秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/08

2408/池田信夫ブログ025。

 池田信夫ブログマガジン2021年8月30日号。
  最後に読んだ箇所の方が印象と記憶に残りやすい。
 <名著再読>の中の一節は、そのとおりだろうような気がする。
 今の日本人の中にも日本と日本人・日本民族の優秀さ、とくに近年では韓国や中国と比べての日本「文明」の違いの原因を日本人の「精神」の美しさや卓越性に求めようとしている人たちがいる。
 しかし、発想が逆だと感じてきた。
 日本人の「精神」も日本「文明」も(それらがあるとして)、その独特性は日本列島が大陸・半島から<ほどよく>近く、同時に<ほどよく>離れていたことによって生じたものだ。とくに、平安期中途から幕末までの800年ほどの間、所謂「元寇」を除いて外国からの侵略を受けず(かりに日本を一つの統一国家だとして)、外国出兵も秀吉のときにほぼ限られたことは決定的に大きかった。
 池田は、こう書いている。つぎの一段のみが概略。
 未開社会の平等主義・部族主義の「利他的」感情は農耕社会・定住者国家となって欧州では(?)「利己的」に変化したが、日本列島の気候風土は農耕に適し、「このため資源を奪い合う戦争が少なく、海で隔てられて異民族の侵略もなかった」。もともと「戦闘のための集団主義」が遺伝子にあったが、定住・農耕社会になっても、そして今日でも「部族社会」のままだ。
 これが欧州(?)と日本の違いというわけだ。
 気候風土と地理的・地形的条件、これらが「精神」などよりも先だろう。豪州・ニュージーランドやマドガスカルのことはよく知らないが、インドの一部のごときスリランカ(セイロン)は今なお仏教国で、インドと異なる。欧州諸国の国境線自体が大河川や山岳の影響を多分に受けていることも明らか。
 ついでに。日本国民の98%が日本「民族」らしいと最近に何かで見たが、この「純度」はアメリカはもちろん、欧州諸国よりも相当に高い筈だ。
 地続きだと人の(男女の)交流がある程度は自然に生まれ、複数民族の「血」をもつ者も増える。日本国民の「民族」度は少なくとも欧米と比べて異様だろう。
 レーニンもたしか5代前にはユダヤ人の租をもつ、という研究成果があるらしい(トロツキーについては周知のこと)。5代前に32人の祖先がいるとすると、1人くらいはいても、全く不思議ではない。
 日本国民についての趨勢は明らかに多様化で、人為的に阻止することはできないだろう。
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  池田信夫は、上記の中で、日本列島は約2万年前に大陸と切り離された、農耕は1万年に始まった、と数字を記している。
 日本と日本人の歴史を考える場合にどの程度のスパンで捉えるかは、「日本」という呼称の成立期とは関係なく、けっこう重要なことだ。
 一部には「皇祖神」・天照大神から始める人々もいるようだが、そもそもこの「神」にも両親がいた(但し、父親・イザナキだけの血を引くとの物語もある)。また、記録になくとも、その前、またその前の時代があったことも当然だ。
 まして、200年も遡らない明治新政権の政策が日本の本来の「伝統」だったという、いかなる証拠資料もない、
 出口治明・ゼロから学ぶ「日本史」講義/古代篇(文藝春秋、2018)は、西尾幹二・国民の歴史(1999)と大きく異なり、地球と生命の誕生から書き始めている。
 まとめて記しておく機会は滅多にないので、少なくともおおよその数字は出口を信頼して、以下にメモしておこう。
 4600000000年前、太陽系成立、その後、地球誕生。
 38〜40,0000,0000年前、「生命」誕生。
 19,0000,0000年前、「真核生物」誕生。
 10,0000,0000年前、「多細胞生物」誕生。
  6,0000,0000年前、生物が陸に上がる。
   7,000,000年前、共通祖先からヒトが分化する。
  200〜250,000年前、ホモ・サピエンス出現。
   70,000年前、言語発生。
   38〜25,000年前、ホモ・サピエンスが日本に到来。
12,000年前、日本列島が大陸と地続きでなくなる。
    3,000年前(紀元前10世紀)、稲作始まる。
    1,600年前(紀元後400年頃)、「倭」が高句麗と戦う。
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  池田の文章が興味深いのは「利他」・「利己」意識や感情の<遺伝>に関する部分で、この人が以前から言っていたことが、ようやく少し理解できるようになった。
 つぎの説明がある。
 「一つの部族の中では利己的な個体が利他的な個体に勝つが、部族間の競争では利他的な個体からなる部族の団結力が強いので戦争に勝つ。したがって利己主義と並んで、それを抑制する利他主義が遺伝的に備わっていると思われる。
 経済学の想定しているようなエゴイストだけからなる部族は、戦争に敗れて淘汰されてしまうので合理的ではない。」
 このような議論が、本来は別の記事であるハイエク・資本主義についてもなされている。
 いわく、ハイエクはその著で「生物としての人間に自然な感情は、集団を守る部族感情だ」とする。但し、そうした「ローカルな感情」は「大きな社会」では役立たないので「非人格的ルール」が必要となり、「その最たるものが市場」だった。だが、市場は「自生的秩序」ではなく、部族感情に適合しない「不自然な」ものだ。「資本主義はこの意味で不自然なシステム」だ。
 以上、定説的理解とは異なる主張が簡潔に展開されている。
 人間は本来は「利他的」部族主義なので、「利己的」で個人主義の理性的人間を想定する資本主義とは合致しない、という。
 いわく、「競争原理はつねに意識的な選択を強いるのでストレスを伴い、結果として格差を生み出すので、遺伝的な平等感情に反する」。
 これは相当に興味深い論点提起だ。樋口陽一が称揚する日本国憲法上の「個人の尊重」だけでは、最初から無理があることになる。
 もちろん、だから<社会主義・共産主義>の社会がよい、という結論になるのでは、100%ない。
 上のような論述は「法の支配」とも重要な関係があり、池田は「法の支配という不自然なルール」という中見出しすら立てて、これが「不自然な」市場の生成に寄与したとする。
 「法の支配」が資本主義を生んだのであり、その逆ではないと、この欄の前回に言及した文章でも書いていた。
 すでに池田が少し立ち入っている「法の支配」の由来、起源の問題はある。
 また、もともと気になっていたのは、「利他的」感情、平等主義的意識は<遺伝する>、という叙述または表現の仕方だ。
 たんに世代間で継承されていく(文化的に)という意味ならば分かるが、遺伝子レベルでの継承だとは思えなかったからだ。
 極論して、個体の生存のための「利己」意識の遺伝子による遺伝しかないのではないか。
 もっとも、一定のリズムや音の調性・バランスを<心地良く>感じる聴覚・脳の感覚は長いヒトの歴史の過程で遺伝的に蓄積されてきたのではないかと最近は感じているので、「利他」意識もそのようなものかもしれない、とは思う。
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  だが、現実に個々の人間の全てが「利他」感情を持つのではないことは明らかだ。例外的と言って済むのかどうか。
 親子の間ですら、育児放棄、幼児への虐待があり、老親への虐待もある。
 親が死んでも、年金を受領し続けるために、死体を押し入れや冷蔵庫に隠し続けたという事例が報道されている。親の葬儀、埋葬よりも、自己の生存上の利益の優先。これは個体の維持という観点からは、すこぶる「合理的」だ。
 一方で、母国や母国の家族のために、あるいは「世界平和」のために危険な戦場へ向かう兵士たち。これは遺伝子レベルでの「利他」感情の表現なのか。
 女王蜂と働き蜂の関係はともかく、ヒト・人間全体を「利他」、「利己」の二項で把握できるのだろうか、という気もしてくるが‥‥。
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2407/池田信夫ブログ024—「法の支配」。

  池田信夫ブログマガジン2021年7月26日号にある〈法の支配とその敵〉は、「西村大臣の騒動は、日本にまだ法の支配がないことを痛感する事件だった」から書き出す。
 〈法の支配〉の意味次第とも言えるが、これは間違っているか、大きな勘違いまたは大きな曖昧さがある。
 また、某世界大百科辞典の、「法の支配は法治主義とは異なる」以降の文章を引用したりしている。
 前者については、全ての行政法(学)の概説書類に必ず専門用語として出てくる〈行政指導〉に関する知識が残念ながら欠けている。
 もっとも、西村発言について「法(法律?)」に基づく必要があるのに怪しからんとテレビで喚いていたれっきとした弁護士もいたから、池田だけを問題にしてもほとんど意味がないだろう。
 いつでも執筆できる、〈組織管轄上の法的根拠〉と〈作用・活動上の法的根拠〉の違いとか、後者にも関係して日本の行政部も「法律」のみならず「憲法」や「法の一般原理」に拘束される、とかのタテマエ的なことは、ここでは書かない。なお、上の<根拠>概念は専門述語ではない。
 〈行政指導〉一般論でいうと、〈組織管轄上の法的根拠〉があれば十分、但し、明文の〈作用・活動上の法的根拠〉をもつものもある、というだけで十分だろう。
 私が西村康稔経済再生担当大臣の発言で興味深く感じたのは、この人は官僚の経験もあるからだろう、金融・銀行業界ならば要請に従ってくれるだろう、と思って発言したに違いない、ということだ。たとえば、食堂・レストラン業界、パチンコ店業界ならば、あんなことを直接には言わないし、言えないだろう(行政的・政治的に)。
 余計ながら、かつて<バブル崩壊>のきっかけになったのは、1990年3月の大蔵省銀行局長による、外部への、正確には同省所管のつまり農水省所管のものを除く金融機関に対する「通達」形式の<行政指導>だった。
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  ファーガソンの論述や百科辞典の叙述が正しいまたは適切とは限らない。発展させて、書きたいことを書いてみよう。
 「法の支配」と「法治主義」はどう違うか。なるほど、調べてみたい主題かもしれない。
 前者には対応する英語があるが、後者にはないようだ。
 しかし、ドイツで(現在でも使われる)「法治国原理」が最も近いだろう。
 ここですでに「法治」を訳語的に用いるのは日本的で、原語は、Rechtsstaatprinzip で、「法治国」にあたるのはRechtsstaat だから、前半は、直訳としては、「法国家」または「法的国家」の方が適切だろう。
 しかし、確認したことは私自身はないのだが、明治時代にすでに「治国」という漢語が日本に知られていて、ドイツ、プロイセン辺りからRechtsstaat という概念に接した当時の日本人が、「法」+「治国」という意味にこれを理解して、Rechtsstaat を「法治国」と訳し、かつ利用した、という話がある。
 ここから当然に「法治国原理」も出てくる。
 そして、断定できる自信はないものの、言葉は発展?するもので、この「法治国原理」が「法治主義」へも変化したものと推測される。
 Law-ism もRecht-ismus もない。日本の「法治主義」は、戦前は英米法よりも日本に影響力をもったドイツ法のRechtsstaat に起源がある、と言ってよいのではないか、と考えられる。
 とすると、「法の支配」と「法治主義」の違いはイギリス法または英米法とドイツ法の違い、ということになりそうだ。
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  しかし、池田が参照する辞典の記載内容は、決定的に古くさいようだ。
 戦前からの英米法と戦前、とくに第二帝国時代の、明治憲法が範としたプロイセン・ドイツの違い、あるいは、少なくともタテマエとしての今の日本と大日本帝国憲法下の日本の違い、を説明しているようだ。
 ドイツのことはよく知らないが、法律にさえ違反しなければよい、という国政観は、法律の合憲性審査の仕組みの不存在とも相まって、戦前の日本には、たしかにあった。なお、こういう大きな弱点は、戦後憲法を批判して明治憲法に郷愁を感じているかもしれない<保守>派が指摘することは少ない。
 だが、池田の紹介する二つの語・概念の違いは、日本の他、現在のドイツにも当然ながら当てはまらない。
 ドイツ憲法(基本法、Grundgesetz)には、行政権は「法と法律に拘束される」という明文の条項がある。「法と法律」と二つに分けている。なお、「法治国家」=Rechtsstaat も憲法が明記して謳う国家規定の概念。
 それに、ドイツが「法の支配」的考え方を自ら発展させるか、受容しない限り、(イギリスが離れてしまったが)欧州共同体なるものが設立できるはずがない(EUには議会も執行機関もある)。
 ドイツ法かイギリス法か、大陸法か英米法かを問題にしても、あまり意味はない。
 但し、日本に、かつてのドイツにも共通したのかもしれない日本の<遅れ>を指摘する論者がいるかもしれない。
 だがその遅れは、あるとすれば、「法の支配」も「法治主義」もきちんと理解しておらず、身につけていないことによるだろう。
 それにまた、法的に厳密な思考の仕方に欧米諸国の人々とはおそらくある程度は異なる様相があることを秋月も承認するとしても、それは正邪、善悪の問題ではないかもしれない。
 脱線しそうだが、日本法は、典型的にはまさに「行政指導」のようなinformal な活動の容認とその多さは、pre-modern かpost-modern かが話題になった頃があったし、今後もなりうるかもしれない。
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  そもそも、「法の支配」とは何なのか?
 興味だけはあるので、池田から離れても、もう少しつづけよう。

2406/O.ファイジズ・人民の悲劇(1996)第15章第2節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ——
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師⑤。
 (18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
 これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
 (19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
 地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
 あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
 婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
 1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
 1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
 彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
 これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
 (20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
 売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
 不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
 例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
 Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
 この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
 (21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
 性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
 レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
 レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
 地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
 女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
 多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
 彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
 統計も彼女たちを支持していた。
 1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
 労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
 彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
 (22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
 彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
 レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
 彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
 四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
 レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
 1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
 Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
 ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
 彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
 確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
 この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
 レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
 NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
 どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
 共産主義への近道などは存在しないのだ。//
 (23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
 彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
 文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
 Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
 〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
 レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
 ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
 (24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
 ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
 ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
 「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
 子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
 我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
 我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
 小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
 彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
 母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
 (25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
 この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
 しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
 1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
 彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
 Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
 彼はこう主張した。
 労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
 そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
 Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
 しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
 ——-
 ⑥へとつづく。

2405/L·コワコフスキ・Modernity…第二章②。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳をつづける。第一部第2章。邦訳書はないと見られる。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第二章・野蛮人を求めて—文化的普遍性という幻想②。
 (5)数年前に私はメキシコの前コロンビア遺跡を訪れて、そこで幸運に著名なメキシコの文筆家と知り合った。そして、その地域のインディアンの人々の歴史を十分に熟知した。
 彼がいなければ私は知らなかっただろう多くの物事の意味を私に説明する過程で、彼はしばしば、スペインの兵士たちの野蛮さを強調した。彼らはアステカの彫像類を破砕して、美しい金の人物像を溶かして皇帝の像の付いた硬貨を鋳造した。 
 私は彼に言った。
 「この者たちは野蛮だとあなたは考える。だがおそらく、そうではない。彼らは真(true)のヨーロッパ人だった。じつに、最後の本当のヨーロッパ人ではなかったか?
 彼らはキリスト教とラテン文明を真面目に信頼した。真剣にそうしたがゆえに、異宗徒の偶像を守る理由はないと考えた。異なる、したがって敵対的な宗教的意義が染み込んだ自分たちの物事の考察方法に、考古学者の好奇心や美的公平さを持ち込む理由もない、と。
 彼らの振る舞いにひどく立腹するとすれば、その理由は、彼らの文明と我々の文明のいずれにも無関心であることだ。」//
 (6)もちろん冗談だが、しかし、完全には無邪気とは言えない冗談だ。
 我々の世界の生き残りにとって決定的な問題は何かを、考えさせるかもしれない。すなわち、我々自身の文明に対する真剣な関心もつことをしないままで、他の文明に対して寛容さや好意的な関心を示すことは可能なのか?
 言い換えると、他の文明を破壊しようとしないで、我々が一つの文明の排他的な構成員であることを肯定することは、我々はどの程度に可能なのか?
 自分の文化の尊重という理由だけで野蛮さを拒否するというのが本当ならば、野蛮でないという性格をもつ文明だけは生き残ることのできないものだ。—これは慰めとなる結論ではない。そして思うのだが、本当の結論でもない。
 私は逆に、我々の文明の発展には虚偽を裏付ける論拠が含まれている、と考える。
 コルテス(Cortés〔メキシコ征服者〕)の兵士たちは野蛮人だったと言うのは、どのような意味で正しいのか?
 彼らは遺跡の保存者ではなく征服者だった、彼らは残虐で貪欲で容赦がなかった、ということに疑いはない。
 彼らはまた敬虔で、信仰に真摯に向き合っており、自分たちの精神的優越性に自信をもっていた、ということも十分に言えそうだ。
 彼らが野蛮人であるなら、征服者の全てはその定義上野蛮人であるか、または異なる習慣をもって異なる神を崇拝している者たちを何ら尊重しなかったかのどちらかの理由でだろう。
 要するに、他の文明に対する寛容という美徳が、彼らには欠けていたからだ。//
 (7)しかし、ここで困難な問題が生じる。すなわち、他の文化に対する敬意はどの程度であるのが望ましいのか? そしてどの点でまさにその望ましさは野蛮になったり、今そうであるように賞賛すべきものになったりし、野蛮さに無関心になり、あるいはじつにその野蛮さを肯定するに至るのか?
 <野蛮な>(barbarian)という術語はもともとは、理解し難い言語で話す人々を指すものとして用いられた。だがすみやかに、文化的意味で侮蔑の意味を帯びるようになった。
 哲学を勉強した者ならば誰でも、Diogenes Laertius 〔3世紀頃の哲学史学者—試訳者〕の有名な序文を思い出すだろう。その序文で彼は、ギリシア人より前に野蛮人、インドの裸行者やケルト族(Celtic)の聖職者たちの間に哲学があったという誤った見解を攻撃した。これは、文化的普遍主義や3世紀のコスモポリタン主義に対する攻撃だった。
 いや、彼が言っているのは、哲学と人間の種が生まれたのは、ここ、つまり神々の息子たちである、アテネやテーベの人々の中でだ、ということだ。
 彼は、カルディア(Chaldean)の魔術師たちの奇妙な習慣やエジプト人の粗野な考え方を引き合いに出す。
 <哲学者>という呼称がトラキアのオルフェウス(Orpheus of Thrace)、神々に人間の最も基礎的な感情すら与えて恥じなかった男、について用いられる可能性があることに、彼は激しく怒っている。
 この防衛的な自己肯定が書かれたのは、古代の神話が有効性を失うか哲学的議論へと昇華したとき、そして文化的および政治的秩序が目に見えて解体していく状況だったときだった。この頃すでに、一種の懐疑が這入り込んでいた。
 そうした秩序を継承しようとした者たちは、野蛮人だった。—つまり、キリスト教徒。
 我々はときどき、シュペングラー(Spenglerian)哲学や何らかの「歴史形態学」の影響を受けて、我々は似たような時代を生きていて、非難宣告を受けた文明の最後の目撃証人だ、と心に描く。
 しかし、いったい誰に非難されているのか?
 神によってではなく、想定される何らかの「歴史法則」によってだ。
 なぜなら、どんな歴史法則も我々は認知しないけれども、我々は実際には全く自由にそのようなものを考案することができ、そのような歴史法則はいったん考案されると自己実現的予言のかたちで実現されることがあるからだ。//
 (8)しかし、この歴史法則なるものに関して我々が感じるのは曖昧さであり、一貫性がない、ということだ。
 我々は一方では、異なる文明に関する価値判断をするのを拒む普遍主義と何とか折り合おうとしてきた。本質的な対等性を強調することによって。
 他方で、この対等性を肯定することによって、全ての文化の排他性と不寛容さもまた、肯定してきた。—同じような肯定をする際に生まれたと我々が主張するのは、まさにこのことだ。//
 (9)このような曖昧さには逆説的なものはない。こうした混乱の真只中ですら、我々は成熟の頂点にあるヨーロッパ文化の際立つ特質を肯定しているからだ。すなわち、排他性の外側へと踏み入り、自問し、他の文明の目を通して自らを理解するという能力。
 Casa の司教バルトロメ(Bartlomé)は彼が専門とするキリスト教の同じ原理の名でもって、侵略者に対する激しい攻撃を開始した。
 彼の闘いの直接の結果とは関係なく、彼は、他の文化を擁護し、かつヨーロッパ拡張主義がもつ破壊的影響力を非難しようとする自分の仲間の人々に対して反対の側に回った、最初の一人だった。
 ヨーロッパが精神的な優越性を主張することに関する一般的な懐疑論が広がるには、宗教改革と宗教戦争の開始が必要だった。
 それはモンテーニュ(Montaigne)とともに始まり、自由思想家(Libertines)や啓蒙の先駆者たちの間では常識的なことになった。
 (Bayle の辞典の中の記事によって有名になったRosario に続いて)人間を動物と比較させて後者に対する優越性だけを認め、人間という種を全体としては侮蔑をもって見るという、のちに一般的となる趨勢の開始者となったのも、モンテーニュだった。
 攻撃するために他文明の目を通じて自分たちの文明を見て、その趨勢は啓蒙主義の書物に広く行き渡った著作上の常套手法となった。そして、「他文明」とは、十分に対等に、中国人、ペルシア人、馬、あるいは宇宙からの訪問者であり得た。//
 (10)つぎのことを言うために、よく知られた以上のことに言及している。つまり、我々は、おそらく大部分はトルコの脅威のおかげでヨーロッパがそれ自体の文化的一体性の明確な意識を獲得したのとまさに同時に、ヨーロッパの価値の優先性を疑問視し始めたのだ。そうして、ヨーロッパの強さだけではなく多様な弱点と脆さの根源となることになった、際限のない自己批判の過程が始まることになった。//
 ——
 ③へとつづく。

2404/L·コワコフスキ・Modernity…第二章①。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳をつづけて、第2章へと進む。邦訳書はないと見られる。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第二章・野蛮人を求めて—文化的普遍性という幻想①。
 〔脚注⏤1980年3月にフランスの大学で行われた講演、"Ou sont les barbares ? Les illusions de l'univesalisme cultured" を、Agnieszka Kolakowska がフランス語から翻訳〔英訳〕したもの。〕
 (1)私は歴史的叙述をするつもりはない。
 また、予言にも関心はない。
 私は先ず、認識論的(epistemological)性格の前提条件を考察しようと思う。次いで、提示したい価値判断に進むつもりだ。
 価値判断は、この数十年間に容赦なく攻撃されてきたためほとんど完全に用いられなくなっている、そういう考え方の防衛に関係する。—ヨーロッパ中心主義(Eurocentrism)という考え(idea)だ。
 この言葉自体は疑いなく、広い範疇の雑多な物屑入れの中にある。我々がそれらの定義を無視して軽く用い、論駁する意味がないほどに露骨に馬鹿げたことを種々混合した、そういう言葉の一つだ。真偽は別として、事実の言明。擁護できるか否かは別として、価値判断。
 このような言葉に関して最も重要な点は、それらを用いる際にそれらに漠然と結びついている論理矛盾(absurdity)に注意を向けることだ。そして、我々の目的は、擁護する価値がきわめて大きいとされている考えを攻撃することにある。
 実際に、このような考えを擁護することは文明の運命にとっては致命的であることが、判明するかもしれない。//
 (2)さて、これらの言葉は、きわめてイデオロギー的なものだ。一定の規範的要素をもつからではなく、表向きは率直な叙述である言明の範囲内で規範的内容を隠蔽することによって、論理的には区別される問題を分離して考察することを妨げるという機能を果たしているからだ。
 ジャーナリズム的専門術語ではこのような言葉の一覧表は長くつづき、<ヨーロッパ中心主義>を別とすれば、<平等主義>、<社会的公平さ>、<人間中心主義>、<解放(liberation)>等々の肯定的含意を伴う言葉のとともに、<エリート主義>、<リベラリズム>、<男性優位主義>のような言葉がある。
 <ヨーロッパ中心主義>という言葉に関して行う仕事は、この言葉に連結している多数の論理矛盾をそれらを強調することで目立たせ、この考えを全体として疑問視することだ。
 つぎのような前提条件は、この類の論理矛盾の例だ。すなわち、ヨーロッパ人には世界の残余部分に関心をもつ理由がない。ヨーロッパ文化は、他の文化から一切何も借用してこなかった。ヨーロッパはその成功をヨーロッパ人という人種的純粋さに依っている。世界を永遠に支配するのはヨーロッパの宿命であり、その歴史は理性、美徳、栄冠と廉潔の物語だ。
 この言葉は、18世紀の(当然に、白人の)奴隷取引者や19世紀の単純素朴な進化論の同志たちのイデオロギーに対する憤りを伴うべきだ。
 しかし、それが現実にもつ機能は異なっている。これらのような簡単な標的を選択して漠然として明快さなき集積物へと一括りにしている。全ての独特さ(specifity)をもつ、まさにヨーロッパ文化という考えだ。
 この文明は結果として、たんに外部の脅威のみならず、おそらくはより危険ですらあることだが、自滅的な心性(mentality)に侵されやすいものになっている。この自滅的な心性の特徴は、自分たち自身の明確な伝統への無関心、疑問、実際に自動的に破壊的となる錯乱状態を特徴とする。これらはは全て、一般的普遍主義のかたちでの言語表現で示されている。//
 (3)ヨーロッパ文化を一定の価値判断に頼ることなく定義するのは不可能であるのは、完璧に正しい。—地理的に、年代史的に、あるいはその内容をに関して、いずれにせよ。
 ヨーロッパの精神的領域を、恣意的でない方法でどのように画定できるのか?
 学者が言うには、その名前自体が起源はアッシリアにある。
 ヨーロッパを創出する文章、優れた書物は、ほとんどの部分が、インド=ヨーロッパ語ではない言語で書かれた。
 哲学、芸術、宗教に示された莫大な豊かさは、小アジア、中央アジア、東方(the Orient)およびアラブ世界の知識を利用し、吸収したものだった。
 <いつ>この文明は生まれたかと問うならば、我々は多数のあり得る回答を見出すに違いない。すなわち、ソクラテスとともに、聖パウロとともに、ローマ法とともに、カール大帝とともに、12世紀の精神変革とともに、新世界の発見とともに。
 この問題について正確に判断するのが我々に困難であるのは歴史知識の欠如によるのではなく、これらの回答のいずれも尤もらしいからだ。あれこれの要素は混合物にとって本質的に重要であり、決定は価値の領域にある、ということから出発するのに同意するならば。
 地理的な限界について語ろうとするときにも、類似の問題が生じる。ビザンティウム(Byzantium)を含むべきなのか? ロシアは? ラテン・アメリカの一部は?
 歴史—どちらの回答も支持し得るだろう—に訴えるのではなく、我々が住んでいる文化空間の構成にとって本質的だと我々が考える要素に考察を集中させて、問題の根源へと突き進まないかぎりは、議論は際限なく引き摺りつづける。
 そうしても、科学的研究の問題だというよりも票決(vote)のそれだろう。この文化の廃絶が、これに帰属したいとはもう願わないと、またはそんな文化は存在しないと宣告する多数派による票決で決定されることはあり得ないのだとしても。
 この文化の存在は、それがあると信じることに固執する少数派によって保障されている。//
 (4)我々が知るように、ヨーロッパ人はいったいどの点で独自の文化的一体に帰属していると意識するにいたるか、というのが論議の対象だ。
 この独自性は、少なくとも、西側キリスト教の単一性に帰一させることはできないものだろう。
 イベリア半島のサラセン人(the Saracens)、シレジアのタタール人、ダニューブ低地のオスマン帝国軍に対抗した人々は同一の一体性(identity)の意識を共有していなかった、と想定する理由はない。
 だがなお、ヨーロッパ文化が信仰心の統一性(unity)から発生したこと、その統一性が異端の島々のみならずヨーロッパじゅうで砕け散っているときにこそそれが確立し始めたこと、は疑いない。
 その時代は、芸術と科学での急速できわめて創造的なうねりの時代でもあった。そして、芸術と科学は絶えず増大する勢いで発展し、今日の世界の全ての偉大さと悲惨さに行き着いた。
 そして今日、恐怖と惨めさが自然に我々の感覚を支配するに至って以降、ヨーロッパ文化という考えそのものが、疑問視されてきている。
 論争の要点はおそらく、この文化の現実的存在というよりもむしろ、その独特の価値、なかんづくそれには優越性(superiority)がある、少なくとも一定の分野では優越的な重要性をもつ、という主張にある。
 意味が明確にされ、かつ肯定されなければならないのは、この優越性だ。//
 ——
 ②へとつづく。

2403/L·コワコフスキ・Modernity…第一章⑥。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳のつづき。邦訳書はないと見られる。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ⑥。
 (22)文学的にせよ哲学的にせよ、Modernityに対する批判は、我々の文明の自己防衛機構としてますます多様に、看取され得るかもしれない。しかし、これまでのところ、Modernity が予測できない速さで進展していくのを阻止することができなかった。
 我々のどんな生活領域を思い浮かべようと、悲嘆は全てに横溢し、我々の自然の本能は問いかけざるを得ない。何がおかしいのか? 
 そして、問いつづける。神に間違いがあったのか? 民主主義に間違いがあったのか? 社会主義にか? 芸術? 性? 家族? 経済成長にか?
 我々はまるで全てを覆う危機の感情をもって生きているように見える。それにもかかわらず、安易な言葉一つによる見せかけの解決(「資本主義」、「神は忘れ去られた」等々)に逃げ込まなければ、危機の原因を明確に特定することができないままで。
 楽観論はしばしば大きな人気を博し、熱狂的に傾聴される。しかしそれは、知識人界による嘲笑を受ける。我々は、陰鬱であるのが好きなのだ。//
 (23)変化の中身よりも、我々を恐れさせ、終わることなき不安状態に我々を置く目が眩むほどの速さの方が印象的だとときには思える。その不安とは、もはや確実なものや確立されたものは何もなく、新しいものはそのうちに全てが廃れてしまう、という感情だ。   
 我々の中には、自動車もラジオもなく、電灯が驚くべき斬新なものである地球の場所で生まれて今なお生活している数少ない人々もいる。
 彼らの生涯の間に、どれほど多数の文学、芸術の派が生まれて消滅したか、どれほど多数の哲学的またはイデオロギー的な流行が生起しては去って行ったか、どれほど多数の国家が建設され、消失したか!
 我々はみんな、そのような変化に関与し、にもかかわらず、そうした変化を嘆き悲しんでいる。我々が安全に依拠することのできる何らかの実体を、その変化は奪い取っているように思えるからだ。//
 (24)犠牲者たちの無数の焼却された遺体の灰できわめて肥沃となったので、そのような土壌があるナツィの絶滅収容所の近くでは、キャベツが早く成育しすぎるので玉となる時間がなく、葉が離れた幹が出来た、と聞いたことがある。
 明らかに、そのようなキャベツは食用にならない。
 この話は、病的な速さの進歩に関する思考に役立つ寓話であるかもしれない。//
 (25)文明の多様な分野での最近の成長曲線—ある程度は潜在的なものだが—でもって推論してはならないし、その曲線は何かの理由で下降するか、またはおそらくSカーブに変わる違いないと、そして変化は相当に遅れてやって来るか、文明を破壊する大厄災が原因となって初めて生じるだろう、と我々はもちろん知っている。//
 (26)Modernity に対して<だけ>(tout court)「賛成」すると「反対」するのいずれかであるのは、むろん愚かなことだろう。技術、科学、経済的合理性の発展を止めようとするのは無意味であるだけが理由ではなく、Modernityも反modernity も野蛮かつ反人間的な形態で表現されるかもしれない、というのが理由だ。
 イランの宗教革命は、明らかに反modern だ。そしてアフガニスタンでは、ナショナリストと貧しい種族の宗教的抵抗を攻撃して多様な形態でModernityの精神を持ち込んでいるのは侵略者だ。
 伝統主義の愉楽と悲惨がそうであるように、進歩の恩恵と恐怖がしばしば分ち難く結びついていているのは、明らかに本当だ。//
 (27)しかしながら、Modernityの最も危険な特徴を指摘しようとするとき、私は一つの決まり文句で自分の恐怖をまとめてしまいがちだ。すなわち、禁忌(taboos)の消滅。
 「良い」禁忌と「悪い」禁忌を区別すること、わざとらしく前者を支持して後者を排除すること、はできない。
 非合理的だと偽って一方を排除すれば、将棋倒し的に他方を排除してしまう結果になるだろう。
 性的禁忌のほとんどは廃棄され、数少ない遺物は—近親相姦や小児性愛のように—攻撃されている。
 多様な国々の諸グループは公然と子どもたちとの間に性的関係を結ぶ権利を主張する。彼らをレイプする権利をだ。そして、—首尾が良くなければ—該当する法的制裁の廃止を主張する。
 死者の遺体への敬意に関する禁忌は、消滅する候補の一つであるように見える。そして、有機体を移植する技術は多数の生命を救い、疑いなくもっと多くの生命を救うだろうが、死者の遺体が多様な産業目的のための生きている又は原料たる素材の補用部品を貯蔵したものにすぎなくなる世界を、恐怖でもって予期する人々に共感を覚えないことは、私にはむつかしい。
 死者と生者への—そして生命自体への—敬意はおそらく、分けることができない。
 共同で生活するのを可能にした多様で伝統的な人間的絆は、それがなければ我々の存在は欲望と恐怖にのみ支配されていただろう人間的絆は、禁忌のシステムがなければ存続することができそうにない。
 一見は愚かな禁忌ですらもつ有効性を信じることの方が、それらを消滅させてしまうよりも、おそらく良いことだ。
 合理性と合理化が我々の文明にある禁忌の存在自体の脅威となる程度にまて、それらは残存しようとする禁忌の力を侵蝕している。
 しかし、意識的な計画によってではなく本能によって作られた障壁である禁忌は、理性的技術によって救われ得るし、または選択的に救われるだろう。
 この領域では、我々はつぎのような不確実な希望にのみ依拠することができる。すなわち、社会的な自己保持衝動は十分に強くてその消散に反応することができるだろう、そして、この反応は野蛮な形態で発生することはないだろう、という望み。//
 (28)要点は、つぎのことだ。すなわち、「合理性」の通常の意味では、人間の生命や人間の個人的権利を尊重する合理的根拠は、ユダヤ人の小エビの消費、キリスト教徒の金曜日の肉食、イスラム教徒の飲酒、これらを禁止することの合理的根拠以上には存在しない。
 これらは全て、「非合理的」禁忌だ。
 そして、国家の必要に応じて利用し、廃棄し、破壊することのできる国家装置の中の交換可能な部品として人々を扱う全体主義システムでは、ある意味では、合理性が勝利している。
 今でもなお、生き残るためには、嫌でも非合理的な価値のいくつかを復活させて、その合理性を否定せざるをえない。それによって、完璧な合理性は自己を破壊する到達点であることが判明するのだ。//
 ——
 第1章、終わり。第2章の表題は、「野蛮人を求めて—文化的普遍性という幻想」。
 
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