秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2022/01

2480/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑦。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 ——
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?③。
 (17) レーニンは、1917年の晩夏に〈国家と革命〉を書いた。いつ実行するか、成功するかどうか分からないままで、(Jacobin 派やブランキストと区別される)マルクス主義者の権力奪取ための神話を正当化するためだった。
 彼のモデルは、マルクスのパリ・コミューンに関する〈フランスにおける内乱〉(1871年)だった。この書物をマルクスは、労働者に「英雄的伝説」(彼の言葉)を与えるために書いた。
 マルクスはこの書物で、資本主義から共産主義への移行を指揮するプロレタリアート独裁という観念を展開した。
 彼はさらに、「ゴータ綱領批判」での考えを発展させて、共産主義の低い段階と高い段階を区別し、国家が「プロレタリアートの革命的独裁」にすぎなくなる政治的な過渡的移行期間に論及した。(MER,p.538.)
 マルクスは、革命的独裁と完全な共産主義の間に、相当に長い移行期間を想定していた。
 「労働者階級は、コミューンから奇跡を期待しなかった。
 彼らは、(人民の布令によって)導入する既製のユートピア像を持たない。
 彼らは、連続する歴史的過程を通じて、環境と人間を変革する、長い闘いを経由しなければならないだろう。
 彼らは実現する理想像を持たないが、崩壊している古いブルジョア社会それ自体が胚胎する新しい社会の諸要素を解き放つ理想像は持っている。」(注16)//
 (18) 対照的に、レーニンは、移行期間は短いものと想定した。
 資本主義は「会計(accounting)と検査(controll)」と単純化されたので、ボルシェヴィキは、必要としないものを「切り落として」、既にある機構を奪い取るだけでよかった。
 武装労働者たちは「生産と分配を〈検査〉し、労働と生産物を記帳(account)しつづけ、受領書を発行する、等々」をするだろう。
 検査はもちろん権力だ。
 技術者、農学者その他の専門家たちは今は資本家のために働いているが、「明日にでも武装した労働者たちの望みに服従して」仕事をするのがよいだろう。(LA,p.382)
 〈全ての〉市民が、武装労働者で成る国家の被用者となる。 
 〈全ての〉市民が、〈単一の〉全国的な国家「連合」(syndicate)の被用者かつ労働者となり、労働の平等と賃金の平等が保障される。
 「それからの離反はないだろう。どこにも『行く場所はない』だろう。」
 全員が、管理すること、習慣から「共同体の単純で基礎的なルール」を遵守することを学習すれば、完全な共産主義への移行が始まるだろう。(LA,p.383)
 (19)  マルクスとエンゲルスの著作にある残虐で暴力的な文章部分に注目して、それは豊富にあったのだが、レーニンは、いかなる法にも制約されないプロレタリアート独裁、純粋な実力(pure force)の王国、を提唱した。
 「プロレタリアートは、国家権力、中央集権的な実力の組織、暴力の組織を必要とする。搾取者の抵抗を粉砕するために、また、莫大な人民大衆—農民、小ブルジョア、準プロレタリアート—を社会主義経済の組織化という仕事に導くために。」(LA,p.328.)
 コミューンは、敵を粉砕しなかったがゆえに失敗した。
 勝利するプロレタリアートは、強制力とテロルによってその支配を維持しなければならない。
 そう考えない者は、空想者(utopian)だ。
 レーニンは、アナキストや、ブハーリンを含めて、革命のすぐ後に国家の廃絶を望まない「左翼」ボルシェヴィキに対抗して、こう反論した。
 「我々は空想者ではない。我々は〈ただちに〉全ての管理と全ての服従化を行うことをしないで済ますなどと夢見ることをしない。…。
 違う、我々は、現在にある人民とともに社会主義革命を欲する。彼らは、服従化、統制、監督者と会計者なしで済ますことができない。」(LA,p.344.)
 この書物は全体が権力への讃歌で、それと結びついていたのは、権力でのみ達成することができるものへの幼稚な信仰と、国家や経済を作動させるものに関する驚くべきべき無知だった。
 当時はプロレタリアートが人口の3パーセントだけを占めていた。これは、「ブルジョア民主主義」と多数派による支配を無視する、もう一つの理由だった。//
 (20)  共産主義の初期段階についてのレーニンの考え方は、ニーチェによる意思の称賛を、ニーチェのアリストテレス的エリート主義とは何ら共通性がない原始的平等という基本方針と結びつけた。
 しかしながら、平等主義と権力への意思は、相互に矛盾してはいない。ニーチェがこう考察したとおりだ。
 「平等への意思は、権力への意思だ」。(WP=「権力への意思」, p.277)
 レーニンの平等主義は、大衆のアナーキーで平準化したい本能に訴えた。そして、ブハーリンや、コロンタイのような「左翼ボルシェヴィキ」への一種の譲歩だった。
 (党外から、Bogdanov は「劣った者による平準化」と非難した。)(注17)
 労働者は社会主義への用意ができていない、ソヴェトは計画する有効な仕組みではない、とのBazarov の主張に反論する追加の論文を、レーニンは書いた。そこで彼は、1905年にソヴェトを生んだ革命的階級の「創造的情熱」を称賛し、再び国家を動かすことの容易さを強調した。(LA,p.399-p.406.)(注18)
 <一行あけ>
 (21)  1917年のほとんど、レーニンのスローガンは「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 権力掌握後はすぐにこのスローガンを下ろし、数世紀にわたる奴隷状態で荒廃した、「修正」されなければならない「人間的素材」について語り、組織、紀律、革命的意思の必要を呼び起こした。
 1918年1月、彼は個人と諸階級全体に対する強制力とテロルの行使を擁護し、「決断力のなさ」、略式の逮捕、処刑や非ボルシェヴィキの新聞と雑誌の閉刊に不平を言う「意気消沈している知識人」に対する多大なる軽蔑心を表明した。(LA,p.424-6.)
 1918年3月には、こう宣告した。
 「ドイツ人から紀律を学べ。そうしなければ、一民族としての我々は破滅する。我々は永遠の奴隷状態のままで生きなければならなくなる。」(LA,p.549.)
 また、ロシアはブレスト=リトフスク条約を受諾しなければならないと主張し、それに反対する「知的な超人たち」をこき下ろした。(LA,p.543.)
 この言葉は、ブハーリン、コロンタイ、および1792-3年のジャコバン派のように防衛戦争を革命戦争に転化しようとするその他の「左翼ボルシェヴィキ」を指していた。
 レーニンは、別の論文で(同じく1918年3月)、条約は我々の解放への意思を固くし、鍛える、と言った。(LA,p.434.)//
 (22)  「ソヴィエト政府の差し迫った任務」(1918年4月)では、「意思」への言及が同じ頁に4回も現れた。すなわち、「絶対的で厳格な意思の統一」、「一つの意思へと彼らの意思を従属させる数千人」、「単一の意思への<疑いなき服従>」、「労働者の指導者の意思に<疑問を持つことなく従う>」。(LA,p.455.)
 「いかにして競争を組織するか」(1918年1月、1929年に出版)では、「ぞんざいさ、不注意、だらしなさ、神経質な焦り、行動しないで議論する傾向、仕事代わりの会話」を嘆き、「肉体労働から精神労働を分離する異様さ」を非難し(Bognanov が好んだ主題)、「寄生虫を排除する残酷な手段」を説明した。(LA,p.426-p.432.)//
 (23) レーニンは「偉大な始まり」(1919年7月)で、日常生活での英雄主義と意思を呼び求めた(戦士気分の新しい配置)。
 その機会は、〈subbotnik〉運動(賃金なしの土曜日労働)で、前の5月に鉄道労働者の何人かによって始められた。
 彼らの英雄主義は、習慣の革命の始まりであり、我々自身にある保守主義、紀律のなさ、小ブルジョア・エゴイズムに対する勝利、過去の(奴隷的)慣習に対する勝利だった。
 英雄熱による一つの行動だけでは、社会主義を建設しないだろう。必要なのは、〈ふつうの毎日の仕事〉での最も永続する、最も粘り強い、最も困難な、大衆の英雄主義だった。(LA,p.480.)
 社会主義の建設も、純化を必要とした。
 「自由恋愛の要求は、プロレタリア的ではなくブルジョア的なものだ。
(LA,p.685.)
 「革命は集団と個人による全ての神経の集中と結集を求める。
 D'Annunzio の頽廃した英雄たちにはふつうの乱痴気騒ぎの状態に耐えることはできない。」[D'Annunzio のニーチェ主義はよく知られていた。]…。
 プロレタリアートに必要なのは、明瞭さ、明瞭さ、さらに明瞭さだ。
 ゆえに私は繰り返す。弱くなること、活力の無駄使いや消失があってはならない。
 自己抑制と自己紀律は奴隷的ではない。」(LA,p.694)
 レーニンは「青年同盟の任務」(1920年10月)で、「人間を超える、階級を越える考えにもとづくいかなる道徳」をも拒絶した。
 「我々の道徳は、プロレタリアートの階級闘争の利益に全て従属する。
 階級闘争は継続している。その形態を変えただけだ。」(LA,668-9.) //
 (24) 〈「左翼」共産主義、左翼小児病〉(1920年4月)でレーニンは、ヨーロッパでの連立政権への参加に反対する純粋主義者を攻撃した。そして、内戦はほとんど終わっているとしても、闘争は継続しているがゆえにプロレタリアート独裁は存続しなければならないと強く主張した。
 党の内部では、「最も厳格な中央集権制と紀律が、プロレタリアートの〈組織上の〉役割(そしてこれが主要な役割だ)が正しく、成功裡に、かつ勝利を得るべく履行されるために、要求される。
 プロレタリアート独裁は、血を流しても流さずとも、暴力的であれ平和的であれ、教育的であれ管理的であれ、古い社会の実力と伝統に対する粘り強い闘いを意味する。」(LA,p.569,)
 1920年の末にかけて、レーニンは、純粋な実力の王国としてのプロレタリアート独裁の考え方を繰り返した。(全集31巻p.353.)//
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 (注16) Marx, The Civil War in France.
 (注17) Bogdanov, Teketology, p.25. 
 (注18) Francis King, The Political & Economic Thought of Vladimir Aleksandrovich Bazarov (1874-1904) , 1994, dis., p.104.
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 第一節・レーニン、終わり。

2479/高森明勅のブログ②—2021年11月12日。

  内親王だった女性と某民間人の結婚をめぐるマスコミの報道姿勢についてこう書く(もともとはテレビ放送予定の発言内容だったようだ)。
 ①「その人物は早い段階で弁護士に相談したが、法的に勝ち目がないと言われていたことを、自ら語っている。にも拘らず、…ご婚約が内定した後に、にわかに“金銭トラブル”として週刊誌で取り沙汰されるようになった。この間の経緯は、不明朗な印象を拭えない」。
 ②「一次情報にアクセスできず、又しようともせずに、真偽不明のまま無責任なコメントを垂れ流して来たメディアの責任は大きい」。
 ③「『週刊現代』の記者が当該人物の代理人めいた役割を果たしていたことは、ジャーナリズムにとってスキャンダルと言ってよい事実だが、その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」。
 ④「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症、皇后陛下の今もご療養が続く適応障害に続いて、眞子さまも複雑性PTSDという診断結果が公表された。名誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々に対して、いつまで一方的な誹謗中傷を続けるのか」。
 上のうちほとんど無条件で共感するのは、③だ。
 この『週刊現代』の人物は、母親の元婚約者とかに「食い込んで」いたようで、要所要所で感想を聞いたりして、『週刊現代』(講談社)に掲載したようだ。但し、法職資格はなく、「法的」解決のために動いた様子はない。
 この記者(講談社の社員?)の氏名を同業者たち、つまりいくつかの週刊誌関係者、同発行会社、そしてテレビ局や新聞社は知っていたか、容易に知り得る立場にあったと思われる。
 一方の側の弁護士は氏名も明らかにしていたように思うが、この記者の個人名を出さなかったのは、本人が「困る」とそれを固辞したことの他、広い意味での同業者をマスメディア関係者は「守った」のではないか
 そう感じているので、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」(上記)との疑問につながるのはよく分かる。
 (『週刊現代』の記事は個人名のあるいわゆる署名記事だったとすると上の多くは適切ではなくなるかもしれないが、その他のメディアがその氏名情報を一般的視聴者・読者に提供しなかったことの不思議さ、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」という疑問の正当性に変わりはないだろう。)
 マスメディアは一般に、大臣等の政治家の名前を出しても、各省庁の幹部の名を出さない(情報公開法の運用では、たしか本省「課長」級以上の職員の氏名は「個人情報」であっても隠してはならないはずだが。公開することの「公益」性を優先するのだ)。
 個人情報の極め付けかもしれない氏名を掲載または公表すべきか、掲載・公表してよいか否かの基準は、今の日本のマスメディアにおいて曖昧だ、またはきわめていいかげんだ、と思っている。
 立ち入らないが、例えば災害や刑事事件での「死者」の氏名も個人情報であり、警察等の姿勢どおりに安直に掲載・公表したりしなかったりでは、いけないはずなのだが。
 災害や刑事事件には関係のない『週刊現代』の記者の氏名の場合も、その掲載・公表には<本人の同意>が必要だ、という単純なものではない筈だ。
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  高森の上の④も気になる。「誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々…」というあたりだ。
 天皇は民事裁判権に服さない(被告にも原告にもなれない)という最高裁判決はあったと思う。但し、皇族についてはどうかとなると、どいう議論になっているかをよく知らない。
 しかし、かりに告発する権利が認められても、いわゆる親告罪である名誉毀損罪や侮辱罪について告訴することは「事実上できず」、反論したくとも、執筆すれば掲載してくれる、または反論文執筆を依頼するマスメディアは今の日本には「事実上」存在しないだろう。
 そういう実態を背景として、相当にヒドい言論活動があるのは確かだ。
  「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症」の原因(の一つ)は、高森によると、花田紀凱だ。
 「皇后陛下の…適応障害」が少なくとも継続している原因の一つは、おそらく間違いなく西尾幹二だ。
 「仮病」ではないのに「仮病」の旨を公的なテレビ番組で発言して、「仮病」なのに病気を理由として「宮中祭祀」を拒否している、または消極的だとするのは、立派に「名誉毀損罪」、「侮辱罪」の構成要件を充たしている。
 告訴がないために免れているだけで、西尾幹二は客観的にはかなり悪質な「犯罪者」だ(これが名誉毀損だと思えば秋月を告訴するとよい)。
 『皇太子さまへの御忠言』刊行とテレビ発言は2008年だった。その後10年以上、西尾幹二が大きな顔をして「評論家」を名乗る文章書きでおれるのだから、日本の出版業界の少なくとも一部は、相当におかしい。この中には、西尾の書物刊行の編集担当者である、湯原法史(筑摩書房)、冨澤祥郎(新潮社)、瀬尾友子(産経新聞出版)らも含まれている。
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2478/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑥。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。 
 参照されているレーニン全集(LCW)の巻数は日本語版(大月書店)と同じ。該当箇所を確認したものは頁を追記したが、訳文をそのまま模写してはいない。
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 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?②。
 (09) レーニンは「党組織と党文化」(1905年)で、「文学上の超人」や「ブルジョア的なアナーキー個人主義」(ニーチェと関連していた)を非難した。
 党の文学は「プロレタリアートの共通する信条の〈一部〉、プロレタリアートの前衛が作動させる単一の偉大な社会民主党機構のネジと歯車、でなければならない。」(LA,p.148-152.)
 換言すれば、党の文筆家は、レーニンが指揮する革命的合唱団の一部になるだろう。//
 (10) レーニンは1906年のあと、その神話を、英雄的なプロレタリアートへと注目させるよう修正した(〈何をなすべきか〉からの変化〉、また、ソヴェト(労働者評議会)やパリ・コミューンに対しても。(全集9巻p.141,8巻p.206-8.)
 こうした変化によって、神の建設(God-building)のような「精神的大酒飲み」には汚染されていないマルクス主義の系譜に連なるものに、彼の神話はなった。
 マルクスやエンゲルスにとって、革命的暴力は助産婦だった(マルクスには実際の出生の血と痛みは生々しかった)。
 レーニンにとっては、バクーニンやソレル(Sorel)にもそうだったように、暴力は心理を変革する体験だった。
 「ロシアの人民は、1905年より前とは同じではない。
 革命は彼らに闘うことを教えた。
 プロレタリアートは彼らに、勝利をもたらすだろう。」(全集16巻p.304.)=(日本語版全集16巻「革命の教訓」,p.321.)
 大衆自身による武装闘争だけが、彼らの解放を実現することができる。
 1905年の革命は、プロレタリアの革命だった(漸進主義のマルクス主義者たちが主張するブルジョア民主主義的なそれではない)。特殊プロレタリア的な「闘争形態」—ストライキ—でもって、プロレタリアートの前衛が指導したものだからだ。
 闘争は、大衆に新しい精神を吹き込んだ。
 それ以降、彼らは止まりはしないし、誰をも期待しない。彼らが選ぶのは、勝利か死か、だ。
 漸進主義のマルクス主義者は臆病な日和見主義者であり、「停滞し、気後れし、無力の、そして崩壊寸前のブルジョア社会の心理と決裂する能力のない」人間たちだ。(全集16巻p.307-9,p.311-2.)
 ニーチェ的な用語では、彼らは、「奴隷の道徳」の持ち主だ。//
 <一行あけ>
 (11) Bogdanov 派と論戦するための理論的情報を求めて、レーニンは、彼が読書会に所属するGeneva 〔スイス〕やSorbonne 〔パリ〕の図書館で、当時の西洋哲学書を読んだ。
 ニーチェの著作のフランス語訳は、Geneva 図書館の一般には流通していない収集物の中にあった。
 レーニンはニーチェ、モーパッサン(Maupassant)その他を読むために、約二週間、毎日そこへ通った。(注12)
 なぜ、Maupassant だったのか?
 おそらくレーニンは、ショーペンハウアーの底流を拾い上げたのだ。そのSchopenhauer 的底流は、Lunacharsky、August Strindberg、Joseph Conrad、Gabriele D'Annunzio、Isaac Babel のようなニーチェにも魅惑されている知識人たちを惹き付けていた。
 Lunacharsky はとくに、Maupassant をニーチェと関連させていた。//
 (12) レーニンの〈哲学草稿〉でニーチェへの言及がほとんど隠されているのは、少なくとも表面的には、ニーチェの思想にすでに通じていたことを示している。
 Ludwig Stein の〈現代哲学の潮流〉(1908年)を概約してレーニンが一覧表にしている10の範疇のうち7番目は、「個人主義(ニーチェ)」だった。(全集38巻p.54.)=(日本語版全集38巻・哲学ノートp.37.)
 ついで参照したものはレーニンのノートにあり、「道徳の問題」という表題が付けられていた。//
 「ゆえに、新しい哲学は、まずは道徳の諸原理だ。
 その諸原理は、〈行動の神秘主義(mysticism)〉と定義できるように思われる。
 〈この考え方(attitude)は新しいものではない。
 ソフィストたち(Sophists)が採用した考え方であり、彼らには真実も過ちもなく、ただ成功(success)だけがあった。〉 …。
 Stirner やニーチェのような知的アナキストの諸原理は、これと同じ前提に立っている。…。/
 〈LeRoy のようなある種の近代主義者が実用主義(pragmatism)からカトリシズムの正当化を導くとき〉、彼らはたぶん、一定の哲学者たち—実用主義の創設者たち—が得ようとしたものを実用主義から導かない。
 〈しかし彼らは、正当に引き出し得る結論を、それから導いた。〉 …。/
 〈実用主義の特徴は、成功するものは全て正しい(true)ということであり、どんな方法であれその瞬間に適合しているものは全て正しいのだ。すなわち、科学、宗教、道徳、習慣、決まり事。〉
 全ての事物が、真摯に受け取られなければならない。そして、目標を達成し、行動を可能にしてくれるものを、真摯に受け取らなければならない。」(全集38巻p.454-5.)=(日本語版全集38巻・哲学ノート421-2頁)。//
 言い換えると、真実(truth)とは実用主義的観念であり、組織化する原理だ。
 レーニン は、William James について多数のメモを書いた。
 モスクワのたいていの神探求者たち(Godseekers)は、James の実用主義をニーチェの反道徳主義と結びつけた。(注13)
 レーニンも、そうしたかもしれない。
 しかしながら、公式には、James をBogdanov やマッハ(Mach)に関連づけた。彼らは全て、真実を仮説にしていたからだ。(注14)//
 (13) レーニンは〈唯物論と経験批判論〉(1909年)で、政治でと同じく、哲学には中立の地点は存在しない、と主張した。
 全ての哲学が、階級利益に奉仕する。
 客観的現実と客観的真実の存在を否認することによって、「マッハ主義者たち」(Machians)はマルクス主義の敵のための道を掃き清めていた。 
 Bogdanov 派は、(現実とマルクス主義に対峙する)不可知論(agnosticism)と信仰主義(fideism)(「神の建設」への暗示)であるために有罪だった。
 レーニンは、マルクスはFeuerbach を新しい宗教を作ろうとしているとして非難した、と記した。 
 Bogdanov 派は、Dietzgen が唯物論者である以上に、彼の「錯乱」に従っていた。(p.254.)
 さらに、かりに「組織」が問題となる唯一のことならば、一つの「真実」は別のものと同じく有効だ。
 「真実が人間の経験を組織する唯一の形態であるならば、言ってみれば、カトリシズムの教えもまた、真実だ。
 カトリシズムが『人間の経験を組織する形態』であることに、微塵の疑いもないからだ。」(p.122)
 さらに加えて、Bogdanov の「認知(cognitive)社会主義」は、「正気ではない。…。」
 「社会主義がそのように見なされるのならば、イェズス会修道士は『認知社会主義』の熱狂的な支持者だ。彼らの認識論上の基礎にあるのは、『社会的に組織された経験』としての神学(divinity)だからだ。
 それだけでは客観的真実を反映しない(Bogdanov はこれを否定するが、科学が反映する)。そうではなく、特定の社会諸階級による大衆の無知の利用を反映している。」(p.234)//
 (14) 〈唯物論と経験批判論〉にはニーチェへの言及がない。しかし、「マッハ」が「ニーチェ」の代わりに用いられているなら、レーニンの論述の基本的趣旨は、見事に変わらないままだ。
 では、レーニンはなぜ、ニーチェを語らなかったのか?
 推測するに、論述を「科学的」次元に保つことで、検閲を免れ、争点になっている権力政治上の問題をごまかそうとしたのだろう。
 レーニンにとって、「真実」とは、ボルシェヴィキが勝利するのを可能にするものだ。—〈成功するものは全て正しい。〉
 要するに、マルクス主義はニュートンの法則のごとく絶対に不変の真実だ、とレーニンは論じていた。
 心理学的には、彼は正し(right)かった。
 活性化するイデオロギーは、確実性を必要とする。
 民衆は、仮定の真実のために収監されたり死んだりする危険を冒そうとはしない。//
 (15) レーニンは追加の論文で、「神秘主義の流行」はもちろん〈Landmark〉や「マッハ主義」という従来のマルクス主義者によって伝えられた「従順」と「後悔」のイデオロギーについて論じた。そしてこの現象の原因は、社会的政治的状況の異様で強く突然の変化に対する無思考の(つまり自然発生的な、ゆえに非合理的で非科学的な)反応にあるとした。
 「『全ての価値の再評価』、根本的諸問題の新しい研究、理論、基礎的原理や政治のABCへの新しい関心が生じるのは、当然のことで、避けられない」。
 このことの理由は正確には、「マルクス主義は生命のないドグマではなく、行動のための生きている指針」だからだ。
 あるマルクス主義者たちは、マルクス主義の規準を理解することなく「決まりきった一定の『スローガン』」を学んできた。
 彼らの「全ての価値の再評価」(この句をレーニンは繰り返す)は、「マルクス主義の最も抽象的で哲学的な根本部分の修正」へと、「空虚な文句の頒布」へと、そして党内での「マッハ主義の蔓延」へと、導いた。(全集17巻p.39,p.42-43.)=(日本語版全集17巻「マルクス主義の歴史的発展の若干の特質について」p.26-p.30.)//
 (16) レーニンは1917年4月に、ボルシェヴィキ党に対して名称を(「ブルジョア的」社会民主党と区別するために)共産党に変更するよう迫った。これは翌1918年の3月に行われた。
 レーニンはまた1917年に、新しいスローガンを作った。—「全ての権力をソヴェトへ」、「搾取者を搾取せよ」。これは再び、彼の言葉への敏感さを示していた。
 ボルシェヴィキ政権の存続が危機にあった内戦の真只中に、レーニンは新しい<ロシア言語辞典>四巻本の発行を支援した。革命がもたらした社会的変化は「言語の前線」での直接的行動を要求する、と考えたからだった。(注15)//
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 (注12) Venturelli, Nietzsche Studien 1993, p.321-4. レーニンが調べた書物の一覧がp.322 にある。
 (注13) Rosenthal.
 (注14) Lenin,唯物論と経験批判論,p.355n.
 (注15) Michael G. Smith, Language & Power in the Creation of the USSR (1998), p,42.
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 第一節③へとつづく。
  

2477/西尾幹二批判048—根本的間違い(4-2-2)。

 西尾幹二の思考はじつは単純なので、思い込みまたは「固定観念」がある。
 その大きな一つは「共産主義=グローバリズム」で<悪>、というものだ。
 典型的には、まだ比較的近年の以下。この書の書き下ろし部分だ。引用等はしない。
 西尾・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 そして、その反対の「ナショナリズム」は<善>ということになる。日本会議(1997年設立)と根本的には差異はないことになる。
 この点を重視すると、西尾の「反米」主張も当然の帰結だ(「反中国」主張とも矛盾しない)。
 さらに、EU(欧州同盟)も「グローバリズム」の一種とされ、批判の対象となる(英国の離脱は単純に正当視される)。
 ①2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010年)所収。
 項の見出しは「EUとアメリカとソ連が手を結んだ『歴史の終わり』の祝祭劇」。
 「フクヤマの『歴史の終わり』…。これをそのままそっくり受けてEUの理念が生まれ、1992年に…EUが発足します」。
 ②2017年/月刊Hanada2月号。同・保守の真贋(上掲)、所収。
 「EUは失敗でした。
 共産主義の代替わり、コミンテルン主導のインターナショナリズムが名前を変えてグローバリズムとなりました。
 それがEUで、国家や国境の観念を薄くし、ナショナリズムを敵視することでした。」
 何と、西尾幹二によると(ほとんど)、「コミンテルン主導のインターナショナリズム」=「グローバリズム」=「EU」なのだ。
 それに、1992年のEU発足以前に、EEC(欧州経済共同体)とかEC(欧州共同体)とか称されたものが既にあったことを、西尾は知って上のように書いているのだろうか。
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 前回にいう後者Bについて。
 さて、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二の二つ目(B)と考えられるのは、こうだ。
 独特な、または奇抜な主張をして、または論調を張って、「保守」の評論者世界の中での<差別化>を図っていた(いる)と見られる、ということ。
 既出の言葉を使うと、文章執筆請負業の個人経営者として、「目立つ」・「特徴」を出す・「角を立てる」必要があった、ということだ。
 ソ連圏の崩壊は「第三次世界大戦」の終結だったとか、EUの理念はコミンテルン以来のものだ旨(今回の上記)の叙述とか、すでに「特色のある」、あるいは「奇抜な」叙述に何度か触れてきている。
 西尾幹二は<保守派内部での野党>的な立場を採りたかった、あるいはそれを「売り」=セールスポイントにしたかったようで、古くは小泉純一郎首相を「狂気の首相」、「左翼ファシスト」と称した。
 前者は書名にも使われた。2005年/西尾・狂気の首相で日本は大丈夫か(PHP研究所)。
 後者は、以下に出てくる。個別の表題(タイトル)は、その下。
 2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(上掲)、所収。
 「左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり」。
 また、安倍晋三首相に対しても厳しい立場をとった。
 同・保守の真贋(2017年)の表紙にある、これの副題はこうだ。書物全体で安倍晋三批判を意図している、と評してもよいだろう。
 『保守の立場から安倍政権を批判する』
 さらに、つぎの点でも多くの、または普通の「保守」とは一線を画していた。<反原発>。この点では、竹田恒泰と一致したようだ。
 (もっとも、ついでながら、天皇位の男系男子限定継承論だけは、頑固に守ろうとしている。
 何度かこの欄で言及した岩田温との対談で、西尾はこう発言している。月刊WiLL2019年4月号=歴史通同年11月号。
 「びっくりしたのは、長谷川三千子さんがあなたとの対談で女系を容認するような発言をしたことです。あんなことを、長谷川さんが言うべきではない。」)
 --
 上のような調子だから、西尾の「反米」論が多くのまたは普通の「保守」派と異なる、「奇抜」なものになるのもやむを得ないかもしれない。
 既に引用・紹介したうち、「奇抜」・「珍妙」ではないかと秋月は思う部分は、例えば、つぎのとおり。
 ①2008年12月/日本が「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機」になるのは、「アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方」をして「日本を押さえ込もうとしたとき」だ。
 ②2009年6月/「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカ」だ。中国が「米国の最大の同盟国になっている」。アメリカは韓国・台湾・日本から「手を引くでしょう」が、「その前に静かにゆっくりと敵になるのです」。
 ③同/「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国の対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあ」る。「ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきている」。
 ④2009年8月/安倍首相がかつて村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたから」で、「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろう」。
 ⑤2013年/やがてアメリカが「牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 以上、かなり、ふつうではない、のではなかろうか。上の⑤によると、今年か来年あたりにはアメリカが「襲撃」してきて、日本には「悲劇的破局の光景」がある
 どれほど「正気」なのか、レトリックなのか、極端なことを言って「特色」を出したいという気分だけなのか、不思議ではある。
 しかし、2020年のつぎの書物のオビには、こうある。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、編集責任者は瀬尾友子)
 「不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成」。
 上に一部示したような「洞察」が適正で、「予言」が的中するとなると(皮肉だが)大変なことだ。
 上の2020年書の緒言は、国家「意志」を固めないとして日本および日本人を散々に罵倒し、最後にこう言う。どこまで「正気」で、レトリックで、どこまでが<文筆業者>としての商売の文章なのだろうか
 「一番恐れているのは…」だ。「加えて、米中露に囲まれた朝鮮半島と日本列島が一括して『非核地帯』と決せられ」、「敗北平和主義に侵されている日本の保守政権が批准し、調印の上、国会で承認してしまうこと」だ。
 「しかし、事はそれだけでは決して終わるまい。そのうえ万が一半島に核が残れば、日本だけが永遠の無力国家になる」。「いったん決まれば国際社会の見方は固定化し、民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになる」だろう。
 「憲法九条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 以上。
 「生きる意志」を持ち出したり「感傷」的美化を嫌悪している点は、今回の最初の方にある「祝祭劇」という語とともに、ニーチェ的だ。これは第三点に関係するのでさて措く。
 さて、西尾の「洞察と予言」が適切だとすると、将来の日本は真っ暗だ。というよりも、「民族国家」としては存在していないことになりそうだ。
 どんなに努力しても「消滅と衰亡への道をひた走る」のであり、「余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義」は「単純な自殺行為」に行き着くのだ。
 日本が「消滅と衰亡への道」を進んで「自殺」をすれば、さすがに西尾幹二は「洞察と予言」がスゴい人物だったと、将来の日本人(いるのかな?)は振り返ることになるのだろう。これはむろん皮肉だ、念のため。
 ——
 第三点へとつづける。

2476/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部の最初の章の「序」のあとの本文へと進む。
 なお、「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 ——
 第二部・第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?
 (01) 疑問符を付しているのは、意図的だ。レーニンの「ニーチェ主義」(Nietzscheanism)の証拠は間接的だから。
 レーニンのレトリックには、確かにニーチェ的な響きがある。
 「意思」、「権力」および「紀律」(これはニーチェに関するApollo的解釈と符合する)は、彼の好みの言葉だ。
 レーニンは政治における「感傷」を嫌い、ほとんど生活様式のごとく闘争に喜びを感じた。
 このような嗜好に加えて革命的人民主義の「英雄的」伝統の称賛、1904年から1907年までのBogdanov との連携、Gorky との友人関係、ニーチェが染み込んだ一般的文化状況があったので、ニーチェがレーニンのマルクス主義解釈に影響を与えた(inform)、という高度の蓋然性はある。
 レーニンは自分のノートでニーチェに言及しており、クレムリンの執務室に一冊の〈ツァラストゥラ〉を置いていた。(注5)
 Gorky は、解放を目ざす大衆の闘いを指導するロシアの超人(Superman)を探していた。
 レーニンは自分がその役割を果たすと、または少なくとも「世界的な歴史的個人」(ヘーゲルの観念)だと考えたかもしれない。
 彼はブハーリンの、ニーチェ的要素のある帝国主義に関する書物に自分のその主題の本で回答し、プロレタリア国家の描写をして左翼ボルシェヴィキの「アナーキズム」に反論した。
 もちろん、レーニンはニーチェを読んで彼の権力への意思を得たのではなかった。しかし、ニーチェはおそらくそれを強めた。//
 (02) レーニンの全集は決して完全なものではない。
 彼または彼の信条を当惑させそうな文書は、排除されていた。
 彼自身がいくつかを破棄し、または手紙の場合には、破棄するよう受取人に指示した。(注6)
 レーニンの公刊著作にはマルクス、エンゲルス、プレハノフおよびカウツキーへの言及が豊富にあり、より少ない程度で、Chernyshevsky、Herzen、Belinsky、および彼がマルクス主義の先駆者と見做した「70年代の輝かしい星座のごとき革命家たち」(Tucker 編,レーニン選集=LA,p.20)への言及がある。
 彼は、自分の思想に対する非マルクス主義の影響については寡黙だった。
 そのノートから明らかであるのは、ヘーゲル、クラウセヴィッツ、アリストテレスがレーニンのマルクス主義解釈と革命戦略を磨くのを助けた、ということだ。
 ダーウィンとマキアヴェリ(Machiavelli)も、そうだった。
 レーニンは執務机の上にダーウィン像を置いていた。しかし、マキアヴェリについては名前を出してはほとんど言及しなかった。だが、私的な連絡文書でもそうだったのではない(注7)
 政治局の指導者たちに対する(読後に破棄すべきものとされた)手紙で、レーニンはこう書いた。
 「政治手腕(statecraft)の問題に関するある賢人[マキアヴェリ]は正しく、一定の政治目標を実現するのと同じことのためには一定の残虐さに訴えることが必要であるならば、最も激しいやり方でかつ可能なかぎり短時間のうちに、実行されなければならない、なぜならば、大衆は長期間の残酷さの利用に耐えることができない、と言った。」(注8)//
 (03) マキアヴェリもそうだがニーチェもおそらく、レーニンのエリート主義と革命的反道徳主義を促進した。
 レーニンは、プロレタリアートは自分たちで解放する力を持たないというTkachev の見方を共有しており、革命は「タフな事業だ」と叙述した。
 「白い手袋をはめた、きれいな手では革命をすることができない。…。
 党は女学校ではない。…。
 悪人はまさに悪人であるがゆえに、我々が必要とするかもしれない。」
 彼は、Nechaev の同時代人は「組織者、陰謀家としての特殊な才能を持ち、衝撃的な明瞭さでまとめ上げる技巧を持つことを忘れていた」と観察した。(注9)
 レーニンの世代の最大原理主義者たちは、Nechaev は「ニーチェより前のニーチェアンだ」と見なした。
 おそらくレーニンも、そうした。//
 (04) レーニンは、ボルシェヴィズムの基礎的文献である〈何をなすべきか〉(1902年)で、前衛政党に関するマルクスの考えを超える、革命的エリート主義を提示した。
 「階級的政治意識は労働者に対して〈外からのみ〉、すなわち経済的闘争の外部からのみ、もたらすことができる」(LA,p.50)
 プロレタリアートは自分たちでは、労働組合主義の意識だけを持つことができる。
 潜在的には、プロレタリアートは間違った方向へと慌てて逃げることになる大きな群れだ。
 この書物でレーニンは、「Tkachev の説示が用意し、現実に威嚇する『威嚇的な』テロルの手段により実行された『壮大な』権力奪取の企てと、たんに滑稽なだけの、とくに平均的な人々の組織化という考えで補完された場合には滑稽な、小Tkachev の『刺激的な』テロル」とを区別した。(LA,p.107.)
 彼は、マルクス主義者は革命的人民主義者の過ちを繰り返さないということに関係して、職業的革命家、意識が高くて自己紀律をもつ革命的エリートの組織を強く主張した。//
 (05) レーニンの「意識性」(〈soznatel'nost〉)と「自然発生性」(〈stikhinost'〉)という両範疇は、ニーチェのApollon 的衝動とDionysus 的衝動に対応している。
 これは偶然ではないかもしれない。〈悲劇の誕生〉の1901年のドイツ語版は、レーニンの個人的蔵書の中にあった。(注10)
 〈Stikhinost'〉は〈stikhinyi〉、「自然的」(elemental)という形容詞に由来しており、思考のない(mindless)過程を含意している。
 レーニンは「自然発生性」の危険に警告を発し、それを奴隷性や原始性と結びつけた(LA,p.27,32,46,63)
 彼が術語を用いるとき、「意識」はたんに知覚だけではなく、権力を獲得するための戦略でもあった。
 レーニンは、Bogdanov のように、マルクス主義を活性化するイデオロギー、あるいは動かす神話(mobilizing myth)だと見なした。
 そのいずれも、組織のApollon 的原理を強調するものだった。//
 (06) ニーチェ的マルクス主義者たちとの論争で、レーニンはニーチェ的用語を使い、自分の動的神話を発展させた。
 1905年の革命の間、彼とBogdanov は(フィンランドの)同じ建物に住んだ。そこで彼らは、政治理論、文化、哲学、革命の戦略と戦術を論じ合った。(注11)
 確実に、ニーチェはその討論に入ってきていた。
 レーニンの動的神話は、新しい目標、新しい道徳、新しい政治形態を伴っていた。新しい政治形態—職業的革命家で構成される前衛政党、訓練されて意識が高い陰謀家的エリート、そして資本主義から共産主義の第一段階への直接的移行を指揮するプロレタリアート独裁。
 マルクスは、どの時代にも特有の幻想(あるいは神話)がある、と書いた(Tucker 編,マルクス.エンゲルス読本=MER,p.165)
 レーニンは科学的であれと主張したが、社会主義という対抗神話を生み出していた。
 「『唯一の』選択肢は、ブルジョア・イデオロギーか社会主義イデオロギーか、のどちらかだ。
 中間の経路はない。…。
 非階級の、または階級を超えたイデオロギーなど決して存在し得ない。」(LA,p.29.)//
 (07) レーニンは「社会民主党の二つの戦術」(1905年6-7月)で、〈革命的民主主義的なプロレタリアートと農民の独裁〉を提起した。プロレタリアートだけでは権力を奪取するのに十分でなかったからだ。
 この戦術変更を正当化するために、彼は弁証法的形態で論拠を言い表した。
 「全ての事物は相対的だ。全てのものは流動する。全てのものは変化する。…。
 抽象的な真実なるものは存在しない。
 真実は、つねに具体的だ。」(LA,p.135.)
 Bogdanov も、同じ言葉遣いをすることができただろう。//
 (08) レーニンは同じ論文で、「革命は被抑圧者たちの祭典だ」と宣告した。
 ボルシェヴィキは、「大衆の祭典のための活力、および直接の決定的行路を目ざす仮借なき自己犠牲的闘いを繰り広げる彼らの革命的熱情」を利用しなければならない」(LA,p.140-1)
 「熱情」(ardor)や「活力」(energy)という言葉は、ニーチェ的マルクス主義者たちに好まれた。
 彼はまた、ボルシェヴィキには新しいスローガンが必要だ、と言った(「新しい言葉」のレーニン版)。
 「言葉も、行動だ」。
 「行動に移す必要のある〈直接的スローガン〉に進むことなくして、〈古いやり方で〉「言葉」に閉じ込める」のは裏切りだ(LA,p.134)
 言葉遣いに対するレーニンの繊細さは、ニーチェやそのロシアでの崇拝者たちと共通している、もう一つの分野だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、終生にわたって古典文献学に関心をもった。//
 (09) 現実的にであれ潜在的にであれ、反抗に関するレーニンの定番の言葉は、「粉砕せよ」、「麻痺させよ」、「壊滅せよ」、「破壊せよ」だった。
 彼は、このような乱暴な言葉は「憎悪、反感、そして侮蔑心、…を読者に掻き立てるように、納得させるのではなく敵の隊列を破壊するように、敵の誤りを訂正するのではなく破滅させて敵を地球の表面から一掃するように、計算されている」と語った(レーニン全集第12巻p.424-5)=(日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第5回大会にたいする報告」433頁.)
 Bogdanov の好きな言葉の一つである「調和」は、レーニンの語彙の中にはなかった。
 Gorky は、レーニンの言葉を「鉄斧の言語」と呼んだ。//
 --------
 (注5) Robert Service, Lenin -A Biography, p.203.
 (注6) Ricard Pipes, ed, The Unknown Lenin, p.4.
 (注7) Service, p.203-4, p.376.
 (注8) In Pipes, p.153.
 (注9) Dmitri Volkogonov, Lenin, p.22 から引用。
 (注10) Aldo Venturelli, in "Nietzsche Studien" 1993, p.324.
 (注11) Service, p.183.
 ——
 第一節②へとつづく。

2475/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ④。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部全体の「前記」の後の、最初の章である第5章の「序」へと進む。
 ——
 第5章・現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 (序)
 「資本主義的私有財産の弔鐘が響く。搾取者は搾取される。」
 —〈Tucker 編・マルクス・エンゲルス読本=MER>、p.438.
 「小さい政治の時代は終わった。次の世紀には、地球の支配を目ざす闘いが生じるだろう。—大規模な政治への衝動。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.131.
 「しかしながら、本当の哲学者は司令者であり、立法者だ。彼らは言う、かくして、こうあるべきだ。…。彼らは創造的な手で、未来を掴みとろうとし、かつてあり今あるものは全て、彼らの手段になる。道具であり、金槌だ。彼らが『知ること』は創造することであり、『創造すること』とは立法することだ。真実に向かう彼らの意思は—権力への意思。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.136.
 <一行あけ>
 (01) 戦争と革命の苦難の中で、新しいイデオロギー上の金属が鋳造された。その中には、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの最も暴力的で最も権威主義的な要素が凝固しており、マルクス主義の人間的要素やニーチェのリバタリアン的(libertarian)要素は捨て去られていた。
 この金属鋳造に貢献したのは、革命的知識人たちによる意思の神格化、戦争(第一次大戦と内戦)が持った残虐化する効果、最適者の生き残りというダーウィン主義の考えだった。
 どちらの側にとっても、内戦は生き残りを賭けた闘いだった。//
 (02) ボルシェヴィズムとはマルクス主義を夢想主義的かつ黙示録的に解釈したもので、必然性の王国から自由の王国への飛躍だけを意図していた。
 この解釈が含んだのは、民主主義的社会主義の「柔らかい」価値とは反対の英雄的で「硬い」価値を選好する、ということだった。
 もちろん、ボルシェヴィキたちはニーチェを経てマルクス主義に到達したわけではなかった。しかし、ニーチェはマルクス主義についての彼らの「硬い」解釈を促進し、彼らの権力への意思を強化した。
 権力なくしては、社会主義という約束した土地へと大衆を導くことはできない。
 ニーチェはまた、マルクス主義、救済のドラマと歴史を捉えるその見方の神話的な浸入を促進し、人間を改造するという永続的で過激な夢想に対して新しい駆動力を与えた。//
 (03) この章で論述されるボルシェヴィキ—レーニン(Vladimir Ilich Ulianov、1870〜1924)、N・ブハーリン(Nikolai Bukharin、1888〜1938)、L・トロツキー(Lev Davidovich Bronsthein。1879〜1940)—にとって重要なのは、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの著作に見出される思想だった。すなわち、ブルジョアの道徳性に対する侮蔑、闘争の強調、血と暴力のレトリック、プロメテウス主義、「未来志向」、そのコロラリーである「道具的」残虐性。後者はヘーゲル=マルクス主義の歴史主義の用語で正当化された。
 エンゲルスはかつて、歴史は全ての女神たちのうちの最も無慈悲なものだと述べた。
 「歴史は堆積した死体の上へと勝利の歯車を進める。戦争のときだけではなく、『平和的な』経済発展の時代でも。」
 これらのボルシェヴィキたちは、大戦は「歴史の法則」の歩みを加速し、後進国ロシアに社会主義を生み出すよい機会だと考えた。
 大戦はプロレタリアートを鍛え、活発な闘いへと追い込むだろう。
 トロツキーは戦争を「学校」に譬えた。それを通じた「恐ろしい」現実によって、新しいタイプの人間が作り上げられるのだ。
 レーニンとブハーリンも、同様の気分を表現した。//
 (04) レーニンは、権力への意思と自らの方法での神話創造を具現化した人物だった。
 ブハーリンはニーチェ思想に慣れ親しんでおり、Bogdanov を崇敬していた。
 トロツキーが初めて公にした論文の表題は、「超人(Superman)に関する若干のこと」だった。
 彼らは全員が、権威主義的で、暴力的で冷酷な文章節を拡大し、漸進主義的な文章部分を抹消するレンズを通じて、マルクスやエンゲルスを読んだ。
 彼らが好んだ言葉—「奴隷」、「隷属」、「主人」、「権力」および「意思」—は、マルクス主義やニーチェ、および革命的知識人たちの気分(ethos)と共振していた。
 レーニンは「我々の奴隷的部分」への憎悪を明確に語り(Tucker 編・レーニン選集、p.197-8)、Chernyshevsky がかつてロシアを「奴隷たちの国」と呼んだことを思い起こさせた。
 ブハーリンは、「奴隷の心理と慣習がいまだに深く染み込んでいる」と不満を語った。
 労働者たちは新しい主人になるように再生産されなければならない。
 トロツキーは、こう宣言した。「きみたちはもう奴隷ではない。もっと高く立ち上がり、人生の主人となれ。上からの命令を待つな。」
 一定程度のボルシェヴィキたちが採用した美名—スターリン(Josef Djugashvili)、モロトフ(Viacheslav Skriabin)、カーメネフ(Lev Rosenfeld)—は、それぞれロシア語の鋼鉄、金槌、硬石に由来していた。
 彼らは、プロレタリアートが用いる素材または道具を含意せていた。そしてまた、ニーチェの命令である「頑強(hard)であれ」にも反応していた。
 革命の後、ボルシェヴィキたちは「司令者かつ立法者」になり、大衆は彼らの「道具」となった。
 ——
 第二部・第5章の「序」が終わり。

2474/西尾幹二批判047—根本的間違い(続4-2)。

 (つづき)
 六 2 ソ連崩壊=「冷戦終了」により時代状況は変化したのであって、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二と考えられるものは、こうだ。
 西尾がA「文芸評論家」あがりで国際情勢や国際政治にまで「口を出す」評論者となったこと自体、そしてBいわゆる<保守論壇>の中で何らかの意味で「目立つ」、すなわち「特徴のある」・「角の立つ」文章執筆者であろうとしたこと。
 前者Aについて
 2017年の「つくる会」20周年会合への挨拶文にある<「反共」だけでなく最初に「反米」も掲げた>という部分に着目して叙述してきてはいるが、既述のように2002年頃の西部邁や小林よしのりとの関係では「反米」という<思想>自体の真摯さは疑わしい。
 だが、その後、引用はしないが自ら「親米でも反米でもない」と一方では明記しつつも、「反米」的主張を強く述べ続けているのも確かであり、その反面で「反共」性は弱くなっている。
 また、国際政治や中国に対する見方も、もともとは一介の「素人」だったらしく、懸命に「学習」したのかもしれないが、ブレがある。あるいは一貫していないところがある。
 例えば、2007年のつぎの文章は、どう理解されるべきなのだろうか。
 「ソ連の崩壊は第三次世界大戦の終焉であり、本来なら国際軍事法廷が開かれ、ソ連や中国の首脳の絞首刑が判決されるべき事件であった。…。
 かくて、ソ連と中国は『全体戦争』の敗北国家でありながら、ドイツや日本のような扱いを受けないで無罪放免となり、大きな顔をしてのうのうとしている。」
 月刊諸君!2007年7月号。
 明らかに、ソ連と中国を「敗北国家」として一括している。
 ソ連が崩壊し諸国に分解して、東欧諸国とともに「社会主義」国でなくなったとして、中国も「敗北」して「社会主義」でなくなったのか??
 日本共産党は<後出しジャンケン>をして1994年にスターリン施政下(たぶん1931-32年頃)以降のソ連は(じつは)<社会主義国でなかった>と認識を変更したが(何とソ連の期間全体の9/10!)、中国もそうだったとは言わなかった。1990年代末には友好関係を回復して「市場経済をつうじて社会主義へ」進んでいると認定した(現在では、「社会主義を目ざす国」性自体を否定している)。
 おそらく西尾幹二は、当時は「文学」・「文芸」か別のことに熱中していて、つぎのことにも無知なのだろう。上記と同様に時期等を確認しないままで書く。
 ソ連と中国は国境で「戦闘」をするなど、対立していた。米ソではなく米ソ中の三角関係があった時期があった(日本の対中外交にも当然に影響を与えた)。中国はソ連を「社会帝国主義国」と称し、「社会主義」国ではないと非難していた(日本共産党が間に入って宥めていた)。中国の首脳が、日米安保条約を容認すると明言したこともあった(対ソ連を考えてのことだ)。
 もっとも、同じ2007年に、つぎのようにも書いた。
 「今後日本人はアメリカに依頼心をもたないだけでなく、共産主義の枠組みの中にある中国に対してはより自由で、…一段と大きい距離を持っていなければならない。」
 月刊諸君!2007年11月号
 ここでは、「共産主義の枠組み」はなおも存在しており、中国はその中にある、とされている。
 また例えば、近年の2020年の書物の緒言の中に、一読しただけでは理解することのできない、つぎの一文がある(実際の執筆は2019年11月のようだ)。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)、p.21-22。
 「1989年の『ベルリンの壁』の崩壊以来、なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか、アジアには主義思想の『壁』は存在しないせいなのか、と世界中の人が疑問の声を挙げてきたが、共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版だった、と、今にしてようやく得心の行く回答が得られた思いがする」。
 よく読むと、1989年の『ベルリンの壁』崩壊=「中国という国家資本主義政体の出現そのもの」と、ようやく納得した、ということのようだ。
 そもそも欧州とアジアは同じではないのだから、前者と「同じドラマ」が後者で起きると考えること自体が、西尾の本来の「思想」と矛盾しているだろう(「世界中の人が疑問の声を挙げてきた」かは全く疑わしい)。秋月はまだ「起きて」いない、と思っているけれども。 
 問題は「共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した国家資本主義政体」(の出現)という理解の仕方だ。
 この部分の参照または依拠文献は何なのだろうか。
 中華人民共和国という国家の性格または本質について疑問が生じ、議論があることは分かる。だが、こんなふうに単純化し、かつそれで「得心」してもらっては困る。
 上の「出現」の時期について西尾がもう少し具体的にどこかで書いていたが、所在を失念した。
 だが、いずれにせよ特定のある年とすることはできないだろう。「社会主義(的)市場経済」の出現時期も私には特定できないが、鄧小平がいた1992-3年頃だろうか。そうだとすると、2019-20年になってようやく納得した、というのはあまりに遅すぎる。それとも、GDPが日本を追い抜いた頃なのか。しかし、そうなる前に、「政体」自体は出現しているはずだろう。
 西尾幹二の中国を含む国際政治・国際情勢に関する「評論家」としてのいいかげんさ・幼稚さを指摘している文脈なので、上の議論には立ち入らない。
 但し、つぎの諸点を簡単に記しておく。
 ①「国家資本主義」というタームの意味に、どれほどの一致があるのだろうか。
 レーニンのNEP政策のことを「国家資本主義」と称した時期や人物もあった。1949年の建国時にすでに「国家資本主義」という規定の仕方も中国自体にあった。そうであるとすると、今にしてようやく気づくことではない。
 ②西尾幹二によると、現在の中国は資本主義国でも社会主義国でもない、両者を「合体させて能率の良さを発揮した」国家らしいが、これは現在の中国を美化しすぎているだろう。
 ③上のような国家「政体」の出現が、なぜ「ベルリンの壁」崩壊と同じドラマであるのか、さっぱり分からない。「ベルリンの壁」崩壊→旧ソ連圏での「社会主義」諸国の消失だとすると、西尾によっても中国の半分は今でも「社会主義」国なのであって「同じ」ではない。
 ④1921年に中国共産党は設立されたとされ、昨2021年、現在もある中国共産党は創立100周年記念祝典を行った。
 ⑤結党の指導者で、かつ1949年に中華人民共和国を建国し国家主席となった毛沢東は現在もなお、「否定」されていない。
 共産党の歴史、戦後の中国の歴史は現在まで(法的にも)連続して続いている(この点、人々の感情や意識の次元は別として、旧ソ連を「否定」して現在のロシアは成立しており、両者の間に全体的な法的連続性はない)。
 ⑥テレビで見聞きした記憶によると、昨年の中国共産党100年記念式典で「共産主義実現に邁進する」旨が宣言され、同日に共産党に加入した一青年は「人生を共産主義に捧げる」、インタビューに答えて語った。
 以上。西尾幹二に見られる旧ソ連または「共産主義」に対する<甘さ>には、別に言及するだろう。
 ——
 後者Bから次回はつづける。

2473/西尾幹二批判046—根本的間違い(続4-1)。

 (つづき)
 六 1 ソ連崩壊により時代は新しくなり、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ(但し、既述の2002年時点での重要な例外がある)、という西尾幹二の間違いの原因・背景の第一は、<日本会議>とその基本的見解だ、と考えられる。第一という順番に大した意味はない。
 「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年末に発足したのを追いかけるように、翌1997年5月日本会議が設立された。
 「つくる会」と日本会議は、したがって前者の会長の西尾幹二は、椛島有三を事務局長(現在は事務総長)とする日本会議と、2006年に「つくる会」が(当時の西尾によると)同会に潜入していた日本会議グループによって実質的にに分裂する直前までは、友好関係にあった。
 その日本会議は設立宣言の一部でこう謳った(今でも同サイト上に掲載されている)。 
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時 代に突入している」。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という一文によって明記されているわけではないが、<マルクス主義の誤りは「余すところなく」暴露された>とあるのだから、「マルクス主義」についてもはや研究・分析する必要はない、という意味も込められている、と見られる。
 そして、日本会議の運動は実際に、「反共」ではなく「日本」・「民族」を正面に掲げるものだった。すなわち、資本主義と社会主義(・共産主義)の対立から<諸国・諸民族>の対立へ、という基本的図式で時代の変化を理解する、というものだ。
 この点が、1990年代半ば以降の(<日本文化会議>が存在した時期とは異質な)日本の「保守」派の少なくとも主流派の主張または基調となる。産経新聞や月刊正論の基調も、今日までそうだと感じられる。反中国ではあっても、「反共」の観点からするのと、「中華文明」に対する<日本民族>の立場からするのとでは大きく異なる。なお、余計ながら、月刊正論(産経)の近年の結集軸はさらに狭まって、<天皇・男系男子限定継承>論(への固執?)だろう。
 「反共」意識が強くて<親英米派>の中川八洋は少数派だったと見られる。というよりも、「保守」の人々の多くが大組織と感じられた?日本会議に結集した、または少なくとも<反・日本会議>の立場をとらなかったために、中川八洋は少数派に見えた(見えている)のかもしれない。
 西尾幹二もまた主流派の輪の中にいたのであり、既述のように、西尾会長時代の「つくる会」と日本会議は友好・提携関係にあった。
 「つくる会」の分裂後の2009年の対談書で西尾は、「残された人生の時間に彼ら(=日本会議)とはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」とまで発言した。
 しかし、世界情勢の理解という点では、日本会議(派)と基本的には何ら変わらなかった。
 例えば、月刊正論2009年6月号。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権も…軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 また、例えば、月刊正論2018年10月号
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残って」いる、という点で渡部昇一と一致しました。
 このような状況・時代の認識において、西尾幹二は基本的なところで日本会議(派)と共通したままだ。
 西尾が「産経文化人」としてとどまっておれるのも、日本会議と共通するこうした基本的な理解+<天皇・男系男子継承>論の明確な支持、による、と考えられる。
 ついでながら、西尾の日本会議に対する意識は、2009年段階での「残された人生の時間…いっさい関わりを持たないでいきたい」から、近年ではまた?変化しているようだ。
 2019年1月時点で公にされたインタビュー記事で、「つくる会」の分裂に関して、こう発言している。 
 2019年1月26日付、文春オンライン(今でもネット上で読める)。
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。
 だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない
 それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。
 しかしですね、私は『つくる会』に対して…だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、…を目ざす思想家としての思いがある。
 だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。そこが私の愚かなところ。」
 以上が、関係する全文の範囲。
 「この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして」おけばよかったかもしれない、と発言しているのは全くの驚きだ。
 かつまた、そうするのは「ずるく立ち回って妥協する」ことで、そうできなかったのは自分の「思想家としての思い」と合理化、自己正当化し、「愚かなところ」と卑下?しているのは、 じつに興味深い。
 ——
 第二の原因・背景へとつづく。

2472/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「前記」の試訳のつづき。
 ——
 (前記)②
 (08) Proletkult の指導者の一人のPavel Kerzhentsev(P.M.Lebedev、1881〜1940)は、プロレタリア文化の理論家だと自負し、1904年以降はボルシェヴィキ党員だった。彼は、その書物と同名の「創造的劇場」(〈Tvorcheskii teatr〉)を提案したが、これは、「創造的自己活動」(〈samodeiatel'nost'〉)と階級意識を特徴とするニーチェ/ワーグナー/Ivanov 症候群のプロレタリア版だった。
 Kerzhentsev のような活動家たちにとって、中心となるニーチェ思想は、「権力への意思」だった。
 彼らの何人かは戯曲を書いたが、それらでは革命は独りの強い個人によって推進され、どの場合でも最も有効な影響力をもったのは〈ツァラトゥストラ〉だった。
 「自己活動」(Self-activity)は決まり文句になったが、それが何を意味し、どうやってそれを促進するかについては、一致がなかった。
 Kerzhentsev が求めたのは、プロレタリア演劇は全日働く労働者が書いた戯曲によるものに限られ、労働者の役者と労働者の演出家と労働者の音楽家(職業人ではない者)だけを用いることだった。
 彼は、オペラやバレェは時代遅れになったと主張して、明確なプロレタリア芸術の一様相として新しい劇場の形態を労働者たちが発展させるのを期待した。//
 (09) Lunacharsky とIvanov は、芸術家とApplo やDionysus の人々が一つになったものが大衆祭典だと考えた。 
 Lunacharsky は大衆祭典は扇動のための力強い手段だと見なし、扇動を「聴衆と読者の感情を掻き立て、彼らの意思に直接に影響を与えること」と定義した。プロパガンダの全内容を「真白い心に」運び、「全ての色で輝かせる」ものだ。
 彼は党に対して、ポスター、写真、彫像、「音楽の魔力」で「党を装飾する」こと、映画やリズムの新しい芸術様式を用いること、を強く要求した。
 資金を利用できるようになったとき、彼は、「社会の霊魂(soul)」に影響を与えるべく大きな教会寺院を建設するのを望んだ。
 彼は1919年に、心理的には単純な分野でのプロパガンダ作品を生むために、メロドラマ・コンテストを行うことを発表した。//
 (10) Evreinov は、最も多くの大衆祭典を監督した。そのうち「冬宮への突撃」は革命三周年記念のものだった。これには6000人の「配役」があり、ペテログラード軍事地区(PUR)の政治局の後援を受けていた。
 その他の大衆祭典もあった。それらは、祝ったあとで、「解放された労働の神秘」、「第三インターナショナル」、「専制政打倒」、および「プロメテウスの炎」と冠された。
 祝典のいくつかは、世界じゅうの諸国に示すために新しいテープに録音された。
 大衆祭典は「自己活動」を特徴とするものと想定されていた。しかし、演技者の役割は演出者によって削ぎ落とされ、大量の厳しい統制があった。
 Lunacharsky は、こう呟いた。「一般的軍事指令の方法で、数千、数万の人民がリズム正しく動く大衆祭典を我々は創る。そのときに、どんな人物が祝祭儀礼を引き受けるかをまさに考えよ。—大衆は群衆ではなく、一つの明確な思想(idea)を真摯に有する、厳格に統制された、集団的で平和的な軍隊だ」。//
 (11) 政治的演劇と宣伝列車、宣伝船は、国じゅうに革命のメッセージを運んだ。
 赤軍の演劇団が、一つの特殊単位として構成された。
 役者が、前線での上演のために派遣された。
 演劇化された模擬裁判または「扇動裁判」が、赤軍で始まった。
 それらは1920年までに、定期的な政治的儀式になった。
 「弁護人」、「訴追官」と「証人」は、各自の文章を朗読するというよりも、即興で歌った。
 Julie Cassiday によると、「扇動裁判」は劇場に関するIvanov の考えを適用したものだった。
 熱心な赤軍劇場組織者のAdrian Piotrovsky(1898〜1938)はTadeuz Zelinski の非嫡出の息子で、いく人かのニーチェの学問的崇拝者の一人だった(Zelinski はモスクワ大学の古典文献学の教授だった)。
 Meyerhold は、政治教育のために新聞の切り抜き、ラジオ速報および特定の政治的英雄や悪役の仮面を用いた。
 政治的演劇が求めたのは、極端な光と暗闇、自由と隷属、善と悪、救世主と悪魔だった。//
 (12) 政治的活動家たちは、芸術と科学の民衆化や労働者の創造性の奨励によって創出される「プロレタリアのアテネ」について語った。
 ポスター、詩、戯曲は、典型的に省略したニーチェの観念であるプロレタリアの超人(superman)を称賛した。この観念は、民俗伝承上の巨人(giant)のような大きさや力の強さではなく、偉大な文化的創造性をもつ人物を指していた。
 以前は〈Miriskusnik〉(芸術の世界運動の会員)だったBoris Kustodiev の「ボルシェヴィキ」(1918年)は、よく知られている例だ。
 Vladimir Lebedev の「ロシア前線を防衛する赤軍と艦隊」(1920年)の特徴のない顔は、〈太陽に対する勝利〉の強人たち(strongmen)のそれを思い出させる。
 Lazar el Lissitzky は、彼のポスター「赤の楔で白をやっつけろ」(1919年)で、政治的プロパガンダに幾何学的様式を採用した。//
 (13) 赤軍の学校の研修講師の中には、銀の時代(the Silver Age)に広がった知識人たちがいた。
 カリキュラムの特徴は、政治的用語(闘争術)、文学、演劇、音楽、身体文化(競技)にあった。
 カリキュラム開発者のNikolai Podvoisky(1880〜1948)は、啓蒙人民委員部およびProletkult と緊密に連携した。
 大衆祭典や大衆競技の熱狂者であるPodvoisky は、子ども用の居住区画を経営することもした。そこでは、「思弁家に死を」という彼の非難が連呼された。
 新時代の全ての文筆関係者と同じく彼は言語に敏感で、「我々の言葉は我々の最良の武器だ」と公然と述べた。
 「言葉は敵の隊列を爆破し、追い散らす。敵の気分を解体し、神経を麻痺させ、敵の戦陣に追い込んで、階級の内部争いへと分解させる。」
 共産主義青年同盟(Komsomol)の同盟員たちは自分たちを前衛の前衛だ、新しい文化の勇敢な創造者だ、と見なした。
 ニーチェの戦士の気風(ethos)は共産主義青年同盟の詩や散文に充満しており、それらには、ニーチェ的な因習破壊主義や若者崇拝(cult)が伴っていた。
 赤軍の学校と共産主義青年同盟は、青年たちに対して重要な知識情報上の影響力を持った。//
 (14) レーニンは、ワーグナー好き(Wagnerophile)だった。
 1920年に彼は、倒れた革命の英雄たちのための花輪置き儀式を主宰した。そのときには、Peter & Paul 要塞からの礼砲を背景にして、Siegfried の葬送行進曲(〈神々の黄昏〉より)が演奏された。
 レーニンはそのように劇化して、第8回ソヴェト大会(1920年12月)でロシアの電化を発表した。
 その大会は寒くて薄暗いBolshoi 劇場で催されたのだが、陰影の中にまばゆい光が舞台をこうこうと照らし、代議員たちの視線を巨大な地図に向けさせていた。その地図には、10年後までに電化されるロシアが描かれていた。
 モスクワの発電能力は、表示装置がどこかで切れてしまうほどに小さかった。
 紙が不足していたにもかかわらず、GOELRO(ロシアの電化に関する国家委員会)の50頁の梗概文書が、代議員に対して5万部、配布された。
 レーニンが、しばしば引用される「共産主義とは(=)ソヴェト権力プラス(+)全国土の電化だ」という声明を発したのは、このときだった。
 彼は、電化によってロシアが経済的、政治的、そして文化的に変革されることを期待した。 
 GOELROの電化(electrification)の計画はあまりに壮大なものだったので、反対派は「電気作り話」(electrofiction,〈elektrofiktsiia〉)と称した。//
 <一行あけ>
 (15) ソヴィエト史の「英雄の時代」(革命と内戦)が終わるまでに、文化は完全に政治的なものになった。
 「前線」、「司令」その他の軍事用語が、言葉の世界を覆った。
 文筆家や芸術家たちは、政府の資金援助を求めて、国有化された印刷媒体の利用を求めて、紙の配給を求めて、競い合った。
 対抗する全ての芸術学校が、プロレタリアートのために発言した。
 未来主義者たちは芸術への政府介入の廃止を要求したが、自分たちが動かす「芸術に対する独裁」を欲していた。
 Proletkult の熱狂者たちもまた、同じだった。
 Lunacharsky は、異なる諸グループの調整を試みた。それを理由として、Kerzhentsev は彼を「右翼主義」だとして非難した。
 政治への無関心は、受け入れらることではなかった。//
 (16) 論者たちは、ボルシェヴィキ革命は根源的な力だと叙述した。そしてしばしば、Blok が「根源と文化」(1908年)でそうしたように、「根源的」なものをDionysus 的なものと関連づけた。
 頑強さ、大胆さおよび意思が、寛容性、人格的統合、自己発展および侮辱を忘れる能力といったその他のニーチェ的美徳を表現した。
 敵に対する残忍さは、神聖な義務となった。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーは、マルクス主義とニーチェの新しい融合形態を生み出した。
 ボルシェヴィズムを超えて進むことを望む芸術家や知識人たちは、「精神」革命や「文化」革命の必要性を説いた。これら二つの言葉は、相互交換が可能だった。//
 ——
 第二部・「前記」終わり。前記(見出しなし)は、p.117〜p.124。
 

2471/西尾幹二批判045—根本的間違い(続3)。

 (つづき)
  いくつか留保を付しておく必要がある。
 第一に、<根本的間違い>と言っても、それは西尾幹二における日米関係、外交、国際情勢の把握についての<根本的間違い>だ、ということだ。
 そして、西尾はこれらに関する専門家ではなく、おそらくは「頼まれ仕事」として、つまり依頼・発注・注文を受けて執筆した、「請負の」文章としてすでに引用した文章を書いたのだろうから、その点は割り引いた上で論評する必要がある。
 したがって、第二に、西尾が「商売」として執筆した文章に他ならないことに留意しておく必要があろう。
 第三に、西尾幹二について注意を要するのは、「事実」・「現実」や「歴史」についての把握の仕方には独特なものがあり、レトリックによって読者は気づかされずにいることがあっても、多くの(「文学」者以外の)健全な?読者の「事実」(・「現実」)・「歴史」に関する基本的な感覚・意識とは異なるところがある、ということだ。
 この点に関連して興味深いのは、個人全集刊行開始を記念した遠藤浩一との対談で、西尾自身がこれまでの自分の仕事は全て「私小説的自我の表現」だったと明言していることだ。
 月刊WiLL2011年12月号、p.242〜。(ワック)。目次上の表題は「私の書くものは全て自己物語」
 第四に、より本質的なこととして、西尾幹二は自らを「思想家」と主張し、またそう思われたいようで、また『国民の歴史』(1999)の前半は「歴史哲学」を示すものと2018年に自分で明記しているが(全集第17巻・後記)、そこでの「思想」・「哲学」は西尾においていかほど真摯なものかは、厳密には疑わしい、ということだ。
 西尾幹二における<反共・反米>性のうち、<反共>の他に<反米>性にも疑問符が付くことは、予定を変更して、別に扱う。
 但し、簡単にだけ触れると、西尾が「つくる会」会長時代に西部邁や小林よしのりが「つくる会」を退会したのは、西部・小林がより<反米>の立場を採ったのに対して、西尾幹二は明確に、より<親米>的立場を主張するという意見対立が生じたからだった(と思われる)
 その際に西尾は小林よしのりが「人格攻撃」と理解してやむを得ないと(秋月には)思われる文章を書いた。これには、今回は立ち入らない。
 興味深く、また注目されるのは、2001年9月11日事件後のアメリカの「対テロ戦争」を批判しない理由を、西尾がこう明記していることだ。
 以下は、すでにいくつか紹介・引用したように、さんざんにアメリカを歴史の悪役化し、その「陰謀」国家性を指摘している西尾幹二自身の、2002年時点での文章だ。全集に収載されているのか、その予定であるのかは分からない。西尾が会長時代の、かつ「つくる会」関連文章だが、少なくとも第17巻・歴史教科書問題(2018年)には収録されていない。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない
 正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 (小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002年12月)、p.75 参照)
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 さて、先に紹介引用したように、西尾幹二はアメリカや中国、日米安保条約についてこう書いた。
 ①2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカの呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 ②2009年—「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります。加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。
 ③2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。」
 また、2013年に、10年後(2022-23年)の日本をこう「予測」した。
 ④「やがて権力〔アメリカ〕が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 上の④は確言的にせよ「予見」だろうから省くとして、例えば①〜③はどうか。
 論評は簡単だ。上掲の2002年の文章を知ると、萎縮してしまうけれども。
 間違いである。
 かつまた、西尾が2017年に放った(つくる会は)「反共に加えて反米も初めて明確に打ち出した」という豪語の関係では、こうだ。
 矛盾している。 どこに「反共」があるのか。
 したがって、問題は、こうした結論的論評ではなく、西尾幹二はなぜ間違った、あるいは矛盾する言辞を綴るのか、ということになる。
 自らの本来の「正しい」「思想」を例外的に放棄することを正面から肯定する2002年の文章を照合するとかなり虚しくなりもするが、それはさて措いて、以降でこの問題を続けよう。
 ——

 五1を五に、五2を六に変更(1/16)。

2470/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部の最初から試訳する。
 第一部「要約」は、→No.2454
 ——
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 (前記)①
 (01) 戦争での損失が増大し、前線での被害者が増加し、政府の醜聞が次から次へとつづいた。これに伴い、革命が予期されるようになった。
 しかしながら、ツァーリ体制の終焉は、突然にやって来た。
 二月革命(東方暦1917年2月26-29日、西暦同年3月8-11日)は、「二重権力」を生み出して終わった。立憲議会が選出されて招集されるまで支配するとされた臨時政府と、ペテログラード・労働者農民代表者ソヴェトだ。
 秋までに兵士たちはぞろぞろと戦線離脱しており、農民たちは大土地所有者の土地を奪っており、労働者たちは諸工場を掌握していた。
 ボルシェヴィキ革命(東方暦1917年10月26-27日、西暦同年11月7-8日)はプロレタリアートの独裁を打ち立て、ボルシェヴィキの権力を強化し、戦争から離脱しようとしていた。
 1918年3月、ロシア政府はドイツの条件を受諾した。
 ブレスト=リトフスク条約によって、ロシアは、バルト諸国、ウクライナの大部分(穀物地帯)、ベラルーシ、ポーランド、およびトランス・コーカサスの一部を失い、金での賠償金を課せられた。
 ドイツ軍はつぎの11月に撤退し(西部戦線での停戦で要求されていた)、空白が生まれ、「赤」軍と「白」軍が内戦を繰り広げた。
 それが過ぎ去るまで、経済は止まったままで、1300万人が死んだ。その原因のほとんどは、飢餓と伝染病蔓延だった。
 数百万の孤児や遺棄された子どもたちが田園地帯を徘徊し、生き延びるために犯罪に手を染めた。//
 (02) 遡及して「戦時共産主義」と呼ばれた政策は、全面的な内戦の開始の前に部分的には始められており、内戦が終焉するまで続いた。
 いわゆる「戦時共産主義」は、私的な経済取引を禁止した。そして、テロル、強制労働、階級憎悪の煽り立て、階級に従った配給、強制的な穀物徴発を特徴とした。
 「赤」の勝利が間近になるや、反対派が党内に現れ、ロシアじゅうで農民反乱が勃発した。そして、ペテログラードの労働者たちは叛乱する瀬戸際のいるように見えた。
 1921年3月、クロンシュタット海軍基地の兵士たちは「第三革命」を呼号し、「共産主義者のいないソヴェト」や「人民委員制」廃止を要求した。
 クロンシュタット叛乱は鎮圧されたが、レーニンが新経済政策(NEP)を発表するのを早めた。
 穀物の強制徴発に代わる最も重要な手段になったのは、生産を促すための現物税だった。
 徴税後の余剰は全て、地方の市場で販売することができるようになった。
 この変更を理論的に正当化するために(レーニンは数週間にわたってこれを馬鹿にしていたのだが)、彼は失敗した政策を「戦時共産主義」と名づけた。
 NEPを採択した同じ(第10回)党大会は、全ての党内分派を解散するか、さもなくば追放されるべきことを命じた。//
 (03) Bogdanov はどうやら、1917年11月に早くも「戦時共産主義」という語を、侮蔑的な意味で作ったようだ。
 彼はボルシェヴィキ政権をプロレタリアートの独裁と呼ぶのを拒み、新しい〈Arakcheevshchina〉(アレクサンダー一世の統治の間にArakcheev により樹立された悪名高い軍事植民区の喩え)を警告した。
 彼は、党への再加入のいくつかの誘いと、Lunacharsky による、Namprokoms との頭文字語で知られる啓蒙(〈Prosveshchenie〉)人民委員部の職の提示を固辞し、人民委員になる義兄弟〔Lunacharsky〕を批判した。
 Prosveshchenie は「教育(education)」をも意味したが、「啓蒙(enlightenment)」がボルシェヴィキの使命的考えをより伝えていた。 
 Lunacharsky は1905年にレーニンと和解し、1917年8月に再入党していた。
 ボルシェヴィキ革命の1週間前、Lunacharsky はペテログラードに最初のProletkult(プロレタリア文化)会議を招集した。
 Bogdanov は翌年3月にモスクワで同様の会議を組織した。そして9月にそこで、第一回の全国プロレタリア文化会議が開催された。
 Proletkult は党と国家に対して自主的団体だったが(形式的には分離していた)、啓蒙人民委員部によって設立されていた。
 Lunacharsky は一度も党の中央委員会に選出されず、内部者が有する権力を持たなかった。しかし、所管の範囲内で、啓蒙人民委員部による資金の拠出に関して、相当の裁量権を持った。
 ヨーロッパが大戦という野蛮行為へと向かったことは、啓蒙思想への批判が正しかったことを証明していると思われた。
 すなわち、人間は「自然ながらに」理性的でも、善なるものでもない。
 ロシア、ドイツ、イタリアでは、古い秩序の崩壊によって、全ての確立された価値と制度に対するニーチェの挑戦が切実な重要性をもち、完全に新しい秩序の渇望へと至り、それは大胆で勇敢な「新しい人間」によって創出されると考えられた。//
 (04) ニーチェは、ボルシェヴィキたちのマルクスやエンゲルスの読書を彩り、権力を掌握するというボルシェヴィキの決意を補強し、維持させた。そして、一方では「戦時共産主義」、他方では精神的革命の筋書という、全体的な変革を目ざすユートピア的展望をはぐくんだ。
 芸術家や文筆家たちは、ニーチェやワーグナーから拾い集めた技巧を用いて、ボルシェヴィキの扇動や情報宣伝に利用した。
 A・ワリッキ(Andrzei Walicki)は、「戦時共産主義」はエンゲルスの考えから直接に喚起された「偉大な社会的実験」だったと、考察する。その考えとは、必然の王国から自由の王国への跳躍は市場の「無政府状態」を中央集権的計画の「奇跡的な力」に変え、そのことで「人間を自ら自身の主人に」する、というものだった。
 ニーチェは、ボルシェヴィキにこの「跳躍」をする意思を吹き込むのを助けた。
 「戦時共産主義」は、経済問題に限定されなかった。すなわち、新しい人間と新しい文化を生み出すことが想定されていた。
 ニーチェ的な言葉を用いると、「戦時共産主義」は「偉大な文化事業の計画」だった。ボルシェヴィキは数千年ではなく数年以内に完了させようとした、という点を除いては。//
 (05) 初期のソヴィエトの教育や文化の制度は、ニーチェの思想のための導管だった。 
 Lunacharsky は、政府でともに仕事をする芸術家や文筆家を招聘した。
 初めは、Blok、Mayakovsky、Meyerhold、彫刻家のNatan Altman(1889〜1981)、および詩人のRiurik Ivnev(Mikhail Kovalev、1891〜1981)だけが受け入れた。
 他の者たちは、納得して、または政府が唯一の雇い主であるために、あるいは両方の理由で、後からボルシェヴィキへやって来た。
 Meyerhold は、啓蒙人民委員部の劇場部門(TEO)の長になった。
 Ivanov、Bely とBlok は、そこと文学部門(LITO)で仕事をした。
 絵画部門(IZO)は未来主義者たちの仕事領域で、〈コミューンの芸術〉という自分たち用の新聞を持った。
 〈コミューンの芸術〉の編集人でIZO のペテルブルク支部長だったNikolai Punin(1888〜1953) の日記は、ニーチェとの「愛憎」(love-hate affair)を晒け出している。
 象徴主義者と未来主義者たちは、Proletkult の学校やスタジオで教育した。//
 (06) 1918年4月、レーニンは、帝政時代の記念碑を解体する「記念碑プロパガンダ」運動を布令し、革命の英雄、偉人や五月の大衆祭典の記念碑を立て、公共広場を装飾した。
 レーニンはLunacharsky に、Tommaso Campanella の〈太陽の街〉(1602年)から着想を得た、と語った。
 Gorky はその本をイタリアで読み、レーニンとLunacharsky にそれに関して伝えていた。
 最初の記念碑は粘土その他の安価な材料で作られた(レーニンの狙いはプロパガンダであり、永久化することではなかった)。しかし、雨がそれらを洗い流してしまった。
 「鉄の巨像計画」は長持ちする素材を求め、その規模自体で驚愕させることを意図した。
 Tatlin の塔は、その司令部を指示する機能をもつことはもとより、第三インターナショナル(1919年3月結成のコミンテルン)のための巨大な規模の記念碑になるものとされた。
 その大きさ(塔は建設されなかった)は窓から重々しさを放つモデルとなり、バベルの塔を想起させることを意識したものだった。
 その他の神を拒絶する塔も、計画された。
 Proletkult の劇の登場人物は、古い神が死んだことを知ろうと望む者ならば我々の塔に昇らなければならない、と語る。//
 (07) 劇場に関するIvanov の考えは、大衆祭典や政治演劇のかたちで「ブーメランのように返って」きた。
 大衆祭典のための着想には他に、祝典としての劇場というGaideburov のもの、未来主義者の路上演劇、遊戯としての演劇観というEvreinov のもの、Zarathustra(ツァラトストラ)の〈新しい祭典が必要だ〉との言明、ワーグナー好きのR・ローラン(Romain Rolland)やJulian Tiersot がドレフュス事件後にフランスを再統合する方法として再生させようとしたフランス革命時の大衆祭典、などがあった。
 Lunacharsky は〈人民の劇場〉(1903年)というローランの書物を翻訳し、Gorky の会社がそれを1910年に出版した。
 その本は、1919年に、Ivanov の序文付きで再発行された。 
 Tiersot の〈フランス革命の祝祭と歌〉という書物(1908年)も、翻訳された。
 レーニンは、元のフランス語でそれを読んだ。//
 ——
 第二部・前記②へとつづく。

2469/西尾幹二批判044—根本的間違い(続2)。

 (つづき)
 四 2 西尾幹二・国民の歴史(1999年)のあと、2001年に同が会長の「つくる会」教科書が検定に合格する(どの程度学校で使用されるかは別の問題)。
 この最初の版を現在見ることはできないが、当時に全体を読んで、大々的に批判した、<保守派>のつぎの書があった。
 谷沢永一・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(ビジネス社、2001年6月)。
 谷沢の批判は、「絶版を勧告する」ほどに多岐にわたる。
 そのうち、秋月瑛二が絶対に無視できないのは、谷沢が引用する、原教科書にあったつぎの叙述だ。
 ①これまでは資本主義・共産主義の時代だったが「21世紀を迎えた今、これらの対立もとりあえず終わった」。
 ②「ソ連が消滅したことで資本主義と共産主義の対決は清算された」。
 先には1999年と2006年以降の西尾幹二の<根本的間違い>部分を列挙したが、2001年時点での西尾が会長の「つくる会」自体の教科書も、根本的に間違っていた。
 谷沢永一(1929〜2011)は、上の①を、こう批判した。
 「間違いである。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国など、れっきとした社会主義国はまだ残っていて、異常な軍拡を続ける中国、何をするかわからない北朝鮮は、日本にとっても大きな脅威になっている。
 また、上の②を引用したあと、こう書いた。
 「これも同じ理由で間違いである。間違いどころかデマである。
 以上、谷沢著の p.281-2、
 秋月瑛二は、谷沢の指摘は完全に正当だった、と考える。西尾幹二の基本的状況認識と比べて、谷沢は明らかに「正常」だ、と考える。
 谷沢は上のあと、中嶋嶺雄が「中国…に旧ソ連の共産党勢力、北朝鮮、ベトナムなどが連なりはじめ、ラオス、モンゴル、ビルマ、ミャンマーなどの旧社会主義圏も、その戦列に加わりはじめている」と指摘している、と追記している。
 さて、ソ連(および東欧社会主義諸国)の崩壊・解体で終わったのは<対ソ連(・東欧)との冷戦>であって、資本主義対共産主義(・社会主義)の対立はまだ終わっていない、国内でも、レーニン主義政党で「社会主義・共産主義」を目指すと綱領に明記する日本共産党はまだ国会に議席を持っているではないか、とこの欄でいく度か書いてきた。
 西尾幹二らと谷沢永一らと、どちらが「正常な状況認識」を示している(いた)のか。
 なぜ、西尾幹二らは「間違った」のか。むろん、一部は、本質は文章執筆請負業者にすぎないことに理由はあるが。
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 根本的間違いの原因、<物書き>としての西尾幹二の生き方とその限界、「反共」に加えた「反米」の意味合い、などに以降で言及する。
 最後の点では、2002年頃の小林よしのりにも登場していただかなければならない。
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2468/西尾幹二批判043—根本的間違い(続1)。

  狂人にも、器質的に異常な精神障害者=病者の他に、正常な=正気の人格障害者とがあると思われる。いずれでもないとして真面目に受け取るが、西尾幹二の述べる日本をめぐる国際的政治情勢の把握には、根本的間違いがある、と考える。
 この<根本的間違い>にはすでに何度か、触れてはいる。批判024、同031(No.2348、No.2417)など。より本格的に論及しよう。
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  西尾幹二・国民の歴史(1999年)は最後の章で、現代人は自由でありすぎる、という理解を示す。そして、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」等と述べ、空虚と退屈さに向かう、とする。
 それこそ空虚な物語的作文またはレトリックだとして一瞥しておけばよいのだが、「私たちは否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」(全集第18巻、p.633)と断じられると、さすがに首を傾げたくなる。
 そして、その直前に、<根本的間違い>を示す一文がある。
 私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」。
 何と、西尾においては「共産主義体制と張り合っていた時代」は、もうとっくに終わっているのだ。この書物は当初は「新しい歴史教科書をつくる会」の編著でもあったが、のちの2017年に西尾幹二当人は、この会は「反共」のみならず初めて「反米」を明確に打ち出したと豪語?した。
 「反共」とはいったい何のことだったのか。
 ともあれ、アメリカに対して厳しく中国に対しては甘い、あるいはアメリカと中国が同盟してアメリカまたは中国が日本を襲ってきそうだ、という国際情勢の認識を示している。最初から、<根本的に間違って>いるのだ。
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  ①2006年12月、当時の安倍首相の変貌の背景を西尾はこう予想し、アメリカと中国にこう言及していた。 
 「第三が…アメリカの存在です。…これがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちの方が大きい。」
 月刊諸君!2006年12月号、75頁。
 ちなみに西尾は、2007年8月に、既発表文章を集めた、同・日本人はアメリカを許していない(ワック)を刊行している。中国や北朝鮮ではなく、アメリカが「敵」として設定されている。さらに、個人全集第16巻(2016年)に収載。
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 ②2008年12月、『皇太子さまへの御忠言』を刊行した直後だが、西尾はこんなことを書いていた。
 「日本という平和ボケした国家」でも「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機があると思います。
 それは、…アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方をする悪代官になって日本を押さえ込もうとしたときです。」
 しかし、アメリカの国力喪失、軍事的後退によって、その「暇もないうちに日本を置き去りにしてハワイ以東に勢力を急速に縮小するという事態が訪れるかもしれません。
 つまり、このまま放っておいても、日本はアメリカから解放されるのです。」
 撃論ムック2008年11月号西尾・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.149-150。
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 ③2009年8月、麻生首相の時代に、こう回顧していた。
 安倍氏が村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたからでしょう」。
 「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろうと思う」。
 中国訪問、八月以前の靖国参拝、「あれは話し合いが全部ついていたのだと思う」。
 「日本と中国のナショナリズムを鎮めたい日米中経済界の話し合いだと思います」。
 月刊正論2009年8月号、232頁。
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 上の直前の2009年6月には、こう予想していた。
 「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカです」。
 「今は地域の覇権を脅かしている中国、かつての反米国家が米国の最大の同盟国になっているほどに権力構造に変化が生じていることを見落としてはなりません」。
 「中南米から手を引き始めたアメリカは、韓国、台湾、そして最後に日本からも手を引くでしょう
 しかし、その前に静かにゆっくりと敵になるのです。」
 また、つぎのように回顧し、かつ現状を認識していた。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権もこれからアメリカは当てにならないと考え、軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります
 加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。」
 以上、月刊正論2009年6月号、p.98、p.104-5。
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 ⑤2013年、すでに個人全集の刊行を始めていたが、つぎのように西尾は書いた。
 「時代は大きく変わった。『親米反共』が愛国に通じ、日本の国益を守ることと同じだった情勢はとうの昔に変質した。
 私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。

 「親米反共」論者は「政治権力の中枢がアメリカにある前提に甘えすぎているのであり、やがて権力が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。
 わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 西尾・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013年)同・保守の真贋(徳間書店、2017年9月)所収、p.164、p,166。
 ⑥2018年10月、その前に渡部昇一と対談していた西尾は、つぎの点で渡部と一致し、二人で強く訴えた、という。
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残っている」。
 月刊正論2018年10月号(花田紀凱との対談)、p.271。渡部との対談書は所持していない。
 なお、ここでいう「共産主義が潰れた」の中には、少なくとも渡部昇一においては、中国も含められている。
 渡部は2016年の韓国との慰安婦「最終決着文書」を安倍内閣の見事な外交文書だとし、併せて、かつての「対立軸」は<共産主義か反共産主義か>だったが、1991年のソ連解体により対立軸が「鮮明ではなくなり」、中国も「改革開放」によって「共産主義の理想」体現者でなくなり、「共産主義の夢は瓦解した」と明記していたからだ。月刊WiLL2016年4月号(ワック)、p.32以下。No.1413で、既述。
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 四 1 以上は一部であり、探索すればもっと他にもあるだろう。また、個人全集収録の有無等も、一部を除き確認していない。
 それでも、以上のかぎりで、西尾幹二の<根本的間違い>は、私には明瞭だ。
 2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。
 「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。
 アメリカと中国を等距離に置く。これは、韓国大統領・文在寅の米中間の「バランサー」役の旨の発言すら思い出させる。
 上の前提になっているのは、<共産主義はすでに崩壊した(冷戦は共産主義の敗北で終焉した)>という理解だ。
 ここに<根本的間違い>とその原因がある。
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 ここで区切って、四の2から、次回につづける。
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2467/音・音楽・音響⑨。

  昨年12月の全日本フィギュアの男子「規定」で羽生結弦選手が使っていたのは、つぎの曲だった(但し、ピアノ演奏へと編曲したもの)。
 Saens-Saëns, Introduction and Rondo in A-moll op.28.
 この曲は、前回No.2438で記載した「好み」の10曲の中に入っている。
 最も新しく興味を惹いた「美しい」曲に、つぎがある。
 Myaskovsky, Cello Sonata #2 in A-moll op.81.
 Nikolai Myaskovsky という作曲家の名も、これを弾いている、Liliana Kehayova、Marina Tarasova、Natalia Gutmanという三人のCellist の名も知らなかった。Cello の主旋律に、Piano が寄り添ったり、絡みあったりしている。
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  先の10曲よりもずっと前にこの欄で言及したのは、馴染みがまだあった、つぎだった。
 Mendelssohn, Violin Concerto in E-moll op.64.
 これら11曲と上のMyaskovsky,Cello Sonata 以外の、この一年間で聴いて「気に入った」曲を、以下に列挙する。一部は、以前から知っていた。
 ほとんどが聴いた直後にメモしていたもので、聴いたこと自体に、またメモしたこと自体に、種々の偶然はある(体調、気分の状態も影響する)。
 総じて、短調曲が多く、Violin、Cello 中心の曲に偏しているだろう。
 特定の曲・旋律を好きになったり、そうでなかったり、自分も含めて、いったい人間の脳の感覚器官、聴覚細胞、あるいは「美」的感覚・「美」意識というのは、どうやってできているのだろう、と不思議に思う。
 最後の52はViolinist Perlman の全集内のKlezmer曲で、作曲者不明。
 全て、ロシア(・ソ連)を含めての<ヨーロッパ音楽>だ。但し、32のScheherazade には西アジアの風味がある。
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 01 Bach, Violin Concerto #1 in A-moll BWV1041.
 02 Bach, Partita II BWV1004 in D-moll: V Chaconne.
 03 Bach, Harpsichord Concerto in D-moll BWV1052.
 04 Bach, Fantasie & Fugue G-moll BWV524.
 05 Bach, Toccata & Fugue in D-moll BWV565.
 06 Bartok, Romanian Folk Dance Sz.56.
 07 Beethoven, Violin Sonata #4 in A-moll op.23.
 08 Beethoven, Concerto for Violin and Piano #7 in C-moll op.30-2.
 09 Beethoven, Piano Sonata in C sharp-moll op,157.
 10 Beethoven, Triple Concerto in C op.56.
 11 Boccherini, Cello Concerto in Bflat.
 12 Brahms, Symphony #4 in E-moll op.98.
 13 Brahms, Concerto for Violin and Cello in A-moll op,102.
 14 Bruch, Scottish Fantasy op.46.
 15 Chopin, Piano Concerto #1 in E-moll op.24.
 16 Chopin, Impromptu #4 in Csharp-moll op.66.
 17 Dvořák, Symphony #8 in G op.68.
 18 Dvořák, Cello Concerto in E-moll op.104.
 19 Glass, Violin Concerto.
 20 Grieg, Piano Concerto in A-moll op.15.
 21 Grieg, Violin Sonata #3 in C-moll op.45.
 22 Händel, Concerto grosso in G-moll op.6-6.
 23 Haydn, Cello Concerto #1 in C.
 24 Liszt, Piano Concerto #1 in Eflat S.124.
 25 Mendelssohn, Piano Trio #1 in D-moll op.49.
 26 Mendelssohn, Octet in Eflat op.20.
 27 Monti, Csárdás.
 28 Mozart, Symphony #40 in G-moll K.550.
 29 Mozart, Piano Concerto #23 in A K488.
 30 Paganini, Violin Concerto #4 in D-moll.
 31 Prokofiev, Violin Concerto #2 in G op.63.
 32 Rimsky-Korsakov, Scheherazade op.35.
 33 Saint-Saëns, Symphony #3 in C-moll op,78.
 34 Saint-Saëns, Cello Concerto #1 in A-moll op.33.
 35 Sarasate, Zigeunerweisen op.20.
 36 Schubert, Schwannengesange D947, No. 4 Ständchen in D-moll
 37 Schumann, Symphony #3 in Eflat op.97.
 38 Schumann, Symphony #4 in D-moll op.120.
 39 Schumann, Sonata for Violin & Piano in A-moll op,105.
 40 Schumann, Piano Concerto in A-moll op.54.
 41 Schumann, Fantasie in C op.131.
 42 Schumann, Introduction & Allegro for Piano &Orchestra op.92.
 43 Schumann, Violin Concerto in D-moll WoO1.
 44 Shostakovich, Three Duets for two Violins & Piano op.97d.
 45 Shostakovich, Cello Sonata in D-moll op.40.
 46 Tchaikovsky, Symphony #6 in B-moll op.74.
 47 Tchaikovsky, Serenade for String Orchestra in C op.48.
 48 Tchaikovsky, Piano Concerto #1 in Bflat-moll op.23.
 49 Tchaikovsky, Piano Trio in A-moll op.50.
 50 Weinberg, Cello Sonata #2 op.63.
 51 Wieniawsky, Violin Concerto #1 in Fsharp-moll op.14.
 52 Itzhak Perlmann(violin), A Jewish Mother.
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2466/西尾幹二批判042—ニーチェ「研究」。

 一 西尾幹二全集第4巻・ニーチェ(国書刊行会、2012)を一瞥して驚くのは、これがニーチェの「思想」を直接に対象にしたものではなく、いわば詳細な「評伝」にすぎない、ということではない。
 そうではなく、その「評伝」も、『悲劇の誕生』の成立の頃までで、「未完の作品」(p.763)だ、ということだ。R・ワーグナーとの決別とワーグナー批判も出てこない。
 西尾はせめて『ツァラトゥストラ』の直前までは進めたく、準備をしていたが、果たせなかった、と書く。そうだとすると、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『偶像の黄昏』、『反キリスト』は視野に入っておらず、読解不可欠の作品ともされる『力(権力)への意志』に関する「評伝」的研究も、全くされていないことになる。
 なお、この巻の書以前の最初の紀要論文(静岡大学)は第2巻に収載されており、第5巻・光と断崖—最晩年のニーチェ(2011)では表題に即した文章も収められて「権力への意志」を表題の一部とするものもある。しかし、後者でも、「権力への意志」とは何を意味するか等々の内容には全く触れていない。
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  西尾幹二がニーチェの専門家ではなく、ニーチェ全体の研究者でもないことは、以上のことからも明らかだ。
 また、一部の著作を対象にしてすら、ニーチェの「思想」または「哲学」そのものを研究した者でもなかった。
 西尾は自分を肯定的に評価する文章を全集内に残しておくことが好みのようで、上の第4巻の「後記」には同巻所収の書(1977年、42歳の年)を対象とする論文博士の学位授与(東京大学)にかかる審査報告の要旨(1978年)を、他人の文章ながらそのまま掲載している(p.770-。末尾のp.778にも、1977年著のオビの斎藤忍随による推薦の言葉をそのまま掲載している)。
 興味深いのは記載されている審査員だった5名の教員の構成で、独文学科3名(うち一人は、東京大学に残った、西尾と同学年だった柴田翔)、仏文学科1名、哲学科から1名だ。
 これからも明瞭であるように、西尾のニーチェの一部に関する(未完の)書物は、「文学」であり、少しは関連していても、「哲学」研究書ではない。
 また、西尾には『悲劇の誕生』以外にもニーチェの作品の翻訳書がかなりあるが(第5巻参照)、「翻訳」することとニーチェの「思想」を「研究」することとは大きく異なる。
 むしろ、ニーチェの「文学」的研究や「翻訳」に相当に没頭していた人物が(例えば、『悲劇の誕生』翻訳は1966年(31歳)、『この人を見よ』翻訳は1990年(55歳))が何故、いかにして日本史、天皇・皇室、日本の政治、そして国際情勢にまで「口を出す」評論家または<物書き>になっていったのか、に関心が持たれる。アカデミズムからの離反(退走?)でもあるのだが、この点は、別にも触れる。
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  西尾幹二はニーチェ『悲劇の誕生』はのちにまで自分の考え方に影響を与えた旨書いている(全集のいずれかの巻の後記のどこか。よくあることだがその箇所を失念した)。
 下記の対談書で長谷川三千子は、西尾・国民の歴史(1999)の最後は「ニヒリズムで終わっている」という批判があったとして、それを「的はずれ」だとする。
 的確でないのはそのとおりだろうが、そもそもニヒリズムなる高尚な?考えを西尾が示すはずがない。
 「人間の悲劇の前で立ち尽くしている」との自覚をもって本書を閉じるのは遺憾だ。
 この最後の文は、要するに、「悲劇」という語句を西尾が使いたかった、というだけのことだろう。
 ニーチェ『悲劇の誕生』成立までの評伝を最初の書物として42歳の年に刊行した西尾にとって、「悲劇」は20歳代、30歳代を通じて最も目にし、原稿用紙に書いた言葉だったかもしれない。
 そしてまた、<悲劇の前で立ち尽くす>ということの意味を理解してもらおうという意思など全くなく、「文学」的に?、何やら余韻を残して終わっているだけのことなのだ。
 なお、『悲劇の誕生』は、ギリシャ悲劇の消失を嘆き、ワーグナーがその楽曲と歌劇でもってそれを再生(再誕生)させたとしてワーグナーを賛美した著作だ。
 この書の影響は国民の歴史(1999)刊行の翌年にもまだあるようで、同著にはニーチェの名は出ていないはずだが、つぎの本の一部で、ギリシャに関しては、ニーチェにいわせれば」として、長々と1頁余を使って紹介する発言をしている。
 西尾=長谷川・あなたも今日から日本人—『国民の歴史』をめぐって(致知出版社、2000年7月)、90-91頁。
 この部分は、明言はないが、『悲劇の誕生』の一部を要約したものだろう。
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  西尾幹二がどれほどニーチェを読み、理解しているかを疑わせる、ニーチェ関連のこの人の文章は数多いと推察される。但し、この人は、唐突に「ニーチェは神は死んだと言いましたが」と、日本に関する文章の中で挿入する大胆さと勇気だけは、持っているようだ。この点はこの欄ですでに触れた。
 ニーチェは初期にはワーグナーを称賛していて、「年下の友人」のつもりでいたが、のちには決裂し、批判すらするようになる。
 まだこの欄に掲載していないが、F. M. Turner の書物ではワーグナーとのbreak やsplit という単語が使われている。
 このワーグナーとの分裂を、西尾はまさか知らないことはないだろう。
 しかし、小林よしのりによると、彼の『戦争論』〔1〕に関する「つくる会」のシンポジウムはこうだった、という(2002年の小林の離会=脱退より前)。
 新宿・厚生年金会館での「つくる会」シンポジウムは2000人超が詰めかける「熱気」となった。「しかも調子に乗りすぎた西尾幹二が、オープニングのBGMに…ワーグナーの『ワルキューレの騎行』をかけたものだから、異様な雰囲気である」。
 西尾幹二は最近にも、ニーチェは自分にとって特別の意味を持つと明記している。ニーチェとワーグナーの関係くらいは知っているはずの人物が、上のようなことをしたというのは、不思議なことだ。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)、p.220。「西尾幹二」の名はないが、同、p.270 でも触れている。
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2465/西尾幹二批判041—ニーチェの時代。

 一 F・ニーチェ、1844〜1900
 但し、1889年には「精神」に異常をきたして隔離され、それ以降の文章執筆はない。この1889年には、日本では大日本帝国憲法が発布された。むろん、明治時代。
 いずれにせよ、ニーチェは19世紀後半または19世紀の「世紀末」に生きた人間だ。
 G・マーラー(Gustav Mahler)、1860〜1911
 音楽またはクラシックの世界では、今のチェコで生まれて当時のオーストリア帝国を中心に活躍したG・マーラーが、ニーチェの世代にかなり近い。
 三Bと言われるBach, Beethoven, Brahms よりも新しい世代で、ニーチェが一時期に尊敬したR・ワーグナー(1813〜1883)よりも、かなり若い。
 G・Mahler は交響曲の「革命」者ともされる。たしかに、トランペット独奏で始まったり、弦楽器の低いガガガッで始まったりして新奇さを感じさせ、旋律全体も当時としては新鮮だったかもしれない。だが、同時代のSibelius やDebussy 、さらにRachmaninov 、もっと後のShostakovich 等々を聴いてしまっていると、Mahler の交響曲の途中からは意外に単調で退屈だ。より前のR. Schumann やJ. Brahms の方が、俗物の秋月の好みにはまだ合う。
 G・クリムト(Gustav Klimt)、1862〜1918
 絵画の世界では、ウィーンで活躍したクリムトが、ニーチェの世代にかなり近い。
 Mahler 以上に、「革新」性が明確だ。ウィーンの三つの美術館・博物館と「分離派」会館で、この人の絵(額付きでなく、壁面に直接に描いたものを含む)を実際に観たことがある。
 風景画や穏和な人物画には好感をもつが、「分離派」会館地下の「Beethoven Frieze」(ベートーヴェン・フリーズ)となると、俗人には意味不明で、また少し気味が悪い。
 この建物(Secession会館)の入口の上部には、試訳だが、二行のドイツ語でこう書かれている。
 「時代には、それに合った芸術を/芸術には、それに合った自由を」。
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  ニーチェは、19世紀後半または「世紀末」に中部ヨーロッパで生きた人物だった。120年以上前の、ドイツの人だ。
 この時代的・地理的な制約または環境をふまえないと、いくら彼の著作の表面をなぞっても、その意味や、影響力の不思議さを理解することはできないだろう。そもそも、「理解」することのできる内容と文体の著作を残したのか、という問題もありそうだが。
 上に続けると、どの時代でも新しいもの、または「新しいと感じられる」ものは人を魅惑するものだと感じられる。とくに、「(ヨーロッパ)近代」における自然科学の進化、産業や科学技術の発展に伴う、反面としての不安感や閉塞感が増大する中では。
 世紀末または世紀転換期の<芸術>運動として知られるのは、フランスではアール・ヌーヴォー(art nouveau、「新しい芸術」)と呼ばれた。上に挙げなかったが、チェコに生まれてフランス・パリで人気を博したA・ムシャ(Alfons Mucha、ムハ。1860〜1939)の絵画・ポスターは、これの最たるものかもしれない。生地プラハの旧市街地区に、小さなムハ美術館がある。
 アール・ヌーヴォー様式の建築物・装飾物は現在のパリにも多く残っているが、ウィーンの地下鉄カールスプラッツ(Karlsplatz、カール広場)駅の駅舎も、保存されている(はずだ。新しい模造物の傍に、かつての本物を観た)。
 ドイツでは、同時期の同様の芸術運動はユーゲント・シュティル(Jugendstil、「若者(青春)様式」)と呼ばれた。
 三島憲一は下掲書で、これへのニーチェの影響の例として、雑誌『ユーゲント』1895年号のつぎの文章を引用している。そこからさらに抜粋する。
 「ユーゲントは、…永遠回帰の法則にしたがい、…のうちにある。〈いまだ輝かざる多くの曙光がある〉とニーチェは語っている。ニーチェとともに我々は上昇する生のラインに立っているのだ。」
 三島ら・現代思想の源流(講談社、新装版2003)、p.104。
 オーストリアでも上の語は使われたかもしれないが、とくに絵画分野では、在来の美術家組合から離れた「分離派」(Sezession)が1897年に結成され、G・クリムトが代表した。上記のBeethoven F. は1902年の作。
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  これらの芸術運動への参加者がいかほどニーチェを読み、「理解」していたかは、疑わしい。時代の雰囲気、「空気」があったのであり、ニーチェの著作はその形成・促進をある程度助けたのだろう。古い、伝統的なものを疑問視または破壊して、「新しい」哲学・思想を示している(らしき)ものとして。
 また、上に挙げた人物のうちには長生きした人もいるが、ニーチェをはじめとする19世紀後半や、世紀転換期までを生きた人々は、第一次大戦の勃発と「総力戦」、ボルシェヴィキによるロシア「革命」、ナツィスによるユダヤ人ホロコースト、第二次大戦、原爆の開発と投下による惨害等々を、全く知らないままだった、ということには、格別の注意を払っておく必要がある、と考えられる。
 これらを知らずして、「人間」の所業・本質、社会や国家をどれほど適確に論じることができるだろうか。
 西尾幹二は「哲学」を知らない旨書いたことがあるが、西尾が自らを「思想家」で「哲学」の素養もあるかのごとく装っていることの奇妙さを指摘するためで、元来は、上のような20世紀の事件・事態をまるで知らない「哲学」は、歴史学と「教養」の対象にはなっても、現代を論じるためには無効のものだ、役に立たないものだ、と秋月瑛二は思っている。
 かりに何らかの素養があったとしても、西尾幹二にあるのは、「歴史学」や「哲学」の基礎的訓練を受けていない、「独文学」的なニーチェに関する一部だけだ。西尾の書いたものですぐに判明するが、この人は、ニーチェと同じドイツ語圏に属していても、<フランクフルト学派>について、便宜的にハーバマスも含めておくが、何一つ知らないと推察される。
 ニーチェもマルクスも母国語として読解したこの派のドイツの哲学者または思想家の主張、議論に、西尾幹二は「独文学」的にすら、全く言及することができていない。
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  西尾幹二は、せいぜいニーチェ止まりだ。これは大きな欠点だ。
 これは哲学・思想についてのみ指摘しているのはではなく、「発想」や「思考」の方法自体が、せいぜいニーチェ止まりだ、という意味でもある。
 ニーチェの名を出していなくとも、西尾の文章のこの部分はニーチェのこの部分、あるいは別の部分に依拠している、参照している、と感じることがある。
 さらに、そのニーチェ理解にしても、どの程度、正確で適確なものかは疑わしい、と考えられる。西尾幹二を通じて、ニーチェをどの程度「理解」することができるのか。より具体的には、今後触れるだろう。
 ところで、かつてL・コワコフスキフランクフルト学派(アドルノ、ベンヤミン等々、『啓蒙の弁証法』、『否定弁証法』等々)に関する叙述を読んで、ふと、反科学技術(・反文明)、反大衆の点で西尾幹二と似ている(ところがある)と感じたことがある。
 三島憲一の上記引用部分あたりのつぎの表現からも、思わず?西尾幹二を思い出してしまった。あくまで三島の言葉であって私自身の論評ではない。
 ①『ユーゲント』の文章には、「全体として優美で繊細な神経とともに、力んだ内容空疎な誇示がある」。p.104。
 ②ニーチェ支持の〜は、「精神的であると同時に、居丈高なだけで、内容空疎な力み返り」も宿していた。p.109。
 なお、三島は最初の方でニーチェは政治的には「右」にも「左」にも利用され得た旨を書きつつ、最後の文にはこうある。難解だ。三島の政治的立場が反映されているのかどうか。
 「ニーチェの言語の政治的セマンティクスも、政治的な左右の区別に回収されないポテンシャルを捉えて読む必要があろう」。これはベンヤミンの場合より遥かに困難だ。「なぜなら、ニーチェは、共同性と経験の強度の関係の問題を充分に捉えきれず、本人によるものも含めて長期間にわたり、政治的右派によって回収されていたからである」。p.157。
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2464/西尾幹二批判040—「つくる会」運動②。

  西尾幹二個人編集の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)の大きな特徴は、「つくる会」の一定時点以降の自分の文章をいっさい(但し、明記に矛盾する例外がある)収載していないことだ。
 個人全集にはおそらく珍しく、著者自身が各巻にけっこう長い「後記」を付しているが、この巻ではその冒頭で真っ先に、西尾はこう明記する。
 「本巻は『新しい歴史教科書をつくる会』が創立されてから、会長や名誉会長の名で私が総括責任者であることを公言していた約十年間の私の発言記録である」。時期的には、1996年12月から2006年1月まで、の約9年余りにあたる。p.747。
 ただちに生じる疑問は、なぜ上の時期、会長・名誉会長だった時期に限るのか、だ。その論理的必然性は全くない、と言えるだろう。
 なぜか。それは、「後記」の中で「『つくる会』の内紛と分裂」と西尾自ら簡単に書いている(p.759)ものに触れたくなかったからだろう。
 2006年1月以降、西尾が「つくる会」や歴史教科書問題について何ら文章を発表していない、というのであれば、それもやむを得ないかもしれない。
 しかし、秋月ですら、「つくる会」の内紛と分裂について語る文章または発言を含む、つぎの二つを所持している。
 ①西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 ②西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)。
 「つくる会」の分裂が歴史教科書問題と無関係である筈がない。いわゆる「保守的」な歴史教科書が二種出版される事態が発生し、それは現在まで継続しているからだ。
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  西尾幹二は、自分史(自分の歴史)の中に「つくる会」の内紛と分裂を含めたくないのだろう。
 これと全く無関係だったならば、その合理的理由はある。
 しかし、その内紛と分裂に、西尾自身が不可分に、密接に関係していた。
 そしてまた、その問題と関係のない文章だからだろう、歴史教科書には関係する、2006年1月以降の文章を上の第17巻に収載することを堂々と行なっている。
 ①「同会創立二十周年記念集会での挨拶(代読)」(2017.1.29)。p.710-。
 これは容赦してよいかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「高校の歴史教育への提言」(西尾=中西輝政・日本の『世界史的立場』を取り戻す(祥伝社、2017)の西尾執筆「まえがき」)。p.717-。
 これは西尾が会長・名誉会長として、その期間内に書いた文章ではない。
 にもかかわらず、上に引用した「後記」冒頭の明記とも矛盾して、堂々と?収載している。
 結局は、西尾の「個人編集」の嗜好に依っているわけだ。
 西尾が、自分の「つくる会」との関係について、読者が理解してほしいと望むように、「解釈」の素材を取捨選択して収載している。なお、上の①『国家と謝罪』収録文章のうち、重要なものは割愛して、名誉会長退任挨拶状だけは載せている。
 これはおそらく、西尾幹二の「歴史」観と無関係ではない。この「歴史」には「自分史」も含まれる。
 客観的「事実」に接近するのは少なくともきわめて困難で、結局は残された「文章」によって「解釈」されるほかはない、従って、当事者である自らが「つくる会」・歴史教科書問題との関係を証する文章を選んで全集に残すことによって、その「解釈」を(ある程度、または相当程度)操作することができる、と考えているのではないか。
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  ニーチェ『この人を見よ』の冒頭の一節の最後に、こうある。
 「私の言葉に耳を傾けてくれ! 私はこれこれの者であるのだから。
 どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!」
 訳は、丘沢静也・光文社古典新訳文庫によった。
 これを利用させていただくと、西尾はさらにこう言いたいのではないか。
 私の「つくる会」や歴史教科書問題とのかかわりは、全集第17巻に収載した文章の範囲で、それらのみを素材にして理解してもらいたい。どうか、私のことを勘違いしないでくれ!
 なお、文章の取捨選択はもとより、どのような順番で体系的に?それらを並べるかも、「個人編集者」である西尾は十分に留意して、2018年時点での「構成」を行なっている。
 さらに、「後記」では各文章の「読み方」まで親切に?ガイドし、一部にはその「評価」をも自ら書いている。
 どうか、私のガイドに従って、私が指示する留意点に沿って読み、私がすでに書いているように「評価」してほしい、というわけだ。
 「どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!
 --------
 四 付/上の内紛・分裂の経緯は、今後少しは立ち入るが、私にはよく分かっていない。
 上に掲げた西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)にここでは限って、これに関係する西尾幹二のこの時点での発言を、以下に記録しておく。「」内は、そのままの引用だ。全て西尾発言。一文ずつ改行する。段落最後には//を付す。
  「保守はカルト汚染を克服できるか」との見出しの項。p.262-。
 ある若い人からこう聞いた。「ある若い方が日本青年協議会という団体の青年部に入って修行しようとしたときに、西洋の思想家の名前などを挙げると、思いが足りないと言って叱られ、それからいろいろ日本の思想家のことを言っても思いが足りない、あの人たちはだめだと言って、硬直したドグマをたたき込まれるんですね。
 葦津珍彦先生、三島由紀夫先生、小田村寅二郎先生、谷口雅春先生のご意志を受け継ぎ、天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させられて、そして次なることを強いられると。//
 いつ何時も天皇陛下が今、何を考え、何を思っていらっしゃるかを考えて、日々、生き抜いていけと説き、それこそが天皇陛下の大御心に従った正しい生き方であると、若い人たちに説いている。
 平和時にこんなことを強いるのはおかしいと思った。
 こういうのって天皇陛下ご自身が迷惑にお感じになるはずです。…」//
 「いまだにそんなことをやっているグループがあると、目を覆うばかりですが、これが日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です。
 同じ場所にあるんです。
 日本会議と称する一つの団体が何を考えているのか、と不思議でならないですね。」//
 彼らは自分の正体を「隠しているんですね。
 自分たちが隠れて、偉い先生、裁判官とか、大学教授とかを表に並べて、そして実権を握っている事務局は後ろに隠れていて操作しているんです。
 神社本庁も操られているかもしれない。
 それが保守運動を壟断するから困る。
 『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた。
 ひそかに会の幹部に生長の家活動家が送り込まれていましてね。
 新田均、松浦光修、勝岡寛次、内田智の四人で、それにつくる会の事務局長だった宮崎正治がいて、宮崎が日本青年協議会に関係あることは知っていましたが、彼らがみんな生長の家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
 このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったと聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
 宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。
 悪い連中ですよ。」//
 「『つくる会』にもぐりこんでいた生長の家活動家の内田智氏は弁護士で、彼らが引き起こした『怪メール』事件を私が雑誌に公開したら、いきなり口座番号を書いてきて五〇〇万円を振り込め、と法律家らしからぬ非合法スレスレの脅迫をしてきました。
 そのあと『国家と謝罪』という評論集に私が彼らへの批判文を載せたら本を回収せよ、と版元の徳間書店を威嚇しました。
 怪メールといい、脅迫といい、言論以外のめちゃくちゃなことをする連中であることを読者の皆さんにお知らせしておく。
 これが日本会議の連中のやることなんです。//
 問題は周辺の名だたる知識人が彼らの不徳義を叱責するのではなく、『国民新聞』その他で彼らとぐるになって騒いでいる情けなさですね。」//
  「神社本庁よ、カルトと同席するなかれ」との見出しの項。p.278-。
 「私がうすうす感じていた私とは異質な世界に住む異質な人々を、詳しく丁寧に教えていただいて、ありがとうございました。
 世の中の大半の人は日本会議や国民文化研究会や日本政策センターのような保守系のカルト教団のことは名前も知りません。
 私もずっとそうでした。…」//
 「私は個人尊重の人間で、運動家にはなれません。
 宗教団体に近づいたこともありません。
 そんな私が一時期とはいえ教科書改善運動に関わったのは矛盾であり、失敗でもありました。」//
 「教科書に関わったために右のような保守系団体の関係者に次第に知己ができ、催しものにも参加したことがありますが、馴染めないのはなぜだろうかとずっと考えてきました。
 なにしろ関係する知識人、言論人には特殊な教条主義の匂いがあり、幹部やトップがずっと同一で交替しないのも異様さを感じさせます。…
 私は左の政治団体運動が嫌いだったわけですから、ほぼ同じ理由で、右の政治団体運動にも好意を抱くことはできません。」//
 「民主党が政権についた…。…日本会議はどうするのでしょう。
 ことに地方では他に頼るべき保守的組織がないので、日本会議に無考えで参集する人が多いようですが、日本会議は人を集めて号令を発することは好きでも、汗をかくことを好まないタイプの人が多いとよくいわれるのもむべなるかなと思います。
 私は平田さんの説明で正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います。」//
 ——
 以上。

2463/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次④。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。総計872頁(緒言・目次等を除く)。
 目次の④。
 ——
 第四部/行政作用:その他の行為形式
  第13章・法的命令(Rechtsverornung〔法規命令〕)
   第一節・法規範および行政の手段としての法的命令
    1/法規範
    2/行政の手段
    3/画定
   第二節・法的命令の法的前提条件
    1/授権根拠
    2/形式的適法性要件
    3/実質的適法性要件
    4/裁量
   第三節・法的命令の違法と権利保護
    1/違法性
    2/権利保護
  --------
  第14章・公法上の契約
   第一節・法的根拠
    1/行政手続法の規律
    2/社会給付法および公租公課法の規律
    3/都市建築上の契約
    4/その他の適用領域
   第二節・公法上の契約の概念と画定
    1/概念
    2/私法上の契約との区別
    3/公法上の契約の種類
    4/行政行為と公法上の契約の関係
   第三節・国家と国民の間の契約の展開と意義
    1/展開
    2/公法上の契約の意義と問題性
   第四節・公法上の契約の法的前提条件
    1/契約形式の許容性
    2/公法上の契約の形式的適法性
    3/公法上の契約の実質的適法性
   第五節・公法上の契約の違法の法的帰結
    1/行政手続法59条の規律に関する概述
    2/行政手続法59条第2項の無効事由
    3/行政手続法59条第1項の無効事由
    4/欧州同盟法違反
    5/公法上の契約の無効の帰結
    6/行政手続法59条の規律の欠缺の問題性
   第六節・契約関係の処理
    1/履行と給付中断
    2/特別の場合の適応と告知
    3/契約上の請求権の強制執行
   第七節・諸事案の問題解決への言及
  ---------
  第15章・単純(schlicht)行政活動
   第一節・事実行為
    1/概念
    2/法的整序
   第二節・公的警告その他の国家による情報提供活動
    1/概念の明確化
    2/法的許容性
    3/国家の犯罪者情報
   第三節・非公式の行政活動
    1/画定と意義
    2/法的判断
  --------
  第16章・計画と計画策定
   第一節・概説と意義
    1/概説
    2/意義
   第二節・法的整序
    1/計画は法的概念か?
    2/計画の拘束力
    3/計画の法的性質
   第三節・計画保障
    1/計画の存続を求める請求権?
    2/計画の遵守を求める請求権?
    3/過渡的規律や適応への援助を求める請求権?
    4/補償を求める請求権?
  --------
  第17章・行政私法上の行為.資金助成、公的任務の委託
   第一節・行政私法上の行為
   第二節・資金助成
    1/資金助成(Subvention)の概念
    2/資金助成のメルクマール
    3/資金助成の委託
   第三節・資金貸付
    1/二段階理論
    2/選択肢
    3/(我々の)見解
    4/私的銀行の介在
   第四節・その他の資金助成
    1/紛失資金
    2/保証金
    3/物的奨励
   第五節・公的任務の委託
    1/法的根拠
    2/膨大閾値を超えた委託
    3/膨大閾値以下の委託
   第六節・同盟法上の補助金
 ——
 第18章を除き、第四部は終わり。

2462/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次③。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20,überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 目次の③。
 —— 
 第三部/行政作用:行政行為
  第9章・行政行為の概念、意義および種類
   第一節・発展と一般的定義
   第二節・行政行為概念のメルクマール
    1/規律
    2/権力性(hoheitlich)
    3/個別事案の規律
    4/官庁
    5/外部に対する直接の法的効果
   第三節・一般処分
    1/概念
    2/規準となる法
    3/特殊例—交通信号
   第四節・行政行為の意義
    1/法的整序
    2/行政行為の法的特性
    3/行政行為の機能
    4/行政行為と裁判所の判決
   第五節・行政行為の種類
    1/命令的、形成的、確認的行政行為
    2/授益的、負荷的行政行為
    3/審査容認と例外の承認
    4/物的行政行為
    5/受理、確言、内示、予備決定、部分的許可、暫定的行政行為および予防的行政行為
    6/事実的行政行為
    7/州相互の、および国を超えた行政行為
   第六節・行政行為の通知
    1/一般的意味
    2/通知の前提条件
    3/公式の配達
    4/公示
  --------    
  第10章・行政行為の適法性と有効性
   第一節・適法性、有効性、および確定力の区別
    1/適法性
    2/有効性
    3/確定力
   第二節・行政行為の適法性の条件
    1/授権根拠と行政権能
    2/形式的適法性
    3/実質的適法性
   第三節・手続の瑕疵の治癒と重要性
    1/問題性
    2/手続の瑕疵の治癒
    3/手続の瑕疵の重要性(行政手続法46条)
   第四節・違法性の帰結:抗告可能性と取消し可能性
    1/抗告可能性と取消し可能性の根拠
    2/審査請求〔不服申立て〕
    3/取消訴訟
    4/義務づけ訴訟
    5/仮の権利保護
   第五節・例外としての無効
    1/無効の条件
    2/無効の帰結
   第六節・転換と修正
    1/条件
    2/行政手続法47条の法的効果
    3/明らかに修正不可能であるものの修正の限界
   第七節・部分的違法
   第八節・排除
 --------
 第11章・行政行為の取消しと撤回
  第一節・総説
   1/法的根拠
   2/概念と画定
   3/取消しと撤回の対象
   4/部分的取消し
   5/関係者に対する法的効果による取消しと撤回の差異
   6/取消しと撤回の区別
   7/取消しと撤回の法的性質
  第二節・授益的行政行為の取消し
   1/効果と問題性
   2/行政手続法48条による取消しの規律に関する概述
   3/行政手続法48条第1項第2文、第2項、第3項による権利保護
   4/取消し期限
   5/許容と補償
   6/同盟法に違反する行政行為の取消し
  第三節・授益的行政行為の撤回
   1/総説
   2/行政手続法49条第2項と第3項による個別の撤回の根拠
   3/権利保護、補償および許容性
  第四節・負荷的行政行為の取消しと撤回
   1/負荷的行政行為の取消し
   2/負荷的行政行為の撤回
  第五節・手続の再開
   1/問題性
   2/制度
   3/狭義の手続再開(行政手続法51条第1項)
   4/広義の手続再開
  第六節・第三者効をもつ授益的行政行為の取消し可能性
   1/抗告
   2/取消しと撤回
   3/行政手続法50条による特別の規律
 --------
 第12章・行政行為の付款
  第一節・総説
   1/付款の意味
   2/内容本体と付款の区別
  第二節・付款の種類
   1/期限と条件
   2/撤回の留保
   3/負担
   4/負担の留保
  第三節・区別と解釈
   1/修正された評価
   2/解釈:実務での付款の種類
  第四節・付款の許容性
   1/特別の諸規定
   2/行政手続法36条の規律
   3/一般的な適法性要件
  第五節・付款に対する権利保護
   1/判例と学説の対立
   2/連邦行政裁判所の判例
 ——
 以上。第三部、終わり。

2461/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次②。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 現在のドイツで、大学法学部で用いられている、行政法に関する代表的教科書の一つと見られる。2020年版。目次の②。
 ——
 第二部/行政法の基本概念
  第6章・行政の法律適合性の原則
   第一節・法律の優位の原則
   第二節・法律の留保の原則
    1/概念の明確化
    2/根拠
    3/法律の留保の射程範囲と規律密度
    4/個別領域
 --------
  第7章・裁量と不確定概念
   第一節・前記
    1/行政による法律の適用
    2/行政裁判所による統制
    3/法律による拘束の緩和
   第二節・行政の裁量
    1/概念
    2/裁量の前提条件
    3/裁量の意義
    4/裁量に対する拘束
    5/裁量の瑕疵
    6/裁量の収縮
   第三節・不確定法概念と判断余地
    1/不確定法概念
    2/判断余地説
    3/判例上の判断余地
    4/事実上取消し得ない場合の行政裁判所による統制の限界
   第四節・制約と解決
    1/競合規定
    2/不確定法概念と裁量の交換可能性
    3/裁量の授権に際しての反対傾向と不確定法概念
    4/〔我々の〕見解
   第五節・計画策定における形成自由性
   第六節・調整裁量
 --------
  第8章・公権と行政法関係
   第一節・公法上の権利
    1/公権の概念
    2/公権の意義
    3/公権の前提条件
    4/権利と基本権〔基本的人権〕
    5/瑕疵なき裁量決定を求める請求権
    6 同盟法および国際法における権利
   第二節・行政法関係
    1/概念
    2/意義
    3/行政法関係の種類
    4/行政法関係は行政法学〔法解釈学〕の基礎か指針か?
   第三節・特別権力関係
    1/概念と由来
    2/特別権力関係の解体
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