リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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第10節・ケレンスキーの反応。
(1)10月22日、軍事革命委員会が連隊を奪い取ろうとしていることを知って、軍事幕僚はソヴェトに対して最後通告を発した。撤回するか、それとも「決定的手段」に直面するか。(175)
ボルシェヴィキは活動時間のことを慎重に考えて最後通告を「原理的に」受け入れ、かつクーを進行させている間ですら、交渉することを提案した。(176)
その日の遅く、軍事幕僚と軍事革命委員会は、ソヴェトの代表団が幕僚とともに加わる「協議機関」の設立に合意した。
10月23日、軍事革命委員会からの代理者が〔臨時政府〕軍事幕僚に対して、表面的には対話のために、実際には「偵察」を実施するために、派遣された。(177)
これらの行動は、望んだ効果を生んだ。すなわち、政府が軍事革命委員会を拘束することを防いだ。
10月23-24日の夜のあいだに、内閣(コルニロフ事件以降は一種の影の存在になったと見える)は、二つの指導的なボルシェヴィキ日刊紙の閉刊を命じた。均衡をとるため、同じ数の、<Zhivoe lovo>を含む右翼新聞紙にも同じ措置をとった。この新聞は7月に、レーニンのドイツとの接触に関する情報を掲載していた。
兵団が、冬宮を含む戦略的諸地点を防衛すべく派遣された。
しかし、軍事革命委員会を拘束する権限の付与をケレンスキーが求められたとき、彼は、幕僚が軍事革命委員会との間の違いを交渉しているという理由で、思いとどまらせた。(178)
(2)ケレンスキーは、ボルシェヴィキの脅威をはなはだしく過少評価していた。彼はボルシェヴィキ・クーを怖れなかったばかりか、実際には、それを望んだのだ。このクーによって自分は最終的に一気にボルシェヴィキを粉砕し、これを取り除くことができる、という自信をもって。
10月の半ばに、軍事司令官たちはケレンスキーに対し、ボルシェヴィキが間違いなく武装蜂起の準備をしている、という報告をし続けた。
同時に司令官たちは、クーに対するペトログラード守備連隊の「圧倒的」な地位を見れば、そのような蜂起はすみやかに失敗する、と保障していた。(179)
ボルシェヴィキの策略とは反対に連隊は政府を支持することを意味すると誤解していたこのような評価を根拠にして、ケレンスキーは、同僚や外国の大使たちにあらためて保障した。
ナボコフ(Nabokov)は、彼には粉砕する勢力が十分にあったのでこの蜂起が発生することに祈りを捧げた、と回想している。(180)
George Buchanan に対して、ケレンスキーは一度ならずこう言った。「(ボルシェヴィキが)出てくるのを望むだけだ、そのときは彼らを鎮圧する」。(181)
(3)しかし、明白かつ現存する危険に直面してのケレンスキーの確信は、自信過剰のゆえにのみ生じたものではなかった。1917年の残りの月日の間のように、「反革命」への恐怖こそが、彼の行動と非ボルシェヴィキの左翼全体の行動の要点(key)だった。
ケレンスキーは以前にコルニロフとその他の将軍たちを反逆罪で訴追し、彼らに対抗する助けをソヴェトに求めた。職業的将校たちの目から見ると、ケレンスキーはもはやボルシェヴィキと見分けることができない人物だった。
ゆえに、8月27日の後は、ケレンスキーは軍部を結集させることをあまりにも長く躊躇していた。
戦時大臣の将軍A. I. Verkhovskiiは、事件のあとでイギリス大使に、「ケレンスキーはコサックが(十月)蜂起を彼ら自身で抑圧することを望まなかった。それは革命が終わることを意味しただろう、という理由でだった」、と語った。(182)
恐怖の共有にもとづき、二つの運命的な敵、つまり「二月」と「十月」の間の致命的な連結(bond)がでっち上げられた。
ケレンスキーとその補佐官たちが依然として抱いていた唯一の望みは、7月にそうだったように、最後の瞬間にはボルシェヴィキが中枢を失って退出する、ということだった。
10月24-26日に冬宮の防衛を指揮したP. I. Palchinskii は、冬宮への包囲攻撃の間またはその陥落の後で、政府の態度についての彼の印象をメモ書きした。
「Polkovnikon の無力さと計画の全くの欠如。非常識なことは行われないだろうとの願望。にもかかわらずそれが発生したときにすべきことの無知。」(183)
(4)誰もが知っていた攻撃を阻止するための軍事上の真剣な用意は、何も行われていなかった。
ケレンスキーはのちに、自分は10月24日に前線の指揮官による増援を要請した、と主張した。しかし、歴史的研究によると、彼は深夜になるまで(10月24-25日)そのような命令を発していない。クーはそのときまでにすでに完了していたので、遅すぎたのだった。(184)
将軍アレクセイエフは、ペトログラードには1万5000人の将校がいた、そのうちの三分の一はボルシェヴィキと闘う用意があった、と概算した。だが結果は、首都が奪取されているときに彼らは座り込んでいるか、酒宴で浮かれているかのいずれかだった。(185)
最も驚くべきことは、政府防衛の中枢、エンジニア宮(Mikhailovskii 宮)にあった軍事幕僚本部が、防衛されていないことだった。身分証明を求められることなく、通行人は自由にそこに入ることができた。(186)
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(175) <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
(176) <Protokoly TsK>, p.119., p.269.; <Revoliutsiia>V, p.160.
(177) A. Sadovskii, <PR>No.10(1922), p.76-p.77.; <Revoliutsiia>V, p.151.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
(178) <Revoliutsiia>V, p.163-4.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
(179) <Revoliutsiia>V, p.111-2.
(180) <ナボコフと臨時政府>, p.78.
(181) G. Buchanan, <My Mission to Russia>(Boston, 1923)II, p.201.; つぎを参照せよ。J. Noulens, <Mon Ambassade en Russie Sovietique, 1917-1919>I(Paris, 1933), p.116.
(182) Buchanan, <Mission>II, p.214.
(183) <KA>, 1/56(1933), p.137.
(184) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.93-p.94.
(185) 同上, p.88-p.89.
(186) P. N. Maliantovich, <Byloe>No.12(1918)所収, p.113.
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以上が第10節。第11節の目次上の見出しは、<ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言する>。
第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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第10節・ケレンスキーの反応。
(1)10月22日、軍事革命委員会が連隊を奪い取ろうとしていることを知って、軍事幕僚はソヴェトに対して最後通告を発した。撤回するか、それとも「決定的手段」に直面するか。(175)
ボルシェヴィキは活動時間のことを慎重に考えて最後通告を「原理的に」受け入れ、かつクーを進行させている間ですら、交渉することを提案した。(176)
その日の遅く、軍事幕僚と軍事革命委員会は、ソヴェトの代表団が幕僚とともに加わる「協議機関」の設立に合意した。
10月23日、軍事革命委員会からの代理者が〔臨時政府〕軍事幕僚に対して、表面的には対話のために、実際には「偵察」を実施するために、派遣された。(177)
これらの行動は、望んだ効果を生んだ。すなわち、政府が軍事革命委員会を拘束することを防いだ。
10月23-24日の夜のあいだに、内閣(コルニロフ事件以降は一種の影の存在になったと見える)は、二つの指導的なボルシェヴィキ日刊紙の閉刊を命じた。均衡をとるため、同じ数の、<Zhivoe lovo>を含む右翼新聞紙にも同じ措置をとった。この新聞は7月に、レーニンのドイツとの接触に関する情報を掲載していた。
兵団が、冬宮を含む戦略的諸地点を防衛すべく派遣された。
しかし、軍事革命委員会を拘束する権限の付与をケレンスキーが求められたとき、彼は、幕僚が軍事革命委員会との間の違いを交渉しているという理由で、思いとどまらせた。(178)
(2)ケレンスキーは、ボルシェヴィキの脅威をはなはだしく過少評価していた。彼はボルシェヴィキ・クーを怖れなかったばかりか、実際には、それを望んだのだ。このクーによって自分は最終的に一気にボルシェヴィキを粉砕し、これを取り除くことができる、という自信をもって。
10月の半ばに、軍事司令官たちはケレンスキーに対し、ボルシェヴィキが間違いなく武装蜂起の準備をしている、という報告をし続けた。
同時に司令官たちは、クーに対するペトログラード守備連隊の「圧倒的」な地位を見れば、そのような蜂起はすみやかに失敗する、と保障していた。(179)
ボルシェヴィキの策略とは反対に連隊は政府を支持することを意味すると誤解していたこのような評価を根拠にして、ケレンスキーは、同僚や外国の大使たちにあらためて保障した。
ナボコフ(Nabokov)は、彼には粉砕する勢力が十分にあったのでこの蜂起が発生することに祈りを捧げた、と回想している。(180)
George Buchanan に対して、ケレンスキーは一度ならずこう言った。「(ボルシェヴィキが)出てくるのを望むだけだ、そのときは彼らを鎮圧する」。(181)
(3)しかし、明白かつ現存する危険に直面してのケレンスキーの確信は、自信過剰のゆえにのみ生じたものではなかった。1917年の残りの月日の間のように、「反革命」への恐怖こそが、彼の行動と非ボルシェヴィキの左翼全体の行動の要点(key)だった。
ケレンスキーは以前にコルニロフとその他の将軍たちを反逆罪で訴追し、彼らに対抗する助けをソヴェトに求めた。職業的将校たちの目から見ると、ケレンスキーはもはやボルシェヴィキと見分けることができない人物だった。
ゆえに、8月27日の後は、ケレンスキーは軍部を結集させることをあまりにも長く躊躇していた。
戦時大臣の将軍A. I. Verkhovskiiは、事件のあとでイギリス大使に、「ケレンスキーはコサックが(十月)蜂起を彼ら自身で抑圧することを望まなかった。それは革命が終わることを意味しただろう、という理由でだった」、と語った。(182)
恐怖の共有にもとづき、二つの運命的な敵、つまり「二月」と「十月」の間の致命的な連結(bond)がでっち上げられた。
ケレンスキーとその補佐官たちが依然として抱いていた唯一の望みは、7月にそうだったように、最後の瞬間にはボルシェヴィキが中枢を失って退出する、ということだった。
10月24-26日に冬宮の防衛を指揮したP. I. Palchinskii は、冬宮への包囲攻撃の間またはその陥落の後で、政府の態度についての彼の印象をメモ書きした。
「Polkovnikon の無力さと計画の全くの欠如。非常識なことは行われないだろうとの願望。にもかかわらずそれが発生したときにすべきことの無知。」(183)
(4)誰もが知っていた攻撃を阻止するための軍事上の真剣な用意は、何も行われていなかった。
ケレンスキーはのちに、自分は10月24日に前線の指揮官による増援を要請した、と主張した。しかし、歴史的研究によると、彼は深夜になるまで(10月24-25日)そのような命令を発していない。クーはそのときまでにすでに完了していたので、遅すぎたのだった。(184)
将軍アレクセイエフは、ペトログラードには1万5000人の将校がいた、そのうちの三分の一はボルシェヴィキと闘う用意があった、と概算した。だが結果は、首都が奪取されているときに彼らは座り込んでいるか、酒宴で浮かれているかのいずれかだった。(185)
最も驚くべきことは、政府防衛の中枢、エンジニア宮(Mikhailovskii 宮)にあった軍事幕僚本部が、防衛されていないことだった。身分証明を求められることなく、通行人は自由にそこに入ることができた。(186)
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(175) <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
(176) <Protokoly TsK>, p.119., p.269.; <Revoliutsiia>V, p.160.
(177) A. Sadovskii, <PR>No.10(1922), p.76-p.77.; <Revoliutsiia>V, p.151.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
(178) <Revoliutsiia>V, p.163-4.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
(179) <Revoliutsiia>V, p.111-2.
(180) <ナボコフと臨時政府>, p.78.
(181) G. Buchanan, <My Mission to Russia>(Boston, 1923)II, p.201.; つぎを参照せよ。J. Noulens, <Mon Ambassade en Russie Sovietique, 1917-1919>I(Paris, 1933), p.116.
(182) Buchanan, <Mission>II, p.214.
(183) <KA>, 1/56(1933), p.137.
(184) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.93-p.94.
(185) 同上, p.88-p.89.
(186) P. N. Maliantovich, <Byloe>No.12(1918)所収, p.113.
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以上が第10節。第11節の目次上の見出しは、<ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言する>。