Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)。
試訳のつづき。p.44-p.47。
——
第五章・大学②。
(10) 次いで、両性の間の関係に、大きな差違があった。この差違は、ある程度は、安心性についての支配的感覚の結果だった。
男女関係は、許されることまたは許されないことや婚約や結婚に向かって絶えず示唆されることに関する厳格な儀礼で制約されていた。
三番目にデートした女の子からは、多かれ少なかれ、私の意思を尋ねられたものだ。
私の反応は一種のパニックだった。18歳や19歳では、結婚のことなど全く考えていなかった。
満足できない答え方であったなら、通常は付き合いの解消を意味しただろう。
ポーランドでの女の子との関係はより仲間的なもので、もっと年長にならなければ、結婚を描くことはなかった。
将来の妻とのちに結婚することになった一つの理由は、彼女の背景が私と同じで、二年間かけてお互いによく知り合うまで、彼女は一度も結婚のことを話題にしなかった、ということだった。我々二人は、恋人になるまで長く、友人だった。
要するに、アメリカの女性たちはどの世代も、ヨーロッパの女性たちよりも、女性らしさ(femininity)をはるかに保証されていない、と私は感じた。アメリカの女性は男性を楽しませることに熱心だったが、ヨーロッパの女性は、男性に楽しませてもらうことを期待した。
1960年代に流行した「フェミニズム」の馬鹿さかげんは、この不安定性を強調したにすぎない。全ての男性をレイプ魔になり得る者と見なすのは、男性に対処する手がかりを持っていないことを承認するようなものなのだから。//
(11) 二年次の春に、恋に落ちた。
その女性は、一、二歳年上で、ピアニストだった。
だが、彼女にも、よくあることが起きた。ある夕べ、彼女から、結婚についてどう思っているのか、と尋ねられた。
その問題については何も考えていないと答えたとき、私は彼女の頬に涙が伝わるのを見た。
その夏、彼女の手紙の頻度は減り、内容は冷たくなった。そして、三年次になる前に、二人は出逢うのをやめた。//
(12) 当時のアメリカ人の生活には、大量の道徳があった。
何が適正で、何がなされてよく、何がよくないか、重要な問題についてどう考えるべきか、は予め定められており、規制されていた。
アメリカ人が誇りとする言論の自由の全てについて、受容されている標準を追認すべきとの多大の圧力があった。そして、この観点からすると、アメリカ人はヨーロッパ人よりも、個人的自由を享有していなかった。
のちに「政治的適正さ」(political correctness)として知られるに至るものは、当時ですら、アメリカの人々の文化に浸透していた。
私は、彼の意図が十分に分かったので、ニーチェを捨てよと強く言った副学長に立腹しなかった。しかし、ヨーロッパの教師があのような圧力を加えるとは、想像すらしなかっただろう。
このような圧力には、人々一般への純粋な関心が伴っていた。つまり、他人に起きることは重要だという感覚だ。—これは、各人が自分のことを気にかけると支配的な道徳感は教えるヨーロッパでは、知らなかったものだ。
男女関係と同様に、この感覚は1960年代に大きく変化した。
とても自由放縦になる前の、古いアメリカ文化の方が好ましいと、私は思う。
だがその場合でも、潔癖主義(puritanisim)はニヒリズムで終わると、ニーチェは予言した。//
(13) もう一つ驚いたのは、人間関係に関してだった。
私の出身地では、異邦人は、民族的または宗教的な偏見のような特別の理由で粗雑にまたは敵対的に扱われないとすれば、適正に、だが素っ気なく扱われた。
親愛さは、友人のために留保されていた。
アメリカ合衆国では、適切な振舞いの規範は、全ての者に対する親愛さを求めた。
New Concord に着いて数時間後、一人の上級生が私が落ち着くのを助けてくれた。
彼はキャンパスを見せ、私が初年次を過ごすことになる木造家屋へ連れて行き、私の大学や学生生活に関する質問に答えてくれた。
私は、とても早くに友人を得たことに興奮した。
だが、数日後に彼に出くわしたとき、彼は冷たくて、疎遠だった。
今では分かる。彼は大学当局から慣れない環境にいる外国の少年を助けるよう頼まれ、とても快く、だが私への特別の感情など全くなく、その仕事をしたのだ。
しかし、私は動機を思い違いして、傷ついた。
のちに私が知ったのは、誰に対しても「好ましい(nice)」のは、生活を心地よくするがゆえに一つの美徳だ、ということだった。やがて実際に、意味のない微笑の方が意味のある冷笑よりは好ましい、と結論した。
しかしまた私が結論したのは、第一に全員に対して表面的な親切さを示すことは親密な人間関係の形成を封じる、第二にかつて一人または二人の友人と形成した親密さは、ともかくも男性間ではモデルは「仲間」または「相棒」(pal, buddies)—ポーランド語にはこれらに当たる言葉がない—である国では獲得し得ない、ということだった。//
(14) 私の「主要なこと」は、歴史と発言だった。
Muskingum は討論チームで知られていた。私は、最新の問題に関する多数の討論の参加または関与した。それによって、多数者の前で話すのを学んだ。
水泳チームにも加わった。バタフライをするほど頑強でなかったので、平泳ぎの選手としてだった。
私の成績はまあまあで、Bレベルだった。その成績を最小限の努力で獲得した。
大学で得た主要なものは、英語を使える力だった。
第一学期の終わりまでに、全く流暢な文章を書いた。私の誤りは、主として動詞の時制について生じた。私はこの欠点を、今日まで完全には克服し切れていない。//
(15) Muskingum の雰囲気は、知的というよりも社会的だった。
若者たちは、職業を得て、配偶者を見つけるために、そして生活費を稼いで家族を養うという責務に直面する前に楽しい4年間を過ごすべく、大学に来ていた。
私の書物好きや非世俗的な理想は、ときたま困惑の対象になった。
ある学期に、近くの美術館の学芸員が教えるヨーロッパ美術史のコースに出席した。
彼がスクリーンに絵画のスライドを表示して画家を見極めるよう言ったとき、私はほとんど全ての名前を言い当てることができた。「Velasquez」、「Vermeer」、「Tiepolo」、等々。
ある授業のあとで、私が少し惹かれていた美人学生が、にっこりと微笑みながら私に質問した。
「Dick、あなたは本当にあの画家たちをみんな知っているの?」。
彼女が望んでいる答えは分からなかったが、私は、「もちろん知らない。運良く推測が当たっただけだ」と回答した。//
(16) 私はトーマス・マン(Thomas Mann)の〈Tonio Kröger〉を読み、その主人公と彼の芸術家気質を理由とする友人たちからの孤立感に親近さを感じた。
1940年11月、私はマンに手紙を出して(残念だが、複写を残していない)、この小説を書きながら何を心に浮かべていたのかを、尋ねた。
彼は、親しい、かつ内容のある返事をくれた。
その返書は、Princeton, New Jersey, 1940年12月2日付で、一部にこう書かれていた。
「この物語を書いたとき、二人の友人の輩下としてはTonio を人物化しなかった。そうでなく、主としては彼らより優れた者として描いた。
Tonio は友人たちの簡素でふつうの生活とは離れた所にいた。だが確かに、彼は現実にあるまさにそのような生活に半ばは羨望していた。
しかしながら、この羨望には彼らの生き方には馴染めないという残念さが混じっていたけれども、芸術家としての自分自身の生活の深さと展望を、彼は強く意識していた。」
このような文章に、私は激励を感じた。//
(17) 私は働いて生計を立てた。最初は芝を刈り、テニスコートをローラーで平らにした。のちには図書館で仕事を貰って、本の背表紙に電気スタイラスで書棚番号を打ち込んだ。
だが、これらの収入では十分でなかった。
父親は300ドルを送ってくれた。これは父親が新しい事業をまさに立ち上げようとしていて、少ない資産のうちの数セントでも必要としていたことを考えると、相当に多額だった。そして、父親は、これ以上は期待できないと、私に理解させようとしていた。
Muskingum は、200ドルの奨学金をくれた。
しかし、第二学期が近づくと、私は絶望的状況に陥った。もう一度200ドルを見つけなければならなかったからだ。
誰かから、ニューヨークのISS(国際学生サービス)と接触すればよいと助言された。
そこに手紙を出して、苦境を訴えた。すると返書が来て、100ドル用小切手を受け取った!
それは天の恵みで、私は勉強を続けることができた。
同じことはつぎの秋にも起きて、同じ所から私は210ドルを受け取った。
夏季休暇は二年ともに、全日の仕事をした。1941年には、ニューヨーク州のElmira の薬局でタバコとキャンディを売った。その町で両親は、小さなチョコレート工場(「Mark's Candy Kitchen」)を開業していた。
私は週に50時間働いて、17.5ドルとときどきの歩合金を稼いだ。
その翌年の夏には、Kraft Company のトラックを運転して、チーズを食料品店に配達した。
それは愉快な仕事だった。自分一人だけでおれ、週に二晩は路上で過ごすことができたからだ。
学校がある間は、近くの教会やロータリー・クラブ等で、ポーランドでの戦争体験を話して、収入を補った。最もよくあった報酬は、一回5ドルだった。//
(18) 両親への私の手紙から判断すると、私はMuskingum で経験する暖かさと楽しい雰囲気に圧倒的に覆われていた。
落ち着いたすぐ後で、両親にこう書いていた。「こちらではとても気持ちが高まっていて(swell)、お二人は想像できないでしょう」。
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第一部第五章、終わり。次章の表題は<軍隊>。
試訳のつづき。p.44-p.47。
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第五章・大学②。
(10) 次いで、両性の間の関係に、大きな差違があった。この差違は、ある程度は、安心性についての支配的感覚の結果だった。
男女関係は、許されることまたは許されないことや婚約や結婚に向かって絶えず示唆されることに関する厳格な儀礼で制約されていた。
三番目にデートした女の子からは、多かれ少なかれ、私の意思を尋ねられたものだ。
私の反応は一種のパニックだった。18歳や19歳では、結婚のことなど全く考えていなかった。
満足できない答え方であったなら、通常は付き合いの解消を意味しただろう。
ポーランドでの女の子との関係はより仲間的なもので、もっと年長にならなければ、結婚を描くことはなかった。
将来の妻とのちに結婚することになった一つの理由は、彼女の背景が私と同じで、二年間かけてお互いによく知り合うまで、彼女は一度も結婚のことを話題にしなかった、ということだった。我々二人は、恋人になるまで長く、友人だった。
要するに、アメリカの女性たちはどの世代も、ヨーロッパの女性たちよりも、女性らしさ(femininity)をはるかに保証されていない、と私は感じた。アメリカの女性は男性を楽しませることに熱心だったが、ヨーロッパの女性は、男性に楽しませてもらうことを期待した。
1960年代に流行した「フェミニズム」の馬鹿さかげんは、この不安定性を強調したにすぎない。全ての男性をレイプ魔になり得る者と見なすのは、男性に対処する手がかりを持っていないことを承認するようなものなのだから。//
(11) 二年次の春に、恋に落ちた。
その女性は、一、二歳年上で、ピアニストだった。
だが、彼女にも、よくあることが起きた。ある夕べ、彼女から、結婚についてどう思っているのか、と尋ねられた。
その問題については何も考えていないと答えたとき、私は彼女の頬に涙が伝わるのを見た。
その夏、彼女の手紙の頻度は減り、内容は冷たくなった。そして、三年次になる前に、二人は出逢うのをやめた。//
(12) 当時のアメリカ人の生活には、大量の道徳があった。
何が適正で、何がなされてよく、何がよくないか、重要な問題についてどう考えるべきか、は予め定められており、規制されていた。
アメリカ人が誇りとする言論の自由の全てについて、受容されている標準を追認すべきとの多大の圧力があった。そして、この観点からすると、アメリカ人はヨーロッパ人よりも、個人的自由を享有していなかった。
のちに「政治的適正さ」(political correctness)として知られるに至るものは、当時ですら、アメリカの人々の文化に浸透していた。
私は、彼の意図が十分に分かったので、ニーチェを捨てよと強く言った副学長に立腹しなかった。しかし、ヨーロッパの教師があのような圧力を加えるとは、想像すらしなかっただろう。
このような圧力には、人々一般への純粋な関心が伴っていた。つまり、他人に起きることは重要だという感覚だ。—これは、各人が自分のことを気にかけると支配的な道徳感は教えるヨーロッパでは、知らなかったものだ。
男女関係と同様に、この感覚は1960年代に大きく変化した。
とても自由放縦になる前の、古いアメリカ文化の方が好ましいと、私は思う。
だがその場合でも、潔癖主義(puritanisim)はニヒリズムで終わると、ニーチェは予言した。//
(13) もう一つ驚いたのは、人間関係に関してだった。
私の出身地では、異邦人は、民族的または宗教的な偏見のような特別の理由で粗雑にまたは敵対的に扱われないとすれば、適正に、だが素っ気なく扱われた。
親愛さは、友人のために留保されていた。
アメリカ合衆国では、適切な振舞いの規範は、全ての者に対する親愛さを求めた。
New Concord に着いて数時間後、一人の上級生が私が落ち着くのを助けてくれた。
彼はキャンパスを見せ、私が初年次を過ごすことになる木造家屋へ連れて行き、私の大学や学生生活に関する質問に答えてくれた。
私は、とても早くに友人を得たことに興奮した。
だが、数日後に彼に出くわしたとき、彼は冷たくて、疎遠だった。
今では分かる。彼は大学当局から慣れない環境にいる外国の少年を助けるよう頼まれ、とても快く、だが私への特別の感情など全くなく、その仕事をしたのだ。
しかし、私は動機を思い違いして、傷ついた。
のちに私が知ったのは、誰に対しても「好ましい(nice)」のは、生活を心地よくするがゆえに一つの美徳だ、ということだった。やがて実際に、意味のない微笑の方が意味のある冷笑よりは好ましい、と結論した。
しかしまた私が結論したのは、第一に全員に対して表面的な親切さを示すことは親密な人間関係の形成を封じる、第二にかつて一人または二人の友人と形成した親密さは、ともかくも男性間ではモデルは「仲間」または「相棒」(pal, buddies)—ポーランド語にはこれらに当たる言葉がない—である国では獲得し得ない、ということだった。//
(14) 私の「主要なこと」は、歴史と発言だった。
Muskingum は討論チームで知られていた。私は、最新の問題に関する多数の討論の参加または関与した。それによって、多数者の前で話すのを学んだ。
水泳チームにも加わった。バタフライをするほど頑強でなかったので、平泳ぎの選手としてだった。
私の成績はまあまあで、Bレベルだった。その成績を最小限の努力で獲得した。
大学で得た主要なものは、英語を使える力だった。
第一学期の終わりまでに、全く流暢な文章を書いた。私の誤りは、主として動詞の時制について生じた。私はこの欠点を、今日まで完全には克服し切れていない。//
(15) Muskingum の雰囲気は、知的というよりも社会的だった。
若者たちは、職業を得て、配偶者を見つけるために、そして生活費を稼いで家族を養うという責務に直面する前に楽しい4年間を過ごすべく、大学に来ていた。
私の書物好きや非世俗的な理想は、ときたま困惑の対象になった。
ある学期に、近くの美術館の学芸員が教えるヨーロッパ美術史のコースに出席した。
彼がスクリーンに絵画のスライドを表示して画家を見極めるよう言ったとき、私はほとんど全ての名前を言い当てることができた。「Velasquez」、「Vermeer」、「Tiepolo」、等々。
ある授業のあとで、私が少し惹かれていた美人学生が、にっこりと微笑みながら私に質問した。
「Dick、あなたは本当にあの画家たちをみんな知っているの?」。
彼女が望んでいる答えは分からなかったが、私は、「もちろん知らない。運良く推測が当たっただけだ」と回答した。//
(16) 私はトーマス・マン(Thomas Mann)の〈Tonio Kröger〉を読み、その主人公と彼の芸術家気質を理由とする友人たちからの孤立感に親近さを感じた。
1940年11月、私はマンに手紙を出して(残念だが、複写を残していない)、この小説を書きながら何を心に浮かべていたのかを、尋ねた。
彼は、親しい、かつ内容のある返事をくれた。
その返書は、Princeton, New Jersey, 1940年12月2日付で、一部にこう書かれていた。
「この物語を書いたとき、二人の友人の輩下としてはTonio を人物化しなかった。そうでなく、主としては彼らより優れた者として描いた。
Tonio は友人たちの簡素でふつうの生活とは離れた所にいた。だが確かに、彼は現実にあるまさにそのような生活に半ばは羨望していた。
しかしながら、この羨望には彼らの生き方には馴染めないという残念さが混じっていたけれども、芸術家としての自分自身の生活の深さと展望を、彼は強く意識していた。」
このような文章に、私は激励を感じた。//
(17) 私は働いて生計を立てた。最初は芝を刈り、テニスコートをローラーで平らにした。のちには図書館で仕事を貰って、本の背表紙に電気スタイラスで書棚番号を打ち込んだ。
だが、これらの収入では十分でなかった。
父親は300ドルを送ってくれた。これは父親が新しい事業をまさに立ち上げようとしていて、少ない資産のうちの数セントでも必要としていたことを考えると、相当に多額だった。そして、父親は、これ以上は期待できないと、私に理解させようとしていた。
Muskingum は、200ドルの奨学金をくれた。
しかし、第二学期が近づくと、私は絶望的状況に陥った。もう一度200ドルを見つけなければならなかったからだ。
誰かから、ニューヨークのISS(国際学生サービス)と接触すればよいと助言された。
そこに手紙を出して、苦境を訴えた。すると返書が来て、100ドル用小切手を受け取った!
それは天の恵みで、私は勉強を続けることができた。
同じことはつぎの秋にも起きて、同じ所から私は210ドルを受け取った。
夏季休暇は二年ともに、全日の仕事をした。1941年には、ニューヨーク州のElmira の薬局でタバコとキャンディを売った。その町で両親は、小さなチョコレート工場(「Mark's Candy Kitchen」)を開業していた。
私は週に50時間働いて、17.5ドルとときどきの歩合金を稼いだ。
その翌年の夏には、Kraft Company のトラックを運転して、チーズを食料品店に配達した。
それは愉快な仕事だった。自分一人だけでおれ、週に二晩は路上で過ごすことができたからだ。
学校がある間は、近くの教会やロータリー・クラブ等で、ポーランドでの戦争体験を話して、収入を補った。最もよくあった報酬は、一回5ドルだった。//
(18) 両親への私の手紙から判断すると、私はMuskingum で経験する暖かさと楽しい雰囲気に圧倒的に覆われていた。
落ち着いたすぐ後で、両親にこう書いていた。「こちらではとても気持ちが高まっていて(swell)、お二人は想像できないでしょう」。
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第一部第五章、終わり。次章の表題は<軍隊>。