秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2022/03

2512/R・パイプスの自伝(2003年)⑭。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。p.44-p.47。
 ——
 第五章・大学②。
 (10) 次いで、両性の間の関係に、大きな差違があった。この差違は、ある程度は、安心性についての支配的感覚の結果だった。
 男女関係は、許されることまたは許されないことや婚約や結婚に向かって絶えず示唆されることに関する厳格な儀礼で制約されていた。
 三番目にデートした女の子からは、多かれ少なかれ、私の意思を尋ねられたものだ。
 私の反応は一種のパニックだった。18歳や19歳では、結婚のことなど全く考えていなかった。
 満足できない答え方であったなら、通常は付き合いの解消を意味しただろう。
 ポーランドでの女の子との関係はより仲間的なもので、もっと年長にならなければ、結婚を描くことはなかった。
 将来の妻とのちに結婚することになった一つの理由は、彼女の背景が私と同じで、二年間かけてお互いによく知り合うまで、彼女は一度も結婚のことを話題にしなかった、ということだった。我々二人は、恋人になるまで長く、友人だった。
 要するに、アメリカの女性たちはどの世代も、ヨーロッパの女性たちよりも、女性らしさ(femininity)をはるかに保証されていない、と私は感じた。アメリカの女性は男性を楽しませることに熱心だったが、ヨーロッパの女性は、男性に楽しませてもらうことを期待した。
 1960年代に流行した「フェミニズム」の馬鹿さかげんは、この不安定性を強調したにすぎない。全ての男性をレイプ魔になり得る者と見なすのは、男性に対処する手がかりを持っていないことを承認するようなものなのだから。//
 (11) 二年次の春に、恋に落ちた。
 その女性は、一、二歳年上で、ピアニストだった。
 だが、彼女にも、よくあることが起きた。ある夕べ、彼女から、結婚についてどう思っているのか、と尋ねられた。
 その問題については何も考えていないと答えたとき、私は彼女の頬に涙が伝わるのを見た。
 その夏、彼女の手紙の頻度は減り、内容は冷たくなった。そして、三年次になる前に、二人は出逢うのをやめた。//
 (12) 当時のアメリカ人の生活には、大量の道徳があった。
 何が適正で、何がなされてよく、何がよくないか、重要な問題についてどう考えるべきか、は予め定められており、規制されていた。
 アメリカ人が誇りとする言論の自由の全てについて、受容されている標準を追認すべきとの多大の圧力があった。そして、この観点からすると、アメリカ人はヨーロッパ人よりも、個人的自由を享有していなかった。
 のちに「政治的適正さ」(political correctness)として知られるに至るものは、当時ですら、アメリカの人々の文化に浸透していた。
 私は、彼の意図が十分に分かったので、ニーチェを捨てよと強く言った副学長に立腹しなかった。しかし、ヨーロッパの教師があのような圧力を加えるとは、想像すらしなかっただろう。
 このような圧力には、人々一般への純粋な関心が伴っていた。つまり、他人に起きることは重要だという感覚だ。—これは、各人が自分のことを気にかけると支配的な道徳感は教えるヨーロッパでは、知らなかったものだ。
 男女関係と同様に、この感覚は1960年代に大きく変化した。
 とても自由放縦になる前の、古いアメリカ文化の方が好ましいと、私は思う。
 だがその場合でも、潔癖主義(puritanisim)はニヒリズムで終わると、ニーチェは予言した。//
 (13) もう一つ驚いたのは、人間関係に関してだった。
 私の出身地では、異邦人は、民族的または宗教的な偏見のような特別の理由で粗雑にまたは敵対的に扱われないとすれば、適正に、だが素っ気なく扱われた。
 親愛さは、友人のために留保されていた。
 アメリカ合衆国では、適切な振舞いの規範は、全ての者に対する親愛さを求めた。
 New Concord に着いて数時間後、一人の上級生が私が落ち着くのを助けてくれた。
 彼はキャンパスを見せ、私が初年次を過ごすことになる木造家屋へ連れて行き、私の大学や学生生活に関する質問に答えてくれた。
 私は、とても早くに友人を得たことに興奮した。
 だが、数日後に彼に出くわしたとき、彼は冷たくて、疎遠だった。
 今では分かる。彼は大学当局から慣れない環境にいる外国の少年を助けるよう頼まれ、とても快く、だが私への特別の感情など全くなく、その仕事をしたのだ。
 しかし、私は動機を思い違いして、傷ついた。
 のちに私が知ったのは、誰に対しても「好ましい(nice)」のは、生活を心地よくするがゆえに一つの美徳だ、ということだった。やがて実際に、意味のない微笑の方が意味のある冷笑よりは好ましい、と結論した。
 しかしまた私が結論したのは、第一に全員に対して表面的な親切さを示すことは親密な人間関係の形成を封じる、第二にかつて一人または二人の友人と形成した親密さは、ともかくも男性間ではモデルは「仲間」または「相棒」(pal, buddies)—ポーランド語にはこれらに当たる言葉がない—である国では獲得し得ない、ということだった。//
 (14) 私の「主要なこと」は、歴史と発言だった。
 Muskingum は討論チームで知られていた。私は、最新の問題に関する多数の討論の参加または関与した。それによって、多数者の前で話すのを学んだ。
 水泳チームにも加わった。バタフライをするほど頑強でなかったので、平泳ぎの選手としてだった。
 私の成績はまあまあで、Bレベルだった。その成績を最小限の努力で獲得した。
 大学で得た主要なものは、英語を使える力だった。
 第一学期の終わりまでに、全く流暢な文章を書いた。私の誤りは、主として動詞の時制について生じた。私はこの欠点を、今日まで完全には克服し切れていない。//
 (15) Muskingum の雰囲気は、知的というよりも社会的だった。
 若者たちは、職業を得て、配偶者を見つけるために、そして生活費を稼いで家族を養うという責務に直面する前に楽しい4年間を過ごすべく、大学に来ていた。
 私の書物好きや非世俗的な理想は、ときたま困惑の対象になった。
 ある学期に、近くの美術館の学芸員が教えるヨーロッパ美術史のコースに出席した。
 彼がスクリーンに絵画のスライドを表示して画家を見極めるよう言ったとき、私はほとんど全ての名前を言い当てることができた。「Velasquez」、「Vermeer」、「Tiepolo」、等々。
 ある授業のあとで、私が少し惹かれていた美人学生が、にっこりと微笑みながら私に質問した。
 「Dick、あなたは本当にあの画家たちをみんな知っているの?」。
 彼女が望んでいる答えは分からなかったが、私は、「もちろん知らない。運良く推測が当たっただけだ」と回答した。//
 (16) 私はトーマス・マン(Thomas Mann)の〈Tonio Kröger〉を読み、その主人公と彼の芸術家気質を理由とする友人たちからの孤立感に親近さを感じた。
 1940年11月、私はマンに手紙を出して(残念だが、複写を残していない)、この小説を書きながら何を心に浮かべていたのかを、尋ねた。
 彼は、親しい、かつ内容のある返事をくれた。
 その返書は、Princeton, New Jersey, 1940年12月2日付で、一部にこう書かれていた。
 「この物語を書いたとき、二人の友人の輩下としてはTonio を人物化しなかった。そうでなく、主としては彼らより優れた者として描いた。
 Tonio は友人たちの簡素でふつうの生活とは離れた所にいた。だが確かに、彼は現実にあるまさにそのような生活に半ばは羨望していた。
 しかしながら、この羨望には彼らの生き方には馴染めないという残念さが混じっていたけれども、芸術家としての自分自身の生活の深さと展望を、彼は強く意識していた。」
 このような文章に、私は激励を感じた。//
 (17) 私は働いて生計を立てた。最初は芝を刈り、テニスコートをローラーで平らにした。のちには図書館で仕事を貰って、本の背表紙に電気スタイラスで書棚番号を打ち込んだ。
 だが、これらの収入では十分でなかった。
 父親は300ドルを送ってくれた。これは父親が新しい事業をまさに立ち上げようとしていて、少ない資産のうちの数セントでも必要としていたことを考えると、相当に多額だった。そして、父親は、これ以上は期待できないと、私に理解させようとしていた。
 Muskingum は、200ドルの奨学金をくれた。
 しかし、第二学期が近づくと、私は絶望的状況に陥った。もう一度200ドルを見つけなければならなかったからだ。
 誰かから、ニューヨークのISS(国際学生サービス)と接触すればよいと助言された。
 そこに手紙を出して、苦境を訴えた。すると返書が来て、100ドル用小切手を受け取った!
 それは天の恵みで、私は勉強を続けることができた。
 同じことはつぎの秋にも起きて、同じ所から私は210ドルを受け取った。
 夏季休暇は二年ともに、全日の仕事をした。1941年には、ニューヨーク州のElmira の薬局でタバコとキャンディを売った。その町で両親は、小さなチョコレート工場(「Mark's Candy Kitchen」)を開業していた。
 私は週に50時間働いて、17.5ドルとときどきの歩合金を稼いだ。
 その翌年の夏には、Kraft Company のトラックを運転して、チーズを食料品店に配達した。
 それは愉快な仕事だった。自分一人だけでおれ、週に二晩は路上で過ごすことができたからだ。
 学校がある間は、近くの教会やロータリー・クラブ等で、ポーランドでの戦争体験を話して、収入を補った。最もよくあった報酬は、一回5ドルだった。//
 (18) 両親への私の手紙から判断すると、私はMuskingum で経験する暖かさと楽しい雰囲気に圧倒的に覆われていた。
 落ち着いたすぐ後で、両親にこう書いていた。「こちらではとても気持ちが高まっていて(swell)、お二人は想像できないでしょう」。
 ——
 第一部第五章、終わり。次章の表題は<軍隊>。

2511/R・パイプスの自伝(2003年)⑬。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第五章へ。
 ——
 第一部/第五章・大学(College)①。
 (01) 米国についての我々の意識は歪んだものだったので、下船するときに父親が波止場で街灯柱にのんびりと依りかかっている人を見つけたとき、父親は安心して、この国は思っていたほど慌ただしくないようだ、と言った。
 Ossi Burger がHoboken で我々を迎えてくれ、ニューヨーク市での一日後に、我々は列車で、近くにBurger 一家の農場がある、ニューヨーク州のTroy へ行った。//
 (02) 私がニューヨークに望んでいたこと、そして最も印象を受けたのは、たぶんアメリカの映画で知っていた建築物や交通の規模ではなく、Burger 家の友人の子息である青年に伴われて、ホテル Waldorf Astoria のロビーに入ったり、音楽店舗を訪れたり、個人用ブースで好きなクラッシック音盤を聴いたりできたことだった。
 Troy へ向かっていたときのGrand Central 駅で、私は新聞類販売店に立ち寄り、高等教育(higher learning)に関する書物を探した。
 私は、「大学(College)」、「大学に関する情報」と言った。
 売り子は当惑して、少し考えたあとで、〈College Life〉を一冊売ってくれた。その雑誌は、〈Playboy〉の先触れだった。//
 (03) 我々は農場で、夏の残りを過ごした。
 John と私が寝ていた納屋で、たまたま数百頁の1914-15年版〈アメリカ人名録〉を見つけた。
 その巻末には、予備学校や大学(college)の100頁以上の宣伝広告が付いていた。
 それが、私の求めていたものだった。すなわち、高等教育施設の名前と住所。
 100枚のペニー切手を購入し、友人の助けを借りて、多数の大学への同一の要請文を書いた。自分には入学したい熱望があるが、経済的余裕がないので、奨学金と収入を得られる就労の保障を求める、と。
 私は、Harvard と小さい田舎の大学の違いを知らなかった。
 ほとんどの教育施設からは返答がなかった。いくつかは、消極の回答を寄せた。
 だが、4つの大学から、私が求めるものの提示があった。Indianapolis のButtler College、University of Tennessee、South California のErskine College、Ohio のMuskingum College。
 それらを見分ける基準を、私は持ち合わせていなかった。Muskingum に私を惹き付けたものは、〈人名録〉上の一頁全体の広告にある地図だった。その地図は、オハイオ州のNew Concord 市にあるその大学の位置がアメリカ合衆国の地理的中心であるように、作られていた。//
 (04) 父親は、私が大学へ行くのを喜ばなかった。彼の新しい事業のために、私の助けを欲しかったためだ。
 今では、当時よりもっと父親を理解することができる。だが当時の私には、少しでも高等教育を受ける機会がさらに遅れることは、非道で、不合理なことだった。
 私には、ぼんやりした野望があった。自分が何をしたいのか、少しも分かっていなかった。しかし、金を稼ぐことではないと、絶対的に確実に、分かっていた。
 神はドイツが支配するポーランドから、高次の目的のために、たんなる生存や自己満足を超えて存在するために、私を救ってくれた、と感じていた。
 この感覚は、今までずっと消えなかった。
 もしも父親が私をそばに置いて、勉強したい私の気持ちを理解し、同意するけれども、我々のいまの経済的状況からすると、ともかくもしばらくの間だけでも私の助力が不可欠なのだ、と説明してくれていたなら、あるいは私は、一年くらいは父親に従っていたかもしれない。
 しかし、我々の文化では、父親は十歳代の息子を成人としては扱わなかった。//
 (05) 1940月9月7日、私はバスで、オハイオへと向かった。
 翌日、日曜の朝に、New Concord に着いた。
 街も大学も居住者はほとんどが教会にいたので、大学のキャンパスは空っぽだった。
 地方的な宿屋に記帳して、近くを散歩した。
 赤レンガの建物群は19世紀半ばからあるようで、小山が多い丘陵地の丘に位置していた。
 好ましい印象だった。田園ふうの大学は、ワルシャワやフィレンツェの大学とは全く似ていなかったけれども。
 教室のある建物の入口に、神がモーゼに発したExodos の書物の一節が刻まれているのを見て、衝撃を受けた。「足の靴を脱げ、聖なる地へと立ち上がる場所に向かって」。
 私は、もしかしてうっかりと神学校に着いたのでないか、と思った。
 しかし、のちの午後に、大学の副学長と出会って、彼がキャンパスを車で案内してくれた。そして、全てが良く思えた。//
 (06) 判明したとおり、私は素晴らしい選択をしていた。
 Muskingum College はHarvard ではなく、そう装ってもいなかった。だが、私にとってはるかに適した場所だった。二つの理由があった。
 大学が小さかった。—700名の学生とそれと均衡した規模の教授陣。これが意味したのは、私が大群の中で迷わないことだ。
 戦争前から入学していたポーランドの女の子を除いて、キャンパスにいる唯一のヨーロッパ人だったので、私は好奇の対象だった。
 時を経ずして、ほとんどの学生たちを個人名で知り、彼らもそうするようになった。
 第二に、私はとても貧しかった。衣装入れには二着の上衣と四枚のシャツしかなかった。大きな大学だと、私は惨めな人物に見えただろう。
 やがて、学生、教授、事務職員に連れられて街へ行った。そして、二年半をそこで幸せに過ごした。//
 (07) ヨーロッパ人にとって、1940年にオハイオの中央に来るのは、19世紀へと後ずさりすることだった。そこの人々の外貌と価値観は第一次大戦前のものだった。
 自分がかつて知っていた場所であるような、ほっとする安定感があった。
 そこの人々がどれほどヨーロッパから離れているかを、私がデイトした利発で可愛い女の子が示したかもしれない。
 彼女は、ヨーロッパがあるとは知っていたけど、私と逢えてとても嬉しい、と言った。彼女の胸の裡では、きっと全く信じ難いことだった。
 学長や数人の教授たちを除けば、誰もヨーロッパへ行ったことがなかった。
 (対照的に、名誉博士号を授与されるために1988年にMuskingum を再訪したとき、教授たちのほとんど、大学院学生の多くは、何人かは二度以上、大陸へ行っていた。)
 人々は私の戦争話に、同情的に、しかし疑いながら、耳を傾けた。
 一つには、彼らは圧倒的に共和党支持者で、当時の共和党は孤立主義を選んでいた。
 しかし、政治論以上に、彼らは人間の善良さを信じていて、ドイツ人が私が描写するような悪魔だということに納得しなかった。
 あるとき、第一次大戦でベルギーについて判明したとしたドイツの(その言う)残虐性がいかに虚偽であるかを、想起させられた。
 読んだニーチェの言葉が頭をめぐった。このことから受けた衝撃で、この事実について知識を誇示する気になれなかったからだ。
 ある日、副学長がキャンパスを歩いている私を見つけて、同乗を勧めてくれた。
 我々が目的地に着いたとき、彼は簡単な講義をしてくれた。
 私にどんな体験があっても、人類への信頼を失ってはならない、人々は根本的には善良で、人生は公正だ、と彼は言った。
 彼は最後に、「ではまた。きみはニーチェを読んではいけない」と言った。
 実際、私はニーチェを読むのはもうやめていた。//
 (08) Muskingum での計5学期(semester)の間、アメリカとヨーロッパの間の多くの違いを観察することができた。
 (09) 一つの顕著な差違は、アメリカの若者たちは、ヨーロッパの私の世代の者なら夢物語だと感じるだろうような自信を持って、人生設計をしている、ということだ。彼らは未来に生きているように見えた。一方で、我々は、その日ごとの暮らしをしていた。
 雑誌〈Fortune〉を捲っていて、Maryland 損害保険会社の広告が目に止まった。こう書いてあった。
 「予測できないことが…人生の行路を変更したり形成したりしてはいけない」。
 本当に? 私は自問した。もしそうならば、私はなぜワルシャワからオハイオのNew Concord に来て、人生の行路をすっかり変えたのだろうか?
 この保険会社の言葉の背後にある暗黙の前提は、金銭は人生の望ましくない変化を逸らすことができる、ということだ。しかし、金では十分でない。このことを、私は体験で教えられた。
 アメリカの若者たちは、異なる進み方は溺死することだと確信して、潮流に沿って泳ぎながら、人生を開始しているように見えた。//
 ——
 第五章・大学①、終わり。

2510/R・パイプスの自伝(2003年)⑫—イタリア②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第四章の試訳のつづき。
 ——
 第一部/第四章・イタリア②。
 (12) このような悲劇的事態について、私は相談されなかったし、関与もしなかった。イタリアは、私には全くのパラダイスだった。
 学校も軍事教練もなく、Radonski はおらず、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))もアフリカのLimpopo 河もなかった!。
 私は毎日をのんびりと、ローマの美術館を訪れ、演奏会やオペラに通い、映画館へ行って過ごした。
 ポーランド大使館で世界じゅうの切手を収集し、ドイツ人難民の切手取扱業者に売って、これらを安価に楽しむ入場券代を得た。
 イタリア人が入場券を購入するとき、一定の映画鑑賞者がある言葉—「Dopolavoro」—を発しているのに、私は気づいた。これを言うと、半額で、通常は2リラのところを1リラで買うことができた。
 この言葉の意味を知ることなく、節約したい思いで、私は映画券を安くするために、さりげなく「Dopolavoro」と言ったものだ。
 のちにようやく、Dopolavoro(「労働の後」)とはファシストの労働者組織のことだと知った。
 このことはムッソリーニ独裁体制の弛緩ぶりを示している。誰も、私が会員であることの証明を要求しはしなかった。//
 (13) ローマには、ほとんど旅行者がいなかった。
 今日では混雑してフレスコ画をほとんど見ることのできないSistina Chapel は、いつ行っても、おそらく数人の旅行者しかいなかった。
 私は全ての美術館と画廊を訪れて、一度ならず、十分なメモを取った。
 スペイン広場の階段の上にあるドイツ芸術図書館で、数時間を過ごした。そこで、Giotto に関する企画書の資料を集めた。
 両親を通じて、若いポーランド・ユダヤ人女性と会って、友人になった。この人は、彼女の娘をポーランドから脱出させたいという望みをもって、上海からローマに来ていた。
 我々は一緒に美術館を訪れて、時間を過ごした。
 彼女は、私の唯一の同伴者だった。彼女が神経衰弱に罹って、彼女を失ったのは気の毒なことだった。//
 (14) 私の将来に関して、父親と衝突した。
 父親は、今の騒乱した世界では、しっかりした職業か事業を持たなければ私は生きていけないだろうと心配した。
 この当時の、1939年12月21日付の私の日記の初めに、こう書かれている。
 「私は、父親のつぎのような意見を拒絶した。私が学者になるというのは考え難い、いずれ、カナダのどこかの『チョコレート工場』で父親を継がなければならないだろう。
 〈Es kommt ausser Frage〉(問題外だ)、〈kommt nicht in Betracht〉(考慮外だ)、父親が私に言うことは。…
 自分のことは自分で決定する、自分がしたいことをするだろう、と私は分かっている。」//
 (15) 散発的に書き続けた日記から判断すると、今ではイタリアでの7ヶ月には楽しい思い出しかなかったようだ。しかし、幸せにはほど遠かった。孤独、郷愁に苦しみ、友人たちを懐かしく思い、将来のことで悩んでいた。//
 (16) フィレンツェ大学が外国人向けのイタリア芸術と文化の特別コースを提供していることを知り、出席させてくれるよう両親を説得した。
 完全に自分で行うこととした最初だった。
 3月半ば、母親はフィレンツェまで私に同行し、私がdei Benci 通りのユダヤ人女性の住戸区画の部屋を借りているのを知った。そこは、素晴らしいGiotto のフレスコ画のあるSanta Croce 教会の近くにあった。  
 私はその頃までに、講義を理解するためのイタリア語を増やしていた。
 誰とも親しくならなかったが、必要があるときは学生の誰かに、自分はラテン・アメリカ出身だと言った。
 イタリア文学の外国への影響に関する講義のときに、学生の一人が立ち上がって教授に向かって、聴衆の中にラテン・アメリカ人がいると伝えた。
 授業のあとで教授に紹介されたとき、その教授は私に向かって「素晴らしい、きみは私の家を訪れてきみの国の文学に関する全てを語ってくれたまえ」と言った。//
 (17) この出来事のあと、私は講義に出席するのをやめた。
 それ以降、ずっと一人で過ごした。フィレンツェの教会、美術館、そして市を囲む丘陵地を歩き回った。
 春で、花がいっぱい咲いていた。
 私はきわめて質素に生活した。
 主な昼食は、どの日も、種々の肉の欠片がかけられたパスタ、一杯のワイン、デザートのオレンジだった。それに7リラ(25USセント)支払った。快くほろ酔いになった。
 朝食と夕食に一日あたり5リラがかかり、家賃は一月120リラだった。
 今日まで60年間にあったインフレを少し考える。当時は700リラで一ヶ月を過ごすことができたが、それでは今日では一杯のエスプレッソも飲めないだろう。
 私は〈Osservatore Romano〉を読んで、戦争のニュースを追いかけ続けた。その新聞はVatican の公式の日刊紙で、適切な媒体だった。//
 (18) 私と同じアパートに、ドイツからの難民一家がいた。歯医者で、妻と娘がいた。
 私は本当の自分のことを話さなかったが、彼らは何も疑っていなかった。
 ほとんど6年後に、ベルリン出身のユダヤ人歯科医師の名簿をたまたま見る機会があった。
 私の知り合いを訪ねて、彼らはSomalia へ行き、そこからPalestine へと移ったということを知って、安心した。//
 (19) イタリア政府は、ドイツから、大部分は無視されていたその反ユダヤ諸法を実施するよう圧力を受け続けていた。
 1940年4月、政府当局はユダヤ人に不動産を貸すことを禁止する布令を施行した。
 私は転居せざるを得なくなり、Lungarno delle Grazie 10 のペンションの一部屋に移った。
 そこの賃借人のあとの二人は、フランス人女子学生と、イタリアの予備将校だった。
 我々は一緒に食事を摂った。
 思い出すのだが、あるときその将校が、かりに政府がフランスと戦闘することを命じたら、自分は武器を置いて降伏するつもりだ、と言った。
 私は唖然とした。ポーランドでは、ナツィ・ドイツやソヴィエト・ロシアでは勿論だが、そう発言したことがかりに報告されれば、将校は逮捕されて処刑されていただろう。
 ここでは、何事も起きなかった。//
 (20) ヨーロッパでは相対的な静穏さが続いていたが、父親は、可能なかぎりすみやかに我々を脱出させる決意だった。
 4月末、父親から、家族一の英語半会話者として、ナポリに同行するよう求められた。そこで、アメリカの領事にビザの発行を説くためだった。
 我々の要請は拒否された。我々の順番は6月になるだろう、と言われた。
 別れるときにアメリカの領事は、「I am sorry」と言った。この表現の仕方を聞くのは、初めてだった。//
 (21) ヨーロッパの危機が迫って来ていた。
 5月10日、ドイツがベルギーとオランダに侵攻した、とフランスの女の子に告げるために家へと急いだ。
 彼女は、出立しようとすぐに荷造りをした。
 2日後、両親から、ローマに戻るようにとの電話があった。
 両親は、我々の移住ビザが6月1日に用意されると、米国の領事から知らされたようだった。
 私は5月13日にローマに戻り、その月の残りをPiamonte 通りで過ごした。
 ドイツ軍は再び、驚異的な早さで前進していた。
 オランダは5月14日に、ベルギーは5月26日に、降伏した。
 ドイツ軍は6月の初めまでに、フランス内部へ深く侵攻し、連合軍は総退却した。
 ムッソリーニはもうすぐヒトラーに加わって宣戦するだろう、と予期された。//
 (22) 6月3日、母親が、アメリカのビザを受け取りにナポリへ行った。
 数日前に、父親は、スペインの通過ビザを得ていた。
 戦争熱の高まりの中で、スペインへの移動手段を獲得するのはきわめて困難だった。しかし、父親は、スペインのBalearic 諸島のPalmas 行きの水上飛行機の切符2枚を何とか確保した。
 父親と私が、兵役年齢で、それを理由に戦争中は勾留されるかもしれなかったので、その飛行機で出発し、母親は船で追いかける、と決定された。//
 (23) 6月5日、父親と私はスペインへと出発した。
 間一髪だった。我々はのちに知ったのだが、まさにその日に、イギリスとフランスの国民は人質として役立つべくイタリアを離れるのを禁止された。
 我々が自由にすることができるいかなる保証もなかった。
 ラテン・アメリカとポーランドの旅券を携帯して、我々はタクシーで空港へ行った。ポーランドの旅券はスペインとアメリカの二つのビザを伴っていたが、イタリアが我々をラテン・アメリカ人として登録するかは不確実だったので、前者はスペインのビザだけだった。
 父親が私に、搭乗ゲートにいる職員の後ろを盗み見して、気づかれないように我々の名前の次に公民権が記入されているかを覗くよう、頼んだ。
 消極の(記入されていないとの)合図を送ると、我々に同行した友人たちは、ニセの旅券を隠していたオレンジ入りの袋を母親から取り去った。
 その友人たちから、戦争後になって、イタリアの警察がその数日後にPiemonte 通りに来て、我々を逮捕しようとした、と聞かされた。//
 (24) 飛行機は離陸し、やがてPalmas に着いた。
 降りるとき、父親が帽子を挙げて「イタリア、万歳!」と叫んだ。イタリアの航空士は父親をスペイン人と思ったらしく、「エスパーニャ、万歳」と答えた。
 我々はその夜、船でバルセロナへ向かった。
 その船は、最近に解放された共和国の戦争捕虜たちで満杯だった。その中の一人と、私は会話した。
 バルセロナに到着したのは、6月6日だった。//
 (25) その間に母親は、ココ(Coco,愛犬)と荷物とともにGenoa へ行き、6月6日に、バルセロナ行きの〈Franca Fassio〉という名の船に乗った。
 出航する前に、母親はポーランド・ユダヤの知人が下船させられるのを防いだ。自分は兵役年齢のその青年の婚約者だ、というふりをしてだった。
 イタリアの役人たちが、二人の関係を証明できる人物を知りたがった。
 母親は、ローマにいるポーランド大使の名を挙げた。
 役人たちは実際に、彼に電話した。
 大使のWieniawa はすぐに出て、母親と青年はまだ結婚していないのか、と驚きを込めて言った。それで、その青年は解放された。
 母親が乗った船はつぎの夜(6月7日)に着岸した。
 好ましい別れの挨拶から判断するに、母親は乗船者の半分と親しくなったようだ。//
 (26) 我々は、二週間半をスペインで過ごした。
 この期間の記憶はほとんど残っていない。例外的に憶えているのは、フランスが降伏したのを知ったこと、ひどいフランス語で発せられ、フランスにイギリスとの同盟を提示したChurchill の演説を聴いたこと、だ。
 6月24日に、ポルトガルに向けて出立した。そこで、アメリカ合衆国まで我々を運んでくれる船を見つけるつもりだった。
 リスボンに着くまでに、フランスからの避難民が続々と乗り込んできた。多くの人々が同じ目的を心の裡に持っていた。アメリカへ渡ること。
 アメリカの乗客には優先権が与えられたので、我々が大西洋を横断することのできる船を見つけるのは、きわめて困難だった。
 やっと、〈Nea Hellas 丸〉という小さなギリシアの船に、船室の余裕を発見した。
 その船はニューヨークから来ていて、アテネまで航行する途中だった。だが、イタリアが参戦し、地中海は戦闘海域に入った。
 それで、乗客を完全に埋めることなく、引き返すことになっていた。
 7月2日に、乗船した。そして、翌朝に出航した。
 我々は、普通の三等船室で旅行した。
 食事は何とか食べられるもので(残しておいたメニュのある料理は「Chou ndolma Horientalep」だ)、ワイン(retsina,ギリシャワイン)は飲めなかった。
 ほんの数人のギリシャ人が乗っていた。彼らはアメリカを追放されていて、戻るのは決して不運ではなかった。
 最も注目した乗客は、Maurice Maeterlinck で、この人は19世紀遅くの著名な作家かつ戯曲家だった。今では忘れられ、読まれていない。
 好天のもとで、彼は一等の甲板で、ヘアネットを付けてゆったりと横になっていた。
 私は彼の写真をもらった。
 ドイツの潜水艦が停まって我々を探す危険がある程度はあったけれども、何事も起きずに船旅は過ぎた。
 (27) 1940年7月11日、New Jersey 州のHoboken に接岸した。
 その日は、私の17歳の誕生日だった。
 ——
 第一部第四章、終わり。

2509/R・パイプスの自伝(2003年)⑪—イタリア①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
 すでに、アメリカのCollege (オハイオ州)、軍隊を経て1945-46年の結婚とHarvard の大学院(Graduate School)進学、のあたりまで、通読し了えた(最後の二つはほぼ同時期で、かつ第二部に入っている)。
 興味はさらに先に進んでいるが、引き返して、イタリアでの生活から試訳掲載を続ける。通読と英語文をいちおうはきちんと日本語に置き換えるのとでは100倍以上の差の労力を要する、とあらためて感じている。
 米国東海岸に着いたのが著者の17歳の誕生日だった。以下は、最後を除いて、著者が16歳のときのこと。
 ①10月27日、偽造旅券でワルシャワ出発。<1939年>
 ②10月29日、ローマまでの切符購入してBreslau(Wroclaw,ポーランド)出発。
 ③ 同、Dresden 経由でMünchen へ(ドイツ)、乗り換えてInnsbrück (オーストリア)着。いったん降ろされる。
 ④10月30日、ローマ着。(イタリア)
 ⑤ 6月 5日、ローマ出発。<1940年>
 ⑥ 6月 6日、バルセロナ着(スペイン)。翌日、母親と合流。
 ⑦ 6月24日、リスボン(ポルトガル)へ向けて出発。
 ⑧ 7月 2日、リスボンで乗船。翌朝、出航。
 ⑨ 7月11日、米国New Jersey 州のHoboken に着岸。
 第二次大戦勃発後と著者たちがユダヤ・(被占領)ポーランド人だという事情からだろう、この八ヶ月余の記述は、きわめてsuspenseful だ。
 なお、Lwow という地名が出てくるが、これはポーランド語表現で、ドイツ語ではLemberg、ウクライナ語ではLiviu (リビウ,リヴィウ)。このGalicia 地方の中心都市で、著者の父親は(とこの時点での将来の妻の父親も)生まれている。
——
 第一部/第四章・イタリア①。
 (01) 〔1939年〕10月30日月曜の午前に、ローマに到着した。
 荷物を駅に預けて、街の中に歩いて入った。素晴らしい噴水のあるPiazza Esedra を横切り、右に曲がってNationale 通りに入った。
 一日じゅう、素敵な秋の日だった。
 父親が、多くのヨーロッパの首都に知人がいるが不幸にもローマでは誰も知らない、と言った。
 そう言った数分後に、誰かが叫んだ。
 「Pipes !」
 我々は振り返った。
 叫び声はRoberto de Spuches という名のイタリアの事業家のもので、この人は戦争前はワルシャワに住んでいた。
 我々にとってじつに幸運な出会いだった。後で判明したように、De Spuches は、父親を知っている唯一のイタリア人だったからだ。
 100万人以上の人口をもつローマで、この特定の瞬間に、この特定の場所に彼が現れたのは全くの偶然にすぎなかった、と考えるのは困難だ。  
 De Spuches は、鉄道駅近くの手頃なペンションに我々が落ち着くのを助けてくれた。
 我々は小銭を持っていなかった。私はその夕方の食事のために、数枚の切手を30リラ(せいぜい1米ドル)で売らなければならなかった。
 翌日、父親は金を送るようストックホルムに電報を打った。それで楽になった。//
 (02) ポーランドは存在しなくなったけれども、ドイツの同盟国ではあったイタリアは、1940年に参戦するまで、ローマのポーランド大使館が機能し続けるのを許した。
 これは我々には、大きな恩恵だった。父親はかつて装甲部隊の将軍で、ポーランド軍団の将校だった大使のBoleslaw Wieniawa Dlugoszowski を知っていた。この人は、大戦間はPilsudski の忠実な支持者で、有名なワルシャワのプレイボーイだった。
 のちに父親から教えられたことだが、父親がイタリアを目的地として選んだ理由はこのWieniawa の存在にあった。
 父親がBeccaria 通りにある大使館で長時間話し込んだ将軍は、大いに助けてくれた。今後の旅行のためのポーランドのビザ(査証)を発行し、イタリア当局との関係を円滑にしてくれ、ローマにいるアメリカ合衆国の領事に父親を紹介してくれた。さらには、いくつかのローマの社交界すら紹介してくれた。父親はその名称をひどく誇りに感じた。//
 (03) 我々は、到着後すぐに警察に外国人として登録する必要があった。
 私は父親とDe Spuches 夫人が州警察へ行くのに同行した。その警察本部はPiazza del Collegio Romano にあり、ムッソリーニ宮殿に近い鬱陶しい所だった。
 気難しいファシスト警察官は、我々のラテン・アメリカの旅券を捲って読み、父親に個人名を尋ねた。Mark だ。
 「Marco はユダヤ人の名前だ」と、彼はきっぱりと言った。
 父親は抗議した。「どうして? 聖マルコはどうなるのだ?」
 これにその警察官は答えなかった。
 もちろん彼は聖マルコはユダヤ人だと答えることができただろう。但し、彼にはウィット(wit)がなかった。
 彼は同僚と相談すると言って、去った。
 父親はその時間を利用して、ポーランド大使館に電話をした。
 問題は、満足できるように解決した。そして、今後三ヶ月間ローマに滞在することが許可された。その期間は、のちに延長された。
 (04) 父親は、戦争はヨーロッパの残りにまで拡大すると考えていた。そしてできるだけ早く、海外へと我々を出発させたかった。
 彼の最初の選択先は、カナダだった。我々は(間違いだったが)カナダはより「ヨーロッパ的」で、米国よりも我々が適応するのが容易だと考えていたからだ。主として映画を通じて我々が知っていた米国は、慌ただしく活動する、極端に性急な国だった。
 しかし、相当に巨額の現金を預託しないかぎり、カナダは移民を受け入れなかった。
 米国は、1920年代以降、東ヨーロッパ人を差別する国の基準にしたがって、移入者ビザを発行していた。
 1939年12月、領事X氏がローマに来て、我々が置いてきたポーランドの身分証明書を渡した。
 それにはBurger 一家による宣誓証明書も付いていて、我々は、アメリカのビザを申請し、しばらくの間、待った。
 その後の六ヶ月は、〈座っての戦争(Sitzkrieg)〉または「電話戦争」の期間だった。その間、連合国とドイツは、西部戦線で動かないまま対峙していた。
 公海での戦闘があり、ドイツはデンマークとノルウェイを占領し、ロシアはフィンランドと戦った。
 しかし、イタリアでは不満が簡単に大きくなった。
 イタリアのファシスト政権は、ナツィ・ドイツやソヴィエト同盟の政府とほとんど似ていなかった。
 イタリア人には狂熱に陥る傾向がなく、「全体主義」(ムッソリーニが誇らしげに自らの体制について用いた言葉)として通用したものの多くは、ファシストたちも含めて誰も真面目には受け取っていない喜歌劇(oper buffa)だった。
 父親はさまざまの事業取引を行なった。私は何も知らなかったが、それは当時はニューヨークのある銀行の金庫に移されていた我々の資産からいっさい引き出すことをしないで、慎ましく生活するには十分な毎月約100ドルの金銭をもたらしたようだった。//
 (05) 一ヶ月後、ペンションを出て、街の中心にあるRassella 通り131番地5号区画の一部屋へと転居した。
 その通りでは1944年3月に、イタリアのパルティザンがドイツ軍事警察の派遣部隊を攻撃することになる。ドイツは報復して、335人の民間人を手当たり次第に集め、Ardeantine 洞穴で虐殺した。
 暖房のない建物での、スラムに近い条件での生活で、少しばかりみじめな存在だった。
 父親は、1940年1月のBurger 一家あて手紙で、我々の家主女性をこう描写した。
 「電気の『太陽』を脚元すぐそばに置かないと、この手紙で少しも書けないだろう。
 これを家主が見つけたらどうなるだろうと怖れて震えている。
 私のアメリカの銀行口座は彼女に支払うのに十分でない。
 ナポリの魔女の耳を塞げるなら、喜んでそうするだろう。
 彼女の性格はひどく悪くはないが、話すときは金切り声で叫ぶようだ。午前中はとくに下品だ。
 彼女は歯が欠けていて、魔女のように脚を引き摺る。片手にほうきを、もう一方に室内用便器を抱えているとき、私はすぐに外套を目指して走って、寒いローマの外気の中へと出る。
 我々の暮らしをひどくしているのは居住区画だけだ。
 我々は節約しなければならなず、その理由で相当に慎ましく生活しなければならない。」
 幸いに、三月に、我々はPiemonte 通りの快適な住戸に引っ越すことができた。//
 (06) 父親は、ポーランド大使の助けを借りて、ポーランドにいる我々一族のために、また私の友人のOlek のためにすらも、旅券やビザを入手した。
 それらは多様な使者によって、ワルシャワに送られた。//
 (07) Olek と私は、一週間に少なくとも一度、ときには二度定期的に手紙を交換した。検閲過程を早く済ませるために、ときどきはポーランド語でだったが、ふつうはドイツ語で書いた。
 全て残しておいたのだが、彼の手紙を読んでも、ポーランドで異様なことが起きているとは、誰も分からないだろう。
 私の友人はたいてい退屈さを嘆いていて、ギリシア語やイタリア語を勉強し、Prust やPirandello を読み、友人たちを訪れてそれを和らげていた。
 彼の手紙を集めてみると、私は突然にドイツが占領するポーランドから消えたので、友人たちには私の生存を疑えるような現象が発生したと思えたようだった。
 Olek は四月に、ハンガリー旅行公社のIbusz を通じて、イタリアへ出立するに必要な全ての書類を受け取った。
 彼—またはその母親も—懸命になって必要なドイツの許可を得ようと活動した。
 時間との闘いだった。我々はアメリカのビザを受け取ればただちにイタリアを出るということを、何ら隠していなかったのだから。
 ドイツの許可が出た。しかし、イタリアはそのときまでに入国ビザの発行を停止し、ドイツは彼の旅行を調整していたハンガリー旅行公社を閉鎖した。
 そうして、Olek はワルシャワにとどまり、ホロコーストの全ての恐怖を経験することになる。//
 (08) 我々の一族に対して切に懇願し、頻繁に手紙をやり取りしたにもかかわらず、父親の努力は実らなかった。
 いろいろな理由で、誰一人来なかった。何人かは生き延びたが、戦争後すぐに、肉体的にも精神的にも消耗し果てた。//
 (09) 父親がとくに心配したのは、妹のRose とその二人の男の子、そして夫を失っていた彼の母親だった。
 戦争が勃発したとき、Rose の夫のIsrael Pfeffer はCracow を離れてポーランド東部へ行ったのだが、共通の事業であるPiscinger チョコレート工場の仕事に従事するよう妻に説得された。
 妻と二人の息子はガリツィア(Garicia)の小さな町に落ち着いた。
 ロシアがポーランド東部を占領したとき、Pfeffer は家族から切り離されたと知った。ドイツがPiscinger 工場を稼働させるのを助けて得た金銭の一部を彼らに送ることはいつでも可能だったけれども。
 父親は必死になって彼らをイタリアに迎えようとした。
 彼は義弟に、妹たちをドイツ領域へ転居させるよう嘆願した。そこからは国外へ旅行することができる。
 父親は1940年1月に、たしかStueckgold という人物と会った。彼は父親に、自分のLwow(リビウ(リヴィウ),ルヴフ,Lemberg(レンベルク))に住む息子は、ソヴィエト地域とドイツに占領されたポーランドの境界を越える方法をよく知っている、と言った。
 父親は電報を打って、妹がその息子と接触するよう取り決めた。この人物を、たまたま子ども時代に同じ学校に通っていたため、私は知っていた。
 この問題について父親が私に相談してくれていたならば、私はStueckgold を信用してはいけないと父親に警告していただろう。子どものときですら、彼は不正直で有名だったのだから。
 いかさま師は私の叔母に、国境を越える代償として彼女の宝石類を引き渡すよう求めた。
 純真な女性は、そうした。//
 (10) 2月末に、Lwow(ルヴフ,リビウ)から電報が届いた。電報があったことはソヴィエト同盟とファシスト・イタリア間の親近性を示すもので、ソ連はそのような情報連絡を許していた。
 それを読んで、母親は私に、すぐに父親に渡すよう求めた。父親は、Trevi の泉近くのお気に入りのハンガリー・レストランで昼食を摂っていた。
 それには、(ドイツ語で)こう書かれていた。
 「Stueckgold 、金を持って消失。旅行は三週間延期。よるべなく、資金もなし。今後のこと、Lwow へ電信を。」
 父親は電報を読むと蒼白になり、数週間床に臥した。
 それは、父親の妹、母親、甥たちへの死刑判決だった。
 彼の母親は、翌年の5月に自然死した。だが、1943年のいつかに、ドイツは妹のRose と二人の少年を殺した。
 そのときまで、彼らはLwow の近くの町に隠れて生活していた。
 私の推測では、ポーランド人かウクライナ人の誰かが、彼らを裏切った。
 Pfeffer はその地位にとどまり、我々がアメリカに着いた後にチョコレートの調材法を父親に送ってきたりすらした。だが、新しいドイツの所有者のために仕事をしたのち、Auschwitz に送られ、二度と便りが来なかった。//
 (11) 母親が残していた当時の父親の文通書類は、ポーランド、リトゥアニア、ソ連からの助けを求める手紙でいっぱいだ。
 それらは、検閲をごまかすためだったが、「Arnold はDick に逢いたい」というような幼稚な暗号文で書かれていた。
 父親は、必死になって、助けようとした。だが、その努力はほとんど実らなかった。—なぜか、私には分からない。
 選んだどこの国へでも旅行することができる時代には、アメリカ人が「ビザ(査証)」という言葉が我々、戦争中のユダヤ人難民、に対して持った意味を想像するのは困難だ。それは生(life)のことだった。
 キューバ、ブラジル、あるいは上海への入国許可を得るために、超人的な努力が費やされた。—一時的な避難場所以外にはどこへも行けない「通過ビザ」を得るためにであってすらも。//
 ——
 ②へつづく。

2508/M・ガブリエル2018年著の一部②。

 Markus Gabriel, Der Sinn des Denken(2018年)。 
 ドイツ語文を試訳する。前回とは別の箇所。邦訳書はないように見える。
 ——
 第五章/現実とシミュレーション。
 第10節・両性をもつ現実(Das Zwitterwesen Wirklichkeit)
 (01) 現実には二つの面がある。
 第一に、何ものも現実には帰属せず、何らかの概念を分有しない。
 第二に、何ものも現実的でなく、我々がそれに欺かれることはありえない。
 以下に述べることは、この対比を鮮明にするだろう。
 一方には、絶対的な観念論(Idealismus)の立場があり、G. W. F. ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)はこれを支持する。
 この立場は、著名な箇所でこう概括する(ヘーゲルの二文)。
 「理性的なものは、現実だ。
  現実的なものは、理性的だ。」
 観念論の主要イデーは、何かが現実的であるときにのみそれは情報を提示することができ、ゆえに原理的にそれは何らかのシステムにとって解釈可能なものになる、というものだ。
 我々の情報時代は、この主要イデーの上に強固に築かれている。
 デジタル革命と展望される全面的ネット化は、まさにこの観念論を技術的に転換したものだ。
 (02) だが、これでは現実の一面しか把握できない。
 観念論者は決まって、現実を把握し、それに適合して我々の諸観念を形成するように、我々の能力を限定する。
 いわゆる超人間主義(Transhuanismus)の過激な変種では、観念論は、我々の生物的本性の克服すらを追い求める。
 これに対して、観念論を人間主義と結びつける観念論のLeipzig 学派の現代哲学は(とくに、James Conant、Andrea Kern、Sebastian Rödl、Pirmin Stekeler-Weithofer)、自己意識的な人間の生を概念の概念だと見なす。(注210, Kern=Kietzmann, Stekeler-Weithofer)//
 (03) 超人間主義は、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の超人(Übermensch)という幻想を技術の進歩によって実現しようとする企てだ。
 ニーチェは、もはや生物学的情報空間に生きていない、純粋な情報空間としての人間のより高次の存在形態を追求した。
 ここで読者は、Spike Jones の映画〈彼女〉に出てくるSamantha という名前の完全に人工的な知識人、あるいは例えば〈Black Mirror〉や〈Electric Dreams〉にある何か別の未来主義的な観念を思い浮かべてよいだろう。
 観念論は、超人間主義の世界像を間接的に支えている。ヘーゲルも現代のドイツの観念論者も(パラダイム的にLeipzig とHeidelberg の大学で主張される)、超えられない普遍的な高地の一つとして現実を基盤的に人間に根づかせようと企てているのだけれども。(注211, Friedrich Koch)//
 (04) 現実のもう一方の面、すなわち、我々は自分たちを欺くことができるという側面は、絶対的な観念論の範囲では当然に、適切には把握されない。
 そのゆえに、観念論はかつても今も、実存主義(Realismus)と対立する。
 (05) 実存主義は、我々は我々の見解を現実の状況に適応させなければならない、ということが、現実の決定的な標識だと見なす。
 これに従えば、現実は全てが我々の認識装置に適応したものであるわけではない。
 現実は、我々にそう思われるのとは全く別のものであり得る。
 実存主義はそのかぎりで、現実の理解を、我々を絶えず驚愕させることのできる状況に適応させる。
 実存主義によって、たしかに、現実は認識可能であり、我々はつねに欺かれるわけではない、ということが際立つ。
 だが、これは、現実はそのゆえに我々に適応したものだ、ということを意味しない。そうでなく、我々は多くのことを認識し、その他のものは認識しない、ということをたんに意味する。
 現実は原理的に認識可能なのか、そうでないのか、という問題を、新実在主義(Neue Realismus)は克服しない。なぜなら、現実は全包括的な対象領域なので、イデーは一貫して裏切られるからだ。
 反面で現実が態様範疇(Modalkategorie)であるならば、現実は原理的には認識可能だ。//
 (06) フランスの現代哲学は、この論脈で、ハイデガー(Heidegger)の後期哲学の『Ereignis』(事象)に依拠して語っている。
 ハイデガーはそこでは、むろん区別されるのだが、H・ベルクソン(Henri Bergson)を借用していた。
 ベルクソンはドイツでは低い評価しか享けておらず、それはまさにハイデガーが彼を中傷したからだ。 
 ベルクソンは当時の目線で、Albert Einstein その他の者と闘い、とりわけ1927年のその書の高い性質にもとづいて、ノーベル文学賞を受けた。
 ベルクソンとアインシュタインは良い関係でなかった。そのことで、最終的にはベルクソンの声価が傷ついた。//
 ——
 以下、省略。

2507/M・ガブリエル2018年著の一部。

 Markus Gabriel, Der Sinn des Denken(2018年)。
 =Markus Gabriel, The Meaning of Thought (2020年)。
 久しぶりに、ドイツ語から試訳する。邦訳書はないように見える。
 ——
 第五章/現実とシミュレーション。
 第17節・きのこ(Champignons)、シャンパン(Champagner)と思考の思考との区別。
 <省略>
 (20) ここまで読んできた読者ならば、とっくに思考に関して思考することを学んだだろう。
 アリストテレスの文章に貴方たちは、ひょっとすれば多少とも直接に納得するだろう。
 そしてまた、明らかになってきているはずなのは、全ての思考が思考されなかったことを対象としているわけではなく、ゆえに全ての思考が無意識の過程を説明しているわけではない、ということだ。
 我々は、…思考の諸理論を発展させる力をもつことを認めなければならない。そうでなければ、真(echt)の認識物と知的に昇華された権力闘争を区別する規準をもはや持たないだろうから。
 (21) このことは、フーコー(Foucault)やその師匠(Meister)のニーチェ(Nietzsche)についても言える。この二人は、どのようにして力への無意識の意思や隠された専門化の方法に関する彼らの考察に立ち至ったかを、説明することができない。これらは、我々の意識的な思考の全体を組み立てるはずのものであるのだが。
 貴方たちは自分たちは例外たる地位に置かれていると不満に思う。ちなみにそれは、ニーチェが恥知らずにも奴隷状態を正当化するために用いたものだ。(注247, Nietzsche)
 (22) 我々にはゆえに、二つの選択肢がある。
 我々は、たびたび真実と事実を我々の利己的利益よりも優先する、理性的で精神的な生物(Lebenwesen)であることができるという観念から完全に決別するか、それとも、純粋な思考(reines Denken)がある、ということを受け容れるか。
 (23) むろん、純粋な思考は生物が行うことだ。
 人間は、理性または純粋な思考だけではない。そうではなく、生の営為がしばしば我々の思考過程に関する省察のかたちをとる生物だ。
 「なぜなら、純粋な思考の現実は、生であるからだ」。(注248, Aristoteles)
 ——
 第18節へ続いている。

2506/西尾幹二批判058—「自由」論②。

 (つづき)
  「自由」というものは、それ自体は「善」でも「正」でも「美」でもない、つまり<良いもの>という価値判断を伴ってはいないものだ、と秋月は理解している。
 さしあたり、全面的に支持しているわけでは全くないが、前回に触れたL・コワコフスキの「自由」論を参照すると、そこでは一定の<選択可能性>や一定の<力(能力)>が、「自由」概念のもとで意味されている。
 彼における「自由」の問題領域の一つは、「自由な意思」形成の範囲・能力の問題は別として、<人間>として(厳密にはおそらく「神経系」または「精神」の完全な障害者や乳幼児を含む「未成年者」を別として)元来はもつ、または原理的にもち得る「人間としての自由」だ。この範囲では「良い・悪い」等の価値判断は付着していないと思われる。
 もう一つは「社会の一構成員としての人の自由」を対象とする「社会的な行動の自由(freedom)」だ。ここでは、どのような「社会」の構成員であるかによって「自由」の範囲・内容・強度等は異なってくるが、原理的に「社会の一構成員としての人の自由」と言う場合、それ自体に「良い・悪い」等の価値判断は付着していないと見られる。
 しかるに、西尾幹二の場合はどうか
 西尾幹二の「自由」論の特徴は、第二に、「自由」の観念にすでに一定の、つまり<良いもの>という価値判断を付着させていることがある、ということだ。
 これは、西尾における「自由」の意味の不明瞭さの現れでもあり、同じ一つの書物の中ですら、「自由」の意味がブレていることをも示している。
 すなわち、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)の中のつぎの文章に出てくる「自由」は、いったい何を意味しているのだろうか。だが、少なくとも、何か<良いもの>・<素晴らしいもの>を意味させていることは明らかだろう。
 ①「幼くして親元を離れて上野駅に集まった『金の卵』の労働者たち」は、「一人前の大人」・「社会人」となるよう徹底的に叩き込まれた。「生きて、働いて、成功しなければならなかった」。
 「彼らこそほかでもない、最も自由な人たちでした。」—p.81。
 ②「藤田幽谷は天皇を背にして幕府と戦いました。
 あの時代にして最大級の『自由』の発現でした。」
 「私たちもまた天皇を背にして、…グローバリズムに、怯むことなく立ち向かうことが『自由』の発現であるように生きることをためらう理由があるでしょうか。」—p.205。
 これらの「自由」の意味は何か、「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まる」等々の同じ書物の中の<思弁的な>叙述とどういう関係にあるのか、西尾に問うてみたいものだ。
 もっとも、その箇所ごとで懸命に書いた表現・レトリックなのだから意味不明等があって当然だ、「矛盾」・「辻褄」を問題にされること自体が本意に反する、という反駁?を受けるかもしれない。
 ----
 岩田温は西尾・あなたは自由か(2018)で「最も感銘を受けた」のは藤田幽谷に関する逸話であり、上の②の前半の叙述は「日本人であることを強烈に意識し、自らの宿命に生きた幽谷こそが最も自由だったのではないか」という指摘だ、という印象をとくに語っている。
 西尾=岩田温(対談)・月刊WiLL2019年4月号、対談再末尾のp.235。
 岩田温も西尾と同様の「感受性」をもつようだ。
 だが、藤田幽谷に関して、突如として「あの時代にして、最大級の『自由』の発現」だったという表現が出てきたので驚き、新鮮に感じた、というだけのことではないだろうか。
 岩田は、ここでの「自由」の意味を説明できるだろうか? まんまと西尾幹二のレトリックあるいはトリックに引っ掛かっただけのようにも思える。
 もちろん、藤田幽谷が「最大級の自由の発現」者だったかは、その意味も含めて問題になり得る。一部の「勤皇」志士たちを通じて明治維新に一定の影響を与えたとかりにしても、その後の明治の日本は彼の思いとは相当に異なる方向に進んだと考えられる。
 --------
   西尾幹二・あなたは自由か(2018)の第一章に叙述されているFreedom とLiberty の区別に関する論述は、A. Smith の「自由」はLiberty だという認識も含めて間違っている、ということは、すでに何度も触れた。
 したがって、エピクテトスの「自由」は「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想もしていない自由」だといった得意げな叙述も(p.43-)、まったく予想できないほどに奇妙だ。
 じつは秋月は、上の書の後半は全く読んでいない。途中で読むのが馬鹿々々しくなったからだ。
 だが、同書「あとがき」によると、出版・編集担当者の湯原法史(当時、筑摩書房)は、原稿一読後にこんな私信を西尾に寄せたらしい(以下は記載されているものの一部)。
 「思いもしない章別構成であるうえに、論旨の展開が寄せては返す波のようで、そこに目を奪われるような解釈と発見が相次いで現われ、…」。
 自ら執筆・出版を依頼した編集担当者だけに、気苦労は大変だったのだろう。自らが責任を持った書物の出版は、会社内ではもちろん「業績」の一つになる。
 ともあれ、「論旨の展開が寄せては返す波のようで」とは、論旨の一貫性のなさ、「自由」という観念が不明瞭なままだらだらと続いていること、を示していると「解釈」することもできる。
 出版社・新聞社の編集者たちはどのような「素養」・「教養」・「(潜在)意識」を持っているのかは、近年の関心の対象の一つだ。
 湯原法史、1951年?生、1974年3月、早稲田大学第一文学部卒業
 ついでながら、つぎの二人も、同じ大学、同じ学部(早稲田大学第一文学部)の出身者のようだ。適菜については少なくとも「早稲田大学」で「西洋文学」を学んだことは確からしい。
 桑原聡(1957年〜、元月刊正論編集代表)、適菜収(1975年〜、かつての月刊正論に「哲学者」だけの肩書きで執筆。藤井聡(京都大学)との対談書あり)。
 ----
  西尾幹二・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)での「自由」概念も、一貫して不明瞭だ。
 この書物では、時期・時代の影響があったのは間違いなく、「自由主義(・資本主義)」対「社会主義・共産主義」という構図の中で(曖昧に)「自由」が把握されている。
 そして、近年まで一貫しているわけでは全くないことも興味深いが、つぎのような認識・把握・主張がなされているようだ。この当時の他の書物の一部でのそれらも加える。
 ①社会主義に欠けた「古典的自由」とそれが充たされたうえでのいわば新しい「自由」。
 ②「自由主義(・資本主義)」諸国での「充たされた自由」(または「自由」を獲得した旧社会主義諸国)に潜む「自由」の「悲劇」という深淵(西尾のかつてのお得意のテーゼ・命題?、決まりフレーズだ)。
 ③(スターリンやヒトラーによる)「前期全体主義」ではない言わば新型・後期の「全体主義」が、新しい「自由」から出現する、という予感。
 上の①は別として、それ以外は、<思いつき>、<ひらめき>あるいは<レトリック的妄想>の類で、意味内容やその論拠・徴候が詳細に論述されているわけではない。
 また、どうやら近年では、上のようなことを書かなくなったようだ。
 だが、「自由」に関係して興味深くはあるので、別の機会に言及するかもしれない。
 ——

2505/西尾幹二批判057—「自由」論①。

  「自由」は、西尾幹二にとっての「生涯」の主題のようだ。
 同・あなたは自由か(ちくま新書、2018)で、こう書いている。p.205。
 「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました。」
 また、『自由の悲劇』と題する新書(講談社現代新書、1990)もあり、それを収めた同じ表題の巻が全集の中にある。
 しかし、西尾の<自由論>の最大の特徴は、第一に、上に引用の文も含めて、そもそも「自由」の意味・意義が明瞭ではなく、法学・政治学・経済学等の社会系はもちろん「哲学」系でもなく、ほとんど「文学」的にまたは「文芸評論」的にこの語・概念が把握されていて、おそらくその結果だろう、暫定的、仮定的にすら何の「定義」も示されていないことだ。
 他の多くの言葉と同様に、西尾にとっては、極論すれば、言葉やその集合の文章は「味合う」もの、「感動を与える(べき)」ものであって、厳密に分析したり、正確な意味内容を追求すべきものではないのだ。ここにすでに、少なくとも秋月が不思議さ、大きな違和感を覚える点がある。
 ----
 西尾もまた叙述しながら自分で戸惑うことがあるようで、例えば、同・あなたは自由か(2018)第二章3「自由は量の概念ではなく、量と質の問題でもない」では、こんなことを呟いている。p.115〜p.117。
 「自由」概念をあれこれ語ったが、「その概念にふさわしいものの言い方」をしてきたか、「疑問もあります」。自由の「過剰」を語ったりその「収縮」を語ったりしたが、「自由」は「量的概念として扱われるには決してふさわしい概念ではありません」。「さりとて質的概念」だとして「正反対の概念を持ち出しても」、自由の「説明には役に立ちそうもない」。「質の上下の問題は、結局のところ量的な価値判断に再び還元されてしまうのです」。「こうした場合、本当に自分の自由が増大したのかどうかは誰にも分からないのが常です」。
 人間には「『自由』は存在しない、という明白な認識にあえて踏み込むべきだ」と言っていいいかもしれないが、この当否は「今しばらく不問にしておきたい」
 「不自由」が宿命であるのは「自明の理」だが「生への情念」を抱える以上、その「不自由」を「必然であり、かつ運命であると…説教師ふうに断案することに私はためらいがあります」。
 「さりとて、『自由』は可能であり、どういう瞬間にどういう形態で人間は真の『自由』に襲われるものであるかを、具体的に明らかにすることは私には不可能でもあります」。「考えれば、私は何も分かっていないのです」。
 ここで区切る。以上は新書の二頁ぶんの抜粋引用。こんな文章を読まされる読者は気の毒だし、書き写すのもアホらしいのだが。
 そうなっている根源は、西尾幹二における「自由」という観念が全く明晰ではなく、いわば<情緒>的言葉として使われているにすぎないことにあるだろう。
 同じ表題での最後のまとめ的な部分には。つぎの文章がある。p.118。
 「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
 おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。
 はて、西尾が「想像」するという「自由」は「…何ものか」を、読者は理解することができるだろうか。
 あえて言って、文章書きとして<悲惨>だ。むろん「思想家」ではない。
 読んだときの感想として、手元にある現書のp.115-p.119の余白部分には、違う二箇所にいずれも、「笑」・「わけがわからない」という、たぶん数年前の私の手書き文字が記入されている。
 --------
  この欄に昨年、L・コワコフスキのつぎの著作の一部の試訳を掲載した。邦訳書はない。 
 Leszek Kolakowski, Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 =レシェク.コワコフスキ・自由,名声, 嘘つき,背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 その中に「自由について」(On Freedom)と題する章があった(第13章。第18章まである)。
 小ぶりの書物で、一頁あたり(横書き)26行で、この章はわずか9頁余りあるにすぎない(2回に分けての掲載で済んでいる)。→No.2374〜5/2021.05.25〜05.26.
 大きな期待もせず、所持しているL. Kolakowski の書物だからというだけで試訳してみたのだったが、「自由について」の部分だけで、上の西尾幹二・あなたは自由か(2018年)よりもはるかに分かりやすい。また、再言及はしないが、内容的にも教示的で刺激的だ。
 その根本的理由は、概念や論述対象の明瞭さだ。
 冒頭の、決して長くはない計二段落の文章を、さらに抜粋的に要約してみる。
 ①自由の問題に関する思想領域には、つぎの大きな二つがある。
 第一、太古からある、人間(human being)としての自由(freedom)という問題。「人はその人間性(humanity)だけの理由で自由(free)なのか、換言すると、自由な意思と選択の自由をもつから自由なのか、という問題」。
 第二、「社会の一構成員としての人の自由」を対象とする「社会的な行動の自由(freedom)」の問題。この場合の「自由」は、「Liberty」と称することもある
 ②意味について言うと、第一に、「人間性の本性からして自由だ」と言うことがとくに意味するのは、「人は選択することができる、その選択は、人の良心の及ばない力(forces)に全体として依存しているのではなく、かつまたそれによって不可避的に生じたのでもない、ということ」だ。
 第二に、「しかし、自由とは、現存のいくつかの可能性の中から選択する力(capacity)」だけを意味しはしない。「自由とは、全く新しい、全く予見できない状況を作り出す力でもある」。
 ----
 西尾幹二が、あくまで例えばだが、「『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう」、などと叙述しているのと比べて、何と明晰な概念の意味の明確化(と問題・対象の設定)だろう。
 これを前提として、残りの9頁足らずが「エッセイ(小論)」として論述されているので、外国語ながら、日本語での西尾の長々しい文章よりも理解しやすい。
 若いときに<思想史>の講義を担当していた「思想家」または「哲学者」か、ニーチェのドイツ語文の日本語翻訳とドイツ文学的研究から出発した、たんなる「もの書き」または「文筆業者」か、の違いだ、と言ってよいだろう。 
 ——
 (つづく)

2504/西尾幹二批判056—電気通信大学。

 西尾幹二から2017年刊の『保守の真贋』(徳間書店)を贈呈配布してもらったことがあった。礼状は出さなかった。
 さすがに今年2022年の年賀状は来なかったが、2021年の年賀状は来た。それにはハガキにしては長い文章が活字印刷されていて、<「バイデン」によってアメリカは<「法治国家」でなくなった>旨が書いてあった。情報源はどこに?、と感じたものだ。
 さらに数年前の年賀状には<「歴史教科書」が変われば日本も変わると思っていた>と書いてあった。本当にそう思っていたとすれば、幼稚さが甚だしいと感じたものだ。上のいずれの年も、当方からは新年挨拶状を出してはいない。
 というわけで(というほどに単純ではないかもしれないが)、西尾幹二は「秋月瑛二」の本名やどういう人物であるか(あったか)を知っている。
 したがって、〈ハンドル・ネーム〉で批判するのは卑怯だ、少なくとも好ましくない、という秋月に対する批判は、西尾幹二との関係では的確ではない。
 それに、10年以上使っているこの欄用の名前を変えるのは忍び難いが、少なくともこの数年間は、本名または「正体」が誰に分かってもかまわない、というつもりで書いている。
 それより前に書いていたことだが、秋月瑛二はいかなる組織にも個人にも、政治的にも私的にも、従属していない。 
 --------
  西尾幹二は2006年1月に、「つくる会」名誉会長辞任の挨拶文を会員あてに送った(ようだ)。「名実ともに同会から離れ…」とあるから会員でもなくなる、ということだろうか。
 その文章の中で、こう書いている。同全集第17巻・歴史教科書問題(2018年)、p.709。
 「私は研究上の場所とした日本独文学会を六十歳で退会した。
 私は『個人』として生まれたのだから『個人』として死ぬ。
 どんな学会にも属する必要はないと思ったからである。
 これに続けて、「つくる会」に参加したのも離脱するのも「個人」としてであって、それだけのことだ、と書いて、名誉会長辞任(かつ退会?)の理由としている。
 この文章は、奇妙だ。
 西尾幹二がどの学会に加入しようと退会しようと、自由勝手だ。
 しかし「個人」として生まれて死ぬということは、「どんな学会にも属する必要はない」ということの論理的な理由にはならない。
 かりにこれを一貫させるつもりならば、遅くとも「六十歳で」、つまりは1995年の翌年1996年3月までには、「全ての」組織・団体への加入・帰属をやめなければならない
 西尾幹二は、自分のうちにある「矛盾」に気づいていなかったのだろうか。
 --------
  西尾幹二の詳細な「経歴」・「年譜」を本人自身が明確にしてほしいものだが、「帰属」団体・組織に着目すると、おおよそつぎのことが分かる。
 1958年03月、満22歳、東京大学文学部独文学科卒。
 1961年03月、満25歳、同大学院修士課程修了。
 同年04月、同、(国立)静岡大学人文学部講師。
 ここで区切ると、修士課程の標準は二年だが三年を要したことの理由は、もちろん知らないし、当面の問題とは関係がない。
 後期(博士)課程に進学せずして就職先を得ているのは、のちに現天皇と雅子皇后(当時、皇太子・同妃)の結婚自体について、西尾幹二が<「天皇家」と「学歴主義」の結合>とわざわざ指摘する、その「学歴」または「学歴主義」が背景にあることは明らかだろう。
 西尾個人は当然と思っていたかもしれないし、東京大学の教員・研究者として残れなかったことが不満だったかもしれない。だが、のちには「教育制度改革」問題で批判的に書きもする「学歴主義」の恩恵を、この人自身が相当に享受している。
 また、余計ながら、当時の大学では複数の外国語履修が要求され、第二外国語としてドイツ語かフランス語が選択されやすく(「ドイツ文学」というより)「ドイツ語」の教師の需要が近年よりも高かったことも、背景にあっただろう。
 1964年04月、満28歳、(国立)電気通信大学助教授。のち教授となる。
 1999年03月、満63歳、同大学退職。同時期か不明ながら、「名誉教授」に。
 さて、先に記したことを、もう一度書こう。
 「個人」だから「どんな学会にも属する必要はない」と言うのならば、西尾幹二は、遅くともその学会の退会と同時かそれ以前に、すなわち「六十歳」までには=1995年の翌年1996年3月までには、「全ての」組織・団体への加入・帰属をやめなければならなかったはずだ。
 しかるに、1998年度まで、特定の国立大学の教員だった。これは、当時の国立大学の定年だった満63歳(但し医学部と東京大学の少なくとも法学部は違っていた)と符号している。その年度まで(国立)電気通信大学に帰属し、何らかの職務と多額の?俸給があったはずだ。
 その権利・義務は、特定の学会の会員であるのか否かとは質的に異なっている。学会員には大会・集会出席義務すらなく、所属の意思と会費の納入さえあれば会員であり続ける。
 ともあれ、西尾幹二は60歳以降は「個人」にすぎないのではなかったか?
 なぜ、「学会」はやめても、大学教員ではあり続けたのか?
 ---------
  西尾幹二は1996年12月か1997年1月の「つくる会」の設立の重要メンバーで、初代会長にもあった。「日本独文学会を六十歳で〔1995年度中に〕退会した」したというのは、これと関係があると推察される。
 しかるに、1997年度と1998年度は、「つくる会」会長と電気通信大学教授を「兼ねて」いたわけだ。
 後者だけですでに、たんなる「個人」ではない。
 したがって、私は「日本独文学会を六十歳で退会した」、「個人」だから「どんな学会にも属する必要はないと思ったからである」という文章はきわめて奇妙なのだ。
 瑣末な問題かもしれないが、西尾幹二という人物とその文章は信用し難い例として、書いている。
 その場、その場で適当に書いている例が少なくない。いつまで自分が大学教員であったかをうっかりと?失念していたか、あるいは失念するほどに電気通信大学での義務・負担が軽かったかのどちらかだろう。
 電気通信大学等の国立大学は当時は、現行法(国家行政組織法)で言うと「施設等機関」の一つで、国立病院等とともに国家行政組織機構の中にあり、当然にその教職員の法的地位は国家公務員そのものだった(広義の独立行政法人・国立大学法人となっている現在と異なる)。西尾が文部省関連の中央教育審議会の委員として一時期に任用されていたのも、国立大学教員だったことも大きな理由だっただろう。
 --------
  ドイツ文学で出発した「文科系」の西尾がなぜ、「理科系」の単科大学に35年ほども在職し続けたのか。
 いまただちに参照できないが、たしか同全集のいずれかの巻の「後記」の中で、具体的な大学名を明記して、誘われたけれども、世俗的な有名さよりも電気通信大学の「自由」を採ったとか長々と書いていた。西尾幹二という人の「心理」にも関係するので、手元で参照し得たときに再び言及しよう。
 関連して不思議に思うのは、西尾は電気通信大学で学生に対して、いったい何を教えていたのか、だ。「名誉教授」には勤続年数さえあれば誰でも?なれるとはいえ、1964年度〜1998年度の35年というのは、おそらくは基準年数を超えて、じつに長い。
 古田博司は、筑波大学の大学院の某専攻長になって…とか、所属大学の職務に関係することもけっこう書いていた。だが、西尾幹二は、電気通信大学での職務等について、些細なことも含めてきわめて冗舌な人であるにもかかわらず!、全くといいほど触れていない(皆無ではない)。学生に対する「教育」内容については、おそらく一切触れたことがない。
 天下に著名な西尾幹二がニーチェでもShopenhauer でもなく、ドイツ文学でもドイツ哲学でも、ましてや日本史についての「権力・権威二分論」でもなく、まさか35年間以上も初学の学生たちに、ドイツ語の発音や文法の基礎から教えていたとは、想像したくないことだが。
 ——

2503/平野丈夫・何のための脳?-AI時代の行動選択と神経科学(2019年)より。

   <身分か才能か>、、<家柄(一族・世襲)か個人か>、<生まれか育ちか>、<遺伝か生育環境か>という興味深い重要な基本問題がある。
 平野丈夫・何のための脳?—AI時代の行動選択と神経科学(京都大学学術出版会、2019)。
 この中に、「生まれと育ち、経験による脳のプログラムの書き換え」という見出し(表題)の項がある。p.59〜。関心を惹いた部分を抜粋的に引用する。
 ・「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う脳・神経系はどのように形成される」のかについて、「遺伝的に決定される過程と、動物が育つ時の外部からの刺激または経験に依存した過程の両者が関与することがわかっている」。
 ・「網膜の神経細胞が視床へ軸索を伸ばす過程は、遺伝的要因により定まっている」。
 ・「一方で、大脳皮質のニューロンの各種の刺激に対する応答性は、幼児期の体験によって変わる」。
 ・「このように、神経回路形成において感覚入力が重要な役割を担う時期は幼弱期に限定され、この時期は臨界期と呼ばれる。臨界期の存在は視覚情報処理に限られない。言語習得等にも臨界期がある」。
 「神経回路の形成には、遺伝的にプログラム化された過程と、外部からの刺激または入力に応じた神経回路の自己組織化過程が関与する。
 神経回路の自己組織化は入力に応じた神経機能調節であるが、情報処理過程が刺激依存的に持続的に変化する現象であり、学習の一タイプと見なせる。」
 以上、至極あたり前のことが叙述されているようでもある。遺伝的に定まった過程と「幼児期」にすでに臨界を迎える過程とがある。
 前者は生命の端緒のときか出生以前の間かという疑問も出てくるが、たぶん前者なのだろう(但し、その場合でも一定の時間的経過を要するのだろうと素人は考える)。
 また、個々人にとって後発的に出現する視覚神経系等の「個性」が「遺伝」によるのか「幼児期」の体験等によるのかは、実際には判別できないだろう。もっとも、いろいろな点で「親に似る」(あるいは祖父母に似る)ことがある、つまり「遺伝」している、ということを、我々は<経験的に>知ってはいる。もちろん。「全て」ではない。子どもは両親の(半分ずつの?)「コピー」ではない。
 なお、上の叙述の実例として「鳥類」と「ネコ」が使われている。上のことはヒトまたはホモ・サピエンスだけの特質では全くない(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類は全て、大脳・間脳・中脳・小脳・延髄を有する。神経系もだろう。平野丈夫・自己とは何なのか? 2021年、p.31参照)。
 --------
  西尾幹二は「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマ」だと発言し、対談者の岩田温も「無味乾燥な『科学』」という表現を用いている。月刊WiLL2019年4月号。p,223, p225。
 こんな<ねごと>を言っていたのでは、現代における「思想家」にも「哲学者」にも、全くなれないだろう。
 ヒト・人間も(当然に「日本人」も)また生物であり、それとしての「本性」を持つということから出発することのできない者は、今日では、「思想」や「哲学」を語る資格は完全にないと考えられる。
 --------
  上に最初に引用した平野丈夫の一文は「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う…」と始まる。
 問題は「<適切な>行動選択」とは何か、どうやって決めるのか、だ。
 むろん平野も、困難さを承認し、それを前提としている。
 だが、上の著の「はじめに」にあるつぎのような文章を読むと、ヒト・人間を含む生物科学は(脳科学も脳神経科学も)、人間に関する、そして人間が形成する社会(・国家)に関する「思想」や「哲学」の基礎に置かれるべきものであるように感じられる。
 「動物の系統発生を考慮すると、脳・神経系のはたらきは動物が最適な行動をとるための情報伝達・処理・統合にあると考えられる。
 それでは、最適な行動とはどのようなものであろうか?
 それは個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動だと思う。
 なぜなら、現存動物種は進化過程における自然選択に耐えて生き残ってきたからである。
 しかし、ある生物個体が良好な状態であることと、その子孫・集団または種が繁栄することとは必ずしも両立しない。
 また、どのくらいの時間単位での利得と損失を考慮するかによっても、最適な行動は異なる。
 個体、グループまたは種にとって何が最適かは、実は正解のない難問である。
 ヒトを含む動物は各々の脳を使い、様々な戦略と行動の選択を行うことによって、個体の生存と血族または種の繁栄を図ってきた。」
 --------
  緒言中の一般論的叙述だが、含蓄はかなり深い。
 「最適な行動」=「個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動」と言い換えても、後者が何かは「正解のない難問」だ。
 第一に、各個体と「子孫・集団または種」、あるいは「個体、グループまたは種」のいずれについて考えるかによって異なり、第二に、どのくらいの時間単位での「最適」性を想定するかによっても異なる。
 個体の「生存状況改善」と子孫の「繁栄」と言っても、具体的状況での判断はきわめて困難だ。
 それでも、大まかで基本的な思考・考察の出発点、視点または道筋は提示されているだろう。
 何のために生活しているのか? 何のために学問・研究をするのか?、何のために文筆活動をするのか?、何のために種々の仕事をするのか?。
 最低限または基礎的には<個体の生存>(食って生きていくこと)だったとして、それ以外に優先されるのはどのような集団の利益か。家族か一族か、帰属する団体・個別組織か、その団体・組織が属する「業界」か、それとも(アホだと思うが)「出身大学・学部」の利益・名誉か、あるいは「日本」・「国益」か、ヒトという「種」か、等々。
 生命・生存の他に、いかなる経済的または(名誉感覚を含む)精神的利益に「価値」を認めるのか。複数の「価値」が衝突する場合にはいずれを最優先にするのか。
 せいぜい1-2年先までを想定するのか、20年、50年、100年先までを時間の射程に含めるのか。
 自分自身(個体)の生存と自分自身の世俗的「名誉」にだけ関心を持つ者には、このような複雑で高次の問題は生じない。
 なお、上での表現を使うと、「最適な行動」の「選択」をする、複数の「選択可能性」の中から一つを選ぶ、これが可能である状態または力が「自由」であり、その基礎にあるのが「意思の自由」または「自由意思」だと考えられる。そのさらに基底には、脳内の「情報伝達・処理・統合」の過程があるのだけれども。

2502/R・パイプスの自伝(2003年)⑩。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。原書、p,30-p.33。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ④。
 (28) 人間として扱われるときは、私はとても良い仕事をした。
 1937年の春、歴史の教師のMarian Malowist から、当時はポーランド語訳書のなかったドイツ語のPrescott の著〈ペルーの征服〉を夏の間に翻訳するように頼まれた。
 私は訳文を秋に提出することになった。
 頼まれた翻訳報告書を書き終えたが、夏が終わって学校に戻ったとき、Malowist はいなかった。彼は、教師たちの中で唯一のユダヤ人だった。そして、学校を去ったのは、Radonski の反ユダヤ詐術にもう我慢できなかったからだった。
 私は報告書をファイルに綴じ込んだ。
 その文書は、他の私の文書類と一緒に、戦争の後になって私に届けられた。 
 Malowist は、ポリオで手足が不自由だったのだが、奇跡的にホロコーストを生き延び、ワルシャワ大学の経済史の教授に任用された。
 彼は1975年に、Harvard 大学を訪問した。そして私はついに、ほとんど40年遅れて、Prescott の書物の翻訳文書を彼に手渡す機会を得た。
 これは何らかの記録になるのではないか、と思う。
 彼は帰国後のポーランドからの手紙で、報告文書を見て、戦争前に14歳だった少年が戦後のほとんどの大学生の能力を超える歴史研究書を執筆していることを思って、涙が出た、と書いてきた。//
 (29) 1938年6月に、ギムナジウムを卒業した。そして同じ学校の二年間のリセ(Lyseum)に登録することになった。
 教育省から来た視学官によって、私の卒業は目視された。
 教師は各人を彼女の机の所に呼んで、私たちの成長を示すべく若干の質問をした。
 私の番になったとき、どこで生まれたのかと彼女は尋ねた。
 「シェシンです」と答えた。
 「シェシンの特別なことは何ですか?」
 「市が二つに分かれていて、一方はCzechoslovakia に、片方はポーランドに帰属しています」。
 「その二つともどちらに帰属すべきですか?」と彼女は迫った。
 ためらうことなく、私は答えた。「Czechoslovakia」。 
 彼女は驚いて尋ねた。「なぜ? 人口の多数派はポーランド人でありたいと思っていることを示す住民投票はなかったのか?」
 私は応えた。「たしかにあった。でも住民投票は不正に操作されていた。」
 「ありがとう。座ってよい。」
 実際のところは、住民投票について何も知らなかった。私はたんに反抗していた。期待されているように言うのが嫌で、ポーランド・ナショナリズムに同意していないことを示したかった。
 60年後に、シェシンで住民投票は一度も行われておらず、公平に言って、市の住民の多数派を占めているのでポーランドに配属されるべきだった、ということを知った。
 経緯を父親に話したら、彼は怖くなった。そして、父親と母親のどちらかが事態を取り繕うために、教師に会いに行った。
 思うに、彼らは私が外国のラジオ放送でそのような異宗派の考え方を聞いたという理由で、私を弁明したのだろう。//
 (30) 私の美や知への関心を共有してくれるクラス友達はほとんどいなかったので、私はたいてい孤独だった。
 しかし、二人の友人がいた。一人はAlexander (Olek) Dyzenhaus で、人生の残りずっと仲良しだった(ポーランドで戦争を生き延び、南アフリカで死んだ)。
 もう一人はPeter Blaufuks で、とても神経質だった。不運にも、殺された。//
 (31) 女友達もいた。
 我々はKrynica という保養地で、1938-39年の冬に逢った。
 Wanda Elelman は二歳年上で、すでにギムナジウムを卒業していた。
 日記から判断すると、私は情熱的に恋をしたようだ。だが振り返ると、そうではなかった、と思う。かつてポーランドを離れるとき、遺憾なことに、彼女のことはほとんど思い浮かばなかった。
 でも我々は、とくに1939年の春には、カフェで、あるいはLazienski 公園沿いに花盛りの栗の木々の下を歩いて、たくさんの幸せな時間を一緒に過ごした。//
 (32) 戦争が近づいていた。
 母親とEmmy Burger の二人は、不測の事態に備えて、手袋と帽子の作り方を習った。
 私は、Methodist の夕方学級での英語の授業に出席した。
 そこでアメリカ人たちと初めて接触したのだが、彼らには不思議な印象をもった。
 各授業の前に我々は大ホールに集まって最近のヒット曲を歌った。例えば、ピアノを弾く歯の目立つ女性や髪の毛を真ん中で分けてポマードで塗り固めた男性に指導されて、「I love you, yes I do, I lo-o-ove you」。
 我々はふつうは、流行しているラブソングを学習と結びつけはしなかった。
 しかし、会話ができる程度には英語を学習した。このことはのちに、私に大いに役立つことになった。//
 (33) 1939年6月、John Burger を失った。彼の家族とは、ともにアメリカ合衆国へ移住することになる。
 彼の母親のEmmy は半分ユダヤ人で、彼は四分の一はユダヤ人だった。ニュルンベルク諸法では、どちらも非アーリア人だった。
 ドイツが1938年にオーストリアを併合したときに公民権を取り替えなければならなかったので、彼らは離れるのは賢明だと考えた。
 私には、彼らがとても羨ましかった。//
 (34) 戦争前の学校の最終学年に経験した悲哀の一つは、軍事教練だった。それは一般に「PW」として知られる「軍事予備訓練」で、一種のROTC だった。我々は皺くちゃの黄緑色の制服を着て毎月曜日に学校に行き、一定の訓練を受けた。
 リセの最終学年とその前年の間、卒業予定の一年前に、他の学校の学生たちと一緒に、三週間課程の軍事訓練に参加しなければならなかった。
 1939年6月の終わり頃、クラスの仲間とともにKozienice にある軍営地に向かった。そこはワルシャワから南西に約100キロメートル離れた森林地帯にあった。
 ひどく辛い経験だった。
 粗雑な営舎に住み、麦藁かけ布団の簡易ベッドで寝た。
 十分に食べはしたが、食べ物は粗末だった。—朝食は無地のライ麦パンで、コーヒーと紅茶のどちらかが付いた。 
 だが、最悪だったのは、ワルシャワの他の学校の学生から持ち込まれた反ユダヤ主義の蔓延だった。
 ユダヤ人学生は、馬鹿にされ、嫌がらせを受けた。しかし、ほとんどの場合は平然としていた。
 唯一の愉しみは、森の中に監視で立つことだった。夜に眠れないことを意味したが、静かで私的な時間が持てたからだ。//
 (35) まもなく、困惑することが起きた。
 ある日、隊列の中で喫煙しているのを見つけられた。
 その軍営地で予備将校として勤務していたRadoriski が私を叱責し、軽い制裁を命じた。
 ついで、私は野原に立って空を見上げ、外国の航空機の通過を報告するチームに、配属された。
 空中には外国の航空機はおらず、いても判別できなかっただろうから、馬鹿げた任務だった。
 私は近くの店に、煙草を買いに行った。
 同僚たちとそこにいた軍曹が、一緒にウォッカを飲もうと誘った。
 私はそれまでウォッカを飲んだことがなかったが、成人として扱われたことを喜んだ。そして、誘いを受けた。
 見つかって、紀律違反の行為についてもう一度Radoriski に報告しなければならなかった。
 釈明させてもらえるなら、我々について責任のある軍曹が非難されるべきだっただろう。
 だが、そのときまでに、全てに嫌気がさしていて、潜在的にはみんな放り出したい気分だった。
 数日後に、何らかの業務のために野原に集められた。
 髭を生やしたユダヤ人が、荷馬車を運転してやって来た。
 兵士たちは揶揄してやじった。もっと不快にさせたのは、ユダヤ人の彼もそれに加わって、自分自身を笑ったことだった。
 私はむかついた。
 その後のすぐ、軍営地が閉鎖される予定の三日前のことだったが、営舎で喫煙しているのを見つけられた。
 Radonski は、意地悪いほくそ笑みをたたえて、私に退学を言い渡した。
 それ以来、彼に会わなかった。一年以内に戦争捕虜となり、ソヴィエトの治安警察によって殺害されたのだろう。//
 (36) 家に帰った。
 両親は何が起きたかを知って、狼狽した。
 父親はその人的関係を通じて、私が第二次の軍営地訓練に参加するようにすぐに取り決めた。夏季の訓練を完了していないと、学校を修了することができなくなっただろうからだ。 
 第二次の軍営地は、最初よりもはるかに愉快だった。それに参加していた地方の学校は、ワルシャワに浸透していたユダヤ恐怖症(Judeophobia)に染まっていなかったからだ。
 私は問題なく訓練を終え、8月の初めにワルシャワに戻った。戦争が勃発する直前だった。//
 --------
 以下、試訳者。原書p.33 の途中から<第四章・イタリア>が始まるが、p.32 とp.33の間に、10頁ぶんの複数の写真が掲載されている。それぞれに固有の頁番号は付されていない。後にもそのような箇所が二つあって、L. Kolakowski, I. Berlin, Ronald Reagan, George Bush (父), Alexander Kerensky (ロシア十月革命前の臨時政府首班。亡命後の1959年) らとそれぞれ一緒の写真が掲載されている。
 p.32 とp.33の間の10頁ぶんに掲載されている写真は、つぎのとおり。
 01/母方の祖父。
 02/母方の祖母。
 03/父方の祖母と抱かれる従兄。Cracow, 1922年。
 04/①母親一族、計11名。1916年頃。②父親。Wien, 1919年。
 05/両親の結婚写真。1922年9月。
 06/①著者、18ヶ月。②著者、4歳の誕生日。1927年。
 07/①Burger 一家とPipes 一家、計6名(3×2)。②将来の妻 Irene、10歳。Warsaw, 1934年。 
 08/①学校の友人たち、Blaufuks, Olek, 著者を含めて計11名。②Burger 家のHans(弟代わり)。Warsaw, 1939年。
 09/①著者。Warsaw, 1939年6月。②ドイツによる爆撃後のMarszalkowska 通り。Warsaw, 1939年10月1日頃。
 10/①ワルシャワ出立後の旅券用写真、著者と両親。Warsaw, 1939年10月。②ポルトガルに停泊中のアメリカ行きの船上での著者と両親(愛犬ココも写っている)。Lisbon, 1940年7月。
 ——
 第一部第三章、終わり。

2501/R・パイプスの自伝(2003年)⑨。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ③。
 (19) 振り返ることができる範囲で言うと、我々の感覚で知覚する現実は究極的な現実を隠している表層にすぎない、と私は感じていた。
 Cracow の街路で従兄弟と遊んでいる少年だったが、下水管の蓋の下で流れる水の音に気を取られた。ごくふつうの下水管口で、ごくふつうの排水だったけれども、見えない源から生まれてくる音によって、我々は影の世界で動いているという私の思いは強くなった。
 (言うまでもなく、当時の私はプラトン(Plato)を読んだことがなかった。)
 同じような体験を地方の祭りでもした。私は釣竿を持って、スクリーンの背後のプレゼントを拾い上げることになっていた。 幕の後ろに何か別のものがいるのではと、私はいぶかった。
 別のあるとき、私が客体(objects)についてもつ考えはそれの現実を表現しておらず、理解など全くしないままで我々が対処することができるようにするための「表象」(symbols)として役立っているにすぎない、と思った。
 このような感覚は、生涯ずっと残ったままだった。私の研究はつねに、外面の背後にある「真実」を探求したいという衝動に駆られて行われてきた。//
 (20) 音楽家には、いや美術史学者にすらならなかったけれども、私の当初の音楽や絵画への愛好はずっと私に影響を与えつづけ、私は学問上の著作で意識的に、美学的な規準を充たそうと努めてきた。
 多年ののちに、Trevelyan のつぎの言葉を納得して読んだ。「真実は歴史研究の規準だ。しかし、歴史研究を駆り立てる動機は詩的なものだ。」(後注4)
 ----
 (後注4) A. L. Rowse, The Use of History, 1946, p.54 による引用。
 ---
 歴史家でいるための困難さは、両立し難いこれら二つの資質が求められることにある。詩人たる資質と、図書館の司書たる資質。前者は人を自由に舞い上がらせ、後者は人を束縛する。
 私が提示しようとしてきたものは全て、文章と構成のいずれに関しても、実証的証拠に細心の注意を払いつつ、美学的に満足できるように書いたものだった。
 このことはある程度は、創造的な芸術家になれなかったという失望を埋め合わせてくれた。
 だが、それ以上のことを意味する。
 私は学問を美学的な経験だと、それゆえに個人的な経験だと見ている。論文や著書の執筆で誰かと協力するという考えを私は抱くことはできない。
 つねに、知識によりも叡智に関心をもった。
 私が書いた全ては、芸術の場合にそうであるように、私の私的な見方を反映した。
 そのゆえに、私は同僚の学問的営為に一度も関与しなかったし、私自身の仕事を総意に適合するよう義務付けられているとも決して感じなかった。//
 (21) このような考え方のために、私は早くから論争的になった。
 多年ののち、Harvard の大学院生から、私が書いたものはなぜいつも論争を刺激しているのか、と尋ねられた。Samuel Butler のつぎの手紙に答えを見つけるまで、どう回答すればよいか分からなかった。
 「世論を聞く耳をもつ者たちの見解が間違っていると考えるまで、どんな主題についても私は書かない。これは必然的帰結として、私が書く本は全て、その分野を占める人々に逆行することになる。だから、私はいつも熱水の中にいる。」(後注5)
 ----
 (後注5) Henry Festing Jones, Samuel Butler,II, 1919, p.306.
 ----//
 (22) 私の若いときの芸術への熱情は、あらゆる種類のイデオロギーに対する免疫という、有益で永続的な効果を私にもたらした。
 全てのイデオロギーは、創設者が普遍的な有効性があるとする真実の核を含んでいている。
 私が10歳代のときマルクス主義者たちといた時々の討論の間、私はほとんど彼らの議論に反対することができなかった。マルクス主義の正典(canon)について全く無知だったからだ。
 しかし、私は、いかなる定式も全てを説明することはできない、ということを、絶対的な確実さをもって知った。
 ある人々は、世界をきちんと整序させること、全てが「あるべき場所に収まる」ことに憧れる。—その全ては、マルクス主義やその他の全体主義理論にとっては「原材料」だ。
 別の人々は、トルストイが生の「無限の、永遠に尽きることのない発現」と称したものに喜ぶ。究極的には美的価値に由来する喜びだ。
 私は、後者の人々の中にいる。//
 (23) 私は女の子についてはきわめて臆病だった。
 学校に行く途中で、上品で黒味がかった髪の毛と瞳をもつきれいな同じ年頃の女の子をしばしば通り過ぎて、見とれたものだ。私は彼女を見つめ、彼女は私を見つめた。でも、言葉は交わさなかった。
 あるとき公共図書館にいて書棚の本を捲っていると、彼女が歩いてきて、近くに落ち着いた。誘いだったが、私はあえて彼女に接近しようとはしなかった。
 のちにローマで、彼女をワルシャワで援助していた人物を見つけ出した。
 彼女は、疑いなく、ホロコーストで死んだ。//
 (24) 1938年7月、私の15歳の誕生日に、ときどき日記を書き始めた。
 その日記は、奇跡的に、残った。
 ワルシャワを出る前、我々の荷物の中には入れる余地のない、私の最も貴重な文書類があった。
 ポーランド・ユダヤの出自でイタリアの市民権をもつLola De Spuches という女性(下記も参照)が戦争中に、家族に逢うためにしばしばワルシャワに旅行していた。そのような旅行のあるとき、私の文書類を預かっていたOlek が、それを一袋にして彼女に与えた。
 彼女は戦争のあいだそれをずっと保管し、私が最初にヨーロッパに戻った1948年の夏に、私に手渡してくれた。//
 (25) 戦争前の私の日記を読んで、全く陰鬱な気分になる。
 主として幸福でない時代に日記に心の裡を打ち明けたのだとしても、その中を激しい怒りによる継続的な緊張が貫いている。
 それは部分的には、とりまく環境に向けられていた。すなわち、ポーランド・ナショナリズム、反ユダヤ主義、不気味に迫る戦争。
 しかし、私の怒りの唯一の理由は、外部的な要因ではなかった。
 その後何度も確認してきたのだが、当時に私は、意味ある知的な作業に従事していないと簡単に憂鬱に陥ってしまう、ということに気づいた。
 15歳の私には、追求すべき意味ある知的な仕事はなかった。
 努力がどう結実するかが分からないまま、何の指針もなく自分で、音楽や美術史に手を出した。
 従って、たびたび襲う失意の時間は、学問の職業を得るとすぐに、永遠に消え失せた。//
 (26) 戦争の3-4年前の学校は、本当にいやだった。
 私はその頃からワルシャワに来て、私立のギムナジウムに通った。創立者のMichael Kreczmer の名にちなんだ学校で、都心にあり、生徒の半分はカトリックで、半分はユダヤ人だった。
 1935年頃、その頃までは問題がなかった雰囲気が、悪い方へ顕著に変化した。
 親切でクラシック好きだった校長が、新しい種類のナショナリストの教師たちに排除された。彼らはポーランド文学の指導者に率いられており、Tadeusz Radoński の流れにあった。私の学校かつ復讐の的の校長代理になった。
 露骨な反ユダヤ主義の宣告はなかったが、それが継続的な底流になった。
 カリキュラムの重点が、ナショナルな問題に置かれた。—ポーランドの歴史、ポーランドの文学、ポーランドの地理。これらへの私の関心は限られていて、むしろ音楽、芸術、哲学への私の愛好の邪魔になった。
 ユダヤ人はポーランドの人口の10パーセントを占め、ポーランドの経済と文化を支配しているとされていた。そのユダヤ人が、決して言及されることなく、まるで存在していないかのごとく扱われた。
 ポーランド人の意識にユダヤ人がほとんど影響を与えていないとは、全くの驚きだった。
 過去についても現在についても、ポーランドがカリキュラムの中心にあった。
 世界は大不況下にあり、我々の東ではスターリンが数百万人を殺害し、西ではヒトラーがそれ以上の殺害を準備していた。だが我々は、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))といった瑣末なことを学習し、アフリカのLimpopo 河の流れをなぞらされていた。//
 (27) 私が宿題をせず、クラスでの素行が悪かったのは不思議ではない。そのために、一時的にはクラスから追放され、とくに悪くなったときには、一日かそれ以上、家に送り還された。
 私の周囲で何が起きているかに無頓着のまま、机の下でニーチェを読んだものだ。
 数学は、私の最も不得手の科目だった。私は全く理解できず、私の母親の取りなしと授業料を払っている生徒だという事実のおかげで毎年に上級学年へと進んだ。
 (カトリックの生徒の多数でなければ、多くには奨学金があった。)
 古代史と世界地理を除けば、私の成績簿は最低で合格する等級の惨めな集まりだった。「素行」ですら、「良」(good)だったのに。
 だが、教師が私をのけ者にし、素行と成績の悪さの原因を反省せよと言い、私の自尊心に訴える、そのようなことは一度もなかった、と思う。教師らしく用いた手段は、罰や恥辱だった。
 振り返ってみると、学校での行いが良くなかったのは、私には有難いことだった。宿題を果たさないことで、能力試験や授業で得られる以上の価値あるものを学んだり、自分が得意なものを発見したりする、そういう時間を得ることができた。//
 ——
 第一部第三章③、終わり。④へとつづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー