秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/11

2444/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020年)大目次。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20,überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 =H. マウラー =C. ヴァルトホフ・行政法総論/修正・補充版(C.H.Beck、München、2020年)。
 現在のドイツで、法学部教授(・法学部学生)が用いている、行政法に関する代表的教科書の一つと見られる。2020年版。
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 大目次(Inhaltübersicht=「内容概要」)
 第一部/行政と行政法
  第1章・行政
  第2章・行政と行政法の歴史について。憲法と行政法。欧州統合。
  第3章・行政の法
  第4章・行政法の法源
  第5章・行政手続法(VwVfG)
 第二部/行政法の基本概念
  第6章・行政の法律適合性の原則
  第7章・裁量と不確定概念
  第8章・公権と行政法関係
 第三部/行政作用—行政行為
  第9章・行政行為の概念、意義および種類
  第10章・行政行為の適法性と有効性
  第11章・行政行為の取消しと撤回
  第12章・行政行為の附款
 第四部/行政作用—その他の行為形式
  第13章・法的命令(Rechtsverornung)
  第14章・公法上の契約
  第15章・単純行政活動
  第16章・計画と計画策定
  第17章・行政私法上の行為、資金助成。公法上の負担の負課。
  第18章・電子政府(E-Government)
 第五部/行政手続と行政上の強制執行
  第19章・行政手続
  第20章・行政上の強制執行と行政上の制裁(Verwaltungssanktionen)
 第六部/行政組織
  第21章・行政組織法の基本構造
  第22章・直接的国家行政
  第23章・間接的国家行政
  第24章・行政規程(Verwaltungsvorchriften)
 第七部/ 国家の義務(補填)
  第25章・基礎
  第26章・基本法34条/民法典839条による職の責任(Amtshaftung)
  第27条・財産権侵害に対する補償
  第28章・犠牲補償請求権
  第29条・その他の請求権の根拠
  第30条・結果除去請求権
  第31章・欧州法違反に対する責任(Haftung)
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 以上。ふつうの目次(大目次に対しては細目次)は、別に紹介する。

2443/F・フュレ、全体主義論④。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 試訳のつづき。
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 第8章第2節②。
 (7)ファシズムと共産主義を現実に生み出した熱情は、第三者に対するそれらの憎悪だ。
 これとの関係で言うと、E・ノルテ(Ernst Nolte)には、私が基本的に同意する直観があった。これら二つは一緒に扱われなければならないという直観だ。
 近代民主主義のこれら二つの奇怪な申し子について、これ以外に歴史的に考察する方法はない。
 私は、一続きの年代的連鎖でもってこれらは相互に生み合った、とたんに言いたいのではない。
 言いたいのは、もっと深い意味で、共同社会(community)についての二つの民主主義的展望は一方は人類の普遍性であり、他方はネイションだということだ。
 そしてこのことは、フランス革命以来今までがどうだったかを示している。//
 (8)E・ノルテの見方では基本的には技術がもたらした二種の厄災があった、ということを理解しないままでノルテを理解できるとは、私は思わない。二種とは、ナツィと、共産主義だ。
 共産主義は、ノルテが「超越」と呼んだものだ。つまり、人々の熱情は自分たちを超え、自分たちの有限性から自由になる。彼が狂気と考えた熱情だ。
 一方、ナツィズムは有限性に全体的に浸ることであり、超越が不可能であることに対する制裁だ。 
 ノルテにとっては、これら二つの体制は同じ問題の二つの形態だ。//
 (9)ノルテの歴史的考察はハイデガー(Heidegger)の強い影響を受けている、と私は思う。ハイデガーは彼の教師だった。私は、表面的にだけハイデガーを知っている。
 〈幻想の終わり〉の第一章で明らかなように、私の哲学的着想はトクヴィル(Tocqueville)から得ている。
 私はトクヴィル的だ。共産主義とファシズムの現象を、トクヴィルが用いた意味での「民主主義」の発展と関係づけている。
 20世紀は、民主主義の最初の世紀だった—19世紀はまだ貴族政に浸されていた。そして、二つの過激な民主主義批判者を生んだ。一つは、普遍主義過剰の形態の、もう一つはナショナルなまたは人種的な共同社会の名前をもつ批判者だ。//
 (10)このことは、平等という世界観の骨格上の曖昧さを、私に思い起こさせる。それは、自由をもたらしたばかりではなく、前例のない専制体制(despotism)の二つの形態をも生んだ。
 暴露されたように、ああ、後者の形態は、人間の自由の悲劇的な実例を提供したのだ。
 道徳の側面では、あるいは神学の観点からしてすら、自由の実践は20世紀には、悪(evil)の問題によって劇的に行われた。
 これは、我々の歴史の神秘的な部分だ。アウシュヴィッツで絶頂に達することになる部分だ。
 私は、E・ノルテが示す前提条件に従ってはいない。
 しかし、彼は依然として偉大な歴史家であり、実際、哲学者以上にはるかに歴史家だ。 
 彼は初めて、1963年の〈ファシズムとその時代(Der Fachismus in seiner Epoche)〉で、ファシズムの基盤を形成し極左と共通する要素を含む、今日では忘れられるか検閲に引っかかる思想の大風景を論述し始めた。
 私の見解では、当時では、共産主義とファシズムを連結させるのはせっかちすぎた。これらとムッソリーニの関係を通じてであれ、ボルシェヴィズムにたいするファシズムの反動関係を通じてであれ。
 しかし、彼は、第一次大戦のあとのヨーロッパの全光景に関する知識という収集物を用いる。そして、それについて、何が新しいものかを示す。
 ドイツでの彼に対する侮蔑的運動を、当惑なしで理解することはできない。
 E・ノルテはたしかに保守派で、20世紀のドイツの運命に苦しんでいる。しかし彼は反ナツィの保守派で、急進的な反ナツィですらある。彼は、ヒトラーがドイツの伝統と文化を破壊したと考えているのだから。
 ユダヤ人に関して言うと、彼は決して、ときに婉曲に指摘されたようには、ホロコースト否定論に傾斜してはいない。
 彼は反対に、この問題については完璧に明確だ。//
 (11)ドイツ人を免罪したことについて、我々はたぶん、彼を非難できるだろう。
 ドイツ人の側には〈特別の〉責任(responsibility)はない、ユダヤ人大虐殺は他者によって行われ得ただろう、さらに、ソヴィエトの犯罪の方が先行していた、といった考え方が明らかにしているのは、理解し難く感じられる思い込み(preoccupation)だ。
 先に言及したファシズムに関する彼の書物の第一巻は、モーラス(Maurras)についてだ。
 E・ノルテがファシズムの先駆者としてフランスの政治思想家を選んだのは偶然ではない、と考えざるをえない。実際には、モーラスの実証主義はファシスト思想の特徴である非合理性とはほとんど比較し得ないのだけれども。//
 (12)ノルテとの最近の会話で、私は、自分の見方では誤っている、ナツィズムとファシズムはボルシェヴィズムの帰結にすぎないとする考え方、に立ち戻った。
 ノルテにとって、ナツィズムの基本的要素は反マルクス主義であり、反共産主義だ。そして彼は、年代的連続関係を因果関係にまでした。すなわち、ヒトラーはレーニンの産物であり、スターリンのそれでもある。
 このことで彼は、内在的な起源を、ナツィズムのドイツ的起源を、消去しようとする。
 ナツィズムをドイツ的根源から切り離そうとするのだ。
 しかし、彼は少なくも、ナツィズムの歴史という問題を取り上げる。この問題は今日では、過去を理解するために抽象的な教訓主義で埋め合わせることによって、軽視されている。//
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 第8章第2節、終わり

2442/西尾幹二批判033。

  諸君!(文藝春秋)2009年9月号はこの月刊雑誌の最終号で、記念企画の一つとして、宮崎哲弥(司会)を含む8名の座談会が掲載されている。宮崎のほか、村田晃嗣、松本健一の名があるのも、少なくとも近年の「保守」系雑誌よりは、執筆者や読者の幅広さを感じさせられる。
 この座談会は「諸君!これだけは言っておく」と題して、種々多様な話題に及んでいるが、皇室問題にも当然に?言及がある。そして、初めて知った西尾幹二の主張または理解の仕方の部分があり、興味深い。
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  四部まであるうちの<第一部・保守は何を守るべきか>の途中でアメリカが出て来た辺りから、西尾幹二は、アメリカと日本の皇室との関係の問題性を持ち出して、強調する。他の者の賛同を得ていない、彼独自の論だ。
 厳密に正確な紹介はし難しいが、おおよそつぎのような「理屈」だ。
 ①「皇室を守るのは権力なのです」。
 ②昭和天皇は「アメリカという権力を採り入れた」が、結果として「我が国は国家権力がなくなってしまったのではないか」。「権力を担っていた自民党保守政権」はかくまでに「弱体化」してしまった。
 ③「日本の国家権力がなくなっている」現在、皇室を守っている権力は何か。「それはアメリカなのではないでしょうか。だとすれば大変だぞ、というのが私の思い」。
 ④「権力が外国に移っている」。「軍事」のみならず「皇室というご存在そのものも、いまやアメリカに従属しかかっている、と考えています」。
 ⑤「東宮家が外務省に牛耳られていること」への疑問と不安を書いてきた。「対米依存心理にもっとも染まった省庁が外務省であるのは疑問の余地がない」。
 ⑥「雅子妃殿下の父君である小和田恒さん」、「この方も元外務官僚ですが、…」。
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  この欄で、西尾幹二は何故、小和田恒または小和田一族をしつこく批判するのだろうか、と書いたことがあった。
 教養学部出身だが職務上も「法学」と縁が深かった東京大学卒業者に対するやっかみまたは劣等感からする憤懣は原因になっていると今でも想像している。
 しかし、その「論理的」原因が上では語られていて、なるほど、と思わせた。
 むろん、肯定的な意味で納得したのでは、全くない。
 ①日本に国家権力はなく、アメリカに移っている。→②皇室もアメリカに従属している。→③外務省は最もアメリカに従属。→④小和田氏は元外務官僚。→⑤雅子妃はその娘(かつ元外務官僚)。
 西尾幹二が雅子妃殿下の「行動と思想」を問題視したのには、このような深遠な?、連想関係があったわけだ。
 しかし、上の①〜③は西尾の「思い込み」または「幻想」だから、真面目に受け取れる筈がない。座談会でも、例えば上の②を田久保忠衛が明確に疑問視している。
 また、雅子妃の問題の原因が父親にある、と言わんがごとき叙述は(この座談会では明瞭でないが)、雅子妃の個人的自立性をすら無視するものだ。
 アメリカと日本の「国家権力」の関係には、立ち入らない。
 但し、日本の対米従属性の指摘は西尾に限らず多いものの、それ以上に、日本には「国家権力がない」、「国家権力は外国に移った」という旨まで明言するものは稀だろう。ここには、西尾の希少性と異様性がある。
 そもそも疑問に思うのは、天皇・皇室には保護する(世俗的)権力が必要だということを前提として(日本の歴史のいつからか?)、現在はアメリカだとするが、アメリカが皇室を牛耳って、あるいは「従属」させて、アメリカにはいかなる利益があるのだろうか、ということだ。
 現在の天皇は明治憲法下と違って「国政に関する権能」を有しない。当時の皇太子が天皇になっても変わりはない。まして、皇太子妃や皇后が日本の軍事・外交に関する「国政」に(アメリカに有利になるように—括弧内・後日挿入)関与できるはずがない。天皇の「国事行為」には内閣の助言と承認が必要だが、天皇ですら、そうなのだ。
 西尾幹二は、アメリカが現在もつ皇室に対する「悪意」(p.209)として、いったいどのようなことを「妄想」しているのだろうか。
 アメリカによる日本の皇室のコントロール、これはアメリカの政策的意図として、本当に存在するのか。西尾独特の「妄想」ではないか。
 これを問題視するならば、現上皇(昭和天皇の皇太子)の家庭教師をアメリカ人女性が担当したことに遡って議論しなければならないのではないか。
 皇室を通じての日本人の「精神」のアメリカ化あるいは欧米化、ということが考えられなくはない。しかし、これも全く愚かで時代錯誤的発想だ。
 皇室を媒介としなくとも、(映画や音楽等の流通もそうだが)日本人と日本社会は、相当程度にすでに欧米化しており、一部を除いて、アメリカを「許容」している、という現実がある。アメリカにとって天皇と皇室は、今以上にいかなる役割が求められているのだろうか。
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  西尾幹二の論述の仕方の特徴と見られるものに、つぎがある。
 a’’/〜でないか、と疑問視または問題提起する。
 a’/上の疑問または問題設定をほぼ事実または正しいものに近いものと叙述する。
 a/疑問視または問題設定した事項を、事実または正しいものと(断定的に)みなして、論述を続ける。
 a’’→a’→a、と、叙述がいつのまにか進展する
 これがb’’→b’→b、c’’→c’→c と続いていくと、a、b、c について十分なまたは説得的な論証、理由づけが欠けているために、論理的に筋が通ったものという印象は生じず、良く言っても、ただ何やら深遠そうなことをあれこれと書いている、という印象しか受けない。
 上の座談会の発言の「論理」にも、例証はしないが、これに近いものがある。他の西尾の文章でも、きちんと読めば、私は同様のことをしばしば感じる。
 出てくる言葉・概念や文章の運びに関心を持つ「文学的」な人々は、西尾を高く評価する可能性はある。しかし、小説等の創作作品、「文芸」評論の文章でない限り、これではダメだ。社会、国内政治、国際政治の適確な「評論」にはならない。学術的な研究論文にならないことは、勿論のことだ。
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2441/高森明勅のブログ①-2021.11.19。

  11月19日付け。<旧皇族で天皇陛下よりお若い方は既婚女性だけという事実>
 「旧皇族」という場合、実際に皇族であったことがある人(最近の真子さまもこれにあたる)と、そのような人の子孫で自分自身は一度も皇族であったことはない人(例えば竹田恒泰)を厳密には区別して考え、前者のみを指す、というのは、一つの常識的な概念用法かと思われる。高森によると、国会での宮内庁次長答弁もその旨らしい。
 ほとんどもっぱら高森明勅のブログから検討状況を知ってきたのだが、手っ取り早くついさっき見た後出の勝岡寛次論考から引用すると、皇位継承問題を考える菅内閣の有識者会議が今年7月の中間報告が出した二つの方向性のうちの一つは、以下だった。
 「皇族の養子縁組を可能とすることで、皇統に属する男系の男子が皇族となることを可能とすること」。
 ここでいう養子縁組の具体的イメージは無知なためかさっぱり湧かないが、ともあれ、「皇統に属する男系の男子」という表現が用いられ、「旧皇族」の男子ではない、ということに気づく。
 高森は上の厳密なまたは常識的な語法を採用すべきと主張する。これによるとおそらく、例えば竹田恒泰は前者であっても後者ではないのだろう。
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  高森が上のブログで、「先頃、保守系の論者の文章の中で、『元皇族』と『旧皇族』を“別の”概念の言葉として使っているのを見かけた(『日本の息吹』11月号)。もはや何をか言わんやだ」と書いている。
 『日本の息吹』とは日本会議の月刊機関誌。秋月瑛二は、何を隠そう、F・フュレの一著等の読者であるとともに、この雑誌の読者なのだ(だからいざとなれば、『日本の息吹』の文章も正確に引用できる)。
 さて、上に該当する部分は少なくて、勝岡幹次「旧皇族の皇籍復帰を考える—有識者会議の議論から」のうち、つぎではないかと思われる。p.13 。
 「旧皇族には多くの元皇族(内親王)が嫁がれていることから、皇族にとっては身内も同然なのだ」。
 勝岡は、「旧皇族」の国民にとっての疎遠さに反駁する論脈で、こう述べている。疎遠感は、皇族離脱からすでに長く経つことのほか、男系男子に限定すると祖たる天皇は室町時代にまで遡ることも理由の一つだろう(この点では、八幡和郎の明治天皇の内親王の末裔(女系!)という理解の上で含めるべきとの議論は現実的だが、実現可能性はほとんどないのでないか)。
 しかし勝岡は、「旧皇族」と「元皇族」の意味の違いをきちんと説明していない。
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  したがって、高森がわざわざ言及した意味は私には不分明だ。
 しかし、上の厳密かつ常識的な概念用法からすると、上の論考で勝岡寛次は、次のように、目を剥く!言葉遣いをしている。
 (検討会の提言にいう)「皇統に属する男系の男子とは旧皇族(旧宮家)のことを指す」。p.11。
 ここでは、今回の冒頭で触れた、現に皇族であったことがある者と皇族だったことはないがその子孫(の男子)とは区別されておらず、全員が「旧皇族」だ。
 自民党総裁選挙中に高市早苗は「旧皇族復帰案」を支持したらしく、高森はそこでの「旧皇族」の用法を批判する。
 思うに、自民党の<いわゆる保守派>は、言葉遣いについても、有力な支持母体である日本会議や神道政治連盟の強い影響を受けている。
 考え方や歴史認識についてもそうで、男系男子で続いてきた我が国の伝統も考慮し、とか言っていた菅前総理大臣もそうだろう。
 政治家は歴史家でも学者でもない。だから多くを期待しても無駄だが、特定政治団体・運動団体の見解・概念用法だけを知って発言するのは危険だ。
 明治の皇室典範発布前には、男系男子に継承者を限るか、という論点について、政府内でも、現在よりも自由で活発な議論があったのではないか。
 今の方が制約が多そうなのは、不思議なことだ。
 現在の「皇族」数、とくに男子の数の減少が今後についての検討が必要なそもそもの問題なのだが、これ以上は省略する。
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2440/F・フュレ、全体主義論③。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 試訳のつづき。
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 第8章第2節①。
 (1)三方ゲームというだけではない。ファシズム、自由(liberal)民主主義、ボルシェヴィズムの三つ全ては、歴史上の比較し得る意義を分け持った。
 ファシストにとって、ボルシェヴィズムは自由民主主義の未来だった。ファシストは自由民主主義を、ボルシェヴィズムを培養する基盤と見なしていたのだから。
 反対にボルシェヴィキにとって、自由民主主義は、ファシズムを培養する基盤だった。彼らは、自由民主主義は必然的にファシズムになると考えていたのだから。
 結局のところ、これらは三つの陣営だった。そして、中間にいる一つは、他の二つへと導く経路にすぎなかった。
 要するに、ファシストにとっては、自由民主主義の真実はボルシェヴィズムであり、ボルシェヴィキにとっては、それはファシズムだった。
 ファシストとボルシェヴィキのいずれも、相手が聴こうとすることを多く語った。
 そして、両者ともに、ブルジョア民主主義を一緒になって攻撃するができるようになった。かつ、両者ともに、ブルジョア民主主義の最終的な継承者だと主張したのだ。//
 (2)神秘的であるのは、人々がブルジョアジーを嫌悪していることではない。
 民主主義者にとって、ブルジョアジーを嫌悪するのは「ふつう」(normal)のことだ。
 ブルジョアジーは、その正統性が全て富に由来する階級だ。したがって、象徴的価値を待たず、正統性がない。
 ブルジョアジーを好ましい階級にするのはむろんのこと、尊敬できる階級にすることは決してできないだろう。
 ブルジョアジーを侮蔑することは、現代社会の夢の一つだ。
 しかし、そのことは必ずしも、20世紀に充満した恐怖につながるわけではない。
 神秘的であるのは、物事がひどく悪く進行し、体制がひどく犯罪的で、そして反ブルジョア感情があのような集団的狂気(collective madness)にまで至った、ということだ。
 近代世界はこの300年間、ブルジョアジーへの憎悪を引き摺ってきている。
 そしてついには、その憎悪とともに生きている。
 その憎悪から、芸術や思想を作り出してすらいる。
 だが、正統性のない地点から我々はどうやって、あの収容所に、数百万の死に、肉体と精神に対して向けられた暴力に至ったのか?
 私の問題は、これを「神秘」と呼んでいるのだが、20世紀の悲劇的性格だ。//
 (3)我々は、全てを理解したとか、説明したとか、そういう自惚れには抵抗しなければならない。
 とっくに時代の政治的熱情の底に到達し、それを育てた複雑な条件をもう一度作った。
 しかし、20世紀のヨーロッパの文明化の程度とその歴史の特徴である残虐な狂気の間にある対照さについては、理性的な説明が行われていないままだ。
 制服を着たドイツ人の集団的加虐性は、Daniel Goldhagen が叙述したけれども解明しなかった神秘のままだ。//
 (4)H・アレントはたしかに、20世紀の偉大な目撃者の一人だった。その著作への私の敬意には留保がつくけれども。
 彼女の思考はしばしば混乱していて、ときには矛盾しており、少しばかり煽動的だ。同時に反モダン、反ブルジョアジー、反共産主義者、反ファシスト、反シオニストでいることはできない。そして、これらを全て拒否したとしてもまだ、20世紀の政治の歴史に関して明瞭に思考することはできない。//
 (5)分かるだろう。H・アレントの歴史の仕事は弱い。—例えば、彼女は〈全体主義について〉の最初の二巻で、深い専門的知識をとくには示していない。
 彼女のドレフュス事件(Dreyfus Affair)の知識は大雑把なもので、同じことはファシズムの由来に関する彼女の知識についても言える。
 彼女のあの大著の歴史の部分は、むしろ総じて弱い。
 素晴らしいのは、悲劇、収容所に関する彼女の知覚力だ。
 H・アレントは、このようなことが起きたのは人間の歴史上初めてだと主張する。
 そして、彼女は、Vassily Grossmann とともに、だが別個に—もう一度言う、彼らだけであり、二人ともにユダヤ人で、彼はソヴィエト軍におり、彼女はアメリカへの亡命者だった—、アリストテレス、モンテスキュ—、あるいはマックス・ウェーバーが説明することのできない恐ろしい仕組みにある何かを見た、その何かを理解するには我々には新しい道具が必要であるものを見た、最初の人物だった。
 私が彼女に対して最も敬意を払うのは、近代民主主義の観点から、個人で成る社会や民主主義的細分化と技術の射程から、彼女はファシズムと共産主義を論述しようとしたことだ。
 彼女は哲学者として、「全体主義」という観念を再び作出した。
 私が示そうとしたのは、H・アレントよりも前に何人かの20世紀の思考者はすでにこの観念を探究しており、部分的には発展させていた、ということだ。
 彼女はほとんど極端なほどに、その観念を利用した。//
 (6)全体主義という観念は、ナツィズムとスターリニズムにある比較対照することのできない側面を持ち出して、つねに反駁され得る。また、両者にある比較対照することのできるものを用いて、つねに擁護することができる。
 別言すると、私はこの観念に執着しないけれども、スターリンのソヴィエト同盟とヒトラーのドイツにある比較対照可能な要素を的確に指し示すために、なおも私はこの観念を用いることができる。
 しかし、全体主義という思想が最も厳格な形態を持たされ、ナツィ・ドイツとスターリン体制にはともに新しい政治的観念があり、同じ経験的実体が組成されていると理解するのは、行き過ぎているだろう。//
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 ②へとつづく。

2439/西尾幹二批判032。

  諸君!2008年7月号(文藝春秋)の特集の中での計56人による<われらの天皇家、かくあれかし>の文章のうち、最も明確な皇太子妃(当時)皇后位就位疑問視の見解として、先に中西輝政のそれを紹介した。→「2421/中西輝政—2008年7月の明言」。
 但し、これは表向きの文章に着目したもので、実質的には、西尾幹二のものの方がさらに「進んでいる」。
 西尾幹二は当時月刊WiLL(ワック)上に<皇太子さまへの御忠言>を連載中か連載後で、小和田家は雅子妃を「引き取れ」と明記していたのだから、皇后就位資格を疑問視していたのは当然のことだった。
 上の諸君!7月号上の文章では、末尾にこう書いていた。
 「皇太子妃殿下のご病気と治療、ご行動と思想に取り返しのつかない事態が進行するより前に、福田総理大臣閣下が皇室会議を招集し、必要にして緊急な、後顧の憂いなき方向を模索し、打開して下さることを期待してやまない」。
 ここでは、皇太子妃の皇后就位再検討必要(不適格)論を前提として、それを具体化する方策(の第一歩)を提言している。
 首相は皇室会議を招集せよ、と主張していたのだ。
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  首相が皇室会議の議長であり、招集権を有することに間違いはない。
 では、西尾は、いったい何を議題とし、どういう結論を(議員の多数決で)得られることを期待していたのだろうか。
 現行法律の<皇室典範>上、皇室会議が議決できる事項、あるいはその議決が必要な事項は限定されている。
 西尾の願望は「皇太子妃殿下」の「行動と思想に取り返しのつかない事態」が進行することの阻止にある。その真意からすると、とりあえずは皇后位就位資格の否定ということになるだろう。
 しかし、これを直接に議決できる権限は皇室会議にはない。
 「皇嗣」たる皇太子が天皇に就位すれば、それに伴って皇太子妃は皇后に就位することを法律は当然のこととしていると思われる。10条は「立后」には皇室会議の議決が(形式上)必要である旨定めるが、皇太子が天皇になるときでも同妃が皇后になることができない場合がある旨や、あるとしてもその場合の要件を全く記していない。
 但し、皇太子に天皇就位資格がなくなれば、上の事態=皇后就位は発生しない。
 これに関係するのが、つぎの定めだ。
 皇室典範第3条「皇嗣に、精神若しくは身体の不知の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、…、皇位継承の順序を変えることができる」。
 この条項が定める大きなニつの要件のうち「重大な事故」に「祭祀をしないこと」は該当すると明記したのは、上の56の文書のうちの八木秀次のものだった。八木はそれ以上は明記していないが、皇嗣たる皇太子の配偶者=皇太子妃が「祭祀をしない」ときも上の規定を準用できる、従って皇位「継承の順序を変える」ことが可能だ、という含みをもっていた、と読むことができないではない。
 しかし、皇太子と皇太子妃を実質的にせよ同一視・一体視するのは、法解釈としてはほとんど不可能だ。
 西尾幹二も、上の条項に言及しない。そして、「必要にして緊急な、後顧の憂いなき方向」の模索・打開を求めるにとどめている。
 善解すれば(良いように理解すれば)、現行皇室典範上は採りうる方策は存在しないことをきちんと理解したうえで、上のようにだけ書いたのだろう。
 しかし、皇太子妃の皇后就位資格を疑問視しただけの中西に比べると、その積極性は明確だ。当時の首相に対して、皇室会議を招集して一定の方向で「模索」することを明示的に要求していたのだから。
 論理的には、法律改正案提出権を持つ内閣の長に、皇室典範改正によって雅子皇太子妃の皇后就位を不可能にすることを可能とする条項の新設を求めていた、という可能性もある。
 あるいは、現行法律は皇室会議の権限を明文がある場合に限っていない、つまり、法的効果をもつ議決以外に、「要請」あるいは「お願い」を皇太子や皇太子妃等の皇族に対して行うことができる、という法解釈を前提として、祭祀への出席をとか、さらに進んで祭祀出席がないならば皇太子・同妃は離婚を(雅子妃は小和田家が引き取れ!)とかを「お願い」すべきだ、と考えていたのだろうか。
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  2008年に上のように公の雑誌上で書き、ほぼ同時期に別途『皇太子さまへの御忠言』(2008年9月、ワック)を単行本で出版した西尾幹二は、2019年の雅子妃の皇后就位時に、自己のかつての主張についていったいどうのように論及したのか?
 中西輝政について先日書いたことは当然に、西尾幹二にも当てはまる。
 何も触れないようなことは、「よほど卑劣な文章作成請負自営業者でなければ、あり得ないだろう」。
 西尾は、実際には、中西よりも<ひどい>。つまり、もっと<卑劣>だった。
 2019年の前半に、西尾は天皇または皇室関連の少なくともつぎの二つの記事を公にした。
 ①月刊WiLL2019年4月号「皇室の神格と民族の歴史」(岩田温との対談)
 ②月刊正論2019年6月号「新天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」
 しかし、かつて雅子妃の「行動と思想」を自分が批判していたこと等について、いっさい、何も言及していない。後者では何と、<祝・令和>の「記念特集」に登場している。「新天皇」の后は、いったい誰なのか。
 驚くべき、恐るべき「意識」と「精神」の構造が西尾幹二にはある。
 ———
  諸君!2008年7月号に戻ると、56の文章のうち、雅子皇太子妃に対して明らかに批判的なのは、多く見積もって5〜6で一割程度だ(もっとも、56人の選定基準が明確でないので、この割合に大した意味はないかもしれない)。
 大袈裟に騒ぐ問題ではない旨書いてある数の方が多いが、そのうち西尾幹二の名を出して西尾をはっきりと批判しているのは、笠原英彦だった。
 笠原の見解全体を擁護するのではないが、西尾批判の部分を、以下に紹介しておく。p.197。
 西尾の論を「読み進むうちに、だんだんイデオロギーがにじみ出てくるのには正直いって驚いた。//
 東宮をめぐる氏の論評の根拠となる情報源は何処に。
 いつのまにか西尾氏まで次元の低いマスコミ情報に汚染されていないことを切に祈る。
 氏の論考は格調高くスタートして、しだいに『おそらく』を連発しながら思いっきり想像を膨らませ、ついにエスカレートして妃殿下を『獅子身中の虫』と呼び、結果として週刊誌の噂話の類まで権威づけてしまった。//
 そして唐突に『朝日』、『NHK』、『外務官僚』が批判的トーンで登場する。
 同志へのエールのおつもりか。
 かくして、一般読者は煙に巻かれるのである。
 西尾氏…でもイデオロギーを身にまとうと、迷走、脱線を免れない。」
 以上。
 高森明勅によると、当時西尾は雅子皇太子妃の病気は「仮病」だとテレビで発言したらしい。
 また高森は、最近のブログ上で、『御忠言』は「タイトル」だけで、中身は「確かな事実に基づかないで、不遜、不敬な言辞を連ねたもの」だった、とする。
 笠原は上で「イデオロギー」という言葉を用いている。西尾の場合は「同志」のいる「イデオロギー」はまだ綺麗すぎ、西尾幹二の「意識」・「精神構造」に全体としてあるのはおそらく、「私小説的自我」を肥大させた、この人独特の「妄想と幻想の体系」とでも称すべきものだろう。
 問題はまた、そのような西尾を<保守の論客>の一人として遇してきている一部情報媒体(とくに編集者)に見られる、「知的劣化」のひどさにもある。
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2438/音・音楽・音響⑧。

  小学生高学年か中学生の頃、つぎを聴いて何と「美しい」音楽・旋律なのだろうと感じた。
 ①Tchaikovsky, Swan Lake Suite op.20a, Scene.(白鳥の湖/情景)
 同じ頃、つぎも、よく耳にした「美しい」音楽・旋律だった。
 ②Beethoven, Bagatelle in A-moll WoO59.(エリーゼのために)
 少し長じて、Beethoven, Mozart, Tchaikovsky の三人のいわゆるクラシック曲は、オーソドクスなものとして、ある程度は馴染んだ。あくまで、ある程度は、だったが。
 中間の期間が永くあって、近年に多少意識的にさまざまのクラシック又はヨーロッパ音楽を聴いてみると、何となく聞いたことはあったが作者や曲名を知らなかったものや、初めて聴く曲の中に、とても「美しい」ものがあることを知り、大仰には、生きていてよかったと思う。
 例えば、以下の小曲だ。
 ③Brahms, Hungarian Dances Nr.4 in F sharp-moll.
 ④Chopin, Nocturn #20 in C sharp-moll op.72-2.
 ⑤Dvořák, Slavonic Dances Nr.2 op.72 #2 in E-moll.
 ⑥Saint-Saëns, Introduction & Rondo Capriccioso op.28.
 ⑦Schubert, Schwannengesange D947, Nr. 4 Ständchen in D-moll.
 ⑧Shostakovich, Jazz Suite #2-6 Waltz 2 (=the Second Waltz).
 もう少し長い、本格的なものの中では、世間的には特別に有名でないかもしれないが、例えば、以下は好ましく感じる。
 ⑨Schumann, Cello Concerto in A-moll op.129.
 ⑩Mendelssohn, Symphony #3 in A-moll op.56.
 ほかに、Bach や別のBrahms の曲等々もあるが、今回は省略する。
 なお、上の①〜⑩は全て、短調ミ始まり
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  音の高さ・低さ、大きさ・小ささ、旋律の速さ(テンポ)はヒト・人間がおそらく早い時代から聴き分けてきたのだろう。
 不思議に思うのは、音楽・旋律を「美しい」とか「好ましい」とか、あるいは「厳粛だ」とか「メランコリックだ」とか等々と感じる聴感覚・大脳感覚はどうやって発生したのだろうか、ということだ。
 加えて、ある程度はヒト・人間に共通しているのだろうという側面があるとともに(例えば、陽気・活発と陰鬱・悲嘆)、個人(個体)によって、あるいは人種・民族によって「感じ方」が異なる部分があると思われるが、それは何故、どのようにして生じたのだろうか、ということだ(例えば、ドイツ系・ロシア系・東欧系・ラテン系等々)。
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  現在に日本で聞く種々の曲・音楽のほとんどは、つまるところ、西洋音楽を起源としている。一オクターブを13のいわゆる「半音」で区切り、動きをいわゆる「五線譜」で表現できることは、演歌系・ポップス系等を含めて変わりはない。
 もちろん、Abba やBeatles 等々の歌・曲も、ジャズ等々も、西洋のいわゆるクラシック音楽の系譜の中にある。新奇さの程度の違いはあるとしても。
 日本人には「懐かしく」感じられる戦前や大正時代の<にほん唱歌>も、明治期以降の「西洋化」の過程で吸収され、生まれたものだろう。
 音楽の世界で、日本は(も)ほぼ完全に<西洋の侵略>を受けたわけだ。
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  仏教上の声明(しょうみょう)とか日本の「雅楽」(あるいは三味線や琴)など、日本(またはアジア)に独特の音楽・旋律の世界があったし、あるようであることにも関心はある。
 だが、それに増して興味があるのは、すでにこの欄で少しは触れているが、周波数(Hz)が2倍になるごとに1オクターブ高くなる、その1オクターブが、A〜一つ上のAまでの(あるいはド〜一つ上のドまでの)8音で区切られ、かつE・FとB・C間だけは「半音」で、1オクターブは13音の「半音」で成り立っているのは、いったい何故か、どのような経緯でか、ということだ。
 これは当然のことでも、自然なことでもない。
 だが、普遍性があったからこそ、近代以降に日本も含めて、たぶん世界的に受容されたのだろう。
 だがしかし、それは<西洋音楽>の発展の程度のほか、一種の技術的な導入の容易性のゆえである可能性が高いと思われる。
 というのは、Bach 等によるバロック・クラシック古典派の成立は賛美歌等々の教会音楽を、そしてキリスト教(またはキリスト教的合理性)を背景にしているとされる。そして、キリスト教世界以外の諸国・諸民族は、そこまでも含めて<西洋音楽>(標語的には、「五線譜」と「1オクターブ13半音」=「十二平均律」)を受容した(その侵略を許した)のではないだろうからだ。
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2437/ニーチェとロシア革命③。

  西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020). p.354-5。
 私は「ニーチェの影響を受けた日本の一知識人に過ぎない」。
 「それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
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  ニーチェとロシア革命・ボルシェヴィキでないが、<ロシア文学>への影響を考察する、以下の研究書もある。概要を目次等に基づいて紹介する。むろん、<文学>は人間観、政治と無関係ではなく、多少捲っただけでも、Lunacharsky やGorky の名がしばしば出ている。
 章・節の表題に出てくる、ディオニュソス(Dionysos)とは、ニーチェが『悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragödie)でアポロン(Apollon)と対比させているギリシア神話上の「神」。
 西尾幹二には、30歳を超えての仕事だったと見られる、同訳『悲劇の誕生』(中公クラシックス、2004年/原訳書、1966年)がある。
 以下の「章」・「節」の語は原英語書にはなく、「節」には数字番号すらない。
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 Edith W. Clowes, The Revolution of Moral Consciousness -Nietzsche in Russian Literature,1890-1914 (Northern Illinois University Press、1988/Paperback 2018).
 (表題試訳/道徳意識の革命—ロシア文学におけるニーチェ、1890-1914。)
 第1章/ロシア文学へのニーチェの影響という問題。
 第2章/先駆者たち。
  第1節/道徳に関するニーチェ哲学。
  第2節/ニーチェを読む前提条件。  
 第3章/初期のニーチェ受容。
  第1節/検閲官・独裁者・普及者。
  第2節/大衆的ニーチェ主義。
 第4章/人民主義者(Populist)から人民芸術へ。—超人と自己決定という神話。
  第1節/神話を生かす。
  第2節/神話を教える。
 第5章/神話的象徴主義者(The Mystical Symbolists)。—ディオニュソス的(Dionysian)キリスト教文化の形成。
  第1節/D.メレシュコフスキー(Dmitry Merezhkovsky)の新しいキリスト。—「魂」と「肉体」の統合。
  第2節/地下のキリスト。—キリスト・ディオニュソスの神話。
  第3節/ベリュイ(Belyi)と磔にされたディオニュソス。
 第6章/革命的ロマン主義(The R.- Romantics)。
  第1節/創造的意思のゴーリキ(Gorky)による神格化。
  第2節/人民主義的(Populist)神話の再活用。
 第7章/結語。
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2436/ニーチェとロシア革命・スターリン②。

  西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
 「私はニーチェ研究者ということにされているが、それは正しくない。
 ニーチェの影響を受けた日本の一知識人に過ぎない。
 それでよいという考え方である、
 専門家でありたくない、あってはならないという私の原則が働いている。//
 それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 なお、ニーチェの生没は、1844年〜1900年。第一次大戦もロシア「革命」も知らない。
 以下は、秋月瑛二。
 西尾幹二はニーチェ研究者でないことは、間違いない。
 かりにニーチェの文学的<評伝>の一部の著述者であったとしても、<ニーチェの哲学>の研究者だとは、到底言えない。
 但し、<評伝>を書いている過程でニーチェの哲学的?文章そのものを読むことはあっただろう。
 そして、そのことがあって、西尾幹二は85歳の年に、「ニーチェの影響を受けた」、「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」と明記しているわけだ。
 若いときにレーニンの文献ばかり読んでいたらどうなるかの見本は白井聡だろう旨、この欄に書いたことがある。
 「哲学」科的ではない「ドイツ文学」科的な研究であれ、若いときに(とくに20歳代に)ニーチェばかりに集中していると、どういう日本人が生まれるか。西尾幹二のその後の著作・主張・経歴は、その意味で、興味深い素材を提供していると感じられる。
 素人として書くが、<ニーチェ哲学(思想)>は、①フランスの実存主義、さらに構造主義、②ドイツの〈フランクフルト学派〉に何がしかの影響を与えており、これらと関係がある。後者につき、機会があれば、ハーバマス(Habermas)の文章を紹介する。
 さらに、③ロシアの思想・ロシア革命・スターリン主義へも一つの潮流として影響を与えたらしいことを今年(2021年)に入ってから知った。
 幼稚に想像し、単純にこう連想する。ニーチェの<反西洋文明・反キリスト教>(「神は死んだ」)は変革または新しい「哲学」を目指す「左翼」と親和的であり、<権力への意思>・<超人(Supermann,Übermensch)>は、権力への「強い意思」をもつ「超人」による政治・文化の全面的な(全体主義的な?)支配という理想と現実に親和的だ(かつてはニーチェとナツィスの関係だけはしばしば言及された)。
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  ニーチェがロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 その例証になり得る三つの文献とそれらの内容の概略を「2424/ニーチェとロシア革命・スターリン」で紹介した。
 以下は、第三に挙げたつぎのBernice Glatzer Rosenthal の単著(副題/ニーチェからスターリニズムへ)の概要の、より詳細なものだ。
 前回では、以下でいう「編」と「部」しか記載していないが、以下ではさらに「章」題まで含める。
「編」=Section、「部」=Part で、これらの英語の前回の訳とは異なる。太字化部分と適当に引いた下線は、掲載者。
 なお、著者は現在、Fordham大学名誉教授(Prof. Emeritus/歴史学部)。
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 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
   第1章・象徴主義者。
   第2章・哲学者。
   第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
   第4章・未来主義者。
   要約。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
   第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。
   第6章・ボルシェヴィズムを超えて—魂の革命の展望
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
   第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
   第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。 
 第四編/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
  第一部/縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   第9章・「偉大な政治」のスターリン型。
   第10章・芸術と科学における文化革命。  
  第二部/ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義リアリズム
   第11章・社会主義リアリズム理論へのニーチェの貢献。
   第12章・実施される理論。
  第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化
   第13章・スターリン個人崇拝とその補完。
   第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。
  エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上。

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2435/F・フュレ、全体主義論②。

 表題を書名から、章名の〈全体主義論〉に改めた。
 「F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑬」=「全体主義論①」だったことになる。
 ——
 第8章/全体主義論・第1節②。
 (6)そのような本の一つは、Waldemar Gurian の〈ボルシェヴィズムの将来〉だ。この書物は、実際にナショナル(国家)社会主義に関するものだ。そして、ロシア人起源のドイツのユダヤ人がこのタイトルの本を1934年に執筆したというのは、驚くべきことだ。彼はこの書物で、ボルシェヴィズムの最も完璧な形態は技術的支配力を理由にドイツ人が見出すだろう、と言っている。
 彼はすでにカトリックになっていた。
 カトリシズムに転宗したペテルブルクの法律家の子息だった。
 Waldemar がまだ幼かったときに父親が死んだあと、母親がドイツに移住し、彼はドイツで育った。
 全く入り組んだことだった。彼はロシア系ユダヤ人で、カトリック転宗者で、執筆した最初の本はMaurras と〈Action française〉に関するものだった。
 私は偶然に、シカゴ大学図書館の書架を周っていて、〈ボルシェヴィズムの将来〉を発見した。シカゴ大学図書館は、主題で分類された書物のある、アメリカの諸図書館により探索者が利用する自由を認められた有り難い施設の一つだった。
 私は熱心にこの本を読んだことを憶えている。このWaldemar Gurian とはいったい誰なのかと不思議に思いながら。
 何人かの同僚に尋ねてみたが、誰も知らない。そして結局、戦後のアメリカでの経歴にもかかわらず急速に忘れられていたこの著者への鍵を電話で教えてくれたのは、友人のReinhart Koselleck だった。
 さて、Gurian は1934年に、ボルシェヴィキの企図はその最大の具現化をヒトラー・ドイツに見出すだろうと、想定していた。//
 (7)同じ考えは、その時期のトーマス・マンの〈ジャーナル〉に見られる。ロシアとドイツの比較が多数掲載されていて、共産主義ロシアはドイツ・ナツィズムの原始的範型として現れる、とする。
 同じ年代にフランスでは、両者の比較はつぎのように進められた。Simone Weil の1936年の諸著作、Élie Halévy の〈L’ère de tyrannies〉(1937年)、そして、共産主義との決裂後のA・ジッド(André Gide)の〈1937-1938年のジャーナル〉。
 1938年にJacques Bainville は〈独裁者〉というタイトルの書物を刊行した。その本で彼は、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリンを並列させた。
 要するに、「全体主義」という言葉と関連させているか否かは別として、この主題は両大戦の間の時期に、決して稀なものではなかった。
 むろんのことだが、1939年と1941年のあいだに、盛んになった。ドイツ・ソヴェト協定の時期だ。
 私は〈幻想の終わり〉の執筆中に、全体主義を主題として1940年に催されたアメリカの学会の会議録を掘り出した。その会議での議論は、ヒトラーとスターリンの両人を中心に据えていた。
 こうした議論があったことは、つぎのことを示している。すなわち、H・アレント(Hannah Arendt)は出典を参照要求していないのだが、彼女はファシズム・共産主義の比較対照をした最初の人物ではなく、1950年の著名な書物でこれを再び行ったにとどまる。この当時は、第二次大戦の最終的な過程のおかげで、この比較対照をするのが憚られるようになっていたのではあった。
 タブーは、ヨーロッパできわめて長くつづいた。フランスで、ドイツで、イタリアで。それは、例えばアメリカ合衆国でそうだったよりも長く、強かった。
 今なおドイツでは、このタブーが持ち出されなければならない。
 きわめて不思議なことに、1960年代の左翼運動の波の中で、アメリカの諸大学でこれが復活した。//
 (8)私はたぶん、それを説明するよりもましな叙述するという作業をしたのだが、それとは、20世紀の民主主義的な男女の政治的熱情、その情動の大きさが原因となって、自分たちが生きているブルジョア社会を忌み嫌い、ファシズムや共産主義のような極端なイデオロギーの有利に働いている、ということの神秘さ(mystery)、だ。
 ブルジョア社会に対するこの憎悪、これと結びついているその矛盾への批判により生じる恥ずかしさの感覚は、ブルジョアジーそれ自体と同じくらい古い。
 これらは、2世紀にまたがってドイツとフランスの思想と文学の糧(fodder)となった。
 いったいどのようにして、この熱情は、幼稚だろうと教養があろうと、多数の人々のこころと意識を、多様な分野からファシスト革命または共産主義ユートピアを抱擁するまでにいたらせたのか。これが、私が理解しようとしている謎(enigma)だ。
 これは、我々の時代が避けようとしている疑問だ。なぜなら、一方では、ファシズムはその犯罪性にだけ光が当てられて理解され、なぜ魅力的だったのかを我々が問うのを封じている(実際に魅力的だったのだ)。そして他方では、反ファシズムを言い訳にして、我々はソヴィエト体制の犯罪を覆い隠しつづけている。//
 ——
 第8章第1節、終わり。原英訳書、p.53〜p.57。

2434/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑬。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第8章へ。この章は、本文総計81頁のうち計26頁を占め、最も長い。中途に1行の空白のある場合は、意味ある区切りだろうと判断して、試訳者において「節」に分けている。
 ——
 第8章・全体主義論(Critique of Totalitarianism)①。
 第1節。
 (1)私の意図は全体主義の歴史を研究することだった。この全体主義の言葉と思想は、1920年代早くに、社会生活の全領域の国家による絶対的掌握を表現するために—イタリアでムッソリーニのファシズムとともに、そしてフランスとドイツで—出現した。
 しかし、私はレーニンとスターリンの間の移行の時期に関する章を、「一国社会主義」の考えがどのようにしてボルシェヴィズムの普遍主義的な野望についての移行を惹起したかを検証すべく、執筆した。この移行は、ボルシェヴィズムをいくぶんかファシズムへと接近させた。
 私の分析では、この時期に、全体主義思想のソヴィエトの経験への拡張が時代の語彙の中に現れる。
 (2)「全体主義的」(totaritarian)という形容詞は、イタリアで生まれた。
 私の知る範囲では、これを生んだのは、ムッソリーニだった。
 歴史学上の意味論では、我々はいつも、概念が生まれたときに立ち戻っている。
 特定の言葉について、その最初の使用を発見した、というのが確実なことはない。
 だがなおも、「全体主義的」はイタリアのファシストが考案したのだと思える。諸個人の生活の全ての側面が集合体と国家に連結している、ということを表現するためにだ。むろん、諸個人の生活の全ての側面をについて個人を包み込む(encompass)「全体的」(total)国家の存在を表現するためにも。
 この言葉のもう一つの起源は、〈全面戦争〉、「totaler Krieg」のようなドイツの右派による「total」という形容詞の使用だ、と私は考える。
 E・ユンガー(Ernst Jünger)は「全的軍事動員」(total mobilization)という語を用いた。
 ドイツ右派の構成員のあいだに、第一次大戦は、紛争が「全面戦争」になったという意味深い考え方を生んだ。これは、重要なのは生や死ではなく全体としての交戦国家の力(forces)だ—戦闘員の軍事意識だけではなく全ての政治的熱情、労働の全能力だ—ということを意味した。 
 ユンガーは、戦争への労働力の投入、生産力としての労働、を強調した。//
 (3)第一次大戦の間は、「total」や「totalitarian」という言葉は共産主義の世界とは何の関係もなかった。
 私の見解では、これらの言葉がファシズムと共産主義の両方を指し示す二重の意味を持つのは、ナツィズムとスターリンのソヴィエト同盟のあいだに比較し得る特性が現れた、1930年代だった。
 しかし、1925年と1930年の間のドイツの「ナショナル・ボルシェヴィズム」は特殊な場合だと見ることができた。つまり、スターリンの勝利を利用した移行であり、ドイツの極右に対して例示するための構築の真ん中にスターリンがいる状態だった。
 「total」や「totalitarian」が二重の意味を持つのはこの時期に始まった、と私は思う。
 そして、いつものことだが、新しい言葉の考案は、何か重要なことを知らせることになる。//
 (4)共産主義を本質的に反ファシズムだと定義するのは、たんなる消極的定義であり、その本来の敵とは正反対の特質を定義するものだ。すなわち、ファシズムが自由に敵対的ならば、共産主義は定義上、自由を好ましいものと見なすものだ、等々。 
 この言葉の対比は、マルクスならば「観念論的」と称しただろう。イデオロギーと意図の次元にのみ存在するものだからだ。しかし、ヨーロッパの左翼の想像力をふくらませた。
  この対比に何がしかの「唯物論的」重みを加えるために、共産主義者は経済へもこれを利用しようとした。いわく、ファシズムは金融資本主義の産物だ。ゆえに、唯一の真の反ファシストは必然的に反資本主義者であり、つまりは共産主義者だ。
 このテーゼは、馬鹿げている。しかし、20世紀に広範に流布されて、しばしば正しいものとして受容された(今日では利用できる歴史的反証があるにもかかわらず、一定の範囲ではまだ残っている)。正しいと受けとめられたということは、知的な首尾一貫性ではなく、政治的熱情からその力を得た、ということを示している。
 もう一度、オーウェルの判断に戻ろう。20世紀の左翼は、反ファシストだが、反全体主義者ではなかった。—これは、共産主義思想が果たした顕著な役割に関する、卓越した要約だ。//
 (5)戦争があり、数千万の死があった—反ファシズムの名のもとで死んだ共産主義者がいた。そのために、ファシズムと共産主義を比較対照することがタブーになった。
 第二次大戦が終焉して以降は、流された血の威嚇的効果は決定的だった。
 そして、誰もあえてナツィズムと共産主義と比較しようとしなかった。なぜなら、両者は戦場で顔を向け合って対決したのであり、赤軍はヨーロッパをナツィの抑圧から解放するに際して力強い、指導的ですらある役割を果たしたのだから。
 つぎの者を除いて、誰も比較対照をしなかった。当時はまだ無名だったV・グロスマン(Vassily Grossman)とH・アレント(Hannah Arendt)。後者は、収容所の視点から、戦争後すみやかに類似性を感知した。
 しかし、戦後すぐにタブーだったことは、1930年代にはそうではなかった。
 当時では、ファシズムと共産主義を全体主義という概念のもとで比較することは、全くふつうのことだった。
 私が歴史学に寄与したと思う一つは、全体主義は決して第二次大戦後の思想ではなく、1930年代の多数の著作者の文献に見出され得ることを、明らかにしたことだ。//
 ——
 第8章第1節①、終わり。

2433/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑫。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第7章へ。途中に「+」のついた空白の1行があるので、短いながら、節を分ける。下線は、試訳者。
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 第7章・ボルシェヴィズムの魅惑(The Seduction of Bolshevism)。
 第1節。
 (1)私は明らかにしたいのだが、ボルシェヴィズムに関する尋常ではないものは、その魅惑(seduction)の可塑性だ。
 これの三つの類型を挙げる。第一に、B・スヴァーリン(Boris Souvarine)は、フランスの伝統でのジャコバンであるがゆえに、最も単純だ。
 第二に、P・パスカル(Pierre Pascal)は、ロシアと教会連合を熱愛した、反マルクス主義キリスト教者だ。
 彼の場合はすでに、理解するのがむつかしい。
 第三は、G・ルカーチ(Georg Lukács)で、より突飛ですらある。この人物の出身は、ニーチェ、キルケゴール、およびその種の著作者だ
 彼は、芸術愛好家、ユダヤ人銀行家の息子、オーストリア=ハンガリーの伊達男で、ブダペストのカフェやウィーンでよく知られていた。
 換言すると、知識人には、可能なかぎり異なっている、三タイプがある。
 そして、少しのちに、イギリスのファビアン派(Fabians)が現れた。
 ボルシェヴィズムは、ヨーロッパの全ての知識人界を揺さぶった。
 ボルシェヴィキ思想はどのようにして、かくも多くの文化的伝統—シュール・リアリスト、ニーチェ主義者、フランス・ジャコバン、イギリス・ファビアン派—をその周りに集めることができたのか?
 社会民主主義者たちは、少し大きい抵抗を示した。彼らはボルシェヴィキ・ボルシェヴィズムと同じ宗派育ちであり、通暁していたからだ。
 しかし、反共主義者と呼ばれるのを恐れて、おとなしくしていた。//
 (2)イギリスの場合は独特だ。プロテスタントの国民と文化を巻き込んでいるのだから。
 ブルームズベリー・グループ(the Bloomsbury Group)の特徴は、反既得権益層、フランスのシュール・リアリストのそれに似た反ブルジョア的耽美主義だった。
 耽美的反応による親共産主義者というこの流れは、この世紀中ずっとイギリスの知識人界を貫いた。
 1930年代のCambridge は、その一例だ。
 しかし、イギリスの共産党は、フランス共産党と違って、議員が選出されたりする現実的にナショナルな存在となることができなかった。
 おそらくその理由は、フランスでは多数の例が提示されたような、演劇的かつ悲劇的な解体の場面をイギリスの国民は露骨に見ることがなかった、ということだ。
 忠実な活動家は、全ゆる罵倒を浴びせられる「背教者」に変わった。
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 第2節。
 (1)共産主義者の最大の犯罪は、先ずロシア人に対して、次いでポーランド人—西ヨーロッパにとって忘れられた人々—に対して、冒された。
 パリ、ローマ、あるいはロンドンではしばしば、共産主義に関する歴史的判断はロシアやウクライナの農民層の廃絶、殺戮または追放された数百万の人々、強制収容所(the Gulag)、カティン(Katyn)に基づいている。
 トゥール(Tours)大会での分裂や共産党とのつながりがなければ、左翼はもっと早くもっと頻繁にフランスを支配していただろう。このことを忘れて、フランス人は、人民戦線や有給休暇の名前でもって共産主義を理解してきた、としばしば言われる。//
 (2)共産主義者が最も非難されるべき行為は、ソヴィエト体制に関してうそをついていたことだ。
 我々は、彼らが行ったことよりも—結局はフランスのような国では彼らはたいていは天使の側にいたのだ—、むしろ彼らが言ったこと、あるいは逆に言わなかったことを、非難することができる。
 彼らは決して、うそをつくことを止めなかった。
 今日ではあまりに巨大で、あまりにも明瞭だと見えるこのうそは、意図された欺瞞であったことだけで、あれほどにまで共有され、信じられたのではなかった。
 このうそは、20世紀に、ソヴィエト同盟がその歴史的伝説の一つだと想定される、民主主義的普遍主義を求める熱情に、遭遇したのだ。
 このことが理由となって、共産主義は、暴力や独裁に反対する勢力から狂信的に守られなければならなかった。//
 (3)普遍的なものを求めるこの熱情が我々の同時代人たちに対して及ぼした力に、私は衝撃を受けている。
 今日の豊かで平和な国々で、若い世代のための政治の大路は、人道主義(humanitarianism)だ。
 人間の諸権利は、階級闘争に置き代わった。そして今のところ、同一の目標、人間性の解放に役立っている。
 しかし私は、 それは政治を明晰に判断するのを回避するもう一つの路にすぎないのではないかと、不思議に思って(wonder)いる。//
 ——
 第7章、終わり。


2432/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑪。

 試訳、つづき。下線は試訳者。
 ——
 第6章・歴史家が追求した仕事②。
 (4)私が執筆したのは、—カントの言葉を使えば—「批判的」歴史だ。この書物の最初の部分で、私は、概念上の図式を提示する。そして、肉づきや実態(flesh & substance)を示すものなのか否かを判断して、私が再構成して集めた事実を検証する。
 私は思想と事実のあいだを操縦して進む。こちらからあちらへと、そしてその逆方向へもあり得る。
 私は哲学者ではない。
 歴史家はあまりに哲学的になるのを避けるべきだ、と考えている。
 歴史家がもつ知識の正当性や限界の問題に絡み取られてしまうと、執筆することができない。
 実証主義的な素朴な事実と虚無主義的な相対性の間には、見出されるべき中間の地点がある。今日では、必要不可欠の中間地点だ。我々は、ニーチェ的な漂流の中にいるのだから。
 ニーチェによると、事実は存在せず、ただ解釈だけがある
 どこでも、そういう声を聞く。
 出現してくる最初の学生は、この近視眼的相対主義を身につけている。
 相対主義の一要素は解釈を構成するために重要なのだとかりにしても、煩わしいことだ。
 しかし、事実の説明を試みようとする目的があって事実を発掘しないなら、どのようにすれば歴史家であり得るだろうか?//
 (5)アメリカ合衆国では、1930年代の共産主義または共産主義的反ファシズムは、〈Partisan Review〉で代表された。これは、パリの知識人とよく似た、ニューヨークの共産主義者かトロツキストである小集団の知識人が編集していた。
 ソヴィエト連邦では反ファシズムへと結集していた知識人たちは、そこではソヴィエトの裁判やドイツ・ソヴィエト協定に反発していた。
 アメリカ人2000人の旅団が、国際旅団の中でスペイン内戦を闘った。
 これは全く印象的だ。
 アメリカ人や、とくにイギリス人が今日言うのとは反対に、共産主義思想は、イギリスやアメリカ合衆国の大衆の心をほとんど掴まなかったけれども、知識人界の中には影響をもった。その規模は、大きなものだった。
 多数のイギリスの知識人が、体験に影響を受けることなく、生涯ずっと共産主義者のままだった。//
 (6)私の書物の目的からすると、知識人たちは主に目撃者として有用だった。
 私は知識人の歴史を書きたくはなかった。
 その作業は、すでになされている。
 私は、明らかな例だと思うサルトル(Sartre)について、語りはしない。
 サルトルについて、10ページ以上も書く必要はない。
 彼について語りたくないからではなく、すでに多くのことが言われているからだ。そして、何度も行われたことを再点検する価値はない。
 私は、分析するのがたぶんもっと面白いBataille、Simone Weil、そしてDrieuから—〈幻想の終わり〉第8章の「反ファシズム文化」で行うように—新しく開始したい。
 しかし、 知識人たちは、固有の分野として研究するよりも、特定の時代に流通した世論や思想の再構成者として研究する方が有益だ。
 今日では奇妙なことに、共産主義の神秘的教義は大部分は知識人に影響を与えた、と思われている。
 これは、全く正しくない。
 フランスでは、1945-46年頃、有権者の25パーセントが共産党に投票した。
 かりに共産主義は知識人のみを揺り動かすのだとすれば、共産主義は一つの国でこの集団的なメシア(救済主,messianic)的希望を獲得することができなかっただろう。//
 ——
 第6章、終わり。
 

2431/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑩。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012) 
 ——
 第6章・歴史家が追求した仕事(The Historian's Persuit)①。
 (1)〈幻想の終わり〉は一人の歴史家の著作で、状況、事態の推移、様相を扱う。
 しかし、私のこれを書いた究極的な理由は、かりにあるとしても、私を超えており、諸問題を未解明のまま残している。
 20世紀の民主主義的な人々によってもたらされた悲劇の性質や規模には、つねに、何か神秘的なものがあるだろう。
 歴史家は、ヴェルサイユ条約の諸条項や1929年の経済危機によって、ヒトラーの到来を説明することができる。しかし、この諸条項はナツィズムがドイツとヨーロッパの歴史に、例えばユダヤ人大虐殺に施した黙示書(apocalypse)であることを説明しない。
 私は、事実または事件が歴史家の知性に逆らうときには、反対のことで取り繕うよりはそのまま言った方がよい、と考える者の一人だ。//
 (2)私はつねに〈アナール学派(Annales)〉と複雑な関係をもってきた。
 Braudel が歴史—彼はこれが、とくに政治史が嫌いだ—の特徴を示すために用いる〈événementiel〉(事実的なもの、事件性)という考えはきわめて硬い(solid)とは、私は思わない。
 歴史家にとっての20世紀の魅力は、〈événementiel〉対〈structural〉(構造的)によってではなく、共産主義やナツィズムのごとき政治体制の新奇さや前例のなさによって説明することができる。
 我々はハイデッガー(Heidegger)とともに、歴史の舞台へのこれらの体制の登場は、「技術(technology)」の勝利と何らかの関係がある、と言えるだろう。それは、以前の専制体制は抑圧するためのそのような手段を有していなかった、ということを表現するためだ。
 しかし、これだけでは、問題を全て解消することにはならない。//
 (3)何か他のものが、全体主義体制の特質だ。すなわち、被抑圧者が専制者を日常的に愛好していると宣告するのを義務づけること。
 G・オーウェル(George Orwell)は、このことをまさに明瞭に書いた。
 ナポレオンのもとでとは、同じでない。邪心がないならば、体制の美点を毎朝に祝い、輝かしい将来の始まりだと考える必要はない。
 連帯意識、思想の共有を通じて常時再確認される社会的紐帯意識、これを伴う強迫観念(obsession)が、近代リベラリズムには内在している、と私は考える。
 リベラルな社会には、共通善というものはない。
 集団的道徳性というものも、ない。
 あるのは、共通善に関してどう考えようかと考えている、そしてある程度の自分たちの活動によってだけつながっている、個人たちだ。
 市民活動は、彼らの生存にとって最も重要ではない部分だ。
 20世紀の二つの全体主義は民主政治の必然的な産物ではなく、選択された産物だと、私は理解せざるを得ない。ホッブズ(Hobbes)以来ずっと諸文献が論じてきた恐るべき疑問に回答する、選択された産物なのだ。
 その疑問—かりに我々が自律的個人であるなら、社会をどうやって組成するのか?
 この疑問は、〈幻想の終わり〉のいたるところに、ふいに現れる。//
 ——
 第6章①、終わり。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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