秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2022/02

2500/平野丈夫・意識.自我.心の神経科学(2021年)。

 平野丈夫・自己とは何なのか?—意識・自我・心についての神経科学的考察(幻冬舎、2021.12)、より。
 一 意識
 かつて、秋月がこの欄で意識がないこと(深い睡眠や全身麻酔中の状態)は「死んで」いるのと同じ旨を書いたことがあるが、これも「意識」の語法による。また、のちに「深い睡眠や全身麻酔中の状態」で「意識」がなく、神経細胞(ニューロン)がかりに動いていなくともグリア細胞等々が「生存」を支えていることを知った。以下、上の著書に入る。
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 意識には少なくとも三つの意味がある。
 A/一般的イメージより広く、「単純かつ機械的に」「型にはまった脳・神経系のはたらき」を示す。目覚めている・寝ている・昏睡中等々で一括して「覚醒」。
 B/「ある事物に注意が向いてそのことに気づいている」こと。
 「感覚」はあるが「無意識」のこともある。「無意識」の情報にも身体は反射的応答をし、行動選択にも影響を与える。
 C/「自己の状態を観察・内省して思考する」こと。デカルトの「我思う」。最も高次で「心の本体」に近い。
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 二 意識A。
 ある基準では、I/刺激しなくとも覚醒(①意識清明・②場所や他者不明・③氏名・生年月日不明)、II/刺激すると覚醒(開眼が①呼びかけ・②揺さぶる・③痛み刺激)、Ⅲ/刺激しても覚醒しない(だが「生きている」)に大別する。
 別の基準では、1/開眼、II/言語音声反応、Ⅲ/運動反応、に着目する。
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 三 意識B。
 「意識」・「無意識」の対比はほぼこの意味。「外界からの刺激による感覚入力のほとんど」を我々は「知覚」しない。感覚(受容)と知覚はレベルが異なる。
 あること・あるものを「気づく」=「知覚する」と、その対象には「特有の主観的体験」が伴う。「生々しい主観的体験」は「クオリア(質感)」と呼ばれ、「意識に上がってくる」。
 「気づき」=「知覚」が「特定の神経細胞集団の発動」によるのは確かだ。しかし、「主観的クオリア」の発生態様は「ハード・プログラム」だ。
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 四 感覚と知覚
 感覚(感覚刺激)には、視覚、聴覚、平衡感覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚(触覚・温度感覚)などがある。*秋月—「六感」・「第六感」とは?
 これらを「感覚器」で受容するが、「一部」しか気づかない、つまり「知覚」しない。にもかかわらず、私たちは、一部の「感覚入力情報」に「自動的に反射応答」する。体温・血圧・心拍の変化等の「自律神経系の応答」は知覚しないことが多い。
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 五 視覚(感覚から知覚への例)
 ①網膜→②視床→③大脳皮質・一次視覚野→④大脳皮質・側頭葉高次視覚野。
 01・光の受容—光受容細胞(錐体と杆体—「網膜」にある)
 02・双極細胞(「網膜」にある)
 03・神経節細胞(「網膜」にある)
  いずれも「複数」の情報を伝える。各間を媒介するのは「シナプス」。
 04・視床(大脳皮質内側)内の外側膝状体。03が長い「軸索」を伸ばして04の神経細胞(ニューロン)に「シナプス結合」する=「投射」する。
 05・後部大脳皮質(=後頭葉)内の一次視覚野。これの神経細胞(ニューロン)は、視野内の「円状の明暗には全く応答せず」、「特定の視野位置の特定の傾きの線に応答する」。
 06・多数の視覚関連大脳皮質領域の高次視覚野。「形」(顔・複雑な形の図形等)の知覚は側頭葉内の視覚関連皮質部位だが、「場所」の情報はここでは欠落する。
 xx この過程の「どこか」(05-06?)で、知覚対象の「事物・概念」が「選択」されている。「各感覚情報処理系とは異なる脳部位が知覚対象を選別している可能性もある」。
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2499/R・パイプスの自伝(2003年)⑧。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 「ニーチェ」への言及がある。
 著者が16歳、1939年秋の「思春期」または「青春期」にニーチェの『権力への意思』を手にして読んでいたらしい(No.2486/自伝②参照)ことの背景も分かる。だが遅くとも1945年にはニーチェ哲学には「幻滅」していたようで、この著執筆時点では①ニーチェの一定の言葉は「無責任で煽動的な無駄話」(irresponsible & infllamatory prattle)だと明記し、②別の言葉(『道徳の系譜』内)は「ぞっとさせる」(appalls me)と明記している。また、それより前に③『ツァラストゥラ』のYiddish 語訳によりその作品の「尊大さ・仰々しさ」(pomposity
は消失した旨も書いている(今回の(*脚注)参照)。
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 第三章・知と美への萌芽 ②。
 (13) 私は、その言語〔音楽〕を学び直そうと決めた。
 ふつうは日曜の午前中に、音楽協会での演奏会に足繁く通うようになった。そこで、J ・ホフマン(Joseph Hoffman)やW・バックハウス(Wilhelm Backhaus)といったピアニストの秀れた単独演奏を聴いた。
 私は、ピアノの練習を始めた。
 1938年11月に、ある音楽家と親しくする個人教育に登録した。その人の名は、それにふさわしく、Joachim Mendelssohn だった。
 背の低い彼は私にとても親切に接して、私は作曲家になる運命にあると感じさせた。
 戦争が勃発したとき、私は副教本の準備をしていた。
 私はまた、ポーランドの指導的な伴奏者のピアノ・レッスンも受けていた。その人の名はRosenbaum だった、と思う。
 彼は嫉妬の言葉を出すくせがあり、私の演奏は全く柔らかくならなかった。
 父親は私の音楽への関心を励ましてくれ、オペラや私の最初の演奏会に連れて行った。私がワーグナーの管弦楽を称賛し始めたとき、その音楽は彼が理解できないままで衝撃を与えたにすぎなかったけれども。
 総じて父親には、私のかつての子ども時代の成長を理解するのが困難だった。そして、私が思春期に入るまでには、私を深く理解するのを諦めていた。//
 (14) 若い人たちは自分たち自身について全く現実主義的であり得る。かりに何かがあると、過剰な自己嫌悪の陥りがちでもある。
 私はすみやかに、音楽は好きだけれども、ピアノ弾きでも作曲でも、自分の才能は良くても平凡なものだと、気づいた。
 私は悔しい思いをもって、同じ世代の者たちが簡単にピアノ演奏を学び、しかもその演奏は上手であることを観察した。
 残念だが、音楽の神秘的な言語を理解できても、それを語ることは学べない、との結論に至った。
 戦争勃発まで個人指導を受けつづけたが、その頃までには、私は音楽家になる運命にはないと分かり、ワルシャワを去った後ではそれに関する努力を全くしなくなった。//
 (15) だが、私は美術に、代わりのものを見出した。デッサン、彫刻、絵画にではなく、美術史にだった。
 1937-38年の冬(このとき14歳だった)のいつかの午後に、私はワルシャワ公共図書館にいて、中世の美術に関する図付きのドイツの歴史書を捲っていた。そのとき、ビザンチン時代の繊細な伝統的絵画を過ぎて、Padua のArena 礼拝堂からの、Giotto の〈Descent from the Cross〉が目に留まった。
 この14世紀初頭のフレスコ画は、ヨーロッパ美術に新時代を築いた一連のイェスの生涯を描いた絵の一つで、Beethoven の交響曲第7番と同じく、私の心を動かした。
 空にいる小さな天使たちの泣き声でさらに強まる傍観者たちの悲しみは、私が実際にほとんど悲嘆の声を聴くことができるほどに、とても納得できるものだった。
 それは、圧倒的な美的経験だった。Kenneth Clark ならば、私の美術への熱情を掻き立てたものを、「Vision の瞬間」と称しただろう。 
 私はまじめに、視覚芸術の全ての分野—絵画、建築、彫刻—の歴史書を勉強し始め、ノートに写し取った。
 O・Keller の音楽史の半分をドイツ語から翻訳した。
 1938年の夏、西部ポーランドの私有地で過ごしていたとき、毎朝早く起床して、昔からの公園のテーブルに座り、ヨーロッパ美術史の手引書の数頁を読み通した。
 私にはその問題についての指導はなく、種々の流派の芸術家の名前、彼らの時代、主要作品に勉強は集中しており、歴史的および美学的な背景には及んでいなかった。
 この主題への関心は、音楽への志向が弱まったときにも続いた。そして、1940年の大学(college)に入ったとき、これに人生を捧げることを考えていた。
 この熱情が、我々がポーランドを脱出するときに、なぜ私がミュンヘンのピナコテークを訪れると強く主張したのかの理由だった。//
 (16) Beethoven、Giotto のつぎに、ニーチェがやって来た。
 私はこのドイツの哲学者を、全く偶然に1938年の秋に発見した。そのとき、私が図書館で借りようと思っていた本は貸し出されていて、その代わりに、名前だけは馴染みがあったが何も知らないこの人物についての、Henri Lichterberger の伝記本を借りた。
 家に帰り、本を開いて、私は釘付けになった。強いがぼんやりした自分の感情が、その文章の中に表現されているのを読んだからだ。
 私は、「ニーチェの哲学は厳格に個人主義的だ」と読んだ。
 彼は「きみの良心はきみに何と語るか?」と問う。「きみは、自分でそうありたいと思うものにならなければならない」。
 ニーチェは、こう続ける。
 「そして人はとりわけ、自分自身を、自分の本能を、能力を、完全に知らなければならない。
 そして人は、自分の生活規範を自分の個性にふさわしいように整序しなければならない。…。
 自分自身を見出す一般的で普遍的な規範など存在しない。…。
 誰もが、自分自身で、自分の真実と自分の道徳を創造すべきだ。
 ある人にとって何が善か悪か、何が有用か有害かは、他者にとってと同じである必要は全くない。」
 (17) こうした言葉は、自己の独自性を模索する思春期には、麻薬のごとく作用した。つまり、他の誰もが私に順応するよう告げるのに対して、ニーチェは、私に反抗せよと促す。
 今では、彼の助言は無責任で煽動的な無駄話だと思う。
 「自由な精神」のためのニーチェの道徳—「何も真実ではなく、全てが許される」—は、私をぞっとさせるものだ。(後注3)
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 (後注3) 「Nichts ist wahr, Alles ist erlaubt.」ニーチェ・道徳の系譜,Ⅲ-No.24.
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 これはヴィクトリア時代には賢い名文句(bon mot)のように聞こえるかもしれないが、20世紀には、大量虐殺のための根拠(rationale)を与えた。
 このような思想への幻滅は、第二次大戦とホロコーストの経験の結果だった。
 1945年8月の日記に、私はつぎのように書いた。
 「私にはつねに、自分が最もふつうではないと考える対象や思想に魅惑される傾向があった。
 もっと若くてもっと無邪気だったとき、この傾向によって、ニーチェの哲学の熱心な支持者になった。「善」、「共感」、「幸福」といったふつうの観念に対するニーチェの攻撃は、私に訴えた。なぜなら、私は(後者の諸観念は)支配的でかつ俗悪だと考えたからだ。
 私はそれ以降に、それらはこの世界できわめて稀にしか遭遇し得ないものだということを、学んできた。
 私はそれらを称賛して広く受容されている思考へと導く書物によって誤導された。—それらは、さらに加えて、とても論理的で、自明のことなのだ!
 今では、それらを見つけるのはきわめてむつかしいことだと、知っている。」(*脚注)
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 (*脚注) だが、ニーチェに対する疑念は、もっと早くに経験した。それは、友人のOlek が〈ツァラトゥストラはこう言った〉をYiddish〔ユダヤ人の言語の一つ〕 に翻訳したときで、たちまちにニーチェのこの作品は骨抜きにされていた。Yiddish は、全ての尊大さ・仰々しさ(pomposity)を消失させてしまう。
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 追記すれば、ニーチェは最初の知的影響を私に与えた。そして、私は私自身である資格をもつという考えは、ずっと私にとどまり続けている。
 (18) 私はHoly Cross 通りの古本屋を探し回った。そして、数ペニーで、Shopenhauer、Kant その他の哲学者のドイツ原語かポーランド語訳かの書物を買うことになる。
 私には哲学の素養がなかったので、読んだものをぼんやりとだけ理解した。
 だが、何かが残り、知りたいという情熱は消えることなく燃えつづけた。
 父親は、私の哲学への関心を必ずしも喜んでいなかった。
 あるとき、Kant の〈Prolegomena〉を私が読んでいるのを見て、父親は、心を「重たくする」、もっと実際的な物事を勉強すべきだ、と言った。//
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 第三章③へとつづく。

2498/R・パイプスの自伝(2003年)⑦。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
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 第三章・知と美への萌芽(Intellectual & Artistic Stirrings)①
 (01) 1935年は、私の青春時代の転換期だった。
 その年に、三つのことが起きた。Pilsudski 元帥が死んだ。ナツィスはニュルンベルク法を通過させた。これはドイツのユダヤ人の市民権を奪い、そして人間たる地位まで剥奪した。私は思春期の激動を経験した。//
 (02) 生涯の最後の10年間に軍事独裁を敷いたPilsudski には、社会主義の背景があった。
 彼は1887年に逮捕され、アレクサンダー三世暗殺の陰謀に加担したとしてシベリアへの流刑に遭った。その同じ陰謀がレーニンの兄の生命を奪ったのだったが。
 社会主義の不変の遺産の一つは、全ゆる様式の民族的かつ宗教的偏見に対する嫌悪だ。社会主義者たちはこれを、階級闘争から逸らすものだと見なした。 
 Pilsudski が支配的地位にあったとき、ポーランドは公然たる反ユダヤ主義を採用しなかった。
 しかし、彼の死後ほとんどすぐに、権力は、軍団で彼に仕えていた将軍や大佐たちに移った。
 世界的な趨勢は、権威主義的支配と単一の政治ブロックの生成だった。
 ポーランドは、ヨーロッパが陥った不況の運命をほとんど逃れられなかった。
 ユダヤ人の状況は急速に悪化した。ナツィスが外で反ユダヤ主義の炎を煽っただけに、いっそうそうなった。
 「ユダヤ問題の解決」が語られた(「解決」を必要としたのは反ユダヤのパラノイア〔偏執症者〕だけだったけれども)。
 ユダヤの企業は購買を拒否された。
 非ユダヤの店舗の中には、「キリスト教者」を明示する顕著な符号を掲示したものもあった。
 ポーランド人は「同じ仲間から買う」よう迫られた。
 従前は別々にかつ円満にカトリック教徒とユダヤ人が過ごしていた私の学校では、生徒たちが「ユダヤ問題」を討論した。この語で意味されていたのは、ポーランドの経済と文化に対するユダヤ人の、あるとされる有害な影響だった。
 〈zazydzenie〉、あるいはポーランドのユダヤ化という用語が、流行した。
 ユダヤ人大学生は身体的攻撃を受けた。1937年に教育大臣は、ファシストの民族民主党の要求に屈して、講義室の左側にある離れた長椅子に座るよう、彼らに命令した。
 こうして、耐え難い雰囲気が生み出された。//
 (03) Pilsudski の死後すみやかに、虐殺(pogroms)が始まった。
 1936年3月、Radom に近い小さな町のPrzytyk で、ユダヤ人が地方農民に強奪され、二人が殺された。
 そのような暴力的事件が続いた。
 当時わずか12歳だったけれども、当局が殺人者や強奪者を無罪放免した一方で自衛したユダヤ人を非難して収監したとき、私は燃えるような激しい怒りの感覚を経験した。//
 (04) これら全ては、ドイツの国家的支援を受けた反ユダヤ主義を背景にして起きていた。ドイツはヨーロッパじゅうで、この憎悪に充ちたイデオロギーを正当化し、奨励していた。
 父親は、ヒトラーの最新の狂乱をラジオで聴くために、家に急いで帰ったものだ。
 私のドイツ語はほとんどネイティブだったが、聴衆たちの非人間的な甲高い声で何度も中断するヒステリックな叫びを、ほとんど何も理解することができなかった。
 その叫び声は、恐ろしいというよりもむしろ当惑させるものだった。//
 (05) そのときまで事実として受け取ってきた私のユダヤ性は、今や一つの問題になった。
 我々は閉じ込められた。
 私は、シオニズムに共感した。
 イギリスの委任統治国は、ユダヤ人居留者に対する大量の暴力行使を1936年に犯したパレスチナ・アラブを宥めようとして、パレスチナへの移住を厳格に制限した。
 我々は、私をイギリスの、あるいはキューバですらの、船員学校に送ることを語り合った。だが、実現しなかった。理由の一つは惰性で、もう一つは資金不足だった。//
 (06) 同化したポーランド・ユダヤ人は、ポーランドのユダヤ人総数の5ないし10パーセントと見積もられ、個人数では15万人と30万人の間だった。
 これら同化ユダヤ人のほとんどと同じく、我々はユダヤ性とそれとの関係に誇りを持っていたにもかかわらず、我々はユダヤ的儀礼を遵守しなかった。
 稀なことだがかつて、父親が私をシナゴーグ〔ユダヤ教の教会〕へと連れて行ったとき、真似ることができないままで、私は信者たちが祈るのを眺めたものだ。
 驚いたのは、非公式のシナゴーグの数はカトリック教会よりも多いことだった。また、カトリック教徒は祈りの場所で客のように振る舞っているように見えたが、ユダヤ人はまるで自分の家にいるように行動していた。
 母親は、Burger 一家が行っていた楽しいクリスマスの祝日によって、私が宗教について当惑しているだろうと、気にかけた。
 それで、Hanukkah(ハヌカー)〔12月にあるユダヤ教の行事—試訳者〕のろうそくを一度か二度、私に点けさせた。だがそれは、きらめく常緑の木、積み重なるプレゼント、そして「聖夜」の歌のあるクリスマスと比べると、生彩を欠いた行事だった。//
 (07) 言うまでもなく、母親は、私の宗教的嗜好を心配した。
 13歳の年のいつか、Bar Mitzvah(バル・ミツワー)〔ユダヤ教上の成人男性またはその行事—試訳者)の準備をまだしていないことに私は気づいた。
 それをしたいと、私は両親に言った。そうして、私を個人指導する年配のユダヤ人を雇ってくれた。
 貧素なその人は、彼の考えでは私が6歳のときに学んでおくべきだったことを、彼が無駄な仕事だと考えたものは諦めて、教えてくれた。
 14歳のとき、近隣にあった母親一族のシナゴーグで、私はBar Mitzvah となった。
 のちにアメリカ合衆国で出席した豪華なBar Mitzvah 行事と比べて、私が体験したのは簡素なものだった。
 私はTorah〔ユダヤ教の聖書の一部—試訳者〕のその日の一節を読むように呼び出され、その後、他の信者たちと一緒に、母親がケーキとワインを用意していた部屋へと赴いた。
 それで全てだった。
 私へのプレゼントは、tefillin(聖なる小箱)、祖母からの贈り物である、祈りの間に額に付けるphylecteries だった。//
 (08) そのとき、そしてそれ以降、私は人前で祈るのを気まずく感じた。
 かくして、ユダヤ教の行事に出席して心易かったことはなかった。High Holidays の間の奉仕に出席し、Yom Kipper の断食を遵守し、Pass Over の8日間はパンを食べるのをやめたものだったけれども。
 Harvard 大学の著名なユダヤ人学者のHarry Wolfson と同じく、私は「遵守しない正統派ユダヤ人」だった。
 私は、理想主義と現実主義を結合しているがゆえに、ユダヤの信仰は卓越したものだと思ったし、今でもそう思っている。
 キリスト教の貧困と犠牲という理想は理論的により高貴だと認めるとしても、尋常ではない特別の個人による以外は、決して実践されなかったし、実践され得ないだろう。
 我々の宗教は、ユダヤ人に富を放棄するよう強いるのではなく、共同体に負担をかけないよう財産を取得し、その後で慈善を実践するよう助言する。
 私はこれは、イェスが説いたものよりもはるかに、現実的な道徳原理だと考える。//
 (09) ユダヤの信仰や民族との私の関係は、いくつかの基盤に依拠している。
 第一に、ユダイズムには、無神論の付着が完全にない。それは、妥協のない、精神的宗教だ。
 第二に、私はいつも、ユダヤの文化に支配的な、諦念した理想主義の雰囲気を好んでいる。すなわち、とくにユダヤ人にとっては過酷な世界で道徳的理想を維持し、ユーモアの感覚でもってそのような条件での生活を耐えられるものにしていること。
 私は、正統派ユダヤ人と同じく、人間の全ての行動を道徳の観点から観察してきた。日常生活でも、歴史家としての仕事でも。
 〈Sittlicher Ernst〉—道徳的誠実さ—は、私の明快な理想だったし、今でもそうだ。
 最後に、二千年にわたる敵対的世界の中で生き延び続け、信仰への忠誠心をずっと保ち続けた私の祖先たちの能力に、私は限りのない尊敬の気持ちを捧げる。//
 (10) Pilsudski の死後に支配的になった毒に充ちた雰囲気の中で、父親は、軍団の同僚だった一人のカトリック教徒を仲間として雇用しなければならなかった。彼は、書ける範囲内でのことだが、たんに表看板としてだけ役立った。
 父親は1936年に、ポーランドの主要な港のあるGdynia に事務所を開いた。
 その夏と翌年の夏に彼を訪れたが、それ以外には、父親との接触はなかった。
 父親が不在だった二年の間、父親が私に電話したり手紙を書き送ったりした記憶は、一度たりともない。//
 (11) 1935年以降の政治的社会的雰囲気の悪化は、私自身の身体と心理の両面での激動を伴う、子ども時代と思春期の境を越える変化と同時期に起きた。
 何も知らなかったことが起き始めた。それは言わばまるで異なる人間へと、私を変化させた。
 最初に現れたのは、女の子への関心ではなく、知的かつ美的な大変貌だった。//
 (12) それは音楽で始まった。
 母親の妹のRegina と一緒に夕方を過ごしていたときに、私はラジオ装置をいじくっていた。その装置はいわゆるsuperheterodyne のモデルで、ヨーロッパじゅうの放送局を選択できると見込まれていたが、実際にはほとんどガーガーという雑音だけを発していた。
 突然に、釘付けになるような音楽が流れた。
 それはBeethoven の交響曲第7番の最終楽章だった。
 演奏されているテンポの速さから判断して、おそらくはToscanini の指揮のものの録音だった。
 私はそのようなものを聴いたことがなかった。
 単純に「美しい」ものだったのではない。
 そうではなく、だいぶ昔に知っていたが忘れてしまっていた言語で、私に語りかけてきた。
 私の心の奥底を、貫いた。
 その夜、私は頭の中を走り抜ける音楽につれて揺さぶられ、眠れそうになかった。//
 ——
 第三章②へ、つづく。

2497/R・パイプスの自伝(2003年)⑥。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第二章の試訳のつづき。
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 第二章・私の出自 ②。
 (13) 我々は、ワルシャワに移る途中で、ウィーン出身の女性が経営する小ホテルの一室に初めて落ち着いた。
 そこでウィーン人のOscar とEmmy Burger の夫婦と出逢った。彼らは、運命的に、我々の最も親しい終生の友人となることになる。
 Oscar Burger はオーストリアの自動車製造会社、Steyt-Daimler-Puch のポーランドの代表者で、この会社はVolkswagen に先んじて小型で安価な車を製造していた。
 彼らには一人の子息がいた。Hans といって、私より1歳、年下だった。
 我々はまもなく、町の別の所にある同じ家屋の別々の区画を賃借りした。だがそこを立ち退かなければならなかったとき、彼らと一緒に転居し、それから5年間、我々は同じ生活区画を共有した。
 両親たちは離れ難く、Hans は代わりの弟になった。//
 (14) トルストイは友人にこう書き送った。「子どもたちはいつも—若いほどそれだけもっと—、医師たちの言う催眠の状態にいる」。
 私は、自分の子ども時代はそうだったと思い出す。
 ときに「現実の」世界と接触して中断したが、私自身の世界の中で生きていた。
 青少年期に入るまで、自分自身の思いと感情以外で私が経験した全ては、私の外側にあって、完全には現実ではないように感じた。
 まるで夢うつつの催眠状態でいて、ときたま覚醒して、またすみやかに元に戻って行ったかのようだった。//
 (15) 8歳か9歳のとき、母親がドイツ語の短い祈り言葉を教えてくれた。
 のちに、作者はLuise Hensel という、ロマン派時代の詩人だと知った。
  Müde bin ich, geh' zur Ruh,/Schliesse beide Äugelein zu,/
  Vater, lass die Augen dein,/Über meinem Bette sein./(*脚注)
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 (*脚注) 大まかには、「疲れて休みに行き、目を瞑る。父よ、あなたの目が私のベットの上にとどまるように」。
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 そのときもそれ以降も、私は神の存在や慈悲深い導きに対するどんな疑いも経験しなかった。
 じつに、神の存在は私には絶対的に確かなものだ。神は全ゆるところに現存している。これとは別のことは全て、仮定のものか、疑わしいものだと思えたし、そう思われる。//
 (16) 上のことは、私が幸せな子ども時代を送ったことの理由だ。
 家族の写真を見ると、我々は戦争を生き延び、ともかくも思春期になるまでは、私はつねに微笑している。
 外部の世界をときに楽しむことはあったが、怖ろしくなったとき、私はいつも自分の内部世界へと引っ込むことができた。
 その感覚は子ども時代にずっと続き、ある程度は生涯を通じて私に同伴した。
 私の生命が危険だった第二次大戦という事件ですら、私の外部のもので、ゆえに現実には意味はないもののように感じた。
 私には、幸福な結末が来るという、全くの自信があった。//
 (17) それでもやはり、宗教に関しては問題を抱えていた。
 13歳か14歳の頃を思い出しているのだが、かりに存在する全てのものが神から生まれるのだとすれば、全てのものが—どんなに小さくとも全ての被創造物(生物)が、どんなに瑣末でも全ての出来事が—永遠に存在するはずだ。
 だが、存在した痕跡もなく事物は消滅している。
 顕微鏡で生物種を覗き込んで、神は本当にかつて生きた全てのアメーバについて説明することができるのだろうか、と思う。
 古い写真を見て、群衆の中のこの人を、あるいは荷車を引くあの馬を、みんな全て死んでいるが、神は憶えているのだろうか、と自問する。
 私はこの問題を、心の裡で決して解決しなかった。
 私が歴史を愛好したのは、何らかの意味で、この葛藤にもとづいていた。
 過去のものとなり死んだように見える諸事象を扱うことによって、私はある意味で、それらを生き還らせ、そうして時間から逃れた。//
 (18) 大戦間のポーランドについて、「ファシスト」とか「反ユダヤ国家」との評価がある。しかしこれは、ユダヤ人の若者はどうすれば絶望的な苦難のある国以外の国で生きることができたかと不思議がるようなものだ。
 「ファシズム」という用語は、1920年代からソヴィエトの共産主義者たちが行った言葉の操作に影響を受けて、本来の全ての意味を失った。
 イタリアのファシズム—言葉の元来の厳密な意味での「ファシズム」—は、1914年より前にB・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が率いた極端に急進的な社会主義運動が大きく成長したものだ。 
 ムッソリーニは、第一次大戦勃発とともに、ヨーロッパを覆った愛国主義の狂熱と階級闘争を上回る民族への忠誠心に影響を受け、社会主義の上にナショナリズムを接ぎ木した。そして、現代世界での階級闘争は社会主義者が教えたように同一の国家内の市民対市民で闘われるのではなく、国や民族の間で、裕福で搾取するものと貧困で搾取されるものとの間で闘われる、と主張した。
 彼は徐々に対抗する諸政党を廃絶し、包括的な検閲制度を導入し、諸企業に対して、全面的な国家の監視の下にある労働組合と協力することを強いた。
 これは、のちにソヴィエト同盟で起こったことの、緩やかな範型だった。//
 (19) イタリアと似たようなことは、大戦前のポーランドでは起きなかった。
 1926年まで、ポーランドは民主主義の途を歩んだ。しかし、共産主義者と社会主義者がナショナリストと闘ったとき、そして人口の三分の一を占める少数民族の権利が侵害されたとき、苦境を克服できないことが分かった。
 1926年5月1日、政治の舞台から退いていたPilsudski がクー・デタを敢行した。
 しかし、その範囲は限られていた。
 共産主義政党を含む諸政党は公然と活動し続けていたし、プレスの自由も尊重された。そして、司法部も、その独立性を維持した。
 政府内では軍部が重要な役割を担い、Pilsudski は立法部を支配することができていたが、彼の独裁は穏和で、非暴力的だった。
 1935年に彼が死ぬまで、ポーランドには伝統的な権威主義的統治があったけれども、類似性がイタリアとはほとんどなく、ナツィ・ドイツとは全くなかった。//
 (20) ポーランドの反ユダヤ主義という一般的な印象も、一定の修正が必要だ。
 ポーランド人にとって疑いなく、ポーランド性の規準を明らかにするなら、それはカトリック教会の遵守だった。だからこそ、正統派のウクライナ人やユダヤ人は、いかにポーランドを文化や忠誠の対象としていても、本当のポーランド人とは見なされなかった。
 これが、カトリック教会が国全体を統合した、120年間の外国占領の結果だった。
 民衆全体がカトリック教会によって、ユダヤ人に対する敵意を吹き込まれ、教え込まれた。
 人種的な反ユダヤ主義ではなかった。だが、信仰の放棄によってのみ改宗でき、かつそうしてすら、ポーランド人からみると決して完全にはユダヤ性を除去することができなかったので、ほんのわずかに苦痛が少ないにすぎなかった。
 しかし、(政府や軍部内以外では)公然たる差別はなかったし、大虐殺(pogrom)もなかった。
 正統派ユダヤ人の大多数は、自分たちの意思で、狭い共同区画に住んだ。そこでの生活様式が宗教の遵守を容易にしたからだ。
 我々のような同化したユダヤ人は、こうした共同区画の外の仲介者的世界で生活した。だが、私はこう言わなければならない。我々を背教者のごとくに扱う正統派ユダヤ人によりも、教育を受けたポーランド人の方に共通性を感じた、と。//
 (21) ともあれこうした理由で、1935年以前には、ポーランド・ユダヤの中産階層の子どもたちは、全く幸せでいることができた。
 確かに、ひどい事件はあった。
 1930年代の初め、我々は明らかなユダヤ人だけの共同住宅に住んでいた。 
 そして、ときには名前を呼ぶことがあった。
 一度、改宗した家庭のユダヤ人少年が、私を「ユダヤ」と呼んだ。
 私は叫び返した。「ユダヤは、きみ自身だ!」
 それに反応して彼は、ペン・ナイフで私の頭を打ち、血が流れた。
 彼の両親は、丁重に詫びを言った。
 しかし、私の子ども時代はこのような稀な事件でとても不快だった、と言うことはできない。
 我々は、ふつうの生活を送った。冬にはスキーやスケートをし、夏には車で街を出てピクニックをし、大きい「Legia」プールで泳いだ。映画を観に行きもした。//
 (22) 私は、どの点でも傑出した子どもではなかった。
 どの方面についても、早熟の才能を示しはしなかった。
 たくさん読書することもなかった。
 でも、私はとても魅力的な男の子だと見なされていた。オリーブ色の肌、母親が前部を切り揃え続けたつややかな黒髪は、たびたび称賛された。そして、私はしばしば、ペルシャ人かインド人だと思われた。
 思春期に心が傷ついたことの一つは、この称賛が突然になくなったことだった。//
 (23) 職業的な文筆家に将来になる者にしては驚くべきことかもしれないが、若いときの私には、自分の考えを文書にして書き記すのがとても困難だった。
 しかしながら、きわめて流暢に、私は話した。
 十代のとき、英雄が登場人物となる即席の作り話を語って、クラス仲間を楽しませた。この才能のおかげで、後年になって私の子どもと孫たちのいずれも、ベッドでの寝物語でわくわくさせることができた。
 しかし、決まりきった学校の課題を執筆するのは、本当に苦痛だった。
 のちに、主題が自分に浮かんで来て、自分の感情を表現できてようやく、きちんと書くことを学んだ。//
 ——
 第一部第二章、終わり。

2496/R・パイプスの自伝(2003年)⑤。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
 ——
 第二章・私の出自(My Origins)①。
 (01) ここで、時計の針をまき戻して、私の出自を語ろう。//
 (02) 私は、1923年7月11日に、ポーランドのシレジアのCieszyn (チェシン、Teschen,テシェン)という小さな市の、同化した(assimilated)ユダヤ人家庭に生まれた。そこはチェコとの境界にあり、のちにアウシュヴィッツ最終収容所となる所から50キロメートル離れていた。
 父親のMark は、1883年にLwow (Lemburg, Lviv)で生まれ、若いときはウィーンで過ごした。
 祖先はもともとは「Piepes」と綴り、19世紀初めから、生まれた市の改革志向の市民の主要人物だった。
 Bernard という名だった我々の先祖の一人は、ユダヤ人共同体の書記として勤めていたが、1840年代に、率先してLwow に改革派ラビ〔ユダヤ教聖職者〕を送り、ほとんどが職業人で成る「進歩的寺院」を率いた。
 今日の基準からすると当時は全く保守的だったユダヤ教では「進歩的」だったとはいえ、正統派のユダヤ人は激しい怒りを感じたため、彼らの一人は新しいラビを殺害し、自分の娘を彼の台所にこっそり入らせて、食物に毒を入れた。//
 (03) 1914年、父親はポーランド軍団(Legions)に入隊した。それは、ポーランドの独立のために戦うために、ドイツ・オーストリアの援助を受けて、Joseph Pilsudski が組織していたものだった。
 彼は1918年まで現役兵のままでいて、「Marian Olszewski」という偽名で、Galicia のロシアと戦った。
 父親がどんな体験をしたのか、私は知らない。戦争をすぐ近くで見たほとんどの人々と同じく、彼は語るのを好まなかったからだ。
 彼はその間に、何人かの将校たちと親しくなった。彼らはのちにポーランド共和国を動かすことになり、友人関係は大戦間の時期や我々のポーランド脱出に役立った。//
 (04) 母親のSarah Sophia Haskelberg は、家族や友人には「Zosia」として知られ、Hasidic 〔ユダヤ教の一部—試訳者〕の裕福なワルシャワの事業家の11人の子どもたちの9番目の子どもだった。
 母親はその父親を、陽気な人で、食べて、飲む美食家で、大きなひどい声で歌ったと思い出していた。
 彼は事業を発展させてロシア政府とも取引をし、制服やロシア軍用の武器を売った。そして、ワルシャワとその郊外にかなりの不動産を獲得した。
 母親の兄弟の数人は、技術学校か船乗り学校に入るために、戦争前に、ベルギーへと送られた。
 家族は夏をワルシャワ近くのリゾート地で過ごした。そこには、祖父の別荘があった。
 家族はそこへ学校が終わる前のPassover 〔出エジプト記念のユダヤ人の祝日の日々—試訳者〕の頃に移り、9月に学校が始まる後まで、滞在した。
 ワルシャワでは、家族は祖父が所有するアパートに住んだ。1939年になっても、トイレはあったが浴室はなく、台所のシンクで洗う必要がああった。//
 (05) 1915年にロシア軍がワルシャワから撤退したとき、母親の父親は彼らについてくるよう強いられた。彼が裏切ってドイツ軍にロシア軍に関して知っていることを教えるのを阻止しょうとした、というのが最もありそうだ。
 彼はその後三年間、ロシアにいた。そのうち一年は、共産主義者の支配下だった。
 ドイツとの人的関係を通じて、1918年に、彼はポーランドに戻り、息子の二人、Henry とHerman が地位を引き継ぐとの取り決めがなされた。
 彼らは二人ともロシア人女性と結婚し、残る人生をソヴィエト同盟で過ごした。
 Herman は、スターリンの粛清(purges)で殺された。1937年11月に逮捕され、すみやかに処刑された。//
 (06) 我々は1902年のクリスマスの前夜が母親の誕生日だと受け取っていた。しかし、ロシア支配下のユダヤ人家庭は男の子が兵役に就くのを回避すべく息子たちの誕生日を「取引き」するのがふつうだったので、母親の誕生日も確実ではなかった(実際、1920年代にパレスチナへ移住した彼女の兄のLeon の誕生日は1902年12月28日とされていた)。
 私の母方の祖父は、私が生まれた年に癌で死んだ。
 母親の母親は、よく憶えているが、ポーランド語をほとんど話さず、私と最小限の会話しかしなかった。
 彼女は、73歳のときにホロコーストで殺された。強制的に送られて、Treblinka にあるナツィの死の収容所で毒ガスを吸わされた。
 学校の後でときおり、私は彼女のアパートに立ち寄ったものだ。そのときいつも優しくされ、食べ物をもらった。一方で、彼女がかつて我々を訪れたことは憶えていない。//
 (07) 私の両親は1920年に、父親がワルシャワに住んでいるときに逢った。
 母親はこう私に言った。彼のことを友人から聞いたのだが、その友人は仕事で彼の父親のところを訪れてもMarek Pipes は自分を気にかけてくれない、と愚痴をこぼした。
 母親には、彼をつかまえてデートに誘う自信があった。
 彼女は彼の事務所を訪れて、彼が頻繁に行っていると聞いたレストランで見たことがある、というふりをした。
 興味をそそられ、彼は餌に食いつき、彼女を誘った、かくして、ロマンスが始まり、二人は二年後に結婚した。
 結婚式は1922年9月に行われ、その後にCieszyn (チェシン)へと移った。そこで父親は、三人の仲間と一緒に—うち一人はのちに義兄弟になる—「Dea」というチョコレート工場を経営していた。
 それは今日でも、「Olza」という名前で存在しており、「Prince Polo」という名のウェハス棒を製造している。
 その市は川で二分されていた(今もそうだ)。東部はポーランドで、西半分はチェコスロヴァキアに属していた。
 ユダヤ人たちはその市に、遅くとも16世紀の初めから住み始めていた。//
 (08) 私はチェシンで4年間だけ過ごした。そして、この郷里について、ほとんど思い出がない。
 今でもある二階建ての家で、私は生まれた。
 70年後に、チェシン市長が私に名誉市民号を授与してくれたとき、式典で私は、憶えている幼年期のことを三点述べた。
 母親が、厚い層のバターとダイコンの付いたサンドウィッチかライ麦パンをくれたのを覚えている。
 家の前で食べていたとき、ダイコンがすべり落ちた。
 こうして私は、喪失を学んだ。
 そのような食べ物を、私はひどく欲しがった。
 こうして私は、羨望を知った。
 最後に、両親は私に、私は数人の友達を日用食料品店に誘って各人に一個ずつオレンジをあげたことがある、と話した。
 店主に誰が支払うのかと尋ねられて、私は「親たち」と答えた。
 こうして私は、結論的に言うのだが、共産主義とはどういうものか、つまり、誰か他人が支払うのものだ、ということを学んだ。//
 (09) 転居したあと何度かチェシンを訪れた。一度は1937-38年の冬休みの間で、つぎは1939年2月、ポーランド政府が、ミュンヘンで連合国から放棄されたチェコに、チェシン市の半分の割譲を強いたあとだった。
 荒廃した街路を歩きながら、母国の恥ずかしさで気分が悪くなった。//
 (10) 住民は、ポーランド語、ドイツ語、チェコ語を切り替えて使った。
 両親は、家では、ポーランド語とドイツ語のいずれかを選んで話した。
 私とは、もっぱらドイツ語で話した。ドイツ語を話すお手伝いも雇っていた。
 しかし、私と遊ぶ友達はみなポーランド語を話した。それで、私はその言語を向上させていった。
 その結果として、私は3歳か4歳のときに、バイリンガルだった。//
 (11) ヨーロッパの地理的中心 (*脚注) で出会う文化的な交錯の流れを、アメリカ人が思い浮かべるのはむつかしいに違いない。
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 (*脚注)  二つの線を北岬〔ノルウェー〕からシチリアまでと、モスクワからスペインの東部海岸まで引くと、それらはチェシン付近で交差する。
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 アメリカ合衆国には多数の民族集団があるけれども、イギリスの言語と文化がつねに主要なものだ。
 私が生まれた所では、諸文化が同等の基盤を持っていた。
 この環境によって、人々は、外国人の思考様式についての鋭い感覚を身に付けていた。//
 (12) 父親は1928年に、Dea を売って、家族とともに短期間、Cracow(クラカウ、クラクフ)へと移った。そこには父親の妹が夫と二人の男の子と住んでおり、また、彼の両親も一緒にいた。
 父親の父親のClemens(またはKaleb)は威厳のある背の高い紳士で、髭の生えた顔に私を接吻させたが、私に一言も発しなかった。
 彼は、1935年に死んだ。 
 Cracow で父親は、義兄弟ともう一人の仲間で新しいチョコレート工場、ウィーンのPischinger 商会の支店を設立した。チョコレート・ウェハスの製造に特化したものだった。
 (今でも、Wawel の名で稼働している。)
 Cracow には一年もいなかった。
 工場の経営を義兄弟と仲間に委ねて、父親は、小売販売業をする意図を持って、家族とともにワルシャワに移った。
 しかし、まもなく、不況がやって来た。
 父親はPischinger との関係を切って輸入事業を始め、主にスペインやポルトガルから果物を買い付けた。必要な資金は、政府内にいる友人から現金で割当てられた。
 母親の出身家庭がもつ不動産からの収入を加えた収入は、控えめな生活をするには十分だった。
  父親は本当は事業をするのに適していなかった、と追記してよいかもしれないと思う。
 彼には良い考えが浮かんだが、やり通す持続力が弱くて、毎日の管理業務にすぐに飽きた。
 私の両親は楽な暮らしを送ってきていた。
 のちに、事態がもっと悪くなったとき、父親は感傷をもって思い出していた。母親が毎日朝に直面していた主要な問題は、どのカフェで一日を過ごせばよいか、だったと。
 彼は、ワルシャワの男性の中のベスト・ドレッサーの一人という声価を得ていた。
 つねに、料理をし、掃除をし、朝早くにタイル貼りの暖炉に薪をくべるお手伝いを雇っていた。
 そのお手伝いは、台所で寝て、雇い賃は、部屋と食事込みで毎月5ドルか6ドルだった。//
 ——
 ②へとつづく。

2495/西尾幹二批判055—思想家?③。

 つづき
 三 1 西尾幹二は、2009年に、「思想家や言論人」について、こう告白?している。政治家の言葉には、誰もが知るように嘘がある、としたあと、こう書く。
 「同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。
 世には書けることと書けないことがあります。
 制約は社会生活の条件です。
 公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。」
 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 相当に興味深い文章だ。
 「公論に携わる思想家や言論人」の一人だと西尾が自分を見ていることは間違いなく、その点ですでに関心は惹く(ただの「文筆業者」ではないのか?)。
  それはともかくとしても、上が一般論というより、確実に自分自身についての、少なくとも自分を含めての叙述であることが注目される。
 ・「百パーセントの真実を語れる」わけではない。
 ・「書けることと書けないことがあ」る。
 これらですでに、西尾幹二が書いたこと、書いていることの「真実」性、「信憑性」、「誠実さ」を疑問視することができる。
 さらに、つぎもなかなか新鮮で刺激的な?叙述だ。
 ・「私的な心の暗部を抱えてい」る。
 ・「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 これが書かれた2009年2月、「つくる会」は2006年に分裂して、西尾は名誉会長でもなくなっていた。従来の「つくる会」教科書出版会社だった扶桑社(産経新聞社関連会社)は八木秀次らの分かれたグループ作成の教科書を発行しつづけることになった。
 種々の思いがあったに違いないが、2006-7年に西尾は、「つくる会」分裂の経緯・関係人物に対する鬱憤を吐き出すかのごとく、分裂の経緯や関係人物批判等を相当に詳しく、かつ頻繁に書いた。
 それらを含めてまとめたのが西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)で、後記の表題は「あとがき—保守論壇は二つに割れた」。その中で、こう書きもした。
 「保守への期待が保守を殺す。
 私は自分の身が経験したこの逆説のドラマを包み隠さず正直に叙述した。
 なかに個人攻撃の文章があるなどと志の低いことを言わないでいただきたい。個人の名を挙げて厳しく批判している例は一人や二人ではない
 そういう『事件』が起こったのである。
 歴史の曲り角には必ずユダが登場する。」
  首相は、安倍晋三に代わっていた。安倍は、産経新聞・扶桑社とともに<非・西尾幹二派>を支持したとされる。
 西尾は「保守への期待が保守を殺す」と書き、「保守論壇は二つに割れた」という重要な認識を示した。
 かつ同時に、多数の(氏名だけは私も知る)論者たちを「ユダ」として名前を出して批判・攻撃した。10名を超えており、皮肉の対象も含めると、旧「生長の家」活動家とされた者たちのほか、八木秀次はもちろん、岡崎久彦・中西輝政・櫻井よしこ・伊藤隆、小田村四郎等々の多岐にわたる。「産経新聞の渡辺記者」というのも出てくる。
 この「事件」を振り返るのが目的ではない。
 西尾は2009年に、「書けることと書けないことがあ」ると言ったが、2006-7年頃には十分に書いていただろう、書きたいが書くのを躊躇してやめたという部分があるのだろうか、という疑問をここでは書いている。
 西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中ではとくにつぎの表題の項が、分裂の経緯(あくまで西尾から見た)や関係の多数の個人名を知るうえで、資料・史料的価値があるだろう。p.77〜p.173。
 「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」、「小さな意見の違いは決定的違い」、「何者かにコントロールされだした愛国心」、「言論人は政治評論家になるな」。
  2009年の前年の2008年は、西尾幹二が当時の皇太子妃批判を月刊WiLL上で継続し、西尾『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)で単行本化した年だった。
 不確実な情報ならば「書けない」だろうが、西尾は「おそらく」という言葉を使っての推測の連鎖も含めて、相当に「書きすぎた」のではないだろうか。
 2006年に西尾は「保守論壇は二つに割れた」と認識したのだったが、「つくる会」の分裂以降、八木秀次は月刊正論(産経)上の重要な執筆者の位置を獲得する。八木は冒頭の随筆欄に、明らかに西尾幹二に対する<皮肉・当てこすり>を書いたりしていた。
 西尾が月刊正論から一切排除はされなかったようだ。それまでの実績と「誌面を埋める文章力」は評価されていたのだろう。それに、西尾自身が月刊正論では安倍内閣批判も許容してくれた、と何かに書いていた。
 それはともかく、2008年の西尾幹二による当時の皇太子妃批判は、ある程度は月刊WiLL編集部の花田紀凱との共同作業のようだが、2006年以降の西尾幹二の心理的「鬱屈」状態も背景にあったのではなかろうか。つまり、継続的に(従来どおりに?、その言う「保守論壇」の中で)「目立ち」たかった、というのが、重要な心理的背景の一つだったのではないか。 
 そして、2009年時点での「百パーセントの真実を語れる」わけではなく、「書けることと書けないことがあ」る、という言い分と、この人が2008年に実際にしたことの間には、大きな齟齬がある、と考えられる。 
 『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)の刊行自体もまた、「思想家」のすることではなかっただろう。個人全集になぜ収載しないのだろう。自信がないのか、西尾でも恥ずかしく感じているのか。
 --------
   2009年に「書けない」ことがある、と西尾が言った、その「書けない」こととは、いったい何だったのだろうか。
 むろん、文章執筆の「注文主」(雑誌編集者等)の意向とは正反対の、あるいはそれと大きく矛盾する文章を書けはしないだろう。
 西尾は上に引用した部分のあとで、書けなくする「最大の制約」は「自分の心」だなどという綺麗ごと?を書いているが、それは現実には、文章執筆「注文主」の意向を<忖度>する西尾の「心」ではないかと思われる。
 そして、そのような100パーセント「自由に」執筆することができない者を、おそらく「思想家」とは呼ばない。
  さらに、西尾幹二によると、西尾自身を少なくとも含むことが明瞭な「思想家や言論人」は、「私的な心の暗部を抱えてい」て、「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 あきらさまに書いてしまえば「狂人と見なされる」だろうような、「私的な心の暗部」—。
 これが西尾幹二においてはどういうものか、きわめて興味深い。
 そして、この「心の暗部」、あるいは偏執症的な、独特の「優越感と劣等感」(後者は<ルサンチマン>と言えるだろう)をも見出して、指摘しておくことは、この西尾幹二批判連載の目的の中に入っている。
 ——

2494/西尾幹二批判054—思想家?②。

 (つづき)
  西尾幹二の個々の論述は信用できないこと、それを信頼してはいけないことは、「思想家」という語を用いるつぎの文章からも、明瞭だ。
 2002年、アメリカの具体的政策方針を批判しないという論脈だが、一般論ふうに、西尾はこう書いた。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。/正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 これは、すさまじい言葉だ
 思想家は「最高度に政治的でなくてはいけない」
 どういう場合にかというと、「日本の運命に関わる政治の重大な局面」でだ。
 思想家は日本が「外国の前で土下座」するのを「思想的に支持しなければならない」ときもあり得る。
 どういう場合にかというと、「いよいよの場面で、国益のために」だ。
 まず第一に、結論自体に驚かされる。
 本来の「思想」を「政治」に屈従させることを正面から肯定し、「思想的に支持」すべき可能性も肯定する。
 思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる」、そういうときがある、または既にあったかもしれないと、公言しているのだ。
 第二に、どういう例外的な?場合にかの要件は、きわめて抽象的で、曖昧なままだ。 
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面」で、「いよいよの場面で、国益のために」。
 「国益」も含めて、こういう場合に該当するか否かを、誰が判断するのか。
 もちろん、西尾幹二自身だろう。
 「政治」を優先することを一定の場合には正面から肯定する、こういう「思想家」の言明、発言を、われわれは「信用」、「信頼」することができるだろうか?
 この人は、自分の生命はもちろん、自分の「名誉」あるいは「世俗的顕名」を守るためには、容易に「政治」権力に譲歩し、屈従するのではないか、と感じられる。このような「政治」権力は今の日本にはないだろうが、かつての日本や外国にはあった。西尾幹二にとって、「安全」と「世俗的体裁」だけは、絶対に守らなければならないのであり、「正しい『思想』も、正しい『論理』もそのときにはかなぐり捨てる」心づもりがあると感じられる。
 そのような人物は「思想家」か?
 上の文章は、昨年末か、今年2022年に入って、小林よしのりの本を通じて知り、所在を西尾幹二の書物の現物で確認した。
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 つづく。

2493/西尾幹二批判053—思想家?①。

  そもそも現在、2022年の時点で、「思想家」とは何か、は問題にはりうる。
 英語でthinker、独語でDenker というらしいから、think、denken すれば誰でも「思想家」になれそうだが、きっと両語でも、独特な意味合いがあるのだろう。
 ともあれ、今日では「思想家」と自称する人はほとんどいないに違いない。
 西尾幹二は、その稀有な人物だ。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾は冒頭では殊勝にこう語る。
 「私はドイツ文学者を名乗り、文芸評論家でもあって、『歴史家』と言われると少し困るのですが、…」。
 しかし、2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、まず、こう言う。 
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 そして、こう続ける。
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 「思想家」としての思いがあるから、椛島有三と「握手」して譲歩するような「ずるく立ち回って妥協すること」できなかった、というわけだ。
 この辺りの述懐はきわめて興味深いが、そもそもの関心を惹くのはのは、西尾は(少なくとも当時の2019年)自分を「思想家」と自認していた、ということだ。
 はて、<西尾幹二思想>とはいったい何だろう。ある書物はこう終わっているのだが、いかなる「思想」が表明されているのか。西尾幹二は「思想家」なのか?
 西尾・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、最も末尾の一段落。
 「光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえないことが私には見える。なぜなら、自由というだけでは、人間は自由になれない存在だからである。
 もう一度書く。上の文章は、いかなる「思想」を表現しているのか?
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 つづく。

2492/西尾幹二批判052—神話と日本青年協議会②。

 (つづき)
  西尾幹二「神話の危機」2000年10月は日本青年協議会等の会員むけの「講演」内容だから、その点には留意しておく必要がある。
 日本青年協議会の上部団体とされる〈日本会議〉は「つくる会」を追いかけるように1997年に設立され、西尾が「撹乱」や「乗っ取り」を感じるまでは、〈新しい歴史教科書をつくる会〉と〈日本会議〉は友好関係にあり、またそれ以上に、「つくる会」の運動を支え、助ける有力な団体だった、と思われる。
 西尾幹二会長にとっては、自分自身への「力強い味方」だった。
 西尾が、日本の神話の具体的内容、古事記や日本書紀の「神代」の叙述、神道や広く日本の宗教について、1996年の「つくる会」設立段階でどの程度の知識・素養があったかは疑わしい。
 同・国民の歴史(1999)でも、日本の「神話」に言及しつつ、なぜか「日本書紀」や「古事記」という言葉を用いていないし、「神話」につながる日本の王権、といった論述もしていない。
 また、日本人の「顔」を示すという仏像等の写真を多数掲載しながら、「仏教」と「神道」の違い等には何ら触れていない。
 おそらくは1999年著の上の点を意識して、再度少し広げて引用すると、2000年講演では、こう言った。論評すると長くなるので、内容に介入しない。
 「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だと言えるでしょう。仏教は金色の美しい彫刻を通して、美という感性的なものとして百済からこの国に入ってきた。だから、素晴らしい仏教彫刻を残すことが出来た。それは日本人のアニミズム的な自然崇拝とつながっており、だから日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだと思います」。
 きっと、だから1999年著では「難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在」として仏教彫刻の写真を多数掲載した、と釈明?しているのだろう(なお、それら仏教彫刻の選定は実質的には田中英道(第二代会長)の助言が大きかったことを、田中がのちに明らかにしている。全集第18巻・国民の歴史「追補」、p.734(2017))。
 ともあれしかし、1999年著と比較すると、「神話」、天皇、「神道」に関する明瞭な論述には驚かされる。
 西尾はこう断定的に語る。自分自身が、こう「信じて」いるのだ。
 ・「日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・「神話」は「まっすぐ天皇制度につながっている」。「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころ」だ。
 1999年から一年間の間に、「つくる会」運動の有力な支持者である〈日本会議〉・日本青年協議会の歴史観・天皇観、宗教観を、相当に要領よく「学習」したのだろう。
 西尾はのちの2009年には、日本青年協議会は「西洋の思想家の名前」を出すと叱り、「天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させ」るような、「目を覆うばかり」の「おかしい」団体だと明言したのだったが。
 やや離れるが、西尾幹二は、読者(+書物や雑誌の編集者)や聴衆の気分・意向を考慮し、「忖度」することを絶えず(気づかれにくいように)行っている「もの書き」だと考えられる。誰しも、文筆業者はある程度はそうかもしれないが。
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  西尾幹二と〈日本会議〉または日本青年協議会との関係の変化は、つぎのようなものだろう。なお、私が初めて西尾の文章を読んだのは、下の③の時期だ。
 ①無関係—②親〈日本会議〉—③反〈日本会議〉(・反八木秀次)—④宥和的?
 ③の時期には「西洋の思想家」を排除するのは「おかしい」とし、八木秀次批判文(国家と謝罪(徳間書店、2007年)p.80)では八木は「近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた」と書いていた。まるで自分は「西洋」派であって「国粋」派ではないかのごとくだ
 池田信夫の2014.09.07の「冷戦という物語の終わり」と題するブログは、有力メンバーの一人として坂本多加雄が参加した「つくる会」運動は「時代錯誤の皇国史観に回収されてしまった」、と書いていた。
 それぞれの言葉の意味は問題になるが、しかし、西尾幹二は実際にはまさに「国粋」派で「皇国史観」の持ち主だとの印象を与え続けている。
 すなわち、神話=王権の根拠(かつまた「神話」にもとづく天皇位はずっと男系男子だった)という理解と主張を変えていないことは、既述の月刊WiLL2019年4月号での発言からも分かる。
 また、「つくる会」分裂後・反〈日本会議〉の時期である2009年にも、同様のことを述べている。『国体の本義』(1937年)に論及する中で、明確にこう書く。
 ・「日本のように地上の存在である天皇が神に繋がるということを王権の根拠としている国は例外的であり、唯一無比であるかもしれません」。
 ・「天照大神の御子孫がそのまま天皇の系図につながるというのは、他にかけがえのない唯一の王権の根拠なのです」。
 西尾「日本的王権の由来と『和』と『まこと』」激論ムック2009年7月発行、同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.188-9。
 1999年頃に日本青年協議会と〈日本会議〉の史観から影響を受けたことは、その後の西尾をかなり大きく変えたのかもしれない。
 もっとも、そうなったからこそ(かつ男系男子論を固持しているからこそ)、産経新聞出版から2020年にかつての産経新聞「正論」欄寄稿文をまとめた書物(編集担当・瀬尾友子)を刊行してもらえる<産経文化人>であり続けることができているのだろう。
 一人の個人でいることはできず、既述のように、「最後の身の拠き所」をそこに求めているのだ。
 上の④「宥和的?」とみなす根拠はあるが(この欄ですでに少しは触れてはいるが)、今回は省略する。
 ——

2491/西尾幹二批判051—神話と日本青年協議会①。

  前回に関連して、つづける。
 私が読んだ順に記すと、西尾幹二は2019年に、「神話」についてこう語った。
 月刊WiLL2019年4月号=岩田温との対談。p.219-p.220。
 ①「神話は歴史とは異なります。…。
 歴史は…、諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 2017年にも、ほとんど同じ文を書いていた
 2017年1月/「つくる会」20周年挨拶文—全集第17巻(2018)所収、p.715。
 ②「神話と歴史は別であります。…。
 歴史は諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 以上、完全な同文ではないが、ほとんど同じだ。
 なお、この欄でかつて西尾幹二は文章の「使い回し」をしていると批判し、<コピー・ペースト>をしているふうに記したのは誤りで、お詫びして訂正する。「…」の部分も一致していない。
 しかし、ほとんど同じ文だ。①と②を比べて一読すれば、すぐに分かるだろう。西尾は②の印刷文書を見ながら発言したのか、あるいは対談のゲラ段階で②を対談発言の中に書き加えたのか。
 なお、②の文章の前には、つぎの一文がある。上掲同頁。
 「史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち環り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、これもそのまま信じられるでしょうか」。
 初めてこの欄に記すが、これは西尾の<保守>派内のライバル・櫻井よしこ批判であり、皮肉または当てこすりだ。
 櫻井よしこは、西尾が上を書く直前に、<古事記の精神を強調>し、「古事記」の精神・価値観を理解して掲げるのが「保守」だ旨を書いていた。「3月号」になっているが、実際にはもっと早く発行されていると見られる。 
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)、p.85-p.86。
 古事記の「精神」を強調する限りでは、西尾と同じで、「歴史」把握のための「いきなり」が良くないのだろうかと、西尾の言い分はやや不思議でもあるのだが。
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  上のような「神話」と「歴史」の区別、<歴史—解釈を許す、神話—解釈を許さず「信じる」だけ>という対置の根拠はいったいどこにあるのだろうと、不可解だった。
 少しは理解できたのは、以下による。
 すなわち、秋月なりに言い換えれば、「理屈」ではない、「神話」とはそもそも「信じるべき」ものなのだ。そのようなものとして西尾は「神話」という語を用いているのだ。そして、日本の「王権」の由来が「神話」にあることも、日本人は「信じるべき」なのだ。
 西尾幹二「神話の危機」2000年10月—同・日本の根本問題(新潮社(編集担当・冨澤祥郎)、2003) 所収、p.210-p.235。
 例のごとく西尾の文章の「論旨」をたどるのは容易ではない。上の点に焦点を当てて、叙述の順に部分的に抜粋引用する。長くなる。
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 ・「古事記の冒頭に、国生みの神話があり、…」、「神の上に神がいる」。日本民族以外と比べると「神らしくない神」だ。
 ・「日本の神様は、規範を持たない。掟を持たない」。仏教、儒教を「取り入れ」、「他の神を自らの神にするということに余りこだわりがない」。ふつうは「神仏習合」と言うが、その前に「神神習合」があったともされる。「神仏習合も神神習合の一つのバリエーションと考えられるのでしょう」。
 ・他の文明圏では「宗教」は血を流す対立を繰り返し、「不寛容」だったが、「日本の神様はどうもそうではない」。
 ・日本の神は「絶対唯一神」ではない。「自らの上に神を持たないがゆえに、すべてが神になり得る構造。…仏もまた神の一種としてとらえることが出来たという構造」、これは、「日本民族の主体性」を「暗黙のうちに自己表現」しているのではないか。
 ・仏教伝来時も、「すべてのものを神として迎え入れる日本の神の概念が非常に包容力を持ったものであったから、これを包み込むことが可能であったのです」。
 ・「死ねば仏になる」と言うが、これは「死ねば神になる」のと同じで、「日本では神は自然万物とつながっており、そこに断絶がない。…明らかに神道と仏教が一緒になっている姿です」。「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だ」と言えるだろう。だから素晴らしい「仏教彫刻」を残したのであり、「日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだ」。「仏教の導入に象徴される、何でも包容する日本のアイデンティティ…」。
 ・「日本文明の特徴」は「排他性の少ない、自然形成によるアイデンティティの高さのようなもの」でないか。
 ・日本民族は「自分の原理」を主張しなかったのではなく、「何時の頃からか、自分の国を『神の国』と自覚するようになります」。
 ・「神と仏が一つになるという思想が日本の根っこだという考えが、平安末期から北畠親房を経て出来あがった日本の国家観念です」。
 ・「日本の仏教は、…社会的にほぼ幕府に利用される一方で、思想的にはアニミズム的な要素が非常に強いのでインドの哲学のようにはならない」。「そのような体系的思考は日本の仏教には向いていない」のではないか。
 ・「日本人は完結した神話と伝統の中でずっと生きてきたのです。『大鏡』、『愚管抄』、『神皇正統記』—これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇がまっすぐに神代につながっている。天皇譜と神話の神々の世界とが一直線につながっているのです」。
 ・「日本の天皇は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結している」。
 ・「神話とつながるということは、自然万物とつながるということなのです。日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・豪族の祖先も「神話」に出てくるので、「われわれは祖先崇拝を通じて神話とつながっている」。
 ・神話学者は理解できない。「過去の日本人にとっては、神話は学問化されない何物かであり、天皇の存在とつながった信仰の対象でもあったのです」。
 ・「宗教にとって重要なのは自らの信仰であって、知識ではありません」。
 ・「研究の対象が、信仰や神話…になりますと、相手は自然現象ではなく、人間の心です。自分の心の客観化など不可能なことです」。「信仰がどういうことかを知ることは、物体の法則を知ることと同じではない」。
 ・「つまり、信じるということは、一つを信じることであって、あれもこれも信じるということではないのです」。「かように、宗教というものは科学とは正反対なものです」。
 ・「近代科学」、「合理的な学問」に対して仏教にはまだ抵抗力があったが動揺し、「神話はもっと大きな深刻な打撃を受けました」。
 ・「神話を虚構化」した「合理主義者」の津田左右吉を引き継いで戦後に「神話破壊の現象」を出現させた「その筆頭が丸山真男です」。
 ・津田史学は今なお「猛威」を奮っていて、「古代史において『日本書紀』をきちんと読まないで『魏志倭人伝』ばかり持ち上げるのも、同じ合理主義の現れです」。「中国語で書かれた歴史を信じて、なぜ日本人が書いた歴史を信じないのか」。
 ・「日本の神道の場合は、何が入ってきても全部習合したため、無垢でありつづけることができた。しかし、近代化に対峙したときに、今度こそ大きな危機にさらされることになった」。
 ・「日本の神話の危機、日本の神道の危機は、日本そのものの危機と言っていいかもしれない」。
 ・「日本は神の上に神があり、またその上に神があって、絶対の神がない。無限定の神は何をも自らの神にすることが出来るという包容力とフレキシビリティがある。そのことは日本の深い強さであると同時に、近代科学文明というものにさらされたときにはある種の大きな脆さであるようにも思える」。「理論までも外から得て自己を防衛することはできません」。
 ・「日本人の持っている長い歴史には、歴史が物語っている何かがある。…、日本人の中に自ずと宿っている生命感、神秘感といったものを回復することが重要だと思います」。
 ・日本の「神話」は、「物語—こうした神話らしい楽しいお話」がある、「…文学」でもあり、「生命というものを感じさせる話が多い」。それを「ことごとしい科学分析の対象にしても仕方がない」。
 ・「神話がまっすぐ天皇制度につながっているということで、近代以降神話は解体の危機にさらされている」が、「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころなのです」。
 ・「日本人は外のものをもう借りない」。自分で「再構成」し、自分が「発信者」になる。そのときに、「日本人のこれからの文明の発展と自己回復力の源」になるのは、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」だと信じている。
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 以上。
 日本・日本人・日本民族への強いこだわりは別として、凡人の秋月でも気づくような「仏教」認識の誤り、<こころ・神話>と<物体・科学>の単純で幼稚な対置・二分論、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」等々の実体がほとんど不明の空疎な言辞、「生命」に言及する等のニーチェの影響があると見られる表現、等々、感じることは多い。
 また、この人にとって、—上の一の2017年、2019年の文章では明確でなかったが、この文章では—「神話」とは王権・「天皇」の生成・存続の根拠であり、かつ「神道」と全くかほとんど同一のものであることも確認できる。
 興味深く、かつ重要なのは、明らかに「仏教」よりも「神道」が優先されていることにも関連して、つぎだ。
 この「危機に立つ神話」は、「日本青年協議会・日本文化研究所共催」の「セミナー」での「講演」記録だと末尾に明記されている。p.235。
 後者は前者の関連団体。
 この講演は、西尾が「つくる会」の会長だった2000年に行われた。 
 しかし、興味深いことに、「つくる会」の実質的分裂または縮小化のあった2006年以降に、西尾幹二は、「日本青年協議会」について、こう発言した。2009年のこと。
 ・「日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です」。
 ・「日本会議」に「『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた」。「会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。悪い連中ですよ」
 ・「日本会議」の「正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」。
 以上、西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009)
 →No.2464「四付」
 ——
 以降へと、つづく。

2490/西尾幹二批判050—古事記には男性天皇だけ?

 「彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ。
 彼らの呪いのヴェールを破り、裸形の現実をありのままに見るようにならない限り、これからの日本も世界も浮かばれないだろう。
 以上、西尾幹二・全集第11巻「後記」の実質的に最後の文章。2015年。
 特定の者たちへの罵倒の言葉は相変わらずだ。だが、西尾は上の「彼ら」の中に、なぜ自分を含めていないのか。
 F. Turner やR. Pipes の本を「試訳」しつつ、西尾幹二の書や文章も見ている。
 とりわけ、全集の「自己編集」ぶりと長い「後記」での自己賛美ぶりは、ひどい。
 と感じつつ、予定の草稿を掲載していこう。
 ——
  「山ほど」ある中から、便宜的に、手元に資料があるものから再開する。  
 月刊諸君!2006年4月号、p.50以下。
 皇位継承につき、男系男子限定論に立って女系天皇容認論とその論者を批判するものだ。
 もともとはと言えば、西尾幹二にとって男系でも女系でも本質的な問題ではなく、ただ<産経文化人>の一人たる位置を占めたいがための主張であるような気もする。
 女系天皇容認論者として田中卓・所功・高森明勅の三人を挙げているが(小林よしのりの名はない)、この三人はいっとき以降、産経新聞や少なくとも月刊正論(産経)には寄稿者として登場しなくなった。西尾幹二は、「ごほうび」ではないだろうが(いや、そうであるかのごとく)、「正論メンバー」にとどまり続け、2020年には国家の行方(産経新聞出版、編集担当・瀬尾友子)を出版してもらっている。
 また、上が「邪推」だったとかりにしても、西尾幹二における独特の歴史観・宗教観・現実感覚がこの問題についても背景にあると考えられるが、今回では立ち入らない。
 簡単に記せば、神道や仏教への自分の「信仰」を何ら語らないにもかかわらず、(西尾が男系男子限定を語るとじつは「解釈」する)<日本の神話>への「信仰」だけは、なぜ語るのか?、なぜこの人には「神話信仰」だけはあるのか?、だ。不思議な思考過程・思考方法がこの人物にはある。
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  上の文章に内在的な論点に限る。容易に気づいた点だ。
 第一に、西尾はこう田中卓を批判する。p.57。
 「田中卓氏は前掲論文で皇室には『氏』がないという特色を理解せよ、というが、それはダメである。
 『氏』がなくても系図が意識されている。
 現代は古代社会ではない。
 西尾は得意げに書いているようだ。
 『氏』うんぬんの論争の意味を秋月は知らない。しかし、上のような「反駁」の<方法>はおかしい。
 なぜなら、西尾は「現代は古代社会ではない」とするその「現代」の日本人であるにもかかわらず、「古代社会」に作られた(8世紀)または生まれた(史実を反映しているとすると内容はもっと前にさかのぼる)「神話」の内容を根拠にして、男系男子限定論を主張しているではないか。
 一方では「古代社会」でないのだからと主張し、一方では西尾が想念する「古代社会」にズッポりとはまっている。思考「方法」、評価の「基準」に一貫性がない。
 ついでに言えば、「神代」-「人代」の区別はなく、神代の「神」につながることこそ天皇家の世界に唯一の特質だと西尾は語るが、この辺りでは、この人は、上に少し触れたが、「神話」と史実、「信仰」と現実を完全に相対化している、または区別していない。「認識論」上の問題を胚胎している。
 そんな「哲学」的問題をこの人は無視するのだろうが、指摘されるべきは、西尾のような「神話信仰」が「現代」の日本人にいかほど理解されるかどうかだ。単純な理性・非理性、科学・非科学の問題に持ち込んではならない。
 なお、別の2019年の発言によると、神話信仰または神話それ自体が「日本的な科学」らしい(月刊WiLL2019年4月号)。こんな言葉の悪用、言葉「遊び」をしてはならない。
 また、水戸光圀・大日本史は「記紀神話」を歴史とせず、そこでの「神代」は除外された、と西尾幹二自身が上の中で書いている(p.54、「日本的な科学」の精神を持っていなかったわけだ)。
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  第二に、決定的間違いがある。西尾幹二は古事記も日本書紀もきちんと読んでいないと何回か書いてきたが、ここでもそれが暴露されている。
 天照大御神が女性神だったとしても、このことは女系天皇容認論の直接的論拠にはなり得ないだろう。
 この点はよいのだが、西尾は、女系天皇の実例があるのなら、それを「明証」せよ、との論脈で、つぎのように諭すように?明記した。p.56。
 「『古事記』に出てくる天皇はすべて男性ではないか」。
 ああ、恥ずかしい。
 日本書紀(720年)より先に成立し献上されたらしい古事記は(だが8世紀)、前者より前の時代までしか対象としていないが、最後に言及されている天皇は、推古天皇だ(明治に作られた皇統譜では第33代とされる)。
 西尾は、推古天皇も(じつは)男性だったと「明証」できるのだろうか。本居宣長がそう書いていたのだろうか。
 『古事記』の最後の部分を捲らないで上のように執筆して、活字にすることのできる人物に、「神話」信仰を説き、皇位継承者論議に加わる資格はないだろう。
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  ついでに。 
 第一。女系天皇容認論者(田中卓・所功・高森明勅)に対する一般的言葉は「迂闊」というだけだ(p.55)。
 2002年の小林よしのり批判、2006-7年の八木秀次批判に比べると、はるかに優しい。小林、八木への批判の仕方は(ニーチェにも似た?)西尾の精神・「人格」を示していると思うので、「人格」なる抽象的なものが全てまたはほとんどを決めるとは全く考えていないが、別に触れる(対八木についてはすでに紹介しているが反復する)。
 第二。いわゆる奈良時代の天皇は、天武と淡路廃帝(淳仁天皇)を除いて、元明は持統の実妹、その他は持統天皇の血を引く、その意味では女系天皇だ(元正は女性天皇・元明の娘なのでまさに女系だと表現してよいだろう。但し、これら2名は草壁皇子・文武・聖武への「中継ぎ」だと<解釈>されもする)。
 天武の血を引く男子だが母親は持統とその子孫ではなかった者は少なくなく、上の淳仁のほかにも、例えば、大津皇子(大伯皇女の弟)、長屋王がいた。大津(二上山に墓)は持統により殺されたともいう。
 抽象論・観念論好きの西尾幹二は、こんな瑣末な?ことにはきっと興味すらないのだろう。
 ——

2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
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 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
 --------
 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
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 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
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 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
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 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
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 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
 ——

2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第一章の試訳のつづき。
 ——
 第一章 ④。
 (38) 二人の赤帽を連れてくるため駅へ行ったとき、まだ暗かった。
 我々は沢山の荷物を持って、一定の地位のある外国人用に作られたような一等車両で旅行した。
 制服を着たドイツ人で、駅は混んでいた。
 安全を期して、父親はBreslauまでは同伴してほしいと、領事X氏を説得していた。そこからミュンヘン経由でローマへ行くことになっていた。
 母親の兄弟の一人のMax が、別れを告げるために駅まで来た。彼は、残すほかに選択の余地がなかったココ(Coco)を抱えた。
 我々の小犬はキャンキャン鳴いて、革紐を引っ張った。
 列車が動いたとき、彼女は革紐を食いちぎって自由になり、踏み段に跳び上がって、真っ直ぐに私の腕の中に飛び込んで来た。
 私は放そうとしなかった。
 内部では、彼女は座席の下に小さく縮こまり、旅行の間ずっとそこにいた。まるで列車に乗る資格がないと言われ、面倒を起こしたくないかのごとくだった。
 10年後に死ぬまで、彼女は我々と一緒にすごした。//
 (39) 我々の区画(compartment)には、制服姿のドイツ人の医師、軍曹と上着に鉤十字をピン留めした屈強そうな女性がいた。
 医師は私を会話に引き込んだ。私がラテン・アメリカ出身だと聞くと、スペインのオレンジはアメリカのものより旨い(いや、別だったか?)、Radio City Roketts は素晴らしい、ポーランドの庭師を連れて帰るよう息子に頼まれた、とか言い、くすくす笑いながら、ポーランドの「悪臭たれ」だからその男が家に入るのは許さない、と付け加えた。
 軍曹は脂抜けした肩掛け鞄から横目で見て、肥えた男をさえぎった。そして、黙り込んだ。
 隣に座っていた母親が、ときおり私の足をやさしく蹴って、面倒なことに巻き込まれないよう警告した。
 彼女が休憩所へ行こうとしたとき、ドイツの一兵士が通路に立っていて、明らかに人種意識から、列車に乗れたのは幸運だと言いながら、行く手を妨害した。//
 (40) ポーランドはドイツに征圧されていたので、二つの国の国境はなく、困難なく我々はBreslau に到着した。
 我々への疑念を逸らすために、父親は市内の最良のホテルの一つを選んでいた。<四季(Vier Jahreszeiten)>という名で、鉄道駅に近接していた。
 荷物を下し、洗顔したあとで、私は街なかに入り、数冊の本を買った。
 市の清潔さと賑やかさに驚いた。
 我々は夕方に、二階にある優雅なホテル・レストランを訪れた。そこは制服を脱いだ将校たちと着飾った女性たちでいっぱいだった。
 我々はローストがもを注文した。
 ウェイターが慇懃に、肉のクーポンを持っているかと尋ねた。
 持っていなかった。彼は翌日に手に入れる方法を助言してくれた。//
 (41) 私は60年後に、Polonia と改称されたそのホテルを再び訪れた。
 三つ星の宿泊設備を提供していた。
 だが、記憶に朧げに残っているのは4分の1くらいだったけれども、二階の食堂がまだあった。//
 (42) 10月29日日曜日にミュンヘンに向かって出立する前、我々は二晩をBreslau ですごした。
 ミュンヘンまでと、そこからローマまでの切符を購入するドイツの金を、父親は所持していなかった。
 父親は実直そうな顔の将校を探して、駅を歩き回った。
 これは危険な活動だった。
 父親は一人に狙いを定め、—どんな口実だったか私は知らないが—持っているポーランドのzlotys をドイツ・マルクと交換してくれないかと頼んだ。ポーランドから帰ってくるドイツ軍属にはその資格があった。
 その将校は、応じてくれた。//
 (43) Dresden 経由でミュンヘンまで旅行し、午後にそこに到着した。
 ローマ行きの夜行列車に乗り込むまで、数時間待った。
 その時間をミュンヘンの大きな美術館、アルテ・ピナコークに行ってすごそうと、私は決めた。
 面倒なことはしないと約束して、両親の反対を無視した。
 鉄道駅からKalorinenplatz(カロリーネン広場)まで歩いた。そこには当時、総統のために騒乱で倒れたナツィの殺し屋どもの霊廟があった。衛兵が監視しながら立っていて、広場全体が鉤十字の旗で飾られていた。
 ピナコークまでの距離は1キロもなかった。まもなく東入口に着いた。
 階段の頂部には、制服姿のナツィが立っていた。/
 「これはピナコテークへの入口ですか?」と私は尋ねた。
 「ピナコテークは閉まっている。きみは戦争中なのを知らないのか?」//
 (44) 私は駅に戻った。
 母親はのちに、万が一のときのため、慎重に隠れて私の後をつけていた、と語った。
 私は1951年に、このルートを再び歩いた、そして、ナツィがもうおらず、私はいることに、大きな満足を感じた。//
 (45) Innsbruck に夕方に着いた。そこは接続駅で、イタリアとの国境として機能していた。
 一人のGestapo 将校が、旅券を集めるため入ってきた、—そのとき座っていたのは我々だけだった。
 我々には三人用の一つの旅券だけがあった。
 彼は、もう一度現れて、ドイツを離れてよいとのGestapo の許可がないからイタリアには進めない、と言った。/
 「我々は何をしなければならないのか」と、父親が質問した。
 「あなたたちはベルリンへ行かなければならない。そこで、あなたたちの大使館が必要な書類を入手してくれるだろう」。この言葉を残して彼は敬礼をし、旅券を返却した。//
 (46) 我々は荷物を列車から降ろして、ホームに積み上げた。
 父親はどこかに姿を消し、母親と私はすべなく立っていた。周りには若いドイツ人やオーストリア人がいて、肩にスキー板を乗せて陽気に喋っていた。
 突然に父親が戻ってきた。
 荷物を列車の中に戻すよう、彼は言った。
 列車がまさに出発しそうだったので、我々は大急ぎでそうした。
 Gestapo 将校が再び現れたとき、鞄類をかろうじて元の区画に置いたばかりだった。/
 「列車から出るようあなたたちに求めた」と、彼はいかめしく言った。
 しかし、彼は小男で、ひどく脅かすという響きはなかった。//
 (47) 父親にはドイツ語は母語で(彼は若い頃ウィーンですごした)、スペイン語を話す南米人を演じるために、文法と発音のいずれについてもドイツ語に関して最善を尽くした。
 (実際には、我々全員がスペイン語を一語も話せなかった。)
 父親は、Innsbruck 駅長に逢って、できる限り早く母国に帰る必要がある、と告げた、と説明した。
 駅長はたぶん呑気なオーストリア人で、この事案に何の権限もなかったが、父親の言ったことを聞いて、「von mir aus」のようなことを言った。
 これは大まかに翻訳すると、「私に関係するかぎり」またはたぶん口語表現では「私に関係がないから(どうぞ)」—「気にする範囲内で」を意味する。//
 (48) Gestapo の男は旅券の提出を要求し、そして去った。
 列車はこのときまでにゆっくりと動いて、約25マイル先にある、イタリア国境のBrennero へ向かっていた。
 窓を通して、巨大なアルプスが迫ってきた。
 我々の生命にとって、これが最も危機的なときだった。なぜなら、Brennero で列車から降ろされ、ベルリンまで行くことを強いられていたなら、確実に殺されていただろうから。「我々の」在ベルリン大使館は、我々が持つ旅券は無効だとすぐに判断し、我々をドイツに引き渡すに違いなかっただろう。//
 (49) どのくらい長く決定を待つ必要があったか、憶えていない。
 数分だっただろうが、耐え難く時間が延びているように感じた。
 Gestapo の男が、国境に到達する前に戻ってきた。
 そして、彼は言った。「あなたたちは、一つの条件付きで、進行することができる」。
 「どんな条件ですか?」と父親が尋ねた。
 「ドイツに帰ってこない、ということだ」。
 「〈ああ、そうしない!〉(Aber NEIN !)」と、父親はほとんど叫ぶように反応した。まるで、ドイツにもう一度足を踏み入れると少しでも思うと恐怖で充たされるかのごとくに。
 (50) ドイツ人は我々に旅券を手渡し、離れた。
 母親の顔は涙で溢れた。
 父親は私に、一本のタバコをくれた。初めてのことだった。
 (51) 朝早くに、Brennero に着いた。少し停車している間に、我々は新鮮なサンドウィッチを買った。
 太陽がまぶしく輝いた。
 10月30日月曜日の正午すぐ前に、ローマに到着した。
 (52) 我々は、救われた。
 ——
 第一章・戦争(原書p.1-p.14.)、終わり。


 000Pipes

2487/R・パイプスの自伝(2003年)③。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ③。
 (24) 〔1939年〕10月6日、ヒトラーが、勝利してポーランドの首都を視察するためにやって来た。
 私は、我々の4階の窓から、彼を眺めた。ドイツ兵が、行路である目抜き通りのMarzalkowska 通り沿いと我々の家屋の下に、数フィートごとに銃砲を持って配置されていた。
 彼はオープンカーのMerzedes に乗り、親しげな様子で立ち上がり、ナツィ式の敬礼をしていた。
 ヒトラーを殺すのは何と簡単なのか、と私は思った。//
 (25) ポーランド人は初めは、外国による占領を寡黙な宿命意識で耐えた。
 結局は、彼らの国は21年間だけ独立し、つづく120年は外国に支配された。
 ポーランド人の愛国意識は、国家性よりも文化を伴う民族性と彼らの宗教へと向かった。
 彼らは、この占領は長く続くだろうが、再生したポーランドをもう一度見るだろうことを、疑っていなかった。//
 (26) もちろん、ユダヤ人には状況はきわめて困難だった。
 ポーランドのユダヤ人の大多数—正統派で、密集した区画に住んでいた—はおそらく、彼らに対するナツィの考え方をほとんど何も知らなかった。
 東ヨーロッパのユダヤ人は、住民のうちで最も親ドイツの集団だった(共産主義とロシアに共感をもった者たちは別として)。(*脚注1)
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 (*脚注1)不幸なことに、多くがそうだった。その中で生活しつつもキリスト教徒から区別された彼らは、私事についてはきわめて現実的で、実際に厳しい体験で鍛えられていたが、伝統的に排除された政治の世界については著しく無知だった。
 彼らの中で同化した者たちは、メシアの到来を信じる正統派信者の仲間として、社会主義を信じがちだった。
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 彼らは、ドイツがロシアからポーランドを征圧して法と秩序をもたらした第一次大戦の間の時期(1915-1918)を記憶していた。私の母親の家族には、その時代のよい思い出しかなかった。
 私は思うのだが、ユダヤ人の大多数は1939年9月に起きたことをひどく怖がったということはなかった。そして、多少とも、正常な生活が回復すると予測した。
 Israel Zangwill はその〈ゲットーの子どもたち〉で、正当にこう語る。
 「ユダヤ人は迫害による苦痛をほとんど感じなかった。
 彼らはGoluth つまり亡命(exile)の時代にいると、またメシアの日々はまだ来ていないと、分かっていた。そして、迫害者は全知全能の神(Providence)の愚かな手先にすぎない、と考えた。」(+後注02)
 (+後注02) 1895年, New York &London.
 (27) 同化したユダヤ人は、より心配した。彼らはニュルンベルク法と水晶夜(Kristallnacht)〔1938年11月の反ユダヤ人暴動・「11月の虐殺」—試訳者〕について、知っていた。
 しかし、彼らですら、ドイツ支配下で何とかして生きていける、と考えた。ドイツ人にも結局は、医者、服屋、パン屋が必要だろう。
 ユダヤ人は二千年以上、敵対的環境の中で生き延びていく仕方を学んできていた。
 彼らは、体面や同情に訴えたり、人権を要求したりではなく、諸権力に有用な者に自分たちがなることによって、生存を達成した。すなわち、王や貴族に金を貸し、彼らの必需品を販売し、彼らの賃料や税金を徴収することによって。
 かつてしばらくの間、彼らが財産を奪われて追放されたのは本当だが、彼らはほとんどの時期を何とかして生きてきた。
 今度もそのようになるだろう、と彼らは思った。
 彼らは、大きな間違いを冒した。
 彼らが今対処しなければならない者たちは経済的な個人的利益には影響されず、異常な人種的憎悪に動かされていたのだ。—抑えることのできない憎悪感情。//
 (28) 半世紀後に、パレスチナ人と交渉するイスラエルの人々のナイーヴさを観察して、この〔ユダヤ人の〕態度を理解できるようになった。
 イスラエル人は、イスラエルを破壊し、そのユダヤ人住民を虐殺するか少なくとも追放しようとした、三回のアラブの侵攻を撃退した。そして、イスラエルの人々は定住して快適に生活し、平和と繁栄を維持するためにアラブ人にほとんどどんな譲歩でも行う気があった。
 イスラエル住民のかなりの部分は、パレスチナの隣人たちの宥和不可能な破壊的熱情に関する間違いようのない証拠を、素っ気なく無視した。譲歩すれば何とかなると、確信していたのだ。
 彼らは憎悪しなかったがゆえに、自分たちが憎悪されることがあり得ると考えるのは困難だった。//
 (29) 被占領下のポーランドの生活は、驚くべき速さで正常に戻った。日常がいかに速く「英雄的なもの」を圧倒したかは、驚嘆するほどだ。
 この経験が私に与えたのは、つぎの不変の確信だ。すなわち、民衆一般は歴史では、ともかくも少数のエリートに留保された政治や軍事の歴史では、辺縁的な役割しか果たさない。彼らは歴史を作るのではなく、生きる。
 私はこのことを、〈Old Wive's Tale〉へのArnold Bennett 自身の序文での洞察で確認した。そこで彼は、年配の鉄道被用者とその妻への、1870-71年のプロシャの包囲の間のパリに関するインタビューを思い出している。
 Bennett はこう書く。「我が彼らから得た最も有益なことは、最初は驚いたが、ふつうの人々は包囲されたパリで全くふつうの生活を営みつづけた、ということだった」。//
 (30) 1940年5月に記録したようにこうした期間の私の思い出を振り返ってよいなら、以下はドイツ占領下で私が過ごした時代について書いていたものだ。
 「私のこれまでの人生で最も悲しい月が始まった。それは結構な終わりを迎えることになった。—1939年10月。
 この期間に何をしたか、どうやって過ごしたか、自分が叙述するのは困難だ。
 アパートは、ひどく寒かった。
 私はほとんど全てを着込んで掛け布団の下で寝た。
 ドイツ軍が歩いている人々を拘引していたので、外へ出るのは危険だった。
 夜には電灯が点かず、ろうそくは節約する必要があったので、私は昼間にだけ読書し、勉強することができた。
 私たちは毎日、ライス、マカロニを食べ、種々のスープを飲んだ。—のちにはキャベツとパンが加わった。
 私は10時頃に起床し、強い嫌悪感をもって、しかし同様の食欲で、朝食を摂った。そのあとで、家を出て[友人の]Olek やWanda、あるいは家にいる他の誰かを訪れた。…。
 困難な状況を思って、絶望していた。—野心、計画、夢の全てが粉みじんに散った。」//
 (31) 父親がなぜドイツ占領でのたんなる生存の見込みすら厳しいと考えたのか、私は正確には分からなかった。ほとんどのユダヤ人は、占領を甘んじて受けていた。
 おそらくは、誇りからだった。父親はパリア(pariah、のけ者・下層民)のごとく自分が扱われると考えること自体を耐え難く感じる、自負心の強い人だった。
 彼は広がっているいかなる幻想も持たず、前方にあるものを正確に予測していた。
 一ヶ月後に、公然たる追及が始まる前のことだが、彼が書いた手紙で、彼はこう書いた。「ポーランドのユダヤ人は、ドイツのユダヤ人よりも悪い運命に直面している」。//
 (32) 10月の前半のいつかに、我々は台所で家族会議を開き始めた。それには、家族全員と、戦争勃発とともに行方不明になっていたお手伝いのAndzia も加わった。
 あるラテン・アメリカ国への偽造旅券でポーランドから西側へと出る可能性が、浮かび上がった。
 父親はその国の名誉領事を知っていた。X氏と称しておくが、この人物は領事館のスタンプのない、一冊の空白の旅券を持っており、このスタンプは、外交団と一緒に彼がワルシャワを去るときに総領事からもらっていた。
 X氏は、我々が自由に使えるよう、この旅券を我々に預けた。
 しかし我々は、つぎの疑問に直面した。我々はあえて慣れた場所を立ち去って、未知の場所へと行くのか?
 我々は裕福でなかったが、家で金銭について議論したことはなかった(総じて言って、金銭はユダヤ人中流家庭での会話の話題でなかった)。私も、生き延びるためのその必要性に関して、何の考えも持っていなかった。
 父親がこの冒険の是非を声を出して考えている間、私は賛成の意見だった。
 私は大学に入学登録したかったが、それはドイツ占領下のポーランドでは考え難いことを知り、ポーランドを離れるよう強く主張した。
 金銭については、我々は何とかするだろう。最終的には、父親には、我々が苦境を切り抜けるための銀行口座が、ストックホルムにある。//
 (33) 母親によると、離れるという決定が下されたのは、ドイツ軍が掲示板に彼らに登録した住民にはパンの配給券が発行されると発表した後だった。
 父親は、これは誰がユダヤ人なのかを決める手段だ、と結論した。//
 (34) 私の主張と私の(根拠のない)自信は、間違いなく、父親の判断を助けた。
 私は今でも、父親が全く大胆な決定をしたと驚嘆している。
 母親は、ユダヤ人の彫刻師を探し出して、欠けている領事館の公印を偽造させた。
 そして父親は、出国許可を求めてドイツ軍司令部との交渉を始めた。
 Gestapo は10月15日にワルシャワに入っていた。だが父親は、もっぱら軍部と交渉した。
 父親は私にこう言った。ドイツ軍司令部と我々の出国を交渉している間に、市長のStarzynski のところへ行ったのだが、彼は父親をドイツのスパイか協力者だと疑って怒りの視線を向けた、だが説明する機会がなかった、と。//
 (35) こうしたことが起きている間、私は、幸運に包囲攻撃から生き延びた友人たち全員を訪問した。
 音楽がとても好きな学校の友人の一人のアパートの中庭に入ったとき、Beethoven の〈英雄(Eroica)〉の音が聞こえた。
 別の学校友達の母親は驚いて、ドアを開けるのを拒んだ。
 最良の親友のOlek Dyzenhaus は、姿見がよかった。
 Marzalkowska 通りを二人で歩いていたとき、パン待ちの行列に気づいた。語り合い、笑いながら、我々もそれに加わった。
 後ろの一人の男性が、首を振りながら、「ああ、若いやつ、若いやつ」と呟いた。
 我々はこれは怪しい人物だと思った。しかし今では、彼の反応が分かる。//
 (36) ついに、全ての書類が揃った。イタリアへの通過ビザも含めて。
 我々は、ドイツ軍が市を占領していたので、10月27日金曜日の午前5時49分に、ワルシャワからの始発列車で出発することになった。
 その列車は、故郷へと兵団を運ぶ軍事用のものだった。
 我々の目的地は、Breslau(今日のWroclaw)だった。//
 (37) 父親は一人のドイツ系ポーランド人—Volksdeutsche と呼ばれた—と、推測するに我々が戻るまで、我々のアパートに転居することを取り決めた。
 その人物は、アパート所有物の詳細な目録に署名をした。
 私は、音楽と芸術の歴史に関するものが最も多い書物と写真を集めた。
 そして、ほとんど哲学書と芸術史書から成る私の小さな書斎に別れを告げた。
 その中の主要なものは、Meyer の〈Konversationslexicon〉だった。それは19世紀末に出版され、芸術史に関する知識のほとんどを、私はそれから得ていた。
 ロシアによる検閲で、攻撃的と見られた全ての文章が墨汁で黒く塗られていた。
 表紙は、第一次大戦の寒い冬の間の燃料になるよう、注意深く破り取られていた—そう叔父は私に教えた。
 私は夜のあいだずっと、手の施しようもなく震えていた。//
 ——
 第一章④へとつづく。

2486/R・パイプスの自伝(2003年)②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 著者はドイツ軍の空襲を受けているワルシャワで(両親とは別の部屋で)ニーチェの〈権力への意思〉などを読みつつ寝た、という当時の日記の一部を掲載している。以下の(16)参照。興味深い。
 だが、当時16歳のポーランドの少年(青年?)が、どういう目的や思いをもってNietzsche の本を持っていて、「非常時」に目を通したのか?
 攻撃しているドイツの人物だからか、それともそれ以上に、ヒトラーとニーチェを結びつける何らかの言説があったからか。著者は何も触れていないので分からない(少なくともこの辺りの叙述まででは)。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ②。
 (15) 9月22日〔1939年〕の夜になり、外交団が撤退したあとで、ワルシャワは昼夜を問わない爆撃にさらされた。昼間はStuka 爆弾機が防衛なき市の上を巡回し、甲高い音を立てて飛んで民間人に対して爆弾を落とした。
 夜に我々は砲撃を受けた。
 爆撃は無差別で、9月23日だけは例外だった。その日はYom Kippur の日で、ドイツの飛行士たちはワルシャワのユダヤ人区画に集まって遊んでいた。//
 (16) 私の文書の中に、この出来事から8ヶ月後に書かれた日記を見つけた。それから引用するのが最もよいだろう。
 「23日、ラジオ放送が、爆撃を受けて停まった。
 その翌日、我々には水がなかった(ガスはしばらくの間不足していた〉。
 我々はすぐに逃げるために、全ての持ち物を手にして、完全に身繕いをして、寝た。
 私だけは、ニーチェの〈権力への意思〉や[Leopold]Staff の詩を読みながら、またはGiotto についての自分のエッセイを書きながら、6階で寝た。
 24日は一日じゅう爆撃が繰り返され、25日の朝に我々は、爆弾の音で目が覚めた。
 もう空からの攻撃に対抗する防衛力または[ポーランドの]航空機はなく、あちこちで機関銃の音が響いた。
 450機による一日じゅうの爆撃が始まった。それは、歴史上かつてないものだった。
 爆弾が次から次に、雨嵐のように、守る術なき市に降り注いだ。
 家は崩れ、数千の人々が埋まり、あるいは街路が火に包まれた。
 ほとんど発狂したかのごとき群衆が、子どもや包みを抱えて、瓦礫で覆われた街路を走った。
 ドイツの航空士たち、世界で最悪の野獣たちは、機関銃砲で[街路を]掃射すべく意識的に低く飛行した。
 夕方までにワルシャワは炎に包まれ、ダンテの地獄のようだった。
 市の端から端まで、見えるものは空を赤く染める炎だけだった。
 そうしてドイツの砲撃は続き、砲弾の雨で市を覆った。…。
 我々の[仮の]住まいは奇跡的に的中するのを免れ、二つ「だけの」砲弾の痕跡があった。/
 しかし、我々が何の被害も受けなかったのではなかった。
 午前1時頃、大きな爆発の音で目が覚めた。砲弾が下の階に当たり、女性が一人殺された。
 我々は跳び上がり、人々で群れた階段の吹き抜け箇所へと降りた。
 叫び声、絶望の言葉、うめき声が、無情な砲弾の爆発音と入り混じった。
 我々の建物が燃え始めた。
 中庭へと逃げた。私は、最も貴重な自分の書き物と本を入れた書類カバンを持ち、腕の中に震える我々の犬を抱えて、逃げた。
 庭を横切ったとたん、砲弾の欠片が近くで爆発した。だが、負傷はしなかった。
 我々は地下室へと避難した。しかし、午前5時に、そこを放棄せねばなければならなかった。もう安全ではなかったからだ。—階段の吹き抜け部分の一つが炎に包まれていた。/
 街の中へと走った。
 Sienkiewicz 通りで、広いがひどく汚れた、地下室のある避難所を見つけた。そこは群がる人で混んでいた。
 砲撃は絶えることなく続いていた。
 夕方7時に、この建物は燃え始めた。
 我々はもう一度、通りに走り出た。
 こんどはMarzalkowska (マルシャウコフスカ)通りで、狭い階段下空間に落ち着いた。…。
 二回目の夜がやってきた。
 爆撃は続いていた。市全体が、炎の中にあった。 
 Marzalkowska 通りとZielna 通りの角で我々が見た光景を、私は決して忘れない。—馬が自由に走り回り、あるいは鋪道の上に死んでだらりと横たわっていた。それらは、箱のごとく燃える家屋の火で照り輝いていた。
 人々は安全な隠れ場所を探して、家屋から家屋へと走り回った。
 夜中には爆撃がいくぶんか弱くなった。そんなとき、私はあるウェイトレスの膝の上に頭を乗せていた。そして、寝入った。
 空腹だった。我々は、砂糖と奇跡的に得た水を与えて、なんとか我々の犬を救った。/
 突然にドアが開いて、ひどく負傷した4人の兵士が運ばれてきた。
 彼らはろうそくの灯りの中で包帯を巻かれたが、水も薬もなかった。
 女性たちが気絶したり、理性を失ったりし始めた。子どもたちは泣き叫んだ。
 私も、ほとんど卒倒しそうだった。
 ようやく落ち着いて、無関心に、例えば、ろうそくの火を消すべきかどうか、といった議論を聞いた。
 人々の群れが、入ろうとして、我々のドアに押しかけた。
 爆撃は、はっきりと分かるほどに弱くなった。
 より静かになっていった。…。
 ワルシャワは、そしてそれとともにポーランドは、最後の日を体験したのだった。」//
 私の日記に記さなかったことを、付け足してよいだろう。すなわち、我々が燃える街路を走っていたとき、母親は走りながら、落ちてくる瓦礫の破片から守るために、私の頭の上に枕を乗せて抱えてくれていた。//
 (17) 地下室で、ひどい風聞が広まっていた。
 私はそれを、ポケット日記に記録した。—ポーランドはドイツの攻撃を撃退しており、諸都市を奪い返している。フランス軍はジークフリート(Siegfried)線を突破した。イギリス軍は東プロシャに上陸した。
 この数日間に〈Dzien dohry !〉(良い日だ!)という表題で出現したいつもと違う記事の一つは、その第一面(headline)でこう発表した。
 「ジークフリート(Siegfried)線が破られた。フランスがラインラント(Rheinland)に入った。ポーランドの爆撃機がベルリンを急襲攻撃する。」
 これら全ては、全くの作り話だった。
 ついに、真相が明らかになった。9月17日、ソヴィエト軍はポーランド国境を越え、東部諸地方を占拠した。
 私は日記の9月24日(日曜日)に、こう記した。
 「ワルシャワは自衛する。
 ソヴィエトはBoryslaw、Drohohyez、Wilno、Grodno を占領した。
 西部前線—静寂。
 ポーランドは負けた。
 どのくらい続くのか?」//
 (18) 〔1939年9月〕26日、ポーランド当局とドイツ軍は交渉を開始した。
 その翌日に、ワルシャワは降伏した。
 そのときに合意された条件によって、42時間の停戦になった。
 27日の午後2時、銃砲は沈黙し、航空機は空から消えた。その間に彼らは、市の建物の8分の1を破壊していた。
 奇妙な静けさが発生した。
 ドイツ軍は、9月30日に市に入った。
 私は偶然に彼らの先遣部隊、ワルシャワの中心部、Marzalkowska とAleje Jerozolimskie の通りの角に止まっていた、上部の除去可能な軍用車、に出くわした。
 運転手の隣に座っていた若い将校が立ち上がり、その車を囲んでいる群衆の写真を撮っていた。私は憎しみをもってその男を一瞥した。//
 (19) 二日間の停戦中に、我々のアパートに戻った。窓が何枚か破壊されているのを除いて、損害を免れていた。
 両側と通りを挟んだ向こう側の各家屋は、しかし、粉々になっていた。 
 ココ(Coco)、我々の老犬のコッカー・スパニエル(cocker spaniel)は、我々の放浪に従いてきたのだったが、喜びで狂ったようになり、激しく食事室を走り回り、ソファを跳び登ったり降りたりした。
 彼女は、我々の苦難は終わった、と思ったに違いない。//
 (20) ポーランドの1939年の軍事行動については、多数の誤報が存在する。ポーランド軍はドイツの戦車部隊を騎兵隊で阻止しようとしたとして馬鹿にされ、名目だけの抵抗を示した後で降伏したかのごとく叙述されている。
 実際には、ポーランド軍は、きわめて勇敢にかつ効果的に戦闘した。
 機密性を解除されたドイツの文書資料が明らかにしているのは、戦争の4週間にドイツ軍は多大の被害者を出した、ということだ。
 死者は9万1000人、重傷者は6万3000人。(+後注01)
 これらは、スターリングラードの戦いとその2年後のレニングラードの勝利までは、ドイツ軍が被った最大の被害だった。その2年間にドイツは、全ヨーロッパを事実上征服したのだったが。 
 +(後注01)Apoloniusz Zawilski 1972, p.248n. ポーランド軍はまた、ドイツ軍の191台の戦車と421機の航空機を破壊した。//
 (21) 我々には食べ、飲むものがあった。母親が戦争勃発のまさに直前に大きな一袋の米(rice)を購入していて、彼女のベッドの下に隠していたからだ。
 これが翌月の間の我々の主食になることになった。多様な料理法で提供され、マーマレードで味付けされていたことすらあった。
 我々はまた、浴槽に水をはった。//
 (22) 10月1日、ドイツ軍は市内の巡回を始めた。
 彼らはトラックを運転した。私が驚きつつ気づいたのは、兵士たちはナツィの情報宣伝にいう金髪の超人(supermen)ではなかった、ということだ。多くは背が低く、浅黒く、外見上は少しも英雄的でなかった。
 占領軍は、すみやかに日常生活を回復させた。
 パン屋が開いた。
 ポーランドの店舗は販売した。あるいはほとんど無料で品物を売った。
 私は、イワシの缶詰やチョコレート棒を含めて、できるだけ買った。
 占領の最初の一ヶ月の占領軍兵の振舞いは、全く適正だった。
 私は乱暴な行為をいっさい見なかった。
 心に残る像は、あるドイツ兵が髭の生えたユダヤ人をオートバイのサイドカーに乗せて、ワルシャワの街路を走らせていた、というものだ。
 別のときには、二人の若いユダヤ人女性がある建物の入口の監視兵と親しくして、当惑する彼の鼻を花でくすぐっているのを見た。
 私が見た唯一の反ユダヤ的出来事は、ドイツ軍のトラックの荷樽がユダヤ人区画の街路で落ちてころがり、中には老人もいたユダヤ人たちが当たるのを避けようと散り散りになったとき、ドイツ兵が笑い声を立てて歩き回った、というものだ。
 やがて、ドイツ軍司令部が作ったポスターが壁に貼られた。
 そこに名前が載っていたポーランド人は、文字どおりには「犬の血」で英語の「畜生(damn)」にほぼ該当する言葉の〈psiakrew〉をドイツ人の面前で発したごとき、種々の「犯罪」で、処刑された者たちだった。
 負傷したポーランド兵を描いた絵もあった。その兵士は腕を三角巾で吊るし、ワルシャワの廃墟を指し示しながら、怒ってチェンバリン(Chamberlain)に「お前の仕業だ」と叫んでいた。
 我々は黙って、こうしたポスターから学習した。//
 (23) 父親は一度ドイツ兵に止められ、その男が近づいてきて、父親の肩に腕を乗せて、「ポーランド人か?」と尋ねた。
 父親は怒って、流暢なドイツ語でこう答えた。「違う! 手を離せ。」
 仲間のドイツ人を困らせたと思って慌てた兵士は、詫びて、去って行った。//
 ——
 ③へとつづく。

2485/R・パイプスの自伝(2003年) ①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 この書物はRichard Pipes (1923〜2018)の自叙伝だ。
 VIXI は「私は生きた」という意味のラテン語らしい(正確には知らない)。
 大きくつぎの四つの部で構成されている。 
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第二部/ハーヴァード。
 第三部/ワシントン。
 第四部/再びハーヴァード。
 読了してはいないが、第二部と第四部は主にHarvard 大学での研究(・教育)の時代、第三部はレーガン政権のソ連・東欧問題の補佐官としてソ連の崩壊を準備した時代、第一部がポーランドで出生して(その前の出自を含む)、第二次大戦勃発後にイタリアを経てアメリカに定住し、20歳でアメリカ国籍を取得する、等の時代だ(少しは間違っているかもしれない)。
 以前から、第一部だけはぜひ試訳して掲載しておきたいものだと、考えてきた。
 ユダヤ系ポーランド人の彼が、どのようにしてアメリカに来たのか、そして(むろん英米語を用いる)ロシア・東欧史専攻の研究者となり国際政治の実務にも関与したのか、にすこぶる関心を持ったからだ。
 この本の存在を知ったのはロシア革命に関する彼の二つの大著*を知って(それぞれ一部、この欄に試訳掲載済み)、その一部を読んだ後だったので、これら大著の著者の「背景」を知りたい、ということも、もちろんあった。
 *①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   <「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。>
  ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 ようやくこの欄への試訳掲載を始める。
 なお、この書物の目次や緒言よりも前に、欧米の書物にはよく(ほとんど)ある「献辞」がある。一頁全体の中に、つぎの文章だけがある。
 「この本を私の両親、Mark Pipes とSofia Pipes に捧げる。
 私を生んでくれ、そしてナツィスの手による確実な死から私を救ってくれたことに感謝して。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ①。
 (01) 1939年8月24日木曜日、我々が定期購読していた日刊紙の〈Nasz Przeglad〉(我々の論評)は最初の頁に、二つの宿敵国のナツィ・ドイツとソヴィエト同盟が不可侵条約に署名した、という驚くべき報せを掲載していた。
 私は前の月に16歳の誕生日を迎え、最終学年の前の年度にギムナジウムの生徒に要求されていた予備軍営(ポーランド語でROTC)での三週間の課程を終えて最近に帰ったところだった。
 通常の予定どおりだと、私は最終学年の学習のために数日以内に学校に戻っていただろう。
 しかし、そうはならなかった。//
 (02) 父親は、報せは戦争を告げていると結論づけ、我々のアパートから移ろうと決めた。我々が住んでいる家はワルシャワの中央鉄道駅の傍にあって、空からの爆撃の対象になりそうだったからだ。
 我々は、ワルシャワの南にある保養地のKonstancin へと移った。そこである邸宅の大部屋を借りて、つぎの進展を待った。
 当局は住民に対して、消灯の継続を命令した。
 私は、夕方にろうそくの灯りのそばで、父親と叔父の一人が戦争になるかどうかについて議論していたのを思い出す。
 叔父は、全てはムッソリーニにかかっているという意見だった。これは全く間違っていた。実際にはヒトラーの軍隊がスターリンの承認を得て、すでにポーランドの北、西、および南西に配置され、攻撃の準備をしていた。//
 (03) 市政府は郊外に住んでいる住民に、爆撃から守るために塹壕を掘るように命じた。
 私は、邸宅を所有する女性が彼女の花壇を損傷するから止めよと命じるまで、懸命になってその仕事に取り組んだ。//
 (04) 9月1日、金曜日の朝6時30分、私は遠くから聞こえる一続きのドーンという音で目が覚めた。
 私がまず思ったのは、自分は雷鳴を聞いている、ということだった。
 着替えて、外に出た。だが、晴天だった。
 上の空高くに、ワルシャワに向かっている銀色の航空機の一編成を見た。
 単独の複葉機—まるで木製のごとくだった—がそれらを迎えるべく、急傾斜で昇っていった。
 私が聞いた音は雷鳴ではなく、ワルシャワ空港に落とされている爆弾だった。それは、ポーランドが作った小さな空軍施設をすみやかに粉砕した。//
 (05) 軍事力には大きな不均衡があったにもかかわらず、ポーランドの立場は完全に見込みがないというものではなかった。
 第一に、ポーランドは、イギリスとフランスの両国から、ドイツが万が一攻撃してくればドイツに宣戦を布告するとの保証を得ていた。
 さらにフランスは、ドイツ軍をピン留めすべく、ドイツの西側の戦線で反抗攻撃を行うと約束していた。
 第二に、ポーランドはソヴィエトの中立を計算に入れていた。そのことで、ポーランド軍は再結集し、ドイツ軍が後方から攻めることのできない国土の東半分で踏みとどまることが可能になるだろう。
 フランスは約束を守らないこと、ソヴィエトは、ドイツがソヴィエトに東半分を譲与するとの不可侵条約の秘密条項をもっていたことを、ポーランドは知らなかった。//
 (06) 午前中が大して進んでいない頃、我々はラジオで、ポーランドとドイツが交戦状態にあること、敵の兵団が複数の場所から国境を越えたこと、を知った。//
 (07) 戦争についての私の考えは、希望と運命論の入り混じったものだった。
 ポーランド人かつユダヤ人として、私はナツィスを軽蔑し、連合軍の助けで我々が勝つことを期待した。
 運命論は、若者や完全には成熟していない大人にありがちだが、起きることは起きざるを得ないという考え方に由来していた。
 それは実際には、毎日を生きて最善を尽くす、ということを意味した。
 運命論は、セネカ(Seneca)の私の好きな言葉に要約された。すなわち、〈Ducunt volentem fata, volentem trahunt〉—「運命は意思する者を誘導し、意思しない者を遠ざける」。//
 (08) 第二次大戦となった最初の日の夕方に、父親は私を邸宅を囲む公園のベンチに座らせ、こう私に言った。父親と母親に何かが起きたなら、ストックホルムへ行き、そこで父親の口座があるSkanska 銀行のOllson 氏に連絡を取りなさい。
 多年ののちに私は知ったのだが、小切手の形の金銭はこっそりと持ち出され、1937年に親しい友人によってタイプライターの中に隠されていた。それはもともとはロンドンで預けられ、のちにストックホルムへと移されたものだった。
 あれは父親が初めて、私に一人前の大人として、向かい合ってくれたときだった。
 その金—3348ドルそこそこ—は、我々の生命を救うことになっていた。//
 (09) もちろん、戦争は何らの驚きもなくやって来たのではない。我々は長く戦争を予期し、ポーランドを離れることを考えていた。
 1938年10月に連合軍がミュンヘンで屈服したあと、私はヨーロッパ全体での戦争が避けられない、と思った。
 両親は、ニューヨークでの世界博覧会用の観光ビザを申請した。それをアメリカの領事館は私をポーランドに残すという条件つきで発行することに同意した。
 そのゆえに、パレスティナに住んでいて権限あるイギリス当局と良い関係がある私の叔父の一人を通じて、私は彼に合流することが取り決められた。いずれにせよ、それが私が選んだ道だった。
 私はのちに、6日後にヒトラーがポーランドを攻撃したことを知った。我々は〔本来ならば〕去ってしまっていただろう。両親は8月28日にアメリカ合衆国への観光ビザを受け取っており、その間に私はパレスティナへの必要な書類を得ていたのだから。(脚注1*)//
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 (脚注1*)後年に母親は、私にこう言った。親しい知り合いのスウェーデンの在ワルシャワ領事がスウェーデンへのビザを提示したが、その彼が母親の法律上の個人名は「Sarah」だと知ったとき、残念だがビザを提供することはできないと言った、と。
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 (10) 戦争勃発の翌日、私は自発的に、Konstancin の交通を監督するのを助けた。
 私の指示は、空襲警報用サイレンの音で自動車を道路から離れさせることだった。
 私は使命感をもって数日間そうしていたが、やがて無益さを知った。自動車は、その中には制服姿の軍人やその家族を乗せているものもあったが、国を脱出すべく南や東へと急いでいて、私の合図を無視したからだ。//
 (11) 1930年代末のヨーロッパの民間人は、空中からの化学兵器の危険性について、繰り返し警告されていた。
 私はたまたまガス・マスクを所有していたが、それはROTC軍営で購入したものだった。しかし、それにはフィルターが付いておらず、役に立たなかった。
 Konstancin で会った一人のユダヤ人少女が私に、そのフィルターを持っていて、家まで来るなら差し上げると言った。
 私は夕方に引き返して、暗い色の枠の家のドアを叩いた。
 ドアが開いて私が見たのは、部屋いっぱいに溢れた若者たちが蓄音機の音楽に合わせて情熱的に踊っている光景だった。
 その少女は私が欲しいものについて忘れており、私を追い払って、踊りの相手のところへ戻っていった。//
 (12) ドイツ軍が近くまで来ているという衝撃的な噂を聞いたとき、戦争は辛うじてまだ6日めだった。私はつけ始めた日記にそのことを記録した。
 実際に(当時は我々に知られていなかったけれども)、ポーランド政府はすでに9月4-5日に、その人員の一部のワルシャワからの避難を開始していた。
 その次の夜(9月6-7日)、ポーランド軍の筆頭司令官のRydzSmigly 元帥は、密かに首都を去った。
 父親が自動車を確保し、我々はワルシャワへと戻った。
 行路は検問で止められたが、父親がポーランド軍の退役兵であることを証明するものその他の文書を提示した後で、進むことが許された。
 市内は状況が緊迫していた。
 ドイツ軍は空から、降伏を迫るビラを落としていた。
 私は一枚を拾い上げようとしたが、通りすがりの人が、「毒が付いている」と警告した。
 ラジオは我々の意気が下がらないようにしていた。市長のStefan Starzynski (のちに拘束され、4年後にDachau で処刑された)からの訴えがあり、昼夜じゅうショパンの「軍隊」ポロネーゼが流された。
 負けたポーランド軍の敗残兵たち—何人かは負傷し、全員がぼろ服を着て消沈していた—が、市内へと、歩いて、馬で、あるいは荷車で、ばらばらに入ってきた。//
 (13) 9月8日、ドイツ軍はワルシャワ攻撃を開始した。しかし、激しい抵抗に遭遇した。
 私は民間人の長い列を見た。推測するに、政府の訴えに呼応した予備兵たちで、小さいバッグを運び、市内から東方へと出て行った。そこで軍役に就くことになっていたのだろう。
 私の両親は、ワルシャワを離れることを議論していた。我々には使用できる一台の車があった。父親はワルシャワから南東およそ100マイルのLublin へと我々を逃がせたかった。政府がその市へと避難していたからだ。
 その考えは、父親が知っている外務大臣のJoseph Beck に由来した。彼は父親に政府についていくよう言ったのだった。
 母親は断固として拒否した。その提案は父親が金を持っているという想定からのものだと、確信していた。
 出ていくとすぐに、我々は捨て去られるだろう。
 私はベッドの上で、この問題についての二人の叫び合うような議論を聞いていた。
 幸運にも、母親が勝った。//
 (14) 9月半ばまでに、ワルシャワは包囲され、我々は罠の中に入った。
 我々は住まいを二度目に出て、市の中心部から離れた固いアパート建物に住んでいる友人たちとともに、転居した。
 両親は彼らと一緒に落ち着いた。私はその間、ユダヤ人学者の住宅の最上階にある小さな部屋に泊まらされていた。
 彼はかなり大きな書斎を持っていて、私はビザンティウムに関する歴史書、William Oncken の世界史シリーズの一部を借りた。彼は、私が見つけたのと同じ形で返すよう求めた。
 私は自分の本も、何冊か持ってきていた。
 爆弾が雨のように街に落ちていたとき、母親が何回も来て、地下の避難壕に移るよう頼んだ。しかし、爆撃があまりにひどくなるまで、拒んだ。
 ワルシャワが降伏した後、私は、巨大な砲撃弾が私の部屋の天井を破り取って、ベッドの少し上の壁を砕き、爆発することなく地上に着弾しているのを見た。(脚注*2)
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 (脚注*2)後年に私は、若Pliny(Pliny the Younger)[=Gaius Plinius Caecilius Secundus〕が、ポンペイを破壊した大地震の間に似たような行動をしたことを、知った。彼はタキトゥスへの手紙で、美術館のそばにいて、激しい揺れを感じた、と書き送った。彼の母親は離れるよう強く言ったが、彼は—勇者だったのか愚者だったのか—Livy の本が送られてきた、「他にすることが何にもないがごとく読み続けたい」と頼んだ。彼は、自分の家が崩壊する危険が生じたあとでようやく離れた。彼はそのとき、17歳だった。
 〈Pliny the Younger の手紙〉(1969),p.170-1.
 ——
 ②へとつづく。

2484/Turner によるニーチェ ⑧。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第8節。
 (01) ニーチェは、ワーグナーと決別することで、ある意味ではロマン主義の継承物とも別れていた。彼の思想にはその要素の多くが維持されることになるけれども。
 彼は、より多く啓蒙思想と結びついた。
 しかし、ニーチェは、理性とその行使に対して批判する姿勢を明確に維持した。1870年代半ばまでにはワーグナー現象を批判したように。//
 (02) 1870年代半ばまでにニーチェは、後年の彼の著作の全てに影響を与えた結論に達していた。
 歴史上初めて、人間は最も過激な態様で、神なき世界に住むという事実に直面しなければならないだろう。
 これまでの文筆家は神の存在または非存在を否定し、疑問視し、あるいは公然と肯定を主張してきた。
 しかし、ニーチェは、哲学的思索の対象の一つとしてはこの疑問に接近しなかった。
 彼にとって、神なき世界という見通しは、人間の道徳史上の重大な転換点を意味した。
 人間は、高次のまたは超越した何物かとの関係をもたない価値を設定するのを余儀なくされるだろう、ということを意味した。//
 (03) 彼の見方と従来の科学的または理性的な自由思想家のそれとの違いは、年上のDavid Friedrich Strauss の書物に対するニーチェの批判に見ることができる。Strauss は、知識人たちの中にあるキリスト教信仰の解体に貢献していた。
 ニーチェは、こう書く。
 「彼は見事な率直さで、もうクリスチャンではないと公言する。だが、彼は、誰の心の平穏も乱そうとはしていない。
 一つの結社を壊すために一つの結社を設立するのは矛盾すると、彼は思っているのだろう。—これは実際にはさほどに矛盾してはいないのだが。
 確実に粗雑に満足して、彼は我々の猿の系統主義者の汚れた外套の中に身を隠し、ダーウィンを人類の最大の恩人だとして称賛する。
 しかし、彼の倫理が全体として、『何が世界についての我々の観念なのか』という疑問に依存することなく構成されていることが分かると、我々は混乱する。…/ 
 Strauss は、かつていかなる思想も人間をより善良で、より道徳的にし得ていない、ということすらまだ知らない。道徳を説くことはその根拠を見い出すのは困難であるのと同程度に易しい、ということも学んでいない。
 彼の課題の多くはむしろ、現実には存在する善良さ、思いやりの心、愛情、自己犠牲の精神を人間から取り去ることだった。そしてそれらをダーウィン主義者の仮説から導き、それで説明することだった。だが一方で、彼は命令(the imperative)に跳び込むことで〈説明〉という課題から逃げ出そうとしている。」(注15)//
 (04) Strauss の過ちは実際には、同時代のその他の著名な思想家全てのそれだった。
 どの思想家も安易に、キリスト教が存在しない中で、科学、人間性、リベラルな国家、あるいはナショナリズムのごとき他のものが、倫理の基盤を提供することができるだろう、と想定した。
 ニーチェは対照的に、安易な楽観主義のない自然主義(naturalism)を選んだ。
 ニーチェは、どの価値体系が支配すべきかを問題にしなかった。そうではなく、何が人間の社会的実在にある事実としての価値の根源なのか、を問うた。//
 (05) ニーチェの過激な道徳懐疑主義は、同様に過激な形而上学的懐疑主義に根ざしていた。
 言葉のかなり狭い定義をかりに用いるとすると、彼は適切にニヒリスト(nuhilist)だと見なされてよい。
 ニーチェの哲学的ニヒリズムは、世界には何らかの本源的な価値の何らかの形態がある、ということを否定するという形をとった。
 自然とその一部としての人間は、善や悪なくして、たんに存在している。
 世界(the universe)は、たんに、ある。
 それを超えては、またはその中には、いかなる高次の価値も存在しない。
 存在するという現象の中には、別の道徳を越える一組みの諸道徳を正当化するものはいっさい存在しない。
 彼がかつて、こう宣言したようにだ。
 「道徳的現象なるものは存在しない。現象の道徳的解釈だけがある。」(注16)//
 (06) ニーチェはこの哲学的立場によって、認識論の特定の様式へと至った。キリスト教に対する攻撃へと、当時のリベラルな政治の批判へと。
 そしてこれら全てが、彼の道徳に関する問題にかかわっていた。
 ニーチェが敢然と突きつけようとしたのは、世界の全体的に自然主義的な解釈の可能性と必要性だった。
 このことが含み得るものは、ある意味では、彼の三つの著作のタイトルに認めることができる。//
 1. 〈善悪の彼岸〉(1886)—世界と生への接近方法は、かつては道徳的または善または悪と考えられたものを超越したものでなければならない、と示唆する。
 2. 〈道徳の系譜〉(1887)—諸道徳は永遠に存在するのではなく、歴史と発展がある、と示唆する。
 3. 〈偶像の黄昏、あるいは金槌でいかに哲学するか〉(1888)—現存の偶像または哲学、道徳、宗教を、新しい出発のために破壊することの必要性を示唆する。//
 ——
 第9節へとつづく。

2483/Turner によるニーチェ ⑦。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第7節。
 (01)  言うまでもなく、ワーグナーは〈悲劇の誕生〉に喜んだ。
 ある意味ではそれは、ワーグナー自身の1850年代の理論的著作を遡ってたどったものだった。
 当時の標準からすると、ワーグナーとニーチェのいずれも、非正統派であり、アカデミズムの標準を軽侮していた。
 ニーチェは、脚注をいっさい付けなかった。
 ワーグナーが把握できなかったのは、かくも立派に執筆することのできる者が、家族用のクリスマスの買い物をする子分または追従者にとどまることに満足していなかっただろう、ということだった。
 実際に、ワーグナーとの破局の理由の一部は、青年がその知的成熟期に入ったということでもあった。
 〈悲劇の誕生〉の後でさらに、もう一冊の書物をワーグナーに捧げなかったという理由でワーグナーから批判を受けるようなことになるとは、ほとんど誰も予見できなかった。
 (02)  しかしながら、ワーグナーとの決裂には、もっと根本的な別の理由があった。
 第一は、ワーグナーは、新しいドイツの中産階層エリートたちにもてはやされるにつれて彼自身の芸術的かつ文化的目標を裏切った、ということだった。
 ニーチェはまた、バイロイトでの〈The Ring of Niebelung(ニーベルングの指輪)〉の初演に深く動揺した。なぜなら、彼が期待したのはドイツ・ナショナリズムの賞賛にほとんど似たもの以上に、ヨーロッパでの悲劇の再生の瞬間だったからだ。
 その上演の年の1876年、彼は〈Richard Wagner at Bayreuth〉を出版していた。
 これは、親ワーグナーの最後の著作になった。//
 (03) 第二はワーグナーとの決裂の主な理由で、ニーチェがワーグナーの音楽や芸術の理論の多くを拒否するようになった、ということだ。
 拒絶する理由の核心にあったのは、病的なキリスト教や公然たる人種主義を伴ってのパルツィバル(Parsifal,アーサー王伝説)の登場だった。
 このときまでに彼は、初期のショーペンハウアー支持者からヴォルテール(Voltaire)や啓蒙思想の価値の支持者へと変わった。
 彼はまた、音楽の好みを変え始めて、ビゼー(Bizet)の〈カルメン〉が好きになった。その掻き立てる旋律の音楽はワーグナーに代わる救済になる、と感じた。
 1888年に彼は、最も激しいワーグナー批判書を出版した。その年にワーグナー自身は死んだが、その寡婦はワーグナー崇拝者たち(cult)を作っていた。
 〈ワーグナーへの論告〉でニーチェは、こう論述した。//
 「ワーグナーの芸術は、病んでいる。
 彼が舞台へと持ち込む問題は—全くのヒステリー患者の問題だが—、彼の感情の発作的痙攣、強すぎる感受性、より刺激的な香味を求める嗜好、原理として装っているが、英雄やヒロインを彼が選んでいるという不安定さ、だ。彼は英雄やヒロインを生理学的類型として見ている(病理学の回廊だ!)。
 まとめるならば、これらは、疑う余地のない病気の状態だ。
 〈Wagner est une névrose. 〉(ワーグナーは神経症患者だ。)」(注14)//
 ——
 第8節へとつづく。

2482/石原慎太郎—1932〜2022・享年91。

  東京都内杉並区に大宮八幡宮という神社があって、京王井の頭線の永福駅から北方へと歩いて参拝し、御朱印をもらったことがあった。2011〜13年の頃だ。
 八幡宮と称しつつ傍らには天満宮(天神さん)の社もあったのが印象に残った。
 記憶に残ったもう一つは、御朱印所から休憩・待合室まで行く通路の壁に、石原慎太郎らの写真が額付きで数枚掲示されていたことだ。
 それは長男・伸晃、同夫人の間の子(慎太郎の初孫?)の「初宮参り」ののときに撮られた写真だったようで、誰か単独のものはなく、石原慎太郎・同夫人と合わせて5人が写っていた。石原慎太郎と伸晃の二人は明らかに微笑んでいた(女性二人は男たちと比べるとふつうだったような気がする)。
 石原慎太郎一家がこの神社と関係が深いのだろう感じたことの他、関連して明瞭に思ったのは、石原慎太郎・伸晃とつづく衆議院議員選挙での選挙区内なのだろう、ということだった。
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  一昨年の後半か昨年に、つぎの対談書をたぶん全部読んだ。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬舎、2020)。
 全体としては、まだしたいことがあると「生」への執着を語る石原と、夫をすでに失ったクリスチャンの(これらがどう関係するのか全く不明だが)曽野の、その点についての無関心さ、恬淡さが対照的で印象に残った。
 もう少し具体的に興味深かった点はこうだ。
 石原は亡くなった友人・知人がその死亡の日の直前に石原本人か別の知人の睡眠中の「夢」の中に出てきて<最後の挨拶>をしていった、というようなことを、何かの因果関係があるに違いない、と本気で語っていた、つまり非合理的かもしれないが「霊」はある、と主張するかのごとく熱く発言していた。だがしかし、自分自身の「霊」が死後も残るとはつゆも思っていない(つまり、自分の全ては消滅すると思っている)ふうだった。
 この〈矛盾〉が興味深くて、記憶に残った。曽野はというと、大した関心がないようで、石原の議論にまともに絡んではいなかった(以上、全て記憶による)。
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   政治家・作家としての石原慎太郎については、つぎの書が印象に残る。
 石原慎太郎=盛田昭夫・「N O」と言える日本—新日米関係の方策(光文社、1989)。
 と書きつつ、所持はしているが、まともには読んでいない。
 だが、日米関係の現状を(冷静に)憂慮しつつ、〈反米〉的主張もしたのだろう。もちろん、石原には全体として、反中国的姿勢の方が強かった。
 その反米論も、少なくとも、祖国・日本を敗戦に追い込み、占領し、ずっと従属させ続けやがって、というふうの「感情」・「鬱憤」がベースにあったのではない、と思われる。
 もっとも、1999年に都知事となって「つくる会」の分裂には関係していないと思われるが、ずっと〈日本会議〉の役員に名を連ねていたようだ。そして、決して名前だけ出していたのでもなさそうだが。
  上の最後の点と、秋月的には関連することがある。
 石原慎太郎は関西・大阪が地盤の橋下徹ら維新の会と合流して、2012年末に「日本維新の会」を立ち上げた。だが2014年に早くもこれは分裂した。
 東西にまたがる「保守」政党に期待もしていたので、背景不詳ながら残念に感じたものだった。
 見解・政策方針の差異が大きかったのが理由だとされるが、ほんの少しはつぎも背景にあるのではないか、というのが拙い推理?だ。
 橋下徹に対して、なぜか月刊正論(産経)は厳しかった。しつこく橋下批判を続けることになる適菜収に「哲学者」との肩書きで誌面を与え、さらには適菜収の橋下批判論を巻頭に掲載し、編集代表・桑原聡もまた同じ号の末尾で橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明記した。 
 橋下徹とニーチェ「研究者」の適菜収のいったいどちらが「正常」でまともな人物なのか、その後の二人の文章等を見ても歴然としていると思われる。詳論はここではしない。
 その月刊正論(産経)の基本的論調は、(近年では皇位継承者に関する主張を含めて)〈日本会議〉と共通していると見られる。
 そこで思うのだが、産経新聞主流派または月刊正論編集部としては、石原慎太郎と橋下徹の連合は<まずいことになった>というものだっただろう(桑原聡に尋ねてみたいものだ)。そして、少なくとも表向きは〈日本会議〉に石原は関係していたので、月刊正論編集部などより影響力のある〈日本会議〉関係者が石原に対して<橋下徹と手を切る>よう強く勧めたのでなないか。あくまで憶測だ。
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   三島由紀夫と石原慎太郎はともに法学部出身者だ。そして、社会と人間の現実あるいは国家の機構・構造について、西尾幹二や平川祐弘という文学部文学科出身者と比べて、格段によく知っていたと思われる。
 三島由紀夫はいっときは行政官僚だったが、石原慎太郎は、政治と行政に(そして法制に、例えば財政諸法、国・地方関係諸法に)三島以上に相当に通暁していただろう。いわゆる行政官僚・公務員の行動心理についても、よく知っていたに違いない。
 しかもまた、上の二人は小説家、作家でもあり、多数の「創作作品」を発表した、要するに多数の「小説」を書いた。三島は戯曲も書いたが。
 西尾幹二や平川祐弘は「小説」を書いて発表したことがあるのか。そういう創作活動を直接にしたことがあるのか。
 この二人は「文学部」出身であることにこだわる文章を書き、「言葉」の重要性を強調したりしているが、少なくとも文学部、とくにその独文学科・仏文学科出身者だけが「文学家」になれるのではない。
  研究や論評の対象にもっとされてよいのは存命者では石原慎太郎だ、という旨をこの欄にかつて書いたことがあった。
 その際も触れたように思うが、石原慎太郎は宗教にも、正確には法華経にも造詣が深かった。つぎの書をだいぶ前に、たぶん全部読んだ。
 石原慎太郎・法華経を生きる(幻冬舎、文庫版・2000)。
 ついでながら、評論全集的なもの(石原慎太郎の思想と行為・全8巻(産経新聞出版、2012〜13))は全てを所持しているが、きちんと読むに至っていないままだ。但し、つぎは読み終えている。
 石原慎太郎・弟(幻冬舎、文庫版・1999)。
 一個体としての人間には、当然に、することのできる限界がある。その範囲内で、石原慎太郎という一個人は、多様な才能を発揮したものだと思う。
 そしてまた、推察されるその人柄にも魅力的なところがある。それは、嫌悪する人がいるだろうほどの率直さ、正直さにあるだろう。
 それに、自信が本当にある人だからこそだと思うのだが、虚栄的な自己主張、「衒い」というものをほとんど感じさせない(小説の中にある人物像を対象にしてはいない)。
 要するに、<オレは偉いんだぞ>というふうの空疎で無駄な言葉がない。大学生時代にすでに世間にかなり知られていて、その必要性、つまり自分で懸命に強弁し、自己宣伝をする必要性がなかったからだろうか。
 政治家=国会議員・大臣、政治家兼行政実務者=東京都知事、「法華経」に関する書物(現代語訳を含む)もある文学家・小説家(芥川賞選考委員の時代もあった)。きっと「左翼」には嫌われていたのだろうが、これだけ多彩な能力を示して生きる人が、2022年以降に出現するのかどうか、つまりは現在にすでに存在しているかどうか。
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2481/Turner によるニーチェ ⑥。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。第5節→No.2459/2021.12.23.
 ——
 第6節。
 (01)  ニーチェには、全てを破壊するソクラテスの知性主義を説明する悪役がある。
 それは、ソクラテスの声または悪霊だ。
 本能はほとんどの人々にとって、創造性の根源であり、自分たちを掻き立てる力だ。
 意識それ自体は合理的で、かつ後方にある。
 しかし、ソクラテスの場合は、全く逆だ。
 ソクラテスの内部的自己は前方にあり、つねに議論をして、本能的自己を妨害している。
 「全ての生産的人々の場合、本能はまさに創造的で肯定的な力であり、意識は批判的かつ警告的に振舞う。しかし、それとは対照的にソクラテスの場合は、本能は批判者になり、意識が創造者になる。—これこそが、〈欠陥による〉(per defectum)本当の畸形だ!」(注7)
 (02)  ソクラテスの本能が彼の知性を克服するならいつでも、彼の内的で知性的な声は働きを止める。
 この点では、ソクラテスは、行動に向かえば内部的な本能によって止められる、巨大で創造的な機械だ。
 そして、彼が死を選んだことは、ギリシャの青年たちには英雄主義の模範ではなく、哲学上の生の新しい模範となった。
 それと同時に、本来の合理性と知性への自信において、彼は、悲劇を不可能にする楽観主義の一種を人格化した。//
 (03)  芸術家は対象または問題を覆い隠して愉快になるものだが、ニーチェがソクラテスに原因を求める「理論的人間」は、覆いを剥ぎ取って対象を説明することで愉快になる。
 ニーチェがつぎのように称するものを生み出したのは、この理論的な外貌だ。
 「ソクラテスという人物のうちに初めて出現した深遠な〈妄想〉(delusion)。すなわち、思考とは、因果律がつながる糸として、存在の最も深い淵へと辿りつき、実在をたんに認識するのみならず、それを是正することすらできるという、揺るぎなき確信。」(注8)//
 (04)  この点で、ソクラテスは、将来の全ての科学の父だった。
 死ぬことを世俗世界で受容できるものにしたのは、まさに彼だ。
 これに関して、ニーチェは、「我々は、ソクラテスのうちに世界史の一つの転換点を見ざるをえない」(注9)、と書いた。
 ソクラテスにとっては全ての邪悪は過ちであり、人間の仕事で最も高貴なのは、過ちから本当の知識を切り離すことだ。//
 (05)  精神(mind)を探究し是正することは、理解して是正する新しい言葉をつねに探すことになるだろう。しかしそれは究極的には、通過することのできない境界に出くわだろう。
 その境界が、悲劇が再び出現し、回答不能のことや非論理的なものが再び自己主張をする場所だ。
 この境界線に、偉大な神、Dionysus が再び現れるだろう。//
 (06)  私はこう言いたいのではない。ニーチェがソクラテスについて言ったことの多くは、George Grote の全く単調な分析に実際に直接的に由来している、と。
 本当にニーチェがしているのは、合理性と科学の声というGrote の見解のほとんどを受容しつつ、さらに、裁きの法廷に合理性と科学を持ち込む人物像を作るために用いる、ということだ。
 Grote は、改革に導くものとして、合理性を称賛した。
 ニーチェは、生がもつ本能を抑制するものとして、合理性を嫌悪した。
 また、イギリスの功利主義も嫌悪し、Grote のソクラテスを攻撃することで、近代功利主義、近代科学、およびJ. S. Mill が支持した近代の批判的個人主義を攻撃した。
 (07)  ニーチェは誰を、合理的ソクラテス、古代の悲劇を破壊した古代の理論家に、対峙させたのか?
 ソクラテス、科学、批判的合理主義を融解させる力についての解答は、R・ワーグナーとその音楽だった。
 ニーチェはショーペンハウワーの美学を論じて、音楽は悲劇についての古代のDionysus 的世界の基礎的な鍵だったこと、音楽は新しい象徴主義が出現するのを認めたことを、強調した。
 最も重要なことは、音楽が悲劇的神話を誕生させることができた、ということだ。「この(音楽の)精神のみが、悲劇を誕生させることができる」(注10)//
 (08)  音楽は、個人主義を消滅させる愉しみを生み出すことができた。
 しかしながら、ニーチェによると、ほとんどの現代音楽ではこの目標が達成されていない。
 とくに、大歌劇は、この点で失敗した。
 ニーチェはさらに進んで、こう宣言した。
 「我々は、このソクラテス文化の内奥にある近代的内容を〈オペラ文化〉と称するならば、最もよく表現することができる」。(注11)
 これはもちろん、オペラと音楽に関するワーグナーの理論を直接に参照したものだった。
 ニーチェは、しかし、Dionysus 的経験の深さをドイツとヨーロッパで再び取り戻すことができるという希望を見た。そして、こう宣言した。
 「ドイツ精神のDionysus 的根底から、一つの力が蘇った。この力はソクラテス的文化の根本的制約とは何の共通性もない。
 むしろそのソクラテス的文化はその力を、恐ろしくて説明不可能で、威圧的で敵対的なものだ、と感じさせる。その力とは、すなわち〈ドイツ音楽〉だ。
 この音楽の、Bach からBeethoven 、Beethoven からワーグナーへと経てきた力強くて輝かしい過程を知る。」(注12)
 (09) ワーグナーの音楽によって、Dionysus 的明察の深さが再びApollon 的様式と結びつき、新しい美と道徳の時代が始まろうとしていた。
 「そのとおり。友人たちよ、私のようにDionysus 的な生と悲劇の再生を信じよ。
 ソクラテス的人間の時代は終わった。
 ツタの冠を頭に乗せ、テュルソス〔酒神バッカスの杖〕を手に取れ。
 虎やヒョウがきみたちの膝の周りでじゃれてまとわりつきながら、下に横たわっていても、驚くな。
 今こそ勇気を持って悲劇的人間にならなければならない。
 なぜなら、きみたちは解放されて救済されるだろうからだ。」(注13)
 ——
 第6節、終わり。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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