秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/12

2460/西尾幹二批判039—「客観」と「主観」。

  西尾幹二について「真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行」かもしれないが(批判038参照)、秋月瑛二には、西尾の著作と人間を真面目に論じる十分な理由がある。
 二項対立思考で単純に「反共産主義」=「保守」と理解したのは一般論として間違いではなかったかもしれないが、2007-8年頃に日本で「保守」を標榜していた雑誌や論者が上の意味での本当の「保守」だったかは極めて疑わしい。
 今日の<いわゆる保守>は日本共産党と180度の真反対に対峙しているのではなく、多分に共通性もあり、30〜20度しか開いていないのではないか旨を、すでに一年以上前に秋月はこの欄に書いた。
 保守派の中でもすぐにこの人物は信用できないと感じた者はいるが、西尾幹二は相対的にはまだマシな論者だと—じっくりと読むことなく—判断してしまっていた。2015年の安倍内閣戦後70年談話の歴史理解の基本的趣旨は村山談話と、翌2016年の安倍首相・岸田外相による日韓・慰安婦問題の「最終決着」文書の趣旨はいわゆる河野談話と、基本的には何ら変わりがないことを、櫻井よしこや渡部昇一らと違って、西尾は気づいていたと思われる。
 月刊正論(産経新聞社)のとくに桑原聡編集代表のもとでの異様さはかなり早くに気づいていたが、江崎道朗のヒドさを知って<いわゆる保守>そのものに疑問を持ち、ようやく決定的・最終的に西尾幹二から離反したのは、まさに2018年末の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会)を見てからだ。
 約10年間も、西尾の「レトリック」に惑わされ、じっくりと読解することなく、肯定的にこの人物を評価していたことを、極めて強く、恥じている。
 何と馬鹿な判断をしてしまったことか。痛恨の思いだ。
 すでにある程度は書いたし、これからも書くが(999回まで番号がある)、個々の文章の紹介や分析等を通じて、この人の「本性」・「本質」を指摘して、秋月瑛二自身の自己批判の文章としなければならない。
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  前回の批判038の最後に、個人全集第17巻には「自分史の一種の『捏造』、『改竄』が見られる」と書いた。
 具体的にその点に言及する前に、「自分史」という言葉にも含まれている「歴史」というものの捉え方自体にも、西尾には独特なところがある。
 別に論及するが、近年の単著の冒頭で、歴史は「文献」から明らかになる旨を書いて、遺跡や埋蔵物等々の「物」自体も史料になり得ることを完全に無視している。ニーチェ的「古典文献学」によると、「文献」だけが歴史叙述の素材なのだろうか。
 小林秀雄の『本居宣長』や『古事記伝』を読んで本居宣長を理解したつもりになったり、本居の「古事記伝」を読んで古事記を読んだつもりになった人がいるかもしれないが、西尾幹二もその手の一人ではないだろうか。
 こんなことを書くのも、西尾幹二・国民の歴史(原書1999)の最初の方で日本の「神話」に言及していながら、古事記や日本書紀という言葉は出てこず、この人はこの両書をきちんと読まないままで、日本の「神話」と中国の「歴史」書の同等性等を抽象的に論述するという大胆不敵なことをしている、と考えられるからだ。
 また、上の全集第17巻(2018)の「後記」の最後の方に、つぎの部分がある。
 この巻に収載した三つの文章には「ごく初歩的な歴史哲学上の概念が提示」されていると自ら書いたあと、こう続ける。
 「歴史は果たして客観たり得るのか、主観の反映であらざるを得ないのか」。
 80歳を過ぎて、このような「ごく初歩的な」問いを発していること自体に、また何やら深遠な「歴史哲学上の」?問題を提示しているつもりであるようなことにも、西尾幹二という人物の決定的な「幼稚さ」が表れている。
 何冊もの歴史叙述書を書いてきた研究者が、絶えずこのような問題に直面しつつ、苦悩しつつ執筆しているだろうことは、容易に推察できる。
 外国のものだが、R・Pipes のロシアに関する歴史書や、L・Kolakowski の「思想史」の書物でも、それを感じることがある。
 では、西尾幹二は、第一次的な史料・資料を用いた歴史書をいったい何冊書いてきたのか。歴史叙述書自体の執筆をしたことがないのだから(同・国民の歴史は歴史散文または歴史随筆、よくて歴史評論だ)、第一次史資料を豊富に用いた歴史書を一冊でも書いているはずがない。
 にもかかわらず、西尾幹二は何故、上のような「大口を叩ける」のだろうか。不思議でしようがない。
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  秋月瑛二が15-16歳のころ、つぎのような問題を友人の一人に語ったことがある。
 上にある青空はそれを見て、意識して初めて「ある」=「存在している」ことになるのであって、それなくして「ある」=「存在している」とは言えないのではないか?
 とりあえず「青空」には拘泥しないことにしよう。
 素朴に、または単純幼稚に問うていたのは、今または後年になって振り返ると、「存在」するから「意識」するのか、「意識」して初めて「存在」するのか、という問題だ。
 別の概念を使うと、「客体」が先か「主体」が先か、という問題だ。
 あるいは「客観的事実」と「主観的意識」の関係の問題だ。
 「歴史」とは「過去」に関する一定の態様・様相だ、と差し当たり言っておくことにしよう。
 西尾幹二が上で何やら深遠な問いであるかのごとく「大口を叩いて」いるのは、「過去」の様相・態様は「客観的」な事実として認識・理解(これら二語の意味も問題にはなる)できるのか、それとも「主観」の反映にすぎないのか、だ。要するに、結局は、「存在」と「意識」の関係、「客体」と「主体」の関係の問題がある、というだけのことだ。
 これを人類または人間は古くから思考し、または「哲学し」てきたのであり、単純素朴には、15-16歳の秋月瑛二ですら抱いた疑問・問題だったのだ。
 それを、80歳を超えた西尾幹二が未だ設定されていない問題であるかのごとく、少なくとも西尾には未だ不分明の「歴史哲学」!!上の問題として、書いている。
 さすがに、歴史書を執筆したことがない、「哲学」書をろくに読まないで「物書き」になってしまった人物だけのことはある。
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  最近に試訳したフランスの歴史学者のF・フュレの文章(英訳書)に、唐突につぎが出てきた。
 <ニーチェにあるのは、事実ではなく、解釈だけだ。
 三島憲一は下掲書のニーチェ部分を担当し、小見出しの一つに「『解釈』だけが存在する」と掲げ、最小限の一部だけ再引用すると、ニーチェはこう書いた、とする。141頁。
 「…実証主義に対してわたしは言いたい。違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ。」。
 今村仁司.三島ほか・現代思想の冒険者たち—00現代思想の源流/マルクス.ニーチェ.フロイト.フッサール(講談社、新装版2003)
 この言明はもちろん、「客観的事実」と「主観的解釈」の問題にかかわる。
 西尾幹二は、このようなニーチェの考えの影響を、今でもかなり受けたままではないだろうか。
 ついでに、つぎのことも書いておこう。
 西尾幹二はナショナリストであり、「日本」主義者だ、と書いて、おそらく本人も異議を唱えないだろう。
 しかして、ニーチェは(19世紀後半の)ドイツの、少し広くして西欧の、もっと広く言えば欧米の「思想家」(とされる人物)だ
 そのようなニーチェについて、日本ナショナリストの西尾幹二は、いったいどういう精神・神経でもって、2020年に、堂々とつぎのように書けるのか。
 恥ずかしくないのだろうか。矛盾をいっさい感じないのだろうか。
 2020年刊行、『歴史の真贋』あとがき(新潮社)。
 私は「ニーチェの影響を受けた」。
 「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
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 追記/ なお、根本的には、客観的「存在」が先にあり、それを人間は諸器官を通じて「意識」する、と現在の秋月は考える。意識、認識する「主体」が消滅しても、過去の事実も含めて、「存在」は消滅しない。かかる<素朴実在論>?で、少なくとも一般的な平凡人には何ら差し支えないだろう。
 かつての同じ15-16歳の時代を思い出すと、じっと自分の左の手のひらを見ながら、この手、この掌は「自己」の一部なのか、と思い巡らしたことがあった。「自己」、「自我」はこの手、この掌にはない、と感じていたからだ。また、世界をこう三分していた。①自分の自己、②他人の自己、③これら以外の外界。
 <私小説的自我>でもって生きてきたらしい西尾幹二は、80歳を過ぎた現在、こうしたことを、どう考えているだろうか。
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2459/Turner によるNietzsche ⑤。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第5節。
 (01)  さて、ニーチェのソクラテスへと辿りついた。
 ニーチェが〈悲劇の誕生〉でソクラテスについて書いたとき、Hegel とGrote の著作と見解を十分に知っていた。
 ニーチェが攻撃したのは、Hegel のソクラテスとGrote のソクラテスだった(厳密には同じでなかったが、多くの点で共通性があった)。
 言い換えれば、彼は、ソクラテスを攻撃することによって、つぎの像型を攻撃していた。すなわち、半世紀前に、古代世界の科学を推進した主観的かつ批判的合理性や哲学的表象を用いる象徴になった者たち。//
 (02)  ニーチェは、19世紀の者たちの中で最も、Grote の解釈の多くを受容し、承認した。
 宣教師というソクラテスについての比喩を受容し、ソクラテスは自らの死をもたらすように積極的に協力したとの見方を受容した。
 彼はまた、ソクラテスは古代ギリシャの批判的で科学的な精神性を具現化していた、と考えた。
 だが、これらをGrote に依っているにもかかわらず、ソクラテスについてのニーチェの見方は、自分のものでなければならなかった。
 ソクラテスを近代思想の中心的人物、近代文明批判について参照されるべき中心地点にしたのは、他の誰よりも、ニーチェだった。//
 (03)  既述のように、ニーチェは、ギリシャの最大の惨禍はDionysus 的のものを排除しようとしたことだと叙述した。
 これについて罪責がある劇作者は、エウリピデスだった。しかし、ニーチェによると、エウリピデスはソクラテスの声に他ならない。
 Aeschylus やSophocles の悲劇を破壊し、ギリシャ文化を合理的頽廃への途へと歩ませたのは、これら二人の連携だった。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「我々は、エウリピデスはApollon の基礎の上でのみ劇作をすることに全く成功しなかった、彼の非Dionysus 的な傾向は自然主義的で非芸術的なものの中に落ち込んだ、と見るに至った。
 我々はゆえに今や、その至高の法則は、大まかにはつぎの審美的ソクラテス主義の本質に接近することができる。すなわち、その本質とは『美しくあるためには、全てが合理的でなければならない』。—これは、『知る者のみが有徳である』というソクラテスの格言と並立するものとして形成された宣告だ。」(注4)//
 (04)  ソクラテスの影響を受けて、エウリピデスとその後のギリシャ文化の問題は、ニーチェが「あの徹底的な批判過程」、「あの大胆な理性の応用」(注5)と称したものになった。
 悲劇を不可能にしたのは、この合理性だった。//
 (05)  こうした解釈においては、ソクラテスはギリシャ文化におけるDionysus の大きな敵、対立者として現れる。
 しかし、ニーチェにとっては、ソクラテスが行ったことはもっとはるかに急進的だった。
 彼は、こう書いた。
 「ソクラテスは、同じ尺度でもって現存の芸術と現存の倫理を非難する。
 検討の凝視をどこに向けようとも、洞察の欠如と妄想の力を見ているのであり、現存するものには内部に間違いと不快なものがあると、その欠如から推断する。
 ソクラテスは、この一地点から出発して、自分は現存するものを是正する義務があると考えた。
 個人である彼が、完全に異なる文化、芸術および道徳性の先駆者として、我々がその套いに畏敬をもって触れるならば最高に幸福だと感じるだろう、そのような世界に、傲岸さと優越意識の面貌をもって踏み込んでいる。」
 ニーチェは、つづける。
 「Homer、Pindar、Aeschylus として、またPhidias、Pericles、Pythia、および Dionysus として、あるいは最も深い深淵または最も高い絶頂としてのいずれであれ、驚愕する崇敬対象であることが確実な、そのようなギリシャの本性を、あえて否定しようとするこの個人は、いったい誰なのか?」 (注6)//
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 第5節、終わり。

2458/Turner によるNietzsche ④。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第4節。
 (01)  George Grote は銀行家、政治的な急進派で、議会議員であるとともに、J. S. Mill の友人だった。
 彼は、1846年から1856年にかけて、12巻本の〈ギリシャ史〉を出版した。
 1865年には、3巻本の〈プラトンとその他のソクラテスの仲間たち〉を公刊した。
 これらの著作によって、Grote は、ヴィクトリア期のおそらく最も影響力のあるソクラテス解釈者になった。//
 (02)  Grote は、活発かつ厳格に、古代のSophists を擁護した。
 彼は、the Sophists は二つの理由で良くない評価を受けている、とした。
 第一に、「sophist」や「sophistry」〔詭弁〕という近代の侮蔑的な意味が、遡って古代のSophists を叙述する際に投影されてきた。
 第二に、より重要だが、the Sophists に関するプラトンの叙述が表面的にだけ受容され、歴史的および批判的に検証されなかった。//
 (03)  Grote は、先行する詩歌や叙事詩の教育者たちと比べて—二つの例外を除いて—the Sophists は実際にはほとんど何の基本的違いはない、と主張した。
 彼らは先行者たちよりもより良く教育し、それに値する報酬を得ていた。
 プラトンは、古代の哲学で自分が嫌悪するもの全てをthe Sophists と結びつけた。
 さらに、プラトンの対話の多くにおいてすら、the Sophists は根本的に不道徳なことを述べていない。//
 (04)  The Sophists が行ったのは、そしてこれがGrote にとっては彼らが名声と称賛を要求できることなのだが、若いアテネの人々が民主政の市民生活に参加できるように準備させたことだった。
 彼が書くように、the Sophists は、アテネの青年たちが公的にはもとより私的にも、アテネで積極的で高潔な生活をする資格を与えるのを本職としていた。//
 (05)  この点で、the Sophists は基本的に保守的で、民主政が賢明に作動するためには重要だった。
 そしてGrote は、ソクラテスの声でもって財産維持、結婚、子供の養育の急進的な再構築を主張したのはプラトンだということを、読者に思い起こさせた。
 (06)  Grote の解釈は、それを彼が最初に書いたときは気づいていなかったと私は思うのだが、Hegel の解釈にある程度は似ていた。
 二人ともに、the Sophists は個人主義を促進したと見た。
 しかし、Hegel にとっては個人主義は危険なものだった。 
 Grote にとっては、個人主義は民主政の適切な作動のための基礎的なものだった。//
 (07)  Grote が読者を最も驚かせたのは、彼がソクラテスに向かったときだった。
 彼は、Peloponnesian 戦争の半ばにアテネの人々がその都市にいる主要なSophists の名前を尋ねられたときに全員が躊躇することなくソクラテスの名前を挙げただろうと主張することによって、ソクラテスをSophists の一人だと見なした。//
 (08)  なぜソクラテスは不人気だったのか、Grote によると何が Sophists たるソクラテスの任務だったのか?
 それは、主として、アテネ市民に科学的方法と批判的で合理的な知性を持ち込むことだった。
 そして、Grote の見方では、このことが不可避的に科学と宗教のあいだの衝突をもたらした。
 アテネ文化、伝統的価値、ふつうはthe Sophists と結びついている宗教を否定的に批判することが、現実には市場で教えを説くソクラテスの主要な役割になっていた。
 ソクラテスは、アテネの一般的な世論に対する大きな批判者だった。
 とくに、ソクラテスが科学を擁護したことによって、アテネの宗教と直接に対立するに至った。//
 (09)  では、Grote はソクラテスの死をどのように説明したか?
 世論に対する個人的挑戦の不可避的な結果だったと、彼は見たのか?
 Grote は、友人のJ. S. Mill の〈自由について〉と同じく、ソクラテスは敵対する世論の犠牲者だと考えることはできなかった。
 どのようにすれば、Grote はそうできただろうか?
 結局、彼は、古代アテネの民主政を擁護するヴィクトリア期の最大の人物だった。
 素晴らしいのは、アテネの人々がソクラテスを処刑したことではなかった。そうではなく、彼らが半世紀以上、ソクラテスが小うるさい批判者の役割を果たすことを認めたことだった。//
 (10)  Grote は、著作で別の悪役を見つけた。
 それは、宗教だった。
 ソクラテスの死の原因となったのは、アテネの人々の宗教の力と信仰だった。
 Grote は、ソクラテスはデルフォイの信託(Delphic oracle)に由来する彼の信念に関して完全に真摯だった、神たちはソクラテスに仲間の市民たちを改善する使命を与えて送り込んだ、と考えた。
 ソクラテスは「たんなる哲学者ではなく、哲学の仕事をする宣教師だった」と、Grote は書いた。 
 ソクラテスは批判的哲学を普及宣伝するための、目に見える宗教的狂信者だったと、彼は考えた。
 Grote から見ると、ソクラテス自身の個人的な、宗教に根ざした狂信こそが、彼の死を惹起した。 
 Grote はソクラテスに対する非難と処刑の責任を神たち自体に負わせようとしている、と感じる者がいるかもしれない。
 別の評論家のAlexander Grant は、Grote はソクラテスを「判決による自殺」へと向かわせた、と書いた。//
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 第4節、終わり。

2457/西尾幹二批判038—皇太子妃問題②。

 本来の予定では、西尾幹二個人編集の同全集第17巻・歴史教科書問題のつぎの重要な特徴を書くことにしていた。すなわち、一定時点以降にこの問題または「つくる会」運動(分裂を含む)に関して西尾が自ら書いて公にした文章を(「後記」で少し触れているのを除き)いっさい収載していない、という「異常さ」だ。
 いつでも書けることだが、再度あと回しにして、新しい「資料・史料」に気づいたので、それについて記す。
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  西尾幹二が2008年前後に当時の皇太子妃は「仮病」だとテレビ番組で発言した、ということは高森明勅の今年になってからのブログ記事で知った。
 その番組を見直すことは到底できないと思っていたら、実質的には相当程度に西尾の発言を記録している記事を見つけた。つぎだ。
 「セイコの『朝ナマ』を見た朝は/第76回/激論!これからの“皇室”と日本」月刊正論2008年11月号166-7頁(産経新聞社)。
 ここに、2008年8月末の<朝まで生テレビ>での西尾発言が、残念ながら全てではないが、かなり記録されている。引用符「」付きの部分はおそらく相当に正確な引用だと思われる。
 以下、西尾発言だけを抜き出して、再引用しておく。「」の使用は、原文どおり。
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 雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人低いのははっきりしている」。「実は大したことない女」。
 雅子妃には「手の打ちようがないな」。
 「一年ぐらい以内に妃殿下は病気がケロッと治るんじゃないかと思います。理由はすでに治っておられるからです。病気じゃないからです。」
 「これも言いにくいことですが、私が書いたことで一番喜ばれているのは皇太子殿下、その方です。私は確信を持っています」。「皇太子殿下をお救いしている文章だと信じております」。
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 以上、「仮病」というそのままの言葉はないが、「病気じゃない」という発言があるので、実質的に同じ。上の<セイコ>も、「最後に平田さんも雅子様を仮病と批判」と記して「仮病」という言葉を使い、出席者のうち西尾幹二と平田文昭の二人が「仮病」論者だったとしている。
 <セイコ>の感想はどうだったかというと、「二人とも、やけくそはカッコ悪いよ」と書いているから、西尾・平田に対して批判的だ。
 なお、上の引用文のうち最初の発言に対して、矢崎泰久は「天皇家にと取っ掛かることによって自分の存在価値を高めたいという人」と批判し、出版済みの『〜御忠言』についても「天皇をいじくるな」「あなた、天皇で遊んでいるよ」と批判した、という。
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  あらためて「仮病」発言について論評することはしない。
 だが、想像していたよりも醜い発言ぶりだ。「能力の非常に低い」、「実は大したことない女」とは、凄いではないか。
 これによると西尾幹二は自著を最も喜んでいるのは当時の皇太子殿下だと「確信」し、同殿下を「お救い」していると「信じて」いる、とする。
 別に書くかもしれないが、西尾幹二著によって最も傷つかれたのは、雅子妃殿下に次いで、皇太子殿下だっただろう。さらに、現在の上皇・上皇后陛下もまた。「ご病気」の継続の原因にすらなったのではないか。
 西尾幹二
 この氏名を、皇族の方々は決して忘れることはない、と思われる。もちろん、天皇男子男系論者としてではない。
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 三 1 上を掲載している月刊正論2008年11月号の<編集者へ>の欄には、西尾幹二を擁護して当時の皇太子妃に批判的な投稿が二つあり、逆の立場のものはない。
 同編集部は、<セイコ>記事とのバランスを取ったのか。それとも、<セイコ>の原稿を訂正するわけにもいかず、編集部は西尾幹二の側に立っていたのか(代表は上島嘉郎で、桑原聡よりは数段良い編集者ぶりなのだが)。
 2 上の<セイコ>記事を読んで、当時に月刊正論上で西尾と論争していたらしい松原正は、月刊正論同年12月号にこう「追記」している。
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 「西尾幹二という男について真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行なのかもしれない」。
 なぜ唐突にこう書くかというと、11月号の(セイコの)記事を読み、「呆れ返ったから」だ。
 「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば、西尾が…くだくだしく述べてきたことの一切が無意味になってしまう」。
 「かふいう無責任な放言を、それまで熱心に西尾を支持した人々はどういふ顔をして聞くのであらうか」。
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 ほとんど立ち入らない。
 ただ、「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば」、という部分は、相当にスゴい副詞文だと感じる。
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  ついでに。
 西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(2008年)は相当に話題になり「売れた」はずの、単一の主題をもつ西尾の単行本だ(主題が分散している単行本もこの人には多い)。
 しかし、同全集には収載されないようであり、そもそもが「天皇・皇室」を主テーマとして函の背に書かれる巻もないようだ。
 個人編集だから、自分の歴史から、自著・自分が紛れもなく書いた文章の範囲から、完全に排除できる、と西尾は考えているのだろうか。全集第17巻にも見られる、自分史の一種の「捏造」・「改竄」なのだが。
 だが、活字となった雑誌や本は半永久的に残り、こういう文章を残す奇特な?者はきっといる。
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2456/Turner によるNietzsche ③。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第3節。
 (01)  Hegel のソクラテスに関する主要な解釈は、死後の1832年に出版された、彼の〈哲学史講義〉に見られる。
 彼の哲学書の多くと対照的に、ソクラテスの扱いは比較的に明瞭で率直だった。だが、それは莫大な数の反応を惹き起こした。
 (02)  Hegel にとって、ソクラテスとthe Sophists はいずれも、ギリシャ思想の大きな転回地点を代表した。 
 彼は、the Sophists は詩人や文化を組織する力としての伝統的知識の主張者に替えてギリシャにその思考を組織する新しい方法を与えた最初の集団だ、と考えた。 
 また、18世紀の哲学者たちに似ていて、その影響は一種の古代の啓蒙思想にまで昇るに至った、とも考えた。
 Hegel によると、the Sophists が獲得した報償は、悪(evil)に対する一般的に不当な評価だった。
 しかし彼は、the Sophists は本当は何も悪いことをしなかった、と考察した。
 The Sophists はギリシャ人に推論と思索(reflective)の方法を教えた。
 このような思考は不可避的に、伝統的な信念や道徳を疑問視することへと導いた。
 換言すると、彼らは懐疑主義(scepticism)を推奨したのだ。
 これは実際に、彼らの誤りではなかった。
 当時の思考や精神(mind)の発展状態の結果にすぎなかった。
 Hegel によると、the Sophists は、懐疑主義に限界はないと判断していた。//
 (03)  Hegel にとって、ソクラテスはthe Sophists が始めた運動のつぎの一歩を進めた人物だった。
 ソクラテスが行ったのは、伝統的価値と伝統的宗教を超えて発展する思索的(reflective)な道徳を生み出すことだった。
 Hegel はこう書いた。
 「精神の思索的動き、精神それ自体の転換にもとづく道徳は、まだ存在していなかった。
 その存在は、ソクラテスの時期からのみ始まる。
 しかし、思索が発生し、個人が自分自身の中へと隠退し、自分の望みに従って自分自身の生活をする確立した習慣から離反するやただちに、頽廃と矛盾が生起した。
 しかし、精神は対立の状態にとどまることができない。
 統合を探し求めるのであり、この統合のうちに、より高次の原理があるのだ。」(注3)//
 (04)  ソクラテスはこの過程を通じて、ギリシャ人が彼ら自身の主観性の中に道徳的指令を見出そうとするように導いた。
 ソクラテスとプラトンは、the Sophists とは違って、この主観的性を通じて、伝統的道徳と結びつくだろう客観的な道徳的真実を発見し得るだろう、と考えた。
 しかし、Hegel は、ソクラテスはこの移行に困惑さを与えており、彼自身に出現する主観性を彼の声または悪魔(daemon)が再現する、と考えた。
 彼の声または悪魔に語りかけることで、ソクラテスは誘導と道徳的指令を求めて、本当は自分自身に語りかけ、自分自身を見つめているのだ。
 ソクラテスが仲間のアテネの人々と対立するようになったのは、この強烈な主観性のゆえにだった。
 彼の悪魔は事実の点では新しい神だった。—主観性という神であり、これに執着すれば、4世紀の〈都市(polis)〉は解体する。//
 (05)  したがって、Hegel にとって、ソクラテスは彼に向けられる責任について実際に罪状があった。
 だが、その罪責は、ソクラテスの死の理由ではなかった。
 アテネの陪審員の決定は、必ずしも処刑を要求しなかった。
 ソクラテスが妥協を拒み、道理ある別の選択肢を提示できなかったあとではじめて、死刑判決が下された。
 彼による妥協の拒否は、集団的道徳心とアテネの伝統よりも上に彼自身の良心—彼自身の主観性—を置くということになった。
 これは、彼の基礎的な主観性への訴えの、論理的な帰結だった。//
 (06)  ゆえにHegel にとって、ソクラテスの死は、彼がこう書いたような理由で、本質的に悲劇的だった。「真に悲劇的なものには、衝突するに至った両者のいずれにも、根拠のある道徳的な力が存在しなければならない。これは、ソクラテスの場合にも言えた。」
 ソクラテスとアテネの人々には、それぞれの側の道徳性があった。だが、その道徳性は異なるものだった。
 Hegel の解釈に隠されている—但し、さほど隠されていない—のは、道徳の相対性を暗黙に承認していることだ。
 だがなお、Hegel は、ソクラテスの究極的な目的は、そしてプラトンや結局はキリスト教のそれは、安定した(settled)道徳性を見出し、the Sophists が開けた人間の心の懐疑主義に限界を付すことだった、と主張することによって、そのような相対性とは距離を置いた。//
 ——
 第3節、終わり。

2455/Turner によるNietzsche ②。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第2節。
 (01)  1860年代のおよそ7年間、R・ワーグナー(Richard Wagner)とニーチェは友人だった。
 この友人関係とその解消の物語は、それ自体で興味深い。そして、この世紀の後半の知的展開を示すものだ。
 ニーチェは青年として、音楽に強い関心をもった。作曲家になろうと望んだかもしれない。
 彼はとくに、ドイツ・ロマン派時代の音楽に魅了された。
 1860年代初めに大学生のとき、ワーグナーだけではなくショーペンハウワー(Shoupenhauer)も賛美した。
 彼は、ワーグナーはショーペンハウワーが叙述したような芸術上の天才だ、と見た。
 ニーチェは1868年に、ワーグナーと初めて逢った。//
 (02)  翌年、彼はバーゼル大学で文献学の教授になった。バーゼルはスイスのTribschen のワーグナーの家から遠くはなかった。
 ニーチェがこの作曲家に多大の敬意をもつことを知らせたので、出会いはさらに続いた。
 ワーグナーは、言いなりになる若い学者を持って、喜んだ。
 対等な友人関係では全くなかったが、それは特に驚くべきことではなかった。
 だが、明らかに、友人関係ではあった。 
 Richard とCosima は、クリスマスの贈り物を買うためにニーチェを送り出したり、二人のための用足しに彼を走らせることになる。
 ニーチェは自分をワーグナーの年下の友人だと思っていた。彼は、その友人はドイツとじつにヨーロッパ全体の芸術と音楽をいずれも活気づかせている、と思っていた。
 彼は23回も、Tribschen を訪れた。そして妹のElizabeth も、ワーグナーの仲間と友人になった。
 ニーチェはまた、当初はバイロイト思想の強い支持者だった。//
 (03)  ニーチェは1872年に、〈悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)〉、ワーグナーと共有した原稿と初期の草稿を出版した。
 その書物は、ワーグナーに捧げられた。
 実際に彼は、ワーグナーを愉快にさせるために、その本に多数の修正を加えていた。
 その書物はもともとは、悲劇の研究書だった。少なくとも、そのようなものとして書き始められた。
 しかし結局は、ギリシャ人以降はヨーロッパが知らなかったまたは経験しなかった新しい芸術の誕生だとして、ワーグナーの芸術を賛美する書物になった。
 この書物は、理性に対する神話の勝利を賞賛し、ソクラテスとエウリピデスから始まったギリシャ文化の頽廃を描いた。//
 (04)  〈悲劇の誕生〉には、最初の書物に見られる多くの痕跡がある。
 大胆に、のちに受容された著作者たちよりももっと極端な立場を、明らかにしている。
 しかし、ニーチェがのちに採る近代文明に対する批判の前兆も示している。
 ニーチェは、学歴上は古典学者であり、文献学者だった。
 総じて言って、19世紀半ばには、ギリシャ生活で最も強調されたのは、古代的な禁欲と5世紀のアテネとの均衡ある連携という理想だった。
 ギリシャ生活の非合理的な側面は知られていたが、大部分は無視された。
 アテネが文化的に達成したものは、合理的生活の出現と、Matthew Arnord とJonathan Swift の語句を使って表現した「甘美さと明るさ」の獲得だった。//
 (05)  ニーチェはこのようなギリシャ解釈に、そして西側の合理性の父祖という、長く続くソクラテスに対する尊敬の念に、闘いを挑んだ。
 (06)  ニーチェはまた、Dionysus の儀礼へとギリシャ悲劇の歴史をたどった。
 彼は、ギリシャ悲劇はDionysus 的狂気とApollon 的様式との一種の結合から出現した、と見た。
 ニーチェは決して、Dionysian—Apollonian という二元論を説いた最初の人物ではなかった。
 それは実際には、ドイツの文学や音楽の世界内部では相当程度に一致して知られていた。
 しかしながら、彼の書物は、西側ヨーロッパ人の心に拭いきれないほどに、この二元論を刻み込んだ。
 ニーチェはこう言った。「我々は、〈Apollon 的文化〉という精巧な建造物をいわば一石ごとに分解して、それが依って立つ基盤を見つけるにまでに至る必要がある」。(注1)
 Apollon 的様式の禁欲は、思想と現象的外観についてのショーペンハワー的世界と同等のものだった。
 その世界の下には、Dionysus 的狂気が横たわっていた。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「人間と人間のあいだの紐帯がDionysus 的な魔術によって再び復活する、というだけではない。
 有害だとして遠ざけられ、従属させられた自然が、その失った息子である人類とのあいだの和解の祭典をもう一度、祝福しもするのだ。<中略>
 今や、宇宙的調和の福音を聴きながら、各人はみんな、たんに自分が隣人と結合し、和解し、融合していると感じるだけではなく、その隣人とまさに文字通りに一つであると感じるのだ。まるで、maya のベールが引きちぎられて、その切れ端だけが神秘的な始原的一体(根源的一つ(das Ur-Eine))の前ではためいているがごとくに。」(注2)//
 (07)  芸術と悲劇に関して、ニーチェは、Dionysus 的なものとApollon 的なもののいずれも必要だと考えた。
 彼の書物は、Dionysus 的なものを賞賛するだけの、無条件の著作ではない。
 そうではなく、彼が論じたのは、ギリシャの最高度の芸術が感動的であるのは、外観についてのApollon 的世界の下に横たわっているのは精神(the psyche)の内的深さであることを証明している、ということだった。//
 (08)  ニーチェはショーペンハウワーを使ったけれども、十分に彼を超えて進んでいた。
 ショーペンハウワーが悲観主義と生の否認へと駆り立てたのに対して、ニーチェは、芸術は生を肯定するものだと見た。
 劇場における悲劇を通じて、ギリシャ人はその生を見出し、その共同体を肯定した。
 芸術にとっての、とくにギリシャ悲劇にとっての問題は、Apollon 的なものが支配したときに発生した。
 Dionysus 的なものが放棄されたとき、芸術はその様式だけではなく内容も、当時の道徳性から採用した。
 ギリシャの場合にこれが意味したのは、悲劇がソクラテス的知識と分析の浅瀬に乗りあげて座礁するに至った、ということだった。//
 (09)  なぜニーチェがソクラテスに対する批判と侮蔑へと飛躍したのかを理解するためには、19世紀におけるソクラテスについて、少しばかり知らなければならない。
 ニーチェは、ソクラテスを論評する中で、19世紀の多数の関係文献を5世紀のアテネでの議論へと符号化(encode)していた。//
 (10)  19世紀の初期および半ばには、ソクラテスに関する二つの主要な解釈があった。G. W. F. ヘーゲルの解釈と、George Grote の解釈だ。//
 ——
 第2節、終わり。

2454/Rosenthal によるNietzsche ①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B.G.ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 No.2436に上掲書の目次を掲載している。全体がニーチェに関係しているが、表題から見て関心を惹くのは、とくに以下だ。原書での総頁数も示す。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。…計27頁。
  要約・1917年のニーチェ的課題…計4頁。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  (前記)…計8頁。
  第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。…計25頁。
 第四編第二部/ウソとしての芸術—ニーチェと社会主義リアリズム。
  第11章・社会主義リアリズム理論に対するニーチェの寄与。…計24頁。
 第四編第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。…計28頁。
 第一編第3章(ニーチェアン・マルキスト)等々も興味深そうだが、長さからして試訳しやすそうな、かつ第一編全体の「要約」とされる第一編の最後の「要約」を、以下に試訳してみる。節名の番号数字はない。
 ——
 第一編/要約・1917年におけるニーチェ的課題(Nietzschean Agenda)。
 前記(見出しなし)
 1917年までに、Nietzsche はロシア化され、象徴主義、宗教哲学、「左翼」ボルシェヴィスム、および未来主義へと吸収されていた。
 これらの間で、またそれぞれの内部で重要な違いがあったにもかかわらず、これらの運動、これらによるNietzsche 的課題の「解決」、は多くの点で共通していた。取り上げてすでに論じた人物たちは全て、人間の心理におけるDionysian 要素に関心を持ち、彼ら自身の価値が浸透した新しい文化、新しい社会を創ることを望んだからだ。
 --------
 第1節・新しい神話(Myth)。
 彼らの神話の特徴は、終末論的な(eshatological)、必然から自由への跳躍、人間や世界の改造(transfiguration)だった。
 神話創造に際しての最も重要な試み、神話的アナキズムと神の建設(God-building)、は大衆を結集させることができなかったが、彼らの定式者たちは、経験からつぎのことを学んだ。
 すなわち、新しい神話は馴染みのある用語で語られなければならない。それは明瞭に理解されなければならない(「新しい宗教統合体」または「集団的人間性」はあまりにも漠然としている)。そしてそれは、Apollonian 心象、偶像または崇拝人物像を必要とする。
 Bogdanov は、世界を変革する主要な力は技術だと考えたが、神話がもつ心理政策的(psychopolitical)な有用性を肯定的に評価した。
 Berdiaev の創造性の宗教は、新しい崇拝人物像を含んでいた。
 Florensky の神話は、教会性(ecclesiality)と(抽象的観念よりも)具体的経験を強調する、再生された正教だった。
 未来主義者の神話である太陽に対する勝利(Victory over the Sun)は、人間の創造性のための無限の地平を持っていた。
 この者たちの聖像破壊主義は、崇拝人物像の発生を許さなかった。//
 --------
 第2節・新しい世界。
 Nietzsche の諸用語—「Apollonian」、「Dionysian」、「全ての価値の再評価」、「超人」、「権力への意思」—は、知識人界によってのみならず、大衆読者層に向けた出版物でも、引用符なしで、頻繁に用いられた。
 Nietzsche の影響を受けた知識人のほとんどは、正しい(right)言葉は意識を変革し、無意識の感情と衝動を活気づけることができる、と考えていた。
 象徴主義者たちは、潜在意識下(subliminal)の意思疎通(communication)を強調した。
 未来主義者たちは音を知性よりも重視したが、また、書いた言葉の視覚上の効果にも大きな関心を寄せた。
 Kruchenykh とKhlebnikov は、人々に衝撃を与えて古い思考様式から抜け出させようとした。
 未来主義者と象徴主義者のいずれも、言葉と神話を結びつけ、新しい言葉は新しい世界を発生させることができると信じた。
 Bogdanov は、言語は実際に現実を変化させると結論づけ、神秘的ではない態様で言葉と神話を結びつけた。//
 --------
 第3節・新しい芸術様式。 
 象徴主義者たちは、芸術は「より高い真実」へと、「現実的なものからより現実的なもの」へと導くと信じ、美学的創造性は世界を変革(改造)する儀礼的(theurgic)活動だと見なした。
 Ivanov は、ロシア社会を再統合し、演技者と観客の分離をなくして受動的な観衆を能動的な上演者にし、そして芸術と生活を一つにする方法として、Dionysian 演劇、神話創造の崇拝演劇を提唱し、「集団的創造性」を主張した。 
 Ivanov 理論を緩和した見方は劇場監督たちに採用され、それはBriusov、Meyerhold、Sologub によって擁護された「在来的劇場」のような純粋な劇場性〈劇それ自体のための劇場)に対する対抗理論を生んだ。
 「生の創造」という、ほとんどの象徴主義者が主張するに至った大きな拝礼計画は、部分的には、自由、美と愛の新しい世界を創造するための、政治的革命の失敗(1905年の革命)に対する反応だった。
 未来主義者たちは、直接的感知の詩論についての象徴主義者のPlatonic な側面を拒絶した。
 彼らは、劇場と美術館を街頭と公共広場に取り出して芸術を民主主義化し、文化的遺産を放擲することを望んだ。そして、新しい展望をもち、例えば、世界は退化していると見た。
 Bogdanov の観点主義は、階級に基礎があった。
 心理的に解放されるためには、プロレタリアートは自分たち自身の芸術様式を創造し、文化的遺産を(放擲するのではなく)自分たちの価値と必要性に照らして再評価しなければならないだろう。
 彼は、芸術、道徳および科学の〈階級〉的性格を強調した。
 Florensky は、ルネサンス以降のヨーロッパの芸術と思想を支配している個人主義的な観点主義を拒否した。//
 --------
 第4節・新しい男と女。
 新しい男は美しく、英雄的で、勇敢で、創造的で、努力をするということ、そして、高貴な理想のための戦士であること、は当然視されていた。
 新しい女については、合意がなかった。
 Kollontai、Bogdanov、Gorky は女性に、勇敢さ、自立性、理性のような「男性的」特質を認める一方で、女性の母性的な役割を承認し、強く主張すらした。
 象徴主義者たちは、ソフィアと「永遠の女性的なもの」を賛美し、家族や性別に関する伝統的意識を非難した。
 彼らの理想の人間、かつBerdiaev のそれは、親ではなく中性(androgyne)だった。
 Florensky は、男性と女性を存在論的かつ社会的に区別した。
 彼の〈教会儀礼(ecclesia)〉は、男性二人で構成されていた。
 未来主義者もまた、家族と性別に関する伝統的考えを批判したが、彼らの公的立場は攻撃的な男性主義だった。//
 --------
 第5節・新しい道徳。
 四つの運動全てが、感情の解放、自由な発意、熱烈な確信を擁護すべく、義務というキリスト教的・カント的・人民主義的な道徳性を、カントの命令も含めて、拒否した。
 美しさ、創造性、そして(一定の場合の)困難さは、美徳だと見なされた。
 憐れみ(pity)は弱さの兆しであり、「最も遠いものへの愛」が隣人愛や実際的改良よりも優先した。
 「Nietzsche 的」個人主義は、自己超越という精神を随伴し、犠牲と苦痛を理想とするキリスト・Dionysus の原型が表象する、「個人性」への賛美にとって代わられた。
 Berdiaev、Florensky およびほとんどの象徴主義者は、愛を法に置き換え得る、キリスト教的・ユートピア的な幻想を伴うNietzsche 的な不道徳主義と結びついた。
 政治的な最大原理主義者たちは、革命的人民主義の「英雄的」伝統(テロル)を復活させ、目的は手段を正当化するとの革命的不道徳主義を実践した。
 全ての新しい道徳から欠落したのは、日常生活の規範(ethic)だった。
 この欠落は、意図的なものだった。
 宗教的であれ世俗的であれ、終末論者たちは、ありふれた生活(〈byt〉)の諸側面は改造されるだろう、と想定していた。//
 --------
 第6節・新しい政治。
 これまでに論じた人物のほとんどは、政治を超越することを望んだ。
 彼らの理想は、自己利益や社会契約とは反対の、情熱的紐帯と共通の理想によって強固となる社会だった。
 彼らは、右側寄りのリベラリズムや議会主義的政府を侮蔑した。または、侮蔑するに至った(Frank の見解は微妙に異なる)。
 裕福さはペリシテ人(philistine)の価値だと見なされ、(貧困の廃絶とは別の)大衆の裕福さは、彼らの目標の一つではなかった。
 象徴主義者、未来主義者、および宗教哲学者は、経済を無視した。Berdiaev とFrank はマルクス主義者から出発し、Shestov の学位論文は工場法に関するもので、Frank は〈Landmarks〉で富を商品として扱ったのだったけれども。
 Gorky、Lunacharsky、Kollontai は貧困は社会主義のもとでは消滅すると想定していた。しかし、経済学そのものにはほとんど注意を払わなかった。
 Bogdanov、Bazarov、およびVolsky は、経済学に関して執筆した。しかし、彼らが公刊した大量の著作は、哲学に関するものだった。
 しかしながら、つぎのことは、記しておくに値する。
 第一に、Bogdanov は労働者向けの一般的な経済学の教科書を執筆し(1897年、初版)、その書物はソヴィエト時代に入っても用いられた。(I. I. Skvortsov とともに)〈資本論〉を再翻訳しもした。
 彼はまた、1917年までに経済学者としての声価を確立していた。
 第二に、Volsky は、Capri 学校で、農業問題を講義した。
 新しい文化的アイデンティテイを明確にしようとする試みは、新スラヴ主義または文化的ナショナリズムへと次第に変化してゆき、そして政治的ナショナリズムになった。
 Nietzsche に影響を受けたち知識人のほとんどは、第一次大戦の勃発を歓迎するか、それを終末論的用語法で見るようになるか、のいずれかだった。//
 --------
 第7節・新しい科学。
 Bogdanov だけが明示的に、新しい科学の誕生を呼びかけた。
 科学的「真実」を含む「真実」は特定の階級に奉仕するので、プロレタリアートは集団主義的方法と実践的な目標でもって、自分たちの科学を発展させなければならなかった。
 認識論をめぐるBogdanov とレーニンの間の争論には、科学にとっての示唆があった。論点は客観的真実は存在するか否か、誰がそれを明らかにするに至るのか、だったからだ(第5章を見よ)。
 Bely とFlorensky は、象徴主義が新しい非実証主義的科学を導くのを期待した。これは、Florensky が1920年代に発展させた主題だった。//
 --------
 後記(見出しなし)
 影響の「萌芽期」に文化に植え込まれたNietzsche の思想は、すでに論じた人物や新しく登場する人物によって、ボルシェヴィキ革命後に再循環し、再作動した。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーによる革命のシナリオは、承認されていないNietzsche の思想を含んでいた。//
 ——
 以上。

2453/Turner によるNietzsche ①。

 日本語でのニーチェに関する文献は邦訳書も含めて少なくないが、いろいろなニーチェ論、ニーチェ解説を知っておこう、という趣旨で、以下の英語著の最後の章(第15章)のニーチェに関する部分を試訳してみる。
 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 区切りの見出しも数字もないが、一行空白の箇所がいくつかあるので、それによって便宜的に「節」の区切りとみなし、連番数字をつけた。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に(01)等の番号を付した。
 ——
 第15章・ニーチェ。
 第1節
 (01) ブルジョアジーは、19世紀半ばから後半のヨーロッパの知的、文芸的、芸術的文化を支配した。
 ドイツの統一の頃までに、永続すると考えられた世界を構築していた。
 鉄道は大陸に網を張り、人々は電信ケーブルを使って大陸間で通信した。新たに設計された都市が田園風景の中に点在し、大きな蒸気船が、ヨーロッパで製造された商品を世界中に運んだ。
 (02) 国民国家が、政治生活を支配した。
 科学は自然の大きな秘密を解明し、自然を人類の財産の協力者にしたように見えた。
 実際に、ヨーロッパ人は、T・H・ハクスリーが「事実の上にある科学が生んだ新しい自然」と呼んだものの中で生活していた。
 (03)  だが、このような生活様式の表面的快適さは、幻想だった。
 ヨーロッパじゅうのブルジョアジーは不安をもち、怖れすらしていた。
 Peter Gay がかつて指摘したように、「神経質病」が人々の挙措の一般的な病気と兆候として現れ始めた。
 中間階層は、社会主義者を恐れた。
 彼らはまた、貴族政体の健全な側面を維持した。 
 自分たちの国民国家の内外に、人種的な敵を探し求めた。
 中間階層の快適さを生んでいた同じ産業革命が、軍隊のための新しい破壊力をも生んでいた。
 中間階層の重要な与件だったキリスト教は、科学と歴史研究の包囲攻撃を受けていた。
 リベラルな政治家たちは、想定されたようには全く働いていなかった。
 有権者数の膨張は、社会主義者を助けたのみならず、政治的国民の保守的勢力の利益となったように見えた。
 教会、貴族層、のちには反ユダヤ主義者は、民主政体の諸制度を彼らの目的のために用いることができた。
 (04)  しかし、少なくとも後から振り返れば、おそらく最も当惑させるもので、最も印象的だったのは、世紀の後半に顕著になった、ブルジョア世界に対する知識人の批判だった。
 とくに重要なのは、半世紀前にJ・シュンペーターが指摘したように、この批判の多くがブルジョア文化それ自体から発生した、ということだ。
 西側文明は、自己批判を好む傾向をつねに示した。そして、その文化の内部では、中間階層ほどにその傾向を示した集団は存在しなかった。
 (05)  例えば、科学の方法を文学に適用せよとしばしば要求されたリアリズム小説の作家たちは、中間階層の文化を批評するために、科学に対するブルジョアの信仰を用いた。
 さらに加えて、この批判の媒介手段—文学分野では小説—は、全ての人文形態の中で、おそらく最もブルジョア的だった。
 伝統的な制度を拒むリベラルなブルジョアジーの志向は、サロンの伝統的権威を拒む芸術家たちとよく似ていたことだろう。また、そうした志向は、彼ら自身が選ぶ芸術展示会や画廊を始めることになった。—これはしばしば、裕福な中間階層を称賛し財政支援をすることとなった。
 (06)  自分たち自身に向けたブルジョアジーの文化の最も顕著な例は、世紀の後半での理性(reason)の利用であり、これは、合理的なもの(the rational)を疑うか、非合理的なものを探すかのいずれかだった。
 これらは、二つの全く異なる傾向だった。
 前者は非合理的のものの賞賛へと至るもので、おそらくは人種的思考に見ることができる。
 後者は、もっとはるかに複雑だった。
 合理的方法を用いて非合理的なものを探すことは、非合理的なものの賞賛に至るかもしれないが、至らないかもしれない。
 たんに合理的でないものの重要性を認識し、合理的なものの範囲内でそれを維持する試みに、つながり得るだろう。
 あるいは、非合理的なものの発見と合理的なものとのその併存の許容へと至り得るだろう。
 あるいは、ある場合には、合理性それ自体がほとんど無用だという考えに至り得るだろう。
 これらのいずれも、ブルジョア文化に、より特定して言えば啓蒙思想(the Enlightenment)に、挑戦するものだ。
 (07)  実証主義に対するこの反抗を主張した最も重要な人物であり、ブルジョア文化に対する過激な批判者だと考えられるに至ったのは、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)だ。
 今日では、この点でニーチェほどの広汎な声価(reputation)を得ている哲学者はほとんどいない。
 このような意味で、モダニズムの主唱者や中間階層文化を批判した他の者たちと同様に、ニーチェもまた、この文化に捉われており、取り込まれている。
 (08)  ニーチェの今日での声価が得られるまでには、かなりの困難さがあった。
 彼が生きていた間、その書物は著名ではなく、広く受容されたのでもなかった。
 ニーチェが出版社を見つけるのは、しばしば困難だった。
 出版社があっても今度は、彼の本を売るという困難さがあった。
 彼の声価が高まったのは、ようやく1880年代遅くに、デンマークの評論家のGeorge Brandes がニーチェの著作を論じ始めてからだった。
 そうして、ニーチェは、多様な諸国の当時の他の文筆家に評価され始めた。
 しかし、初期のこの声価と敬意は、欠陥のある、間違って編集された、半ば捏造された(quasi-forged)彼の著作にもとづいていた。その出版物は、ニーチェの実際の思想とはまさに正反対の鋳型へとその思想の多くを入れ込んだものだった。
 (09)  Brandes は1888年にコペンハーゲンで、ニーチェについて講演した。
 その翌年早くに、ニーチェは精神障害(insanity)の時期に入った。それは1900年の彼の死まで続くことになる。
 1880年代の彼の著作に関する代理人かつ執行者は、妹の Elizabeth Förster-Nietzsche だった。
 彼女はBernard Förster の妻で、この夫は、ドイツの最も過激な人種主義者かつ反ユダヤ主義者の一人だった。
 1880年代にその夫は死亡し、兄は狂人(mad)となった。そして彼女は、夫の考え方と政策を支持して促進すべく、兄の諸著作の編集をし始めた。 
 Förster-Nietzsche 夫人は、彼女の兄の著作物に対して排他的権利を持った。そして、出版したいと思うものだけを出版した。
 (彼女は、1930年代まで生きた。)
 彼女は、完全では決してないニーチェの選集のいくつかの版を出版した。
 (10)  彼女はとくに、1908年まで、〈この人を見よ(Ecce Homo)〉の出版を遅らせた。
 これはニーチェの最後の著作の一つで、反ユダヤ主義、ナショナリズム、人種主義、菜食主義、軍国主義、および権勢政治に対する批判を述べていた。
 そして彼女は、この書物をきわめて高価にして出版した。
 それより前に出版した諸著作は、兄にとってきわめて悪意のある声価を確立する鍵になっていた。
 ニーチェの文章の中には、数百頁になる断章やアフォリズムがあった。
 彼女は、これらの一部を1901年に、その他の多くをのちに〈権力への意思(The Will to Power)〉という挑発的な表題を付けて、出版した。
 これらは、初期の諸著作のための覚え書だった。
 彼女はこれらをでたらめにつなぎ合わせ、兄の最後の体系的な作品で構成されていると示唆した。
 このような編集の操作によって、ニーチェは絶望的に理解し難く、曖昧で、非体系的で、反ユダヤ主義で、猛烈に民族主義的で、かつ親ナツィだ、という考えが広がるに至った。
 ドイツの学界にいくぶんか歪曲の少ないニーチェの見解が現れたのは、ようやく第一次大戦の後だった。また、アメリカの学者たちが系統的にニーチェを検証して教育し始めたのは、まさにようやく、第二次大戦の後だった。
 (11)  ニーチェの思想は、少なくとも二つの発展段階を通っていた。
 第一の時期には、逆のことへの多数の異論があったにもかかわらず、ニーチェは、ロマンチシズムの伝統と緊密に歩調を合わせ、非合理的なものをしばしば称賛しているように見えた。
 彼はこの時期に、ワーグナー(Wagner)と親しく交際した。
 (12)  ニーチェの思想の第二期には、批判主義、コスモポリタン主義、良きヨーロッパ人を擁護し、民族主義を批判して、啓蒙思想(the Enligtenment)に接近した。
 二つの時期を通じて、ニーチェは一般に、リベラリズムや、自分が中間階層の文化の俗物性だと見なしたものに対して、批判的だった。
 ドイツの多くの哲学者たちのように、彼は、理性を用いて、理性の領域に挑戦し、あるいはそれを限界づけた。
 ——
 第1節、終わり。

2452/西尾幹二批判037。

 西尾幹二の個人全集第17巻(2018年)の特徴は、前回に書いたことのほか、いくつかある。
  一つは、この巻が対象としている自分の文章等についての、読者が恥ずかしくなるほどの自画自賛ぶりだ。「後記」から、例を挙げる。なお、別巻収載の同『国民の歴史』にも言及がある。
 ①「それよりも今一番見逃せないのは、私の最大の長所が、日本史のトータルを歪曲した勢力との思想的格闘にあったことだ」。p.748。
 ②「(この巻の)第一部は従来の歴史思想を挑発し、徹底的に論破しようとしている。
 第二部は学問的に内省し、自分の立場を固めようとしている。」p.749。
 ③「ことに第三部の最後の三篇」は「…全国規模のドキュメントで、推理小説のようにスリリングであり、最後に思いもかけない『犯人』が暴露されるいきさつをお楽しみいただきたい」。
 ④「『国民の歴史』『地球日本史』その他によって遺産として遺された著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう」。
 この点を除けばつくる会運動の意義はない、と言えば「運動の具体的関与者」は不満だろうが、「歴史哲学の存在感は大きい」。p.751。
 (『国民の歴史』等は「歴史哲学」書だと西尾本人が言っている!—秋月)
 ⑤「『国民の歴史』の前半」を…に力点を置いて「読まれるようお願いしておきたい」。「これからの時代にその必要度は増してくると思われるからである」。p.752。
 ⑥上の理由はつぎのとおり。「中国を先進文明とみなす」病理が巣食っているが、「この点を克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明的視野を備えていて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナミズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
 以上。
 ④での「歴史哲学」という言葉の使い方にも驚くが、この⑥は、呆れかえる、「精神・神経」の健全さすら疑う、というレベルのものだ。
 本当に喫驚する。
 仮に万が一適切だったとしても、自分の著について、「グローバルな文明的視野を備えてい」る、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命」がある、と書くことのできる日本人文筆者は他にいるだろうか。
 そして、その内容、自己主張に適切さは全くないとなると、いったいこの人はどういう「精神・神経」の状態にあるのだろうか。
 --------
  日本人ではない、「哲学者」とされるニーチェ『この人を見よ』は、その傲岸さを感じつつ(各文献を知らないままで)戯れに読むと、面白い作品だ。
 あくまで一部の紹介だが、「なぜわたしはこんなに賢明なのか」等の他に「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」と題する章があり、さらにその中に、つぎの文章がある。
 「『悪意』のある批評を書かれた事例」はほとんどないのに反して、「まるでわたしの著書がわからないという純なる愚かさの実例となると、これは多すぎるくらいにある!」
 ドイツ以外には「至るところに読者」があり、「選り抜きのインテリゲンチアで、高い地位と義務の中で教育された信頼すべき人物ばかりだ」。
 「要するに、わたしの著書を読み出すと、ほかの本にはもうがまんできなくなるのだ。哲学書などはその筆頭である。」
 「およそ書物のうちで、これ以上に誇り高い、同時に洗練されたものは絶対にない。」
 長くなるから、これくらいにする。訳は、手塚富雄:岩波文庫(1969年)によった。
 西尾幹二は、ニーチェを基準とすると、まだ可愛いのかもしれない。
 --------
  もう一点、西尾個人全集第17巻については、指摘しておくべき重要な点がある。つぎの機会に回す。
 ——
 

2451/西尾幹二批判036—「つくる会」運動。

 一 自らが初代会長だった「新しい歴史教科書をつくる会」の運動について、西尾幹二はこう語ったことがある。
 ①月刊諸君!2009年6月号(文藝春秋)。p.204-5。この雑誌の最終号の8名による座談会で、宮崎哲弥が「つくる会」は戦後保守の最初で「おそらく最後の」「大衆運動」だろうと見ていたと発言すると、西尾はすぐあとにこう発言した。
 「いや、運動はしましたよ。それはさかんに動いたけれども、結局、大勢我に利あらずして、現実を動かしえなかった…、私はそう総括しています。
 保守言論の無力というものを露呈したわけです。
 あのときの中韓との戦い<中略>、日本は負けてしまって…いまだに負けつづけているのです。」
 ②月刊WiLL2011年12月号(ワック)。これを現時点で散逸しているので正確な引用はできない。記憶による。
 西尾が自分が書いたものは全て「自己物語」で「私小説的自我の表現」だった旨を言い、対談者の遠藤浩一が、<そうすると、つくる会という組織の運営は大変だったでしょう>という旨を質問気味に発言すると、西尾は、こう反応した。
 <そうなんです。だから、失敗したのです。>
 (この部分は現物を見て後日修正するかもしれない。)
 --------
  2009年、2011年の時点では、このように「無力」や「失敗」という言葉を用いていた。
 しかし、西尾個人編集の独特な<全集>の2018年の「歴史教科書問題」の巻(第17巻)になると、「つくる会」運動は全くまるで異なったものだったように描かれている(そのように個人編集されている)。
 この2018年刊行本の中に、前年2017年の「つくる会」20周年記念集会用の挨拶原稿が収載されている。その中につぎの文章があることは。すでに何回か触れた。もう少し範囲を拡大して。以下に(再)引用・紹介する。p.711-2。
 「“ジャパン・ファースト”の起点——歴史教科書運動」〔冒頭見出し—秋月〕。
 「ジャパン・ファーストで行こうと声をあげたのは、『新しい歴史教科書をつくる会』にほかなりません。」
 私は機関誌創刊号で「これを『自己本位主義』の名で呼びました」。
 「採択の結果は乏しかったのですが、…流れ出したジャパン・ファーストの精神運動はさまざまな方面の人々に引き継がれました」。保守言論界の雑誌に「集結した人々の文章のみが、今では唯一の国論をリードするパワーです」。
 「グローバリズム」は「国際化」とのスローガンで彩られていましたが、会はそのような「美辞麗句」を嫌い、「反共だけでなく反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。
 「私たちの前の世代の保守思想家、たとえば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。
 反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。」
 三島由紀夫と江藤淳が「先鞭をつけました」が、「しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です。」
 「われわれの運動が曲がり角になりました。
 反共だけではなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのですが、単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれ本来の目的だったということを、今確認しておきたいと思います。」
 以上。
 これが、西尾幹二が2017年時点で確認または総括する「つくる会」運動の積極的意義だ。失敗でも無力さもなかった、そうではなく、格調高い?意義を持っていたのだ。
 もっとも、西尾は「精神運動」、「反米思想」、「歴史観」といった言葉を使っているので、「精神」・「思想」運動のレベルでの意義を語っているのかもしれない。つまり、「教科書採択の成果は乏しかったのですが」とだけ触れつつ、その<現実>の背景・原因・理由には、最初の会長でありながら、いっさい触れず、何の総括も述べていないのだ。たぶん、その点を概括した文章も当時に書かなかったのだろう。
 良い面だけを取り上げる、そして全くかほとんど、「精神」・「思想」面に関心を示す(触れたくない「現実」は無視する)、という、この人物の(特にこの全集・巻の編集に際しての)特徴がよく表れている。
 上に「良い面」と書いたが、西尾にとってのそれで、詳論しないが、根本的間違い、誤った国際情勢把握を、ここでも示している。
 <アメリカからも中国からも自立・独立せよ>、とこの人物は別の論考で明言しているが、妄想・空想の類だ。軍事、食糧、エネルギー、デジタル商品、労働力等々、完全に一国だけで「自立」している国家など、どこにあるのか。西尾幹二のグローバリズム批判と「日本本位主義」は異常の域に入っているように思われる。
 --------
  ついでに。
 上に紹介した2017年の文章をあらためて読んでいると、つぎの印象が生じる。
 この人は、竹山道雄、福田恆存、三島由紀夫、江藤淳に並ぶレベルの「思想家」とでも自らを勘違いしているのではないか。
 竹山と江藤についてはよく知らない。だが、西尾幹二が後世に福田恆存や三島由紀夫と並んで言及されるような、この二人と同列の人物だとは全く思われない。またおそらく、竹山よりも江藤よりも、劣った仕事しかしていないのではないか。
 要するに基本的には、読者をレトリックで煙に巻くことに長けた、かつやたら〈顕名〉=自己顕示を気にする「物書き」=文章執筆請負業者にすぎないだろう。この点は、これからも、この欄で(ニーチェの影響も含めて)述べていこう。
 また、西尾幹二が独特の「個性的」人物であるようであることの一例は、個人編集全集第17巻に即して、次回に書く。
 ——

2450/F. フュレ・全体主義論⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 第8章の試訳のつづき。
 ——
 第6節。
 (1)ヒトラーは疑いなく、ドイツの支配階層、右翼の政界によって権力を与えられた。だが、彼がそこにいたという理由だけで、権力を掌握した。
 彼は右派にいる目的をもって、大衆の大部分を納得させなければならなかった。
 言い換えると、ドイツの支配階層によって操り人形のごとく権力を与えられたのではなかった。
 現実には、彼は長い間、権力の門を叩いてきていた。
 仲間の党員たちがおり、財源等々を持っていた。
 そして、全ての対抗者たちを消滅させるこの機会を得た。
 ドイツでの公然たる異論が封じられたのは、ほとんどは1934年と1935年に起きたことだった。
 私はこれを、ナツィ革命または全体主義の始まりと呼んでいる。
 権力掌握以前からヒトラーには大衆に対する魅力があり、政治的エリートたちとは関係がなかった。
 しかしながら、ドイツ議会の右派の無知のおかげの権力掌握後に、ヒトラーの革命は起きた。その右派を、彼は左翼に対して行ったように壊滅させることになる。
 革命が行なったのは社会全体を服従と沈黙へと縮減することであり、ナツィ体制への忠誠を声明するのを義務づけることで、社会は破壊された。
 ヒトラー・ドイツをスターリン・ロシアに最も似たものにしたのは、この特徴だ。すなわち、イデオロギー的な一党国家。完全であるために、私的生活すら、家族内であってすら、被支配者は制約のもとに置かれるという専制体制。//
 (2)このような体制の最も重要な特質は、社会生活の全体的な統制、完全に自律性がなくなるまでの市民社会の縮小だ。
 だから私は、イタリアは特殊な例だと思う。ファシスト・イタリアは、ナツィ・ドイツが経験したような政治的隷属の程度には全く達しなかったのだから。
 ロシアとドイツには、一つの大衆政党、イデオロギーの絶対的優位性があった、とされる。
 ファシストと共産主義者では国家の長の役割にわずかな違いがある、とも言われる。共産主義体制の場合よりもファシスト体制の場合に、長の役割はより重要だ。一方、共産主義体制での国家の長の機能的側面は、ナツィ体制に比べて、より強調されてはいる。
 そうして、日常生活に関するかぎりでは、二つの体制はお互いによく似ていた。また、両体制はともに、専制政(despotism)の伝統的形態と比べて、全く新しいものだった。
 厳密に用いるかぎりで「全体主義」という言葉が好ましく響くのは、これら両体制は新しいからだ。
 それらに相応しい言葉は、以前には存在しなかった。
 事物が存在して名前が必要となったがゆえに「個人主義」という言葉が1820年と1830年の間にフランスで出現したのと全く同様に、「全体主義」という言葉が、事物が存在するがゆえに作り出されなければならなかった。そしてこの言葉は、ナツィズムとスターリニズムを正確に特徴づけるものとして考案された。
 この言葉なくして我々は何をできるのか、私には分からない。
 この観念を受け入れようとしない者たちは、まともではない党派的な理由でそうしている、と私は思う。
 そのような者たちが代わりにどんな用語を使うのか、私は知らない。//
 (3)「暴政(tyranny)」は、古典的古さをもつ典型的な用語だ。
 この用語は、全体主義の現象がもつ民主主義的側面を考慮に入れていない。
 民主主義的側面とは、イデオロギーの観点を生むということだ。というのは、大衆の間に連帯意識を生み出すために、共通する考えの一体が必要とされ、党または国家の長により宣伝された。そしてこれは、新しい種類の君主政、全体主義的王政、の特徴だった。
 全体主義とは民主主義の産物であり、大衆が歴史に参加することだ。これは、H・アレントに見られるが、他の重要でない思想家にはほとんどない理論だ。
 西側の政治学は、トクヴィルの民主主義思想を理解していないように思える。—個人の平等は自由への途を開けるだけではなく、専制体制への途も開く。
 そして、政治的自由を「民主主義」という言葉と結びつける傾向がいつもある。//
 (4)トクヴィルに関して素晴らしいのは、ともに出逢う人々が自分たちを対等だと考えるときに人間性へと向かう新しい時代が始まった、という彼の確信だ。
 条件の平等は、人々が平等であることを意味しない。そうではなく、仲間である人間に遭遇するときに近代の人間は自分自身がその人と平等だと思う、ということを人類学的に明らかにしている。
 そしてトクヴィルは、これは人間性の歴史における革命だ、と理解した。//
 ——
 第8章、全体主義論、終わり。

2449/ニーチェ研究者・適菜収の奇矯①。

  適菜収は「反橋下徹」で目立つ風変わりな物書きで、橋下徹(・日本維新の会)と組んだ憲法改正には断固反対すると安倍晋三政権のときに書いていたし、同じく「反橋下徹」で、工学部教授でありながらH・アレントに依拠してと虚言を吐いて「ファシズム」に関する本を出版した、やはり風変わりな藤井聡(京都大学)と対談などもしていた。
 その(私から見ての)奇矯さが強く印象に残っていたが、最近、適菜収は「ニーチェ研究者」だとか「ニーチェを専攻」だとかを自書等に自ら記していることを思い出した。または、それに気づいた。
 但し、ニーチェに関する新書類を複数出しながら、学界・アカデミズム内で「ニーチェ研究者」と認知されているわけでは、間違いなくない。大学文学部卒とだけ経歴にあるので、せいぜい卒業論文の主題をニーチェにした程度で、大学院に進学してニーチェに関する研究論文を執筆したのでは全くないと推察される。取得していればすすんで明記するだろう、「文学博士」との記載もない。
 一般的に学界・アカデミズムの優先・優越を前提としているのでは全くないが、上のことは、適菜収の理解や主張を少なくとも「うのみ」にしてはならないことの理由にはなるだろう。
 下にも出ているが、私の知る限りでは、月刊雑誌(のしかも実質的巻頭)に初めて登場したのは、桑原聡・代表、川瀬弘至・編集部員時代の月刊正論(産経新聞社)2012年5月号だった。
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  月刊正論や産経新聞の本紙自体に適菜収が登場したことを契機としてだろう、産経新聞社に対して、愛読者から、つぎのような助言または警告が発せられた。
 それは「産経新聞愛読者倶楽部」というサイトに投稿されたもののようで、実際の執筆者の氏名等は不明だ。但し、無署名であることが内容の虚偽や不誠実性の根拠にただちになるわけではない。
 適切だと感じる点も多く、また初めて知ることもあった。以下に出てくるベンジャミン・フルフォードという人物は、カナダ生まれだが日本の大学を卒業し、のちに日本に帰化した。外国人だから世界的な権威がある程度はあるのだろうと感じる人がいないとも限らないので、あえて記しておいた。
 以下のは、引用符を付けないが。投稿文のほぼ全文で(もともと本欄による一部省略あり〉、この欄にすでに2012年4月に掲載していたものの再掲だ。改行箇所を増やす等の変更だけは行なっている。
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 産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か/理念なきB層政治家/橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。
 筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。
 巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。//

 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収/「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。
 『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。
 締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。//

 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。
 しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。//
 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。//

 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。
 読売新聞平成19年2月22日付夕刊「徳間書店新刊書の販売中止を要請/米人権団体『反ユダヤ的』/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書『ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』について、『反ユダヤ主義をあおる内容だ』として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。
 同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。
 徳間書店は、『現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう』と話している。//

 産経新聞平成19年2月23日付朝刊「米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍ニーチェは見抜いていた—ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』(徳間書店)について、『反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの』と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。
 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。
 同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』『ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している』などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。」//
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。
 つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。
 産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう
 ——
 以上。

2448/F. フュレ・全体主義論⑤。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第8章/第3節。
 Renzo De Felice は、実証主義的歴史家だった。ノルテと違って、哲学を嫌い、事実こそが自分で物語ると主張した。
 彼は認識論的にはいくぶん無頓着で、歴史叙述に必要な莫大な量の予備作業を好まなかった。
 彼の人生は、私のそれに似ている。彼は1956年まで、共産党員だった。
 悲しいことに、最近逝去した。—私はイタリアの新聞のために、追悼文を書いている。
 共産党を離れるときにはよくある瞬間があった、と思う。彼はイデオロギーの眼鏡を外し、物事を違って、真実に即して見たのだ。そして、目を開いた。
 De Felice は、私より以前から共産党の反ファシズムを疑問視していて、面向きの反ファシズムは共産主義を民主主義と分かつものを覆い隠す手段だと正しく見ていた。
 彼はまたイタリアのファシズムに関する著作を書いた。それは、イタリアでは右よりも左に傾斜していた運動に政治的および知的な起源があることを精査した研究書だった。左の運動とは〈Risorgimento〉という社会主義者の極左の伝統のことだ。
 彼の著作のうち最も大きな話題となったのは、ムッソリーニの伝記の第三巻だった。そこでは、ムッソリーニはイタリア史上、かつ1929年と1936年の間はヨーロッパ史上一般で、最も有名な人物の一人だと説明されている。//
 --------
 第4節。
 (1)全体主義の定義自体に議論があるが、私は、イタリア・ファシズムはこの枠に一部だけ適合していた、と考えたい。と言うのは、君主政とカトリック教会の力は強いまま残っていて、たいていの部分でムッソリーニと宥和し、また、彼から敬意を払われていたからだ。
 その体制は、1938年まで反ユダヤ的ではなかった。
 ヒトラーからの類推でのみ、そうなった。
 1920年代や1930年代のファシスト党には、多数のユダヤ人が存在すらした。//
 (2)イタリアの歴史では、ファシズムは一つの黙示録ではなかった。体制は1943年に終末を迎え、ファシスト評議会はムッソリーニを解任したが、これはきわめて異様なことだった。
 イタリア人が決して言わず、De Felice が十分に明らかにしたのは、従前のイタリア・ファシストの多くが1943年と1945年の間に共産主義者になっていて、レジスタンス運動に現れ、サロ共和国(イタリア社会共和国〔ヒトラー・ドイツの傀儡国家とされる—試訳者〕)に敵対した、ということだ。
 これはイタリアでは公然たる秘密だ。戦後のイタリア共産党の多数の党員は、ファシズムから来ていた。
 さらに加えて、これもDe Felice がその書物で説明していることだが、戦後のイタリア民主主義の特徴の多くは、ファシズムから継承している。—労働組合や大衆政党の役割、国家の産業部門。//
 (3)De Felice は非凡な歴史家で、哲学的にはいくぶん狭量だが、素晴らしい洞察力を持っていた。
 彼が書いたムッソリーニの伝記は、権威あるものとして長く残りつづけるだろう。
 実証主義歴史家のように短く散文的に、彼は、イタリア・ファシズムの年代的歴史を提示する。
 彼はこれを、無比の公平さでもって行う。むろんそれによって、彼は20年間、誤解され、侮蔑されたのだった。
 最終的には、良い書物の全てについて言えることだが、彼は成功した人物になった。//
 --------
 第5節。
 追放されたフランスのユダヤ人たちの帰還を、私はよく憶えている。
 きわめて鮮明な記憶だ。
 私は、18歳だった。
 強制収容所の実態は、私にきわめて強い印象を与えた。
 フランスのユダヤ人はユダヤ人犠牲者としてではなく、フランス人犠牲者として帰還してきた。
 (この主題については、ちなみに挙げればAnette Wieworka のもののような、良書がある。)
 彼らはフランス・ユダヤ人社会に同化して、全く自然に、迫害されたのはフランス国民としてだった、と感じた。
 しかし、もっと重要な点は、共産主義者たちがこの時期に、自分たちがナツィズムの主要な犠牲者だ、と考えられるのを欲したということだ。
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようとした。彼らは戦争後に、犠牲者だとする恐るべき作戦に着手した。
 私はこれが全くの作り事で、共産主義者たちは実際にはファシズムによって迫害されなかった、と示唆しているのではない。
 そんなことは、馬鹿げているだろう。
 私が言いたいのは、1939年と1941年の間に断続的に覆い隠されたがゆえにそれだけ一層大がかりに、彼らは自分たちの反ファシズム闘争を利用した、ということだ。
 東ヨーロッパでは、積極的共産主義者あるいは反ファシストたる「ソヴィエト」人民が果たした役割を小さく見せないように、ユダヤ人の苦難は系統的に隠蔽された。
 今では状況は逆になり、我々と同世代の者がナツィズムの犯罪を考えるときにもっぱらユダヤ人大虐殺に焦点を当てがちであるのは、想定するのがかなり困難だ。//
 ——
 全体主義論⑤(第3節〜第5節)、終わり。次節へとつづく。

2447/西尾幹二批判035—「日本に迫る最大の危機」。

  西尾幹二の諸君!2008年12月号によると、日本の「論壇誌」は「イデオロギー」に嵌まらないで、「現実」に目を開き、「現実」を回復しなければならない。
 しかし、まさにその同じ論考の中で、雅子皇太子妃(当時)に関する「現実」をおそらくは完全に無視する文章を書いている。
 西尾によると、「自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾き」がイデオロギーの意味のようなのだが、この「怠惰な心の傾き」は、西尾幹二にも厳然と存在するようだ。
 西尾は、皇室問題での自分の主張を非難する二つの立場について、こう反駁する。
 「二つの立場の、どちらも方々も、あれほど明白になっている東宮家の危機を、いっさい考慮にいれないのです。
 問題は何もない、と言い張るのです。
 目を閉ざしてしまうのです。」
 <危機>というのは評価または解釈が混じる言葉だ。では、<日本に迫る最大の危機>という中見出しのあとのつぎの文章はどうだろうか。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。
 というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。
 <見受ける>だけだと、厳密には、あくまで「推測」なのかもしれない、とも言える。
 しかし、上を全体として読むと、<雅子妃は宮中祭祀を『なさる』意思がなく、拒否し続けている>ということを、西尾が「事実」または「現実」だと受け取っていることは明確だろう。
 なお、その原因にはここでは西尾はいっさい触れていない。
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  元に戻って記すと、西尾『皇太子さまへの御忠言』による「提言」は、西尾によると「典型的な二種類の反応」を惹起した。
 一つは、多くの選択権・無制約をよしとする「いわば平和主義的、現状維持的イデオロギー」で、将来の皇后にも「もっと自由を」、「新しいご公務を」、とするもの。
 もう一つは「むしろ古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的イデオロギー」で、例えば「臣下の身」で「不敬の極み」だとするもの。自称「旧皇族」から国学院大・皇學館大学の教授まで、「伝統保守イデオロギー」からの反発も「熾烈」だった。
 これら二つ、一方は「新しい時代の自由」、他方は「旧習墨守」という「固定観念への執着」を見て、西尾幹二はこう感じた、という。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
 そのあと、既述の「あれほど明白になっている東宮家の危機」をめぐって、「自由派」も「伝統派」も、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいい」、「自分たちの観念や信条の方が大切なのです」と批判する。
 「論壇誌」に対しては、あらためてこう指弾する。
 「イデオロギーに頼って『ことなかれ主義』に手を貸し、揺れ動く世界の現実から目を逸らしているうちに、日本に迫る最大の危機すら曖昧になってしまう
 それが今の雑誌ジャーナリズムを覆う、いちばんの病弊なのではないですか。」
 --------
  西尾幹二の議論が雅子皇太子妃に宮中祭祀を「なさる」意思がなく、それを拒否している、という西尾にとっての「現実」から出発していることは疑い得ない。
 その理由は一般に「ご病気」とされていたが、西尾の別の発言によるとそれは「仮病」だ。そのような「行動と思想」をもつ人物が将来に皇后になるかもしれない、これは「日本に迫る最大の危機」だ、そのような危険性を、「自由派」も「伝統派」も見ていない(自分はちゃんと見ている)、というわけだ。
 その後の事態の推移をも踏まえてということにはなるが、詳細は省いて、西尾幹二の以上のような指摘・主張は、いささか異様、異常ではないだろうか。
 「つくる会」分裂後の八木秀次に対する「人格攻撃」も凄いものだったが、皇太子妃問題をめぐって自分を批判する両派に対する反批判も、なかなかのものだ。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
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  ところで、西尾は、皇太子妃の宮中祭祀を「なさる」意思の欠如を問題にしている。
 ここでは、皇太子妃も宮中祭祀を「行う」主体の一人であることが前提とされている。このような表現をする点は、天皇退位問題に関する「5バカ」の一人、妄言者の加地伸行も同じ。
 そうだとすると、少なくとも天皇・皇后、皇太子・同妃の四名は、宮中祭祀の場所である宮中三殿で、全員で一緒に?、三殿またはいずれかの「殿」の祭神に対して「祭祀」を行う、ということなのだろうか。
 西尾幹二は、宮中祭祀とはどういうものであるのか、その際に皇太子妃はどうある「べき」かをいったい何がどのように定めているのか、正確に知っているのだろうか。明治時代、大正時代、さらには「皇太子妃」がいたとして江戸時代とそれより以前は、どうだったのか?
 不十分な理解のままであったとすれば、西尾の議論のほとんど全てが、ガラガラと崩れることになるだろう。
 --------
  ついでに。この西尾論考は、諸君!12月号の実質的には巻頭に置かれている。
 月刊雑誌・諸君!は、その後一年以内に廃刊となった。以上のような西尾論考を重視したこととその反応は、小川榮太郎が新潮45(新潮社)の廃刊の引き金を引いた程ではかりにないとしても、諸君!編集部と文藝春秋の判断に影響を与えたのではなかろうか。
 また、西尾も明記するように、<保守>派内でも異論があり、西尾幹二(や中西輝政)はその中でも少数派だっただろう。
 いずれにせよ、<保守>派内に亀裂を生んだことは間違いない。
 翌2009年8月末実施の総選挙で自民党は大敗し、政権は民主党に移る。
 西尾幹二に限らないが、<保守>派論者はいったい何をしていたのだろう。政権交替は、自民党だけの「責任」ではあるまい。
 雅子皇太子妃・皇室問題が「日本に迫る最大の危機」だと!?
 西尾幹二は、「ねごと」を書いていたのだ。他にも多数書いている(編集者はきちんと読むべし)。
 それにもかかわらず、産経新聞出版(編集者・瀬尾友子)、新潮社(同・冨澤祥郎)、筑摩書房(同・湯原法史)らは、近年にも西尾の本を出版している。こちらも、大いに不思議だ。
 ——

2446/H.マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次①。

  H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20.überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)
 目次(Inhaltsverzeichnis)の試訳。
 ——

 目次
 第一部/行政と行政法
  第1章・行政
   第一節・行政の概念
    1 多様な行政概念
    2 実質的意味における行政
    3 行政の典型的標識
   第二節・行政の多形成性
    1 行政の対象
    2 行政の任務または目的設定
    3 行政手段の国民に対する法的効果
    4 行政の法形式
    5 法律による拘束(Gesetzesbindung)の程度
    6 行政組織の種別化
  ---------
  第2章・行政と行政法の歴史について。憲法と行政法。欧州統合。
   第一節・行政の憲法依存性
   第二節・行政の歴史の諸時代
    1 17-18世紀の絶対国家における行政
    2 19世紀のリベラルな法治国家における行政
    3 20世紀の社会的法治国家における行政
   第三節・行政法の発展
   第四節・基本法のもとでの行政法
    1 法律による拘束の包括性
    2 議会と裁判所による統制の間での行政の独自性
    3 給付行政および嚮導行政の任務
    4 行政客体ではない人としての国民
    5 行政法に対する憲法上の帰結
    6 近年の改革の議論
    7 行政の現実(Verwaltungswirklichkeit)
   第五節・従来のドイツ民主共和国における、および再統一の際の行政法
    1 ドイツ民主共和国における行政法
    2 再統一の前およびその間の行政法
   第六節・欧州統合
    1 同盟法のドイツ行政法への影響
    2 同盟法の執行
  ----------
  第3章・行政の法
   第一節・行政法
    1 行政法総論と行政法各論
    2 外部法と内部法
   第二節・公法の一部としての行政法およびその私法との区別
    1 公法と私法の区別
    2 区別の諸理論
    3 区別と帰属
   第三節・私法および行政私法による行政作用
    1 需要に対応する行政
    2 行政の企業経済的活動
    3 私法の形式での行政の任務の遂行
    4 基本権による拘束
   第四節・法律により十分に規律されていない事案の検討
    1 事実行為
    2 法的行為
   第五節・行政法における私法上の諸規定の補助的適用
    1 問題性と適用領域
    2 理由
    3 債権法改革、とくに消滅時効に関するそれ、の影響
    4 行政私法への遡及効
 ——
  第4章・行政法の法源
   第一節・法源論と階層論
   第二節・現行の階層関係の概観
    1 法領域と法条(Rechtsätze)
    2 階層
    3 手続の側面
   第三節・ドイツ法の成文法源。憲法、形式的法律、法的命令および条例
    1 憲法
    2 形式的法律
    3 法的命令
    4 条例(Satzung)
   第四節・慣習法
    1 概念と条件
    2 通用領域
   第五節・行政法の一般原則と判例法
    1 行政法の一般原則
    2 判例法(Richterrecht)
   第六節・行政規程(Verwaltungsvorschriften〉
   第七節・連邦法と州法
    1 形式的法律
    2 法的命令
    3 条例
    4 慣習法
    5 行政法の一般原則
   第八節・法源の階層秩序の個別的問題
    1 規範の衝突
    2 慣習法の組入れ
    3 審査と評価の権能
   第九節・同盟法
    1 一次法と二次法
    2 階層、審査と評価の権能
    3 同盟法の優先適用の根拠と限界
   第一〇節・国際法
  --------
  第5章・行政手続法(VwVfG)
   第一節・行政手続法の成立と発展
    1 前史
    2 草案
    3 関連法律
    4 行政手続法の改正
   第二節・行政手続法の意義
   第三節・行政手続法の適用範囲
    1 公法上の行政活動
    2 連邦官庁
    3 特定の行政手続への限定
    4 適用排除条項
    5 補充条項
   第四節・諸州の行政手続法
    1 概観
    2 適用可能性
    3 行政手続法の適用可能性の拡大
   第五節・欧州法の次元 
  ——
  第一部、終わり。細目次②、第二部へとつづく。

2445/西尾幹二批判034。

  西尾幹二「雑誌ジャーナリスムよ、衰退の根源を直視せよ」諸君!(文藝春秋)2008年12月号
 西尾はこの論考で、何やら<上から目線>で、「現在の論壇誌がかかえる問題点」を四点指摘しているようだ。p.28-p.35。
 ①政治論が「思想・政策論と政局論を混同している」。
 ②一部経済論客のようにではなく、「経済、政治、歴史を総合的に論じる」必要がある。
 ③「国際政治と国内政治を、まったく無関係のものとして論じる傾向がある」。
 ④以上は「枕」。
 本質的には「イデオロギー」、「なんらかのぬきがたい先入観」を含んでいる。経済論客には「経済価値観イデオロギー」がある。最近さかんな「保守イデオロギー」も「時流に乗る」ようなもので、「日教組流と構造が同じなのではないですか」。
 この論脈でと見られる叙述は概括しづらい。アメリカか中国かと迷っている日本人が多く「自分自身」がない、日本が中心となる「心の準備」をすべきだ、旨の叙述の後、次の文章がある。
 「イデオロギーは、自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾きです。
 反米も反中も、新米も親中も、みんなイデオロギーにすぎません
 そういう状態を脱して、現実—リアリティを回復するのが日本再生 への道であり、論壇誌はその過程にこそ貢献すべきなのです」。
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  本当に指摘しておきたいことは別にあるが(次回とする)、以上で区切って、批判的にコメントしよう。
 第一。西尾はどういう資格があって、「雑誌ジャーナリズム」または「論壇誌」を上のように批判し、または注文をつけることができたのか。西尾自身は上のような欠点や弊害なくして執筆してきたとはいっさい書いていない。また、一方で、自分はできていないが、期待・希望するとの謙虚な?言葉もない。
 この人は2020年に<哲学・歴史・文学>の総合的把握が理想だった旨書いたが(歴史の真贋・新潮社〉、それも覚束ない人物が<経済・政治・歴史>の総合的論述が必要だと、2008年によくぞ書けたものだ。
 第二。立ち入らないが、国際情勢・国際政治について、根本的間違いをしているだろう叙述もある。
 第三。上によると、反米・親米や反中・親中は「イデオロギー」にすぎず、現実・リアリティを回復しなければならない。
 ?? 2017年には同じ人物が、福田恆存らには「反共」だけあって「反米」がなかったが、自分と「つくる会」は最初に「反米」を打ち出した、と書いたのだったが、すでに同会は発足し、運動継続中の時点の2008年の末には、このように書いていたのだ。
 「イデオロギー」の意味の理解を変えている等々、西尾幹二は釈明するのかもしれない。
 だが、要するに、この人は、執筆・発言の時期ごとに、異なる、矛盾すると指摘されても不思議でないことを、平然と執筆・発言できる人だ、と断言して、ほぼ間違いはない。
 簡単に言えば、一定の時点の西尾幹二の主張内容をそのまま信じたり、信頼したりしてはいけない、ということだ。
 第四。「現実・リアリティ」を西尾自身が全く理解できていないことは、上のあとに最後に続く、「日本に迫る最大の危機」という中見出しまである、皇室に関する文章で、明確だ。
 2008年に西尾は皇太子妃批判論を継続し、秋に『皇太子さまへの御忠言』を出版していた。その高揚の気分が残っていたのだろうか、この諸君!12月号では、「あれほど明白になっている東宮家の危機」等々と書いている。
 次の機会に回す。
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ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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