池田信夫ブログマガジン2021年8月30日号。
一 最後に読んだ箇所の方が印象と記憶に残りやすい。
<名著再読>の中の一節は、そのとおりだろうような気がする。
今の日本人の中にも日本と日本人・日本民族の優秀さ、とくに近年では韓国や中国と比べての日本「文明」の違いの原因を日本人の「精神」の美しさや卓越性に求めようとしている人たちがいる。
しかし、発想が逆だと感じてきた。
日本人の「精神」も日本「文明」も(それらがあるとして)、その独特性は日本列島が大陸・半島から<ほどよく>近く、同時に<ほどよく>離れていたことによって生じたものだ。とくに、平安期中途から幕末までの800年ほどの間、所謂「元寇」を除いて外国からの侵略を受けず(かりに日本を一つの統一国家だとして)、外国出兵も秀吉のときにほぼ限られたことは決定的に大きかった。
池田は、こう書いている。つぎの一段のみが概略。
未開社会の平等主義・部族主義の「利他的」感情は農耕社会・定住者国家となって欧州では(?)「利己的」に変化したが、日本列島の気候風土は農耕に適し、「このため資源を奪い合う戦争が少なく、海で隔てられて異民族の侵略もなかった」。もともと「戦闘のための集団主義」が遺伝子にあったが、定住・農耕社会になっても、そして今日でも「部族社会」のままだ。
これが欧州(?)と日本の違いというわけだ。
気候風土と地理的・地形的条件、これらが「精神」などよりも先だろう。豪州・ニュージーランドやマドガスカルのことはよく知らないが、インドの一部のごときスリランカ(セイロン)は今なお仏教国で、インドと異なる。欧州諸国の国境線自体が大河川や山岳の影響を多分に受けていることも明らか。
ついでに。日本国民の98%が日本「民族」らしいと最近に何かで見たが、この「純度」はアメリカはもちろん、欧州諸国よりも相当に高い筈だ。
地続きだと人の(男女の)交流がある程度は自然に生まれ、複数民族の「血」をもつ者も増える。日本国民の「民族」度は少なくとも欧米と比べて異様だろう。
レーニンもたしか5代前にはユダヤ人の租をもつ、という研究成果があるらしい(トロツキーについては周知のこと)。5代前に32人の祖先がいるとすると、1人くらいはいても、全く不思議ではない。
日本国民についての趨勢は明らかに多様化で、人為的に阻止することはできないだろう。
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二 池田信夫は、上記の中で、日本列島は約2万年前に大陸と切り離された、農耕は1万年に始まった、と数字を記している。
日本と日本人の歴史を考える場合にどの程度のスパンで捉えるかは、「日本」という呼称の成立期とは関係なく、けっこう重要なことだ。
一部には「皇祖神」・天照大神から始める人々もいるようだが、そもそもこの「神」にも両親がいた(但し、父親・イザナキだけの血を引くとの物語もある)。また、記録になくとも、その前、またその前の時代があったことも当然だ。
まして、200年も遡らない明治新政権の政策が日本の本来の「伝統」だったという、いかなる証拠資料もない、
出口治明・ゼロから学ぶ「日本史」講義/古代篇(文藝春秋、2018)は、西尾幹二・国民の歴史(1999)と大きく異なり、地球と生命の誕生から書き始めている。
まとめて記しておく機会は滅多にないので、少なくともおおよその数字は出口を信頼して、以下にメモしておこう。
4600000000年前、太陽系成立、その後、地球誕生。
38〜40,0000,0000年前、「生命」誕生。
19,0000,0000年前、「真核生物」誕生。
10,0000,0000年前、「多細胞生物」誕生。
6,0000,0000年前、生物が陸に上がる。
7,000,000年前、共通祖先からヒトが分化する。
200〜250,000年前、ホモ・サピエンス出現。
70,000年前、言語発生。
38〜25,000年前、ホモ・サピエンスが日本に到来。
12,000年前、日本列島が大陸と地続きでなくなる。
3,000年前(紀元前10世紀)、稲作始まる。
1,600年前(紀元後400年頃)、「倭」が高句麗と戦う。
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三 池田の文章が興味深いのは「利他」・「利己」意識や感情の<遺伝>に関する部分で、この人が以前から言っていたことが、ようやく少し理解できるようになった。
つぎの説明がある。
「一つの部族の中では利己的な個体が利他的な個体に勝つが、部族間の競争では利他的な個体からなる部族の団結力が強いので戦争に勝つ。したがって利己主義と並んで、それを抑制する利他主義が遺伝的に備わっていると思われる。
経済学の想定しているようなエゴイストだけからなる部族は、戦争に敗れて淘汰されてしまうので合理的ではない。」
このような議論が、本来は別の記事であるハイエク・資本主義についてもなされている。
いわく、ハイエクはその著で「生物としての人間に自然な感情は、集団を守る部族感情だ」とする。但し、そうした「ローカルな感情」は「大きな社会」では役立たないので「非人格的ルール」が必要となり、「その最たるものが市場」だった。だが、市場は「自生的秩序」ではなく、部族感情に適合しない「不自然な」ものだ。「資本主義はこの意味で不自然なシステム」だ。
以上、定説的理解とは異なる主張が簡潔に展開されている。
人間は本来は「利他的」部族主義なので、「利己的」で個人主義の理性的人間を想定する資本主義とは合致しない、という。
いわく、「競争原理はつねに意識的な選択を強いるのでストレスを伴い、結果として格差を生み出すので、遺伝的な平等感情に反する」。
これは相当に興味深い論点提起だ。樋口陽一が称揚する日本国憲法上の「個人の尊重」だけでは、最初から無理があることになる。
もちろん、だから<社会主義・共産主義>の社会がよい、という結論になるのでは、100%ない。
上のような論述は「法の支配」とも重要な関係があり、池田は「法の支配という不自然なルール」という中見出しすら立てて、これが「不自然な」市場の生成に寄与したとする。
「法の支配」が資本主義を生んだのであり、その逆ではないと、この欄の前回に言及した文章でも書いていた。
すでに池田が少し立ち入っている「法の支配」の由来、起源の問題はある。
また、もともと気になっていたのは、「利他的」感情、平等主義的意識は<遺伝する>、という叙述または表現の仕方だ。
たんに世代間で継承されていく(文化的に)という意味ならば分かるが、遺伝子レベルでの継承だとは思えなかったからだ。
極論して、個体の生存のための「利己」意識の遺伝子による遺伝しかないのではないか。
もっとも、一定のリズムや音の調性・バランスを<心地良く>感じる聴覚・脳の感覚は長いヒトの歴史の過程で遺伝的に蓄積されてきたのではないかと最近は感じているので、「利他」意識もそのようなものかもしれない、とは思う。
--------
四 だが、現実に個々の人間の全てが「利他」感情を持つのではないことは明らかだ。例外的と言って済むのかどうか。
親子の間ですら、育児放棄、幼児への虐待があり、老親への虐待もある。
親が死んでも、年金を受領し続けるために、死体を押し入れや冷蔵庫に隠し続けたという事例が報道されている。親の葬儀、埋葬よりも、自己の生存上の利益の優先。これは個体の維持という観点からは、すこぶる「合理的」だ。
一方で、母国や母国の家族のために、あるいは「世界平和」のために危険な戦場へ向かう兵士たち。これは遺伝子レベルでの「利他」感情の表現なのか。
女王蜂と働き蜂の関係はともかく、ヒト・人間全体を「利他」、「利己」の二項で把握できるのだろうか、という気もしてくるが‥‥。
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一 最後に読んだ箇所の方が印象と記憶に残りやすい。
<名著再読>の中の一節は、そのとおりだろうような気がする。
今の日本人の中にも日本と日本人・日本民族の優秀さ、とくに近年では韓国や中国と比べての日本「文明」の違いの原因を日本人の「精神」の美しさや卓越性に求めようとしている人たちがいる。
しかし、発想が逆だと感じてきた。
日本人の「精神」も日本「文明」も(それらがあるとして)、その独特性は日本列島が大陸・半島から<ほどよく>近く、同時に<ほどよく>離れていたことによって生じたものだ。とくに、平安期中途から幕末までの800年ほどの間、所謂「元寇」を除いて外国からの侵略を受けず(かりに日本を一つの統一国家だとして)、外国出兵も秀吉のときにほぼ限られたことは決定的に大きかった。
池田は、こう書いている。つぎの一段のみが概略。
未開社会の平等主義・部族主義の「利他的」感情は農耕社会・定住者国家となって欧州では(?)「利己的」に変化したが、日本列島の気候風土は農耕に適し、「このため資源を奪い合う戦争が少なく、海で隔てられて異民族の侵略もなかった」。もともと「戦闘のための集団主義」が遺伝子にあったが、定住・農耕社会になっても、そして今日でも「部族社会」のままだ。
これが欧州(?)と日本の違いというわけだ。
気候風土と地理的・地形的条件、これらが「精神」などよりも先だろう。豪州・ニュージーランドやマドガスカルのことはよく知らないが、インドの一部のごときスリランカ(セイロン)は今なお仏教国で、インドと異なる。欧州諸国の国境線自体が大河川や山岳の影響を多分に受けていることも明らか。
ついでに。日本国民の98%が日本「民族」らしいと最近に何かで見たが、この「純度」はアメリカはもちろん、欧州諸国よりも相当に高い筈だ。
地続きだと人の(男女の)交流がある程度は自然に生まれ、複数民族の「血」をもつ者も増える。日本国民の「民族」度は少なくとも欧米と比べて異様だろう。
レーニンもたしか5代前にはユダヤ人の租をもつ、という研究成果があるらしい(トロツキーについては周知のこと)。5代前に32人の祖先がいるとすると、1人くらいはいても、全く不思議ではない。
日本国民についての趨勢は明らかに多様化で、人為的に阻止することはできないだろう。
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二 池田信夫は、上記の中で、日本列島は約2万年前に大陸と切り離された、農耕は1万年に始まった、と数字を記している。
日本と日本人の歴史を考える場合にどの程度のスパンで捉えるかは、「日本」という呼称の成立期とは関係なく、けっこう重要なことだ。
一部には「皇祖神」・天照大神から始める人々もいるようだが、そもそもこの「神」にも両親がいた(但し、父親・イザナキだけの血を引くとの物語もある)。また、記録になくとも、その前、またその前の時代があったことも当然だ。
まして、200年も遡らない明治新政権の政策が日本の本来の「伝統」だったという、いかなる証拠資料もない、
出口治明・ゼロから学ぶ「日本史」講義/古代篇(文藝春秋、2018)は、西尾幹二・国民の歴史(1999)と大きく異なり、地球と生命の誕生から書き始めている。
まとめて記しておく機会は滅多にないので、少なくともおおよその数字は出口を信頼して、以下にメモしておこう。
4600000000年前、太陽系成立、その後、地球誕生。
38〜40,0000,0000年前、「生命」誕生。
19,0000,0000年前、「真核生物」誕生。
10,0000,0000年前、「多細胞生物」誕生。
6,0000,0000年前、生物が陸に上がる。
7,000,000年前、共通祖先からヒトが分化する。
200〜250,000年前、ホモ・サピエンス出現。
70,000年前、言語発生。
38〜25,000年前、ホモ・サピエンスが日本に到来。
12,000年前、日本列島が大陸と地続きでなくなる。
3,000年前(紀元前10世紀)、稲作始まる。
1,600年前(紀元後400年頃)、「倭」が高句麗と戦う。
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三 池田の文章が興味深いのは「利他」・「利己」意識や感情の<遺伝>に関する部分で、この人が以前から言っていたことが、ようやく少し理解できるようになった。
つぎの説明がある。
「一つの部族の中では利己的な個体が利他的な個体に勝つが、部族間の競争では利他的な個体からなる部族の団結力が強いので戦争に勝つ。したがって利己主義と並んで、それを抑制する利他主義が遺伝的に備わっていると思われる。
経済学の想定しているようなエゴイストだけからなる部族は、戦争に敗れて淘汰されてしまうので合理的ではない。」
このような議論が、本来は別の記事であるハイエク・資本主義についてもなされている。
いわく、ハイエクはその著で「生物としての人間に自然な感情は、集団を守る部族感情だ」とする。但し、そうした「ローカルな感情」は「大きな社会」では役立たないので「非人格的ルール」が必要となり、「その最たるものが市場」だった。だが、市場は「自生的秩序」ではなく、部族感情に適合しない「不自然な」ものだ。「資本主義はこの意味で不自然なシステム」だ。
以上、定説的理解とは異なる主張が簡潔に展開されている。
人間は本来は「利他的」部族主義なので、「利己的」で個人主義の理性的人間を想定する資本主義とは合致しない、という。
いわく、「競争原理はつねに意識的な選択を強いるのでストレスを伴い、結果として格差を生み出すので、遺伝的な平等感情に反する」。
これは相当に興味深い論点提起だ。樋口陽一が称揚する日本国憲法上の「個人の尊重」だけでは、最初から無理があることになる。
もちろん、だから<社会主義・共産主義>の社会がよい、という結論になるのでは、100%ない。
上のような論述は「法の支配」とも重要な関係があり、池田は「法の支配という不自然なルール」という中見出しすら立てて、これが「不自然な」市場の生成に寄与したとする。
「法の支配」が資本主義を生んだのであり、その逆ではないと、この欄の前回に言及した文章でも書いていた。
すでに池田が少し立ち入っている「法の支配」の由来、起源の問題はある。
また、もともと気になっていたのは、「利他的」感情、平等主義的意識は<遺伝する>、という叙述または表現の仕方だ。
たんに世代間で継承されていく(文化的に)という意味ならば分かるが、遺伝子レベルでの継承だとは思えなかったからだ。
極論して、個体の生存のための「利己」意識の遺伝子による遺伝しかないのではないか。
もっとも、一定のリズムや音の調性・バランスを<心地良く>感じる聴覚・脳の感覚は長いヒトの歴史の過程で遺伝的に蓄積されてきたのではないかと最近は感じているので、「利他」意識もそのようなものかもしれない、とは思う。
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四 だが、現実に個々の人間の全てが「利他」感情を持つのではないことは明らかだ。例外的と言って済むのかどうか。
親子の間ですら、育児放棄、幼児への虐待があり、老親への虐待もある。
親が死んでも、年金を受領し続けるために、死体を押し入れや冷蔵庫に隠し続けたという事例が報道されている。親の葬儀、埋葬よりも、自己の生存上の利益の優先。これは個体の維持という観点からは、すこぶる「合理的」だ。
一方で、母国や母国の家族のために、あるいは「世界平和」のために危険な戦場へ向かう兵士たち。これは遺伝子レベルでの「利他」感情の表現なのか。
女王蜂と働き蜂の関係はともかく、ヒト・人間全体を「利他」、「利己」の二項で把握できるのだろうか、という気もしてくるが‥‥。
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