Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution(Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
一番最後の章(第16章)から試訳。一行ごとに改行。段落の冒頭に原書にはない番号を付す。
**
第16章・死と離別。
第一節・革命の孤児。
(1)Gorky はベルリンに着いて、Roman Rolland に手紙を出した。
「元気でない。結核がぶり返してきた。でも、私の年齢では危険ではない。
もっと耐えられないのは、魂の悲しい病気だ。—ロシアでの過去7年間でとても疲れたと感じている。その間、たくさんの悲しい劇的事件を見、体験してきた。
より悲しさが募るのは、そうした事件が、熱情の論理や自由な意思によってではなく、狂熱と卑劣さによる盲目的なかつ冷酷な計算によって、起こされてきたことだ。…
人類の未来の幸福を、私はまだ熱烈に信じる。しかし、輝かしい未来のために人々が払わなければならなかった大量の悲痛に、私は失望し、心が掻き乱されている。」(*1)
1921年秋にロシアから離れたGorky の背後には、死と幻滅があった。
これまでの4年間であまりに多数の人々が殺されたため、彼ですらもはや、革命の希望と理想にしがみつくことができなかった。
あれだけの人間の苦しみに値するものは、何もなかった。//
(2)革命による人間の犠牲者全体数については、誰にも分からない。
内戦、テロル、飢饉、病気による死だけを計算しても、数千万人台のいずれかだった。
しかし、国外脱出者(約数百万人)、—この恐ろしい時代に誰も子どもを欲しくなかったので—大きく減少した出生率の人口統計上の影響—統計学者はさらに数千万人を加えることになると言う(++)—は、上の数字から除外されている。
最も高い死亡率になるのは成人男性だった。—1920年だけでペテログラードには6万5000人の寡婦がいた。しかし、死はありふれたことで、全ての者が関係した。
友人や親戚を一人も失わないで革命期を生き延びた者はいなかった。
Sergei Semenov は、1921年1月に旧友にこう書き送った。
「神よ、何と多数の死か !! 老人の男のほとんどが死んだ。—Boborykin、Leniv、Vengerov、Vorontsov、等々。
Grigory Petrov ですらいなくなった。—どのように死んだのか知られておらず、たぶん社会主義の進展に喜びながらではない、とだけは言うことができる。
とくに心が痛めつけられるのは、友人がどこに埋葬されているかすら分からないことだ。」
一つの家庭に対して死がいかほどに影響を与えるかは、Tereshchenkov 家の例がよく示している。
赤軍の医師のNikitin Tereshchenkov は、1919年のチフス伝染病で娘と妹の二人を失った。上の息子と兄は、南部前線で赤軍のために戦闘をして同年に殺された。義理の弟は、不思議な殺され方をした。Nikitin の妻は、彼がチフスに罹っている間に、結核で死んだ。
(地方の多数の知識人たちのように)彼らは地方チェカから非難され、Smolensk の自分たちの家を失い、1920年に、二人の残っている息子たちが働く小さな農場へと移った。—15歳のVolodya と、13歳のMisha。(*2)//
(3)この時期にロシアで死ぬのは容易だったが、埋葬されるのはきわめて困難だった。
葬儀業務は国有化され、その結果として埋葬には際限のない書類仕事が必要だった。
当時、棺用の木材が不足していた。
愛する人の遺体をマットで包み、または棺—「要返却」という刻印つき—を借りて、墓地にまで運ぶだけの人々もいた。
ある老教授は借りた棺に入れるには背丈が大きすぎて、何本かの骨を折って詰め込まれなければならなかった。
説明することのできない理由で、墓地すらが足りなかった。—これがロシアでなければ、信じられるだろうか? 人々は墓地が見つかるのを数ヶ月待った。
モスクワの遺体安置所には、地下室で埋葬を待つ、腐りかけの死体が数百あった。
ボルシェヴィキは自由な葬儀を促進することで、この問題を緩和しようとした。
彼らは1919年に、世界で最大の葬礼場を建設すると約束した。
しかし、ロシア人は正教での埋葬儀礼に愛着をもちつづけたので、このような提議は無視された。(*3)//
——
〔注(*1) -(*3)の内容(参照文献の提示)は省略する。〕
(++) 除外されているのは他に、生き延びたが栄養失調や病気で減少したと見込まれる人々の数だ。この時期に生まれて育てられた子どもたちは、年上の者たちよりも顕著に小さく、新生児の5パーセントには梅毒があった。Sorokin, Souvemennoe, p.16, p.67.)
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=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
一番最後の章(第16章)から試訳。一行ごとに改行。段落の冒頭に原書にはない番号を付す。
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第16章・死と離別。
第一節・革命の孤児。
(1)Gorky はベルリンに着いて、Roman Rolland に手紙を出した。
「元気でない。結核がぶり返してきた。でも、私の年齢では危険ではない。
もっと耐えられないのは、魂の悲しい病気だ。—ロシアでの過去7年間でとても疲れたと感じている。その間、たくさんの悲しい劇的事件を見、体験してきた。
より悲しさが募るのは、そうした事件が、熱情の論理や自由な意思によってではなく、狂熱と卑劣さによる盲目的なかつ冷酷な計算によって、起こされてきたことだ。…
人類の未来の幸福を、私はまだ熱烈に信じる。しかし、輝かしい未来のために人々が払わなければならなかった大量の悲痛に、私は失望し、心が掻き乱されている。」(*1)
1921年秋にロシアから離れたGorky の背後には、死と幻滅があった。
これまでの4年間であまりに多数の人々が殺されたため、彼ですらもはや、革命の希望と理想にしがみつくことができなかった。
あれだけの人間の苦しみに値するものは、何もなかった。//
(2)革命による人間の犠牲者全体数については、誰にも分からない。
内戦、テロル、飢饉、病気による死だけを計算しても、数千万人台のいずれかだった。
しかし、国外脱出者(約数百万人)、—この恐ろしい時代に誰も子どもを欲しくなかったので—大きく減少した出生率の人口統計上の影響—統計学者はさらに数千万人を加えることになると言う(++)—は、上の数字から除外されている。
最も高い死亡率になるのは成人男性だった。—1920年だけでペテログラードには6万5000人の寡婦がいた。しかし、死はありふれたことで、全ての者が関係した。
友人や親戚を一人も失わないで革命期を生き延びた者はいなかった。
Sergei Semenov は、1921年1月に旧友にこう書き送った。
「神よ、何と多数の死か !! 老人の男のほとんどが死んだ。—Boborykin、Leniv、Vengerov、Vorontsov、等々。
Grigory Petrov ですらいなくなった。—どのように死んだのか知られておらず、たぶん社会主義の進展に喜びながらではない、とだけは言うことができる。
とくに心が痛めつけられるのは、友人がどこに埋葬されているかすら分からないことだ。」
一つの家庭に対して死がいかほどに影響を与えるかは、Tereshchenkov 家の例がよく示している。
赤軍の医師のNikitin Tereshchenkov は、1919年のチフス伝染病で娘と妹の二人を失った。上の息子と兄は、南部前線で赤軍のために戦闘をして同年に殺された。義理の弟は、不思議な殺され方をした。Nikitin の妻は、彼がチフスに罹っている間に、結核で死んだ。
(地方の多数の知識人たちのように)彼らは地方チェカから非難され、Smolensk の自分たちの家を失い、1920年に、二人の残っている息子たちが働く小さな農場へと移った。—15歳のVolodya と、13歳のMisha。(*2)//
(3)この時期にロシアで死ぬのは容易だったが、埋葬されるのはきわめて困難だった。
葬儀業務は国有化され、その結果として埋葬には際限のない書類仕事が必要だった。
当時、棺用の木材が不足していた。
愛する人の遺体をマットで包み、または棺—「要返却」という刻印つき—を借りて、墓地にまで運ぶだけの人々もいた。
ある老教授は借りた棺に入れるには背丈が大きすぎて、何本かの骨を折って詰め込まれなければならなかった。
説明することのできない理由で、墓地すらが足りなかった。—これがロシアでなければ、信じられるだろうか? 人々は墓地が見つかるのを数ヶ月待った。
モスクワの遺体安置所には、地下室で埋葬を待つ、腐りかけの死体が数百あった。
ボルシェヴィキは自由な葬儀を促進することで、この問題を緩和しようとした。
彼らは1919年に、世界で最大の葬礼場を建設すると約束した。
しかし、ロシア人は正教での埋葬儀礼に愛着をもちつづけたので、このような提議は無視された。(*3)//
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〔注(*1) -(*3)の内容(参照文献の提示)は省略する。〕
(++) 除外されているのは他に、生き延びたが栄養失調や病気で減少したと見込まれる人々の数だ。この時期に生まれて育てられた子どもたちは、年上の者たちよりも顕著に小さく、新生児の5パーセントには梅毒があった。Sorokin, Souvemennoe, p.16, p.67.)
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