秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2022/05

2542/Turner によるNietzsche ⑪。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第10節の試訳のつづきで、最終回。
 ——
 第10節③。
 (03) 生を肯定する道徳を受容することのできる生物は、〈Übermensch〉、超人(Overman)だった。
 この言葉は、今世紀の初めには「Superman」と呼ばれるようになった。
 この語はもともとは〈ツァラトゥストラはこう語った〉に出ており、明瞭な意味をほとんど持っていなかった。 
 〈Übermensch〉は生を肯定する。
 愉快で、無邪気で、本能的で、自分の本能による衝動を持っている。
 将来に存在する生物のように見える。というのは、ニーチェはある箇所で、人類を野獣と〈超人〉の間を架橋するものとして描いているからだ。
 この生物は、人類がキリスト教や近代自由主義の禁欲的理想からつき離されたときにどのようなものになるかの、ニーチェの理想の類型のように思われるだろう。//
 (04) 近年の論評者はこの概念を相当に中立化している。しかし、種々のことが語られていても、全てがおそらくは間違った接近方法をとっている。
 疑いなく、ニーチェはその言う〈超人〉としてヒトラーのような人物を想定していなかった。そして〈超人〉は、彼の心の裡でははるかにGoethe のような人物だった。
 それにもかかわらず、〈超人〉は明らかにリベラルな諸価値とは相容れないように見える。そして、ニーチェ哲学の多くとともにこの概念を擁護しようとする近年の試みは、19世紀のさらに別の大きな危機と融合しようとするブルジョア文化の試みにすぎないと、私には思える。//
 (05) この時代のヨーロッパの知的世界の考察を、本書はRousseau から始めた。
 ニーチェでもって終えるのは、偶然ではない。
 彼は、Rousseau 的見方に対する最も厳しい批判者の一人だ。
 貴族制とブルジョア社会の両方を非難したのは、Rousseau だった。だが、彼の解決策は急進的に平等主義的なものだった。
 古代世界で彼が好んだのは、古代の市民的美德であり、この美德は急進的に平等主義ではない社会に宿っていた。 
 Rousseau が将来に投影したのは、平等主義の展望だった。
 彼は、聖書が失墜した世俗的見方から帰結するものとして社会を描いた。
 そして、あけすけの意欲の力でもって、道徳的にも経済的にも他の人間に優越する地位を築いた者たちを非難した。
 彼の見方では、このような状況が近代社会の虚偽(falseness)につながった。 
 Rousseau は、急進的な平等主義にもとづいてこれを批判したかった。
 また、人間がそのために生命を捧げるべき力として一般意思と市民宗教(Civil Religion)を樹立したかった。//
 (06) ニーチェは、このような見方に関する全てを憎悪した。
 彼は、優越者たる地位を築いた古代の人物たちを尊敬した。 
 Rousseau が書いたもの全てに、プラトンとユダヤ・キリスト教の伝統の両方の香りを嗅ぎ取った。
 彼はその急進主義にもかかわらず、本当の知的勇気を持たない、とニーチェは考えた。 
 Rousseau は、確定的ではない生物という自然状態から生まれ来たるものだと、人間を描いた。そのような生物は、自分たちの基本的な性格を作り上げていく必要があるのだ。だが彼は、自分自身の見方の根本的なニヒリズムから離れていた。
 ニーチェが提示し、次の世紀のヨーロッパの知的世界の中心に持ち込んだのが、ニヒリズムだった。
 人間の本性は、彼にとって、本当に確定的ではない。
 人間は、それを確定しなければならない。そして、ニーチェは、彼の世代の者たちが主張する全てのイデオロギーはその任務を果たすには不適切だ、と考えた。//
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 第10節、終わり。〈第15章・ニーチェ〉も、終わり。

2541/Turner によるニーチェ⑩。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第9節の試訳のつづき。
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 第9節②。
 (07) ニーチェの見方では、貴族的な価値の再検討が始まったのは、古代イスラエルでの道徳的経験によってだった。
 キリスト教が顕著に促進したこの再評価は、「道徳に関する奴隷の反乱」を引き起こした。
 この反乱の中心に位置したのは、ニーチェが〈ルサンチマン〉(Ressentiment)と称したものだった。
 高貴な者たち(the noble)が世界の上から見渡して肯定したのに対して、奴隷たちは、まさにその状況のゆえに、外部世界を否認しなければならない。
 奴隷たちは、肯定できない自分たちの無能力を正当化しなければならず、否認を正当化して称賛することによって、そうするのだ。
 このキリスト教道徳は力への意思を否定し、そうして、生を否定し、生を制限する。
 こうしたキリスト教道徳の勝利によって、奴隷の道徳がヨーロッパを奪い取った。
 奴隷の道徳は高貴さを否定し、卑しい者、弱い者、臆病な者を称賛した。
 結果として、人間の本性を否定したのだ。//
 (08) ニーチェによる批判に関して重要なのは、その重要性を説明する彼の決断だ。
 従前の哲学者たちのほとんどは、普遍的な価値の存在を前提にしていた。
 厳密にどのような価値がそうであるかに関しては異論があっただろう。しかし、普遍的な価値の存在については、一致があった。
 ニーチェは、価値それ自体の独立した存在を否定した。
 彼は強くこう主張した。キリスト教の諸価値は元々は無力の者や階層が自分たちの力を最大にする必要に由来する、と。そしてこの者たちは、自分たちの奴隷的存在の価値を高貴な者のそれよりも高位で立派だと設定することによってそうしたのだ。
 さらに加えて、奴隷たちのこの叛乱は、終わらなかった。
 19世紀における革命、自由主義(liberalism)、社会主義の波は、奴隷たちの叛乱を延命させた。
 ニーチェは、こう明言した。
 「かつてよりもさらに決定的で深遠な意味において、ユダヤ(Judea)はもう一度、フランス革命の古典的理想に対して勝利した。ヨーロッパの最後の政治貴族、フランスの17世紀と18世紀の政治貴族は、〈ルサンチマン〉—一般大衆の本能—のもとで崩壊した。かくも歓喜した、喧騒の中の狂熱の声を、これまでの世界は聞いたことがなかった!。」(注19)
 ニーチェは〈道徳の系譜学〉の別の箇所で、近代の自由主義はキリスト教が残した場所でそれをたんに継続しているにすぎない、と論じた。
 近代自由主義にもキリスト教にも、人間の本性を否定したという罪責がああった。//
 (09) ニーチェは、禁欲という理想はきわめて重要な機能を果たした、と考えた。
 禁欲は人間に、意味を、とりわけ苦難がもつ意味を提示した。
 禁欲によって人間は、存在の根本的な無意味さという荒涼たる現実に立ち向かうことができなくなった。
 だがなお、禁欲という理想はきわめて高くつくものも呼び起こした。
 「禁欲の理想によってその方向が示された意欲の全体が実際には何を表現しているかを我々が隠蔽するのは、絶対に不可能だ。表現するのは、人間的なものへの憎悪、さらに動物的なものへの憎悪、さらに物質的なものへの憎悪であり、官能や理性そのものへの恐怖、幸福や美への恐怖だ。そして、仮象、無常、成長、死、願望、そして熱望それ自体から逃れたいという熱望だ。
—これら全てが意味しているのは、あえて把握しようとするなら、〈無(nothingness)への意思〉であり、生への反感であり、生の基礎的な諸前提のほとんどに対する反抗だ。しかし、これは一つの〈意思〉であることに変わりはない。
 最初に言ったことをもう一度言って、終わりにする。人間は、意欲を何らもたないよりは〈無を意欲する〉ことをなおも望む。」(注20)//
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 第10節①。
 (01) 道徳に関する総括的な検討が最後に示すのは、生を拒否する道徳にすらある主意主義的(voluntaristic)な基盤だ。
 否定的な禁欲主義は、それ自体は禁欲的ではない。 
 否定的禁欲主義は、全ての意識ある存在の特徴だとニーチェが考える、力への意思のもう一つの様式にすぎない。//
 (02) そのゆえに、人間にとっての問題は、生を否定するのではなく肯定するのを認めることになる価値を意欲する、または想定する、そのような方法を見い出すことだった。
 ニーチェにとって、その方法には本質的にエリート主義的で貴族的な道徳が必要だった。
 高貴な人間は、畜群(herd)に打ち勝たなければならない。
 このことはキリスト教の排撃だけではなく、当時のブルジョア・イデオロギーの全ての排斥をも意味した。—自由主義、功利主義、民族主義、人種主義、菜食主義、等々の全て。
 これらは全て、結果を計算することに関心をもつ道徳的立場にあり、その定義上、全てが奴隷の道徳の態様だ。//
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 第10節②へと、つづく。

2540/Turner によるニーチェ⑨。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉の試訳のつづき(再開)。
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 第9節①。
 (01) ニーチェはある意味では、人間が本質的に美学的な見地から生に立ち向かうことを要求した。
 人間は生の現象を見つめて、そして自分たち自身の内的存在から、外部が誘導する権威にもとづかず、判断するようにならなければならない。
 (02) ニーチェは、世界は根本的に形をもたないと確信して、人間が形を作り上げなければならない、と考えた。
 世界は、我々がこうあるべきだとするものだった。
 我々がComte やDarwin が考えたような知識をいずれ獲得する、そのような客観的世界は存在しない。
 (03) ニーチェにとっては、科学は本当(genuine)の知識ではない。
 科学は、伝来的な、または有用な知識だ。
 世界で我々を成功させてくれる場合のみ、科学は真実(true)になる。
 科学は、世界を理解しようとする一つの方法にすぎない。
 科学は、最終的な知識へと帰着しなかったし、そうできなかった。
 彼はその明瞭さと有用性のゆえに科学を称賛したが、科学それ自体は、最終的叡智またはその他の価値の源泉ではあり得ない。
 〈陽気な科学(The Gay Science)〉でこう書いたとおりだ。
 「生は、論拠ではない。
 我々は生きることができるように世界を整序した。—物体、線、面、原因と効果、運動と休止、形式と内容、こうしたものを配置することによって。
 こうした信仰(faith)の対象がなければ、誰も生きることに耐えられないだろう!
 しかし、このことは信仰対象の正しさを証明しはしない。
 生は、論拠ではない。
 生の諸条件は誤りを含んでいるかもしれない。」(注17)
 実際にニーチェは、ほとんど真実は道具(instrumental)だと言うに等しい所まで来ていた。
 この点では、初期プラグマティストたちの哲学者陣営にきわめて近い立場にあった。
 彼にとっては、真実は決して永遠のものでも、無限のものでもない。
 真実は、世界に入り込み、そこを通り抜ける方法なのだ。//
 (04) ニーチェは、こうした急進的な懐疑主義を抑圧的とも悲観的とも見なさなかった。
 多数の人々はとても恐いと感じるだろうとしても、彼は、解放の基盤だとそれを見なした。
 最初の段階では、真実に関する彼の考えによって、自分をキリスト教から解放することができた。
 Ipsen やその他の同世代者のように、ニーチェは、現今の道徳を愚かなものだと考えており、その道徳は基本的にはキリスト教に由来するものと見ていた。
 今の道徳は、キリスト教であれ功利主義であれ、禁欲的で、生に対して拒否的だった。
 彼のキリスト教に対する、そしてキリスト教道徳に対する批判は、ヨーロッパでかつて道徳であり道徳的経験だと見なされたものの核心部分へと及んだ。
 彼はキリスト教道徳の起源を、プラトンとユダイズム(Judaism)へと跡づけた。
 キリスト教は2000年前に、これら両者の最悪の部分を結合させ、人類を凡庸へと向かわせたのだ。//
 (05) この主題に関する彼の完全な議論は、〈道徳の系譜〉(The Genealogy of Morals)となった。
 ニーチェはこの書物で、何が善かの判断の起源はどうだったかを問題にした。
 彼はこう主張する。「善」の判断は確実に、善が最初に示されたものを起源とはしていない。
 最初の時代の何が善であるかの決定はむしろ、強くて高貴な人々に由来した。彼らは、自分たち自身に役立つように何が善かの判断を行ってきたのだ。
 彼はこう説明する。
 「こう起源を理解する理由は、『善』という言葉は必ずしも『非利己的』な行動と結びついていなかった、ということだ。『非利己的』な行動というのは、道徳の系譜学者が伝えてきた迷信だ。
 反対に、『利己主義』と『非利己主義』の対置が人々の良心の中にますます大きくなったがゆえに、貴族的な価値判断が衰亡している。
 —そうなのだ。私の用語法によれば、そうして最終的にこの言葉を掴み取るのは、〈畜群(herd)の本能〉なのだ。」(注18)//
 (06) 善という語の貴族的な理解が衰亡したことは、ニーチェが古代ギリシャに発見した強い古代の貴族の本能に対する、畜群の本能の勝利を象徴した。
 その貴族的な価値判断は、健全で力強い、肉体的に活発でつねに戦いや強さ試験に備えている人々を想定していた。
 その価値判断は、生と力を肯定することで成立していた。
 時代の推移とともに、畜群、聖職者、そして世界を否定する者たちの道徳に、入れ替わってしまった。//
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 第9節②へと、つづく。

2539/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづきで、最終回。公刊邦訳書は、存在しない。
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 第20章・判決(Judgement)
 第二節②
 (08) ソヴィエト国家の創設者をどう取り扱うべきかに関する合意は、もはや得ることができなかった。
 Yeltsin とロシア正教会は、レーニンの聖廟を閉鎖して彼自身が望んだようにレーニンの遺体をSt. Petersburug のVolkov 墓地の母親の隣に埋葬しようとの呼びかけを支持した。
 しかし、共産党員たちは団結して、これに反対することを明瞭にした。それで、この問題は解決されないままになった。
 Putin は、レーニンを聖廟から移すことに反対だと言い、ソヴィエト国歌についての彼の考え方と同様の理由で、レーニンを聖廟から取り去ることは、ソヴィエト支配の70年のあいだ間違った理想を抱いていたと示唆することになって古い世代の者たちを傷つけるだろう、と言った。//
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 (09) Putin は、彼の体制の最初から、ソヴィエトの歴史における誇りを回復しようと意図した。
 ロシアを大国の一つとして再建設することは、彼の課題(agenda)の重要な一部だった。
 Putin の新政策は、とくにソヴィエト同盟への郷愁(nostalgia)に訴えるときに、人気を博した。
 ソヴィエト連邦の崩壊は、ほとんどのロシア人にとっては屈辱だった。
 数ヶ月のうちに、彼らは全てを失った。全て—安全と社会的保証を与えてくれた経済制度、超大国たる地位をもつ帝国、一つのイデオロギー、学校で教えられたソヴィエト的歴史の見方が形成したナショナルな一体性。
 ロシア人は、グラスノスチの時期に自分たちの国の歴史が泥を塗られたことに憤慨していた。
 彼らには、スターリン時代の自分たちの親族に関する諸問題を問うのを強いられたことが、不愉快だった。
 彼らは、自分たちの歴史がいかに「悪い」ものだったかを語る講釈を聞きたくなかった。
 Putin は、1917年以降の偉業を達成した「大国」の一つだとロシアを再び自己主張することによって、ロシア人がロシア人としてもう一度快い気持ちになることを助けた。//
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 (10) Putin の新政策は学校から始まった。ソヴィエト時代について否定的すぎると見られた教科書は、教育省の同意のもとで拒否され、実質的に教室から排除された。
 2007年、Putin は、歴史の教師たちの会合で、こう語った。
 「我々の歴史にあるいくつかの問題がある部分について言えば、そのとおり、存在した。
 しかし、どの国がそのような問題を持っていないのか?
 我々には、いくつかの他の国に比べて、問題は少なかった。
 我々にあった問題は、他のいくつかの国のようにはおぞましいものではなかった。
 そのとおり、我々にはおぞましい問題があった。1937年に始まった事態を思い出そう、それについて忘れないようにしよう。
 しかし、他の諸国も同様であって、より多くすらあった。
 いずれにせよ、我々は、アメリカ人がヴェトナムで行ったような、数千キロメートル以上にわたって化学薬品を撒いたり、小さな国に第二次大戦全体よりも7倍以上多い爆弾を落としたりすることをしなかった。
 また、ナツィズムのような、その他の暗黒の部分もなかった。
 この種の出来事は、全ての国家の歴史で起きている。
 そして、自分たちが罪を背負わされることを、我々は認めることができない。…」(後注5)
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 (11) Putin はスターリンの罪責を否定しなかった。
 しかし彼は、その点に思いとどまり続けることなく、国の「栄光のソヴィエトの過去」の達成者としてのスターリンの功績とそれのあいだの均衡を考える必要を語った。
 大統領から作成が委ねられ、ロシアの学校で圧倒的に奨励された歴史教育者用の手引書では、スターリンは、「国の近代化を確実にするためにテロル運動の指揮を理性的に行った、有能な管理者(effective manager)」だったと描かれた。(後注6)//
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 (12) 世論調査が示しているのは、ロシア人は革命的暴力に対して当惑させる考え方をもっている、ということだ。
 三都市(St. Petersburg, Kazan, Ulyanovsk)で2007年に実施された調査によると、住民の71パーセントは、チェカの創設者のDzerzhinsky は「公共の秩序と市民生活を守った」と考えていた。
 僅か7パーセントだけが、Dzerzhinsky を「犯罪者で、処刑者だ」と見なしていた。
 その調査が示すさらに当惑させることは、ほとんど全員がスターリンのもとでの大量弾圧について十分によく知っていながら—「1000万人から3000万人までの犠牲者」が被害を受けたとほとんどの者が知っていながら—、回答者の三分の二が、スターリンは国にとって積極的な役割をもった(positiv)と考えていることだった。
 多くの者が、スターリンのもとでの人々は「より優しくて思いやりがあった」とすら考えていた。(後注7)
 数百万人が殺害されたと知っていてすら、ロシア人は、大量の国家的暴力は革命という目標を目指すためには正当化され得る、というボルシェヴィキ思想を、受容し続けているように見える。
 別の調査によると、ロシア国民の42パーセントは「スターリンのような指導者」が再登場するのを望んでいる。(後注8) //
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 (13) 2011年の秋、数百万のロシア人が〈The Court of Time (Sud Vremeni)〉というテレビ番組を観た。そこでは、ロシアの歴史上の多様な人物や事件について、弁護人、証人および陪審員のいる模擬裁判によって判決が下された。陪審員は、電話で投票して評決に達した視聴者たちだった。
 これが下した諸判決は、ロシア人の考え方の変化について大きな希望を与えるものではない。
 農民に対するスターリンの戦争や農業集団化の影響の大惨害に関する証拠が提示されても、視聴者の78パーセントは、集団化はソヴィエトの工業化のために正当化される(「恐ろしい必要」だった)となおも考えており、僅か22パーセントだけがそれは「犯罪」だったと見なした。
 ヒトラー・スターリン協定〔1939年の独ソ不可侵条約—試訳者〕については、91パーセントが必要だったと考えた。僅か9パーセントだけは、それは第二次大戦の勃発に寄与した一要因だったと見なした。
 同じ投票数は、Brezhnev 時代についても記録された。91パーセントが「種々の可能性があったとき」だったと考えた。
 ソヴィエト同盟の瓦解についても、91パーセントが「national な大惨事」という評決に賛成した。//
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 (14) ロシア人が共産主義体制の社会的悪夢と病理から治癒されるには、数十年を要するだろう。
 革命は、政治的には死んでいるかもしれない。しかし革命は、100年の暴力的な一巡りで掃き集められた人々の精神性(mentalities)に余生を見出している。//
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 第二節、終わり。第20章も、終わり。

2538/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
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 第20章・判決(Judgement)。
 第二節①。
 (01) ロシアが必要としたのは、おそらく裁判ではなく、真実と和解に関する委員会だった。それは、アパルトヘイト(apartheid)の犠牲者に公開の聴聞の機会を与え、暴力行使の加害者から恩赦の訴えを聴く、そうした目的のために設置された南アフリカの委員会のようなものだ。
 以前の党官僚の特定のグループを訴追したり禁止したりするのが不適切であれば、公開の聴聞や過去に冒された犯罪に対する国家の謝罪を通じて、ロシア人が自分たちの過去に向き合い、ソヴィエト体制の犠牲者が被った悪夢を認識することが、議論の余地はあるとしても正当で、治療法になっただろう(「復古的正義」)。//
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 (02) 限られたかたちではあるが、この過程はGorbachev のもとでのグラスノスチによって始まっていた。
 抑圧の犠牲者たちは名誉が回復され、氏名を明らかにすることが認められた。
 ソヴィエト・システムの崩壊のあと、Yeltsin には、新しい民主主義と市民社会のために必要だった制度設計の一部として、このシステムを解明する機会があった。
 彼は、この機会を掴まなかった。
 そのための説明の一部は、つぎのように政治的だった。
 KGB の力は強すぎて、その文書資料を公共の調査のために開示するよう強いることができない。憲法裁判所は新しいものなので、民主主義的役割を有効に果たすことができない。Memorial のような公共的団体はその力が依然として弱すぎる。
 そして、西側からは何ら圧力が加えられなかった。西側は、経済の自由化にだけ関心があったのだ。
 しかし、歴史は、一つの説明でもあった。
 ソヴィエトの過去によって、国は二分された。
 革命の歴史に関する合意はなく、nation が真実と和解を探求して統合することのできる、同意された歴史物語もなかった。
 南アフリカでは、アパルトヘイトに対する決定的な道徳的勝利があり、退いた体制の歴史に対して統一した物語を課すことができた。
 しかし、ロシアでは、1991年に、そのような勝利はなかった。
 多くのロシア人が、ソヴィエト同盟の崩壊を、おぞましい敗北だと見た。//
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 (03) 真実と和解は、歴史的判断を意味する。
 しかし、ロシアの人々が自分たちの国の歴史について、どのような評決を下し得ただろうか?
 彼らは、ソヴィエト・システムは世界で最良でないとしても「正常な」(normal)ものだと信じて(少なくともある程度は受容して)自分たちの人生を生きていたのだ。//
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 (04) ナツィ・ドイツとの比較が、ときおり行われた。
 西ドイツは、1945年以降、彼ら自身の近年の歴史に照らして、長くて痛々しい自己点検の作業を行ってきた。
 ナツィ体制は、12年間だけつづいた。
 しかし、ソヴィエト・システムは、四分の三世紀に及んだ。
 1991年までには、ロシアの住民の全体がそのシステムのもとで教育され、そのもとで経歴を積み、彼らの子どもたちを育てた。彼らの人生をソヴィエトの偉業を達成するために捧げたのであり、それは彼ら自身と当然に一体だった。//
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 (05) ロシアの人々は、信念と実践のシステムとしての共産主義を喪失して、混乱した。
 彼らは、道徳的空虚を感じた。
 ある人々にとっては、宗教が空隙を埋めた。
 正教は、マルクス・レーニン主義に代わる既成の選択肢だった。
 正教は、1917年以降に失われたロシア的生活様式との再連結、祖先を抑圧したことについての後悔、ソヴィエト体制に関与してしまった道徳的妥協からの清浄化を提供した。
 別のある人々にとっては、君主制主義が代替物だった。
 1990年代初頭には、ロマノフ家へのロシア人の関心が復活するということがあった。
 国外逃亡していたロマノフ家の子孫が帰ってきて、ロシアが立憲君主制になる、ということが語られた。
 君主制主義者の復活は、ニコライ二世とその家族が1998年7月17日、彼らがボルシェヴィキによって処刑された後ちょうど80年後に、St. Petersburg のPeter & Paul 聖堂に再埋葬されたときに絶頂に達した。
 二年後、皇帝一族は、モスクワの総主教によって聖人とされた。//
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 (06) 歴史で分裂したロシア人は、nation または国家の象徴のまわりで統合することができなかった。
 ロシア帝国の三色旗(白・青・赤)が、ロシア国旗として再び採用された。
 しかし、ナショナリストや君主制主義者たちは帝国軍隊の外套を好み、共産党員たちは赤旗に執着した。
 ソヴィエトの戦時中の国歌は、19世紀の作曲家のMikhail Glinka が作った「愛国歌」に換えられた。
 しかし、この「愛国歌」は人気がなかった。
 この歌はロシアの競技者やサッカー選手を鼓舞せず、彼らの国際舞台での成績はnational な恥辱の原因になった。
 Putin は、2000年に大統領に選出されてすぐ後に、87歳の作家のSergei Mikhailkov が1942年に元の歌詞を書いていた言葉に新たに戻した。
 彼はこの復活を、歴史的な敬意と継続性について語って正当化した。
 彼はこう言った。この国のソヴィエトの過去を否定することは、古い世代の人々から彼らの人生の意味を奪うことになるだろう。
 民主主義者はスターリン時代の国歌の復活に反対した。一方で、共産党員は支持し、ほとんどのロシア人もこの回帰を歓迎した。//
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 (07) 十月革命を記念することも、同様に分裂の元になった。
 Yeltsin は、「対立を消滅させ、異なる社会階層の間に和解を生むために」革命記念日を調和と再和解の日(Day of Accord and Reconciliation)に変更した。
 しかし、共産党員たちは伝統的なソヴィエト的様式で革命記念日を祝いつづけ、多数の党員が旗を掲げてデモ行進をした。
 Putin は、11月4日を国民統合の日として設定することで、対立を解消しようとした(1612年にポーランドによるロシア占領が終わった日)。
 その日は、2005年から公式のカレンダーで11月7日の祝日となった。
 しかし、国民統合の日は、理解されなかった。
 2007年の世論調査によると、住民のわずか4パーセントだけが何のための日かを語ることができた。
 人々の十分の六は、革命記念日がなくなることに反対していた。
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 第二節②へと、つづく。
 

2537/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
 ——
 第20章・判決(Judgement)。
 第一節②。
 (09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
 しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
 ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
 民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。) 
 Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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 (10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
 独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
 実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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 (11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
 おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
 東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
 これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
 彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
 しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
 革命は、ロシアの土壌から成長した。
 数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
 「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
 この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
 Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
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 第一節、終わり。

2536/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章はこの書全体の最終章で、「判決」(Judgemenrt)との表題のもとでソヴィエト連邦の歴史全体についての何らかの判断、評価、論評が書かれているのかとも、予想した。
 だが、そうではなく、主としては1991年崩壊後の(旧ソ連全体についてではなく)ロシアについて、人物としてはYeltsin やPutin らについて、書かれているようだ(当然に判断、評価、論評を含む)。
 この欄での表題を「ソ連崩壊のあと」に変えて、試訳を続ける。
 ロシアの民衆の多数が「社会主義・共産主義」またはソ連共産党支配を拒否したためにソ連が崩壊・解体したわけではない(O・ファイジズによると)、という指摘等は、今日のロシアやプーティン(Putin)について考えるにあたっても興味深い。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」(1997年、〈日本会議〉設立宣言)という宣明は、とくにロシア国民にとっては、どこか的はずれで幼稚だと、改めて思いもする。
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 第20章・判決(Judgement)
 第一節①。
 (01) Yeltsin によるソ連共産党(CPSU)の禁止を、共産党員は争った。
 この事件は、新設されたロシア憲法裁判所の法廷によって1992年7月から審理され、五ヶ月間テレビで放映された。
 これは「ロシアのニュルンベルク」だと喧伝され、共産党に対する政治裁判と同然になったけれども、1945年のナツィス裁判とは違って、犯罪行為を追及される被告人はいなかった。8月の蜂起〔クー〕の指導者たちですら被告人ではなく、彼らは刑務所からすみやかに釈放され、恩赦を受けていた。//
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 (02) Gorbachev は、証人として出廷するのを拒んだ。見せ物裁判で全ての罪責を負わされる(made scaprgoat)のを恐れたのだ。
 彼は、ニュルンベルク裁判との対比を否定した。のちに、〈回想録〉でこう書いた。
 ニュルンベルクでは、「特定の者たちが特定の残虐行為を行ったとして裁かれた。
 しかし、本当に犯罪者として有罪であるソ連共産党の指導者たちはすでに死亡しており、歴史だけが彼らに対して判決を下すことができる。」(後注1)
 だとすれば、これはいかなる性格の裁判なのか?//
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 (03) Yeltsin の法的チームは、ソ連共産党は正当(proper)な政党ではなく犯罪組織だったと主張すべく、60人以上の専門家の宣誓証言に支えられて、十月革命の歴史の全体に及ぶ36巻の文書資料を作成した。
 スターリンのテロルの犠牲者の一人だったLav Razgon は、収容所で死亡した人々の数の正確な計算を嘆願した。
 他の者たちは、スターリン後の時代の反対派や僧職者を追及すべく証言した。
 共産党員たちは、党の歴史について自分たちの見方を述べ、ソヴィエトの工業化の達成、1945年の勝利、スプートニク宇宙計画を強調した。//
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 (04) 法廷は、ソヴィエトの歴史について判断する権能を自分たちは有しないと声明し、妥協的な評決に達した。Yeltsin によるソ連共産党の禁止を肯認し、一方で共産党員がロシアで党を再建することを許容した。
 ロシア連邦共産党は、法廷での審理直後の1992年11月30日に設立された。
 1993年3月までに、ロシア連邦共産党は、50万人以上の登録党員をもち、ロシアの新しい「民主政」のもとで他をはるかに凌ぐ最大の政党になった。//
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 (05) 党の歴史に関して、いかなる判決を下すことができたのか?
 党の「犯罪」の記録について、いったい誰が評決を下す法的または道徳的な権利を有したのか? 
 ニュルンベルクでは、罰せられるべき明らかな戦争犯罪があり、国際法のもとで裁判権をもつ軍事的勝利者がいた。
 しかし、以前のソヴィエト同盟を裁く司法権をもつ解放勢力は存在しなかった。
 憲法裁判所は、そのような高度の権能を担える立場にはなかった。
 13名の裁判官のうち12名は、かつては共産党員だった。
 彼らは誰に対して判決を下すことができたのか?
 新しいロシア憲法は、ようやく1993年2月に採択された。このことは、党にその政策を実施するほとんど無審査の権力を付与していたBrezhnev の憲法に従って、彼らは法的決定を下す必要があることを意味した。//
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 (06) いったい誰に、判決が下されなければならなかったのか?
 Gorbachev にか?
 党指導部にか? KGB にか?
 あるいは、ソヴィエト・システムを動かしてきた数百万の幹部党員、警察官、監視兵たちにか?
 Yeltsin は大統領布告で、個々の共産党員が党の犯罪について責任を取らされてはならない、と述べた(彼は疑いなく、1976年と1985年のあいだはSverdlovsk の共産党の長だった自分の経歴について、多くを回答できたはずだった)。
 裁判途中にあったテレビ・インタビューで、この穏健な考え方の意味がつぎのように明らかにされた。
 「おそらく我々は、1917年以降初めて、言ってみれば、復讐という過程を開始しなかった。
 そうするのをロシアが抑制した、ということが重要だ。分かるだろう。」(後注2)//
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 (07) 法廷もまた、妥協案に達したとき、ナショナルな統合と和解の必要を考えていた。
 座長が事情聴取の開始に際して述べたように、「当事者が法廷のどちらの側に座っていようとも、白軍と赤軍が行ったように互いに破壊し合うのではなく、のちには一緒に生きていかなければならない」のだった。(後注3)//
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 (08) こうした宥和的な姿勢の結果として、ソヴィエト体制による人権侵害について、誰に対しても正義(justice)が行われなかった。
 従前のKGB やロシアの共産党の官僚に対しては、いかなる訴追も行われなかった。これは、以前のソヴィエト連邦のその他の諸国、とくにエストニアやラトヴィアと異なっていた。これら諸国では、1940年代に大量の逮捕やバルト諸国からソヴィエトの収容所への強制移送を実行した元NKVD職員に対して、明確な意思をもつ審判が行われた。
 東ヨーロッパやバルト諸国にあったような、犯罪に加担した者たちを暴き、上級官職から排除する、浄化(lustration)の法制も政策もロシアにはなかった。//
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 第一節②へと、つづく。

2535/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第六節。
 (01) ソヴィエト同盟の崩壊は、完全な革命ではなかった。
 Gorbachev の改革によって社会は活性化し、政治化したけれども、ソヴェト体制が瓦解したのは、Gorbachev の改革努力によってではなかった。
 かりに今後に歴史が何かを明らかにするとすれば、ロシアにおける長年にわたる民主主義の弱さだ。—民衆が現実的な変化を達成することができないこと。//
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 (02) Gorbachev は自分の挫折を導いた諸事態の鍵となる登場人物だった。
 改革を通じてソヴィエト同盟を救おうとする元来の計画から判断すると、彼は失敗する運命にあったに違いない。
 しかし、彼の意図は自分の見解が進展するにつれて変化し、この期間に多数のことを達成したと評価されるべきだ。とりわけ、ロシアに民主主義の基礎を築いたこと、ソヴィエトの支配からnationsを解放したこと、冷戦を終結させたことで。
 おそらく彼の主要な功績は、ボルシェヴィキが平和的に権力を放棄する舵取りをしたことだ。ボルシェヴィキの権力は、ほとんど4分の3世紀のあいだ、テロルと強制力に依拠していた。
 Gorbachev は、内戦や大きな暴力なくして、ボルシェヴィキの独裁を廃止することができた。これは容易ならない可能性しかなかったことで、これゆえにこそ、彼は現代史上の偉大な人物の一人だという、西側での彼の評価と地位に値する。
 出発したとき、革命を終わらせることは、彼の意図ではなかった。
 Gorbachev は、レーニン主義者として、ソヴィエト・システムを改革することで社会主義を建設するのは可能だと信じていた。
 彼は後年には、共産主義から民主政への行路を指揮するのがつねに自分の計画だという、異なる考えを抱くことになった。
 しかし、真実を言えば、彼は政治上のコロンブスだった。約束された土地を見出すべく出発したが、別の異なる土地を発見したのだ。//
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 (03) 成功した革命かに関しては、政治的エリートを交替させたかが本当の検査対象になる。
 大まかには、これは東欧の諸革命が実現したことだった。
 しかし、ロシアでは、1991年の事件の結果として多くの変化があったのではなかった。
 Yeltsin 政権は、共産主義体制の権力悪用に加担したり高位の職にとどまり続けたりした役人たちを暴いた東ヨーロッパの多くと比べると、浄化するための法制を何ら作らなかった。
 政治家や成功した事業家の大部分は、Yeltsin のロシアでは、ソヴィエト・ノメンクラトゥーラ(nomenklatura)(党指導者、議会議員、工場管理者、等々)の一部だった。 
 Yeltsin の大統領府の4分の3の職、ロシア政府のほとんど4分の3の職が、1999年時点での従前のノメンクラトゥーラ構成員でもって占められていた。
 地域政府では、その割合は80パーセントを超えた。半分以上が、Brezhnev のもとでのノメンクラトゥーラの一員だった。//
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 (04) 1990年代のビジネス・エリートたちも、以前のソヴィエトや党の官僚の出身だった。
 Gorbachev 時代の法的混乱によって、彼らは国有資産を私的な財産に変更することができた。
 1986年以降、コムソモール(Komsomols,共産主義青年同盟)は商業取引をすることを法的に認められ(輸出入業、店舗、そして銀行すら)、書類上の収益を流動的現金に変えた。
 これは、Mendeleev 化学・技術研究所にいるコムソモールの役員から最初の民間銀行の一つのMenamap の総裁になるという、Mikhail Khodorkovsky が歩んだ途だった。
 役員たちは、裕福になった。西側企業との共同事業を立ち上げることにより、またロシアでの銀行市場での現金取引から個人的利潤を得るべく外国債権を用いることにより。
 1987年から、ソヴィエトの公務員は国有資産を購入し始めた。これは、残りの民衆が国有資産から何がしかの分配を受け取ったときよりも、ずっと前のことだった。
 諸省庁は商業化し、一部は上級官僚が営む事業体として経営された。彼らは、自分たちが管理してきた資産を最低価格で自分たちに売った。 
 工場と銀行は、同じように売り払われた。//
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 (05) ソヴィエト・システムの崩壊は、ロシアの富や権力の配分を民主主義化しなかった。
 1991年のあと、ロシア人は、何も大きくは変わらなかったと考えるのを許されてきた。少なくとも、良い方向には変わらなかったと考えるのを。
 疑いなく、ロシア人の多くは、1917年の後と多くは同じことだと思っていた。//
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 第六節、終わり。第19章も終わり。第20章(書物全体の最終章。表題は<Judgement>)へと進むかは未定。

2534/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第五節。
 (01) Gorbachev は、党の一体性を維持することで、1991年のソヴィエト体制の崩壊とともに滅びることを自ら確実にした。
 その崩壊は、1989年に東ヨーロッパでの革命とともに、ソヴィエト帝国の外縁部で始まった。
 モスクワからの軍事的支援がないままで、東ヨーロッパの共産党体制は、民主主義運動に抵抗することができなかった。その運動は、共産党に権力から去ることを要求し、新しい指導者たちを選んだ/
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 (02) ポーランドでは、大衆ストライキと抗議運動によって共産主義者は連帯(Soridarity)との円卓会談を行うことを余儀なくされ、1989年6月に政府が確信を持てない議会での投票と自由選挙に準じたものが行われた。その選挙で連帯は、候補者を立てることが認められた全ての議席を総占めする勝利をかち得た。
 共産主義者の権威は傷ついた。
 Jaruzelski が大統領として返り咲き、連帯の活動家のTadeusz Mazowiecki が首相になった。これは1989年9月のことで、この40年間で東ヨーロッパでは最初の非共産党政権だった。//
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 (03) ハンガリーでは、共産党は自分たちの権力の放棄について民主主義フォーラムの活動家たちと交渉した。後者は新しい議会を構成する複数政党選挙で、最大多数の票を獲得した。
 ハンガリー革命は、ベルリンの壁の崩壊と東ドイツ(GDR)の共産主義体制の瓦解につながった。
 ハンガリーがその国境をオーストリアに開いて数千の東ドイツ人が西側に旅行することを認めたとき、危機が始まった。
 出国(exodus)を食い止めようとする試みは、とくにLeipzig〔当時、東ドイツ〕で大衆的抗議を生み、政府への圧力となった。
 アメリカ合衆国のテレビによって語って、市民は自由に出国しているという印象を政治局の報道官が与えた。—これは、東側で観られていた西ドイツのテレビ局が取り上げた物語だった。
 壁が開いていると考えて、東ドイツの数万の市民たちが、11月9日から国境に到着した。
 政府からの明確な指示がないまま、監視兵は、彼らを西側へと通過させた。
 壁は、壊れた。//
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 (04) チェコスロヴァキアでは、ベルリンの壁の崩壊は、Václav Havel その他の老練な反体制者たちが組織した市民フォーラム(the Civic Forum)が主導した広汎な抗議運動を呼び起こした。
 11月25日までに、80万人の抗議者がプラハの街頭に出現した。
 その二日後、ゼネ・ストに住民の4分の3が加わった。
 共産党体制は自由選挙について譲歩し、権力を手放した。そして、12月29日の連邦議会の満場一致の票決によって、Havel が大統領となった。//
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 (05) 東欧革命は、ソヴィエト同盟内部でのナショナリストの運動に油を注いだ。
 バルト諸nations は、最初に独立を求めた。それに、ジョージア、アルメニア、および実質的にはウクライナとモルダヴィアの地域が、続いた。
 より遅く反応したのは中央アジア諸共和国で、そこではエリート層はソヴィエト・システムに依存しており、民衆が選択するのはIslamic になりそうだった。//
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 (06) Gorbachev の改革は、二つの態様でナショナリスト運動が勃興する条件を生んだ。
 第一に、彼が1990年3月にソヴィエト大統領という新しく作った地位に就任したことは、共和国の指導者たちが自分たちの権力基盤を形成する先例となった。
 1991年6月にYeltsin がロシア共和国の大統領に選出されたことは、ロシア共和国内部では、選出されていないソヴィエト大統領よりも強い権威をYeltsin に与えた。
 第二に、各共和国の最高ソヴェトについての競争選挙の導入によって、ナショナリストはこの最高の議会を統制して、モスクワからの独立を宣言するために利用することができるようになった。
 バルト諸国では、ナショナリストが1990年の選挙で圧倒的な勝利を獲得した。
 この諸国では、共産党は圧力のもとで分裂し、主権をもつことに賛成する党派としてソ連共産党を脱退し、ナショナリストの票を求めて競い合った。//
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 (07) 警察による弾圧も、ジョージアとバルト諸国での独立運動を盛んにさせた。
 Tbilisi 〔ジョージアの首都〕では、ソヴィエトの警察によって1989年4月に、19人のデモ参加者が殺害され、数百人が重傷を負った。
 リトアニアとラトヴィアでは、1991年1月の弾圧によって、17人が殺害され、数百人が負傷した。
 こうした弾圧は大部分は、KGB や軍部にいる共産党の強硬派が主導していた。彼らは、ナショナリストの暴力的反応を挑発しようとしていた。そうなれば、ソヴィエト同盟の瓦解を阻止すべく非常事態宣告の議論をするために用いることができた。
 Gorbachev は、これに抵抗して党を分裂させる危険を冒さずに、強硬派に譲歩し、Boris Pugo を内務大臣に、Gennady Yanaev をソヴィエトの副大統領に任命した。//
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 (08) Gorbachev は、ソヴィエト同盟を再構築しようとする彼の計画のためには、彼らの支持を必要とした。
 彼は、各共和国が国民投票を経て合意するならば、新しい同盟条約について交渉しようと提案した。
 ソヴィエト同盟を一緒に守る連邦構造に合意したかったのだが、彼はそれを力でもって維持するのは間違っていると考えた。
 Gorbachev は、レーニンのように、ソヴィエト同盟は自発的な意思にもとづく同盟として存続し得ると信じた。//
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 (09) 六つの共和国は、完全にソヴィエト同盟から離脱する決意をもち、この国民投票を拒否した(ジョージア、アルメニア、モルダヴィア、バルト三国)。
 他の九共和国では、1991年3月17日の国民投票で、人口の76パーセントがソヴィエト同盟の連邦構造の維持に賛成する票を投じた。
 条約草案がソヴィエト政府と九共和国の指導者たちの間で交渉された(「9+1」合意)。そして、モスクワ近郊のNovo-Ogarevo で署名された。
 この交渉で、Yeltsin(ロシア大統領に選出されたあと、強い立場だった)とLeonid Kravchuk(ナショナリストに変身してウクライナの大統領になるのを狙っていた)は、ソヴィエト大統領から各共和国へと、従前はクレムリンにあった多数の権能を抜き出していた。//
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 (10) 8月までに、九のうち八共和国が、条約草案に同意した。—唯一の例外はウクライナで、1990年の国家主権の宣言を基礎にする同盟に投票した。
 この条約草案は、ソヴィエト連邦を、ヨーロッパ同盟に似ていなくはない、独立国家の連邦に転換していただろう。単一の大統領、単一の外交政策、単一の軍事兵力をもつけれども。
 条約は、ソヴィエト連邦をソヴェト主権共和国同盟と改称していただろう(「社会主義」の箇所が「主権」に変わる)。
 〔1991年〕8月4日、Gorbachev はクリミアのForos で休日を過ごすべくモスクワを発った。8月20日には、新しい同盟条約に署名するために首都に帰還するつもりだった。//
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 (11) 条約は同盟を救うことを意図していたけれども、強硬派は同盟の瓦解を促進することを恐れた。
 強硬派は、行動するときだと決断した。
 8月18日、陰謀者の派遣団がForosu へ急いで行って、非常事態の宣言をすることを要求した。そしてGorbachev が最後通告を拒んだとき、彼らはGorbachev を建物内に拘禁した。
 モスクワでは、自ら任じた国家非常事態委員会が、権力を掌握したと宣言した(これに加わっていたのは、ソヴィエト首相のValentin Pavlov、KGB 長官のVladimir Kruchkov、国防大臣のDmitry Yazov の他に、Yanaev、Pugo ら)。
 疲れていると見えたYanaev 〔Gorbachev 任命の副大統領〕は、両手をアルコール症的に震わせながら、世界のプレスに対して、自分が大統領職を奪取していると、不確かに発表した。//
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 (12) 国家転覆者たちは、ためらいが過ぎて、成功する現実的な可能性を持たなかった。
 おそらくは、最後までシステムを守るに必要な手段を奪うという意思を、彼らすら有していなかった。
 彼らはYeltsin を拘束することができなかった。Yeltsin はホワイト・ハウスへ、ロシア議会(最高ソヴェト)の所在地へ、向かった。そこで彼は。クー・デタに対抗する民主主義防衛隊を組織することになる。 
 国家転覆者たちは、クーへの抵抗を抑止するためにモスクワに持ち込んだ戦車部隊に対して、決定的な命令を発することができなかった。
 いずれにせよ、彼らの味方である上級の軍司令官たちの間にも分かれがあった。 
 ホワイト・ハウスの外側に駐留していたTamanskaya 分団は、Yeltsin に対する忠誠を宣言した。彼は、戦車の一つの上に登って、群衆に向かって呼びかけた。
 流血の事態は起こらないまま、この時点以降は、転覆者たちがホワイト・ハウス攻撃に成功するのは不可能になった。
 だが、彼らは、闘う気分をそもそも持っていなかった。//
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 (13) クーはすみやかに終わった。
 8月22日に、その指導者たちが逮捕された。
 Gorbachev は、首都に戻った。
 しかし、1917年8月のKornilov 陰謀事件の後のケレンスキーのように、Gorbachev は自分の地位が侵食されていることを知った。
 クーは共産党への信頼を大きく傷つけ、主導権を、ロシア共和国大統領で「民主主義の守り手」のYeltsin へ移した。 
 Yeltsin は、8月23日に、クーでのソ連共産党の役割を調査するあいだ同党の活動を停止する布令を発した。
 その日の夜半、群衆が、Lubianka のKGB本部建物の外側にある、チェカ創設者・Dzerzhinsky の立像を倒壊させた。
 翌日、Gorbachev は、ソ連共産党総書記を辞任した。
 8月25日、ソ連共産党の財産は、全ての文書資料と銀行口座も含めて、ロシア(共和国)政府が掌握した。//
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 (14) 〔1991年〕11月6日、Yeltsin は、ロシアでのソ連共産党を禁止した。
 その布令は、法技術的には、ロシアの大統領の権限を超えている点で違法だった。
 しかし、Yeltsin は、歴史的根拠を理由として正当化した。「ソヴィエト同盟の人民が追いやられた歴史的苦境(cul-de-sac)と、我々が到達している解体状態に対して」その党には責任がある、と宣告したのだ。(後注8)//
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 (15) Gorbachev は、同盟条約の交渉をなおも再開したかった。
 しかし、Yeltsin はそれに反対した。ソヴィエト同盟の解体はロシアにとっての勝利だと見たのだ。一方で、その他の共和国、とくにウクライナは、その潜在的な抑圧の力がクーによって暴露されたモスクワとの同盟には、どのようなものであれ警戒するようになっていた。
 Novo-Ogarevo 会談が11月に再び始まったとき、Yeltsin とKravchuk〔ウクライナ〕 は、ソヴィエト政府からのいっそうの譲歩を要求した。
 まるでソヴィエト連邦が主権国家同盟へと変わるように見えた。
 しかし、12月1日に、独立に賛成するウクライナの一票が、ソヴィエトという国家の船に巨大な穴を吹き込んだ。
 一週間後、Yeltsin、Kravchuk とべラルーシの指導者のStanilav Shushkevich は、ベラルーシで会って、ソヴィエト同盟の解体を発表した。
 独立国家共同体(Commomwealth of Independent States, CIS)がこれにとって代わることになる。//
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 (16) 実質的には、三つの共和国の指導者たち(Yeltsin、Kravchuk、Shushkevich)による、ソヴィエト連邦から離脱して自分たちのnational な政権を樹立しようとするクー・デタだった。
 クリスマスの日にクレムリンからテレビで放映された別れの演説で、Gorbachev は、ソヴィエト同盟の廃止を支持することはできない、なぜなら憲法上の手続でまたは民主主義的な民衆の投票で承認されていないのだから、と宣言した。
 世論は〔「共同体」ではなく〕同盟を支持していた。
 ソヴィエト同盟を終焉させたのは、指導者とエリートたちだった。//
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 第五節、終わり。

2533/O.ファイジズ・ソ連崩壊④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第四節。
 (01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
 社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
 Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
 ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
 彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。 
 Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
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 (02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
 在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
 彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
 国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
 競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
 レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
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 (03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
 政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
 彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
 何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
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 (04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
 1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
 これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
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 (05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
 5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
 議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
 Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
 彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
 彼は7月2日にテレビでこう表明した。
 「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
 政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
 ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
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 (06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
 レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
 このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
 Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
 このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
 ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
 政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
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 第四節、終わり。

2532/O.ファイジズ・ソ連崩壊③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ
 第三節。
 (01) グラスノスチ(glasnost、情報公開)は、Gorbachev の改革の中の本当に革命的な要素で、システムをイデオロギー的に解体する手段だった。
 ソヴィエト指導者は政府に透明性を与え、改革に反対するBrezhnev 保守派たちの力を削ぐことを意図した。 
 グラスノスチの初期の呼びかけは、1986年4月のChernobyl 原発事故—史上最悪でヨーロッパの多くに影響を与えた—のはずべき隠蔽によって強化された。
 しかし、glasnost の影響は、Gorbachev の統制を超えて急速に大きくなった。//
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 (02) 検閲を緩和した glasnost は、党はマスメディアを掌握できないことを意味した。マスメディアは、従前は政府が隠していた社会的諸問題を暴露し(劣悪な住居、犯罪、生態学的破綻、等)。それによってソヴィエト・システムへの民衆の確信を掘り崩した。//
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 (03) ソヴィエト史に関する暴露も、同様の効果をもった。
 次から次に、システムを正当化する神話は、新たに公にされた文書や外国で翻訳されて出版された書物で明らかになった暗い事実だとして、攻撃に晒された。その神話とは、資本主義社会に対する物質的かつ道徳的優位、ナツィズムを打倒したという名誉、集団化と五ヵ年計画による国の近代化、大衆を基にした1917年10月の革命による創設、といったものだ。
 メディアは毎日、この国の暴力的歴史の「黒点」が多数つまった暴露を掲載した。大量テロル、集団化、飢饉、Katyn の虐殺の詳細。グラク(強制収容所)の恐怖、偉大な愛国戦争でのソヴィエト兵の生命の無謀な浪費の全容。
 これらは、ウソと半分真実が混じったものとして、こうした事件の公式の記録を暴露することによって、体制の信頼性と権威を揺るがせた。//
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 (04) 人々の信頼は政府から離反していった。—その多くは、こうした真実を暴露したメディアに原因があった。
 最も大胆な新聞や雑誌は、途方もなく売れた。
 〈Argumenty i fakty〉(論争と事実)の週間予約購読者数は、1886年から1990年のあいだに、200万から3300万に増えた。この週刊誌はプロパガンダ機関であることをやめ、かつて秘密だった事実やソヴィエトの生活についての批判的見解を伝えるソースになった。
 毎金曜日の夜に、数千万人の若者たちが、〈Vzglyad〉(View)という番組を観た。この番組は、ソヴィエトの検閲による制約はもちろん、個人的好みの限界をも無視して、今日的問題に関するテレビ編集、インタビュー、歴史の探索に突進した(やがて1991年1月に禁止された)。//
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 (05) Glasnost は、社会を政治化した。
 独立の公共的団体が結成された。
 1989年3月までに、ソヴィエト同盟には6万の「非公式の」グループやクラブがあった。
 これらは、街頭で集会を開き、デモ行進に参加した。多くは、政治改革、市民の権利、ソヴェト諸共和国や地域の民族的独立性、あるいは共産党による権力独占の廃止を呼びかけるものだった。
 大都市では、1917年の革命的雰囲気が蘇ってきていた。//
 ——
 第三節、終わり。

2531/O.ファイジズ・ソ連崩壊②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第二節。
 (01) Gorbachev は、レーニン主義の理想から始めた。
 脱スターリン化の基本方針がその政治的発展の契機となったKhrushcev のように、Gorbachev は、「レーニンへの回帰」の可能性を信じた。
 他の指導者たちはソヴィエト国家の創設者に口先だけの賛辞を寄せた一方で、Gorbachev は、レーニン思想は彼が直面している革命的挑戦にとつてなお意味があると信じて、レーニンを真剣に考察した。
 彼は、遺言のレーニンに共感していた。—レーニンが最後に書いたもので、NEP での市場への譲歩の問題に取り組み、内戦で間違った革命の是正には民主主義がより多く必要だとしていた。—彼は、レーニンが考えたことに対応するものを見た。それを60年後に仕立て直さなければならなかったのだ。
 ソヴィエトの民衆と政治的エリートに皮肉な見方が大きくなっているときに、Gorbachev は楽観的なままであり、仕組みを改革する可能性を純粋に信じていた。
 彼は、レーニンの革命を道徳的かつ政治的な刷新を通じて作動させることができると、真摯に考えた。
 この意味で、Gorbachev は、最後のボルシェヴィキだった。//
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 (02) 改革への彼の理想主義的信念を最もよく示す例は、彼が最初にしたことだ。すなわち、1985年4月の布令によって発表された、反アルコール決定。これによってウオッカの価格は3倍になり、ワインとビールの生産は4分の3に減った。
 「ウオッカで共産主義を建設することはできない」と、Gorbachev は言った。
 のちに彼が認めたように、この初期の段階での彼の思考のいくつかは「ナイーヴでユートピア的だった」。(後注2)
 アルコール依存症者たちは、この政策に妨げられることなく、安くて危険な密造酒を闇市場で購入し(砂糖が突然に店舗から消えた)、またはオーデコロンや化粧水を飲んだ。
 国家はウオッカ販売による貴重な収入源を、1985年の総額の17パーセント失い、消費用物品や食料を輸入する力を減らした。それで、購入や飲食を減らした人々は、不満を募らせることになった。//
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 (03) Gorbachev は、党内指導層に改革を支持する多数派をもたず、Khrushcev が辿った運命を回避するためには慎重に事を進める必要があると意識していた。
 1985-86年、彼は経済の「迅速化」(〈uskorenie〉)だけを語った。これは、アルコール禁止にふさわしく、紀律を強化し、生産性を向上させるAndropov の方法を模倣したものだった。
 1987年1月の中央委員会総会でようやく、Gorbachev は、そのペレストロイカ(perestroika)政策の開始を発表し、それは指令経済と政治制度の急進的な再構築という「革命」だと表現した。
 Gorbachev は、自分の大胆な決定を正統化するためにボルシェヴィキの伝統を援用し、つぎの威厳ある言葉で演説を締め括った。
 「我々は懐疑者にすらこう言わせたい。そのとおり、ボルシェヴィキは何でも行うことができる。そのとおり、真実はボルシェヴィキの側にある。そのとおり、社会主義は人間のために、人間の社会的経済的利益とその精神的な向上に奉仕するシステムだ。」(後注3)
 これは、新しい1917年10月の主意主義(voluntarist)の精神だった。//
 ----
 (04) 経済的には、perestroika はNEP と多く共通していた。
 perestroika は、市場メカニズムによって計画経済の構造に対して生産の刺激と消費者の需要の充足を加えることができる、という願望に満ちた想定に依存していた。
 賃金や価格に対する国家統制は、1987年の国家企業体に関する法律によって緩和された。
 協同組合は1988年に合法化され、カフェ、レストラン、小店舗や売店が急に出現することになった。たいていの店でウオッカや(今や再び合法化された)、タバコ、外国から輸入したポルノ・ビデオが売られた。
 しかし、こうした手段では、食糧やより重要な家庭商品の不足を沈静化することができなかった。
 インフレが大きくなり、賃金と価格の統制の緩和によって悪化した。
 計画経済の廃止によってのみ、危機は解消され得ただろう。
 しかし、イデオロギー的に、それは1989年までは不可能だった。その年にGorbachev は、ソヴェト型の思考から決裂し始めた。そして、さらに急進的に1990年8月に合法化し、そのときに、市場にもとづく経済への移行に関する500日計画が、ついに最高ソヴェトによって導入された。
 しかし、そのときまでにすでに、経済の破綻を抑えるには遅すぎた。//
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 (05) Gorbachev は、社会主義的思考での「革命」だとしてperestroika を提示し、—彼自身の理想化した読み方によった—レーニンの言葉で、絶えずそれを正当化した。
 彼は、公務員の本当の選挙を伴う、政府でのさらなる「民主主義」を呼びかけ、従前はタブーの言葉だった「多元主義」について語り、党に対してその創設者の「社会主義的人間中心主義」への回帰を迫った。
 「Perestroika の意図は、理論的および実践的観点からするレーニンの社会主義の観念を、完全に復活させることだ」と、Gorbachev は、十月革命70周年記念集会で宣言した。(後注4)
 この「人間中心主義」や「民主主義」は、レーニンの理論や実践には、ほとんど見出され得ないものだったけれども。
 しかし、Gorbachev は、その改革への党指導層の支持を望むならば、レーニンの名を引き合いに出す必要があった。//
 ----
 (06) 外交政策でこの「新しい思考」が意味したのは、階級闘争という冷戦に関する党の理論的枠組を放棄して「普遍的な人間の価値」の増進に代える、ということだった。
 このことは、ソヴィエト経済の利益を無視することにつながる、より実践的で「常識的」接近を含んでいた。
 また、Brezhnev(ブレジネフ・)ドクトリンを放棄するという意味も包含していた。
 Gorbachev は、東ヨーロッパの共産党指導者たちに、今や彼ら自身の判断で生きるべきことを完全に明瞭にした。
 彼らがその民衆の支持を獲得できなくとも、モスクワは助けるために介入するつもりはない、ということを。
 民衆の支持は東欧の共産党指導者たちが自分たちでperestroika を行なってかち取ることを、Gorbachev は望んだ。
 ——
 第二節、終わり。
 

2530/O.ファイジズ・ソ連崩壊①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 この書物の章順の表題は、つぎのとおり。
 01/出発、02/「舞台げいこ」、03/最後の望み、04/戦争と革命、05/二月革命、06/レーニンの革命、07/内戦とソヴィエト体制の形成、08/レーニン・トロツキー・スターリン、09/革命の黄金期?、10/大きな分岐、11/スターリンの危機、12/退却する共産主義?、13/大テロル、14/革命の輸出、15/戦争と革命、16/革命と冷戦、17/終わりの始まり、18/成熟した社会主義、19/最後のボルシェヴィキ、20/判決。
 これらのうち、「ソ連解体」期に関する19章・20章を試訳してみる。なお、18章はスターリンの死から始まっているようだ。
 書名は「革命的ロシア-1891〜1991」であって「ソ連史」ではないが、大まかには前史を含む<ソ連史>だろう。
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution (1996, Memorial Edition 2017)という「ロシア革命史」の書物もあり、この欄で一部の試訳を掲載しているが、これとは別の書物。
 各章内の節分けはないが、一行の横線を引いた明確な区分けがあるので、便宜的に各「節」の区切りとして扱う。一行ごとに改行し、段落の初めに元来はない数字番号を付す。
 —— 
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第一節。
 (01) ソヴィエト体制が突然に終焉するとは、誰も想定していなかった。
 たいていの革命は、轟音ではなく嗚咽とともに死ぬ。
 1989年〜1991年の事態は一つの革命だと、ある人々は言う。
 これは全く正しくはない。
 しかし、体制が崩壊した速さに誰もが驚いたために、革命という名をかち得たのだろう。//
 ----
 (02) 1985年、ソヴィエト同盟はどの国家とも同様に永続的なものに見えた。
 Gorbachev が解決しようとした諸問題のどれも、ソヴィエト体制の存在そのものを脅かしたのではなかった。
 経済は停滞していて、年間成長率は1パーセント以下で、生活水準は西側よりも大きく遅れており、石油価格の急激な下降(1980年価格の3分の1)は、体制の財政に大きな打撃を与えた。
 しかし、事態は、ソヴィエトの歴史上で政治的にもっと不安定だった時期よりもはるかに悪かった。
 人々は物不足に慣れるに至っていて、大衆的な抗議の兆しはなかった。
 体制は、改革しなくとも数年間は踏ん張っていけただろう。
 貧しい生活水準が長く続いても何とか切り抜けた独裁制の例は、豊富にあった。
 それらの多くは、ソヴィエト同盟が1980年代に経験したよりもはるかに悪い経済的環境の中でも生き抜いた。//
 ----
 (03) 軍事予算は重荷になっていて、Reagan のSDI〔戦略防衛構想〕の開始とともにいっそう大きくなり始めた。
 東ヨーロッパの共産主義体制を安い石油と食糧で支援する費用は、やはり深刻な課題だった。
 クレムリンは、ポーランドの1980年危機に対処するためだけに、40億ドルを費やす必要があった。その年、大衆的ストは<連帯>という反対派運動に発展し、Jaruzelsky 政府による戒厳令の施行を強いることとなった。
 しかし、1985年までに、連帯運動は息切れがしたように見え、ソヴィエト帝国は安全だと思えた。//
 ----
 (04) ソヴィエト体制が完全に崩壊した速さを説明するために必要なのは、ソヴィエト同盟の構造的問題にではなく、体制がその頂点から解きほどけていった態様に、目を向けることだ。
 仕組みを急進的に再構成する、切迫した必要性はなかった。
 「危機」があったとすれば、ソヴィエトの現実とソヴィエトの社会主義の理想との間に分裂が大きくなっていることに危機を感じとる、Gorbachev やその他の改革者たちの心理(the mind)の中にあった。
 現実の危機を惹き起こしたのは、Gorbachev の改革だった。すなわち、党の権力と権威の解体。
 観念上の革命が開始されたのは、グラスノスチ(glasnost、情報公開)が人々に体制を疑問視して代替の選択肢を要求するのを認めたことによってだった。
 18世紀のフランスの旧体制についてTocqueville が書いたように、「悪い政府にとつて最も危険な瞬間は、政府が改革を始めるときだ。…。辛抱強く我慢するのが長いほど、政府は矯正不能に見え、人々がいったん政府を排除する可能性を意識すれば、不満は耐え難いものになってしまう」。//
 ——
 第一節、終わり。

2529/池田信夫グログ027—ウクライナ問題と八幡和郎。

  池田信夫のつぎの主張は、細かな点に立ち入らないが、しごく穏当なものだ、と思う。Agora 2022.04.05。
 「いま日本人にできることはほとんどないが、せめてやるべきことは、戦っているウクライナ人の後ろから弾を撃たず、経済制裁でロシアに撤兵の圧力をかけることだ。それは中国の軍事的冒険の抑止にもなる。八幡さんのような『近所との無用な摩擦は避ける』という事なかれ主義は有害である。」
 --------
  これに対し、八幡和郎の書いていることは問題が多い。
 A・八幡和郎/Agora 2022.04.03「トルコ仲介の期待と戦争を終わらせたくない英米の迷走」。
 B・八幡和郎/Agora 2022.04.04「国際法・国連決議・軍事力より外交力が平和の決め手」。
  八幡の心底にあるのは、親アメリカ・親EU(またはNATO)立場を明瞭に語りたくない、語ってはならない、という心情だろう。
 上のAに「ロシア憎しで感情的にな」るのはいけない旨があるが、八幡によると、「感情的に」親ウクライナ=親EU(またはNATO)・親アメリカになってもいけないのだろう。
 ここで八幡が持ち込んでいるのは、「歴史観」や「価値観」だ。
 A①「制裁に反対しているのではない。欧米との同盟のために付き合えばいいが、歴史観などには独自の立場をとり、仲裁に乗り出すべきだと主張している」。
 「歴史観などには独自の立場をとり」という部分でうかがえるのは、親ウクライナ=親欧米の立場を支持すると、まるでアメリカやヨーロッパの「歴史観」をまるごと支持しているかのごとき印象を与える、という日本ナショナリストとしての「怯え」だ。
 B①「普遍的的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく同盟がめざされたのだが、これは、日本外交の指針であり、それが、とくに対中国包囲網の基本理念になっているということであって、それを超えて普遍的にひとつの同盟を形成するものではないし、アメリカ的な自由経済が正義だというのも世界で広く認められているわけでない」。
 この部分も面白い。「価値観」外交は対中国の理念であって「普遍的にひとつの同盟」を形成しようというものではない、とわざわざ書いている。さらに余計に、「アメリカ的な自由経済」に批判的な口吻すら漂わせる。
 「普遍的価値」を文字通りに共有はしていない(そのとおりだと秋月も思うが)のだから、「普遍的価値」でアメリカやヨーロッパと日本は「一体」だ、という印象を八幡は与えたくないのだろう。それを八幡は「怯え」ているのだ。
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  八幡和郎の思考方法は歪んでいる、適切ではない、と思われる。
 「歴史観」や「普遍的価値観」等を持ち出してはいけない。これらは、今次の問題を論評するにあたって、ほとんど何の関係もない。 
 端的に言って、今回の事案の争点は、当初によく言われたように、<力による現状変更>は許されるか、だろう。
 ここで問題になるのは、池田信夫も直接言及していないが、ソヴィエト連邦の解体のあと、またはそれと同時に、ロシアとウクライナの間でどういう国境線が引かれたか、だ。
 独立国家共同体(Commonwealth of Independent States =CIS)が発足したとき、「独立」主権国家としてのロシアとウクライナの間の国境はどのように定められていたのか、だ。つまり、1991年の「ベロヴェーシ合意」や「アルマトイ」宣言が基礎にしていた各国の領域・境界はどうだったか、だ。これにはソヴィエト連邦時代の両共和国の境界は形式的には関係がないが、明確に又は暗黙に前提とされた可能性はあるだろう。ついでに書くと、かつてのロシア・ウクライナの両共産党の力関係も、関係がない。
 この点を私は正確には知らないのだが、ウクライナの主張や2010年代のクリミア半島等をめぐる紛争・対立の動向や主張・論評等からすると、クリミア半島もウクライナ東部の二州も、元来(1991-2年頃の時点で)ウクライナの領土だといったん確定した、エリツィンも(ゴルバチョフ)も、いかにロシア系住民が多くとも、それに文句を言わなかった、異議を申立てなかった、のではないか。
 そうすると、確定している国境を超えて武力で侵入するのは「侵略」であり、<力による現状変更>の試みだ。これ自体がすでに(自力執行力に乏しいとはいえ)「国際法」・「国連憲章」等に違反しているだろう。
 ——
  八幡和郎は、この単純なことを認めたくないようだ。
 A②「ロシア帝国=ソ連=ウクライナ+ロシアその他であって、ロシア帝国=ソ連=ロシアでないといっても、屁理屈並べて否定するどうしようもない人が多い」。
 これは意味不明。今のロシアをかつての「ロシア帝国=ソ連」と同一視する者が本当にいるのか。
 A③「フルシチョフは幼少期にウクライナに移住、ブレジネフはウクライナ生まれで、いずれもロシア系ウクライナ人であり、ソ連統治下で有力者の地元としても、ウクライナは優遇され発展したといっても、嘘だと言い張るのだから始末が悪い」。
 これも意味不明。かりにウクライナ出身者やウクライナがソ連時代に優遇されたのだとして、そのような「歴史」は、今次の問題とは全く関係がない。
 Bにある「旧ソ連においてウクライナ出身者は権力中枢を占めており、お手盛りで地元として非常に優遇されており、ロシアに搾取されていたがごとき話は真っ赤な嘘だ」、も同様(B②)。
 戦前のスターリンの<飢饉によるウクライナ弱体化>政策を見ると、ウクライナが優遇されたというのも、八幡の日本古代史論とともに、にわかには信じ難い。スターリンの故郷・グルジア(ジョージア)には何の優遇もなかったのではないか。
 関連して、B③「ロシアは少数民族に寛容な国だが、ウクライナのロシア系住民に対する差別は虐殺だとか言わずとも相当にひどい」。
 後段の当否はさておき、「ロシアは少数民族に寛容な国」だというのは、一体いつの時代の「ロシア」のことなのか。現在のロシアも、数の上ではより少数民族であるウクライナ、ジョージア、チェチェン等に対して「寛容」だとは言えないだろう。
 ソ連、それ以前の「ロシア帝国」の時代、今のロシアが優越的地位を持っていたことは明らかだ、と思われる。ソ連時代の「ロシア共産党」は、実質的にはほぼ「ソ連共産党」で、その中核を占めた。レーニンとスターリンの間には「民族自決権」について対立があったと(とくにレーニン擁護の日本共産党や同党系論者により)主張されたものだが、ソ連全体=実質的に「ロシア」の利益に反しないかぎりで「少数民族」も保護されたのであり、民族問題についてレーニンとスターリンは50歩100歩、または80歩90歩の程度の差しかない。
 なお、評論的に言っても無意味だが、今次の問題の淵源は、少なくともソ連時代の、ソ連共産党時代の、民族問題の処理、連邦と構成共和国間の関係の扱い方、に不備があったことにあるだろう。
 ——
  八幡は、少なくとも一ヶ月前、「アメリカ抜き」での和平を夢想していた。
 標語的には、Bの「国際法・国連決議・軍事力より外交力が平和の決め手」。
 また、いわく、B④「なにが大事かといえば、もちろん、軍事もある。しかし、それとともに、賢い外交だと思う。賢い利害調整と果敢な決断、安定性の高い平和維持体制の構築が正しい」。
 これと同じとは言わないが、吉永小百合の〈私たちには言葉というものがあります。平和のためには言葉を使って真摯に話し合いを>に少しは接近している。
 それはともあれ、A④「アメリカ抜きで交渉した結果、相当な進展があったようである」(「この交渉の進展が、英米はお気に召さないらしい」→「戦争を終わらせたくない英米」)
 A⑤「ゼレンスキーもNATO加盟は諦めてもいいといい、クリミアも15年間は現状を容認するとまでいっているのだから、両者の溝は狭い」。
 この一ヶ月の進展は、八幡和郎の幻想・妄想が現実に即していないことを証明している、と見られる。
 トルコの仲介が功を奏しているようには見えない。
 ロシアが、ウクライナが「NATO加盟は諦めてもいいといい、クリミアも15年間は現状を容認する」と言ったからといって、停戦・休戦し、和平・平和が訪れるようには思えない。
 NATO加盟とクリミア半島・東部二州だけをロシアが問題にしているようには、全く思えない。
 八幡は、日本ナショナリストで潜在的な「反米」主義=反「東京裁判史観」=反「自虐史観」の持ち主であることから、あまりアメリカに功を立ててもらいたくないのだろう。西尾幹二のようにEUをグローバリズムの「行く末」としてまるごと批判するのか、フランス・ファーストのルペンを仏大統領選では内心支持していたかどうかは知らない。
 八幡和郎は、新潮45(新潮社)の廃刊(2018年)のきっかけを作った杉田水脈(論考)を擁護する記事を、翌月号に、小川榮太郎等とともに執筆した人物でもある。
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