秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2021/04

2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。

  No.2317/2021.03.20にピアノ(88鍵)の鍵盤ごとの音の高さをHz単位で記しているが、有力または定説とみられる情報に従っている。
 絶対音階でのAはA0が27.5であるのを除いて(A1〜A7は)全て整数だが、これはAだからで、他の音はこんなに単純ではない。最高音のCは約4186Hz=4.186kHzだが、正確には端数がつく。
 A4=440Hzで、これが「音叉」の音の高さだと思われる。
 もっとも、ピアノ調律師はこれよりも少し高めに設定することがある、と何かで読んだことがある。また、交響楽団等々によって一定していない、ともいう。
 音には高さだけではなく、強さ(大きさ)や「音色」もあるから高さだけが重要であるのではないが、A4が周波数440Hzと決められているならば、周波数計を使って厳密に設定すればよいのではないか、と素人は考える。音は高さだけではないが、そうすると調律師という職業は要らなくなるだろうか。
 そうはいかないのが、ヒト・人間の感覚・感性に関係する音楽のむつかしい、または微妙なところだろう。
 ところでピアノ(またはバイオリン等)の一台(一本)だけならばどのようにでも?設定すればよいが、多数の楽器で演奏する場合、事前の音程の調整は決定的に重要だろう。リハーサル(Rehearsal)とは、きっと、まずはこのためにあるのだろう。
 余計な追記。ピアノではA0〜A7以上の音域があり、その他の楽器も高い音・低い音さまざまのものがあるのに、なぜ楽譜には、ト音記号のものとへ音記号のものしかないのか。合唱曲用のソプラノとテノールでは(アルトとバスも)同じ高さを示す楽譜を使っているのは奇妙で、女声と男声では、一オクターブ程度の差が本当はあるのではないか。あるいは、オーケストラの全ての楽器について、同じ高さまたは同じ基本音階を示す楽譜が用いられているのか?
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  <Yoasobi(よあそび)>、<Ado(アド)>のいくつかの歌・曲をYouTube で(見つつ)聴いた。曲名やら歌手名やら分からないのが、いつの頃からか多くなった。
 とりあえずこの二人(二組)について、嫌いだ、受けつけられない、ということは全くない。私にはテンポがやや早すぎ、リズム打ちもやや落ち着かないけれども。
 だが、とくに感じるのは、<Ado(アド)>という若い女性の声質と歌唱力だ。テレビによく出ているらしい下手な女の子グループよよりも、数段、いやはるかに声質がよくて、上手いだろう。
 (ところで、この人たちの歌と詩を聴いていると、全く余計ながら、西尾幹二は150年前に生きているのがふさわしい人物だ、と思えてくるのだが。)
 You Tube で(見つつ)聴いたといえば、Nataliya Gudziy がカバーしている<防人の詩>(原曲・さだまさし)はすこぶる印象的だった。
 私の世代だと、いや私に限れば、やはり小椋佳の、広くは知られていないいくつかの曲になお惹かれるところもある。比較的最近に知ったまたは意識した小椋佳の(よい)歌・曲に、つぎの二つがある。
 ①冬木立(初出1978年、小椋佳/作詞・作曲)。
 ②忍ぶ草(初出1978年、同上)。 
 確認してみると、何とYouTube上に二つともあった(すごい)。
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  バイオリンのIzhark Perlman のCDでユダヤ民謡を知ったあと、それに関してあれこれとYouTube を検索していたときだと思うが(それ以外に考えられない)、ロシア民謡とされるつぎの歌・曲を知った。
 Dmitri Hvorostovsky という人が歌っていた。まず感じたのは、歌・曲自体ではなく、この人の歌唱力のすごさだった。バリトンで、このクラスの音量と力強さ、口腔内・体内での響きをもって歌っている人は、日本のテレビでは見聞きしたことがない。バリトンのプロ歌手にはいるのかもしれないが。
 次いで、歌・曲自体に惹き込まれた。私好みの(よく聞けば単純素朴な旋律の)いい曲だ。
 先走って書けば、観たYou Tube上のタイトルは、つぎだ。
 Marvellous: Listen to the most popular Russian song for the last 45 years -Cranes.
 ロシア民謡とされ、上の末尾がタイトルで、(The)Cranes〔鶴、つる〕という。ロシア原語では、<Zhuravli>。
 ロシア語は分からないが、字幕で出てくる英語によると、これは主には戦死者を偲ぶ歌だ。
 やはり(?)、短調ミ始まりだ。
 いろいろと情報を探ってみた。種々考えさせられ、感じるところもある。第二次大戦の勝者・ロシア(ソ連)の<民謡>となっている曲であり、ロシア人の「愛国」の歌だろうからだ。
 しかし、戦死者だけではなく、あるいは戦争と関係なく、母国・祖国に生まれて死んでいった、全ての人々を思い出している(そして自分もいつか死ぬよ、と彼らに告げている)歌だと理解することは不可能ではない。
 二通り以上の英語字幕を見たことがあり、別情報では英語の「定訳」もあるというが、上記のYouTube 欄上に出ている英語字幕から、歌らしくなるように?訳してみよう。試訳であり、私訳。
  +++
 「血なまぐさい平原から帰って来なかった、
  兵士たちは、故郷の土に横たわっていない。
  白いつるに変わったのだと、私はときに思う。
  あの遠い時空からやって来て、つるたちは飛び、私は声を聞く。
  あまりにもたびたびで、とても悲しそうだからか、
  私はふと立ち止まって、静かに天空を見上げる。
  ***
  疲れたつるたちが、群れをなして飛ぶ。
  霧の中を、空の端へと飛んでいく。  
  その列の中に、小さな隙き間がある。
  たぶん、あの隙き間は、私のために空いている。
  その日がいつか来るだろう。あのような群れに入って、
  私は、同じ青灰色の霞の中を飛び、
  鳥のように、天空から語りかけるだろう。
  地上に残る全ての人々に対して。
  ***
  血なまぐさい平原から帰って来なかった、
  兵士たちは、故郷の土に横たわっていない。
  白いつるに変わったのだと、私はときに思う。」
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  さて、この曲には特定の作曲者・作詞者がいるらしい。
 D. Hvorostovsky だけが歌っているのでもない。ロシア民謡と言っても、さほど古いものではなく、1968年頃に作られたようだ。
 これらの詳細は省略するが、一点だけ、書き記しておく必要がある。
 この「つる」というのは、広島の平和祈念公園にある「原爆の子の像」の<折り鶴>と関係がある、という情報がある。たしか英語の情報だ。
 再確認しないで書くと、たぶん広島を訪れた作者(作詞者・作曲者)が、<折り鶴>を織りながら死んでいった少女(2歳で被曝、12歳で発症、13歳で死亡)の話を聞くか、またはそれをもとにすでに築造されていた「像」の下の折鶴を見てからその物語を知って、inspire されて(つまりinspiration を得て)<つる>を用いる歌・曲を作った、というのだ。
 まんざら虚報とは思えないが、そんな話は日本では聞いたことがないし、そもそも上の「つる」というロシアの歌自体が、ほとんど全く知られていないだろう。
 ——
 D. Hvorostovsky 。この人自身、50歳代でもう亡くなっている。1962〜2017。


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2353/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.789-p.791。一行ずつ改行。
 ——
 第二節・征圧されない国②。
 (10)農村地帯の生活が全て暗黒だったのではない、というのは本当だ。
 NEP〔「新経済政策」〕のもとで、近代的世界の飾りつけが、ある程度は村落にも届き始めた。
 電気がやって来た。 
 Andreevskoe にすら1927年に初めて電線がつながり、Semelov の夢はついに実現した。
 レーニンは、ロシアの後進性に対する特効薬として、この新しい技術を激賞した。その有名な標語は、こうだった。
 「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国土の電化だ」。
 レーニンは電力を魔法の力と同一視したようだ。そして一度は、電灯は—またはその名を知られるようになった「小さなIlich灯」は—、農民小屋の聖像に取って代わるだろう、と予言した。
 ソヴィエトの情報宣伝活動では、電灯は近代化(enlightenment)のたいまつの象徴となった。暗黒が貧困と悪の暗喩であるように、電気の光は全ての良きものを喩えるものとなった。
 写真は、農民にとっては、光をもつ新しい電気の球体の、ほとんど宗教的不思議さをもつ驚愕物だった。
 レーニンが見たように、全国的な電気網は、離れた村落を都市の近代的文化へと統合するものだっただろう。
 後進国の農民ロシアは、工業の光によって暗黒から抜け出し、急速な経済成長、大衆的教育、手労働の退屈仕事からの解放、という輝かしい新しい未来を享有するだろう。
 これらの多くは、御伽噺(fantasy)だった。数世紀にわたる後進性は、たんに切り替えるだけでは克服できなかった。
 レーニンは、長い間夢想主義(utopianism)に批判的だったが、H. G. Wells が述べたように、「電気技師の夢想」の誘惑に屈して、ロシアに深く根ざして存在する社会問題を克服するために、技術を信頼した。(*23)//
 (11)1920年代には、農村地帯の文明化の別の兆候も見られた。
 病院、劇場、映画館、図書館が、田舎の地方に出現し始めた。
 NEP の時期には、広範囲で農業改良が見られ、農業革命と言えるまでに進んだ。
 地域共同体の農作を不効率にしていた狭い交雑した耕作〔帯状〕区画は、再整理されるか、または配分土地のほとんど1億ヘクタールにまで拡張された。
 西ヨーロッパで見られるような複数交替収穫が、全共同体土地のほぼ4分の1で導入された。
 化学肥料、選種、最新の道具類がますます農民に使われるようになった。
 日常の農作も近代化された。そして多くの農民が、野菜、亜麻、てん菜のような、市場向け栽培へと転換した。これらは、革命前には、もっぱら大土地所有者(gentry)の商業用農地でのみ栽培されていた。
 かつてこのような改革の先駆者だったSemenov は、地域の協同組合—都市部との商品交換用の組合と道具や家畜の購入時の信用供与目的の組合の双方—に喜んだことだろう。これらは、1920年代に、顕著に増加した。
 1927年までに、全ての農民保有土地の50パーセントが農業共同組合に帰属するものになった。
 このような改良の結果として、生産も着実に上昇した。
 1926年までに、農業生産は1913年の時点に再び達した。そしてつぎの2年間にそれを上回った。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント多かった。ロシア農業のいわゆる「黄金時代」だ。(*24)//
 (12)教育の点でも、現実に前進があった。1900年代の傾向を再び取り戻して、1920年代にはいっそう多くの村落の学校が建設された。
 1926年までに、ソヴィエトの全人口の51パーセントは読み書きの能力があったと考えられている(1917年の43パーセント、1907年の35パーセントと比較せよ)。
 村落の中で最も向上したのは、若者たちだった。農民の息子たちはその20歳代初期に、彼らの父親の世代よりも2倍以上の人数が、読み書きできたと見られる。
 また一方で、同じ年代の若い農村女性たちは、彼女たちの母親の世代よりも5倍以上、読み書き能力があったようだ。
 こうした世代間格差の拡大は、人口動態上のものでもあり、文化的なものでもあった。
 1926年までに、農村人口の半数以上が20歳代以下になり、3分の2以上が30歳代以下になった。
 この者たちはたいてい、読み書きができた。
 彼らの多くは、兵役を通じて村落の外の世界を知った。
 長老農民たちの権威に抵抗し、稀にしか教会へ行かず、強い個人主義的感情を示した。この感情が追い求めたのは保有土地の分割で、1920年代の間に急速に進んだ。農民の息子たちが父親から離れて独立し、自分たちの土地保有を開始したのだ。
 農民の息子たちはまた、一族の長としての父親の地位を弱めて、農場の経営についての発言権をいっそう強めるようになった。(*25)
 ロシアの村落は、ボルシェヴィキが間違って考えたように、富者と貧者にさほどに分裂していたのではなかった。むしろ、父親たちとその息子たちの間に分裂があった。//
 (13)世代間の対立があったがゆえに、ボルシェヴィキは、落ち着かない若者たちの組織化を通じて、田園地帯への影響力を築くことができた。
 共産青年同盟(Komsomol)は、田園地域で、党以上に急速に拡大した。—1922年の8万人から、1925年までに優に50万人以上、地方のボルシェヴィキ党員数の3倍までに。
 共産青年同盟は、退屈した十代の村落の若者たちの社交クラブだった。
 この同盟は、教会と古い長老支配秩序に反抗する十字軍へと若者を組織した。
 その中から党に加入させることを通じて、野心的な青年たちに、自らを上昇させ、遅れた村落から離れることのできる可能性をも提供した。彼らの多くは遅れた村落を侮蔑して、都市の世界の輝く光に憧れていた。
 1920年代半ばでのVoronezh の最も農業的な地区の一つの共産青年同盟に関する調査によると、その構成員の85パーセントは農民家庭の出身だった。
 そして、わずか3パーセントだけが農業に従事したいと言った。
 1923年に、民族文化学のある学生は、Semelov がいたAndreevskoe から遠くないVolokolamsk にある村の同世代の者の考え方を、つぎのように概括した。/
 これは、若者たちが年配者に関して語ったことだ。
 「古い人々は馬鹿だ。
 彼らは働いて疲れるだけで、何も得るものがない。
 鋤で耕すこと以外に何も知らない。—これは全てを知らないということだ。…
 農場を放棄する。農作は利益を生まず、それに費やす労働に値しない。…」
 (若者たちは、)逃げ出したい。できる限り早く逃げ出したい。
 逃亡できるだけで、どこへでもよい。—工場、軍隊、大学、あるいは役人になる。—どこであっても、問題ではない。(*26)/
 Semenov とKanatchikov は、30年前に同じ考え方を記していた。
 村落がそこにいる若者たちによって拒絶されていること、これはボルシェヴィキが党員を獲得する、恒常的な源泉的基盤となったように見える。//
 ——
 第2節②、終わり。

2352/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第2節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。次の章へ。p.786-9。一行ずつ改行。番号付き注記は箇所だけ記して、訳さない。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第二節・征圧されない国①。
 (1)革命の4年間は、Andreevskoe の村民たちを再統合しなかった。
 村民は、二つの古い対立陣営に分かれたままだった。
 一方は、進歩的農民で改革者のSergei Semenov の側に立った。この人物は、近代世界の装飾物を貧しくて惨めな農民たちにもたらすことを夢見ていた。
 他方は、体格が良くて大酒飲みの老農民のGrigorii Maliutin の側に立った。この人物は、古い信仰者であり、全ての変化に反対し、この30年間の最良部分のためにSemenov の改革に抵抗した。//
 (2)彼らの間の確執は、1890年代に始まった。Maliutin の娘のVera が私生児を死亡させ、近くの林に埋葬したときだった。
 警察が取調べのためにやって来た。金持ちのMaliutin は、彼らを買収せざるを得なかった。
 彼は、Semenov が警察に知らせたのだと非難し、村から排除すべく脅迫する運動を開始した。—Semenov の小屋を焼け放ち、家畜を殺戮し、黒魔術師だと非難した。
 Maliutin はついに1905年に、その狙いを達成した。その年にSemenov はAndreevskoe に農民同盟の支部を設立したのだが、その地方の司法部の目からすると、彼は危険な革命家となった。そして、Semenov は国外へ追放された。
 しかし、3年後に彼は、Stolypin の土地改革の先駆者としてAndreevskoe に戻って来た。 
 Semenov は、西欧で学んだ先進的な農業方法を、村落から分かれた私的区画に導入しようとした。
 何人かの若者や進歩的農民たちが、彼の囲い込み運動に加わった。
 だが、Maliutin は再び腹を立てて—彼は村落共同体の実力者だった—、村落の長老たちと一緒になって、首尾よく改革を阻止することができた。 
 Semenov は1916年に、友人の一人にこう書き送った。「より良い生活を求める私の夢は、頑固で嫉妬深い男によって壊された」。//
 (3)革命は、Semenov に決定的に有利に天秤を傾けた。
 Maliutin が依存していたかつての権力構造、つまりvolostの長老、地方警察、大地主たちの権力構造は、一夜にして崩れ落ちた。
 若者や進歩的農民たちの意見が、村落内でより強くなった。一方で、革命を良いものとは全く思わなかったMaliutin のような伝統的指導者の力は、ますます無視された。 
 Semenov は改革の旗手として、村落集会の支配的人物の一人となった。
 彼はつねに、かつての伝統的秩序や教会の影響力に反対して発言した。
 1917年に彼は、Andreevskoe での土地分割に協力し、Maliutin の農地の規模を半分に削減した。 
 Semenov は、地区ソヴェトの土地関係部署と地方協同組合の両方で活動した。最新の道具の購入、市場用野菜栽培のための諸組合を設立し、日常的な農業や亜麻栽培の方法を改良した。農学に関する小冊子を書き、研修を行った。また、アルコール中毒と闘う運動を展開し、村に学校と図書館を建てた。さらに、近くのBukholowo 街区に学校教師の友人と設置した「人民劇場」用の戯曲をも自ら執筆した。
 彼は、Volokolamsk の村々をモスクワ・ソヴェトに繋がる電信および電話線で覆いつくす計画を練り上げすらした。
 Semenov はTolstoy主義の信条を持っていたので村落やvolost ソヴェトでの役職を引き受けるのを固辞したけれども、ある地方人が述べたように、
「Andreevskoe のみならずその地方の農民たちは、彼を自分たちの指導者でかつ代表者だと見なした」。//
 (4)Maliutin とその仲間たちは、その間、Semenovの全ての動きに反対しつづけた。
 彼らは、Semenovは共産主義者だと断言した。—そして、村落での彼の改革は村落に新体制の全ての邪悪さを持ち込むたけだ、と主張した。
 地方の聖職者は、彼は黒魔術師だと非難し、彼の「無神論」は悪魔につながると警告した。
 Volokolamsk の正教執事(Archdeacon)Tsvetkov も非難に加わり、Semenov は反キリスト者だと主張した。
 Semenov が1919年に設立した村落の新しい学校は、とくに彼らを怒らせた。木材で建築されていたが、それらは国有化されるまではMaliutin と教会の所有物だった森林から伐採されたものだったからだ。
 さらに、その学校には宗教教育が全くなかった。
 教室の壁の上の十字の場所には、義務的に、レーニンの肖像画があった。
 ある夜に、Semenov の小屋が燃やされた。別の夜には、彼の農具は奪われ、湖に沈められた。
 名前を明かさないままの非難文書が地方チェカに送られたが、それらは、Semenov は「反革命」で「ドイツのスパイ」と主張するものだった。
 Semenov はしばしば、行動に関して答えるようにチェカに拘引された。彼が少しだけ知っているモスクワ・ソヴェトの議長のカーメネフにちょっと電話するだけで、彼を釈放するには十分だったけれども。
 ロシアに多種の畜牛伝染病が広がった1921年の間、Maliutin とその仲間たちは、村落の家畜の死の原因はSemenov の「悪魔の改革」にあると追及した。
 彼は「黒魔術で畜牛を病気に罹らせた」とすらも、主張された。
 ロシアじゅうで同じ病気で畜牛が死んでいるのを知っていたけれども、非難者たちは自分たちの損失に関する説明を欲しがった。そして、Semenov に対してますます疑念を抱いた者がいた。//
 (5)Maliutin は最終的には、古くからの対抗相手の殺害を組織した。
 1922年12月15日の夜、Semenov がBukholovo へと歩いていたとき、彼はMaliutin の2人の息子を含む数人の男たちに襲撃された。男たちは、村落の端にある姉のVeraの家から突然に現れた。
 彼らの一人が、Semenov の背中を銃撃した。
 Semenov が振り向いて攻撃者を見たとき、男たちはさらに数発を発射した。彼が死んで地上に横たわったとき、男たちは、彼の顔に息を吹きかけた。
 彼らは、Semenov の胸に、赤い血で十字の印を切った。//
 (6)これは、卑劣な殺人だった。
 Semenov は対抗相手につねに公正に向かい合ってきて、その立場について公平だった。
 しかし、対抗相手たちは彼に対して悪意をもち、背中を射撃した。
 殺害者たちがのちに逮捕されたとき、彼らは、Semenov は「悪魔のために働いていた」、畜牛伝染病を呪文で呼び出した、と主張した。
 彼らはまた、Grigorii Maliutin とArchdeaconのTsvetkov にSemelov を殺すように命じられた、とも告白した。—後者が言ったように、「神の名において」殺した、と。
 彼らは全員が共謀殺人で有罪となり、各々が極北での重労働10年の判決を受けた。//
 (7)Semenov は、Andreevskoe にある愛した自分の土地区画に埋葬された。彼が生き、この数年間をそのために闘った土の一部になった。
 周囲の諸村落から数千の人々が、葬礼に参加した。その中には、彼が個人的にも教えた、数百人の生徒たちもいた。
 友人のBelousov は、弔辞でこう語った。「その働きと教えを人々が甚だしく必要とするようになった、まさにそのときに、こんなに貴重な生命を失うのは悲劇だ」。
 Semelov の功績を追悼して、村の学校には彼の名が付けられた。また、彼の農場は国家によって維持され、彼の子息が経営した。それはモデル農場として、農民たちに最新の農業革新による利益を示すものとなった。
 Semelov は大いに感動したことだろう。彼が生涯をかけて夢見たものだったのだから。(*21)//
 (8)党のプロパガンダに利用する機会が見逃されるはずはなく、<プラウダ>は、この小さな地方的物語に焦点を当てた。 
 Maliutin は悪の「kulak(富農)」として、Semelovは貧しいが政治的意識のある農民として描かれた。
 これはもちろん全て馬鹿げていた。—Semelov は「kulak」のMaliutinより決して貧しくなく、いずれにせよ、二人を分かつのは階級ではなかった。
 殺人事件が本当に示したのは、モスクワから100マイルも離れていない所に、Andreevskoe のような近代文明がまだ到達していない村落が存在した、ということだ。
 人々は魔術を信じ、まるで中世に閉じ込められているような生活をしていた。
 ボルシェヴィキはまだ、この見知らぬ国を征圧していなかった。
 外国にいる軍隊のように、誤解してその国に見入った。
 アマゾンの森林の探検者のごとくモスクワの周辺へと向かった初期の民族文化学者たち(ethnography)は、つぎのことに気づいた。ロシア人たちの多くは、地球は平らだと、天使たちは雲の中で生活していると、太陽は地球を回っていると、まだ信じている。
 彼らは、時代遅れの長老支配様式に浸された不思議な村落を発見した。それは、月とは異なる宗教祭日や季節をまだ規準として時間が区切られる世界であり、異宗派的儀礼と迷信、妻叩き、リンチ、拳骨での決闘と数日間続く飲酒、といったもので充ちた世界だった。//
 (9)ボルシェヴィキは、このような世界を理解することができなかった。—マルクスは、黒魔術について何も語らなかった。ましてや、統治することなど。
 ボルシェヴィキによる社会基盤作り(infrastructure)が及んだのは、volost の町部分にまでだった。
 村落のほとんどは、依然として自分たちの共同体によって統治された。共同体の小土地所有(smallholding)の「農民」体質は、革命と内戦によってむしろ大きく強化された。
 実際には、この数年間にロシアは全体として、はるかに「農民」的になった。
 革命によって、大都市の住民は大きく解体し、工業は事実上破壊され、地方的文明の表層は剥ぎ取られた。
 小土地所有農民層が、残されたものの全てだった。
 多くのボルシェヴィキが、農民大衆によって威嚇されていると感じたのは、何ら不思議ではない。
 「野蛮な農民たち」に反抗心をもっていたGorky は、ボルシェヴィキの恐怖心を表現した。ベルリンへと発つ直前に、外国からの訪問者にこう言った。
 「農民は、全くもってその数の力によって、ロシアの主人になるだろう。
 そしてそれは、我々の将来にとっての大厄災だろう。」(*22)
 農民に対するこの恐怖は、1920年代の、解消されない緊張の原因だった。—これが、否応なく、集団化という悲劇へとつながった。//
 ——
 第二節①、終わり。

2351/L・コワコフスキ「名声について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。第2章②。この書物に、邦訳書はない。
 ——
 第二章・名声(fame, 有名さ)について②。
 (6)このように考察すると、名声はいくぶん「不公正に」配分されている、という愚かな考えが生まれる。
 このような考え方は、名声の「公正な」配分とはどのようなものかを、さらにはそれをどうすれば実現できるかを、我々は知らないがゆえに、愚かだ。
 実際そうであるように、ほとんど読み書きのできない何人かのボクシング王者は、純粋に人類の利益のために働く偉大な学者や科学者が、例えば医学研究者が一握りの者たちにだけしか知られていないのに対して、世界じゅうに有名であり得る。しかし、これのどこに問題があるのか?
 なぜ名声は、知的な大きな成果に対する正当な褒賞である<べき>で、スポーツ技量またはテレビ・ショーの司会術に対する報償であってはならないのか?
 名声は、しばしば全くの好運の問題だ。宝くじ当選者ですら、自分の努力や長所がなくとも、短期間は有名であり得る。
 我々自身もまた、しばしば、聴衆や観衆として誰かを有名にすることができる。例えば、その女優が出演している映画を観に行くことによって、ある女優を有名にすることができる。
 多数の人々—Xanthippe〔ソクラテスの妻〕、Theo van Gogh〔画家ゴッホの弟〕、Pontius Pilate〔キリスト処刑許可者〕 —は、たまたま何らかのかたちで有名な人々と関係があるために有名さを獲得している。
 そして問おう、なぜそうであってはならないのか?
 名声の「不公正な」配分について、文句を言っても無意味だ。名声は、善良さ、知恵、勇気その他の美徳の報償ではないし、かつそう考えられてはならないからだ。名声とはそのようなものでは全くないし、決してそうはならないだろう。//
 (7)これは良いことだ。なぜなら、かりに我々の生活がその大部分が予見不可能でなく、偶然に支配されていないとすれば、そのような生活はじつにひどく退屈なものになるだろうから。偶然は総じて我々の有利にはならないという事実があるとしても、やはりそうだろう。
 世界は、公正な報償なるものを基盤にして編成されてはいないし、実際そうであるのとは異なって世界を編成し得ると言うことが何を意味するのか、思い描くことすらできない。
 おそらく天界では、名声や栄誉は異なる規準で従って授与される。おそらく最高のレベルにまで昇りつめた有名な人々がおり、彼らは地上では誰もその名を聞いたことがない人々なのだろう。
 しかしながら、地上で熱烈に名声を追求する人々は、偶然によって有名になった者たちを見て嫉妬心を使い果たして、有名な人々の中には入らない、と想定しておくのが安全だ。
 ノーペル賞受賞者やアメリカ大統領になろうとする絶望的な多数の者たちは、彼ら受賞者らが明瞭に獲得した褒賞を拒否されたという憤懣をもって、天界に行けば自分たちの苦痛に褒美が与えられる、と考えることに慰めを見出してはならない。
 なぜなら、実際には、神は、我々の嫉妬心や虚栄心に対する褒賞として我々を着飾ってくれそうにはないからだ。//
 (8)名声を求める渇望やそれを得られないこと、または値するほどには多く名声を得ていないことは不公正だとする感情は、もちろん虚栄心の結果であり、聡明さとは何の関係もない。
 道徳家たちはこの数世紀の間に、我々の知性はその我々の虚栄心や傲慢さを前にしては無力だ、と知ってきた。
 我々はみなたぶん、さもなくば全く知的な人々が、尊大で傲慢で独善的だという理由で、疫病のごとく避ける人々に遭遇したことがある。
 我々に説教をしたり望んでいない助言をするこの種の人々は、我々がその仲間でなくなるときには、それに気づいていないふりをするか、または自分たちの道徳の高さや知的な卓越性に原因を求める。
 我々はみな、知識と先見性があるにもかかわらず、誰も自分を認めてくれないと常時不満をこぼしている、そして、自分たちが嘲弄に値する者であると理解するのを拒否する、全く知的な人々を知っている。
 彼らは、自分たちを殉教者に仕立て、絶えず我々の同情を惹こうとする。我々の時代の出来事からして、彼らの殉教ぶりは些細な程度であるとしても。
 彼らはまた、自分たちの馬鹿げさ加減を理解するのを拒む。
 我々にあらゆる機会を使って、世界の女性たちは全員がベッドに一緒に行くことしか望んでいないことを明確に教えようとする、完全に知的な人々がいる。
 知性は、虚栄心を克服できない。
 「虚栄(vanity)」という言葉が「空虚(void)」に近いのは、決して偶然ではない。//
 (9)しかしながら、名声の追求は、二つの条件が充たされるならば、卑しいことでも、無価値のものでもない。
 第一に、主要な目標に対して付随的なものでなければならない。主要な目標とは、それ自体が価値があるものを達成することだ。
 その目標へと、我々の努力は傾注されなければならない。その結果として生じ得る名声の見込みに、誘惑されることがかりにあるとしても。
 第二に、名声の追求は、強迫観念(obsession)に転化してはならない。ほとんど余計なことを追記すれば、この強迫観念は、世間に対する憤懣という破壊的な感情を生むことがあり、これは人生を破綻させてしまうことがあり得る。
 概して言えば、名声については全く考えないで、家族や良き友人たちの小さな仲間うちの愛情や敬意に満足しておくのがよいだろう。//
 ——
 第2章、終わり。

2350/知識・教養・<学歴>信仰②—古田博司2015年著から。

 No.2334の<「知識」・「学歴」信仰の悲劇①>との表題を、少し改める。
  古田博司・使える哲学(Discover、2015)は、全篇にわたって面白そうだ。
 ヨーロッパ近代、同哲学についても、西尾幹二批判についても、関係する、かつ刺激的な文章が多々ある。
 また、学問論・大学論についても、面白い、かつ刺激的な言辞が並んでいる。
 とりあえず、以下の文章に、ほとんどそのまま大賛成だ、と書いておきたい。
 全て、そのままの引用。一文ずつに改行。p.98-。
 「先ごろ話題になった、文科省が廃止に言及した人文系学部の見直しについても基本的には結構なことだと思っています」。
 「研究者たちは自分の学問を、今を説明できるような学問にどんどん変えていかなくてはいけないというのが私の考え方です」。
 「どんな学問であっても『すぐには役立たないが、教養として必要だ』という考え方には意味がないと思います」。
 「学問の目的を、常に今の説明に置くことが大切です」。
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  学問とは何のためにあるのか。さらには、学校での「勉強」は何のためにあるのか。
 古田は学者・研究者として、誠実に思考していると思われる。自分の「名誉」とか「名声」と関係なく。
 ①上の「今を説明」するの中には、厳密には「今」の中には、我々個人もその一個体である<ヒト・人間>の客観的・現実的な諸相も含めたい。
 「今」の中には、「今」を生きる人間の諸条件も当然に含まれているからだ。ここには<(生命体として)生きている>ということの(観念的・哲学的意味ではなく)物質的ないし生物学的意味が含まれる。
 心臓の拍動、呼吸、脳・脊髄等の「神経」等があってこそ「生きている」(自分だけではなく全ての人間が)ことを、小学生くらいから教育しておくべきだ。生存条件としての食事(・栄養)から必要な自然環境(水、空気、樹木等々)までも当然に。
 したがってまた、ヒト・人間の肉体的(・精神的)生存に関係する学問、簡単には医学・生物学・薬学等々(感染症学等々も入る)等は重視されなければならない。基礎としての数学・物理学等々も。
 ②上の広い?意味での「今」と関係がない、または関係が薄い諸「学問」分野は、「学問」性がないか乏しいもので、大学または学者・研究者が行う必要はない。<法学>についてはその意味合いも含めて、別途触れたい。
 勉強・学習→教養→「人格」陶冶・完成、といった、西尾幹二が好みそうな、または旧制高校生が(エリート意識=反・非大衆意識でもって)想定していたような、時代遅れの(だがまだ残っている)観念・意識を捨て去るべきだ。
 ③何のための大学か、したがって何のための「受験」か、「受験勉強」かを、真剣に問う必要がある。
 断片的「知識」の多寡、あるいは「記憶」力や「連想」力の差でもって、せっかく同じくヒト・人間として生まれてきた者たちを<分類>したり<区別>してはならない。
 18-19歳の時点での「記憶」力や「連想」力を基礎にしている「学歴」というものは、文字通りそれだけのことだ。第三者が正解・正答をあらかじめ用意して作った問題に、要領よくかつ可能な限り迅速に解答する能力の、多少の違いを示すだけだ。だが、それ=「学歴」に(良くも悪くも?)一生拘泥する人々がいるのは、悲劇であり、かつ喜劇だ。
 「今」と無関係の、または関係のうすい知識・教養をいくら豊富に持ってても、無意味かほとんど無意味だ。
 「今」を説明し、把握し、少しでも「改める」または「変える」(または改めない・変えない・維持する)判断をするのに役立たない学問は(そもそも「学問」ではないか)無意味だ。
 このあたりは、<人間は、いったい何のために生きるか>という問題に、究極的にはかかわる。
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  文科系学部ないし人文系学問の不要論は、だいぶ前だが池田信夫も主張していた。経済学部は除外されていたかもしれない。
 最近、茂木健一郎は、YouTube 上で、(たぶん文科系でも)大学入試科目に日本史・世界史は不要で、数学が必須だと発言していた。その他、茂木は、いまの入試のあり方・「偏差値」教育に、きわめて批判的だ。
 数学論は別として、現在の高校での(または私に記憶のあるような)日本史・世界史教育や大学入試での出題傾向を前提にすると、これらは「歴史」ではなく、ほとんどたんなる「事項記憶」力を鍛えるだけに終わっている。
 そもそも「歴史」が理解できるためには<ヒト・人間>を知っていなければならない(その意識・心理も含めて)。また、<社会>または人間相互の諸関係のありようを知っておかなければならず、土地や食料等の重要性、自然環境に影響され得ることも、知っていなければならない。
 しかし、現在の高校教育まででは、高校生以下は、これらを理解するにはあまりに幼なすぎる。人間や社会の「歴史」は、絶対にまだ「理解」できない。
 本郷和人が日本史が「暗記科目」になっていると嘆くのは当然のことで、そもそもまだ難しすぎるのだ。
 また、重要な「教養」として日本史・世界史の学修は必要なのだ、と本郷和人や山内昌之は主張するかもしれないが(そのような二人の対談書を読んだことがある)、歴史を学習して「教養」が身についても、それだけでは「今」に役立つという保障は全くない。つまり存在意味がない。
 極論すれば、<お飾り>だけの「教養」など、不要なのだ。
 歴史学ですらそう思えるので、その他の現在「文学部」に配置されている狭義の「文学」や「哲学」なるものの存在意義自体を、したがってまた、「哲学」や狭義の「文学」の研究者・学者の存在意義を、厳しく問わなければならない。
 再び、冒頭の古田の文章に戻る。
 「研究者たちは自分の学問を、今を説明できるような学問にどんどん変えていかなくてはいけない」。
 「どんな学問であっても『すぐには役立たないが、教養として必要だ』という考え方には意味がない」。

2349/L・コワコフスキ「名声について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。第2章へと進む。この書物に、邦訳書はない。
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 第二章・名声(fame, 有名さ)について。
 (1)我々みんなが知るように、名声(fame)は、諸々の物の中で、人々が最も望むものだ。
 なぜそうなのか—なぜ名声はさほどに名高く(famously)望ましいものなのか—に立ち入る必要はない、というのは明らかに正しい。
 有名であることは、どのような理由であれ、自分を肯定し、自分自身の存在を確認することだ、そして自己肯定は人間の自然の欲求に見える、と言うので十分だ。//
 (2)しかしながら、名声を求める渇望は、我々自身の文明では名声は執拗に追求される目標だという事実があるにもかかわらず、普遍的なものではない。
 何人かの古代の哲学者たちは(当然に有名な人々だが)、とくにストア学派やエピクロス学派の哲学者たちは、名声は避けられるべきものだと教えすらし、隠れて生活するよう助言し、無名であることの幸福を説いた。
 名声には、疑いなく煩わしい側面がある。有名な人々は、テレビに登場したり新聞に名前を載せたりすべく最大限の努力を同時にしているがゆえに、総じて信頼が措けないというひどい負担を負わされていると不満を述べるけれども。
 しかしながら、純粋に名声を追い求めない多数の人々がいる。—自信がないか、光に当たるのが好きでないか、またはたぶん自分自身について強い意見を持っていないか、のいずれかの理由で。
 (3)我々が知るように、名声は、しばしば—つねにではないが—富をもたらす。
 名声は、一定の職業の人々に富を与える。俳優、映画監督、ロック歌手、スボーツ選手、等々。
 名声を追求するほとんどの人々は、しかしながら、それがもたらす利益のためではなくそれ自体のために、そうしている。—たぶん、名声を得たいというただ一つの理由でDiana の寺院を全焼させたと言われるヘラストラトス(Herostrates)の不朽の例を忘れないで(きっと、彼が見事に達成したと言われる目的。数世紀のちにでもこうして我々が話題にしているのだから、見事にだ)。
 我々は毎日、有名になりたいというだけの理由で、テレビで観るようなおぞましい犯罪を冒している、まだ十代の粗野な若者たちを見ている。
 一方の天秤の端には、大きな富のごとき、ときには名声の結果として生じるものをすでに持つているが、名声そのものは避けて無名のままでいるのを好む人々もいる。
 しかしながら、総じて言って、名声ははそれ自体で、他の望ましい良きものを獲得するたんなる手段としてではなく、望ましいものと考えられている。//
 (4)名声は、まさにその性質上、僅かの者にしか与えられない。稀少性は、その定義の一部だ。
 我々はみないつかの日には、15分間の名声を得られるべきだ、ということが(有名なAndy Warholによって)言われた。だが、これは馬鹿げている。
 二つの理由で、無意味だ。第一に、単純な計算をしてみても、我々の全員に15分間の名声を与えるには、現在の世界人口を前提にすると、おそらくは何らかの国際テレビ網で、およそ20万年の類の年数を必要とするだろう。そのテレビ網が一日じゅう放送し、その連続する15分間の名声への熱望以外には何も放送せず、世界の全ての人々が一日じゅうそれを観たとしてすら。
 第二に、そんな馬鹿げた平等の状態では、誰一人少しも有名にならないだろう。
 名声は、稀少なものでなければならない。だからこそ、名声を得たいと夢見る人々のうちごく僅かの者だけが、その夢が実現するのを見るのだ。そして、ほとんどの者は、悲しく幻滅するだろう。
 ほとんどの者は、多大の時間と努力を無駄に費やすことになっただろう。人生の目標を名声の獲得に設定すると、時間を無駄に消費することになる。
 もちろん、人々が求めるが滅多に得られない多数のものがあるが、得られそうでなくとも求める努力をする価値があるものも多い。
 例えば、数百万の人々が、大当たりする可能性はごく小さいことを知っていても、宝くじを買う。
 しかし、宝くじを買う費用は安くて(義務的にそうしないかぎり)、時間や努力をほとんど必要としない。他方で、名声を望むのは、多くのことを必要とし、ふつうは無駄に終わる。//
 (5)名声と言っても、多数の程度の違いがある。程度の差が大きいので、誰が本当に有名で、誰が有名でないかを厳密に決定するのは不可能だ。
 職務のために有名な、世界諸大国の大統領や首相、国王や教皇のような人々を無視するならば、今日での名声(知名度)は、通常は、映画やテレビに人々が登場する長さに比例している、と言うことができる。
 アメリカでは、誰もが報道の読み手や人気のあるテレビ・ショーの司会者の名前と顔を知っている。
 我々は誰もが、Jack Nicholson や(もっと最近だが)Emma Thompson を知っている。また、Antonioni やWajda について聞いたことがある。
 我々は、Einstein、Planck、Bohr、あるいはMarie Curie-Sklodowska のような、今世紀の前半以降の何人かの科学者の名前を知っている。
 しかし、化学者または物理学者ではない我々のうちどの程度多くが、最近40年間の物理や化学のノーベル賞受賞者の名前を挙げることができるだろうか?
 我々は彼らの名前を知らない。ときには、彼らをどう区別すればよいのか、あるいは正確にはどの分野の人物なのかすら、知らない。
 我々は、彼らは傑出していて優秀であるに違いない、とだけ推測する。
 しかし、彼らは有名ではない。なぜなら、我々のうちほとんど誰も、彼らについて聞いたことがないからだ。//
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 ②へとつづく。

2348/西尾幹二批判024—根本的間違い。

  西尾幹二における人格、自我、自己認識の仕方も、おそらくは他の時代や国家では見られない戦後日本(の社会、学校教育界・出版業界)に独特のものがある。この点も、きわめて興味深い。
 西尾は2011年に自ら「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした」と発言し、かつ「私小説的な自我のあり方で生きてきた」のかもしれないと明言しつつ、大江健三郎には「私小説的自我の幻想肥大」があると批判した。月刊WiLL2011年12月号(ワック)。
 「私小説自我」のあり方で生きるのとその「幻想肥大」の間に、明確な境界はない。あるとすればほとんど<言葉の違い>だけだ。別の者から見れば、西尾幹二の「私小説的自我」にも、十分に「幻想肥大」がある。
 以上は冒頭の文章に関連して言及したもので、今回の主題ではない。
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  西尾幹二がとった<政治的立場>・<立ち位置>の根本的誤謬は、つぎの文章のうちに示されている。西尾に限らず、日本会議を含むかなりのいわゆる保守または「自称保守」が冒してきた、根本的誤りだ。
 立ち入ると長くなるので、まずは、一括して引用だけする。「つくる会」自体またはその全体が本当に以下のとおりだったかは問題にしない。
 1991年のソヴィエト連邦解体後の日本と世界を基本的にどう把握するか、という問題。一文ずつ改行する。
 「グローバリズムは、その当時は〔1990年代後半−秋月〕『国際化』というスローガンで色どられていました。
 つくる会は何ごとであれ、内容のない幻想めいた美辞麗句を嫌いました。
 反共だけでなく、反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました。
 私たちの前の世代の保守思想家、たとえば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。
 反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。
 国家の自立と自分の歴史の創造のためには、戦争をした相手国の歴史観とまず戦わなければならないのは、あまりにも当然ではないですか。
 三島由紀夫と江藤淳がこれに先鞭をつけました。
 しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です。
 われわれの運動が曲がり角になりました。
 反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのですが、単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれの本来の思想の表われだったということを、今確認しておきたいと思います。」
 2017年1月29日付「同会創立二十周年記念集会での挨拶(代読)」西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)712頁所収。
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  設定されていた問題は、反共だけか、反共+反米か、というような単純な問題ではなかった。グローバリズムかナショナリズムか、という幼稚な問題でもなかった。
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2347/E. Forsthoff・ドイツ行政法I·総論(1973)—目次④。

 Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts,Erster Band, Allgemeiner Teil, 10., neubearbeitete Auflage(C.H.Beck, München, 1973)。
 上のドイツ語著、エルンスト·フォルストホフ・行政法教科書第一巻・総論、第10版・改訂版の、目次部分の試訳のつづき。丸数字は試訳者が挿入。
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 第四部/国家補償の制度。
  前記。①ありうる事案、②国庫作用と権力的作用、③適法な侵害と違法な侵害、④些細な侵害、⑤損害賠償と損失補償、⑥責任なき違法、⑦特別権力関係、⑧体系、⑨国家の財産秩序との基本関係、⑩憲法裁判所の画期。
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  第一七章・国家責任。
   ①19世紀の法状態、②国家責任法〔法律〕、③ヴァイマル憲法131条、④GG34条、⑤立法事実、⑥拡大解釈、⑦理由、⑧官吏概念、⑨委託された公的職務、⑩職務義務、⑪過失、⑫職務責任と犠牲、⑬賠償義務のある行政主体、⑭法政策的評価。
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  第一八章・収用と犠牲。
   第一節—①公法上の補償—②物的および人的財産の侵害、③成文法、④近年の理論、⑤歴史的発展、⑥ius eminens、⑦ius quaesitum、⑧プロイセン一般ラント法、⑨1831年12月4日の内閣令、⑩土地所有権の剥奪としての収用。
   第二節—①ヴァイマル憲法153条、②解釈の変遷、③ライヒ裁判所の判例、④ヴァイマル憲法153条の存続、⑤GG14条、⑥収用概念の限定、⑦社会階層、⑧剥奪、⑨没収、⑩転換、⑪徴発、⑫財産調達過程としての収用、⑬犠牲収用、⑭収用の諸条件、⑮ 財産権の保護、⑯publici iuris、⑰財産権の本質的内容、⑱財産権の制限、⑲限定理論、⑳個別行為理論の批判、㉑財産権の社会的被拘束性、㉒目的疎外と機能に即した使用、㉓公法上の財産権制限、㉔相隣関係法上の効果、㉕たんなる利益の侵害、㉖管理義務と補償、㉗包括条項、㉘前憲法的権利、㉙補償、㉚法的争訟。
   第三節—①違法な侵害、②収用に等しい侵害、③包括条項の回避、④犠牲、⑤人体被害、⑥違法な侵害の拡張。
   第四節—①違法な侵害の責任と職務責任、②連邦通常裁判所の判例、③考察。
   第五節—補償の種類と程度。
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  第一九章・危険責任と公法上の利益調整。
   第一節—危険責任。①典型的な事例、②フランスの判例、③危険責任の法政策的正当化、④その限界、⑤法制度としての危険責任、⑥成文法上の根拠の不存在。
   第二節—公法上の利益調整。①解決の事例、②侵害の欠如、③授益の不可避の反射としての負担、④関係者の補償を求める権利、⑤関係者の出訴負担を軽減する官庁の義務。
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 第五部へとつづく。

2346/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文④。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
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 第2節②。
 (4)シャラモフは、荷積み一輪車の運転方法以外には何も、コルィマから学ばなかった、と言った。
 しかし、彼の著作物の断片の一つは、我々にもっと多くのことを語ってくれる。/
 「<収容所で見て理解したこと
 01. 人間の文化や文明の極端な脆弱さ。重労働、寒さ、飢え、殴打があれば、人間は三週間で野獣になる。
 02. 精神を奪う主要な方法は、寒さだ。思うに中央アジアの収容所ではより長く生きる。より暖かいからだ。
 03. 友情や同志愛は、本当に過酷な、生命を脅かす条件のもとでは決して生まれない、と悟った。
 04. 人間が最も長く維持する感情は怒りだ、と悟った。怒りに燃える人間には、肉片で十分だ。他の全てに、その人間は無関心だ。
 05. スターリンの「勝利」は、無実の者を殺したことによる、と悟った。—十倍の規模の組織があれば、二日以内に彼を一掃できただろう。
 06. 人間は他のどの動物よりも強くて生により執着するがゆえに人間だ、と悟った。どの馬も、極北で働いて生き延びることはできない。
 07. 飢餓と酷使の条件の中で最小限度の人間性を維持することのできる唯一の人間集団は、宗教信仰者、宗徒(この者たちのほとんど)、たいていの聖職者だ、と知った。
 08. 党従事者と軍人は、最初に崩れ始め、かつ最も容易に崩れる。
 09. 知識人に対する最も手厳しい論述は、その顔を最もふつうに平手打ちすることだ、と知った。
 10. ふつうの人々は、監督者たちがどの程度強く自分たちを叩くか、どの程度熱心に殴打するかによって、自分の監督者を識別する。
 11. 殴打は、一つの議論と同じくほとんど全面的に有効だ(方法・第三)。
 12. 見せ物裁判(show trial)がどのように不可思議に設定されているかを、専門家から教えられた。
 13. 受刑者はなぜ、外部世界が聴くよりも前に政治報道を聴くのかを、理解した。
 14. 刑務所(と収容所)の「風聞(grapevine)」は決して「風聞」にすぎないのではない、と気づいた。
 15. 人は怒りを糧として生きることができる、と悟った。
 16. 人は無関心を糧として生きることができる、と悟った。
 17. なぜ人々は希望によって生きないかを、理解した。—希望は全くない。また、なぜ自由(free)な意思によっては生き残ることができないかも。—どんな自由な意思があるのか?
 人々は本能により、自己保存の感情により、木や石や獣と同じ基盤の上で、生きる。
 18. 1937年に最初に正しく、私の自由(freedom)により他人の死に導くことができるなら、私の自由が私自身のような受刑者である他の人々を抑圧することで監督者に奉仕しなければならないなら、決して職場長にならないと決めたことを、私は誇りに思っている。
 19. 私の肉体的強さと精神的強さはいずれも、この大実験で想定していた以上に強いことが判明した。
 誰をも売らなかった、誰をも死刑またはその他の判決へと追いやらなかった、そしてだれをも告発しなかった、ということを誇りに思う。
 20. 1955年まで公式の請願書を書かなかったことを、誇りに思う。
 21. 私は、いわゆるベリア恩赦が行われたところを見た。見るに値する光景だった。
 22. 女性の方が男性よりも慎み深く自己犠牲的だ、と知った。コルィマでは、妻に従う夫の事例はなかった。しかし、妻たちの多くは、やって来た(Krivoshei の妻のFaina Rabinovich)。
 23.「夫と妻を合法化する」手紙を携行する等の、北方の素晴らしい家族(自由契約労働者と従前の受刑者)を見た。
 24. 「最初のロックフェラー」、地下世界の百億長者たちを見た。私は彼らの告白を聞いた。
 25. 制裁労働をする人々を見た。「割当量」D、B等、「Berlag」の多数の人はもちろん。
 26. 大量のことを達成できる—移籍した病院の時間で—ことを悟った。だが、生命を危うくし、殴打をされ、氷の中の独居牢を耐え忍ぶことによってだ。
 27. 氷の中の、岩に刻まれた独房を見た。そこで私自身が一晩を過ごした。
 28. 権力への、意のままに人を殺すことができることへの熱情は、強い。—監督者の長から階層内にある監視員まで(Seroshapka と似たような男たち)。
 29. ロシア人の、非難し不満を告げることに駆りたたれる、統御できない気持ち。
 30. 世界は善良な人々と悪徳な人々に分けられるのではなく、群衆とそれ以外に分けられることに気づいた。
 群衆の95パーセントは、不愉快きわまること、死に直結することを、最も穏やかな脅迫があれば、行うことができる。
 31. 収容所は—その全てが—否定的な学校だと確信している。あなたは、堕落することなくして、その一つで一時間なりとも過ごすことはできない。
 収容所は誰にも何の積極的なものをも与えなかったし、与えることができない。
 収容所は全員を、受刑者と自由契約労働者のいずれをも同様に、堕落させることで運営される。
 32. どの地方にも、その地方の収容所があり、どの建設場所にもある。数百万人の、いや数千万人の受刑者がいる。
 33. 抑圧は社会の上位層にだけ向けられているのではなく、あらゆる階層に及んでいる。—どの村にも、どの工場にも、どの家族にも。全ての家族に、抑圧されている親戚か友人かがいる。
 34. 私の人生の最良の時期は、Butyrki 刑務所の小部屋で過ごした数ヶ月だったと思う。そこで私は何とかして弱い者の精神を鍛えた。また、そこでは誰もが自由に話した。
 35. 一日先の生活を「計画」することを学んだ。それ以上先ではない。
 36. 泥棒は人間ではない、と悟った。
 37. 収容所には犯罪者はいない、隣にいる人々は(また明日に隣人になるだろう人々は)法の範囲内にいて、法に抵触していない、と悟った。
 38. 何とも恐ろしきことは少年または若者の自己肯定心だ、と悟った。彼らにとって、頼むよりも盗む方がよい。
 そうした自己肯定と傲慢さは、少年たちを底辺に沈ませている。
 39. 私の人生で、女性は大きな意味を持たなかった。収容所がその理由だ。
 40. 教養ある人々は、役に立たない。なぜなら、どのようなならず者に対しても自分の態度を変更するのは、私にはできないからだ。
 41. 誰もが—監視兵であれ、仲間の受刑者であれ—嫌悪する人々は、ぐずぐずし、病気で弱い、気温がゼロ度以下のときは走ることのできない、党階階層の新入たちだ。
 42. 権力とはどういうもので、銃砲をもつ男がどういうものか、私は理解した。
 43. 規準は変わってくる、その変わりようは収容所の最も典型的なものだ、と私は理解した。
 44. 受刑者の生活条件から自由人のそれへと移ることはきわめて困難だ、長い償還期間なくしてはほとんど不可能だ、と理解した。
 45. 作家は叙述している問題については外国人でなければならない、そして、素材を十分に知っているならば誰も自分を理解できないだろうようなやり方で作家は執筆するのだろう、と理解した。」//
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 第2節、終わり。

2345/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文③。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ①・②で掲載した部分を「第1節」とし、以下を「第2節」とする。大きな区切りがあるためで、数字や表題は原書にはない。
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 第2節。
 (1)1988-89年にペレストロイカがしっかりと確立されると、Sirotinskaya はシャラモフの原稿を準備して—彼は能筆で、解読に問題はなかった—、それの出版に取りかかった。
 しかしながら、編集は加えらなかった。そして読者は、後半に主題、出来事、登場人物が何度も出てきていて、別々の章の中の名前に矛盾点や類似点すらあることに、気づくことになっただろう。
 それにもかかわらず、この作品のもつ容赦なき力強さは、ナツィとソヴィエトのいずれであれ、20世紀の恐怖の記録としてこの作品を独特なものにしている。著者は、自分の誤った判断を含めていかなる緩和または穏和化も拒否しており、見た光景であれ聞いた言葉であれ、類稀な記憶力を示していた。
 収容所で彼はたまには親切にされたにもかかわらず、そこには、慰安となるものはなく、神または人間性に対する信頼もない。
 ただ動物たちだけが、礼節をもって振る舞う。—仲間が逃げられるように狩人の銃弾を受ける雄熊やアトリ鳥、受刑者を信頼して監視兵に対して怒って唸るハスキー犬、あるいは、受刑者が魚を掴むのを助ける猫。//
 (2)作品がもつ芸術的な力はさて措き、シャラモフの物語は、衝撃的な証言書だ。
 多数の例のうちの一つは、1942年から1945年にかけて、アメリカの不動産業者がコルィマに、大量の墓所を掘り返すためにブルドーザーを、金鉱石を運ぶためにトラックを、奴隷たちが使う用に鋤とつるはしを、監視兵たち用に食糧と衣服を送った、というものだ。
 シャラモフの仲間の一人が述べるように、コルィマは、「オーヴンのないアウシュヴィッツ」だった。//
 (3)シャラモフは、何らかの形態で、共謀罪で訴追されることがあり得た。彼自身が、スターリン主義の継承者として、容赦なく残虐なことを犯した、内戦中の赤軍の英雄たちに対する敬愛の念を示していた。
 彼の長編の一つである<金メダル>は、社会革命党〔エスエル〕のテロリストのNadia Klimova を、ほとんど神格化している。
 シャラモフが被った苦しみにもかかわらず、彼は、理想に燃えて、自分の死をもって償う心構えで行なったものである場合は、革命の殺人者たちを決して非難しなかった。
 また、強制労働のシステムに協力する職を決して引き受けない、と公言したけれども、救急医療員にいったんなるや、<永久凍土>で彼が詳述しているように、彼が病院の床磨きに行くのを許さず、鉱山での重労働へと送り出した青年の自殺について責任を感じた。//
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 第2節がつづく。

2344/L・コワコフスキ「権力について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、および背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 この書物に、邦訳書はない。
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 第一章・権力について②。
 (9)我々はみな、この意味での権力を欲しがるというのは本当か?
 たしかに、我々はみな、我々が適切だと考えるように、つまりは我々に利益となるように、または我々の正義の感覚と合致するように、他の人々が行動するのを好むだろう。
 しかし、このことから、我々はみな国王でありたいと思っている、ということが導かれるわけではない。
 パスカルが言ったように、自分が国王ではないがゆえに不幸であるのは、王冠を剥奪された王様だけだ。//
 (10)権力は—つねにではないがしばしば—腐敗する、と我々は知っている。
 また、かなりの長期にわたって権力の実質的手段を享有してきた者たちがしばしば、君主たちがかつて神が与えた権利でもって統治していたように、権力に対して一種の自然的な権利をもっていると感じるに至る、ということも知っている。
 このような者たちがあれやこれやの理由で権力を失ったとき、その者たちは、その喪失はたんなる不運ではなく宇宙規模の大災難だと考える。
 そして結局は、我々が知るように、権力闘争が、戦争その他の世界を苦しめる厄災の主要な源泉になってきている。//
 (11)こうした権力と結びついた多数の悪が存在することは、自然に、子どもじみた多様な無政府主義的ユートピアを生み出す。これによると、世界の病悪に対する唯一の治療法は、権力をすっかり排除することだ。
 より極端な考え方では、「権力」は、最も広く理解されている。その結果として、例えば、子どもたちに対する親の権力は、まさにその本性において、可能なかぎりすみやかに廃棄されるべき恐るべき専制だと考えられている。
 この考え方からすると、例えば、我々が子どもたちに母国語を教えるとき、我々は恐るべきほどの専制的暴力を現実に行使していることになる。権力のおかげで、我々は子どもたちを支配しており、我々は力づくで子どもたちに我々の望みを押しつけ、そして子どもたちの自由(liberty)を剥奪しているのだ。
 このような考え方によれば、子どもたちを獣の状態に放任するのが最善なのだろう。そうすれば、子どもたちは、自分たち自身の言語、習慣や文化を発明することができる。//
 (12)しかしながら、無政府主義のうちのより馬鹿げてはいない考え方は、政治権力の廃棄を目標としている。
 この理論は、全ての政府、行政機関、法廷が消失するならば、人間は平和と友愛に充ちた自然状態で生きていくだろう、というものだ。
 幸いにも、無政府主義革命が起きるのは不可能だ。そうしようとたんに決定するだけならば、いつでも好感をもたれるとしても。
 無政府状態は、権力の全機構と全制度が崩壊し、制御する者が誰もいないときにのみ発生する。
 このような状態によるつぎの結果は、不可避だ。すなわち、絶対的権力を追い求める何らかの勢力(force)が独自に(そのような組織がないわけではない)、自分たちの専制的秩序を押しつけるために、あらゆる荒廃状態から利益を得ようとするだろう。
 このことの最も劇的な実例は、もちろん、ロシア革命だった。そのときにボルシェヴィキ体制は、一般的な無政府状態の結果として、権力を奪取した。
 無政府とは、実際には、専制のための小間使いだ。//
 (13)権力を廃棄することはできない。権力は、ある種の政府をつぎつぎと交代させることで、より良くなったり、より悪くなったりする。
 不幸なことだが、政治権力が廃棄されるときにのみ我々みんなは平和な友愛状態で生活するだろうと言うのは、正しくない。
 我々の利益を分岐させて相対立させるのは、偶然ではなく、人間の本性それ自体だ。
 我々全員が攻撃の手段をもち、我々の必要や願望には制限がない。
 ゆえに、政治権力の仕組みが奇跡のように消え失せるとすれば、その結果は普遍的な友愛ではなく普遍的な殺戮だろうということは、きわめて平易に分かることだ。//
 (14)言葉の字義どおりの意味としての「人民の政府」は、存在してこなかったし、これからも存在しないだろう。
 他のことをさて措いても、そのような政府は技術的に見て実現されないだろう。
 人々が政府が行なっていることを監視し続け、選択できるならば別の政府と置き換える、ということによる一定の安全装置は、存在し得る。
 もちろん、ある政府がいったん権力を手にすれば、我々は多様な規制に服し、多数の重要な分野で我々は選択できなくなる。
 我々は選ぶことができない。例えば、子どもたちを学校に通わせるべきか否か、税金を支払うべきか否か、自動車を運転したいときに運転試験を受けるべきか否か、等々。
 政府を監督するために人々は種々の統制手段を設定するが、それらは絶対的な頼りにはならない。
 民主主義的に選出された政府は、腐敗することもある。そして、その決定はしぱしば、多数派国民の意向とは反対だ。
 どんな政府も、全員を満足させることはできない。
 等々。これらは全て、我々がよく知っていることだ。
 人々が政府を統制するために行使できる手段は、決して完全なものではない。だが、人類が専制を回避するためにこれまでに考案してきた最も有効な方法は、まさに、政府に対する社会的統制の諸装置を強化し、政府の権力の範囲を社会秩序を維持するのに必要なぎりぎり最小限にまで限定することだ。すなわち、我々の生活の全領域の規整(regulation)を認めることは、結局は、全体主義権力について語られていることになる。//
 (15)さて、我々は政治権力の全ての機構に疑いをもって対処し、必要とあれば(つねに必要だろう)、それについて抗議することができる。いや、じつに、そうすべきだ。
 しかしながら、権力や権力諸装置の存在自体について不服を言ってはならない。我々は異なる世界を考案することができないとすれば。—誰か多くの者がこれを試みてきたが、誰として成功しなかった。//
 ——
 第一章・権力について、終わり。

2343/L・コワコフスキ「権力について」(1999)①。

  レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski。
 1927.10.23〜2009.07.17、満81歳で、Oxford で死去。
 この人の大著<マルクス主義の主要潮流>の英語版を試訳しようと思ったのは(結局半分以上の試訳を済ませたのは第3巻だけで、第2巻はレーニン以降だけ、第1巻はごく一部だけしか終わっていないが)、2017年の春だった。
 しかしただちに開始したのではなく、試訳してみる価値または意味がある(マルクス主義に関する)大著だ、という確信はなかった。
 そこで、この人のより短い文章を読んでみることとし、つぎの順で読んで試訳してみた(この欄に掲載済み)。
 ①「『左翼』の君へ」。これは8回を要して試訳を掲載した、このブログサイト上で勝手に付けたタイトルで、正確には、My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays(2012)。→No.1526以降。
 「(新)左翼」のEdward Thomson というイギリスの知識人を「解体」する作業をした文章だったと、Tony Judt はその2008年の文章で書いた。→No.1720。
 (ついでに、フランス等のヨーロッパ史を専門とするTony Judt によるL・コワコフスキ死後の追悼文は、哀惜感に溢れ、かつ学問的だ。→No.1843。
 ②「神は幸せか?」。Is God Happy ? (2006), in : Is God Happy ? -Selected Essays(2012)。これは2回の掲載で済んでいる。冒頭にシッダールタ(仏陀)が出てくる。最後にShakespeare, Hamlet からの引用があることが、試訳した当時は分からなかった。→No.1559以降。
 これらを読んでみて、この人の書物ならばたぶん大丈夫だろうとの感触、または確信めいたものを得た。
 とくに前者によってだっただろう、再確認しないが、<(試訳しながら)思考能力が試される気がした>という旨を記した憶えがある。
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  久しぶりに試訳しようとするL・コワコフスキの以下の書物は、上の二つを最初に読んだときに感じた、この人の文章、あるいは思考の仕方を、その大著その他以上に思い起こさせるもので、懐かしい気すらする。
 彼は最初から「エッセイ」と銘打っている。もちろん、自分の「思想」だとか「歴史哲学」だとは主張していないし、それらを示そうとする気持ちなど全くなかったに違いない。もちろん、この人がポーランド出身の傑出した thinker、Denker だと他者が称していることは別として。
 また、キリスト教を含めて相当の「知識」・「教養」を持っているはずだが、それらを特にひらけかすという<衒学>趣味も感じられない。
 もちろん文章構成の技術・能力をもつのだろうが、この人がニーチェに強く感じているらしい余計な<レトリック>、あるいは<美文趣味>はないだろう。
 内容が簡単だ、というのではない。そうではなく、(実娘のAgnieszka Kolakowska による英語訳書なのだが)この人が用いる概念にある程度は困惑しつつ注目し、提示される「論理」に、ある程度は困惑しつつゆっくりと浸ることができそうなのは、なかなか幸せな感じがする。
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 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski。
 自由、名声、 嘘つき、および背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれていて、全ての表題が「〜について」となっている。
 もちろん(?)、邦訳書はない。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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 第一章・権力(power)について①。
 (1)イギリスの前の財務大臣は、首相になりたいかとのテレビ・インタビューを受けて、やや驚いて、誰でもきっと首相になりたい、と答えた。
 これは私には、かなり驚いたことだった。というのは、私は、誰もが首相になりたいとは決して考えていないと確信しているからだ。
 反対に、きっと大多数の人々はそのような夢を決して思い浮かべない、と考えている。そのような野望を実現できる可能性は微少だと感じているからではなく、しなければならない仕事は恐るべきものに違いないとたんに考えているからだ、と思っている。
 絶え間ない頭痛、莫大な責任。そして、何をしようとも永遠に批判と嘲弄の対象になることを知っている。また、 最悪の意図の責任を負わされることになるだろう。//
 (2)さて、「誰もが権力を欲しがる」というのは本当か?
 答えは、この言葉をどれだけ広く理解するかによる。
 最も広い意味では、「権力」(power)とは、人間であれ自然であれ、我々を取り囲むものに対して望んだ方向へと影響を与えることを認めるものの全てだ。
 これを行なったときには、我々は周囲のものを「支配(master)」したと言われる。
 子どものときに最初の一歩を進んだり、初めて自分で立ち上がったとき、見ても明らかにこれらを愉しんでいるのだが、その子どもは、自分の身体に対する、ある程度の権力を獲得する。
 そして、一般に、身体や、制御することのできる筋肉、関節のような身体の一部を支配しないよりは支配することを我々はみな好む、というのは正しい(true)だろう。
 同様に、新しい言語、あるいはチェス、あるいは水泳、あるいは我々には新しい数学の一分野を学ぶとき、我々は、文化の新しい領域を「支配」することのできる技巧を獲得している。//
 (3)「権力」のこのような広義での理解は、人間の諸活動は全て、多様な形態での権力を得たいという望みによって動かされている、と結論づける理論の基盤になってきた。
 この理論によると、全ての我々の努力は、人間の活力の源泉である権力を渇望していることの別表現にすぎない。
 人々は、富は事物のみならず一定の(しばしば相当の)範囲で人々を支配する権力を与えてくれるがゆえに、富を追い求める。
 性行為(sex)すらも、権力という観点から説明できるかもしれない。我々は他の者の肉体を、それを通じて現実の人間を、所有したいと欲するのか、それとも、それを所有することで他人が所有するのを排除していると考えるか、のいずれであっても。
 いずれかの考え方をして、我々は、誰か別の者に対する権力を行使しているという感情を得て、満足する。
 もちろん性行為は、人間以前の自然の創造物の一つだ。
 そして、この理論によると、権力を望むのは自然世界の至るところにある本能だ。人間社会で我々が、文化的に影響されたどのような形態を採用しているとしても。//
 (4)少し考えれば、利他感情(altrueism)を、権力の観点から説明することすら可能だ。つまり、他人に対して親切であるとき、意識していようといまいと、他人の生活を支配する手段を行使したいとの望みが動機となっている。親切という我々の行為は、他人を部分的には我々の権力のもとにおいているのだから。
 権力の追求を動機としないような領域は、我々の生活にはない。
 他には何も存在しない。別の言い方をすれば、自己欺瞞だ。
 この理論は、このようになる。//
 (5)この種の理論は、表面的にはもっともらしくとも、実際には、ほとんど何も説明していない。
 人間の行動全てを動機という単一の観点から説明しようとする、または社会生活の全ては動機づけをする単一の力によつて動かされていると主張する、そのようなどんな理論も、擁護することはできない。
 しかしながら、まさにこのことが、この種の理論全てが究極的には哲学的な心象(constructs)であって、そのゆえにほとんど役に立たないことを、示している。
 例えば、人々の動機は仲間のために自分を犠牲にしようと彼らを苦しめようと同じだ、と言うことは、我々を前方に連れていきはしない。我々がそのような行為について判断を加えたり、ましてやこれらを区別して弁別する、そのために有効な原理的考え方は存在しない、つまり、どんなに異なって見えようとも、本質は全く同じだ、と言うまでに至るだろうからだ。
 しかしながら、このような理論は、使い途がある。というのは、誰かが、他のみんなは心の底では本当は不誠実だと自分に言い聞かせることができれば、冒した過ちはその者の良心には大した負担に全くならないだろうから。//
 (6)キリスト教思想の一定の潮流は、今日では廃れていてもかつては有力だったのだが、似たような気持ちを我々に生じさせ得るものだった。すなわち、神聖な上品さ(divine grace)がなければ、何をしようとも、必ず悪を行うことになると我々が言われるとき、必ずや善だけを行うことになるのだとしても、我々が仲間を助けるのかそれとも苦しめるのかは、ほとんど重要ではないことになる。
 神聖な上品さがなければ、いずれであっても我々は地獄へと放逐されることになるはずだ。
 このことが、全ての異教徒の運命であってきた。しかしながら、気高い(noble)。//
 (7)このような理論の支持者はつねに、全てのドアを開けることのできる単一のマスター・キーを追い求めている。
 しかし、全てのことを十分に満足させる説明のごときものは、存在しない。そのようなキーはない。
 文化は、人々が異なる事物によって喚起され、新しい必要(欲求、needs)に動機づけられるがゆえに、発展し、成長する。古い必要は人々の従前の役割への依存を流し去り、文化の自律神経的(autonomous)部分になる。//
 (8)我々の行動の全ては本質的には権力への渇望によって動かされていると主張する理論は、無邪気なもので、ほとんど説明する価値をもたない。一方で、それにもかかわらず、権力それ自体は、追求するにきわめて値する善であるままだ。
 我々が権力について語るとき、一般に、すでに述べてきたようなものよりも狭い意味で用いようと考えている。つまり、個々人や社会全体が他人に影響を与え、彼らの行為を制御するために、有形力(force)を用いて、または有形力を行使すると威嚇して、利用することのできる手段として理解する。
 この意味での権力は、ある程度は組織された、強制(coercion)という手段を必要とする。そして、現今では、これは国家を意味する。//
 ——
 ②へとつづく。第一章は②で終わり。
 **

2342/思い出す人々①—団まりな。

 団まりな(本姓・惣川)に最初に逢ったのは、このブログを始めるよりもかなり前だった。敬称省略。
 亡くなっていることを知ったのは2019年11月に彼女の書物に言及する際で、ネット上でだった。団(惣川)まりな、1940年-2014年。享年75。
 死亡の原因等は私には分からない。
 ——
 ある所に入っていくと、先に私を認識したらしい彼女が少し近づいてきて、「惣川です」との挨拶を受けた。
 そのときの微笑み方はずっと変わらなかったように思う。
 ネット上で写真を探していたら、若いときの茂木健一郎と並んで立っている写真があった。その写真よりもずっと穏やかで優しい印象が(私には)あった。
 →No.2080。 →No.2083。
 別のある人が、三井・団一族だ(その血をひいている)、ハーフかクォーターだと言っていたので記憶にとどめたが、これらをとくに意識することはなかった。
 あらためてネット上で確認すると、団琢磨の孫、団伊玖磨とは従兄妹の関係。父親は団勝磨、母親はジーンといったらしい。いわゆるハーフだった。
 両親が日本人だとして、何ら疑わなかっただろう。日本で生まれ、育ったからでもあるに違いない。あの微笑みも、優しい日本女性と何ら変わりなかった。むしろ、より誠実そうだったかもしれない。
 但し、よく思い出すと、眼(眼球)の色が両親を日本人とする人と少し違っていたかもしれない(彼女も日本人だったのだから、奇妙な表現だが)。
 家庭のこと、(惣川という)夫のこと等は全く知らなかった。話題にもならなかった。
 上記の二点も、特段に意識したことは全くなかった。眼の色などは全く。
 千葉県を旅行していたとき、明確に、この辺りに「惣川先生」は住んでおられるのだなあ、と意識したことがある。
 おそらく最初に貰った年賀状に、千葉県のその住所が書かれていた。少し調べて思い返してみると、彼女の存命中に、付近の国道か県道をバスで通過している。
 たぶん最後の年賀状だったのだろうか、全ての手紙・ハガキ類を「生前整理」で処分しているので手元にないが、かなり長く残していた10数枚のうちの一つが彼女の年賀状だった。
 今年になってから廃棄したそれには(こんな文章を書く予定はそのときはなかった)、「〜たちは、〜です。ふぅ。」と余白に手書きで書かれていた。
 「〜」を正確に思い出せないが、意味は分かった。今でも、おおよそは分かる。
 「ふぅ。」という言い方も、彼女らしいと思える。
 いい人で、優しい人だった(私には)。当方の不十分さ、至らなさをむしろ思い出すこともある。
 別のある所で5-6人で食事したとき、私の正面に座っておられたのが「惣川先生」だったと思い出す。きっとあのときが、最後に逢ったときだった。やはり、微笑んでおられた。
 あの人のことだから、<細胞には意思がある>という表現の仕方も、私には(他の一般読者よりも少しは)よく分かるのだ。
 みんな、いずれ死んでいく。いい人も、必ずしもそうではない人も。
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2341/山村恒年・行政法と合理的行政過程論(2006)。

 山村恒年・行政法と合理的行政過程論—行政裁量論の代替規範論—(慈学社出版、2006)。
 この著の目次の紹介。「細目次」もあって、後者の方が重要かもしれず、別に掲載する。
 本文計、580頁。事項索引・判例索引、計12頁(p.581-p.592)。
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 はじめに
 第1編/行政過程論の基本問題。
  第1章・行政過程論の意義と論争。
  第2章・行政過程論思考の枠組。
  第3章・行政過程の基本原理と規範論。
 第2編/行政過程における判断形成手法—行政裁量規範論。
  はじめに
  第1章・行政過程と行政調査手法。
  第2章・行政過程における評価の手法。
  第3章・行政過程とアカウンタビリティ。
  第4章・行政過程における参加と協働論。
 第3編/行政過程と司法審査。
  第1章・行政過程論と紛争解決の司法審査。
  第2章・鉄道立体交差都市計画事業と司法審査。
  第3章・圏央道あきる野IC事業認定·収用裁決事件。
  第4章・行政過程の住民訴訟と司法審査。
 補筆/小田急最高裁本案判決(第3編第2章)の補足。
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2340/古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く(2014)①。

 古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)
  古田博司が東洋思想畑の研究者らしく韓国あたりの諸問題について発言していたことは知っていたが、韓国問題についてはもうほとんど関心がなくなっていたこともあって、この人の書物を読むこともなかった(但し、何冊かは所持していた)。
 たぶん昨年あたりに入手した上掲書は、面白い(正確には、面白そうだ)。
 思い切り簡略化して(つまり一部を勝手に削除して)、目次の一部を(体系構成を)紹介すると、こうなる。
 プロローグ/「向こう側の哲学」。
 第一部/「向こう側」をめぐる西洋哲学史。
  第一章・バークリ、第二章・フッサール、第三章・ハイデッガー、第四章・ニーチェ、第五章・デリダ。
 第二部/「向こう側」と「あの世」
  第六章・時間論、第七章・「生かされる生」、第八章・「あの世」と「向こう側」。以上。
 興味深いのは、たぶん「哲学」の基本問題に関係していることだ。それも、ある前提または枠の中で「認識」や「存在」を論じる、その態様の違いではなく、認識・知覚といったものの対象という前提そのものについて、「西洋」・「東洋」・「日本」には違いがある、と指摘していることだ(これをふまえて、バークリからデリダまでの叙述がある)。
 そうだとすると、日本人(または「日本」的思考・認識方法に馴染んだ者)がこの相違に気がつかないで「西洋哲学」に接近しても、根本的なところはほとんど何も理解できないことになるだろう。
 ——
  古田によると、「思考様式」には西洋・日本・東洋の三パターンがある。
 そのまた前提に古田がしているのは、ヒト・人間の「五感」(眼耳鼻舌身・ゲンニビゼッシン)による知覚・認識、ということだろう。問題は、それらと<外界>の関係だ。
 図表らしきものが付いているが、言葉で表現するとやや面倒になる。
 ①「すべて」を「この世」として対象とするのが、日本を除く「東洋」(単細胞型)。
 「あの世」のない儒教的世界観・「この世一元論」だ。
 ②日本は「この世」と「異界」を区別する(単純型)。
 「異界」にはギリギリまで接近するしかない。異界=「向こう側」を「探求」することはできず、「地道で職人的」に「接近」するしかない。
 ③ 西洋では、日本での「異界」の一部は「向こう側」であっても「この世」に属する。この「向こう側」は「この世にありながら見えない世界、我々の五感でとらえることのできない世界」だが、「直観や超越」でもってそれを「とらえ」ようとする(複雑型)。「直観」と「超越」の違いは省略。なお、「この世」に含まれる「向こう側」の奥に?日本では「異界」の一部である「神域」がある。
 「職人芸」によって「接近」するだけか、それとも何とかして「とらえる」のか。ここに日本と西洋の違いがあるようだ。
 そして、まだきちんと読んでいないが、この「とらえ」ようとする試行錯誤が、<西洋哲学史>だ、ということになるのだろう。
 ——
  哲学は森羅万象を対象とするとか、森羅万象の「万物」とかというが、視神経等によっては「見えない」世界(宇宙の深遠から体内のウイルス、電子・光子まで)、死後の世界、生前の世界(あるいは「歴史」)まで、哲学には、あるいはヒト・人間の「思考」には、ひょっとすれば、普遍的なものはなく、あるいは普遍的なものがあっても全部についてそうではなく、大まかには西洋・東洋(・日本)といった違いがあるのかもしれない。
 インドやイスラム世界を含めると、どうなるのだろうか。
 古田の上のような基本的主張・前提も、突っ込もうとすれば、ツッコミ所は多いだろう。
 しかし、「西洋哲学」を逍遥・渉猟して少なくともある程度は理解しているらしきことも含めて、古田には理性的・知性的な(あるいは「学者」らしい)<追求>の姿勢があると見られる。
 この点は、月刊正論(産経新聞社)の執筆者だとしても、渡部昇三、櫻井よしこらとは大きく異なるように見える。
 また、明らかに、西尾幹二よりも、はるかに深いところでの「思考」をしている、と見られる。
 ——
  西尾幹二は、「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見える」と書いた(同・歴史の真贋(新潮社、2020))。
 「哲・史・文」の僅か三つだけでは「見えない」し、かつ西尾における「哲・史・文」はいずれも中途半端・表面だけ、ということはすでに書いた。問題は、そんなことよりも(これらも重要だが)、「外の世界の全体を見る」と西尾が記すときに、この人はその意味するところをどの程度深く「思考」したことがあるのか、だ。
 「外界を認識する」と書くことは簡単だが、自分の「外界」の中に、自分の手・足等は入るのか、自分の脳細胞は入るのか、といった問題がある。
 「認識」(見る)主体である自分=「私」とは何か、という問題もある。
 シロウトの秋月瑛二でも知っているような問題を、西尾幹二は思考したことすらないのではなかろうか。根本原因はおそらく、西尾における「自己」の異常肥大、「私」の絶対視にある。ずいぶんと日本的に?、「真実」などよりも絶対的に「私」が重要なのだ。
 これに比べれば、古田博司はずいぶんと冷静だし、深く物事を考えている。物事を、「言葉」の問題に、あるいは「解釈」の仕方だけに、矮小化することはないように(今のところは)感じられる。

2339/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑧。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.784-5。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑧。
 (21)ロシアの偉大な二人の詩人、Alexander Blok とNikolai Gumilev が死んだことは、Gorky にとって最後のとどめになった。
 Blok は、1920年にリューマチ熱に襲われた。それは、暖房のない居所と飢えの中で内戦を経験した結果だった。
 しかし、彼の本当の苦悩は、革命の結果についての絶望と幻滅だった。
 彼は最初は、腐敗した旧ヨーロッパ世界を浄化するものとして、革命のもつ破壊的暴力を歓迎した。腐った旧世界から、新しく純粋なアジア的世界—the Scythians—が出現するだろう、と。
 彼の1918年の叙事詩<十二>は、旧世界を壊して新世界を創ろうと、前の見えない吹雪をくぐり抜けて「革命と足並みをそろえて」行進する12人の赤衛隊員を描写していた。
 先頭には、白薔薇で縁取られた赤旗を掲げ、雪上を軽やかに歩む、イエス・キリストがいた。
 Blok はのちにこう記した。この劇的な詩を作っている間、「私は大きな物音を周りに聞きつづけた。—文字通り、私の耳で聞いたことを意味する。多数の音からなる物音をだ(たぶん旧世界が粉々に崩れていく物音だった)」。
 Blok はしばらくの間は、ボルシェヴィキのメシア的性格を信じつづけた。
 しかし、1921年までには、幻滅するに至った。
 三年間、詩作をしなかった。
 親友であるGorky は、彼を「迷子」に喩えた。
 Blok は、Gorky に死に関する質問をして閉口させ、「人間の叡智への信頼」を全て捨て去った、と言った。
 Kornei Chukovsky は、1921年5月の詩作朗読会でのBlok の様子を、こう思い出す。
 「私は彼と一緒に、舞台裏に座っていた。
 舞台上で『弁士』か誰かが…聴衆に向かって、陽気に叫んだ、詩人としてのBlok はもう死んでいる、と。…
 彼は私に寄りかかって、言った。『本当だ。彼は真実を語っている。私は死んでいる』」。 
 Chukovsky が、なぜあれから詩を書かなかったのかと訊ねたとき、彼はこう答えた。「全ての音が止まった。きみは、もはやどんな音もないことを知らないのか?」
 その月に、Blok は死の床に就いた。
 彼の医師は、外国に運んで特別の療養所に入れる必要があると強く主張した。
 5月29日にGorky は、彼に代わってLunacharsky に手紙を書いた。
 「Blok は、ロシアの現存する最も優れた詩人だ。
 彼が外国に行くのをきみが禁止するならば、彼は死ぬ。そして、きみとその仲間たちには、彼の死についての責任があるだろう。」
 数週の間、Gorky は、旅券の発行を懇願しつづけた。
 Lunacharsky は同意して、7月11日に、党中央委員会に書き送った。
 しかし、何もなされなかった。
 そしてようやく8月10日に、旅券が下りた。
 一日遅かった。一夜前に、詩人は死んでいた。(*18)//
 (22)Blok が絶望と遺棄によって死んだとすれば、わずか2週間後のGumilev の死の原因は、はるかに分かりやすいものだった。 
 Gumilev はペトログラード・チェカに逮捕され、数日間拘禁され、そして、審判なくして射殺された。
 彼は、君主主義者の陰謀に加担したとして訴追されていた。—彼は情緒的には君主主義だったけれども、ほとんど確実に虚偽の嫌疑。
 Blok の葬儀の際に形成された知識人の一委員会は、彼の釈放を訴えた。
 科学アカデミーは、審判法廷に彼が出頭するのを保証すると申し出た。
 Gorky は間に入って、レーニンと会いにモスクワへと急いで行くよう求められた。
 しかし、釈放せよとの命令書を持ってGorky がペテログラードに帰る前に、Gumilev はすでに射殺されていた。
 Gorky は動転して、せきをして吐血した。
 Zamyatin は、「Gumilev が射殺された夜ほどに怒って」いた彼を見たことがなかった、と語った。(*19)//
 (23)Gumilev は、ボルシェヴィキによって処刑された最初の著名なロシアの詩人となった。
 彼とBlok の二人の死は、Gorky にとって、そして知識人層全体にとって、革命の死を象徴していた。
 数百の人々が—Zamyatin の言葉では「ペテログラードの著作界に残っていた全員」が—、Blok の葬儀に参列した。
 そのとき少女にすぎなかったNina Berberowa は、思い出す。Blok の死が伝えられたとき、「一度も経験したことがなかった、自分が突如として明瞭に孤児になった、…最後がやって来た、喪失した」という感情に襲われた、と。
 Gumilev の最初の妻だったAnna Akhmatova は、Blok の葬儀の際に、詩人のためばかりではなく、一つの時代の理想のために、同じように死を悼んだ。
 「銀色の棺に入れて、彼を運ぶ。
  Alexander、われわれの純真な白鳥よ。
  私たちの太陽が、苦悩のうちに消え失せた。」(*20)/
 二ヶ月のち、自分の病気に苦しみながら、Gorky はロシアを去った。見たところでは、永遠に。//
 ——
 第一節⑧、そして第一節全体が終わり。

2338/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑦。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.782-4。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑦。
 (18)Nina Berberova によると、Gorky がヨーロッパに来たのは、ロシアで起きたことに怒ったのが原因ではなく、彼がロシアで見て体験したことで深く動揺したからだった。
 彼女は、夫である詩人のKhodasevichとGorky が交わした会話を、こう思い出す。
 「二人は1920年(の異なるとき)に、子どもたちの家へ、たぶん十代前半者用の矯正施設へ行った。
 ほとんんどが12歳から15歳の少女で、梅毒に感染しており、自分の家がなかった。
 10人のうち9人は窃盗者で、半分は妊娠していた。 
 Khodasevich は、…憐憫と嫌悪をもって思い出していた。ぼろ布とシラミの少女たちが自分にまとわりつき、階段で自分の服を脱がそうとし、彼女たちの破れたスカートを頭の上にまでまくり上げて、自分に向かって卑猥な言葉を叫んだ、と。
 彼はやっとのことで、彼女たちから引き離れた。
 Gorky も類似の体験をしていた。彼がそれを語り始めたとき、恐怖が彼の顔に現れ、彼は顎をしっかりと握って、突然に黙り込んだ。
 その施設の訪問が彼に衝撃を与えたことは明瞭だった。—おそらく、その前に受けていた浮浪児の印象以上のもので、彼の初期の作品が主題を得ていた奥深い所での恐怖だった。
 おそらくいまヨーロッパで、彼はそれを受け入れるのを怖れている心の傷を、ある程度は癒している。…彼は自分に訊ねている、自分自身だけに。すなわち、意味があったのか?」/
 Gorky は、自分自身が革命の孤児だった。
 革命への彼の希望の全ては—自分が立場を明確にしていた希望は—、この4年間に捨て去られた。
 建設的な文化の力が生まれるのではなく、革命は、ロシアの文明全体を事実上破壊した。
 人間を自由にしたのではなく、革命は人間の隷従化をもたらしたにすぎなかった。
 人間を精神的に改革したのではなく、革命は精神的な退廃を生み出した。
 Gorky は、深く幻滅するようになった。
 彼は1921年に、自分について「厭世的だ」と叙述した。
 彼は、レーニンのロシアの現実と、自分の人間中心主義的で民主主義的な社会主義とを調和させることができなかった。
 善をなし、改良していくという望みをもって、体制のしくじりに「聴こえない耳を向ける」ということは、もはやできなかった。
 彼の努力は全て、無に帰した。
 自分の理想がロシアで捨て去られたとすれば、彼に残されたのは、ロシアを捨て去ること以外になかった。(*15)//
 (19)ロシアを出て国外に移住しようとGorky が決心する前には、山のようなボルシェヴィキとの対立があった。
 過去4年間の愚かなテロル、知識人の破壊、メンシェヴィキとエスエルに対する迫害、クロンシュタット反乱の粉砕、飢饉に対するボルシェヴィキの冷酷な態度。—これら全てが、Gorky を新体制に対する痛烈な敵に変えた。
 Gorky の憤怒の多くは、自分が住むペテログラードの党指導者であるジノヴィエフに向けられた。
 ジノヴィエフはGorky を好まず、彼の住まいを「反革命の巣」と見ていた。そして、彼を継続的な監視のもとに置いた。Gorky の手紙類は開封され、彼の家は絶えず捜索された。また、彼の親しい友人たちは逮捕すると脅かされた。
 赤色テロルの時期のGorky の最も激しい怒りの手紙は、ジノヴィエフに宛てられていた。
 彼はその一つで、ジノヴィエフが絶えず逮捕していることで、「人々はソヴィエト権力のみならず、—とくに—個人としてのきみを憎悪するようになってきた」、と主張した。
 だが、ジノヴィエフの背後にはレーニン自身が立っていることが、すみやかに明瞭になった。
 ボルシェヴィキ指導者は、Gorky の非難に関して手厳しかった。
 1919年7月の脅迫的手紙で、彼〔レーニン〕は、こう書いた。「作家の『精神状態』の全体が、ペトログラードで彼を『取り囲んでいる』『敵愾心をもつブルジョア知識人たち』によって『完全な病気』になっている」。
 レーニンはこう威嚇した。「私の助言をきみに押しつけたくはない。だが、きみの環境を、きみの周り、きみの住まい、きみの職業を、すみやかに変えよ、さもないと人生はきみを永遠に失望させるだろう、と言わざるをえない」。(*16)//
 (20)Gorky のレーニンに対する幻滅は、1920年の間に深さを増した。
 ボルシェヴィキ指導者はGorky の出版所の<世界文学>編集の独立性に反対し、財政的支援を打ち切ると脅かした。
 Gorky は、Lunacharsky に激しく抗議した。
 彼は正しく、レーニンは全ての出版を国家の統制のもとに置こうとしているのではないかと疑っていた。—彼がひどく嫌悪したこと。そして、進行中の企画を続ける唯一の方法は外国で編集を行うことだと主張(または威嚇)した。
 しかし、容赦ないレーニンの監視が続いて、人民委員〔Lunacharsky〕はほとんど何もすることができなかった。
 Gorky の戯曲<Don Quixote>で、Lunacharskyは、彼自身(Don Baltazar)、Gorky(Don Quixote)とレーニン(Don Rodrigo)の間の三人の確執関係を演じた。
 これには、Don Baltazar のDon Quixote に対する別れの言葉がある。
 Gorky とレーニンの間の衝突を要約してもいる。—革命の理想と残酷な「必然性」との間の衝突。/
 「背後にある陰謀を打ち破っていなければ、我々は軍を破滅させていただろう。
 おお、ドン・キホーテよ!! おまえの罪を重くするのを望んでいない。だがここで、おまえは致命的な役割を果たした。
 つぎのことを隠そうとは思わない。容赦なきRodrigo の脳裡に、でしゃばって出てきて、厳格かつ複雑で責任で充ち溢れた生活の中に人類愛を持ち込む全てのお人好しに対する教訓として、おまえの上に威嚇の法の手を振りおろす、という考えが浮かんだのだ。」(*17)//
 ——
 ⑧へとつづく。

2337/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑥。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.781-2。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑥。
 (15)革命の孤児たちは、彼らが失った幼年時代のおぞましい風刺画だった。
 路上で生き残る闘いをするため、彼らはやむなく成人のように生活した。
 彼らには独自の用語群、社会集団、道徳規準があった。
 子どもたちは12歳ほどの若さで「結婚し」、自分たちの子どもをもった。
 彼らは積年のアルコール、ヘロインまたはコカインの中毒者だった。
 乞食、密売、小さな犯罪や売春は、彼らが生き残る手段だった。
 彼らは駅に蠅のように群がり、列車から投げ捨てられる食料の切れ端をめがけて突進した。
 多くの子ども乞食は、公衆の前で自らを苛み、辱めて、僅かばかりの褒美を得た。
 Omsk 駅に住んでいたある少年は、5コペイカを貰えるならば自分の糞便を顔に塗りつけたものだ。
 彼らと犯罪者の地下世界の間には、緊密な関係があった。
 子ども暴力団は市場の屋台から盗み、歩行者を襲い、人々のポケットから掏摸をし、店舗や家屋に侵入した。
 捕まえられた者たちは、孤児たちにほとんど同情していない公衆に路上で殴られそうになった。だが、こうしても、彼らの行為をやめさせられなかっただろう。
 市場広場でのつぎのような光景が、ある観察者によって目撃されている。/
 「私は、およそ10歳から12歳くらいの少年が、鞭で打たれながら、手を伸ばして、すでに汚れまみれの一枚のパンを欲しがってがつがつと口の中に詰め込んでいるのを見た。
 背中が、止むことなく打たれた。しかし、その少年は四つん這いになって、パンをなくさないように、急いで一欠片ずつ噛みちぎり続けた。
 これは、パン売場の行列のそばで起きたことだった。
 大人たち—女性—が周りに集まって、叫んだ。
 『悪党そのものだ。もっと、鞭を打て!! こんなシラミがいては安心できない。』」/
 このような孤児たちのほとんど全員は、簡略に売春行為を行なっていた。
 1920年の調査では、少女たちの88パーセントが一時的には売春行為に従事しており、一方、少年たちの中でも同様の数字が出ていた。
 少女の中には、7歳という幼い者もいた。
 性的行為のほとんどは、路上、市場広場、駅のホール、公園で行われた。
 少女たちには、<ひも>がいた。—彼ら自体が通常は10歳代の少年にすぎなかった。そしてしばしば、客から物品を強奪するために少女たちを利用した。
 しかし、いわゆる「おばちゃん」が経営する小児愛的売春宿もあった。彼女たちは子供に食べ物と部屋の一角を提供した。働かせて、その稼ぎで生計を立てた。
 数百万の子どもたちにとっては、これはかつて得たことのない母親的な世話を受ける、親密な事柄だった。//
 (16)1920年4月、Gorky はレーニンに、「すでに3回の殺人を犯した12歳の子どもたちがいる」と書き送った。
 かつて彼自身が路上の孤児だったが、Gorky は、「未成年者の非行」と闘った最初の一人だった。
 その年の夏、彼はその問題に取り組む特別委員会を設置し、居住区画を与えて子どもたちを守り、彼らに読み書きを教えた。
 Kuskova とKorolenko によって1919年に設立された青少年救済同盟も、同様の活動を行った。
 しかし、全部で50万箇所しかなく、路上には700万の孤児がいたので、そうしたことは、問題の表面を引っ掻くことができたにすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、1918年の自分たちが宣言した原理では「子ども用の法廷や刑務所はあってはならない」とあったにもかかわらず、ますます刑罰による対処へと移っていった。
 刑務所や労働収容所には数千人の子どもたちがいた。その多くは刑事上の責任能力のある14歳以下の者たちだった。
 この問題を処理するもう一つの方法は、工場が低賃金労働者として子どもたちを雇用するのを認めることだった。
 数千人の労働者が解雇された内戦時ですら、青少年の雇用が増大していた。そうして雇用された者の中には、とくに搾取的実務が消え去っていない小さな工場には、6歳の子どももいた。
 青少年については6時間に労働時間を制限し、雇用者に2時間の教育を義務づけるべきだ、という広範な呼びかけにもかかわらず、当局は介入しないことを選び、「路上での犯罪で生活させるよりは、働かせる方がよい」と主張した。その結果として、未成年者の多くが毎日12時間ないし14時間働くこととなった。(*14)//
 (17)子どもたちは、立派な兵士になった。
 赤軍の中には、多数の十歳代の若者がいた。
 物心ついてからの人生全てを戦争と革命の暴力に包まれて過ごしてきたため、彼らの多くは、間違いなく、人を殺すのはふつうの生活の一部だと考えるようになっていた。
 この小さな兵士たちは、言われたとおりに行う気持ちをもつ、という点が顕著だった。—上官たちはしばしば威厳ある父親の役割を果たした。また、とくに両親の殺害者に対して復讐をしていると信じるに至ったときには、敵を容赦なく殺戮する能力をもつ、という点についても。
 皮肉なことだが、路上でそのまま生活していただろうときよりも、この子どもたちは、軍の中にいる方がはるかに恵まれていた。—軍は彼らを自分の子どものように扱い、衣服、食べ物を与え、読み方を教えすらした。
 ——
 ⑦へとつづく。

2336/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.779-p.781。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑤。
 (13)活動が最もさかんだった1922年夏頃まで、ARAは毎日1000万人の人々に食事を供給した。 
 ARAはまた、医薬品、衣料、道具、種子を大量に送った。この活動によって、1922年と1923年の連続した大豊作が可能になり、ロシアはやっと飢饉から脱することができた。
 ARAが使った全費用は、6100万ドルだった。
 この援助を受けたボルシェヴィキには、感謝の気持ちが驚くべきほどになかった。そのような寛大な贈り物に対して、恥ずかしくも難癖がつけられてはならなかったにもかかわらず。
 ボルシェヴィキはARAを、スパイ行為をした、ソヴィエト体制の評判を落とし、打倒しようとしたと非難した。(+)
 (+原書注記—Hoover の動機は完全には明瞭でない。彼は実際には、ソヴィエト体制に対する敵愾心を強くして、外交的効果とロシアでの政治的影響を狙って飢饉救済を利用しようとしたのかもしれない。しかし、Hoover の側にある純粋に人道的な関心を否定することはできない。また、ボルシェヴィキによる非難に値するものでもない。Weissmam,<Herbert>第2章を見よ。)
 ボルシェヴィキはまた、運搬車を捜索し、列車を利用させず、供給物を奪い、さらには救援労働者たちを逮捕すらして、ARAの活動を妨害した。
 Hoover が提示していた二条件—干渉されない自由とアメリカ人全員の牢獄からの解放—は、こうしていずれも、厚かましくもボルシェヴィキによって破られた。
 さらにアメリカで憤激が起きたのは、西側からの食糧援助を受け取っていたのと同時に、ソヴィエト政府は、数百万トンの自分たちが持つ穀物を、外国に売るために輸出していることが明らかになったときだった。
 ソヴィエト政府は、質問されて、外国から工業用および農業用備品を購入するためには輸出が必要だと主張した。
 しかし、この醜聞によって、ARAはロシアで追加のアメリカ合衆国基金を募るのは不可能になり、1923年6月に、その活動を停止した。(*11)//
 (14)Gorky にとって、ソヴィエト政府が飢饉を処理したやり方は、恥ずかしい、かつ同時に当惑させるものだった。
 これが大きな要因となって、彼はロシアを去ろうと決心した。
 飢饉の最悪の事態が過ぎたとき、ボルシェヴィキは、アメリカ人に対して形式的な謝意を示す短い文書を送った。
 しかし、Gorky は、自分の謝意をもっと大っぴらに表現した。/
 「人間の苦悩の歴史の中で、ロシア人が体験している事態ほどに人間の魂にとって辛いものを、私は知らない。また、実際の人道主義の歴史の中で、大きさと寛容さの点であなた方が現実に成し遂げた援助と比較できるものを、私は思いつかない。
 あなた方の助けは、比類なく巨大な功績であり、最高の栄誉に値するものとして、歴史に残るだろう。それはあなた方が死から救った数百万のロシア人民の記憶に長くとどまり続けるだろう。
 アメリカの人々は、慈愛と憐れみを人類が大きく必要としているときに、人々の間に友愛の夢を蘇生させてくれた。」(*12)
 革命の最も悲しい遺産の一つは、全ての都市の路上に放浪していた、膨大な数の孤児たちだった。
 1922年頃、700万の子どもたちが、駅舎、放棄された家屋、建築現場、ごみ捨て場、地下室、下水溝その他の汚い穴蔵に、雑多に住んでいた。
 ぼろ布を着た裸足のこうした子どもたちの両親は、ともに死んでいたか、彼らを遺棄していた。この子どもたちは、ロシアの社会的な破壊の象徴だった。
 家庭すらが、破滅していた。//
 ——
 ⑥へとつづく。

2335/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.778-9。注記は箇所だけ記す。
 ——
 第一節・革命の孤児。
 (9)このような行為はたんに道徳の退廃か精神異常の兆候だ、と言うのはたやすい。
 しかし、人々を人肉喰いへと駆り立てたのは、しばしば哀れみの気持ちだった。
 自分の子どもたちがゆつくりと死んでいくのを見守るという激しい苦悩によって、人々は何でもすることができると思った。そして、そののような異常な環境のもとでは、正邪に関する規範的指針などはどうでもよいように思えた。
 実際にインタビューを受けたとき、人肉を食べた者は全く理性的に見え、しばしば彼らの行為を正当化する新しい道徳規準を作っていた。
 彼らの多くは、こう主張した。「土壌の虫けらたちの食料としてのみ」残っている彼らの肉体から、生きている魂はすでに分離しているのだから、彼らの肉を食べることは罪ではありえない、と。
 また、人肉は飢えている人々が食べれば容易に生き延びることができるもので、それを欲しがることは、いずれかの社会階層に特有なことではない、と。
 飢えた医師たちは、飢饉地域での長期間の救助の仕事のあとで、しばしば人肉を食べるという欲求に屈服した。そして彼らもまた、経験した中での最悪の部分は、人肉を求める「打ち克ち難い、かつ心地よくない切望感」だった、と述べた。(*7)//
 (10)1921年7月まで、ソヴィエト政府は飢饉が存在すること自体の承認を拒否していた。
 これは、大きな厄介事だった。
 1891年の危機のときと同じく、プレスは「飢饉」という言葉を用いることを禁止された。
 NEP〔ネップ。1921年3月党大会決定による『新経済政策』〕の導入後の田園地帯は順調だ、という報道が続いた。
 無視するという意図的政策は、ウクライナでより明確に公言された。そこで飢饉が起きているという噂は1921年秋までにはあったけれども、モスクワは翌年の夏まで、大量の穀物をヴォルガへと移出し続けた。
 もちろんこれは、飢えている地方から奪って、より飢えている別の地方に与えることだった。
 しかし、Robert Conquest が1930-32年の飢饉について説得的に論じているように、ボルシェヴィキ体制に反抗していることを理由としてモスクワはウクライナの農民に罰を与えようとした、ということだったかもしれない。(*8)//
 (11)1891年のように、公的団体や外国の団体が救援運動する余地はあった。
 Gorky は、先頭に立った。
 7月13日、彼は、『全ての誠実な人々へ』との訴えを発した。それは以下の文章で、のちに西側の諸新聞に掲載された。
 「Tolstoy、Dostoevsky、Mendeleev、Pavlov、Mussorgsky、Glinka その他の世界的に称賛される人々の国に、悲劇がやって来ている。
 人道的(humanitarian)な考えと感情を、—悲惨な戦争と敗者に対する勝者の無慈悲さによって、その社会的重要性への信頼はぐらついているが—こうした考えや感情の創造的な力への信頼を、 復活しなければならず、復活することができるとすれば、私は言いたい、ロシアの不幸は、人道主義の力を示すことのできる、またとない素晴らしい機会を提供している、と。
 私は全ての善良なヨーロッパとアメリカの人々に、ロシアの人々に対する援助を要請する。
 パンと医薬品を与えよ。
  Maxim Gorky」/
 Gorky は、その他の著名な人物たちのグループとともに、飢饉からの救済のための自発的団体を組織するのを許すよう、レーニンに訴えた。 
 その結果として7月21日に設立された飢餓援助全ロシア公共委員会、略してPomgol は、共産主義体制のもとで設置された、最初で最後の自立した公的団体だった。
 レーニンがこの組織の設立に同意したのは、一つはGolky に対する譲歩からであり、また一つは、外国からの援助を確保するためだった。
 73名のメンバーの中には、指導的的文化人(Gorky、Korolenko、Stanislavsky)、リベラル派政治家(Kishkin、Prokopovich、Kuskova)、帝制時代の大臣(N. N. Kutler)、老練の人民の意思主義者(Vera Figner)、著名な農学者(Chayanov、Krondatev)や工学者(P. I. Palchinsky)、医師、そしてトルストイ主義者、がいた。 
 トルストイの娘のTolstaya すらもいた。彼女は、この4年の間を、チェカの牢獄や労働収容所を入ったり出たりして過ごしていた。
 Pomgol は、1891年に国を救った公共精神を蘇生させようとした。すなわち、国内外の公衆に対して、救援運動に寄付をするよう訴えた。
 30年前に救援活動に参加したLvov 公は寄付金を集めて、パリのZemgor 組織を通じて食糧を送った(国外追放中でも、彼はzemstvo の仕事を継続していた)。
 ボルシェヴィキは、Pomgol が政治に介入しないように、カーメネフが率いる12人の有名な共産党員をそれに配属させた。
 レーニンは断固として、1891年の飢饉のときと同じような公的反対派を発生させてはならない、と考えていた。(*9)//
 (12)Gorky の訴えに応えて、Herbert Hoover〔1929-33年の米国大統領(共和党)—試訳者〕はロシアに、アメリカ救援本部(ARA, American Relief Administration)を派遣した。
 Hoover は、戦後のヨーロッパに食糧と医薬品を送るためにARA を設立していた。
 Hoover は二条件を提示した。第一に、共産主義当局の介入なしに独立して活動することが許されること、第二に、全てのアメリカ合衆国市民がソヴィエトの牢獄から解放されること、だった。
 レーニンは、激怒した。—「フーヴァーを制裁しなければならない。全世界が見れるように、あいつの顔を平手打ちしなければならない」と毒づいた。
 だが、乞う者はみなそうであるように、えり好みはできなかった。
 Pomgol がアメリカの援助を獲得するや、レーニンは、カーメネフやGorky の激しい反対にもかかわらず、終了を命じた。
 8月27日、全ての公的メンバーは—Gorky とKorolenko を除いて—チェカに逮捕され、あらゆる態様の「反革命活動」をしたとして訴追された。そしてのちに、国外に追放されるか、国内の限定された区域に送られた。
 Gorky ですら、レーニンによって「健康のために」国外へ行くように説得された。(*10)//
 ——
 ⑤へとつづく。

2334/「知識」·「学歴」信仰の悲劇①ー山口真由。

 ネット上に、山口真由の興味深い述懐が掲載されている。週刊ポスト(集英社)2021年4月9日号の記事の一部のようだ。おそらく、ほぼこのまま語ったのだろう。
 「東大を卒業したことで“自分はダントツでできる人間だ”との優越感を持ってしまったのだと思います。その分、失敗をしてはいけないと思い込み、会議などで質問をせず、変な質問をした同期を冷笑するようになった。東大卒という過剰なプライドが生まれたうえに、失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させることができませんでした」。 
 山口真由、2002年東京大学文科一類入学とこのネット上の記事にはある。
 別のソースで年次や経歴の詳細を確かめないまま書くと、2006年東京大学法学部を首席で卒業、同年4月財務省にトップの成績で入省、のち辞職して、司法試験に合格。
 上のネット記事によると、同は「財務省を退職して日本の弁護士事務所に勤務した後、ハーバード大大学院に留学。そこで『失敗が許される』ことを学び、『東大の呪縛」を解くことができたという」。
 山口真由、1983年年生まれ。ということは、2021年に上の述懐を公にするまで、ほとんど38年かかっている。
 2016年にハーバード大・ロースクールを修了したのだとすると、ほとんど33年かかっている。
 33-38年もかかって、「失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させること」ができなかったことに気づいた、というのだから、気の毒だ。
 東京大学入学・卒業までの年月は除外すべきとの反応もあるかもしれない。しかし、一冊だけ読み了えているこの人の書物によると、この人は大学入学まで(たぶん乳児期を除いて)<東京大学信仰>または<学歴信仰>を持ったまま成長してきている。つまり、少年少女期・青春期を、<よい成績>を取るために過ごしてきていて、「東大卒という過剰なプライド」を生んだ背景には間違いなく、おそらく遅くとも、中学生時代以降の蓄積がある。
 読んだ本は(手元にないが、たぶん)同・前に進むための読書論—東大首席弁護士の本棚(光文社新書、2016)
 「知識」・「学歴」信仰の虚しさ、人間はクイズに早くかつ多数答えたり、難しいとされる「試験」に合格したりすること<だけ>で評価されてはならない、ということを書くときに必ず山口真由に論及しようと思っていたので、やや早めに書いた。
 正解・正答またはこれらに近いものが第三者によってすでに用意されて作られている問題に正確かつ迅速に解答するのが、本当に「生きている」ヒト・人間にとって必要なのではない。「知識」や「教養」は(そして「学歴」も)、それら自体に目的があるのではなく、無解明の、不分明の現在や未来の課題・問題に取り組むのに役立ってこそ、意味がある。勘違いしてはいけない。
 ーー
 付加すると、第一。テレビのコメンテイターとして出てくる山口の発言は、全くかほとんど面白くないし、鋭くもない。
 <キャリアとノン・キャリアの違いがあることを知ってほしい>との自分の経歴にもとづくコメントとか、サザン・オールスターズの曲でどれが好きかと問われて、<そういうのではなくて、論理・概念の方が好きだったので…>と答えていたことなど、かなり奇矯な人だと感じている。これらの発言は、2016-2020年の間だろう。
 第二。一冊だけ読んだ本での最大の驚きは、「試験に役立つ・試験に必要な知識」を得るための読書と、その他一般の読書をたぶん中学生・高校生のときから明確に区別していたこと。
 大学入学後も、受講科目についての「良い成績」取得と国家公務員試験の「良い成績での合格」に必要な知識とそれらと無関係な(余計な?)知識とを峻別してきたのではないか。
 これでは、<自分の頭で考える>、茂木健一郎が最近言っているようなcreative な頭脳・考え方は生まれない。
 山口真由だけに原因があるというのではなく、その両親や友人、出身高校等、そして「戦後教育」の全部ではないにせよ、重要な一定の側面に原因があるに違いない。
 よってもちろん、こうした<信仰>にはまった人々は、程度や現れ方は違うとしても、多数存在している。

2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.776-8。注記は箇所だけ記す。
 ——
 第一節・革命の孤児。
 (7)1921年春までに、ソヴェト・ロシアの農民の4分の1が飢えていた。飢饉はヴォルガ地帯だけを襲ったのではなく、ウラルやKama盆地、ドン、Bashkiria、カザフスタン、西シベリア、南部ウクライナをも襲った。
 飢饉に伴ったのはチフスとコレラで、これらは空腹ですでに弱っていた数十万の人々を殺した。
 最も酷かったのは、ヴォルガ平原だった。
 Samara 地方ではほとんど200万人(人口の4分の3)が1921年の秋までに飢餓で死にかけていた、と言われている。彼らのうち70万人は実際に、その危機が終わるまでに死んだ。
 典型的な行政区画のBulgatovaには1921年1月に1万6000人の人口があったが、1000人が死亡し、2200人が自分たちの家を捨てた。そして6500人が、その年の11月までには植えと病気で動けなくなつた。
 ヴォルガ地帯全体で、飢えた農民たちは、草葉、雑草、木の葉、苔、樹皮、屋根の葺き藁、どんぐりで作られた床、おが屑、粘土、馬の肥料を食べ始めた。
 彼らは、家畜を殺戮し、ねずみ類や猫、犬を捜し求めた。
 村落には、死の静寂があった。
 ほとんど骨だけになって腹をふくらませた人々、子どもたちは、犬が死ぬときのように静かに横たわった。 
 Saratov のある救援労働者は、こう記録した。
 「村民は、生きることを諦めていた。疲れ果てて、不平を言うことすらできなかった。」
 強さを残す者は荒れ果てた農場を板で囲い、荷車の上に僅かの持ち物を包んで乗せて、食糧を求めて町へと逃げ去った。
 町の市場では、数塊のパンを、一頭の馬と交換することができただろう。
 多数の人々はそうできずに、消耗して、道端で死んだ。
 膨大な数の群衆が、他地方へ行く列車に乗ろうという虚しい望みをもって、鉄道駅に集中した。—他地方とは、モスクワ、ドン地域、シベリア、そして食糧があると噂されていればほとんど全ての地方。
 彼らは、疫病蔓延を制限せよとのモスクワの命令によって、飢饉の地帯からの輸送は全部止められていたことを、知らなかった。
 以下は、1921年夏の、Simbirsk 駅での光景だ。
 「汚いぼろ服の一団の民衆を、想像してみよ。その一団の中には、傾けた裸の腕があちこちに見える。顔には、すでに死斑が捺されているようだ。
 とりわけ、ひどく厭な臭いに気づく。通り過ぎることはできない。
 待合室、廊下、一歩進むたびに人々が覆ってくる。彼らは、身体を広げたり、座ったり、想像できるあらゆる姿でうずくまっている。
 近づいて見れば、彼らの汚れたぼろ服にはしらみ〔虱〕が充満しているのが分かる。
 チフスに冒された人々が、彼らの赤ん坊と一緒にいて、這い回り、熱で震えている。
 育てている赤ん坊たちは、声を失なった。もう泣くことができない。
 20人以上が毎日死んで、運び去られる。しかし、全ての死者を移動させることはできない。
 ときには、生きている者の間に、死体が5日間以上も残っている。/
 一人の女性が、幼児を膝の上に乗せてあやしている。
 その子どもは、食べ物を求めて泣いている。
 その母親は、しばらくの間、腕で幼児を持ち上げる。
 そのとき、彼女は突然に子どもをぶつ。
 子どもは、また泣き叫ぶ。これで、母親は狂ったように思える。
 彼女は、顔を激しい怒りに変えて、猛烈に子どもを叩き始める。
 拳で小さな顔を、頭を雨のごとく打ち続けて、最後に、幼児を床の上に放り投げ、自分の足で蹴る。
 戦慄の囁き声が、彼女の周囲でまき起こる。
 子どもは床から持ち上げられ、母親には悪態の言葉が浴びせられる。
 母親が猛烈な興奮状態から醒めてわれに戻ったとき、彼女の周りは、全くの無関心だ。
 母親はその視線を固定させる。しかし、きっと何も見えていない。」(*6)
 〔試訳者注記—Richard Pipes, Russia under the Bolshevik regime (1993) のp.412-3 (第8章第10節)に、上と全く同じ長い文章が引用されている。試訳済み→No.1516/2017.04.25。
 (8)ある人々は、飢えによって人肉喰い(cannibals)に変わった。
 これは、歴史家がこれまでに推測してきた、きわめてふつうの現象だった。
 飢饉が最悪だったBashkir 地方、Pugachov やBuzuluk の平原地帯では、数千の事例が報告されている。
 人肉喰いのほとんどは、報告されないままでもある。
 数人の子どもを食べて有罪とされたある男は、例として、こう告白した。
 「我々の村では、全員が人肉を食べ、それを隠した。
 村には、カフェテリアがいくつかあった。—それらはみな、幼い子どもたちを提供していた。」
 このような現象は、冬が始まるとともに、およそ1921年の11月頃にはなくなった。その頃には、地上にある食糧の代用物を初雪が覆い、食べるものが何もなくなった。
 子どもたちを育てるのに絶望した母親たちは、死体から四肢部分を切り取り、生肉をポットで茹でた。
 人々はみな、自分の縁戚者だった。—しばしば幼い子どもたち。子どもたちはふつうは最初に死に、その生肉はとくに美味かった。
 いくつかの村では、農民は死者を埋葬するのを拒んで、獣肉であるかのように、納屋や牛小屋に貯えた。
 彼らは救援労働者に対してしばしば、死体を持っていかず、食べさせてくれ、と頼んだ。
 Pugachev 近くのIvanovka の村では、死んだ夫を食べたとしてある女性がその子どもと一緒に逮捕された。そして、警察が夫の遺体を取り去ろうとしたとき、彼女は叫んだ。
 「私は彼を捨てない。我々には食料として彼が必要だ。彼は我々の家族だ。だから、誰にも我々から彼を取り去る権利はない。」
 墓地から死体を盗むのがありふれたことになったので、多くの地域で武装監視兵が墓地の入口を監視するために配置された。
 生肉を求めて人々を探したり殺したりすることもまた、ふつうの現象だった。
 Pugachev の町では、暗くなってから子どもたちが外出するのは危険だった。そこには人喰い者の盗賊と商売人がいて、子どもたちを殺し、柔らかい人肉を売っている、と知られていたからだ。
 Novouzensk 地方では、人肉を求めて成人を殺害する子どもたちの盗賊団もあった。
 そのような理由で、救援労働者たちは武装していた。
 自分たちの赤ん坊—たいていは女児—を殺す親たちの事例すらがあった。その肉を自分たちが食べる、または他の自分の子どもたちに食べさせるために。//
 ——
 ④へとつづく。
 左は2017年版、右は1996年版の各表紙。本文の頁番号、各頁の内容は同じ。


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2332/西尾幹二批判023—皇太子妃問題。

  西尾幹二・皇太子さまへの御忠言〔ワック出版)が刊行されたのは、2008年(平成20年)9月だった。
 月刊WiLL2008年5·6·8·9月号(ワック)に四連載した(ほとんど)同名のものに、月刊正論2005年4月号、諸君!!2006年4月号既掲載のものを加えたもの。
 雑誌のものは首を傾げながら読んだ記憶がある。
 その当時から長く、うかつにも(幼稚にも)思ってきたのは、「皇太子さまへの御忠言」なのだから、直接に宛名とすることはなくとも、丁寧に包装して宮内庁でも通じて、当時の皇太子殿下にお届けしたのだろう、ということだった。
 本当に、真摯に「御忠言」したいならば、皇居にまで出向いて、直接に手渡すことを考えてすら、不思議ではないだろう。
 しかし、近年になって、上のようなことが行われた(出版社が送付したということを含めて)旨の記事はないこともあって、自分の無知、浅はかさは相当のものだと思った。
 西尾幹二は当時の皇太子殿下に届けていない。ということは、読みたいならば費用を出して購入せよ(して下さい)ということだったのだろう。
 そして、西尾は、皇太子・同妃その他皇室の方々に読んでもらうのが目的で雑誌論考を書いたり書物を出したりしたのではなく一般国民・一般読者に向けて、自分の意見を知ってもらいたくて書いたのだ。
 反応はかなりあったらしい。つまり、雑誌は売れたらしい。確認しないが、「手応え」・「反響」が大きかった旨を自分でのちに書いている。
 しかし、反応があり、「売れた」ということは、(書物も含めて)購入して読んだ読者の「支持を得た」のと同じでは、もちろんない。
 もっとも、支持であれ、疑問視であれ、反対であれ、西尾幹二にとっては、自分というものの存在を世に「広く」(どれほどか?)知らせることとなったのは悪い気分ではなかったかもしれない。
 また、出版社にとっては、—まだ雑誌の奇妙な分裂と移行前だったので、ワック・編集担当は花田紀凱だったが—好意的であろうとなかろうと、「売れさえすれば」それで良かったのだろう。西尾幹二もまた、原稿執筆を請負い、出版社から代金を受け取る自営業者なので、多少の「経済的利益」となっただろう。
  高森明勅のブログが「6日前」、たぶん3/28に①「『保守』知識人の皇室バッシング」と題して、「個人的には、以前に些かご縁があったので、…少し気が引けるが」としつつ、上の西尾幹二の「御忠言」を批判している。
 「『御忠言』という殊勝なポーズは、タイトルだけの話。中身は、確かな事実に基づかないで、不遜、不敬な言辞を連ねたものだった」、等々。
 ここには、私が知らなかったことも書かれている。月刊WiLLのこの当時の編集長・花田紀凱はかつて週刊文春の編集長だった(これは知っていた)。
 高森によるとこうだ。 
 「『週刊文春』が上皇后陛下(当時は皇后)へのバッシングを繰り返し、果てに上皇后が悲しみとお疲れの余りお倒れになり、半年もの間、失声症に苦しまれた時の編集長も同じ人物」、つまり花田紀凱。
 花田紀凱は現在は、月刊Hanada 編集長。
  高森はまたその翌日?にも②「皇后陛下を仮病扱いした『保守』知識人」と題して、やはり西尾幹二を批判している。
 2008年頃のことなのだろうか、この頃の<朝まで生テレビ>はもう観ていなかったので、知らなかった。 
 高森によると、同も出演していた<朝まで生テレビ>で、同じく出演していた西尾幹二が、雅子皇太子妃について、こう発言した、という。
 「雅子妃(皇后陛下)は来年の今頃には全快しています!」。
 なぜそう言い切れるのかと司会・田原総一朗が質問すると、西尾幹二はこう答えた、という。
  「だって仮病だから!!」。
 うーん。仮病?だったとすると、西尾が上掲書で2名以上の専門医を雅子妃に付けよとか書いているのは、医師によって<仮病であること>=<病気ではないこと>を見抜け、と主張したかったのだろうか。
 しかし、熟読していないが、上の書物でその旨(仮病)を示唆するところはなかったように思えるのだが。
 再び、高森から引用する。 
 「この予言(?)は勿論、外れたし、外れたことに対して、同氏が謝罪したとか、弁明したという話を(少なくとも私は)聞かない
 周知の通り、皇后陛下は今もご療養を続けておられる。この事実を、同氏はどう受け止めるのか。」
  西尾幹二はなぜ、あのあたりの時期に<反雅子妃>の立場を取り、皇太子に「忠言する」ことを考えたのだろうか(「売れる」という反応に喜んだのは別として)。
 この人の<性格>・<精神世界>にまで立ち入らないと分からないだろう。あるいは<人格>だ。
 人間が関係する全ての事象が各人間、全ての人間の<人格>と無関係ではない。
 複雑で、総合的かつ歴史的な因果関係があるから、簡単に論じることはできないし、論じれば、必ず誤り、短絡化につながる。
 したがって、簡単に西尾幹二の<人格>論に持っていくつもりはない。
 だが、西尾幹二が<雅子妃>問題に関して、特定の人物の<人格>をやたらと問題にしていたことは、間違いない。西尾自身がその<人格>を簡単にかつ単純に論評されることがあっても、甘受しなければならないのではないか。
 また、そもそも皇族外の特定の人物(雅子妃の父親)にやたら関心をもち、その人物を問題視するのはいったいなぜだったのだろうか。
 以下は例示。上掲書の文庫版(ワック文庫。但し、新書版に近い大きさ)の頁数による。いずれも、執筆は2012年。
 p.7(まえがきに代えて)—「雅子妃の妹さんたちが…、…会っている様は外交官小和田氏の人格と無関係だと言えるだろうか」。
 p.37(序章)—「雅子妃のご父君は娘にいったいどういう教育をしてきたのでしょうか。…畏れ多いのだという認識が小和田一族に欠けていることに根本の問題があるのではないか」。
 **

2331/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・第16章第1節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.774-6。注記の箇所だけ記して、その内容(ほとんど参照文献の指示)は省略する。
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 第16章・死と離別。
 第一節・革命の孤児。 
 (4) 死はありふれたことだったので、人々はそれに慣れてきた。
 路上の死体を見ても、もう注意を惹かなかった。
 殺人はほんの僅かの動機から起きた。—数ルーブルの窃盗、行列飛ばしを原因として。さらには、たんに殺人者の娯楽のために。
 7年間の戦争によって、人々は残虐になり、他人の苦痛に対して無感覚になった。
 1921年、Gorky は、赤軍出身の兵士たちに尋ねた。「人を殺すときには落ち着かないのでないか?」
 「いや、そんなことはない。『相手は武器をもち、自分も持っている。そして、喧嘩になったとする。お互いに殺し合って、土地が広くなるなら、いったいそれがどうだというのだ。』」
 第一次大戦中にヨーロッパでやはり戦ったある兵士は、Gorky に、外国人を殺すよりはロシア人を殺す方が簡単だ、とすら言った。
 「我々は民衆の数が多く、経済は貧しい。村が一つ焼かれるとして、なんの損失か?
 放っておいても、村は自然に崩れ落ちるだろう。」
 生命の価値は安くなり、人々は互いに殺し合うことについて、ほとんど何とも思わなかった。あるいは、その者たちの名で数百万人を殺している他人についてすら。
 ある農民が、1921年にウラルで仕事をしていた科学的調査団に対して尋ねた。
 「きみたちは教養がある。おれに何が起こるのか、教えてくれ。
 Bashkir 人がおれの雌牛を殺した。それで、<もちろん>、そのBashkir 人を殺し、彼の家族から雌牛を奪ってやった。
 教えてくれ。雌牛を盗んだとして、おれは罰せられるのか?」
 調査団が、その男を殺したことで罰せられるとは思わなかったのか、と尋ねた。農民はこう答えた。
 「全く。今では人間は安い。」//
 (5)別の物語が伝えられている。—何の明白な理由もなく自分の妻を殺した夫についての話だ。
 その殺人者の説明は、「彼女に飽きた。それで終わりだ」というものだった。
 まるでこの数年間の暴力が、人間関係を覆っていた薄い膜を引き剥がして、人間の原始的な動物的本能を曝け出したごとくだった。
 人々は血の匂いを好み始めた。
 サディスティックな殺戮方法の嗜好が発展した。—これは、Gorky が専門とする主題だった。/
 「シベリアの農民は穴を掘って、赤軍受刑者を逆さまに入れて、膝から上を地上に出した。そして、その穴を土で埋めて、犠牲者の足が痙攣してなおも抵抗しているのを観察した。生きていた者は最後には死んだだろう。/
 タンボフ地方では、共産党員たちが、地上1メートルの木に鉄道用の大釘で左手と左足を釘づけにされた。人々は、わざと奇妙な形で磔にした者が苦しむのを眺めた。/
 人々はある受刑者の腹を割いて小腸を取り出し、それを木か電柱に釘で打ちつけ、その男を殴打して木の周りを回らせ、腸がその負傷した男の身体から解かれていくのを、観察した。/
 人々はまた、捕えた将校を衣類を剥ぎ取って裸にし、肩の皮膚の一片を肩紋の形に引き裂いて、〔肩章の〕星の場所に押し込んだ。そして、剣帯とズボンの線に沿って皮膚を剥ぎ取ることになる。—この作業は「制服を着せる」と称された。
 疑いなく、長い時間と相当の技巧を必要とするものだった。(*4)
  (6)この時期の単一の最大の殺人者は—約500万人の生命を奪ったと算定されている—、1921-22年の飢饉だった。
 どの飢饉でも同じだが、ヴォルガ大飢饉は人と神によって惹き起こされた。
 ヴォルガ地帯はその自然条件によって収穫が十分でないことが多かった。—そして近年では1891-92年に凶作が多く、1906年と1911年に数回の凶作があった。
 夏の旱魃と極端な冷気は、平原地帯の気候では定期的に起きることだった。
 春の突風は砂の表土を吹き飛ばし、収穫を減少させた。
 1921年のヴォルガ飢饉には基礎的条件があった。1920年の凶作は、一年にわたる厳しい冷気と灼熱の夏の旱魃によって、平原地帯に巨大な黄塵が発生したことで起きた。
 春頃には、農民たちが前年に続いて二回めの凶作の被害を受けることが明確になった。
 種の多くは霜が降る寒気で駄目になった。また、現れていた新しい収穫の兆しは、見たところでも草のようにひ弱くて、バッタと野ねずみに食われてしまった。
 悪くはあったが、こうした自然環境の中での異常は、まだ飢饉の原因となるものとは言えなかった。
 農民たちは凶作に慣れていて、つねに穀物を大量に貯蔵していた。しばしば、非常時に備えて、共同集落の貯蔵小屋に。
 内戦時の穀物徴発(requisitioning)によって、自然が災害をもたらす以前に、農民経済が破綻の縁に達していたことが、1921年の危機を大災難に変えた。
 農民たちは徴発を回避するために、生活を維持するだけの生産へと逃げ込んだ。—自分たちや家畜が生きていき、種を保存するのに十分なだけの栽培しかしなくなっていた。
 言い換えると、ボルシェヴィキが奪ってしまうことを怖れたがゆえに、彼らは、安全のための余裕を、つまり過去の悪天候の際には守ってくれたような保留分を残さなかった。
 1920年に、ヴォルガ地帯の種撒き面積は1917年以降の4分の1に減少していた。
 だが、ボルシェヴィキは、さらに—余剰のみならず、生命にまでかかわる食糧貯蔵分や種子まで—奪い(徴発し)つづけた。その結果として、凶作の場合には農民の破滅という結果になることが必然的である程度にまで。(*5)
 **
 ③につづく。
 

2330/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文②。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 **
 (07) シャラモフは当初は、著作活動をした経歴によって、高い望みを持った。
 Boris Pasternak は、彼の詩作の才能を大いに誉めた。また、Aleksandr Solzhenitsyn は<One Day in the Life of Ivan Denisovich>で、収容所について書くのは可能だということを示した。
 しかし、ソヴィエト当局に外国での<ドクトル・ジバゴ>出版を責め立ててられていたPasternak は1960年に死亡した。また、Solzhenitsyn が出版することができるのは—かつほんの数年の間—今や党指導者であるNikita Khrushchev や影響力ある雑誌<新世界>の編集者のAleksandr Tvardovsky の好意があったからにすぎない、ということが明瞭になった。
 シャラモフが最初は抱いたSolzhenitsyn の偶像視は彼の友好的な反応を受け、<収容所群島>の編集を共同で行おうと誘われもした。
 しかし、シャラモフは明らかに、19世紀のキリスト教的価値のいくつかへのSolzhenitsyn の執着には、またソヴィエト社会のある範囲の道徳、とくに手労働の救世的力への忠誠さには、賛同しなかった。
 Solzhenitsyn は短い物語を書くことから大きい小説へと移ったけれども、シャラモフは、素材を偽ることとなる綿密な構成物だとして小説を評価しなかった。
 (ウラルでの矯正労働の回顧録は、<Visheara(反小説)>という表題だった。)
 シャラモフは、Yevgeniya Ginzburg のような、収容所の他の生き残りとは距離を置いた。そして、自分たちの苦しみの原因を作った悪党たちに対して優しすぎると批判した。
 彼は、最初はOsip Mandelstam の未亡人のNadezhda と親しかった。—最良の二つの物語を、彼女と詩人に捧げた。だが、賛美者と異端者たちに囲まれた女王蜂としての彼女の役割によつて、彼は遠ざかった。
 (08) こうした孤立やKGB が払った敵対的注意にもかかわらず、シャラモフは四作の詩集を何とか出版した。
 彼の詩は、革命前ロシアの象徴主義の技巧と主題をもった、強く回顧的なもので、公的に敵対心を掻き立てはしなかった。だが、彼の物語をソ連邦で出版するのは、最も論争的でない1965年の<The Dwarf Pine>の一冊を除いて、不可能だと判ることとなった。また、その例外ですら、<国の若者>の編集部から解雇される原因になった。
 1968年、—シャラモフが密かに意図してか、意思に反してかは確実には言えないが—個々の物語が、そして最初の書物の<Kolyma Stories>の全体が、西側へと漏れ出し、公表された。最初はエミグレ・ロシア人の雑誌で、次いでシャラモフの名によるドイツ語訳書、フランス語訳書として。
 シャラモフは私的に抗議した(出版物の提供と支払いを求めたけれども)。そしてついには、公式の<文学新聞>で、明らかに強いられて、抗議を表明した。
 彼が「反ソヴィエト」のエミグレや西側出版社を非難したことで、作家同盟に遅ればせながら入ることができるという報償が与えられた。作家同盟員でなければ、ソヴィエトの作家は生活していく望みを持てなかった。//
 (09) 1960年代の末、シャラモフはIrina Sirotinskaya の世話になった。彼女は、彼の原稿をロシア国立文学芸術資料館に預けていた。
 Sirotinskaya は、お互いの愛情と尊敬にもとづく関係に関する詳細な説明を付していた。
 Sirotinskaya の介入がなかったならば、確実に、シャラモフラモフの作品は、その他の異端の作家たちの作品のように消滅の運命に遭っただろう。
 シャラモフに懐疑的な友人たちは、とくに異端者または元受刑者あるいはそのいずれもの友人たちは、自分たちの友情を疑っていた。USSR(ソヴェト社会主義共和国連邦)の全ての国立資料館はKGB に服従しており、著作者の作品を存命中に資料館に移すことは、保存のためとともに、隔離の結果だと見なすこともできた。
 しかし、私はソヴィエト資料館にある私自身の著書に関して気づいたのだが、「保安のための除去」だったにもかかわらず、利用を統制できる文学作品に対して、純粋に貢献したいという資料管理者がいた。
 シャラモフの少なくとも詩集の出版について、Sirotinskaya がそれを助ける大きな役割を果たした、ということに疑いはない。//
 (10) 1970年代遅く、家を失って病気がひどくなったシャラモフは、姿を消して老人施設へと入った。
 その施設の条件は本当にひどいものだった。—皮肉にも、収容所の最悪の施設と同じほどにひどかった。
 コルィマで衛生兵としてシャラモフを教えた収監中の教授だった人の孫も含めて、友人たちが彼を発見して、彼の条件を少しでも良くしようとした。しかし、その働きかけはKGB と「医療スタッフ」に妨害された。
 Sirotinskaya はシャラモフとの関係を感じていたが、家族の利益を優先しなければなかった、結婚している女性だった。それでようやく、冬の頃からシャラモフとは距離を置いたように見える。
 1982年1月、精神医の委員会はシャラモフの状態を認知症と診断した。—ひどい難聴、筋肉統御力の喪失、見知らぬ者に対する激しい嫌疑。そして、凍えるような寒さの中をほとんど裸で、ほとんど誰も訪問することのできない「精神病院」へと移された。
 数日のうちに、シャラモフは急性肺炎で死んだ。
 Sirotinskaya はその回想録の中で、彼の死の直前に訪れたとき、シャラモフによって詩集の語句を口述されたと述べている。
 シャラモフはまた、彼女を相続人に指名する遺書を残し、出版されていない物語集を彼女に捧げた。
 この最後の措置の真実性は、シャラモフの異端派の仲間、とくにSergei Grigoriants によって争われた。
 シャラモフは第三者が存命の場合に語るのを嫌ったため(収容所についての古い習慣)、ここでも再び、伝えられる彼の会話が確証されることはなかった。//
 (11) シャラモフは、聖職者の子息として、洗礼を施されているという理由で、友人たちやソヴィエトの文学分野の人々は組織立って、教会式の葬儀と埋葬を行なった。//
 **
 ③むへとつづく。

2329/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・目次。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 この書物は(Richard Pipes の二つの大著より新しく)1996年に原書(英語)が出版された。
 しかし、これにも、邦訳書がない。2017年にロシア革命100年記念の新装版が出版されたが、日本の出版業界・関係学者たちは無視した。
 目次を見ると、つぎのような構成になっている。試訳してみる。章・節等の言葉は元々はない。第一部(PART ONE)については「節」を省略。
 **
 第一部/旧体制のロシア。
  第一章・専制王朝。
  第二章・不安定な支柱。
  第三章・聖像とゴキブリ。
  第四章・赤いインク。
 第二部/権威の危機(1891〜1917)。
  第五章・最初の流血。
   第一節—愛国者と自由派。
   第二節—「ツァーリはいない」。
   第三節—路線の分岐。
  第六章・最後の希望。
   第一節—議会と農民。
   第二節—政治家。
   第三節—強者への賭け。
   第四節—神よ、王よ、祖国よ。
  第七章・三つの前線での戦争。
   第一節—人に対する鉄。
   第二節—狂ったお抱え運転手。
   第三節—塹壕からバリケードへ。
 第三部/革命のロシア(1917年二月〜1918年三月)。
  第八章・栄光の二月。
   第一節—路上の権力。
   第二節—気乗りしない革命家たち。
   第三節—ニコライ・最後の皇帝。
  第九章・世界で最も自由な国。
   第一節—遠くの自由主義国家。
   第二節—期待。
   第三節—レーニンの激怒。
   第四節—ゴールキの絶望。
  第一〇章・臨時政府の苦悩。
   第一節—一つの国という幻想。
   第二節—赤の暗い側面。
   第三節—白馬に乗る男。
   第四節—民主主義的社会主義のハムレット。
  第一一章・レーニンの革命。
   第一節—蜂起の態様。
   第二節—スモルニュイの独裁者たち。
   第三節—強奪者から強奪する。
   第四節—一国社会主義。
 第四部/内戦とソヴェト・システムの形成(1918〜1924)。
  第一二章・旧世界の最後の夢。
   第一節—草原の上のサンクト・ペテルブルク。
   第二節—憲制会議という亡霊。
  第一三章・戦争に向かう革命。
   第一節—革命の軍事化。
   第二節—「富農」: 販売人と煙草ライター。
   第三節—血の色。
  第一四章・勝利する新体制。
   第一節—三つの決定的戦い。
   第二節—同志たちと人民委員たち。
   第三節—社会主義の祖国。
  第一五章・勝利の中の敗北。
   第一節—共産主義への近道。
   第二節—人間の精神の操縦者。
   第三節—退却するボルシェヴィキ。
  第一六章・死と離別。
   第一節—革命の孤児。
   第二節—征服されていない国。
   第三節—レーニンの最後の闘い。
 **
 以上
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