秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2022/06

2558/O.ファイジズ・スターリンによる継承①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著の邦訳書は、ない。
 そのうち、第8章の試訳。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
 第一節。
 (01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
 だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
 その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
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 (02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
 彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
 彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
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 (03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
 トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
 赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
 しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
 トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
 彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
 彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
 政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
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 (04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
 彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
 スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
 秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
 彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
 トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
 「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
 政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
 考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
 党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
 党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
 レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
 スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
 これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
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 (05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
 書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
 1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
 彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
 スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
 彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
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 (06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
 三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
 カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
 ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
 しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
 二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
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 (07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
 彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
 しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
 スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
 車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
 彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
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 (08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
 レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
 この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
 レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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 (09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
 中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
 スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
 赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
 レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
 彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
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 (10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
 ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
 レーニンが、介入した。
 彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
 レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
 大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
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 (11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
 ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
 政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
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 (12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
 彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
 こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
 レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
 さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
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 (13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
 レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
 カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
 ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
 トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
 だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
 「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
 私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
 レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
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 (14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
 スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
 レーニンはこの事件を知って、荒れた。
 彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
 権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
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 (15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
 三日後、彼は三回めの発作を起こした。
 言語能力が失われた。
 10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
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 第8章第一節、終わり。

2557/「前衛」上の日本共産党員⑯—2013年9月号。

 既述のように、日本共産党中央委員会理論政治誌である月刊誌『前衛』に執筆しているのは、この党の議員・職員等であることが明記されていなくとも、余程の特別の事情のないかぎり、明確に党員だと見られる。非党員がこの性格の雑誌に執筆できるはずは、余程の例外を除き、あり得ないだろう。
 「青木 理」もまた、党員だと思われる。例外に当たらない。No.1627/2017.07.06参照。
 以下は、『前衛』2013年9月号による。正確には、この時点についての推定にはなる。
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 松宮 輝(火ヘン)/産業技術研究所—原発ゼロ社会。
 山田 朗/明治大学教授—政界の歴史修正主義。
 林 博史/関東学院大学教授—安倍・橋下の慰安婦発言。
 久保田 貢/愛知県立大学准教授—歴史認識・太平洋戦争。
 羽淵三良/映画評論家—反戦・平和映画の伝統。
 佐藤哲之/弁護士—全国B型肝炎訴訟。
 米沢 哲/日本医労連中央執行委員—介護。
 山﨑龍明/武蔵野大学教授・寺院前住職—核・原発等。
 ——
 以上。
 この号ではまだ、不破哲三の連載が続いていた。

2556/池田信夫ブログ029—民放テレビ局。

  「民放連」、日本民間放送連盟、とは、いわゆる地方民放局を含む200社以上で構成される団体(一般社団法人)だ。

 民放、とくにそのテレビ放送は実質的には広告宣伝事業体で、その収益で諸番組を作っている。「報道」番組はオマケのようなものだろう。全てをスポンサーが負担しているからこそ、一般視聴者は無料で観ることができる。せいぜい、娯楽・エンタメ産業の一つか。

 にもかかわらず、キー局・ローカル局を問わず、社員というだけで、少なくとも何らかの自前の番組の作成・編成に加わっている(または加わったことがある)というだけで、自分は「ジャーナリスト」の端くれだと思っている(いた)者もいるだろう。

 そして、ジャーナリストやマスメディアの使命は第一に政府に批判的な立場に立つことだと思い込む者もいて、「野党」または「左翼」的心情を明確にする者もいるに違いない。

 また、自分と同業者だと思うのか、地方民放社員の中にも、元NHKのかつての田英夫とか、現在の長妻昭あたりを心情的に応援したりする者も出てくることになる。
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  その民放全体または民放連については、池田信夫が何回かブログ発言をしていて、現在までの戦後日本の重要な「構造」の一つを作ってきたのは民放全体または民放連だ、ということを強く感じさせる。

 親の?大手新聞社との強い関係やキー局ごとのローカル局との不可分の関係は、おそらく相当に日本に独特な、または日本だけの現象だろう。ローカル民放局のほとんどの収益は中央での広告宣伝を各地方(かなり多くは県単位)の電波に乗せた分け前に違いない。放送事業以外の事業も行ってはいるだろうけれども。

 池田信夫ブログから、民放・民放連に触れているものを、以下に一部割愛で紹介しておく。池田は、かつて報道関係の仕事もしていたNHKの職員だった。
 
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 三 1 2018年5月13日。Agora。
 「次世代の無線『5G』についての話題がいろいろ出ているが、今ひとつ盛り上がらない」。

 「だがアメリカやEUでは、今の携帯端末と同じUHF帯に5Gを導入する計画が始まっている」。
 「日本では、UHF帯は大幅に余っている。テレビ局の使っていないホワイトスペースの200MHzを区画整理すれば、5Gで日本は世界のトップランナーになれる可能性もある。」

 「日本の地上デジタル放送は欧米と違って既存の放送局が立ち退く必要がないので、一足先に電波の再編ができる。これが競争力の落ちた日本の半導体メーカーが挽回する最後のチャンスだが、民放連がそれを妨害している。」

 「UHF帯の価値は時価2兆円。これを効率的に配分できれば、テレビ業界の既得権なんか大した問題ではない。『立ち退き料』として1000億円ぐらい払ってもいいし、ホワイトスペースの一部を優先的に使う権利を与えてもいい。総務省も、ITUが動き始めたら動くだろう。」
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 2 2019年3月17日。Agora。

 原英史・岩盤規制(新潮新書、2019)

 「望月衣塑子記者は、マスコミの特権意識を象徴する道化である」。

 「彼女がトンチンカンな質問を繰り返しても首相官邸に入れてもらえるのは記者クラブに加盟する東京新聞の記者だからであり、フリーランスだったらとっくに出入禁止だ。」

 「本書に書かれている去年の規制改革推進会議でも、最強の『岩盤』はマスコミだった。今まで聖域になっていた電波利権に安倍政権が手をつけたのはよかったが、電波オークションを恐れた放送・新聞業界が反対キャンペーンを繰り広げ、出てきたのは電波利用料だけだった。

 このとき読売新聞から朝日新聞までそろって展開した『放送法4条』騒動は、意味不明のキャンペーンだった。放送局に政治的公平性を義務づける4条の規定は表現の自由を侵害するので撤廃しろというならわかるが、それをなくすなというのはわけがわからない。ケーブルテレビや通信衛星で多チャンネル化した先進国では、とっくにコンテンツ規制は撤廃されている。

 本書によると、規制改革推進会議の最初の段階で、放送が多チャンネル化すると4条の規制もいらなくなるという議論が出たという。これは当たり前の話だが、マスコミは多チャンネル化には反対できないので、それと一体になっている4条の話だけつまみ食いして『偏向報道が出てくる』と騒いだのだ。」

 「電波オークションは、実は大した問題ではない」。「それよりテレビ局の占有しているUHF帯の大きな帯域を5Gに使う配分方法を考えたほうがいい、と私は規制改革推進会議で提言したのだが、マスコミは(産経を除いて)まったく報道しなかった」。

 「こういう情報操作が可能なのは、日本ではいまだに新聞と放送が系列化され、彼らがケーブルや衛星などの新規参入を阻んできたからだ。アメリカのようにケーブルが何百局もあると、記者クラブのような情報カルテルは組めないし、EUでは衛星放送が国境を超えているので、コンテンツは規制できない。

 こういう状況を日本でも変えたのがインターネットだが、放送局は地デジで垂直統合モデルを守り、著作権法を変えてインターネット放送を阻止した。いまだに地デジのネット配信は、県域ごとに権利者の許可が必要という信じられない状況だ。」

 「民主党政権のとき、彼らも電波利権に手をつけようとしたのだが、そのほとんど唯一の成果だったオークション(電波法改正)も、官僚のサボタージュでいまだに実現してない。それを報道するメディアがないので、規制改革のとっかかりもない。

 規制改革をつぶすとき張り切ったのは民放連だった
 私の発言を議事録から削除させた政治部の記者は、問題をまるで理解していない。技術者は理解しているが、決定権がない。

 こんなことをして既得権を守っても、マスコミはゆるやかに死ぬだけだ。20年前からこの問題とつきあってきた私の印象では、正直いって『バカは死ななきゃ直らない』というしかない。」

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  NHKはどうだかよく知らないが、<民放>をめぐる闇は深そうだ。それに繋がるものを、彼ら自身が報道するはずはない。

 改革者・変革者ではなく、既得権益にあぐらをかいてそれを守ろうとし(高収入も?)、非正規社員や下請け会社に負担をかけて、<おれたちジャーナリストは…>と内心威張っているふうの正規社員たちの姿が浮かんできそうだ。

 池田信夫の言及はまだ多数あるが、今回は二つだけにして、以下に続ける。

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2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
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 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
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 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
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 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
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 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
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 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
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 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
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 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
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 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
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 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
 ——
 第7章、終わり。

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
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 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
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 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
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 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
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 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
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 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
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 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
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 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
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 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
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 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
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 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
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 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
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 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
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 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
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 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
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 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
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 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
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 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
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 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
 ——
 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
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 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
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 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
 ——
 第五節以下へ、つづく。

2553/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑨。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。最後の第六節。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第六節。
 (01) 飢饉の16周年にあたる1993年の秋は、これまでとは違っていた。
 二年前に、ウクライナは初代の大統領を選出し、圧倒的に独立賛成を票決した。
 政府がつづいて新しい統合条約に署名するのを拒んだことは、ソヴィエト同盟の解体を早めた。
 ウクライナ共産党は、権力を放棄する前の最後の記憶に残ることとして、1932-33年飢饉の責任は「スターリンとその親しい側近が追求した犯罪過程」にあるとする決議を採択した。(注73) 
 Drach とOliinyk は他の知識人たちと合同してRukh という独立の政党を創立した。これは、1930年代初め以降で初めて民族運動を合法的に宣明したものだった。
 歴史上初めて、ウクライナは主権国家となり、それとして世界のほとんどから承認された。//
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 (02) ウクライナは主権国家として、1993年の秋までに、自らの歴史を自由に議論し、記念した。 
 入り混じった動機から、以前の共産主義者と以前の反対派はみんな、熱心に語った。
 Kyiv では、政府が一連の公的な行事を組織した。
 9月9日、副首相は学者の会議を開き、飢饉を記念することの政治的な意義を強調した。
 彼は聴衆にこう言った。「独立したウクライナだけが、あのような悲劇がもう二度と繰り返されないことを保障することができる」。
 それまでにウクライナで広く知られて尊敬されていた人物のJames Mace も、その場にいた。
 彼もまた、政治的結論を導き出していた。「この記念行事が、ウクライナ人が政治的混乱と隣国への政治的依存の危険性を思い出す助けとなることを、希望したい」。
 従前の共産党政治局員である大統領のLeonid Kravchuk も、こう語った。
 「統治の民主主義的形態は、あのような災難から人々を守る。
 かりに独立を失えば、我々は永久に、経済的、政治的、文化的にはるかに立ち遅れることを余儀なくされるだろう。
 最も重要なことは、そうなってしまえば、我々はいつも、わが歴史上のあの恐ろしい時代を繰り返す可能性に直面するだろう、ということだ。外国勢力によって計画された飢饉も含めて。」(注74)//
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 (03) Rukh の指導者のIvan Drach は、飢饉の意義をより広範囲に承認することを呼びかけた。彼は、ロシア人が「悔い改める」こと、罪責を承認するドイツ人の例に倣うこと、を要求した。
 彼は直接にホロコーストに言及し、ユダヤ人は「全世界にその罪を彼らの前で認めるように迫った」ととくに述べた。
 全てのウクライナ人が犠牲者だったと彼は主張しなかったけれども—「ボルシェヴィキ略奪者はウクライナで、ウクライナ人も動員した」—、ナショナリスト的響きを強調した。
 「ウクライナ人の意識を統合する部分になっている第一の教訓は、ロシアは、ウクライナというnation の全面的な破壊にしか関心を持ってこなかったし、今後も持たないだろう、ということだ。」(注75)//
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 (04) 儀式は、週末までつづいた。
 黒く長い旗が、政府の建物から垂らされた。
 数千の人々が記念行事のために、聖ソフィア大聖堂の外側に集まった。
 だが、最も感動的な儀式は、自発的なものだった。
 多数の人々が、Kyiv の中央大通りであるKhreshchatyk に集まった。その通り沿いの三ヶ所に設置された掲示板に、彼らは個人的な文書や写真を載せていた。
 祭壇が一つ、途中に設置されていた。
 訪問者たちは、そのそばに、花やパンを残した。
 ウクライナじゅうからやって来た市民指導者や政治家たちは、新しい記念碑の脚元に花輪を置いた。
 何人かの人々は、土を入れた壺を持ってきた。—飢饉犠牲者たちの巨大な墓地から取ってきた土壌だった。(注76)//
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 (05) そこにいた人々には、その瞬間は確実なものと感じられただろう。
 飢饉は公的に承認され、記憶された。
 それ以上だった。ロシア帝国による植民地化の数世紀後に、ソヴィエトによる抑圧の数十年後に、主権あるウクライナで、飢饉の存在が承認され、記憶された。
 良かれ悪しかれ、飢饉の物語はウクライナの政治と現代文化の一部になった。
 子どもたちは、今では学校でそれを勉強することになる。
 学者たちは公文書館で、物語全体の資料を集めることになる。
 記念碑が建てられ、書物が発行されることになる。
 理解、解釈、許容、論述、そして哀悼の長い過程が、まさに始まろうとしていた。//
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 第15章全体が、終わり。

2552/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑧。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第五節。
 (01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
 ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
 しかし、数字は虚偽ではなかった。
 数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
 調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
 爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
 数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
 政府は、危険を十分に知っていた。
 ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
 Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
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 (02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
 彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
 ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
 悪い決定がなされた。
 タービン検査は間違っていた。
 原子炉は、溶解していた。
 ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
 Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
 公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
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 (03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
 Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
 ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
 より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
 事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
 字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
 この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
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 (04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
 6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
 彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
 Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
 今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。 
 Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
 彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
 「若い世代は何故、我々から離れたのか?
 我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
 我々は欺瞞に慣れてきた。…
 1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
 党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
 「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
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 (05) しかし、後戻りはできなかった。
 Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
 事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
 Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
 他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
 本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
 Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
 Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
 そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
 「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
 数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
 同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
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 (06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
 1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。 
 Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
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 (07) 他の者たちもつづいた。 
 スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
 1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
 彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
 「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
 そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
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 (08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
 困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
 Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
 委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
 それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
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 (09) 結果は、予期しないものだった。
 学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。 
 政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
 欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
 「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
 飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
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 第15章第五節、終わり。

2551/孤独死と「直葬」。

  「おひとりさま」の、だろうか、「孤独死」という言葉を、数年くらい前に聞いた。
 孤独死とは何だろう。誰でも死ぬときは—大量一斉処刑とか突然の事故・自然災害による場合は別として—一個体として一人で死んでいくのだろうから、その意味ではほとんど全てが「孤独死」だ。
 死ぬとき、いわゆる息を引き取る瞬間に、周りに誰一人存在しないことを意味するのだろうか。
 しかし、そのようなことは、病院の病室でも起こり得る。あとで報告を受けた家族・遺族があわてて駆けつけて来る、ということもあり得る。
 おそらくは、死ぬ瞬間に、その人の死を気にかけている家族・親族あるいは「身寄り」が一人もおらず、また、病院に運び込まれたときはまだ生きていても周囲にいるのは家族・親族あるいは「身寄り」ではなく医療関係者だけ、という場合を意味するのだろう。
 たしかに、高齢化、後期高齢者の増加と親子・家族・親族関係の疎遠化にともなって、「統計」はきっと存在しないだろうが、「孤独死」の数は増えているだろう。
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  近年でのテレビでの宣伝広告の特徴の一つは、<葬儀場>または<葬儀運営業>や<葬儀保険>の宣伝が目立ってきたことだろう。「縁起が悪い」と感じられたのか、以前はそのような業種・商品の宣伝は全くなかったように思われる。
 さて、「孤独死」の場合の葬儀はどうなるのか。
 「一番小さな家族葬」という言葉があるようだが、死ぬときは「孤独死」であっても、「一番小さな家族葬」でも行われるということは、その死者は本当に「孤独」ではなかったのだろう。
 「一番小さな家族葬」の中の最も小さいものにも該当しない「直葬」というものも、「葬儀」概念の問題だが、ある人によると、「葬儀」の種類の一つだ。あるいは、「葬式はいらない」とか言う場合の「葬式」には「直葬」は含まれないのかもしれない。
 「直葬」概念またはそれを選択するかどうかは、正確には、家族・親族あるいは「身寄り」の有無とは関係がない。
 遺体・死体に対して何の葬礼も行わず、直接に火葬場に運び、骨にしてしまう、というのを「直葬」は意味するからだ。親族・「身寄り」が同意し、同行している場合もあり得るだろう。
 葬儀の仕方・種類はそのあとの「納骨」等々までの仕方・種類まで決めてしまうものなのか。
 全くの身元不明者の場合、所管市町村がその費用で「直葬」したとして、「納骨」はどうするのだろう。知識がない。提携?している寺院があって、その経営する墓地の無名者墓に入れるのだろうか。だがそうすると、その際にその仏教式の「読経」くらいはなされるようにも推測され、そうすると、「納骨」の段階でようやく「葬礼」がなされることになるのか。いや、<政教分離>の今では、市町村と寺院との提携?自体が許容されないのかもしれない。
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  しかしながら、葬儀も納骨も生者がすることであり、死者に関係はあっても死者自身が葬儀等がどのように行われているかを、知ることはできない。
 詳細に遺言しておけば、通常の、または正常な遺族・「身寄り」はおそらくそれに従うだろうが、遺言のとおりに行われる保証はない。「死後事務委任契約」を弁護士等を職業とする者と締結しておけば、保証される程度は高くなるだろう。
 だが、しかし、死んでしまっていれば、それを確認することはできないのは、当然のことだ。
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2550/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節②。
 (10) 注目した全ての者が肯定的なのではなかった。多くの専門的雑誌は、Conquest 著を全く書評しなかった。
 一方で、何人かの北米の歴史家は、Conquest を政治的右翼の一員であるとともにソヴィエト史のより伝統的な学派の代表者だと見なし、この書物をあからさまに非難した。
 J, Arch Getty は〈London Review of Books〉で、Conquest の見方は保守的シンクタンクのアメリカの起業(Enterprize)研究所から助成を受けていると不満を述べ、「西側にいるウクライナ人エミグレ」と結びついているがゆえに、彼の根拠資料を「パルチザン的」だとして否定した。
 Getty はこう結論した。「その言う『悪の帝国』とともにある今日の保守的な政治的雰囲気の中では、この本は確実に人気を博するだろう」。
 当時、今のように、ウクライナに関する歴史的議論は、アメリカの国内政治によって形づくられていた。
 飢饉の研究がそもそもなぜ「右翼」か「左翼」のいずれかだと考えられるべきなのかについての客観的な理由は存在しないけれども、冷戦時代の学界政治によれば、ソヴィエトの悪業について書くどの学者も、簡単に色眼鏡でもって見られる、ということを意味した。(注56)//
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 (11) 〈悲しみの収穫〉はやがて、ウクライナ自体の内部で反響を見出すことになる。当局はこの書物の流入を阻止しようとしたけれども。
 Harvard の研究企画(project)が1981年に開始されたのとちょうど同じ頃、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に関する国連使節団の代表たちが大学を訪問して、ウクライナ研究所がその企画を断念するように求めた。
 その代わりとして研究所に提示されたのは、当時としては稀少なことだったが、ソヴィエトの公文書資料の利用だった。
 Harvard 大学は、拒否した。 
 Conquest 著の要約版がトロントの〈Globe and Mail〉に掲載されたあとで、ソヴィエト大使館の第一書記が編集者に対して、怒りの手紙を書き送った。
 その第一書記は、こう出張した。そのとおり、ある程度の者たちは飢えた、彼らはしかし、旱魃とクラクによる妨害の犠牲者だった。(注57)
 いったん書物が出版されると、それをウクライナ人から隠し通すことは不可能だった。
 1986年の秋に、アメリカが後援し、München に基地局のある自由ラジオ(Radio Liberty)で、その書物の内容はソ連内部のリスナーに向けて朗読された。//
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 (12) より手の込んだソヴィエトの反応が、1987年に届いた。〈欺瞞、飢饉とファシズム—ウクライナ・ジェノサイド、ヒトラーからハーヴァードへの神話〉の刊行によって。
 表向きの著者のDouglas Tottle は、カナダの労働活動家だった。
 彼の書物は、飢饉はウクライナのファシストと西側の反ソヴィエト集団によって考案され、プロパガンダされた悪ふざけ(hoax)だと叙述した。 
 Tottle は悪天候と集団化後の混乱が食料不足の原因となったことを承認したけれども、悪意のある国家が飢餓の拡大に何らかの役割を果たしたことを認めるのを拒んだ。
 彼の書物は、ウクライナ飢饉を「神話」だと書いたのみならず、それに関する全ての説明資料は定義上、ナツィによるプロパガンダで成っている、と論じた。
 Tottle の書物は、とりわけ、つぎのように断定した。
 ウクライナ人離散者たちは全員が「ナツィス」だ。飢饉関係の書物や論文集は、西側の情報機関とも結びついた、反ソヴィエトのナツィ・プロパガンダだ。Havard 大学は長く反共産主義の調査、研究、教育の中心で、CIAと連結している。飢饉についてMalcolm Muggeridge が書いたものは、ナツィがそれを利用したがゆえに、道徳的に腐敗している。Muggeridge 自身が、イギリスの工作員だ。(注58)//
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 (13) モスクワとKyiv の両方にある党史研究所は、Tottle の原稿作成を助けた。
 修正や説明のために、未署名の草稿が彼と二つの研究所のあいだを行き来した。
 ソヴィエトの外交部は書物の刊行と進行を支持し、可能な場所ではそれを促進した。(注59)
 やがてその書物は、少数者を惹きつけた。1988年1月に、〈Village Voice〉は「ソヴィエトのホロコーストの探求。55年前の飢饉が右翼に栄養を与える」という記事を掲載した。これはTottle の著作を無批判に用いていた。(注60)//
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 (14) 遡ってみると、Tottle の書物は、ほとんど30年後に何がやってくるかを示す先駆けとして重要だった。
 その中心にある主張は、ウクライナ「ナショナリズム」とファシズムおよびアメリカとイギリスの情報機関との間の連結という想定を基礎にしていた。—ウクライナでのソヴィエトの抑圧やウクライナの独立または主権に関する議論の全てはウクライナ「ナショナリズム」と定義された。
 かなりのちに、同じ連結の一体—ウクライナ・ファシズム・CIA—が、ウクライナの独立や2014年の反腐敗運動に対するソヴィエトの情報キャンペーンで用いられることになる。
 まさに現実的意味で、その情報キャンペーンの基礎は1987年に築かれていた。//
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 (15) 〈欺瞞、飢饉とファシズム〉は、当時のソヴィエトの釈明と同様に、1932-33年にウクライナとロシアで一定の飢えがあったことを承服しはするが、大量の飢餓の原因を、「近代化」の要求、クラクの妨害、言うところの悪天候に求めた。
 真実の一端が、最も手の込んだ糊塗活動に結びつけられたのと同様に、虚偽と誇張とにも結合された。 
 Tottle の書物は、当時に1933年のものとされた写真のいくつかは実際には1921年の飢饉の際に撮られたものだ、と正確に指摘した。
 それはまた、1930年代についての間違ったまたは誤解を与える報告があることも、正確に見抜いた。 
 Tottle は最後に正しく、一定のウクライナ人はナツィスに協力した、ナツィスはウクライナ占領中に飢饉に関してきわめて多くのことを書き、話した、と書いた。//
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 (16) こうしたことは1932-32年の悲劇を消失させたのでも、その原因を変更したのでもなかったけれども、飢饉に関して書く者をそもそも傷つけることを意図して、単純に「ナツィ」と「ナショナリスト」の連想が用いられた。
 ある一定範囲では、この策略は有効だった。飢饉についてのウクライナ人の記憶や飢饉に関する歴史研究者に対抗するソヴィエトの情報活動は、不確定性という汚名を残した。
 Hitchens ですら、〈絶望の収穫〉での彼の論述の中で、ウクライナ人のナツィへの協力に言及せざるをえなかった。また、学界の一部はつねに、Conquest の書物を警戒心をもって扱った。(注61)
 公文書を利用することができなかったので、1980年代には、1933年春の飢饉を引き起こした一連の意図的な諸決定について叙述するのは、まだ不可能だった。
 その余波、隠蔽工作または抑圧された1937年統計調査について詳しく叙述することも、不可能だった。//
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 (17) それにもかかわらず、〈絶望の収穫〉と〈悲しみの収穫〉のいずれをも生んだ研究企画は、さらなる影響をもたらした。
 1985年に、アメリカ合衆国議会はウクライナの飢饉を調査研究する超党派の委員会を立ち上げ、Mace を主任調査官に任命した。
 その目的は、「飢饉に関する世界の知識を拡大し、ソヴィエトの飢饉への役割を明らかにすることでアメリカ国民のソヴィエト・システムに関する理解を向上させるために、1932-33年ウクライナ飢饉に関する研究を行う」ことだった。(注62)
 その委員会は、3年かけて報告書と離散者で飢饉からの残存者の口頭および文書による証言録を取りまとまた。これは依然として、これまでに英語で公刊された最大のものだ。
 委員会がその成果を1988年に発表したとき、その結論はソヴィエトの主張とは真っ向から矛盾していた。委員会は、こう結論づけた。
 「つぎのことに疑いはない。ソヴィエト連邦ウクライナと北部コーカサス地方のきわめて多数の住民が、1932-33年の人為的飢饉によって飢えて死んだ。その原因は、ソヴィエト当局による1932年の収穫の剥奪にある。」//
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 (18) 加えて、委員会はこう述べた。
 「『クラクの妨害』に飢饉のあいだの全ての責任があるというソヴィエトの公式の主張は、虚偽である。
 飢饉は、主張されるような旱魃とは関係がなかった。
 飢えている人々が食料をより容易に調達できる地域へと旅行することを禁止する措置がとられた。」
 委員会はまた、こう述べた。
 「1932-33年ウクライナ飢饉は、農村地帯の住民から農業生産物を剥奪することで惹き起こされた」。言い換えると、「悪天候」や「クラクの妨害」によってではなかった。(注63)
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 (19) こうした知見は、Conquest のそれを反映していた。
 それはまたMaceの威厳を立証し、その後の年月に他の研究者たちが利用することのできる、山のような新しい資料を提供した。
 しかし、委員会が1988年に最終報告書を発表したときまでに、ウクライナ飢饉に関する最も重要な議論が、ヨーロッパやアメリカではなく、ウクライナそれ自身の内部でようやく起こり始めていた。//
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 第15章第四節、終わり。

2549/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節①。
 (01) 1980年、飢饉が近づいてから50周年。北アメリカのウクライナ離散者グループは、もう一度行事を催すことを企画した。
 トロントでは、飢饉研究委員会がヨーロッパと北米じゅうの飢饉残存者と目撃者のインタビューを録画し始めた。(注46)
 ニューヨークでは、ウクライナ研究基金が、ウクライナに関する博士論文を執筆した若い学者のJames Mace に、Harvard 大学ウクライナ研究所で大きな研究プロジェクトを立ち上げることを委託した。(注47)
 かつてと同様に、会議が計画され、デモ行進が組織され、ウクライナ教会やシカゴとWinnipeg の集会ホールで集会が開かれた。 
 だが、このときの影響は異なるものになる。
 フランスの共産主義研究者のPierre Rigoulot は、こう書いた。
 「人間の知識は、石工の仕事に応じて規則的に大きくなる壁のレンガのようには集積しない。知識の発展は、そしてその沈滞も、社会的、文化的かつ政治的な枠組みにかかっている。」(注48)
 ウクライナについては、その枠組みが1980年代に変遷し始め、その十年間を通じて変化し続けることになる。//
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 (02) 西側の受け止めの変化は、部分的には、ソヴィエト・ウクライナ内部での事態の助けがあって生じた。この事態はゆっくり発生したものだったが。
 1953年のスターリンの死は、飢饉に関する公式の再評価をもたらさなかった。
 1956年の記念碑的な「秘密演説」で、スターリンの後継者のNikita Khrushchev はソヴィエトの独裁者を取り囲んでいた「個人崇拝」を攻撃し、1937-38年の多数の党指導者たちを含む数十万人の殺害についてスターリンを非難した。
 しかし、Khrushchev は、彼は1939年にウクライナ共産党の長になっていたのだが、飢饉に関しても集団化に関しても沈黙したままだった。
 これらについて語るのを拒否したことは、その年以降の離散知識人にとってすら、農民たちの運命を明確に理解するのは困難であることを意味した。
 上級の党内部者だったRoy Medvedev は1969年に、スターリン主義に関する最初の「異端」歴史書である〈歴史に判断させよ〉で、集団化に論及した。
 Medvedev は、飢餓で死んだ「数万の」農民について叙述した。しかし、自分はほとんど何も知らないことを認めていた。//
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 (03) それにもかかわらず、Khrushchev による「雪解け」は、システムにある程度の裂け目を開けた。
 歴史家は困難な主題に接近することができなかったが、ときにはそうした。
 1962年、ソヴィエトの文芸関係雑誌は、最初の正直なソヴィエト収容所の描写であるSolzhenitsyn の〈Ivan Denisovich の人生の一日〉を掲載した。
 1968年、別の雑誌が、はるかに知名度が小さいロシアの作家のVladimir Tendriakov の短い小説を掲載した。その中で彼は、「郷土から剥奪されて追放され」、地方の町の広場で死んでゆく「ウクライナのクラクたち」についてこう書いた。
 「朝にそこで死者を見るのに慣れてしまった。そして病院の厩務員のAbram は、荷車とともにやって来て、遺体を積み込んだものだ。
 全員が死んだのではない。
 多くの者は、汚い、むさ苦しい路地をさまよった。象のように、血流がなくて青くなった、水腫の浮いた脚を引き摺りながら。そして、通行人全てから小突かれ、犬のような眼で物乞いをしながら。」(注49)//
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 (04) ウクライナ自体の中では、スターリン主義に対する知識人や文芸関係者の拒絶は顕著にnational な傾向を帯びた。
 1950年代遅くおよび1960年代初頭の抑圧が少なくなった雰囲気の中で、ウクライナの知識人たちは—Kyiv、Kharkiv で、そして、以前はポーランド領土で1939年にソヴィエト・ウクライナに編入されていたLiviv で—、もう一度出会い、書き、national な再覚醒の可能性について議論し始めた。
 多くの者たちは、ウクライナ語で子どもたちに教えた基礎学校で教育されていた。また、自分たちの国の「選択し得る」歴史の見方を両親や祖父母から聞いて成長していた。
 ある者たちは、ウクライナの言語、文学、そしてロシアの歴史とは区別されるウクライナの歴史を普及させることを公然と語り始めた。//
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 (05) こうしたnational identity の影を蘇生させようとする静かな試みに、モスクワは警戒心をもった。
 1961年に、7名のウクライナ人学者が逮捕され、Liviv で裁判を受けた。その中には、Stepan Virun もいた。この人物は、「ナショナリズム追及と数百の党員や文化人の壊滅に伴った不公正な抑圧」を批判する冊子を書くのを助けていた。(注50)
 別の二十数人は、1966年にKyiv で裁判を受けた。
 種々の「犯罪」の中で、ある者は「反ソヴィエト」の詩を含む書物を所有しているとして訴追された。
 その書物は著者名なしで印刷されていたので、警察は、Taras Shevchenko の作品だと見分けることができなかった(当時は彼の著作は完全に合法だった)。(注51)
 ウクライナ共産党の指導者のShelest は、こうした逮捕を主導した。1973年に第一書紀の地位を失ったあと、彼もつぎのような理由で攻撃されたけれども。
 〈O Ukraine, Our Soviet Land〉は、「ウクライナの過去、その十月以前の歴史に長い頁数を与えすぎており、一方で、偉大な十月の勝利、社会主義を建設する闘いのような画期的な出来事を適切に称賛していない」。
 この書物は発禁となった。そして、Shelest は、1991年まで名誉を剥奪されたままだった。(注52)。
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 (06) しかし、1970年代までに、ソヴィエト連邦はもうかつてのように世界から切断されてはおらず、このときの逮捕をめぐっては反響を呼んだ。
 ウクライナの収監者たちは、自分たちの事案に関するニュースを密かにKyiv へと送った。
 Kyiv にいる反対派たちは、自由ラジオ(Radio Liberty)またはBBCと接触する仕方を学んでいた。
 1971年までに、相当に多くの資料がソ連から漏れ出していたので、ウクライナでの証言類を収集した編集本を出版するのは可能だった。その中には、受刑中のウクライナ民族活動家の情熱的な証言録もあった。
 1974年、反対派たちは、集団化と1932-33年飢饉に関する数頁を含む地下雑誌を発行した。
 この雑誌の英語への翻訳版も、〈ソヴィエト連邦でのウクライナ人の民族浄化(Ethnocide)〉という表題で刊行された、(注53)
 西側のソヴィエト観察者や分析者は、ウクライナの反対派は別個の明確な一体の不満をもっていることを徐々に知るようになった。
 1979年にソヴィエトがアフガニスタンを侵攻したこと、1981年にRonald Reagan が大統領に選出されたことは、突如としてデタントの時代を終わらせ、西側の諸国民の相当に広い部分も、ソヴィエトによる抑圧の歴史に改めて注目することになった。その抑圧には、ウクライナ内部でのそれも、含まれている。//
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 (07) 1980年代初頭までに、ウクライナ離散者たちも、変化した。
 以前よりも社会の中核に昇り、財政力も大きくなり—ウクライナ人社会の構成員はもはや貧しい逃亡者ではなく、北アメリカとヨーロッパの中間層の確固たるメンバーだった—、離散者組織は、以前よりも内容のある企画を財政援助することができた。また、散在している資料を書物や映像に変えることもできた。
 カナダでのインタビュー企画は、大きな記録映画(documentary)へと発展した。
 〈絶望の収穫(Harvest of Despair)〉は映画祭で受賞し、1985年春にカナダの公共テレビで放映された。//
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 (08) 合衆国では、この映像を放送しようとしない公共の放送機関の当初の姿勢が、論争の対象になった。—彼らは「右翼」すぎると恐れたのだ。
 PBS は1986年9月についに、「最前線部隊」の特別版として、この映画を放送した。この番組は保守派のコラムニストで〈Natinal Review〉の編集者のWilliam Buckley によって生まれ、彼と歴史家のRobert Conquest、〈New York Times〉のHarrison Salisbury、当時は〈Nation〉のChristopher Hitchens の間の討議の放映が続いた。
 討議の多くは、飢饉それ自体とは関係がなかった。 
 Hitchens は、ウクライナの反ユダヤ主義という論点を提起した。 
 Salisbury は、彼の発言のほとんどで、Duranty〔1884-1957、〈New York Times〉の元モスクワ支局長—試訳者〕に注目した。
 しかし、論評と記事の連続した波がその後に続いた。//
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 (09) より強い関心の大波を生じさせたのは、Conquest 著の〈悲しみの収穫〉(Harvest of Sorrow)だった。これは、数ヶ月後に出版された、Harvard 大学の映像化企画の最も目に見える成果だった。
 この書物は(本書のように)、Harvard ウクライナ研究所の協力を得て執筆された。
 Conquest には、今日では利用できる公文書資料がなかった。
 しかし彼は、Mace と一緒に、存在している情報源—ソヴィエトの公式文書や離散者の中の生き残った人々の口頭証言—を総合して構成した。 
 〈悲しみの収穫〉は1986年に出版され、イギリスとアメリカの全ての大手の新聞や多くの学会誌で書評された。—当時は、ウクライナに関する書物としては先例のないことだった。
 多くの書評者は、このような恐るべき悲劇についてはほとんど何も知らなかった、という驚きを表明していた。
 〈The Times のLiterary Supplement〉で、ソヴィエトの学者のGeoffrey Hosking は、「数年以上を使ってこれだけの資料が積み重ねられた。ほとんどはイギリスの図書館で完全に利用できる」と衝撃を受けた。
 「ほとんど信じ難いことだが、Conquest 博士の書物は、一世紀全体を通じて、最悪の人為的な恐怖の一つと評価しなければならないものの最初の歴史的研究書だ」。
 Frank Sysyn は簡潔にこう述べた。「ウクライナに関するどの書物も、これほど広汎な注目を浴びなかった」。(注55)
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 第四節②へと、つづく。

2548/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章第三節の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第三節②。
 (07) Pidhainy はカナダで、ロシア共産主義によるテロル犠牲者(Victims of Russian Communist Terror)ウクライナ人協会の設立を始めた。
 また、目立ったエミグレ組織者にもなり、しばしばエミグレ仲間たちに語りかけ、飢饉だけではなくソヴィエト連邦での生活に関する記憶も書きとめておくよう激励した。
 他のエミグレ集団も、同じことをしたか、すでに行なっていた。
 1944年にWinnipeg に設立されたウクライナ文化教育センターは、1947年に回想記録大会を催した。
 第二次大戦に関する資料を収集することを意図していたが、提出された回想録の多くは飢饉に関係しており、やがてそのセンターは豊富な収集物を蓄えることになった。(注38)
 世界じゅうのウクライナ人社会は、München にある離散者新聞による訴えにも反応した。その訴えは、「ウクライナでのボルシェヴィキの専横さを厳しく弾劾するのに役立つ」回想記を求めていた。(注39)//
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 (08) このような努力の結果の一つが、Pidhainy が編集した書物、〈クレムリン黒書〉(The Black Deeds of the Kremlin)だった。
 やがて二巻で構成されて—第一巻は飢饉20周年の1953年に出版された—、〈黒書〉は、飢饉その他のソヴィエト体制の抑圧的側面の分析とともに、数十の回想記を含むことになった。
 執筆者の中には、Sonovyi がいた。
 このときの彼の主張は、英語に要約して翻訳された。
 「飢饉の真実」と題する彼の小論は、あからさまに始まっていた。
 「1932-33年の飢饉は、ロシアによる支配のためにウクライナ反対派の基幹部を破壊しようとするソヴィエト政府によって必要とされた。
 かくして、政治的動機があったのであり、自然が原因の産物ではなかった。」(注40)//
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 (09) 他の人々は、自分自身の体験を記した。
 簡潔で鮮烈な回想記は、死者の素描や写真とともに、長い文字によって過去を思い出させるものだった。
 Poltava の経済学者だったG. Sova は、「私は何回も、穀物、粉末の最後の一オンス、あるいは農民たちが取り去った豆類を見た」と記憶していた。(注41)
 I. Kh-ko は、その父親が家宅探索の際に靴のゲートルの中にいくつかの穀物を何とか隠すことができていたこと、だがそのうちにやはり死んだこと、を叙述した。
 「死体が至るところに散在していたので、父親の遺体を埋めてくれる者はいなかった」。(注42)
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 (10) 編集者たちは〈クレムリン黒書〉を、国じゅうの図書館に送った。
 しかし、カナダでの新聞記事やドイツでの冊子となった〈The Ninth Circle〉と同様に、ほとんどのソヴィエト学者や学界雑誌の主流によって、慎重に無視された。(注43)
 情緒的な農民の回想記と半学問的な小論の混合物では、アメリカの職業的歴史家たちに訴えるところがなかった。
 逆説的にも、冷戦はウクライナ人エミグレたちの行動の助けにならなかった。
 彼らの多くが用いていた言語遣い—「黒い行ない」あるいは「政治的武器としての飢饉」—は、1950年代、1960年代そして1970年代の多くの学者たちにはあまりにも政治的すぎた。
 執筆者たちは、物語を話す「冷戦の闘士」として冷たく拒否された。//
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 (11) ソヴィエト当局が飢饉の物語を積極的に抑圧したことも、不可避的に、西側の歴史家や文筆家に大きな影響を与えた。
 飢饉に関する確固たる情報が完全に欠けていたため、ウクライナ人の主張は少なくとも高度に誇張されたものだ、あるいは信じ難いとすら、感じさせた。
 そんな飢饉があったならば、ソヴィエト政府はそれに対応しようとしただろう?
 自分の国民が飢えているとき、どんな政府も傍観しはしないだろう?//
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 (12) ウクライナ人離散者たちは、ウクライナそれ自体の地位によっても傷つけられた。
 誠実なロシア史研究者に対してすら、「ウクライナ」という観念は、戦争後にはかつて以上に曖昧であるように思えた。
 外国人のほとんどは、ウクライナの短い、革命後の独立の時代があったことを知らなかった。ましてや1919年や1930年の農民蜂起について、知らなかった。
 1933年の逮捕と弾圧のことなど、少しも知らなかった。
 ソヴィエト政府は、その国民はもとより外国人がソヴィエト連邦は単一の統一体だと考えるように仕向けた。
 世界の舞台でのウクライナの公的な代表者は、ソヴィエト同盟の報道官であり、戦後の西側ではウクライナはほとんど一般的にロシアの一つの州だと考えられた。
 自分たちを「ウクライナ人」と呼ぶ人々は、いくぶんか不誠実だと見られることがあり得た。スコットランド人やカタロニア人(Catalan)の活動家がかつて不誠実だと見られたのとかなり似て。//
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 (13) ヨーロッパ、カナダ、アメリカ合衆国のウクライナ人離散者たちは、1970年代までに、自分たちの歴史家や雑誌をもつに十分なほど大きくなり、Harvard 大学のウクライナ研究所やEdmonton にあるAlberta 大学のカナダ・ウクライナ研究所の二つを設置できるほどに裕福になった。
 しかし、こうした努力があっても、歴史学の主流を形成できるほどに強くはならなかった。
 指導的なウクライナ人離散者のFrank Sysyn は、こう書いた。専門分野の「民族化」(ethnicization)で学界のその他の領域から遠ざかったかもしれない、ウクライナの歴史が二次的で価値のない研究対象のように見えるのだから。(注44)
 ナツィによる占領と一定範囲のウクライナ人がナツィスに協力したという記憶もまた、独立ウクライナの擁護者を「ファシスト」と称するのは数十年経ってすら簡単だ、ということを意味した。
 離散したウクライナ人たちが自己一体性(identity)を執拗に強調することすら、多くの北アメリカ人やヨーロッパ人には、「ナショナリスト」的で、ゆえに胡散臭いと思われた。//
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 (14) エミグレたちが「紛れもなく偏見をもつ者」だとして拒否され、彼らの説明は「曖昧な残酷物語」だとして嘲弄される、ということがあり得た。
 「黒書」の編纂はのちに、ソヴィエト史のある有名な研究者によって、学問的価値のない冷戦期の「時代的産物」にすぎないと叙述されることになる。(注45)
 しかし、そのときウクライナ自体で、重要な事態が進展し始めた。//
 ——
 第三節、終わり。

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
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 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
 ——
 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
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 第三節②へとつづく。

2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 試訳のつづき。
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 第15章第二節②。
 (11) 1942-43年に—ウクライナでのナツィの権力の最高時とたまたま一致している—、飢饉後10年を画するために、農民の支持を狙って多数の新聞が資料を刊行した。
 1942年7月、〈Ukrainskiy Khliborob〉という25万人の読者のある農民週刊紙は、「ユダヤ・ボルシェヴィキのいない仕事の年」に関する大きな記事を掲載した。
 「全ての農民が1933年という年をよく憶えている。飢餓が草のように農民たちを刈り取った年だ。
 ソヴィエトは、20年間に豊かな土地を飢餓の土地に変え、その土地で数百万人が死んだ。
 ドイツ軍兵士はこの攻撃を停止させ、農民たちはパンと塩でドイツ兵を歓迎した。ウクライナの農民が自由に仕事ができるように戦う軍の兵士をだ。」(注21)
 別の記事がつづき、何がしかの魅力をもった。
 当時に日記をつけていた一人は、ナツィのプロパガンダはそのいくぶんかは真実だったために大きな影響をもたらした、と記した。
 「我々人民、我々の家屋、畑、床、便所、村役場、我々の教会の廃墟、蠅、汚物を見よ。
 一言でいうと、全てがヨーロッパ人を恐怖心でいっぱいにする。だが、ふつうの人々から距離を置く我々の指導者とその子分たちや現代ヨーロッパの生活水準から無視されている。」(注22)
 Poltava からのある避難者は、占領下での飢饉に関する多数の議論が始まった戦後すぐのインタビューに答えて、語った。
 彼はまた、まるで赤軍が戻ってきたかのように見えた時点で、人々は「さて我々の『赤たち』は何をもたらすのか? 新しい1933年飢饉か?」と問うた、ということを思い出した。(注23)
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 (12) ナツィのプレスの全てと同じく、これらの戦時中の記事は、反ユダヤ主義で満ちていた。
 飢饉は—貧困や弾圧とともに—、繰り返してユダヤ人の責任だとされた。これはむろん以前から流行していた考え方だが、今では占領者のイデオロギーの中を占めていた。
 ある新聞は、ユダヤ人は必要なもの全てをTorgsin 店舗で購入しているので、飢饉を感じていない住民の唯一の部分だ、と書いた。「ユダヤ人には、金もドルもない」。
 別の新聞は、ボルシェヴィズム自体が「ユダヤの産物」だと語った。(注24)
 ある回想者は、戦争中のKyiv での飢饉に関する反ユダヤ・プロパガンダ映画を見せられた、と思い出した。
 それは掘り出された死体の映像を含んでいて、ユダヤ人の秘密警察官の殺害で終わっていた。(注25)//
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 (13) 戦時中のプレスは、とくにナツィのプロパガンダの枠組に適合するよう企画されてはいない飢饉に関する記事を、ごく少数だけ掲載した。
 1942年11月、農業経済学者のS. Sosnovyi は、まさに最初の準学問的研究だったかもしれないものを、Kharkiv の新聞に掲載した。
 Sosnovyi の論考はナツィの特殊用語を使っておらず、起こったことを正直に説明していた。
 彼はこう書いた。飢饉は、ソヴィエト権力に反対するウクライナの農民を破壊することを意図していた、と。
 「自然な原因」の結果ではなかった。「実際に1932年の気候条件は、例えば1920年のときのそれのように異常ではなかった」。
 Sosnovyi はまた、最初に真摯に犠牲者数の概算を示した。
 彼は、1926年と1939年の国勢調査その他のソヴィエトの統計出版物(たぶん知っていただろうが、発禁の1937年国勢調査を含まない)に言及しながら、1932年にウクライナで150万人が、1933年に330万人が、飢餓で死んだ、と結論した。—今日に広く受容されている数字よりも僅かに大きいが、遠く離れてはいなかった。//
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 (14) Sosnovyi はさらに、本当の物語、「選択し得る話」のきわめて多くは事実のあとの10年間なおも生き続けたということを示し、飢饉がどのように発生したかを叙述した。
 「まず彼ら〔ボルシェヴィキ〕は、集団農場の貯蔵所から全てを奪った。—農民が「作業日」(〈trudodni〉)に得た全てのものを。
 ついで彼らは、飼料、種苗を奪い、あらかじめ受け取っていた最後の穀物を農民から奪った。…
 彼らは、撒かれた範囲が狭く、穀物の収穫量は1932年のウクライナでは少ないことを知っていた。
 しかしながら、穀物生産の計画はきわめて高かった。
 これは、飢饉を組織する第一歩ではないか?
 ボルシェヴィキは、調達している間に、極度に少ない穀物しか残っていないことを知った。だが、彼らは全てを運び去り、奪い去った。—これはまさに、飢饉を組織するやり方だ。」(注26)
 同様の思いが、のちに、飢饉はジェノサイド(genocide)だった、nation としてのウクライナ人を破壊する意図的な計画だった、という主張の基盤を形成することになる。
 しかし、1942年では、この言葉はまだ使用されていなかった。そして、こういう観念自体すらが、ナツィ占領下のウクライナにいる誰の関心をも惹かなかった。// 
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 (15) Sosnovyi の論考は淡々として分析的なものだったが、それに付随した詩は、公然とは行えなかった服喪がまだなされていたことの証拠だ。
 Oleksa Veretenchenko が作った「遠い荒廃した北方のどこか」は、1943年を通して〈Nova Ukraina〉に掲載された一連の詩の〈1933年〉の一部だった。
 どの詩も、痛みまたは郷愁の、異なる調子をもっていた。
 「笑いに、何が起きたのか?
 少女たちが真夏の夕べを照らすために用いた焚き火に、いったい何が?
 ウクライナの村民たちはどこにいる?
 そして、家のそばのサクランボはどこに?
 貪欲な炎へと、全てのものが消え失せた。
 母親たちが、その子どもたちを食っている。
 狂った男が、市場で人肉を売っている。」(注27)
 こうした感情の響きの形跡は、人々の家の私的会話でも聞くことができた。
 ソヴィエトとドイツは侵攻に際してウクライナ西部(Galicia、Bukovyna、西部Volhynia)を国のその他の部分と効果的に統合したがゆえに、多数の西部ウクライナ人は、初めて東部へと旅行することができ、そこで見聞したことを記録した。
 飢饉は1933年には広く論じられたけれども、繰り返して語られる飢饉の物語を聞いて、戦時中に中部ウクライナを訪れたBohdan Liubomyrenko には、依然として驚きだった。
 「我々が人々を訪問した至るところで、会話した者は誰もが全て、きわめて恐ろしいこと、彼らが体験した日々について言及した」。
 彼を接遇した者はときどき、「一晩じゅう、彼らの恐怖の体験」を語った。
 「恐怖の時代は、政府が1932-33年にウクライナを満足げに眺める悪魔と一緒に計画した人為的飢饉の時代で、その記憶は人々の中に深く染み込んでいた。
 十年の長さは、殺戮の痕跡を抹消することも、無垢の子どもたちや男女の、飢饉で衰弱して死んでゆく若者たちの、最後のあえぎ声を消散させることも、できなかった。
 悲しみの記憶は、黒いもやのように都市や村落の上になおも掛かっており、飢餓を免れた目撃者たちの間に致命的な恐怖を生んでいる。」(注28)
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 (16) ウクライナ人も、集団化、抵抗、弾圧するために1930年に到来した軍隊について、公然と話し始めた。
 多くの人々には、飢饉の政治的原因は明瞭で、「農民たちが強奪されたこと、全てが没収されたこと、家族には、小さな子どもたちにすら、何も残されなかったこと」を語り、「彼らは全てを没収して、ロシアへと輸出した」と言った。(注29)
 1980年代に、作家のSvetlana Aleksievich はロシアの老人女性に会った。彼女は戦時中にあるウクライナ人女性の側で仕えていた。
 家族全員を飢饉で失った生存者であるその女性は、ロシアの老人に、自分は馬の肥料を食べてようやく生き残った、と言っていた。
 「私は祖国を守りたかった。でも、スターリンを守りたくはない。あの革命の裏切り者は。」(注30)//
 ----
 (17) のちにそうなったのと同様に—また今日でも同様に—、聞いた者全員がこうした物語を信じているわけではなかった。
 ロシアの老人は、彼女の仲間は「敵」か「スパイ」ではないかと懸念した。
 Galicia 出身のウクライナ・ナショナリストですら、国家による飢饉という考えを固く信じるのは困難だと感じた。
 「率直に言って、政府がそんなことをすることができたと信じるのはむつかしいと思った」。(注31)
 スターリンは意図的に人々が飢えて死ぬのを認めたという考えは、スターリンを嫌う者たちにとってすら、あまりにも恐ろしすぎ、あまりにも怪物的だった。//
 ——
 第二節、終わり。


 Applebaum-Faminn02

2545/池田信夫ブログ028—泊原発地裁判決。

 すでに誰かが池田信夫に「助言」しているだろうが、気になるのでこの欄でも記しておく。
 札幌地裁805号法廷2022年5月31日判決について、池田は「泊原発の判決に欠けている『根拠法』」と題して、判決を「どんな法律を根拠とし、誰が北電の原子炉運転を止めるのだろうか」等と批判している。Agora 2022.05.31
 万人が、池田信夫ですら、あらゆる分野に通暁しているわけではないから、とくに非難する意図はない。ただ、少しは誤解を溶かしておきたい。
  これは一定範囲の近隣住民と私企業の間の(よくある)広義での「環境」訴訟で、民事訴訟だ。
 仔細を知らないまま、民事法の専門家でもないのに書くのだが、争点は北電の原子炉運転(継続?)が原告住民の「人格権」を侵害するか否かまたは「侵害するおそれ」があるか否かだ。
 ここでの「人格権」は民事上の差止請求の根拠とされている民事法上の権利で、池田が記す憲法13条を根拠とするものではない。強いて言えば、明文はなくとも、民法に根拠はあると思われる。
 差止請求の根拠として、①所有権等の物権、②人格権、③「環境権」が語られ得る。
 大阪国際空港訴訟で原告団が考案?したのが③だったが、当該事件の最高裁も含めて判例は認めず、①により難い(多くの)場合は、勝敗は別として、②による請求を許容するのが判例一般だと思われる。
  私人間の民事訴訟であるがゆえに、国や規制委員会が当事者として直接に登場していないのは当然だ(「参加」はあり得るが、していないのだろう)。
 また、人格権侵害(のおそれ)の存否が争点なのであり、原子炉規制法または原子炉規制委員会が作成している「基準」類に問題の原子炉(運転)が適合しているか否かは、<直接には>または<法的には>関係がない。
 このあたりは法科大学院の学生でも、初期には理解が容易でないかもしれない。
 この地裁判決は委員会の安全「基準」に言及しているが、これとの不適合性の認定から直接に結論を導いているわけではない(ということに法的にはなる)し、判決の「骨子・要旨」からもそのようには読めない。
 これは、隣人または周辺住民がある私人による建築物の建築工事の差止めを請求した民事訴訟で、建築基準法または同法の解釈等に関する国土交通省(・大臣)の「通達」類との適合性はどういう「法的」意味をもつか、と同じ問題だ。
 より一般的には、民事法と行政法の関係、さらに伝統的にはまたは少なくとも戦前的には、「私法と公法」の区別・関係、それぞれの役割分担の問題であり、簡単には説明し尽くせない。
 この地裁の裁判官たちは、委員会の安全「基準」類を、結論へと至る、または心証形成のための重要な<参考資料>として「利用」している気配はある(実質的な(!)「立証責任」の問題、または被告の「立証」しようとする姿勢がより大きい影響を与えている可能性はある)。だが、上記のとおり、<直接に>または<法的に>連結させているわけではない、はずだ。
 この「参考」または「利用」の仕方が、裁判官にとっても、微妙なところだろう。
  池田は「誰が北電の原子炉運転を止めるのだろうか」という疑問をもっていて、規制委員会以外にはない、との趣旨のようだ(たぶん)。
 事実行為としては、運転を停止するのは被告・北電で、被告にそれを命じたのが今回の判決だ(但し、第一審)。
 訴訟によって原告はそれを請求する権利があり、訴訟要件に問題がないかぎり(例えば、沖縄県民は本件訴訟の原告になり得るか?)、裁判所はその請求権の存否について判断する義務と権利がある。
 以上、リンクされている判決「骨子・要旨」もロクに読まないで急いで書いた。この地裁判決の結論への賛否は、ひとことも述べていない。
 ——

2544/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第二節①
 (01) 1941年6月22日、ヒトラーがソヴィエト同盟に侵攻した。
 ドイツ軍は11月までに、ソヴィエト領ウクライナのほとんどを占領した。
 つぎにどうなるかが分からないまま、多くのウクライナ人は、ユダヤ系ウクライナ人ですら、最初はドイツ兵団を歓迎した。
 ある女性はこう思い出す。
 「少女たちはしばしば兵士に花を捧げ、人々はパンを与えたものだ。
 我々はみんな、彼らを見て嬉しかった。
 彼らは、我々から全てを奪って飢えさせた共産主義者から救ってくれようとしていたのだ。」(注7)
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 (02) バルト諸国も、同様にドイツ軍を歓迎した。これら諸国は、1939年から1941年まで、ソ連に占領されていた。
 コーカサスとクリミアも同様に、ドイツ兵団を熱烈に迎えた。これらの住民たちがナチスだったのが理由ではない。
 非クラク化、集団化、大量テロルと教会に対するボルシェヴィキの攻撃によって、ドイツ軍がもたらすものについて、幼稚で楽観的な見方が生まれていた。(注8)
 ウクライナの多くの地方で、ドイツ軍の到来とともに、自発的な非集団化が発生した。
 農民たちは後方地を奪ったのみならず、ラッダイト(Luddite)の憤激のようにトラクターや複式収穫機を破壊した。(注9) 
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 (03) 大騒ぎは、すぐに終わった。—そして、ドイツによる占領のもとでのよりましな生活を望んだ全ての者たちの期待は、すみやかに消滅した。
 つぎにどうなったかの十分な説明は、この書物の射程を超えている。ウクライナにナツィスがもたらした苦難は、広範囲で、暴力的で、ほとんど理解できないほどの規模で残虐なものだったからだ。
 ソ連に来るまでに、ドイツは他国を破壊する多数の経験をもっていた。そしてウクライナでは、自分たちがどうしたいのかを知っていた。
 ただちにホロコーストが始まり、遠く離れた収容所でのみならず、公然と繰り広げられた。
 ドイツ軍は、移送をするのではなく、隣人たちの面前で、村落の端や森の中で、ロマ人やユダヤ人の大量の処刑を敢行した。
 ウクライナのユダヤ人の三分の二が、戦争の全過程を通じて死んだ。—80万人と100万人の間。この割合は、大陸全体で死んだ数百万の現実的部分のそれよりも大きい。//
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 (04) ヒトラーによるソヴィエトの犠牲者の中には、200万人以上の戦争捕虜も含まれていた。彼らのほとんどは病気か飢餓のために死に、また、多くはウクライナの領域で死んだ。
 人肉喰いが、再びウクライナで発生した。
 Kirovohrad の第306捕虜収容所では、監視兵が収監者が死んだ仲間を食べていると報告した。
 Volodymyr Volynskyi の第365捕虜収容所での目撃者は、同じことを報告した。(注10)
 ナツィの兵士と警察官は、その他のウクライナ人を、とくに公職の役人たちから強奪し、打ちのめし、恣意的に殺害した。 
 ナツィの人種階層では、スラヴ人は下層人間(Untermenschen)『“で、おそらくはユダヤ人よりも一階位上だったが、偶発的な抹殺の候補になった。
 ドイツ軍を歓迎した者の多くには、ドイツは一つの独裁制を新しい独裁制に変更した、ということが分かった。とりわけ、ドイツが新たな移送の波を打ち寄せ始めたときに。
 戦争のあいだに、ナツィ兵団は、200万人以上のウクライナ人をドイツの強制労働収容所に送り込んだ。(注11)
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 (05) ウクライナを占領した全ての諸国と同じく、ナツィスも究極的にはただ一つの現実的な関心をもっていた。すなわち、穀物。
 ヒトラーは以前から、「ウクライナの占領は全ての経済的不安から我々を解放する」、ウクライナの領土は「誰も前の戦争のように我々をもう一度飢えさせることができなくなる」のを保障する、と主張していた。
 1930年代の遅く以降、ヒトラー政権はこの願望を現実に変えようとしてきた。
 Herbert Backe という食料と農業を担当した悪辣なナツィ官僚は「飢餓計画」を構想したが、その目標は率直だった。すなわち、「戦争の三年めに全軍がロシアで食べていけてはじめて、戦争に勝つことができる」。
 しかし、軍全体は、ドイツ自体もそうだが、ソヴィエト国民が食糧を奪われてはじめて、自分は食べていくことができる、とも結論づけていた。 
 1941年6月に1000名のドイツの官僚たちに回覧された覚書にもあるが、彼は5月に出版した「経済政策指針」でこう説明した。
 「信じ難い飢餓がまもなくロシア、ベラルーシおよびソヴィエト連邦の産業都市を襲うだろう。Kyiv 、Kharkiv はもちろんモスクワやレニングラードでも。
 この飢饉は偶発的なものではないだろう。目標は、およそ三千万の人々が『死に絶える』(die out)ことだ。」(注12)
 征服した領域の活用を所管する東方経済部員(Staff East)への指針は、厳としてつぎのように述べていた。
 「この領域の数千万もの多数の人々は不必要になり、死ぬかまたはシベリアへと移住しなければならないだろう。
 〈黒土地帯からの余剰分を使って飢餓による死から彼らを救う試みは、ヨーロッパへの供給を犠牲にしてのみ成り立ち得る。
 そのような試みは、ドイツが戦争に踏み出すのを妨げる。
 ドイツとヨーロッパが封鎖に対抗する妨げになる。
 このことは、絶対的に明瞭だ。〉」[強調〔=〈〉〕は原文のまま](注13)
 これは、何倍も大きくしたスターリンの政策だった。飢餓による民族(nations)全体の抹殺。//
 ----
 (06) ナツィスには、この「飢餓計画」をウクライナで完全に実施する時間的余裕がなかった。
 しかし、その影響はその占領政策に感じ取ることができた。
 集団農場からの食料徴発の方が容易だという理由で、自発的な非集団化はすぐに停止された。
 Backe は、「ドイツ人は、ソヴィエトがすでに整えていないならば、集団農場を導入しなければなければならなかっただろう」と報告的に説明した。(注14)
 1941年には、農場は「協同組合」へと転換させることが意図されたが、それは起きなかった。(注15)//
 ----
 (07) 飢餓も、戻ってきた。
 スターリンの「焦土」政策が意味したのは、ウクライナの経済的資産の多くが赤軍を退却させたことですでに破壊されている、ということだった。
 占領によって、状況はそこにとどまった人々にはさらに悪くなった。
 Kyiv が9月に陥落する直前に、帝国経済大臣のHermann Göring は、Backe と会談した。
 二人は、都市部の住民が食物を「むさぼる」(devour)のが許されてはならない、ということで一致した。「もし誰かが新たに占領した領域の住民全員に食を与えたいと望んだとしても、そうすることはできないだろう」。
 SSのHeinrich Himmler は数日後にヒトラーに対して、Kyiv の住民は人種的に劣っており、不要なものとして処分することができる、と言った。
 「彼らの80-90パーセントなしで、容易に済ませられる」。(注16)//
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 (08) 1941年冬、ドイツは都市部への食料供給を断ち切った。
 固定観念とは逆に、ドイツ当局はソヴィエトのそれよりも有能ではなかった。つまり、農民取引者たちは暫定的な非常線を通過した—1933年にそうするのは困難だと気づいていた。そして、数千人の人々が再び食料を求めて道路や鉄道を利用した。
 それにもかかわらず、食糧不足は、占領地帯で増大した。
 もう一度、人々は膨らみ、痩せ、遠くを見つめ、そして死に始めた。
 その冬、Kyiv で5万人が飢餓のために死んだ。
 ナツィの司令官が非常線で遮断していたKharkiv では、1942年5月の最初の二週間で、1202人が飢餓のために死んだ。
 占領期間中の飢餓による全死者数は、約2万人に達した。(注17)//
 ----
 (09) こうした論脈の中で、ウクライナの1933年飢饉に関して公然と語るのが初めて可能になった。—残虐な占領のもとでの苦難と混沌、そして新たな飢饉の発現の中で。
 状況によって、物語の語られ方が形成された。
 占領のあいだ、議論の目的は生存者が嘆き悲しんだり、回復したり、正直な記録を生んだり、あるいは将来のための教訓を学んだりするのを助けることでは、なかった。
 過去を思い出すようなことを望んだ人々は、失望していた。
 飢饉についての秘密の日記類を守り続けた農民たちの多くは、日記類を地下から掘り出し、地方の新聞社へ持ち込んだ。
 しかし、「不幸なことに、編集者たちの多くは、今になっては過去の時代のことに興味がなかった。そして、こうした貴重な歴史的記録は公表されなかった」。(注18)
 その代わりに、この編集者たち—仕事と生活を新しい独裁制に依存していた—のほとんどが、ナツィのプロパガンダに奉仕する記事を掲載した。
 この者たちには、議論の目的は、新しい体制を正当化することだった。//
 ----
 (10) ナツィスは実際には、ソヴィエトによる飢饉について多くのことを知っていた。
 その飢饉が起きているあいだ、ドイツの外交官はベルリンへの報告書で詳細に飢饉に関して叙述していた。
 Joseph Goebbels は、1935年のナツィ党大会の演説で、飢饉に言及した。彼はそこで、500万人が死んだと発言した。(注19)
 ドイツ軍が到着した瞬間から、ウクライナ占領者たちは、彼らの「イデオロギー的工作」のために飢饉を利用した。
 彼らが望んだのは、モスクワに対する憎悪が増幅すること、ボルシェヴィキによる支配の結果を人々が思い出すこと、だった。
 彼らがとくに熱心だったのは田園地帯のウクライナ人に達することで、ドイツ軍が必要とする食料の生産のためにはそうした努力が要求された。
 プロパガンダ用ポスター、壁新聞、時事漫画が、不幸で半ば飢えた農民たちを描いた。
 あるやせ細った母親とその子どもは、「これがスターリンがウクライナにしたことだ」というスローガンのある荒廃した都市を見た。
 別の貧しい一家は、「同志たちよ、生活はよくなった、愉快になった」というスローガンの下で、食物のないテーブルに座っていた。—このスローガンは、有名なスターリンからの引用句だった。(注20) //
 ——
 第二節②へとつづく。

2543/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor①。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 邦訳書は、たぶん存在しない。この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。
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 緒言
 序説—ウクライナ問題。
 第1章・ウクライナ革命、1917年。
 第2章・反乱、1919年。
 第3章・飢饉と休止、1920年代。
 第4章・二重の危機、1927-29年。
 第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
 第6章・反乱、1930年。
 第7章・集団化の失敗、1931-32年。
 第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
 第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
 第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
 第11章・飢餓—1933年の春と夏。
 第12章・生き残り—1933年の春と夏。
 第13章・その後。
 第14章・隠蔽。
 第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
 エピローグ・ウクライナ問題再考。
 ----
 すでにこの欄に掲載したのは、冒頭の「緒言」と「序説」。
 以下、第15章(とエピローグ)を試訳する。 
 Holodomor(ホロドモール)の意味は、本文の中で語られるだろう。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール(Holodomor)。
 第一節。
 (01) 飢饉のあとの数年間、ウクライナ人は、起きたことについて語るのを禁止された。
 彼らは、公然と嘆き悲しむのを怖れた。
 大胆にそうしようとしても、祈ることのできる教会はなく、花で飾ることのできる墓石もなかった。
 国家がウクライナの農村地帯の諸団体を破壊したとき、公的な記憶も攻撃された。
 ----
 (02) しかしながら、生存者たちは、私的に記憶していた。
 彼らは、起きたことについて、実際に書き残し、または頭の中に憶えた。
 ある者が思い出すように、日記を「木箱に鍵をかけて」守りつづけ、床下に隠したり、地下に埋めたりした人々もいた。(注2)
 農村では家族内で、人々は何が起きたかを子どもたちに話した。
 Volodymyr Chepur は、彼の母親が彼女と彼の父親の二人は食べるためにあった全てのものを彼に与えようとした、と話してくれたとき、5歳だった。
 自分たちが生き残ることができなくとも、証言することができるように彼が生きるのを、両親は望んだ。
 「私は死んではならない。大きくなったとき、我々とウクライナ人がどのように苦悶の中で死んだかを、人々に語らなければならない。」(注3)
 Elida Zolotoverkha 、日記を残していたOleksandra Radchenko の娘も、子どもたち、孫たち、さらにひ孫たちに、日記を読んで、「ウクライナが体験した恐怖」を記憶しておくように言った。(注4)//
 ----
 (03) 多くの人々が私的には繰り返したこうした言葉は、彼らの痕跡を残した。
 公的な沈黙によって、それらの痕跡はほとんど秘密の力をもった。
 1933年以降、こうした物語は選択し得るいずれかの話になった。飢饉に関する、情緒的に力強い「本当の歴史」か、公的な否認と並んで成立して大きくなる口伝えの伝承か。//
 ----
 (04) 彼らは党が公的議論を統制するプロパガンダ国家で生きたけれども、ウクライナ内の数百万のウクライナ人は、選択し得るこの話を知っていた。
 分裂の感覚、私的な記憶と公的な記憶の乖離、民族的哀悼のうちににあったに違いない大きく裂けた穴。—これらは、ウクライナ人を数十年にわたって苦しめた。
 両親がDnipropetrovsk で飢餓によって死んだあと、Havrylo Prokopenko は、飢饉について考えるのを止めることができなかった。
 彼は学校のために、飢饉に関する物語をそれにふさわしい絵図つきで書いた。
 教師はその作業を褒めたけれども、捨てるように言った。彼が、そして自分が、面倒なことに巻き込まれるのを怖れたからだった。
 このことは彼に、何かが間違っている、という感情を残した。
 なぜ、飢饉のことに触れることができないのか?
 隠そうとしているソヴィエト国家とは何だ? 
 Prokopenko は、30年後に、地方のテレビ局で、「飢えて黒い人々」に関する一節を含む詩歌を何とか読むことができた。
 地方当局からの威嚇的な訪問がそのあとでつづいた。しかし、彼はいっそう確信するようになった。ソヴィエト連邦(the USSR)はこの悲劇について責任がある、と。(注5)//
 ----
 (05) 記念する物が存在しないことで、Volodymyr Samoiliusk も苦悩した。
 彼はのちのナツィの占領を生き延びて第二次大戦で戦闘したけれども、飢饉の体験以上に悲劇的だと思えるものは何もなかった。
 記憶は数十年間彼にとどまり続け、彼は、飢饉が公式の歴史の中に現れるのを待ち続けた。
 1967年に彼は、1933年に関するソヴィエトのテレビ番組を観た。
 彼は画面を凝視して、記憶している恐怖に関する映像を待った。
 しかし、第一次五ヶ年計画の熱狂的英雄たち、メーデー行進、さらにその年からのサッカー試合すら、の画像は見たけれども、「おぞましい飢饉に関しては、一言も発せられなかった。」(注6)
 ----
 (06) 1933年から1980年代の遅くまで、ウクライナ内部での沈黙は、全面的(total)だった。—瞠目すべき、痛ましい、そして複雑な例外はあったけれども。
 ——
 第一節、終わり。
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