Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
——
第八節・トロツキーの敗退③。
(11) 1923年12月、トロツキーはついに党内階層から離れ、「新路線」と称されるPravda 上の論文で、自分の事案を公にした。
彼はこの論文で、民主主義の理想に燃える若い党員層と、凝固した古参党員を対比させた。
それが強調した結論は、「党はその諸機構に従属しなければならない」だった。(注215)
スターリンは、こう回答した。
「ボルシェヴィズムは、党を党諸機構に対峙させるのを受け入れることができない」。(注216)//
----
(12) トロツキーも賛成して第10回党大会〔1921年3月〕で採択された党規約によれば、今や、彼が行なっていることは、とくにグループ46と協議していることは、争う余地なく、「分派主義」だった。
この罪責は、トロツキーの二通の手紙が—偶然にか意図的にか—公に漏出した内容によって生じた。
1924年1月に開催された党会議には、したがって、トロツキーと「トロツキー主義」を「小ブルジョア」的逸脱と非難する十分な権利があった。(注217)//
----
(13) トロツキーの舞台は終わっていた。残りは拍子抜けするものだった。
党多数派に対して、彼は防御しなかったからだ。1924年に彼自身がこう認めることになったように。
「我々の誰一人として、党に逆らうのを望まないし、誰一人として正当に党に逆らうことはできない。
結局のところ、我々の党はつねに正しいのだ。」(注218)
1925年1月、トロツキーは戦争人民委員の辞任を強いられることになる。
続いたのは党からの除名と追放で、後者はまず中央アジアへ、ついで国外へだった。
そして最後には、暗殺された。
ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンその他の黙認でもってスターリンが取り仕切ったトロツキーを排除する諸行為は、党員層の支持を受けて実行された。党員層は、利己的な策略者から党の統一を守るためにそれらは役立つと考えた。//
----
(14) 敗北者が、勝利者よりも道徳的に優れていると見なされるがゆえに、後世の人々の同情を引きつける、という事例が、歴史上には多数存在する。
トロツキーにこのような同情を掻き集めるのは、困難だ。
確かに、彼はスターリンやその同盟者たちよりも教養があり、知的にはより興味深く、個人的にはより勇敢で、仲間の共産党員たちとの対応はより高潔だった。
しかし、レーニンがそうであるように、彼が持つこのような美徳は、もっぱら党内部でのみ示された。
外部者や民主主義の拡大を追求した内部者との関係では、トロツキーはレーニンやスターリンと同一だった。
彼は、自らを破滅させる武器を作るのを助けた。
心から同意しつつ、レーニン独裁への反対者たちが味わったのと同じ運命に陥った。
カデット〔立憲民主党〕、社会主義革命党(エスエル)、メンシェヴィキ、赤軍で戦おうとしなかった帝制時代の将校たち、労働者反対派、Kronstadt の海兵たち、Tambov の農民たち、〔ロシア正教〕聖職者たち、と同じ運命にだ。
トロツキーは、自分自身が脅威にさらされたときにのみ、全体主義の危険を呼び醒まそうとした。
党内民主主義への彼の突然の転向は、原理を擁護したのではなく、自己保身の手段だった。//
----
(15) トロツキーは、自分をジャッカルの群れに襲われた誇りある虎だと叙述するのを好んだ。
そして、スターリンはより怪物的だと示そうとした。レーニンのボルシェヴィズムの理想的範型を救済したいロシアや外国の者たちにとっては、このイメージはより説得的だと感じられた。
しかし、記録が示しているのは、当時のトロツキーもまた、ジャッカルの群れの中の一頭だった、ということだ。
彼の敗北には、この点を高貴にするものは何もなかった。
トロツキーは、政治的権力を目ざす下劣な闘争で自分の首を絞めたがゆえに、敗北した。//
----
後注。
(215) Pravda, No. 281 (1923.12.11), p.4.
(216) I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.16.
(217) Kommunisticheskaia Partiia Sovetskogo Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh …7th ed., I (1953), p.778-785.
(218) Trinadtsatyi S"ezd RKP(b) (1963), p.158.
——
第八節、終わり。最後の第九節の目次上の表題は、<レーニンの死>。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
——
第八節・トロツキーの敗退③。
(11) 1923年12月、トロツキーはついに党内階層から離れ、「新路線」と称されるPravda 上の論文で、自分の事案を公にした。
彼はこの論文で、民主主義の理想に燃える若い党員層と、凝固した古参党員を対比させた。
それが強調した結論は、「党はその諸機構に従属しなければならない」だった。(注215)
スターリンは、こう回答した。
「ボルシェヴィズムは、党を党諸機構に対峙させるのを受け入れることができない」。(注216)//
----
(12) トロツキーも賛成して第10回党大会〔1921年3月〕で採択された党規約によれば、今や、彼が行なっていることは、とくにグループ46と協議していることは、争う余地なく、「分派主義」だった。
この罪責は、トロツキーの二通の手紙が—偶然にか意図的にか—公に漏出した内容によって生じた。
1924年1月に開催された党会議には、したがって、トロツキーと「トロツキー主義」を「小ブルジョア」的逸脱と非難する十分な権利があった。(注217)//
----
(13) トロツキーの舞台は終わっていた。残りは拍子抜けするものだった。
党多数派に対して、彼は防御しなかったからだ。1924年に彼自身がこう認めることになったように。
「我々の誰一人として、党に逆らうのを望まないし、誰一人として正当に党に逆らうことはできない。
結局のところ、我々の党はつねに正しいのだ。」(注218)
1925年1月、トロツキーは戦争人民委員の辞任を強いられることになる。
続いたのは党からの除名と追放で、後者はまず中央アジアへ、ついで国外へだった。
そして最後には、暗殺された。
ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンその他の黙認でもってスターリンが取り仕切ったトロツキーを排除する諸行為は、党員層の支持を受けて実行された。党員層は、利己的な策略者から党の統一を守るためにそれらは役立つと考えた。//
----
(14) 敗北者が、勝利者よりも道徳的に優れていると見なされるがゆえに、後世の人々の同情を引きつける、という事例が、歴史上には多数存在する。
トロツキーにこのような同情を掻き集めるのは、困難だ。
確かに、彼はスターリンやその同盟者たちよりも教養があり、知的にはより興味深く、個人的にはより勇敢で、仲間の共産党員たちとの対応はより高潔だった。
しかし、レーニンがそうであるように、彼が持つこのような美徳は、もっぱら党内部でのみ示された。
外部者や民主主義の拡大を追求した内部者との関係では、トロツキーはレーニンやスターリンと同一だった。
彼は、自らを破滅させる武器を作るのを助けた。
心から同意しつつ、レーニン独裁への反対者たちが味わったのと同じ運命に陥った。
カデット〔立憲民主党〕、社会主義革命党(エスエル)、メンシェヴィキ、赤軍で戦おうとしなかった帝制時代の将校たち、労働者反対派、Kronstadt の海兵たち、Tambov の農民たち、〔ロシア正教〕聖職者たち、と同じ運命にだ。
トロツキーは、自分自身が脅威にさらされたときにのみ、全体主義の危険を呼び醒まそうとした。
党内民主主義への彼の突然の転向は、原理を擁護したのではなく、自己保身の手段だった。//
----
(15) トロツキーは、自分をジャッカルの群れに襲われた誇りある虎だと叙述するのを好んだ。
そして、スターリンはより怪物的だと示そうとした。レーニンのボルシェヴィズムの理想的範型を救済したいロシアや外国の者たちにとっては、このイメージはより説得的だと感じられた。
しかし、記録が示しているのは、当時のトロツキーもまた、ジャッカルの群れの中の一頭だった、ということだ。
彼の敗北には、この点を高貴にするものは何もなかった。
トロツキーは、政治的権力を目ざす下劣な闘争で自分の首を絞めたがゆえに、敗北した。//
----
後注。
(215) Pravda, No. 281 (1923.12.11), p.4.
(216) I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.16.
(217) Kommunisticheskaia Partiia Sovetskogo Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh …7th ed., I (1953), p.778-785.
(218) Trinadtsatyi S"ezd RKP(b) (1963), p.158.
——
第八節、終わり。最後の第九節の目次上の表題は、<レーニンの死>。