Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
=B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
——
第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?③。
(17) レーニンは、1917年の晩夏に〈国家と革命〉を書いた。いつ実行するか、成功するかどうか分からないままで、(Jacobin 派やブランキストと区別される)マルクス主義者の権力奪取ための神話を正当化するためだった。
彼のモデルは、マルクスのパリ・コミューンに関する〈フランスにおける内乱〉(1871年)だった。この書物をマルクスは、労働者に「英雄的伝説」(彼の言葉)を与えるために書いた。
マルクスはこの書物で、資本主義から共産主義への移行を指揮するプロレタリアート独裁という観念を展開した。
彼はさらに、「ゴータ綱領批判」での考えを発展させて、共産主義の低い段階と高い段階を区別し、国家が「プロレタリアートの革命的独裁」にすぎなくなる政治的な過渡的移行期間に論及した。(MER,p.538.)
マルクスは、革命的独裁と完全な共産主義の間に、相当に長い移行期間を想定していた。
「労働者階級は、コミューンから奇跡を期待しなかった。
彼らは、(人民の布令によって)導入する既製のユートピア像を持たない。
彼らは、連続する歴史的過程を通じて、環境と人間を変革する、長い闘いを経由しなければならないだろう。
彼らは実現する理想像を持たないが、崩壊している古いブルジョア社会それ自体が胚胎する新しい社会の諸要素を解き放つ理想像は持っている。」(注16)//
(18) 対照的に、レーニンは、移行期間は短いものと想定した。
資本主義は「会計(accounting)と検査(controll)」と単純化されたので、ボルシェヴィキは、必要としないものを「切り落として」、既にある機構を奪い取るだけでよかった。
武装労働者たちは「生産と分配を〈検査〉し、労働と生産物を記帳(account)しつづけ、受領書を発行する、等々」をするだろう。
検査はもちろん権力だ。
技術者、農学者その他の専門家たちは今は資本家のために働いているが、「明日にでも武装した労働者たちの望みに服従して」仕事をするのがよいだろう。(LA,p.382)
〈全ての〉市民が、武装労働者で成る国家の被用者となる。
〈全ての〉市民が、〈単一の〉全国的な国家「連合」(syndicate)の被用者かつ労働者となり、労働の平等と賃金の平等が保障される。
「それからの離反はないだろう。どこにも『行く場所はない』だろう。」
全員が、管理すること、習慣から「共同体の単純で基礎的なルール」を遵守することを学習すれば、完全な共産主義への移行が始まるだろう。(LA,p.383)
(19) マルクスとエンゲルスの著作にある残虐で暴力的な文章部分に注目して、それは豊富にあったのだが、レーニンは、いかなる法にも制約されないプロレタリアート独裁、純粋な実力(pure force)の王国、を提唱した。
「プロレタリアートは、国家権力、中央集権的な実力の組織、暴力の組織を必要とする。搾取者の抵抗を粉砕するために、また、莫大な人民大衆—農民、小ブルジョア、準プロレタリアート—を社会主義経済の組織化という仕事に導くために。」(LA,p.328.)
コミューンは、敵を粉砕しなかったがゆえに失敗した。
勝利するプロレタリアートは、強制力とテロルによってその支配を維持しなければならない。
そう考えない者は、空想者(utopian)だ。
レーニンは、アナキストや、ブハーリンを含めて、革命のすぐ後に国家の廃絶を望まない「左翼」ボルシェヴィキに対抗して、こう反論した。
「我々は空想者ではない。我々は〈ただちに〉全ての管理と全ての服従化を行うことをしないで済ますなどと夢見ることをしない。…。
違う、我々は、現在にある人民とともに社会主義革命を欲する。彼らは、服従化、統制、監督者と会計者なしで済ますことができない。」(LA,p.344.)
この書物は全体が権力への讃歌で、それと結びついていたのは、権力でのみ達成することができるものへの幼稚な信仰と、国家や経済を作動させるものに関する驚くべきべき無知だった。
当時はプロレタリアートが人口の3パーセントだけを占めていた。これは、「ブルジョア民主主義」と多数派による支配を無視する、もう一つの理由だった。//
(20) 共産主義の初期段階についてのレーニンの考え方は、ニーチェによる意思の称賛を、ニーチェのアリストテレス的エリート主義とは何ら共通性がない原始的平等という基本方針と結びつけた。
しかしながら、平等主義と権力への意思は、相互に矛盾してはいない。ニーチェがこう考察したとおりだ。
「平等への意思は、権力への意思だ」。(WP=「権力への意思」, p.277)
レーニンの平等主義は、大衆のアナーキーで平準化したい本能に訴えた。そして、ブハーリンや、コロンタイのような「左翼ボルシェヴィキ」への一種の譲歩だった。
(党外から、Bogdanov は「劣った者による平準化」と非難した。)(注17)
労働者は社会主義への用意ができていない、ソヴェトは計画する有効な仕組みではない、とのBazarov の主張に反論する追加の論文を、レーニンは書いた。そこで彼は、1905年にソヴェトを生んだ革命的階級の「創造的情熱」を称賛し、再び国家を動かすことの容易さを強調した。(LA,p.399-p.406.)(注18)
<一行あけ>
(21) 1917年のほとんど、レーニンのスローガンは「全ての権力をソヴェトへ」だった。
権力掌握後はすぐにこのスローガンを下ろし、数世紀にわたる奴隷状態で荒廃した、「修正」されなければならない「人間的素材」について語り、組織、紀律、革命的意思の必要を呼び起こした。
1918年1月、彼は個人と諸階級全体に対する強制力とテロルの行使を擁護し、「決断力のなさ」、略式の逮捕、処刑や非ボルシェヴィキの新聞と雑誌の閉刊に不平を言う「意気消沈している知識人」に対する多大なる軽蔑心を表明した。(LA,p.424-6.)
1918年3月には、こう宣告した。
「ドイツ人から紀律を学べ。そうしなければ、一民族としての我々は破滅する。我々は永遠の奴隷状態のままで生きなければならなくなる。」(LA,p.549.)
また、ロシアはブレスト=リトフスク条約を受諾しなければならないと主張し、それに反対する「知的な超人たち」をこき下ろした。(LA,p.543.)
この言葉は、ブハーリン、コロンタイ、および1792-3年のジャコバン派のように防衛戦争を革命戦争に転化しようとするその他の「左翼ボルシェヴィキ」を指していた。
レーニンは、別の論文で(同じく1918年3月)、条約は我々の解放への意思を固くし、鍛える、と言った。(LA,p.434.)//
(22) 「ソヴィエト政府の差し迫った任務」(1918年4月)では、「意思」への言及が同じ頁に4回も現れた。すなわち、「絶対的で厳格な意思の統一」、「一つの意思へと彼らの意思を従属させる数千人」、「単一の意思への<疑いなき服従>」、「労働者の指導者の意思に<疑問を持つことなく従う>」。(LA,p.455.)
「いかにして競争を組織するか」(1918年1月、1929年に出版)では、「ぞんざいさ、不注意、だらしなさ、神経質な焦り、行動しないで議論する傾向、仕事代わりの会話」を嘆き、「肉体労働から精神労働を分離する異様さ」を非難し(Bognanov が好んだ主題)、「寄生虫を排除する残酷な手段」を説明した。(LA,p.426-p.432.)//
(23) レーニンは「偉大な始まり」(1919年7月)で、日常生活での英雄主義と意思を呼び求めた(戦士気分の新しい配置)。
その機会は、〈subbotnik〉運動(賃金なしの土曜日労働)で、前の5月に鉄道労働者の何人かによって始められた。
彼らの英雄主義は、習慣の革命の始まりであり、我々自身にある保守主義、紀律のなさ、小ブルジョア・エゴイズムに対する勝利、過去の(奴隷的)慣習に対する勝利だった。
英雄熱による一つの行動だけでは、社会主義を建設しないだろう。必要なのは、〈ふつうの毎日の仕事〉での最も永続する、最も粘り強い、最も困難な、大衆の英雄主義だった。(LA,p.480.)
社会主義の建設も、純化を必要とした。
「自由恋愛の要求は、プロレタリア的ではなくブルジョア的なものだ。
(LA,p.685.)
「革命は集団と個人による全ての神経の集中と結集を求める。
D'Annunzio の頽廃した英雄たちにはふつうの乱痴気騒ぎの状態に耐えることはできない。」[D'Annunzio のニーチェ主義はよく知られていた。]…。
プロレタリアートに必要なのは、明瞭さ、明瞭さ、さらに明瞭さだ。
ゆえに私は繰り返す。弱くなること、活力の無駄使いや消失があってはならない。
自己抑制と自己紀律は奴隷的ではない。」(LA,p.694)
レーニンは「青年同盟の任務」(1920年10月)で、「人間を超える、階級を越える考えにもとづくいかなる道徳」をも拒絶した。
「我々の道徳は、プロレタリアートの階級闘争の利益に全て従属する。
階級闘争は継続している。その形態を変えただけだ。」(LA,668-9.) //
(24) 〈「左翼」共産主義、左翼小児病〉(1920年4月)でレーニンは、ヨーロッパでの連立政権への参加に反対する純粋主義者を攻撃した。そして、内戦はほとんど終わっているとしても、闘争は継続しているがゆえにプロレタリアート独裁は存続しなければならないと強く主張した。
党の内部では、「最も厳格な中央集権制と紀律が、プロレタリアートの〈組織上の〉役割(そしてこれが主要な役割だ)が正しく、成功裡に、かつ勝利を得るべく履行されるために、要求される。
プロレタリアート独裁は、血を流しても流さずとも、暴力的であれ平和的であれ、教育的であれ管理的であれ、古い社会の実力と伝統に対する粘り強い闘いを意味する。」(LA,p.569,)
1920年の末にかけて、レーニンは、純粋な実力の王国としてのプロレタリアート独裁の考え方を繰り返した。(全集31巻p.353.)//
----
(注16) Marx, The Civil War in France.
(注17) Bogdanov, Teketology, p.25.
(注18) Francis King, The Political & Economic Thought of Vladimir Aleksandrovich Bazarov (1874-1904) , 1994, dis., p.104.
——
第一節・レーニン、終わり。
=B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
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第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?③。
(17) レーニンは、1917年の晩夏に〈国家と革命〉を書いた。いつ実行するか、成功するかどうか分からないままで、(Jacobin 派やブランキストと区別される)マルクス主義者の権力奪取ための神話を正当化するためだった。
彼のモデルは、マルクスのパリ・コミューンに関する〈フランスにおける内乱〉(1871年)だった。この書物をマルクスは、労働者に「英雄的伝説」(彼の言葉)を与えるために書いた。
マルクスはこの書物で、資本主義から共産主義への移行を指揮するプロレタリアート独裁という観念を展開した。
彼はさらに、「ゴータ綱領批判」での考えを発展させて、共産主義の低い段階と高い段階を区別し、国家が「プロレタリアートの革命的独裁」にすぎなくなる政治的な過渡的移行期間に論及した。(MER,p.538.)
マルクスは、革命的独裁と完全な共産主義の間に、相当に長い移行期間を想定していた。
「労働者階級は、コミューンから奇跡を期待しなかった。
彼らは、(人民の布令によって)導入する既製のユートピア像を持たない。
彼らは、連続する歴史的過程を通じて、環境と人間を変革する、長い闘いを経由しなければならないだろう。
彼らは実現する理想像を持たないが、崩壊している古いブルジョア社会それ自体が胚胎する新しい社会の諸要素を解き放つ理想像は持っている。」(注16)//
(18) 対照的に、レーニンは、移行期間は短いものと想定した。
資本主義は「会計(accounting)と検査(controll)」と単純化されたので、ボルシェヴィキは、必要としないものを「切り落として」、既にある機構を奪い取るだけでよかった。
武装労働者たちは「生産と分配を〈検査〉し、労働と生産物を記帳(account)しつづけ、受領書を発行する、等々」をするだろう。
検査はもちろん権力だ。
技術者、農学者その他の専門家たちは今は資本家のために働いているが、「明日にでも武装した労働者たちの望みに服従して」仕事をするのがよいだろう。(LA,p.382)
〈全ての〉市民が、武装労働者で成る国家の被用者となる。
〈全ての〉市民が、〈単一の〉全国的な国家「連合」(syndicate)の被用者かつ労働者となり、労働の平等と賃金の平等が保障される。
「それからの離反はないだろう。どこにも『行く場所はない』だろう。」
全員が、管理すること、習慣から「共同体の単純で基礎的なルール」を遵守することを学習すれば、完全な共産主義への移行が始まるだろう。(LA,p.383)
(19) マルクスとエンゲルスの著作にある残虐で暴力的な文章部分に注目して、それは豊富にあったのだが、レーニンは、いかなる法にも制約されないプロレタリアート独裁、純粋な実力(pure force)の王国、を提唱した。
「プロレタリアートは、国家権力、中央集権的な実力の組織、暴力の組織を必要とする。搾取者の抵抗を粉砕するために、また、莫大な人民大衆—農民、小ブルジョア、準プロレタリアート—を社会主義経済の組織化という仕事に導くために。」(LA,p.328.)
コミューンは、敵を粉砕しなかったがゆえに失敗した。
勝利するプロレタリアートは、強制力とテロルによってその支配を維持しなければならない。
そう考えない者は、空想者(utopian)だ。
レーニンは、アナキストや、ブハーリンを含めて、革命のすぐ後に国家の廃絶を望まない「左翼」ボルシェヴィキに対抗して、こう反論した。
「我々は空想者ではない。我々は〈ただちに〉全ての管理と全ての服従化を行うことをしないで済ますなどと夢見ることをしない。…。
違う、我々は、現在にある人民とともに社会主義革命を欲する。彼らは、服従化、統制、監督者と会計者なしで済ますことができない。」(LA,p.344.)
この書物は全体が権力への讃歌で、それと結びついていたのは、権力でのみ達成することができるものへの幼稚な信仰と、国家や経済を作動させるものに関する驚くべきべき無知だった。
当時はプロレタリアートが人口の3パーセントだけを占めていた。これは、「ブルジョア民主主義」と多数派による支配を無視する、もう一つの理由だった。//
(20) 共産主義の初期段階についてのレーニンの考え方は、ニーチェによる意思の称賛を、ニーチェのアリストテレス的エリート主義とは何ら共通性がない原始的平等という基本方針と結びつけた。
しかしながら、平等主義と権力への意思は、相互に矛盾してはいない。ニーチェがこう考察したとおりだ。
「平等への意思は、権力への意思だ」。(WP=「権力への意思」, p.277)
レーニンの平等主義は、大衆のアナーキーで平準化したい本能に訴えた。そして、ブハーリンや、コロンタイのような「左翼ボルシェヴィキ」への一種の譲歩だった。
(党外から、Bogdanov は「劣った者による平準化」と非難した。)(注17)
労働者は社会主義への用意ができていない、ソヴェトは計画する有効な仕組みではない、とのBazarov の主張に反論する追加の論文を、レーニンは書いた。そこで彼は、1905年にソヴェトを生んだ革命的階級の「創造的情熱」を称賛し、再び国家を動かすことの容易さを強調した。(LA,p.399-p.406.)(注18)
<一行あけ>
(21) 1917年のほとんど、レーニンのスローガンは「全ての権力をソヴェトへ」だった。
権力掌握後はすぐにこのスローガンを下ろし、数世紀にわたる奴隷状態で荒廃した、「修正」されなければならない「人間的素材」について語り、組織、紀律、革命的意思の必要を呼び起こした。
1918年1月、彼は個人と諸階級全体に対する強制力とテロルの行使を擁護し、「決断力のなさ」、略式の逮捕、処刑や非ボルシェヴィキの新聞と雑誌の閉刊に不平を言う「意気消沈している知識人」に対する多大なる軽蔑心を表明した。(LA,p.424-6.)
1918年3月には、こう宣告した。
「ドイツ人から紀律を学べ。そうしなければ、一民族としての我々は破滅する。我々は永遠の奴隷状態のままで生きなければならなくなる。」(LA,p.549.)
また、ロシアはブレスト=リトフスク条約を受諾しなければならないと主張し、それに反対する「知的な超人たち」をこき下ろした。(LA,p.543.)
この言葉は、ブハーリン、コロンタイ、および1792-3年のジャコバン派のように防衛戦争を革命戦争に転化しようとするその他の「左翼ボルシェヴィキ」を指していた。
レーニンは、別の論文で(同じく1918年3月)、条約は我々の解放への意思を固くし、鍛える、と言った。(LA,p.434.)//
(22) 「ソヴィエト政府の差し迫った任務」(1918年4月)では、「意思」への言及が同じ頁に4回も現れた。すなわち、「絶対的で厳格な意思の統一」、「一つの意思へと彼らの意思を従属させる数千人」、「単一の意思への<疑いなき服従>」、「労働者の指導者の意思に<疑問を持つことなく従う>」。(LA,p.455.)
「いかにして競争を組織するか」(1918年1月、1929年に出版)では、「ぞんざいさ、不注意、だらしなさ、神経質な焦り、行動しないで議論する傾向、仕事代わりの会話」を嘆き、「肉体労働から精神労働を分離する異様さ」を非難し(Bognanov が好んだ主題)、「寄生虫を排除する残酷な手段」を説明した。(LA,p.426-p.432.)//
(23) レーニンは「偉大な始まり」(1919年7月)で、日常生活での英雄主義と意思を呼び求めた(戦士気分の新しい配置)。
その機会は、〈subbotnik〉運動(賃金なしの土曜日労働)で、前の5月に鉄道労働者の何人かによって始められた。
彼らの英雄主義は、習慣の革命の始まりであり、我々自身にある保守主義、紀律のなさ、小ブルジョア・エゴイズムに対する勝利、過去の(奴隷的)慣習に対する勝利だった。
英雄熱による一つの行動だけでは、社会主義を建設しないだろう。必要なのは、〈ふつうの毎日の仕事〉での最も永続する、最も粘り強い、最も困難な、大衆の英雄主義だった。(LA,p.480.)
社会主義の建設も、純化を必要とした。
「自由恋愛の要求は、プロレタリア的ではなくブルジョア的なものだ。
(LA,p.685.)
「革命は集団と個人による全ての神経の集中と結集を求める。
D'Annunzio の頽廃した英雄たちにはふつうの乱痴気騒ぎの状態に耐えることはできない。」[D'Annunzio のニーチェ主義はよく知られていた。]…。
プロレタリアートに必要なのは、明瞭さ、明瞭さ、さらに明瞭さだ。
ゆえに私は繰り返す。弱くなること、活力の無駄使いや消失があってはならない。
自己抑制と自己紀律は奴隷的ではない。」(LA,p.694)
レーニンは「青年同盟の任務」(1920年10月)で、「人間を超える、階級を越える考えにもとづくいかなる道徳」をも拒絶した。
「我々の道徳は、プロレタリアートの階級闘争の利益に全て従属する。
階級闘争は継続している。その形態を変えただけだ。」(LA,668-9.) //
(24) 〈「左翼」共産主義、左翼小児病〉(1920年4月)でレーニンは、ヨーロッパでの連立政権への参加に反対する純粋主義者を攻撃した。そして、内戦はほとんど終わっているとしても、闘争は継続しているがゆえにプロレタリアート独裁は存続しなければならないと強く主張した。
党の内部では、「最も厳格な中央集権制と紀律が、プロレタリアートの〈組織上の〉役割(そしてこれが主要な役割だ)が正しく、成功裡に、かつ勝利を得るべく履行されるために、要求される。
プロレタリアート独裁は、血を流しても流さずとも、暴力的であれ平和的であれ、教育的であれ管理的であれ、古い社会の実力と伝統に対する粘り強い闘いを意味する。」(LA,p.569,)
1920年の末にかけて、レーニンは、純粋な実力の王国としてのプロレタリアート独裁の考え方を繰り返した。(全集31巻p.353.)//
----
(注16) Marx, The Civil War in France.
(注17) Bogdanov, Teketology, p.25.
(注18) Francis King, The Political & Economic Thought of Vladimir Aleksandrovich Bazarov (1874-1904) , 1994, dis., p.104.
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第一節・レーニン、終わり。