秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2019/05

1969/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
 (11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
 彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
 言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
 彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
 トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
 道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
 「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
  プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
 換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
 しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
 人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
 彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
 しかし、将来には、事情は異なるだろう。
 「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
 トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
 -レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
 (12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
 彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
 「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
 政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
 例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
 皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
 では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
 善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
 政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
 そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
 推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
 我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
 (13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
 スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
 彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。 
 これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
 追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
 彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
 Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
 彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
 彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
 「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
 Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
 彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
 トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
 -もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
 トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
 彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
 (14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
 彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
 彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
 トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
 しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
 彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
 たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
 東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
 この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
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 第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>

1968/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.194-p.198。合冊本ではp.942-946。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想。
 (1)トロツキーはかくして、全ての機会を利用して、一方でのボルシェヴィズムまたはレーニン主義、つまりトロツキー自身のイデオロギーや政治と、他方でのスターリニズムの間には、継続性は存在しないと強調した。
 スターリニズムはレーニン主義の真の継承者ではなく、際立ってそれと矛盾したものだ。
 トロツキーは1937年の論文で、メンシェヴィキやアナキストたちと論争した。彼らが「我々はきみに最初からそう言ってきた」と述べたのに対して、トロツキーは、「ちっともそうでない」と答えた。
 メンシェヴィキとアナキストたちは、僭政体制とロシアのプロレタリアートの苦難がボルシェヴィキ政権の結果として生じるだろうと予見していた。
 実際にそうなったのだが、それはボルシェヴィズムとは何の関係もないスターリンの官僚制として生じたのだ。
 Pannekoek その他のドイツ・スパルタクス団員たちは、ボルシェヴィキはプロレタリアート独裁ではなく党の独裁を立ち上げた、スターリンはそれを基礎にして官僚制的独裁を確立した、と語る。
 これらはいずれも当てはまらない。
 プロレタリアートは、労働大衆の自由に対する願望を具体化する自分たち自身の前衛による以外には、国家権力を奪取できなかったのだ。//
 (2)多数の他の論文でと同様にトロツキーはこの論文で、反対者から、またSerge、Souvarine、Burnham のような支持者たちからも頻繁に提示された異論に答えることを強いられた。
 彼らは間違いなく、ボルシェヴィキはトロツキーの能動的な関与があって最初から、社会主義諸政党を含むロシアの全ての政党を廃絶させた、と指摘した。
 ボルシェヴィキは党内でのグループの形成を禁止し、プレスの自由を破滅させ、クロンシュタットの反乱を血でもって弾圧した、等々。//
 (3)トロツキーはこのような異議に対して何度も回答したが、いつも同じ態様でだった。すなわち、異議を申し立てられている行動は正しく(right)かつ必要なものだった、そしてプロレタリア民主主義の健全な創設に決して反するものではなかった、と。
 彼は1932年8月に出版されたチューリヒの労働者たちへの手紙で、こう書いた。ボルシェヴィキはたしかにアナキストと左翼エスエルを破壊するために実力(force)を用いた(他政党はこの文脈では言及すらされなかった)。しかし、ボルシェヴィキは労働者国家を守るためにそうしたのであり、ゆえにその行動は正当(right)だった。
 階級闘争は暴力(violence)なくしては実行することができない。唯一の問題は、どの階級によってその暴力が行使されているか、だ。
 彼は1938年の小冊子<彼らの道徳と我々の道徳>で、こう説明した。共産主義をファシズムと比較するのは馬鹿げている、これらが用いる手段(methods)にある類似性は「表面的な」もので付随的現象に関係するにすぎないのだから。
 重要なのは、そのような手段を用いる名義となる階級だ。
 トロツキーは、つぎのように批判された。彼は政治的対立者の家族から子どもたちを含めて人質をとった、そして、スターリンがトロツキストに対して同一のことをしたと憤慨している、と。
 しかし、彼はこう答えた。正しい(true)類推方法がない。自分がしたのは階級敵と闘ってプロレタリアートに勝利をもたらすために必要なことだった。それに対してスターリンは、官僚機構の利益のために行動している。
 トロツキーはSchachman への1940年の手紙で、自分が権力をもっていたときにチェカが生まれて機能していたことに同意した。-もちろん、そのとおりだった。
 しかし、彼は言う。チェカはブルジョアジーに対抗するために必要な武器だった。それに対してスターリンは、チェカを「真のボルシェヴィキ」を破壊するために用いている、だから適切な比較にはならない、と。
クロンシュタットの反乱の鎮圧について言えば、重要な防塞を反動的な農民兵士たちに手放すことが、プロレタリア政権にいかほどに期待され得ただろうか? その兵士たちの中には、少なくないアナキストがいたかもしれないのだ。
 党内集団の禁止について言えば、これは絶対に必要だった。全ての非ボルシェヴィキ政党を廃絶したあとでは、社会にまだ現存するかもしれない利害の対立が一つの党の内部に異なる志向をもつ表現体を探し求めざるをえなったからだ。//
 (4)つぎのことが明瞭だ。トロツキーにとって、統治の形態としての民主主義、あるいは文化的価値としての公民的自由を語る必要はない。この観点からすると、トロツキーはレーニンに忠実であり、かつスターリンと何ら異なるところがない。
 かりに権力が「歴史的に進歩的な」階級によって(むろんその前衛を通じて)用いられるならば、定義上それは真正(authentic)な民主主義だ。たとえ、あらゆる様相の抑圧と実力強制がその他の点では日常生活の秩序だったとしても。それは全て、進歩という根本教条に則っている。
 しかし、その権力がプロレタリアートの利益を代表しない官僚機構によって奪取されたその瞬間から、統治の同じ形態は自動的に反動的なものに、ゆえに「反民主主義」的なものになる。
 トロツキーは1931年の<右翼・左翼ブロック>と題する論文で、こう書いた。
 「党内民主主義の復活ということによって我々が意味させているのは、党の真の革命的プロレタリアートの中核は、官僚機構を抑制して党を本当に粛清〔purge、浄化〕する権利をもつ、ということだ。
 上部からの指令どおりに投票する、非原理的で経歴主義の歩兵たちはむろんのこと原理的にテルミドリアンで成る党の粛清、阿諛追従者で成る多数の派閥はむろんのこと末端主義者で成る党の粛清、だ。なお、阿諛追従者たちの資格はギリシャ語またはラテン語に由来するものであるはずはなく、現代的で官僚主義化した、かつスターリン化した形での現実にある今日的なロシア語に由来している。
これこそが、我々が民主主義を要求する理由だ。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1930-1931年>(1973年)、p.57.)
 かくして、トロツキーが「民主主義」によって意味させているのは、プロレタリアートの歴史的要求を表現しているトロツキー主義者による政権だ、ということが明らかになる。//
 (5)トロツキーは1939年12月の論文で、彼自身がボルシェヴィキ以外の諸政党の廃絶に責任はないのか否かという疑問に、再びこう答える。
 そのとおりだが、そうしたのは全く正当(right)だった。
 彼はつづける。「しかし、内戦期の法制を平穏時のそれと同一視することはできない」。
 -そして、そのとき、そうであるならば廃絶させられた諸政党は内戦後に再び合法化されるべきだった、との考えが彼の頭に浮かんだに違いない。彼は、こう付け足した。
 「独裁制またはプロレタリアートの法制をブルジョア民主主義の法制と同一視することもできない」。
 ( N. Allen & G. Breitman 編<レオン・トロツキー著作集-1939-1940年>(1973年)、p.133.)//
 (6)1932年末以降の日付のある言述には、つぎのようなものがある。
 「全ての体制は、まず第一にはそれがもつ規準によって評価されなければならない。
 プロレタリアート独裁の体制は、民主主義政体の諸原理や形式的規準を侵犯するものであることを秘密にしようとは願わない。
 それは新しい社会への移行を確実にする能力という観点から、評価されなければならない。
 他方で民主主義体制は、民主主義政体の枠組み内で階級闘争を展開することを許容する程度と範囲いう観点から、評価されなければならない。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1932-1933年>(1972年)、p.336.)
 (7)要するに、民主主義諸原理と自由を侵害するときには、民主主義諸国に憤慨してその諸国を攻撃するのは正当(right)だ、しかし、そのように共産主義独裁制を取り扱ってはならない。共産主義独裁制は民主主義諸原理を承認していないのだから。
 共産主義独裁制で最大に優先されるものは、将来に「新しい社会」を創造するという約束にある。//
 (8)我々は<裏切られた革命>で、つぎのようにすら語られる。スターリン憲法は普通選挙制度を宣言することで、もはやプロレタリアート独裁は存在しないことを明らかにした、と。
 (トロツキーもまた、スターリンは秘密投票制度の導入でもって明らかに彼の腐敗した体制をある程度は浄化(purge)することを望んでいると、論評した。
 信じ難い思われるが、トロツキーは明らかにスターリンの選挙制度を額面どおりに理解していた。)
 (9)かくして、つぎのことが明らかだ。トロツキーは絶えずスターリンとその体制を攻撃し、「ソヴィエト民主主義」と「党内民主主義」の回復を要求していたけれども、彼の一般的な根本的考えに照らして見ると、「民主主義」とはその政策方針が「正しい」とする規準を意味するものであり、政策方針の「正しさ」が民衆の支持を求めて競い合う異なる集団の議論の結果として決定される、ということを意味していない。
 彼は<裏切られた革命>で、ボルシェヴィキ(つまりはトロツキーとその支持者たち)とともに始まった「ソヴィエト式政党」への自由を再獲得する必要について書いている。
 しかし、いずれの他の諸政党が「ソヴィエト式」という性質をもつのかは明瞭ではない。
 プロレタリアートの純粋な前衛のみが権力を行使することができるとされるので、その前衛党はいずれの政党が「ソヴィエト式」で、いずれが反革命であるのかを決定する権利もまた有しなければならない。
 トロツキーの目からすると、結論はつぎのようなものだろう。すなわち、社会主義的自由とはトロツキー主義者のための自由のみを意味しており、他の誰のためのものでもなかった。//
 (10)同様の論述を、文化的自由についても行うことができる。
 トロツキーはしばしば、スターリン体制による芸術や科学の抑圧に対する怒りを表明した。
 彼は<裏切られた革命>で、自分が1924年に芸術や文芸分野でのプロレタリアート独裁の規準を定式化したことを想起させた。唯一の標識はその作品が革命を支持するのか革命に反対なのかであり、それ以上については完全な自由が存在しなければならない、というものだ。
 トロツキーは1932年に、「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられたもののみを容赦なく排除して、芸術と哲学の自由が存在しなければならない、と書いた(<著作集-1932-1933年>p.279.)。
 しかしこれは、スターリンのもとで覆ったのと同じ考え方だった。すなわち、党当局が何が「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられ」ているかを決定して、そのゆえに「容赦なく排除し」なければならない。
 このように理解される自由は、ソヴィエト国家では一度も侵害されなかった。
 このような一般的定式によればもちろん、文化の抑圧と統制の程度と範囲は多かれ少なかれ、多様な政治的情勢に従って決せられることになる。そして、1920年代には、抑圧や統制は1930年代よりも確実に少なかった。
 しかしながら、支配者が全ての場合について文化が発信しているものが支配者の政治的必要に合致しているか否かを決定する、ということが根本的な考え方であるがゆえに、抑圧や隷従化の程度は、プロレタリアート独裁に対抗するものとして容易に判断することができない。
 全ての問題は、再びもう一度、同じ様相に帰一することになる。
 つまり、かりにトロツキーに権限があったとすれば、自分の権威にとって危険だと考える自由を、もちろん許容しなかっただろう。
 スターリンも同様に行動した。いずれの場合も、自己の利益の問題なのだった。
 全ての違いは、つぎのことに帰着する。トロツキーは自分が「プロレタリアートの歴史的利益を代表」していると信じた。一方でスターリンは、彼、スターリンがそうしていると信じた。//
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 ②へとつづく。

1967/L・コワコフスキ著第三巻第五章第二節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.190-p.194。合冊本ではp.939-942。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第2節・スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析。
 (1)トロツキーの全ての分析が基礎にしていた確信は、彼とレーニンの政策方針は間違いなく正しい(right)、永続革命理論は事実によって豊富に裏付けられている、「一国での社会主義」は致命的に誤っている、というものだった。
 彼は「ロシア革命に関する三つのコンセプト」と題する論文(1939年)で、つぎのように主張した。
 人民主義者(Populists)は、ロシアは資本主義段階を完全に迂回できると考えた。一方、メンシェヴィキは、ロシア革命はブルジョア的性格のものでのみありうる、そしてプロレタリアート独裁という段階を語ることはできない、と考えた。
 そしてレーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義的プロレタリアート独裁というスローガンを提唱した。この旗のもとで実施される革命は西側での社会主義革命を促進し、急速なロシアでの社会主義ヘの移行を可能にするだろう、と。
 トロツキー自身の見方は、民主主義革命という基本方針はプロレタリアート独裁の形態でのみ達成可能だが、プロレタリアート独裁は革命が西側ヨーロッパに伝搬してのみ維持することができる、というものだった。
 レーニンは1917年に同じ方針に立ち、その結果としてロシアでのプロレタリア革命は成功した。
トロツキーがその<ロシア革命の歴史>で長々と示したのは、ボルシェヴィキの誰も、ロシアのプロレタリアートは西側のプロレタリアートに支持されて初めて勝利することができる、ということを疑っていなかったこと、そして、「一国での社会主義」というきわめて有害な考え方は1924年の末にスターリンが考案するまでは誰の頭の中にも入っていなかった、ということだった。//
 (2)1917年以降はレーニンのものでもあった、トロツキーの疑いなく正しい(correct)政策方針が「寄生的官僚制」による統治を帰結させ、また、トロツキー自身が権力から排除されて裏切り者との烙印を捺されたのは、一体いかにして生じたのか?
 これに対する答えは、ソヴィエト権力の頽廃と「テメミドール主義」に関する分析のうちに見出されることになる。//
 (3)追放されていた最初の数年間、トロツキーがとっていた見方は、スターリンとその仲間たちはロシアの政治的範疇の中の「中央」(centre)を占め、革命に対する主要な危険は-ブハーリンとその支持者たちに代表される-「右翼」および「テルミドール反動」、つまり資本主義の復活、の脅威のある反革命分子から生じる、というものだった。
 トロツキーは、これに従って、スターリンに反革命に対する支援を提示した。
 彼は、スターリンは右翼にあまりに譲歩しすぎていて、その結果、「工業党」やメンシェヴィキの連続裁判に見られるように、罷業者や人民の敵が国家の計画部局の高い地位を占めて工業化を意識的に遅らせている、と考えた。
 (トロツキーは、被告人たちの有罪を暗黙にながら信じていた。そして、この裁判がでっち上げだとの思いは、一瞬なりとも持たなかった。
 彼は数年のちに、自分や仲間たちの悪事が大きな見せ物裁判で強力な証拠でもって同じように立証されていってようやく、驚嘆し始めた。)
 トロツキーは1930年代初めに、スターリン体制は「ボナパルティズム」だとした。
 しかし1935年に、フランス革命では初めにテルミドールが来て、ナポレオンはその後だった、順序はロシアでも同じであるに違いない、そしてすでにボナパルトは登場しているので、テルミドールはやって来てかつ過ぎたに違いない、と観察した。
 彼は「労働者国家、テルミドールおよびボナパルティズム」と題する論文で、その理論をいくぶん修正した。
 テルミドール反動はロシアで1924年(すなわち彼自身が権力から最終的に排除された年)に発生した、と述べた。
 しかしそれは、資本主義者の反革命ではなく、プロレタリアートの前衛を破壊し始めていた官僚機構による権力奪取だった。
 生産手段を国家がまだ所有しているので、プロレタリアート独裁は維持されている。しかし、政治権力は官僚層の手中へと移った。
 しかしながら、ボナパルティズム体制はすみやかに崩壊するに違いない。歴史の法則に反しているのだから。
 ブルジョア反革命はあり得るが、本当のボルシェヴィキ党員たちが適切に組織されるならば、避けることができるだろう。
さらにトロツキーは、こう付け加えた。ソヴィエト国家の労働者階級性に関する自分の見方を決して変更しないが、より精細に歴史的類推による説明を施しただけだ、と。
 フランスでも、テルミドールは<アンシャン・レジーム>への元戻りではなかった。
 ソヴィエト官僚制は社会階級(class)ではない。しかし、プロレタリアートからその政治的権利を剥奪し、残虐な専制制度を導入している階層(caste)だ。
 しかしながら、現在のかたちでのその存在は十月革命の至高の成果である国有財産制に依存しており、その成果を官僚制は守るように強いられるし、それなりの方法で守ってきた。
 ゆえに、スターリン主義の頽廃と闘いつつ、世界革命の根拠地として無条件にソヴィエト同盟を防衛することは、世界のプロレタリアートの義務だ。
 (トロツキーは、この二つの意図が実践的にいかにして結合されるのかについて、詳細には説明しなかった。)
 1936年までには、彼はつぎの結論に到達した。スターリニズムを改革や内部的圧力で打倒することはできない。簒奪者を実力(force)によって排除する革命が起こらなければならない。
 この革命は所有制度を変更するものではなく、ゆえに社会的革命ではなく、政治的革命だ。
 これはプロレタリアートの先進的前衛によって実施され、スターリンが破壊した真の(true)ボルシェヴィズムの伝統を具現化することになるだろう。//
 (4)「一国での社会主義」理論は、ロシアおよび外国での官僚主義的過ちの全てについて、責任がある。
 それは世界革命の希望を、ゆえに世界のプロレタリアートでのロシアの主要な支援という希望を、放棄することを意味する。
 一国での社会主義は不可能だ。換言すれば、開始することはできても完了させることができない。それ自体の内部に閉じられた一国では、社会主義は腐敗せざるを得ない。
 1924年末までは世界革命を発生させるという適切な政策目標を追求したコミンテルンは、スターリンによって、ソヴィエトの政策と陰謀の道具へと変質させられた。そして、世界の共産主義運動は、頽廃と不能の状態に落ち込むことになった。//
 (5)トロツキーは、つぎのことを説明しようと多数の試みをした。プロレタリアートの政治権力が破壊され、官僚機構が支配権を獲得し、(のちに再三にわたり述べたように)統治の全体主義的システムを導入した、と。
 多数の書物や論文でのこの試みは、首尾一貫した議論を形づくるものではなかった。
 彼はしばしば、頽廃の主要な原因は世界革命の勃発が遅れていることにある、と主張した。西側のプロレタリアートはその歴史的な任務を適時に引き受けることをしなかった、と。
 彼は他方で同様にしばしば、ヨーロッパでの革命の敗北はソヴィエト官僚制の過ちだ、と主張した。
 かくして、いずれの現象が原因であり結果であるのかについて、疑問が残った。-のちには彼が指摘したごとく、相互に悪化させ合っていたのだけれども。
 我々は<裏切られた革命>で、官僚主義が成長した社会的基盤はネップ時代のクラク〔富農〕を厚遇した誤った政策だ、と語られる。
 かりにそうであるなら、富農の廃絶と第一次五カ年計画のもとでの工業化の強行によって、官僚機構はかりに破滅しなくとも少なくとも弱体化したことになるだろう。
 実際に正確には、それとは反対のことが起きた。そしてトロツキーは、なぜそうだったかをどこでも説明していない。
 彼はのちに同じ書物で、官僚機構は元々は労働者階級のための機関だったが、のちに物品の配分に関与するようになったときに、「大衆の上」のものになって特権を要求し始めた、と語る。
 しかしこれは、特権のシステムの発生は避けられ得たのか否か、どのようにすれば、を説明していないし、なぜ本当は権限のある労働者階級がそのような事態が起きるのを許したのか、も説明していない。
 トロツキーは同じ書物でさらに、官僚制的統治の主要な原因は、歴史的使命を履行すべき世界のプロレタリアートの緩慢さだ、と語る。
 初期の小冊子<ソヴィエト連邦発展の諸問題>(1931年)では、彼は別の理由を挙げる。すなわち、内戦後のロシアのプロレタリアートの疲弊、革命の時代に育まれた幻想の解体、ドイツ、ブルガリアおよびエストニアでの革命的蜂起の挫折、および中国とイギリスのプロレタリアートの官僚主義的裏切り。
 彼は翌年の論文で、戦争に疲弊した労働者たちが秩序と再建のために権力を官僚機構の手に委ねた、と述べた。
 しかし、なぜそのことが自分が指導する「真のボルシェヴィキ・レーニン主義者」によって実行され得なかったのか、を説明しなかった。 //
 (6)多くの種々の説明から、一つの明瞭な論拠が明らかになる。つまり、トロツキー自身は官僚制的システムの形成に些かなりとも関係しなかった、そして、官僚機構は革命後の初期6年の間の独裁とは何の関係もなかった、ということだ。
 しかし、現実は、これらの反対だった。
 初期6年の間に党組織が絶対的な権力を行使したという事実は、スターリンとその徒党の体制とは関係がない、と主張しているとトロツキーの議論は読める。なぜなら、この時代の党は「プロレタリアートの先進的前衛」であり、一方でスターリンの後続の体制は何物も何者も、いっさい代表しなかったからだ。
 そうであるならば、我々はつぎのように尋ねることができる。
 なぜプロレタリアートは、いかなる社会的背景も欠く簒奪者の徒党たちを一掃することができなかったのか?。
 トロツキーはこれに対する答えも用意している。すなわち、プロレタリアートは、現在の状況では自分たちの革命は資本主義の復活を招くだろうと怖れたので、スターリンの統治に反抗しなかった(しかし、継続的な反抗があった、と我々はいたるところで読める)。//
 (7)トロツキーの議論からは、このような惨憺たる結果が生まれるのを避ける方法は全くなかったのか否か、が明確ではない。
 全体として言えば、なかった、ように思われる。なぜなら、あったならば、トロツキーとその仲間たちは絶えず正しい政策方針と本当のプロレタリアートの利益を「表明」しようとしていたのであって、官僚層による権力奪取を確実に阻止できたはずだろう。
 トロツキーたちが阻止しなかったとすれば、その理由は、そうできなかったからだ。
 かりに官僚機構が可視的な社会的基盤なくして存続しつづけたとすれば、そのことはきっと、歴史の法則によるところに違いない。//
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 つぎの第3節の表題は、<ボルシェヴィズムとスターリニズム。ソヴィエト民主主義という観念>。

1966/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題②。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ①のつづき。一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。一部の太字化は、秋月による。
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 ・「しかもここには古いしがらみをもつ党派的な人間関係もあった。
 前出の四人組と宮崎前事務局長は、松浦氏を除いて、若いころ旧『生長の家』の右派系学生政治運動に関係していた古い仲間であるという。
 執行部側は知らなかったが、いつの間にか別系列の党派人脈が会にもぐりこんでいたのである。
 彼らの結束が固いのも道理である。
 この学生政治運動には日本会議の事務総長椛島有三氏、日本政策研究センターの所長伊藤哲夫氏も参加していたという
 (後日分るが、郵政解散で議席を失い、安倍首相の肝煎りで自民党参院選候補に戻って、ひとしきり話題になった衛藤晟一氏も旧い仲間の一人であった)。
 がっちりとスクラムを組んだ彼らの前近代的仲間意識の強さにはただならぬものがあることをやがて知る。」
 ・「私は、八木氏はかねて遠藤浩一氏や福田逸氏に共感を寄せていたので、近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた。
 新田氏は、<中略…>ゼミで彼の先輩に当るという。
 要するに八木氏は思想的にどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張するという強いものがそもそもない人なのである。
 会議でもポツリポツリとさみだれ式に話すだけで、全体をリードする人間力がなく、雄弁でもない。
 応援してくれる人がいないと一人では起ち上がれない弱々しい人だ。
 『僕には応援してくれる人がたくさんいます』という科白をわざわざ先月号の原稿の最後に吐くことに稚気を感じる。」
 ・以上は、2005年末頃~2006年1月17日の、「私〔西尾〕が退会した前後にいたる出来事」にもとづく。
 〔*以下の第二節に当たるものの見出しの原語は「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。〕
 ・「八木氏は藤岡氏の日共〔日本共産党-秋月注〕離党平成13年というガセネタのメールを公安調査庁に知人がいて確証を得たとして、あちこち持ち歩き、理事会の反藤岡多数派工作と産経記者籠絡の言論工作に利用した。
 つづいて私が退会して2ヶ月たった4月1日夜私の自宅に、次に掲げる薄気味の悪い怪文書を証拠資料と共に番号のつかないファクスで送ってくるものがいた。
 この脅迫めいた文書を作成し送信した者が八木氏であるかどうかを決めつけることはさておき、氏でなければ書けない内容も含まれ、少なくとも八木氏に近い人々による共同作業であったことだけは確かで、これには後述するような新しい証言がある。」
 ・「その頃なにかと理事会情報を私に伝えてくれたのは、福地惇氏だった」。
 福地氏は、「元文部省主任教科書調査官(歴史)」、「東大教授の伊藤隆氏の教え子」である。
 *以下、<怪文書>内容(秋月)。
 「福地はあなたにニセ情報を流しています。
 伊藤隆に言い含められて八木支持に回りました。」
 理事会で西尾幹二を相手にしないようにしようと言い出したのは「福地です」。
 「『フジ産経グループ代表の日枝さんが私に支持を表明した』と八木が明かすと会場は静まり返りました。
 宮崎は明日付で事務局に復帰します。」
 藤岡信勝は<西尾からの煽動メールに反論した>との「証拠資料を配りました」。
 彼は「代々木党員問題はうまく逃げましたが、妻は党員でしょう」。
 「高池はやや藤岡派、あとは今や全員八木派にならざるを得なくなりました。
 八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。
 小泉も承知です。
 岡崎久彦も噛んでいます。
 CIAも動いています。」
 ・「私〔西尾〕が深夜読んで十分に不安になる内容であった理由を以下説明する。
 私は『小泉も承知です』の一行にハッと思い当ることがあった。」
 2005年12月25日の理事会の帰り際に「八木氏」は私〔西尾〕の新著「『狂気の首相』で日本は大丈夫か』を非難がましく言い」、「官邸は」西尾に「黙っていない、って言ってますよ」と「脅かすように告げたことがある」。
 ・「『誰が言ったのですか』」、「『知っている官邸担当の政治記者です』。」
 「『それはいつですか』。聞けば私のこの本の出る前である」。
 「そういうと『先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村〔真悟〕代議士がやられたのは『WiLL』での暗殺容認のせいらしい』」、「『私はそんな不用意なことを書いていないよ』」。
 ・2005年「12月25日は八木氏がにわかに私にふてぶてしく、居丈高にもの言いする態度急変の日だった」。
 「彼は安倍官房長官(当時)に近いことがいつも自慢だった。
 紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。
 あのままいけば、間違いなく『狂気の首相』が満天下に誰に隠すところもなく露呈してしまう成り行きだった。
 国民は息を詰めていた。
 制止役としての安倍官房長官への期待が一気に高まった。
 八木氏は安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。
 まず奥様を説得する。搦め手から行く。」
 ・「八木氏はこの抜擢がよほど得意らしく、少なくとも二度私は聞いている。
 彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。」
 ・「右の怪文書の最後のCIAは関係あるのかもしれない深い謎だが、岡崎久彦氏の名は、いや味である。
 私の教科書記述のアメリカ批判内容を岡崎氏によって知らぬ間に削られ、親米色に替えられ、私が怒っていたことを八木氏はよく知っていたからである。」
 ・「伊藤隆氏が、つくる会理事退任届を出すに際し、過去すべての紛争の元凶は藤岡氏にあったとのメッセージを公開したことは、関係者にはよく知られている。
 伊藤氏の藤岡氏への反感は根が深く、伊藤氏が元共産党員であった、私などには分らぬ近親憎悪の前歴コンプレックスがからんでいる可能性は高い。」
 ・伊藤氏の大学の教え子の福地惇氏と八木氏・宮崎氏は2006年3月20日に会談した。
 「福地氏を反乱派の仲間に引きこむためである」。
 伊藤氏の反藤岡メッセージと「公安が保証したという藤岡党歴メール」を福地氏に見せて「このとき多数派工作を企てた」。福地氏について、「3月末の段階ではまだそういう期待もあった」。
 「こうして4月1日私に深夜送られて来た怪文書の最初の二行は、八木一派の工作動機を暗示している願望にほかならない」。西尾・福地間を「裂こうとする願望」も秘められている。
 ・「西尾がすでに退会しているので、クーデターの目標は藤岡排除の一点に絞られつつた」。
 西尾の口出しも排除したいが、「しかし何といっても藤岡が対象である」。
 「その執念には驚くべきものがあった」。
 ・私は「深夜の怪文書の一行目『福地はあなたにニセ情報を流しています』を信じてしまい」、理事会欠席の私に「親切な理事の一人が福地氏のウラを教えてくれた」のだと思った。
 「そういうことをしてくれる人は田久保忠衛氏以外にないと思い、氏に夜中に謝意をファクスで伝えた。
 翌日電話で全くの誤解だったことが明らかになり、田久保氏と二人で大笑いになった。
 しかしよく考えれば笑えない話である。」
 あのまま…ならば「3月28日の理事会はこういうものだったと死ぬまで信じつづけることになっただろう」。
 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」
 <つづく-秋月>

1965/L・コワコフスキ著第三巻第五章トロツキー/第一節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第五章へ。
 第三巻分冊版p.183以下。合冊本ではp.934以下。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。
 この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
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 第5章・トロツキー。
 第1節・逃亡時代。
 (1)1929年1月、左翼反対派が抑圧的手段でもってソヴィエト同盟からほとんど完全に一掃されたあと、一年間カザフスタンに追放されていたその指導者のレオン(レフ)・トロツキーは、トルコへと移された。彼はトルコで、Marmara 海のプリンキポ(Prinkipo)島に住まいを構えた。
 他諸国は長い間、世界で最も危険な革命家だとの評判をもつ人物を自分の領国内に受け入れようとしなかった。トロツキーがトルコで生活した4年の間に、彼は一度だけ、コペンハーゲンで講演をするためにこの国を離れた。//
 (2)トルコにいた間、彼は長大な<ロシア革命の歴史>を書いた。これは革命の過程の原因と進展を分析するもので、歴史は自分の予見の正しさ、とくに「永続的革命」論の正しさ(rightness)を確認した、と証明しようとした。この考え方はすなわち、民主主義革命は継続的にプロレタリアート独裁へと発展せざるをえない、そうしてのみ革命は成功するものになる、というものだ。
 彼はこのときまた、自叙伝や膨大な数の論文と、ロシアと世界全体の両方でのスターリンに対する左翼反対派の支持と発展を求める訴えや書簡を書いた。
 追放されて数カ月のうちに、彼はロシアで雑誌<Opposition Bulletin>を創刊した。この雑誌は、彼の人生の終焉時まで発行され続けた。息子のLeon Sedev が最初はドイツで、ナツィの権力奪取後はパリで出版した。
 トロツキーのロシア語での書物についてと同じく、これの主要な目的はソヴィエト同盟での反対運動が組織されるのを促進することだった。
 しかしながら、やがて、警察の監視によってこの雑誌をロシアに密かに持ち込むことがほとんど不可能になった。そして、ロシアにいる左翼の残余とのトロツキーの接触は全く絶たれたのと同然になった。//
 (3)トロツキーは同時に、自分の尽きない活力の大部分を、強い支持者を他諸国で獲得することに費やした。
 反対派の小集団があちこちにあった。それらを通じて彼はいずれはコミンテルンを再生させ、共産主義運動のうちに本当のボルシェヴィズムとレーニン主義の精神を復活させることを望んだ。
 これらの集団は1930年以降に活動し、インターナショナル・左翼反対派という集合的名称のもとで、コミンテルンの一派だと自称していた。-しかしこれは、イデオロギー上の虚構だった。トロツキーは最終的にコミンテルンから除名されていて、ロシアに残っている者たちのほとんどは収容所か監獄の中にいたのだから。
 1932年11月にいくつかの国から来たトロツキー主義者の会合がコペンハーゲンで開かれ、その間は指導者たちはそこに滞在した。数カ月のちに、パリで同様の集会が開かれた。
 トロツキーは数年間は、第四インターナショナルの設立に強く反対した。スターリン体制には社会的基盤がないのでいずれ崩壊するに違いない、その唯一のあり得る継承者は、その真の目的に向かうコミンテルンを復活させる「ボルシェヴィキ・レーニン主義者」だろう、と主張していたのだ。
 しかしながら、ヒトラーの権力掌握後の1933年、トロツキーは、新しい国際組織が必要だと決意し、新しい旗のもとに仲間たちを組織し始めた。
 第四インターナショナルは、公式にはパリの大会で、1938年9月に設立された。//
 (4)1932年末、トロツキーは、インターナショナル・左翼反対派の戦略と基本的考え方をつぎの11点に定式化した。
  1) プロレタリア政党の独立性の承認。したがって、1920年代の中国(国民党への共産党員の加入)やベルリン(アングロ・ロシア労働組合委員会)に関するコミンテルンの政策に対する非難。
  2) 革命の国際性、ゆえに永続性。
  3) ソヴィエト同盟はその「官僚主義的頽廃」にもかかわらずなおも労働者国家であること。
  4) 1923-28年の「日和見主義」段階、1928-32年の「冒険主義」段階、これら双方でのスターリンの諸政策に対する非難。
  5) 共産党員は、大衆組織で、とくに労働組合で活動しなければならないこと。
  6) 「プロレタリアートと農民の民主主義的独裁」およびそのプロレタリアート独裁への平和的移行の可能性という定式の拒絶。
  7) 封建的制度、民族的抑圧およびファシズムに反対する闘争に必要な場合での、プロレタリアート独裁を目指す闘いの間の一時的スローガンの必要性。
  8) 「日和見主義」形態によらない、社会民主主義者を含む大衆組織との統一戦線。
  9) スターリンの「社会ファシズム」論の拒否。
 10) 共産主義運動内部でのマルクス主義、中央派、右翼の区別。中央派(スターリン主義者)に対抗する右翼との同盟は排除され、中央派は階級敵との闘争では支持されるべきこと。
 11) 党内部に民主主義が存在すべきこと。
 (5)トロツキーはこれらの諸原則を最後まで維持したが、これらの完全な意味は、ソヴィエト国家の性格、党内民主主義および政治的同盟という考えに関する彼のより詳細な分析で初めて明確になる。//
 (6)追放中の最初の年月の間、トロツキーは、つぎのような思い違いをしていた。すなわち、反対派はロシアで巨大な勢力だ、スターリン主義官僚機構はその力をますます失っている、共産党は一方でボルシェヴィキ、他方で「テルミドリアン」、つまり資本主義への復古の擁護者、へと急速に両極化している、と。
 ソヴィエト体制を存続させたいならば、この二つの勢力が衝突するときに、官僚機構はもう一度、左翼からの助けを求めるに違いない。
 トロツキーはこう考えて、ソヴィエトの指導者たちへの手紙や宣言文で、反対派は復古や外国の干渉に反対する闘争に参加する用意がある、と表明した。
 彼は対抗者たちに復讐するつもりはないと約束し、「名誉ある協定」を提案し、致命的な危機にあるときは階級敵に対抗して自分たちは助けるとスターリン主義者たちに提案した。
 トロツキーが明らかに想定していたのは、いずれ危機のときにスターリンは自分に助けを乞うだろう、そして条件を明示するだろう、ということだった。
 しかしこれは、幻想(fantasy)だった。
 スターリンとその仲間たちは、トロツキー主義者たちと折り合うつまりは全くなく、いかなる情勢下でも彼らに助けを求めようとはしていなかった。
 ロシアの左翼反対派は、トロツキーが歴史発展の法則でそうなるに違いないと考えたようには力を得ておらず、逆に、仮借なく根絶された。
 スターリンが工業化と集団化の強行という「新路線」を宣告したとき、反対派の中の多数派はその方針に従い、スターリンは自分たちの政策を採用したと理解した。
 これは、例えば、ラデクやプレオブラジェンスキー(Preobrazhensky)についても当てはまった。
 トロツキー後の最も著名な左翼だったラコフスキー(Rakovsky)は、他の者たちよりは長く抵抗した。しかし、迫害された数年間ののちに、彼もまた屈服した。
 彼らのうち誰も、何らかの重要性をもつ地位に就くことはなかった。そして、誰も、大粛清(the Great Purge)による殺戮を免れれることがなかった。
 トロツキーは、反対派は社会的基盤を欠く支配的官僚機構に対抗する真正なプロレタリアートの勢力の立場にあると信じつづけた。
 ゆえに反対派は最終的には勝利するのであって、一時的な敗北や迫害ではこれを破壊させることはできないだろう。
 彼は、弾圧は歴史が非難する階級に対しては有効であっても、「歴史的に進歩的な」階級に対しては決してそうでない、と書いた。 現実には、トロツキーが追放中の数年間で、左翼反対派は完全に消失した。弾圧、殺戮、意気喪失、および屈服の結果として。
 しかしながら、反対派に潜在的な強さをもつトロツキーの希望や信念を生かしておく以上のことをスターリンはほんど何もできなかった、というのは本当だ。
 「トロツキー主義」に対する連続した反対運動、見せ物裁判および司法による殺人によって、外部の観察者たちは実際につぎのように納得した。「トロツキー主義」はなおも力強いソヴィエト国家の敵だ、と。
 スターリンは現実にトロツキーに対する脅迫観念的な憎悪感をもち、彼の名前を、普遍的な悪の象徴として、またスターリンが多様な表現をもつ反対論者あるいはどんな理由を使ってでも破壊させたい誰かに烙印を捺す汚名として、利用した。
 こうして、スターリンはその継続的な反対運動の目的に照応させるべく、二連の-「トロツキスト=右翼ブロック」、「トロツキスト=ファシスト」、「トロツキスト=帝国主義者」、「トロツキスト=シオニスト」のような-表現方法を作り出した。
  「トロツキスト」という接頭辞は、「ユダヤ=共産主義者の陰謀」、「ユダヤ=金権政治的反動」、「ユダヤ=リベラルの腐敗」等々を語る反ユダヤ主義者の口に出てくる「ユダヤ」がもつのと同じ目的に役立った。
1930年代の最初から、「トロツキズム」はスターリンの宣伝活動で特有の意味を持っておらず、スターリン主義がもつ抽象的な表象にすぎなかった。
 スターリンがヒトラーに対抗している間は、トロツキーはヒトラーの工作員だとして晒し台に置かれ、スターリンとヒトラーが友好的になったときは、トロツキーは、イギリス=フランス帝国主義国の工作員になった。
 モスクワの見せ物裁判では、トロツキーの名は<いやになるほど>思い起こされた。犠牲者たちは一人ずつ、追放中の悪魔がどのように強いて彼らを陰謀、罷業、殺害に向かわさせたかを語ったのだったから。
 こうしたスターリンによる迫害についての偏執症的神話によって、トロツキー自身は何度も再確信した。トロツキーはあまりに頻繁に弾劾されたので、スターリンは本当に、自分が簒奪した王冠を剥奪する用意をしている「ボルシェヴィキ=レーニン主義者」を怖れているのだ、と。
 一度ならずトロツキーは、モスクワ見せ物裁判はトロツキー自身をソヴィエト警察に取り戻す望みをもって組織されている、という見方を明確に述べた。何人かによると、スターリンは、彼の敵を後腐れがないように殺害せずに追放したことを後悔していた。
 トロツキーもまた、1937年の最後のコミンテルン大会は左翼反対派の脅威に対処するという目的のためにだけ招集された、と考えた。
 つまりは、追放された指導者は、スターリンが割り当てた役割を演じた。だが、闘いの多くは、トロツキー自身の想像の中で起きていた。
 インターナショナル・左翼反対派は、その後の第四インターナショナルのように、政治的な意味合いは皆無のものだった。
 むろんトロツキー自身は有名な人物だったが、歴史の大きな法則によればいずれは世界の基礎を揺り動かすはずのその運動は、どこにあるスターリン主義諸政党に対しても事実上は何の影響力をもたない、瑣末な党派(sect)であることが判明するに至った。//
 (7)スターリニズムに幻滅した、またはコミンテルンでトロツキーと連携した数少ない共産主義者たちは、中国の党の前のトップの陳独秀(Chen Tu-hsiu)を含めて、トロツキーの側から去った。
 多様な諸国の知識人たちは、ソヴィエトの指導者たちはもはや代表していない、本当の革命精神の具現者だとしてトロツキーを支持した。
 しかし、遅かれ早かれ、彼の支持者は消失していった。とくに、知識人たちが。
 トロツキー自身に、この事実に対する大半の責任はある。絶対的な服従を要求し、どんな主題であっても彼の見解からの逸脱を許さなかったのだから。
 個人的な問題、彼の独裁者ぶり、自分の万能さについての驚くべき信念を別に措けば、
主要な不一致は、ソヴィエト同盟との関係についてにあった。
 ソヴィエト連邦はまだプロレタリアート独裁の国家だ、その官僚機構は階級ではなく社会主義という健全な身体上の異常な発達物にすぎない、とのトロツキーの主張は、彼の見方はますます明瞭な現実感覚を失っているように見えたことから、論争と分裂の主要な原因だった。
 しかしながら、この問題についてはトロツキーは終生にわたって頑固で、その結果として全ての重要な知識人はトロツキーへの信頼を捨てた。フランスのSouvarine、アメリカ合衆国のVictor Serge、Eastman、およびのちに、Hook、Schachman、Burnham。
 トロツキーはまた、著名な画家の、メキシコでの寄宿先提供者だったDiego Rivera の支持も失った。
 トロツキスト集団の教理的厳格さは、それらの頻繁な解散の原因になり、間違いなく第一のそれではなくとも、その運動が政治的な勢力に決してならなかったことの理由の一つだった。
 努力が完全に実を結ばないことが指摘されたときにいつでも、トロツキーは同じ答えを用意していた。1914年のレーニンは完全に孤立していた、3年後にレーニンは革命を勝利に導いた、という答えを。
 トロツキーもまた歴史発展の深遠な趨勢を代表しているので、彼もレーニンが行ったことをできるはずなのだった。
 この信念によって、彼の全ての活動と政治的分析は可能になった。そして、これが彼の不屈の希望と活力の源泉だった。//
 (8)ロシアでの左翼の最初の勝利についてトロツキーが基礎にしていた経験上の根拠は、今日の目からすると驚くほどに微少だ。
 一人または二人のソヴィエト外交官が職を辞して、西側にとどまった。
 トロツキーはこのことに、つぎの証拠として、繰り返して言及した。スターリン主義者の党は解体しつつあり、「テルミドリアン的要素」と革命に対する裏切りが目立ってきている、そして防塞の反対側にいる本当のボルシェヴィキが力を得つつあることをこれらは意味しているのだ。
 1939年の第二次大戦の勃発の際、彼は新聞で、ベルリンにいる誰かが「ヒトラーとスターリンよ、くたばれ!、トロツキーに栄光あれ!」と壁に描いていることを読んだ。
 トロツキーはこれに勇気づけられ、スターリンが支配するモスクワが暗闇になるとすれば、このような警告で壁は塗りつぶされるだろう、と書いた。
 のちに彼は、フランスの外交官がヒトラーに、かりにフランスとドイツが戦争を始めればトロツキーが唯一の勝利者になるだろうと語った、という記事を読んだ。
 これもまた彼は、ブルジョアジーすらも自分の正しさを理解している証拠だとして、いくつかの論文で勝ち誇って引用した。
 彼は揺るぎなく、本当のボルシェヴィキ、つまりトロツキストたち、が勝利する世界革命でもって戦争は終わるだろうと、確信していた。
 第四インターナショナルの設立に関する彼の論文は、「来たる10年以内に第四インターの綱領は数百万人の指針となり、その革命的な数百万人は地上と天国を急襲する方法を知るだろう」という予言で終わっていた(<レオン・トロツキー著作集、1938-1939年>N. Allen=G. Breitman 編, 1974, p.87.)。//
 (9)長い努力のあと1933年夏、トロツキーはついに、警察による多くの制限を条件として、フランスに居住する許可を得た。
 彼は2年間異なる住所に住んでいて、その状況は日増しに危険なものになっていった。全てのスターリン主義政党が声高に彼に敵対し、ソヴィエト警察のテロ活動が増えていた。
 1935年6月、トロツキーはノルウェイに亡命することが認められ、ここでおそらくは最もよく知られた書物を執筆した。
 ソヴィエト体制の一般的分析書である<裏切られた革命>だ。これは、ソヴィエト体制の頽廃と見通しを記述し、革命によるスターリン官僚制の打倒を訴えるものだった。
 1936年末、ノルウェイ政府は、メキシコに送ることで、扱いにくい賓客を自国から排除した。トロツキーは、人生の残りをそこで過ごす。
 この時期の彼の活力の多くは、モスクワ裁判という虚偽の仮面を剥ぐことに費やされた。モスクワ裁判で彼は、あらゆる陰謀、罷業および被訴追者たちが起こしたテロ行為の背後にいる首謀者だと非難されていたのだった。
 トロツキーの友人たちの尽力によって、アメリカの哲学者で教育者のジョン・デューイ(J. Dewey)を長とする国際調査委員会が設置された。
 この機関はメキシコを訪問してトロツキー自身から聴取を行い、最終的にはモスクワ裁判は完全なでっち上げだったと結論づけた。//
 (10)トロツキーはメキシコで、さらに3年半の間生活した。
 この地域のスターリン主義者は追及運動を組織し、1940年5月にソヴィエト工作員とともに彼の住居を武装襲撃した。
 トロツキーとその妻は奇跡的に逃れて生きたままだったが、長くはつづかなかった。すなわち、8月20日、訪問者を装ったソヴィエト警察の工作員の一人が、彼を殺した。
 ヨーロッパで父親の代理をしていた彼の息子のレオンは、1938年にパリで、おそらくはソヴィエト工作員によって毒をもられて、死んだ。
 ロシアを離れず政治にかかわらなかったもう一人の息子のセルゲイ(Sergey)は、スターリンの牢獄に消えた。
 トロツキーの娘のZina (ジーナ、ジナイダ)は、1933年にドイツで、自殺した。//
 (11)トロツキーは11年の逃亡中に、膨大な数の論文、小冊子、書物、宣言文を出版した。
 彼はあらゆる時期に、世界のプロレタリアート全体に、あるいはドイツ、オランダ、イギリス、中国、インドそしてアメリカの労働者たちに、指示、助言を与え、訴えを発した。
 もとよりこれら全ての文書はひと握りの崇拝者たちにしか読まれず、事態に対しては微少の影響すら与えなかったので、トロツキーの活動は玩具の兵士との遊戯だとして否認される傾向にある。
 しかし、暗殺者のアイス・ピックは玩具ではなく、スターリンは世界じゅうのトロツキズムを抹殺するために多大の精力を用いた、という事実は残っている。-この目的をスターリンは、大部分は達成した。//
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 第2節の表題は、<スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析>。 

1964/池田信夫のブログ005。

  最近はあまり論及がないが一時期池田が熱心に書いていたことに関連して、生物・ヒトとしての「個体」=自己最優先の本性からして、日本国憲法上の「個人の尊重」もドイツ憲法上の「個人の尊厳」も普遍的なもののように感じていた、という旨をこの欄で記したことがあった。
 しかし、なるほど生物としての本能とこれらとを簡単に結びつけることはできないようだ。
 つまりおそらく、「近代」憲法が前提にしている<個人>はアメリカ独立期にも淵源のある、いわゆる「近代的自我」とか「近代個人主義」の成立を前提にしているもので、「近代」に特有な一種のイデオロギーのものであるかもしれないと思い至る。
 夏目漱石は、日本的な「近代的自我」の確立に苦闘したともされる。欧州留学・滞在経験があったからでもあろう。
 だがむろん、「近代」以前にもふつうの意味での「個人」はいたはずだ。
 「近代的自我」あるいは「近代個人主義」が成立していない(としてその)前の例えば日本人は、「自己」・「自分」のことをどう意識してきたのだろうか。
 身分制を前提として生来の「自分」の地位や生活をほとんど当然視し、自然現象が示し、あるいは両親・一族が語る宗教・観念・通念等々を当然のこととし、たまには僧侶や神官が語ることを知って物珍しく、あるいは別世界のことと感じ、「天子さま」の存在とやらも教えられたのだろうか。
 むろん、時代や地域、「層」によって異なる。京や大きな城下町をはじめとしする都市では物(やサービス)の<売買>が限定ながらも行われていたとすると、取引を通じて、商品等を<より美しい>、<より便利な>等々のものにしようという改善意欲は、生存と生活に直結するかぎりは、日本人の一部も早くから有していたように思われる。
 もっとも、よく分からないのは平安時代だ。
 7世紀、8世紀は政治的にもかなりの変動.動乱があった(中枢部での「乱」とか「変」とか)。
 だが9世紀以降だろうか<摂関政治>が落ち着いてくると、<院政>開始から<武士の勃興>という辺りまで、何と江戸時代よりも長い時代が続く。だが、皇室や藤原家等々に関係する事件・事象がほとんどで(いくつかの大きな「乱」はあったようだが)、公家たちの「恋愛」物語や「心象」の様相はある程度は分かっても、後の時代に比べて、どうも一般庶民の姿がよく分からない。
 この時代、どのように「国家」運営が、政治・行政が現実に行われていたのかも実感としてはよく分からない。
 日本国憲法「九条原理主義」が蔓延していたかのごとく「軍隊」がなく、幸い外国との戦乱もなかったようなのだが。
 むろん、私の知識不足、勉強不足が大きいのだろう。
  池田信夫が<集団のための遺伝>というものに言及していたが、<個体>よりも<集団>を優先する「淘汰」、そのような生物的遺伝というものには、疑問を感じていた。
 だがこれは、「集団」というものの捉え方ないし範囲によると気づく。
 つまり、「自分」よりも「一族」(~家)や「民族」(例えば日本「民族」)等を優先して自己犠牲を承認するような遺伝子の継承などあり得るのだろうかと、幼稚にあるいは素朴に感じていた。
 だが、この「集団」なるものが生物の一種としてのヒトという「種」全体を意味するのだとすると、腑に落ちる。
 つまり、そのような遺伝子は生物的に相続・継承されているような気もする。
 かつて、月等の宇宙の惑星への「旅」を人間が試みていることについて、地球では生存してゆけない危機感をもった「人類」が本能的に別の惑星を探しているのだ、ということを語った人もいた。
 むろん立証・証明は困難だろう。
 地球温暖化とか「核」兵器・電発の問題とか、どの程度に「人類」の将来に関係しているのかは、幼稚な一市民としてはよく分からないことも多い。
 だが、池田信夫のおかげで(それだけではないが)、「原発」問題はかなりイデオロギー化、政治化していて、どうも「人類」規模・次元の問題ではないだろうことは分かる。
 単純な言い分、分かり易い言い分。人間は、現在の日本人も、<できるだけ楽をして、自分で面倒なことを考えないようにしたい>という本能を一方で確実に、あるいは強く持っていると思われるので、いろいろとやむを得ない、「ヒト」の本性だから仕方がない、人間という生物の「弱さ」・「限界」だ、と感じることは多々ある。

1963/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題①。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 記録しておく価値があるだろう。上掲書の一部。p.77~。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。
 八木秀次論というよりもむしろ、いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>にかかわって。
 一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。
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・諸君!2006年5月号の八木秀次氏の私(西尾)に関する文章は「私の虚栄心をくすぐってくれた題である。これにリードがついて『執拗なイジメの数々…私〔秋月-八木のこと〕は林彪のごとく<つくる会>を去っていくしか術はなかった』と氏の行動が表現されている」。
 ・「一人の男として、会のトップに立つべき人として、足を引っ張られたとか、イジメられたとかは口が裂けても言ってはならないはずだが、全文を読み終ると、八木氏はこのリードの通り弁解めいた弱音をさらけ出し、〃ボクちゃんはイジメられたけど正しかったんだよお〃と訴えているように読める。」
 ・私(西尾)は2006年1月17日に<つくる会>の名誉会長を辞任した。
 「振り返れば、前年〔2005年-秋月〕の12月初旬、八木氏は突然、私に対して態度が大きくなり、ふてぶてしくなり、あっと驚く非礼があり、執行部の中心にいた彼が『宥和』を図ると称して執行部に反対する四人組(新田均氏、勝岡寛次氏、松浦光修氏、内田智氏の四理事)+宮崎正治・前事務局長の反乱側にひそかに寝返ったのである。
 執行部会議に名誉会長、すなわち西尾は出て来るべきではないと彼が私に面と向かって言ったのは12月25日だった。
 私は困難が発生したから乞われて執行部会議に臨時に出ていただけなのに、そういう言い方だった。
 執行部を中心とした良識派は八木氏の急激な変貌ぶりに危機感を覚え、守りを固めた。」
 ・私(西尾)は2006年1月16日の理事会で「『お前はなぜそこにいる』という意味の重ねての無礼な反乱側の挑発に腹を立て、名誉会長の称号を返上した」。
 ・「…渡りに船でもあり、辞任に不満はないが、クーデターは許せないと思った」。
 「平時に」理事会にも出ないが、大事なのでと執行部側から出席を求められ、「名誉会長の最後の義務だと思ってやりたくもない務めを果たしていた」。
 「しかし何度もいうが、会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」。
 ・「というのは、単なるポストをめぐる争いではなく、会を教科書をつくる会ではなく、なにかまったく別の違ったものに変質させてしまう考え方をもつ人々による計画的簒奪であることが、後日少しずつ分るようになるからである。」
 ***
 ・「すでに反乱側の少数派は12月の段階で会を乗っ取ろうとし、事務局まで割って、執行部側の事務局員をイジメて追い出そうとしていた(実際に二人追い出された)。
 今思えば11月半ばから八木氏の会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会はこの早い時期に分裂していたといえる。」
 ・八木氏は先月号=2006年5月号で「悲劇の主人公を演じている」が、「六人のうち私と藤岡氏を除く三副会長、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の諸氏のうち工藤、福田の両氏を副会長に指名したのは八木氏その人だった」。
 「彼はその三副会長に背中を向け、電話もしない。
 六人の中で孤立したのではなく、他の五人から自分の意志で離れて『四人組+宮崎』派にすり寄ったのである。
 しかも何の説明もしなかった。
 三副会長は怒って辞表を出した。
 それでも八木氏は蛙の面に水である。
 都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常である。」
 ・言いたいことはガンガン言えばよい。「しかし彼は黙っている」。
 「語りかける率直さと気魄がない。
 それで後になって自分は置き去りにされていたとか、自分の知らない処でことが進んでいたとか繰り言をいう。
 すべてそういう調子だった。」
 ・「今考えると、サボタージュを含むすべての行動は計画的だったのかもしれない。
 しかし前記の論文では自分はイジメられて追い出されたという言い方をしている。//
 自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である。」
 <つづく-秋月>

1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1961/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節④。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版p.178-p.182。合冊本では、p.929-p.933.
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 何度も記したように、この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義④。
 (22)戦争後のしばらくの間フランスで甚大な成功をかち得たサルトル(Sartre)の実存主義哲学は、この当時の態様では、マルクス主義と全く相容れないものだった。
 サルトルは、自然という決定要因に支配された異質で緩慢な世界にいる、絶対的な自由の虚無(Vacuum、真空)が人間という存在だ、と主張した。
 この自由は、人間が逃れようとしてきた耐え難い重荷だが、誠実さ(good faith)と矛盾することなしには逃れることができないものだ。
 私の自由は絶対的で無制限だという事実こそが、私が言い訳すること(alibi)を全く不可能にし、自分が行う全てについて百パーセントの責任を私に負わせる。
 私の恒常的な自己予想は、そこにこの自由が提示されているのだが、時間を発生させるものだ。それは人間存在の本当の形態であり、自由のごとく我々の全てがもつ独自の属性だ。
 サルトルにとって、協同的かつ共同体的な時間のごときものは存在せず、自然の、希望のない、かつ抑圧的な、個人が絶えることなく自分を生み出すための不可避性(necessity=必然性)以外には、いかなる自由も存在しない。-この自己の生産は、神またはその他の超越的価値、歴史的伝統や同類の人間たち、によって助けられることのない過程だ。
 私は空虚な自由と純粋な否認性によって定義されているがゆえに、私自身の外部にある全ての存在は私の自由を制限しようとしているものだ、と私には思える。
 したがって、存在というまさにその本性によって、いわば存在論的に(ontologically)、人間関係は、他の人間存在を併合しようとする、まるで他者は物であるがごとき、敵対的な形態のみをとることができる。-このことは、全ての論脈に、そして、政治的支配のように、愛(love)にあてはまる。//
 (23)いかなる形態のものであれマルクス主義と、このような基本的考え方の間には、共通する基盤が存在していないことが明瞭だ。この基本的考え方は、人間の共同体または共有される時間という観念を、全て排除する。そして、生活の全体を、自分自身の虚無性(vacuity、真空性)を非合理的に追求することへと帰一させる。
 この点によって、フランスの共産主義知識人たちは、実存主義に対して激しい非難を投げつけた。
 他方で、サルトルは初期の段階から、労働者階級と被抑圧者一般を同一視しようとした。その結果として、サルトルの共産党との関係の特徴は、逡巡と不明瞭さになった。
 彼は実際に、共産党員たちとの一体感と彼らに対する激しい敵意との間で揺れ動いた。その複雑な過程を、ここで立ち入って叙述することはできない。
 しかしながら、彼の全ての段階で、「左翼」(Leftist)としての自分自身の名声を維持しようと努めた。そして、自分自身と彼の哲学を<格段に優れた(par excellence)>「左翼主義」を具現化したものだと示そうとすらした。
 つまるところは、共産党員たちを攻撃して彼らから罵倒を浴びせられたときですら、サルトルは、反動やブルジョアジーの勢力、あるいはアメリカ合衆国政府に対して、もっとはるかに激烈な攻撃をする立場をとった。
 サルトルが一体化したプロレタリアートの諸要求を共産党が代表していると考えることで、彼は一時的に政治的共産主義と同盟したばかりではなく、解放という人間の最良の希望だとして、スターリニズムの最終段階にあったソヴィエト同盟を称賛した。
 彼の政治的活動全体の価値が減少する理由は、影響力を何ら持たないという知識人には絶えられない事態の典型的状況に陥るのを怖れる、そういう気持ちにもとづいていることにあった。
 要するに、サルトルのイデオロギーは、「内部」に存在したいという充たされない野心のうちに抱かれた、政治的<不満(manqué)>のそれだった。//
 (24)一時期はサルトルと一緒に活動したメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)は、マルクス主義と共産主義に関して、最初からもっと懐疑的だった。彼の自由の理論は、虚無としての自由というサルトルの考え方よりもマルクス主義に近いものだったけれども。-この理論は、自由はつねに現実の状況によって決定され、克服する障壁をつうじてのみ存在する、というものだ。
 メルロ=ポンティは<人間中心主義とテロル(Humanisme et terreur)>(1947年)で、共産主義者のテロルとその歴史的正当化の可能性を論じ、我々は自分たちの行動の完全な意味を知ることはできない、全ての帰結をまだ知らないのだから、と主張した。その帰結がまさに「意味」の一部であって、否応なく我々の責任になるものだ、と。
 そのゆえに、歴史的過程とそこでの我々の役割は、不可避的に不明瞭で、不確実だ。
 また、その究極的効果が暴力を排除することにあるならば、暴力(violence)は歴史的に正当化されるかもしれない、ということになる。
 彼はしかし、このように寛容な暴力の承認について、いかなる規準も確定しなかった。
 時が経るにつれて、メルロ=ポンティはますます共産主義に対する批判を強めるに至った。//
 (25)西側ヨーロッパ諸国でのマルクス主義著作の様式と内容は、当然に、それぞれの異なる文化的伝統を反映した。
 フランスのマルクス主義は戯曲ふうに修辞的で滑らかな人間主義の語句に耽溺しがちで、革命的雄弁さをもって語った。
それは印象主義的で、論理的には杜撰だったけれども、文語的な(literary)観点からは有効だった。
 イギリスのマルクス主義は、何がしかの経験主義の伝統を維持した。すなわち、もっと現実的(down-to-earth)で、論理的議論に関心をもち、歴史にもっと根拠をおき、哲学的「歴史主義」(historicism)への傾斜が少なかった。
 イギリスでの共産主義はきわめて弱体で、労働者階級の中での大衆的支持を一度も獲得しなかった。
 しかし、他諸国でと同様に、共産主義は純粋に知的な運動ではなく、薄弱だったかもしれないにせよ、つねに労働組合との関係を維持した。
 多くの知識人たちが1930年代に共産党を通り過ぎ、別の者たちは、戦後もそうした。
 共産党の信条をもつマルクス主義哲学者の中に、モーリス・コーンフォース(Maurice Cornforth)とジョン・ルイス(John Lewis)がいた。
 前者は、<科学対観念論>(1946年)と題する、論理的経験主義と分析哲学に対する批判書を書いた。この書物で彼は、知に関するエンゲルス・レーニン理論を擁護し、「論理的原子論」、思考の経済の原理、哲学の言語分析学への矮小化を攻撃した。
 後者は、とりわけ、プラグマティズムを批判する書物を書いた。
 ベンジャミン・ファリントン(Benjamin Farrington)は、古代ギリシャの科学に関する書物など、戦後初期の時代に歴史に対する価値ある貢献をした。彼はこの書物で、技術をもつ現代国家へと哲学的諸教理を関係づけた。//
 (26)フランス・マルクス主義が人間主義的言い回しを強調し、イギリス・マルクス主義が経験的かつ理性主義的論拠を重視したのに対して、イタリアのマルクス主義は、その伝統に忠実に、「歴史主義」への注目を強調した。
 スターリニズムの最終時期ですら、イタリアのマルクス主義哲学はレーニン主義やスターリン主義の規準から遠く離れていた。
 しかしながら、イタリア共産党は、他諸国の同志たちと同様に国際的諸問題についてはソヴィエトの方針に従順だった。この党は、ファシズム瓦解のあとで、20年間の停滞と無気力状態からきわめてすみやかに復活していた。
 のちに1956年〔試訳者注-ハンガリー事件の年〕のあとで、Parnimo Togriatti(1893-1964)は、共産党指導者たちの中で最も「心を開いた」、モスクワから最も自立している人物だという名声を獲得することになった。しかし、このことをスターリン時代にまで遡らせることのできる根拠はない。
 Togriattiはこの当時は、ソヴィエトの政策の紆余曲折に、全て忠実に適応していた。
 しかしながら、彼は特段の困難なく、(共産党専門用語で「教条的」、「左翼主義」、「党派的」と表現された)厳格な孤立主義から、ゆより融通性があって効果的な「人民戦線」政策へと方向転換した。
 文化的諸問題について、イタリア共産党は一般に他のどの共産党よりも攻撃的に口汚く罵るということはなく、マルクス主義とイタリア独自の伝統の連環を強調し、伝統的にある反動的要素ではなく「積極的」要素を重視して宣伝した。
 グラムシ (Gramsci)が1947-49年に公刊した<獄中からのノート(note)>はイタリア共産主義の歴史上の画期的なもの(milestone)で、レーニン主義の教典が許した以上にはるかに柔軟な範型のマルクス主義を党知識人が受容することを可能にした、そういう発想方法の根源だった。
 1950年代初期の傑出した著述者は、Galvano della Volpe(1896-1968)とAntonio Banfi (1886-1957)だった。彼らは人生のかなり遅くにマルクス主義者になり、かつ共産党員となって、普遍的な人間中心主義についてのイタリア的精神でもって、新しい信条を解釈した。
Della Volpe は、Eckhart に関する価値ある書物を執筆し、認識論に関する<Logica come scienza positiva>(1950年、ここでの「論理」は知に関する理論一般を意味する)と題する書物を書いた。彼はこれによって、マルクス主義を反ヘーゲルの立場および経験論者の用語法で解釈した。
 この解釈にもとづくと、マルクス主義は世界に関する科学的説明というほどのものではなく、さらに形而上学の体系以下のものだ。こうしたものではなくて、人間の自己創造の今日的段階を歴史的に表現するものであり、人間の生(life)の条件を統御しようとする実践的闘いを明瞭に叙述しようとするものだ。//
 (27)要約するとすれば、つぎのように言えるかもしれない。すなわち、西側ヨーロッパでのスターリニズムの最後の時代は、理論書および歴史書に関するかぎりで全体として無意味なものだったわけではない。しかし、何らかの価値のある数少ない書物は、組織された政治的瞞着の洪水の中で溺れ死んでいった。これについて非難されるべき責任は、何の例外もなく世界中の全ての共産主義知識人たちにある。(なお、何らかの価値のある数少ない書物も大部分は、今日ではそれ自体を目的として読む価値はない。)
 この時代に共産主義運動に加わったフランスまたはイタリアの著作者たちは、一般的に言ってソヴィエト体制や世界革命の展望にはほとんど関心がなかった。彼らが党を支持した理由の一部は、共産党が熱心に彼らの要求と利益を語ったことにあった。
 しかしながら、彼らはマルクス主義と共産主義を普遍的な教理として心に抱いていた一方で、運動が完全にモスクワによって支配されていることや、ソヴィエトの政治目的に従属していることに、十分に気づいていた。
 それにもかかわらず、無批判に、彼らは、ソヴィエトの社会体制の真の(true)性格に光を当てる全ての情報を拒絶した(そうした情報は西側の書物から、また直接に東ヨーロッパ諸国から、容易に入手可能だった)。
 彼らは、状況に応じてつねに、言葉と行為でもって、また共産党の党員であることをもって、この体制を賛美した。
 彼ら全員が、茶番劇の「平和運動」に参加した。この標語のごときオーウェル的表題は、冷戦時代のソヴィエト帝国主義の重要な道具だった。
 彼ら全員が、全く平気で、アメリカは朝鮮半島で細菌戦争を行っているという非難のごとき、狂信的な捏造事を信じ込んだ。
 ソヴィエト体制の完璧さに疑いを差し挟んだ者は誰もが、「結局は」(after all)、共産主義がファシズムに対抗する唯一の、または最も有効な防塞だ、と自分に言い聞かせた。そして、そのゆえに共産主義を百パーセント、無条件で受容しなければならない、と。
 このような自発的な自己欺瞞の心理的な動機は、さまざまだった。
 とりわけあった心理的動機は、普遍的な人間的友愛という古来からの夢を世界の誰かが具現すると信じたい、というきわめて切実な欲求だった。
 「歴史の進歩」に関する知識人たちの幻想。
 多くの西ヨーロッパ諸国では大戦間に完全に地に落ちた、民主主義的「既得権益層」(establishment)に対する侮蔑意識。
 歴史や政治を含む普遍世界(the universe)の秘密をこじ開ける、そういう万能の鍵(master key)を求める切望感。
 歴史という波の頂上に、換言すると、勝利する側に、立っていたいという野心。
 知識人たちはとくに陥りがちな、現実的影響力(force)への信仰。
 彼らが考えていたように現世界で剥奪され迫害されている人々と同じ防塞の中にいると願望しつつ、共産主義〔共産党〕知識人たちは、最も抑圧的な体制の預言者となり、そして、権力を拡張するために用いる、巨大で効率的な虚偽(lies)の装置のための、現存するかつ自発的な工作員(agents)となった。//
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 第13節、および第四章が終わり。
 次章以降の表題は、<トロツキー>、<アントニオ・グラムシ>、<ジョルジュ・ルカチ>、<カール・コルシュ>、<ルシアン・ゴルトマン>、<フランクフルト学派と「批判理論」>、……。
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