秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2019/10

2064/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。 
 第2節・東ヨーロッパでの修正主義①。
 (1)1950年代の後半以降、共産主義諸国の党当局と公式イデオロギストたちは、党員またはマルクス主義者であり続けつつ多様な共産主義教条を攻撃する者たちを非難するために、「修正主義」という語を用いた。
 この言葉には、厳密に正確な意味はなかった。あるいは実際には、スターリン後の改革に反対する党「保守派」に対して、「教条主義」という語が用いられた。
 しかし、原則としては、「修正主義」という語が示唆していたのは、民主主義的かつ合理主義的な傾向だった。
 従来はこの語はマルクス主義に対するBernstein の批判について用いられてきたので、党活動家たちは新しい「修正主義」をBernstein の考え方と連結させようとした。しかし、これら両者の関係は隔たっていて、そうした関係づけは馬鹿らしいものだった。
 積極的な「修正主義者」のほとんど誰も、Bernstein に関心を持たなかった。
 1900年頃のイデオロギー論議の中心にあったものは、もはや話題にならなかった。
 当時に激しい憤懣を掻き立てたBernstein の考えのいくつかは、今では正統派マルクス主義者たちに受容されていた。社会主義は合法的手段で達成し得る、という原則的考え方のように。-全くの戦術上の変化だけれども、イデオロギー的には重要でなくはない。
 「修正主義」はBernstein の読解に因っていたのではなく、スターリンのもとにあった時代に由来していた。
 しかしながら、党指導者がこの用語をいかに曖昧に用いたとしても、1950年代と1960年代には、本当の、能動的な政治的および知的な運動が存在した。その運動は、当面の間はマルクス主義の範囲内で、あるいは少なくともマルクス主義の語彙を使って活動しはしたれども、共産主義の教理に対してきわめて破壊的な効果を持った。//
 (2)1955-57年に共産主義イデオロギーが解体するにつれて、システムに対する攻撃が広がった。
 この時期の典型的な特質は、現存する条件の批判にとどまらず、きわめて活発で目立っていて、全体としてきわめて有効だった、ということだ。
 このような優勢的な力には、いくつかの理由があった。
 第一に、修正主義者たちは「既得権益層」に帰属していたので、大衆メディアや非公開の情報に接近することが十分に容易だった。
 第二に、事柄の性質上、彼らは他のグループよりも、共産主義イデオロギーとマルクス主義について、また国家と党機構について、多くのことを知っていた。
 第三に、共産主義者たちは全ての問題について指導すべき考え方に慣れ親しんでおり、結局のところは党が、活力と主導性をもつ多数の党員たちを取り込んでいた。
 第四に、そしてこれが主要な理由だが、修正主義者たちは、少なくとも相当の期間、マルクス主義の語彙を用いた。すなわち、彼らは共産主義のイデオロギー的ステレオタイプとマルクス主義の権威に訴えかけ、社会主義の現実と「古典」に見出し得る価値と約束の間の差違について、驚かせるほどの比較を行った。
 このようにして、修正主義者は、民族主義または宗教の観点からシステムに反抗した他の者たちとは違って、党内見解について訴えかけたのみならず、党の周囲に反響を与え、覚醒させた。
 彼らの意見には党機構員も耳を澄まし、そしてこれが政治的変化の主たる条件だったのだが、その結果として党機構のイデオロギー的混乱を招くこととなった。
 彼らは、ある程度は共産主義ステレオタイプをまだ信じているがゆえに、またある程度はそれが有効だと知っているがゆえに、党の用語を用いた。
信仰と慎重な偽装(camouflage)の割合がどうだったかは、現在の時点では査定するのが困難だ。//
 (3)生活の全分野に影響を与え、共産主義の全ての神聖さを徐々に掘り崩した批判論の大波の中で、一定の要求や観点は修正主義に特有のものだったが、片方で、一定のそれらは非共産党または非マルクス主義の体制反対者と共通していた。
 提示された主要な要求は、つぎのようなものだった。//
 (4)第一に、批判論の全ては、公共生活の一般的な非中央化、抑圧と秘密警察の廃止、あるいは少なくとも、法に従い、政治的圧力から自立して行動する司法部に警察が従属すること、を求めた。
 プレスの自由、科学と芸術の自由、事前検閲の廃止も、要求した。
 修正主義者たちは党内民主主義も求め、ある範囲の者たちは党内に「分派」を形成する権利も要求した。 
 これらの点で、彼らの間には最初から違いがあった。
 ある者たちは、一般的要求にまで進めることなく党員のための民主主義を要求した。彼らは、党は非民主主義的社会の中にある孤立した民主主義的な島であり得ると考えているように見えた。
 彼らはそうして、明示的にであれ暗黙にであれ、「プロレタリアートの独裁」原理、すなわち党の独裁の原理を受容し、支配党は内部的な民主主義という贅沢物を提供できると想定していた。
 しかしながら、そのうちに、修正主義者のほとんどは、エリートたちだけのための民主主義は存在することができない、ということを理解するに至った。
 つまり、かりに党内グループが許容されれば、そのグループは、そうでなければ発言を否定される社会的勢力のための発言者となり、党内部の「分派」制度は多元的政党制度の代わりになるだろう、ということをだ。
 したがって、政治的諸党の自由な形成とそれに伴う全ての結果か、それとも党内部での独裁を含む一党による独裁か、を選択する必要があった。//
 (5)民主主義的要求の中でも重要なのは、労働組合と労働者評議会の自立性だった。
 「全ての権力を評議会へ」との叫びすら聞こえてきた。-たしかに声高ではなかったが、賃金や労働条件の問題のみならず産業管理にも重要な役割を果たす、労働者評議会の党からの独立という考えは、ポーランドとハンガリーの両国で頻繁に提示された。のちには、ユーゴスラヴィアの例が引用された。
 労働者の自己統治は、当然に経済計画の非中央化につながるものだった。//
 (6)非政党界隈で望まれた重要な改革は、宗教の自由と教会への迫害の中止だった。
 ほとんどが反宗教的である修正主義者たちは、この問題を傍観していた。
 彼らは教会と国家の分離を信じており、その間に拡大していた、宗教教育の学校への再導入という要求を支援しなかった。//
 (7)一般的に提示された要求の第二の範疇は、国家主権と「社会主義ブロック」諸国の間の平等に関係していた。
 全ての社会主義ブロック諸国で、ソヴィエトの監督は多数の分野できわめて強かった。とくに軍と警察は特別で直接的な統制のもとにあり、全ての問題について長兄〔ソヴィエト同盟〕の例に従う義務は、国家イデオロギーの基盤だった。
 民衆全体が鋭敏に感じていたのは、それぞれの諸国の恥辱、ソヴィエト同盟への従属、それによる隣国に対する不躾な経済的搾取、だった。
 しかしながら、ポーランド民衆は全体としては強く反ロシア的だった一方で、修正主義者たちは一般的には伝統的な社会主義諸原理を主張し、民族主義(nationalism)の語法を用いるのを避けた。
 修正主義者たちや他の人々が頻繁に主張した要求は官僚機構員たちが享受している特権の廃止であり、収入の問題というよりも、日常生活の困難さから彼らを解放している超法規的な取り決め-特殊な店舗や医療機関の利用、居住上の優先、等々-にあった。//
 (8)批判論の第三の主要な領域は、経済の管理だった。
 産業を元のように私人の手へと移すという要求はほとんどなされなかった、ということには注目しておかなければならない。
 ほとんどの人々は、産業が公的に所有されていることに慣れ親しんでいた。
 しかしながら、つぎのことが要求された。
 強制的な農業集団化の停止、極端に負担の多い投資計画の縮小、経済への市場条件の役割の拡大、労働者への利潤分配、合理化された経済計画、非現実的な全包括的計画の廃止、起業を妨害している基準や指令の減少、およびサービスや小規模生産の分野での私的および協同的活動の容認。
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 ②へとつづく。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
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 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。

2062/松下祥子・阿児和成・近藤富美子③。

 前回№2043/2019年09月16日付に「要旨」という語は法律用語ではないと記述したが、法令で用いられている概念ではない、という趣旨であるとすると、誤りだ。
 行政不服審査法50条第1項は、こう定める。
 「裁決は、次に掲げる事項を記載し、審査庁が記名押印した裁決書によりしなければならない。
 一 主文
 二 事案の概要
 三 審理関係人の主張の要旨
 四 理由(<中略>を含む。)」
 他にも、何らかの文書について、その「要旨」の記載や公表を求める法令上の条項がある。
 しかし、「この法律(や政令等)において、要旨とは…をいう」などといった定義規定はおそらく間違いなく存在しないので、前回に記したように、「要旨」の語意は、「結局は、健全な適切な<社会的感覚>または<社会的常識>で判断するしかない」。
 そして、常識的な日本語の用法からして、例えば元の文書・文章よりも<長く>なっている文書・文章は、前者の「要旨」だとは言えないだろう,と書いたのだった。
 上に引用の条項によると、「裁決」なるものには「審理関係人の主張の要旨」を記載しなければならない。
 これはいわば必要的記載事項だから、これを欠く、または「要旨」ではない文章を記載している「裁決」は、瑕疵あるものになるだろう。
 但し、行政不服審査(行政不服申立)制度やそこでの「裁決」の意味・位置づけ等にはここでは立ち入らない。行政事件訴訟法3条2項によると、同法上の「取消訴訟」には「処分」についてのそれと「裁決」についてのそれがあるようなのだが。
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 G・トノーニら/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む統合情報理論(亜紀書房、2015)、p.78に、つぎのような文章がある。
 「脳に損傷を受けた患者に意志に基づく身動きが見られるならば、確かに意識があるといえる」。しかし、「身動きがまったく見られない場合でも、意識がある可能性がないとはいえない」。
 相当に幼稚な叙述になるが、上の文章は、単純にはつぎのことを意味することが容易に分かる。
 Aであれば、Bといえる。しかし、Aでなければ、Bでない、ということにはならない。
 そして、ここでG・トノーニらが問題にしているのは「意識」があると言えるか否か、であることも明らかだろう。彼らは、「意識」の有無に関心があるのだ。
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 幼稚な叙述を続けるが、「要旨」という語を使って、つぎの文章があると想定してみよう。
 ①A文章と<まったく(ほとんど)同じ>だから、B文章はAの<「要旨」とは言えない>。
 このような主張・指摘に対して、某行政担当者で法規・文書関係の責任者(知事または市長の「専決」権をもつ者)は、つぎのように反論・釈明または主張をしたらしい。
 ②<まったく(ほとんど)同じ>ではなく、<少し異なっているし、少し詳しくなっている部分もある。>
 分量的には、B文章の方がA文章よりも<少し長い>か<ほとんど同じ>であることを、この話題は前提にしている。
 しかし、上の②を述べることによって、この人物は、<BはAの「要旨」とは言えない、ということにはならない>、という趣旨を述べたつもりだったらしい。G・トノーニらの場合に問題は「意識」の存否であつたのと同様に、この場合の問題は<BはAの「要旨」と言えるか>だったのだから、厳密にはまたは論理的には同一ではないとしても、上の②を述べることは、まるで<BはAの「要旨」だと言える>というに等しいだろう。
 幼稚で、馬鹿らしい話だ。
 この人物は、<BはAの「要旨」とは言えない、ということにはならない>と明言しただけで、その後自らは何もせず、何の反応もしなかったらしい。
 そして、この人物が、上にいうB文章はA文章の「要旨」であるとは言えない、ということを公式に?肯定したのは、一ヶ月半のち、つまり約6週間後だった、とされている。
 ここまでをまとめると、<まったく(ほとんど)同じ>だからB文章はA文章の「要旨」ではない、というのが主旨である主張・指摘に対して、この人物は、B文章はA文章と<まったく(ほとんど)同じ>ではなく<少し異なっているし、少し詳しくなつていいる部分もある>といったん明確に回答した。そののち、ひょっとすれば両者の文書をきちんと比較して読んでみたのか、一ヶ月半、約6週間後になってようやく?、上にいうB文章はA文章の「要旨」であるとは言えない、と認めた、というのだ。
 いったいなぜ、こんなことが生じるのだろうか。
 じつに興味深い。人間というものの意識・発言・行動について、考えさせられる。
 人間個人(自然人)といっても様々だ。組織・団体に帰属している場合、そしてその帰属によって<食って生きている>場合、自分の身を守るために、あるいは自分の身の安全を図るために、その組織・団体との関係で、あるいはその組織・団体のために、その人間個人はどう振る舞うのか。
 (つづく)

2061/司馬遼太郎「華厳をめぐる話」(1993)。

 司馬遼太郎「華厳をめぐる話」同・十六の話(中央公論社、1993/中公文庫1997、初出1989)、司馬遼太郎全集第54巻(文藝春秋、1999)収載。
 司馬遼太郎のこの随筆または紀行文の冒頭に、興味深い文章がある。全集、p.351。
 ・「この地でさまざまな"因縁"(関係性)が構成され、それが"縁起"となって、…という"因果"をうんでいる」。
 ・「孤立せる現象など、この宇宙に存在しない」。「一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にある」。
 ・「たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を…"世界"という」。
 きわめて<哲学>的にも見える文章だが、「華厳経」(盧舎那仏・釈迦如来=東大寺大仏)に関する「話」だ。
 特段に難解な日本語が用いられているわけではない。しかし、このように叙述することのできる司馬の筆力も相当のものだろう。筆力のみならず、一個の人間としての感受性も優れていたに違いない。
 上の文章から想起するのは、私は正確な意味を知らないが、<弁証法>というものだ。
 「大は宇宙から小は細胞の内部まで」何かと何かが「交錯しあい」「相対的に依存しあ」いながら「あらたな関係」を生み出す、というのは単純化すれば<正-反-合>ということにもなる。むろん、対立し矛盾し合うのは二つの「階級」でも「生産力と生産関係」でもない。革命が「あらたな関係」を生み出して「社会主義・共産主義」社会になるのでも全くないけれども。
 また、関連して想起するのは、人間社会の現在または過去・「歴史」に関して、司馬の上の文章を借りると、「因縁」・「縁起」・「因果」を、「相互に相対的に依存しあう」「一切の現象」を、あるいは「かかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあ」う「無限の微小・巨大といった運動」の「総和」を、正確にまたは厳格に叙述する、ということの、苛酷なほどの困難さだ。
 人間とその社会の「歴史」を、過不足なく可能なかぎり正確にまたは厳密に叙述してきた者が、はたしているだろうか。
 ここでさらに思い浮かべるのは、レシェク・コワコフスキの大著・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978)の「はしがき(Preface)」の中の言葉だ。この欄の№1839/2018年09月01日に掲載。
 L・コワコフスキはそこで、つまり大著の冒頭で、くどいほどに叙述対象に限定を加え、くどいほどに叙述の困難さを述べている。
 最も一般的で、注目されてよい叙述は、つぎの文章だろう。
 「いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を『生きている全体』から切り出すことを余儀なくされる。/これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになる。」
 つまり、マルクス主義の歴史の叙述についても、「全てのものが何らかの態様で結びついている」ので、厳密には、あるいは正確には、「世界史」全体の叙述が必要になる、と言うのだ。
 したがって例えば、第一に、もちろん強い関係はあるけれども、対象は「マルクス主義」の歴史であって「社会主義思想の歴史ではなく、…政治的党派や運動の歴史でもない」。
 また第二に、「政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ」、著者の主観的な「歴史的評価」のみがあって「歴史的説明」は存在しない、と最初から言ってしまえば、どんな「歴史的手引書」を執筆することもできなくなるのだから、「素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性」について、「著者の見解や志向が反映される」のは不可避だ。
 なお、<〜の歴史>ではなく<〜の主要潮流>というタイトルにしているのも、重要な意味があるのだと思われる。歴史全体を描くなどという大それたことをするつもりはない、という釈明?を、あらかじめ行っていることにもなる。
 ひるがえって考えて、複雑・多様な「全体」から一部を「切り出す」ことを余儀なくされるのは、小説(・フィクション)でないかぎり、歴史叙述・歴史学の宿命だろう。
 また、もともと、「言語」による抽象化、<立体的・総合的な>描写様式が開発されていない、ということによる平板化・単純化もまた、人間の知的営為としての歴史叙述の限界であり宿命なのだろう。
 しかし、困ってしまうのは、このような意識または自覚なく、歴史叙述の「訓練」を受けていないシロウトが「歴史」に関する書物や小論を平気で執筆して、公刊していることだ。櫻井よしこや江崎道朗のごとし。その他、小説と明記しないままの、<思い込み>による<歴史物語>の作成者たち。
 アカデミズム内にある者ならば、対象(・時代)の限定のほかに、叙述・検討する「視座・観点」の特定の必要、基礎とする史資料の適切な提示の必要といった「訓練」をいちおうは受けているに違いない。
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 詳しい説明・コメントは省略するが、司馬遼太郎が「大は宇宙から小は細胞の内部まで」というからには、人間の「脳内」も(身体全体も)、無数の要素の相互依存とその統合によって成っている、と言えそうだ。すでにこの欄で触れている二著から、一部を引用的に紹介しておく。
 アントニオ・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・感情・人間の脳(ちくま学芸文庫、2010)、p.198-9。
 ・この「反復的な回路で活動しているのは一連のfeedforward とfeedback のループ」だが、この「仕組みでもっとも重要なことは、基本的な生体調節と関わっている脳構造がじつは行動調節にも関わっていて、認知プロセスの獲得と正常な機能に不可欠であるという事実だろう」。「視床下部、脳幹、辺縁系は身体の調節だけでなく、たとえば知覚、学習、想起、情動と感情、そして推論と創造性といった、心的現象のよりどころであるすべての神経的プロセスにも介入している。身体調節、生存、そして心は、密接に絡み合っている。」
 ジュリオ・トノーニほか/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)、p.126。
 ・「理論のかなめとなる命題」は、「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である」ということだ。「差違と統合が同時に存在する」というのは、「脳という物質のなかには、本当に何か特別なものがある」ということだ。〔情報統合理論〕
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 司馬遼太郎・空海の風景(1975)は、ずっと昔に概読したような気がする(1975年芸術院恩賜賞受賞作)。
 あらためて読み直したいものだ。たんなる「宗教」話ではなくて、当時の日本人が構築した学問大系(大乗仏教・顕密)らしきものの「雰囲気」を知るためにも。司馬の人間というものに対する好奇心は相当なものだと思われる。

2060/江崎道朗2017年8月著の無惨と悲惨25。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
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 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、前回に記したように、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著にに依拠している。つぎの書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。
 小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
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 秋月は聖徳太子や十七条憲法に関する専門的研究者では全くないのだが、上の諸点とともにあるのは、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

2059/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨24。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 ①p.13-「聖徳太子以来の政治的伝統」。
 ②p.344-「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想」。
 ③p.352-「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、…へと至る『本来の日本』」。
 ④p.404-「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方」。
 このように何度も出てくる聖徳太子以来の日本の政治的伝統が、江崎道朗によると<保守自由主義>だ。
 そして、少し立ち入って読むと分かる第二は、この「聖徳太子」または「十七条憲法」というのは、聖徳太子の「政治思想」全体でも、十七条憲法の全体の「精神」でもなく、後者の十七条憲法の、ある特定の条の一部を意味する、ということだ。
 聖徳太子の「実在」性や日本書記に全文の記載のある<十七条憲法>の作成者・作成時期については周知のように議論があるところだが、江崎道朗はそれらをいっさい無視しているので、<聖徳太子が十七条憲法を執筆した>という前提で、つまりは彼と同じ立場に立って、論評を進める。
 小田村寅次郎らは聖徳太子から学んだ、とかその十七条憲法から学んだ、と何度も叙述されているので、上記のように聖徳太子の考え全体や十七条憲法全体から「保守自由主義」が導かれている、と想定しがちになるが、それは、この著の読み方としては、誤っている。
 十七条の憲法というくらいだから、第17条までの条数があり条文がある。
 最も有名なのは第1条の冒頭の「和を以て貴しとなし…」だが、あくまで通説的にだろうが、第2条は<仏教>、第3条は<天皇>への崇敬を求めるものだとされる。第1条は一口では「和」だが、<日本教>・<日本精神>を示すとか、さらにこの条との関係で<神道>が言及されることもある。
 江崎道朗が言及しているのは、しかし、第1条でも(仏教の第2条を飛ばして)第3条でもない。
 第10条だ。p.346。
 しかも、第10条の全体でもなく、そのごく一部に限られる。p.346-7。以下の部分だけだ。
 「共に其れ凡夫のみ」。
 他書からの引用・依拠も多いが、江崎道朗の理解はつぎのごとくのようだ。p.346-7。
 ・聖徳太子・十七条憲法第10条に書くように、この世の人は「どんな人でも」、所詮は「共に其れ凡夫のみ」だ。つまり「人はみな自分に執着し、過ちを犯す欠点だらけの人間だ」。
 ・全ての人間は「不完全で、自己に執着してしまいがち」という「極めて厳しい『自己』認識」だ。
 ・「国民同胞一人のこらず」(=「共に其れ」)、「欠点だらけの人間」(=「凡夫」)であり、「それ以外の何物でもない」(=「のみ」)、という深い意味が込められている。
 この部分は、江崎道朗によると、<五箇条の御誓文>の第一項の「万機公論に決すべし」に継承されている(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.348-9。
 ・「人間は不完全だ。不完全なもの同士だから、お互いに支え合い、話し合ってより良き知恵を生み出すことが必要である-この聖徳太子の発想は、まちがいなく明治日本の理想にも引き継がれている」(!!!-これは引用者・秋月)。
 ・「『万機公論に決すべし』の背景にあるのは、…『それぞれが凡夫で力不足なのであるから、お互いに高め合いながら、より高いものをめざすべく努め合うところに日本の国柄がある』という宣明なのである」(!!!-これは引用者・秋月)。
 さらに、五箇条の御誓文の全部・全条が、江崎道朗によると、つぎのことを示している、とされる(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.350。
 ・日本が目指してきたのは「エリートが世の中のことをすべて取り仕切る全体主義」ではない。「お互いが『自らの足らざるもの』を自覚しつつ、お互いに支えあい、創意工夫をしながら、より高きをめざす『自由な社会』のあり方こそが、日本の本来の姿なのである」。
 このあとに、前回にほとんどを引用した、つぎの文章が続く。p.350。「政治的伝統」ではなく「人生観」になっているのは破綻の一部がすでに見られる、と指摘した。
 ・「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が『共に其れ凡夫のみ』という言葉で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである」。
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 すでに論評と批判的指摘に入っていきたくもなる。「共に其れ凡夫のみ」→「保守自由主義」・五箇条の御誓文。何だこれは?
 だが、もう少し、聖徳太子・十七条憲法に立ち入ってみよう。
 上記のとおり、江崎道朗が注目するのは十七条憲法の第10条の一部の「共に其れ凡夫のみ」という部分だけで、これは原文・漢文だと「共其凡夫耳」の5文字
 第10条というのは(十七条憲法全体だとむろんもっと多いが)この5文字だけで成り立っているのではなく、つぎの文献によって計算すると、計74文字の漢文だ(冒頭の「十日」の2文字を除く)。
 日本思想大系・聖徳太子集(岩波書店、1975)、p.74。
 計74の漢字文のうち5文字だけ取り出して読解することはできないだろう。
 そこで、漢字だけを並べても意味を解し難いので、手元にあったつぎから、読み下し文をその下に掲げる。適宜、改行する。
 坂本太郎・人物叢書/聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)、p.89。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
 さてここで、江崎に対して、つぎの疑問が生じる。
 第一。上の10条全体のうち「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」だけに着目し、<人はみな不完全な物に他ならない>という意味だと理解してよいのか。全体の文章・文意の中で位置づけて解釈する必要があるのではないか。
 第二。そもそもなぜ、<聖徳太子・十七条の憲法>に何度も言及しておいて、第10条の一部にのみ着目するのか。
 異常、異様だと感じざるを得ない。
 もちろん、<人間はみな不完全だ>との意識・認識が<保守自由主義>なるものにどのようにして帰着するのか?、という問題も厳然としてある。
 凡夫=不完全な人間という理解の仕方自体の問題もありそうだ。
 それはかりに別としても、<人間はみな不完全だ>から出発して、いかなる<主義>も取り出せるような気がする。
 あるいはそもそも、聖徳太子・十七条の憲法の一部を読まないと、<人間はみな不完全だ>ということを、江崎道朗は認識できないのか?
 純粋無垢な?高校生が、あるいは何かの新興宗教の教主が書いたような文章を読むのもいいかげんうんざりはする。
 第三に、上のことを江崎道朗は、自分自身の検討等によってではなく他人の本(のしかもまた引用または間接的紹介)に依拠して書いている、ということを次回に記す。

2058/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨23。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子は、恥ずかしく感じなければならない。学者・研究者としての良心があるならば、京都大学「名誉教授」・中西輝政も、同じく京都大学「名誉教授」・竹内洋も。
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 江崎は、上の著は最終文の直前の文でこう書いている。
 p.414(おわりに)-「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 また、最終章の末尾には、こうある。
 p.406(第6章)-「われわれは、憲法改正によって取り戻すべきは『保守自由主義』であって『右翼全体主義』でも『左翼全体主義』でもないと明確に答えることができるようなっておくべきなのだ」。
 さらに、第5章の末尾には、こうある。
 p.354(第5章)-「われわれは、……小田村寅次郎ら『保守自由主義』の系譜を受け継ごうとするものだ」。
 これらでの「われわれ」とは誰なのか明記されていないが、江崎を含む仲間たち、要するに<現在の日本の「保守」派>であり、その仲間たちに呼びかけているのだろう。
 「われわれ」の意味・範囲は瑣末なことだ。
 上のようにこの著にとって重要な基礎概念である<保守自由主義>とは何かが、当然に問題にされなければならない。そして、これが曖昧なままだと、この書物の目的は達成されていないに、ほとんど等しいだろう。
 そして、多少立ち入れば、つぎのことが読み取れる。
 第一、<保守自由主義>とは、聖徳太子・十七条憲法と関係があり、そこに示されるとされる「日本の長い政治的伝統」だとされている。
 例えば、以下のとおり。
 p.13(はじめに)-日本のエリートたちは大正時代以降3つのグループに分かれたが、「第三は、聖徳太子以来の政治的伝統的を独学で学ぶ中で、…皇室のもとで秩序ある自由を守ろうとした『保守自由主義』のグループだ」。
 p.279(5章第4節)-小田村寅次郎らの一高昭信会のリーダーは「聖徳太子の十七条憲法や……を学ぶことを通じて、日本型の保守主義についての勉強を行っていた」。
 p.344(5章第27節)-見出し「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想に学ぶ」。
 同(5章第27節)-小田村らが「聖徳太子の十七条憲法歴代天皇の政治思想を学ぶことを通じて日本型の保守主義についての勉強や活動を行ってきたことはこの章の最初に、すでに述べた」。<なお、立ち入らないが、「歴代天皇の政治思想」を学んだとは章の最初に書かれておらず、「歴代天皇の政治思想」が出てくるのはここだけだ。>
 p.348(5章第28節)-見出し「保守自由主義の立脚点は聖徳太子、五箇条の御誓文、帝国憲法」。
 そして、聖徳太子(・十七条憲法)に関するやや立ち入った言及があった後のつぎの結論的叙述は、最も長い文章であるかもしれない。
 p.350(5章28節)-「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が…で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである。/
 小田村たち、「すなわち『若き保守自由主義者たち』の脚点は、まさに、聖徳太子から五箇条の御誓文、そして帝国憲法へと至る、日本の真の伝統であった」。 
 同様の趣旨は、この後にも現れる。
 p.352(5章29節)-「右翼全体主義者」は「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、帝国憲法へと至る『本来の日本』などまったく顧慮せず、……帝国憲法体制を破壊すべく邁進していったのだ」。
 p.404(第6章15節)-彼らは「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方も、大日本帝国憲法に込められた叡慮も、…もきちんと学ばずに、…レーニンの帝国主義論など、最新の学問潮流に幻惑されていった」。
 この程度にするが、このように、何度も「聖徳太子」・「十七条憲法」や「五箇条の御誓文」を登場させている。
 しかしながら、決定的に不十分なのは、<これらがなぜ「保守自由主義」を示すものなのか>だ。
 江崎道朗は、これに全く言及していないわけではない。
 だが、おそるべきほどの杜撰さで、これらを叙述し、理解しようとしている。
 そこには決定的に不備・誤りがあるだろうが、上に引用した中では、聖徳太子以来の「政治的伝統」であるはずなのに、「聖徳太子が…で示した人生観」(p.350)なるものに遡ろうとする叙述にも<破綻>の一端が見られる。
 そして、江崎道朗は、十七条憲法にせよ、五箇条の御誓文にせよ(大日本帝国憲法は別に措くとして)、<保守自由主義>だということを示す何ら詳細で具体的な「研究」ないし「論証」も展開していない。
 皮を剥いていくと何もなかった、というのにほぼ等しい。言葉としては、聖徳太子・十七条憲法等が出てくる。しかし、これらに多少とも立ち入った叙述はない。そのような観のある叙述部分も、江崎自身の見解ではなく、他者の見解を紹介・引用することで済ませている。
 何と無惨だろうか。こんな叙述で、読者は納得するとでも考えていたのだろうか。
 怖ろしいことだ。こんな書物が日本では堂々と出版されている。<惨憺たる>出版物だ。
 次回には、聖徳太子の十七条憲法のどの部分が、江崎のいう<保守自由主義>なのか、という、奇妙な叙述を紹介し、論評する。

2057/池田信夫のブログ015-高坂正堯。

 池田信夫ブログマガジン2018年10月29日号「高坂正堯の孤独な現実主義」。
 高坂正堯が書いたものを熱心に読んだ記憶はないが、ごく常識的なことを書いたり語ったりしていた記憶はある。
 池田信夫はいう。高坂が「論壇」で孤独だったのは京都大学出身と関係がある。東京大学(法学部)を中心とする「論壇の主流は非武装・非同盟の理想主義」だったからだ。
 「非武装・非同盟の理想主義」とは日本共産党ではなくかつての日本社会党の主張だろうか。そして、池田によると、「論壇はなくなったが、今もマスコミの主流は彼の批判した一国平和主義である」。
 2018年時点での「マスコミの主流」はどうなのかはよく分からないが、朝日新聞・東京新聞および系列のテレビ局等は、アメリカ(と日本?)の「好戦」気分に反発する「平和かつ護憲」路線なのかもしれない。
 そういうことよりも、池田信夫が高坂正堯を好意的・肯定的に取り上げていることの方が興味深い。
 池田によると、高坂は「民社党に近いリベラルだった」。
 そして、「こういう中道右派が育てば、日本の政策論争も少しは健全なものになったかもしれないが、彼の早すぎた死で、日本には安全保障に関する論争がなくなってしまった」。
 おそらく確かなのだろう。高坂は「自民党には投票したことがない」と言っていたらしい。
 高坂を<保守反動>の国際政治学者とみていた<容共・左翼>も多かっただろうから、上の指摘はすこぶる関心を惹く。
 そして再び思い出すのだが、かつて自由社の社長だった石原萌記は、もともとは日本社会党右派の人脈の中から出発した。そして、「社会党」というと<左翼>のイメージではあるが、しかし<反共産主義>の明確な人物だった。だからこそ江田三郎・江田五月を応援し、またかつての民社党関係者や財界を含む<保守>的人々との交流も深かった。
 高坂正堯、1934年5月生~1996年5月。満62歳。
 確かに、早すぎた。
 石原萌記、1924年11月生~2017年2月。満92歳。
 石原は長寿だったが、石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)を刊行してその人生の一区切りをつけたと見られる。この本には 高坂の論考類による主張の紹介も何箇所かで行われている。そして、この年は、高坂の死の3年後。
 この時期、つまりソ連解体1991年12月の後の10年足らずの間は、重要な時代だったとともに、日本に明確な<反共・自由主義者>が消失していった、または数少なくなっていった大きな画期だったようにも思われる。
 いや、実質的には<反共・自由主義者>は多くいたに違いない。
 しかし、重要なのは、多くいたし、現にいるのだろう<反共・自由主義者>たちが、かつての福田恆存等々と違って、「保守」とは自称しなくなった、そう標榜しなくなった、ということだ。
 なぜか。1997年設立の日本会議、「愛国」・「日本」・「天皇」の右翼団体が<保守>を標榜し、産経新聞社等のマスコミ・メディアがこの団体とその背後の情報・読書<需要>を商業的に利用しようとしたからだ、と思われる。これに巻き込まれた、または進んでこの界隈に入っていった<もの書き>=文章作成非正規雇用者たち、もいた。
 これは、この頃にはイメージがよくなってきたとされる「保守」という言葉の、誤用であり、簒奪だった。
 石原萠記やその著書については、さらに触れなければならない。間接的にせよ、L・コワコフスキらが1970年代前半に組織したシンポジウムと関係があったことは、この欄ですでに触れた。
 雑誌・自由に寄稿していた、日本文化フォーラム(1956年~)や日本文化会議(1968年~1994年、初代理事長・田中美知太郎)のメンバーたちの論調や人脈は、この1990年代の半ばから後半にほとんど途切れたのではなかろうか。
 日本会議の活動家たちは石原萠記の「左翼」性を強調し、日本文化フォーラム・日本文化会議の歴史を決して高く評価しないのだろうが、日本会議には全く欠如している感のある「知性」・「理性」があり、また<反共産主義>の明確さにおいて、立派な<保守>だったと思われる。
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 1991年/ソ連解体。
 1991~93年/宮沢喜一内閣。
 1993~94年/細川護熙内閣。
 1994年/日本共産党第20回党大会-「ソ連は社会主義国でなかった」。宮本顕治・中央委員会議長。不破哲三・幹部会委員長。
 1994年/日本文化会議解散。村山富市内閣発足。
 1994年/福田恆存、逝去。
 1995年/戦後50年・村山内閣談話。新進党結成。
 1996年/新しい歴史教科書をつくる会発足。
 1996年/高坂正堯、逝去。
 1997年/日本会議発足。
 1997年/日本共産党第21回党大会。書記局長・志位和夫。宮本顕治は退任。
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2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
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 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

2055/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)② 。
 (5-2)人間の思考は、プラトンによる知識と意見の区別、epsteme とdoxa の区別のおかげで恣意的判断には従わない知識の領域を拡大することができ、科学を生み、発展させた。
 もちろん、この区別は、思考、感情および欲求が高次の「統合」へと融合する、究極的で全包括的な統合体を形成する余地を残したわけではなかった。
 このような願望の達成は、全体主義的神話が思考に対する優位を要求するときにのみ可能になる。-この全体主義的神話とは、より深い直観にもとづくために、自己正当化する必要がなく、精神的および知的な生活の全体に対する司令権を獲得する、そのような神話だ。
 むろん、これが可能になるためには、全ての論理的で経験的な規準は無意味なものだと宣告されなければならない。そしてこれこそが、マルクーゼがしようとしたことだ。
 彼が追求したのは、技術的進歩のごとき瑣末な目的を軽蔑し、一つでかつ全包括的であることに利点のある、統合された知識の一体だ。
 しかし、思考が論理による外部的強制を免れることが許容されるときにのみ、このような知識は可能になり得る。
 さらに、人間各人の「本質的」直観は他者のそれと異なる可能性があるので、社会の精神的な統合は、論理や事実以外の別のものにもとづいて構築されなければならない。
 そこにあるのは、思考の規準以外による、かつ社会的抑圧の形態をとる何らかの強制であるに違いない。
 言い換えると、マルクーゼのシステムが依存するのは、警察による僭政による、論理の僭政の置き換えだ。
 このことは、全ての歴史上の経験が確証している。すなわち、特定の世界観を社会全体に受容させるには一つの方法しか存在しない。一方では、その思考の作動規準が知られて承認されているかぎりで、理性的思考の権威を押しつけるには多様な方法があるのだけれども。
 エロスとロゴスのマルクーゼ的統合は、力(force)によって確立されて統治される全体主義国家の形態でのみ実現することができる。
 彼が擁護する自由は、非自由(non-freedom)だ。
 かりに「真の」自由が選択の自由を意味しておらず特定の対象を選択することにあるのだとすれば、かりに言論の自由が人々が好むことを語ることができることを意味しておらず正しい(right)ことを語らなければならないことを意味するとすれば、そして、マルクーゼと彼の支持者たちだけに人々が何を選択し、何を語る必要があるのかを決定する権利があるとすれば、「自由」は単直に、その正常な意味とは反対のものになってしまう。
 このような意味で、ここでの「自由な」社会は、よりよく知る者の指令を受ける以外には、人々から目的や思想を選択する自由を剥奪する社会だ。//
 (6)つぎのことは、とくに記しておかなければならない。マルクーゼの要求はソヴィエト全体主義的共産主義がかつて行った以上に、理論と実践のいずれについても、はるかに大きいものだった。
 スターリニズムの最悪の時代ですら、一般的な教条化と知識のイデオロギーへの隷属があったにもかかわらず、ある領域はそれ自体で中立的で論理的かつ経験的な法則にのみ従う、ということが承認されていた。数学、物理学および若干の期間を除いて技術について、このことが言えた。
 マルクーゼは、これに対して、規範的本質は全ての領域を支配しなければならない、新しい「ものだ」ということ以外には我々は何も知らない新しい技術と新しい質的な科学が存在となければならない、と強く主張する。
 これら新しいものは、経験と「数学化」という偏見から自由でなければならない-つまり、数学、物理その他の科学に関する知識が何らなくとも獲得できる-。そして、我々の現在の知識を絶対的に超越しなければならない。//
 (7)マルクーゼが渇望し、産業社会が破壊したと彼が想像しているこのような統合は、かつて実際には存在しなかった。例えば、Malinowski の著作で我々が知るように原始社会ですら、技術的秩序と神話を明瞭に区別していた。
 魔術と神話は決して、技術や理性的努力に取って代わらなかった。これらは、人類が技術的統制を及ぼさない領域で補充するだけだった。
 マルクーゼについて先駆者だと唯一言えるのは、中世の神性主義者(theocrat)であり、科学を排除し、科学から自立性を剥奪しようとした初期の宗教改革者(Reformation)だ、ということだ。//
 (8)もちろん、科学も技術も、目的と価値の階層制に関するいかなる基礎も提示しない。
 手段の反対物である目的それ自体は、科学的方法によって特定することができない。
 科学はただ、我々が目標を達成する方法とそれを達成したときに、またはそれに一定の行動が続いたときに、生起するだろうものは何かを語ることができるだけだ。
 ここにある空隙を、「本質的」直観で埋めることはできない。//
 (9)マルクーゼは、科学と技術に対する侮蔑意識を、物質的福祉に関する全ての問題は解決されて必需用品は豊富に溢れているがゆえに、より高次の価値を追求しなければならないという信念と結合する。すなわち、量を増加させることは、たんに資本主義の利益に貢献するだけなのだ。資本主義は、虚偽の需要を増やし、虚偽の意識を注入することによって生き延びる。
 マルクーゼはこの点で、典型的に、食糧、衣服、電気等々を得ることに何も困難を感じる必要がなかった者たちの心性(mentality)をもつ者だ。これらの生活必需品は既製のものとして調達可能だったのだから。
 このことは、物質的および経済的生産とは何の関係もなかった者たちの間で、彼の哲学が人気があったことの説明になる。
 快適な中産階級出身の学生たちは、生産に関する技術や組織が精神的地平に入ってこないルンペン・プロレタリアートと共通性がある。豊富であれ不足であれ、消費用品は彼らにとって、奪うためにあるのだ。
 技術と組織に対する敵意は、活動に関する標準的規則に従う、または積極的努力、知的な紀律および事実や論理の規準に対する謙虚な態度が必要な、そのような全ての形態の知識に対する嫌悪感と一体のものだった。
 骨の折れる仕事を回避し、我々の現在の文明を超越しかつ知識と感情とを統合するグローバル革命に関するスローガンを唱えるのは、はるかに簡単なことだ。//
 (10)マルクーゼはもちろん、個人がそれぞれ履行する機能にすぎなくなってしまう生活に対して功利主義的に接近していることから帰結しているのだが、現代の技術と精神的疲弊が破壊的効果をもつことについて、日常的に絶えず繰り返して、不満を述べていた。
 これはしかし、彼に独自の考えではなく、永遠に自明のことだ。
 しかしながら、重要なのは、技術の破壊的効果に対しては、技術自体をさらに発展させることよってのみ闘うことができる、ということだ。
 人類は、技術的進歩の好ましくない帰結を稀少化するために、「不毛な」論理や社会的計画化の方法の助けを借りて、科学的に仕事を履行しなければならない。
 この目的のためには、生活をより耐えられるものにし、社会改革に関する理性的考察をより容易にする、そのような価値観を確立し、促進しなければならない。社会改革とは、寛容、民主主義および言論の自由の価値の実現だ。
 マルクーゼの基本綱領は、これとは正反対だ。すなわち、科学と技術を従属させる全体主義的神話の名のもとに民主主義的諸制度と寛容を破壊すること(実際に適用することだけではなく、理論的側面でも)。ここでの科学と技術の従属とは、経験論と実証主義に反対する哲学者たちの排他的財産である、漠然とした「本質的」直観への隷従化のことだ。//
 (11)マルクスの標語である「社会主義か野蛮か」を「社会主義=野蛮」という範型に置き換える、ということほど明確な例証はほとんどあり得ないだろう。
 そしてまた、我々の時代に、マルクーゼほどに完璧に反啓蒙主義(obscurantism)のイデオロギストだと称するに値する哲学者は、おそらく存在しない。
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 第5節、終わり。マルクーゼに関する第11章も終わり。

2054/福田恆存における「史実」と「神話」-1965年。

 福田恆存「紀元節について」同評論集第8巻(麗澤大学出版会、2007)。
 これの初出は、雑誌・自由(自由社)1965年4月号。
 福田恆存は「建国記念日(2月11日)」設置に反対する「左翼」に反対し、旧紀元節の復活に賛成していたのだが、上の中でこう明確に記述している。
 福田恆存の主張・論評類の全体を知らないと、<神話と歴史>・<物語と史実>に関するこの人の正確な考えは分からないだろう、ということは承知している。但し、なかなかに面白い、興味深いことを上の論考で主張している。
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 福田は「二/史実」の中で、反対論者は「史実」に反するという、と述べて、こう続ける。一文ごとに改行。旧かなづかいは現在のものに改めさせていただく。
 ・「私たちは絶対天皇制の時代に育ちましたけれども、伊邪那岐命・伊邪那美命の話をほんとうの話と思ったことは一度もない。
 天照大神のこともほんとうだと思ったことはない。
 神武天皇のことでもほんとうのことだと思ったことはない。
 歴代の天皇が100年も200年も生きているなどという馬鹿げたことはないのですから、そんな馬鹿なことを先生が学校でむきになって教えても、本気にしない。<中略>
 だから戦前の歴史教育は間違っていたと言いますけれども、それはあまりに国民を馬鹿にするものです。」p.120。
・「『日本書記』についていえば、当時の大和朝廷が、国の基が固まったという一つの喜びを、将来この国がりっぱに伸びていくというようにということで、自分たちの仕事を権威づけ、仕事が後に末長く栄えていくようにと祈る気持ちで、当時の歴史編纂官に命じて書かせたものであります。
 そして作者は日本の紀元を、そう言いたければ、あえて『でっち上げた』のです。」p.122。
 ・戦前の天皇制と当時の大和朝廷は「全く違った」もので、「いまの気持ちからその当時の気持ちを推察するのは間違い」だが、1月1日=新暦2月11日を「日本の紀元」とすることに問題はない。かつての「日本人の心理的事実を史実とみなしての上の根拠」だが、「その日が最も根拠があると思う」。p.123。
 ・「記紀の話は事実としては作り話であっていいわけです。
 しかしなぜ作り話が一定の効果をもったかが問題なんですね」。p.124。
 ・「どういう気持ちで日本人が日本民族の紀元を定めたのか、こうありたいと願ったその当時の人々の気持ち、それを受け継いだ明治政府の気持ち、そしいうものを全部否定してしまうのは、日本国の歴史は歴史上くだらない歴史であった、敗戦に至るまだ全部だめだったということで、日本人の過去を全部抹殺してしまうことになります」。p.124-5。
 ・「紀元節が史実に反するとかなんとか言うのは、全くの言いがかりで、その本当の反対理由は、日本の過去を全部過ちの連続としてとらえたいという戦後の歴史観が危うくなりそうだと不安感の悲鳴にすぎません」。p.126。
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 福田恆存、1912年生~1994年没。
 相当に鋭いのではないか。論旨も、ほとんどよく分かる。
 幼稚にまとめれば、「史実」ではなくとも「当時の人間の心の動きだとか、価値観だとか」(p.123)が史実以上に大切なことがあるのだ。
 ともあれ、喫驚するほどに、福田恆存は日本書記または記紀が記述する<日本神話>の「史実」性を否定している。だが、いっさい無視するのでもなく、そこに示された当時の(ということは天武=持統天皇系の皇室になるが)人々の「感情・価値観」を大切に理解すべきだ、という旨を言っている。
 まことに、冷静で、知的な<保守>の考えだと思われる。
 このような認識や議論の仕方は、天皇<万世一系>論、天皇<男系継続>論(女系否定論)等についても、大切だと思われる。あるいは当てはまり得るものだと思われる。例えば、「記紀」がこれらの問題に関する主張の根拠になるわけがない。
 このような人が、現在はほとんどいなくなった。福田恆存の没後に数年だけ経過して<日本会議>が設立され(1997年)、まるでこの団体が<保守>の代表だと見なされるようになった観があるのは、日本にとって大きな悲劇であり厄災だった。
 <日本会議>は反共・自由主義という意味での「保守」ではなく、「日本」と「天皇」にだけほとんど執心する「右翼」団体だ。
 この日本会議に批判的であったはずの西尾幹二が2019年には見事に、上の福田恆存とは真逆に<神がかり>的になって、<日本の神話を信じるか、信じないか>の対立だ、などと血迷い事を述べるに至っていることは、別に触れる。

2053/G・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(2015)②。

 M・マシミーニ=G・トノーニ/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む情報統合理論(亜紀書房、2015)。
 p.76~p.91には、「意識の事件ファイル」の「第一」から「第三レベル」の記述がある。ただちには理解不可能だが、「意識」の有無の判別について、三つの段階の問題がある、といった趣旨だろう。
 (1)第一。自発的とみられる「身動き」のあること。但し、「身動き」がなくとも、「意識」があることがある。
 ①脳「梗塞や出血」で「大脳皮質から脊髄へと伸びる、密集した線維が完全に切れて」いるのが、<ロックトイン症候群>の典型例。
 ②「脊髄から筋肉」への全ての「ニューロンと神経において、電気信号の発生がブロックされる」場合が、<筋萎縮性側索硬化症(ALS)>や<ギラン・バレー症候群>。
 ③「大脳皮質」中の運動関係部位の広い範囲が「外傷または血液循環の不全」で破壊されると、同様のことになる。
 これらの場合、「意識がある可能性がある」。
 (2)第二。外部からの指示に<正しく>反応すること。
 脳出血により前頭大脳皮質に広い損傷をした23歳女性はいったん「植物状態」と診断され、身動きは全くなかったが、「テニスをする」、「自宅内を歩く」を想像してとマイクで指令すると、「前運動野」のニューロンの動きが活発になった=「酸素消費量」が明確に増えた。2006年に公表。
 但し、このような変化がなくとも、「意識」があることがある。
 ①指令で使う「言語」が理解できない場合。失語症のこともある。
 ②「大変な心理的・身体的状態」のため、<実験>に参加する気になれない場合。
 ③ そもそも対応する「気力」が残っていない。
 「意識がある証拠があがらないからといって、意識がない証拠とすることはできない」。
 (3)第三。直接に脳内に入り込んで、信号・波動・微粒子の動きを調べて分析する。
 基本的な技術は、つぎの二つ。
 ①機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)・ポジトロン断想法(PET)-脳の代謝活動を測定する。
 ②脳波図(EEG)・脳磁図(MEG)-ニューロンの電気活動を記録する。
 いずれも、「意識の発生と完全に相関関係にあるニューロンの動き」の有無を特定する。
 しかし、ア/ニューロンの活動量・代謝レベルによっては結論が出ない。
 イ/「ニューロンのインパルスの同期」も、完全な指標を示さない。
 ・「人に意識がある証拠をとらえるのは、いうは易しで、実際はずっと難しい」。
 ・「他人の脳のなかに意識の光が灯っているか、消えているかは知りえない。そんなはずはないと思われるかもしれないが、本当にそうなのである」。-p.91の最後の一文。
 ***
 トニー・ジャット(Tony Judt)-1948年1月~2010年8月/満62歳で死去。
 この欄でかなり多く言及したこの人物は、上に出てくる<筋萎縮性側索硬化症(ALS)>(ゲーリック症)だったとされる。
 L・コワコフスキが2009年7月に逝去した直後の哀惜感溢れる追悼・回顧の文章(この欄で言及)は、その時点ではいっさい明かされていないが、この病状のもとで「意思表示」され、配偶者や同僚たちの助けで公にされたと見られる。

2052/L・コワコフスキ著第三巻第11章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.415-。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 ****
 第5節・論評(Commentary)① 。
 (1)マルクーゼの初期の著作は、一種のマルクス主義を表明するものと見なし得るかもしれない(ヘーゲルに関する青年ヘーゲル派的な誤った解釈にもとづく、というのは本当のことだ)。一方で後期の著作は、マルクス主義の伝統を頻繁に呼び起こしてはいるが、ほとんどマルクス主義と関係がない。
 彼が提示するのは、(福祉社会によって回復不能なほどに腐敗した)プロレタリアートなきマルクス主義だ。また、(歴史変化の研究にではなく真の人間の本性に関する直観に由来する未来の見方としての)歴史なきマルクス主義だ。さらに、科学崇拝のないマルクス主義だ。
 解放された社会の価値が創造的活動にではなく愉楽のうちにある、そのような一つのマルクス主義だ。
 これらは全て、本来のマルクスのメッセージに関する、曲解し、歪曲した影像だ。
 マルクーゼは実際に、最も非理性的な形態での、半ロマン派的アナキズムの予言者だ。 確かに、マルクス主義はロマン派的特質を含んではいる。-前産業社会の失われた価値への、人間と自然との間の統合への、そして人間相互間の直接的意思疎通への思慕や憧憬。また、人間の経験上の生活はそれの真の本質と合致することができるし、合致すべきだ、という信念。
 しかし、マルクス主義はこうした要素以外のもの、つまり階級闘争の理論やそれがもつ科学的かつ科学主義的側面、を剥ぎ取られてしまえば、マルクス主義ではない。//
 (2)しかしながら、マルクーゼの著作の主要点は、逆のことを示す明白な証拠があるにもかかわらずマルクス主義者だと自称することにあるのではなく、我々の文明に現在すでにある趨勢のための哲学上の根拠を与えようとすることにある。その目標は、事物の本性によって描写することはできない、そのような幸福の新世界(the New World of Happiness)の啓示のために、内部からその文明を破壊することだ。
 さらに悪いことに、マルクーゼの著作から推論することのできる千年王国(millennium)の特徴は、社会は啓蒙された者たちの集団によって僭政的に支配されなければならないということだけだ。その集団の主たる資格は、ロゴスとエロスの統合を自分のうちに実現し、論理、数学および経験科学の忌々しい権威との関係を断っていることだろう。
 こうした叙述はマルクーゼの教理を戯画化したもののように見えるかもしれない。しかし、彼の著作の分析からこれ以外の何かを抽出することができる、というのは困難だ。//  
 (3)マルクーゼの思考は、技術、正確な科学および民主政体に対する封建主義的侮蔑意識に積極的内容のない漠然たる革命主義を加えた、奇妙な混合物だ。
 彼は、つぎのような文明の存在を嘆き悲しむ。
 (1) 倫理から科学を、価値から経験的数学的知識を、規範から事実を、規範的本質の洞察から普遍世界を、切り離す社会。
 (2) 「不毛な」論理と数学を生み出した社会。
 (3) エロスとロゴスの統合を破壊し、現実はそれ自体の感知されない「規準」を有することを理解しないために我々が直観でもって客観的規範それ自体と比較することができない、そのような社会。
 (4) 全てを技術的進歩に賭けてきた社会。
 こうした歪んだ社会は、知識と価値の「統合」を保持し、規範的本質を喚起することで現実を超越する弁証法によって、対抗されなければならない。
 論理や経験主義の困苦に染まっていない、この高次の知見を獲得した者たちは、この理由によって、共同社会の残余を形成する多数派に対して、暴力、非寛容および抑圧的手段を行使する資格がある。
 該当するエリートたちは、革命的学生たち、経済的後進国の識字能力のない農民層、およびアメリカ合衆国のルンペン・プロレタリアートによって構成される。//
 (4)根本的諸問題について、マルクーゼは、自分がいったい何を主張しているのかを示していない。
 例えば、人間性の真の本質は特定の直観によって明らかになる、そうではない直観によってではない、と我々はどのようにして語るのか?
 あるいは、どのモデルや規範的観念が正しい(right)ものだと、我々はどのようにして知るのか?
 これらの疑問については、答えがないし、かつあり得ない。つまりは、我々はマルクーゼとその支持者たちの恣意的な決定に、思うがままにされるのだ。
 同様に、解放された世界はどのようなものになるのか、我々には分からない。そして、マルクーゼは、あらかじめこれを描写することはできない、と明白に語る。
 我々が語られるのはのはただ、現存社会を完全に「超越」しなければならない、「グローバルな革命」を実行しなければならない、「質的に新しい」社会条件を生み出さなければならない、等々だけだ。
 抽出され得る唯一の積極的結論は、現存文明を破壊する傾向があるものは何でも全て、肯定的評価に値する、ということだ。
 例えば、つぎのように考えるべきいかなる根拠もない。アメリカ合衆国の多数の大学の中心で起こっている書籍の焼却は、プラトンやヘーゲルふうの高次の理性の名において腐敗した資本主義世界を「超越」する、そのような革命的過程を開始する良い方法ではない。//
 (5-1)科学と論理に対するマルクーゼの攻撃は、民主主義的諸制度と「抑圧的寛容」(「真の」寛容、すなわち、抑圧的非寛容の反対物)に対する攻撃と相携えて行われている。
 規範的行為や価値判断を論理的思考や経験的方法から明瞭に切り離す現代科学の基本的考え方は、実際には、寛容や自由な言論と密接に結びついたものだ。
 形式的であれ経験的であれ、科学的規準は、知識の領域を明確に画するのであり、その範囲内で、論争者は共有する諸原理を主張し、その自然の結果として、いずれの理論または仮説が受け入れられ得るものであるかの基礎について、同意することができる。
 言い換えれば、科学は思考のコード(code)を進化させ、演繹的および確率論的論理を構成してきた。そうした論理は、人間の精神に強制的に課され、承認し合う心づもりのある全ての者の間に、相互理解の領域を生み出している。
 この領域を超えたところにあるのは、価値の分野だ。そして、科学的思考の法則によっては証明不可能な一定の特有の価値が関与者たちの間で承認されているかぎりで、ここでも議論は可能だ。
 だが、科学的思考を支配する規準によっては、基本的な諸価値を有効なものにすることができない。
 こうした単純な基本的考え方をすることで、我々は、法則の適用が強いられる分野とそのような法則と相互寛容は存在しないために必要な分野を区別することができる。
 しかし、我々の思考が規範的「本質」に関する直観に従うということがかりに要求されるとすれば、そして、この条件のもとでのみ本当の思考だと称することができると宣告され、またそれが高次の理性の要求に適合するとされるだとすれば、非寛容と思考統制を宣言することに等しいことになる。特定の思想の唱道者たちは、論理的および経験的な規準についての共通する蓄積物を呼び起こせば、彼らの見解を防衛する必要がなくなるのだから。
 「不毛な」形式論理を痛罵すること(論理に関してマルクーゼの語るのはただ、不毛だということだけだ)、そして量的志向の自然科学を罵倒することは(科学についてマルクーゼは、経済学や技術について知っている以上には確実に何も知らない)、単直に無知を称揚することを意味する。
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 段落の途中だが、ここで区切る。

2051/G・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(2015)①。

 M・マシミーニ=G・トノーニ/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む情報統合理論(亜紀書房、2015)。
 せっかく全読了しているので、記憶喪失にならない前に、少しでもメモしておこう。
  「意識はいつ生まれるのか」というよりも、「意識」とは何か。
 「意識」とは何かというよりも、「意識」の有無はどう判断するのか。
 より分かりやすく言うと、どのような状態が「有り」なのか。
 「意識」というのは、関連学界でも定義できない、きちんとした定義が存在していないらしい。
 「文科」系人間でもこの語はよく使うが、人体との関係で「意識」とは何のことか。
 専門的な説明よりも、皮膚感覚で分かりやすいのは、つぎの例だ。
 ①外科手術等のために麻酔を受けて昏睡している間、「意識」はない。「生きて」はいる。
 ②睡眠中の深い睡眠(ノンレム睡眠)のとき、「意識」はない。「生きて」はいる。
 特段の前提的議論をすることなく、著者たちは、上のことを疑いないこととしているようだ。生物神経学、脳科学等において一致しているようでもある。
 ということは、第一に、「意識」の有無と「生と死」は一致しない。
 第二に、「生きて」いても「意識」がないこともある。
 この第二点は言葉の用法として当然のことかもしれない。しかし、「意識」を喪失している間に「生きて」いる状態にあることの感知・証明可能性の問題とともに、「意識」喪失のあとで「生」の世界に回復する場合と「死」の世界へと移行する場合の二つがある、という明確な事実をも関連して含んでいる。
 上の二例でいうと、①麻酔による昏睡から回復・覚醒することが想定されていても、手術失敗・麻酔ミス等により、「死」に至ることもある。
 ②深い睡眠から目覚めることが通常だとしても、何らかの(外部者による又は突然の疾患による)突然の「死」もあり得る。
 これらにおいて、「死」の瞬間に<覚醒>、または意識回復がわずかでもあるのかはよく分からない。しかし、きっとないのだろう。
 さらにまた、上のような例で、とくに睡眠の例で分かるのは、「意識」の有無は、○か×、+1か-1の択一ではなく、いわば+1と-1の間で0を跨いでしまった瞬間がその有無の境界であって、同様に、昏睡から「死」へは連続的な移行過程があるのだろう、ということだ。
 無知の「文科」系人間がこのように書けるだけでも、上の著を読んだ意味があるかもしれない。
  すでに登場している、デカルト、松果体、スパコン、小脳・脳半球奥の「基底核」、ニューロン・シナプス等々をとりあえず飛ばして、第三章の一部、p.55-p.76の範囲から、気を惹いた部分を要約的に抜粋する。
 (1)全身麻酔。
 ・全身麻酔で外科手術中に、昏睡のはずの患者が「意識」を回復することが1000人につき1人の割合で生じている。但し、「意識」が回復したことを患者が伝える手段がないことが多い。
 ・全身麻酔=昏睡中は「自力呼吸」ができず、ポンプにより助ける必要がある。
 ・全身麻酔は効いている間の記憶を喪失させる副作用があるので、記憶がないからと言って、意識ないし「苦痛」がその途中になかったことにはならない。
 (2)脳死。
 ・かつては、「脳幹」に異常が発生し「昏睡」状態になると、自発呼吸・心臓が停止し、「死」に至る。
 新部位/大脳皮質や視床の損傷のみならず、旧部位/脳幹の損傷により、「昏睡」が生じる。
 ・昏睡→「死」を救ったのが(心臓を停止させない)人工呼吸器。昏睡→心臓の停止→「死」という判定だっったところ、「死の判定が心臓から脳に移された」。
 ・心臓・心拍と肺臓・呼吸は人工的にかつほぼ無期限に保つことができる。
 ・心拍と呼吸の停止ではなく「脳幹を含む脳全体の不可逆的な機能停止」をもって「死」とする。
 「脊髄より上部の全ての機能と反射の停止」を確認する。「頭部は機能していない」=「脊髄より上の神経系が完全に破壊されている」。機能していない頭部をもつ身体に「機械の力で血と酸素を行き渡らせている」。
 (3)「意識」と「覚醒」。
 ・昏睡→「脳死」か、昏睡→意識回復か。ここには多様な可能性がある。
 ・「覚醒」=「目覚め」は、「脳幹が十分な機能を取り戻す」こと。「脳幹」中の「延髄」は「主として、心拍と呼吸を保つ」。「脳幹」中の「橋」と「中脳」には、「覚醒すべきか眠るへきかを決めている」とくに重要なニューロンが含まれている。
 ・「覚醒」=意識回復、ではない。「脳幹のニューロンが活動し始め、目が開いても、意識がまったく回復しないことがある」。p.70。
 ・「意識」回復のためには、「脳幹」の上の新部位/<視床と大脳皮質>も機能する必要がある。
 (4)「植物状態」等。
 ・<植物状態>の定義は、「脳幹」の機能が回復しても「視床-皮質系」の機能が戻らず、「覚醒」はあるが「意識」がなく、「なにかが見えることなく目が開いた状態」だ。
 ・この状態は、「回復する可能性はあり、明らかに脳死と異なる」。「昏睡」とも違って「目を覚ましている」。「生きているのだ!」。p.72。
 ・上の<植物状態>とも違い、「目を開き、自分とまわりの世界を知覚して意識を完全に取り戻す」が、「全身が麻痺したまま」の患者もいる。「神経の損傷」のため、「麻痺が解けることはない」。
 ・<ロックトイン(閉じ込め)症候群>は上の場合の一つで、多くのこの患者は「まぶたを開け、目を上下に動かす能力」を回復し、「目」のサインで、「意識」があること、そしてある程度の意思を、伝達することができる。
 ・だが、この症候群の患者の中には、目を動かす力を失い、「意識が十全にある」のに、それを伝達できない者もいる。実際の数は分からない。
 ・<植物状態>と<ロックトイン(閉じ込め)症候群>の間に、<最小限意識状態>という、2002年に認知された中間状態がある。「植物状態であることが明らかである患者と違い、長い年月が経過したあとでも、意識を十全に取り戻すことがある」。
 意識がある状態を本人が伝えられないで外部でそれを感知できないため,「意識がない植物状態であるとの誤診を受けている可能性がある」。この問題は、「現在の神経医学において、臨床上、そして倫理上、最も深刻」だ。
 ---
 (つづける。)
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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