産まれて、生きて、死んでゆく。
In the long run, we are all dead. 長く走ったあと、人はみんな、死んでいる。
TONY JUDT の最後の著作である、つぎの書物の第5部は "In the Long Run, We Are All Dead." と題され、 Francois Furet (1927-1997, フランソワ・フュレ)、Amos Elon(1926-2009)およびLeszek Kolakowski (1927-2009, レシェク・コワコフスキ)という三人に対する追悼文で成っている。
Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015) .
このうちL・コワコフスキに対するものはすでにこの欄で「哀惜感あふれる」印象的な文章だとコメントをしたことがあった。
いずれきちんと日本語文に訳してみたいと思っていた。
S・フィツパトリクの英語文だけ読んでいると別の人の文章も読みたくなる。
R・パイプスやL・コワコフスキの文章を一瞥しているうちに、L・コワコフスキに関するTony Judt の追悼文を思い出した。
(S・フィツパトリクの本の試訳は丸数字のある⑳回で完結させるべく続ける予定だ。)
この追悼文は上の著全体の最後に位置づけられており、この欄で再度別に叙述するかもしれないが、公にされるTony Judtの<絶筆>であった可能性もある。この人は<自分の近づく死>については微塵も語っていないが、10年以上前のフランソワ・フュレの追悼文とは、かなり雰囲気又は叙述の仕方が違うように感じなくはない。実際に約1年後に、T・ジャットも逝去する。
また、この文章は、Tony Judt が全身の麻痺のために口述しかできないときに書かれている。口述文章を妻や助手たちが文字入力を助けて、原稿にしたらしい。
上のことは、以下の「追悼文」を書いたTony Judt の上の本の編者であり妻だった Jennifer Homans の序文に書かれている。この序文はまた、亡夫Tony Judtに対する「追悼文」にもなっている。
こうした背景も知るだけでもいささかの心理的負担を感じる。さらに、ふつうの歴史叙述等でもない、故人に関する人格的な思い出・感想や評価が内容であるだけに、訳出は必ずしも容易ではなく、英語の言葉や文章を日本語に置き換える作業をしていて、何か重要な意味やニュアンスがつぎつぎと逃げ去っていくような感覚を拭い難い。
しかし、このようなL・コワコフスキへの<追悼文>が存在していることだけでも、日本では知られてよいだろうと思われる。
また、お互いの面識関係はなかったと思われる人物について、元来はヨーロッパ戦後史の歴史研究者で、<戦後フランスの左翼>をとくに専門分野としていたTony Judt が、L・コワコフスキについてこれだけの文章を書くことができるということから(あるいはマルクス主義や宗教等にも幅広い関心と知識をもつことから)、日本にはおそらく稀少な、「アメリカ」(これには注釈が要るが省略)にいる知識人の一種の<すごさ>を感じてもよいと思われる。
以下、全体の試訳の紹介。//は本来の改行箇所。<>はイタリック体になっている部分。
なお、以下の文章の最後に、「この論考はThe New York Review of Books の2009年9月号に最初に発表された」との注記がある。
---
レシェク・コワコフスキ(1927-2009)。//
私は一度だけ、コワコフスキの講演を聴いた。
それは1987年、Harvard でのことで、そのとき彼は、故Judith Shklar が教えていた政治理論の演習のゲストだった。
<マルクス主義の主要潮流>はその近年にイギリスで刊行されていて、彼はきわめて高名だった。
あまりに多数の学生たちが彼の話を聞きたかったので、講演場所は大きな公共の講堂に移され、客員たちは出席するのが許された。
私はたまたまCambridge 〔Harvard 大学のある町〕にある会合のために来ていて、何人かの友人たちと一緒に続いた。//
誘惑するごとく示唆的なコワコフスキの話のタイトルは、『歴史における悪魔』(The Devil in History)だった。
しばらくの間は、学生、教授および聴衆たちが集中して聴いていて、静かだった。
コワコフスキの著作はそこにいる多くの者によく知られていて、彼の反語や厳密な推論への強い嗜好には馴染みがあった。
しかし、そうであっても、聴衆には明らかに、彼の論述についていくのが困難になった。
いくらそう努力しても、彼の暗喩を解読することができなかった。
多大な困惑の雰囲気が、講堂を覆い始めた。
そのときだった。話の三分の一くらいのとき、私の隣にいた友人-Timothy Garton Ash-が凭りかかってきた。
彼は、囁いた。『分かった。いま本当に、彼は悪魔について語っている』。
そして、コワコフスキは実際にそうだった。//
悪というものをきわめて真剣に考察するというのは、レシェク・コワコフスキの知的な軌跡の際立つ特質の一つだった。
彼の見解によると、マルクスの前提命題の過ちの一つは、全ての人間の欠点は社会環境に根ざしている、という観念だった。
マルクスは、『対立や憤激の源には人間という種の永遠の特性に固有のものがいくつかあるという可能性を、完全に見落とした』。(1)
あるいは、彼がHarvard での講演でつぎのように表現したように。すなわち、『悪は…、偶発的なものではなく…、頑強な、くつがえすことのできない(unredeemable)事実だ』。
ナツィによる占領とそれに続くソヴィエトによる支配を生き抜いたレシェク・コワコフスキにとって、『悪魔とは我々の経験の一部だ。極めて深刻に受け取るべきメッセージとして、我々の世代はそれを十分に見てきた』。(2)//
近日の81歳でのコワコフスキの逝去の後に書かれた多くの追悼記事は、みな揃って、この人物のこの側面を惜しんだ。
これは何ら、驚くべきことではない。
世界の多くがまだなお神を信じ、宗教的慣習を行っているにもかかわらず、西側の今日の知識人たちや評論家たちにとって、信仰を明らかにするという考えには心が落ち着かないところがある。
宗教に関して大っぴらに議論すると、自惚れに満ちた拒絶(たしかに『神』は実在しない。だがともかく、全ては神に原因がある)と盲目的な忠誠の間の不愉快な気分が突然に生じてしまう。
コワコフスキのような才幹をもつ知識人かつ研究者が宗教や宗教的思想ばかりではなくまさに悪魔それ自体を真剣に考察した、というのは、そうでなくともこの人物を尊敬している人々にとってはミステリーであり、無視してしまいたいことだ。//
コワコフスキの視野の射程はさらに、つぎのことでさらに複雑になっている。すなわち、公的な宗教(とくに彼自身のカトリック教)を無批判に特効薬だと見る考え方に懐疑的で距離を置いたこと、および宗教思想史の研究者としての卓抜さ(3) と同等に唯一の国際的に高名なマルクス主義研究者だ主張しうる彼の独特の地位によって。
キリスト教の教派やその文献に関する研究でのコワコフスキの専門知識は、原典の権威が階層的構造のある大小の聖典をもち、異端的反対者もいるという、宗教的根本教条としてのマルクス主義に関する彼の影響力ある論述に、深さと痛烈さを加えている。
レシェク・コワコフスキがOxfordの同僚たちや中央ヨーロッパの友人であるIsaiah Berlin(I・バーリン)と共有しているのは、全ての教条的な確信に対する、迷妄から離れた懐疑であり、政治的または倫理的な全ての意味を維持するための代償の必要性を承認することを哀しみをもって主張する点だ。すなわち、経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであることや、貨幣が自動的にさらに多くの貨幣を生み出すべきではないことには十分な根拠がある。
しかし、自由の制限は厳密にそのようなことのために導入されるべきであって、より高次の自由の制限は導入されるべきではない。(4)//
彼は、20世紀史の初めに急進的な政治改革は道徳的または人間的犠牲をほとんど払わずしてなされ得ると想定した者たち、あるいは、その対価は重要であったとしても、将来の利益のためには無視することができると想定した者たちには、ほとんど我慢することができなかった。
一方で彼は、人間の永遠の真実を獲得すると偽って主張する全ての単純な定理に対して、一貫して抵抗した。
他方でまた、それらがいかに不便なものであったとしても、人間の態様に関する自明の一定の特質はあまりに明白であって無視してよいものと見なした。//
『我々は多くの陳腐な真実を示唆することに強く反対する、ということは何ら驚くべきことではない。
こうしたことは全ての知の領域で生じていることで、それは人間生活に関する自明なことのほとんどは不愉快なものだからだ。』(5) //
しかし、このような考察は反動主義者または静寂主義者の反応を意味しているわけではない-そして、コワコフスキにとってもそうでなかった。
マルクス主義は、世界史の範疇での過ちだったかもしれなかった。
しかし、だからと言って、社会主義は完全な厄災だった、ということになるわけではなかった。また、我々は、人間の条件を改良すべく働くことができないとか働くべきではないとかの結論を導く必要はなかった。//
『正義、安全保障、教育の機会、福祉および貧者や無力者への国家の責任の向上または拡大をもたらすために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは全て、社会主義イデオロギーと社会主義運動なくしては達成されることができなかった。未熟さや錯覚が多くあったとしても。…
過去の経験が語ることは、一部は社会主義に味方し、一部は社会主義に反対している。』//
社会の現実の複雑性に関するこの用心深い均衡のとれた評価-『人間の友愛は政治綱領としては災悪だが誘導する標識としてはなくてはならない』-はすでに、彼の世代の多くの知識人への接点にコワコフスキを位置づけるものだ。
東でも西でも同様に、人間の改良には無限の可能性があるという過度の自信と、進歩という観念を未熟なままで放棄することの間で揺れ動くということが、いっそう共通の傾向になっている。
コワコフスキは、この特徴的な20世紀にある見解の隔絶の筋違いに位置していた。
彼の考えでは、人間の友愛は、『構成的観念というよりはむしろ調整的な観念』のままだ。//
ここで得られる示唆は、我々が今日に社会的民主主義(social democracy)、あるいは大陸の西欧ではキリスト教民主主義の仲間たちと行っている一種の実際的な妥協だ。
もちろん、今日の社会的民主主義はあまりにも偏愛されすぎて、敢えてその名前を出しはしないものだ、ということは別として。
レシェク・コワコフスキは、社会的民主主義者(Social Democrat)ではなかった。
しかし彼は、一度ならず、その時代の現実の政治史に批判的に関与した。
共産主義国家の初期の時代に、コワコフスキは(まだ30歳でもなかったけれども)ポーランドでの指導的なマルクス主義哲学者だった。
1956年以降、全ての批判的見解が遅かれ早かれ排除されることが運命づけられている地域で、異端的な思想を形成し、明瞭に唱えた。
1966年に、ワルシャワ大学の哲学史の教授として、人民を裏切ったと共産党を強く非難する、有名な公開講演を行った。-これは、党幹部である自分の地位にかかわる、政治的勇気のある行為だった。
予期されたごとく、彼は二年後に、西側へと追放された。
コワコフスキはその後、国内にいる若い世代の反対派たちのための生き字引および目印として貢献した。彼らは、1970年代半ばからポーランドの政治的反対派の中核を形成することとなり、連帯(Solidality)運動を後援する知的エネルギーを提供し、1989年には現実の権力を握った。
レシェク・コワコフスキはかくして、完全に知的に(知識人として)関与(engage intellectual)していたのだ。「関わり(engagement、アンガージュマン)」という偽善と虚栄を侮蔑していたにもかかわらず。
第二次大戦後の世代の大陸ヨーロッパ人の思考では多く語られて理想化されていた、知識人の関与と「責任」は、コワコフスキには本質的に空虚な観念だった。//
『知識人たちにはなぜ、特有の責任があるのか、なぜその他の人々とは異なる責任があるのか。そして、それは何を目的として? <中略>
責任というたんなる感情は、それ自体は何の特有の義務意識も帰結しはしない形式上の美徳だ。すなわち、善の教条についても、悪の教条についてと同様に責任を感じることが可能なのだ。』
この単純な考察は、フランスの実存主義者やそれのアングロ・アメリカンの崇拝者たちにはほとんど想いつかないもののように思える。
他の点では責任感をもつ知識人がイデオロギー的確信および道徳的な一方的普遍主義の利益と同様にその対価(the cost)をも完全に理解するためには、完璧な悪の(左であれ右であれ)目標の魅力を生身で体験してみる必要があった、ということかもしれない。//
上のことが示唆するように、レシェク・コワコフスキは、ハイデッガー、サルトルおよびこれらの追随者がとくに引き合いに出される、今日の学界での言葉遣いで通常は言われる意味でのふつうの「大陸哲学者」ではなかった。
しかしまた、彼は、第二次大戦後に圧倒的に英語を用いる諸大学で見られるアングロ・アメリカンの思考方法と相当に共通していたのでもなかった。-このことは疑いなく、Oxford での彼の孤立と無視を説明するものだ。(7)
カトリック神学に対する生涯にわたる疑問は別として、コワコフスキに特有の見方の射程は、認識の世界によりも、おそらくはむしろ十分に、体験に求められる。
その最高傑作の著書の中で彼自身が観察したように、『あらゆる環境要因は、世界観の形成につながる。そして、<中略> 全ての現象は、尽きることのない無数の原因によるものだ。』(8)//
コワコフスキ自身の場合は、無数の原因の中に、第二次大戦およびその後に続いた共産主義の厄災の歴史時代だけではなく、その厄災の数十年をくぐり抜けたポーランドの、そのまさに独特の環境が含まれている。
というのは、コワコフスキの独自の思考が正確にいずこに向かうのかはつねに明白では必ずしもないけれども、その思考が「いずこにも存在しない場所」から生じたのでは決してない、ということは完璧に明瞭だからだ。//
現代ヨーロッパ哲学者のうちで最も国際主義者(コスモポリタン)-主要な5カ国語とそれに付随する諸文化に習熟していた-であり、20年間以上国外に移住していたが、コワコフスキは決して「根なし草」ではなかった。
例えばEdward Said (E・サイード)とは対照的に、彼は、あらゆる形態の共同体への忠誠を拒絶するというのは信義上可能であるのか、と問うた。
どこかにいなくとも、どこかの外に完全にいないときでも、コワコフスキは先天(居住民)主義の感情に対する終生の批判者だった。
だがなお、彼の母国では称賛された。正しく、そうされた。
骨格としてはヨーロッパ人だが、コワコフスキは汎ヨーロッパ主義者のナイーヴな幻想に対して公平な懐疑心をもって問い糾すことを決してやめなかった。汎ヨーロッパ主義者の同質化願望は、かつての時代の恐ろしい夢想家的ドグマを彼に思い起こさせるものだった。
多様性は彼には、それがそれ自体で目標として偶像視されないかぎりでは、より慎重な主張であり、明確なナショナルな自己帰属意識(national identity)の維持によって確実にされることができるものであるように思えた。(9)
コワコフスキは独特(unique)だったと結論づけるのは易しいだろう。
アイロニー、道徳上の真剣さ、宗教的感性と認識論的懐疑主義、社会的関与と政治的疑念。彼がこれらの独特の混合体であるというのは、きわめて稀少なことだ。
(彼は驚くべきほどにカリスマ性をもっていたことは語っておくべきだ。どのような集まりでも故Bernard Williams と同じ強さの磁力を発揮していた。同じ理由がいくつかあったからだ(10))。
しかし、この理由によってこそ-カリスマ性も含めて-、彼はまた、まさに独特な血統の線上にしっかりと立っていた。
彼がもつ完璧な広さの教養と知識、引喩家ぶり、迷妄なき機知、匿い場所となった好運な西側諸国の学問的偏狭さを辛抱強く受容したこと、いわば運命のいたずらによって明らかになる彼の特質を刻印したポーランドの20世紀の体験と記憶。これら全てが、亡きレシェク・コワコフスキを真の-おそらくは最後の-中央ヨーロッパ知識人だと識別(identify)させる。
1890年と1930年の間に生まれた男女二世代の人々にとって、20世紀の中央ヨーロッパに独特の経験は、ヨーロッパ文化の洗練された都市的中心地帯での多言語を用いる教育から成り立っていた。それは、全く同一の中心地帯(heartland)での独裁、戦争、占領、破滅、そしてジェノサイドという経験によって砥がれ、踏みつけられ、加えられたものだった。//
正気のある人間ならば誰でも、このような心情的教育が生んだ思索と思想家の特性を正確に追体験するだけのためにのみ、この経験を繰り返したいとは望まないだろう。
失われた共産主義東ヨーロッパの知的世界への郷愁を語ることは少しばかり不愉快なことだが、それ以上の何かがある。それは、他国民の抑圧による犠牲者に対する遺憾の想いと心地よくなく似たものによって覆われている。
しかし、レシェク・コワコフスキが明瞭に主張した最初の人物だっただろうように、中央ヨーロッパの20世紀の歴史とその驚くべき知的な豊かさの間の関係は、それにもかかわらず、存在した。
このことを、簡単に忘却することはできない。//
生み出したものは、Judith Shklar が別の文脈でかつて「恐怖のリベラリズム」だと表現したものだった。すなわち、イデオロギーの過剰の結果を生身で経験したことで生じた、妥協せずして理性や穏健さを守ろうとすること。
大厄災がある可能性を絶えず意識していること、好機または再生だと誤解されるときには最悪の形態をとる、自在に変幻する多様さのある全体支配的(totalizing)思考への誘惑についてのそれ。
20世紀の歴史の軌跡で、<これ>こそが中央ヨーロッパの教訓だ。
我々に幸運があるならば、これをしばらくの間は再び学ぶ必要はないはずだろう。そうするときには、それを教えてくれる人物が周りにいるだろうという希望をもつのがよい。
そのときまで、我々は、コワコフスキを何度も読み返すだろう。//
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(1) "The Myth of Human Self-Identity", L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>(New York, Basic Books, 1974)所収、p.32. *
(2) L・コワコフスキ「歴史における悪魔」<My Currrent Views on Everything>(South Bend, IN, St. Augustine's Press, 2005)所収、p.133.
(3) 宗教思想史へのコワコフスキの接近方法を代表的に実証するものとして、例えば、<God Owes Nothing: パスカルの宗教とヤンセン主義の精神に関する簡単な論評>(Chicago: University of Chicago Press, 1995)を見よ。コワコフスキが20世紀のPascalian で、慎重に、忠誠ではなくて理性を重視していることは多くを語る必要がないだろう。
(4) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>(Chicago: University of Chicago Press, 1990)、p.226-7.
(5) L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>、p.32.
(6) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.144.
(7) いたる所で、彼の功績は広く承認されている。1983年にエラスムス賞が授与された。2004年に彼は、20年前にそこでのジェファーソン講演者だった国会図書館(the Library of Congress)のクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。三年後に、イェルサレム賞を授与された。
(8) L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流, 第三巻: 瓦解>(New york: Clarendon Press, Oxford University Press, 1978)、p.339.Leon Wieseltier がこの言及部分を思い出させてくれたことに感謝している。
(9) コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.59.Edward Said について、<Out of Place: A Memoir >(New York, Vintage, 2000)を見よ。
(10) Cambridge での講演の後の彼を祝してのパーティのとき、私は深い敬意と多大な羨望をもって、ほとんど全ての若い女性たちが、すでに疲れていて杖で支えられていた60歳の老哲学者のいるコーナーへと部屋を移り歩いているのを、眺めていたことを想い出す。彼は、彼女たちの尊敬の眼差しの前で、会話を仕切っていた。完璧な知識がもつ磁場的な魅力というものを、決して低く評価すべきではない。
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以上
In the long run, we are all dead. 長く走ったあと、人はみんな、死んでいる。
TONY JUDT の最後の著作である、つぎの書物の第5部は "In the Long Run, We Are All Dead." と題され、 Francois Furet (1927-1997, フランソワ・フュレ)、Amos Elon(1926-2009)およびLeszek Kolakowski (1927-2009, レシェク・コワコフスキ)という三人に対する追悼文で成っている。
Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015) .
このうちL・コワコフスキに対するものはすでにこの欄で「哀惜感あふれる」印象的な文章だとコメントをしたことがあった。
いずれきちんと日本語文に訳してみたいと思っていた。
S・フィツパトリクの英語文だけ読んでいると別の人の文章も読みたくなる。
R・パイプスやL・コワコフスキの文章を一瞥しているうちに、L・コワコフスキに関するTony Judt の追悼文を思い出した。
(S・フィツパトリクの本の試訳は丸数字のある⑳回で完結させるべく続ける予定だ。)
この追悼文は上の著全体の最後に位置づけられており、この欄で再度別に叙述するかもしれないが、公にされるTony Judtの<絶筆>であった可能性もある。この人は<自分の近づく死>については微塵も語っていないが、10年以上前のフランソワ・フュレの追悼文とは、かなり雰囲気又は叙述の仕方が違うように感じなくはない。実際に約1年後に、T・ジャットも逝去する。
また、この文章は、Tony Judt が全身の麻痺のために口述しかできないときに書かれている。口述文章を妻や助手たちが文字入力を助けて、原稿にしたらしい。
上のことは、以下の「追悼文」を書いたTony Judt の上の本の編者であり妻だった Jennifer Homans の序文に書かれている。この序文はまた、亡夫Tony Judtに対する「追悼文」にもなっている。
こうした背景も知るだけでもいささかの心理的負担を感じる。さらに、ふつうの歴史叙述等でもない、故人に関する人格的な思い出・感想や評価が内容であるだけに、訳出は必ずしも容易ではなく、英語の言葉や文章を日本語に置き換える作業をしていて、何か重要な意味やニュアンスがつぎつぎと逃げ去っていくような感覚を拭い難い。
しかし、このようなL・コワコフスキへの<追悼文>が存在していることだけでも、日本では知られてよいだろうと思われる。
また、お互いの面識関係はなかったと思われる人物について、元来はヨーロッパ戦後史の歴史研究者で、<戦後フランスの左翼>をとくに専門分野としていたTony Judt が、L・コワコフスキについてこれだけの文章を書くことができるということから(あるいはマルクス主義や宗教等にも幅広い関心と知識をもつことから)、日本にはおそらく稀少な、「アメリカ」(これには注釈が要るが省略)にいる知識人の一種の<すごさ>を感じてもよいと思われる。
以下、全体の試訳の紹介。//は本来の改行箇所。<>はイタリック体になっている部分。
なお、以下の文章の最後に、「この論考はThe New York Review of Books の2009年9月号に最初に発表された」との注記がある。
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レシェク・コワコフスキ(1927-2009)。//
私は一度だけ、コワコフスキの講演を聴いた。
それは1987年、Harvard でのことで、そのとき彼は、故Judith Shklar が教えていた政治理論の演習のゲストだった。
<マルクス主義の主要潮流>はその近年にイギリスで刊行されていて、彼はきわめて高名だった。
あまりに多数の学生たちが彼の話を聞きたかったので、講演場所は大きな公共の講堂に移され、客員たちは出席するのが許された。
私はたまたまCambridge 〔Harvard 大学のある町〕にある会合のために来ていて、何人かの友人たちと一緒に続いた。//
誘惑するごとく示唆的なコワコフスキの話のタイトルは、『歴史における悪魔』(The Devil in History)だった。
しばらくの間は、学生、教授および聴衆たちが集中して聴いていて、静かだった。
コワコフスキの著作はそこにいる多くの者によく知られていて、彼の反語や厳密な推論への強い嗜好には馴染みがあった。
しかし、そうであっても、聴衆には明らかに、彼の論述についていくのが困難になった。
いくらそう努力しても、彼の暗喩を解読することができなかった。
多大な困惑の雰囲気が、講堂を覆い始めた。
そのときだった。話の三分の一くらいのとき、私の隣にいた友人-Timothy Garton Ash-が凭りかかってきた。
彼は、囁いた。『分かった。いま本当に、彼は悪魔について語っている』。
そして、コワコフスキは実際にそうだった。//
悪というものをきわめて真剣に考察するというのは、レシェク・コワコフスキの知的な軌跡の際立つ特質の一つだった。
彼の見解によると、マルクスの前提命題の過ちの一つは、全ての人間の欠点は社会環境に根ざしている、という観念だった。
マルクスは、『対立や憤激の源には人間という種の永遠の特性に固有のものがいくつかあるという可能性を、完全に見落とした』。(1)
あるいは、彼がHarvard での講演でつぎのように表現したように。すなわち、『悪は…、偶発的なものではなく…、頑強な、くつがえすことのできない(unredeemable)事実だ』。
ナツィによる占領とそれに続くソヴィエトによる支配を生き抜いたレシェク・コワコフスキにとって、『悪魔とは我々の経験の一部だ。極めて深刻に受け取るべきメッセージとして、我々の世代はそれを十分に見てきた』。(2)//
近日の81歳でのコワコフスキの逝去の後に書かれた多くの追悼記事は、みな揃って、この人物のこの側面を惜しんだ。
これは何ら、驚くべきことではない。
世界の多くがまだなお神を信じ、宗教的慣習を行っているにもかかわらず、西側の今日の知識人たちや評論家たちにとって、信仰を明らかにするという考えには心が落ち着かないところがある。
宗教に関して大っぴらに議論すると、自惚れに満ちた拒絶(たしかに『神』は実在しない。だがともかく、全ては神に原因がある)と盲目的な忠誠の間の不愉快な気分が突然に生じてしまう。
コワコフスキのような才幹をもつ知識人かつ研究者が宗教や宗教的思想ばかりではなくまさに悪魔それ自体を真剣に考察した、というのは、そうでなくともこの人物を尊敬している人々にとってはミステリーであり、無視してしまいたいことだ。//
コワコフスキの視野の射程はさらに、つぎのことでさらに複雑になっている。すなわち、公的な宗教(とくに彼自身のカトリック教)を無批判に特効薬だと見る考え方に懐疑的で距離を置いたこと、および宗教思想史の研究者としての卓抜さ(3) と同等に唯一の国際的に高名なマルクス主義研究者だ主張しうる彼の独特の地位によって。
キリスト教の教派やその文献に関する研究でのコワコフスキの専門知識は、原典の権威が階層的構造のある大小の聖典をもち、異端的反対者もいるという、宗教的根本教条としてのマルクス主義に関する彼の影響力ある論述に、深さと痛烈さを加えている。
レシェク・コワコフスキがOxfordの同僚たちや中央ヨーロッパの友人であるIsaiah Berlin(I・バーリン)と共有しているのは、全ての教条的な確信に対する、迷妄から離れた懐疑であり、政治的または倫理的な全ての意味を維持するための代償の必要性を承認することを哀しみをもって主張する点だ。すなわち、経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであることや、貨幣が自動的にさらに多くの貨幣を生み出すべきではないことには十分な根拠がある。
しかし、自由の制限は厳密にそのようなことのために導入されるべきであって、より高次の自由の制限は導入されるべきではない。(4)//
彼は、20世紀史の初めに急進的な政治改革は道徳的または人間的犠牲をほとんど払わずしてなされ得ると想定した者たち、あるいは、その対価は重要であったとしても、将来の利益のためには無視することができると想定した者たちには、ほとんど我慢することができなかった。
一方で彼は、人間の永遠の真実を獲得すると偽って主張する全ての単純な定理に対して、一貫して抵抗した。
他方でまた、それらがいかに不便なものであったとしても、人間の態様に関する自明の一定の特質はあまりに明白であって無視してよいものと見なした。//
『我々は多くの陳腐な真実を示唆することに強く反対する、ということは何ら驚くべきことではない。
こうしたことは全ての知の領域で生じていることで、それは人間生活に関する自明なことのほとんどは不愉快なものだからだ。』(5) //
しかし、このような考察は反動主義者または静寂主義者の反応を意味しているわけではない-そして、コワコフスキにとってもそうでなかった。
マルクス主義は、世界史の範疇での過ちだったかもしれなかった。
しかし、だからと言って、社会主義は完全な厄災だった、ということになるわけではなかった。また、我々は、人間の条件を改良すべく働くことができないとか働くべきではないとかの結論を導く必要はなかった。//
『正義、安全保障、教育の機会、福祉および貧者や無力者への国家の責任の向上または拡大をもたらすために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは全て、社会主義イデオロギーと社会主義運動なくしては達成されることができなかった。未熟さや錯覚が多くあったとしても。…
過去の経験が語ることは、一部は社会主義に味方し、一部は社会主義に反対している。』//
社会の現実の複雑性に関するこの用心深い均衡のとれた評価-『人間の友愛は政治綱領としては災悪だが誘導する標識としてはなくてはならない』-はすでに、彼の世代の多くの知識人への接点にコワコフスキを位置づけるものだ。
東でも西でも同様に、人間の改良には無限の可能性があるという過度の自信と、進歩という観念を未熟なままで放棄することの間で揺れ動くということが、いっそう共通の傾向になっている。
コワコフスキは、この特徴的な20世紀にある見解の隔絶の筋違いに位置していた。
彼の考えでは、人間の友愛は、『構成的観念というよりはむしろ調整的な観念』のままだ。//
ここで得られる示唆は、我々が今日に社会的民主主義(social democracy)、あるいは大陸の西欧ではキリスト教民主主義の仲間たちと行っている一種の実際的な妥協だ。
もちろん、今日の社会的民主主義はあまりにも偏愛されすぎて、敢えてその名前を出しはしないものだ、ということは別として。
レシェク・コワコフスキは、社会的民主主義者(Social Democrat)ではなかった。
しかし彼は、一度ならず、その時代の現実の政治史に批判的に関与した。
共産主義国家の初期の時代に、コワコフスキは(まだ30歳でもなかったけれども)ポーランドでの指導的なマルクス主義哲学者だった。
1956年以降、全ての批判的見解が遅かれ早かれ排除されることが運命づけられている地域で、異端的な思想を形成し、明瞭に唱えた。
1966年に、ワルシャワ大学の哲学史の教授として、人民を裏切ったと共産党を強く非難する、有名な公開講演を行った。-これは、党幹部である自分の地位にかかわる、政治的勇気のある行為だった。
予期されたごとく、彼は二年後に、西側へと追放された。
コワコフスキはその後、国内にいる若い世代の反対派たちのための生き字引および目印として貢献した。彼らは、1970年代半ばからポーランドの政治的反対派の中核を形成することとなり、連帯(Solidality)運動を後援する知的エネルギーを提供し、1989年には現実の権力を握った。
レシェク・コワコフスキはかくして、完全に知的に(知識人として)関与(engage intellectual)していたのだ。「関わり(engagement、アンガージュマン)」という偽善と虚栄を侮蔑していたにもかかわらず。
第二次大戦後の世代の大陸ヨーロッパ人の思考では多く語られて理想化されていた、知識人の関与と「責任」は、コワコフスキには本質的に空虚な観念だった。//
『知識人たちにはなぜ、特有の責任があるのか、なぜその他の人々とは異なる責任があるのか。そして、それは何を目的として? <中略>
責任というたんなる感情は、それ自体は何の特有の義務意識も帰結しはしない形式上の美徳だ。すなわち、善の教条についても、悪の教条についてと同様に責任を感じることが可能なのだ。』
この単純な考察は、フランスの実存主義者やそれのアングロ・アメリカンの崇拝者たちにはほとんど想いつかないもののように思える。
他の点では責任感をもつ知識人がイデオロギー的確信および道徳的な一方的普遍主義の利益と同様にその対価(the cost)をも完全に理解するためには、完璧な悪の(左であれ右であれ)目標の魅力を生身で体験してみる必要があった、ということかもしれない。//
上のことが示唆するように、レシェク・コワコフスキは、ハイデッガー、サルトルおよびこれらの追随者がとくに引き合いに出される、今日の学界での言葉遣いで通常は言われる意味でのふつうの「大陸哲学者」ではなかった。
しかしまた、彼は、第二次大戦後に圧倒的に英語を用いる諸大学で見られるアングロ・アメリカンの思考方法と相当に共通していたのでもなかった。-このことは疑いなく、Oxford での彼の孤立と無視を説明するものだ。(7)
カトリック神学に対する生涯にわたる疑問は別として、コワコフスキに特有の見方の射程は、認識の世界によりも、おそらくはむしろ十分に、体験に求められる。
その最高傑作の著書の中で彼自身が観察したように、『あらゆる環境要因は、世界観の形成につながる。そして、<中略> 全ての現象は、尽きることのない無数の原因によるものだ。』(8)//
コワコフスキ自身の場合は、無数の原因の中に、第二次大戦およびその後に続いた共産主義の厄災の歴史時代だけではなく、その厄災の数十年をくぐり抜けたポーランドの、そのまさに独特の環境が含まれている。
というのは、コワコフスキの独自の思考が正確にいずこに向かうのかはつねに明白では必ずしもないけれども、その思考が「いずこにも存在しない場所」から生じたのでは決してない、ということは完璧に明瞭だからだ。//
現代ヨーロッパ哲学者のうちで最も国際主義者(コスモポリタン)-主要な5カ国語とそれに付随する諸文化に習熟していた-であり、20年間以上国外に移住していたが、コワコフスキは決して「根なし草」ではなかった。
例えばEdward Said (E・サイード)とは対照的に、彼は、あらゆる形態の共同体への忠誠を拒絶するというのは信義上可能であるのか、と問うた。
どこかにいなくとも、どこかの外に完全にいないときでも、コワコフスキは先天(居住民)主義の感情に対する終生の批判者だった。
だがなお、彼の母国では称賛された。正しく、そうされた。
骨格としてはヨーロッパ人だが、コワコフスキは汎ヨーロッパ主義者のナイーヴな幻想に対して公平な懐疑心をもって問い糾すことを決してやめなかった。汎ヨーロッパ主義者の同質化願望は、かつての時代の恐ろしい夢想家的ドグマを彼に思い起こさせるものだった。
多様性は彼には、それがそれ自体で目標として偶像視されないかぎりでは、より慎重な主張であり、明確なナショナルな自己帰属意識(national identity)の維持によって確実にされることができるものであるように思えた。(9)
コワコフスキは独特(unique)だったと結論づけるのは易しいだろう。
アイロニー、道徳上の真剣さ、宗教的感性と認識論的懐疑主義、社会的関与と政治的疑念。彼がこれらの独特の混合体であるというのは、きわめて稀少なことだ。
(彼は驚くべきほどにカリスマ性をもっていたことは語っておくべきだ。どのような集まりでも故Bernard Williams と同じ強さの磁力を発揮していた。同じ理由がいくつかあったからだ(10))。
しかし、この理由によってこそ-カリスマ性も含めて-、彼はまた、まさに独特な血統の線上にしっかりと立っていた。
彼がもつ完璧な広さの教養と知識、引喩家ぶり、迷妄なき機知、匿い場所となった好運な西側諸国の学問的偏狭さを辛抱強く受容したこと、いわば運命のいたずらによって明らかになる彼の特質を刻印したポーランドの20世紀の体験と記憶。これら全てが、亡きレシェク・コワコフスキを真の-おそらくは最後の-中央ヨーロッパ知識人だと識別(identify)させる。
1890年と1930年の間に生まれた男女二世代の人々にとって、20世紀の中央ヨーロッパに独特の経験は、ヨーロッパ文化の洗練された都市的中心地帯での多言語を用いる教育から成り立っていた。それは、全く同一の中心地帯(heartland)での独裁、戦争、占領、破滅、そしてジェノサイドという経験によって砥がれ、踏みつけられ、加えられたものだった。//
正気のある人間ならば誰でも、このような心情的教育が生んだ思索と思想家の特性を正確に追体験するだけのためにのみ、この経験を繰り返したいとは望まないだろう。
失われた共産主義東ヨーロッパの知的世界への郷愁を語ることは少しばかり不愉快なことだが、それ以上の何かがある。それは、他国民の抑圧による犠牲者に対する遺憾の想いと心地よくなく似たものによって覆われている。
しかし、レシェク・コワコフスキが明瞭に主張した最初の人物だっただろうように、中央ヨーロッパの20世紀の歴史とその驚くべき知的な豊かさの間の関係は、それにもかかわらず、存在した。
このことを、簡単に忘却することはできない。//
生み出したものは、Judith Shklar が別の文脈でかつて「恐怖のリベラリズム」だと表現したものだった。すなわち、イデオロギーの過剰の結果を生身で経験したことで生じた、妥協せずして理性や穏健さを守ろうとすること。
大厄災がある可能性を絶えず意識していること、好機または再生だと誤解されるときには最悪の形態をとる、自在に変幻する多様さのある全体支配的(totalizing)思考への誘惑についてのそれ。
20世紀の歴史の軌跡で、<これ>こそが中央ヨーロッパの教訓だ。
我々に幸運があるならば、これをしばらくの間は再び学ぶ必要はないはずだろう。そうするときには、それを教えてくれる人物が周りにいるだろうという希望をもつのがよい。
そのときまで、我々は、コワコフスキを何度も読み返すだろう。//
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(1) "The Myth of Human Self-Identity", L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>(New York, Basic Books, 1974)所収、p.32. *
(2) L・コワコフスキ「歴史における悪魔」<My Currrent Views on Everything>(South Bend, IN, St. Augustine's Press, 2005)所収、p.133.
(3) 宗教思想史へのコワコフスキの接近方法を代表的に実証するものとして、例えば、<God Owes Nothing: パスカルの宗教とヤンセン主義の精神に関する簡単な論評>(Chicago: University of Chicago Press, 1995)を見よ。コワコフスキが20世紀のPascalian で、慎重に、忠誠ではなくて理性を重視していることは多くを語る必要がないだろう。
(4) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>(Chicago: University of Chicago Press, 1990)、p.226-7.
(5) L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>、p.32.
(6) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.144.
(7) いたる所で、彼の功績は広く承認されている。1983年にエラスムス賞が授与された。2004年に彼は、20年前にそこでのジェファーソン講演者だった国会図書館(the Library of Congress)のクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。三年後に、イェルサレム賞を授与された。
(8) L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流, 第三巻: 瓦解>(New york: Clarendon Press, Oxford University Press, 1978)、p.339.Leon Wieseltier がこの言及部分を思い出させてくれたことに感謝している。
(9) コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.59.Edward Said について、<Out of Place: A Memoir >(New York, Vintage, 2000)を見よ。
(10) Cambridge での講演の後の彼を祝してのパーティのとき、私は深い敬意と多大な羨望をもって、ほとんど全ての若い女性たちが、すでに疲れていて杖で支えられていた60歳の老哲学者のいるコーナーへと部屋を移り歩いているのを、眺めていたことを想い出す。彼は、彼女たちの尊敬の眼差しの前で、会話を仕切っていた。完璧な知識がもつ磁場的な魅力というものを、決して低く評価すべきではない。
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以上