Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
この著の邦訳書は、ない。
そのうち、第8章の試訳。
第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
——
第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
第一節。
(01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
----
(02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
----
(03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
----
(04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
----
(05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
----
(06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
----
(07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
----
(08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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(09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
----
(10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
レーニンが、介入した。
彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
----
(11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
----
(12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
----
(13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
----
(14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
レーニンはこの事件を知って、荒れた。
彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
----
(15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
三日後、彼は三回めの発作を起こした。
言語能力が失われた。
10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
——
第8章第一節、終わり。
この著の邦訳書は、ない。
そのうち、第8章の試訳。
第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
第一節。
(01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
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(02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
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(03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
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(04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
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(05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
----
(06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
----
(07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
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(08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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(09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
----
(10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
レーニンが、介入した。
彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
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(11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
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(12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
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(13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
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(14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
レーニンはこの事件を知って、荒れた。
彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
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(15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
三日後、彼は三回めの発作を起こした。
言語能力が失われた。
10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
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第8章第一節、終わり。