秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/06

2390/西尾幹二批判027・同2019年著②。

  西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)。
 冒頭に、刊行に際して新たに執筆されたようである、緒言的な24-25頁の文章がある。収録した産経新聞上の「正論」の内容を反復したり概述したりしたものではなく、刊行時点での西尾幹二の<述懐>を記述しているのだろう(2019年末〜2020年冒頭に執筆)。
 西尾幹二らしい特徴がここにも見られるので、上の文章に限ってコメントする。その一回め。
 --------
  全体からいくつかの基本的感想が生じる。
 関係し合っているが、第一は、<アメリカ>へのこだわりだ。北朝鮮や中国・韓国も出てくるが、この人の意識(・頭)を占めているのは圧倒的に「アメリカ」(と日本)だ。
 第二、上の反映として、中国や北朝鮮への強い非難・批判の調子はないか弱い。
 これは、西尾幹二における<反共産主義>の欠如か脆弱性を示している。
 第三に、やや次元が異なるが、アメリカ(・トランプ大統領)の良心的な?示唆・誘導を受けても動こうとしない日本、ということを何度もくどくどと書いて、立派ないわば「反日」論、日本国家・日本人批判論になっている。
 上の第三点から触れよう。
 --------
  西尾幹二の図式はこうだ。アメリカ・トランプ大統領の<日米安保不公平論>(p.4-5「彼の心の中ではすでに安保条約は破棄されている」)等→日本の自立を促す→日本国家と日本人は何もせず、「国家意志」がない。
 ++ 
  日本国家・日本人に対する痛罵の言葉が多いのは、つぎのとおり。
 ①「日本人よ、今こそ本気で考えよ、と言ってくれたのは、親切心の表れであって、脅かしでも何でもない。それなのに日本人は今度も反応しない。居眠りをし続けている」。p.5。
 ②江戸時代の「鎖国」状態だ。幕末前のように、「眠ったままなのか、眠ったふりをしているのか、…仮睡(うたたね)は日本人の習性」だろうか。p.6。
 しかしもちろん、西尾幹二だけは違う(と思っている)。
 「ほぞを噬む思いで溜息をを漏らしつつ事態の動きを深刻に見つづけているのである」。p.6。なお、<ほぞを噬む思いで溜息をを漏らしつつ>とは文芸畑の人らしい形容副詞句。こういうのを頻繁に行うと、字数は多くなり、文章は長くなる。
 日本人・「日本民族」への罵倒はつづく。
 ③「たった一度の敗戦が…次の世代の生きんとする本能まで狂わせてしまった、というのが実態かもしれない」。p.6。
 ④「たった一度の敗戦で立ち竦んでしまうほど日本民族は生命力の希薄な国民だったのだろうか」。p.7。
 若干の?中断ののち、罵倒あるいは厳しい批判がつづく。
 ⑤アメリカ政府にあり日本政府にないのは「地域全体を見ている統治者の意識」だ。「日本人は幕末より以前の時代感覚に戻ってしまっている」。p.18。
 つぎの二つもなかなかすごい。
 ⑥韓国と「同じ種類の国家観念の喪失症を患っているのが日本人」でないか。
 ⑦「深く軍事的知能と結びつい」た「最悪の事態を考える能力」を失っていることは「人間失格だということさえもまったく分からないほどに何かがまるきり見えなくなっている」。p.18。
 そして、決定的には、あるいは最終的には、つぎの結論へと至る。将来予測か現状認識かがやや意味不分明だが、日本は「消滅と衰亡」の道を進むことになり、「生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為」をしている、ということのようだ。
 ⑧「民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになるであろう」。
 ⑨「憲法9条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 この⑨が追記部分以外の元来の文章の結び。
 ++++
  何故こんなに悲憤慷慨しているのか? なんでこんなに日本国家と日本人を責めるのか?
 もちろん、その言う「日本人」の中に西尾幹二本人は含まれない。自分だけは別で、自分はきちんと正しく気づいているのに、その他一般の大衆?「日本人」が悪い、とうわけだ。
 何に悲憤慷慨しているかというと、日本国家と日本人には「国家意志」がない、ということに尽きる
 ①「テーマはどこまでも日本人の国家意志の自覚の問題である」。p.17。
 ②「問われているのは常に日本人の『意志』なのである」。p.21。
 そして、この文章(緒言)全体の表題は、「問われている日本人の意志」、ということになっている。p.1。
 ++++
  では、いかなる「意志」、「国家意志」を持てばよいのか。
 人文社会系の多少とも学術的論文または小論だと、「問われている日本人の意志」を主題とすると明記したからには、その「意志」、「国家意志」の内容を整理して、箇条書きにでもして明記しておくものだが、西尾幹二は、そんな下品な?ことをしない。
 親切にも?、読者の判断と解釈に委ねている。
 そして、なるほど、ある程度は理解することができる。
 抽象的には、<対米自立>だ。
 しかし、<(対米)自立>の「意志」と言ったところで、それだけでは具体性を欠く寝言にすぎない。西尾幹二が想定していると見て間違いないのは、おそらくつぎだ。
 ①日本国憲法の改正、とくに9条2項を改めて、「軍隊」保持を明確にすること。
 ②この「軍隊」は当然に、北朝鮮有事で「戦争」を仕掛けられれば「戦争」をする(p.19-p.20参照)。「敵基地」先制「攻撃」もすることができる(p.7)。
 ③この「軍隊」は核兵器も持つ(p.5参照)。
 しかし、この程度のことなら、西尾幹二に限らず、主張している論者はいくらでもいるだろう。少なくとも西尾幹二だけに特有なのではない。憲法改正も含めて、国家・日本人全体の「意志」にまで高まってはいないとしても。
 したがって、大仰に嘆き悲しみ、自分だけは気づいていると<上から目線で>、日本人・日本民族と日本国家を罵倒することができるほどのものなのか、という大きな疑問が生じる。
 ついでながら、第一にレトリックの問題。西尾において憲法9条を改正できない「日本型平和主義」の行き着き先が「単純な自殺行為」なのだが、この「日本型平和主義」には、「国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた…」という形容詞が付いている。
 「国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた」という言葉上の長ったらしい表現で、具体的に何かが明瞭になるわけではない。
 第二に、不思議なのだが、西尾はしきりと北朝鮮関係の「有事」に触れるが、<尖閣有事>も<台湾有事>も念頭に置いていないような書き振りだ。
 ++++
 4 さて、西尾幹二は明記していないが、その言う「国家意志」の中には、日米安保条約の廃棄まで入っているのか?
 対米従属を脱して<自立>しようと言うなら、自国は自分たちだけで「防衛」する、集団的安全保障体制には組み込まれない、という考え方もあり得る。しかし、西尾は何ら触れていない。
 何ら触れていないということは、そこまでの主張はしていない、ということだろう。
 このあたりで既に、西尾幹二における安全保障および軍事に関する基礎知識・素養のなさが表れていると見られる。
 西尾は国際政治、日米関係、軍事・軍事技術等の専門家では全くない。そのことを意識・自覚しているのだろうか?
 日米安保条約の廃棄、韓国軍等との「協力」体制の廃棄までにいたっていない主張は、上記のとおり、珍しくも何ともない。わざわざ、「国家意志」を持て、と執拗に指摘するほどの主張ではない。
 西尾幹二は、いったいなぜ、いったい何を、喚いているのか?
 --------
  つぎに記したいことを先取りして、資料・史料として先ずいくつか引用しておこう。
 ①西尾幹二の2019年著の上と同じ緒言。
 1989年の「ベルリンの壁」の崩壊以降、「なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか」。
 「…中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版であった、と、今にしてようやく得心の行く解答が得られた思いがする」。p.21-p.22。
 ②1997年に設立された<日本会議>の「設立宣言」の一部。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時 代に突入している」。
 ③西尾幹二・2017年1月29日付<つくる会>「創立二十周年記念集会での挨拶」
 「私たちの前の世代の保守思想家、たとえば…に反米の思想はありません。/反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした」。
 「はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です」。「反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのです」。
 同全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)712頁。
 今回は立ち入らないが、このような総括には、2017年段階での西尾幹二による「つくる会」に関する<歴史の捏造>・<歴史の偽造>がある、と見られる。
 ④西尾幹二・国民の歴史(1999年)第34章の一部。
 「われわれを直接的に拘束するものは、今はない。…
 これからのわれわれの未来には輝かしきことはなにも起こるまい。
 共産主義体制と張り合っていた時代を、懐かしく思い出すときが来るかもしれない。私たちは否定すべきいかなる対象さえもはや持たない。
 同全集第18巻・国民の歴史(国書刊行会、2017)633頁。
 ——

2389/音・音楽・音響⑦。

  この項の前回に、<ピタゴラス音律>の場合の、1オクターブ間の各音階の周波数の比を以下のように記した。C〜(1オクターブ上の)Cの各音階の周波数比だ。
 これが、①一本の長さの弦あるいは竹筒のようなものを2倍、…、1/2倍、…にすると音の高さ(周波数)が1/2倍、…、2倍、…となって、同じ(と感じる)音が重なり合うという「発見」と、②上の長さを1.5倍=3/2倍、または2/3倍=0.66666…倍(その2倍は1.333333…=4/3倍)にすることを試して生じた音を加えた高さ(周波数)を重要な基礎にしているらしい、ということも書いた。
 先走れば、基音を一度として、②の前者は今日では<完全五度>、後者は<完全四度>と一般に称されている。Cに対するGとFだ(ドレミを使うと、ドに対するソとファ)。
 その下に、<純正律>とされる場合の、音階ごとの同様の比を示す。
 ・ピタゴラス音律
 1、9/8、81/64、4/3、3/2、27/16、243/128、2。
 ・純正律
 1、9/8、5/4、4/3、3/2、5/3、15/8、2。
 一見して分かるように、①ピタゴラス音律に比べて、出てくる整数の数が小さい。最大でも15で、前者には243、128、81、64、27、16が出てくる。
 数字の単純さ、その意味での「美しさ」は純正律の方が上回る。
 ②ピタゴラス音律と純正律とで、同じ比になっている音階がある。
 基音の2倍の2は当然として、3/2、4/3、9/8の3者だ。基音をCとすると、G、F、Dの三つだ。ドに対していうと、ソ、ファ、レの三つとなる。
 今日、現代における<完全五度>と<完全四度>の基音対比周波数は、上の二つの音律においては、同じで変わらない。
 --------
  同じく前回に、こう記した。
 「なぜ、1オクターブを12で(再来する元の音階を含めると13だが、間の音階は12)で区切るのか。そう問われて、誰も『正しく』は回答できないのではないか。
 それに、ピアノに特有のことだが、なぜ全て白鍵ではなく5つだけ黒鍵なのか、なぜEF間、BC間だけ半音なのか、という素朴な疑問も湧く」。
 こう書いてしまったが、素人頭であれこれと思い浮かべていると、つぎの「仮説」が生まれた。
 ほんの少しは「音楽理論」に関する書物を捲ったり、文章を読んでみたが、上のような簡単または幼稚な好奇心・知識欲に応えてくれているものを発見できない。
 ①基音とその2倍音を含めて、8音で1オクターブを構成するのは、古来からのほとんど絶対的な要請だった。
 「オクターブ」(octave)という言葉自体、「十月(October)」もそうであるように(8を基礎に、ある理由で2を足した)、「8」を語源としている。 8本足の「タコ」は、英語でOctopus という。
 ②なぜか。「8」を「美しい」と感じたか否かは不明だが、上のように、基音に対する<五度上>・<四度上>は重要な音階(音程)だった。
 合わせてすでに4つになるが、間隔が空きすぎていると感じた?(基音をCとすると)CとFの間、Gと上のCの間に、高さの比が同程度になるように(かつ分かりやすいように)2音ずつを加えた。
 そうすると、現在と同じ<1オクターブ8音構造>(但し、いわゆる白鍵部分のみ)ができ上がる。
 --------
  というような空想はできるのだが、しかし、<1オクターブ8音構造>は今日まで維持されつづけているとしても、<完全五度>と<完全四度>をも含めて、現代で一般的な<十二平均律>では、基音に対する周波数比は維持されていない。
 換言すると、例えばCに対してGは3/2ではなく、Fは4/3ではない。
 <十二平均律>の特徴は、各音階間の周波数比が同一であることだ。
 正確にいえば、旧来の上の二つですでに、(Cを基音とすると)EとFの間とBと上のCの間は、他の音階間とは違って(現在にいう)「半音」になっているので、それら以外のCD間、DE間、FG間、GA間、AB間を二つに分ける上の「半音」に似た「半音」を作ることが前提になっている。
 そうすると、全体は+5で13音になり(上のCを省くと12)、この13音の間の各音の高さ(周波数)の比が、全て同一であるのが、<十二平均律>の特徴だ。そして、旧来の二つでは原則として不可能な、転調や移調が簡単に可能になる。
 --------
  その<十二平均律>での周波数比はどうなっているのか。
 1オクターブ上(例えば上のC)の数字が2であることは絶対の不動であるので、全く同じ数字の比を12回反復すれば1→2となる、その数字を「計算」すればよいことになる。これは、「数学」の問題だ。
 答えは、<2の12乗根>、2の右肩に乗数として1/12を記述した数となる。
 それは、分かりやすい分数にならず、小数点以下6桁までで、1.059463…になる。正確には、これ以下の数字もずっとつづく。
 1を起点として大まかに言えば、1.06ずつ乗していけば、C#、D、D#と少しずつ高くなって、12回めには2になる、ということだ。
 注目してよいのは、旧来の二つの音律ではいずれでも(Cを基音として)、F=1.333…=4/3、G=1.5=3/2だったが、<平均律>ではこうはならない、ということだ。
 すなわち、下5桁までに限定して、<完全四度>=1.33484。4/3に近いが、やや高い、
 <完全五度>=1.49831。3/2に近いが、やや低い。
 だが、このように厳密には旧来の高さ(周波数)は維持されていないが、現在にいう<完全五度>、<完全四度>にほぼあたるものを、音発生道具の長さに着目して、例えば60cm のものだと90cm(3/2)に変えたり、80cm(4/3)に変えたりして試行錯誤しながら、古代の人々が、これら二つにほぼ該当するものをすでに「発見」していた、ということなのだろう。
 そこから、<1オクターブ8音構造>や今日でいう半音を含めての1オクターブ内12音(両端の1つを含めて13)という音階構成も生まれてきた。
 ということは、現在に標準的な<平均律>もまた、音とその響きに関する人間の感覚についての古代からの蓄積を基礎にしている、ということだろう。
 <ピタゴラス音律>が本当にピタゴラスによるものかは知らないが(西欧ではおそらくそのように言われ、書かれてきた)、言うまでもなく紀元前の哲学者とされる人で、その影響は数千年後まで残っていることになる。
 以上、社会、とくに日本社会の変動とは何ら関係のない、趣味的な「好奇心」・個人的な関心が主題の記述だ。なおも続ける。
 --------
 Amazon music HD 等に遅れをとっていたApple Music は、「ロスレス」(Lossless)という、大部分は「ハイレゾ」(Hi-Rez)音質の音楽を6月から配信し始めた。上の「」は行政的または法的概念・術語ではなく、事業者やその団体(全てが加入しているのでもない)が作っている用語。
 「音響」も表題の一つにしているように、音質・音の「解像度」にも秋月瑛二は個人的な関心をもっている。ヒト・人間の聴感覚には大きな違いはないらしいようであることは、すこぶる面白い。

2388/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 この書に邦訳書はない。試訳のつづき。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道③。
 (14-02)農民たちの小規模農地では市場用のものはほとんど作られず、消費用の物品がなくて食料の余剰は全て国家が持っていくという状況では、彼らの農地はぎりぎりの生存のための生産と村落と国との連結のための役割へと落ち込んだ。
 ボルシェヴィキは農民と取引をする物品をもたず、「穀物のための闘い」で冷厳な実力を行使した。武装部隊を派遣して農民たちの食糧を奪い取り、国じゅうの農民反乱を蹴散らした。
 これは、もう一つの隠れた内戦だった。
 ボルシェヴィキは、注意深く、自分たちの土地布令が神聖化した農民の小規模農地所有制度について口先だけの賛意を示したけれども—これは結局は、白軍との内戦で多数の農民の支持を獲得した理由だった—、ソヴィエトの農業の将来は、国家のために直接に生産する巨大な集団農場とソヴィエト農場—<コルホーズ,kolkhozy>と<ソホーズ,sovkhozy>—だ、と考えていた。
 厄介な農民たち—小所有者たる本能、迷信、伝統への執着をもつ—は、これらの社会主義的農場によって廃棄されるだろう。自分たちのために働く全ての農民は、<コルホーズ>または<ソホーズ>の「労働者」へと再配置されるだろう。
 Miliutin は、穀物、肉、ミルク、飼料を生産する農業工場を夢見ていた。それは、社会主義秩序を小規模農場への経済的な依存から解放するだろう。//
 (15)ここでもまた、ボルシェヴィキは、布令によって社会主義を創出することができるという夢想(utopianism)に囚われていた。
 ロシアの農民たちは元来、用心深かった。
 近代的技術と集団的労働チームによる大規模農場は本当に彼らの利益iなるので父親や祖父が維持してきた伝統—家族農業、共同体と村落—と訣別する十分な理由になる、と農民たちを説得するには、農学上の証拠にもとづく穏やかな教育をして、数十年を要しただろう。
 だが、1919年2月、ボルシェヴィキは、社会主義的土地機構に関する法令を採択した。これは一挙に、全ての農民農業は「旧式だ」と宣告した。
 大地主が所有するが耕作されていない全ての土地は、これによって新しい集団農地に変わった。このことは、大地主の資産は革命の貴重な獲得物だという主張を知っていた農民たちを大いに戸惑わせた。  
 1920年までに、1万6000箇所以上の集団農場および国営農場があり、合計でほとんど数千万エイカーの土地の広さがあり、数百万の被用者(多くは移住した都市住民だった)がそこで働いていた。
 国家が設置した最大の国営農場(<sovkhozy>)は、10万エイカー以上の広さがあった。一方、地方農民の協同組合が設置した多様な集団農場(<kolkhozy>)のうちの最小のものは、50エイカー以下だった。//
 (16)大きな集団農場の多くは、実験的な共産主義的生活様式の縮図だった。
 複数の家族が所有物を提供し合い、宿舎で一緒に生活した。
 女性たちは男性たちと並んで重い農業仕事を行い、ときには子どもたちのために託児所が設置された。
 宗教的慣行は存在しなくなった。
 この本質的には都市的生活様式は、工場での在来の組合組織をモデルにしたもので、地方の農民たちには相当に馴染みのないものだった。彼らは集団農場では土地や用具だけではなく妻や娘たちも共有されている、と考えた。全員が一緒に、巨大な毛布の中で寝ていたのだ。//
 (17)農民たちにとって醜聞ですらあったのは、集団農場のほとんどは農業について何も知らない人々によって運営されている、ということだった。
 国営農場は、大部分は都市部から逃亡した失業労働者で構成された。
 一方、集団農場は、土地を所有しない労働者、地方の職人たち、および、
不運にも飲み過ぎて、あるいはたんなる怠惰で自分の農場をうまく経営できなかった、最も貧しい農民たちで成っていた。
 農民集会では、集団農場の拙劣な運営に関する不満が圧倒的に述べられた。
 タンボフ地方の農民たちは、「彼らは土地を手にしたが、農業の仕方を知らない」と不服を発言した。
 ボルシェヴィキですら、集団農場は「個人の農民たちから投げかけられる批判に耐えることのできない、怠け者の避難場所」になっていていることを、やむなく認めざるを得なかった。
 食料の徴発を免れ、用具や家畜について国家の寛大な譲渡があったにもかかわらず、きわめて僅かの集団農場しか利益を挙げられず、多くの集団農場は損失を計上した。
 全収入のうち集団農場自体が生んだものは3分の1未満で、残りは主に国家が与えていた。
 いくつかの集団農場は、経営状態がひどいために、その農場での労働義務を地方農民に課すという徴用をしなければならなかった。
 農民たちはこれを新しい形態の農奴制と見なし、集団農場に反抗して闘いを挑んだ。
 それらの半分は、1921年の農民戦争により鎮圧された。//
 (18)こうした共産主義の実験に反抗したのは、農民層だけではなかった。
 工業分野でも、軍事化政策は労働者のストライキ、抗議運動、懈怠による消極的抵抗を増加させた。
 紀律を強化すべく意図された政策は、いっそうの不紀律(indiscipline)を生んだだけだった。
 ロシアの全工場の4分の3が、1920年の前半6ヶ月の間に、ストライキに見舞われた。
 逮捕と処刑の脅かしにもかかわらず、全国の都市労働者たちは、抗議しながら行進し、こう呼号した。「人民委員よ、くたばれ!」
 一般にあった感覚は、内戦終結から長く経つが、ボルシェヴィキは労働者階級に対する戦争類似の政策を維持している、というものだった。
 まるで全産業システムが永遠の国家緊急事態の罠に嵌まったかのごとくだった。平時ですら戦時体制にあり、この状態が労働者階級を搾取し、弾圧するために用いられていた。//
 (19)トロツキーの政策は、党内でも、党員各層からの反対に遭遇していた。
 トロツキーは、鉄道の混乱の原因だとして非難する鉄道労働組合を破壊して、国家機構に従属する総運送労働組合(Tsektran)に変えようとした。その高圧的なやり方は、ボルシェヴィキの労働組合指導者たちを激怒させた。彼らは、トロツキーの政策は労働組合の自立の全権利を剥奪する作戦の一環だと見た。
 労働組合の役割に関する論争が、1919年の初めから巻き起こった。
 その年の党の基本方針は、労働組合は直接に産業経済を管理すべきであるという理想を設定した。—しかしこれは、労働者階級がそのための教育を受けていてのみ可能だった。従って、そのときまでは、労働組合の役割は仕事場での労働者の教育と紀律に制限されるべきだ、との見解があった。
 独任者による経営への趨勢が継続するにつれて、多数派へと増加していた労働組合指導者たちは、労働組合による直接の経営という約束は遠い将来へと先延ばしされるのではないかと懸念するようになった。
 彼らは、1920年1月の第3回労働組合大会で、独任制経営の原理を課そうとする党指導者たちの努力を何とか打ち負かした。
 同年4月の第9回党大会で、彼らは党指導部と妥協して、その原理を受け容れる代わりに、経営者の一部として自分たちを任用するよう提案した。//
 (20)—労働組合と党・国家の間の—微妙な均衡は、1920年夏にトロツキーが提示した、運送労働組合を国家官僚機構の一端とするという案によって、ひっくり返った。
 労働組合の自治という原理全体が、今や危うくなっていた。
 労働組合指導者たちだけがトロツキーに反対したのではなかった。
 党の指導層自体の多くが、労働組合側を支持した。
 トロツキーの個人的対抗者のジノヴィエフは、「労働者を整列させる警察的やり方」だとトロツキーの案を非難した。
 Shlianikov は、1月にKollontaiが加わったが、労働組合の権利を防衛するためにいわゆる労働者反対派を結成した。そして、より一般的に言えば、労働者階級の「自発的な自己創造性」を抑圧すると彼らが言う「官僚主義」の蔓延に抵抗した。
 労働者反対派への労働組合、とくに金属労働者、の支持は拡大した。労働組合の間には、階級的連帯の感情—労働者による統制という理想と「ブルジョア専門家」に対する嫌悪の両者で表現されていた—が、最も強く根づいていた。
 彼らは、工場管理者や官僚層に対する嫌悪の声をますます大きくし、それらは「新しい支配階級」、「新しいブルジョアジー」だと非難した。
 こうした感情の多くは、党の別の主要な反対派、すなわち民主主義的中央派によっても表明された。
 ほとんどは知識人のボルシェヴィキであるこのグループは、党の官僚主義的中央主義と、直接に労働者が支配する機関としてのソヴェトの解体に、反対していた。
 彼らの基盤が最も強かったモスクワのより急進的な党員の中には、地方行政での<グラスノスチ、glasnost>、公開性を促進するために、地区の党執行部を党員各層一般に開放すらする者もいた。
 この者たちが、最初にこの言葉〔glasnost〕を用いた。//
 (21)これら二つの異論派的論議—労働組合と党・国家に関する—は、1920年の秋の間に一般的な危機へと融合し、かつ発展していった。
 9月の臨時党大会で、二つの反対党派は結びついて、民主主義と<glasnost>の促進を意図する一連の決議を通過させた。すなわち、全ての党会合は党員各層に公開されるものとする。下級党機関は上級機関の官僚の任用につきより多くのことを発言できるものとする。上級機関は党員各層に対する説明責任を負うものとする。
 反対党派はこの勝利に勇気づけられて、労働組合をめぐる闘いの準備をした。
 11月の第5回労働組合大会で、トロツキーは、全ての労働組合役員は国家によって任命されると提案することによって、戦いに挑んだ。
 これは、党内に激しい対立を発生させた。トロツキーは、即時の、かつ必要ならば強制的な労働組合の国家機構との融合を強く主張し、反対党派は必死になって、労働組合の自立性のために闘った。
 レーニンは、トロツキーの目標を支持した。しかし、痛手となる体制内部の分裂を回避するために、より高圧的ではない実行手段を擁護した。
 レーニンは警告した。「労働組合問題で党が争論するならば、それは確実にソヴィエト権力に終止符を打つだろう」。
 党中央委員会は、見込みもなく、この問題で分裂した。そして、つづく3ヶ月の間、党のプレス内での対立は激しくなり、各党派は、つぎの3月の第10回党大会で確実に起きるだろう決定的な闘いに備えて、支持をかき集めようとした。(*13)
 政権は明らかに危機に陥っており、国じゅうが反乱の暴動とストライキに巻き込まれていた。そのため、ロシアは、新しい革命の瀬戸際にあった。//
 ——
 ③および第15章第1節、終わり。

2387/日本共産党の大ウソ32—「真に平等で自由…」とは。

  不破哲三は現在でも日本共産党常任幹部会委員の一人で、何と50年以上、同党の幹部であり続けている。
 その不破哲三は、日本共産党は「将来構想」がある点で、他政党とは異なる、ただ一つの政党だと、自慢していたことがあった(何かに明記されている)。
 ここでの「将来構想」とは10年後のことでは、もちろんない。不破の言う「未来社会」のことだ。
 日本共産党の現綱領(2020.01.18)も、この部分を変更していないだろう。
 最後の「五、社会主義・共産主義の社会をめざして」の中((十六))にこういう部分がある。
 (なお、同党は(不破理論・「解釈」?に従い)「共産主義は社会主義の高次の段階」という社会主義、共産主義の用語法を1990年代から採用していない。「社会主義・共産主義」と並列させるのが正しい?慣例だ。)
 ①「社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。」
 ②「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会
への本格的な展望が開かれる。
 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。」
 --------
  あまりにアホらしいので、逐一言及するのもアホらしいが、<暴力革命を諦めていない>などという幼稚な、何とでも反論できる批判しかできない人が多いので、以下も、少しは意味があるかもしれない。
 第一。これは予言・予測か、それとも「目標」か?
 真面目な共産党員は両者を統一・統合したものだ、<理論と実践の一致だ>などと言うかもしれない。
 しかし、上の区別は重要なことだ。
 かりに「正しい予言」を含んでいるというならば、何ゆえに、何の資格と能力があって、(少なくとも日本の)将来・未来を「正しく」予見できるのか?
 「科学的社会主義」によって「正しく」予言・予見しているのだ、などと主張しているなら(たぶんそうだろう)、すでに「狂っている」。
 誰も、ヒト・人間それ自体、それが形成する社会の将来・未来を、「正しく」予見することなどできない。
 <歴史の発展が証明する>のだ、などというおバカさんは、もうやめて欲しい(と言っても、<聞く耳を持たない>という表現の仕方も日本語にはある)。
 実践的な「目標」だというならまだよいが、将来の社会について「科学的予測」などという戯れ言葉を使ってはいけない。
 ++
 第二。「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」の展望が(ようやく?)開かれる、という。
 こうした表現に「美しさ」を感じる面妖な人もいるのかもしれない(真面目な共産党員はきっとそうだ)。
 だが、例えば、①「原則としていっさいの強制のない…」と言うなら、「原則」と「例外」を区別する指針くらい示してもらいたい。
 ②「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」と言うなら、「真」に「平等で自由な…」と、そうではない、つまりニセ・虚偽の「平等で自由な…」を区別する指針くらい示してもらいたい。
 さらに、「自由」と「平等」は完全には両立し難いとするのが、少なくとも現在の人類の一致した「知見」ではないかと思われるが、上の「共同社会」では(なお、この言葉はもともとはドイツ語のGemeinwesen だろう)、「自由」と「平等」はいかにして統合・統一されるのか、少しくらいは気にかけて欲しいものだ。
 いろいろな「価値」がある。それらがせめぎ合って、現在の社会や国家ができている。「自由」と「平等」だけではない(諸「価値」としてこの二つに加えてただ一つ「効率」=「便利さ」を挙げていたのが40歳代のL・コワコフスキだった)。生命尊重とか「民主主義」とか、次元や層の異なる諸「価値」もある。
 ++
 第三。上の「共同社会」への「本格的な展望が開かれ」たあと、どうなるのか?
 展望が開かれて、その「…共同社会」が実現・完成したとかりにしよう。
 その後について日本共産党綱領が語るのは、「人類史の新しい発展段階に足を踏み出す」ということだけだ。
 これでは、「真の」将来・未来の<科学的予見>には厳密にはならない。
 「人類史の新しい発展段階」とは何か? ここで再び原始共産制(・アジア的生産様式)→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義・共産主義という「歴史の発展法則」がまるで輪廻転生のごとく?反復するのではあるまい。
 「人類史の新しい発展段階」とは何か?
 そこでは、IT技術はどうなっているのか、脳科学あるいは生物科学はどう「変化」しているのか?
  情報通信技術の将来・未来は? ゲノム発見技術はどのように利用されているのか。「ガン」はとっくに克服されているのか?、「心不全」で死ぬ人はもういないのか? おや、人間の生も死も「消滅」するのか?
 ひょっとして、「人類史の新しい発展段階」に入って、人類・人間の歴史は「終わる」のか?
 いや、何かが「終わる」と、通常は、つぎの何かが「始まる」はずなのだが。
 ++
 もっと前の段階についてすでにある、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」などという、完璧に空虚な言葉を、政党の綱領に掲げたりしない方がよい。
 日本共産党には、あるいはそれが依って立つその「主義」には、<思考方法>自体に、根本的に「狂っている」ところがある。「暴力革命」うんぬんといった低次元の問題ではない。
 日本共産党に対しては、こうした「言葉」に酔った「夢見ぶり」(夢想者ぶり)をこそ批判すべきだ。
 ——

2386/反コロナ・ワクチンと「死亡」事例。

  Covid-19用ワクチン接種後の死亡例等の資料が発表されたり、その一部の事例をマス・メディアが取り上げたりしている。原田曜平も発信している。
 厚生労働省のホームページには、かなり詳細な資料(審議会・検討会等に関するもの)がネット上で公表されている。
 この資料をもとにしているとみられる、かつ信頼できるように思われる国以外の(ということは「私人」の)文章または記事によると、死亡例については、つぎのとおりだという(5月中のもので最新のデータによるのではない。個別には厚労省のHPを参照していただきたい)。日本についての数字だ。
 「5月16日までの接種後死亡報告は55件で100万人接種当たり12.6件、100万件接種当たり9.0件」。引用終わり。
 素人ながらおおまかに言って、10万人に対する接種で、死亡者1人強、10万件の接種で死亡件数は1件弱、というところか。
 この数字をどう評価するという問題はあるが、もちろん、ワクチン接種と「死亡」の間の因果関係は「分からない」のが、つぎのとおり、現状だ。
 厚労省自体の某検討部会ら(長いので省略)の報告文自身の文章によると、5月26日以降「死亡として報告された事例」が新たに54件あり、2月17日〜5月30日までに「報告された死亡事例は計139件となった」。
 そして、「専門家の評価」によると、139件全てが①「情報不足等によりワクチンと症状名との因果関係が評価できない」もので、②「ワクチンと症状名との因果関係が否定できないもの」と、③「ワクチンと症状名との因果関係が認められないもの」は、いずれも0。
 つまり、全ての事例で、因果関係は否定できないが、肯定もできない、ということになるだろう。
 かりに因果関係があるとしても、10万人・10万件につき、上記のとおり約1名・1件という数字をどう見るかという問題はある。
 因果関係が今のところ「認められない」以上、また上の数字のかぎりでは、ワクチン政策の基本的政策方針を変更する必要は認められない、という省・国の見解も理解できないわけではない。
 しかし、論理的にはおそらく、10万ではなく、100万人あたり1名、100万件あたり1件程度の「因果関係のある」「死亡例」はあるだろうと、合理的に?推定できそうに見える。
 100万分の1というのは、100分の1が1%なので、その1万分の1。計算?に間違いがないとすると、0.0001%だ。
 --------
  ここで、こういう欄だからこそ敢えて明記しようと思うのだが、この程度の確率でワクチン接種によって「死亡する」人や件数が出るのは、関係研究者・専門家も、製造会社も、日本政府も、<予見>しているのではないか? 1名の死者も出さない、というのは綺麗事だ。
 そして、そのような「犠牲」が発生しても犠牲者とはならない大多数の人々の健康・生命についての「利益」(つまりは<公益>または<公共の利益>)の方が上回る、という比較衡量・価値判断を<心奥>では行っているのではないだろうか。
 それにまた、死亡者の中には高齢者・基礎疾患ありの者が多いか大多数だとすると、かりに因果関係があったとしても(そう証明されたとかりにしても)、ワクチン接種がなくともこの数年以内に何らかの原因で(老衰・多臓器不全を含む)死亡していた人がいた可能性もある(あくまで可能性の話なので実証ができるはずはない)。
 だが、どうせ死んでいたのだから、という理屈は、究極的にはヒト・人間はいつか死ぬのだから、たまたま早くなっただけ、という理屈?につながりかねない。そしてこの理屈は、とくにまだ健康だった人や若い人の「死亡」の場合に、その本人(意識・意思があったとして)や遺族が(ふつうの?遺族ならば)納得できるものではないだろう。100万人あるいは1000万人のうちの1人に、なぜ自分が、あるいは自分の家族がならなければならないのか? 「運が悪かった」で済むか?? 人生も世の中も、圧倒的に「運」に、あるいは「偶然」に支配されているとは言っても。
 --------
  今回のワクチン接種のような<予防接種>による死亡・高度の後遺症の発生を理由とする、国を被告とする訴訟は一時期は相当に多く見られた。
 原因の一つは、予防接種法という法律が法律レベルで定めていた「補償金」の額が低額だつたことにあった。
 そして、重要な法的問題の一つまたは前提的法的問題は、国に(予防接種法という法律が定める以上の)「金銭支払い」義務が発生するとかりにして、それは憲法29条3項による<損失補償>か同17条・国家賠償法による、不法行為についての<損害賠償>かだった。
 立ち入ると、長くなる。
 この度は捲りもしないで書名だけを記すが、多数の論文や判例批評類以外の稀有な単著に、以下があった。
 西埜章・予防接種と法(一粒社、1995〕。
 最高裁判決も出て、上の基本問題については、いちおうの決着はついてる。
 しかし、かつての事例と今回の事例で大きく異なるのは、かつて訴訟にまでなった時代は接種が「強制」されていたのに対して、今回はタテマエとしては「任意」、つまり「同意」をしてワクチン接種を受けている、ということだ。
 <任意>・「同意」の存在にこだわっているように見える発言がときにあるのも、きっと、こういう時代的・制度的背景の違いがあるのだろう。
 だがしかし、「強制」と「任意」は、日本の行政、そして日本の社会一般、あるいは「私人」間の人間関係にもよくあることだが、つねに明瞭に区別できるだろうか??
 接種に「同意」していた、任意に接種されたのだから、「死んでも仕方がない」という理屈は成り立たないだろう。
 「死ぬ可能性をほんの僅かでも認識し、了解していたか否か」に結局はなるのだろうが、しかし、かりにそうであっても、「ほんの僅か」とは程度問題でもあるし、何と言っても、死者は何も語らない。
 --------
  さらなる展開と詳論、最高裁判例の「理屈」の紹介を、機会があればするかもしれない。
 「死亡」事例を念頭に置いたが、むろんそこまでに至らないアナフィラキシー等の副反応のひどい場合もあり得る。
 

2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 第12章の後半。原書、p.88〜p.93。この書に邦訳書はない。
 ——
 第12章・退屈について(On Boredom)②。
 (7)毎日の決まり事と単調さは、実際に退屈だったように見ることもできる。
 マス・メディアが好んで印刷したり放映する報道はいつも悪いことで、旱魃や飢饉、戦争や危機、殺人や大虐殺と全く同じようだと、我々はしばしば不満をこぼす。
 人々は、全くしばしば、悪いニュースだけがニュースなのだから、とその理由を答えるだろう。 
 スミス氏が通りで殺されれば、ニュースになる。
 だが、スミス氏が起床し、朝食を摂り、仕事に出かけて、また家に戻っても、ニュースにならない。つまり、これらは退屈なのだ。
 ジョーンズ氏が離婚すれば、ニュースだ(少なくとも彼の友人には)。だが、彼が妻と幸せに仲睦まじく生活していれば、ニュースではなく、退屈させるものだ。
 ニュースは、蓋然性がなく、予見し難いことで出来ている。そして、予見し難いことは、我々には、好ましくないことの方が多い。
 我々が世界の混乱から利益を得ることはない。
 人間の歴史は、予見不可能性や偶然との長い闘いだ。
 しかし、かりに偶然が全体として我々に好ましいものならば、我々の生活への偶然の影響を少なくしたいと思う何の理由もないだろう。
 スミス氏が宝くじに当たることもニュースだ。良いニュースだけれども。
 スミス氏にだけ良いニュースで、券を買って負けて、スミス氏が勝つのを許す残りの我々には、そうではない。
 そして、スミス氏にとってすら、宝くじに当たることは全体としては結局は悪いニュースだったことが判明する。//
 (8)例えばだが、人生の大部分を読書に費やす、我々のうちの好運な者たちは、総じて、関心を掻き立てる事物がなくて困るということはない、という意味で、退屈しはしない。 
 その者たちには、そのような事物はつねに、手の届く範囲内にある。
 実際のところ、ラジオ、テレビ、音楽その他の形態の娯楽をつねに利用できる世界で、いったい誰が退屈することがあるだろうかと、思うかもしれない。この世界では確かに、興味を抱かせる何かを見つけるのは十分に容易だ。
 だがなおも、我々はいつも、暴力をふるう若者の一団がいて世界中の都市で略奪し回り、通り道で何かまたは誰かを理由もなく破壊したり襲ったりしていると、聞いたり読んだりしている。そして、彼らは退屈しているのだと言って、彼らの振る舞いの理由を説明している。
 興奮させる映画を観る理由は、観ているのがフィクションであることを忘れることができない、あるいは行動に現実に参加していると感じることのできない、そのような消極的な気分で観ていることではおそらくない。
 テレビの英雄たちの最も刺激的な冒険ですら、じつに、一種の刺激物に対する我々の退屈や空腹感を増加させる。そして、不公平だとの感情すら生じさせる。「エリザベス・テイラーほどの金を、なぜ自分は持てないのか? 公正じゃない。」
 食べる物も着る物もあるが、豊かさはなく、映画スターなら持つだろうと想像する現実のまたは虚構上の冒険をすることのできない、貧しい若い人々がいる。このような人々に対して、我々はどうすればよいのか?
 我々は彼らの好奇心や刺激を求める気持ちを「建設的な」方向へと流し込む必要がある、と言うのは容易だ。そのようになれば、彼らは理由もない破壊行為や無意味の演奏会と喧しい騒音での集団的恍惚状態でもって自己を表現しはしないだろう、と。
 しかし、どうやって?//
 (9)好奇性は、退屈さと同様に、人間に独特の性質で、<とくに秀でた>人間の性質だ。
 肉体的必要を充足させて、脅威となる危険はないことが確実になった後ですら、世界を探検に向かわせる衝動を与えるのが、好奇性だ。
 言い換えると、我々を動物の状態を超える場所へと導くのが、とりわけこの性質だ。
 退屈さと退屈するという特性と同様に、好奇性と関心をもつという特性、つまり好奇の客体は、その客体についての我々の経験と客体それ自体のそれぞれの属性であり得るものだ。
 一方は、もう一方なくしては存在することができない。
 そして、「好奇性」と「関心をもつ」や「退屈さ」と「退屈している」はそれぞれ反意語かつ補完語であるがゆえに、退屈さは好奇性を求めて我々が払う代償だ。すなわち、我々が少しも退屈していなければ、我々はきっと好奇心を持たないだろう。
 言い換えると、我々のもつ退屈するという能力は、我々の人間性の不可欠の一部なのだ。
 我々は、退屈することができるがゆえに、人間だ。//
 (10)退屈だとの感情は、我々が当然に逃れることを望むものだ。そして逃れようとするには、破壊的形態と建設的形態のいずれも必要になり得る。
 破壊的形態は、しかしながら、より容易だ。
 例えば、戦争は、恐ろしいものだが、退屈させはしない。
 闘争心と戦いの中で生まれる本能は、退屈を防止する良い手段だ。そしてこれらは、多くの戦争の原因の中にあったに違いない。
 さらに加えて、退屈はしばしば反復によって生まれるがゆえに、我々の存在の根源にある興味が薬依存者のように尽きてしまい、多くのかつより強い刺激を絶対的に必要とするようなもの以上に、多く発生し得る。
 このような状況が何をもたらすかについて、語る必要はないだろう。//
 (11)我々が考察してきた現象のうち一つの個別の事例は、「退屈させる人」だ。
 退屈させる人というのは、叙述するのがきわめて困難だ。
 この人の退屈さは、彼の学歴やその欠如、あるいは彼の性格に関係はない。
 彼には、常時同じことを反復させる誰かが必要なのではない。
 退屈させる人は、重要なものとそうでないものを識別することのできない人物である可能性が高い。
 この人に関する逸話は、不必要で煩わしい些細なことでいっぱいだ。
 彼は、ユーモアと皮肉のいずれにも縁がない。
 彼は、他の全員が興味を失ったあとでも、長く一つの主題を奏でつづけるだろう。
 要するに、彼には人間の相互関係の通常のメカニズムが欠けているように見える。
 たぶんこのことの理由は、正確には、人間の意思疎通に必要な対照関係(contrast)を作り出すことができない、ということにある。
 そうだとすると、この人物は、私が概述してきた退屈という一般的概念には適応しないだろう。//
 (12)対立やストレスのない完全な充足の状態は、これを我々はユートピアと呼ぶが、かりに万が一生じるとしても、人間性の終わりを意味するだろう。
 なぜなら、人間性のうちにある好奇(curiosity)を求める我々の本能もまた消滅するだろうからだ。
 これが、我々の種(species)が現実にそうであるのとは異なり、ユートピアが決して建設され得ないことの理由だ。
 しかし、最近にFrancis Fukuyama が予言したように、「歴史の終わり」を、すなわち現存する政治諸制度に対していかなる別の選択肢も想定できず、戦争も貧困も、芸術も文学もない世界—要するに、全面的でかつ永続的な退屈の世界—を想像することができないのか?
 その見込みは果てしなくなさそうなので、深刻に悩む必要は全くない。だが、もしもあるとすれば、我々はこうするだろう。すなわち、絶望的になってまさに街中の略奪集団が選ぶような解決方法—それ自体が目的の破壊衝動—を探さないで、我々自身の退屈な生活をすぐには諦めない。
 これこそが、普遍的な人間の現象全てと同じく、退屈は利益にもなるし危険にもなり得る、ということの理由だ。//
 ——
 以上、第12章、終わり。
 下は、原書の表紙。
 IMG_0217

2384/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 第12章へと進む。原書、p.85〜。この書に邦訳書はない。
 —— 
 第12章・退屈について(On Boredom)①。
 (1)退屈について語って、退屈させようとしているのではない。
 換言すると、私は簡潔でなければならない。
 退屈の問題それ自体は、退屈なものでも瑣末なものでもない。我々みんなが経験している感覚(sensation)に関係するからだ。
 極端な場合(例えば、感覚喪失を伴う心理実験)を除いて、退屈は楽しい感覚ではない。だが、それを苦痛と呼ぶこともできない。//
 (2)退屈は、美学上の性質に似て、経験し得るものと、経験した事物に帰属するものとの、両方であり得る。すなわち、私はある小説に退屈し得るが、その小説自体がまた退屈なものであり得る。
 ゆえに、ある人々が何のために「現象論理学」研究と称するのを好むかは、適切な主題だ。//
 (3)この言葉の日常的な用法を考えるとき、まず最初に気づくことは、我々がそのうちに経験する事物についてのみこの語を使っていることだ。
 かくして、演劇、演奏会、歴史論文や仕事は、全て退屈であり得る。
 我々はしかし、絵を描くことは退屈だと通常は言わないだろう。絵を描くのは、我々が一瞥すれば理解することだからだ。
 風景は、長い間それを見ていると、退屈なものになり得る。列車の窓から見える雪で覆われた平原は、その単調さと目立つものの欠如のために退屈なものになり得る。
 我々が経験する事物は、繰り返しが多いか、または混沌、無意味、支離滅裂かのどちらかの理由で、退屈であり得る(混乱や支離滅裂を描写する小説または戯曲は必ずしも退屈ではないけれども。Beckett やJoyce は好例だ)。
 そして、こうした事物に関する我々の経験が不変で連続していて、新しさの見込みがないために、その結果として何も新しいことが生じるのを期待できない、かつかりにそうであっても何ら気にしない、つまり我々に関しては期待することが全く起きないと思う、そういう世界にいると感じるときに、我々は退屈する。//
 (4)それ自体で退屈なものは何もない、と人は論じることができる。なぜなら、人々は世界の些少な違いにかなり異なって反応するのであり、退屈かどうかは、人々の過去の経験や現在の環境条件によるのだ、と。
 かつて面白いと感じた映画は、のちにすぐにもう一度観ると退屈になる。その映画の中で起きることはもうすでに我々に発生したからだ。
 音楽についてほとんど知らない人は、ブラームスの一定の交響曲に退屈するかもしれないだろう。だが、例えば、チャイコフスキーやパガニーニのバイオリン協奏曲、あるいはショパンのピアノ協奏曲には退屈しないかもしれない。一方で、音楽の知識が多い人は、そのような人の反応に同意せず、その人を無知だと非難するだろう。
 他者には魅力的な歴史論文であっても、その主題に習熟しておらず、関係もないために、私には退屈かもしれない。そうして、違いを感知して、今までになかった重要さや独自性を見極めることができなくなる。
 長期間にわたって決まりきった事として行ってきた人には退屈だと感じる仕事も、初めての人にとっては必ずも退屈でない。
 あるアガサ・クリスティの殺人事件小説は、我々が知らない言語で読もうとすれば、極端に退屈だろう。等々。//
 (5)退屈というものは相当の程度は我々の経験や世界に対する個人的な反応いかんによっている、というのは明瞭だと思える。また、これについては全員一致というものはない、ということも。
 ゆえに、ある何かはそれ自体で退屈であり得るか否かと問うことは、美学的特性はつねに我々の個人的反応の反射にすぎないのか、それとも、何らかのかたちで我々の知覚の対象、つまり「物それ自体」、の中に内在しているのか、と問うことにむしろ似ている。
 確かに、上の両者のいずれについても、同意も不同意もある。
 また、いずれの場合も、議論の性格は文化依存的(culture-dependent)だ。
 しかし、問題はたんに答えられないということかもしれない。つまり、こうした退屈の性格を知覚するときに心(mind)と客体(object)は相互に働き合っており、我々の知覚と知覚される客体の間の相互影響関係は、どちらが最初なのかを語ることを、いやそれを問うことすら、不可能にしているのかもしれない。//
 (6)我々は退屈について、普遍的な人間の現象であるのみならず—我々みんなにむしろ、例えばBaudelaire やChateaubriand〔いずれもワインの銘柄—試訳者〕に限定されるような、特権を与えてくれる感情—、人間に独特なものだとも考えている。
 我々は動物について、退屈を感じる生物だとは考えない。
 危険がなく、肉体的な欲求が充たされれば、彼らは何もしないで横たわり、活力をたくわえる。そして、彼らが退屈していると考える根拠はない。
 (我々がときどき想像するように、犬が退屈しているとすれば、それはたぶん、我々から退屈を学んだからだ。)
 いつ、我々人間は退屈という経験を最初に明確に語り始めたのかも、明瞭でない。
 この言葉それ自体は存在していたとしても、19世紀より以前の文学上や哲学上の文章の主題ではなかったように見える。
 伝統的な原始的村落で、農民たちは、生存し続けるために明け方から夕暮れまで同じ場所にいてこつこつと働いた。そのような毎日繰り返す仕事の同じさに、彼らは退屈していただろうか?
 我々はこれへの答え方を知らない。だが、ほとんど時間を超えた、変化する見込みがないその農民たちのような運命ですら、退屈という恒常的な感情を誘発することがなかった。
 日常から生まれて継続するものがあった。子どもたちが生まれ、死んでいき、隣人たちは姦通し合い、干魃や激しい雷雨があり、火事や洪水があった。予期できない、神秘的な物事全ては、危険なものも慈悲あるものも、彼らの存在の単調さを救い、自分たちの生活は予測し難い運命の気まぐれに掴まれている、と感じさせたに違いない。//
 ——
 ②へとつづく。

2383/L・コワコフスキ「暴力について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 **
 <背信>の項で、著者=L・コワコフスキは自分の(国内での教育と研究発表の場を剥奪されても形式上は)「自由」意思で母国・ボーランドから離れたことをある程度は意識していると想定される(党からは一方的除名だったので、そこに「自由」はなかったと見られる)。
 この<暴力>の項の最後の部分では、自ら援助・協力したポーランドの「連帯」運動が意識されていると見られる。以上、ほとんど行なっていない、試訳者の解説・注記もどきのもの。
 —— 
 第11章・暴力について(On Violence)②。
 (7)正当化される暴力とそうでない暴力の区別は、特定の多数の事例については明確だけれども、そう簡単に見極められるものではない。
 しつけの定期的な一部である子どもへの体罰は、疑いなく不必要な暴力だ。だが、子どもたちが自分を傷つけるのを阻止するために小さな子どもに我々が課す多様な肉体的制約を、暴力だと叙述することはしない。
 洗脳(indoctrinaton)はどうなるのか?
 我々の信条を、抵抗する精神的な力をもたない我々の子どたちに課すのは暴力か?
 我々の文化について子どもたちに教えるとき、我々は洗脳をしている。
 これは避けられないことだ。
 では、洗脳には善と悪の二つの形態がある、そして後者だけが暴力だと叙述されるべきだ、と言わなければならないのか?
 しかし、我々がかりに正しい信条、原理、規範だと考えるものを基礎にして善の洗脳と悪の洗脳を区別するとすれば、我々の暴力の定義は、我々自身の世界観にもとづくことになるだろう。そしてそれは、きっと良いことではなさそうだ。//
 (8)非肉体的な強制を一般に、「道徳的暴力」だと叙述することができるか?
 脅迫は、明らかに暴力の一例だ。
 おそらくは政府に何がしかの譲歩を強いることを意図してのハンガー・ストライキは、より明瞭でない事例だ。
 それがかりに非人間的な刑務所の条件に抗議するために行われるのであれば、我々はおそらく、正当視できると考えるだろう。受刑者が行うことのできる、唯一の抗議の形態なのだから。
 しかし、民主主義的政府に政治的譲歩を強いる手段としてそれが行われるのであれば、我々はおそらく、それを暴力の一形態と呼ぶだろう。//
 (9)正当化される暴力とそうでない暴力を区別するためには、我々はそれが用いられる目的を評価することができなければならない、ということが明らかだと思われる。
 その目的が問題なく価値がある場合には、当該目的を達成する方法が他にない<とするならば>、その暴力は正当化されるものと考えることができる(つねに賢明ではないとしても)。
 例えば 専制に対しては、暴力を用いてのみ闘うことがことができる。そして、キリスト教神学者ですら、専制者を殺すのは正当化されると主張した。
 全体主義国家で、非暴力的だが成功した闘争を我々は見てきた。だが、その闘争の成功は、全体主義がすでに相当に弱体化していたときに生じた。
 全体主義が強くて、何事もなく苛酷でいることができていれば、非暴力の闘争は、成功する可能性がなかっただろう。体制側は、初期の段階での不服従の試みを鎮圧し、その試みの報せが伝搬するのを抑止する手段をもつていたのだから。//
 (10)暴力の行使を正当化することのできる目的は、明確で、十分に画定され、そして明瞭に定義されていなければならない。別の国家に従属している国の独立の獲得、暴君の殺害、犯罪者に対する制裁。 
 1960年代の青年運動の参加者たちは、「選択肢のある社会」(どのようなものかを彼らは正確には語れなかったが、彼らには関心よりも誇りの問題だった)を建設するために「革命的暴力」と称するものに訴えた。
 だが、いずこにも正当化を見出し得なかった。
 かつまた、彼らの教師たちも、とりわけサルトルやマルクーゼだが、何ら正当化されない。
 彼らはたんに、民主主義的諸制度を破壊して自分たちの専制体制を確立する、という欺瞞的な展望をもて遊んだにすぎない。
 幸いにも、彼らは成功しなかった。
 しかし、同じ時期に、共産主義諸国にいる他の者たちは、武器としての言葉だけでもって、専制体制と闘っていた。全ての暴力は、体制の側にあった。
 最後には、彼らの闘いは成功したと判った。その闘争は人々の思考方法をゆっくりと変え、人々に恐怖は克服されるということを示し、体制のウソと無法ぶりを暴露した。
 彼らの場合は、何らかの形態での暴力の行使は正当化されただろう。たぶん、効果的ではなかったけれども。//
 (11)暴力ではなく言葉を求める、と言うのは容易だ。しかし、誰もまだ、そのような世界をつくる分かり易い処方箋を見つけてはいない。
 全ての暴力を絶対的かつ無条件に非難することは、生活(life)を非難することだ。
 しかし、暴力が犯罪、隷従、侵略および専制に対してのみ向けられている世界は、これらの消失を求めるために、非合理的なものではない。そのような結末の蓋然性を疑う、多くの十分な根拠があるとしても。//
 ——
 第11章、終わり。

2382/L・コワコフスキ「暴力について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第11章へと移る。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第11章・暴力について(On Violence)。
 (1)暴力は文化の一部であり、自然の一部ではない。
 鳥が昆虫を飲み込むとき、あるいは狼が鹿に咬み付くとき、我々はこれらを暴力の行為だとは言わない。
 動物の権利を狂信していなければ、エビを茹でることは暴力だとも言わないだろう。
 我々は「暴力」という言葉を人間との関係でのみ用いる。
 人間だけが暴力を行使し、その被害をうける。
 暴力行為を行うことは有形力(実力、force)を行使することであり、有形力で脅かすことは人々を一定の態様で行動させたり、一定のことを阻止したり、あるいはたんにそれ自体を目的として人々を苦しめることだ。//
 (2)我々のほとんどは、有形力の正当な行使と不当な行使とを区別する。例えば、警察、裁判所、および法的制度のような国家の装置は、我々が犯罪だと考える一定の類型の行動を阻止したり制裁を課したりするために、有形力の行使が正当化される。
 しかしながら、国家による有形力行使を含む、全ての形態の暴力を非難する人々がいる。法による制裁が何もない世界を想定するのは困難だけれども。
 全ての形態の暴力は間違っていると考える人々は、イエスが悪魔に反抗しないでもう一方の頬を向けよと語った山上の垂訓を引き合いに出して、自分たちの信念を正当化しようとする。
 しかしながら、イエスは、個人について、かつ個人が他者の暴力にさらされているときの対処方法についてだけ、語っていた。彼自身の殉教と死の例で言うと、怖れることなく確信と精神的強さをもって、暴力に対して暴力で返すのを拒否することができる、そしてなお世界を克服することができる、と我々に示したのだ。
 イエスは国家の働きについて語っておらず、政治的な教義を残してもいない。
 世界の終わりは切迫していると、彼は確信していた。受容しつつも、いつそれが訪れるかは知らなかったけれども。
 しかしながら、彼自身が、神殿から金貸しを追い払うとき、暴力に訴えた。//
 (3)暴力は、まさにその最初からずっと、人間の歴史の抹消できない一部だった。
 戦争も同様で、これはたんに集団的な暴力を組織化したものだった。
 戦争と暴力は良いものと考えられるべきだ、と言いたいのではない。
 そうではなく、これらを自然であるばかりか有用な生活の一部だと考えてきた多数の人々がいた、ということだ。この人々は、多くの美徳を注ぎ込むものとこれらを考えてきた。勇気や自分の種族のための犠牲精神のような美徳。
 彼らにとって戦争は、若者の中に精神の気高さ、英雄主義、耐久力を育む最良の方法だった。
 今では、勇気は疑いなく良いものだが、かつての人々にとって、その際に役立つまさしく美徳を発展させる機会を与えてくれるがゆえに、戦争は良いものだった。
 言い換えれば、いつも戦争があったというだけではなく、将来もつねにそういうものだと、彼らは考えていた。//
 (4)多様な形態での暴力は我々の運命にある恒常的な部分でありつづけるだろう、と言うのがかなり安全であるために、戦争もまた行われつづけるだろうと言うことが可能だ。
 戦争は現実に行われつづけるだろうと考える、十分な根拠がある。
 戦争とは、かつての敵の種族の存在のみならず、例えば水や農場の利用に関する純粋な対立の進展をも含んでいる。人々の居住密度が耐え難くなり始めたときの、いろいろな種類の領土や領域の利用に関する対立も、その例だ。
 しかし、戦争それ自体を美化することは、第二次大戦とその全ての恐怖を経験した圧倒的大多数の人々には、間違いなく理解し難いことに違いない。
 Pierre Proudon は、のちにGeorges Sorel は、なおも戦争を称賛することができた。しかし、Ernst Jünger のような後の世代の人々がそうしたとき、彼らが想定していたのは、第一次大戦だつた。//
 (5)今日では、戦争それ自体が称賛されるのをほとんど聞かない。
 アフリカでの際限のない種族虐殺やボスニアの恐怖によって、戦争芸術に魅力を与える根拠はほとんどなくなっている。
 そして、第一次大戦後には世界のほとんどどの一角でも起きていた大小の無数の戦争があったが、民主主義諸国の間では一つも戦争は発生しなかった、というのは意義深いことだ。
 というのは、戦争は専制(tyranny)から生まれるものだからだ。
 世界の民主主義諸国には、疑いなく豊富な良心の呵責があつた。そして、主権の政策として有形力の行使に頼ることを熟知してきた。
 しかし、諸国は相互の間で戦争を起こすことをしなかった。
 民主主義諸国はその代わりに、紛争を交渉と妥協で解決するメカニズムを生み出した。
 そして、このメカニズムにはときに恐喝や欺瞞が含まれるが、大規模の殺戮し合いを包含するものではなかった。
 アテネとスパルタの間の対立を我々が固定観念とする(stereotype)十分な理由がある。すなわち、我々の文化は本当にアテネに由来しており、それは若者に(むろん市民で、奴隷ではない)詩、哲学、芸術を教えた。軍事技術が主要な教育科目だったスパルタに由来してはいない。—アテネでも、国家の政治を習熟させたけれども。
 暴力は我々の生活の不可避の一部かもしれず、我々はつねにそれを予期しなければならない。
 しかし、暴力を悪魔扱い(lacedaemonize)する—換言するとスパルタ市民のように考える—、あるいは暴力を不幸な必要物にすぎないと見なす、そのような理由は存在しない。//
 (6)理論上は、正当化された暴力とそうでない暴力を区別すること、あるいはこの区別の特定の例を挙げると、防衛的戦争と攻撃的戦争を区別することは、相当に単純なことのように見える。
 しかし実際には、明瞭な状況というのは少ない。
 もちろん20世紀には、「侵略の犠牲者」だけはあった。
 どの国も自らを攻撃者と呼ぶのを好まなかった。侵略の行為には、ナツィ・ドイツの場合(支配する人種のための「生命空間」の必要)やソヴィエト同盟の場合(戦争は社会主義国家が行うならばつねに正当化されるというレーニン主義の原理的考え方。そこでは社会主義国家は「進歩的階級」の具現物で、誰が戦争を開始したかは重要ではない)のように、イデオロギー上の根拠があったとしてすら。
 一定の場合には、攻撃者を識別するのは容易だ。すなわち、1939年のドイツ、1941年の日本、そして再び1956年のハンガリー、1950年の北朝鮮。
 他の場合には明瞭さはより少ない。
 「誰が開始したか」を決定することは、遊び場での子どもたちの取っ組み合いを種別化するがごとく、困難だ。
 (「彼が最初にぼくを押した!」—「でも、彼がぼくを最初に蹴った!」—「でも、彼がぼくを最初に押した!」—「それは彼がぼくをブタと呼んだからだ!」—「ウソだ。彼が最初にぼくの名を呼んだんだ」、等々。)
 ——
 ②へとつづく。

2381/L・コワコフスキ「背信について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第10章・背信(裏切り)について(On Betrayal)②。
 (8)我々は、何の分類もなくして、当該の国家が正統なものでないならば背信は許される、と言うことすらできない。なぜなら、国家の正統性(legitimacy)という規準は、決して明瞭ではないからだ。
 国際法では、いわゆる国際共同体で、換言すると国際連合(the United Nations)によって承認されているならば、その国は正統だ。
 しかし、国際連合によって承認された国家の中には、最悪の専制的体制や、その国民の大量殺戮を行なっている国家もある。
 このような国家に対する背信は、非難ではなく賞賛に値するように思えるだろう。
 イデオロギーが規準であるために、そしてイデオロギーは様々であるために、何が背信となるかについての合意は存在し得ない。
 民主主義諸国に反対して共産主義専制体制のためにスパイをしたソヴィエトの工作員たちは、たいていは、少なくとも共産主義体制の初期の時代にはイデオロギー上の理由を動機としていた。
 のちになって、金銭または脅迫あるいはこれら両者がイデオロギーに取って代わった。
 さて、このような人々—例えばCambridge スパイ網—は、理由がイデオロギー上のものだという理由で正当化され得る、と我々は言うべきなのか?
 かりにそうではなく、そのイデオロギーが間違っているか、または犯罪に該当する場合にはどうか?
 困難さがあるのは、明瞭だ。
 イデオロギー的動機はしばしば感情的なものにすぎないことが判っている。
 そして感情を正当化できるならば、我々がしたことの全てが正当化されるだろう。そして、悪いものとしての背信という観念は、その意味を失う。//
 (9)だがしかし、背信という観念に含まれる曖昧さをたんに指摘するだけでは、満足できないところがある。
 我々は背信という観念をまさにその本性から生じる行為として必要としていると感じているという理由で、問題を放置することには我々は同意しない。
 そしてそれがもつ我々にとっての重要性のゆえに、明確にすることができるようにすべきだと感じる。何かの哲学や政治的イデオロギーによって相対的にではなく、絶対的に、正しいか間違いかの明瞭で簡潔な言葉を用いることによって。
 例えば、内密に語られた他人のことを、自分の個人的な利益の獲得のためであれ、娯楽のためであれ、暴露する人々は、明らかに背信であって有責だ。
 実際に我々はこのような人々について、「信頼を裏切った」と語る。
 個人を対象にしているこのような場合では、誰かが背信したか否かを決定するのはかなり容易だと我々は考える。
 背信の行為が許されても、それにもかかわらず、それは背信の行為であるままだ。St, Peter は危急の場合に非難したことを君主と救済者に許された。だがなお、その継承者と教会の設立者として指名された。  
 この事件の神学上の解釈は、しかしながら、ここでの我々の関心である必要はない。//
 (10)政治的な背信または反逆は、多くの理由で、もっと曖昧な観念だ。
 第一に、政治では正しいか間違いかを明確には区別し難いため、第二次大戦のような明瞭な状況は滅多に発生しないからだ。
 第二に、その結果として、我々はしばしば大きな悪と小さな悪とを見極めなければならないからだ。
 かくして我々は、共産主義と戦争の結果に関して全てを知っているにもかかわらず、戦争中にソヴィエトの情報機関のために働いた人々はドイツに反対して仕事をしたのだから、また当時のナツィ・ドイツは最大の悪魔で最大の脅威だったのだから、良い教義のためにに奉仕したのだと結論づけるように強いられる。
 そして第三に、人々の動機は、水をさらに汚すからだ。悪の教義であることを理由としてではなく個人的な利益を得るために悪の教義に背信する人々は、我々の尊敬には値しない。
 他方で、個人的利益のためではなくイデオロギー上の理由で悪の教義に奉仕する人々は、その教義が本当に悪だと相当に明瞭ならば、正当化されない。
 要するに、政治には絶対的に善であるようなものはなく、そのためにできることは我々にはない。
 このことはつぎには、政治には絶対的な悪のようなものはないと、推測させるかもしれない。
 しかしながら、これはより疑わしい。//
 (11)さて、人々が特定のある行為は背信かどうかに関してしばしば同意できないだろうというのは、かなり確かだ。
 しかし、背信の被害者が国、国家や教会ではなく個人である場合について論じるのは容易だと言えるとすると、それはこの場合は我々は多少とも何が重要で、何が維持されるべきかを知っているからだ。
 それを知っており、かつ維持するならば、背信の被害者が国、国家や教会である場合についてもまた、論じるのが容易になるだろう。//
 ——
 第10章、終わり。

2380/古田博司「歴史に必然なんかない」(歴史通2012年7月号)。

  古田博司「時代の触覚11/歴史に必然なんかない」歴史通2012年7月号(ワック出版、2012年)。
 この頃の<歴史通>には古田博司と宮脇淳子がよく書いている。季刊雑誌のほぼ毎号ではないか。
 また、推測だが、この<歴史通>という雑誌名は、産経新聞社および月刊正論らが始めた(そしていつか、何故か、たち消えになっている)「歴史戦」というキャンペーンと関係があったのではないだろうか。そして、今や<歴史通>と<月刊WiLL>は融合、統合?したような様子であるのは(私の印象では)何故なのだろう。
 この当時の編集長は立林昭彦。のち、花田紀凱のあとの月刊WiLL(ワック)編集長。この立林と花田はともに、櫻井よしこを理事長とする国家基本問題研究所の評議員。
 2000年前後、そして民主党政権だった2009-2012年頃は、月刊正論らには、現在と比べるといろいろな人が幅広く執筆していた。
 所収も堂々と?書いていたし、小林よしのりも書いていた(確認しないので今思い出すのはこの二人だが、現在は絶対にまたはほとんど執筆者になっていない人が他にもいる筈だ)。
 --------
  さて、「歴史に必然なんかない」という表題に興味を持ったのでは全くない。
 「学者」批判、とくに「歴史」、「哲学」の学者への皮肉っぶりもよろしいのだが、目を惹いたのは、つぎの部分だ。
 古田は、ドイツやフランスではなく経験主義?のイギリスだというようなことを書いた直後にこう記す。以下、引用。
 「お手本はドイツ人やフランス人ではない。アングロサクソンになる。
 彼らに一度くらい敗けたからといって、いつまでもすねていると、敗け甲斐がない。ちゃんと真似ようではないか。//
 前にそう書いたら、編集部に削られたことがあった。」
 戦勝国にはフランスも入っている、などと瑣末なことを言いたいのではない。
 注目は、上の最後の部分、「編集部に削られた」だ。
 「すねている」とか「敗け甲斐」という表現の仕方が原因ではないだろう。
 アングロサクソン、つまりアメリカやイギリスを「ちゃんと真似よう」、英米をモデルにしよう、少なくとも(独仏よりも)支持しようという、多分に諧謔も込めた主張が、「編集部」のお気に召さなかったのだろうと思われる。
 どの雑誌の「編集部」か明記されていない。親英米の主張を許さないとは、どの雑誌(または新聞)だったのだろうか。
 また、「削られた」というのは必ずしも正確ではなく、「削ってほしい」、「表現を変えてほしい」という<要請>に古田が「しぶしぶ、いやいや」従ったのを「削られた」と表現した(そのように彼は感じた)可能性はある。
 しかし、確認すべきは、雑誌「編集部」なるものの<力の強さ>、表現・出版活動に関係する(むろん国家の一部ではないが)「権力」の大きさだ。
 対外的には個人名をあまり知られない、雑誌等の編集者、とりわけ編集長(・編集代表)、またついでに記せば、同じく個人名は知られることが一般には少ない、テレビ番組、とくに報道関連番組のディレクター類。
 この人たちかどんな本を読み、どんな人間関係の中にあり、どんな「歴史観」・「世界観」をもっているかは、現実には今の日本を相当程度に維持したり、変えたりしている。つまり、影響力が相対的に大きいように見える。
 原稿を提出した執筆者のその原稿の一部を「削る」(と少なくとも感じられる)ことをする権限を、「編集部」は有しているのだ。
 ついでに言えば、テレビの上記のディレクター類は、番組の基本方向や雰囲気を決定し、コメンテイターらを選別する「大きな権力」をもっているか、それを分有していると見られる。
 新潮社の冨澤祥郎とか、筑摩書房の湯原法史(西尾の新書<あなたは自由か>を担当)とかの個人名を、組織に埋没させることなくもっと公にすべきだ(なぜこんな本を編集して出版するのか問うべきだ)と、近年はとくに感じている。
 --------
  2017年6月、西尾幹二はつぎのことを自らのウェブサイトで明らかにした。
 産経新聞6月1日付「正論」欄に掲載された文章は、一部についてつぎのような「変更・修正」を求められて、西尾も従ったものだ、という。
 元々の原稿—「櫻井よしこ氏は五月二十五日付『週刊新潮』で、『現実』という言葉を何度も用い、こう述べている。」
 変更後の実際に掲載された文章—「現実主義を標榜する保守論壇の一人は『週刊新潮』(5月25日号)の連載コラムで「現実」という言葉を何度も用いて、こう述べている。」
 このような変更・修正を求めるに際して同新聞「正論」欄担当者は、つぎの旨を西尾に語った、という。
 ①「櫻井氏の名前は出さないで欲しい」。②「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくないから」。
 この件については、むしろ西尾幹二を擁護したい気分で、すでにこの欄に記した。→No.1607(2017年6月28日)
 西尾よりも、櫻井よしこの方が、産経新聞グループには貢献度が高いのだろう。
 あるいは産経新聞編集部にとっては少なくとも、「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージ」を抱かれないことの方が、「自由な」言論よりも、と大げさに書かなくても、たんなる個人名の明記よりも、大切なのだ。
 この件もまた、「編集部」の力強さ・「権力」の大きさを示している。
 そして、西尾幹二もまた自分の文章の大半が産経新聞に掲載されることを、かつまた継続して「正論」欄への寄稿の依頼(文章執筆の発注)を受けることを優先した。そして、あとで<ぐじゃぐじゃと>と不満を書きつつも、そのときはやむをえず?従ったのだろう。
 --------
  月刊正論(産経新聞社)の編集について編集代表の力が大きそうであることは(かつ適切とは思えないことは)、つぎの人物がその立場にいたときに何度かこの欄に記したことがある。
 桑原聡。とくに、桑原聡①・No.1226〔2013.11.15) 桑原聡②・No.1225(2013,11.14)
 適菜収という訳の分からない文章書きを雑誌デビューさせたのは、この人物だと見られる。
 さらに恐ろしいことを書いていたのは、桑原聡編集長時代の月刊正論内の読者投稿欄を担当していた、川瀬弘至だった。この人物は、<読者への回答>の一部でこう明記した。 
 「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 ナツィスは「民族」を理由に、ソヴィエト(・共産主義)は「思想」を理由に、少なくとも「体制・指導者への従順さ」の欠如を理由として、大量殺戮を行った。
 さいわい、川瀬弘至は産経新聞の一社員にすぎない。
 しかし、「我々」の「判断」した「異見」は「潰しにかかる」という言い方は、ナツィスや共産主義者、要するに「全体主義」者の意識・考え方を、十分に彷彿させるところがある。
 だから、今の日本で巧妙に生きていくためには、<文章書き>は、左であれ右であれ、上であれ下であれ、新聞・雑誌、出版社の「編集部」に従順でなければならず、反抗してはならない。
 むしろ某のように、自分のブログにその人物の写真まで掲載して褒めて、編集代表に媚び、原稿執筆の注文をできるだけ多く受けなければならない。
 一定の活字産業が(地上波テレビとともに)衰退気味であるらしいのは、けっこうなことだ。
 ——

2379/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。今回の最後の段落は二つに分ける。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道②。
 (9)1920年のあいだに、強制労働の原理は他の分野にも適用された。
 数百万の農民たちが、材木を伐採して輸送する、道路や鉄道を建設する、収穫物を集める、といった目的の労働チームへと徴用された。
 トロツキーは、全国民が労働連隊へと動員されれば常備軍またはmilitia の二倍の働きをするだろうと見込んだ。
 これは、1820年代の軍事大臣だったArakcheyev の軍事封建主義に似ていた。この人物はかつて、農奴労働をロシア西部国境の軍隊の業務と結合させた集団居住区網を作った。
 トロツキーの計画は帝政時代に長くつづいた「管理ユートピア」の相続者で、それはピョートル大帝にさかのぼるものだった。この大帝は全てを、軍隊の方法で考えた。非合理的なロシア人を理性化し、無秩序の農民を連隊化し、彼らを整列させ、鍛えて絶対主義国家の必要に応えるよう強いるために。
 トロツキーのように、Os'kin は、つぎのような日が来るのを待ち望んだ。「いかなる外国も、ロシアを侵略しようとはしない。民衆全てが、ある者は前線で手に武器を持ち、ある者は工業や農業の分野で、祖国を防衛しようとする気構えがあるために。
 全国土が、一つの兵舎になるだろう。」
 これは全て、官僚的な夢想にすぎなかった。
 労働軍と同様に、農民の労働チームは絶望的に非効率だということが判った。
 一本の樹木を倒して枝を切り刻むのに、平均して、50人の徴用者と一日全部が必要だった。 
 労働チームが建設した道路は平らでなかったので、ある観察者の言葉によると、「氷結した大海の波のように見えた」。そこを通るのは「乗り物遊びよりもひどかった」。
 労働義務からの離脱はあまりにふつうの事だったので、多くの地区では義務の履行自体ではなく脱走者の追跡に従事する者たちの方が多かった。
 脱走者を匿ったと疑われると、村は占拠され、制裁金が課せられ、ソヴェトの指導者を含めて、人質は射殺された。
 数千の農民たちが、労働紀律を破ったとして有罪とされた労働者の「矯正施設」として全ての地方(province)に設置された労働収容所へと送られた。(*7)//
 (10)労働者や学生が土曜日に、社会主義者の崇高な義務として街路や広場のごみを「自発的に」掃除するよう強いられていた。だが、この「土曜労働の作戦運動」、<subbotniki>も、同じように非効率だった。
 1920年のメイ・デイ(May Day)週間のあいだ、モスクワの100万人を超える住民がこの「労働の祭日」にかかわった。
 そのとき以降、その祭りは、ソヴィエト的生活様式の永続的な特徴になった。その週のみならず、全ての週の土曜日が、人々が支払いなく働くよう求められる日として予定されるようになった。
 ボルシェヴィキは、<subbotniki>はソヴィエト集団主義の輝かしい達成物だとして称賛した。
 政治的にはおそらく、それは都市住民に、紀律、従順および服従の意識を植えつけるのを助けただろう。
 結局のところは、<subbotniki>へと「自発的に参加する」ことをしないことは、疑念を生じさせ、おそらくは「反革命者」として訴追されることを意味した。
 しかし、感情的には、ほとんど何も達成しなかった。
 教授のVodovozov は、5月1日にペテログラードで行われた大衆的<subbotniki>の印象を、こう記録している。/
 「冬宮と海軍本部の間の広場に、活動の中心があった。
 手作業が必要とする以上にはるかに、本当におそろしく大変な数の労働者がいた。彼らは、冬宮の垣根が壊れて以来ほぼ18ヶ月間残っていた鉄の柵と積み重なったレンガをすっかり除去した。
 Rosta〔ロシア電信電話庁〕は、最後には汚い塀がなくなつた、と明確に述べた。
 だが、全くそうでなかった。レンガは本当になくなったが、鉄の柵は広場の端に積み重ねられていた。
 そこに今日も残っている。
 広場全体には、まだ山のように積み重なったゴミがある。
 疑いなく、不完全にでも塀を解体してしまうには、同じ場所に建設するよりも10倍の費用がかかる。」(*8)//
 (11)内戦の影響の一つは、貨幣価値の下落だった。
 ボルシェヴィキは、1918-19年の間、二つのことに考え悩んでいた。
 ルーブルの価値を維持するか、それとも廃止するか?
 一方で、財物や業務の代金を支払う貨幣を印刷しつづける必要も、認識していた。
 彼らはまた、大衆住民は通貨の価値で体制を判断するだろうことも知っていた。
 他方で、自分たちの通貨を導入するためにインフレを促進すべきだと考える、極左のボルシェヴィキもある程度はいた。
 彼らは、通貨制度を、国家発行のクーポンにもとづく物品配布の一般的制度に置き換えようとした。
 (誤って)想定していたのは、通貨を排除すれば自動的に市場システムは、そして資本主義は破壊され、結果として社会主義となるだろう、ということだった。
 経済学者のPreobrazhensky は、著書の一つを捧げた。すなわち、『財務人民委員部の印刷所へ。—頓馬なブルジョア体制を撃つ機関銃、通貨システム』
 1920年までに、左翼派は方向を見出していた。通貨は、それを守るのがもはや無意味になるほどに猛烈な速さで印刷されている。
 造幣局は1万3000人の労働者を雇っており、全く馬鹿げたことに、紙幣を印刷するのに必要な紙と染料を輸入するために大量のロシア・ルーブルの準備金を使っている。
 ルーブルを印刷するには、ルーブルが実際にもつ価値以上が必要なのだ。
 郵便、通信、輸送、電気のような公共的業務は、ルーブル紙幣を印刷して費用として使うことで国家が金を失っているのだから、自由に行われなければならない。(*9)
 このような状況は、超現実的だった。—しかし、これがロシアなのだった。//
 (12)ボルシェヴィキ左翼派は、配給券を共産主義秩序を創り出す偉業だと見た。
 配給が示す階級が、新しい社会階層でのその人の位置を明確にした。
 人々は、国家にそれを使うことで分類された。
 かくして、赤軍の兵士、官僚、重大工場の労働者は、第二級の配給を受け取った(適切な程度より少なかった)。
 一方で、階層の最下辺にいる<burzboois>は、第三級の配給でやりくりしなければならなかった(ジノヴィエフの記憶に残る言葉では、それは「匂いを忘れない程度のパン」だった)。
 実際に1920年の末までに、国家の貯蔵倉庫にはほとんど食糧がなくなった。—多数の人々が配給制度で暮らしていた。そして、第一級の配給で生活している者たちすら、飢餓の割合を減らす程度のぎりぎりしか受け取れなかった。
 3000万の人々が、国家の制度により何とか食っていけた、あるいは、食っていけなかった。
 都市住民のほとんどは、小工場の食堂に大きく依存していた。そこでは薄粥や軟骨が毎日提供された。
 だが、開いている店を見つけ、粗末な食事のために行列をするという競い合いは大変なものだったので、おそらくは実際に食事によって得たそれよりも、食べるまでにすることで多くの労力を費やしただろう。
 これは、馬鹿げたことのただ一つではなかった。
 食料、タバコから衣服、燃料、書籍まで、配給が導入されていたほとんど全ての分野で、製品が実際にもった価値以上の時間と労力が、それらの配布のために費やされた。
 労働者たちが配給を受け取るために列をなして並んでいる間、工場や役所は、動きを止めた。
 人々は平均して、毎日数時間かけてソヴェトの複数の役所を渡り歩いた。そして、よく折られた配給券を約束された物品と交換しようとした。しかし、その物品はときにしか見つからなかった。
 疑いなく、彼らは、自分たちが願い出ている官僚機構の者たちが十分に食べて、よい衣服を着ている様子に気づいたに違いない。//
 (13)ペテログラードの教授で1900年代の指導的リベラル派、そしてレーニンの若い頃の友人だったVasilii Vodovozov は、その日記に、典型的なある一日を描写している。
 ソヴィエト同盟について知っていた読者は、彼と同様の観察をしたかもしれない。/
 「1920年12月3日
 この私の日々を、数人の幹部たちについてを除いて、叙述していく。—瑣末な詳細がそれ自体で興味深いからではなく、ほとんど全ての者の典型的な生活状態だからだ。/
 今日、午前9時に起床した。
 まだ暗くて家の光はまだ点いていなかったので、これより前に起きても無意味だ。
 燃料が足りない。
 使用人はおらず(何故かは別の話になる)、湯を沸かして病気の(スペイン風邪にかかった)妻の世話をし、独りでストーブ用の薪を取ってこなければならない。
 (オート麦の)コーヒーを、もちろんミルクや砂糖なしで飲んだ。そして、2週間前に1500ルーブルで買った一塊のパンから作った一片の食パンを食べた。
 小さなバターもあった。この点で私は、たいていの人よりもまだ状態が良かった。
 11時までに外出の準備をした。
 しかし、朝食の後でもまだ空腹で、野菜店へ行って食べることに決めた。
 恐ろしく高価だったが私がペテログラードで知っている唯一の場所で、そこは食べるのが比較的容易で、どこかの人民委員部の規制がなく、または許可を必要としなかった。
 この場所すら閉まっていて、あと数時間は開店しないことが判った。それで、ペテログラード第三大学まで行った。そこは大学としては実際には閉まっているのだが、私が食事を登録しているカフェテリアがあった。
 そこで、私と妻と、やはり登録している友人のVvedensky家が食べられるものを購入しようと望んだ。
 しかし、ここでも不運だった。食べたい人々の長い行列があり、うんざりとした気分と苛立ちが彼らの顔に浮かんでいた。 
 列は少しも動かなかった。 
 いったい何が問題だったのか?
 ボイラーが壊れていて、少なくとも1時間は遅れるだろう。/
 遠い将来にこれを読む者の中には、この人々は大宴会を待っていたと想う人がいるかもしれない。
 しかし、食事は全部で、一つの料理だけだった。—ふつうは、ジャガイモかキャベツの入った薄いスープ。
 肉などは、問題外だった。
 特権のあったほんの少しの人々だけが、肉を食べた。—つまり、台所の内側で仕事をした者。/
 私は、そこを去って仕事の後まで食べるのを延ばすことに決めた。
 午後1時まで路面電車がまだ来なかったので、野菜店に戻った。そこには食料はなく、少なくともあと30分はその見込みもなかった。
 空腹のままで仕事に行く以外の選択肢はなかった。/
 Nikolaev 橋で、ようやく電車4号線の車両をつかまえた。
 路線上に流れはなく、静止したままだった。
 私は何故かをまだ理解していない。
 路面電車は全て停まっていた。だが、運行し続けるだけの燃料がないと分かっていたなら、どうして進行しなかったのか?
 人々は座席にすわったままだった。—何人かがとうとう諦めて、目的地に向かって歩き始めた。残る者たちは、Sisyphus の辛抱強さで座っていた。
 2時間後に私は電車が動いているのを見たが、5時までに再び、路面電車は全て停まった。/
 午後2時頃、私は徒歩で文書館まで到着していた。30分そこにいて、その後に大学へと行った。大学では午後3時に、手渡されるキャベツの配給のあることが予定されていた。
 誰に対してか私はよく知らなかったが、たぶん、教授たちにだろうと思った。—だから機会を得る必要があった。
 しかし、私は再び、幸運から外れた。すなわち、キャベツは配布されず、翌日に与えられることが判った。
 しかも、教授たちにではなく、学生たちに対してだけだった。/
 私はまた、大学では先の1週間、パンの配給もないだろうということを知った。ある人々は、パンはすでに全部、全ての委員会を動かしている共産党員に提供された、と言っていた。/
 大学から家に帰り、妻を見守り、必要なことをし、食べられると希望して野菜店へと再び戻って行った。
 もう一度、運が悪かった。食料は全てなくなり、少なくとも先の1時間はもう何もなかった。
 待たないと決めて、Vvedensky の家へ行き、あとで順番を待つことができるかと頼んだ。
 5時に家に帰った。
 そして、その日の最初の幸運の一欠片にめぐり会った。我々の地区の電灯が点けられていた(ペテログラードは電気について二つの地区に分けられていた。電力不足のため、各地区は交代で夕方に灯りが点いた)。
 そのため、読書する貴重な時間ができた。—食事、パンやキャベツ、あるいは材木取りのための走り回りから自由になった最初だった。
 6時にVvedenskyの家へ食べに行った(やっと!)。そして帰ってきて、この文章を書いている。
 9時、もう暗かった。
 好運にも友人の一人がやって来て、その夜の数時間、妻の世話をしてくれた。私には再び貴重な時間だった。
 9時過ぎて、ろうそくを灯し、湯わかしの火をつけ、妻と一緒にお茶を飲んだ。そして、11時に就寝した。」(*10)//
 (14-01)共産主義ユートピアの鍵は、食糧供給の統制だった。それなくして、政府は経済と社会を支配する手段を持たない。
 ボルシェヴィキは痛々しく、彼らの体制が圧倒的多数の農民のおかげで存在していることを、知っていた。
 ——
 ③へとつづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー