秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/10

2430/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。。

 左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。
  役員
 理事長/三成美保(奈良女子大学)
 副理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)、豊島明子(南山大学)、本多滝夫(龍谷大学)
 全国事務局事務局長/清水雅彦(日本体育大学)
 理事(50名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、安達光治(立命館大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、大河内美紀(名古屋大学)、大沢光(青山学院大学)、岡田順子(神戸大学)、岡田正則(早稲田大学)、緒方桂子(南山大学)、小川祐之(常葉大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、金澤真理(大阪市立大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、桐山孝信(大阪市立大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、篠田優(北星学園大学)、清水雅彦(日本体育大学)、白藤博行(専修大学)、新屋達之(福岡大学)、清水静(愛媛大学)、鈴木賢(明治大学)、高田清恵(琉球大学)、高橋満彦(富山大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(岐阜大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、中坂恵美子(中央大学)、永山茂樹(東海大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、張洋介(関西学院大学)、人見剛(早稲田大学)、本多滝夫(龍谷大学)、増田栄作(広島修道大学)、松岡久和(京都大学)、松宮孝明(立命館大学)、三島聡(大阪市立大学)、水谷規男(大阪大学)、三成美保(奈良女子大学)、村田尚紀(関西大学)、本秀紀(名古屋大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山下竜一(北海道大学)、山田希(立命館大学)、吉村良一(立命館大学)、和田真一(立命館大学)、亘理格(中央大学)。
 監事(4名) 今村与一(横浜国立大学)、川崎英明(元関西学院大学)、小森田秋夫(神奈川大学)、三成賢治(大阪大学)
  上記以外で会員であることが明らかな者〈学会・研究会報告者、機関誌執筆者・機関誌編集委員)。
 前田達男(金沢大学)、山形英郎(名古屋大学)、河上暁弘(広島市立大学)、太田直史(龍谷大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、岡田知弘(京都橘大学)、稲正樹(元国際基督教大学)、木下智史(関西大学)、秋田真志(弁護士)、大島和夫(神戸市外国語大学)、渡邊弘(鹿児島大学)、松井芳郎(元名古屋大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、奥野恒久(龍谷大学)、中村浩璽(大阪経済法科大学)、根本到(大阪市立大学)。
 以上
 出所-同会機関誌『法の科学』の末尾(日本評論社刊)。
 ……
 参考
 一 理事と監事を合わせて、2名以上が選任されている大学。
 国立/名古屋大学4、大阪大学2、琉球大学2
 公立/大阪市立大学3
 私立/立命館4、早稲田3、関西学院2、専修2、中央2、南山2、龍谷2。
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  稲子恒夫(1927〜2011)、長谷川正安(1923〜2009)、室井力(1930〜2006)
 いずれも故人で、かつて名古屋大学教授だった。専門科目はそれぞれ、社会主義法またはソヴィエト法、憲法、行政法。
 そしていずれも、少なくとも在職中はれっきととしたかつ著名な日本共産党員で、当然に民科法律部会の会員だった。
 稲子恒夫は、1969年の時点で日本共産党名古屋大学教職員支部の支部長で、自宅で会議を開催したりして、「全共闘」派に対する日本共産党名古屋大学「総支部」?の判断等を決定していた。事実上、当該大学の学生・大学院生支部をも拘束した、と見られる(400人の党員学生、1000人の民青同盟員が当時いた、という)。
 但し、ソ連が解体した1991年12月以降に、名古屋大学の同僚だった水田洋(文学部)に「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」と告白した、という。名古屋大学退職は1990年。
 そしておそらくはすみやかに日本共産党を離れ、ソ連の新しい資料も豊富に用いて、総計1100頁に近い、実質的に単独編著の『ロシアの20世紀』(東洋書店、2007)を刊行した。死の4年前、80歳の年。レーニンに対しても、明確に批判的だ(客観的資史料によるとそうならざるをえないとも言える)。
 以上につき、参照→1989/宮地健一による稲子恒夫
 民科=民主主義科学者協会は「民主主義」で結集しているので、自由にロシア革命について考えてよいとも言える。しかし、日本共産党員でもある同会員は、日本共産党に固有のロシア革命観があるので、そうもいかない(はずだ)。少なくとも名古屋大学関係党員には、上の稲子著は必携、必読であるべきだろう。
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 稲子恒夫もやや広義での「公法」部門に属していただろうが、稲子を別としても、憲法・長谷川正安、行政法・室井力を両トップおする<名古屋大学公法部門>には、他の大学には見られない特徴があった。すなわち、民科法律部会会員の数の多さだ。
 機関誌『法の科学』の最新号でも、松井芳郎(国際法、名古屋大学名誉教授)が森英樹(2020年死亡。憲法・元名古屋大学)への追悼文のなかで、「名大公法」という語を何度か使っている。
 1990年から30年以上、2000年から20年以上経つ。大学生時代から共産党員だった者も中にはいるかもしれないが、指導教授—大学院生という指導・被指導、就職の世話をする・受ける等々の人的関係・人間関係のつながりは、今日でもなお、健在のようだ。
 現在の所属大学だけでは分からないが、上に氏名を挙げた者のうち、少なくとも以下は、すべて<名古屋大学公法部門>出身者・関係者だと推定される。順不同。
 本多滝夫(龍谷大学)、愛敬浩二(名古屋大学)、大河内美紀(名古屋大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、榊原秀訓(南山大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、本秀紀(名古屋大学)、緒方桂子(南山大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山形英郎(名古屋大学)、豊島明子(南山大学)、松井芳郎。
 以上だけで、12名。他に、少なくともかつて、鮎京正訓もいた。
 鮎京正訓はベトナム法研究者。市橋克哉もソ連解体前はソ連の行政(法)制度の研究をしていた。
 ——

2429/F・フュレ、うそ・熱情、幻想⑨。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012) 
 ——
 第5章・革命の過去と未来②。
 (6)ソルボンヌの学生たちは、70年間、フランス革命はロシア革命のための控えの間(antechamber)だった、と教えられた。
 博識溢れる大学—Georges Lefebvre はフランス革命に関する素晴らしい学者なのだから—にいた世代は、ほとんど比較不能であるこれらの事件を、比較できたのだろう。
 フランス革命は社会を創設し、農民とブルジョアジーを豊かにし、ネイションの中にすぐに著しく堅固な社会的基盤を見出した。
 ロシア革命は、社会全体を粉砕し、農民層を破壊し、単一党を打ち立てた。
 ジャコバンを除いて、二つの革命に関して比較し得るものは何もない。//
 (7)これとの関係で、イギリス史とフランス史を比較してみよう。
 イギリス人は17世紀に革命をもち、彼らの王を処刑し、短期間の共和制のあと、正統な王朝の復古があった。この王朝はすみやかに1688年に、新しい王室の招聘によって遮られた。
 少なくとも部分的にフランス革命と比較することのできる一連の出来事。—これは、テルミドール9日から今日まで、行われてきた。
 それにもかかわらず、イギリスの歴史学の伝統は、マルクス主義者を除いて、イギリス革命を祝福しないで、それを抹消する傾向にあった。
 Tory であれLiberal であれ、歴史家が祝福するのは1688年、革命の終焉だ。これは、先行した大反乱(Great Rebellion)と名づけられたものと区別するために名誉革命(Glorious Revolution)と称されることになる。
 一方、フランスの歴史家は2世紀の間一貫して、フランス革命を創設的事件たる地位にまで昇らせてきた。
 フランス革命を呪詛するときですら、歴史家たちは、その例外的性格だけを強調する。
 そうして、右であれ左であれフランスの人々は、その時期のきわめてナショナルな冒険譚でもって、動じることなく過ごすことができ、フランスの文学で継続的に英雄視した。
 なぜ、こんなにも対照的なのか?//
 (8)いくつかの要因が、考慮されなければならない。
 17世紀のイギリス革命は、宗教に傾斜していた。
 それは、聖書文化が染み込んだ闘士によって起こされたもので、きわめて平等主義的な特徴をもつにまで至った。
 1789年のフランス革命とは異なり、イギリスの革命家たちは、伝統に直面した際に白紙(tabula rasa) を提示しようとはしなかった。そうではなく反対に、聖典の黄金時代への回帰を追求した。
 イギリスの歴史の中で、革命はノルマン人の侵略に先立つ時代からその方向を見出した。かくして、フランスの1789年とは違って、起源についての卓越した威厳がなかった。
 イギリス人は一つに、O・クロムウェル(Oliver Cromwell)以前の彼らの歴史を奪われなかった。
 二つに、彼らは国家プロテスタント教(state Protestantism)のかたちで自分たちの宗教的基盤を再確認し、更新してきた。
 さらに、1688年に彼らの革命は幸運な結末を迎え、その時代にあった暴力と内戦を消滅させた。
 1649年の国王殺しの記憶ですら、新しい王朝によるネイションの再統合によって抹消されたことだろう。
 イギリスは、革命を手段として、咎めるというよりもむしろ、その伝統を強固なものにすることができた。//
 (9)フランスの歴史では、革命思想は民主主義思想と不可分だ。
 これらを分離することはできない。
 民主主義思想、構築主義思想、人間の自己創造という思想。
 これらは全て、革命思想の中に刻み込まれている。
 我々が今日に不幸であるのは、もはや革命思想を有していないことが理由だ。
 まるで我々の政治的文明は切り取られたかのごとくだ。
 社会主義者たちは、革命を実現することができなかったために、20世紀のあいだずっと、共産主義者たちよりも劣っていると見なされた。
 第二次大戦が終わり、私が青年だったとき、改良主義者であり得るという考え方は、私には理解不能だった。我々が経験している諸事態と対比して、不適切だと思われたからだ。—あまりにも狭隘で、平凡で、魅力に欠ける考え方のように思えた。
 赤軍がベルリンを奪取してナツィズムを粉砕したとき、ボルシェヴィキの革命思想には比類のない、真に普遍的な輝きが、復活されなければならない想像力が、あった。それは、歴史家へも求められるべきものだろう。そのような想像力は、我々のソルジェニーツィン(Solzhenitsyn)後の時代には、もはや考え難いのだから。//
 ——
 第5章、終わり。

2428/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑧。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)  第5章・革命の過去と未来①。
 本文はつぎの9の主題・表題からなる。順に、①思想と情動、②世界の終わり?、③ネイション—普遍的なものと個別的なもの、④社会主義運動・ネイション・戦争、⑤革命の過去と未来、⑥歴史家による追求、⑦ボルシェヴィズムの魅惑、⑧全体主義論、⑨過去から学ぶ。
 連続しているのではないが、便宜的に各「章」として、さしあたりまず、第5章を試訳する。2回で完了の予定。
 ——
 第5章・革命の過去と未来①。
 (序)ロシアの社会は、1917年と1921年の間に粉々に破壊された。
 テロルと強制収容所を考案したのは、スターリンではなかった。
 党内の分派が禁止されたのは、1921年の第10回党大会でだった。
 我々は、レーニンがほとんど絶望の中で死んだことを、知っている。
 このことは、彼の著作物、最後の論考、病気が緩和していた間の考えから知られる。
 つまり、レーニンは状況を多大なる悲しさをもって見ていた。そして、たしかに、レーニンとスターリンとの間には、違いがあった。
 しかし、レーニンが先にいなかったとするなら、いったい誰がスターリンのことを考え得るだろうか。
 (1)「うそ」という言葉の意味について、一致はない。
 ソヴィエトのうそについて語るとき、私は、レーニンまたはトロツキーにあるどんな積極的なうそについても語ってはいない。
 私は、客観的なうそについて語っている。
 ソヴィエトと労働者の権力に関するうそは、ソヴィエトはいやしくも労働者の権力だとか、あるいは民主主義的な権力ですらあるという、間違った考え(false idea)だ。
 このうそは、言葉と事実のあいだの、公式に裁可された矛盾を指し示す。//
 (2)ジャコバン主義(Jacobinism)は、ソヴィエトに先行した超革命的経験だった。しかし、ソヴィエトは、まるで自分たち自身の革命の初期の形態のごとく、それを取り込んだ。
 ボルシェヴィズムの魔術の一つは、ブルジョアジーを廃絶したがゆえに急進的で新しい革命は、革命的主意主義(voluntarism)の歴史に先行者を持つ、というものだった。
 そうして、ボルシェヴィキは両面の役割を果たした。まず、過激で新しいけれども、伝統に則っていると主張する。そして、ジャコバン主義は独裁、テロル、主意主義、新しい人間の称揚、等々をボルシェヴィキが見出したところだったので、その伝統はジャコバン主義にのみあり得た、と主張する。
 魅惑的なことは、フランス革命以降の革命は政治的な伝統になってもいた、ということだ。それは、1917年十月のために役立った。//
 (3)十月とレーニンは復活するだろうと、私は思う。
 スターリンは消滅し、捨てられるだろう。
 しかし、レーニンはなおも、輝かしい将来を当てにすることができる。とくに、トロツキストの途を通じて。トロツキーは、スターリンの犠牲者としての立場によって—最終的には—利益を得た。
 テロルの犠牲となったテロリストたちの処刑は、処刑者としての彼らの役割を拭い去ることだろう。
 フランス革命期のダントン(Danton)に、少し似ている。
 我々はいま、彼らが再生されるのを見ている。彼らは、最終的にスターリニストたることを免れ、神話を再び新しく作っているがゆえに、姿を大きくしている瞬間にある。
 十月はつねに、その最初にあった魔術の何がしかを維持し続けるだろう、と私は思う。そして、創建の契機、夢、歴史から引き裂かれた一瞬にとどまり続けるだろう。//
 (4)これら全ての背後には構築主義思想(constructivist idea)があることを、忘れてはいけない。
 永続的に作出される対象としての社会、という考え方。
 驚くべきことは、この思想はその起源をロシアにもったに違いない、ということだ。驚くべきというのは、ロシアは、その思想が具現化されるのに最も適していない国だからだ。
 これはロシアの異質性(foreignness)に関係がある、と私は思う。
 西側は数世紀にわたって、ロシアは何かが出現しそうな、神秘的な国だという考えを抱いて生きてきた。
 このような感覚は、近代の始まりの時期にあった。
 ソヴィエトの神話が誕生するに際して、この神秘さは少なからぬ役割を果たした。
 全ての出来事ははるか遠くで起きた、奇妙なものだった。
 西側には、ロシアについての、一種の終末論的見方があった。共産主義よりも古い見方だ。//
 (5)もっと注目すべきなのは、多数の人々が共産主義思想を理由として、ロシアはヨーロッパの一国であるばかりかヨーロッパ文明の前衛(avant-garde)だと想像している、ということだ。
 ロシアが共産主義の覆面を剥ぎ取られた今日ですら、ヨーロッパの人々にはロシアをどう理解すればよいかが分からない。 
 ヨーロッパ人は、習慣と対比の両方から、もう共産主義でないのだから「リベラル」だ、と見なす。
 これは明らかに、馬鹿げている。
 我々が痛々しく再発見しているのは、ロシアはヨーロッパにとっていかに異質(foreign)か、ということだ。//
 ——
 第5章①、終わり。英訳書本文、p.31〜p.34。
 

2427/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑦。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 〈 〉は原文中で、斜字体(イタリック)の部分であることを示す。この欄の他の「試訳」でも同じ。
 ——
 序文・第3節②。
 (8)<省略>
 (9)本書が以下で示すとくに興味深いのは、〈幻想の終わり〉についてのフュレの最終的な考察を全て集めていることだ。この書物は彼の最後の本であり、彼に国際的な高名をもたらした。
 かくして、この考察は、知的な遺書だと見なされ得る。
 政治的な遺書でもある。民主主義の将来に関する著者の最後の怖れを再び述べているからだ。
 この主題に関する多数の他の著作を考えれば、本当に新しいものはない。しかし、若干の補正部分を発見することはできる。その部分はこの考察に感動的な次元を与えている。
 さらに加えて、この考察には、〈幻想の終わり〉がつねに論評の対象だった数ヶ月のあいだにフュレが決まって用いていた表現が見られない。
 わずかな違いは看取し得る。自己批判の途を開いており、あの書物の中心にあった一定の章の調子を弱めている。
 我々は、ノルテ(Ernst Nolte)に関連していると見た。
 それを、この書の全体主義に関する節に認め得るだろう。すなわち、フュレはつねにこの観念には批判的な距離をおいていた。一定の著述者がこの観念で持ち込んでいる濫用ぶりと怠惰さに、気づいていたのだ。
 彼は、最後に意を決して、その観念へと戻る。//
 (10)これで、読者には助言が与えられた。
 編集された文章の全てがそうであるように、以下のページは直接に過去から来ているのではない。 
 <1文、略>
 一つの見方からすると、喪失を伴うがゆえに、<口語から文語への>変更は痛ましい。
 彼の言い回し、長く抑制されている肺結核の負担のある息使いは、彼の会話に特殊な調子を与えている。
 他方で、口語から文語への変化が必要とする批判的な荷重は、くだけた口語体の文章にはしばしば欠ける主題を明確にしている。
 編集者として、とりとめもなく不完全に書いてきた。
 このことを明確にしておくことで、私は困惑作成者ではなく〈文章の演出者〉だと見なされることを望んでいる。//
 ——
 序文、終わり。
 なお、この本の成り立ちのほかF・フュレはすでに故人であることが背景的理由の一つだと思われるが、フュレによる本文計81頁(後注を除く)に対して、以上の「序文」だけで計27頁もある。通常の書物に比べて、やや多すぎるだろう(以上、試訳者)。

2426/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 ——
 序文・第3節①。
 (1)(2)<省略>
 (3)1970年代以降リクールの近くで仕事をし(シカゴ大学でやはり教えていた)、またFrançois Azoubi が討論を仕切るよう頼んだJeffrey Barash (Barash は議論のあいだときには長々と喋った)のように、リクールは見えざる会話者になった。
 本書が示すように、リクールは全体に不在だったのではない。
 歴史家(フュレ)は哲学者(リクール)の論及、分析、回答、そしてときには異論に、反応している。
 近くで聴いている読者は、リクールの声をときどきは聞き分け、少なくとも考えを理解し、そうしてインタビューの様子、あるいはもっと正確にその調子を想像することができる。//
 (4)<省略>
 (5)指針は、可能なかぎり簡単だった。すなわち、1997年のフュレの草稿で使われている元々の言葉を尊重すること。
 フュレは著述の文体にとても注意を払っていたので、対話の過程を示す文章の順序は、二つだけの例外を除いて尊重された。
 二つのわずかな移動はフュレの論旨の一貫性を補強するためのもので、 私がカセットの番号と面を示した注記となって、この書物のフランス語版(この翻訳書ではない)の特徴になった。
 私はまた、フュレがリクールに宛てた1997年3月6日の長い手紙の主題に則した見出しを挿入するのが有益だと考えた。
 最後に、公刊される文章の会話での起源を想起させる、ときにある口語的表現の大部分は、そのまま残した。自分の著作で話し言葉を嫌うフュレを尊重して、一部は除去したけれども。//
 (6)<1文、略>
 フュレはときどき、うまく表現されていないと感じた文章を削除した。
 一つの例は、彼がどのように話し言葉を書き言葉に変えるかを示すに十分だ。
 最初のインタビューの第一ページで、フュレは、共産主義思想のソヴィエト同盟による具現化を、こう述べていた。
 「ソヴィエト同盟の歴史は共産主義思想とは何の関係もない、と容易に言うことができるがゆえだ—実際に人々は私にそう言った—。
 そして、その結果として、共産主義思想は、なおも無傷のままだ。
 私は全面的に同意する。
 政治では、これは完全に防御的な観点だ。
 しかし、歴史家はこれを防衛することはできない。なぜなら、私は、50年前に共産主義思想とはソヴィエト同盟だったことを示すことができるからだ。
 30年前、共産主義思想とはソヴィエト同盟だった。
 そして今日では、我々はソヴィエト同盟の経験を忘却することによって、またはソヴィエト同盟は共産主義と何の関係もないと言うことによって、歴史を粉飾することができる。しかし、これは歴史的には、防衛できるものではない。
 政治的には、正当化し得る。」//
 (7)フュレはこの文章を放擲し、つぎの段落の文章でもって補填した。
 「共産主義思想は、一つの抽象的思想として、ソヴィエト同盟の消失とは関係がない。
 共産主義思想は、資本主義社会と分ち難い欲求不満から、金銭が支配する世界への憎悪から、生まれたというかぎりで、その思想の「現実化」に依存していない。
 それが必要とするのはただ、ポスト資本主義世界の抽象的な希望だ。
 それにもかかわらず、そのときから、それの喪失を帳消しするのは不可能な歴史を持った。帳消し行為は左翼のあちこちで試みられているけれども。
 しかし、ソヴィエト同盟は社会主義や共産主義と何の関係もなかったと言うことで、たしかにこの歴史を取り消すことができた。あるいは、1924年までは全ては素晴らしかったが、その年に全てが悪くなったと言って、トロツキストの見方へと元戻りすることで。
 しかし、いったい誰が、こうした否認を信じることができただろうか?
 歴史の真実は、全員が記憶喪失者でない筈の多くの人々が目撃した真実は、ソヴィエト同盟はその歴史の全てを通じて、共産主義の希望を何とか具現化することができた、ということだ。その体制が存在しているあいだずっと、我々と時代をともに生きた多数の人々の心にあった希望を。
 私が理解しようとしているのは、この具現化の神秘であり、あんなにも特別で悲劇的な歴史の普遍的な不思議さだ。」//
 ——
 序文・第3節①、終わり。

2425/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑤。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ④。
 ——
 「序文」第2節②。
 (7〉どんな文章を、フュレは指し示したのか?
 <3文、省略>
 彼の第一の関心は、美しさがその内容の適切さから浮かび上がってくるような正しい言葉を見出すことにあった。
 かくして、彼はインタビューの最初の部分で、「幻想」と「ウソ」という言葉に関して整理することになる。
 「この二つの観念は重なり合っていない。ウソは策略のための意図的行為であり、幻想とは、想像に基づく熱情が発生させる過ちだからだ。
 共産主義は、体系的なウソで成るものだ。例えば無知な観光者のために組織された旅行や、より一般的には運動において〈agi-prop〉(煽動的プロパガンダ)が果たした役割が証明しているように。だが、その主な力は何か別のものに由来する。つまり、20世紀の人々の政治的想像力に対する影響。
 それは、ウソだけでは覆い隠すことのできない、共産主義がもつ神秘的な普遍性の根源にあるものだ。
 私が研究したいのは、まさにこの側面だ。すなわち、信念(belief)の歴史。
 この歴史を不思議なものにしているのは、(1) その信念が裁きの場としての「本当の(real)」歴史を認知していること、(2) それにもかかわらず、その信念はいわゆる「本当の」歴史によるきわめて激しい論難を生き延びた、ということだ。
 要するに、歴史家は、悲劇へと接合された希望をどのようにすれば説明することができるのか?」
 (8)第二の部分は、この最初の考察から容易に派生してくる。 
 フュレはかくして、政治的信念と宗教的信念の比較をすることをリクールに提案した。
 このような試みをすることは、対話の順序の全体的な変更を意味した。最初のインタビューでは、かなり表面的な形式でのやりとりがあって初めて現れるだろうこの問題は、無視されていたのだから。
 我々はここに、口頭での対話を生の素材だとフュレが理解していたことを知ることができる。その素材は、聴取者ではなく読者に提示する価値のある最終的な作品に変えられなければならないものだった。//
 (9)そして、第三の段階へといたった。
 二人の対話者はどちらも、分析を好んだ。フュレが十月の「魔法」と呼んだものについて彼は〈幻想の終わり〉の長くて密度の濃い章を使うことになるのだが、これが、会話の中心となった。
 「これに関して言うと、一定の文脈から掴み出して、討論の筋を取り戻す問題にすぎない(例えば、我々があまりに早く通り過ぎている問題だが、民主主義文化における普遍的なものとナショナルなものの間の関係)。
 この主題は、我々の議論の中核部分を構成する。」//
 (10)「幻想」の検証から厳密に言えば「全体主義という観念、その射程と限界、の分析」へと進むのは容易だっただろう。
 全体主義の観念はフュレには馴染みがないものだ。彼はこれをほとんど用いず、濫用を遺憾に思いつつ、この観念の利用を非難したくなるような政治的主題のあることを、しばしば指摘してきた。
 この部分で彼は、予期されなくもなかったが、ナツィとソヴィエト体制の関係や民主主義的Modernity はむろんのこと、ナツィとソヴィエト体制の比較の可能性のような、多くの関連する問題を持ち出すことになる。
 フュレはまた、Claud Lafort の全体主義権力に関するテーゼについての議論も予告した。そのテーゼでは、「多数の者を一つにすることによる集団的存在の中での、政治的団体思想への一種のギリシア芸術的回帰をしての、民主主義的諸個人の再統合」と把握される。//
 (11)フュレはこう書いた。「不可欠の叡智を用いる」ポスト共産主義の民主主義の将来でもって、公刊されるインタビューは終えることができた、と。
 こうした関心は、生涯の末でのフュレの「物悲しい」心の裡にあった。そして、リクールとの対話の間にしばしば浮かび上がったように見える。
 フュレの死の数週間前、1997年に撮られたインタビューの映像で、哲学者(リクール)は二つの全体主義の比較へと、そして彼が「留保」していた観念へと、戻っている。
 リクールにとって、二つのユートピアは、それらが採用した手段に多くの類似性はあるけれども、「比較不能な」ものだ。
 そして、西側文明を組成した偉大なるユートピアを殺してしまうことで、啓蒙主義的な楽観的見方は人類に未来を残さないäままで終焉した、とフュレは正しく考えてきた、と語って、リクールはフュレとの対話を再開していた。
 それ以降、民主主義によって惹起された革命的熱情は、いったいどうなったのか? 民主主義はいつも手続き的で、その熱情を満足させられなかった。
 二人がやり取りした文通には、この疑問が漂っていた、とリクールは肯定した。—悲しくも不完全になった—その文通はインタビューの書物化を準備していた数ヶ月のあいだ行われたが、その書物は日の目を見ることがなかった。//
 ——
 序文・第2節②、終わり。

2424/ニーチェとロシア革命・スターリン。

  西尾幹二は、2020年にこう明記した。
 私はニーチェの「専門家でありたくない、あってはならない」。
 「それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 以上、同・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
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  かつてのソ連および現在のロシアで、ニーチェ(Friedrich Nietzsche)がロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 例えば、ロシア10月革命直後のレーニン政権の初代啓蒙(=文部科学)大臣=人民委員だったLunacharskyはニーチェを読んでおり、影響をうけていた、という実証的研究もある。
 以下は、現在の時点で入手し得た、ニーチェとロシア・ソ連の関係(主としては哲学、文化、人間観についてだろう)に関する、英語文献だ。
 資料として、中身の構成も紹介して(直訳)、掲載しておく。
 (1) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche in Russia(Princeton Univ. Press, 1986). 総計約430頁、計16論考。
  ・第一部/ロシアの宗教思想に対するニーチェの影響。
  ・第二部/ロシアの象徴主義者(Symbolists)と彼らのサークルに対するニーチェの影響。
  ・第三部/ロシアのマルクス主義に対するニーチェの影響。
  ・第四部/ロシアでのニーチェの影響のその他の諸相。
 (2) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche and Soviet Culture -Ally and Adversary(Cambridge Univ. Press, 1994/Paperback 2002). 総計約420頁、計15論考。
  ・第一部/ニーチェとソヴィエト文化の革命前の根源。
  ・第二部/ニーチェと芸術分野でのソヴィエトの主導性。
  ・第三部/ソヴィエト・イデオロギーへのニーチェの適合。
  ・第四部/不満著述者・思索者のあいだでのニーチェ。
  ・第五部/ニーチェと民族性(Nationalities)—事例研究。
 (3) Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
  ・第一部/萌芽期、ニーチェのロシア化—1890-1917。
  ・第二部/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  ・第三部/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
  ・第四部/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
   //第一章・縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   //第二章・ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義的リアリズム。
   //第三章・勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  ・エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上
 ——

2423/法の支配②。

  <法の支配、民主主義、人権>または<法の支配、自由と民主主義、基本的人権>を挙げて、「共通する価値観」が語られ、「価値観外交」なるものの維持・推進が日本の近年の政権指導者により主張されることがある。
 安倍晋三内閣からだったかははっきりしないが、大まかには中国(・北朝鮮)に対して厳しい態度をとる諸国の連携の意味のようだ。
 インドを含む。ロシアがどう位置づけられているのかは、明確にされていないように私には感じられる。
 これを語る者たちがどう意識しているかは厳密には不明確だが、岸信介を祖父とする安倍晋三においては、おそらく間違いなく、<反共産主義>陣営を指していた、と思われる。
 とすると、いわゆる資本主義国・「自由主義」諸国に共通する価値観として上の三つ(人により同一でないかもしれない)が挙げれていることになる。少なくとも秋月瑛二は、そう理解してきた。西尾幹二は異なるかもしれない。
 なお「民主主義」国とか上でも使った「自由主義」国という一語で最も簡潔に表現または形容する者もいるようだ。
 立ち入らないが、上の後者はまだ適切だが、中国や北朝鮮は自国を「(人民)民主主義」国と理解または自称している可能性があるので、「真の」民主主義とは何かが発生しそうな前者を対比語としては使いたくない、というのが、秋月の個人的嗜好?だ。
 また、欧米的<自由と民主主義>を日本は採用すべきではない、と主張しそうな佐伯啓思の論への対応にも立ち入らない。日本と欧米は同じではないが(正確にはアメリカと欧州も、欧州内の英、仏、独等々も同じではない)、また日本の独自性・自主性を決して無視するつもりはないが、中国等や少なくともかつてのロシアとの対比では、欧米と日本は<共通する価値観>を持っているし、持っているべきだろう。
 --------
  ともあれ、「法の支配」は、上記のような脈絡で、少なくとも日本では重要な意味を持たされてきた、と言えるだろう。
 結論的に言って、<自由主義>国と日本共産党のいうような<社会主義・共産主義>国とを分ける基本的徴標が「法の支配」という理念の有無だ、ということに、厳密なこれの意味を別とすれば、賛成はする。①「法」の意味合い・位置づけが決定的に異なることと、②<権力分立>の存否または議会・裁判所制度の機能の差異とが、これに関係する。
 上の点も、きわめて重要な考察・叙述対象なのだが、立ち入る余裕は今回の主題からすると、ない。
 ここで論及しておきたいのは、「法の支配」またはRule of Law というものは、歴史的にも現在でも、ドイツやフランスで用いられた観念・概念ではないし、さらにイギリスやアメリカにおいてすら、いわゆる社会主義・共産主義国と区別する基礎的<価値観>を表現する観念・概念として用いられてはいないのではないか、ということだ。
 ということは、日本に独特の概念用法であるのかもしれない。つまり、Rule of Law (法の支配)の理念のもとで我々は結束して…、と日本の政権首脳がイギリスやアメリカの首相・大統領等に向かって言ったとして、彼らはその意味をすぐにかつ容易に理解するのだろうか、という疑問を、非専門家ながら、もつに至った。
 その疑問の根拠・理由を一気に書いてしまうつもりだったが、例によって?前書き的文章が長くなりすぎた。次回以降にまわす。
 ——

2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ③。
 ——
 「序文」第2節。
 (1)ノルテとフュレが歩んだ途の交錯が全くの驚きではないとすれば、フュレと哲学者のポール・リクール(Paul Ricoeur)の遭遇は、さらに予期され得ないものだった。
 たしかにこの二人のフランスの学者は、ともにシカゴ大学と関係があり、リクールは1970年以降、フュレは1980年以降、この大学で定期的に教えていた。
 しかしながら、この近接さだけでは結果を生まなかった。
 二人は大学で会っていたけれども、交際関係はなかった。
 彼らの知的および政治的行路が遠く離れているということはなかった。
 彼らの仕事の内容が全く似ていないということもなかった。
 そして二人は際限のない好奇心をもつ知識人だったけれども、誰も二人は異なる感受性または関心の対象をもっているとは考えなかっただろう。//
 (2)フュレとリクールが1989年3月4日に出会った証拠はある。その日、フュレはフランス革命に関する歴史叙述の変化についてSociété française de philosophie で講演をしていた。
 討議の中で—注目すべきことに、Maurics de Gandillac、Andre Sernin、Jacques Merleau Ponty も参加していた—、リクールはつぎのように質問した。
 「<省略—試訳者>」 
 フュレの回答は簡潔だったが、哲学者の仕事からするといくぶん陳腐だったとしても、褒め言葉を含んでいた。
 「あなたの書物に、とくにそこに示されている規律についてのあなたの考えに、歴史家たちは何と多大な関心を寄せてきたことでしょうか。」
 フュレは残りの時間を、若干の文章で反応した。フランス革命史でDenis Richet とともに展開した分析にある修正を付けて。会話は終わった。//
 (3)フュレとリクールが一緒に語り合い、共産主義の世紀の検証に取りかかるには、いくばくかの奇跡が必要だった。
 それは哲学者のFrançois Azoubi から生まれることになる。当時、Calmann-Levi の編集者だった。Robert Laffont のほか、この出版社によって、フュレは〈幻想の終わり〉の成功を獲得した。
 同じ年にポール・リクールによるインタビュー・シリーズである〈La critique et la convention〉を刊行していたので、Azoubi は、哲学者と歴史家の同様の遭遇を企画しようとした。
 フュレの本の重要さ、その稀に見る成功、その性質—歴史と哲学の中間—からすれば、ポール・リクールのような哲学者の注目を惹かないはずはなかっただろう。リクールは、思考と著述の方法に関して、歴史家たちに絶えず問いかける人物だった。
 Azoubi は、リクールが〈幻想の終わり〉を賞賛しているのを聞いた。リクールはその書物を、ペンを手に取りながら読んでいた。//
 (4)さらに、フュレの大著は、歴史家や自分自身の著作について叙述する際に、リクールが依拠することできるような類のものではなかった。
 それとは反対に、歴史認識というのは、フュレが科学的な考察をしようとはほとんどしなかった、むしろ懐疑的なものだった。
 だがなお、〈幻想の終わり〉はリクールの書棚の目立つ場所に置かれており、その書物の数十頁には彼自身の手によるメモが書かれていた。
 そうした頁には、率直な興奮の中に、疑問をもっての当惑も見られた。
 「どうしてこんなに断定的なのか?」
 「歴史的論拠は本当に十分なのか?」
 「どんな種類の歴史なのか?」
 「Pensr la Revolution française に関係」
 「イデオロギー的熱情の盟約」
 「だが、この終結で全部なのか?」
 「ブルジョアの素晴らしい素描」、等々。//
 (5)フュレとリクールの会話は、1996年5月27日に行われた。
 それは録音された。—テープは保存されなかったけれども。そしてすぐに、文字に起こされた。
 この最初の対談の痕跡は、Ecole des hautes etudes en sciences sociales(EHESS)のCentre d'etudes sociologiques et politiques Raymond Aron(CESPRA)のフュレ資料庫に残っている。
 最初の状態では公刊できないもので、体系的でなく、話し言葉ばかりで、多くを草稿化することが望ましかった。しかし、たぶん編集者だったAzoubi によると、将来の見込みが十分にあった。
 こうして、フュレとリクールは対談をできるだけすみやかに再開するよう、要請された。
 「François Azoubi は我々が会話をつづけて深化せることに賛成でした。このことで少なくとも、あなたとも一度、この冬に会うことが愉しみになりました。」(フュレ)
 すぐれた二人の知識人は忙しい生活を送っていたので、関係文書は数ヶ月の間、閉じられたままだった。
 再び開けられたのはつぎの春で、1997年3月19日に二人は再会した。//
 (6)その数日前の3月6日、フュレは対話者(リクール)に手紙を送った。
 この手紙は、言葉のやり取りの仕方を設定しようとし、素材を改めて調整することを提案していた。
 実際的に見ると、これは、録音から文字起こしした文書から、くだけた部分を全部削除することを意味していた。
 フュレが怖れた、間違って選んだ表現はむろんのこと、曖昧で自然に任せた部分は全て、思考が進行する動きを反映した構成をもつ、滑らかでよくこなれた文章に置き換えられなければならなかった。
 これは、とても興味深い手紙だ。口頭での言葉を書き言葉に変える作業を率直に明らかにしている。また、フュレがほとんど下品はお喋りだと考えたものを公にすることを歴史家や哲学者が受容しなければならないことの一種の暴露または欺瞞すらも、明らかにしている。
 フュレは、9月22日に、リクールにあててこう書いた。
 「こうした頁を読むとき、ぞっとするでしょう(私が語った言葉の全ての間違いのゆえにです)。」
 以下が示しているように、フュレの厳格さは過剰なものだった。//
 ——
 第2節②へとつづく。


 furet

2421/中西輝政—2008年7月の明言。

  諸君!(文藝春秋)2008年7月号は表紙でも<平成皇室ー二十年の光と影>と謳い、その一環として、56人の「われらの天皇家、かくあれかし」を主題とする文章を掲載している。
 その56のうち、表向きは(この号の文章では)西尾幹二よりも明確で断定的な主張・提言を行なっていたのは、中西輝政だ。こう書いている。p.239-240。
 「あえて臣下としての慎みを超えて直言申し上げたいことがある。
言わずと知れた『皇太子妃問題』である。」
 「ただ一点、揺るがせにできない重大問題は、同妃が宮中祭祀のお務めに全く耐え得ない事情があるかに伝えられることである。
 もし万々一、このことが真実であるなら、ことは誠に重大であり、天皇制度の根幹に関わる由々しき問題であると言わざるを得ない。」
 「しかし万一、事態がこのまま推移するなら、事は更に重大な局面に至る憂いなしとしない。
 皇太子妃におかせられては、このことを是非共深く御自覚頂き、特段の御決意をなされるようお願い申し上げたい。」
 「もし万一、皇太子妃をめぐる右のごとき問題が今後も永続的に続くのであれば、今上陛下の御高齢を慮り皇室の永続を願う立場から敢えて臣下の分を超えて申し上げたい。
 同妃の皇后位継承は再考の対象とされなければならない、と。」
 --------
  中西輝政がこんなことをかつて言っていたとは、知らなかったか、記憶を失くしていた。
 2019年5月、当時の皇太子妃は皇后となられた。
 中西輝政はこの2019年前後、上のかつての発言にどう触れていたのか。
 触れていたとかりにして、想定できるのは、さしあたりつぎだ。
 ①「宮中祭祀に全く耐え得ない事情がある」ということがなくなったので問題はない。
 ②上の「事情」に基本的な変化はなく、よって皇后位就位には反対であり、残念だ。
 ③上の2008年時点での自分の主張は誤っていた。詫びるとともに、皇后位継承を容認(歓迎)する。
 2021年になっても諸雑誌に「論考」を発表している中西が、平成・令和の代変わり時に、雑誌類に何らかの文章を発表する機会が与えられなかった、とは想定し難い。
 中西輝政は、上のいずれ(またはいずれに最も近い見解)を選択したのだったのだろうか。
 全く触れなかった? そんなことは、よほど卑劣な文章作成請負自営業者でなければ、あり得ないだろう。
 「万が一〜であれば」という仮定条件を付けつつ、当時の皇太子妃の「皇后位継承は再考の対象とされなければならない」と、著名だったと思われる当時の公の雑誌上で、明言していたのだから。
 ——

2420/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)③。

 フランソワ.フュレ、うそ・情熱・幻想。
 =François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ②。
 ——
 (6)この成功の理由を、どう説明することができるか?
 共産主義について明らかにすべきことは、大して多くは残っていなかった。
 反共産主義文学の偉大な伝統を支えた気持ちの悪い記録は、もう消え去ったように思われた。
 フュレの貢献は、弾劾にあるのではなかった。
 彼もまた、前の世代の共産主義経験はつぎの世代のためには何のためにもなっておらず、同じ幻想を抱かせることはないことを知っていたし、しばしば悔恨をもって肯定した。
 じつにこのことこそがその書物の目的だったのだから。目的は、歴史の叙述をすることではなく、20世紀の共産主義思想が作り出した革命的熱情の力強さを説明することにあった。
 非難することではなく、理解することだった。
 諸現象、というよりもむしろ共産主義の消失の「謎(enigma)」の対象化が、この書物を有用にしたものであり、結論を異にする人々にとってはひどく苛立たせるものだった。//
 (7)こうした視覚からの著作が好ましく受けとめられたことには、たしかに、20年前にSolzhenitsyn の〈The Gulag Archipelago(収容所群島)〉が華々しい成功を収めたのに似た状況が有利に働いていた。
 二つの書物には一世代の違いはあるが、同じイデオロギー上の潮流に属している。
 共産主義を捨て去っていく長い過程は1970年代半ばまでには始まっており、通常は知識人界に含まれるいくつかの個人の集団ばかりではなく広く「左翼(Left-Wingers)」階層全体に影響を与えていた。その過程は、世紀の終焉とともに終わった。
 フランソワ・フュレが関心を持ったのは、この最終的な段階だった。
 彼の書物は死亡確認書であるとともに、解剖診断書でもある。
 激情が彼の大胆さを正当化している。犯罪科学の外科医には、死体を無慈悲に扱うことが許されているように。
 ナツィズムと共産主義の比較、さらに悪いことにこれら二つに共通するように見える頑迷な思考方法こそが、フュレが最も挑発的に論争対象にしようとしたものだった。
 (8)この点で多くの者は、ファシズムに関する三巻の大著の著者であるドイツの歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)との対話を行なったとして、フュレを非難した。
 ノルテがドイツの右翼(Right)と親近的だったことは、彼(ノルテ)をほとんど異端者にした。とくに、国家社会主義とファシズムについてのドイツの歴史家たちが対立した1980年代の〈歴史家論争〉以降のことだが。
 ナツィズム、ファシズム、および共産主義の比較可能性は、ノルテが最も論争主題としたもの一つだった。
 フュレは、この種の禁忌に煩わされるような人物ではなかった。彼にはつねに、その見解ではとくに左翼は安易すぎるとして、知識人の知的順応性を批判する用意があったのだ。
 〈歴史家論争〉はおそらく、彼自身のフランス革命解釈をめぐっての騒然とした歴史的かつ政治的な論争を、生々しく思い起こさせるものだったに違いない。//
 (9)彼は、〈幻想の終わり〉の長い脚注の中で初めて、ノルテに対する異論を明らかにした。それは、その書物にはほとんど脚注がないことからしても、驚くべきことだった。
 彼は、20世紀の二つの形態の全体主義を並置させるのを禁じる、歴史の「反ファシスト」解釈を打ち破ったことについてノルテを称賛しつつも、ノルテによる反ユダヤ主義(anti-Semitism)の解釈には同意できないと表明した。
 フュレによると、ナツィの反ユダヤ主義を「理性的」に正当視するのは、きわめて「衝撃的でかつ間違った」ものだった。//
 (10)イタリアの雑誌の〈Liberal〉が、遠く隔たっている二人の主唱者が手紙を交換したらどうかと提案した。
 二人の歴史家は、1995年の末から書簡交換を始め、1996年じゅうずっと続いた。
 各手紙は、フランスの〈Commentaire〉とイタリアの〈Liberal〉で、1997年のあいだに公表された。
 文通の全体はイタリアで同年に公刊されたのだが、二人はその数ヶ月前の1996年に、ナポリのFondazione Ugo Spirito で開かれた会合で初めて出会った。
 彼ら二人は、1997年6月にナポリで開催されたリベラリズムに関する会合で、もう一度だけ逢うことになる。それは、7月12日のフュレの突然の死の、わずか数週間前のことだった。//
 (11)フュレはおそらく、この議論の後半でしばしば文通の相手に対して、フランス革命の歴史家は動揺している、または最終的には保守的立場へと転じた、という印象を与えたことを後悔していただろう。
 いずれにせよ、(本書で)つづくインタビューを読むと、フュレがノルテと遭遇したことが影響を与えている部分をいくつか看取することができる。ちなみに、ポール・リクール(Paul Ricoeur)は、ノルテと書簡交換したことを、少しも咎めてはいない。
 このインタビューは、ノルテとの遭遇を正当化する最後の機会だったように見える。
 フュレは威嚇されたのではない。それにもかかわらず、自分の選択に責任を取っている。——死の数日前に彼がノルテに書き送った最後の手紙で、リベラリズムに関するノルテの歴史的分析の「幅広さと聡明な寛容さ」を称賛した。——彼はときおり、苦い味が残ったと感じていた。//
 ——
 「序文」第1節、終わり。

2419/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)②。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 <試訳者注>つぎの「序文」は「+」を付けて一行空けている部分が二箇所あるので、便宜的に三つの節に区切る。
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 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ①。
 第1節
 (1)フランソワ・フュレはかつてフランス共産党の活動家で、1949年に入党し、1956年のハンガリー蜂起に対する弾圧のあとで徐々に遠ざかった。彼はつねに、自分自身の過去に染み込んだ政治に関する考察を活発に行なってきた。
 彼は、共産主義の魔術に関して思考することを決して止めなかった。そして、彼によれば、共産主義は我々の物事に対する理解を曖昧にするものだった。—フランス革命についてそうであるように歴史についても、ソヴィエト同盟についてそうであるように厳密に政治についても。あるいはこれらは、歴史的具現物としての共産主義と、より一般的に関係していた。
 彼は休みなく、フランス革命に関する共産主義的歴史理解と闘った。そして、この最初の闘いを継続しつつ、革命の200年記念日が過ぎてベルリンの壁が崩壊したあとでは『共産主義という幻想』の歴史を含めて、分析の範囲を拡大した。//
 (2)彼は1990年代のまさに最初に仕事を開始し、共産主義に関する資料を集め、よく使われた書類をもう一度開き、新しい研究を古い考察や先入観念と結びつけた。
 彼の歴史研究上の転換点は、評論雑誌の〈Le Debat〉に公刊した長い論文で明確になった。
 そして、1990年10月、この歴史家は〈L'enigme de la desagregation communiste〉と題する論文を〈Note de la Fondation Saint-Simon〉に発表した。
 これは、数年後に〈幻想の終わり〉となったものの萌芽だった。//
 (3)1990年11月21日と22日に二つの記事のかたちで〈Le Figaro〉に掲載され、また11-12月号での〈Le Debat〉により、この『Note』は、フランソワ・フュレを共産主義の終焉に関する偉大な分析者の一人としての地位を確立することになる。
 Robert Laffont 出版社のCharles Ronsac はたまたま南西フランスのSaint Pierre-Toirac でのフランソワとデボラ・フュレの隣人だったのだが、論文をより実質的な書物にするよう彼を激励した。
 こうして、〈フランス革命の省察〉の著者は、彼が長年にわたって研究した革命的メッセージに含まれている約束実行の悲劇と共鳴するように思える別の世紀へと関心を移した。
 フランス革命に関する歴史家として賞賛したにもかかわらず「おぞましい書物」だと映画監督のJean-Luc Godardが見なした書物が、まさに生まれようとしていた。//
 (4)このこと(おぞましさ)は、書物の冒頭に置かれて「革命的熱情」と題された最も辛辣な章の一つの新しい〈Note de la Fondation Saint-Simon〉での事前出版によって確認された。
 1995年1月、〈Le Passe d'une illusion(幻想の終わり)〉が出版された。
 初回の注文は出版上の成功だった。すなわち、1ヶ月半の間に7万部が売れた。
 6ヶ月後、〈Le Nouvel Observateur〉でのベストセラーリストの上位にあった。
 1996年6月、10万部が売れた。そしてすみやかに、18言語へと翻訳されることになった。//
 (5)批判的な反応は、想定され得た。
 この書物は一般メデイア、テレビやラジオの文芸番組、文書媒体の主要な公刊物の注目するところとなった。むろん、政治家たちや著名なヨーロッパの知識人の注意も惹いた。この人々に対して、評論雑誌の〈Le Debat〉は、雑誌の特別号で議論の場を提供することになる。 
 反応の多くは、この書物の基本的主張(theses)を支持した。さらに重要なことに、力作(tour de force)だとして、この著作を賞賛した。
 実際に、Jean-François Kahnが何度もテレビで表明したように、確かな成功だと感じざるをえなかったことで、ある程度の人々は苛立った。
 最も信頼できるこの書物の対抗者たちですら、堂々たるこの著作に対する知的敬意を否定することができなかった。
 Denis Berger とHenri Malerは、いずれもトロツキー主義派なのだが、こう書いた。
 「〈Le Passe d'une Illusion :Essai sur l’idee communiste au XX siecle〉の良質さは、まさに衝撃的だ。
 激しく流れる語り口が印象的で、事象の再現は力強く、教示的だ。分析は、刺激的かつ鋭い。
 筆致は濃密であるとともに痛烈だ。」
 唯一の激しい否定的反応があったのは、極左(Far Left)の知識人たちだった。
 他の者たちも、とくに20世紀の最初の10年にならば、1980年代や1990年代に対する深刻な反発の間に、彼らの意見を付け加えたことだろう。
 Furetは、終わりを迎えようとしている世紀に左翼(the Left)を僭称する偉大な伝統に始末を付けたとして、責任追求され、有罪の判断を下される者に含まれることとなるだろう。//
 ——
 序文②へとつづく。

2418/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)①。

  François Furet(フランソワ・フュレ,1927-1997)には、20世紀の共産主義に関するつぎの大著があり、邦訳書が(いちおう)あるので「試訳」を掲載したことはないが、言及はときどきしてきた。ドイツのE・ノルテ、アメリカのT・ジャット等に関連していたからでもある。
 François Furet, Le Passe d'une Illusion :Essai sur l’idee communiste au XX siecle (1995).
 =(英語飯) The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the 20th Century (1999). 総計約600頁。
 =(独語版) Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).  総計約720頁。
 =(邦語版) 幻想の過去 -20世紀の全体主義(楠瀬正浩訳,バジリコ,2007). 総計,約720頁。
 なお、最後の邦訳書の表題は「過去」→「終わり(終焉)」、「全体主義」→「共産主義」と訂正されるべき旨は、何度か記した。
 --------
  François Furetには没後のつぎの書物もあり、主題について、上の大著と関係が深い。
 邦訳書はない、と見られる。
 以下、何回かに分けて、「試訳」する。全部は不可能だろうが、上の大著に関連する、著者以外による〈序文〉等も含める。
 ********
 フランソワ.フュレ、うそ・熱情・幻想—20世紀の民主主義的想像力。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 ********
 
 訳者はしがき/Deborah Furet。
 あなたが読もうとしている書物は、たんにFrançois Furetが出版する最後の作品であるかもしれないというだけではない。
 この書物は、出版事業での小さな冒険でもある。
 この書物は、対話で生まれた。"Audiographie" シリーズは、Artieres とJean-François Bert がEdition de l'EHESSのために考案した。それは、文字となった話し言葉は著作者の考えだけではなく、思考の方法や過程にも光を当てることがありうる、という発想に基づいていた。この書物はそのシリーズの最初の一冊だ。
 この書物は、Furetが長時間一人で机に向かって仕事をして用箋に執筆した彼の他の著作とは違って、二人の人物の誠心誠意からの会話からできあがった。二人ともに、生涯にわたる思考を具体的に表明していた。//
 このシリーズの監修者のChristophe Prochasson は、この文章を綿密に吟味して編集しつつ、Furetの伝記を執筆した。そして優しくも、この冒険を少しばかり前進させるのを私に許してくれた。
 彼の序文は、この書物の区分けや区分けする過程での追加・変更を記して、読者を誘導するだろう。
 University of Chicago Press の編集者たちとともに私は、説明的な翻訳ではなくより適切で流暢な論考になるよう努めた。
 こうして我々は、付着した虚飾、テープに録られた部分と訂正された部分の印刷上の違い、テープ録音への全ての注記を含む一定の脚注を除外した。
 最初の出版は、もちろん、フランス語版で見ることができる。//
 1987年以降にFuretとともに仕事をしたMargarett Mahan に、真摯かつ心のこもった感謝を捧げる。民主主義の情熱へのこの宝石のごとき考察をするに際しての彼女の役割に対して。//
 ——
 ②「序文」へと続く。

2417/西尾幹二批判031。

  西尾幹二は2017年に「つくる会」10周年記念集会にあてて、かつての福田恆存らには「反共」だけがあり「反米」はなかったが、前者に加えて「反米の思想」も掲げたのは<われわれが最初だった>旨を書き送った。全集第17巻712頁(2018年)で読める。この欄でもすでに「根本的間違い」に簡単に言及して引用・掲載した。
 「つくる会」のこととして西尾は書いていたが、「われわれ」の初代会長だった西尾幹二自身も含めている、と理解して差し支えないだろう。
 ここでの論点はいくつかある。
 根本的には、第一に、「新しい歴史教科書をつくる会」という運動団体かつ歴史教科書作成団体は本当に明確に<反共かつ反米>を掲げていたのか、だ。
 私は胡散くさいと思っている。設立当時の文書や『史』という機関誌等を丁寧に読めば、西尾の10年後の「うそ・ハッタリ」は明確になるのではなかろうか。
 第二に、西尾幹二自身が、本当に「反共」かつ「反米」という思想的立場に立っていたのか、だ。
 とくに気になるのは、西尾における「反共」性、「反共産主義」性だ。
 この点は、別途検証するに値する。ここでは、西尾の文章の中には、マルクス、レーニン、スターリンの文章の引用はもちろん多少とも内容のある紹介や論評は全くないと見られる、とだけ記しておく。「反共」と言いつつ、この人は、「共産主義」とはどういうものかをまるで知っていないままだと見られる。この人がまだ若い頃の、ソ連「遊覧」旅行の記録でもそうだ。
 --------
  秋月の語法では「反共」性と称してよいと考えるが、その点は措くとしても、西尾幹二においては「反中国」性が弱いということはこれまでも数回は触れた。
 この人は「反米」的主張をかなり明確に行なってきた。この点を知りつつも、私自身もまた素朴な愛国主義者であり、素朴なナショナリストであり(以上、小林よしのりと同じ)、日本が欧米と同じになる必要はなく、同じになることがある筈もないと思っているので、西尾の「反米」主張も、その限りで諒としてきた経緯はある。
 中川八洋が西尾を<民族派>の中に含めるのも奇妙だと感じてきた。単純な<民族派>ではないものが西尾にはある、と理解していたからだ。
 それに、少なくとも2010年前後には<保守>が「親米(保守)」と「反米(保守)」に分類されることがあったのはすこぶる奇妙なことだったが、西尾自身が自分は<反米でも親米でもない>と書いているのを読んだ記憶がある。
 また、いずれかの雑誌上で岩田温が<保守>論者を「親米」か「反米」かを二つのうちの一つの対立軸として分類整理する図表を載せていたが、そこでは西尾幹二の名は、「親米」と「反米」を区切るまさにその線上に置かれていた(この記憶に間違いはない)。
 --------
  前置きが長くなった。
 二で記した経緯からするとやや驚きでもあるのだが、「下掲」の2006年末の雑誌上で、西尾幹二は明確に、「反中国」よりも「反米」を優先し、強調する発言を行なっている。
 これは、やはり、西尾の<根本的間違い>を示している。これでは<民族派>と一括されてもやむを得ない。また、「反米(保守)」派の主張でもあっただろう。
 ついでに。「反米」も「対米自立」も、日本共産党の基本的主張だ。アメリカ帝国主義に「従属」している(未だ「独立」していない)、というのが、この党の状況認識だ(現綱領上の表現を確認はしていない)。
 西尾にはきっと不本意だろうが、これで「反共」性がないか乏しいとなると、「民族主義」政党でもある日本共産党とどこがどの程度違うのか、という根本的疑問も出てくる。
 もっとも、これは西尾幹二についてだけ当てはまるのではない。1997年の設立時にソ連崩壊により「マルクシズムの誤謬は余す所なく暴露された」と書いて、もはや共産主義・マルクス主義との闘い、これらの分析・研究は必要がないと宣言したがごとき日本会議についても言える。
 西尾と日本会議が結局は同質・同根であるようであるのも、不思議ではない、と言うべきか。
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 2006年の安倍晋三内閣発足1月後の座談会で、西尾は、「『真正保守』を看板に掲げた安倍氏」の不安材料、期待できそうにない理由を計4点挙げているが、最後の点として、こう明言している。
 「同盟国としてのアメリカの存在です。
 私は、安倍さんが日本の保守再生に取り組む際に、実はこれがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない。
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちのほうが大きい。
 座談会「保守を勘違いしていないか」諸君!2006年12月号(文藝春秋)75頁。
 ソ連解体をもって「冷戦」は終わった、これからは各国の各「国益」追求の対抗・競争の時代だ、と考えてしまった、日本の「保守」の主流かもしれない部分の悲劇が、ここにも示されている。
 地理的・地域的に近接した欧州諸国やそれらと文化的共通性のあるアメリカの論壇が、そういう論調だったのは、理解できなくもない(しかし、共産主義・マルクス主義の研究者・専門家たちは、L・コワコフスキも含めて、中国等の存在になお注目していた)。
 本来、常識的なことのはずだが、ソ連解体で終了したのは<対ソ連(・東欧)との関係での冷戦>だった。
 中国、北朝鮮、ベトナム等の存在を、東アジアに位置する日本の論者が無視または軽視してよい筈はなかった。
 そして今や、<いわゆる保守>は、中国・韓国に「民族」意識で対抗し、男系天皇制度の維持を最大目標として結集しているようだ。悲惨、無惨。
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