ソ連解体後でも、日本の出版社およびこれに影響をもつ日本共産党員や容共「知識人」の外国の<反共産主義>文献に対するガード(つまり、自主検閲・自主規制)は堅いようだ。
L・コワコフスキの大著、R・パイプスの二著のほかにシェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(最新版、2017)も邦訳書はない。
一方で例えば、江崎道朗が唯一コミンテルン関係書として付録資料のそのまた一部を利用していた邦訳書・コミンテルン史(大月書店、1998年)は、立ち入った内容紹介はこの欄でしていないが、レーニン擁護まではいかなくともレーニンになおも「甘い」ところがある。かつまた、著者の二人は20-30歳代だったと見られ、そのうち一人の現在はネット検索してもさっぱり分からない。
また、岩波書店のシリーズものの一つ、グレイム・ギルほか=内田健二訳・スターリニズム -ヨーロッパ史入門(2004年)は、レーニンとスターリニズムとの接続関係を何とかして認めないように努めている。まだ、この欄では紹介、言及していない。
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カール・マルクスの人生や論考全体に関する近年の研究書に、以下がある。
①Gareth Stedman Jones, Karl Marx :Greatness and Illusion (Cambridge、2016年)。
②Jonathan Sperber, Karl Marx :Nineteenth-Century Life (Liveright、2014年)。
これらは、目も耳も早そうな池田信夫が紹介したかもしれないと思ったが、まだのようだ。
①のG・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス-偉大と幻想(2016)は、奇妙な読み方だろうが、そのEpilogue であるp.589-p.595 を辞書なしで何とか読んでしまった(Kindle 版ではない)。
小川榮太郎の文章を探して確認して読むよりは、私にははるかに知的刺激になる。
小川榮太郎によると、彼の文章の意味が分からない者は、<小川榮太郎の「文学」>を理解できない人間なのだそうだ。
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上の①の最後の部分を試訳する余裕はないが、著者は興味深いことを書いている。たぶん、以下のようなことだ。
・エンゲルスはマルクスの生前の手紙類をロシアの友人、「社会主義」者のLavrov に渡したが、その内容を<資本>の第二巻・第三巻の編集に利用しなかった。
・プレハノフ、ストルーヴェおよびレーニンがロシアのマルクス主義は「史的唯物論対人民主義」、「西欧化対ロシア主義」の闘いだとしたとき、エンゲルスは異論を挟まなかった。このことは、農民共同体の重要性が直接的な政治的争点になった国で、マルクスの見解を忘れさせる意味をもった。
・エンゲルスはロシアでの農民の多さ、都市プロレタリアートの少なさを指摘はしていたが、マルクスの1883年直前のロシア・農村共同体(ミール)に関する見解は20世紀にまで(ロシア革命以前に)ロシアに伝わらなかった。〔イギリスやロシアの農村共同体に関する論及がEpilogueの最初にあるが割愛する。〕
・マルクス=エンゲルス全集を編纂したRyazanov はマルクスからの手紙のやりとりがあったことを想い出し、かつAkselrod文書の中にあることが判ったが、編集者はマルクスの手紙が忘れ去られた本当の理由を理解できなかった。
・マルクスの手紙は、「正統派マルクス主義」派の「都市に基礎をおく労働者の社会民主主義運動の構築という戦略」ではなくて、プレハノフらに、「農村共同体を支援する」ことを強く迫るものだった。
・〔秋月の読み方では、マルクスは後進国とされるロシアでのプロレタリアートの少なさ・弱さからして、これの支持を得ての「革命」-「プロレタリアート独裁」を想定していなった。二次的に(必ずしも理論的にではなく)「農民」の支持を求めるいわゆる<労農同盟>論は-元々は日本共産党も継承した-マルクスではなく、レーニン・ボルシェヴィキによる。〕
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このG・ステッドマン・ジョウンズの2016年著に対する書評をさらにネット上で見つけた。
Terence Renaud (Yale Uni. )は、マルクスの伝記はとくにIsaiah Berlin、George Lichtheim およびLeszek Kolakowski のものが「スタンダード」だとしつつ(コワコフスキを除き、邦訳書があって所持している筈だ)、この著者も青年マルクスと成年マルクスの哲学上の継続性を承認する。しかし、長くは紹介しないが、こんな紹介があって、「しろうと」には意外感を抱かせる。一部だけ。
「ステッドマン・ジョウンズは、マルクスの政治論は1860年代に変化した、と主張する。
イギリスに逃亡中の間に、彼は社会(的)民主主義者、そして暴力的手段を拒絶する労働組合支援者に変化した。
マルクスは蜂起についてのジャコバン型やブランキ型を放棄し、ゆっくりとした漸進的な変化を支持した。
多数の共産主義者たちがのちに信じたのとは反対に、マルクスは革命に関して単一の劇的な事件ではなくて長い過程だと考えた。」
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しかし、このTerence Renaud は、著者のGareth Stedman Jones (1942~、Uni. of London)は、「新左翼」-「フランス構造主義派」-<マルクス主義放棄>と立場を変えており、自己正当化のためのマルクス理解・解釈ではないか、とかなり疑問視しているように読める。
Stedman Jones はかつてNew Left Review の編集長だったらしく(1964-1981)、これはL・コワコフスキを批判するE・トムソンの文章が別の雑誌に掲載された1970年代前半を含んでいる(その反論がこの欄に試訳を掲載したL・コワコフスキ「左翼の君へ」)。
T. Renaud という研究者についても全く知らないのだが、Stedman Jones の主張を鵜呑みにするわけには、きっといかないのだろう。
だが、いろいろと興味深い議論または研究ではあるようだ。
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日本で、マルクス(やエンゲルス)あるいはレーニン等に関する、冷静な学問的研究を妨げているのは、マルクスとマルクス主義あるいは「科学的社会主義」を党是とする政治組織・政党が存在していて、その「政治的」圧力が、意識的または無意識的に、日本の人文社会分野の研究者を<拘束>しているからだと思われる。
<身の安全を図る>ために、日本共産党が暗黙に設定している<タブー>を破って「自由な学問研究」をすることを、事実上自己抑制しているのではないか、と秋月瑛二は推測する。「自由な学問」・「大学の自治」は共産主義組織・政党によって蝕まれているのではないか。
かつまた、「(容共)左翼」に反発している人々も、立憲民主党や朝日新聞等を批判することがあっても、なぜか正面からの<日本共産党批判>には及び腰だ。
なぜだろうと、つねに不思議に感じている。日本の出版業界やマス・メディア業界(これらも資本主義的で自由な営利企業体だ)の独特さ、奇妙さにも一因があるに違いない。
L・コワコフスキの大著、R・パイプスの二著のほかにシェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(最新版、2017)も邦訳書はない。
一方で例えば、江崎道朗が唯一コミンテルン関係書として付録資料のそのまた一部を利用していた邦訳書・コミンテルン史(大月書店、1998年)は、立ち入った内容紹介はこの欄でしていないが、レーニン擁護まではいかなくともレーニンになおも「甘い」ところがある。かつまた、著者の二人は20-30歳代だったと見られ、そのうち一人の現在はネット検索してもさっぱり分からない。
また、岩波書店のシリーズものの一つ、グレイム・ギルほか=内田健二訳・スターリニズム -ヨーロッパ史入門(2004年)は、レーニンとスターリニズムとの接続関係を何とかして認めないように努めている。まだ、この欄では紹介、言及していない。
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カール・マルクスの人生や論考全体に関する近年の研究書に、以下がある。
①Gareth Stedman Jones, Karl Marx :Greatness and Illusion (Cambridge、2016年)。
②Jonathan Sperber, Karl Marx :Nineteenth-Century Life (Liveright、2014年)。
これらは、目も耳も早そうな池田信夫が紹介したかもしれないと思ったが、まだのようだ。
①のG・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス-偉大と幻想(2016)は、奇妙な読み方だろうが、そのEpilogue であるp.589-p.595 を辞書なしで何とか読んでしまった(Kindle 版ではない)。
小川榮太郎の文章を探して確認して読むよりは、私にははるかに知的刺激になる。
小川榮太郎によると、彼の文章の意味が分からない者は、<小川榮太郎の「文学」>を理解できない人間なのだそうだ。
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上の①の最後の部分を試訳する余裕はないが、著者は興味深いことを書いている。たぶん、以下のようなことだ。
・エンゲルスはマルクスの生前の手紙類をロシアの友人、「社会主義」者のLavrov に渡したが、その内容を<資本>の第二巻・第三巻の編集に利用しなかった。
・プレハノフ、ストルーヴェおよびレーニンがロシアのマルクス主義は「史的唯物論対人民主義」、「西欧化対ロシア主義」の闘いだとしたとき、エンゲルスは異論を挟まなかった。このことは、農民共同体の重要性が直接的な政治的争点になった国で、マルクスの見解を忘れさせる意味をもった。
・エンゲルスはロシアでの農民の多さ、都市プロレタリアートの少なさを指摘はしていたが、マルクスの1883年直前のロシア・農村共同体(ミール)に関する見解は20世紀にまで(ロシア革命以前に)ロシアに伝わらなかった。〔イギリスやロシアの農村共同体に関する論及がEpilogueの最初にあるが割愛する。〕
・マルクス=エンゲルス全集を編纂したRyazanov はマルクスからの手紙のやりとりがあったことを想い出し、かつAkselrod文書の中にあることが判ったが、編集者はマルクスの手紙が忘れ去られた本当の理由を理解できなかった。
・マルクスの手紙は、「正統派マルクス主義」派の「都市に基礎をおく労働者の社会民主主義運動の構築という戦略」ではなくて、プレハノフらに、「農村共同体を支援する」ことを強く迫るものだった。
・〔秋月の読み方では、マルクスは後進国とされるロシアでのプロレタリアートの少なさ・弱さからして、これの支持を得ての「革命」-「プロレタリアート独裁」を想定していなった。二次的に(必ずしも理論的にではなく)「農民」の支持を求めるいわゆる<労農同盟>論は-元々は日本共産党も継承した-マルクスではなく、レーニン・ボルシェヴィキによる。〕
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このG・ステッドマン・ジョウンズの2016年著に対する書評をさらにネット上で見つけた。
Terence Renaud (Yale Uni. )は、マルクスの伝記はとくにIsaiah Berlin、George Lichtheim およびLeszek Kolakowski のものが「スタンダード」だとしつつ(コワコフスキを除き、邦訳書があって所持している筈だ)、この著者も青年マルクスと成年マルクスの哲学上の継続性を承認する。しかし、長くは紹介しないが、こんな紹介があって、「しろうと」には意外感を抱かせる。一部だけ。
「ステッドマン・ジョウンズは、マルクスの政治論は1860年代に変化した、と主張する。
イギリスに逃亡中の間に、彼は社会(的)民主主義者、そして暴力的手段を拒絶する労働組合支援者に変化した。
マルクスは蜂起についてのジャコバン型やブランキ型を放棄し、ゆっくりとした漸進的な変化を支持した。
多数の共産主義者たちがのちに信じたのとは反対に、マルクスは革命に関して単一の劇的な事件ではなくて長い過程だと考えた。」
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しかし、このTerence Renaud は、著者のGareth Stedman Jones (1942~、Uni. of London)は、「新左翼」-「フランス構造主義派」-<マルクス主義放棄>と立場を変えており、自己正当化のためのマルクス理解・解釈ではないか、とかなり疑問視しているように読める。
Stedman Jones はかつてNew Left Review の編集長だったらしく(1964-1981)、これはL・コワコフスキを批判するE・トムソンの文章が別の雑誌に掲載された1970年代前半を含んでいる(その反論がこの欄に試訳を掲載したL・コワコフスキ「左翼の君へ」)。
T. Renaud という研究者についても全く知らないのだが、Stedman Jones の主張を鵜呑みにするわけには、きっといかないのだろう。
だが、いろいろと興味深い議論または研究ではあるようだ。
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日本で、マルクス(やエンゲルス)あるいはレーニン等に関する、冷静な学問的研究を妨げているのは、マルクスとマルクス主義あるいは「科学的社会主義」を党是とする政治組織・政党が存在していて、その「政治的」圧力が、意識的または無意識的に、日本の人文社会分野の研究者を<拘束>しているからだと思われる。
<身の安全を図る>ために、日本共産党が暗黙に設定している<タブー>を破って「自由な学問研究」をすることを、事実上自己抑制しているのではないか、と秋月瑛二は推測する。「自由な学問」・「大学の自治」は共産主義組織・政党によって蝕まれているのではないか。
かつまた、「(容共)左翼」に反発している人々も、立憲民主党や朝日新聞等を批判することがあっても、なぜか正面からの<日本共産党批判>には及び腰だ。
なぜだろうと、つねに不思議に感じている。日本の出版業界やマス・メディア業界(これらも資本主義的で自由な営利企業体だ)の独特さ、奇妙さにも一因があるに違いない。