニンとトロツキーは、革命軍事評議会から、Tambov での対「蛮族」戦闘作戦に関する報告を、定期的に受け取っていた。まるでそこは、通常の戦争の前線のごとくだった。(注64)
 部下は次から次への勝利を報告していたけれども、あるときは散らばり、あるときは打撃を与え、今やつぎのことが明白だった。型に嵌まらない武器でもって戦闘をする敵を従来の軍事手段で打倒することはできないこと。
 レーニンは、そのゆえに、Tukhachevskii に対して、決定的な作戦行動をとるよう要求することを決断した。(注65)
 Tukhachevskii は、5月の初めにTambov に到着し、作戦の最高時には10万人以上に昇った軍団を集合させた。(注66)
 ハンガリー人と中国人の義勇兵が、赤軍を助けていた。
 Tukhachevskii は、自分は軍事勢力—数千人のゲリラ—にだけではなく、敵対的な数百万の民衆に立ち向かっている、ということを理解していた。
 暴動の背後を破ったあとでのレーニンへの報告で、彼はこう説明した。闘争(struggle)は「ある種の多少は長引いた作戦行動ではなく、全体的活動だと、そして戦争(war)だとすら考えなければならない」。(注67)
 別のボルシェヴィキは、こう説明した。
 「我々の最高司令部は、制裁措置を気にしないで、通常の活動を行なえと決定した。
 全ての作戦行動を、行動のまさにその性質によって敬意を払われることになる残虐なやり方で行なうことが、決定された。」(注68)
 Tukhachevskii の戦略は、問題の領域を整然と制圧することだった。そして、パルチザンを一般民衆と切り離し、それによって民衆を徴募し、彼らに他の形態での援助を与えること。(注69)
 その地方全体の制圧や占領は、この任務のために配置された軍事能力を超えていたので、Tukhachevskii は、「残虐さ」に、すなわち典型的なテロルに、頼った。//
 ----
 (02) この戦略に不可欠だったのは、十分な諜報活動だった。
 チェカは、有給の情報提供者を使って、パルチザンの一覧表を入手した。Antonov-Ovseenko の委員会が発した特別指令(第130号)は、彼らの家族を人質として取ることを命じた。
 チェカは、「クラク」に選定された農民の名も追記されたこの名簿を使って、数千人の人質を狩り集めて、とくにこの目的で作られた強制労働収容所に入れた
 とくに活発なパルチザン活動がある地域は抜き出されて、公式の文書は「大量テロル」と論及した。
 Antonov-Ovseenko のレーニンへの報告によれば、住民たちの沈黙を破るために、赤軍の指揮官たちは、つぎのような手続を用いた。
 「特殊な『判決』が、労働人民に対する犯罪を積み上げたこれらの村落には下された。
 男性住民は全員が、革命軍事審判所の管轄の下に置かれた。
 蛮族の家族は全て、蛮族の親族として人質の扱いをされるべく、強制労働収容所へと移動させられた。
 蛮族が降伏するのに二週間に期限が設定され、その期間が来れば、家族はこの地方から追放され、彼らの資産(そのときまでは条件つきの仮差押だった)は永久に没収された。」(注70) 
 ----
 (03) 残酷なこのような手段も、望んだ結果をまだ生まなかった。パルチザンたちは、赤軍兵士や共産党役人の家族を人質に取り、しばしばきわめて残虐な方法で処刑することで報復したからだった。(注71)
 Antonov-Ovseenko の委員会は、ゆえに、7月11日に別の指令(第171号)を発した。それは、犯罪者の多数の範疇といった法的形式性なしでの処刑を命じることによって、テロルの次元をさらに高めた。
 「1. 名前を明らかにするのを拒む市民は、その場でただちに処刑される。
 2. 武器を隠している村民は…、人質が取られるよう判決される。
 武器を提出しない村民は、射殺される。
 3. 隠匿武器が発見されたときには、家族内の最年長の者は、審判なしでその場で射殺される。
 4. 蛮族を隠した家族は逮捕され、その地方から追放される。
 その資産は没収され、最年長の者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 5. 蛮族の家族に避難場所を与える、または蛮族の資産を隠した家族は、蛮族として扱われる。
 家族の中の最年長の労働者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 6. 蛮族の家族との闘争の場合、その帰属物は、ソヴィエト当局に忠実な農民たちに配分される。放棄された住居は、焼却されるべきである。
 7. この指令は、厳格にかつ容赦なく、実行に移されるだろう。
 この内容は、村落集会で読み上げられなければならない。」(注72)//
 このような指令の結果として、数千でないとしても数百の農民が、殺害された。
 のちのナツィ支配の時代のように、「蛮族」が放棄した子どもたちを保護したことだけが犯罪の根拠だった者も、処刑を免れなかった。(注73)
 多くの村落で、人質が、何度かに分けて、処刑された。 
 Antonov-Ovseenko の報告によると、「二番めに蛮族に味方した村では」、154人の「蛮族人質」が射殺され、「蛮族」の227家族が人質に取られ、17家屋が燃やされ、24家屋は引き倒され、22家屋は「村の貧民」(協力者の婉曲語)に渡された。(注74) 
 とくに頑強な抵抗がある場合には、村落全体が近くの地方へと移された。
 レーニンは、このような措置に同意しただけではなく、トロツキーに対して、正確な実行の確保を指示した。(注75)//
 ----
 (04) Tukhachevskii の作戦行動は、1921年5月遅くに始まった。
 彼は、反乱者に対して毒ガスを用いること、すみやかにその旨を反乱者に公にして警告すること、を授権されていた。
 「白衛軍兵士、パルチザン、蛮族よ、降伏せよ!
 さもなくば、おまえたちは仮借なく皆殺しになるだろう。
 おまえたちの家族、持ち物は全て、おまえたちの質になっている。
 村落に隠れる。—隣人たちはおまえたちを引き渡すだろう。
 おまえたちの家族を保護する者は全て射殺され、その保護者の家族は逮捕されるだろう。
 森に隠れる。—おまえたちは燻り出されるだろう。
 全権使節委員会は、森林から蛮族を燻り出すために、窒息死させるガスの使用を決定した。…」(注76) //
 10日後、Antonov 軍は降伏し、破壊された。しかし、Antonov 自身は、何とか逃れることができた。
 彼に忠実な別のゲリラ軍が、二週間持ちこたえた。
 やがて、彼のかつては畏怖された軍勢で残っているのは、散発的に急襲を仕掛ける小さなパルチザン部隊だけになった。
 民衆はテロルに遭ったが、1921年3月の食料取立ての廃止によって宥められ、反乱者への支援を撤回した。
 翌1922年は、ロシアの農民たちには良好な年だった。収穫は豊富で、税は適度だった。//
 ----
 (05) Antonov は、全てに見放されて、追われる獲物になった。
 終末は、1922年6月24日だった。かつての支援者に裏切られ、追跡されて、GPU に殺害された。
 農民たちは彼の死を歓迎し、その遺体が彼らの村落を通ってTambov へと運ばれるときには呪詛の言葉を投げつけ、殺害者に喝采を浴びせた、と言われている。(77)
 しかし、そのときでも、事件の全体は、まだ十分に演じられる余地があった。//
 ----
 (06) 常備軍に立ち向かったAntonov のようなゲリラ指導者が顕著な成功を収めたことは、ソヴィエトの最高司令部に大きな印象を残した。
 赤軍の参謀長でのちにトロツキーの後継者として戦時人民委員となるM. V. Frunze は、技術的には優っている敵に将来用いる、新型の武器の研究を行なうよう命令した。(注78)
 赤軍は、この調査研究を基礎にして、パルチザン的兵器を侵攻するナツィスに対して大規模に使用することになる。
 そしてナツィ司令部の側では、赤軍が1921-22年の対農民ゲリラで発展させたテロルの方法を、一般民衆に対して真似ることになる。//
 ——
 後注
 (64) RTsKhIDNI, F. 5, op. 1, delo 2477. 1921年1月31日-6月21日の時期について。
 (65) 同上、F. 2, op. 1, ed. khr. 24558.
 (66) S. A. Esikov & L. G. Protasov in VI, No. 6-7 (1992), p.52.
 (67) TP, II, p.480-1.
 (68) Ibid., II, p.532-4.
 (69) TP, II, p.480-1.
 (70) Ibid., II, p.532-4.
 (71) Pitirim A. Sorokin, Leaves from a Russian Diary (1950), p.254-6.
 (72) ”Moskvich” in Volia Rossiii, No. 264 (1921.7.27), p.2.
 (73) Radkey, Unknown Civil War, p.324.
 (74) TP, II, p.536-7, p.544-5.
 (75) Ibid., II, p.562-3.
 (76) Aptekar, in Voenno-istorishesf kis zhurnal, No. 1 (1933), p.53.
 (77) Radkey, Unknown Civil War, p.372-6.
 (78) Trifonov, Klassy, I, p.6.
 ——
 第8章・第五節、終わり。
 +++
 第8章の第六節〜第十節は、試訳をすでに掲載済み。
 第六節冒頭の①は、以下の2017/04/10付。
 ⇨R. Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 8-6-1.
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー