レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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第5章・トロツキー。
第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
(11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
(<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
しかし、将来には、事情は異なるだろう。
「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
-レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
(12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
(13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。
これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
-もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
(14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
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第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>。
第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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第5章・トロツキー。
第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
(11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
(<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
しかし、将来には、事情は異なるだろう。
「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
-レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
(12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
(13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。
これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
-もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
(14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
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第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>。