秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2019/04

1960/新元号の決定・公布・施行と日本会議。

 一 <平成31年4月1日月曜日/官報号外特9号>により、つぎのとおり、元号政令が公布された。縦書き漢数字は横書き洋数字に改めた。
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 御名 御璽
 平成31年4月1日
  内閣総理大臣 安倍晋三
政令第143号
  元号を定める政令
  内閣は、元号法(昭和54年法律第143号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
  元号を令和に改める。
  附則
  この政令は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の施行の日(平成31年4月30日)の翌日から施行する。
  内閣総理大臣 安倍晋三
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 すでにこの欄に記したように、政令一般もそうだし、元号を定める政令もそうだが、政令を制定するということは、内容の①決定、②公布、③施行(発効)という三つの段階を経る。
 今次の元号決定(・変更)は閣僚懇談会のあとの閣議によって、元号法が定める決定権である内閣によって行われた(上に「内閣総理大臣・安倍晋三」とあるのは決定権者を示しているのではなく、署名をして合議体の中の責任大臣を特定しているのだと思われる)。
 それだけでは政令としての法的効果を発生させず、法律と同様に、一般に対して、国民一般に、周知する、という公示・公布が必要だ。
 これは憲法上の国事行為の一つとして、天皇が行うことと、現憲法上定められている。
 上の最初に「御名 御璽」とあるのは(法律等の場合も同じだが)今上天皇が直筆で署名し、天皇の「公印」が捺されていることを示す。
 官報にはそのままの写真を掲載しはしないので、「御名 御璽」という記載の仕方になる。
 この公布=官報への掲載と官報販売所への送付によって初めて元号政令は正式に公にされることになる。
 菅義偉官房長官が「令和」と筆書した額を掲げつつメディアの前で新元号を発表したのは、法的には厳密には意味がない。内閣が決定した内容について(いずれすみやかに公布される前に)情報を提供する行為(事実行為の一つ)にすぎない。
 4月1日の閣議決定後に官邸?を出た自動車が皇居に向かっておそらくは今上天皇と接する?までは官房長官「発表」がなかったのは、どのメディアもほとんど正確には報じていなかったが、新元号政令の「公布」に必要な「御名 御璽」が記され、捺されるのを待っていたためではないか、と思われる。たんに新元号が「令和」に決まったことを伝えるためではない(まして今上陛下の意見・意向を拝するためではない)と思われる。
 何らかの資料・情報で確認しているのではないが、「公布」が4月1日発行の官報によっていることかにすると、そのように確実に推察される。
 今上天皇による、「御名 御璽」の署名・押印のあとすみやかに=4月1日のうちに(独立行政法人)国立印刷局による印刷と頒布がなされたのだろう。
 重要なもう一つは、「公布」があった始めて当該政令は法的効果をもつが、その効果・効力の発生は「公布」時であるとは限らない、ということだ。
 公布されたその日が施行日だという法令もあるが、何時何分とかが問題になりうるので、近い将来の施行日まで定めていることの方が多いのではないだろうか。
 そして、上のとおり、今次の元号政令は、「…(平成31年4月30日)の翌日から」施行される=発効する。
 この「翌日から」は、「5月1日から」で、正確には、5月1日の午前0時からの意味だと思われる。
 二 すでに紹介し批判的コメントを加えた(この欄2月3日、№1915)ように、「日本会議」という最も簡潔な名前で発している日本会議の新元号決定等に関する「見解」は奇妙だ。
 ①「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」。
 ②「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た」。
 ③「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」。
 これらのうち、①と③は、現在の元号法(法律)の定めに反対していることを示す。
 そうだとすると、これをどう改正するかを、日本会議は提言すべきだ。
 たんなる精神・観念論ではなく、法制度の具体的内容を論じることができなければならない。
 不思議で奇妙でもあるのは、とくに上の②だ。
 第一に、新天皇即位後に「新元号を決定し公表」すると述べつつ、正規の「公布」という語が使われていない。官房長官による「公表」と官報登載という正規の「公布」は、意味も時機も同じではない。
 加えて、この日本会議の考え方に従うと、おそらく、5月1日午前0時からの新天皇の就位と新元号の決定・公布までの間にタイム・ラグが必ず生じ、「平成」ではなくなったがまだ新元号が施行されない、または5月1日になってからもしばらくは「平成」のままで新元号が施行されない、という時間がかりに数時間または十数時間であっても生じる、と考えられる。
 前者のように「空白」を生じさせてはダメだし、後者によれば一天皇=一元号を崩してしまう。
 日本会議は、いったい何を考えているのか。
 第二に、「『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせる」というのは、種々に理解できるところもあり、精確な意味は不明だ。
 そもそも日本会議は、たんに「日本会議」名で発表されている文書は、『国民生活への支障を回避』という場合の「国民生活への支障」を、IT分野の情報プログラムの問題も含めて、どのように理解しているのだろうか。
 あるいはそもそも「施行」という概念を厳密に分かったうえで使っているのだろうか。
 遅れて「施行」されるまでは、新天皇のもとでの元号はまだないのか、それとも元号は「平成」のままなのか??
 要するに、現実の社会に関する知見、法制度に関する知見等々、を日本会議および同会議諸氏はいかほどに有しているのだろう。きちんとした顧問・専門家不在で、<あほ>が集まっているのではないか。

1959/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節③。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.174-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義③。
 (16)ソヴィエトの宗主権のもとにある他諸国では、文化上のスターリン主義化は、さまざまな理由で、より全面的で、より破壊的だった。
 東ドイツはソヴィエトによる直接占領下にあり、スターリニズムはプロシア的(Prussian)伝統と結合して、硬い反啓蒙主義の雰囲気を生んだ(のちに別に論述するErnst Bloch の活動のおかげで救われた)。
 さらに、1961年までは西ドイツへと逃亡することが困難でなかった。そう行動した400万の人々の中には、多数の知識人がいた。そして、彼らがいなくなったことで、その母国地域の荒廃が増大することになった。
 チェコスロヴァキアもまた、容赦なきイデオロギー的迫害(purge)を被った。その影響の跡を、今日でもまだ感じ取ることができる。
 ここでのしばらくの間の文化的独裁者は、元来は音楽に関する歴史学者のZdeněk Nejedlý だった。この人物は強権でもって芸術を監視し、チェコの古典文学を「校訂」し、「コスモポリタン」のドヴォルザーク(Dvořák)の作品の上演を禁止するなどをした。
 ブルガリアで彼の位置にいたのは、Tedor Pavlov だった。この人物は典型的なマルクス主義好事家(dilettante)で博識ぶっており、生物学、文学、哲学その他について執筆した。
 最もよく知られた著作は、戦争前に刊行されてロシア語に翻訳された、<反射の理論>と題するレーニン主義の認識論の論文だった。
 「反射」という概念はこの著作では、機械的な因果関係論から先に進んだ、個々の事物が相互に行使し合うことのできる全種の影響力を指すという、広い意味で用いられていた。
人間の感知いう行動と抽象的思考はこの「反射」の特殊な場合であって、最高度の次元で事物を構成化したものだ。
 たまたまこの時期に、ソフィア大学〔ブルガリア〕の哲学の老練教授のMikhalchevが、第二級のドイツ経験批判論者であるRehmke (1930年没)の指導を受けていた。
 そのゆえにそれ以降の多年にわたり、ブルガリアのマルクス主義哲学者の主要な課題は、 「Rehmke 主義と闘う」ことになった。//
 (17)ハンガリーでは、マルクス主義は最初から強い地位にあった。それは、前世代に何人かの傑出した哲学者たちが存在したことを理由とした。すなわち、J. Révai、B. Fogarsai、そしてG. Lukács (ルカチ)。
 Révai は、一時期、ハンガリー文化のスターリン主義化の責任をもつ党代表者だった。
 ルカチ(Lukács)は、この時期を通じて二重の位置にあった。スターリニズムの最後の年月の間での彼の書物や論文は、ヘーゲルに関する書物を除いて申し分なく正統派のものだったけれども。
 ヘーゲルに関する書物は戦争前に執筆され、1948年にドイツで出版された。
 この本は完全に非ソヴィエト様式のもので、決してスターリン・ズダノフの公式と適合していなかった。//
 (18)西ヨーロッパでは、マルクス主義の位置はいくぶん異なっていた。
 全ての共産党がいつでもスターリンの方針を忠実に支持し、ソヴィエトの政策を称え、指導者(Leader)の個人崇拝を伝道していた、というのは本当だ。
 しかし、フランス、イギリスでは、そしてイタリアでも、ソヴィエトの範型は、哲学や歴史学に関する理論上のマルクス主義著作物を完全には支配していなかった。
 とは言え、それからの逸脱の程度は、内容の点でよりも様式や議論の方法の方が大きかった。//
 (19)フランスの共産主義者の運動は、1945年後の最初の数年間で大きな勢いで強くなった。
 冷戦の最初から、共産党は主要な政治および議会の諸問題で堅牢な態度を維持し、利点とは関係なく全ての政府の動きを妨害した。但し、地域または都市内の問題については、その政策は戦術的で融通性があった。
 同時に、共産党は、第一次大戦以前のドイツ社会民主党にむしろ似ている基本方針をもって、文化生活の入念で高級なかたちを発展させた。
 党は、理論誌<Pensée>を含む多数の定期刊行物を出版し、その隊列の中に、国民的に名高い多数の優れた男女を数え込んだ。すなわち、Aragon やÉluard のような文筆家、Picasso (ピカソ)やLéger のような画家、Juliot-Curie (ジョリオ=キュリー)たちのような科学者。
 こうした全ての者たちの力で、共産党の活動は相当の威信を獲得した。
 かなりの量の哲学上の文献が、出版された。その中のある程度は純粋にスターリニズムのもので、とくに党の月刊誌<Nouvell Critique>上のものはそうだった。
 例えばこの雑誌は、当時にフランスで関心が増えていた精神分析論に対する反対運動を打ち上げた。
 予期されるように、寄稿論考のほとんどは、精神分析論をブルジョア的学問だ、そのうえに観念論で機械論だ、と非難し、社会現象を個人の心理に、人間の精神を生物的な衝動に帰一させるものだ、とした。  
1960年代の「リベラルな」共産主義の運動者として注目されるべきRoger Garaudy(ロジェ・ガロディ) は、内容的はスターリニズムだがソヴィエトでの著作物よりも確実に十分に知見のある好著をいくか執筆した。
 その一つは<Grammaire de la libertéa〔自由の文法〕>で、自由を獲得する方法は産業を国有化して失業を廃絶させることだ、と論じた。
 Garaudy は<Les Sources françaises du socialisme scientifique 〔科学的社会主義のフランスの起源〕>(1948年)では、共産主義はフランス文化に深てかつ独特の根源をもつことを論証しようとした。
 彼はまた、キリスト教に関する書物を書き、カトリック教会が反啓蒙主義であり科学の進展に反抗している証する文章類を引用した。//
 (20)いくぶん異なる性格の、多作の文筆家だったHenri Lefebvre(アンリ・ルフェーヴル)は、マルクスとヘーゲルの著作撰者の一人で、民族主義およびファシズムに反対する複数の著書の執筆者だった。
 彼は1947年に、<Logique formelle et logique dialectique(形式論理と弁証法的論理)>と興味深い<Critique de la vie quotidienne(日常生活批判)>を出版した。
のちには実存主義批判に至り(1960年代や1970年代のフランス・マルクス主義者が論述するのを避けられないものだった)、さらに、デカルト、ディドロー、ラブレー、パスカル、ミュッセ〔Alfred de Musset〕、マルクスおよびレーニンの著作に批判を向けた。絵画や音楽に関する学位論文もある。
 これらの著作は全て、スケッチ風のもので深遠な研究書ではない。しかし、独特のかつ有意義な観察を含んでいる。
 ルフェーヴルは、幅広い文化、とくにフランスとの関係でのそれを知る人物だ。
 彼の著作は生き生きとしていて、独創的だ。しかし、あまりに多数の主題に接触しすぎて、それらのいずれの主題についても長くは存続しなかった。
 彼は、フランスのマルクス主義に対して相当大きい影響力をもった。それは中でも、ソヴィエト・マルクス主義が実践的に無視したマルクスの初期の著作に、頻繁に立ち戻って思考したことによる。
 彼はとくに、「全体的(total)人間」という主題に関心をもった。
 「若きマルクス」が1940年代および1950年代初めにフランス哲学の支え(staple)になったのは、ルフェーヴルに大きく依っている。
 彼はまた、おそらく「疎外(alienztion)」というマルクス主義用語を一般的にした最大の人物だ。この語は(彼が意図したのではないが)、曖昧に心地よくない状況を指し示すためのフランスの日常用語として、好まれる表現句となった。
 傑出したマルクス主義歴史学者のArguste Cornuk(オーギュスト・コルニュ)の著作は、この時期での党の哲学の主流とはいくぶんか離れている。//
 (21)スターリン・イデオロギーの解体の時代のフランス・マルクス主義の進展は、1940年代のヘーゲル主義と実存主義のうねりに影響を受けていた。
 ヘーゲル、とくに<精神現象学>、のフランスの読者への主要な紹介者は、Alexandre Kojève(A・コジェーヴ)とJean Hyppolite(J・イポリット) だった。前者は、戦争前にヘーゲル哲学に関して深く研究して論評していた。
 この二人はいずれもマルクス主義者または共産主義者ではなかったが、マルクスの思想に同調的な関心をもち、真摯に分析し、ヘーゲル体系(schemata)の諸要因がマルクスの思想に影響を与えたことを強調した。
コジェーヴとイポリットは、フランス哲学をその伝統的な回路と関心から逸らす大きな仕事をした。
 とりわけ、歴史の進行の中に具現化された理性(Reason)という考えに通用力を与えた。-この観念は反デカルト的なものだった。なぜなら、デカルトは、歴史を本質的には偶然が支配する領域で、哲学の及ぶ範囲外にあり、意識的な虚構による人為的な構成物、デカルトが名付けたような<fabula muudi>、という手段による以外には合理的に説明することができないものだ、と考えたからだ。
 コジェーヴは1947年に出版された講義録で、労働と闘争によって人間が自分で作り出す歴史としての<現象学(Phenomenology)>を提示した。
 主人と下僕の弁証法のうちに、彼は、マルクスのプロレタリアート理論と歴史を創造するもの(demiurge)としての労働という考えの起源を感得した。
 コジェーヴとイポリットは、マルクスの歴史にかかる哲学はヘーゲルの否定の弁証法を継続させたものだとということを示した。-悪、隷従および疎外は、人類が自己の理解と解放を達成するために必要な手段だ。
 イポリットはとくに、マルクスにとってと同様にヘーゲルにとって理性は、歴史の行路から自立した独自の法則をもつ超越的な観察者ではなく、それ自体が歴史の要素、側面または表現だということを、強調した。また、「理性的なもの」に向かう人類の進歩は漸次的に同質化していく、思考についての既製の法則の問題ではなく、共同体と他者にある理性的なもの承認という意識の成長の問題だ、とも。
 この目的を達成するためには、人間は商品(commodity)として機能することをやめることが必要であって、このことがマルクスの主要なメッセージだ。//
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 ④へとつづく。次の段落の冒頭は、「サルトルの実存主義哲学…」。

1958/池田信夫のブログ004。

 「池田信夫(の)ブログ」を表題の一部にして、昨2018年の09/27、10/29、12/07と三回投稿しているので、今回をを№004として、続ける。
 原則的に毎日または毎夕に読んではいるので、感想めいたことを書き出すとキリがない。
 かと言って、少しでもメモしておかないと、そのうち忘れてしまって、<貴重な>知的体験類を再現できなくなる。
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 池田信夫ブログマガジンレヴィ=ストロースの「美しい文章」を、たぶん紹介している邦訳書から引用していたのは、(もっと最近かと感じていたが)2019年3/11号だった。
 ここでは、一文ごとに改行。「名著再読」の項の一つ。
 「人は未来もずっとここにいることはできず、この惑星の表面から消えることは避けられないが、その惑星も死ぬ運命にある。
 人の労働や悲しみや喜びや希望など、はかない現象の記憶を保持する意識も生き残りえず、やがて人類のわずかな証拠も地球の表面から消されるだろう。
 --まるでそれは最初から存在しなかったように。

 フランスの哲学者らしき者には関心もほとんどなかったが、読んでみてもよいかな、と思わせた。
 個々の人間が生まれていつか必ず死ぬように、ヒトという「種」(ヒト科・ヒト属)もまたいつか必ず消滅するのだろう。
 始まりまたは誕生があるとすれば、終わりまたは死滅も必ずある。
 それどころか、ヒトその他の動物、さらに生物を生んだこの地球もまた、いずれ、何らかのかたちで消滅するだろうと、「科学的」に予知されている。
 それどころか、そもそも太陽自体が、いずれ燃え尽きるか、大爆発して消滅するだろうとされている。
 太陽に生成があったとすれば、いずれ消失もある。
 私は、このかけがえのない自分は、いったいどこから来たのか。ヒトの一個体として、たまたまこの時期に、地球上のある地域(日本列島)に、生まれた。
 その「意識」もいずれ近いうちになくなり、私にとっての「悲しみや喜びや希望など」の全ては消失するが、同じことは「人類」自体について、そうであるに違いない。
 ヒトの個体とその意識・感情が死滅を避けられないように、人類自体もまた、そうだと思われる。
 決して、何らかの「よい」方向へと、試行錯誤しつつも「進歩」しているのではない。
 何らかの、一定の前提、<約束事>の中で藻掻いているにすぎない。
 「知識人」?、「言論人」? 「論壇人」? /どの(日本の)大学?、学歴?
 そのような、それに関する、自意識をもって世俗的に生きているらしき多数の人々(もちろん日本人を含む)の<底の浅さ>を、「深いレベル」での感受性の欠如を、感じさせざるを得ないだろう。

1957/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史03。

  「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 論点をほとんど一つに絞ったような政治的精神運動団体は、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>だとは言えても、「保守」だとは本来は称し難いように思われる。
 「リベラル」も至極あいまいな概念で、この欄ではできるだけ使用を避けている。
 しかし、これまで頻繁に使ってきた「保守」という概念・言葉の意味やそれがもつ射程範囲もまた、この欄でも何度か触れてはきているのだが、基本的な再検討が必要だ。
  曖昧なままで「保守」という語を使っておくと、広い意味での今日の日本の「保守」派を分ける基本的な対立点の一つは、<天皇>制度につき、とりわけ将来または近未来のそれについて、男系に限るべきとするか、少なくとも何らかの時期を想定して<女性かつ女系>天皇も容認すべきだとするか、にあるようだ。
 言うまでもなく日本会議派は前者の立場で、日本会議系または神道政治連盟系を「堅い」読者層とする産経新聞社の主流派および月刊雑誌・正論の基調もまた、前者だと推察される。これらと一線を画してはいるが、この論点に限っては、西尾幹二も前者に入る。
 秋月瑛二もまた、かつて一時期、この立場を支持して、<女系天皇>容認論者を、例えば小林よしのりの議論を批判したこともある。
 その場合の論拠はほとんどもっぱら、日本の<歴史的伝統>であって、「女性」天皇はいても<女系>天皇を日本の歴史は容認したことがない、ということにあった。
 前者の主張の論拠もまた、ここにあったし、またあるものと思われる。
 つまり、せっかくの<歴史的伝統>をあえて崩す必要はないのではないか、という素朴かもしれない発想によっていた。
 もちろん、天照大御神は「女性」だった(ヒミコも女性だった)などということは、<女系>天皇容認論のまともな論拠になるはずはない。、
しかし、もともと日本史の専門家ではないことにもよるのだったが、そもそも日本の歴史には「女性」天皇はいても、<女系>天皇を容認したことはない、かつまた原則的にでも<男系男子>が存在する場合には当該男子が継承してきた、という根本的な論拠については再検討が必要かと思われる。そして、日本会議派等の<男系>限定論者の「歴史認識」は本当に正しいのだろうか、という疑問をもつに至った。
 というのは、基本的な問題として、ある天皇が<男系>か<女系>かは簡単には決定できないのであって、一種の<価値判断>を前提にしている。あるいは、明治維新以降、つまり明治期以降に一般的になった「固定観念」をなお維持している、と考えることのできる根拠があるようだ。
  結論的に言って、<男系>限定と日本の天皇の歴史を認識することができるのは、おそらく光仁天皇以降、つまりはほとんど平安期以降であって、それまでは<男系>に限定されていた、あるいはそういう観念・意識が定着していたとは、全く言えないだろう。
 そもそも、神武天皇以降一貫して<男系>に限られてきた、とするのはたぶん日本書記等による、おそらくは後世になって、平安期以降に造られた「物語」であって、真実はそうではないだろうと思われる。
 こんなことは一部の論者あるいは日本史の専門家から見れば当然のことなのかもしれない。そうだとすると、日本会議派等の<男系>天皇限定論者は、日本の歴史について、<ウソ>をついていることになる。
 そもそも論から言うと、神武天皇以来脈々と「天皇」家の血統は続いてきている、ということ自体、神話・伝承あるいは、櫻井よしこらが好む「物語」にすぎない可能性が十分にある。<万世一系>は歴史認識としては(当然に「万」世ほどに続いていないことは別論として)誤りだろう。
 日本書記の描く古代史とは違う「王朝交替」論があることはよく知られている。そのうちの最初の方の継体天皇について<男系>とするのは、やはり不自然かと思われる。子細には立ち入らない。
 比較的最近につぎの新書を一読していて、須原祥二「第二講・倭の大王と地方豪族」があっさりとつぎのように記述しているが興味深く感じた。
 佐藤信編・古代史講義-邪馬台国から平安時代まで(ちくま新書、2018)。
 「そもそもこの時期までに、盟主の地位が特定一族の男系で継承されていたかどうかわからないが、仮にこの時点で盟主権の移動を想定するなら、例えば『入り婿』のような形での政権中枢内部における権力委譲や権力闘争の問題として、まずは検討した方がいいいだろう」。
のちに言う「継体」天皇が「入り婿」だとすると、むろんそれ以降の天皇の血統は「女系」天皇になる。
 この辺りについてはもっと前にヒミコ・邪馬台国問題にも触れたくなるのだが、割愛する。皇祖神が天照大神であって、神武天皇がその嫡流だとすると、これもまた「天皇」家の歴史と無関係ではない。
 応神天皇(胎中天皇)の母親は神功皇后とされるが、父親が仲哀天皇ではないとすると、<男系>継承は途切れている(井沢元彦説で、「推論」の部類だが、トンデモ説だとは思えない)。
  急いで書いてしまうと、おそらく奈良時代の孝謙天皇(=称徳天皇)の時期までは少なくとも、<男系>での「万世一系」による天皇たる地位の継承という意識・観念は成立していなかった、と考えられる(「天皇」という呼称自体、この時期による)。
 持統、元明、元正という各「女性」天皇の即位の時点で、<男系>皇族の中に男子も存在したはずだ。なぜこれらの「女性」天皇が成立し得たかは、後世の<男系・男子>による継承という原理・原則からはおそらく説明できないだろう。
 天武-草壁皇子-文武-聖武という「男系」の維持との関係でのみこれらの「女性」天皇即位を位置づけるのは、<後づけ>的な、天武-草壁皇子-聖武という<男系>中心史観とでも言うべきではないだろうか。
 また、孝謙(=称徳)天皇の発生と称徳天皇による道鏡への譲位の意向-宇佐神宮の「ご神託」という「話」は、男系か女系かという問題以前に、皇族の中から後継「天皇」を選ぶという原理・原則自体が、完全には定着していなかったことを示しているようにも見える。
 なお、数年前だろう、読売テレビ系の某番組で、竹田恒泰が<女系の例があるなら挙げてみよ>と挑発したのに対して、高森明勅が「元明天皇」と言いかけて口ごもっていた。
 しかし、竹田恒泰に反論するとすれば、かりに<女系>天皇の例がなかったとしても、その反対に<全てが男系だった>とも、厳密には言えないのではなかろうか。つまり、<男系>優先原則を徹底すれば、上記の4名の「女性」天皇もまた成立し得なかったのではないだろうか。
 もう一度換言すると、これら「女性」天皇の即位(重祚を含めると5回)の時点で、なぜ「男性」皇族(の一人)による継承という主張が有力になされなかったのか、という疑問がある(長屋王が好例。草壁皇子との関係では大津皇子も視野に入れるべきだ)。
  ところで、孝謙(・称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間の娘だとされるが、聖武天皇には別の女性(県犬養広刀自)との間に別の娘もいた、とされる。
 井上内親王といい、この女性が光仁天皇との間にもうけた一人が、他戸親王という男性だ。井上内親王は少なくとも一時期は皇后で、その子他戸親王は、聖武天皇の実孫、光仁天皇の実子にあたる男子皇族。
 だが、この二人は皇后の地位および皇太子の地位を廃され、光仁天皇と高野新笠との間に生まれ、山部親王とのちに称された子どもが皇位を継承する(=桓武天皇)。
 「01」で触れた神泉苑(京都市中京区)での<最初の御霊会>の祭神?ではないようだが(神泉苑の小冊子による)、御霊神社(同上京区、相国寺の北方)のウェブサイトによると、「御霊」とされる「八所御霊」のうち、井上内親王・他戸親王は、のちの桓武天皇の弟の早良親王(=「崇道天皇」)に次ぐ、第二、第三の「怨霊」とされる。
 立ち入らないが、この時期、皇位継承のルールはまだ確固たるものになっておらず、何らかの理屈・理念によってではなく、ときどきの政治諸力や個人的意向によって(光仁、桓武以前は女性も含めて)決定されていた可能性が高いのではないか、という感想が生じる。
 平安初期からするとほぼ1300年。櫻井よしこが簡単に言う「2600」余年にわたって連綿と、というのは<大ウソ>で、半分にすぎない。
 それでも長いとは言える。天皇という地位・制度については別途考察する必要があるが、日本では「(世俗)権力」と「(聖的)権威」が分かれて…、などと簡単または単純に説明することはできないものと思われる。「権力」と「権威」という語・観念のそれぞれの意味を明らかにすることから始めなければならない。
 以上、シロウトの文章だが、日本会議派の櫻井よしこや江崎道朗あたりと違って、まだ冷静に実態に接近するという気持ちだけはあるのではないか。
 なお、江崎道朗はかつて、<日本会議専任研究員>という肩書きで文章を書いていたこともあった。

1956/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
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 ③へとつづく。

1955/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版、第三巻分冊版p.166-。
 第三巻は注記・索引等を含めて、総548頁。この巻の試訳は、本文のp.1から始めて、ここまで済ませている。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。第13節は、計17頁分と長い。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義①。
 (1)ソヴィエトの支配下にあった諸国でのマルクス主義の歴史は、大まかにはつぎの四つの段階に分けられる。
 第一は1945年から1949年までの時期で、「人民民主主義」諸国が政治的および文化的な多元主義の要素をまだ残し、徐々にソヴィエトの圧力の影響を受けていった。
 第二は1949年から1954年までの時期で、政治とイデオロギーに関しては「社会主義陣営」としての完全なまたはほとんど完全な<均一化(Gleichschaltung)>があり、また全ての文化の分野できわめて大きなスターリン主義化(Stalinization)が見られた。
 第三は1955年に始まった。マルクス主義の歴史に関係する最大の際立つ特質は、 多様な「修正主義」、反スターリニズムの動向が出現したことで、これは主にポーランドとハンガリーで、だが遅れてはチェコスロヴァキアで、またある程度は東ドイツでも、生じた。
 この時期は、おおよそ1968年に終わりを告げた。このとき、社会主義ブロックの諸国の少なくともほとんどで、硬直した無味乾燥な形態をまとったが、マルクス主義は支配党の公式イデオロギーのままだった。//
 (2)東ヨーロッパでの「スターリン主義化」と「脱スターリニズム」は、各国の多様な事情に応じて異なる態様で進行した。
 第一に、いくつかの国-ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア-は戦争で連合国側につき、その他の国は公式に枢軸側と同盟していた。
 ポーランド、チェコスロヴァキアおよびハンガリーは歴史的には西側のキリスト教世界に属していて、ルーマニア、ブルガリアおよびセルビアとは異なる文化的伝統をもっていた。
 東ドイツ、ポーランドおよびチェコスロヴァキアには、中世に遡る真摯な哲学的研究の伝統があった。こうした伝統はその他の同じブロックの国々には欠けていた。
 最後に、一定の諸国には、戦時中に積極的な地下運動やゲリラ運動があった。他方でその他の諸国では、ドイツの占領のもとでと同様に、抵抗は弱く、武装した闘争の形態をとらなかった。
 前者の範疇に入るのは、ポーランドとユーゴスラヴィアだった。但し、重要な違いはユーゴスラヴィアでは共産党は最も積極的な闘争者だったが、これに対してポーランドでは、小さな分派が全体の抵抗運動を行った。その支柱となっていたのは、ロンドン政府に忠誠をを尽くす軍部だった。
 これらの違いの存在は全て、東ヨーロッパと当該諸国のマルクス主義の進展にかかる戦後の重要な様相だった。
 それらはイデオロギー侵略の速さと深さ、およびスターリンがのちに拒絶される様相に影響を与えた。
 ドイツ侵略者からの解放が大部分は自分たち自身の共産党支配勢力によった唯一の国は、ユーゴスラヴィアだった。そしてこの国のみで共産党は、1945年以降は分かち難い権力を行使した。
 他の諸国では-ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアおよびハンガリーでは-社会民主主義政党および農民政党が、戦後の初期の間に活動することが許容された。//
 (3)東欧の共産党指導者たちの多くは、最初は、自分たちの国は独立国家で、ロシアと同盟して、つまりロシアの直接的統制のもとにあってではなく、社会主義の諸装置を建築するだろうと考えた。こう想定するのは、全く可能だ。
 しかしながら、このような幻想は、長くは存続し得なかった。
 最初の二年間は、国際関係には戦時中の同盟関係の痕跡がまだ顕著にあった。つまり、共産主義諸党は、民主主義的諸制度、複数政党政権および東欧での自由選挙を定めていた、ヤルタ協定とポツダム協定に従順である姿勢を維持した。
 しかしながら、冷戦の始まりは、この地域にソヴィエト同盟からの自立を発展させるという望みの全てに、終止符を打った。
1946-1948年に、非共産主義諸政党は破壊されるか、または共産党と強制的に「統合」された。最初にこの運命に遭ったのは東ドイツの社会民主党だった。
 純然たる連立政権の要素がまだ残っていた最初の頃からすでに、共産党は権力の枢要な部分に隠然たる力を有した。とくに、警察と軍事の部門に。
 いたるところに存在するソヴィエトの「助言者」たちは統治の重要な諸問題に関する決定的発言力をもち、最も残忍で悪辣な抑圧の形態を直接に組織した。
 1949年、非共産主義諸政党に対する計略した抑圧のあとで、瞞着と暴力を特徴とする選挙のあとで、あるいはチェコスロヴァキアでの<クー>のあとで、スターリンの精密な統制のもとにある東ヨーロッパの諸共産党は、事実上の独占的権力を享有した。
 だが、スターリニズムがこうして衛星諸国で確立されていったそのときでもまだ、ユーゴスラヴィア分派というかたちをとった最初の重要な挫折に、それは遭遇した。//
 (4)スターリンが東ヨーロッパの、あるいは他地域の有力諸共産党を従属させるために用いた道具の一つは、共産主義者情報局(Communist Information Bureau)または「コミンフォルム」として知られる、コミンテルンの弱められた範型のものだった。
 この組織は、1947年9月に設立され(コミンテルンは1943年に解散した)、アルバニアと東ドイツを除く東ヨーロッパの全ての支配的諸共産党の代表者で構成された。-すなわち、ソヴィエト、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアおよびユーゴスラヴィアの諸党代表者。これらに、フランスとイタリアの共産党代表者が加わる。
 スターリンのもとでこの組織を指揮したのは、ズダノフ(Zhdanov)だった。
 そして、ユーゴスラヴィアの党が1944-45年の有利な情勢のもとで権力を奪取できなかったとしてフランスとイタリアの各共産党を攻撃したのは、このズダノフの指令によってだった。
 (こうした行動は実際にはスターリンが命令していたが、にもかかわらず、彼らは適切な自己批判をしなかった。)
 コミンフォルムの役割は、世界じゅうの共産主義者たちに、主要な諸党の合致した決定だと偽装したソヴィエト政策の要請を伝達することだった。
 いくつかの東欧の諸党は主権をもつ政府として行動する権限があると本当に考えていた気配が、実際にはあった。チェコスロヴァキアとポーランドはマーシャル・プランに素早く関心を示し、ブルガリアとユーゴスラヴィアはバルカン連邦構想を提案した。
 このような自立性の提示は全てすみやかに粉砕され、気分を害せた諸党はソヴィエトの命令に従った。
 第三次大戦が少なくとも全く考え難いものではなくなっていたとき、ソヴィエト同盟の外部にいる共産主義者たちは、「正しい(correct)」政策を決定する唯一の権威があり、その命令に微小なりとも逸脱するものは不愉快な結果を体験するだろう、ということを再び教え込まれなければならなかった。//
 (5)コミンフォルムの第一回会合で、ジダノフは、国際情勢の最重要の要素として世界の政治上の二つのブロックへの分裂を語った。
 コミンフォルムはまた、むろんソヴィエト共産党に支配されていたので、ソヴィエトの情報宣伝を指令する、国際的な雑誌を刊行した。
 この雑誌刊行は実際のところ、コミンフォルムの第一の任務だった。
 コミンフォルムは、あと二回だけ会合をもった。1948年6月と1949年11月。いずれも、ユーゴスラヴィア共産党を非難することを目的としていた。
 ソヴィエトとユーゴスラヴィアの共産党の間の軋轢は、1948年春に始まった。
 その直接の原因は、ティトー(Tito)とその同僚たちが、ソヴィエトの「助言者」たちのユーゴの国内問題、とくに軍隊と警察、に対する粗野で傲慢な干渉に苛立ったことにあった。
 スターリンはユーゴスラヴィアの国際主義の欠如を激しく怒って、ユーゴを跪かせようとした。そして、それは簡単な仕事だと疑いなく考えていた。
 情報宣伝活動について、そのときまでユーゴスラヴィア共産党はロシアに対して極端に卑屈だった。
 しかし、彼らは自分の家の主人だった。そして、ソヴィエト同盟は彼らをきわめて不十分にしか代表していない、ということが分かった。
 (論争の主要な原因の一つは、ソヴィエトの警察や諜報網へとユーゴ人が新規に採用されていたことだった。)
 ソヴィエトからの直接の給料で生活していたある程度のユーゴ人は別として、ユーゴスラヴィアの党は屈服する気が全くなかった。そして彼らを国際主義へと再転換させる唯一の方法は武装侵攻である、と思われた。それは、その是非はともかく、スターリンが危険すぎる行路だと考えたものだった。//
 (6)コミンフォルム第二回会合は、ユーゴスラヴィア共産党を公式に非難した。この会合に、ユーゴスラヴィアの代議員は欠席していた。
 ベオグラード(Belgrade)〔=ユーゴスラヴィア〕は、反ソヴィエト・民族主義者だと宣告された(その根拠は説明されなかった)。そして、ユーゴスラヴィアの共産主義者たちは、かりに正しい方針にただちに従わないならばティトー一派を打倒すべきだ、と呼びかけられた。
 ユーゴスラヴィアとの論争はコミンフォルムの雑誌の主要な主題となった。そして、この組織の第三回および最終の会合で、ルーマニア共産党書記長のGheorghiu Dej は、「殺人者とスパイたちに握られているユーゴスラヴィアの党」に関する演説を行った。
 この演説からは、つぎのように思えた。すなわち、全てのユーゴの党指導者たちは太古から多様な西側諜報機関の工作員だった、ファシズム体制を樹立している、主要な政策はソヴィエト同盟に混乱の種を撒き散らためにあったし現にあってアメリカの戦争挑発者の利益に奉仕している、と。
 これを契機として、世界の各共産党は、ヒステリックな反ユーゴ宣伝運動をするよう解き放たれた。
 このような対立のおぞましい帰結はこうだった。すなわち、「人民民主主義」諸国は、「ティトー主義者」のまたはその一員だとの嫌疑のある者を地方の共産党組織から追放(purge)するために、明らかにモスクワ見せ物裁判に倣った、一連の司法による殺戮を繰り広げた。
 多数の指導的共産主義者が、こうした裁判の犠牲者となった。これは、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリアおよびアルバニアで発生した。
 チェコスロヴァキアでの主要な裁判はSlánskýその他の者に関する裁判で、1952年11月に行われた。これはスターリンの死の直前のことで、明瞭な反ユダヤ感情の含意で際立っていた。
 この主題は、スターリンの晩年にソヴィエト同盟で前面に出てきたものだった。そして、党指導者たち等々を殺害する陰謀を図ったとして訴追されることとなった、ほとんどがユダヤ人の医師のグループの1953年1月の逮捕によって、絶頂点を迎えた。
スターリンが個人的に命令をした拷問を生き延びた者たちは、彼の死後にただちに釈放された。
ポーランドでは、党書記長のゴムウカ(Gomulka)およびその他の著名人物が監禁されたが裁判にかけられることはなく、処刑もされなかった。
 但し、若干のより下級の活動家たちは射殺されるか、最後には監獄で死に至った。
 東ドイツでは、逮捕と裁判には一定のパターンがあったが、犠牲者に関しては十分に知られていない。
 ブロックのその他の諸国では、「ティトー主義者」、「シオニスト」、その他の帝国主義の代理人、および党の書記局や政治局の中に「ひそかに入り込んで」いるファシストたちが、外国の諜報機関に雇われていることを告白し、その大部分が見せ物裁判のあとで処刑された。
 これらの者たち全てが、ロシアに対してより自立した共産主義体制を求めているという意味での、本当の「ティトー主義者」だった、と想定してはならない。
 これはある範囲の者たちについては正しかったが、別の者たちについては、恣意的な理由づけに用いる裏切り者だとして持ち込まれた。
 その一般的な目的は、東ヨーロッパの各支配党を弱体化(terrorize)させ、マルクス主義、レーニン主義および国際主義が何を意味するのかを教え込むことにあった。
 すなわち、ソヴィエト同盟は名義上はブロック諸国から独立した絶対的な主人であることを、そして他のブロック諸国は主人の命令を忠実に履行しなければならないということを。//
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 ②へとつづく。

1954/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。原書のp.492-p.496.
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言②。
 (11)ボルシェヴィキの一連の布令類の中でも最上位の位置を占めるこの文章は、ロシアを支配する至高の権力を、ボルシェヴィキ中央委員会以外の誰もその資格を認めなかった組織が掌握した、と宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、政府を転覆させるためではなく首都を防衛するために、軍事革命委員会を設立した。
 クーを正当化するものとされていた第二回全国ソヴェト大会は、ボルシェヴィキがすでにその名前で行動したとき、開会すらされていなかった。
 しかしながら、こうした手続的推移は、誰の名前でもって権力が奪取されるかには意味がない、とするレーニンの主張と合致していた。
 彼は前の晩に、こう書いていた。「そのことはただちには重要ではない。軍事革命委員会が奪っても、『別の何かの装置』がそうするのであっても。」
 クーが正当化されていないままで静かに実行されたために、ペトログラードの民衆はこの宣言的主張を真剣に受け取るべき理由がなかった。
 目撃証人たちによれば、10月25日にペトログラードには日常生活が戻って、事務所や店舗は再営業を始め、工場労働者たちは仕事へと向かった。そして、娯楽施設は再び群衆で溢れた。
 ひと握りの主だった人物たち以外は誰も、何が起きたかを知らなかった。首都は武装したボルシェヴィキの鉄の拳で握られており、もはや全く同じ事態ではないだろうことも。
 レーニンは、のちにこう語った。世界革命は「羽毛を拾い上げる」ように簡単だった、と。(194)
 (12)その間、ケレンスキーはプスコフ(Pskov)に向かって急いでいた。そこには北部戦線の司令部があった。
 歴史の精巧な捻りだろう、ボルシェヴィキに対してただ一つ動員可能な兵団は、二ヶ月前にはケレンスキーがコルニロフの「大逆」に参加した責任を追及した、同じ第三騎兵軍団のコサック部隊だった。
 彼らはコルニロフを抹殺して自分たちの司令官のクリモフを自殺に追い込んだ人物として、ケレンスキーを侮蔑していた。その結果として、彼らはケレンスキーの求めに応えるのを拒否した。
 ケレンスキーは最終的には、ルガ(Luga)を経由して首都に前進するように彼らのうちのある程度を説得した。
 アタマン(Ataman)の司令官のP. N. Krasnov の指揮のもとで、彼らはボルシェヴィキが送り込んでいた兵団を撒き散らし、ガチナ(Gatchina)を占拠した。
 その日の夕方、ツァールスコエ・セロ(Tsarskoe Selo)に着いた。そこは、首都まで二時間の進軍の位置にあった。
 しかし彼らは、他のどの軍団も加わらないことに失望し、それ以上進むのを拒否した。//
 (13)ペトログラードの状況は、実質的に、喜劇のごとく見えた。
 ボルシェヴィキが大臣たちは解任されたと宣言した後で、彼ら大臣は冬宮のネヴァ河側にあるMarachite〔孔雀石〕室にとどまっていた。ケレンスキーが救援軍を率いて到着するのを待っていたのだ。
 そのために、スモルニュイに集まっていた第二回ソヴェト大会は、一時間、一時間と延期しなければならなかった。
 午後2時、クロンシュタットから5000人の海兵たちが到着した。しかし、この「革命の誇りと美」である海兵たちは、武装していない民間人を手荒く処理するのには慣れていたが、戦闘する意欲はなかった。
 彼らは冬宮を攻撃して反撃の砲弾を受けたとき、襲撃をやめた。
 (14)レーニンは、内閣(推測するにその逃亡が気づかれていないケレンスキーを含む)がボルシェヴィキの手に入るまでは、公衆の前に姿を見せようとはしなかった。
 彼は包帯をし、鬘を被り、眼鏡を着けて、10月25日のほとんどを過ごした。
 ダンとスコベレフが近くを通ってレーニンの変装を見破ったあとで、隠れた行動に終止符を打ち、床で仮眠をとった。トロツキーが行き来して、最新の報せを伝えた。//
 (15)トロツキーは、冬宮がまだ耐えている間はソヴェト大会を開会するつもりはなかったが、しかし代議員たちが去ってしまうのを怖れて、午後2時35分、ペトログラード・ソヴェトの臨時会議を招集した。
 誰々がこの会議での検討に参加していたかを、確定することはできない。エスエルとメンシェヴィキはその日の前にすでにスモルニュイからいなくなっており、建物の中には数百名のボルシェヴィキと諸地方から来ていた親ボルシェヴィキの代議員たちしかいなかったので、事実上は完全にボルシェヴィキと左翼エスエルのものだった、と安全に言うことができる。//
 (16)会議(これにレーニンはまだ出席しなかった)を開いてトロツキーは、つぎのように表明した。「軍事革命委員会の名のもとに、臨時政府は存在しなくなったと宣言する」。
 トロツキーの表明文の一つに反応してある代議員が、「きみたちは全ロシア・ソヴェト大会の意思を宣告するのが早すぎる」とフロアから叫んだとき、トロツキーはつぎのように言い返した。//
 「全ロシア・ソヴェト大会の意思は、昨晩に起きたペトログラードの労働者および兵士たちの蜂起という偉大な功績によって予め決定されている(predetermined, pre-dreshena)。
 いま我々がしなければならないのは、この勝利を拡大することだけだ。」//
 労働者および兵士たちの「蜂起」とは、何のことか? そう十分に疑問視し得ただろう。
 しかし、この言葉の意図は、ボルシェヴィキ中央委員会がその名前で「予め決定していた」決定を受容すること以外の選択はあり得ない、と大会代議員たちに知らせることだった。//
 (17)レーニンが短いあいだ、姿を現した。そして、代議員たちを歓迎し、「世界的社会主義革命」を熱烈に呼びかけた。(197)
 そのあと彼は、再び舞台から消えた。
 トロツキーは、レーニンがこう語ったと想起している。「地下生活とPereverzev 体験(<pereverzevshchina>)からの権力への移行は突然すぎた」。
 そして、トロツキーはぐるぐると歩き回って、ドイツ語でこう付け加えた。「<目が眩む(Es schwindelt)>」(「It's dizzying」)。(198)//
 (18)午後6時30分、軍事革命委員会は臨時政府に対して、降伏するかそれとも巡洋艦<オーロラ>とペーター・パウル要塞からの砲撃に遭うか、という最後通告を発した。
 閣僚たちは今にも救援が来るのではないかと期待して、回答しなかった。この頃、ケレンスキーが忠実な兵団を率いて首都に接近しているとの風聞があったのだ。(199)
 彼らは、物憂げに雑談し、電話で友人と会話し、長椅子の上で休み、身体を伸ばした。//
 (19)午後9時、巡洋艦<オーロラ>が砲撃を始めた。弾薬を込めていなかったので、一度だけの一斉空砲射撃であり、再び静寂になった。-十月に関する伝説のうちに著名な位置を占めるには、これでも十分だった。
 2時間後、ペーター・パウル要塞が爆撃を始めた。これは実弾だったが、その照準が不正確で、30から35発の丸弾のうち二発しか冬宮に当たらず、微少な損害を与えたにとどまった。(200)
 数カ月にわたる工場や連隊での組織工作のあとで分かったのは、ボルシェヴィキは自分たちの信条のために死ぬのを厭わない実力部隊を持っていない、ということだった。
 僅かしか防衛されていなくとも臨時政府の者たちは対抗心を持ったままだった。そして、臨時政府は解体したと宣言した者たちを嘲弄した。
 実弾爆撃の隙間に、赤衛軍の部隊がいくつかある入り口の一つから冬宮に侵入した。しかしながら、武装した<ユンカー>に対抗されて、ただちに降伏した。//
 (20)夜の帳が深くなるにつれて、王宮の防衛者たちは約束された救援がないことに意気消沈し、撤兵し始めた。
 最初に去ったのは、コサック兵だった。それに、武器を装備した<ユンカー>が続いた。
 女性決死部隊は、とどまった。
 深夜まで防衛に加わっていたのは彼女らと、Marachite〔孔雀石〕室を防備していた一握りの十歳代のカデットたち〔立憲民主党員〕だった。
 冬宮から銃砲がもう発せられなくなったとき、赤衛隊と海兵たちが注意深く接近した。
 最初に突入したのは、エルミタージュ側の開いた窓へとよじ登った海兵たちとPavlovskii 連隊の兵士たちだった。(201)
 他の者たちは、閂がかけられていない門を通って入った。
 冬宮は、急襲によって奪取されたのではない。アイゼンスタインの映画<十月の日々>が描くような突入する労働者、兵士・海兵たちの隊列の映像は全くの作り物で、バスティーユ牢獄の陥落のイメージをロシアに与えようと狙っていた。
 実際には、防衛することをやめた王宮は、暴徒となった群衆に荒らされた。
 被害者は死亡者5名、重傷者数名が全てで、そのほとんどは流れ弾が当たったことによるものだった。
 (21)深夜が過ぎ去り、王宮は豪奢な内装品を強奪したり破壊したりする群衆で溢れた。
 女性防衛者のうち何人かは、レイプされたと言われている。
 司法大臣のP. N. Maliantovich は、臨時政府の最後の瞬間について、つぎのような生々しい描写を残した。
 「突然にどこかから、騒音が上がった。それはすぐに強くかつ大きくなって近づいて来た。
 その騒音の中で-別々だったが一つの波に融合していた-、何か特別な、従前の騒音とは違う何かが、何か最後だと感じさせる音が、鳴り響いた。<…>
 最後がすぐにあるのが、瞬時に分かった。<…>//
 横たわっていたか座っていた者たちは跳び上がって、外套に手を伸ばした。<中略>//
 物音が、ますます強く急速になって、大きな波になって、我々に向かって押し寄せてきた。<…>
 毒ガスによる殺戮に遭うがごとき、耐えられない恐怖が我々を貫き、掴んだ。<…>//
 これは全て、数分の間でのことだった。<…>//
 控え室に向かう扉のところで、一群の鋭く興奮した叫び声を、いくつかの別々の射撃音を、床を踏む足音を聞きつづけた。足音のいくつかは激しく踏み叩き、動き、それらが入り混じっていて、段々と大きくなり、混沌としたまとまりとなって響いた。そして、恐怖が極限に達した。//
 明瞭だった。襲撃されている。我々は襲撃で掴まれていた。<…>
 防衛は役立たなかった。被害者は無意味な生け贄になるだろう。<…>//
 扉がサッと開いた。<…> 一人の<ユンカー>が飛び込んできた。
 警戒心を露わにし、かつ敬礼しつつ、彼の顔は緊張していたが、決然たるものがあった。
 『臨時政府は、何を司令しているのか?
 臨時政府が命令するとおりに、我々は行動する。』//
 『そんなものは必要ない! 無用だ!
 もう明らかだ! 血を流すな! 降参だ!』
 我々は、事前の合意もなく、そうしたかった。お互いに見つめ合って、全員の眼の中にある同じ感情を読み取った。//
 Kishkin が、前に進み出た。『彼らがここにいるということは、王宮はすでに奪取されているという意味だ』。(*)//
 --------
 (*) N. M. Kishkin はカデットの臨時政府一閣僚で、ケレンスキーが冬宮を去った後の責任者に就いていた。
 --------
 『そうだ。入り口は全て奪い取られている。
 全員が降伏した。
 この区画だけが、まだ守られている。
 臨時政府は、何を司令しているのか?』//
 Kishkin が言った。『血を流したくない。力(force)に屈服する。降伏する。』//
 扉の傍らで、恐怖が弛まなく上昇してきた。また、血を流すことになる、そうせずに済むにはもう遅すぎる、という不安がよぎり始めた。<…>
 我々は不安になって叫んだ。『急げ! 行って彼らに告げろ! 血はいやだ!。降伏する!』//
 その<ユンカー>は去った。<…>
 全ての出来事は一瞬のうちに起きた、と私は思う。」(202)
 (22)午前2時10分にアントノフ=オフセエンコによって、閣僚たちは拘束された。
 護衛つきでペーター・パウル要塞へと連れていかれた。
 途中で彼らは、リンチで殺されるのを辛うじて免れた。//
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 (194) レーニン, <PSS>XXXVI, p.15-p.16.
 (195) トロツキー, <歴史>Ⅲ, p.305-6.
 (196) K. G. Kotelnikov, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1928), p.164, p.165.
 (197) 同上, p.165-6.
 (198) トロツキー, <レーニン>, p.77.
 (199) <Rech'>No.252(1917年10月26日), <Revoliutsiia>Ⅴ収載, p.182.
 (200) <Revoliutsiia>Ⅴ, p.189.
 (201) Dzenis, <Living Age>No.4049(1922年2月11日)収載, p.331.
 (202) Maliantovich, <Byloe>No.12(1968年)所収, p.129-p.130.
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 つぎの第12節の目次上の見出しは、「第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可し、講和と土地に関する布令を承認する」。

1953/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言①。
 (1)ボルシェヴィキ・クーの最終段階は、10月24日、火曜日の朝に進行していた。それは、軍事幕僚たちが政府によって前夜に命じられた熱の入らない手段を履行したあとだった。
 10月24日の早い時間に、<ユンカー(iunkers)>が戦略的重要地点を護衛する義務を受け持った。
 二または三の部隊が、冬宮の防衛のために派遣された。そこで彼らは、140人の志願者から成るいわゆる女性決死部隊(Women's Death Battalion)、いくつかのコサック、自転車部隊、将校に指揮された義肢の、および若干の銃砲の破片が体内にある、40人の戦争傷病者の兵団と合流した。
 驚くべきことに、一発の銃砲も用いられなかった。
 <ユンカー>は、<Rabochiipof>(<元プラウダ>)と<兵士>の印刷所を閉鎖した。 スモルニュイとの電話線は、切断された。
 親ボルシェヴィキの兵士や労働者が首都中心部に入るのを阻止するため、ネヴァ河(Neva)に架かる橋を上げよとの命令が、発せられた。
政府軍事幕僚は、連隊に対して軍事革命委員会の指示を受けることを禁じた。
 また、実際の効果はなかったが、軍事革命委員会のコミサールを逮捕せよとも命じた。(187)//
 (2)こうした準備によって、危機の雰囲気が生まれた。
 その日、ほとんどの事務所は午後2時半までに閉じられ、人々は家へと急いで帰って、街頭は空になった。
 これは、ボルシェヴィキが待ち望んでいた「反革命」の合図だった。
 ボルシェヴィキはまず、彼らの二つの新聞を復刊させた。午前11時までに、これを達成した。
つぎに、中央電信電話局とロシア電信庁を奪取すべく、軍事革命委員会は武装分団を派遣した。
 スモルニュイからの電話線は再びつながった。
 このように、クーの最も早い目標は、情報と通信線の中心地だった。//
 (3)その日午後に行われた唯一の実力行使(violence)は、軍事革命委員会の部隊がネヴァ河を横切る橋梁を下げさせたことだった。//
 (4)蜂起がこの最後で決定的な段階に至っているとき、軍事革命委員会は10月24日夕方、風聞にもかかわらず、反乱をしているのではなく、たんに「ペトログラード連隊と民主主義」を反革命から防衛する行動をしている、との声明文を発した。(188)//
 (5)考えられ得ることしてはこの虚偽情報の影響を受けて、全く連絡をとっていなかったに違いないレーニンは、同僚たちに実際に行っていることをさせるべく、絶望的な覚え書を書いた。//
 「私はこの文章を(10月)24日夕方に書いている。状況はきわめて深刻だ。
 今や本当に、ますます明らかになっている。蜂起を遅らせるのは、死に等しい。//
 ある限りの最大の力を使って、同志たちに訴えたい。全てがいま、危機一髪の状態だ。どの集会に(ソヴィエト大会であっても)諮っても回答されない問題に直面している。答えられるのは、人民、大衆、武装した大衆の闘いだけだ。//
 コルニロフ主義者のブルジョア的圧力、Verkhovskii の解任は、待つことはできない、ということを示す。
 ともかく何であれ、必要だ。この夕方、この夜に、政府人員を拘束すること、<ユンカー>を武装解除する(抵抗があれば打ち負かす)こと、…<略>。
 誰が、権力を奪うべきなのか?
 これは、今すぐには重要でない。軍事革命委員会に権力を、または「何らかの他の装置」を奪取させよ。…<略>//
 権力掌握こそが、蜂起の任務だ。その政治的目標は、権力を奪取した後で初めて明らかになるだろう。//
 10月25日の不確実な票決を待つのは、地獄か形式主義だ。
 人民には、投票によってではなく実力行使でもってその問題を解決する権利と義務がある。…<略>」(*)//
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 (*) レーニン, <PSS>XXXIV, p.435-6. Verkhovskii は、ロシアは中央諸国と即時講和をすべきだと閣僚会議で主張して、その前日(10月23日)にその職を解任されていた。<SV>No.10, 1921年6月19日, p.8.
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 (6)レーニンは、その夜おそく、スモルニュイにやって来た。
 彼は完全に変装していて、包帯を巻いた顔からして歯医者の患者のように見えた。
 途中で政府の巡視隊にほとんど逮捕されるところだったが、酔っ払っているふりをして免れた。
 スモルニュイでは、背後の部屋の一つにいて、最も親しい仲間たちだけが近づけるようにして、姿を消したままでいた。
 トロツキーは、こう想起する。レーニンは、軍事幕僚との間に進行中の交渉について聞いて懸念を覚えたが、この対話は見せかけ(a feint)だと理解すると、ただちに愉快に微笑んだ。//
 レーニンは「おう、それはよい(goo-oo-d)」と陽気に強い声で言って、緊張して手を擦りながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。
 「それは、とても(verr-rr-ry)よい」。
 レーニンは軍事的な策謀を好んだ。敵を欺くこと、敵を馬鹿にすること-何と愉快な仕事だ!(189)//
 レーニンはその夜を床の上でゆっくりと過ごした。その間に、ポドヴォイスキー、アントノフ=オフセエンコ、およびトロツキーの全幅的指揮下にある彼の友人のG. I. Chudnovskii が、作戦行動を司令した。//
 (7)その夜(10月24日-25日)、ボルシェヴィキはピケを張るという単純な方法で、戦略上重要な目標地点の全てを系統的に奪い取った。
 Malaparte が論述したように、これは現代の模範的なクー・デタだった。
 <ユンカー>護衛団は、家に帰れと言われた。そして自発的に撤退するか、または武装解除された。
 こうして、闇夜に紛れて、一つずつ、鉄道駅、郵便局、中心電話局、銀行、そして橋梁が、ボルシェヴィキの支配のもとに置かれた。
 抵抗に遭遇することはなく、一発の銃火も撃たれなかった。
 ボルシェヴィキは、想像し得る最もさりげない方法でエンジニア宮を奪取した。
 「彼らは入ってきて、幕僚たちが立ち上がって去っていった座席を占めた。かくして、幕僚本部は奪取された。」(190)
 (8)ボルシェヴィキは、中央電信電話交換局で冬宮からの電話線を切断した。しかし、登録されていなかった二つの線を見逃した。
 この二つの線を使って、Malachite 室に集まっていた大臣たちは外部との接触を維持した。
 ケレンスキーは、公的な声明では自信を漂わせてはいたものの、ある目撃者によると、「苦悩と抑制した恐怖」を隠して半分閉じた眼で、虚ろを見つめて誰も視ておらず、老けて疲れているように見えた。(191)
 午後9時、T・ダン(Theodore Dan)とAbraham Gots が率いるソヴェト代表が現れて、「革命的」軍事参謀の影響によってボルシェヴィキの脅威を過大評価している、と大臣たちに告げた。
 ケレンスキーは、彼らを閉め出した。(192)
 その夜にケレンスキーはついに、前線の司令官たちに連絡をし、救援を求めた。
 しかし、無駄だった。誰も求めに応じなかった。
 10月25日午前9時、ケレンスキーは、セルビア将校に変装し、アメリカ合衆国大使館から借りた車で冬宮を抜け出した。その車はアメリカの旗を立て、助けを求めて前線へと走った。
 (9)その頃までに、冬宮は、政府の手に残された唯一の建造物だった。
 レーニンが執拗に主張したのは、第二回ソヴェト大会が正式に開会して臨時政府を排斥する前に、大臣たちは拘束されなければならない、ということだった。
 しかし、ボルシェヴィキの軍組織はその任務を果たすのに適切ではなかった。
 彼らボルシェヴィキ部隊は主張はしたけれども、敢えて銃砲を放とうとする者たちがいなかった。
 4万5000人いるとされた赤衛隊(Red Guards)とペトログラード守備連隊内部の数万の支持者たちは、どこにも現れなかった。
 冬宮に対する不本意な攻撃が、明け方に始まった。しかし、最初の射撃の音を聞いて、攻撃者たちは退却した。
 (10)苛立ちを燃え上がらせ、前線の兵団による介入を怖れて、レーニンは、もう待たない、と決断した。
 午前8時から9時までの間に、彼は、ボルシェヴィキの作戦指揮室に入った。
 最初は誰も、彼が何者なのか分からなかった。
 ボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、彼がレーニンだと認識して、嬉しさが爆発した。「ウラジミル・イリイチ、我が父だ。きみだとは気づかなかった」と叫びながら、レーニンを抱擁した。(193)
 レーニンは座って、軍事革命委員会の名前で臨時政府が打倒されたことを宣言する文書を起草した。
 プレスに(10月25日)午前10時に発表された文章は、つぎのとおりだった。
 「ロシアの市民諸君!
 臨時政府は打倒された。
 政府の権能は、ペトログラードのプロレタリアートと守備連隊の頂点に位置する、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェト、軍事革命委員会の手に移った。
 人民が目ざして闘うべき任務-民主主義的講和の即時提案、土地にかかる地主的所有制の廃絶、生産に対する労働者による統制、ソヴェト政権の確立-、これらの任務の遂行は保障された。
 労働者、兵士および農民の革命に栄光あれ!
 ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの軍事革命委員会。」(*)
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 (*) <Dekrety>I, p.1-2. ケレンスキーの妻は拘束され、この宣言書を破ったとしてつぎの日の48時間留置された。A. L. Fraiman, <<略>>(Leningrad, 1969), p.157.
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 (187) <Revoliutsiia>V, p.164, p.263-4.
 (188) <SD>No.193(1917年10月26日), p.1.
 (189) トロツキー, <レーニン>p.74.
 (190) Maliantovich, <Boyle>No.12(1918年)所収, p.114.
 (191) 同上, p.115.
 (192) Melgunov,<Kak bol'sheviki>p.84-p.85.; A・ケレンスキー,<ロシアと歴史の転換点>(New York, 1965), p.435-6.
 (193) S. Uranov, <PR>No.10/33(1924年), p.277.
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 ②へとつづく。

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